はじめに;pdf

理穂子
達政宗︵貞山公︶の命によって執 筆した﹃源氏物語﹄の梗概舎であ
参照された可能性が大であろう。それを念頭に、﹃小鑑﹄との 比較
と付 くべし ﹂と いうような表現が多く見られ、 明らかに連歌 の付合
を意識して書かれていることがわかる。このように連歌と縁の深い
か魅力的な作品となっている。そ うは言っても、やは り先行の梗概
の梗概書 の模倣や踏襲ばかりではない独自の切り口も窺え、なかな
歌を載せ、つとめて 歌意を記そう とする特色があり 、叙述には 先行
し、ミセ ケチや補入などの傍書がある箇 所に ついては、他伝本と校
本を底本とし、句読点を付して読みやすくした。振り仮名は概ね略
段に﹃小鑑﹄の本文を掲げる。﹃栄鑑抄﹄の引用は伊達文庫蔵一冊
以下、両書の記事を比較対照する際には、 上段に﹃栄鑑抄﹄、下
本稿では 、特 に﹃源氏 小鑑 ﹄との関係について 検討し 、﹃源氏栄鑑
﹃源氏小鑑﹄ との共通性
。
抄﹄の先行梗概書受容の一様相を明らかにした いと思 う
第一章
﹃源氏小鑑﹄︵以下﹃小鑑﹄と略す︶は 現存伝本の多さや、度々に渡
る刊行によって源氏物語梗概番の 中 でももっとも流布したと言われ
はじめに、桐壷巻の冒頭部分の記事を比較する。
る表現には傍線を付した。同 一番号が共通する内容の叙述である。
系統︵古本系︶の代表とされる本である。それぞれの本文に共通す
持明院基春筆本の翻刻本文を採用した 。 京都大学本は岩坪 氏が第 一
合して本文を校訂した。また、﹃小鑑 ﹄の引用には岩坪健氏編﹃﹃源
氏小鏡﹄諸本集成 ﹄︵ 和 泉 書 院 平 成 一七年︶所収の京都大学蔵伝
書の影響は顕著と言わざるをえない。
﹃小鑑﹄は、﹃栄鑑抄﹄の作者正益が連歌師 であることを考えると、
る。 中世以来多数作られた梗概 書の中の一作品 であるが、 刊行され
ることはなく、主一に伊達務内 でのみ享受されてきたために、伝本も
を通して 、﹃栄鑑抄﹄の叙述の特徴を明らかにしたいと思う。
しての性格を強く持つとされる。寄合以外の本文中においても、﹁ー
あるため、 ﹃小鑑 ﹄は連歌師や連歌愛好者のための簡便な手引書と
て いる 。﹃ 小鑑 ﹄には連歌寄合の語が 随所に 日記されるという特徴が
﹃、源氏栄鑑抄﹄ における ﹃源氏小鑑﹄ の影響について
はじめ に
石
少なく、あまり知られていな い作品 である。二O O首余りの作中和
﹃源氏栄鑑抄﹄は、猪苗代 正益が、召し抱えられていた 仙 台帯主伊
白
﹃源氏、栄鑑抄﹄︵伊達文庫一冊本︶
巻の名は御つほねはきりつほなりと いふことはをもてつけたり 。
きりつほは禁中にてのつほねの名位。しけいしゃともいへり。こ
1
4
﹃源氏小鑑﹄︵古本系・京都大学本
41
きりつほといふまきのこと、大内にある御殿のな﹄り。 しけい
し叫叫川刈同制制、 斗 叫 剖 叶 寸 吋 吋 叫 州 剖 淵刷 叫 吋 刈 吋 L、 さ ふ
たまふ。
み 給 ふ 。 さ る ほ と に 、 わ か み や 一し ょ 、 か う ゐ の 御 は ら に い て き
剖 叶 寸 同叫 什 ぷ 附 晴 州 川 い 阿 川 け
叫 寸 叫 叫 叫 側 同 叫 剖 到 刻 吋 羽 制 叫叫 叫 べ 吋 剖 川 寸 叫 叫 叫 升 川 叶 川 叫 叫 討 討 司 社 寸 斗
へ り 。 こ の 女 房 を わ き て 御 寵 愛 あ り し に よ り 、 御 門 を も き り つほ ゐは、 一の人なとの御むすめなとにてはなし。ち﹄大なこむにて、
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の 天 皇 と 申 せ し な り 。 大 納 言 に て う せ に し人のむすめ也。ち﹄の 外 剖 叫 叫 刈 叫 斗 判 引 。 か た ち 、 な た か き ﹀ こ え あ り て 、 み や っ か
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ゆ い こ ん に ま か せ て み や っ か へ に う ち に ま いり給ひ、源氏の君を ひ に 、 う ち へ ま い り た ま ひ し そ か し 。 み か と 、 こ と の ほ か に 、 と
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A 剖 叫 州 剖 制 叫 叫 州 同1刈 吋 ベ 叫 対 側 州 引 札 叫T羽 引 吋 叶 斗 引 引 制
川叫川刈吋吋叶刈刈剖叫叫剖判叫刈叫斗叶叫引叫
引刈割叶
り、みかととりわきてときめかし給ひしに、あまたの人のそねみ
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浅 か ら ぬ つ も り に や 、 源 氏 の 君 み つ に な り た ま ふ 年 の 夏 心ちれい
こ町制品川、三になりたまふなつのころ、御は﹀かうゐ、かくれ
な ら す し で か き り の さ ま に み 給 ひ け れ は 宮 の 内 に て 人のむなしく
同
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なる事をいむに依りて退 出せらる﹀おり、てくるまをゆるされし たまふ。やまひかきりなれは、御いとま申て、さとへいて給ふほ
也 。 こ の く る ま は お ほ ろ け の 人 の ら す 、 高 僧 老 者 し か る へ き 女 房 叶 叫1寸 什 引 剖 叫 剖川 叶剖 剖 剖 叫 寸 寸 削 制 刈 ォ 斗 叫 叶 到 判 、 い み
しきくわしよくの事なれは、おほろけの人はゆるされさりしを、
あっしく。いきもたえつ﹄。おたきのさほう。かきりのつか
さて大りを出給ひしおり、御なこりおしませ給ひて、さま/’tt
隠
あまりなる御心さしなり。そのほとのことは。
な と 行 歩 か な は さ る 人 に ゆ る さ る ﹀ 也 。 か ういにゆるさる﹄事、
制吋刈羽叫羽川剖剖剖引制剖ベリ。
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111
11111li− −Illi− − − −Illi− −Illi− −Illi− −
御門なこりをかなしみたまひさま/\の御こと葉をつくし給へ
ひ
。
IIなから更衣のうた
と、御いらへもはか/ttしからすいきもたえ
の こ と を の た ま へ と も 、 い き も た え 111に て 物 も 申 や ら さ り し か
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Lみ ち の か な し き に い か ま ほ し き は い の ち
か き り と て わ か る ﹄ 道 の か な し き に い か ま ほ し き は いのちな
かきりとてわかる
歌に、
なりけり
りけり
るへし。あはれなる寄とそ。
底
これは、かうゐのかきりのうたそかし。御心のま﹄ならは、
君にわかれたてまつる事のかなしきま﹄いきまほしきいのちとな
さてまかて給ひてその夜かくれ給ひぬ。みかときこしめしての
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御心まとひ思ひやるへし。なくなく烏・・・・
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りおさむる所へ勅使有て三位のくらひををくら せ給 ふ
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き のくらゐにも、なさまほしくおほしめしたりしかとも、かたへ
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Illi− − − |、
のそねみをも 又、世のそしりをもおほしめして、うせてのち、さ
か ね て は 四 位 の か う い と み え た り 。 一 き さみのくらゐをたにと う の と こ ろ へ ち よ く し を た て さ せ 給 ひ て 、 三 ゐ の く ら ゐ を く ら せ
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かけり。世にありし時御心のま与ならは、女 御なと﹀もいはせま たまふ。﹁かきりのつかひ ﹂ はこれなり。
ほしくおほしなから、世のそしりをは﹄かり給ひておほしと﹀ま
の叙述のほとんどを網羅して いる ことがわかる だろう。以下具体的
しつつ叙述しているが、 こうして見ると﹃栄鑑抄﹄の叙述が﹃小鑑﹄
両舎とも、﹃源氏﹄原典における桐壷更衣死去までの記事を引用
様、後の読者 によって 名付 けられた通 称である。とす ると、これは
とは﹃源氏﹄原典のど こにもない。多くの女性 登場人物の名前と同
うに読めるが、実際には源氏の父帝が﹁桐査の御門﹂と呼ばれるこ
桐壷巻で光源氏の父が 初めて ﹁桐査の 御門﹂と呼ばれているかのよ
りしかは、せめてのちにもと、をくりた まふくらゐなる へし。
に、これらの本文の比較をしてみる 。
桐査帝の登場がこの巻からだという意で﹁このま きより﹂とあ るの
であろうか。
傍線①の巻名由来を述べることから梗概を始める方法は、﹃小鑑﹄
の梗概叙述方法の基本的な形である。そのことは 稲賀敬 二氏も指摘
抄﹄と同様の記述が見られる。
わきて御寵愛ありしにより 、御門を もきりつほの 天皇と申せ しなり﹂
桐壷更衣 の名の由来 を述べ た後に、 ﹃栄鑑抄﹄では﹁こ の女房を
﹃栄鑑抄﹄ともに見られるが、これだけでは二番の 関係が密なこと
の証 拠と はなりがたい。
御門と申奉る。このかういは 。一の 人なと の御むすめにはなし。
査の更衣を 、は なはた御て うあひあ りしによ りて、きりつほの
ふ事は、御まへの庭に、きりをうへられしゅへな り。︵中略︶桐
そ、きり つほのかういとは 申 けれ。 御殿 の名を、 きりつ ほとい
﹃小鑑﹄諸伝本のうち国文学研究資料館本 には、桐査巻に﹃栄鍍
され
、 ﹁これは 註釈の 世界のしきたりを踏襲するものであろう﹂と
言われる。巻名の由来から梗概を述 べていく という方法は﹃小鑑﹄
と桐蓋帝の名の由来についても述べている。﹃ 小鑑﹄で は桐査巻の
に属するとされる。第二類の中でも、道安という人物によって付さ
さ れ て い る 。 国 文 学研 究資料館本は第三系統︵地楠本系︶の第二類
、 岡本もその 一つである。 伊井春
れた序文・敏文を持つ伝本があ り
樹氏はこ の序文 ・政文を紹介し 、その 内容を まとめておられる U序
局の名が庭の植木によって命名されると他本に見られない注も付
このきり つほに、ひかる源氏のは与、さふらはせ給ふ。さてこ
梗概を終えた後、末尾に注のように﹁又、 桐 査の御 門と は、源氏
