Untitled

初期ハイデガー研究
著 者 下 恭 子
発行日 二〇一四年三月三一日発行
発行者 下 弘 明
〒〇二八 │〇五四三
岩手県遠野市松崎町光興寺八│七五
印 刷
株式会社さとう印刷社
〒一一三 │〇〇〇一
東京都文京区白山一│一九│一六
目 次
Ⅰ
第一章 根本学から根源学へ …………………………………………………………………………
序 …………………………………………………………………………………………………………
7
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
第一節 根本学としての哲学 ………………………………………………………………………
9
第三節 体験の再帰的構造 …………………………………………………………………………
第二節 現象学的経験の変容 ………………………………………………………………………
第一節 前理論的理性 ………………………………………………………………………………
第三章 現象学的理性 …………………………………………………………………………………
第三節 個体化の原理 ………………………………………………………………………………
第二節 実在の多様性 ………………………………………………………………………………
第一節 外界の実在性 ………………………………………………………………………………
第二章 生の事実性の学 ………………………………………………………………………………
第三節 根源学の構想 ………………………………………………………………………………
第二節 原領域の同定 ………………………………………………………………………………
9
41 32 30 30 24 21 18 18 15 11
2
目次
結語 ………………………………………………………………………………………………………
注 …………………………………………………………………………………………………………
Ⅱ
一、根源学構想の成立 ─初期ハイデガー研究(1) …
………………………………………………
二、体験の学の可能性 ─初期ハイデガー研究(2) …
………………………………………………
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3) …
…………………………………
弘 明
下
下 恵美子 解題 ………………………………………………………………………………………… 相楽 勉 謝辞(後書きに代えて) …
…………………………………………………………………
3
107 59 59
50 45
141
147
解 題
解 題
相楽 勉 本書は下恭子︵しも きょうこ、二〇〇五年一二月二日に逝去︶が、マルティン・ハイデガー︵一
九八九∼一九七六年︶の初期の哲学、特にフライブルク大学で私講師として行った最初期の講義録に
示された思索内容を分析した四篇の論文︵修士学位論文と紀要論文三篇︶を収録している。以下がそ
れらの初出である。
Ⅰ 初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
平成七年度 東洋大学大学院文学研究科︵哲学専攻︶に提出された修士学位請求論文︵一九九六年
一月九日提出、主査 新田 義弘 副査 末次 弘︶
Ⅱ 初期ハイデガー論考
1.根源学構想の成立 │初期ハイデガー研究︵1︶
初出は、東洋大学大学院紀要︵文学研究科︶ 第三三集 一九九六年︵指導 渡邊二郎、量義治︶
2.体験の学の可能性 │初期ハイデガー研究︵2︶ 初出は、東洋大学大学院紀要︵文学研究科︶ 141
第三四集 一九九七年、︵主査
渡邊二郎、量義治︶
3. 生 の 自 己 理 解 に お け る 歴 史 性 │ 初 期 ハ イ デ ガ ー 研 究︵ 3︶ 初 出 は、 東 洋 大 学 大 学 院 紀 要
︵文学研究科︶ 第三八集 二〇〇一年、︵指導 渡邊二郎、山口一郎、量義治︶
最初の長大な論文﹁初期ハイデガー研究│存在論化以前における│﹂は、著者が東洋大学大学院文
学研究科博士前期課程在学時に提出した修士学位請求論文であり、これによって著者は文学修士号を
得た。その後、著者は同研究科博士後期課程に在籍して研究を続け、同大学院の大学院紀要にⅡに収
載された三本の研究論文を投稿し、審査を経て採用され掲載された。さらにこれらの執筆を通して著
者は博士学位請求論文の構想を練っていたようであり、それらを示す草稿もいくつか残されている。
その中にはアイディアを書きとめたメモから、比較的長い草稿もある。だが、独立の論考と看做すに
はあまりに断片的であり、ここに収載することは断念せざるを得なかった。
論文の掲載順は、最初公刊された三本の論文を先立てることを考えたが、著者の研究の元々の意図
を概観したうえで、その思索の展開を追う方が、その研究の目指した事柄を確認しやすいことを確信
し、未公刊の修士論文を先立てることにした。
著者の下さんが大学院でハイデガーの初期フライブルク時代の講義録研究に取り組むことになった
142
解 題
事情の一端は、まさにそれらの講義録群がはじめて公刊された直後の時期であったことにある。当時
東洋大学大学院に出講され演習を担当されていた故渡邊二郎東京大学名誉教授も、その演習において
これらの講義録をたびたび取り上げられた。筆者もこの演習に参加していたが、若きハイデガーの難
解な文章の読解に苦労した記憶がある。下さんはこの演習でテキストの大半を訳読され、粘り強く読
解に取り組まれた。この演習での経験がここに収載された四つの論文に十分反映されていると思う。
しかしながら、下さんが初期ハイデガー研究に取り組むことになった本当の理由は、上智大学文学
部時代に書き上げた卒業論文﹁﹃存在と時間﹄における時間性│時間性における本来性﹂︵一九九二年
一二月提出︶を、おそらくは大学院受験のために繰り返し吟味し直したことにあると思われる。卒業
論文の最後は﹁知の成立の可能性を問うという興味から﹁存在と時間﹂を読み始め、また、それが現
存在の可能性という性格に求められることは感銘深いことであるが、本当に私たちは知の成立の可能
性をどこにもとめれば良いのだろうか。﹂という﹁問い﹂で終わっている。その後大学院入学までに
書かれたとみられる草稿には、この﹁知の可能性への問い﹂を解明する手がかりをフッサールの﹁超
越論的現象学﹂に見出し、さらにそれと問題意識を共有しながらも独自の方向を目指すハイデガーの
﹁存在論的現象学﹂を再び問題として見出す様子が見てとられる。そのハイデガーの知への問いの独
自性を思索する手掛かりとして浮上したのが﹁初期ハイデガー問題﹂だったのだろう。
さて、このような経緯を経て取り組まれた初期ハイデガー研究の全論文が本書に収載されているが、
143
以下各論文の概容をまとめてみたい。
Ⅰ 初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
﹃存在と時間﹄に至る歩みの出発点と最初の展開︵存在論への移行時期︶を初期フライブルク時代
の一九一九年初春︵戦時緊急学期︶から一九二〇年夏学期までの講義の内に追跡している。第一章で
は、ハイデガーが最初の講義において提起した﹁根本学﹂の意義と、それが後に﹁根源学﹂と命名し
︶という根本的問いの意味を解釈することを通じ
直される経緯とを、﹁何かはあるか︵ Gibt es etwas?
て明らかにしている。第二章では、新カント派など学知の根拠づけを目指した当時の諸研究との対比
を通して、根源学が﹁具体的な経験地盤﹂に基づいて学知を歴史的な生の表現として解明するもので
あることを明らかにしている。そこに体験の主体の人称性ないし個体性を問うという課題も生じてく
ることも示唆される。最後の第三章は、根源学の構想がハイデガー独自の現象学、すなわち解釈学化
された現象学と捉え返される過程を明らかにしている。体験所与の直接性に依拠する現象学に対する
ナトルプの批判に対して、現象学的記述が﹁本源的な先行把握 形
- 成﹂としての﹁解釈学的直覚﹂で
ありうるとするハイデガーの思索の跡を綿密に辿り、この体験における前理論的理性の次元の発見か
ら導かれる新たな現象学の構想を、翌一九二〇年の夏講義のうちに看取している。そして結語では、
これらの探究過程と後年の﹃存在と時間﹄のそれとの類似性を確認したうえで、ハイデガー独自の現
144
解 題
象概念の彫琢のその後の経緯を研究課題として提起して論文を結んでいる。
Ⅱ 初期ハイデガー論考
1.根源学構想の成立 ─初期ハイデガー研究(1)
修 士 論 文 の 第 一 章 の 内 容 を 吟 味 し 直 し て 拡 張 し た 論 文。 特 に、 第 三 節﹁ 根 源 学 構 想 の 成 立 ﹂ は、
﹁根本学﹂から﹁根源学﹂への名称変更を﹁根源領域と哲学の根源との同一視﹂と捉え、そこに﹁個
別科学の体系化への拒絶﹂と﹁哲学の生への内在化﹂という二つの方向性を看取している点が重要だ
ろう。さらにその﹁根源領域﹂の根源性はその﹁遂行意味﹂によって測られることが指摘されている。
2.体験の学の可能性 ─初期ハイデガー研究(2)
修士論文の第二章で扱った﹁生ないし体験の学的把握﹂の問題を、全集五六・五七巻から五九巻
︵一九一九年初頭から一九二〇年の夏︶の綿密な読み直しを通じて、再吟味した論文。特に﹁生を表
現すべき新たな概念の可能性﹂の手掛かりを、体験される存在者の﹁何内実﹂よりも、体験連関が持
つ指示性格あるいは体験の表現である﹁如何に内実﹂に求め、生の反省的契機を生の自己告知として
解釈する 現象学を考えるに至るハイデガーの思索の道筋を追うことを通じて、ハイデガーが伝統的な
﹁個体化﹂の問題に対して新たな道を見出しつつあることを明らかにしている。
145
3.生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
前論文の最後に論じた﹁個体﹂の問題から、後の﹃存在と時間﹄に通じる﹁歴史性﹂問題の展開を、
主に一九二〇年夏講義﹃直観と表現の現象学﹄に従って追跡している。まず第一節では、既に一九一
九年夏学期講義﹃哲学の理念と世界観問題﹄において学の基礎づけという課題がハイデガーにとって
﹁主観的│個別的体験領域﹂に基づいてなされるべきであり、体験としての生は﹁歴史的である﹂と
考えられていたことが明らかにされている。続く第二節では、哲学的問題構成がそもそも精神史的動
機付けに制約されているというハイデガーの思索が吟味される。これらの読解を通じて著者は、ハイ
デガーが根源学構想を実現するためにはこの二つの問題をある意味で克服する必要があったという見
解に達する。だからこそ、一方において生の歴史性は﹁自己世界﹂への関与として問われ、他方にお
いてその生が自己自身に向き合うより、一般的世界理解である有意義性に依拠して把握されることに
なると言うのである。そして、生の自己理解が歴史概念と相互規定的関係にあることが見出されたこ
とが、以後のハイデガーの思索の端緒になると結論付けている。
146
Ⅰ
初期ハイデガー研究
─存在論化以前における─
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
序
本稿は主著﹃存在と時間﹄に至るハイデガーの思索の歩みを、初期フライブルク時代︵一九一九│
1
一九二三︶の講義群に遡って追跡しようと試みるものである。とはいえ、取り扱うテキストは一九一
九年の戦時緊急学期講義から一九二〇年の夏学期講義までに限られる。というのは、一つには、ハイ
2
デガーが生涯存在を問い続けたことは間違いないが、﹁一般的解釈傾向として、一九二一年が存在論
化の時期とされて﹂おり、また一九二一/二二年の冬学期講義が明白な存在論化の傾向を示している
ことから、存在論への移行を探るには一九二一年の夏学期講義﹁宗教的生の現象学﹂を読み解くこと
が望ましい。だが、この講義録の刊行がつい昨年︵一九九五年︶のことであり、テキストに触れる時
3
4
間的余裕がなかったという物理的理由による。もう一つには、﹁存在への問いの思惟の歩みを全体と
してつづった﹃道標﹄﹂の第一論文である﹁ヤスパース﹃世界観の心理学﹄に寄せる評論﹂が一九二
〇年夏学期講義の直後に著わされたと考えられ、この推測が正しければ、事実的な生の解釈学という
]﹀ の 意 味 へ の 根 本 的 問 い ﹂
問 題 意 識 の う ち で、 ヤ ス パ ー ス 評 論 に お い て﹁︿ 私 が 存 在 す る[ ich bin
︵ GA9,︶5を立てざるをえない地点へと思索が追い詰められたことを示しているからである。また、
7
一九二〇年夏学期講義までは同時代の哲学の趨勢である新カント主義と正面から切り結んだ時期でも
5
あり、したがって本稿では│いささか図式的ではあるが│初期フライブルク時代を一貫して規定する
﹁生の根源学﹂の構想を際立て、同時代の哲学との対決を通じてハイデガーの思索の視点を見出だし、
この視点が彼自身の思惟において如何に発展させられるかを追跡するという構成を取ることにする。
8
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
第一章 根本学から根源学へ
第一節 根本学としての哲学
戦時緊急学期講義の意図は、序文の最終段落にある言葉、﹁だが、問題の核心は哲学そのものにあ
6
る│哲学そのものがまさしく問題である﹂に端的に示されている。だが、ハイデガーがこの時、哲学
という語で何を考えていたかが問題である。講義タイトルと同じ表題を担う序論は、世界観と哲学の
GA56/57,︶7というもの。第二に、批判的価値哲学。
関係として三つの選択肢を提出する。第一に、哲学と世界観は同一の本質と課題を持ち、﹁世界と生
についての究極的なことを確定しようとする﹂︵
ここでは哲学と世界観は同一ではないが、哲学の課題としての価値体系[論理、倫理、美]に基づき、
ibid., ︶
11。この可能性は、﹁すべての︵こ
その調和的統一として宗教的世界観が成立するゆえ、哲学と世界観は境を接する。第三に、﹁両者の
間には、そもそもなんら関連はないという空虚な可能性﹂︵
]優位を持つ﹂
れまでの︶哲学の破綻に至るという、あやしげな[あるいは問うに値する、 fragwürdig
︶。反語的な形容を受ける第三の選択肢こそが、実はハイデガーの意図を示している。すな
(ibid., 12
わち、従来の哲学とは異なる、新たな定義を哲学に与えようとするのである。第一部の表題、﹁根本
学としての哲学の理念﹂がこの意図を表現している。
理念という語の使用は、従来の概念規定には依拠しえない、哲学の再定義という課題に伴なう無規
9
定性から理解されよう。ハイデガーによれば、﹁理念はその本質にしたがえは、何かをなすことなく、
︶からである。では、根本学は哲学にどのような在り方を要求
何かを与えることがない﹂︵ ibid., 13f.
するのだろうか。ハイデガーが哲学の歴史を振り返る中で、
﹁理論についての学的理論である﹂︵ ibid.,
︶
19というカントの要求を指摘し、その復活としてマールブルク学派と価値哲学派の名を挙げた後で、
a. a. ︶
O.と続ける。ハイデガーは学の基礎付けという課題を、哲学の中に一貫して見て
﹁哲学の初期に、哲学の第一古典期、プラトンの時代に、学としての哲学という問題が明確に意識さ
れていた﹂︵
いたといえよう。それゆえ、理念の無規定性はさしあたり、﹁派生的な、それ自体根本的でない学か
︶とされる。第一部の実質約な考察は新カン
ibid., 95
a. a. ︶
O.が﹁哲学と哲学の方法の本質性格とが発現したもの﹂︵ a. a. ︶
O.と
︶無前提性と解され、自己根拠付けという﹁根本学の理念につき
ら導出されることはない﹂︵ ibid., 16
ものの循環的な在り方﹂︵
して、むしろ﹁可能な真の哲学的問題の指標﹂︵
ト主義に当てられるが、根本学の要求という同一の志向が、その動機の一つに数えられよう。だが、
︶と、突然無効を宣告
ibid., 63
動機はそればかりではない。第二部の冒頭においてそれまでの考察は、﹁すべては、⋮根本学の理念、
根本学的方法という理念すら想起しないということにかかっている﹂︵
7
される。この講義を﹁思考実験﹂とみなすキシールによれば、第二部は﹁理論的なものの専制的優位
を破壊するように仕組まれる﹂のであり、新カント主義についての批判的考察は、理論的態度との対
決であったことが推察される。この無効宣告に続くのが、﹁我々は、哲学の生死を決する方法上の岐
10
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
路に立っている。無に、すなわち絶対的な事象性[ Sachlichkeit
]に至るか、あるいは別の世界への、
厳密にはそもそも始めて世界への飛躍に至るか、という深淵に。﹂︵ a. a. ︶
O.という言葉である。再び
8
キシールの言葉を借りれば、﹁講義の本来の目的は、領域と、それに応じた方法の性格付けによる、
現象学的哲学の基碓付けである﹂が、ここで始めてハイデガーが本来目指していた領域に接すること
ができる。
第二節 原領域の同定
﹁何かはあるか[ Gibt es etwas?
]﹂という問いで始まる。この﹁何か﹂[ etwas
]は、
﹁まっ
第二部は、
たく普遍的なもの、もっとも普遍的なもの、あらゆる可能的対象一般に付帯すると言えるかもしれな
︶内容空虚にして形式的なものであり、したがってこの問いは極めて理論的な問いでは
い﹂︵ ibid., 67
︶といわれることによって、体験そのものへと還元
あるが、﹁この問いは体験されている﹂︵ ibid., 65
されることができる。その際、﹁体験を事物および事物化されたものとして説明する、つまり、事象
]へと置き入れる⋮ものをさがすことではない﹂︵ ibid., ︶
連関[ Sachzusammenhang
66という禁止的注
意が与えられ、体験という語にそれまでの考察には現われていない、新しい意味が与えられているこ
とがわかる。
ところで、体験構造の分析を行なう第二部では、二つのタイプの体験が論じられる。一つは上述の
11
問いの体験であり、もう一つは環境世界体験[ Umwelterlebnis
]である。講義のプログラムは前者を
⋮]﹂という形式において、﹁⋮﹂は多様な
先行させるが、これは偶然ではない。﹁⋮がある[ es gibt
﹂ と い う﹁ ど の 意 味 に も 見 出 だ さ れ う る 同 一 の 意 味 契 機 ﹂
es geben
︶と、﹁何か一般の意味には、具体物へなんらかの仕方で依拠している﹂︵ ibid., 68
︶という
ibid., 67
形 を 取 り う る。 こ の 形 式 か ら、﹁
︵
9
︶が己れ
es-geben
︶のであり、このような事態をキシールは志向性とみなしている。﹁意義を
ibid., 67
契機との相補的な二つの性格が引き出される。すなわち、﹁この問うことの内実︵
を越えて示す﹂︵
︶。理論的体験の分析を通して得られた、体験の意義付帯的性格が体
ibid., 69
]﹂ 体 験 を、 ハ イ デ ガ ー は 生 起
帯 び た も の で あ り、 事 象 的 で は な い[ Bedeutungshaltes,nicht sach-artig
]と名付ける︵
[ Er-eignis
ibid.,
験一般に敷衍されることは、次の一文から明らかである。﹁体験の、またあらゆる体験一般の非事象
性は原理的に既に、この唯一の体験に即しても、絶対的で観照的な理解にもたらされるだろう﹂︵
。ハイデガーが体験という語に負わせた新しい意味とは、意義付帯的性格であるが、この性格の
70)
︶とは方向を逆にする
の過程として追跡される﹁講壇│箱│茶色の│木│事物という系列﹂︵ ibid., 89
︶
げ ら れ る の は 講 壇 を 見 る と い う 体 験 で あ る が、 理 論 的 体 験 に お い て は │ 後 に 脱 生 動 化︵ Entlebung
意義付帯的性格を体験一般に属するものとして確定した後に、ハイデガーはようやく﹁第一の体験
[=理論的体験]と一定の対照的な関係にある﹂︵ a. a. ︶
O.環境世界体験にとりかかる こ
. こで例に挙
発見が後に理論的態度の克服においても役割を演じることになる。
10
12
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
a. a. ︶
O.。ここでの叙
︶を経由して、講壇が講壇として同定される。これに対して環境世界
ibid., 71
│直角に交差する茶色の面から箱へ、そこから更に講壇へという、感覚与件ないし知覚現出を発端と
する﹁基礎付け連関﹂︵
体験では講壇を、﹁単に他と切り離された形でではなく﹂﹁いわば一気に見る﹂︵
述は、全体直観とでもいうべき、環境世界体験におけるこの直観が﹁事象把握を経る知的な回り道な
︶直接性として、意義付帯性格の第一義牲[ Primärität
]を示すものとして解されてい
しの﹂︵ ibid., 73
るかの印象を与える。しかしながらむしろ、ここで注目されるべきは世界付帯的性格の発見であろう。
というのは、一つには、意義付帯的性格が体験一般に属することが確定された以上、たとえこの性格
︶を
ibid., 71
が強調されるにしても、環境世界体験の分析は体験一般の構造の分析には何も寄与しないからである
が、もう一つの理由は以下による。すなわち、ハイデガーは講壇という﹁特定の意味﹂︵
既に理解しているので、いわば﹁講壇的側面をこの箱にレッテルのようにはり付ける﹂︵ a. a. ︶
O.こ
とが可能なのではないかという反論を予想して、講壇の意味理解を持たないセネガルの黒人の例を挙
︶という﹁道具的によそよそ
ibid., 72
a. a. ︶
O.を示しているが、このよそよそしさはむしろ、講壇という特定の意味の欠如で
げる。彼にとって講壇は、﹁どうしてよいかわからないもの﹂︵
しいこと﹂︵
あり、両者の意義付帯的な側面は、﹁その本質的な核を見れば、絶対的に同一である﹂︵ a. a. ︶
O.とさ
13
れるからである。ここでは、│﹃存在と時間﹄の術語法を先取りするならば│個々の内世界的存在者
を越えた、世界適合性の機能をも意義付帯的性格に割り当てており、後者の意義付帯的性格を﹁世界
11
付帯的[
]﹂︵
welthaft
ibid., ︶
73と術語化する。
]という区別を見ようとする傾向は、
体験領域の内に理論的なものと世界付帯的なもの[ Welthaftes
上述のように、既に体験構造の分析に現われていた。だがこの区別が決定的となるのは、現象学に対
]
するナトルプの批判を考量するときである。それまで理論化とは、自然科学均な脱生動化[ Entlebung
としてのみ考えられて来たが、ここで始めて形式的理論化が登場し、理論化という語に二つの規定が
︶。﹁それはあるものである﹂という形式的判断において、あるもの[
115
]は環境世界的なもの、
etwas
の 対 比 に お い て 見 出 さ れ た が、﹁ 形 式 対 象 的 性 格 付 け の 射 程 は 明 ら か に も っ と 広 範 で あ る ﹂︵ ibid.,
︶。形式的理論化は脱生動化の過程と
れない。すなわち、﹁形式的な対象化は自由である﹂︵ ibid., 114
るものである﹂という形式的な判断は、脱生動化の過程とは質を異にし、この過程の各段階に拘束さ
]﹂という判断が許されるのではないか﹂︵ a. a. ︶
﹁﹁それはあるものである[ Es is etwas
O.。﹁それはあ
︶。しかしながらこの過程の連鎖は必然的であろうか。むしろこの過程の各段楷において、
︵ ibid., 113
与 件 で あ る。 感 覚 与 件 は 物 理 的、 な い し 生 理 的 過 程 の 帰 結 で あ る。 ⋮ 要 素 こ そ が 何 か 一 般 で あ る ﹂
脱生動化は環境世界体験に端を発し、世界付帯的性格を消去しつつ究極的で単純な要素へ還元して
いく過程である。例えば講壇を発端として、﹁それは茶色である。茶色は色である。色は真正な感覚
︶というナトルプの批判は形式的理論化の可能性によって克服される。
を行なう﹂︵ ibid., 111
]﹂は一般化
与えられる。現象学的記述といえども言語表現であり、﹁﹁語による表現[ Wortausdrück
12
14
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
価値、妥当、その他あらゆる内容を取りうる。﹁あらゆる体験可能なもの一般は、可能的な何かであ
る。何かの意味は﹁体験可能なもの一般﹂である。﹂︵ a. a. ︶
O.
