博士を取り巻く環境が 変わってきた!

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第
章
博士を取り巻く環境が
変わってきた!
博士が求められる時代へ
その一般社会のニーズから来る最終学歴の上昇指向だけではなく、国家的な見地・国際
的な視野からも、理系の博士後期課程への進学者の増大、そして博士号の所有者の増加が
も言える。
つある。学歴の市民化現象が「学士」→「修士」→「博士」と上がっていく過程であると
そして今、国際化の波が激しい時代に入った。最先端先進国の1つとしてさらなる高学
歴時代に入りつつある。大学院の博士課程修了者、つまり「博士」を求める時代に入りつ
があった。1980年代の社会が求める最高学歴は「修士」の称号だったのだ。
うになった。後述するように、大学院にはまず修士課程があり、さらにその上に博士課程
に理科系に見られた傾向で、大学の上の教育機関である大学院の修了者を社会が求めるよ
たした1980年代頃からは、さらなる高度な教育が求められるようになった。これは特
である。ちょうどその頃は高度経済成長の始まりであった。そして先進国の仲間入りを果
明治の世ではまず初等教育が最優先だった。そして安定と拡大が続き、その学歴は徐々
に高等化していった。日本の大学教育が普遍化(市民化)したのは、1950年代頃から
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第1章 ◉ 博士を取り巻く環境が変わってきた!
必要となっている。先進国型の学歴システムがないと産業の国際化にも支障を来す時代に
なりつつある。そのため、これは文部科学省の大きな命題の1つにもなった。
それも医学博士(M.D)のような資格コースではなく、文字通り、科学者・エンジニ
アの「博士(Ph.D)
」の飛躍的増加を求めている。これには注釈をつけておく必要がある。
M.Dの数増やしは発展途上国が近代化のためにまず最初に取り組む課題であり、これ
は日本にとっては明治時代の課題だった。最初は医療の普及とその水準の引き上げが新興
国にとって絶対課題のためである。
一方、Ph.Dの大量生産こそは最先進国の最後段階の課題である。大学の最先端研究
や最先端産業の製品開発が最先端科学を要求するからである。逆にいえば、どっちの政策
が優先されているかを見るだけで、その国の社会の発展状態が推定できることになる。
現代の日本では少子化という問題が大きな影を落としている。この少子化問題は、学校
にとっては経営に大きな影響を与えるため、受験生を集める方法の模索が続いている。
特に社会性があり、今後、学生数の増大が見込める理系の大学院コースを持つ各大学は、
自大学の大学院コースについて、所轄官庁の文科省の評価を得たい。その評価の善し悪し
は、大学の存立や健全運営の基礎に関わる問題である。少子化問題を突破するためにも、
文科省の評価を得たいのだ。そのため、今では大学院の充実というのが合言葉になっている。
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この評価がどこに表れるかというと、単純明快で毎年の各大学院の理系の「博士(Ph.
D)
」の授与数を見れば良い。そこに大学・大学院の理系の善し悪しが出る。見た目の短
絡判断という点では、ガックリだが、それが世の常だろう。一般社会のニーズ、国家政策、
大学の経営、すべてにおいて利害が一致している。
しかし、後述するとおり、博士になるためには単位取得だけではダメで、大学院での「研
究の成果」が要求される。すると、
〝研究を指導する〟教員側の能力も大きく要求される。
つまり、大学院の指導教員(教授)の研究能力が高ければ高いほど「博士」が出やすい(本
当は「博士」を育成する教授の「教育能力」も大切である)。
製造される「博士」の数は、大学院教授の実力の目安にもなる。つまり、素晴らしい学
者がたくさんいる大学ほど凄い大学という評価になる。文科省の評価には、当然こういう
観点がある。そして、このような評価は、長い目で見ると文科省の評価だけではなく、一
般社会に反映することは確実である。
大学・大学院の側としては、少子化の影響もあり将来の学生確保の観点から見ても〝大
学の評価〟は死活問題で重要である。何が何でも〝課程博士〟の大量製造をしたい。この
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第1章 ◉ 博士を取り巻く環境が変わってきた!
ところ、急速な〝国際的な学歴価値の平準化〟と〝日本産業の技術的リーダーシップの喪
失〟で、理系の「博士」のニーズが急激に増えており、今が評価を高める絶好の機会と捉
えられている。
そのためには上記のごとく〝素晴らしい学者〟がたくさん必要となる。見かけ倒しの過
去の遺産に乗っかっているような無能な人物ではなく、年齢無関係に優秀な学者を採用し
ようとする動機が非常に大きくなる(博士号を得た優秀な若者はたちまちチャンスを得る
場合が増える)
。これまた、文科省から見れば極めて望ましい方向である。
博士になるとどんな良いことがあるのか?
博士号を取得するとどんな就職先があり、何の役に立つのか?
〝今までは〟
、博士号はあまり役に立たないことのほうが多かった。今もそうだと認識し
ている人達は非常に多い。これについては、〝今までは〟と「今のところ」というのが味
噌である。本当は〝今〟ではなくすでに〝前〟で、高度成長期時代やそれに続いた後遺症
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世紀後半から
世紀初頭の博士の話だ。でもその
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代後半ぐらいにすぎず、まだ、その価値感を引きずってい
時代(就職氷河期時代)の話である。
被害者の一番若い世代はまだ
るものは多い。
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ていた。1970年代から始まり2000年代の初め頃まで、この価値観が頑なに守られ
行くべきでないと思われていた。その肩書きが欲しければ、安全に「論文博士」を目指し
限」と「家族を養うに充分な給与」と「働ける任期」を得るためには、何の役にも立たず、
そのため、その間は理系といえども「大学院は修士課程までで博士のコースには行かな
い」というのが普遍化していた。
「課程博士」の肩書きなど、「実効性を有する何らかの権
は年齢制限まで設けて、博士後期課程修了者を採用しなかった。
年齢の順番をはみ出さないように、採用は修士課程までに限定されていた。実際、大企業
実は理系の大学院教育の重要性は、企業といえども早くから認識しており、すでにかな
り古くから大学院生を採用してきた。しかし〝年功序列システムとの兼ね合い〟もあり、
解が続いている。
たった数年の差で間に合わなかった、その気の毒な世代の人達が今の現役社会人世代の
大部分を占めており、彼らにとっては、まだ、変わっていないところばかりが眼につき誤
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