のち﹄みかとを申事、このまきより見えたまふ。しゅしやうにてま
きりつほみかと
しませは、きりつほのみかと﹄申なり﹂とあり、 桐壷帝の名の由来
は、桐査巻で主上 H御 円であったこと によると されている。しか し
﹁このまきより ﹂とするのは いかなる意味か。そのまま解釈すれば、
υ
内︿
評判の女性であ ったからだろうが、﹃源氏﹄原典で強調されている
文によれば、道安という人物が﹃小鑑﹄の訂正 ・増補を行 ってでき
のは、更衣が本人の意思とは 無関 係に父の遺言によって入内 し、帝
﹃栄鑑抄﹄の記述はこれらの記述をもとに書かれたのだろう。桐
査更衣の宮仕えが可能だったのは、﹃小鑑﹄の言うように美しいと
た本であるという。 そ の成立に ついて岩坪健氏は永禄五 年 ︵一五六
。 序文では、﹃小鑑﹄が便利な書で多くの人に
一一︶ かと さ れてい る
の寵愛を受けな がらも、そのためにこの 世を 去るという、周 囲 に翻
弄され続けた女性 であったということである。 桐査更衣の宮仕えに
も﹃小鑑﹄は読まれ続けるのだが、この頃にはその内容 に問題 があ
ることが、ある範囲の人々には知られていたようだ。ここに﹃栄鑑
読まれながらも、その中には誤りも多いとしている。 近世に入って
抄﹄と同様の記述を含むことも、道安が正益と閉じ連歌師 であるこ
いて触れている。 更衣が宮仕えに来た経緯について、﹃栄鑑抄﹄は
﹁ち与 のゆいこんにまかせてみやっかへにうちにま いり給ひ﹂とす
たの人のそねみ浅からぬつもりにや、源氏の君みつになりたまふ年
次に更衣の死についての記述を比べてみる。﹃栄鑑抄﹄は﹁あま
美しさの評 判な どは、原典には描 かれな い ので﹃小鑑﹄の 推測に過
ついては、原典 に忠実であろうとするなら、父の遺言という動機を
落とすことはできないだろう。むしろ﹃ 小鑑﹄にあるような更衣の
るが、﹃小鑑﹄は更衣の美 しさが評判であったからとしている 。﹃
源
の夏心ちれいならすして﹂ と、更衣が病付 いた理由を人々の嫉みか
傍線部②では、両書とも宮仕えの経緯と桐壷更衣の死の原因につ
とと無関係ではないかもしれない 。
氏﹄原典には更衣の宮仕えの経緯について、更衣の死後、更衣の里
らかとしている。﹃源氏﹄原典を読む読者は、嫉みによるすさまじ
かならず遂げさせたてまつれ 。 我亡くな りぬとて、 口惜 しう恩
ひくづほるな﹄と、かへすがへす諌めおかれはべ りし かば、は
故大納言、いまはとなるまで、ただ、﹃この人の宮仕の本意、
られて行くさまが想像できる。 しかし﹃栄鑑抄﹄も﹃小鑑﹄もその
んな弱々しい更衣をますます愛する桐査帝の愛情が、ますます更衣
廊下を渡る時に両端から示し合わせて戸を閉め更衣を閉じ込めるなど︶に苦
いまでのいじめ行為 ︵
吏衣が清涼殿に 参上する廊下に汚物をまき散らす、
ぎないということになる。
を 訪 れ た 鞍 負 命 婦 と 更 衣 の 母 が 対 面 す る 場 面 で 次 の ように 語られ
る。 これは吏衣の母の台詞の 一部である。
かばかしう後見思ふ人もなきまじらひは、なかなかなるべきこ
とと思ひたま へながら、剖司州州制劃剖剖ベ叫剖同州引叫 削 剖
いじめ場面を描かないので、更衣の死といじめとが結びつかない可
への嫉妬の炎を燃え上がらせるとともに、更衣が精神的に 追い詰め
しむ更衣の姿を目のあた りにすることで、更衣が宮 中で孤 立し、そ
︶
し立てはべりしを︵①三O頁
り、これを読んだ読者は、更衣の死が周 囲 の人々のそねみを原因と
﹁あまたの人のそねみ浅からぬつもりにや﹂と推測の形で書いてお
能性 もある。ただし、﹃栄鑑 抄 ﹄では具体的には 書かな いものの、
ろこびは、かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ、言ふかひな
すると受け取ることができよう。もっとも、﹃小鑑﹄も更衣の死を
また、桐査帝の言葉にも次のようにある。
U剖川リよ
﹁制対例剖同州制劃 利 引剖 剖 刊1割 倒叫利樹測り叫叫
しゃ﹂︵①三四頁︶
-4-
のかうゐの、人にねたみそねまれてうせし人なれは、その心ねもあ
にこ の後﹁富きのの:﹂の歓を引 用 し、そ の注のような形で、﹁こ
人々のそねみの積りによると考えていないわけではない。その証拠
に若干の説明を付加したものが﹃栄鑑抄﹄の記事であると言えよう。
心さしなり﹂とあって、全く同文とまではいかないものの、﹃小鑑﹄
し、﹃小鑑﹄は﹁おほろけの人はゆるされさりしを、あまりなる御
るへし﹂と書く。 こ のような叙述を参考に 、﹃栄鑑抄﹄は適切な箇
とを記すが、改訂本系﹃小鑑﹄では、この間に次の文が挿入される。
はらにいてきたまふ﹂の直後に、更衣が源氏三歳の夏に亡くなるこ
げた古本系﹃小鑑﹄は﹁さるほとに、わかみや一しょ 、か うゐの御
は岩坪氏も﹁華飾﹂ と漢字を宛てられているように、 装飾 の豪華な
乗物なのでという意味なのだろうか 。 手車は動かすのにも相当の人
くの事なれは﹂普通の人には許されないとする。﹁くわしよく﹂と
注釈的姿勢の表れであろう。﹃小鑑 ﹄ の場合は﹁いみしきくわしよ
は男女僧 ・皆 是 を ゆ る さ る る 宿 徳 の 大 臣 御 持 ・ 御 侍 読 其 外 女 房
なとまて也﹂と記す。 ﹁
おほろけの人﹂を説 明 しようとするのは、
高︸︵僧︶
﹃、栄鑑抄﹄ は﹁おほろけの人﹂がどのような人をさすか 、さらに付
記している。﹃眠江入楚﹄には﹃河海抄﹄の説として﹁文手くるま
さる程に、此かうゐの御腹に、わかみや、ひと﹄ころ、いてき
させ給ふ。判制U樹引判判川村引叶叫州引制剖叫剖廿1叶 利料
員が必要だったようで、﹃角川古語大辞典﹄によれば、﹁前後の轄
ただ、ここで改訂本系﹃小鑑﹄の本文を参照してみたい。表に掲
所にそねみ原因説を配置して叙述したと いうことも考えられよう。
引 判1剖 剖 列 州 射 寸 刈 ベ 吋 州 司 叫1刈 州 川 剖 叫 剖 引 斗 州U倒 剖
に、ふつう十二人の官人がつく﹂という。
じ表現は見られないので、両者が同じ梗概舎や注釈書によったか、
傍練部@については、両書ほぽ同文である。﹃源氏﹄原典にも同
おふつ・もりにや有けん。
此宮、三になり給ふ夏のころ、御母かうゐ、かくれ給ふ。
傍線箇所が改訂本系で増補されている部分である。この増補部分
桐壷更衣の葬礼が行われた場所について、﹃栄鑑抄﹄は﹁鳥へ野
﹃栄鑑抄﹄が直接 ﹃小鑑﹄によったかのどちらかであろう。
閉じほど、それより下脂の更衣たちはましてやすからず。朝夕
にて﹂と記している。﹃源氏﹄原典には﹁愛宕といふ所に、いとい
は、﹃源氏﹄原典に、
の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、 恨みを負ふつも りに
ている 。﹃眠江入楚﹄ には愛宕について、﹁又愛当
ゃありけん︵①一七頁︶
とある記述をそのまま利用している。 古本系から改訂本系への本文
辺野を云也﹂とあるので、﹃栄鑑抄﹄の記述は原典の﹁愛宕﹂を説
に勅使を遣わしたとあるのみで、愛宕とも鳥辺野とも具体的な地名
は明記していない 。
山城 国 也 鳥
増補については伊井氏にすでに指摘があるが、ここでは改訂本系の
明的に言い換えたことになろう。 一方﹃小鑑﹄には、ただ葬礼の場
かめしうその作法したるに﹂︵① 二四頁︶とあるから、地名が異なっ
本文 の方が、﹃栄鑑抄﹄に近いといえよう。
あるものの、﹃栄鑑抄﹄は、﹁このくるまはおほろけの人のらす︵中
傍線部③には、順序が異なるものの同じ内容が書かれている。桐
傍線部⑤に関しては、﹁手車の宣旨﹂に関わる注で両書に違いが
略︶かういにゆるさる﹀事、あはれみのふかきあまりなるへし﹂と
Fhu
氏﹄原典には次のようにある 。
壷帝が更衣に三位を追贈した理 由 などについての言及である。﹃源
わけではないだろう。養生のために里 下がりを申し出た際は帝に却
江入楚﹄にもそのような記述があるので、正益のオリジナルという
内 裏 よ り 御 使 あ り 。 三位の位贈りたまふよし、勅使来て、その
であろう。﹃源氏﹄原典には﹁限りあれば、さのみもえとどめさせ
犯すことができずに里下がりを許可したと、この場面を説明する注
下されたものの、今や 限 りとなった時には、帝も宮中のしきたりを
みつ
宣命読むなん、悲しきことなりける。女御とだに言はせずなり
たまはず﹂︵①二二頁︶とある。
ひときざみ
ぬるがあかず口 惜 し う 思 さ る れ ば 、 い ま 一 階 の 位 を だ に と
やまひかきりなれは、大内のうちにて、人のかくれ給ふ率、な
同じ箇所に関して、改訂本系﹃小鑑﹄の本文を見てみると、
贈らせたまふなりけり。これにつけても、憎みたまふ人々多か
り。 ︵①二五頁︶
﹃栄鑑抄﹄は原典の表現に倣って、 ﹁
女御なと与もいはせまほし
きなれは、御いとま申て、さとへ出させ給ふ 。
な き﹂ゆえと書か
系﹃小鑑﹄では、人の死が﹁大内のうち﹂では ﹁
とある。傍線箇所が改訂本系で増補されている部分である。改訂本
とする。﹁女御とだに ﹂と 原典にあるところから、本当は皇后にし
たかったという桐壷帝の気持ちを読み取っての叙述であろう。
れている。どうして人の死がないのかといえば﹃栄鑑 抄﹄が説明す
-6-
く﹂とするが、﹃小鑑﹄は﹁きさきのくらゐにも、なさまほしく ﹂
両書の記事を比較すると、前述のように﹃栄鑑抄﹄が﹃小鑑﹄の
るように人の死を忌むからそれより 前 に退出させられるためであろ
う。 改訂本系﹃ 小鑑﹄の記事をわかりやすく説明したものが﹃栄鑑
かくて秋にもなりぬ。 かのうせにしかうゐのは﹄も、おなしく
﹃源氏小鑑﹄︵古本系・京都大学本
引き続き桐査巻の記事を比較する 。
抄﹄の説明であると言える。
記述をほとんど網羅していることとともに、﹃栄鑑抄﹄の方に注釈
的記事が多いことに気づく。
例えば、傍線部④の後には、桐壷更衣が宮中から退 出 したのは﹁宮
﹃栄鑑抄﹄︵伊達文庫一冊本︶
の内にて人のむなしくな る事をいむに依りて﹂であったとする 。
﹃眠
E
母のいみによりて源氏の君も更衣の母きみをたよりにて、
里
やえむくら。むしのねしけき。す﹄むし。雲の上人。みやき
郷﹂なとにも付へし 。その ほとのこと策。
なるゆふくれに、うちよりかのさとへ、ゆけいのみやうふといふ
到 削 引 剖1制 寸 州問叫寸州叫剖剖刻刻。なき人のやとなれは、 ﹁
古
J尚
い
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也⋮称.
qいいが、わかiAや御いみのぼとな糾は、つ
おはしますころ秋にもなり刷。劇のわきたちてものあは判なるタ 引
m川町、州パ叶川叫 剖 寸 判 寸 川 寸1 4叶 叫 叶 刈 剖 剖 刻 。 坤 剖1叫 判 剖 剖 叫 寸 釧 制 叫 判
割同、山UU,わいい.引官U,いいんが.聖加が,品川悶じが,U M.