] の 持 つ 形 式 的 空 虚 さ は、 根 本 学 の 領 域 が 体 験 に 還 元 さ れ た 今 と
あ る も の 一 般[ etwas überhaupt
]として、﹁ 生の 最高度のポ テンシ ャリティ の
なっては、体 験可能 なもの 一般[ Erlebbares überhaupt
指標である﹂︵ a. a. ︶
O.。この可能性の発見は、非理論的な次元を学の領域に引き込む可能性を開くば
かりではなかった。環境世界体験において、体験されたものは既に意義を帯び、世界付帯的であった。
講壇は講壇として見出だされるのである。これに対し、体験領域における、あらゆる意味を担いうる
︶。根
ibid., l16
形式の発見は、まだ世界付帯的ではない、﹁前世界的な﹂次元の発見でもあった。﹁体験可能なもの一
般としての何かに、⋮むしろ、即かつ対自的な生の本質契機を見なければならない﹂︵
a. a. ︶
O.、ここに至って始めて、根本学が取り組
本学の対象領域は既に、非理論的な、適切には前理論的な体験領域に還元されていたが、いまやこの
]が同定されたのである。
Ursphäre
前世界的次元は、﹁生の領域として絶対的であり﹂︵
むべき原領域[
第三節 根源学の構想
戦時緊急学期講義において既に根本学の対象領域が同定されていたにもかかわらず、ハイデガーが
直接にこの領域に取り組むには若干の時間を必要とし、漸く一九一九/二〇年冬学期講義において実
15
現された。ところで、この講義の予備考察における根本学の見解は、ほぼ一年前の戦時緊急学期講義
のそれと非常に近いものである。以前に哲学といわれていたものは現象学に変わるが、再び﹁現象学
GA58,︶lといわれる。自己根拠付けとい
]という特有な性格、問うことと解決の仕方の﹁組み立て﹂、
Lebendigkeit
の根本問題は自己自身にとっての現象学そのものである﹂︵
う根本学の理念は、
﹁生動性[
問題構成の進行形の優位︵ a. a. ︶
O.であり、この時点では根本学の問題構成が未定であったことを、
より積極的には問題構成そのものが獲得されていかねばならないことを示している。一年前に根本学
の特徴として取り上げられ、理論的な問題に過ぎないとして結局は斥けられた理念の循環性の問題は、
﹁端緒な客観化からのみ生じた困難﹂︵ ibid.,︶
4として再び斥けられ、﹁そうではなく、事実的に始め
る!﹂︵ a. a. ︶
O.と宣言される。根本学が実際に始まったのはこの講義からといえよう。ここで新し
ibid.,︶
5と問わ
く登場するのは、方法論に絡んだ所与牲、ないし対象領域の問題である。﹁対象領域はおよそ単純に
そこにあり、したがって問うことをそのうちへと送り込むことのみが必要なのか﹂︵
ibid.,
れた後、所与性は﹁現象学の呪文﹂とまで非難される。対象領域は獲得されるべきものであり、現象
学はむしろ可能性として、
﹁新たに真正に諸問題の源泉に還帰し、これら源泉をより深く導く﹂︵
]︵
Ursprungsgebiet
︶と呼ばれるようになる。それと呼応して、これまで新カ
ibid., 27
︶6のである。哲学の対象領域としてもはや、原領域という語は使用されず、獲得されるべきものと
して根源領域[
ント主義の学の基礎付けという志向への共感を示すかのように用いられて来た根本学
16
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
[
]という哲学の異名は、根源領域の学として根源学[ Ursprungswissenchaft
]に取って
Urwissenschaft
替わられることになる。これは生の根源領域と哲学の根源とが同一視されるようになったことを反映
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
、傍点は原
ibid., 91
するが、そもそも戦時緊急学期講義において、同時代の知的傾向を客観化的﹁理論的なものの全面支
0
配﹂︵ GA56/57, ︶
87とみなして、その克服を試み、﹁理論的なもの一般の問題﹂︵
文イタリック体︶を環境世界体験に引き戻して解決しようとしたことを思い起こせば、当然の帰結で
あるかもしれない。だが、根源学の構想の動機が明瞭になるのは、一九二〇年夏学期講義においてで
︶と述べら
GA59, 171
ある。そこでは哲学の動機が﹁固有の現存在をたしかにする、あるいはむしろ不確かにする﹂という
実存的とも言えるところに求められ、その限りで﹁破壊は哲学の表現である﹂︵
れるからである。この破壊の契機は﹃存在と時間﹄にも引き継がれるものであるが、﹁そこ[自己世
︶という見解と表裏一体をなすも
界]から、哲学の全概念性が理解され、規定されうる﹂︵ ibid., 174
のである。以下では、この問題構想の動機を明らかにしていきたい。
17
13
第二章 生の事実性の学
第一節 外界の実在性
戦 時 緊 急 学 期 講 義 は、 学 の 基 礎 付 け と い う 新 カ ン ト 派 の 根 本 学 の 理 念 を 出 発 点 と し て 借 り つ つ、
]﹂︵ GA56/57, ︶
﹁理論的なものそのものがそこから根源を受け取る、真正な源︲学[ Ur-wissenshaft
97
を目指すものである。その際克服されるべき障害は前提の問題であるが、その解決の仕方は幾分操作
a. a. ︶
O.と前提の問題を導入する。このアポリアとは﹁体験そのものを前提するこ
的である。ハイデガーは体験の学的解明の方法として客観化的理論化を斥けつつ、﹁克服できないも
のが一つある﹂︵
a. a. ︶
O.という問
と﹂︵ a. a. ︶
O.であるが、体験一般の意義付帯的性格を導出したときと同様に解決する。すなわち、
内容的に空虚であるために存在者を前提しない問い、﹁そもそも何かがあるのか﹂︵
a. a. ︶
O.と答えることによって、再び体験へ還元する
] で あ る が、 そ の 際﹁ 外 界 の 実 在 性 に つ い て の 問 い は 認 識 論 の 問 題 で あ る ﹂︵
Realität
ibid.,
を直接的所与として出発するという、両者に共通する理論的態度である。ハイデガーはまず両者を
とする批判的実在論とカントを祖とする批判的│超越論的観念論であるが、実際の狙いは、感覚与件
︶
79ことを指摘し、認識論をも問題に取り込む。ここで俎上にのせられるのは、アリストテレスを祖
実 在 性[
のである。したがって実際に問われるのは、通常、環境世界体験の前提事項とみなされている外界の
いを提出し、﹁とはいえ、それは体験である﹂︵
14
18
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
﹁批判的﹂︵ a. a. ︶
O.と形容して、環境世界体験を含む﹁まだ認識論的に吟味を受けていない﹂﹁素朴
な﹂︵ a. a. ︶
O.態度、いわば自然的態度と対比する。しかしながら、﹁あまりに多くの仮定や前提を行
︶自然的な態度において再び直接的所与を問いかけ、﹁講壇体験においては
なってしまう﹂︵ ibid., 85
直接的に私に講壇が与えられている﹂︵ a. a. ︶
O.と答える。自然的態度においても、直接的所与とい
う言葉は意味的に機能する。むしろ、感覚与件が直接的所与という意味を獲得するのは、つまり﹁感
覚そのものが現にあるのは⋮第一義的には理論的態度においてである。﹂︵ a. a. ︶
O.
理論的な態度と素朴な態度とは、どちらをも取りうる並列的な可能性ではない。ハイデガーは講壇
︶を理論化の過程として追跡して
体験を例に、﹁講壇│箱│茶色の│木│事物という系列﹂︵ ibid., 89
a. a. ︶
O.ことであり、所与は認識論に
a. a. ︶
O.ことである。所与
︶であって、所与とみなすこ
ibid., 89
︶と術語化して、環境世界体験からの派生態とみなす。所与性と
見せ、これを﹁脱生動化﹂︵ ibid., 90
いう言葉すら環境世界体験に適合せず、既に﹁理論的な形式﹂︵
0
とは、﹁環境世界的なものの本来的な意味、意義的性格が取り去られる﹂︵
0
牲の付与は﹁まだ歴史的な自我の前にまず、単に立ておく﹂︵
﹁事物﹂である。
a. a. ︶
O.
おける感覚与件や物理学における空気の振動ではまだない。それには、﹁色、硬度、空間性、延長、
重さといった質がなお備わっている﹂
︵
]﹂︵ ibid., 90
︶は例
だが、事物性の領域への移行、すなわち環境世界体験の﹁脱意義化[ Entdeutung
えば講壇という│﹃存在と時間﹄の術語法を先取りするならば│内世界的存在者の意義を奪うばかり
19
]﹂︵
es weltet
︶という契機、いわば世界付帯的性格
ibid., 89
ではない。体験一般の意義付帯的性格は環境世界体験においては世界付帯的性格を伴なうものである
が、後者の体験の脱意義化は﹁世界する[
の持つ、内世界的存在者に随伴する地平的性格をも捨象するのである。こうして、所与性の意味獲得
を脱世界化と解釈し、所与性の起源がむしろ環境世界体験にあることを証示することによって、ハイ
デガーは外界の実在性の問いに反論することができる。実在性の意味は﹁既に理論的な領域である﹂
、と。
事物性の領域にあり、実在性の問いはむしろ﹁意味の倒錯﹂なのだ︵ ibid., ︶
91
ところで、実在性はむしろ理念として、﹁対象性という⋮理論的形式の本質﹂をなす。この理念と
対応する事物性の領域は﹁自然の客観牲と呼ぶものの最下位層﹂であり、したがってカテゴリー分類
ibid.,
にあっては、事物性は類種概念を包摂する最高類ではなく、むしろ﹁動機づけの法則性﹂を基づける。
こ の 法 則 性 が 持 つ 基 礎 付 け 関 係 に し た が っ て、﹁ 自 然 科 学 的 客 観 化 ﹂ の 諸 段 階 が 構 成 さ れ る︵
⋮
wenn
,⋮
so]﹂︵
︶においてであるとして、ハイ
ibid., 93
︶
。これと類比的に、前提ないし無前提という語が意味的に機能するのは、論理的な領域における
90
﹁基礎付け関係﹂、すなわち﹁⋮ならば、⋮[
デガーは、先に実在性問題は認識論的問題であるとして取り込んだ前提の問題をも解決してしまう。
﹂というカテゴリー的基礎付け﹂︵
es ist ]
so
a. a. ︶
O.の可能性を呈示し、体験問題に関して前提の問
すなわち、理論的考察方法である﹁仮説的な基礎付け﹂に対して﹁﹁それはかくかくしかじかである
[
題が成立しないことを指摘し、根本学の特徴であった自己根拠付けの循環の問題を止揚するのである。
20
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
第二節 実在の多様性
]がその現われにおいては多様な形態を取ることをハイデガーは否定し
即自的な生[ Leben an sich
]﹂︵ GA56/57, 171
︶の
ない。この事実はリッカートにとって、﹁物理的および心理的実在[ reales Sein
a. a. ︶
O.である。一九一
﹁概観不可能な多様性﹂であり、概念的に把握することを拒む事態であった。したがって経験の学的
]の概念による変形﹂︵
認識に残されている可能性は、﹁現実性[ Wirklichkeit
九年夏学期講義では、リッカートの取り扱いは認識論の体系性という問題系列上にあったために、概
念形成という課題を要求する、歴史的学の可能性、より一般的には精神科学の基礎付けという問題に
︶
ibid.,81
GA58, ︶
38として斥けられる。むしろ、
関しては立ち入って論じられなかったが、一九一九/二〇年冬学期講義では、リッカートの立てた
﹁概念形成﹂の問題は、﹁学による全現実性の理論的加工﹂︵
]︵
現実性が呈する外観を多様性と性格付けることは、内容、本質規定性[ Wasbestimmtheiten
Variationsreichtum des
ibid., ︶
38とみなし、多様な外観を産出する構造を根底に置くのである。
にしたがった結果であり、これに対しハイデガーは、﹁方向様式の変容の豊さ[
]﹂︵
Richtungsstils
ところで、概念形成の原理の究明という問題設定自体は概念と現実性との乖離を前提している。こ
れに対しハイデガーは、前世界的意味機能の発見によって所与と概念との間の本質的差異を消去し、
又客観化的理論化に対し形式的理論化を呈示して、類種的に一般化する概念とは異なる概念性の可能
21
15
]﹂︵
Verfügbarsein
︶の諸変容として規
ibid., 68
22
性を指摘していた。後者の概念性は、上述のリッカートを初めとして、通常は不可能とみなされてい
た体験の学の学問性を保証するものであり、一九一九年夏学期講義と並行する講義においてハイデ
ガーは、ディルタイの了解的学と説明的学の区別を借りながら、体験の学の可能性を論じてもいたの
である。この議論は、事実学とは己れを区別しつつ、学の基礎付けを試みる根本学的立場から、基礎
付けの課題を含む体験の学としての根源学的立場への変容と同時に、事実学の概念の変容をも含む。
すなわち、概念形成の理論とは異なる現実性への接近の仕方、適切には、概念が現実性へと一方的に
ibid.,
︶一般の可能性を
ibid., 78
介入するのではなく、事実的経験連関の変容として﹁学という表現連関のアプリオリな発生﹂︵
︶
65が新たに究明されるのである。この課題は、﹁表現連関としての学﹂︵
論じる学問論となるが、事実学と根源学の相違を際立てつつ、﹁生の根本学的告知連関としての現象
学﹂の条件、ないし学問性をも示すことになる。
である多様性において、﹁諸々の意のままになること[
の生動性とのみ述べられていた世界付帯的性格の第一義性は、即自的な生が持つ自己充足性の一側面
にそこにある﹂︵ GA58, ︶
66と主張することから始める。戦時緊急学期講義において、環境世界体験
れたものである﹂︵ GA56/57, ︶
91ことを示したことによって、ハイデガーは﹁具体的な経験地盤は現
学の発生の追跡にあたって、理論的態度が環境世界体験の脱意義化であるという見解を取り、また
一つには、外界の実在性問題に関して﹁一切の実在性が既に幾重にも変形され脱│意義化され導出さ
16
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
定され、理論化を促す脱生動化はこの﹁意のままになることという性格﹂︵ a. a. ︶
O.の貧窮化とみな
︶の名を与える
ibid., 71
︶を経験地盤から際
ibid., 69
︶あり、この貧窮化は﹁それによって学にとっ
ibid., 70
される。意義付帯的性格が体験一般に伴なうように、脱生動化による貧窮化が生じても、﹁意のまま
になること│般の性格は備えられたままで﹂︵
ての事象領域が規定される﹂ところの、等質的で﹁統一的な事象性格﹂︵
立てる役割を果たす。ところでハイデガーは、学の概念を﹁具体的論理学︵
ibid., ︶
74の連関である﹁構造諸形式が始めて具体化﹂︵
ibid., ︶
75される。
ことによって組み替えるのだが、この具体的論理学によって、事象領域における﹁諸対象と対象の振
舞い﹂︵
さて、学的表現連関としての具体的論理学が規定されたことによって、前理論的体験連関│これを
︵ ibid., 75
︶と呼ぶ│と比較しつつ、学一般の可能性を獲得することが
ハイデガーは﹁自己世界状況﹂
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
]﹂︵
Situationsumbildung
︶ こ と に よ っ て 示 さ れ る。
ibid., 76
a. a. ︶
O.と呼ばれ、両者において異なっているものは関
]﹂︵
Zumute sein a1s
ibid.,
︶
できる。学的状況においても﹁非学的に自己を告示する生世界からなにものかが入り込﹂︵ ibid., 76
0
︵
み、したがって﹁事実的な生の接近方向は両者の諸状況のうちで自己同一的に同じままである﹂
0
︶ が、 相 違 そ の も の は﹁ 違 う 気 分 で あ る[
76f.
0
これは﹁状況変形[
与の仕方である。すなわち、学的状況においては、﹁固有の自己世界へのどんな関与ももはや存立し
ibid., ︶
78ことである。
ておらず﹂、対象のほうからみられるならば、
﹁諸々の生世界は学によって脱生動化の傾向へと受け取
られ﹂、﹁事象領域へと平均化される﹂︵
23
a. a. ︶
O.を
︶という性格を堅持し
ibid.,81
しようとする根源学の理念は不合理である。これに対し
ibid., 80)
︶にしたがい、その所与が
ところで、学の厳密性が﹁客観化する学的な脱生動化の傾向﹂︵ ibid., 79
]における生の限界付けられた断片﹂︵ a. a. ︶
﹁常に個別化された視角[ Aspekt
O.であらざるをえない
ならば、生を﹁全体として把捉﹂︵
てハイデガーは、学の対象領域の際立てとしての﹁経験地盤の準備﹂︵
つつ、個別学の理念と根源学の理念とを区別し、後者に関し﹁根源からの了解の傾向﹂︵
]﹂︵
a. a. ︶
O. か ら﹁ 如 何 に 内 実[ Wiegehalt
︶ へ の 視 線 の 変 更 で あ り、
ibid., 83
主 張 す る こ と に よ っ て 解 決 す る。 根 源 か ら の 了 解 と は、 事 実 学 の 視 角 と し て の﹁ 本 質 諸 規 定 性
]﹂︵
[ Wasbestimmtheiten
この如何に内実は特定の│﹃存在と時間﹄の術語法を先取りすれば│内世界的存在者の規定性ではな
︶するほどの射程の広さを持ち、換言すれ
ibid., 84
く、﹁なにものかへの指示性格︵ a. a. ︶
O.であり、﹁非理論的な生の生内実と同様、事象考察の何内実
もある仕方では﹁如何に﹂において自らを呈示﹂︵
]﹂という連関性格にほかならない。
irgendwo
ば、対象に拘束されない。すなわち、如何に内実とは、経験されるものの現象形式としての﹁なんら
かの仕方で[
第三節 個別化の原理
﹁直観と表現の現象学﹂と題する一九二〇年夏学期講義がアプリオリおよび体験の問題の﹁破壊﹂
︵ GA59, ︶
12を企てているのは、一見奇異に思われる。講義のプログラムは、両者を﹁究極的に動機
24
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
づけている構造﹂︵
GA59, ︶
12が﹁現在の哲学を動かしている﹂︵
︶という構図のもとに問題
ibid., 18
に引き入れ、アプリオリの問題を歴史との連関において検討した後に、体験の問題を﹁自己反省﹂と
と性格付けたうえで考察し、最終的には﹁アプリオリのモ
いう表題のもとで理解しうる﹂︵ ibid., 90)
チーフ、歴史のモチーフ、世界観のモチーフないし普遍的考察のモチーフがいかにして連関し、具体
を問うという形を取る。講義のプログラムは両者の問
的な根源領域が見出だされるのか﹂︵ ibid., 89)
題を同格的に扱うかの印象を与えるのであるが、むしろアプリオリ問題において哲学的に問うことの
根源性の基準を導出し、それを体験問題へ適用するという手順を踏む。後者の問題は、体験遂行とし
ibid.,
てのカテゴリー形成、すなわち表現の問題につながることになる。したがって、本節ではこの手順に
従いつつ、ハイデガーの関心の所在を明らかにすることを目的とする。
歴 史 現 象 の 導 入 は、 そ れ が﹁ ア プ リ オ リ な い し 絶 対 的 妥 当、 哲 学 の 対 象 を 危 険 に さ ら す ﹂︵
︶
43という性格にその理由が求められ、一見外的である。考察は日常言語的表現における歴史概念の
︶を、関与意味[ Bezugssinn
]、遂行意味[ Vollzugssinn
]によ
ibid.,49
多義性を、﹁歴史を持つ﹂という用法に着目しつつ六つの例を挙げて指摘し、これらの﹁諸意義連関
がそこから生じる根源的意味﹂︵
る性格付けを行ないつつ求めるという手順を踏む。﹁持つ﹂という用法への着目は志向性概念の導入
を準備する。ハイデガーは﹁歴史を持たない民族がある﹂という例に依拠しつつ、﹁﹁歴史を持つ﹂な
いし﹁持たない﹂における﹁持つ﹂は︵形式的な︶関係であり、そこでは一方の関係項、すなわち部
25
17
︶と述べる。こ
ibid., 52
︶として﹁関与[
ibid., 60
]﹂と呼
Bezug
︶。 反 省 の 遂 行 主 体 の 人 称 性 へ の 問 い は、 関 与 の 持 つ 構 造 的 中 立 性 に 基 づ く。 と い う の は、
ibid., 62
26
族は客観として機能している、あるいは考えられているのではなく、固有に、かつ様々な仕方で﹁持
つ﹂ないし﹁持たない﹂ことができる主観として機能し、考えられている﹂︵
︶の接近の仕方︵
Wie
の関係は、﹁経験されたものの十全な形式と仕方、すなわち例に挙げられた諸々の意義の内で考えら
れているもの[=歴史]とその如何に︵
ばれるが、その直後の﹁関与は意味的なもの、意義付帯的なものである﹂︵ a. a. ︶
O.という一文から、
戦時緊急学期講義において意義付帯的性格が体験一般に属するものと考えられていることを思い起こ
すならば、関与が体験一般の構造に対する命名であるといえよう。しかしながら、関与は志向的構造
として自我ならざる対象に向かうばかりではない。その特徴は、その意義が﹁ほかのすべての意味よ
︶例に即して取り出された﹁それ自身生きられた自分の過去との内在的
GBT, 129
︶という自己関係性にある。先の引用における関与の形式性、すなわち、歴
ibid., 54
り根源的である﹂︵
な現存在関係﹂︵
史を﹁﹁持つ﹂ないし﹁持たない﹂ことができる﹂のこの﹁できる﹂は、自己獲得と自己喪失の可能
性としての中立性を意味する。
さ て、 体 験 一 般 の 構 造 と し て の 関 与 に 対 し、 更 に﹁ 関 与 へ の 関 与 ﹂、﹁ 関 与 の も た れ て い る 仕 方 ﹂
︶が問われ、いわば体験への反省が登場し、この仕方、関与は﹁遂行[ Vo11zug
]﹂と名付け
︵ ibid., 62
︵
ら れ る の だ が、 こ の と き ハ イ デ ガ ー は 重 ね て 次 の よ う に 問 う。﹁ 誰 が 持 つ の か が 問 わ れ る だ ろ う ﹂
18
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
関与が既に構造的に自己関係性を備えているために、反省的体験である現象学的経験といえども、こ
の関係構造から免れることはできないからである。換言すれば、体験一般としての関与に対し、その
反省としての遂行という問題設定が意味を持たず、したがって、現象学的態度が、自然的態度を超越
した傍観者的なそれとして、静態的反省を行なうことはできず、むしろ体験の遂行様態として、それ
自身で反省の再帰性を備える体験構造に貫かれつつ反省を遂行するほかなく、反省は体験の一様態と
ならざるをえない。したがって、反省する自我は反省行為においてこそその匿名性を失い、普遍的主
観性、ないし超越論的主観性の概念を解体することにもなる。﹁理論的な作用と作用遂行において問
題 と な っ て い る の は、 具 体 的 な 判 断 遂 行 で は な く、 判 断 す る 意 識 一 般、 判 断 の 純 粋 な 形 式 で あ る ﹂
︶という言明はこの意味において理解しうるだろう。それどころか反省的自我の匿名性の喪
︵ ibid., 63
失は、体験構造の自己関係性に基づいて、遂行主体の具体性、ないし顕在化の十全性が規定されると
いう事態を招く。それゆえ、歴史学を学ぶという理論的態度のうちにある関与形式を遂行意味によっ
て性格づける際に、﹁たしかにここでも顕在的なものとしての関与は顕在的な主観において遂行され
ibid., ︶
76と述べられもするのである。
るが、この主観は、理論的認識課題そのものによって限界付けられた範囲においてのみ相関的であ
る﹂︵
ところで、反省的体験が日常的なそれと同一の構造に基づき、体験の一様態に過ぎないとすれば、
反省的態度と日常的なそれとを区別し、反省の普遍性を保証するのは、遂行主体の具体化の十全性、
27
28
すなわち完全な顕在化の成就によってである。体験問題を扱う第二部において、問題が﹁どのような
︶が根源性の基準となりうるのは、こうし
ibid., 147
︶されつ
仕方で体験としての生が理性的に哲学にとって近づかれうるかということに制限﹂︵ ibid., 88
]﹂︵
つも、﹁具体的、自己世界的な現存[ Dasein
た理由に基づく。同時に、日常的体験と反省的なそれとの間に構造的な区別は存せず、日常的な行為
も又反省の再帰性を備えるのであれば、日常的体験が既に体験連関の把捉にほかならない。したがっ
て、反省的、非反省的という区別を無視したところで、体験連関の把捉において、それと同時的に体
験の遂行主体の人称性、換言すれば自我の個体性を獲得するという問題が課せられる。この問題に取
り組んだ人物としてナトルプとディルタイが考察され、問題そのものは﹁全体からの個別的なものの
︶、いわば﹁個別化の原理﹂として定式化されるのだが、論述そのものはかなり込み
規定﹂︵ ibid., 168
ものという質料概念が論述の明瞭性をそぐことになったと思われるのだが、ここでは、ナトルプの個
。実は、心理学と不即不離の心理的なもの、物理的な
ハイデガーによる捉え返しである︵ GA59, ︶
90
受けることを指摘したが、これはナトルプとディルタイが心理学という表題のもとで論じた事柄への
象そのものの概念性に付きまとう曖昧さによる。さきに、体験問題が﹁自己反省﹂という性格付けを
入っている。その理由は、おそらくもう一つの関心事が入り込んでいることに、あるいはむしろ、事
19
さて、ナトルプ自身は、当時の﹁心理学の根本的な欠陥を主観的なものを客観化すること、つまり
別化の原理に焦点を当てることにする。
20
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
客観規定という仕方で把捉し、概念的に体系化することに見ている﹂︵
。それゆえこの欠陥
ibid., 98)
を克服するために、主観化の方向が取られるのだが、その方法は主観的なものを客観的なものとの相
]という概念で括り、体験連関そのものは客観化ないし顕在化の﹁完遂不可能な過程﹂︵ a. a.
