広報かつうら最新号掲載 中村俊子さんの記事

かつうらしい
ひと
地域おこし協力隊・ぬまっち特派員が勝浦の様々なモノ・コトとつなが
り地域で活躍する勝浦らしい人=「かつうらしいひと」にフォーカス!
中に入れたのだろ
こす 一体、
人形はどうやって
うに吸い込まれていくような錯覚を起
かしく、見つめているとガラスの向こ
瓶の中に粛然とした一つの世界。澄
み切った球体の空間に佇む人形は奥ゆ
が訪れてからである。七十年前、十万
と が で き る よ う に な っ た の は〝 平 和 〟
技術を習得した。しかし、こうしたこ
かけに、
勝浦から東京の教室まで通い、
瓶細工のテレビ放映を見たことをきっ
なのだという。今から三五年以上前に
土を表現したりと、地道な作業の連続
ボンドで固めたり、パウダーを撒いて
んだ。聞けば瓶の下に敷いている石を
は勉強がほとんどできず、工場で働く
とともに東京の家に残っていた。当時
て も す ぐ 動 け る だ ろ う 」と、清 吉 さ ん
し、俊子さんと一番上の弟は「何かあっ
もたちと母のきくさんは千葉市に疎開
り返る俊子さん。まだ小さかった子ど
自宅と軍需工場を行き来した日々を振
想だった」と、現在の墨田区にあった
方に回されて。みんな手が汚れて可哀
なったんです。私は運がよくて事務の
を教えてくれたのは師範の中村俊子さ
う。 素 朴 な 疑 問 が
人もの犠牲を出したと云われる三月十
こ と ば か り だ っ た。
「敵機が毎晩三回
平和の悦びを、瓶の中に
湧 き 上 が る。
「お
日の東京大空襲で、俊子さんは父・清
ま
人形をバンザイさ
も偵察に来ていましたから、洋服を着
と弟を探しに行った。だが、電車は市
言われぬ不安を抱えながら、翌日、父
ちもあの中にあるのだろうか」
。えも
うが、
炎で赤く染まっていたのだ。
「う
岸に出た。目を疑った。東京湾の向こ
か解除にならず、気になって千葉の海
と土がかかってて。着ていた服で分か
無 言 の 再 会 を し た。「 顔 に は う っ す ら
そして空襲から四九日目、遺体が並
べられていた猿江恩賜公園で父と弟と
日は引き返した。
一人じゃ無理無理!」と言われ、この
の 場 所 を 尋 ね る と「 ま だ 燃 え て る よ、
え る よ う な 寒 さ だ っ た。
「父は警防団
るんです」
。終戦の年の三月は、まだ凍
こご
寒かったですね。枕元に置いた水が凍
て 寝 て い ま し た。暖 房 は 豆 炭 の み で。
吉さんと弟の博さんを失った。
毎日が緊張の連続
せて中に入れた
ら、 ピ ン セ ッ ト で
一つずつ手を入れ
て い く の 」 と、 瓶
川までしか運行できず、市川からは歩
りました。あの時、父は待っていたみ
か っ た 」 俊 子 さ ん が 中 学 校 で、
戦争体験をまとめた自作の紙芝居を披
露した際、生徒からそんな声が寄せら
に 入って い て、当 時 四 五 歳。私 と 弟 は
防火用水の氷割りをしました。ひと晩
で 三 回 起 き て、氷 を 割って。日 中 は 工
場へ働きに行くんですけれど、それで
も工場で眠くなるということはなかっ
た で す。緊 張 し て い た ん で し ょ う ね。
昼間でも空襲警報が鳴りましたし。ひ
と晩でもいいからゆっくりしたいねっ
て、弟とよく話しました」
。緊張の途切
れ ぬ 日 々。そ し て、追 い 討 ち を か け る
かのように悲劇が待ち構えていた。
命の三月十日
運
「 三 月 九 日 も 市 川 に 行 っ て。 こ の 日
は帰りに、千葉市の母の家に向かった
んです。今でもあるでしょ?上級生の
送 別 会。 翌 日、 ち ょ う ど 十 日 の 日 に、
やることになってたんです。劇をやる
ので着物を借りに行きたいって、それ