母の・もとへゆけいのみやうふといふ女房を御っかひにて御文あり。
そのときの御製に、
みやきの ﹄露吹むすふ風のをとにこ萩かもとを思ひこそやれ
宮 と い ふ 字 あ る に よ り て 、 名 所 を 禁 中 の 心 に し て の 御 耳也 。み
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やのうちさへ風のをと物かなしきにましてうは君の所はといふ心
の﹄小萩。あさちふのやと。露をきそふる。
か。こはきに子の心あ り若宮おは しませ は也。
これらは、かうゐのさとにてのことなれは、﹁なき人のやと﹂なと
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母 君 と 命 婦 物 か た り な と し て 萄 去 り 抗 わ 同I
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いふ 事 あ ら は 、 つ け さ せ た ま ふ へ し 。 御 か と よ り の 御 文 に 、 か う
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山
川
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の寸 叶 叫司 ベ 寸 ゐの御は与のもとへ、わか宮の御事よみ給ひし御歌、
川 叫 川 リ 引 升 叫 斗 叶 叶 引↓ 剖叶叫、 hmCじ
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宮 き の ﹄ つ ゆ ふ き む す ふ か せ の を と に こはきかもとを思ひこ
−−
かたみにとてつたへらる。かういうせ給てのち、里のすまゐもあ
−−
は﹃源氏﹄原典に影響を受けた結果による一致なのだろうか。これ
傍線部⑮を見ると、前半の部分は全く一致する。このような表現
ったと いうのが原典の記述である。
は見られない。母の喪に服すために、 源氏が更衣の母のいる里へ下
なれは、その心ねもあるへし。
﹀っかはされしなり 。﹁をく り物 ﹂ と い ふ 事 も あ ら は 、﹁なき人 ﹂
なとに付へし。このかうゐの、人にねたみそねまれてうせにし人
り 物 に 、 か う ゐ の ﹄ こ し を か れ た る 、 て う と め く 物 を 、 とりいて
−−
れたるにより浅茅生の宿とも虫のねしけきなともよみし也。
そやれ
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よ み 給 ひ し な り 。 さ て と 広l
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りとにをく
﹃小鑑﹄の記述量が多いのは、付合に 関 す る 記 事 を 多 く 含 んでい
こでも便概部における記述立は﹃栄鑑抄﹄の方が多い。
るためである。﹃栄鑑抄﹄にはそういう記事は全く見られない。こ
傍線部⑨に関しては、﹃小鑑﹄は﹃栄鑑抄﹄には見られない﹁か
こと多くて、鞍負命婦と いふを遣はす。 ︵①二六頁︶
野分だちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、 常よりも思し出づる
は以下の記事によった本文であると思われる。
という叙述を有する。桐査更衣の母も女房として内裏に 仕えていた
のうせにしかうゐのは Lも、おなしくうちにさふらはせ給ひしか﹂
ということのようだが、もとより﹃源氏﹄原典 にはそのような記述
-7-
同一の記事を拠り所にするとは言え、両書が全く同じ表現をする
という表現は、﹃小鑑﹄が省略した原典の本文﹁常よりも思し出づ
とは考えにくいので、ここにも両書の関係の近さが窺える。﹃、栄鑑
抄﹄にしかない ﹁いよ/\うせにし人の事なとおほしめしいて﹄﹂
ること多くて﹂を、具 体的に説明して言い換えた ものであろう。
傍線部⑪は、更衣の母が鞍負命婦に更衣の形見を託す場面である。
たづねゆくまぼろしもがなってにでも魂のありかをそこと
知るべく︵①三五貰︶
これは形見の品の中に髪上の調度があったからこその感慨であろ
訂勺﹃栄鑑抄﹄の作者が後の場 面にまで注意を払 っていたかどうか
は定かでないが、形見の品を省略しなかったのは読者に対する配慮
であろうと思われる。
引用本文末尾に、﹃栄鑑抄﹄にしか見られない﹁かういうせ給て
のち、里のすまゐもあれたるにより浅茅生の宿とも虫のねしけきな
﹃源氏﹄原典には、次のようにある。
月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、
ともよみし也﹂という記述がある 。 ﹁虫のねしけき﹂とは、鞍負命
草むらの虫の声々もよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草の
を か しき御贈物などあるべきをりにもあらねば、ただかの御
﹁新編日本古典文学全集﹂﹃源氏物語①﹄の頭注には、﹁使者には
もとなり。
形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領、御
贈物を与えるのが例。 しかし喪中なので華美な贈物はしない﹂と言
婦と更衣の母の聞に交わされた次の贈答による。
う。 両書は細かい所で記述が異なっている。﹃小鑑﹄の方は﹁てう
えも乗りやらず。
髪上の調度めく物添へたまふ 。 ︵
①三二頁
︶
とめく物﹂ を具体的には述べな い。更衣の若ていた衣裳も﹁調度め
く物﹂という一語に含ませるつもりで書いたのか、﹁御装束一領﹂
かごとも聞こえつベくなむ﹂と言はせたまふ。︵①三二頁︶
また、﹁浅茅生の宿﹂は次の帝の独詠歌による。
﹁いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の上人
鈴虫の芦のかぎりを尽くしても長き夜あかずふる涙かな
という原典の記述も省略する。 一方﹃栄鑑抄﹄は、衣裳と髪上の調
度の両方を記述するとともに、これらが更衣の形見として命婦に贈
られたものであることを記す。もちろん更衣の形見であることは﹃小
月も入りぬ 。
︵①三六頁︶
雲のうへも涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿
鑑﹄の記述からもわかるが、﹁てうとめく物﹂という語句だけでは
読者には何が贈られたかわからない。贈られた品が桐壷更衣が身に
さて、この際、桐壷一巻の記事を最後まで 比較 しておきたい。
として掲げられていることと関係があるのかもしれない 。
いうことに関心が持たれているのは、﹃小鑑﹄でこれらの語が寄合
﹃栄鑑抄﹄で更衣の里がいかなる言葉で 和歌 に詠まれているかと
つけていたであろう衣裳や髪結いに用いた道具であるからこそ、そ
れを受け取 った桐壷帝の悲しみもより如実に想像されるのではない
か。 これらの贈り物を受け取 った桐琵帝の様子は次の通りである。
かの御贈物御覧ぜさす。 亡き人の住み処尋ね出でたりけんし
かむざ し
るしの叙おらましかばと思ほすもいとかひなし。
-8-
﹃源氏栄鑑抄﹄︵伊達文館一冊本︶
源 氏 の 君 七 歳 に な り 給 ふ 年 、 御 文 は し め な と し 給 ふ に 、 かくも
ん に も さ と く 琴 笛 の ね に も 雲 井をひ 、
ふ
か し、よろつの事人にこと
町一明
﹃源氏 小 鑑 ﹄︵古本系 ・京都大学本︶
かくて源氏、七の年より、御文はしめあり 。 かくもんし給ふに、
琴笛のねにも、くもゐをひ、ふかす。なに事にも、人にはことなり 。
J 司糾刈割を
司 叫 斗 守 サ 引 司 判 引1叶州剖吋剖叫叫引叫
fd刈川村斗叫剖1
剖叶剖叫剖ォバ叫叫叫剖t斗叫割叫制村叶叶
. お.
L川
剖引ォ寸叫叫刈升叶パ斗叶倒刈材斗叶叶同、己似5K
うにして相せられしに、ょのつねの人ならすとおとろきて、いひ
うつくしくおはしけるにめて﹀、ひかるきみとつけたてまつりし
より、この源氏をは、ひかるけんしといふなり。そのほとのこと
し ことの菜ともさまf
l なり。かたちのひかるはかりうつくしきに
MMM
め陀い
同同いは相人か名つけ奉ると也。
十二にて元服し給。その時左大臣殿かうふりきせ奉り給ふ。も
と、ふりをかうふりのうちへ引いる﹄によりて引いれの大臣といへ
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11111
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11
11 P I l
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ると也。世俗にえほしおゃなといふことしとそ。御門よりうち/\
おほせ事あるによりて、左大臣の御むすめた﹀ひとりおはします
を源氏にあはせたてまつらんと也。
御元服の時左大臣殿へ御ゑい
いときなきはつもとゆひ になかき世をちきる心はむすひこめ
文つくる。 四っか 。 七のとし、かのはかせにあひしところ、
こうろくわむな り。 いまの四つかなり。
さのすゑ。みなもと 。
はつもとゆゐ 。こ むらさき 。さかっきのつ ゐて 。あ けまさり 。
源氏のうゐかふりといふ事。
向山
源 氏 十 二 に て け ん ふ く 。 そ の 日 、 み な も と の 氏 を 給 て 、 た L人と
なり給ふ。いはゆる、ひかる源氏これなり。かのけんふくの日、岬
きいれの大臣の御むすめに、御門の御はからひにてあはせ奉 りて 、
ゆ|||
Illi− −111111Illi− − − − − − − − − − − − − − − − − − − − −
−ー
やかてその夜、かの大臣のもとへおはします。これを、あふひの
つや
ももとゆひのえんか。
うへといふとかや。 ﹁は つ も と ゆ ゐ の こ む ら さ き ﹂ と い ふ 事 は 、 宮
なとの御けんふくのおり、こきむらさきのいと、ひらきくみにて、
御返し左のおと﹀
むすひっる心もふかきもとゆひにこきむらさきの色しあせつ
もとゆひをとる事あり。それによせたる事なり。文あふひのう へ
はる事也 。文はつ も と ゆ ひ に は む ら さ き を も ち ゅ 。 紫 を は 女 に も
心ふかくちきる事のかはらすはといふ心と也。色のあせるとはか
つもとゆひ﹂なといふ事に付へし。
いふ事侍る。その心にや、おほえたり。これらは、﹁かうふり﹂﹁は
IlllI
− ll
