博士論文 工業製品への搭載を目的とした機能性分子の論 理的設計

博士論文
工業製品への搭載を目的とした機能性分子の論
理的設計
(Logical Design of Functional Molecules for
Industrial Products of Practical Use)
北
弘志
平成26年
序章:研究開発における本質課題とその対策
有機化合物は、その分子設計の多様性から無限の可能性を持つと言われているが、工業製品として使
用されている機能性化合物のうちほとんどは、いわゆる“偶然の産物”であり、理論だった設計指針に
よって成し遂げられたものはごくわずかである。しかしながら、新興企業や新興国の追撃を回避するに
は今後ますます論理的分子設計に基づく新しい機能性化合物が必要となり、技術者の知恵を差別化の根
源に据えた製造業が日本の継続的発展には不可欠になって来るものと確信している。
本博士論文では、実際に工業製品への搭載を目的に展開した“論理的分子設計”を、銀塩カラー写真
ならびに有機 EL という、2つの異なる技術分野において適用した実例を用い、それぞれの化学品およ
び素子の内部で起こっている現象を解明しつつ本質課題を見抜く開発プロセスの重要性と、課題を解決
する論理的な分子設計の有効性および妥当性について論じる。
第1章: 銀塩カラー写真における新規機能性化合物の分子設計
本章においては、銀塩カラー写真の明所保存性改良という市場要望に対
して、本質的な課題を抽出し、それを解析して、機能性分子の設計へと発
展させた開発事例について記載した。銀塩カラー写真システムの印画紙(カ
ラーペーパー)の画像色素となっているPT色素(1a)をHPLC固
定相に直接担持させることにより(SP-1)、画像色素の分子間
相互作用を解明することができた。PT色素の会合に対する効
果としては、発色現像主薬(CD-3)由来のスルホンアミド基
OH
OH OEt
O
Si
O
SiO 2
NH2
C2H 5
N
CH3 SO2NHCH2CH2
OH
OH
O OEt
O
OH
CH3
N
N
Si
N
NHCO(CH2) 3SO2(CH2) 3
の影響が最も大きく、会合する2分子の内、一方の色素のス
C4H 9(t)
N
N
SP-1
Dye support ratio : 0.33 mmol/g
ルホンアミド基を水素原子に置き換えると、相互作用エンタ
ルピーは35%以上低下することが明らかになった。
0
S=0.126*△H +0.392*logkq-1.78
r^2=0.991
また、PT骨格の6位および3位においては、置換基による立体障害に
2.00
よって、色素の会合を抑制することが可能であり、その効果は、6位の
1.80
ーパー中でPT色素と共存している画像安定剤について、PT色素との相
互作用エンタルピーを、前記のHPLC法により実測した結果、画像安定
S (Found)
方が3位の約3倍有効であることも明かにした。さらに実際のカラーペ
1.60
1.40
剤の安定化効果は一重項酸素クエンチ速度と相互作用エンタルピーの
1.20
2つのパラメータで記述可能であることがわかり(Fig. 2)、後者の主
1.00
1.00
因が画像安定剤の分子内に存在するスルホニル基であることを突き止
めた(Fig. 3)。この結果を踏まえ、Fig. 4に示すような新たな分子設
計コンセプトを打ち出し、画像安定剤を連結したPT-Sカプラーの検討
を行った。PT骨格と画像安定剤とをつなぐ連結基の長さが耐光性に大
きく影響することを見いだし、原子数5の連結基長が最適であること
を導いた。この新規機能性化合物はプロ用のカラーペーパーに実用さ
れ、10年以上に渡って最高峰カラーペーパーとして使用され続けた。
その画像色素(MD-10)の化学構造をFig. 5に示した。図中に記載したよ
うにMD-10は、分子内水素結合をドライビングフォースとして、画像安
定剤が色素を覆うように近接した分子状態を採る。さらに分子中の全
ての芳香族骨格や置換基は機能を持ち、それぞれが協奏するように働
いて複数の機能を増強していることがわかる。
1.20
1.40
1.60
Calculation
1.80
2.00