Potenz
関において捉えんとするものである。すなわち、主観的なものを客観化的決定可能性としての潜在態
[
︶
O.とみなされる。ここでは、主観的なものそのものは最下位の限界においては決定に先立つ﹁カオ
︶であると同時に、最上位の限界においては﹁純粋な顕在性﹂︵ a. a. ︶
ス﹂︵ ibid., 117
O.としての絶対
的な自己知であり、後者が体験連関の全体として根源性を主張する。ナトルプにおいては決定、ない
し顕在化は客観化に限定され、主観的なものとしての自我はそもそも思惟不可能である。したがって
その都度の具体的な個体は、客観化の無限系列上の点であり、又具体的、個別的なものとしての自我
は、主観的なものの客観化を可能にする関係点として、客観化的思惟の背後に退き、むしろ思惟の前
︶ことを非難し、また﹁ナトル
ibid., 92
提である。それゆえハイデガーは、ナトルプの体験概念において、体験が﹁体験する自我、主観ない
し意識へと関係付けられているものとして考えられている﹂︵
︶
ibid., 132
プは次の間いを立てることなどしない。つまり一体自我が思惟されるべきであるのか、その意味は必
然的 に思惟に おいて規 定される に違いなく、規定 され うるのか │思 惟の相関 者と して﹂︵
と抗議するのである。ナトルプにおいては、自我は思惟の前提として顕在化による規定を拒むばかり
か、具体的個体性において根源性を主張しえない。
29
第三章 現象学的理性
第一節 前理論的理性
現象学の解釈学化というモチーフは、ハイデガーにとって、現象学の外側からもたらされたもので
︶と
はない。それは、現象学の問題を﹁体験領域の学的解明の仕方についての問い﹂︵ GA56/57, 109
理解していた戦時緊急学期講義の環境世界体験の分析に遡る。客観化する理論的態度の対極にあるも
︶いた。非理
のとして取り上げられた環境世界体験は既に、﹁意義を帯びた契機を持って﹂︵ ibid., 72
論的な、より適切には前理論的な体験の持つ言語的機能は、現象学的方法に対するナトルプの批判と
対決するときに、│これはまた、フッサールヘの批判的考量ともなるのだが、│方法論的に自覚され
る。ナトルプの批判は記述的反省に向けられる。すなわち、﹁意識ないし体験は絶対的に与えられう
︶という現象学の要求は、記述という概念操作を手段とする以上、
﹁客観化する手続き﹂
ibid., 102
a. a. ︶
O.。この異論に対して、ハイデガー
︶、つまり﹁間接的な把握﹂︵ ibid., 101
︶であって、﹁体験の﹁絶対的な﹂叙述が、また﹁絶
ibid., 101
る﹂︵
︵
対的に﹂、直接的に達せられうる、ということではない﹂︵
は二つの先入観を指摘する。一つは明証性にかかわるものであり、フツサールの﹁諸原理中の原理﹂
質 の も の で は な い ﹂︵
︶ と 主 張 す る。 体 験 が 既 に 意 義 を 帯 び た も の で あ る と い う 立 場 か ら、
ibid., 109
についての言明を援用しながら、この原理が﹁すべての原理に先立ってあるものとして﹂﹁理論的性
21
30
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
ナトルプの異論は、意義[ Bedeutung
]を理論的次元に固定し、﹁言語はすべてそれ自体で既に客観化
︶という先入観に基づくものとして斥けられる。﹁理論的なものの全面的支配﹂
的である﹂︵ ibid., l11
の打破という戦略上で、おそらくはフッサールに向けられた批判でもあるが、もう一つの﹁理論的な
先入観﹂が指摘される。すなわち、
﹁現象学的に見ることがただちに⋮記述と同一視される﹂︵ a. a. ︶
O.
というのがそれである。ここでは現象学的経験に、その方法論につながる二つの可能性が考慮されて
a. a. ︶
O.という可能性であり、もう一つは、
いる。一つは、記述と現象学的直覚が同一であることを差し当たり承認したうえで、﹁記述が基礎を
与える直覚であり、⋮理論的な種類のものではない﹂︵
直観と表現との断絶が絶対的なものであるかという疑念である。﹁そもそも対象と認識、所与︵能与
︶。
しうるもの︶と記述という二元性、分離は存立するのだろうか﹂︵ ibid., 111f.
︶とみなしていたにせよ、理
ibid., 73
]なそ
この疑念は理論的体験に対し、環境世界体験、すなわち意義付帯的体験が自然的[ natürlich
れであるという姿勢に由来するであろう。だが、既に環境世界体験に特有な、世界付帯的性格を伴な
う意義付帯性を、﹁第一義的であり、直接に私に与えられる﹂︵
論的体験の限界を示し、この態度の絶対性が揺るがされたときに、この見解は正当とされうる。理論
的態度の相対化が行なわれるのは、脱生動化としての理論的対象化を押し進め、﹁体験可能なこと一
︶が存しており、したがって、理論的体験にも環境世界体験にも優位は与えられていない。
ibid., 115
般 ﹂ が 見 出 だ さ れ る と き で あ る。 こ の 可 能 性 に は、﹁ あ ら ゆ る 真 正 な 世 界 付 帯 性 に 対 す る 無 差 別 ﹂
︵
31
a. a. ︶
O.のであり、﹁前世界的なこと﹂といわれる。ハイデガーは一つの体験の内に前世界的
むしろ、体験可能性は可能性として、﹁真正な、世界付帯的な性格付けをまだ刻み込んでしまってい
ない﹂︵
な次元と世界付帯的な次元との二重性を見出だし、その間を世界付帯的な性格付けの働き、すなわち
という有意義化作用で繋いで、直観と表現を連続線上におく。すなわち、﹁前世界的なこと一
welten
般としての﹁何か﹂は、了解しつつ体験されうる根本現象であり﹂
︵ a. a. ︶
O.、その表現として、同一
の体験の内で世界付帯性という意義付帯的性格が成立するのである。無差別的な前世界的次元におけ
る有意義化作用を現象として確保したことによって、ハイデガーはナトルプの言語に関する批判に反
]というわけでは必ずしもない﹂︵ ibid., 117
︶。同時にこの有意義化作用、﹁前世界的な
meinen
論することができる。﹁意義的なもの、したがって言語表現は、即座に理論的あるいは客観的に思考
する[
]な還帰的、
意味機能﹂のゆえに、所与と記述の二元性は克服され、それはむしろ﹁本源的[ originär
先行的把握│形成﹂として、
﹁解釈学的直覚﹂︵ a. a. ︶
O.と呼ばれうる。
第二節 現象学的経験の変容
﹁諸原理中の原理﹂が非理論的な性質を持つという指摘は、体験における前世界的な次元の発見に
よって、現象学的経験にも変容をもたらす。この性質に言及したときに既に、現象学の原理は﹁真な
る生一般の根源的志向、体験と生そのものの根源的態度、絶対的な、体験そのものと同一の生の共
32
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
感﹂︵ GA56/57, 110
︶と述べられていたが、直観と表現の連続性を﹁前世界的かつ世界付帯的な意義
︶ と し て 現 象 的 に 確 保 し た こ と に よ っ て、 所 与 と 記 述 と い う 二 元 性 が 解 消 さ れ る。
機 能 ﹂︵ ibid., l17
︶がその意味を失い、体験の直観と直観される体験という差異は、体験
ibid., 100
すなわち、﹁諸体験は反省においてはたしかに、もはや体験されるのではなく、見て取られる﹂とい
う﹁反省の意味﹂︵
の持つ意義機能に吸収される。前理論的意義機能のこの同質性は体験の持つ生動性を反省において保
ち続けることを可能にするが、他方で、反省的体験と非反省的体験との差異が不明瞭にならざるをえ
ない。すなわち、体験が既に潜在的にであれ、反省的契機を含むものであるならば、自然的態度から
現象学的態度への還元という語り方は許されない。というのは、この還元は、戦時緊急学期講義の言
葉遣いにしたがうならば、﹁素朴な﹂態度から﹁ 理論的態度﹂への﹁跳躍﹂とならざるをえないから
である。それゆえ、むしろ体験一般の在り方の内に態度変更が可能となる臨界点が見出だされねばな
らない。この課題は同時に、体験一般の構造の内に反省的契機が含まれることを析出し、反省の可能
差している領域がまず第一に研究され﹂︵
︶るという構成を取る。
GA58, 29
一九/二〇年冬学期講義は、﹁そのうちで哲学の対象領域の判然とした、方法的呈示︵
︶が根
Gebung
性を証示したうえで改めて反省を遂行するという手続きを要求することでもある。したがって、一九
23
さて、戦時緊急学期講義において世界付帯的性格の発見につながつた環境世界体験は、講義の構成
、事象把握
においては、﹁第一の体験[=理論的体験]となんらかの対象関係にあり︵ GA56/57, ︶
70
33
22
を経る知的な回り道なしに、ただ直接に与えられる﹂︵
0
0
GA58, ︶
29
︶ものとして導入された。この直接性
ibid., 73
0
は翌冬学期講義において、﹁生の己れに即しての、己れそのものへの絶対的距離の欠如﹂︵
︶。というのは、
ibid., 41
︶と術語化される。しかしながら、﹁﹁自己充足性﹂という現象そのも
ibid., 30
と し て 捉 え 返 さ れ、﹁ あ る 観 点 に お い て、﹁ 即 自 ﹂ を 性 格 付 け る ﹂ も の と し て、﹁ 自 己 充 足 性
]﹂︵
[ Selbstgenügsamkeit
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
]とな﹂︵
problematisch
0
0
0
0
0
0
0
0
0
ibid., ︶
36らねばならない。だが、自然的態度
]﹂︵
Fraglichkeitscharakter
ibid., ︶
41と呼ぶが、この要求に対しては、
a. a. ︶
O.からである。したがって、即自
かであるが、その際、即自的な生の考察に表現ないし、告知、現象という﹁新たな観点﹂︵ a. a. ︶
O.
︶問い掛ける
的な生を間題にするために残された課題は、﹁どのような厳密学的な意味で﹂︵ ibid., 43
しての生を問いの内に立て、生に究極的な意味を与える﹂︵
︶として、世界観と宗教を証左とする。というのも、それらは﹁全体と
内に保持している﹂︵ ibid., 42
﹁どんな可問性も︵理論的│学的可問性ばかりでなく︶その答えを即自的な生の構造形式そのものの
が持つ反省的契機を﹁可問性性格[
きるものの体験構造の内に見出だされねばならないのは、上述の通りである。ハイデガーは体験構造
を反省のまなざしのもとへもたらすことが目指されているにしても、反省の可能性が自然的態度を生
さ が 絶 対 的 に 問 題 を 含 む も の[
を規定しているからである。したがって、この現象が見られうるためには、﹁最も平凡な諸々の平凡
0
︶
生の即自態には﹁ニュートラルで、灰色の、目立たない色調﹂があり、これが﹁日常性﹂︵ ibid., 39
のは即自的な生の内部、この内部にとどまることにおいては見られえない﹂︵
24
34
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
︶のであるが、この告知という現象に、自然的態度を生き
ibid., 45
が投入される。すなわち、﹁我々が生きている生において出会いうることのすべては、諸々の出来事
の連関において己れを告知する﹂
︵
a. a. ︶
O.ことにほかならないからである。
るものの関心が引きつけられることはない。というのは、関心を惹起されないというこのことが、ま
さしく﹁即自的な生の自己充足的な在り方の内にある﹂︵
ところで、告知性格を生の即自態において取り出すことは、理性の前理論化を招き、現象学的反省
を含む広義での理論的態度と自然的態度との断絶を解消すると共に、学的表現体系を表現体系の一つ
として相対化することを可能にする。この相対化は、体験が既に意義付帯的であり、理性的性格を示
すものであるならば、体験と無関係な複数の表現体系の一つを選択しうるという等価的な可能性の並
列を意味するのではなく、むしろ態度変更と対応する体験の表現連関の変容とみなされうる。しかし
この結論が恣意的であることを避けるためには、再び自然的態度の内部において狭義での理論的経験
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
と日常的経験との差異を示し、かつ学的表現体系を表現連関の変容としてその連続性において追跡し
0
0
0
0
0
]、例えば学にも妥当する﹂︵ ibid., 46
︶として、即自的な生の暫定的性格付けにお
Ausformengen
0
うるのでなければならない。それゆえハイデガーは生の告知性格が、﹁生の諸傾向のきわだった形態
0
化[
︶ることによって、日常的経験の文脈
ibid., 46
いて歴史的学と自然科学を考察する。歴史的学の考察の意図は、﹁学がその出発点を環境世界に取﹂
り、﹁環境世界的な事物が新たな傾向に受け取られ﹂︵
が学的連関に変容しうることを示すと共に、﹁なんらかのもの、体験されたものはなんらかの仕方で
35
25
己れを与える、⋮ということを、それは現象する、現象である、と定式化﹂︵
︶することにあ
ibid., 50
包括﹂︵
GA56/57, ︶
87との連関で、﹁理論的知、認識の整序された︵つまり、そこから様々に動機づけ
︶しうること、また、戦時緊急講義の一つのモチーフであった理論的なものの全面支
ibid., 51
る。また自然科学に関しては、﹁特定の意味でその対象領域にしたがって、そうはいっても全世界を
配﹂︵
られた︶説明形式﹂︵ GA58, ︶
54として、自然科学的表現連関が、現象概念に関し、表現形式上、解
︶することにある。だが、学的表現連関の考察は総じて、
ibid., 55
釈による変容を被っていることを示すとともに、﹁他の連関のもとにある一つの告知連関であって、
それを絶対化しないように警告﹂︵
根本経験の条件として﹁事実的な生が自己世界において際立った仕方で中心となり﹁得る﹂﹂︵ ibid.,
︶
57という可能性を事実から証示し、かつ学的表現連関において﹁事実的な生のうちで出会われるも
ibid., ︶
65するためである。
、﹁学の厳密さと明証のそのつどの性格が、生来的な経験世界から動
学の告知連関としての考察は
︶ことを結論するが、これは学の基礎付けという根本学的な
機づけられているに違いない﹂︵ ibid., 93
のの一定の圏域が際立﹂つことを﹁事実的に確定﹂︵
26
るという課題を生む。この考察はまた、諸学の各々における客観牲が﹁理論化の段階﹂︵
︶に求めることが唯一の選択肢で
﹁数学的な自然諸科学との大かれ少なかれ危なげな類比﹂︵ ibid., 50
応じて異なることをも理解せしめ、したがって、諸学の表現体系を相対化すると共に、学の厳密さを
︶に
ibid., 93
︶を追跡す
立場からすれば、﹁世界一般という前理論的体制の意味発生的な際立ての過程﹂︵ ibid., 94
27
28
36
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
はないことを示すことになる。一方、生ないし体験の学としての根源学の立場からすれば、前理論的
体制の理論化を促す脱意義化は、第一義的には世界付帯的性格の消去であるゆえに、世界付帯的な体
︶だからである。
ibid., 96
験に考察を差し戻すが、しかも環境世界体験へと差し戻す。というのは、﹁[事実的な生の生動的な]
この接近方向において、私は時折自分に出会いもするが、大抵は逃走的﹂︵
すなわち、前理論的体験においてその志向的対象は│これは、翌一九二〇年夏学期講義では﹁内実意
]﹂と術語化される│内世界的存在者であり、体験の直接性を示す目立たなさにおいて、
味[ Gehaltssinn
0
0
︶であるが、しかも﹁際立ち[
ibid., 95
0
︶。
ibid., 101
]のまさ
Besonderheit
実は自己世界こそがもっとも目立たない領域であることを示している。したがって、焦眉の問題は
﹁自己世界の生来的な根本経験の獲得﹂︵
0
しくこの根本経験としての理解︵根本経験の遂行のみではなく、﹁獲得﹂︶が問題である﹂︵
︶である。
ibid., 101
というのは、この際立ちこそが、体験の学としての根源学の反省的性格の指標だからである。それゆ
え問われるのは、﹁いかにして際立った経験様式の際立てへともたらされるか﹂︵
﹂を要求し、
だが、際立て、反省すら体験の可能性として、﹁日常性の内部から還元の場を開くこと
︶。この目立たなさ
考察を再び﹁事実的には目立たない生経験一般の獲得へと導き返す﹂︵ GA58, 102
への注目は、既に体験へのまなざしが現象学的に変更されていることを示している。﹁経験されるも
]という同一の意味を持つ﹂
Existenz
]に結び件けられているのでは
Wasgehalt
ののすべては│内容的には異質であるかもしれないが│現存[
︶という言明が可能であるのは、﹁特定の何内実[
︵ ibid., 104
37
29
な い ﹂﹁ 如 何 に 内 実[ Wiegehalt
]﹂︵
︶ と い う 視 点 を 取 っ て い る か ら で あ る。 何 内 実 は む し ろ
ibid., 85
]と術語化さ
Bedeutsamkeit
a. a. ︶
O.のである。[形式的
﹁如何に内実の内に存し、﹁如何に﹂の形式で自らを与える﹂︵ a. a. ︶
O.。換言すれば、﹁この如何に内
]がある﹂︵
Hinweisen auf
]という同一の意味は有意義性[
Wirklichkeit
実は、それ自身の内に内実的に﹁への指示﹂[
理論化]現存ないし現実性[
]を持つ﹂ことが指摘され、戦時緊急学
れるが、﹁どの有意義性も新たな諸有意義性の包囲[ Umring
]という判然とした性格﹂︵
Bedeutung
a. a. ︶
O.
a. a. ︶
O.が日常性において看取され
期講義に比べ、その地平的性格が明瞭になっている。有意義性の現象性格は目立たなさにあり、﹁私
にとっての際立った意義[
ることはまれである。この目立たなさはむしろ、日常的経験にとって﹁制限や障壁がない﹂︵
︶という区別が既に理論化の特定の段階に結び
a. a. ︶
O.。というのは、﹁外界│内界﹂︵ ibid., 106
ことを示しており、﹁世界は私の考えとは独立にそれ自体で現存するのか、という問いは無意味であ
る﹂︵
付けられた言明であるからだ。この制限のなさは体験が持つ﹁開かれた状況﹂︵ a. a. ︶
O.を意味し、
体験構造の側から見れば、戦時緊急学期講義で発見された﹁体験可能なこと一般﹂という可能性であ
る。この可能性は本講義においては、﹁前理論的何かは生の最高度に潜在的で完全な不気味さを担っ
︶という形で言明され、﹁根源から発現
ibid., 107
ており、しかもその見通しえない、だがなお生き生きした期待連関は、際立った世界│経験様式の、
まさしく最小限の目立ちが存することなしにある﹂︵
︶という観点から捉え返されていると共に、環境世界体験の意義付帯的
するものとしての生﹂︵ ibid.