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llIBIs−
のち﹄大臣 、 ひ き い れ に ま い り た ま ふ は 、 武 家
にゑほしおゃなと
協﹁
ま
と 。 元 服 の つ い で に ち き り を は む す ひ た ま ふ か と の 心 か 。 むすふ
丹、
たとふ。
-9-
。
調2
−
−−
−−
−−−−−−−−−−
ひて、あくるもしらすとおほしめし、くるれはむなしき御ゆかも、
−−
−−−
ー
−−−−−
−
−
ー
やかてその夜、源氏の君おほいとのへおはしそめて姫君にあひ
又このまきに、か与やくひの宮と申人は、ふちつほのきさきの
I
給可制判叶叫刊ぺ叶同州矧剖叫剖叫。
事なり。源氏のま与は与なり 。此きさきは 、捌刷州側同叶利引制斗
mrill hillbil IlllIll111Ill111Illl1111111111Illlli
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更衣かく
れ給ひて後は 、
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け
さ
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て
、
御
心 な く さ ま す。
女
御
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た
ち
の
御
と
の
い
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た
え
て
、
よ
d叶 刈 剖 引 制 制
る の お ま し も す さ ま し く て 明 か し く ら し 給 ふ に 、御心もなくさむ 倒 則 剥 利 引 叫1叫 判 刈 州 叫 叶 判 同 叫 叫叫 寸1叫u
かと人与をまいらせてみ給へとも、かういになすらふへきもなく
−−ーー
なと、なけかせ給ふほとに、みかとの御ためには御めいにておは
ゅIllli
Illi
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します、せんたいの四の宮、御かたちすくれて、きこえなたかく
てうとましうおほさる与に 、蛾 制 叫 叫 叫割 刈 吋叫 吋 り 州 制 汁 引 ﹄ 計 叫 叫 叶 判 明U叫 叫 寸1刈 叫 べ 叫 刻 斗 叫 引 寸 寸 同 制 パ け 叫 、 吋 剖
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剖 は什 寸
4 4寸側叶叫叫叫叫叫。雲のうへも、なみたにくれん
しを、内侍のすけといふ女房のそうせしに御心うつり、かういの
なけきもなくさむかと、さま/\おほせてうちにまいらせ給ふに、
すかたかたちよりはしめ人にすくれ給ひけれは、いつくしみ浅か
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ら て 御 心 も な く さ む や う な り し と 也 。 此 姫 宮 か 与 や く は か り の 御 判 叫 叫 剖 判 、 間 以M bh
糾 叫 引 制 利 則 ォ 叶 州 引 制 刷 叫 剖 叶 叫 叶 斗 寸 刈 叶 叫 付 則 叫 割 叶 叫 刺 いたつききこえさせ給ひしを、なひしのすけときこえし女はう、
向ド
陥
PIle
き﹄いたしてまいらせ絵ひけるに、まことに御心なくさませ給ひ
ー
せし也。藤つほにおはしますにより、藤つほの女御とかうす。此
−
て、御心さし、むかしのかうゐになすらひたまふ。源氏をひかる
−−−−
宮を源氏のおさな心にもたくひなしと心にしめたてまつりて、つ
−
きみと申せは、このひめみや、か﹄やくやうにおはしませば、か
−
いに心さしをとけ給て、此御はらに御子いてき給。後には冷泉院
−
まいり給ひて、御こ一人いてきさせたまふ 。 れ
111
﹁ゑほ しおや ﹂と 呼んでいるとしており、 これは ﹃栄鑑抄﹄の読
者対象がもともと武家であったからあえて書き換えたのであろう
か。﹃栄鑑抄﹄ではさらに ﹁
引入大臣﹂の呼称に関する注も付加し
刻刈剖叫側剖科叶則刻剖引。
ましませは、きりつほのみかと﹄申なり。たとへたてまつるみかと、
防﹁111
11
1111111111111111
のち﹄みかとを申事、このまきより見えたまふ。しゅしやうにて
んせいゐんと申しは、この御事なり。又、 桐 査 の 御 門 と は 、 源 氏
つゐにしのひ
﹄ や く ひ の 宮 と 、 よ 人 申 け り 。 御 つ ほ ね は 、 ふ ち つ ほ な り 。この
と申せし也。おもてはみかとの 御 子、まことは源氏の御子也。
防l i l i
lili
lill
き り つ ほ の 御 門 は延喜にあたる 也。先帝とあるは光孝にあた れ 宮をは源氏も 、おさなくより、おほけなく心にしめたてまつりで、
師ソ。
紙幅の都合上、ここですべてを考察していくことはしないが、例
えば傍線部⑪では両書ともに﹁引入大臣﹂を﹁ゑほしおや﹂のこと
であるとする。﹃小鑑﹄では﹁武家に﹂、﹃栄鑑抄﹄では﹁世俗﹂で
l
ま
ム
唱E
n
u
鑑抄﹄だけが取り上げている。﹃小鑑﹄では﹁源氏の うゐ かふりと
この場面では、元服の折に左大臣と帝の間でなされた贈答を﹃栄
に見られる﹃小鑑﹄との共通記事も、﹃小鑑﹄の影響を受けた梗概
梗概書の中に﹃小鑑﹄の影が見られるこ とが考えら れる。﹃栄鑑抄﹄
がつきにくい。﹃小鑑 ﹄の 影響力の大きさを考えてみれば、多くの
﹃栄 鑑 抄 ﹄ が 直 接 ﹃ 小 鑑 ﹄ を 参 考 に し た か ど う か は な か な か 判 断
を縮小する行為に留まらず、増補と改作をも含むとされる。
いふ事 ﹂と して答合が列記されるのみである。
以上の本文の内容を 比較す ると 、取 り上げるエピソ ードはほぼ同
書から間接的に受け取ったものであるかもしれない。そうは言って
ている。
じだ が、﹃栄鑑 抄﹄の方に説明や 注釈が 多くなっている。
決まっていたと思われるからである 。しかしそれを加味しても、 ﹃、栄
﹃栄鑑抄﹄は﹃小鑑 ﹄ と 共 通 性 を 持 つ け れ ど も 、 先 に あ げ た ﹃ 小
鑑﹄ の ﹁
第 二次 ダ イ ジ ェ ス ト 版﹂の類とは一 線を画す。﹃栄鑑抄﹄
えたことを示しているからである 。
も
、 ﹃小鑑﹄との類似性を詳しく検討したことは無意味ではなか ろ
鑑抄 ﹄と﹃小鑑﹄の 聞には、同類の注釈舎を 参考 にして書かれたか、
は﹃小鑑﹄の記述 をそのまま無批判に 受 け入れ たわけではなく、本
叙述の共通性に ついては 、ある意味 当然のこと であろう。 両書 が
﹃栄鑑抄﹄が直接﹃小鑑 ﹄を参考にして舎か れたかと思われる点が
文を吟味して 、﹃源氏 ﹄ 原 典 を 参 照 し な が ら 叙 述 し て い る こ と が 明
れた だけでなく、以後 に作られ た梗概書の形式 にも大きな影響を与
多々ある 。﹃ 小鑑﹄の叙述内容をほとんど踏襲する﹃栄鑑抄﹄であ
う。﹃小鑑﹄が作り上げた梗概 書の形式が多くの人々に受け入れら
るが、その増補部分は新たに注釈を付したり、﹃源氏﹄原典の表現
らかで 、﹃栄鑑抄﹄ 独自 の叙述方法へ巻を追うごとに変 化 していく
巻の内容を梗概化す るという閉じ目的で 作ら れた書であ り、梗概書
を用 いて記事を補 ったりし たものが見られる。﹃栄鑑抄﹄は﹃小鑑 ﹄
ことを見逃 し てはならないであろう。
として巻々でどうしても語らねばならない場面というの はあ る程度
の持つ連歌の手引き書的要素︵寄合など︶は 排除しながらも、 その
のと同じ注釈書や梗概書を﹃栄鑑抄﹄も用いた可能性もないわけで
︹
注
梗概化 の方法や叙述内 容 は 受 け 継 いでい る。﹃小鑑﹄が参考にした
︵1︶﹃源氏 小鑑﹄は多くの異称を持つ書物である。論者の 問でも﹃小鑑﹄
﹃
小銃﹄などの異悶があるが本論文では﹃源氏 小鑑﹄︵以下、﹃小鑑﹄と
はないが、ここまで叙述が 似 ているのは、やはり﹃ 小鑑﹄に直接よ
っている可能性が大きいであろう。
の分異本も多く、﹃ 小鑑﹄を種本と して 書かれた梗概書の存在も珍
︵2︶岩坪氏は﹃﹃源氏小鏡﹄諸本集成﹄にお いて、伊井春樹氏の説に従っ
使用する舎名をそのまま記した。
略す︶を使用する。ただ し、先行論の引用の際には、それぞれの論者の
しくはない。稲賀氏によって﹃源氏最要抄﹄が、 伊 井氏によって﹃源
手軽な﹃源氏﹄梗概書として広く受け入れられた﹃小鑑﹄は、そ
慨 抄﹄・﹃源氏要解﹄が、﹃ 小鑑 ﹄ の ﹁ 第 二 次 ダ イ ジ ェ ス ト版 ﹂で
て各系統に特徴的な+三本を納刻しておられる。伊井説では、伝本を六
系統に分け
、 第二系統をさら に三類に、第三系統をさらに三類に分けら
あるとすでに指摘されている。ここで言うダイジェストとは、内容
EA
EE晶
司
、
昭和五五年︶﹁第二
︹繍訂版︺﹄︵笠間舎段
れる︵伊井春樹﹃源氏物語注釈史の研究﹄︵桜総社
部第一章第二節﹂︶。
︵
3︶稲賀敬三氏﹃源氏物語の研究|成立と伝流l
和五八年、初版は昭和四二年︶。
︵
﹃ 源氏物語①﹄付載の巻ごとの人物関係図
4︶﹁新編日本古典文学金集 ﹂
︵系図︶には、それぞれの巻での呼称が列挙されている。
︵
5︶伊井春樹氏﹃源氏物語注釈史の研究﹄︵桜楓社昭和五五年︶﹁第二
部第一章第二節| 六﹃源氏小銃﹄の明補本﹂。
︵
6︶﹃﹃源氏小銃﹄諸本集成﹄﹁解題﹂︵七七八頁︶によれば、道安による
序文・敏文を持つ伝本は、国文学研究資料館本︵資料館本︶、京都大学蔵
本︵京大本︶、ノlトルダム消心女子大学蔵本︵滑心本︶東海大学桃園文
庫本︵挑図本︶四伝本で、資料館本と京大本の序文には﹁永禄五年﹂、桃
古本系から改訂本系へ
園本の政文と真木柱巻巻末には﹁永徐八年﹂とある。永禄五年としたの
注5に閉じ。﹁第二部第一章第二節|四
が本当の成立年だと解される。
(
受けて容かれているのだろう。
ω
︵ ︶﹁新編日本古典文学金集﹂﹃源氏物語①﹄にすでに指備がある︵一一一一
と﹃河海抄﹄の鋭を挙げる。﹃小銭﹄の記述もこのような注釈舎に影響を
いはせすと不足に覚しめしてせめて従三位を送り給ふ也
なしくのすされは御寵愛ゆへに后にもたて給ふへきに女御とたにと
河に大納言のむすめ立后の例をのす公卿殿上人の女の女御たる例お
9︶﹃眠江入紳互には
舎に岩坪氏がカツコ書きで私見を付しておられる。
︵
8︶﹃﹃源氏小銃﹄諸本集成﹄の京都大学本﹃源氏小銃﹄の翻刻本文の傍
」
。
)
7
(
昭
頁︶が、﹃眠江入楚﹄に﹁帝の様体也。或抄云。禁中は、神事所の故也云
