KAGAWA GALAXY 吉⽥田源治郎郎・幸の世界(112) 第 112 回 吉⽥田源治郎郎著『五つのパンと五千⼈人』 今回は、吉⽥田源治郎郎の最後の著作ではないかと思われる『五つのパンと五千⼈人』を取り出して⾒見見る。 上に挙げた新書版の作品がそれで、 「サモネットの花籠籠」という洒 落落た副題がついている。源治郎郎は「基督教家庭新聞」や「⽕火の柱」 など関連の機関紙で「サモセット」という珠⽟玉の短⽂文を寄稿して きたが、本書には45編が並べられている。新たに書き下ろした のか、掲載済みの作品を選んだのか確認できていない。 源治郎郎は右に収めた「はじめに」に於いて「吉野丈夫先⽣生の協⼒力力 により発刊されることになった」と記しているが、「サモネット」 をこのように並べることや、ご覧のような題と美しい表紙とを構 想したのは吉⽥田源治郎郎であって、友⼈人の吉野丈夫はこれと時を同 じくしてご⾃自分の著書『神⼾戸と基督教』 (神⼾戸キリスト教書店)を 出版しており、吉野丈夫のここでの「協⼒力力」の意味合いは、源治 郎郎が「はしがき」の⾃自署名の前に記している「宣教献⾝身六六⼗十年年を 記念念して」この出版を、吉野が強く後押しし、そのことへの謝意 をこめて、源治郎郎はここにわざわざ記したのではないかと思われ る。 吉⽥田源治郎郎の「宣教献⾝身六六⼗十年年」というのは、源治 郎郎が⼤大正3(1914)年年3⽉月に三重県⽴立立第四中学 を卒業し、明治学院⾼高等学部に進学して更更に神学部 に進んだ、あの時を起点としているのであろう。⾃自 ら「宣教献⾝身六六⼗十年年」と述べる如く、確かにここま で⾒見見てきた吉⽥田源治郎郎の⽣生涯は、本当に「献⾝身ひと すじ」の歩みであることを知らされる。 本書の奥付を⾒見見ると、発⾏行行⽇日は1975年年10⽉月2 0⽇日で、発⾏行行所は「⻄西宮市甲⼦子園⾼高潮町7-25(吉 ⽥田⽅方)コイノニヤ社」となっている。つまり源治郎郎 の⾃自宅宅を発⾏行行所とした⾃自費出版で、表紙に書かれて いるように「⼤大阪キリスト教書店」が発売元となる ものである。 尚この時、吉⽥田源治郎郎は、 「幻灯スライド:賀川豊彦」 の製作に関わっていて、その「29コマの解説」を ⽥田中芳三が⾏行行っていたので、それを「賀川豊彦の思 い出」と題し本書の「付録」として収めている。ま た巻末には、⼤大阪クリスチャンセンター・⼤大阪キリ スト教書店・聖⽂文舎⻄西宮店と同神⼾戸店の広告⼊入りの 本である。 上に収めた「はじめに」には、「私は、これまで「親鸞鸞 より基督へ」 ・ 「神の河は⽔水みちたり」等のパンフレット を出版している」と書かれているが、この2冊のパンフ レットは未確認のままである。⽥田中芳三の『親鸞鸞よりキ リストへ―ぞうり履履きの伝道者升崎外彦物語』(クリス チャン・グラフ社)は版を重ねた作品として知られてい るが、源治郎郎のパンフレット類というのは、以外に多く あるかもしれない。 ここでは、本書にある45篇の中から、源治郎郎のお箱の ひとつ「星」を語った⼀一篇と、今津⼆二葉葉幼稚園児だった 「若若林林くん」のところだけを取り出して置きたい。 付録 以下の三つの⼩小品は、昭和50年年の作品ではなく、いずれも昭和29年年のもので、原稿⽤用紙に張り 付けて残されていた。それぞれ⽇日付は書かれているが、掲載紙は判らない。忘れないために、ここに付録 として収めて置く。 昭和29年年4⽉月3⽇日 昭和29年年11⽉月20⽇日 昭和29年年12⽉月4⽇日 今回はここまでで、次回 から改めて昭和50年年以 降降に進んで⾒見見たい。 (2010年年11⽉月2⽇日 記す。