母の宝物;pdf

母の葬儀であった。
むしば
一年も癌に 蝕 まれた母が永遠の眠りについている。食べることが難しくなったからだは、ほ
ほ骨の線が飛びだし、毛をむしった鳥のように細くとがっていた。
外はゆっくりと雪が舞い始めたのか、気持ちもからだも寒さで震えた。弔問客に挨拶する。幾
度も頭を下げると、ふと枯れたバッタをおもった。
「仏様にお化粧を施します。何か着せるものがあればご用意ください」納棺師が喪主の僕を促
した。前日から睡眠をとっていないせいか、澱んだ頭は思考を停止している。傍にいた妻が、僕の
袖を引いた。
「お義母さんの宝物を着させて」
「宝物ってなんだい」「あれよ、大島紬」
それは母が一度も袖を通さなかった、祖母から贈られた着物だった。終戦後での貧困な生活を
まかな
賄 うために、着道楽な祖母の着物たちは米などの食べ物と交換されたが、一枚だけ、母の嫁入り
道具の一つとして残された。
「最後の旅立ちに着させてやりたいわ」「これって、お前が母さんから貰った物じゃないのか」
確か五年ほど前に、元気だった母が形見として妻に贈ったものだ。大切に扱われた一枚は、虫
一つついていない。妻は嗚咽しながら、その一枚を納棺師に手渡した。樟脳のにおいが母を包む。
初めて袖を通した母の蒼白かった顔が、少し赤みがかったように映る。微笑んでいるようにも見
える。
「お前は馬鹿だよ。高価な大島紬を灰にしてまうなんて」
何より贅沢を嫌い、質素な母から僕は叱責されるだろう。だが、母自身にとって、一枚の大島
紬が祖母との大事な絆の証しで、宝物であった。黄泉の国で、祖母はそれを着た母を待っている
のではないか。
「とてもきれいな仏様ですね」
納棺師の言葉どおり、もう哀れな母はそこにはいない。霊柩車の警笛が一つ鳴った。ゆっくりと
母は葬儀場へと向かった。