々﹂とあって、さらにこの箇所に朱芯で﹁糸天子ノ神事ハ大方 一夜也 ソ
レ ハ常−一諸稼ヲ忌ル﹀故也﹂とある。
︵日︶桐盗倍が桐釜更衣の形見の叙を見て﹁亡き人の住み処尋ね出 でたり
けんしるしの叙ならましかば﹂と思った ことについて、﹁新編日本古典文
る。玄宗皇帝は縁釘妃を臣下に迫られて殺すが、その後も彼女を忘れる
学全集 ﹂﹃源氏物語①﹄︵三三頁頭注一九︶は﹁長恨歌﹂を典拠にあげ
ことなく、道士に彼女の魂を捜させる。道士はついに彼女の居場所を見
つけ、彼女から形見のロ聞として小箱と金の叙をそれぞれ半分にしたもの
を、玄宗皇帝に渡すよう託される。桐箆衛も更衣の形見の叙を楊食妃の
形見の叙と重ねてみたと指備されている。桐盗巻では、桐塗帝と桐登更
衣の 二人の関係を玄宗と抑制貨妃を引きあいに世の人が非難するという記
﹃源氏最要抄﹄と﹃源氏小
源氏最要抄の改作﹂。
述もある。更衣の死後桐蛮帝は﹁ HX
恨歌﹂の内容を絵にしたものを明け
暮れ眺めていたともある。
︵ロ︶注︵ 3︶に問じ。﹁第三章第五節
︵日︶注︵ 5︶に同じ。﹁第二部第一章第四節
銑
﹄
﹂
。
﹃小 鑑 ﹄ と の 相 違ーーその一 ・引 用和歌||
M︶注︵ 5︶掲載舎において、伊井氏が使用された語である。
︵
第二章
次に、﹃、栄鑑抄﹄と﹃小鑑﹄の引用和歌について比較してみたい。
稽 木 巻 の 引用 歌 を そ れ ぞ れ 比 べ て み る と 、 左 馬 頭 の 語 る 浮 気 な 女 と
の 経 験 談 に お け る 贈 答 の う ち ﹃小鑑 ﹄ は 女 の 浮 気 相 手 で あ っ た 殿 上
人の詠んだ﹁琴の音も・:﹂︵一二︶のみを引く。﹃栄鑑抄﹄はそれに
返した女の歌﹁こからしに:・﹂︵一三︶もあげる。ここで、﹃小鑑﹄
EA
唱
nJ白
と﹃栄鑑抄﹄の原典引用歌を比較してみたい。﹃小鑑﹄には形態の
違 う 伝 本 が 多 い が 、 そ の 中 でも古形を示すと恩われる第一系統︵古
二首のうち三首は﹃源氏﹄原典から
本系︶の京都大学蔵本と、第二系統︵改訂本系︶神戸神和女子大学
蔵本の引用和歌を参考にする。
古本系﹃小鑑﹄所収和歌一
紫にかごとはかけむ藤の花まつよりすぎてうれたけれども
人の御盃に加ふ 。 取りてもて悩むに、大臣、
︵③四三八頁︶
紫 に・・﹂はその前のつぶやき﹁藤の裏葉の﹂と
内大臣の詠んだ ﹁
ともに、結婚を許す意の寵った和歌である。
若菜下巻の歌は、紫上の病のため足が遠のいていた女三の宮のも
﹁さらば、道たどたどしからぬほどに﹂とて 、御衣な ど奉りな
とを源氏が訪れた時のものである。源氏が二条院に帰ろうとする時
ほす。﹁月待ちて、とも言ふなるものを﹂と 、い と若やかなる
︹樗標︺わひぬれはいまはたおなしなにはなる身をつくしてもあ
一がその和歌である。
の引用歌ではない。以 下の三首
︹藤裏葉︺あさ日さすふちのうらはのうらとけてきみしおもは﹄
さましてのたまふは憎からずかし。︵④二四九頁︶
の場面に、
われもたのまむ︵後撰 ・森下 ・一
0 0・ 読 人しらず︶
はんとそおもふ︵後撰 ・恋五 ・九六0 ・元良親王︶
︹若菜 下︺ゆふやみはみちたと﹀し月まちてかへ れわかせこその
とある。女三の宮と源氏の言葉の応酬は、﹃小鑑﹄のあげる和歌を
典拠としたものである。この女三の 宮の機知に富む受け答えに心動
まにもみん︷古今六帖 ・一・三七一 ・大宅娘女︶
それぞれ簡単に説明しておく。持標巻で、源氏の住吉詣での際 、
とある場面。﹃小鑑﹄では﹁今年ばかりは﹂とあるべき第四句目が
﹁今年ばかりは﹂と独りごちたまひて、︵②四四八頁︶
二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴のをりなど思し出づ 。
薄雲巻の和歌は、藤壷の死後、源氏の悲しみは薄らぐことなく、
いふへ かりけれ
︹初音︺まつのうへになくうくひすのこゑをこそはつねの日とは
そめにさけ
︹薄雲︺ふかくさの野へのさくらし心あらはことしのはるはすみ
あげられる。
改訂本系﹃小鑑﹄ではこの三首に加えて次の二首が典拠歌として
の宮への文を発見してしまうことになる。
かされた源氏はその夜女三の宮のもとに泊まり、翌朝柏木から女三
堀江のわたりを御覧じて﹁いまはた同じ難波なる﹂と、御心に
明石上も偶然住吉に詣でており、それを惟光から聞かされた源氏は、
もあらでうち諦じたまへるを︵②三O六頁︶
この源氏のつぶやきの典拠を指摘しているのが﹁わひぬれは:﹂
である。
藤裏葉巻では、内大臣︵いわゆる頭中将︶がタ霧を藤の宴に招待す
る。藤の宴とは名目で 、我が娘雲井雁と の結婚を許可することをそ
れとなくタ霧に伝えるための宴であった。一度は二人の 聞を引き裂
いた内大臣もようやく許す気になったためである。その藤の宴での
御時よくさうどきて、﹁藤の裏葉の﹂とうち荊じたまへる、御
内大臣は、次のように描かれる。
気色を賜りて、頭中将、花 の色濃くことに房長きを折りて、客
。
司
ム
唱E
﹁ことしのはるは ﹂となっているのが問題だが 、今は触れない。
初音巻の和歌は﹁年 月を:﹂︵ =一五四︶の歌の本歌としてあげら
れている。
ところで、 藤裏葉巻の和歌は、改訂本系﹃小鑑﹄では 、
はる日さす藤のうらはのうちとけて君しおもは﹄われもたのま
ん
とあって、古本系と比較すると、傍線部の初句と第三句に異文が見
のと同様の典拠歌をあげる、が、
られる。 ﹃栄鑑抄﹄では、藤裏葉巻では﹃小鑑﹄に紹介されている
春日さす藤のうら葉のうらとけて君しおもは﹄我もたのまん
霧ふかき雲井雁もわかことやはれせす物のかなしかるらん
といふ寄をきんし給ひしゅへ雲ゐのかりとかうする也
と、引かれた和歌があげられている。﹃源氏﹄原典では、﹁﹃雲居の
雁もわがことや﹄と独りごちたまふけはひ若うらうたげなり﹂︵③
四八頁︶と古歌の 一部を雲井雁が吟じる場 面 である 。
以上回 首が﹃栄鑑抄﹄における典拠歌の指摘である。 これを見て
も、﹃栄鑑抄﹄が巻名と人物名の 由来に特に関心があることがわか
る
。 ﹁
そのはらや ﹂にしても巻名 由来 歌である ﹁
は﹄き木の ﹂
・
・
古本系﹃小鑑﹄の作中引用和歌一一 O首のうち、﹃、栄鑑抄﹄に引
・
:
の本歌であるから
こそ紹介されるのであろう 。
あるせいか、﹃小鑑﹄・﹃、栄鑑抄﹄いずれもそこまで紙数を割かない 。
とある。 初旬は改訂本系、第 三句目は古本系﹃小鑑﹄と 一致する。
古本系﹃小鑑﹄のみ、巻名由来歌であるタ霧の詠んだ﹁おなじ野の
用されていないのは、﹁たづぬるに ・﹂︵四四0 ・藤袴︶、﹁結びおく・・ ﹂
首である。藤袴巻は玉髭を中心とし、短い巻で
︵五五五・御法︶の一 一
﹃栄鑑抄﹄は﹃小鑑﹄があげる典拠歌のうち、藤裏葉﹁はるひさす
:・﹂、若菜下 ﹁
ゆふやみや:・﹂だけをあげる。他の三首の場面は、
:﹂に対する玉震の返歌﹁たつぬるに:﹂を引用する 。 ﹁結びおく
深標巻では、
ほり江のかたなど御らんして今はたおなしなにはなるとなにと
・:﹂の詠者は花散里で、紫上 から贈られた﹁絶えぬベき・・ ﹂︵五五四︶
への返歌である。改訂系本には五五 四・ 五五五どちらも採られてい
る。しかし古本系﹃小鑑﹄のほとんどの和歌を﹃栄鑑抄﹄が共通し
なくきんし給ふを
と
、 ﹃源氏﹄原典とほぼ同文である。 薄雲巻にしても、
二条院のまへなる桜を御らんしてもことしはかりはといふ古こ
て取り入れていることに変わりはない。
まし ︵
空蝉 ・三九・光源氏※原典では夕顔に所載︶
②ほのかにものきはのおきとむすはすは露のかことをなに Lかけ
︵桐釜・五 ・桐査更衣母︶
①あらき風ふせきしかけのかれしよりこはきかうへそしつ心なき
に引用されないのは次の一五首である。
改訂本系﹃小鑑﹄が引用する作中和歌二 一
二首のうち﹃栄鑑抄﹄
とを口すさひたまひなかめかちなるに
とあって、源氏が古歌を口ずさんだことにだけ触れて、その古歌を
Lき Lのありとはみえてあらぬ君かな﹂
紹介することまではしていない 。
﹃栄鑑抄﹄には、他に帯木巻で ﹁
は﹄き木の ・﹂の本歌として﹁そ
のはらやふせやにおふるは
L給へは姫君のこゑにて
を指摘する 。 乙女巻では、
ものこしにき
-1
4-
③ほのめかす風につけてもしたおきの な か は は 露 に う へ も れ に
けり︵空蝉・四0 ・軒端荻※原典では夕顔巻に所載︶
り け り ︵ 須 磨 ・一九 五 ・六条御息所︶
@いせしまやしほひのかたにあさりてもいふかひなきはわか身な
⑤うらなくもおもひけるかな契りしをまつよ りなみはこえし物そ
と︵明石 ・二三 二・ 紫上︶
し も ︵ 乙 女 ・三三0 ・五節︶
⑥かけていへは けふのこと﹀そおもほゆる日かけの霜の袖にとけ
⑦むらさきにか ことはかけんふちの花まつよりすきてうれたけれ
とも︵藤前創業 ・四 四一 ・頭中将︶
︵藤一製薬 ・四四二 ・タ霧︶
@いく返り露 けきはるをすくしきて花のひもとくおりにあふらん
⑨露し けきむくらのやとにいにし への 秋にかはらぬむしのこゑか
な︵横笛 ・五 一七・一条御息所︶
⑩たへぬへきみのりなからそたのまる﹀よ与にとむすふなかのち
き り を ︵ 御 法 ・五五四 ・紫上︶
⑪すひをくちきりはたえし大かたののこりすくなきみのりなりと
も︵御法 ・五五五 ・花散里︶
⑫のほりにし雲井なからもかへり見よわれあきはてぬつねならぬ
ょに︵御法・五六三・光源氏︶
き︵幻・五六五 ・蛍
︷
呂
︶
⑬かをとめてきつるかひなく大かたの 花 のたよりといひゃなす へ
liとわかなきくらす夏の日をかことかましきむしのこゑ
⑪つれ
か な ︵ 幻 ・五七七・光源氏︶
⑬しての 山こえにし人をしたふとであとを見つ﹄も猶まとふかな
︵幻・五八五・光源氏︶
この一五首のうち一四首は古本系﹃小鑑﹄にも引用されていない。
巻名 ・人物名の由来にこだわる﹃栄鑑抄﹄が軒端荻の名の由来と
なった贈答を引用しないのには何か理由があるのだろうか 。改訂本
系﹃小鑑﹄を参考にしたのならば引用してもいいはずだが、﹃栄鑑
西の君には御心さしあさけれは一夜の後又もあひ給はす。ほと
抄﹄の空蝉巻では、
へて蔵人の少将といふ人をかよはすときこしめして、女の心を
見んとて軒はの荻によせて寄を﹄くり給ひし 。御返しに﹁ほの
めかす風につけても﹂といふうたよみしより、此女をのきはの
おきといひしとそ。
と和歌の一部をあげるに留まる。源氏と軒端荻の贈答は、原典では
夕顔巻で交わされる。空蝉巻で源氏と軒端荻の間に一夜の契りがあ
ったことと 併せ てこのタ霧巻での問答に触れるのは﹃ 小鑑﹄も﹃栄
鑑抄﹄も共通している。﹃、栄鑑抄﹄は夕顔巻の和歌を空蝉巻であげ
ることをしたくないがために、一部をあげるに留まっている 。夕顔