38
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
性格である世界付帯的性格は﹁制限や障害がない﹂という領域的性格付けにとどまらず、環境、共世
界、自己世界を貫通する体験構造に属するものとして世界内存在を予想させる。
ところで、目立たなさは、学的表現連関における経験世界の一定の圏域の際立てとの対照において、
自然的態度における狭義の理論的態度が持つ領域論的観点から取り出されたものではあるが、現象学
的に変容を被ったまなざしのもとで日常性が持つ現象性格として確定された以上、日常的経験と理論
的経験とを隔てる際立ちという現象性格は、現象学的態度が働く広義での理論的文脈において有効に
機能する。したがって残された問題は、際立ての可能性を日常的経験に見出だし、現象学的経験とし
︶として体験一般の
ibid., 114
て方法論的に自覚することであるが、この経験も又体験に属するかぎり、﹁事実的な経験の変容﹂で
あると同時に、﹁事実的な経験の根本様式の内に己れを保持するもの﹂︵
]
志向的構造に貫かれているのである。ハイデガーは還元の場を開く機能を﹁気づき[ Kenntnisnahme
という事実的な経験に求める。気づきの経験は前理論的なものとして、理論化の脱意義化作用にさら
︶という特徴を備えている。この限界のなさは何内実にしたがえは、
ibid., 107
されておらず、有意義性の内にとどまり、したがって﹁一定の経験世界に判然とは裁断されない事実
的な経験の限界のなさ﹂
︵
体験内容の量的無限とみなされようが、如何に内実にしたがえは、むしろ表現形式として有意義性の
内にとどまる限りで前理論的何かの可能性をそれ自身の内に保持しつつ、学的な領域性において未分
節であることを示している。しかしながら、やはり﹁事実的な経験連関を表現する﹂作用として分節
39
30
︶﹂、有意義性の振舞い[
ibid., 114
︶となりうるも
ibid., 106
]を表現するのであり、﹁意味発生的には理論
Verhalten
性を備えており、この分節性は﹁類種的な、あるいは概念的に領域的な性格付けの﹁として︵ als
︶﹂
ではなく︵
化の特定の段階と結ばれていないゆえに自由である形式化の自由な過程﹂︵
のである。
さて、気付きという現象は、領域的分節化を行なうのではないが、なんらかの分節性を備えている
︶。いまや、この相違を
ものとして、生の即自的な経験に対し、﹁なんらかの相違がある﹂︵ ibid., l16
明らかにすればよいのであるが、学一般の可能性において述べられたことがここでも妥当する。すな
︶。むし
ibid., 116
わち、学的表現連関と前理論的有意義連関において、その対象的側面にしたがえば接近方向が同一で
あることが指摘されていたが、気付きにおいても﹁同一のものへと定位している﹂︵
︶しつつ有意義連関が形成されるが、即自態にとど
ibid., 117
ろ、相違そのものは体験の現象形式としての連関にかかわる。事実的経験遂行においては、﹁事実的
生の瞬間的局面﹂が﹁恒常的に交替﹂︵
a. a. ︶
O.が特徴的である。これに対し気付きにおいては、﹁連関それ自体がそもそも志向されて
まる限り、﹁私はそれを気にかけず﹂、むしろ﹁自己を形成する有意義連関とその局面の性格付けの欠
如﹂︵
0
0
いるばかりでなく﹂、この連関を﹁相対的に全体的なものとして受け取り﹂、﹁経験されるものそのも
︶が主導的である。
のとしての連関を構造的に表現する凝固への傾向﹂︵ ibid., 118
ところで、本講義においては、有意義性のうちにとどまりつつ、分節化を備えているその現象性格
40
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
ゆえに、即自的な生を根源学の対象領域として際立てうるものとして気付きという経験が注目された
のであるが、この際立てという機能がこれ以上追跡されることはなく、むしろ、その理論的事物認識
への変容が追跡される。したがって、本節においては体験連関を構造的に表現するという、おそらく
根源学の領域の際立てに要求されるであろう機能のみに注意を向けておくことにする。
第三節 体験の再帰的構造
戦時緊急学期講義における前理論的理性の発見は、反省の可能性の自己根拠付けという要求に基づ
いて、体験構造の分析においてその体系構成を規定することになった。だが、当初は体験の反省の可
能性としてのみ自覚された前理論的理性は、体験構造の把握内容にも変化をもたらす。すなわち、体
験構造一般に備わる反省的契機としての可問性は、反省の持つ自己言及的性格の反映として、自己関
GA58, ︶
96性格が言及されていることは、明言されてはいないにしろ体験の
係性として構造化されることになる。既に、一九一九/二〇年冬学期講義において、日常牲における
自己からの﹁逃走的﹂︵
再帰的自己関係性を視野に入れていたことを示唆するのかもしれない。だが、この逃走性格は、体験
がその志向的対象として、内世界的存在者と自己とにかかわらず任意の対象を取りうることを示すに
GA59, ︶
52 と し て 中 立 的 立 場 に 置 き、 そ の う え で﹁ 遂 行 的 な も の[
]﹂︵
Vollzugsmässige
︶、
ibid., 150
過 ぎ な い だ ろ う。 一 九 二 〇 年 夏 学 期 講 義 の 眼 目 は、 体 験 構 造 の 自 己 関 係 性 を﹁︵ 形 式 的 な ︶ 関 係 ﹂
︵
41
31
関係の遂行の仕方を問うたことだろう。というのは、自己関係性を体験構造に組み込んだことによっ
て反省の可能性を常住的な潜在性、つまりいつでも顕在化しうる可能性として保証すると共に、 │同
語反復的な事態ではあるが│ 直前の冬学期講義では態度変更の可能性が、無論、その現象性格に注
目したからではあるにせよ、それ自身体験構造の反復的遂行にほかならない気づきという特定の行為
に求められていたのに対し、構造そのものには還元されえない様態とみなされたからである。
ところで、体験一般と反省とが基づいている構造の同一性は、靜態的反省によって体験構造を露わ
にすることを不可能にし、むしろ反省遂行は体験の遂行様態の変容とならざるをえない。すなわち、
反省遂行の匿名的潜在態であった前理論的体験が、自己関係的構造に基づいて己れそのものにほかな
らない体験に再帰的にかかわることによって、自らの体験構造を露呈するのである。同時に、この前
理論的体験も、その再帰的構造を支えとして可能であるゆえに、既になんらかの自己理解を持ち、し
たがって顕在的な反省遂行においては、自己の全面的な顕在化を要求することになる。しかしながら
反省的体験と前理論的体験とが基づく構造の同一性は、反省を遂行した後に始めて証示され得るので
あり、反省の自己根拠付けという要求は、その体系的論理性に循環を持ち込むことになる。
さて、前節において、理性の前理論化が体験一般の構造のうちに、したがって体験の反省の論述構
成としては自然的態度において、反省的契機の析出を要求することを述べたが、この析出自身は、関
与の際立てにおいて反省的まなざしが既に匿名的に働いていることを意味する。この匿名的まなざし
42
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
は、反省の可能性が証示された後に姶めて自覚的反省遂行として顕在化され、いわば固有名を獲得す
ることができるが、この顕在化が、反省的まなざしを担う遂行主体の、むしろ反省的まなざしにほか
ならない遂行主体の全面的自己獲得であることは上述の通りである。また、反省的まなざしの匿名性
はもう一つの事態をも指示する。すなわち、匿名性における反省遂行は、遂行主体の気づかぬうちに
体験の変容を被っていることにほかならず、この変容の導因、動機づけを指示するのである。だが他
0
0
0
︶を強調し、﹁哲
GA58, 101
方で、反省の匿名的機能というこの同一の事態は、反省の対象がまさしく自己自身にほかならないこ
0
︶ことを指摘するのは、このためでもあろう。という
ibid., 170
とを忘却させうる。ハイデガーが根本経験の﹁遂行のみならず、獲得﹂︵
学の根源的動機が忘却されている﹂︵
︶ことになろう。
167
0
﹁審美的に﹂見る﹂︵
合のように﹁心的なものを⋮精神史という外側から形態として、静態的に、
0
ibid.,
︶規定性の背後に退けられるか、ディルタイの場
理論的な思惟自我及び認識自我として﹂︵ GA59, 132
この場合、自我ないし体験問題は、ナトルプの場合のように、﹁思惟に関係付けられたものとして、
のは、そもそも自己自身が問題となるのは、その確実性が揺らいでいることに起因するからである。
33
]﹂という語を用いて来たが、ここに至って事実性[
faktisches Leben
]と
Faktizität
│﹃存在と時間﹄では本来性、非本来性
ところで、自己忘却的反省の考察は、体験の遂行様態の
として術語化されるであろう│ 二極化へと考察を招く。戦時緊急学期講義以来、ハイデガーはたび
たび﹁事実的な生[
43
32
]﹂︵
Erneuterung
]が顕在的
Bekümmerung
︶にほかならない。すなわち、事
ibid., 174
︶であり、根本経験とは、この滑り落ちの危険のゆえに、﹁煩い[
ibid., 173
い う 概 念 が 漸 く 内 容 的 決 定 を 受 け る。 そ れ は﹁ 根 源 か ら の 滑 り 落 ち へ の 絶 え ざ る 気 遣 い[ Sorge
]﹂
︵
現存在へと導き戻される﹂という﹁刷新[
実性とは、現存在がそのうちに置かれる、根源とそこからの滑り落ちとの緊張関係である。事実性の
]﹂として、非人称的生から人称性を帯びた﹁生経験の顕在的遂行における自己﹂︵
Urwirklichkeit
ibid.,
こ の 内 容 的 決 定 と と も に 考 察 は、 そ こ か ら﹁ 全 現 実 性 が そ の 根 源 的 意 味 を 受 け 取 る ﹂﹁ 原 現 実 性
[
︶に差し向けられることになる。
173
44
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
結 語
これまで、反省論的視点のもとでテキストを読み解いて来たが、驚きを覚えるのは、一九一九/二
〇年冬学期講義のプログラムを初めとして、初期フライブルク講義群における﹃存在と時間﹄の論述
の構図との類似性である。非反省的態度において、それ自身反省的構造にほかならない体験一般の構
造 を 取 り 出 し、 然 る 後 に 改 め て 反 省 を 遂 行 す る と い う 体 験 分 析 の 構 成 は、﹃ 存 在 と 時 間 ﹄ の 第 一 篇
﹁ 現 存 在 の 予 備 的 な 基 確 的 分 析 ﹂ に お い て 現 存 在 の 構 造 全 体 性 と し て の 気 遣 い を 取 り 出 し、 第 二 篇
﹁現存在と時間性﹂六二節で現存在の本来的存在可能としての先駆的覚悟性を投企するという構図に、
大筋として合致してはいまいか。おそらくそれゆえに、ハイデガーは一九一九/二〇年冬学期講義
﹁現象学の根本諸問題﹂において、﹁この講義そのものは研究の体系性 ﹁根本問題﹂を持っている﹂
︶と主張しえたのである。
︵ GA58, 25
論に限定されていたために、主題的に論じられなかった問題系があ
ところで、これまで論述が反省
る。戦時緊急学期講義における、世界付帯的性格の発見の重要性であり、それと対をなす、理論的│
GA56/57, ︶
91が乗り越えられたことの印にほかならないのだが、この乗り越えは環境世界体
前理論的態度の対照の重要性である。すなわち、所与性とは﹁環境世界体験から最初の客観化へ至る
境界﹂︵
験の脱意義化としての脱世界化であり、同時にこの脱生動化は客観化的理論化への乗り越えでもある。
45
34
この乗り越えによって、生動性を貧しくされた概念│むしろ理念であって、特定の事物を述定する概
念ではない│をハイデガー自身は事物性と呼ぶのだが、その際念頭におかれていたのは、新カント主
義的な意味での心理的実在であり、おそらく、この概念と対をなす物理的実在をも含められていたで
あろう。というのは、そのうちでこの概念対が意味をなす外界の実在性問題を、むしろその派生源泉
としての環境世界体験に引き戻すことによって無効化するからである。またこのことが、超越的な存
在措定を語らずに、体験の有意義性に定位して論を進めることの一つの│それ自身としては、派生態
として論証されねばならないが│論拠、あるいはむしろハイデガーの関心による動機づけとなってい
る。
さて、何故ここに至って世界付帯的性格の発見を強調するかといえば、一九二〇年夏学期講義にお
]﹂
けるディルタイについての言及にかかわる。ハイデガーはディルタイの﹁価値ある前概念[ Vorgriff
︶を挙
として、﹁それはそれで新カント主義によって葬られた、外界の実在性への確信﹂︵ GA59, 158
げつつ、ディルタイが心理的、物理的の区別を逃れられず、自らの思想を心理学として表示したこと
はっきりと認識していなかった﹂︵
a. a. ︶
O.、﹁ディルタイが常にそこへと差し向けられていた﹂﹁心的
︶のであり、その新たなものとは、﹁すべての概念を疑わ
ibid., 168
を惜しむ。すなわち、﹁ディルタイは、自らがそれを得ようと努力したところの新たなものについて
しいものとするラデイカリズム﹂︵
]の新たな様態への問いの可能性﹂︵ ibid., 170
︶である。ハイデガーが存在様
な現実性[ Wirklichkeit
46
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
相を表わす実在性[
]概念のモデルを新カント主義から受け継ぎ、またナトルプとディルタ
Realität
イが心理学の表題のもとで考察した体験問題を、反省としての顕在的体験遂行を表わす﹁自己反省﹂
という性格付けのもとで扱ったことを思い起こすならば、﹁生経験の顕在的遂行における自己、自分
]である﹂、﹁あらゆる現実牲はその根源
Urwirklichkeit
]を通して受け取る﹂︵ ibid., 173
︶という言明は、│再び﹃存在
Bekümmerung
自身を経験することにおける自己は原現実性[
的意味を自己の煩い[
と時間﹄の術語法を先取りするならば│現存在を起点とした存在論への傾向を示唆しているように思
われる。
更に、一九二〇年夏学期講義までの歩みは、体験、および主観の概念の脱構築とも言えるものだが、
理論的│前理論的態度との対照は、体験に伴なう地平的性格へと注目させることになったのではない
か、と推測することも可能であろう。その理由は以下による。戦時緊急学期講義以来、ハイデガーは
哲学が世界観学であることを拒絶し、根源学としての哲学を数学的厳密さとは方向を異にしながらも、
︶と主張し、厳密さ
ibid., 174
さしあたり厳密学、ないし学的哲学と性格付ける。ところが、一九二〇年夏学期講義録の最終節にお
いて、﹁哲学の厳密さはあらゆる学的哲学の厳密さより根源的である﹂︵
の概念性を組み替えるのである。このとき学的哲学として念頭に置かれていたのは│おそらくフツ
︶態度による狭窄を批判する。この狭窄は哲学
ibid., 132
サールをも含めていたと思われるが、直接的な言及によって確証することはできない│ナトルプであ
り、ナトルプの思想に対しては﹁理論的﹂︵
47
[
]﹂という形で取り出そうと試みている。確かに、気づきの現象は体験連関を破砕し、
Kenntnisnahme
領域へと分節された理論的学と、体験連関を保持しつつその全体を形式的理論化によって概念へもた
らす根源学との対比という文脈において論じられ、体験構造に還元されるよりはむしろ、この構造か
ら産出される表現連関の全体性が注目され、後に世界性として内世界的存在者の現出を可能にする有
48
的動機づけの忘却に起因する、現存在の理論的自我としての誤った自己理解である。理論的態度その
ものは、環境世界体験に伴なう世界付帯的性格の脱意義化であり、この作用によって生じる事物性の
理念は、環境世界の持つ地平的性格の脱世界化による捨象であることを思い起こすならば、自己関係
性の形式的構造化と、理論的態度の体験の遂行様態としての把握と相俟って自己理解内容の可能性が、
むしろその理解地平に求められることになるだろうことは、想像に難くない。というのは、形式その
ものからは内容を引き出せないからである。このことがまた、自己忘却的自己理解の可能性と共に解
釈学的状況の準備という課題を生み出したと思われる。
ところで、ベルネは﹃存在と時間﹄における世界性の分析に関し、不在の道具が﹁通常の機能から
それ自身を遮断し、世界の内にそれ自身を統合しないゆえに、環境世界の内にある諸事物の間に編み
込まれた指示連関を指し示すことを指摘している。道具の不在というこの欠如態は、﹁非本来的生の
内部で遂行される還元 ﹂の場を開くものであるが、一九一九/二〇年冬学期講義において、ハイデ
35
ガ ー は 既 に 日 常 性 の 内 部 で 非 反 省 的 態 度 か ら 反 省 的 態 度 へ と 移 行 す る 臨 界 点 を﹁ 気 づ き
36
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
意義性の地平的性格に接近するものではある。だが、その考察が中途で終わっていることが示すよう
に、それ自身体験構造の反復遂行にほかならない気付きという行為に、還元の場を開く機能を求める
ことには限界があるように思われる。というのは、翌一九二〇年夏学期講義において自覚されること
であるが、構造の持つ形式性ゆえに態度変更のまさしく変更という様態変化そのものは構造からは引
き出せないからである。この夏学期講義において、﹁具体的顕在的現存在﹂という遂行主体に着目し
た反省の可能性への問いは、体験構造の垂直的、静態的反省の限界を気付かしめたであろう。この限
界の自覚と、前段落で述べた自己理解の可能性としての地平的性格への遡行は、環境世界体験の世界
付帯的性格という一語に含意されていた、世界内存在という存在構成を解きほぐすことになるだろう。
というのは、世界内存在とは体験の自己関係的構造と、体験そのものに付随する地平的性格の統一的
構造化の表現だからであり、また、体験遂行としての反省の様態化と相関する自己関係性の持つ中立
性は、自己と世界という両極的変項を取ることを可能にするからである。そしておそらく、自己関係
性の垂直的全体性と、地平の持つ水平的全体性が﹃存在と時間﹄の分析の進行に影響を与えることに
なろう。
だが、欠如態に定位した還元論を展開するためには、例えば﹁現象学の根本諸問題﹂における、自
己充実としての体験が持つ表現的性格といった、なんらかの事象領域に結び付いた現象概念ではなく、
その機能そのものに即した洞察が必要であろう。既にこの講義においても、即自的な生における有意
49
義性の﹁でない[
]﹂への注目は、反省論にとらわれない、現象学的分析の可能性を示している。
nicht
﹃存在と時間﹄においては、現象概念と存在論的差異は不可分であるが、はたして現象概念の彫琢が、
一九二一年以後、存在論に定位して得られたのか、また現象概念が存在論的差異に帰着せざるを得な
いのか、この二点を今後の課題としたい。
注
ハイデガーは教授資格論文を世に出して後、﹃存在と時間﹄に至るまでの約十年間、若干の雑誌掲載論文
を除いて、著作を公にしていない。したがって、全集における初期フライブルク講義群の公刊が研究者間
と略記する。︶それゆえ、テキストをこの講義群にしぼること
GBT
Th. Kisiel, The Genesis of Heidegger’s Being and Time, University of California Press. 1993.
で待ち望まれていたのであるが、その編集方針には異議も唱えられているようである。︵なお、全集の刊
行事情等に関しては
を参考にした。なお、以下においては
は若干の問題を含むのであるが、そもそも史実の忠実な再現は不可能であろうし、本稿はむしろ、﹃存在
号、
頁︶
と時間﹄という大河に流れ込む支流の一つを遡ることを意図するものである。
渡部明﹁初期ハイデガー哲学における存在論の生成﹂︵哲学年報第
ibid., 89
関しては、﹃道標﹄︵ハイデガー全集第九巻、辻村公一、ハルムート・ブフナー訳、一九八五年、創文社︶
この評論の執筆時期については、一九一九年から一九二一年の間とされ、特定されていない。その事情に
87
1
2
3
4
54
50
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
5
6
の訳者後記等を参照されたい。なお、筆者本人は、一九二〇年夏学期講義における概念の類似性︵関与の
と略記。
GA58
形式としての﹁持つ﹂や、体験の遂行様態としての二極的構造など︶から、この講義と相前後して著わさ
れたものと考えている。
Martin Heidegger Gesamtausgabe, Bd. 58, Grundprobleme der Phänomenologie, s. 80.
以下
と略記。な
Martin Heidegger Gesamtausgabe, Bd. 56/57, Zur Bestimmung der Phi1osophie, s. 12.
以下 GA56/57
お こ の 講 義 録 は 以 下 の も の を 納 め て い る。 1. Die Idee der Philosophie und das Weltanschuungsproblem, 2.
GBT, p. 41
GBT, p. 44
本稿第二章第一節参照。
は、 フ ッ サ ー ル の 地 平 概 念 と ハ イ デ ガ ー の 環 境 世 界 概 念 と の 類 似 性 を 論 じ て い る。 ref.
R. Bernet
im Frühwerk, S. 96 in Dilthey-Jahrbuch Bd. 4. 1986/87,
Phänomenologie und Transzendentale Wertphilosophie, mit einer Nachschrift der Vorlesung﹀ Über das Wesen der
﹀ Faktizität
︿
Th. Kisie1, Das Entstehen des Begriffsfeldes
︿
Universität und des akademischen Studies
7
11 10
Goettingen
8
9
Phenomenological Reduction and the double Life, in Reading Heidegger from the start, edited by Theodore Kisiel
and John van Buren, SUNY, 1994, p. 245-267, esp. p. 258
本稿第二章第一節参照。
51
12
17 16
GA58, ︶
30と術語化される。
Martin Heidegger Gesamtausgabe, Bd. 59. Phänomenologie der Anschauung und des Ausdrucks, s. 171.
以 下、
と略記。
GA59
本稿第一章第二節参照。
この横造は体験の﹁充実形式﹂として﹁自己充足性[ Selbstgenügsamkait
]﹂︵
自己充足性は、生の即自的な契機と対自的な契機とがまだ顧慮されていない、直前の夏学期講義において
GA58,
Vorlesung von Wintersemester 1921/22 und ihr Verhältnis zu Sein und Zeit, in Dilthey-Jahrbuch Bd. 4, 1986/87,
Vgl. C. F. Gehtmann, Philosophie als Vollzug und als Begriff. Heideggers identitätsphilosophie des Lebens in der
と思われる。
︶と呼んでいる。ハイデガーは還元という語を明言しないが、この持つことが一種の還元に相当する
110
ない[ nicht
]﹂と呼び、この欠性的性格を現象学的まなざしのうちに捉えることを﹁現象を持つ﹂︵
なお、有意義性が日常的経験においてはそれとして気付かれないことを指摘して、これを有意義性の﹁で
本稿第三章第二節を参照。
造を表わすものとして﹁関与[ Bezug
]﹂という術語が与えられる。
般の志向的構造を指すことは明らかであろう。なお、翌一九二〇年夏学期講義では、体験一般の志向的構
で生に固有な構造から遂行される﹂︵ GA58, ︶
42という叙述があることから、様態概念ではなく、体験一
﹁ある観点において﹁即自﹂を性格付ける﹂︵ GA58, ︶
30としつつも、﹁充実そのものはそもそも、生の内
13
﹁生の連関の根本形式は動機づけである﹂︵ GA56/57, 205
︶と言明されていること、また本講義においては
15 14
18
52
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
Goettingen.
なお、ここでゲートマンは、遂行意味と内実意味をノエシスとノエマに、又関与意味を志向
性に対応させている。ハイデガーの取っている反省論的視点を考えるならば、遂行意味がストレートにノ
エシスと対応することに関しては判断しかねるが、フツサールの志向性 概念との関連に関しては、この論
文からおおいに示唆を受けた。
本 文 中 の 参 照 指 示
Ideen I], in Jahrbuch für Phi1osophie und phänomenologische Forschung,hg. von E.
