実行委員会 会長・伊達家当主あいさつ 宇和島 伊達家 歴代藩主 陸奥国伊達郡の豪族伊達氏より現れた東北の雄、仙台藩祖伊達政宗の長男秀宗よ り始まる宇和島伊達家。初代秀宗の入部以来明治維新まで9代の藩主が、「西国 の伊達」として伊予宇和島十万石を治めた。 平成 27 年(2015年)は、伊達秀宗公入部 400 年という節目を迎えます。こ の入部 400 年を記念して、伊達十万石の城下町として栄えてきた宇和島市 初代 の歴史や文化、伝統の魅力を発掘・再発見するとともに、市民の一体感の 醸成、観光の振興、賑わいの創出など 元気な宇和島市づくり に資する ため3月から 11 月にかけ各種記念事業を開催します。 伊達 秀宗 ( 天正19 年∼万治元年) −独眼竜政宗の長子− 6代 伊達 村寿 ( 宝暦 13 年∼天保 7 年) −萩森騒動− 仙台藩主伊達政宗の長男。3 歳で豊臣秀吉の猶子 5代村候の四男。当代は享和、文化、文政期に属し、 となる。慶長元年秀吉の猶子として元服、秀の字 藩の財政も他藩同様に窮乏し、萩森騒動を生じた を受けて秀宗となる。徳川の世に移ると、慶長7 状態であった。一方、藩校の敷教館(後の明倫館)の教授を充実させ、又藩 年徳川氏の人質となり、同 14 年家康の命により 医を蘭学者 大槻玄沢、蘭方医 伊藤玄朴のもとに入門させ最先端の医学を習 彦根藩主井伊直政の娘亀を夫人とする。父政宗が秀宗の去就を気に掛ける中、 得させるなど、文教方面に功績をのこす。 慶長 19 年 (1614) 大坂冬の陣の戦功により、宇和郡 1 0 万石を拝領、翌年宇 実行委員会 会長 和島に入部。治政の中で、総奉行山家清兵衛との確執により、和霊騒動が起 宇和島 伊達家13代当主 宇 和島伊達 400 年祭 開催にあたって こる。明暦 3 年 (1657) の隠居の際、五男宗純に吉田 3 万石を分封した。 宇 和島伊達 400 年祭 開催にあたって 石橋 寛久 伊達 宗信 2代 伊達 宗利 ( 寛永11年∼宝永 5 年) −寛文の大改修− 初代秀宗の三男。兄宗時の死後、宗時の後を継ぎ 諸制度の制定に努めるとともに、寛文4年 (1664 ) 四国の西南部に位置する宇和島市は、伊達10万石の城 宇和島伊達 400 年祭は、宇和島地域をはじめ、たくさ 下町として栄えてきました。背後には自然豊かな鬼ヶ城 んの人たちの特別な想いと協力によって開催されます。 連山がそびえ、前面には美しい宇和海が開けています。 関係者の皆様に心より感謝を申し上げます。4 00 年とい 宇和海の豊潤な海の恵みは、じゃこ天や鯛めしなどの特 う節目に出会えるのは 、 今を生きる私たちだけであり、 色ある郷土料理を生み、鯛やハマチ・真珠といった養殖 13代当主として関われることを私自身も宿命と感じてい 産業は、全国有数の生産地となっています。恵まれた自 ます。私たちがやらなければならないことに気づき、地 然資源をはじめ、伊達家ゆかりの歴史文化、特色ある祭り 域の素晴らしさを見つめ直し、地元愛を深めていく大事 や郷土料理など、観光資源を数多く有するここ宇和島は、 な機会にしていかなければなりません。宇和島伊達 400 今年は伊達政宗公の長男である宇和島藩祖伊達秀宗公が 年祭を機に、全国に向けて、先人たちが守ってきた宇和 宇和島に入部して、4 00年という節目の年を迎えます。こ 島の魅力を発信し、宇和島にお越しいただく皆様に、宇 の節目の年を記念し、 「宇和島伊達 400 年祭」 を盛大に開 和島の良さを知っていただき、地元の私たちも心をこめ 催し、3 月のオープニングから 11 月のクロージングまで、 ておもてなししたいと思っています。そして、宇和島の 様々な催しを開催いたしますので、この400年に 1 度の機 素晴らしい歴史、伝統、生活文化、産業などを後世にしっ 会にぜひ、西国の伊達・宇和島の歴史や文化・伝統の魅 かりと伝え、今後の街づくりに活かし、未来へと繋がる 力を、皆様に存分に体感していただきたいと思います。 流れが生まれていくよう願っております。 より数年を費やして城郭の大改修を行い、天守を 新造、御殿を移転させた。また領内検地やそれに 続く「くじ持制度」を断行、土地制度を変革させた。 3代 伊達 宗贇 ( 寛文5年∼正徳元年) −元禄の高直し− 仙台藩主伊達綱宗の三男。貞享元年 (1684) 3月、宗 利の二女三保姫の婿養子となる。