巻で由来について触れてもよかったはずだが、梗概の序盤である空
蝉巻あたりでは 、﹃小鑑﹄に倣う気持ちの方が強かったのであろう。
古本系﹃小鑑﹄にもこの贈答は採られていない 。改訂 本系﹃小鑑﹄
もとより御心さしあらされは、又ともあひ給はす。その後、一
には次のようにある。
よの情に 、 ﹁軒はのおきとむすはすは﹂の御歌あり。
同州州吋叫州剖同州制剖叶制引叫判州制例州叶叫川口剖叫叫叶
かけまし
御返し、
υ
ム
司E
に
ほのめかす風につけてもしたおきのながはは露にう∼も
︵古本系︶に、百 三 十 首 本 系 統 は 第 二系統︵改訂本系︶に含まれる 。
連 歌 付 合 の 間 の 説 明 と 云う 目 的 が 、 源 氏 の 梗 概 を 述 べると 云う
目的と等しい比重をも って 共 存 し て い る た め に 、 時 あ っ て 、 場
特 に そ の 傾 向 の 強 い 百 十 首本系統の 本 を 梗 概 中 心 に 改 め よ う と
面 場面の叙述が 孤 立 化 し、全体の流 れ は 無 視される傾向がある。
古本系﹃小鑑﹄では傍線箇所がなく、あとの本文は同じである。
しなおすよりも、再び源氏原典の叙述順へ復元すると云う容易
す る 場 合 、 百 三 十首本は 改 訂 者 自 身 の 解 釈 に よ っ て 全 体 を 編 成
にけり
したおき﹂とよみたりし程に 、 この 人をは 、したお
御返事に ﹁
きとも軒はのおきともつくへし 。
古本系より も 改 訂 本 系 の 方 が ﹃ 栄鑑抄﹄と 一致 しない和歌を多 く含
とを見落としてはいけないだろう。古本系﹃小鑑﹄が今は伝わらな
﹃栄鑑抄﹄の多くの 和 歌 が 背 表 紙 本 系統の 本 文 と 一致して いるこ
れている。
がある所へ他の 一首 を 加 え る な ど の 方 法 が と ら れ て い る ﹂ と 分析 さ
る足がかりを与えている部分へ贈答歌を加えたり、贈答の 一方 のみ
百十首本が既に増補を可能にす
さ れ て い る 。 特 に 増 補 については ﹁
稲賀氏は歌順の入れかえや和歌増補の方法について具体的に言及
な方法を採った。
む こ と は 事 実 で あ る。 しかし改訂本系で 噌補されている 二三首のう
ち﹃栄鑑抄﹄には 一
一 首が 増 補されていて 、改訂本系 ﹃小鑑﹄の 作
い別本系統の ﹃源氏﹄をもとにして書か れていること、また改訂本
中和歌引用傾向に影響を受けていないとも言い切れない。
系は古本系の本文を車問表紙本系統の﹃源氏﹄によって改訂している
ことが指摘され て いる。 しかし﹃ 小鑑﹄ よ り も 多 く の 和 歌 を 引 用 し
いた。そのため﹃栄鑑抄﹄と﹃小鑑﹄の聞には叙述の順序の違いが
は ﹃ 小 鑑 ﹄ が 原典 の 叙 述 の 順 序 と あ ま り 変 わ ら ず に 梗 概化 を進めて
﹃栄鑑抄﹄はどうであろうか 。 第 一章 に お い て 比 較 し た 桐 査 巻 で
の
l
願
た
経
験
色=
古
本
系
(
はっきりしなかった。そこで、次の帯木巻の叙述順を両書間で比べ
叙
述
鑑﹄にあっ た和 歌 を 改 訂 す る こ と は 可 能 で あ ろ う 。 現 段 階 で は 吉 本
了 叙述の順序||
﹃小鑑﹄との相違ーーその 一
e司
てみるこ とに する。
第三章
の
し
、
鑑
の
と
品
そ 空
の 蝉← 定
はの
め
ら 出
と
や会
は
﹃小鑑﹄の伝本にはさまざまな形態を持つ ものがあ る。 その中で
ロ
ロロ
ー『
雨
夜
源
氏
も 第 一系統︵古本系 ︶と 第 二系統︵改訂本系︶の 問 に は 、 和 歌 の増補
をはじめとしてさまざまな改訂が見られる。稲賀氏は自身の分類に
よ る 百 十 首 本 系 統 と 百 三 十 首 本 系 統 の 聞 に 見 ら れる改訂 に つ い て 次
のよ うに述 べる。 なお 、 伊 井 氏 の 分 類 では百十首 本 系 統 は 第 一系統
)
ロ
ロロ
色=
定←定
め
め
と
で
は
話
さ
れ
叙
述
l
j
慎
ー
(
の
の
談 雨
夜
雨
夜
栄
鑑
抄
系・改訂本系 のどちらを参考にしたかは明言できない。
ている﹃栄鑑抄﹄は、﹃ 小鑑 ﹄ だ け で は な く ﹃源氏 ﹄ 原 典 や そ の 他
C
O
の注 釈 書 類 を 参 照 し て 執 筆 さ れ た は ず で あ る 。 そ の際に吉本系 ﹃小
1
A
頭中将の物語
・山 かつの:︵一四︶
左馬頭の物語
E
・琴の音も・: ︵一二 ︶
︶
・こからしに: ︵一三
藤式部丞の物語
・ささかにの・:︵ 一七
︶
↑
・あふ事の・:︵一八︶
源氏と空蝉の出会い
・ははき木の:︵二一一︶
︵※改訂本系は初旬﹁数ならぬ﹂︶
↑
雨夜の品定めで話された経験
左馬頭の物語
ふ か ほ の う へ そ か し 。 物 か た り に 、 ﹁なてしこ﹂といふ事あら
は、﹁たまかつら﹂と心うへし 。
この記述は、雨夜の品定め中の語として苓合に出てくる﹁なてし
こ﹂を説明しようとしたために、ここに配置されたようだ。﹃、栄鑑
抄﹄はそれに影響を受けて雨夜の品定めの説明のあとに、頭中将の
物語を原典の叙述には従わずに語ったのであろう。このことは 、﹃栄
鑑抄﹄の梗概化方針がまだ揺れていたことを示すのかもしれない。
桐査巻では、﹃小鑑﹄と原典の聞に叙述の順を崩すような箇所が
なかったために、﹃小鑑﹄に倣う形で記述していけばよかった。し
かし容木巻に入って、﹃小鑑﹄の記述は、その巻の流れを無視して、
﹃栄鑑抄﹄は﹃小鑑﹄の叙述順を原典通りに語り直すということ
談
・琴の音も :・︵一二 ︶
頭中将の物語
・山かつの:︵一四︶
・あふ事の:・︵一八︶
巻に描かれた事柄を述べることに注力するようになる。はじめは﹃小
藤式部丞の物語
・ささかにの:・︵ 一七
︶
鑑﹄に倣って記述したものの、梗概の述べ難さを悟ったのか、以後
﹃小鑑﹄が先に﹁数ならぬ: ・
﹂の和歌とそれに関わるエピソード
を行っている。このような﹃栄鑑抄﹄の叙述の特徴を顕著に現す例
︵※改訂本系では歌順逆︶
を語るのは、巻名の由来を語ることを最優先に考えた結果であろう。
をもう一つあげておきたい。
.数ならぬ・
﹃源氏﹄原典では 三 人の経験談は、左馬頭の指食いの女の話←左馬
条院がそれぞれの女君の趣味に合わせて完成した後のことである。
は原典の叙述順に従う方針に変えたのであろう。
頭の浮気な女の話i 頭中将の夕顔との話←式部丞の 博 士の娘との話
と い う 順 に 語 ら れ る 。 この中で両書が採用するのは、指食いの女を
秋好中宮の住む町は美しい紅葉を中心に﹁秋の野のさま﹂に造られ
これに対し、 紫上は返歌に、
二頁︶
心から春まつ苑はわがやどの紅葉を風のってにだに見よ︵③八
れてあった。紅葉の盛り、秩好中宮から色づいた紅葉とともに歌が
﹃源氏﹄乙女巻には有名な秋好中宮と紫上のやりとりがある。六
除いた三つの体験談である。語られる順は両書で異なるが、﹃小鑑﹄
ている 。紫上の住む町は春の花の木を中心に、所々秋の草を取り入
しせうの事を、﹁なてしこ﹂とかたりいたしたり。は﹄は、ゆ
このまきに、とうの中しゃうの物かたりに、たまかつらのなひ
次のように続く 。
はこの経験談に関しては原典の叙述順に従っている。﹃栄鑑抄﹄が
ー
贈られてくる。
)
頭中将の話を先に置いたことにはいかなる理由があるのだろうか 。
﹃小鑑﹄は雨夜の品定めの説明を加えた後に寄合を掲げる。以下、
(
.
1i
,
円
風に散る紅葉はかろし春のいろを岩ねの松にかけてこそ見め
︵
同
︶
かひあり。
と、 のたまひをくりたりしは、いと Lおもしろき御心ともなら
んかし。かゃうの事は、おとめのまきに 、みえたることなれは、
るらん
はなその Lこてうをさへやした草の秋まつむしはうとくみ
おなしまきに、かき候。
の歌を贈るのである。この春秋の争いは 胡蝶巻に持ち越される。春
になって今度は紫上の春の庭が花盛りである。紫上から中宮のもと
への和歌は次の通りである。
を語っている。
それでは、﹃栄鑑抄﹄の乙女巻を見てみたい。﹁心から:・﹂ ﹁
風に
あと、藤査と源氏の聞に子が生まれ、それが冷泉院となることまで
まま見られる方法である。﹃栄鑑抄﹄では 桐 壷巻で藤壷宮の紹介の
語るという方法が採られることがよくある。それは﹃栄鑑抄﹄にも
書では後に起こる出来事も、前に関連する出来事があればまとめて
﹁はなその﹄・:﹂は胡蝶巻で贈られる歌である。このように梗概
に美しく着飾った童たちを使 いに桜と山吹が贈られる。紫上 の中宮
花ぞ ののこ てふをさへや 下草に 秋 ま つ む し は う と く 見 る ら む
︵③一七二頁︶
これに対して中宮は、
こてふにもさそはれなまし心ありて八重山吹をへだてざりせば
︷③一七三頁︶
と返歌する。このような巻を超えた一連のやりとりを﹃小鑑﹄は乙
女巻にまとめて記す。
散る・ ;﹂の 歌と和歌注の後に 、
時えかほにねたけなるをはるになりて、花のさかりにこの御返
さるほとに、かたかた殿つくり、めでたくして、秋このむ女
このおんかた、そのころ、おりにあひたれは、ことにおもしろ
んはたった姫のおもはん所もあれは、まっしそきてこそ っよか
るが、胡蝶巻の歌が乙女巻であげられることはない 。﹃栄鑑抄﹄の
胡蝶巻を見てみると、﹁花園の:・﹂と﹁胡蝶にも:﹂があげられる。
﹃栄鑑抄﹄でも、次の春にこの返歌があることは語られるので あ
しはなおしたまへと聞えたまふ 。 た﹄いまもみちをいひくたさ
きに、かの女この 御 かたより 、もみちを、はこのふたにいれて 、
うへわらはの、いともてつけて、きようなるを 、御っかいにて 、
らめとおと﹄きこゑ給。又の年の春 こ の御返報ありし也。
のたまひをくられたり。﹁かせのたよりのもみち﹂なとい
見よ
心から春まつそのはわかやとのもみちをかせのってにたに
むらさきのうへの御かたの春の御かたへ、おんうたあり。
レι
﹁
花 園の:・﹂の和歌注には﹁こその秩、紅葉を風のってにたにみよ
とありし御返報也﹂とある。﹃栄鑑抄﹄ではどの巻でどの歌が詠ま
ふことも、あるへし。
そのつきの春、又むらさきのうへのおんかたより、かの女こ
蝶巻の・由来ともなるこの和歌が胡蝶巻できちんとあげ られること
れているかという ことが特に重視されていることがよくわかる。胡
の秋の御かたへ、こそのもみちの返 しに、これも、はなを、い
はねの松なとに、とりくして 、 こそのことく、わらはして御つ
-1
8-
述﹂。二 四四頁。
山がつの
2︶﹃栄鑑抄﹄の祭木巻は原典の順序に反して、 ﹁
︵
は、巻名の由来を説明するという目的を重視した結果でもあるのだ