Edmund Hussaerl, Ideen zur einer reinen Phänomenologie und phänomenologosche
ref. R. Bernet. Phenomenoligical Reduction and the double Life, in Reading Heidegger from the start, p. 258.
この
論文は、タイトルにあるとおり、還元の問題を扱ったものであり、反省論の文脈で引用することは、問題
Husserl. Bd. I. Halle a. d. S. 1913, s. 143
=
Philosophie [Erstes Buch
なお、ディルタイに関しては本稿の結語を参照。
という解釈は、この論文中の﹃存在と時間﹄における超越解釈等から刺激を受けている。
│ライプニツツから現代まで│﹂所収、晃洋書房、一九九四︶なお、本稿における体験遂行としての反省
論文からの借用である。四日谷敬子﹁初期ハイデガーの﹁事実性の解釈学﹂への洞察︵﹁個体性の解釈学
﹁個別化の原理﹂という表現そのものはハイデガーのテキストにはみられない。ここでの使用は、以下の
があるかもしれない。だが、ハイデガーが還元を表立って口にしなかった背景には、ハイデガーの現象学
概念における還元と反省との止揚ともいうべき事情が働いているとの立場から、両者の厳密な区別には立
ち入らない。
53
22
21 20
19
28 27 26
号、一九八七︶
54
反省の遂行という後者の問題は、この講義においてはなされなかった。もはや単純に反省の遂行と表現し
えない形ではあるが、むしろ翌一九二〇年講義においてこそ見出だされるであろう。
なお、この問題に関しては、本稿第二章第三節、および第三章第三節を参照。
ここでは文脈上様態概念としてのみ扱っているが、構造概念である。本稿注 を参照。
頁︵上智大学哲学論集第
在と時間﹄において、差し当たりは世界性としての有意義性から、現存在の自己理解の構造が析出されて
この引用は厳密には適切ではない。ハイデガーが根本様式という語で考えているのは有意義性である。
﹃存
丹木博一、﹁﹃存在と時間﹄における現象学還元、
験するものの関心による動機づけが働いていることを示唆している。︵ GA58, 96
︶
なものが我々の注意を引く限りにおいてそれらの作用が生じるからであることを指摘し、体験の根底に体
ハイデガーは、環境世界が知覚、想起、期待、思念されているものとして考察されうるのは、環境世界的
物理学的領域における客観性によって、非客観的であると断じえないことを示している。
ハイデガーは物理学と植物学を例に取り、例えば緑の葉といった後者の領域において妥当する客観性を、
学的告知連関の考察に関しては、本稿第二章第二節を参照。
ハイデガーが自己世界を強調する理由に関しては、本稿第二章第三節、および第三章第三節参照。
59.
ここでは、理論的経験と日常的経験との区別が、﹁日常経験が我々の生の個別的な諸領域の厳格な線
引きをいまだなお知らないことによってである﹂ことが指摘されている。
Vgl. F. Hogemann, Heideggers Konzeption der Phänomenologie, in Dilthey-Jahrbuch Bd. 4. 1986/87, Göttingen, esp.
15
16
23
29
34
25 24
30 29
初期ハイデガー研究 ─存在論化以前における─
Ⅰ
32 31
いることを思い起こすならば、興味深い一致である。
前節を参照。
ref. F.F. Seeburger, Heidegger and the phenomenological Reduction, Phi1osophiy and phaenomenological Reseach ,
vo1. 36, 1975-76, pp. 212-221.ここでは、サルトルを顕著な例として、そもそも現象学的還元を行なうに際
︶そのものであると主張
GA59, 174
して動機づけが働かざるをえず、動機づけそのものをも還元の論理的構造に取り込まねはならないことが
指摘されている。
259 261
頁
で挙げた、還元の可能性を論じた丹木氏の論文に
29
ハイデガーはむしろ、反省的体験遂行を﹁動機の保存[ Bewährung
]﹂︵
する。
頁
負うところが大きい。
︶、
前掲書︵注 ︶、
前掲書︵注
22 22
33
﹃存在と時間﹄における問題構成に関しては、既に注
34
55
36 35
Ⅱ
一、根源学構想の成立 ─初期ハイデガー研究(1)
二、体験の学の可能性 ─初期ハイデガー研究(2)
三、生の自己理解における歴史性
─初期ハイデガー研究(3)
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
本稿は、主著﹃存在と時間﹄に至るハイデガーの思索の歩みを、初期フライブルク時代︵一九一九
1
│一九二三︶の講義群に遡って追跡しようと試みるものである。とはいえ、取り扱うテキストは一九
一九年の戦時緊急学期講義から一九二〇年の夏学期講義までに限られる。その理由は以下による。当
2
]として構想するにもかかわらず、思索が深まるにつ
初ハイデガーは哲学を根本学[ Urwissenschaft
]tへと姿を変える。この変化に伴なって、哲学の
れて、それは﹁生の根源学[ Ursprungswissenschaf
課題として構想されるものの中に新しい要素が入り込み、この要素がハイデガーの取る方法を規定し
ていくことになるが、方法論として一定の完結性が与えられるのが、上述の一九二〇年の講義だから
である。
第一節 根本学としての哲学
戦時緊急学期講義﹁哲学の理念と世界観問題﹂の意図は、序文の最終段落にある言葉、﹁だが、問
3
題の核心は哲学そのものにある│哲学そのものがまさしく問題である﹂に端的に示されている。だが、
ハイデガーがこのとき、哲学という語で何を考えていたかが問題である。講義タイトルと同じ表題を
担う序論は、世界観と哲学の関係として三つの選択肢を提出する。第一に、哲学と世界観は同一の本
59
質課題を持ち、﹁世界と生についての究極的なことを確定しようとする﹂︵ GA56/57,︶7というもの。
第二に批判的価値哲学。ここでは哲学と世界観とは同一ではない。なぜなら、世界観を形成する価値
体系には真、善、美、聖が属するのに対して、哲学は思考、意欲、感情という在り方を持つ意識領域
に内在し、これらの在り方と対応する論理的価値、倫理的価値、美的価値を扱うからである。しかし、
これら三つの価値の調和的統一として宗教的世界観が成立する故、哲学と世界観とは境を接する。第
]
fragwürdig
三に、﹁両者の間には、そもそもなんら閑連はないという空虚な可能性﹂︵ ibid., ︶
11。この可能性は、
﹁すべての︵これまでの︶哲学の破綻に至るという、あやしげな[あるいは問うに値する
︶。反語的な形容を受ける第三の選択肢こそが、実はハイデガーの意図を示し
優位を持つ﹂︵ ibid., 12
ている。すなわち、従来の哲学とは異なる、新たな定義を哲学に与えようとするのである。第一部の
表題、﹁根本学としての哲学の理念﹂がこの意図を表現している。
理念という語の使用は、従来の概念規定には依拠しえない、哲学の再定義という課題に伴なう無規
定性から理解されよう。ハイデガーによれば、﹁理念はその本質にしたがえば、何かをなすことなく、
︶からである。では、根本学は哲学にどのような在り方を要求
何かを与えることがない﹂︵ ibid., 13f.
︶というカントの要求を指摘し、その復活としてマールブルク学派と価値哲学派の名を挙げ
ibid., 19
す る の だ ろ う か。 ハ イ デ ガ ー は、 哲 学 の 歴 史 を 振 り 返 る 中 で、﹁ 理 論 に つ い て の 学 的 理 論 で あ る ﹂
︵
た後で、﹁哲学の初期に、哲学の第一古典期、プラトンの時代に、学としての哲学という問題が明確
60
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
に意識されていた﹂︵ a. a. ︶
O.と続ける。ハイデガーは学の基礎付けという課題を、哲学の中に一貫
して見ていたといえよう。それゆえ、理念の無規定性はさしあたり、﹁派生的な、それ自体根本学的
︶無前提性と解される。同時に、自己根拠付けという
でない学から導出されることはない﹂︵ ibid., 16
a. a. ︶
O.が﹁哲学と哲学の方法の本質性格とが発現し
a. a.︶
Oとして、むしろ﹁可能な真の哲学的問題の指標﹂︵ ibid., ︶
95とされる。第一部の実
﹁根本学の理念につきものの循環的な在り方﹂︵
たもの﹂︵
質的な考察は新カント主義に当てられるが、根本学の要求という同一の志向が、その動機の一つに数
えられよう。だが、動機はそればかりではない。第二部の冒頭においてそれまでの考察は、﹁すべて
は、 ⋮ 根 本 学 の 理 念、 根 本 学 的 方 法 と い う 理 念 す ら 想 起 し な い と い う こ と に か か っ て い る ﹂︵ ibid.,
4
︶
63と、突然無効を宣告される。この講義を﹁思考実験﹂とみなすキシールによれば、第二部は﹁理
論的なものの専制的優位を破壊するように仕組まれる﹂のであり、新カント主義についての批判的考
a. a. ︶
O.
]に至るか、
Sachlichkeit
察は、理論的態度との対決であったことが推察される。この無効宣告に続くのが、﹁我々は、哲学の
生死を決する方法上の岐路に立っている。無に、すなわち絶対的な事象性[
あるいは別の世界への、厳密にはそもそも初めて世界への跳躍に至るか、という深淵に。﹂︵
5
という言葉である。再びキシールの言葉を借りれば、﹁講義の本来の目的は、領域と、それに応じた
方法の性格付けによる、現象学的哲学の基礎付けである﹂が、第二部をまって初めてハイデガーが本
来目指していた領域に接することができる。
61
第二節 原領界の同定
︶といわれることによって、体験そのものへと還
ibid., 65
︶内容空虚にして形式的なものであり、したがってこの問いは極めて理論的な問いであ
ibid., 67
]﹂という問いで始まる。この何か[ etwas
]は、﹁まった
第二部は、﹁何かはあるか[ Gibt es etwas?
く普遍的なもの、もっとも普遍的なもの、あらゆる可能的対象一般に付帯するといえるかもしれな
い﹂︵
る。だが、﹁この問いは体験されている﹂︵
]へと置き入れる⋮ものを探すことではない﹂︵ a. a. ︶
Sachzusammenhang
O.という禁止的注
元されることができる。その際、﹁体験を事物および事物化されたものとして説明する、つまり、事
象連関[
意が与えられ、体験という語に、それまでの考察には現われていない、新しい意味が与えられている
ことがわかる。
は上述の
ところで、体験構造の分析を行なう第二部では、二つのタイプの体験が論じられる。一つ
]である。講義のプログラムは前者を
問いの体験であり、もう一つは環境世界体験[ Umwelterlebnis
ibid.,
]﹂という形式において、﹁⋮﹂は多様な形
先行させるが、これは偶然ではない。﹁⋮がある[ es gibt...
﹂という﹁どの意味にも見出だされうる同一の意味契機﹂
︵
を取りうる。この形式から、﹁ es geben
︶という
ibid., 68
︶が己れを
es geben
︶
67と、﹁何か一般の意味においては、具対物へなんらかの仕方で依拠している﹂︵
契機との相補的な二つの性格が引き出される。すなわち、﹁この問うことの内実︵
62
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
6
︶。理論的体験の意義付帯的性格が体験一般に敷衍されることは、次
ibid., 69
]﹂ 体 験 を、 ハ イ デ ガ ー は 生 起
Bedeutunghaftes, nicht sach-artig
越えて示す﹂︵ ibid., 67
︶のであり、このような事態をキシールは志向性とみなしている。﹁意義を帯
]と名付ける︵
Ereignis
び た も の で あ り、 事 象 的 で は な い[
[
︶。ハイデガーが体験とい
ibid., 70
の一文から明らかである。﹁体験の、またあらゆる体験一般の非事象性は原理的に既に、この唯一の
体験に即しても、絶対的で観照的な理解にもたらされるだろう﹂︵
7
う語に負わせた新しい意味とは、意義付帯的性格であるが、この性格の発見が後に理論的態度の克服
において積極的な役割を演じることになる。
意義付帯的性格を体験一般に属するものとして確定した後に、ハイデガーは漸く﹁第一の体験[=
理論的体験]と一定の対照関係にある﹂︵ a. a. ︶
O.環境世界体験にとりかかる。ここで例に挙げられ
るのは講壇を見るという体験である。ところで、理論的体験においては、講壇は、直角に交差する茶
a. a. ︶
O.。ここでの叙述は、全体直観とでもいう
︶を経由して、講壇として同定される。これに対して環境世界体験では、﹁たんに他と
ibid., 71
色の面から箱へ、そこから更に講壇へという、感覚与件ないし知覚現出を発端とする﹁基礎付け連
関﹂︵
切り離された形でではなく﹂﹁いわば一気に見る﹂
︵
︶直接性と
べき、環境世界体験におけるこの直観が﹁事象把握を経る知的な回り道なしの﹂︵ ibid., 73
]を示すものと解されているかのような印象を与える。
して、意義付帯的性格の第一義性[ Primärität
しかしながらむしろ、ここで注目されるべきは、世界付帯的性格の発見であろう。ハイデガーは講壇
63
のようにはり付ける﹂︵
という﹁特定の意味﹂︵
a. a. ︶
O.ことが可能ではないかという反論を予想して、講壇の意味理解を持
︶を既に理解しているので、いわば﹁講壇的側面をこの箱にレッテル
ibid., 71
︶
ibid., 72
a. a. ︶
O.を示しているが、このよそよそしさはむしろ、講壇
た な い セ ネ ガ ル 人 の 例 を 挙 げ る。 彼 に と っ て 講 壇 は、﹁ ど う し て よ い か わ か ら な い も の ﹂︵
という﹁道具的によそよそしいこと﹂︵
a. a. ︶
O.。特定の意味が欠如しつつ、なお意義付帯的性格が存立するという事
という特定の意味の欠如である。すなわち、両者の意義付帯的な側面は、﹁その本質的な核を見れば
絶対的に同一である﹂︵
態を示すことによって、この性格が構造的なものであることが示される。同時に、ここでは、│﹃存
在と時間﹄の術語を先取りするならば、│ 個々の内世界的存在者を越えた、世界適合性の機能をも
8
︵ ibid.,
意 義 付 帯 的 性 格 に 割 り 当 て ら れ て お り、 後 者 の 意 義 付 帯 的 性 格 を﹁ 世 界 付 帯 的[ welthaft
︶
]﹂と術語化する。
73
]という区別を見ようとする傾向は、
体験領域の内に理論的なものと世界付帯的なもの[ Welthaftes
上述のように、既に体験構造の分析に現われていた。だがこの区別が決定的となるのは、現象学に対
9
]
するナトルプの批判を考量するときである。それまで理論化とは、自然科学的な脱生動化[ Entlebung
としてのみ考えられてきたが、ここで初めて形式的理論化が登場し、理論化という語に二つの規定が
]﹂は一般化
与えられる。現象学的記述といえども言語表現であり、﹁﹁語による表現[ Wortausdruck
︶というナトルプの批判は形式的理論化の可能性によって克服される。
を行なう﹂︵ ibid., 111
64
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
脱生動化は環境世界体験に端を発し、世界付帯的性格を消去しつつ究極的で単純な要素へ還元して
いく過程である。例えば講壇を発端として、﹁それは茶色である。茶色は色である。色は真正な感覚
与 件 で あ る。 感 覚 与 件 は 物 理 的、 な い し 生 理 的 過 程 の 帰 結 で あ る。 ⋮ 要 素 こ そ が 何 か 一 般 で あ る ﹂
︶。しかしながらこの過程の連鎖は必然的であろうか。むしろこの過程の各段階において、
︵ ibid., 113
]﹂という判断が許されるのではないか﹂︵ a. a. ︶
﹁﹁それはあるものである[ Es ist etwas
O.。﹁それはあ
︶。﹁それはあるものである﹂という形
ibid., 114
るものである﹂という形式的な判断は、脱生動化の過程とは質を異にし、この過程の各段階に拘束さ
れない。すなわち、﹁形式的な対象化は自由である﹂︵
]は環境世界的なもの、価値、妥当、その他あらゆる内容を取
式的判断において、あるもの[ etwas
りうる。﹁あらゆる体験可能なもの一般は、可能的な何かである。何かの意味は﹁体験可能なもの一
。
般﹂である﹂︵ a. a. ︶
O.
] の 持 つ 形 式 的 空 虚 さ は、 根 本 学 の 領 域 が 体 験 に 還 元 さ れ た 今 と
あ る も の 一 般[ etwas űberhaupt
]として、﹁生の最高度のポテンシャリティの指
なっては、体験可能なもの一般[ Erlebnis überhaupt
標である﹂︵ a. a. ︶
O.。この可能性の発見は、非理論的な次元を学の領域に引き込む可能性を開くばか
りではなかった。環境世界体験において、体験されたものは既に意義を帯び、世界付帯的であった。
講壇は講壇として見出だされるのである。これに対し、体験領域における、あらゆる意味を担いうる
形式の発見は、まだ世界付帯的ではない、﹁前世界的な﹂次元の発見でもあった。﹁体験可能なもの一
65
般としての何かに、⋮むしろ、即かつ対自的な生の本質契機を見なければならない﹂︵
︶。根
ibid., 116
a. a. ︶
O.、ここに至って、根本学が取り組むべき
本学の対象領域は既に、非理論的な、適切には前理論的な体験領域に還元されていたが、いまやこの
]が同定されたのである。
Ursphäre
前世界的次元は、﹁生の領域として絶対的であり﹂︵
原領界[
第三節 根源学構想の成立
(a)根源学の体系性
︶として
戦時緊急学期講義において既に根本学の対象領域が﹁即かつ対自的な生﹂︵ GA56/57, 116
同定されていたにもかかわらず、ハイデガーがこの領域に取り組むには若干の時間を必要とし、着手
されたのは漸く一九一九/一九二〇年冬学期講義においてである。ところで、この講義の予備考察に
おける根本学の見解は、一年前の戦時緊急学期講義のそれと非常に近いものである。以前に哲学とい
われていたものは現象学に変わるものの、再び﹁現象学の根本問題は自己自身にとつての現象学その
ものである﹂︵ GA58,︶1とされ、現象学はやはり哲学の異名として問題にされている。自己根拠付け
]という特有な性格、問うことと解決の仕方の﹁組み
という根本学の理念は、﹁生動性[ Lebendigkeit
︶であり、この時点では根本学の問題構成が未定であった
立て、問題構成の進行形の優位﹂︵ a. a. O.