以上のように、この一連の研究は、要求性能を課題にブレイクダウンし、さらに数値化(形式知化)する
ことで、分子設計という具体的なアクションを論理的に進めるこ
とができた成功事例である。このような、一見すると遠回りにも
見える開発スタイルが、実際には、後戻りがなく、かつ、効果的
な材料開発の手法であり、これは他の分野にも適用可能と考えら
れる。
第2章
有機 EL 材料の論理的分子設計
本章では第1章で述べた、
“現象解明から課題抽出”と、
“分子設計による対策”、という開発手法を、
有機 EL 分野に応用した事例を記載した。第1節と第2節では有機 EL、とりわけ青色リン光発光に特有
の技術課題を整理し、それ以降の節では要求性
能に対する課題と問題点の抽出、ならびに、対
策としての分子設計について述べた。まず、素
子の発光効率と発光寿命に最も影響を与える
ホストに対し、満たすべき要件をブレイクダウ
ンした。青色リン光素子において高効率発光を
達成する必要条件はホストの高 T1 化である。それを実現するために分子設計上最も留意しなければなら
ないのが、基底状態と 3 重項励起状態との化学構造の変化であると断定し、その対策を分子構造に反映
させたのが「ねじれ構造を持つビアリール」であった。この効果は絶大であり、メチル基を2個導入す
るだけで(アトロプ異性体ができるほどの完全な回転障害は不必要)
、リン光 0-0 バンドは高エネルギ
ー化し、青色リン光ドーパント(FIrpic)に対して十分なトリプレット閉じ込め効果を発揮した。さらに
ビアリールのみならず、トリアリールアミンやトリアリールボランでも同様の高エネルギー化が実現で
きることがわかった。これらの高 T1 化合物群を用いた青色リン光素子において、発光効率は、当時理論
限界と言われていた 20%に肉迫する 18%まで向上し、青色リン光による低消費電力化を提唱するに至っ
た。また、この研究は単に高効率が得られただけではない。有機 EL 素子の発光特性と層構成を注意深
く解析することで、発光素子内部で起こっている現象を間接的に考察することができるため、有機 EL
における“現象可視化”の簡便かつ適切な手法として定着し、現在の高性能化されたリン光有機 EL 技
術を支える基本的な解析手法としても活用されている。
第3章
新規π共役化合物の創出と有機 EL 素子への適用
第2章では高 T1 化合物を実現するにあたり、従来の有機 EL 材料をベースに、メチル基を用いて、ね
じれ構造を付与する分子設計手法について述べた。励起状態での構造変化抑制を意識しつつ、新たな分
子設計指針を打ち立て、それを大学との共同研究を通じて展開したことについて第 3 章に記載した。
電子輸送性と電子注入性(深い
LUMO)ならびに高 T1 を狙って、2-ピリ
ジン誘導体の有機 EL 材料への適用に
ついて検討した。この研究開発を行う
にあたり、現、東北大学・環境保全センターの大井研究室で見いだされた ortho-位選択的アリール化反
応を活用し、Scheme 1 に示すようなブロモ-2-ピリジンを反応基質に用いることで、ベンゼン核に連続
的に 2-ピリジル基が導入された P2PyB および H2PyB を合成した。この化合物には、有機 EL の代表的電
子輸送材料として知られているアルミニウムトリスヒドロキシキノリン(Alq3)よりも良好な電子輸送性
が認められ、緑色リン光素子において同一の層構成で4V 以上の低電圧発光が可能であることがわかっ
た。さらに P2PyB は該発光素子の発光ホストとしても高い性能を発揮することが確認され、隣接位に複
数の 2-ピリジル基を有する化合物が有機 EL 材料として有用であることを証明した。
さらに、有機 EL に適用できる新規π共役化合物として、東北大学・理学研究科の磯部研究室で合成
されたジシラニルダブルピラード化合物に着目した。この化合物は、2つのジシラニル基で剛直化され
たσ-π共役化合物であり、ストークスシフトが 10nm 未満と、基底状態と励起状態との構造変化が極め
て少ない化合物である。この化合物群について、磯部研究室との共同研究により電子的な物性を計測し
た結果、代表的化合物である
Si
DPBA は、
電子輸送性を有し、かつ弱いながら正孔