で千葉の家まで」
。この日家を出る時、
清吉さんには「帰って来るから裏の戸
は開けておいてね」と伝えた。これが
最後の別れだった。
「 千 葉 の 家 着 い た ら も う 夕 方。 晩 ご
飯 食 べ た ら 母 が、
『 真 っ 暗 だ し、 女 一
人で帰っちゃいけない』って。この頃
は 本 当 に 真 っ 暗 で し た か ら ね( ※ )
。
それで泊まっていくことにしたんで
す 」。 こ の 日 の 夜、 空 襲 警 報 が な か な
維持できない。気が付いた時には、平
和は既に失われているかもしれないの
だ。
「戦争は絶対起こしてはならない
事ですから」
語り部としてその
想いを伝え続ける。
8
KATSUURA 2015.3.20
取材・撮影・文・デザイン:沼尻亙司 イラスト:瀧川由貴子
記事の問合せ▶勝浦市企画課定住促進係 ☎ 0470-73-3337
※敵機からの夜間襲撃の目標となるのを避けるため、戦時中は「灯火管制」
が敷かれた。明かりを消し、窓をふさいで明かりが漏れないようにした
「女学生だった私は市川にあった飛
行機のパッキン工場に勤めることに
いた。亀戸まで来ると火ぶくれになっ
たいなんですね。
『一緒に逃げよう』っ
れた。「そう感じてもらってよかった」
と い う 俊 子 さ ん だ が、 当 時 は「〝 そ う
いう雰囲気〟だった」と表情を曇らせ
る。「 で も、 あ の 時 は 志 願 し て 行 っ た
ん で す、 特 攻 隊 も。 私 が 男 だ っ た ら、
私だって特攻隊に志願したと思います
よ。お国のためにと」。その〝雰囲気〟
はどんな未来を描くものなのか。
平和は意識していないと
中村俊子さん
■ 3 月 20 日より約 1 ヶ月間、市役所ロ
ビーにて俊子さんの瓶細工の展示を行い
ます。この機会にぜひご覧ください
細工づくりの工程
た遺体が河川敷にいっぱい横たわって
て言ってくれた近所の方は助かったそ
「 中 村 さ ん の 時 代 に 生 き な く て よ
語り部として伝えたいこと
に翻弄されなければならないのか。
る俊子さん。運命は、こんなにも戦争
命 を 潜 り 抜 け て き た ん で す 」。 そ う 語
た 家 も 焼 夷 弾 で 丸 焼 け に な っ た。「 運
晩に千葉市は空襲を受け、疎開先だっ
その後、東京の郊外、国分寺にいた
親戚の家に引っ越す。引っ越したその
待ってる』って」
。
う な ん で す。
『俊子が帰ってくるまで
いた。さらに進む
と周囲は家が焼
け て 一 軒 も な い。
足を引きずって
来た男性に自宅
『子供を抱いた母親が用水
桶に片足を入れたまま丸
焦げでそのまま亡くなっ
ていました』…俊子さん
が目の当たりにした戦争
の悲惨さは、紙芝居を通じ
て次の世代に伝えられる
一年以上かけて作られた瓶細工の大作
俊子さんの母、
きくさん。
「優しい人だったのよ」
と俊子さんは振り返る
俊子さんに瓶の中で行う作業を再現してもらう
(左)
。これまで製作した瓶細工は 30 以上にのぼる
七十年前の三月から
平和を語りたい
昭和 4 年 8 月 19 日生まれ。85 歳。東
京市本所区出身(現:東京都墨田区)。7
人いた兄弟姉妹の長女。俊子さん 15 歳、
女学校三年の時、昭和 20 年 3 月 10 日
の東京大空襲で父と弟の 2 人を失う。疎
開先の千葉市の家も空襲で失い、東京・
国分寺の親戚宅へ移る。昭和 21 年、母
の生家があった勝浦市に移住。戦災の語
り部として紙芝居を自作。今も学校など
で戦争の体験談を語り継ぐ。日本伝統技
芸瓶細工師範(師範名:中村抄洸)
人
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katsuurashii-person