元禄 8 年 (1695)、 吉田分知で 7 万石に減っていた石高を 10 万石に戻 す高直しを幕府に願い出て、翌年許される。 11 09 07 05 03 02 01 伊宇宇 達和和 な島島 う伊M わ達A じ歴P ・ ま史 散 安策 心き ナっ ビぷ キ ラ リ 輝 く 宇 和 島 ス ポ ッ ト マ宇 ッ和 プ島 観伊 光達 スな ポま ッち ト歩 紹き 介 伊宇 達和 な島 ま ち 歩 き マ ッ プ 開 催 イ ベ ン ト 一 覧 オプ ーレ プイ ニベ ンン グト イ・ ベ ン ト 宇 和 島 伊 達 家 歴 代 藩 主 伊実 達行 家委 当員 主会 あ会 い長 さ・ つ ・ 1 6 代村寿の長男。文政から天保期にかけて倹約を 徹底し、財政・農政・軍事などの藩政改革を行い、 弘化元年 (1844) に家督を譲り、「春山」と号す。 慶応2年(1866) 天赦園が完成、隠居所とする。ま た能書家としても知られ、多くの作品を残す。 8代 伊達 宗城 ( 文政元年∼明治 25 年) −幕末の四賢侯− 幕臣山口直勝の二男。文政 12 年 (1829)、7 代宗紀 の養子となるが、これは5代村候の子直清が山口 氏の養子となり、その子が直勝であるという血縁 によるもの。宗紀の改革を受けて高野長英、村田 蔵六を来藩させ、積極的に富国強兵、殖産興業を 推進した。英国外交官アーネスト・サトウの回顧 録中に「大名階級の中でも一番の知恵者」と賞揚 される。安政 5 年 (1858) 大老井伊直弼の圧力によ り 41 歳で隠居するも、 その後も幕末の政局に活躍、 4代 伊達 村年 ( 宝永2年∼享保 20 年) −早世の藩主− 3 代宗贇の三男。享保 20 年5月、参勤交代の 福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、薩摩藩の 島津久光と並び「幕末の四賢侯」と称される。明治政府では外交関連の高官 を歴任、同4年 (1871) 清国に欽差全権大臣として赴き、日清修好条規の大任 を果たす。 帰途、急病のため、播州加古川にて卒する。 製紙を奨励し、その専売制度を実施し、植林 を促し林政を整えるなど、産業振興に着手。 5代 目 次 伊達 宗紀 ( 寛政4年∼明治 22 年) −長寿大名− 祖父、父に似て和歌に長じ「自詠愚草集」一巻がある。 なお享保の大飢饉も村年の治世。 13 7代 伊達 村候 ( 享保 10 年∼寛政 6 年) −中興の祖− 4 代村年の長男。 「三百諸侯中屈指の良主」 9代 伊達 宗徳 ( 天保元年∼明治 38 年) −最後の藩主− 7 代宗紀の三男。天保8年 (1837) 宗城の養子とな る。宗城隠居後、9 代藩主となり、宗城が後顧の 憂いなく中央の政局で活動できるよう、宗城を補 佐し内を守った。明治 24 年 (1891)、宗城の活躍 の功績によって侯爵を授与される。 と評されるほどの賢君。農政強化・風俗矯正・ 身分制度の再建などを行い、藩財政の復興 に尽力した。寛延元年 (1748) 藩校内徳館 ( の ち敷教館→明倫館 ) を設立し、宇和島の教育推進機関とした。 「拾遺 詠草」 「拾遺外集」を刊行。また仙台伊達家との本末の争いを起こし、 閣老の調停にて対等の別家たることを認めさせた。 伝秀宗所用の甲冑 ( 宇和島市立伊達博物館蔵 ) 宗利所用の甲冑 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 宗贇所用の甲冑 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 村寿直筆の書 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 写真 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 村年所用の甲冑 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 写真 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 肖像画 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 写真 (( 公財 ) 宇和島伊達文化保存会蔵 ) 2
© Copyright 2024 ExpyDoc