輸送性もあるバイポーラー性化合物であ
ることがわかった。この
Si
DPBA を緑色リ
ン光素子に適用した結果、電子輸送層に
使用できることはもとより、正孔輸送層
にも適用できることがわかり、さらに、
発光層を挟むように電子輸送層と正孔輸送層の両方にこの化合物を用いた素子においても良好な緑色
リン光発光が観測された。
加えて、高 T1 化策として、アントラセンをジベンゾフランに変更した化合物
Si
DPBD(O)を設計した。
この化合物はジベンゾフランの酸素原子を活用したオルトリチオ化反応を用いることで、ワンポット合
成が可能であることがわかった。SiDPBD(O)は、基本特性は SiDPBA を踏襲し、階段状の分子構造であるこ
とが X 線構造解析から確認され、有機 EL 素子においても緑色リン光素子の電子輸送層に適用できるこ
とがわかったが、SiDPBA よりも正孔輸送性が低く、正孔輸送層への適用は不可能であった。そこで、ジ
ベンゾフランの 2 位(酸素原子のパラ位)にカルバゾールを導入することで、正孔輸送性の増強ならび
に電子輸送性の改良を試みた。SiDPBD(O)-2Cz は SiDPBD(O)と同じ合成条件でジシラニルダブルピラード
化することができ、分子量が 900 近いにも関わらず、σ-π共役により安定化されているため熱分解を
伴わずに昇華精製を行うこともできた。SiDPBD(O)-2Cz の正孔輸送性ならびに電子輸送性は期待通りに大
きく向上し、さらに高 T1 であることから、青色リン光用のホストとして利用することができ、その外部
量子効率は 10%を超えて、駆動電圧も高性能青色リン光素子と同等の低電圧化を実現した。
このように有機 EL 用途として初めてσ-π共役系化合物を電子輸送層、正孔輸送層、および発光層に
適用することに成功し、このような階段状π共役化合物が有機 EL 素子に好適であることを証明するこ
とができた。さらに、励起状態における構造変化が小さいことは、通電経時における膜状態変化を起こ
さないという、有機 EL の本質的な命題にも適用できるものであり、さらなる分子設計の高度化、およ
び化合物構造の多様化が期待される構造的にもユニークな化合物群である。
第4章
有機 EL 素子開発における産学連携の重要性
第3章にも記載したように、有機 EL 素子の性能を大きく改善するには機能性化合物の創出が最も効
果的である。一方で有機 EL が発明されて 27 年が経過し、数多くの企業や研究機関が適用できる化合物
について詳細な検討を行ってきた。有機 EL は、縮退されたπ共役系を電子がホッピング移動して伝搬
することを発光メカニズムの基本としているため、有機 EL 材料開発は、換言すると縮退π共役化合物
開発であり、今後革新的な材料を見いだすためには本博士論文で述べたような、論理的な分子設計指針
を具現化する、これまでに検討されていない新たなπ共役化合物を設計し、合成することが必要となっ
てくる。また、有機 EL 素子は電子ディスプレイのみならず、照明やインジケータとしても有効である
ことがわかっており、量産も始まっているが、軽量化やフレキシブル化などのデバイス特性の要望に加
え、低コスト化の市場要求は非常に高く、今後は生産方式として塗布成膜を多用することになると予想
される。そのためには、素子内部で起こっている現象を的確に捉え、蒸着成膜よりも分子に対する要求
の厳しい塗布成膜に対応する化合物を確実に創り上げて行かなければならない。企業単独で行う材料開
発には、能力、専門性、費用等に限界があり、特に新規物質を見つけ出すことにおいては有機合成反応
や構造有機化学を研究対象としている大学等公共研究機関との連携が今後ますます重要になってくる
と思われ、高い目標を共有した高度なレベルの産学連携が必要不可欠であると考えている。
本博士論文で述べたように、
“工業製品への搭載”を最終目的に据えて、
“本質”を的確に理解して“形
式知化”し、それを“分子設計に反映させる”ことが、様々な産業分野に適用できることを実証できた。
今後は実際の商品開発を通じ、この手法を若い世代に伝承して行くことにより、若手技術者を育成し
つつ、さらなる機能性化合物の発展に貢献したいと考えている。