再発見・牛久第三十五話 くりはら いさお 牛久市文化財保護審議委員 栗原 功 岡見 (尾上) 家と小坂城② (尾上) 一族が築く― ―小坂城は岡見 谷田部城主 岡見主殿 城跡はつくば市高崎 久野城主 野口豊前守 岡 見(尾上)一族の城 ― 子子孫孫繁栄する― (現つ 南北朝時代に筑波郡小田 くば市小田) の小田城主小田治久 城跡はつくば市谷田部 高崎城主 佐野内膳 の二男朝義が、河内郡岡見 (現牛 城跡は龍ケ崎市川原代 寺田城主 寺田佐渡守 城跡は牛久市久野町 河原代城主 木村和泉守 久市岡見町) に移り住み、地名・ 岡 見 を 苗 字 に 用 いて 岡 見 家 が ふ しょく 城跡は取手市寺田 ● う ば ― 時 知 宗 知 八田知家(一説 〈乳母兄弟とも〉 と伝えられ、鎌 では源頼朝の実弟 倉幕府創設への戦功などにより常陸守護職に任ぜら し れた。頼朝没後幕政が宿老 人による合議制が布か れると知家もその一員に) 泰 ― 知 ― 小田 ― 知 重― ― ― 貞 宗 ― ― 治久 孝 朝(小田流剣法の祖)― 3 3 ― 岡見 み ね ― 朝 義 数 代不明 美 禰(新田義貞室) ― ― 本家・足高城主 ― ― ― ― ― 治 広(天正 年〈1590年〉に豊臣秀吉に牛久 ― 頼久 不 明 宗 治 経吉 ― 分家・牛久城主 3 3 3 3 3 3 (または小坂城主) 正 不 明 治 房 ― 弾 3 3 分家・谷田部城主 尾 上 明 ― 治 胤(東林寺城主) ― 不 ― ― 不 明 城を接収される) 18 興った。岡見家は子子孫孫繁栄 し、勢 力を扶 植 した。岡 見一族 あった。その系統は、 東林寺城 (現 世下の延宝4年 (1676年) に水戸領の村が分村独立したさいに郡奉行岡 見家にちなんで 『岡見新田村 (現常陸太田市) 』 と名づけられている。 の分家紋である) 。小田家の分家である 宍戸、 筑波、 柿岡の各家でもこれを用いた。 おかみ のうちで、尾上と称した系統も 若栗城主 栗林下総守義長 城跡はつくば市若栗 岩ヶ崎城主 唯越尾張 城跡はつくば市下岩崎 小茎城主 小島志摩 新地町) 関係の記録に出てくる。 (1582年) 頃の岡 天正 年 見一族をおもな城の城主として 足高城主宗家・岡見中務少輔宗治 あ だか 列記すると次のとおりである。 城跡はつくば市小茎 ぼうち 房内城主 矢口若狭 城跡はつくば市房内 岡見城主 岡見某 城跡はつくばみらい市足高 若柴城主 岡見伝喜入道 城跡は龍ケ崎市若柴 城跡は牛久市新地町 小坂城主 岡見治房(一説では牛久城主) 岡見町 城跡は牛久お市 かみ 東林寺城主 尾上某 小池城主 岡見内記 城跡は阿見町小池 牛久城主 岡見治部大輔 されたため、本丸跡の原形は消滅した。 その際、同本丸跡は県文化課指導のも とで発掘調査が行われた(本職はその 発掘調査の一員であった)。 ※足高城の宗治の子孫と牛久城の治広の子孫は、紀伊 (和歌山) ・徳川家 よりのぶ と水戸・徳川家 (頼房) に召し抱えられた。紀伊徳川家に召し抱 (頼宣) えられたのは富重といい、 越前の松平忠直に仕え大坂の陣に出陣して、 その後頼宣に禄300石をもって召し抱えられた。水戸・徳川家に召し こおり 抱えられた者の子孫弥次衛門は郡奉行になり、徳川第4代将軍家綱治 岡見家家紋・丸に州浜 (本家小田家より ※八田・小田家は代々小田城 (つくば市小田)主。 13 東林寺城本丸跡の土砂はことごとく昭 和50年 (1975年)より施工された稲荷 きゃく ど 川土地改良の客土および築堤用に搬出 岡見 (尾上) 家本家・分家 ―由来と略系図― 城跡は牛久市小坂町 -広報うしく 2015.4.1- 25 10 城跡は牛久市城中町 【東林寺城本丸跡】 こぼれ話 各時代の歴史より
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