ことを、より積極的には問題構成そのものが獲得されていかねばならないことを示している。一年前
66
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
に根本学の特徴として取り上げられ、理論的な問題に過ぎないとして結局は斥けられた理念の循環性
ibid.,︶
4として再び斥けられ、﹁そうではなく、事
a. a. ︶
O.と宣言される。哲学が根本学として実際に始まったのはこの講義からと
の問題は、﹁端緒の客観化からのみ生じた困難﹂︵
実的に初める!﹂︵
いえよう。ここで新しく登場するのは、│第一節で挙げたキシールの言葉を想起するならば│ 原領
界が同定された今となっては、方法論、具体的には所与性、ないし対象領域の問題である。﹁対象領
域 は お よ そ 単 純 に そ こ に あ り、 し た が っ て 問 う こ と を そ の う ち へ 送 り 込 む こ と の み が 必 要 な の か ﹂
︵ ibid.,︶5と問われた後、所与性は﹁現象学の呪文﹂とまで非難される。所与性という語の拒否の内に、
ibid.,︶
6ものとして構想
対象領域を獲得されるべきものとして、また、現象学を完成された既存の学ではなく、むしろ可能性
として、﹁新に真正に諸問題の源泉に還帰し、これら源泉をより深く導く﹂︵
]︵
Ursprungsgebiet
︶と呼ばれるよう
ibid., 27
しようとするハイデガーの意図が注目されてよい。哲学の対象領域に対しては、もはや原領界という
語は使用されず、獲得されるべきものとして根源領域[
になる。それと呼応して、これまで新カント主義の学の基礎付けという志向への共感を示すかのよう
に用いられてきた根本学という哲学の異名は、根源領域の学として、根源学にとって替わられること
に な る。 根 源 学 に お い て は、﹁ 生 を 理 解 す る こ と が ま ず 最 初 に 取 り 組 む べ き 課 題 で あ る ﹂︵ ibid.,︶
2。
a. a. ︶
O.のである。
だが、学の基礎付けという課題が捨て去られたわけではない。﹁根源学の理念そのものは根本学とし
て理解されねばならない﹂︵
67
0
0
0
0
0
0
0
0
0
︶を環境世界体験に引き戻して
ibid., 91
GA56/57, ︶
87
哲学に同じ課題を課しつつ、根本学から根源学へと名称を変更したという事実は、根源領域と哲学
の根源とが同一視されるようになったことを示している。同一視というこの事態は、そもそも戦時緊
0
急学期講義において、同時代の知的傾向を、客観化する﹁理論的なものの全面支配﹂︵
0
とみなして、その克服を試み、﹁理論的なもの一般の問題﹂︵
解決しようとしたことを思い起こせば、当然の帰結かもしれない。しかし同時に、この同一視の内に、
ハイデガーの目指した二つの方向性を見てとることができる。まず第一に、既存の学問体系、および
哲学的諸学科を前提した、哲学自身の、また哲学による個別諸科学の体系化への拒絶である。例えば、
ハイデガーは同時代の哲学の方向として、マールブルク学派と価値哲学を挙げ、それぞれの主題とし
て、論理学の基礎付けと歴史および宗教の問題とを指摘する。その上で、これらの﹁方向が性急にも
GA58,︶9ことを非難するのである。もう一つの方向性は、哲学する場を徹
体系上の完結と哲学の諸体系を欲し、それどころかこのような体系化への傾向からその哲学的作業を
限界付け、変化させる﹂︵
底して生へと内在化させようとするものである。まさに﹁現象学的問題構成がまず、生そのものから
なんらかの仕方で動機づけられた過程において与えられうる﹂︿ ibid., ︶
27のである。
0
0
0
0
体系化の拒絶は、自らの問題構成に体系性を要求しないということではない。むしろ、﹁この講義
︶のである。だが、体系性を学問区分の
そのものは研究の体系性 根本問題を持っている﹂︵ ibid., 25
統一という完結性や、論証の演繹可能性に求めることはもはやできない。既に、価値哲学が用いる根
68
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
本学的方法は、前年の戦時緊急学期講義において否定されていたからである。問題構成の獲得という
]は問題構成から生じ、問題構成は⋮根本的問題設定の方法で
Methodik
ibid.,︶
5という言葉が参考になろう。実は、問題構成の獲得は同時に方法の獲得でもあるの
課題に関して、﹁方法体系[
ある﹂︵
だが、方法の獲得自身は恣意的になされるのではない。この講義においてハイデガーは、根源学とし
︶捉らえ、﹁学という表現連関のアプ
ての現象学を含めた学一般を生の﹁表現連関として﹂︵ ibid., 78
︶を追跡する。学とは﹁経験地盤の学的理論的表現﹂︵ ibid., 74
︶にほかなら
リオリな発生﹂︵ ibid., 65
ないが、﹁経験地盤の準備の仕方はその理念から規定され、理念の方は、これはこれで、仕上げられ
︶。根源学は、その理念による方法の規定とい
るべき領域の根本意味から動機づけられる﹂︵ ibid., 80
う点に体系性、すなわち自らの論証の正当性を求めることができる。だが、戦時緊急学期講義では、
根本学の理念が放棄されていたのではなかったか。確かに、内容的には、つまり根本学という意味に
おいては、理念は放棄されていた。だが、理念という語の引き続いての使用は、理念が担う方法論的
機能を支持し続けることを示すのではないだろうか。
︶。しかしながら理念そのものは規定可能であり、
GA56/57, 13
実は、上述の講義において、内容的には未決定なままに理念の持つ性格が考察されている。その考
]という点では、対象の本質的諸要素の
察によれば、﹁理念はその対象を完全な適合性[ Adäquatheit
完結した完全規定性において与えない﹂
︵
﹁この完結可能にして、獲得された理念において完結される規定性は、理念対象の必然的にして、完
69
結不可能な無規定性を規定された無規定性へと移行させることを可能にする﹂︵
︶。難渋な言
ibid., 14
い回しではあるが、理念とその対象という二つの次元を区別し、理念との関係において対象が規定さ
れるということは指摘できよう。理念が位置する次元は、方法論的には、対象を規定する超越論的な
場なのである。ハイデガーが取っていた超越論的立場は、フッサール現象学を紹介する際の﹁超越論
的なものとは⋮学的問題構成にとっての、本来的に動いている機能である﹂︵ GA58, ︶
15という言葉
に現われている。
ところで、対象規定は、方法に関わる事柄であって、事象に関わる事柄ではないのではないか。だ
が、上記の引用箇所に見られるように、理念そのものが対象領域から動機付けられているとすれば、
理念は方法を規定するばかりでなく、むしろ事象によって制約されていることになる。実際、哲学の
問題構成の生への内在化は、理念に求められた超越論性を生の内部に見出だすことになる。前年の講
義において、哲学の対象領域は即かつ対自的な生と同定されていたが、一九一九/二〇年冬学期講義
においては、生の即自的、対自的な面という二元性が積極的に打ち出される。このことは、﹁根源領
︶という一文に読み取ることができる。生が持つ二元性は、
域は即自的な生の内にはない﹂︵ ibid., 27
]根本的
auf Transzendentes
︶と術語化され、その志
ibid., 30
︶という表現によって端的に言い当てられる。この発
﹁根源から発現するものとしての生﹂︵ ibid., 28
現は、生、ないし体験に備わる志向的性格として﹁生の充実形式﹂︵
向的構造は﹁その都度常に世界へと︵自己世界をも含めて︶│超越へと[
70
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
的な経過そのものから持つ﹂︵
﹁傾向が充実へもたらされる﹂︵
に 差 し 向 け ら れ て い る こ と ﹂︵
a. a. ︶
O.という形で与えられる。すなわち、生は己れを規定する、事
a. a. ︶
O.ことであるが、一方で傾向は﹁生がその動機づけを生の事実
︶ と み な さ れ る。 こ の 構 造 は、 発 現 と い う 側 面 か ら 見 れ ば、
ibid., 31
象的な超越論性を備えるのである。
さて、根源学に際しては、﹁経験地盤の準備と、明証的な客観│事象領域の形成の仕方にとって規
︶が主導的であるとされる。先に、方法の
定的である﹂、﹁生をその根源から了解する傾向﹂︵ ibid., 81
規定は理念に帰せられることを指摘したが、方法を規定する傾向もやはり生の内部で動機づけられた
ものとして、事象に属する事柄である。実は根源領域においては、生を規定する場としての方法論的
超越論性が、充実を通して生が自己規定されるという事態を可能にする構造としての事象的超越論性
と合致しなければならない。
(b)現象学的方法の体系的理解
本節︵a︶では触れなかったことであるが、一九一九/二〇年冬学期講義は﹃現象学の根本諸問
題﹄と題されていながら、自らが用いる現象学的方法に対するハイデガーの体系的な理解は不明瞭だ
GA59, ︶
36あり、哲学の場
との印象を受ける。むしろ、この理解が進むのは、﹃直観と表現の現象学﹄と題される一九二〇年夏
学期講義においてである。ここでも﹁哲学は事実的な生経験の要素で﹂︵
71
︶。生の即自態の
ibid., 31
を生へと内在化する方向にはかわりがない。だが、これは﹁経験的な[ empirisch
]な経験の意味での
]﹂へと哲学の対象領域を制限することにも関わらない﹂︵
﹁経験[ Erfahrung
内にとどまる経験から、哲学が隔てられるのは何故なのか。この問いに対する回答は既に前年の講義
︶に
に見られる。ここでの課題である根源領域の獲得は、﹁自己世界の根本経験の獲得﹂︵ GA58, 102
絞られるのだが、その際、自己世界経験の事実的な成立が問われるのではない。むしろ﹁自己世界経
験の、そもそも際立った経験の意味を問おうとする﹂︵ a. a. ︶
O.。体験連関を意味連関として捉らえる
ところに、ハイデガーが自らの哲学を現象学とみなす理由の一端がある。
]、関与意味
他方、夏学期講義での方法体系の深化は、体験の志向的構造が内実意味[ Gehaltssinn
]、遂行意味[ Vollzugssinn
]へと分節され、特に後者の二つが体験の性格付けに関して重
[ Bezugssinn
視されたことにある。例えばハイデガーは現象学に、﹁諸状況と状況の交替が⋮﹁意味充実﹂作用の
GA59, ︶
34を求める。状況という語自身は直
GA58,
て諸連関に動機が据えられ、この動機が意味連関の方向を与えるか﹂︵ GA59, ︶
34を現象学が見出だ
︶とされ、動機付けと状況との関連が示唆されている。だが、夏学期講義においては、﹁いかにし
63
諸傾向の充実はそれ自体、自己世界へと、またその都度充実を準備する状況へと立ち返る﹂︵
たしかにここでも、﹁自己世界そのものの固有な歴史から新たな諸傾向への動機付けが生じ、これら
前の講義で既に、学的表現連関に変ずる以前の、生の即自態における体験連関として導入されていた。
閑与意味と遂行意味に関して考慮に入れられること﹂︵
10
72
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
すことが要求される。志向性が意味として分節されることは上述の通りだが、体験連関としての状況
が志向性の持つ分節性の連関として構造的に表現され、さらには、その都度の状況の内容的な形成が
動機付けに制約されるということが明瞭になっているといえよう。
︶ためである。更に、根源学が戦時緊急学期講義における根本学とし
ibid., 43
ところで、関与意味と遂行意味による体験の性格付けの持つ機能が明らかになるのは、歴史の考察
においてである。歴史が論じられるのは、直接には、それが﹁アプリオリないし絶対的妥当、哲学の
対象を危険にさらす﹂︵
ての性格を引き続き保持し、哲学の再定義が問題でもあるため、既に個々の哲学的動向として分化し
︶が本来の関心である。しかし、
ibid., 89
ていた﹁アプリオリのモチーフ、歴史のモチーフ、世界観のモチーフないし普遍的考察のモチーフが
いかにして連関し、具体的な根源領域が見出だされるのか﹂︵
体験構造に動機付けという契機を認めた以上は、体験に伴なうと認めざるをえない、体験固有の歴史
性への関心が働いていたことは推測に難くない。歴史の考察そのものは、日常言語表現における﹁歴
史を持つ﹂という言い回しの多義的用法に即して行なわれ、﹁持つ﹂という語法への着目は志向性槻
念の導入を準備する。﹁﹁歴史を持つ﹂ないし﹁持たない﹂における﹁持つ﹂は︵形式的な︶関係であ
︶。実は、歴史は﹁固有に、かつ様々な仕方で﹁持つ﹂ないし﹁持たない﹂ことができ
る﹂︵ ibid., 52
る﹂︵ a. a. ︶
O.のであり、むしろ、この﹁できる﹂という表現が注目されてよい。なぜなら、歴史を
持つ主体と歴史との関係は、﹁関与﹂と呼ばれ、│括弧で括ることによって﹁形式的な﹂と補われて
73
11
いたように、│ 関与は体験一般の持つ志向的構造に対する命名だからである。これに対して更に、
︶が問われ、これは﹁遂行﹂と名付けられる。
﹁関与への関与﹂、﹁関与が持たれている仕方﹂︵ ibid., 62
このときハイデガーは重ねて次のように問う。﹁誰が持つのかが問われるだろう﹂︵ a. a. ︶
O.。体験一
般 の 構 造 と し て の 関 与 に と ど ま ら ず に、﹁ 誰 が ﹂ と 問 わ れ る よ う な 人 称 性 を 含 む 遂 行 が 方 法 体 系 に
入ってくることには、二つの理由があろう。その一つは、動機づけに関わるものである。つまり、形
式的関係としての関与が自我ならざる対象をその相関項に持つばかりでなく、その意義が﹁他のすべ
ibid., ︶
54として、自我にも関わりうるのである。
︶例に即して取り出された、﹁それ自身生きられた自分の過去
ての意味より根源的である﹂︵ GBT, 129
との内在的な現存在関係﹂︵
であるところの根源領域が見出だされえな
二つ日の理由は、生の即自態において、哲学の対象領域
いという、ハイデガーの見解と関わる。この見解は、即自的な生においては、﹁生の己れに即しての、
己れそのものへの絶対的距離の欠如﹂︵ GA58, ︶
29が特徴的であることに基づいている。これに対し
て哲学は、この距離を保し、積極的にはこの距離を獲得しなければならない。講義﹃現象学の根本諸
問題﹄はこの距離を獲得する方法をめぐって展開されたのである。それによれば、体験連関は﹁自己
︶ことが求められる。
ibid., 118
a. a. ︶
O.。これに対して哲学には、この連関を﹁相対的に全体的なものとして受け
︶であるが、生の即自態にとどまっている限りでは﹁私はそれ
を形成する有意義性連関﹂︵ ibid., 117
を気にかけない﹂︵
取り﹂、﹁経験されるものそのものとしての連関を構造的に表現する﹂︵
74
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
生は多様な外観を呈するために、それを全体として捉らえることは一見不可能に思われる。だが、構
造性を有する連関という視点を取ることによって統一的に把握することが、生への距離の獲得なので
ある。
さて、次の夏学期講義では生を体験連関として把握することのみで満足してはいない。体験連関は
構造的には志向性の意味連関として形成される。しかし同時に、個々の体験連関として取り出される
]を持ちうる。したがって、生を連
ならば、その都度の有意義性連関として様々な意義[ Bedeutung
︶
関として性格付けるばかりではなく、更に﹁そこから諸々の意義連関が発生する﹁根源﹂﹂︵ ibid., 49
a. a. ︶
O.への問いでもある。つまり、その都度の有りようにおいては有意義性連関である体験連関
が問われるのである。この問いは実は、﹁これらの様々な意義がその都度己れの意味を獲得する場﹂
︵
]動機があるのか﹂︵
ursprungsmäβig
a. a. ︶
O.
が、いかにして志向的意味連関として構造化されるかへの問いなのである。この問いは、﹁どこにこ
れらの諸々の意義連関の発生にとっての根源に適する[
という形で言明される。﹁根源に適する﹂という形容詞に注意されたい。これらの問いが発せられる
のは歴史の考察においてであるが、その際、﹁歴史を持つ﹂という言い回しは、関与意味に照らして
性格付けられたうえで、更に遂行意味によって測られる。関与が体験一般の志向的構造を表わす術語
だということは、既に指摘しておいたとおりである。だとすれば、関与は即自態における生の体験構
造一般にも当てはまるものである。これに対して﹁関与が持たれている仕方﹂としての遂行は、体験
75
の構造ではなく様態に対しての命名であり、その獲得が目指されていた根本経験の根源性は、遂行意
味に照らしての性格付けによってその根源性を測られることになる。実は、関与意味についで遂行意
味によって性格付けるという構成は、生を体験連関として統一的に把握したうえで、更にその体験連
関の構造化を問うということなのである。さきに、一九二〇年夏学期講義での方法体系の深化はこれ
らの意味による二重の性格付けであると述べたのは、この意味においてである。
さて、本講義に先立つ冬学期講義において生は﹁根源から発現するものとして﹂捉らえられていた。
]として性格付けられる諸々の意義連関に関
この生を問うに際し、本講義では、現実性[ Wirklichkeit
]﹂︵
Urwirklichkeit
GA59,︶9
し、その発生にとっての動機を遡求するという方法が取られる。根源学の対象としての根源領域は、
事象的にはそこから﹁全現実性がその根源的意味を受け取る﹁原現実性[
なのである。本講義の副題は﹁哲学的概念形成の理論﹂であるが、今述べた事態が既に成立している
意義連関をその根源に遡って再構成することを可能にするという意味で、まさしく概念形成の理論で
︶のである。生の根源学は、根源領域
ibid., 174
ある。だが、根本学として哲学の再定義が問題となっている以上、根源領域においては同時に、﹁そ
こから哲学の全概念性が理解され、規定されうる﹂︵
に遡って初めて哲学固有の言語を獲得し、この獲得によって、自己基礎付けの循環を完結させるので
ある。
76
一、根源学構想の成立─初期ハイデガー研究(1)
Ⅱ
注
1
ハイデガーは教授資格論文を世に出して後、﹃存在と時間﹄に至るまでの約十年間、若干の雑誌掲載論文
を除いて、著作を公にしていない。したがって、全集における初期フライブルク講義群の公刊が研究者間
で待ち望まれていたのであるが、その編集方針には異議も唱えられているようである。それゆえ、テキス
Th. Kisiel, the
トをこの講義群に絞ることは若干の問題を含むのであるが、﹃存在と時間﹄という大河に流れ込む支流の
一 つ を 遡 る と い う 意 図 を 満 た す に は 十 分 で あ ろ う。 な お、 全 集 の 刊 行 事 情 等 に 関 し て は、
Genesis of Heidegger's Being and Time, University of Califbrnia Press, 1993.
を参考にした。同書は以下におい
と略記。
GA58
と略記する。
GBT
以下、
Martin Heidegger Gesamtausgabe, Bd. 58, Grundprobleme der Phänomenologie, s. 80.
と略記。な
GA56/57
ては
2
以下、
Martin Heidegger Gesamtausgabe, Bd. 56/57, Zur Bestimmung der Philosophie, s. 12.
1. Die Idee der Philospophie und das Weltanschauungsproblem, 2.
3
お こ の 講 義 録 は 以 下 の も の を 収 め て い る。
GBT, P. 41
︿
Universitat und akademischen Studies
﹀ Faktizität
︿
Th. Kisiel, Das Entstehen des Begriff1des
im Frühwerk,s. 96 in Dilthey-Jahrbuch Bd. 4, 1986/87, Go-
﹀ Űber das Wesen der
Phänomenologie und Transzendentale Wertphilosophie, mit einer Nachschrift der Vorlesung
4
GBT, P. 44
ettingen.
5
6
77
ハイデガーによる理論的態度の克服については稿を改めたい。
は、フッサールの地平概念とハイデガーの環境世界概念との類似性を論じている。 ref. PbenomeR. Bernet
nological Reduction and the double Life, in Reading Heidegger from the start, edited by Thedore Kisiel and John van
Buren, SUNY, 1994, P. 245-267, esp. p. 258
脱生動化に関しては、注7で述べた問題も含めて、稿を改めたい。
Vgl. C. F. Gehtmann, Philosophie als Vollzung und als Begriff. Heideggers identitätsphilosophie des Lebens in der
Vorlesung von Wintersemester 1921/1922 und ihr Verhaltnis zu Sein und Zeit, in Dilthey-Jahrbuch Bd. 4, 1986/87,
Goettingen
ここでゲートマンは、遂行意味と内実意味をノエシスとノエマに、又関与意味を志向性に対
応させている。なお、フッサールの志向性枕念との関連に関しては、この論文を参考にした。
ref. F. F. Seeburger, Heidegger and the phenomenological Reduction, Philosophy and Phenomenological Reserch, vol.
36, 1975-76, p. 212-221.
ここでは、サルトルを顕著な例として、そもそも現象学的還元を行なうに際して
動機づけが働かぎるをえず、動機づけそのものをも還元の論理的構造に取り込まねばならないことが指摘
されている。
78
7
8
10
9
11
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
1
初期フライブルク時代︵一九一九∼一九二三年︶のハイデガーの思索は、生ないし体験の学的把握
の可能性をめぐるものであったとみなして差し支えあるまい。こうした努力が為されること自体、当
時の思想的状況を背景に負っているのだが、この点は後に触れることになろう。ここでは、体験の学
の成立に当たって、その難点が体験の概念的把握の︵不︶可能性にあったことに着目し、ハイデガー
がどのように解決を与えたかを、一九一九年戦時緊急学期講義から一九二〇年夏学期講義までを追う
ことによって明らかにしたい。
第一節 体験の学の可能性 ─ 外界の実在性問題に寄せて
Th. Kisiel
一九一九年戦時緊急学期講義において、ハイデカーは体験を把握する学の成立に伴う困難を、外界
の実在性および体験を前提することのうちに、適切には前提するという語が用いられることのうちに
2
見ている。これらの困難を解決するに当たって、二部からなる講義は戦略的に構成される。
Gibt es das » es gibt «]﹂
?
。具体的には、批判的価値哲学に代表される
GBT, ︶
41
の言葉を借りるならば、第一部において﹁思考実験﹂を行い、これを受けて第二部は﹁理論的なもの
の専制的優位を破壊するように仕組まれる﹂︵
理 論 的 態 度 を 限 界 ま で 推 し 進 め て、﹁﹃ そ れ は 与 え る ﹄ を そ れ は 与 え る か[
79
︵
GA56/57, ︶
62という問いを提出し︵第一部︶、この問いを体験に還元する︵以降、第二部︶。この還
元を通じで理論的態度を環境世界体験の派生態として相対化しつつ、上記の困難を解決していくので
ある。
(1) 思「考実験 」─ 理論的態度の極限化
根本学への志向 ─ 認識論的心理学へのアプローチ
3
]と性格付け、その課題を学の基礎付けに
ハイデガーはみずからの哲学を根本学[ Urwissennschaft
見る。但し、ハイデガーは当初、根本学の概念を方法的にも、対象領域に関しても自体的には積極的
]である﹂︵
Ur-sprung
︶。ところで、根本学には二つの
ibid., 24
]であり、原理によるもの、跳 │出して
Nicht-principium
に規定しない。個別学との対比において、次のように記すのみである。﹁どの個別学も根本学に比す
]、根源 │出[
Ent-sprugenes
れば、原理的ではなく、原理に非ざるもの[
きたもの[
a. a. ︶
O.である。もう一つは
︶という無前提性である。この無前提性は積極的には、﹁自己自身を前提する、自己
ibid., 16
特徴がある。一つは方法に関わり、﹁派生的な、それ自体根本的にではない学から導出されることは
ない﹂︵
自身を根拠付ける⋮という根本学の理念につきものの循環的あり方﹂︵
領域に関わり、個別学との対比において性格付けられる。経験的な個別学の特徴は﹁対象領域の限界
80
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
性﹂︵
ibid., ︶
26にあるが、これは﹁認識対象に着目することによって﹂︵
︶を
ibid., 28
︶見出される。そこ
ibid., 28
で根本学は、認識対象ではなく対象認識を、すなわち、﹁学を学足らしめている現象﹂︵
手がかりとする。
さて、認識現象という手がかりは領域的着目によって取り出された。だが、認識が﹁心理的なもの
︶であれば、対象領域の限界性という個別学の特徴
というきわめて特殊な存在領域の現象﹂︵ ibid., 30
に抵触し、根本学はみずからの特権性を主張し得ない。そこでハイデガーは、リッカートの自然科学
と文化科学における概念性の区別を援用し、心理的なものが二重の法則性に従いうることを指摘する。
経験科学としての心理学が囚果的必然性を原理とするのに対し、根本学としての心理学は﹁まったく
︶である。
ibid., 31
別のありかたをした法則性]︵ a. a. ︶
O.、実際には公理として捉えられた規範法則を原理とする。公理
は演繹的には﹁そこからあらゆる諸命題が証明可能となる、第一の︵根本︶命題﹂︵
また帰納的にも、﹁事実を事実として把握するために⋮既に前提されている﹂︵ a. a. ︶
O.。すなわち公
理は無前提的であるゆえに自己証明を必要とし、このことによって規範法則を発見する心理学は、み
ずからを根本学として特権化するのである。かくしてハイデガーは価値哲学の認識論的心理学へと導
かれた。
81
価値哲学的方法の批判 ─ 心理的なものという事象に向かって
︶に見出す。この方法によれば、
ハイデガーは価値哲学の特徴を﹁目的論的│批判的方法﹂︵ ibid., 35
︶。
規範は﹁ある種の、他と並ぶ表象結合であるが、規範性という価値ゆえに際立っている︵ ibid., 34
︶から何がしかを規範法則
それ自身は因果的必然性に従う表象結合、﹁現実的心理的存在﹂︵ ibid., 54
︶に視点を定めること
として選択しうるのは、﹁思考の目的としての真理﹂、﹁普遍妥当性﹂︵ ibid., 35
によってである。
さて、規範は経験的思考が従うべき法則であるが、目的論的方法はこの規範の基礎付け│目的とし
ての真理は価値と同一視されるので│、価値判断を行う。価値判断は二つの機能を前提している。一
]﹂である。他方は、思
Materialvorgebung
︶な
ibid., 41
]﹂であり、この機能に基づき、思考の理想を判断基準と
Idealgebung
方は、表象結合が規範選択の内容を提供する﹁質料先与[
考の理想を与える、﹁理想付与[
して、規範選択が行われることになる。質料所与性は﹁経験的な、非根本学的な要素﹂︵
ibid., ︶
47とみなされたのである。
ibid.,
ので、質料先与と理想付与は、互いに独立に成立するものとされ、後者に考察が絞られる。理想付与
は、根本学であろうとする要求に則って、﹁核心的な部分﹂︵
4
しかしながら、理想付与の考察は、この機能に含まれる﹁原理的諸問題の多義性を暴露する﹂︵
︶
52結果となる。そこで残るは、﹁目的論的方法を、⋮そのすべての機能について分析的考察の対象
︶である。具体的には、﹁理想を根拠として質料を価値判断する﹂︵ ibid., 54
︶
とする可能性﹂︵ ibid., 53
82
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
という﹁価値判断の意味﹂︵
a. a. ︶
O.