ろう 。 ﹃小鑑﹄胡蝶巻では﹁おとめのまきに、﹃はるまつその﹄ L
・
:異なるのはこ
和歌が最初に引用される。﹃栄鑑抄﹄で原典と歌の掲載順が
﹂︵一四︶の
御返事、﹃花その﹄こてうをさへや﹄と、申をくりしも、 このまき
︵
3︶例えば古本系に、
の部分だけである。
さらにもう一つ胡蝶巻で触れておきたいことがある。﹃源氏﹄原
なれは、こてうといふ﹂とあって、初句のみしかあげられない。
此女のうた、
あふ事の夜をしへたてぬ中ならはひるまもなにかまはゆから
典の胡蝶巻では、柏木の異称﹁岩もる中将﹂の由来となった和歌﹁思
ふとも・:﹂︵三六六︶が詠まれる。﹃栄鑑抄﹄でも同歌は胡蝶巻に引
まし
とよめり。とうしきふ、
用される 。 と こ ろ が ﹃ 小 鑑 ﹄ で は 真 木 柱 巻 で 紹 介 さ れ て い る 。 真 木
さ・﹀かにのふるまひしけきタくれにひるますくせといふかあ
柱巻では玉髭が髭黒と結婚し、髭黒のもとの北の方とその娘の真木
柱が髭黒邸から出て行くという事件が起こる。﹃小鑑﹄がここで柏
ゃなき
さ﹀かにのふるまひしるきタくれにひるますくせといふかあや
とある箇所が、改訂本系では次のように改められている。
リ剖判州制叫、
とよみてそのま﹄ゆかす。
木の異称に触れるのも、﹁思ふとも・:﹂の歌が玉髭への贈歌である
からだろうか。柏木は玉髭を自分の妹と知らず心を寄せていたこと
梗概書の中でも、﹃栄鑑抄﹄が和歌の配置に心を配っていること
が語られる。
は、ほとんどの和歌が﹃源氏﹄原典で登場する順にあげられている
ことからもわかる。﹃小鑑﹄は別の巻の和歌をあげることも、同一
巻内で和歌の順序を変えることも厭わない。古本系﹃ 小鑑﹄では原
さ
あふことのよをしへ立てぬ中ならはひるまもなにかまはゆから
な
﹃小鑑﹄との相違ーーその三・叙述の正確さ||
詩木巻を取り上げたのを機会に、両書の冒頭部分を比較し ておく。
第四章
改訂本系では歌順が入れ替わっており、こちらの方が原典に則している。
とよめり。そのま﹀ゆかす。
ま
し
典と贈答の順序が逆で、改訂本系﹃小置﹄で訂正されている箇所も
存する。 ﹃栄鑑抄﹄のよ うに歌序が重要視されることにはどのよう
な意味があるのだろうか。それは梗概舎に原典の面影を少しでも強
く持たせようという意図があっての叙述法と解釈できるであろう。
刀白
和五八年、初版は昭和四二年︶﹁第三章第二節14 百三十首本系統の叙
︵1︶稲賀敬二氏﹃源氏物語の研究|成立と伝流|︷補訂版︺﹄︵笠間書院
注
BA
句白
,
nHu
﹃源氏栄鑑抄﹄︵伊達文庫一 冊本︶
この巻に、あま夜の物かたりといへる事は、五月のころ、源氏
ftとこもりおはしま
﹃源氏小鑑﹄︵古本系 ・京都大学本
此まきに、あま夜のものかたりといふことは源氏のきみ御か
に、頭中将まいり給ひて、よろっ物かたりのついでに、女のよし
み、とうしきふといひし、てんしゃう人まいりて、くまなきすき
な く さ め ん と や 、 そ の こ ろ 、 と う の 中 将 と き こ え し は 、源氏の御
こ し う と 、 あ ふ ひ の う へ の お ん あ に な り 。 かのきみとうむまのか
た 叶 刈 ぺ 叶 、 大 り の 御 と の ゐ と こ ろ に お は し ま す 。 おんつれ/\
あしきのさためをしたまふところに、左のむまのかみ、篠式部と
ものともなれは、物かたり申すつゐてに、人のしなをわかち、よ
の君うちのとのい所にものいみして、つれ
いふもの 二人 ま い り あ ひ て 、 源 氏 も 頭 中 将 も と し の わ か き 君 た ち
しあしのことをさためき 。 これを、あま夜のしなさためといふ。
すをなくさめ申さんとにや、左大臣殿の御子あふひのうへの御あ
なれは、御心もちゐのためにもとや、女の善悪のしな/\をさた
これら物かたりと 心うへし 。 てをおりて。きくのやと。
げにん
し。御家人のいよのすけと、 いひ しかもとへおはして
たたかへ﹂で内裏にいたという発想は、容木巻で紀伊守邸への方違
物忌であり、源氏も廷臣としてそれに従う﹂とある。﹃小鑑﹄の﹁か
編 日本古典文学全集﹂﹃源氏物語①﹄の頭注には、﹁こ こは 帝 の 御
盛り込む場合に、古本系でされた簡単な説明文もそのまま継承した
されている。改訂本系の本文は、古本系の本文により詳しい説明を
のとのゐところにおはします﹂と、傍線部﹁御物いみにて﹂が増補
たりといふ事は、けんしの君、側側川刈叫寸御かたたかへに、大内
﹁このかた﹄かへ﹂というのは 、 源 氏 が 長 雨 の こ ろ内 裏に能って
いたことをさすのであろう。改訂本系﹃小鑑﹄では ﹁
あま夜の物か
かへあり。
えが度々あったことと混同しているのだろうか 。しかも、この後に、
上で増補している場合があることを伊井氏が指摘しておられる。そ
かた﹄
こ の ま ち 。 文 は か せのむすめ 。 ひ る ま す く せ 。 な て し こ 。
その程のことは。
つにたとへて女の心﹀をいひてきかせ奉る。是を雨夜の物かたり
めて後は、大工のさいくをする事、ゑをかく率、手跡の事、此三
又雨夜のしなさためともいふ也。
かたたかへ﹂とす
源氏が内一泉に能っていたのは、﹃小鑑﹄では ﹁
さて、このかた﹄かへは、う月なり。せちふんならでは、か
れ故説明が重複する箇所もままみられる。この部分も、改訂本系﹃小
るが、﹃源氏﹄原典では﹁長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌さし
Lかへはせぬ事とは、おもふまし。むかしの 上らうは、四季
鑑﹄は﹁かたたがへ﹂ではなく物忌みで内裏に能っているとする方
つづきて、いとど長居さぶらひたまふを﹂︵①五四頁︶とある。 ﹁
新
Lかへといふ事ありしなり。さて御物いみ、あきしかは、
にかた
た
さとへいてさせおはしまさんとするに、ふたかるかたにてわる
-2
0-
している。﹃小鑑﹄のいう ﹁う月 ﹂が陰暦五月の異称としての﹁雨
面は五月雨の降る陰暦五月である。﹃栄鑑抄﹄では﹁五月ごろ﹂と
氏小鑑﹄諸本集成﹄ではここに﹁卯月﹂の漢字が当てられるが、場
が正しいというので﹁御物いみにて﹂を加えたのだろう。
﹃小鑑﹄は、源氏が内裏に能っていたのは﹁う月﹂だとする。﹃﹃源
交わす。後日源氏は 、 空蝉と逢うために再び紀伊守邸に方違えとい
違えに行く。源氏はその夜、女たちの寝所に近づき、空蝉と契りを
ておく。雨夜の品定めの翌日、源氏は遣水が評判の紀伊守の邸に方
源氏と空蝉の聞の出来事のあらすじを﹃源氏﹄原典に沿って述べ
ーーたちより給ひしかとも、つゐに文もあひたてまつらす。
さて、とかくいひて、ほのかにあふ。そのま与にて、しは
月 ﹂ で あ れ ば 問 題 は な い が 、多 く の 伝 本 で ﹁
卯 月﹂﹁四月﹂と書か
空蝉の弟小君に 空蝉の寝所を探させるが 、結局逢うことは できなか
う名目で出かける。紀伊守は﹁遣水の名目﹂と大喜びである。夜、
この後﹃小鑑﹄では、雨夜の品定めで語られる男たちの経験談を
れている。
後に回して、先に源氏の紀伊守邸への方違えと巻名の由来ともなる
﹂︵﹃源氏﹄原典では初句﹁数ならぬ﹂。改訂本系﹃小鑑﹄も
った。そ こで源氏は ﹁帯木の・ :﹂︵二二︶ の歌を送り、それに空蝉が
︶の
答えたのが ﹁
数ならぬ・・﹂ ︵
古本系﹃小鑑﹄では初句 ﹁
そのはらや ﹂
﹁そのはらや
ゅへに、こ﹄へおはして、かた﹀かへありき。ぬしの伊与のす
いよのすけか家居のやりみつ、せんすいなと、おもしろかりし
者に誤解を与える書き様である。﹃小鑑﹄から該当箇所を引用する。
伊守邸を訪れる ことが記される。一夜の契 りの後、﹁さてその﹄ち
抄﹄の叙述では原典に従 って雨夜の品定めが先に語られ、後日に紀
のように紹介し、歌を交わした後、一夜を過ごしたとする。﹃栄鑑
﹃小鑑﹄の叙述では、初めて紀伊守邸を訪れた時に詠まれた歌か
歌である。
けは、君のおはしますかたに御とのゐしたるに、源氏しのひて、
忘かたくおほして、又かた﹄かへにおはして﹂と二度の紀伊守邸訪
・
﹁かすならぬ・
﹂︶の歌を引用する。しかしここの﹃小鑑﹄の叙述は読
女とものねたるところへしのひおはして、たちき与し給へは、
ねたるところ、いとちかく、 のたまふに、女おもひかけすおも
﹃小鑑﹄と﹃栄鑑抄﹄の叙述を細かく比べてみると、﹃栄鑑抄﹄の
そのはらやふせやにおふるなのうさにあるにもあらすきゆ
浮舟巻の梗概にも表れる。
方が原典に則していると言えるだろう。同じようなことが紅葉賀巻、
問があ った ことを書く。源氏と空蝉の贈答もそこに引 かれている。
ひて、
るは﹄き﹀
の人は、わかしな与とも、おもひあか りたる人にて、いよのす
が﹁花の傍らの深山木﹂と表現されるのはこの 一度目の舞の時であ
中での試楽の時、二度目は桐査帝の朱雀院行幸の際に舞う。頭中将
紅葉賀巻には源氏が青海波を舞う様が二度描かれる。一度目は禁
けなとかつまと、なるへき人にはあらねとも、ぉゃなともなく
る。禁中で青海波を見た藤査に源氏から和歌が贈られ、藤査も返歌
Lとはいひけれ。こ
て、見あつかふ人もな けれは、おもひのほかに、かくていたる
する。朱雀院の行幸の際に再び源氏が舞うのだが 、頭に飾り として
とよみしゅへにこそ、此まきをは、は﹄き
心ねを、ひけしてよみしなり。
EA
唱
qL
換えてやるという出来事がある。﹃小鑑﹄では、
付けて いた紅葉が散ってしまっているのを見て、 左大将が菊を差し
やしきす﹄り、めしいて﹄ 、御ゑなとすさひて、めおとこ、も
引叶叫叫升叫引川吋引剖州剖寸1寸寸刈叫1刈 寸 寸 刻 叫 刷 引 叶
物いみ 三 か、たはかり給ひたりしかは、心 し っかにおは し、あ
と、御なみたをうけて 、の 給ひしおもかけ、さこそ、 わすれか
たくありけめ。
このまき、もみちの賀といふ事 、きりつほのみかと、そのこ
と、その家で共寝する男女の絵を描いたとあるが、これは匂宮の 一
ろ、ゐんの御かをつとめたまふに こそ、十月なれは、もみちを
にて、れいしん、てんしゃう人、宮たちも、そのきりょうたる
もてなして御賀あり。さて、もみちの賀といふ。もみちのした
度目の宇治来訪の際の出来事である。﹃源氏﹄原典では、
1d
は、まい給ふ。そのすかた 、源氏、せいかいはまい給ふに、す
引
くはなし。 うつく しさ、たとへんかたなし 。州対寸叫削
硯ひき寄せて、手習などしたまふ。いとをかしげに書きすさ
び、絵などを見ど ころ多く描 きたまへれば、若き心地には、思
ひも移りぬベし 。 ﹁
心よりほかに、え見ざらむほどは、これを
をとこをむな
の中しゃう、まひ給ふ。
されて、花のかたはら
源
氏
に
は
、
け
お
︻原 山 カ ︾
:刊がけや.白引ポパ訟で .
