46号(中川船番所)

平成27年度8月25日発行
砂町新聞6号
部員◎遠藤雄介 ○杉山駿
☆横澤響 ☆尾﨑洸星
☆川北莉子 ☆栗原伽月
中川舟番所資料館について
江東区の物流
1661年に、江戸を出入りする船を取り締まるために小名木川
の隅田川口に置かれていた「深川口人改之御番所」が、中川・
小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となり
ました。平成7年の発掘調査において柱材や礎石などが出土し
ました。現在はその場所に、資料館が建てられています。
1階が総合案内、釣具展示、資料
酒樽を運ぶ猪牙船
閲覧学習室、2階が管理事務所郷
土の歴史・文化紹介展示室、3階が
常設・企画展示室、展望室、資料整
理室になっています。右の写真は
当 時 の 運 搬 船(猪 牙 船)の 写 真 で
す。酒樽や船荷を運んでいます。近
くを通ると音声で役人と船頭の会話が聞こえてきます。皆さん
もぜひ中川船番所にいってみてください。この日はなんと、館長
の久染先生が資料館の展示物を詳しく説明して下さいました。
小名 木川・・・江 東区 に 小名木川は水運の中心的存在でした
流れる人工河川旧中川か
ら隅田川までを結ぶ運
河。途中、大横川、横十間
川 と交 差 す る 全 長 約5 ㎞
で、江戸時代初期に建設
されました。小名木川の歴
史は1590年頃、徳川家
康 が行 徳塩 田(千 葉県
現在の荒川水系
行 徳)か ら の 塩 の 確 保
のために小名木四朗兵
仁命じて行徳まで運河
を開削させたのが始ま
り で す。運 河 の 開 削 に
中川船番所
よって経路は大幅に短 昔の荒川の下流
縮しました。それから、
塩以外の運搬や成田山
新勝寺への参拝客など
江戸時代の物流の重要河川
中川船番所を出た後は、隣の旧中川の上流を目指して出 も運ぶようになり、物流
発しました。旧中川とは、荒川から別れた支流で、全長
が増大しました。そのた
6.68kmの河川です。旧中川自体は、大きく蛇行していて、
め、1692年に小名木川
荒川から来て荒川にまたつながる川です。今回は、西側を通 と旧中川、荒川の合流地点に<中川船番所>が置かれました。荒
りました。川岸には小魚が群れ、草が生い茂り、のどかな雰囲 川、江戸川、利根川を経由する船路が整備されると近郊でとれた
気を醸し出していました。亀戸のあたりまで進むと少し離れた 野菜、東北地方の年貢米などが行き交う大船路となりました。
水辺公園
島のような場所にアオサギがたっていました。亀戸からもし
ばらく島があるような景色が続きました。途中で支流が一つ
ありました。これは、北十間川といってこの川
をたどっていくと、東京スカイツリーに行くこ
とができます。そこからまたしばらく進んで
いくと大きなポンプ所のような場所がありそ
の先は荒川だったので、こうして、旧中川の
終点につくことができました。ここで時間も
お昼頃になってきたので、近くの公園で昼ご
飯を食べることにしまし
た。
墨田区の水辺公園
●
旧
中
川
水
辺
公
園
亀
戸
清掃工場の煙突
荒
川
大
島
旧
中
川
荒川ロックゲートと小松川閘門
荒川ロックゲートは荒川と旧中川を結ぶ
閘門です。2005年の10月1日に完成しまし
た。荒川と小名木川を繋げる現代版中川船 荒川ロックゲート
番所ともいえます。利用料は無料で通行の
所要時間には20分を要します。
小松川閘門は現在の荒川ロックゲートの
役割をしていました。昭和5年に完成し、た
小松川閘門
くさんの、和船が行き交う大航路となりまし
た。今は役割を終えて大島小松川公園にひっそりとたたずんで
いてマリオのクッパ城のような雰囲気を伝えてくれました。
荒川放水路
荒川は埼玉県から、東京都を流れ東京湾に注ぐ河川です。
流路延長は173㎞、流域面積2.940平方kmで川幅は御成橋