a. a. ︶
O.であるにもかかわらず、﹁規範の﹁もとに質
a. a. ︶
O.の基礎が問われる。基礎とはすなわち、﹁存在と当為、つまり存
在と価値とは二つの根本的構造が異なる世界﹂︵
5
料は﹂あり、規範は質料﹁にとっての規範﹂であるという形で関連性が前提されている﹂︵
︶。なぜなら、
ibid., 60
︶。理想付与、価値判断の考察を経て、問題は、根本
ibid., 55
ということである。目的論的方法の基礎への問いにおいては、﹁両者[規範と質料]の境界を越えた
ところでの統一の本質が問題となる﹂︵
学的方法から一度は斥けられたもう一つの前提機能、﹁質料付与に集約される﹂︵
﹁方法自身が、とりわけ、理想付与という錯綜した構造のうちで示されたあの諸現象[価値、当為、
妥当]が心理的なものの領域にある︵ a. a. ︶
O.からである。実は、根本学を主張する認識の理論は
︶。 そ こ で ハ イ デ ガ ー は﹁ 心 理 的 な も の と は な に か ﹂︵ ibid.,
﹁ 理 論 以 前 の こ と を 遡 示 す る ﹂︵ ibid., 59
︶
60と問い、その規定性を問題にする。
価値哲学の限界 ─ 事象の所与性への問い
︶質料
ibid., 56
心 理 的 な も の の 検 討 に 入 る 前 に、 ハ イ デ ガ ー は そ れ ま で の 考 察 を﹁ 理 論 的 領 野 に 制 限 し て き た ﹂
︶と振り返っている。根本学とみなされた目的論的方法は理論的と括られることになる。こ
︵ ibid., 59
の方法において領域は価値、当為、妥当に限られ、﹁心理的な認識過程を提供する﹂︵
付与は経験科学的心理学に委ねられていた。ところが、心理的な認識過程に﹁即して、心の規範充足
83
a. a. ︶
O.ことが要求される。
の必要条件が見出されるはず﹂︵ ibid., 56
︶だとすれば、根本学が経験的事実に左右されないためには、
﹁質料付与によって心理的な現象の性格付けが遺漏なく行われている﹂︵
﹁仮説的│帰納的な経験認識とは異なる仕方で、この全体領域に迫ることかできるだろうか﹂︵ ibid.,
︶
。質料付与が経験科学的心理学に委ねられないとすれば、根本学にとって、理論的、非理論的領
60
域を問わず、心理的なものを把捉する方法が再び問題となる。
︶である。当為法則による心理
ibid., 34
a. a. ︶
O.によって規則付けられる。後者の法則性は、
︶は﹁基礎的過程に分解可能な出来
さて、経験科学的心理学において、﹁心理的な事象﹂︵ ibid., 61
事の領野︵感覚、表象︶﹂︵ a. a. ︶
O.である。これに対し﹁より高度な過程への連係﹂︵ a. a. ︶
O.、つま
り認識への連係は﹁心理的な出来事の法則性﹂︵
価値哲学によれば、規範法則ないし﹁当為による法則定立﹂︵
的事象の規則付けは再び、﹁それ自身が心理的なものという事象連関に対して事象関係へともたらさ
れうる、事象連関﹂︵ a. a. ︶
O.である。心理的なものは二重の意味で事象として規定される。
心理的なものの把握に関し、目的論的方法は﹁心理的な出来事の法則性によって心理的なありよう
を説明﹂︵ a. a. ︶
O.しようとする。だが、これは経験的思考が当為法則に従うと主張しているに過ぎ
ない。なにより認識の理論はその内部、つまり方法自身に問題をはらんでいたのであるから、理論を
a. a. ︶
O.記述が事象にふさわしい方法なのだろうか。しかし、
﹁事象の領野に被せること﹂︵ a. a. ︶
O.はあってはならない。では、﹁事象を変質させ、変形させる契
機が介入するのを決して許さない﹂︵
84
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
記述も﹁心理的な現象であり、事象領域に属する﹂︵ a. a. ︶
O.。こう断ずることによって、ハイデガー
︶ に あ る こ と を 示 す の で あ る。 だ が、 ハ イ デ
は、 理 論 的 態 度 の 帰 結 が﹁ 絶 対 的 な 事 象 性 ﹂︵ ibid., 63
︶︶と記してもいる。真の狙い
ガーは同時に﹁記述はそもそも事象間の連関の形式なのか﹂︵ ibid., 61
︶に過ぎず、すべてが事
は事象を把握する可能性を問うことである。﹁諸事象が存在する﹂︵ a. a. O.
象へと一元化されれば、いわゆる理論の側から事象を事象として同定し、事象が存在すると言明する
ことは不可能である。理論が理論として成立するためには、次のように問われる必要がある。﹁﹁それ
は与える﹂をそれは与えるか﹂︵ a. a. ︶
O.。この問いは体験考察を行う第二部冒頭の問いと実質は同義
である。なぜなら、この問いの形式は、事象と言明の階層構造を示しているのではないからである。
事象ばかりでなく言明もまた前提されてなければならない。この問いは、理論、すなわち事象につい
ての言明が成立しうるならば、この言明にとり事象が所与として成立する場面への問いである。
(2) 根本学の転回 ─ 理論的態度の体験からの基礎付け
問いの体験への還元 ─ 意義付帯的性格の発見
]︵
︶という問いの体験で始まる。
体験考察を行う第二部は、﹁何かがあるか[ Gibt es etwas? ibid., 63
︶。この問
理論的態度を推し進めた結果得られたこの﹁問いが選ばれたのは意図的である﹂︵ ibid., 65
85
いを発するとき、何らかの対象や事象を前提することはもはや許されない。それらの所与としての成
立条件が問われているからである。さてハイデガーは、﹁何かはあるか﹂における﹁それは与える﹂
es gibt. ]
.﹂
.︵
a. a. ︶
O.という
] を 示 す ﹂︵ ibid.,
と い う 要 素 に 注 目 す る。 こ の﹁ 新 た な 意 味 契 機 は 問 う こ と 自 体[ Fragen als solches
︶
。すなわち事象成立の限界に体験が見出される。また、﹁⋮がある[
67
言明形式における﹁⋮﹂のとり得る多様性と比較するならば、﹁それは与える﹂は﹁どの意味にも当
a. a. ︶
O.。﹁それは与える﹂のこの自己超越は所与性の成立可能性を与える。同時に、
てはまる同一の意味契機﹂︵ a. a. ︶
O.である。この契機は同時に、﹁⋮﹂を満たすべき対象を﹁己を超
え出て示す﹂︵
問いの体験に含まれる契機として、体験の志向性をも示している。いうなればハイデガーは、所与性
が成立する場面で体験の志向性を見いだしたことになる。
]﹂と性格付けることでもある。あるもの、何かは﹁まったく普遍的なもの、もっとも
etwas
]という要素である。すでに所与性の成立は確保されているの
次に注目されるのは、﹁何か[ etwas
]﹂︵ ibid., ︶
で、
﹁それはある[ es ist etwas
68ということができる。これは同時に、成立した所与を﹁あ
るもの[
a. a. ︶
O.である。したがって、あ
a. a. ︶
O.である。つまり、内容規定以前
普遍的なこと、可能な対象一般に帰せられるかもしれないもの﹂︵
るもの、何かとしての性格付けは、﹁言明可能性の最小限﹂︵
a. a. ︶
O.ことを含む。
に事象を事象として同定するという形式的規定であり、むしろ、内容的規定を可能にする。この何か
に備わる空虚な普遍性は、何かが﹁具体物へ何らかの仕方で依拠している﹂︵
86
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
]
es ist etwas
ibid., ︶
68ことを可能にするという積極性を持っ
︶際に拠り所とするものである。ところで、﹁それはあるものである[
ibid., 77
この依拠は体験一般の意義付帯的性格を示しており、後にハィデガーが﹁体験領域に基づいて学を構
築する﹂︵
という言明形式は、
﹁対象に前提なしに向かい合う﹂︵
ている。本節冒頭で、体験の学に帰せられる困難は前提にあることを指摘した。対象を無前提的に扱
︶。﹁体験の多くが、とりわけ環境世界体験の多くが、前提
ibid., 77
う可能性を示したことで、この困難も克服されたのではないか。だが、﹁何かはあるか]と問うこと
は、﹁いずれにせよ体験である﹂︵
。前提の問題と正面から取り組むべき段階に達した。
による負荷を多大に担っている﹂︵ a. a. ︶
O.
外界の実在性および前提の問題 ─ 理論的態度の環境世界体験からの派生
︶という位置付けから、
ibid., 76
︶ものであるという見解をとる。だが、この見解はこの時点では暫定的にし
ibid., 77
︶ことを認め、みずからの学を﹁体験が客観的なあり方をするものではないものと
ibid., 75
本稿では触れる余裕がないが、ハィデガーは上述の問いの体験のほかに、講壇を見るという環境世
界体験をも考察している。その際、体験は﹁事象的ではないもの、客観的に存在するのではないもの
である]︵
して認識する﹂︵
か肯定されない。その理由は二つある。一つは、﹁学は認識である ︵」
体験の学的把握を試みる以上、認識によって体験が対象化され、体験の生動性を捉え損ねるという危
惧が払拭されていないことである。もう一つは、客観化を免れたにせよ、体験を前提するということ
87
は﹁克服できない﹂︵
︶という点である。実はこれらの問題の根は一つであり、認識論にある。
ibid., 77
したがって、認識論の問題として外界の実在性問題を考察し、認識論に代表される理論的態度が環境
世界体験からの派生態であることを示して、この問題を克服しようとするのである。その際、問題は
最初に実在性の前提、次に前提という順で扱われる。この順序立ては任意に選ばれたものではない。
なぜなら、実在性問題において理論的態度の環境世界体験からの派生を示し、前提という語の使用が
有意味であるのは、理論的態度の内部においてであることが示されることになるからである。
]である。﹁外界の実在
さて、環境世界体験の前提事項とみなされるのは、外界の実在性[ Realität
︶。認識論には、実在性を事実と認める実在論と、
性についての問いは認識論の問題である﹂︵ ibid., 79
実在性を主観による構成とみなす超越論的観念論があるが、ハイデカーはいずれにも与しない。むし
ろ、感覚与件を全直接的所与とみなす、両者に共通の出発点を問題にするのである。ハイデガーは認
︶素朴
a. a. ︶
O.態度と対比する。その上で、﹁あまりに多くの仮定や前提を行ってしまう﹂︵ ibid., 85
識論を﹁批判的﹂と形容して、環境世界体験を含む﹁まだ認識論的に吟味を受けていない﹂﹁素朴な﹂
︵
な態度において再び直接的所与を問いかける。しかし、環境世界体験の例である﹁講壇体験において
直接的に私に講壇が与えられている﹂︵ a. a. ︶
O.。素朴な態度においても、直接的所与という語は有意
感「覚そのものが現にあるのは⋮第一義的には理論的態度にお
味に機能する。問題は直接的所与が感覚与件に限定される場合である。むしろ、感覚与件が直接的所
与という意味を獲得するのは、つまり
88
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
いてである﹂︵
。
a. a. ︶
O.
︶と術
ibid., 90
理論的態度と素朴な態度とは、どちらをも取り得る並列的な可能性ではない。ハイデガーは講壇体
︶を理論化の過程として追跡してみ
験を例に、﹁講壇│箱│茶色の│木│事物という系列﹂︵ ibid., 89
]﹂︵
せる。この過程は、次第に体験の生動性を失うものとして、﹁脱生動化[ Entlebung
a. a. ︶
O.ことである。こうして、理論的態
︶である。むしろ、なにものかを所与とみなすことは﹁環境世界的な
ibid., 89
語化され、環境世界体験からの派生態とみなされる。所与性という語すら環境世界体験には適合せず、
既に﹁理論的な形式﹂︵
ものの本来的な意味、意義付帯的性格が取り去られる﹂︵
ibid.,
度、および所与性の起源が環境世界体験にあることを証示することによって、ハイデガーは実在性の
意「味の倒錯﹂︵ a. a. ︶
O.なのだ。
︵
問いに反論することができる。﹁一切の実在性が既に幾重にも変形と意味剥奪した導出を示す﹂
︶
91のであり、実在性への問いはむしろ
a. a. ︶
O.の意味を考察することによって乗り越える。前提ないし無前提という語が有意味
wenn ..., ... ]
so﹂︵
a.
︶という問題が残っ
だが、さらに、﹁環境世界体験は、⋮それ自体が一つの前提である﹂︵ ibid., 93
て い る。 こ れ に 対 し ハ イ デ ガ ー は、 所 与 性 の 場 合 と 類 比 的 に、 前 提、﹁ 先 行 的 に 措 定 す る[ voraus]﹂︵
setzen
に機能するのは、﹁理論的な命題間で 成
. 立する関係﹂、すなわち﹁⋮ならば、⋮[
a. ︶
O.という理論的な領域における関係においてである。この場合、理論的態度が環境世界体験から
の派生態であるというハイデガーの見解を支持するなら、前提という語は体験の学には適用できない。
89
同時に、ハイデガーは理論的考察方法である﹁仮説的基礎付け﹂︵
︶に対し、﹁﹃それはかくか
ibid., 93
くしかじかである[ es ist ]
so﹄という﹃カテゴリー的基礎付け﹄︵ a. a. ︶
O.の可能性を提示する。後
者は、理論的認識に特有の客観化を経ずに、体験を把握し、表現する形式である。理論的態度の派生
の証示と、体験の非客観化的把握の可能性を得たことによって、ハイデガーは﹁体験領域に基づいて
]
Ur-wissenschaft
学を構築する﹂︵ ibid., ︶
77というプログラムを展開することができる。
根本学の転回 ─ 体験領域に基づく学としての源の学[
理論的態度の克服を経て、価値哲学との共感を示すかのように用いられていた根本学という名称は、
]﹂︵ ibid., 96
︶と名を変え
﹁理論的なものそのものがそこから根源を受け取る源の学[ Ur-wissenschaft
る こ と に な る。︵ 尚、 一 九 一 九 / 二 〇 年 冬 学 期 講 義 以 降 は、 よ り 積 極 的 に﹁ 根 源 学[ Ursprungs-
]﹂と呼ばれる。︶この学においても基礎付けの課題は継承されており、この課題は、理
wissenschaft
論的なもののそればかりでなく、哲学の自己基礎付けをも含む。理論的態度に限定するなら、それは
es ist
脱生動化に起源を持つ。脱生動化は環境に端を発し、単純な要素へ還元していく過程である。だが、
こ の 過 程 の 連 鎖 は 必 然 的 で あ ろ う か。 む し ろ そ の 各 段 階 に お い て﹁﹃ そ れ は あ る も の で あ る[
形
「式的対象化は自由である﹂︵
︶。形式的対象化は脱生動化との対比
ibid., 114
]﹄という判断が許されるのではないか﹂︵ ibid., 113
︶。この判断は、脱生動化の段階的連鎖に拘
etwas
束されない。すなわち
90
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
ibid.,
]は、環境世界的なもの、価値、
etwas
に お い て 見 出 さ れ は し た が、﹁ 形 式 的 対 象 的 性 格 付 け の 射 程 は 明 ら か に も っ と 広 範 で あ る ﹂︵
︶。﹁それはあるものである﹂という判断におけるあるもの[
115
a. a.
妥当、その他あらゆるものを性格付け得る可能性である。形式的対象化の発見は、体験をその可能性
において捉える視点を提供し、﹁あらゆる体験可能なもの一般は、
﹃可能的なあるもの﹄である︵
。
a. a. ︶
O.
︶
O.という言明を可能にする。換言すれば、あるものと体験の側で相関するのは、﹁体験可能なもの
]である]﹂︵
一般[ Erlebbares überhaupt
さて、体験一般には意義付帯的性格が備わることが、﹁何かはあるか﹂という問いの体験において
確定されていた。したがって、体験を可能性においてみるならば、意義がまだ刻み込まれていないこ
とを、むしろ可能性のうちに意義を刻み込む機能が備わることを理解できよう。環境世界体験におけ
︶
ibid., 117
る意義付帯的性格は世界付帯的性格として捉えられる。したがって、体験可能性が持つこの有意義化
]﹂︵
機 能 は、﹁ 前 世 界 化 的 意 義 機 能[ Die vor-welthaften und welthaften Bedeutungsfunktionen
と名付けられる。︵尚、この命名から、ハイデガーが体験とその可能性を截然と分けてはいないこと
a. a. ︶
O.を持つ。体験を把握し表現するという形式的対象化が果た
が理解されるだろう。︶この機能は理論的事象化にさらされない直接的体験に固有の﹁生起的性格を
表現するという本質的なもの﹂︵
]︵
hermeneutische Intuition
a. a. ︶
O.と呼ばれるのである。
すべき機能は、ここでは積極的に展開されない。むしろ前世界化的意義機能が体験可能なもの一般の
自己分析機能とみなされ、﹁解釈学的直覚[
91
第二節 体験の学的把握の条件 ─ 実在の多様性をめぐって
]
reale Sein
体験の学的把握の可能性を探ったのはハイデガーばかりではない。ディルタイに代表される生の哲
学のほか、新カント主義においても何らかの試みが見られたのである。その中で、体験の学にまつわ
]の概念による変形﹂︵
Wirklichkeit
a. a. ︶
O.で
︶は﹁概観不可能な多様性﹂を示し、概念的に把握することを拒むものである。した
GA56/57, 171
る困難を鮮明にしたのはリッカートであろう。彼によれば、﹁物理的、および心理的実在[
︵
がって、学的把握に残されている可能性は、﹁現実性[
ある。ところでハイデガーも、生がその現れにおいて多様な形態を取ることを否定しはしない。だが、
︶
ibid., 38
︶に限定した結果である。これに対
ibid., 81
︶として斥ける。むしろ、現実性が呈する外観を多様性とみなすことは、
GA58, 38
一九一九/二〇年冬学期講義において彼は、リッカートの立てた概念形成の問題を﹁学による全現実
性の理論的加工﹂︵
]︵
学の概念性を、内容、本質規定性[ Wasbestimmtheiten
]﹂︵
し ハ イ デ ガ ー は、 生 に﹁ 方 向 様 式 の 変 容 の 豊 か さ[ Variationsreichtum des Richtungsstils
を認め、多様性を産出する構造を根底に置くことによって、生を表現すべき新たな概念の可能性を
探っていくことになる。
92
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
] ─ 生の告知性格
Wiegehalt
(1) 生の告知性格 ─ 体験の表現連関としての学
如何に内実[
理論的概念性を本質規定性として限界付けることは、既に多様性にとらわれる必要のない統一的視
︶である。如何に内
座を獲得していたことを意味する。この視座をなすのが﹁如何に内実﹂︵ ibid., 83
]﹂と比較するのが有効であろう。何
実を理解するためには、それと対照をなす﹁何内実[ Wasgehalt
内実は│﹃存在と時間﹄の術語を先取りすることになるが│内世界的存在者を指示内容とする。これ
に対し如何に内実は、内世界的存在者が現れる体験連関の文脈を捉えようとする方法論的概念に対す
る 命 名 で あ る。 し た が っ て、 如 何 に 内 実 は 何 内 実 を 包 摂 し、 何 内 実 は﹁ 如 何 に 内 実 の う ち に 存 し、
a. a. ︶
O.のである。如何に内実とは、体験連関が持つ
︶換言すれば、﹁この如何に内実は、それ自身のうちに内
ibid., 85
]﹂がある﹂︵
Hinweisei auf
﹁如何に﹂の形式で自らを与える﹂︵
実的に﹁への指示[
指示性格に対する命名である。
如何に内実への着目は、体験に意義付帯的性格という、前理論的ではあれ、理性的性格が備わるこ
との発見に基づく。戦時緊急学期講義では、体験固有の分節性として前世界化的意義機能が名指され
︶という形で捉え直されることになる。この告知性格は﹁体
ibid., 45
た。この機能は、 わ
「れわれが生きている生において出会い得ることのすべては、もろもろの出来事
の連関において己を告知する﹂︵
93
験されたものは何らかの仕方で己を与える﹂︵ ibid., 50
︶という言明と換言可能であり、﹁それは現象
する、現象である﹂と定式化︵ a. a. ︶
O.される。ところで、上述の講義において既に﹁対象と認識、
与えられたもの︵与えられ得るもの︶と記述というこの二項と分離はそもそも存立するのだろうか﹂
︶という疑問が提出されていた。如何に内実は体験連関を捉えようとする方法論的観
︵ GA56/57, 112
]﹂という体験されるものの現象形
irgendwo
点から術語化された概念ではあるが、体験と乖離し、現実性を変形させる概念性ではない。それはむ
しろ、事象的には、体験連関に伴う、﹁何らかの仕方で[
式である。
表現連関としての学 ─ 学への体験連関の変容
前節で述べた、理論的態度の環境世界体験からの派生という見解からも分かるように、ハイデガー
は理論と非理論との対立を認めない。いわゆる自然的態度に既に備わる生の告知性格が持つ理性的性
格は、学的表現体系を表現体系の一つとして相対化することを可能にする。学的表現体系は、概念の
GA58,
現実性への一方的介入ではなく、態度変更と対応する、体験の表現連関の変容とみなされる。すなわ
ち、 学 は 事 実 的 体 験 連 関 の 変 容 と し て 捉 え ら れ、﹁ 学 と い う 表 現 連 関 の ア プ リ オ リ な 発 生 ﹂︵
︶が究明されるのである。ここで述べられる学が、既存の諸学をも含むことは、﹁非理論的な生の
65
︶すると
生内実と同様、事象考察の何内実もある仕方では﹃如何に﹄において自らを呈示﹂︵ ibid., 83
94
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
されることからも明らかである。すなわち﹁表現連関としての学﹂︵
︶一般の可能性を論じる
ibid., 78
学問論が目指されているのである。さらには、理論的学との対比を通じて、﹁生の根本学的告知連関
としての現象学﹂の条件、ないし学問性が示されることにもなる。
︶と名付けるが、その展開を見届ける
ハイデガーはみずからの概念性を﹁具体的論理学﹂︵ ibid., 72
前に、戦時緊急学期講義における見解を思い出しておきたい。理論的態度が環境世界体験の脱意義化
︶生動性が備わることが指摘
GA56/57, 73
︶と主張することから始める。同講義において、環
GA58, 66
GA56/57, ︶
91 と み な さ れ た こ と で あ る。 こ の 見 解 に よ っ て、 ハ イ デ ガ ー は
であり、またその結果、外界の実在性に関して、﹁一切の実在性が既に幾重にも変形され、脱 │意義
化 さ れ た 導 出 を 示 す ﹂︵
﹁具体的な経験地盤は現にそこにある﹂︵
境世界体験には﹁事象的把握を経る知的な回り道なしの﹂︵
a. a. ︶
O.
]﹂
Verfügbarkeiten
GA58, ︶
68の諸変容と規定され、理論化を促す脱生勧化は、この﹁任意処理可能性性格﹂︵
されていた。この生動性は、冬学期講義では、生の多様性における﹁任意処理可能性[
︵
の貧窮化とみなされる。意義付帯的性格が体験一般に伴うように、脱生動化による貧窮化が生じても、
︶である。むしろこの貧窮化は﹁それに
﹁任意処理可能性一般の性格は備えられたままで﹂︵ ibid., 70
│これ
︶を
よって学にとっての事象領域が規定される﹂ところの、等質的で﹁統一的な事象性格﹂︵ ibid., 69
際立てるという、学一般に通じる積極的な役割を果たす。
さて、学的表現連関としての具体的論理学が規定されたことによって、前理論的体験連関
95
をハイデガーは﹁自己世界状況﹂︵
ibid.,
︶と呼ぶ│ と比較しつつ、学一般の可能性を獲得するこ
ibid., 75
とができる。学的状況においても﹁非学的に自己を告示する生世界からなにものかが入り込﹂︵
ibid., ︶
76ことによって示される。これは﹁状況変形[
]﹂
︵
Situationsumbildung
︶。 だ が 状 況 そ の も の は 異 な っ て お り、 こ の 相 違 は﹁ 違 う 気 分 で あ る[
ibid., 76f.
a. a. ︶
O.