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、
U。れ川芯じη
例刻引叫利叶引則刻
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U.
見たまへよ﹂とて、いとをかしげなる男女も ろともに添ひ臥し
たる絵を 描 きたまひて 、 ﹁常にかくてあらばや﹂などのたまふ
u
、
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制問d.日間び..
e
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ゆ
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配初出,
引川,ガ引で,側
.
・が出.ぺ仰ufが.
h
レ.
E
例日乞じ, bL品
h 引で1Eじ,か.べお桜島町 仰
た、,が,
わ
とあり、匂宮が誌のふりをして浮舟の寝所に忍び込んだ翌朝、匂宮
も、一候落ちぬ。︵⑥一 三二 頁
︶
その夜、ふちつほの宮や、源氏のわかまいのすかたをも御 覧
て、そ﹀ろさむきほとなり。︵中略︶
あらん、何ごとも生ける限りのためこそあれ、た だ今出でおはしま
は﹁出でたまはん心地もなく、飽かずあはれなるに、またおはしま
物おもひにたちまふへくもあらぬ身の袖うちふりし心しり
きや
留を決意する。その 日浮舟と匂宮は二人の 世 界に浸り、甘い言葉を
さむはまことに死ぬベく思さるれば ﹂ ︵
⑥ 一二六頁︶と、そのまま逗
しつらんとおほして 、しのひて御文あり。
傍線部が試楽の際の 出来事で、点線部が朱雀院の行幸の日の出来
原典では試楽の翌朝源氏から藤査のもとに届けられている。行幸の
のである。﹃小鑑 ﹄ は 一度目の来訪と 二度目の来訪を混同して書い
交わし合ったのであろう。この共寝の絵も、 その日匂宮が描いたも
さむことも難ければ、京には求め騒がるとも、今日ばかりはかくて
事である。藤査に贈られた和歌も、﹁その夜﹂とあるが、﹃源氏﹄
あった夜に源氏は正三位に昇進したとある。試楽のことが全く語ら
ているようである。
鑑﹄作者の意図的な改変であるとし、改変の意図としては、﹁より
とは 、堤康夫氏によってすでに指摘されている。氏は、それらは﹃小
﹃小鑑 ﹄の叙述の中に ﹃源氏﹄原典と相違する内容が見られるこ
れず、藤査も紅葉賀で源氏の舞を見たことになっている。
﹃小鑑﹄浮舟巻では、匂宮が浮舟のいる宇治に二度目の来訪をす
る場面を次のように描く。匂宮は浮舟を対岸の家に連れて行き、
さて、ふねより、 いた きおろさせ給ひて、御やとりにて 、御
円ノ“
内
ノ
“
だと言えよう。浮舟巻の記述で言えば、一度目の来訪についても触
れる。紅葉賀巻の場合もまとめて記述してしまうことは省筆の方法
二度の来訪を 描 かずにすむという点で 梗概化の 一つの方 法と も思わ
相違は ﹃小鑑﹄の意図的な 改変だ ろう か。 確かに帯木巻の場合は、
は﹃栄鑑抄﹄では次のようにある。
と こ ろ を 一 を れ 気 色 ば か り 舞 ひ た ま へ る ﹂ ︵同︶とある。この場面
典には ﹁春の鷺鴫るといふ 舞いとおも しろく見ゆるに ﹂
︵①士王四頁︶
とあって、源氏は東宮に促されて、﹁立ちて 、 のどかに 、袖か へす
うくひす、さえつる﹂というのはその宴で披露された舞である 。 原
となり﹂︵①三五三頁︶と、宰相中将 H源氏のことにのみ触れて、頭
中将が何の字を受け取ったかということは書かれていない。 ﹁
春の
殿の桜のも とで 花見の宴が催され 、題が与え られて各々詩を作ると
いう遊びに興 じる 場面がある。 ﹃小鑑 ﹄は頭中将が﹁春のうくひす、
れている ので 、絵 のこと はそこで書けばよかったように思うが、対
親王、公卿 達なと題たまはりて詩を 作 りたまふに、ひかる君は
重要度の高い人物への集約が企図されている﹂ためであるとされる。
﹃小鑑﹄全体から見れば ﹁
光源氏に焦点を絞って梗概化﹂を進めて
岸の家で二人だけの世界に耽溺する場面をより盛り上げるため の創
作だろうか 。意図的であ ったかどうか は別として、このような﹃小
探題とてさくり題也。 何 の字をとりたるとをの,︵ーなのるとみ
さえつる﹂という題を与えられたというが 、﹃源氏﹄原典には、﹁宰
鑑﹄ と﹃源氏﹄原典の 相違は、 ﹃小鑑﹄が ストーリーの流れを重視
するの では なく、読者にその巻の重要な出来事を押さえさせること
えた り。詩つくりはて ﹄後、御遊あり て春鷺備といふ舞おもし
相中将、﹁春といふ文字賜れり﹂と のたま ふ声さへ、例の、人にこ
を重視していたからだろう。帯木巻であれば、漉氏と空蝉の 問 で巻
ろきに、紅葉の賀の時背海波まひ給ひし事をおほし出 て、東宮
いるとされ、﹃小鑑 ﹄に見られ る叙述の順序の改変もそのための意
名由来歌である﹁そのはらや:・﹂の歌が交わされ、 二人が 一度だけ
しと也。まひの名はしるさす。 この時の春宮は源氏の御兄也 。
図的なものであると考えられている。
関係を 持ったということが重要で、浮舟巻にし ても旬宮が浮舟に絵
を描いて見せたと いう 出来事を読者に伝えればそれで 十分なのであ
頭中将は柳花苑といふ舞をまはれしに御感のあまり、御そ を給
﹃栄鑑抄﹄の場合、純粋に原典の梗概を述べるということに注力
より源氏の君へもよほさせ給ひしかは、のかれかたくて舞給ひ
ということはあまり行わなかっただろうから、多少内容に違いがあ
したからこそ、原典に則し た記 述を心掛け たのだろう。それは本書
今回例にあげた帯木 ・紅葉賀・ 浮舟巻における﹃源氏﹄原典と の
る。原典との相違があるにも関わらず、﹃小鑑﹄は多くの人々に受
はりし也。
春といふ文字をとりたまふ。お りにあ ひでおもしろかりしと也。
け入れられた 。﹃小鑑﹄を利用する読者は原典と付き合わせて読む
ろうと問題ではな かったの だろう。連 歌創作に利するための書とい
を和歌や連歌の指南番として享受するだけではなく、﹃源氏物語﹄
そのものに目を 向け る読者を意識しているからであろう。
う前提があったからこそ、細かい内容までは問題にされなかったの
かもしれな い。﹃栄鑑抄﹄は﹃小鑑﹄と同じエピソードを取り 上げ
ながらも、原典に忠実な記述を貫いている。例えば、花宴巻では南
4
丹、u
円
改訂本系の方が﹃栄鑑抄﹄と一致しない歌を多く含んでいる 。﹃栄
どの和歌を﹃栄鑑抄﹄も共通して持っているのだが、古本系よりも
昭和五五年︶﹁第 一
鑑抄﹄がどちらの系統を参照したかは定かでないが、傾向として﹃栄
原典の叙述順を重視する傾向にあ るが、帯木巻ではその傾向と一致
しな い。この段階では﹃栄鑑抄﹄の梗概化 の方針がまだ揺れていた
さらに、叙述順序の違いに注目すると、﹃栄鑑抄﹄は全体的には
鑑抄﹄は贈答歌をセットで採るよう心掛けているように見える 。
古本系から改訂
平成二三年︶﹁第
のかもしれない。しかし、基本的に、﹃栄鑑抄﹄は﹃小鑑﹄の叙述
順を﹃源氏﹄原典の通りに書き直す傾向にあると言える 。
梗概警の中でも﹃栄鑑抄﹄は和歌の配置に心を配っており、ほと
んどの和歌が﹃源氏﹄原典の順にあげられている。﹃小鑑﹄は別の
巻の和歌をあげたり同 一巻内で歌順を変えることも厭わないが、﹃栄
鑑抄﹄は原典の面影を少しでも鮮明にしたいという意図で和歌配列
益は﹃小鑑﹄を重要な参考書として参照しつつ﹃栄鑑抄﹄を書いた
釈が多くなっている 。 両書とも同じような注釈書や梗概書を参考に
し て書かれたため類似 した可能性もな くはないが、おそらく作者正
取 り上げるエピソ ー ドはほぼ 同 じだが、﹃栄鑑抄﹄の方が説明や注
とに注力したということなのだろう。それは﹃源氏物語﹄を和歌や
した記述を貫いている﹃栄鑑抄﹄は、純粋に原典の梗概を述べるこ
事を読者に押さえさせることを重視したのだろうが、終始原典に即
総じて、﹃小鑑﹄に比して﹃栄鑑抄﹄は原典に忠実であることも
や叙述順を守ったものと解釈できよう。
のであろう。どうやら﹃栄鑑抄﹄は、﹃小鑑﹄の持つ連歌の手 引 き
連歌作りの参考のためにのみ享受するのではなく、物語自体に興味
︷
付記︺本格は、平成 二四年度に提出した修士論文の一部である。
考察したい。
なお、﹃栄鑑抄﹄の便概化の方法については、稿を改めて詳し く
わかった。﹃小鑑﹄はストーリーの流れよりもその巻の重要な出来
書的要素は排除しながらも、その梗概化 の方法や叙述内容を受け継
関心 を持つ読者を意識して舎かれたからであろうと考えられる。
鑑抄﹄独自の叙述方法へと変化していっているように思う。
典をも参照しながら叙述したことは明らかで、巻を追うごとに﹃栄
まま無批判に受け入れたわけではなく、本文を吟味して﹃源氏﹄原
いでいるようである。ただし、﹃栄鑑抄﹄は﹃小鑑﹄の記述をその
では﹃小鑑﹄の記述のほとんどが網羅されていることがわかった。
はじめに、桐査巻における両舎の記述の 比較を行い、﹃栄鑑抄﹄
両書の影響関係を考察した。内容をごく簡単にまとめておく。
以上、本稿では、﹃源氏栄鑑抄﹄と﹃源氏小鑑﹄の比較を通して
おわりに
﹃源氏 小銃﹄の表現とその方法﹂。
3︶縫康夫氏﹃源氏物語注釈史の資料と研究﹄︵新典社
︵
なく、﹁卯月﹂﹁四 月﹂ ﹁うっ き﹂﹁う月﹂という表記が見られた。
2︶﹃﹃源氏小銃﹄誇本集成﹄所収の一三本を見たが、﹁雨月﹂とする本は
︵
本系へ合乙﹂。
章第二節l 三 古本系から改訂本系へ︵一︶﹂、同﹁四
︵1︶伊井春樹氏﹃源 氏物路注釈史の研究﹄︵桜楓社
j
主
次に、両容の所収和歌を比較した 。古本系﹃小鑑﹄にあるほとん
2
4-
章