(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mになり、日本最大で
す。 かつて荒川放水路と呼ばれ、岩淵水門(北区)から江東
区・江戸川区の区境の中川河口までは大正期に開削された人
工の河川です。全長22kmで、大正2年か
らから昭和5年にかけての17年がかりの難
工事でした。1965年に荒川となりました。
夕焼けの荒川
江東今昔(江東区の変遷)
江戸時代初期
江東区地区の開発は、徳
川家康の入府による江戸の
まちの拡大とともに始まり
ます。
この頃まで江東地区は、
ほとんどが低湿地で、亀
島、大島、宝六島、永代島
砂
から始まり次になどの地名
村
でわかるように小島が点在
していました。砂町あたり
は、まだ海となっていまし
た。開発は、現在の森下を
中心にとした深川村、佐賀・
永代辺りの永代島、小名木
砂
川南岸沿いの海辺新田、続
村
いて大島や砂町などの新田
開発が行われ始めました。
江戸時代後期
その後砂町は江戸に出荷
される近郊農業がさかんに
なり、砂村ねぎ、砂村なす、
三寸人参などがさかんに栽
培されるよになりました。
砂町
この時代は、江東区に多
くの文化人や芸術家が住み
独特の文化が生まれまし
た。皆さんもよくご存じの伊
戦災⇒復興
能忠敬、滝沢馬琴、松尾芭
蕉、平賀源内など数をあげたら切がありません(笑)。今で
も狂歌師、国学者、画家、横綱などの墓碑が数多く残って
います。また海沿いの美しい景色や寺社の開帳、祭礼な
ど、の年中行事を中心として江戸市民の行楽地が区内各
所にあり、とてもにぎわっていました。
第二次世界大戦後、深川区・城東区の両区を合併して
予告
江東区が誕生しました。
砂町のすぐ南側はまだ海となっ
ていて、空襲などにより急激に減少
した人口は、戦後、疎開者の帰京、
砂町
戦地からの復員、引き揚げなどで
急激に増加し、都営住宅の建設が
進められました。また二砂中の裏
手はまだ砂町海水浴場となってい
ました。
1973年に現在の江東区役所が
現在地、東陽4丁目に移転し、これ
まで第一・第二庁舎に分割されて
いた業務が統合されました。このこ
ろ海岸線が埋め立てられ、工場や
倉庫ができるようになり、現在は高
2003
層マンションなど居住地になってい
ます。ゴミの処分場が夢の島や若洲など公園として整備さ
れ、区民の憩いの場となっています。
昭和50年代に扇橋閘門の完成に伴う城東地区の内水
位低下により、水害への安全性が一層増しました。
2012年にゲートブッリチが完成し、国道357号線は、都
心と千葉を結ぶ大動脈となりました。
江東区が発足して56年がたち面積も大正時代の二倍と
なり江東区が発達した様子がわかります。
江東区の人口と面積の変化
なんと、夏休みに我々社会科部が抽選の結果、首相官邸にいくことが決まりました。首相官邸でしかでき
ない貴重な体験を夏休み明けの新聞で紹介します!是非楽しみにしていてください!
すなフィー日記part13 自転車泥んこ大事件
部活の前日に雤が降っ
泥がはねて真っ
ていたため土がぬかるんで
黒になりました
いて中川の江東区近くは
特にひどく泥よけがない自
転車が約2台ありズボンが
汚れとんでもなくなってし
まいました。みなさん泥よ
けがない自転車は気を
つけましょう。
昼食場所の平井さく
ら公園ではターザン
ロープがあり、みんな
でぶらさがり楽しみま
ご満悦の尾﨑君
した。小学生に
戻ったような感覚
がしました。
1日の疲れを旧
中川川の駅にあ
る水彩テラスの
足湯に使って癒
すことができまし
た。無料なので
皆さんも是非利
用してください。
編集後記
正直言って調査活動よ
り汚れのほうが大変でした
(笑)やはり雤が止んで1時
間後に活動開始ってことも
あって道がぐつあぐちゃで
大変でした。次回は天気が
いい時にあるといいなぁ...
中には綺麗な人も...
足湯でで疲れをいやす一年生