⿃鳥飼慶陽)(2014 年年 10 ⽉月 2 ⽇日補正) KAGAWA GALAXY 吉⽥田源治郎郎・幸の世界(113) ⼀一⻨麦保育園の埴⽣生操園⻑⾧長と園児たち(昭和52年年) 第 113 回 昭和 50〜~52 年年の吉⽥田源治郎郎と幸 既に触れてきたように、昭和7年年4⽉月に⼀一⻨麦保育園が創設され、翌昭和8年年4⽉月より主任として抜擢され、 ⻑⾧長く「いちばくのはにゅうせんせい」として親しまれて、先進的な保育実践を積み重ねてきた「埴⽣生操と 園児たち」の写真が、冒頭のものである。 昭和52年年11⽉月に発⾏行行された埴⽣生操編著『⼀一⻨麦保育園創⽴立立45周年年記念念誌:⼦子供と⾃自然を友として』 (⼀一 ⻨麦保育園発⾏行行)のことについても、またその中に収められていた南野武衛ほかの⽂文章なども前に紹介済み であるが、ここでは、本書の「序」の部分と第1部の最初にある埴⽣生操の作品「幼児と⾃自然環境」、そして もうひとつ、賀川豊彦を追悼する『神はわが牧者』に寄せた埴⽣生の⽂文章「ある夜のひととき」を取り出し て⾒見見る。 以上ここまで⼀一⻨麦保育園45周年年記念念誌を中⼼心に⼀一部取り出して⾒見見たが、今回は「昭和50年年〜~52年年の 吉⽥田源治郎郎と幸」としているので、少しだけ昭和50年年以降降のところを記して置きたい。 昭和50年年の「新春聖修会」は1⽉月2⽇日に⼀一⻨麦保育園で開催され、嶋⽥田啓⼀一郎郎と吉野丈夫が講師を務め、 4⽉月21⽇日の⼤大阪朝祷会では、升崎外彦が賀川を記念念して奨励を⾏行行っている。 そして昭和51年年の「新春聖修会」も1⽉月3⽇日に⼀一⻨麦保育園で開催され、吉村静枝が講演を⾏行行い、7⽉月1 2⽇日には徳島市徳島簡易易保養センターに於いて「全国聖修会」が開催され、畑実夫と武藤富男が講演して いる。 翌昭和52年年は「新春聖修会」の記録がない。 甲⼦子園⼆二葉葉教会の『創⽴立立五⼗十周年年記念念誌』の年年表には「9⽉月 この頃より、吉⽥田牧師の健康上の理理由のた め、近隣隣諸教会の教職の応援を仰ぐことになった。特に吉野丈夫牧師(神⼾戸再度度筋教会)には当初は毎⽉月 の応援、その後ほぼ隔週においでいただく等、絶⼤大なご協⼒力力をいただいた」という記述がでてくる。 その⽬目で年年表を振り返ってみると、昭和49年年6⽉月30⽇日には「この週より、吉⽥田牧師病気⼊入院のため、 9⽉月頃まで他教会教職の応援並びに信徒により講壇奉仕がなされる」と記され、 『⻄西宮⼀一⻨麦教会五⼗十年年の歩 み』の年年表にも「6⽉月30⽇日 吉⽥田源治郎郎牧師、病気⼊入院(9⽉月まで)」と書かれている。 またこの『五⼗十年年の歩み』の年年表には、昭和51年年12⽉月に同教会の森彬伝道師が⽇日本基督教団正教師と なり、昭和52年年5⽉月には⻄西宮⼀一⻨麦教会主任担任教師に就任、吉⽥田源治郎郎は名誉牧師となることが記され ている。 今回の最後に、この頃の2枚の写真(1枚は下の写真、もう1枚は園児たちとの写真を終わりに)と、昭 和50年年9⽉月14⽇日に記した吉⽥田源治郎郎の⼀一⽂文(『四貫島セツルメント・五⼗十年年の歩み』の巻末に収められ た「記念念⽂文集」)を取り出して置く。 この写真は、昭和52年年、⽇日本基督教団兵庫教区の教師研修会の時のもので、右より芹野俊郎郎・吉⽥田源治 郎郎・森彬 昭和52年年3⽉月 甲⼦子園⼆二葉葉幼稚園卒園児たちと共に 次回は、昭和53年年以降降に進んで⾒見見たい。 (2010年年11⽉月3⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014 年年 10 ⽉月 3 ⽇日補正)
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