» anders
︶
76み、したがって﹁事実的な生の接近方向は両者の諸状況の交替のうちで自己同一的に同じままで
あ る ﹂︵
]﹂
︵
zumute « als
と呼ばれ、両者において異なっているのは生世界への関与の仕方である。すなわち、学的状況におい
ては、﹁固有の自己世界へのどんな関与ももはや存立しておらず﹂、対象のほうから見られるならば、
﹁事象領域へと平均化される﹂︵ ibid.,
﹁諸々の生世界は学によって脱生動化の傾向へと受け取られ﹂、
︶
78のである。
体験の学の条件(1)─全体性の獲得の要求
これまでの考察を通じて、既存の学の特徴と、ハイデガーが現象学に求める条件を指摘することが
できよう。両者とも、生との関与を保っているのだが、現象学には固有の目己世界への関与が求めら
︶に従い、その所与が﹁常に
ibid., 79
︶しようとするのである。この全体性が、既に細分化された事象領
ibid., 80
]における生の限界付けられた断片﹂︵ a. a. ︶
Aspekt
O.であるのに対し、現象学は、
れる。更に、既存の学が﹁客観化する学的な脱生動化の傾向﹂︵
個別化された視角[
生を﹁全体として把捉﹂︵
96
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
域の統合によるものでないことは言うまでもない。ハイデガーがその視座を据える如何に内実におい
て、既に細分化にとらわれた視座である何内実が呈示されるからである。したがって、全体性の獲得
が問題となるのだが、その前に、この講義におけるハイデガーの生ないし体験に対する見解を考慮し
ておかなければならない。
(2) 体験の学の条件 ─ 反省の生への内在化を伴って
体験構造 ─ 生の反省的契機の析出
︶として、生の自己分節を伴うもので
ibid., 117
︶としての﹁体験可
戦時緊急学期講義において、﹁理解しつつ体験される根本現象﹂︵ GA56/57, 115
︶は﹁即かつ対目的な生の本質契機﹂︵ a. a. ︶
能なこと一般﹂︵ ibid., 116
O.であった。体験可能なこと
一般に伴う前世界化的意義機能は、﹁解釈学的直覚﹂︵
はあったが、学的把握の方法論は整えられていなかった。これに対し一九一九/二〇年冬学期講義で
は、生の内部に反省の可能性が求められることになる。
6
﹁事象把握を経る知的な回り道なしに、ただ直接に与え
さて、緊急学期講義では、環境世界体験は
︶ものであった。この直接性は冬学期講義において、﹁生の己に即しての、己その
られる﹂︵ ibid., 73
ものへの絶対的距離の欠如 ﹂として捉え返される。欠如として直接性は、﹁ある観点において、﹁即
97
目 ﹂ を 性 格 付 け る ﹂ も の と し て、﹁ 自 己 充 足 性[ Selbstgenügsamkeit
]﹂︵
7
GA58, ︶
30 と 術 語 化 さ れ る。
︶を規定しているからである。したがって、この現象
ibid., 36
︶。なぜなら、生の即自態には﹁ニュートラルで、灰色の、目立た
ibid., 41
しかしながら﹁﹁自己充足性﹂という現象そのものは即自的な生の内部、この内部にとどまることに
おいては見られ得ない﹂︵
ない色調﹂があり、これが﹁日常性﹂︵
]﹂
problematisch
8
︶と呼ぶが、﹁どんな可問性
ibid., 41
︶とならねばならない。この可能性は即目的な生のうちに見出される。ハイデカーは体験構
ibid., 36
が看取されるためには、
﹁もっとも平凡な諸々の平凡さが絶対的に問題をはらむもの[
︵
]﹂︵
造が持つ反省的契機を﹁可問性性格﹂[ Fraglichkeitscharakter
、すなわち如何に内実である。
a. a. ︶
O.
︶問いかけるかである。その際投入されるのが、表現、ないし告知、現象
ibid., 43
︶のである。したがって、即自的な生を問題にするために残された課題は、﹁どのような厳
ibid., 42
も︵ 理 論 的 │ 学 的 可 問 性 ば か り で な く ︶ そ の答 え を 生 の 構 造 形 式 そ の も の の う ち に 保 持 し て い る﹂
︵
密学的な意味で﹂︵
という﹁新たな観点﹂︵
告知という観点をとることは、既に体験への眼差しが現象学的に変更されていることを意味する。
これに対し、告知現象に即自的な生の関心が引きつけられることはない。なぜなら、関心を惹起され
ないというこのことがまさしく、﹁即自的な生の自己充足的なあり方のうちにある﹂︵ a. a. ︶
O.ことに
他ならないからである。更に、即自的な生は﹁[事実的な生の生動的な]この接近方向において、私
︶であるという特徴を備える。すなわち、
は時折自分に出会いもするが、たいていは逃走的﹂︵ ibid., 96
98
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
前理論的体験においてその志向的対象は│﹃存在と時間﹄の術語を先取りするならば│内世界的存在
者であり、体験の直接性を示す目立たなさにおいて、実は自己世界こそがもっとも目立たない領域で
︶
あることを示している。したがって焦眉の問題は﹁自己世界の生来的な根本経験の獲得﹂︵ ibid., 95
︶。なぜなら、この際立ちこそが、体験の学の反省的
ibid., 101
]のまさしくこの根本経験としての理解︵根本経験の遂行の
であり、しかも﹁際立ち[ Besonderheit
みではなく、﹃獲得﹄︶が問題である﹂︵
a. a. ︶
O.である。
性格の指標だからである。それゆえ問われるのは、﹁いかにして際立った経験様式の際立てへともた
らされるか﹂︵
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
改めて指摘するならば、如何に内実への眼差しの変更は目立たなさへの注目を可能にする。すなわ
︶
ち、内世界的存在者を志向的対象とすることが、﹁特定の何内実に結び付けられている﹂︵ ibid., 104
0
0
0
0
9
︶という言明を可能にするのである。
ibid., 104
視座に基づくのに対し、如何に内実は﹁経験されるもののすべては│内容的には異質であるかもしれ
0
]という同一の意味を持つ﹂︵
ないが│現存[ Existenz
]という同一の意味は有意義性[ Bedeutsamkeit
]と術語化
ところで、現存ないし現実性[ Wirklichkeit
a. a. ︶
O.ことを示してさえいるのである。
a. a. ︶
O.が即自的生において看取されることはまれである。この目立たなさはむし
]という判
される。有意義性の現象性格は目立だなさにあり、﹁私にとって際立った意義[ Bedeutung
然とした性格﹂︵
ろ、日常的経験にとって﹁制限や障壁がない﹂︵
99
体験の学の条件(2) ─ 全体性の内実
︶、すなわち、体験一般の志向的構造に貫かれているもので
ibid., 114
ここで漸く、全体性の獲得、ないし体験の学に取り組むことができる。体験の反省可能性が生の内
部に求められたことから、現象学的経験も、﹁事実的な経験の変容﹂として、﹁事実的な経験の根本様
式のうちに己を保持するもの﹂︵
]﹂とい
あることは、容易に理解できるだろう。ハイデガーは反省の発端を﹁気付き[ Kenntnisnahme
う事実的な経験に求める。気付きという経験は、前理論的なものとして、理論的な脱意義化作用にさ
︶という特徴を備えている。この限界のなさは、何内実に従
ibid., 107
らされていない。すなわち、有意義性のうちにとどまり、﹁一定の経験世界に判然とは裁断されない
事実的な経験の限界のなさ﹂︵
えば、体験内容の量的無限とみなされよう。だが、如何に内実に従えば、むしろ現象形式として有意
義性のうちにとどまる。その限りで、理論的学に特有の領域性に対して、未分節であることを示して
いる。体験の学の全体性は、一つにはこの領域的未分解性に求められるのである。
︶、むしろ有意義性の振る舞い[
ibid., 114
]を表現するのである。気付きという現象は、領
Verhalten
だが、気付きは、やはり﹁事実的な経験連関を表現する﹂作用として、何らかの分節性を備えてい
]ではなく﹂
る。 こ の 分 節 性 は﹁ 類 種 的 な、 あ る い は 概 念 的 に 領 域 的 な 性 格 付 け の﹁ と し て[ als
︵
︶。今やこの相違を明らかにすればよいのだが、学一般の可能性において述べ
ibid., 116
域的分節化を行うのではないが、反省となり得る経験として、生の即自的な経験に対し、﹁何らかの
相違がある﹂︵
100
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
られたことがここでも妥当する。すなわち、学的表現連関と前理論的体験連関において、その対象的
︶し
ibid., 117
︶。むしろ、相違そのものは体験の内容ではなく、現象形式としての連関に
ibid., 116
側面に従えば、接近方向が同一であることが指摘されていたが、気付きにおいても﹁同一のものへと
定位している﹂︵
関わる。事実的体験遂行においては、﹁事実的な生の瞬間的局面﹂が﹁恒常的に交代﹂︵
a. a. ︶
O.が特徴的である。これに対し気付
つつ有意義連関が形成される。だが、即目態にとどまる限り、
﹁私はそれを気にかけず﹂、むしろ﹁自
己を形成する有意義連関とその局面の性格付けの欠如﹂︵
きにおいては、﹁連関自体がそもそも志向されているばかりでなく﹂、この連関を﹁相対的に全体的な
も の と し て 受 け 取 り ﹂、﹁ 経 験 さ れ る も の そ の も の と し て の 連 関 を 構 造 的 に 表 現 す る 凝 固 へ の 傾 向 ﹂
︶が主導的である。すなわち、体験の学に要求される全体性とは、領域的なそれにとどま
︵ ibid., 118
らず、体験連関の全体性、換言すれば、体験の構造的全体性が求められるのである。
第三節 生の自己規定 ─ 個体化の原理に代わるものとして
101
個体化の原理という語を持ち出すことは、いささか強引に過ぎるかもしれない。この語をハイデ
は﹁個体は語りがたい[ individium est
ガーは表立って口にしていないのだから。だが、 F. Hogemann
]﹂という馴染み深い見解に対して、ハイデガーが個体概念を問うことを通じて抗議したこ
ineffabile.
とを指摘している。本節では、体験の学的把握の可能性という主題に則りつつ、ハイデガーが個体の
10
解
「体﹂︵ GA59, ︶
12を企てているのだが、講義のプログラムはさしあたり度外視して、この
。
ibid., ︶
74
102
成立をどの地点に見出したのかを明らかにしたい。一九二〇年夏学期講義はアプリオリおよび体験の
問題の
観点のもとに読み解くことにする。
体験の把握を目指すプログラム
前節で述べたとおり、直前の冬学期講義においても、体験の把握に関して、固有の自己世界の関与
と体験連関の構造的全体性の獲得が要求されていた。だがこれらはまだ要求にとどまり、同講義の意
図はむしろ、﹁真正な哲学的理解にとっての体験にかなった状況を準備する﹂ことにあったといえよ
]、遂 行意味[ Vollzugssinn
]によ る性 格付けを 行いつ つ求める。
GA59, ︶
49を関 与意味[ Bezugssinn
的基準が提供される﹂︵
後者の性格付けにおいてこそ、﹁遂行が根源的、ないし非根源的なものとして性格付けられ得る批判
︵
]﹂
つ の 例 を 挙 げ て 指 摘 す る。 そ の 上 で、 こ れ ら の﹁ 諸 意 義 連 関 が そ こ か ら 生 じ る﹁ 根 源[ Ursprung
ハイデガーは日常言語表現における歴史概念の多義性を、﹁歴史を持つ﹂という用法に着目しつつ六
う。この要求に適う方法論が獲得されるのは、翌夏学期講義における歴史現象の考察を通じてである。
11
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
関与意味 ─ 体験構造の自己関係性
﹁歴史を持つ﹂という用法における﹁持つ﹂という用法への着目は志向性概念の導入を準備する。
ハイデガーは﹁歴史を持たない民族がある﹂という例に依拠しつつ、﹁﹁歴史を持つ﹂ないし﹁持たな
い﹂における﹁持つ﹂は︵形式的な︶関係であり、そこではもう一方の関係項、つまり部族は客観と
︶と述べる。
ibid., 52
して機能している、あるいは考えられているのではない。そうではなく、固有にかつ様々な仕方で
﹁持つ﹂ないし﹁持たない﹂ことができる主観として機能し、考えられている]︵
この関係は﹁経験されたものの十全な形式と仕方、すなわち例に挙げられた諸々の意義のうちで考え
] の 接 近 の 仕 方 ﹂︵ ibid., 60
︶ と し て、 関 与 と 呼 ば れ る。
ら れ て い る も の[ 歴 史 ] と そ の 如 何 に[ Wie
﹁形式的な﹂という補足がなされていることから、関与は体験構造一般に対する命名であるといえよ
う。︵このことは次に述べる遂行との対照を通して、よく理解されよう。︶ところで関与は、志向的構
︶例に即して取り出された、﹁それ自身生きられた自分の過去との内在的
GBT, 129
造として、自我ならざる対象に向かうばかりではない。その特徴は、その意義が﹁他の全ての意味よ
り根源的である﹂︵
︶という自己関係性にある。歴史はむしろ、自己固有の過去として考えられ
な現存在関係︵ ibid., 54
ており、関与の形式性を示す﹁できる﹂は、自己獲得と自己喪失の可能性としての中立性を意味する。
103
遂行意味 ─ 生の自己規定
関与への関与 、」﹁関与が持たれている仕方﹂︵ GA59,
体験一般の構造とての関与に対し、さらに 「
︶が問われる。いわば体験への反省が登場し、この仕方、関与は﹁遂行﹂と名付けられる。﹁持つ﹂
62
と言う語の使用からも分かるとおり│また、一九一九/二〇年冬学期講義において、反省の契機が生
の内部に求められたことを想起するならば│、遂行は関与の様態であり、関与と同一の志向的構造を
a. a. ︶
O.。体験一般にどどまらず﹁誰﹂がと問われるような人称性が方法
持つことに注意しておく必要があろう。さて、この時ハイデガーは重ねて次のように問う。﹁誰が持
つのかが問われるだろう﹂︵
論に入ってくる理由は、関与意味と遂行意昧による二重の性格付けが持つ機能を考察することによっ
て明らかにされよう。
前節で述べたように、現象学には体験連関の構造的表現が求められていた。体験構造を自己関係性
と規定し直し、関与と性格付けたことによって、この課題は果たされたといえよう。だが、これだけ
では十分ではない。体験連関は志向性の意味連関として形成される。したがって諸意義連関の根源、
︶が問われる必要があ
すなわち、﹁これらの様々な意義がその都度己の意味を獲得する場﹂︵ ibid., 49
るのである。換言すれば、いかにして体験連関が志向的意味連関として構造化されるかに、問いが向
けられるのである。先に、遂行意味に照らしての性格付けを通して反省の根源性が図られることを指
摘した。実は、関与意味に次いで遂行意味によって性格付けるという構成は、生を体験連関として統
104
二、体験の学の可能性─初期ハイデガー研究(2)
Ⅱ
一的に把握した上で、さらにその構造化を問うということなのである。
遂行の性格付けが生の構造化の解明であることが明らかになったことによって、﹁誰が﹂と問われ
た理由も理解されよう。自己形成する体験連関、ハイデガーによれば自己世界は、その即自態におい
てはもっとも目立たない領域である。むしろ、構造化への問いを通じて初めて全面的に自己が規定さ
Bd. 59,Phanomenologie
Vgl. Martin Heidegger Gesamtausgabe,Bd. 56/57,
と略記の上ページ数を続ける。︶同
GA56/57
Vandenhoeck und Ruprecht, Goettingen, 1993.
︵以下、
Th. Kisiel, The Genesis of Heidegger's Being and Time, University of California Press, 1993, p. 41.
略記。︶
根本学の概念に関しては、前章﹁根源学構想の成立│初期ハイデガー研究︵1︶│﹂を参照されたい。
と
GBT
︵ 以 下、 GA59
と 略 記。︶ Jurgen Stolzenberg, Ursprung und System, S. 261,
der Anschauung und des Ausdrucks.
︵以下、
Zur Bestimmung der Philosophie.
初期ハイデガーと後期ナトルプとの対応を指摘している。
一九二〇年夏学期講義では、ナトルプ、ディルタイの哲学の﹁解体﹂を試みてもいる。尚、 Stolzenberg
は
ハイデガーは一九一九年夏学期講義においてヴィンデルバント、リッカートを主題的に論じている。また、
れる。実は、人称性が問われ得る個体は、反省による全面的自己規定においてこそ成立するのである。
注
1
2
3
105
4
5
6
7
8
10
9
11
︶と指摘している。
GBT, 40
と略記。︶
GA58
は志向性の持つ﹁ノエシス的側面は妥当、価値、当為
Kisiel
ハイデガーは、理想付与において、真理、価値、当為、妥当の連関が無批判に前提されていることを、主
として価値体験に定位して暴露する。なお、
という新カント主義の三概念の組み合わせを解体する﹂︵
引用文中の[ ]内は引用者による補足である。︵以下、同様︶
Martin Heidegger Gesamtausgabe, Bd. 58, Grundprobleme der Phanomenologie, S. ︵
29.以下、
生の反省以前の様態、つまり即自態において見出された現象ではあるが、体験の﹁充実形式﹂を表す。確
かに﹁ある観点において﹁即自を性格付ける﹂﹂︵ GA58, ︶
30と述べられはするが、﹁充実そのものはそも
験一般の志向的構造を指すことは明らかであろう。
そも、生のうちで固有な構造から遂行される﹂︵ ibid., ︶
42という叙述があるので、様態概念ではなく、体
なお、即自的な生における可問性性格の証左は世界観と宗教である。なぜなら、それらは﹁全体としての
Jahrbuch, Bd. 4, 1986/87, Goettingen, S.
生を問いのうちに立てて、生に究極的な意味を与える﹂︵ GA58, 41
︶からである。
傍点は引用者による。以下同様。
│
F. Hogemann, Heideggers Konzeption der Phanomenologie, In Dirthey
Vgl. C. F. Gehtmann, Philosophie als Vollzug und als Beggriff. Heideggers Identitatsphilosophie des Lebens in der
61.
│ semester 1921/22 und ihr Verhaltnis zu Sein und Zeit, in Dilthey Jarbuch, Bd. Vorlesung von Winter
4.尚、こ
は遂行意味と内実意味をノエシスとノエマに、関与意味を志向性に対応させている。
Gehtmann
こでは
106
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)─
1
歴史はおそらハイデガーの当初からの関心でもあった。実際、初期マールブルク講義群の巻頭をな
す 戦 時 緊 急 学 期 講 義 に お い て ハ イ デ ガ ー は、﹁ 歴 史 的 自 我 と し て の 私 ﹂︵ GA56/57, ︶
74 を 口 に す る。
2
本稿は、初期マールブルク時代における歴史へのこの関心が、ハイデガーの思索の進展に伴って、ど
のような位置付けを受けるか跡付けようと試みるものである。
]﹂︵ GA58, ︶
27の構想を打ち出す戦時緊急学期講義におい
まずは、﹁根源学[ Ursprungswissenschaft
て、歴史の語が初めて登場する経緯を確認したい。根源学とは体験領域に基づいて学および自らを基
礎付けることを課題とする哲学の謂いであり、主著﹃存在と時間﹄における﹁基礎的存在論﹂に通じ
る構想である。自己基礎付けの課題は、歴史性がハイデガーの思索に取り込まれる際にもその問題構
hermeneutische
︶の語が示すように、体験の自己理解に含意される歴史的構造 であり、ハ
GA56/57, 117
成 を 規 定 し て い く こ と に な る が、 こ の 講 義 に お い て 歴 史 性 は﹁ 解 釈 学 的 直 覚[
]﹂︵
Intuition
イデガーはこれを﹁動機付け﹂の語で理解している。次に、続く﹃現象学と批判的価値哲学﹄という
講義に即して、哲学の問題構成を制約する歴史的条件という意昧での歴史性 を取り上げる。ハイデ
ガーはこの意味での歴史性を﹁精神史的動機付け﹂と名づけ、価値哲学の動機付けを遡行的に解体す
ることで理論的態度との対決にひとまず終止符を打つ。
107
動機付けの語に含意される二つの歴史性が浮かび上がることによって、これを主題化する準備は
整ったように思われる。歴史性の主題化は一九二〇年夏学期講義﹃直観と表現の現象学﹄においてな
されるが、この講義に直接に赴く前に、その直前の﹃現象学の根本諸問題﹄を振り返っておく。同講
義は哲学を﹁生の根本学的告知連関としての現象学﹂として理解し、理論的な学を体験連関の変容と
みなすことによって、学を発生的に基礎付ける試みである。この試みは、事実的な経験としての哲学
の営みにおいて生を理解する際に、方法上の示唆を与えることになり、上記の﹃直観と表現﹄講義に
おける問題構成に方向性を与えることになる。最後に、これまで取り上げてきた論点が﹃直観と表
現﹄講義において、歴史性の主題化という形で収斂していく様を見届けたい。すなわち二重の含意を
持つ歴史性が、﹃根本諸問題﹄における方法上の示唆を介して、如何に根源学という問題構成の中に
取りまとめられるかという問題である。同講義は歴史性を取り込むことによって、その後のハイデ
ガーの思惟に新たな局面を開くが、その局面をも展望できれば幸いである。
立論の都合上、クロニカルな進行を採らざるを得ず、またハイデガーの思惟が生の反省的把握を通
しての哲学の基礎付けという同一の主題を巡って多方向に展開するために、決して明快に論旨を進め
ることができなかった。筆者の力量不足をお詫びするとともに、ご容赦を願うばかりである。
108
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
第一節 歴「史的
」なるものへの促し①─解釈学的直覚
」なるものを自らの
序文冒頭の引用は、ハイデガーが早くから歴史に対する関心を寄せていたかの印象を与える。これ
3
は実際、否定できない。ハイデガーはたびたび歴史の語を口にするのである。だが、ハイデガーの思
索において、歴史は私的関心の域を超えでないのであろうか。むしろ、 歴
「 史的
思索の内に引き入れるべき十分な理由があるのではないか。本節では、ハイデガーが、歴史を主題化
するべく促す要素と思われるものの一つを明らかにしたい。
4
﹃哲学の理念と世界観問題﹄と題する講義の意図は﹁学を構築する﹂︵ GA56/57,
序文でも引用した、
︶ことにある。学の構築とは哲学の再定義という課題と結びついており、この課題を提示する際、
77
︶ と い う カ ン ト の 要 求 で あ り、 理 念 の 語 を 用 い た の は﹁ 派 生 的 な、
ibid., 119
ハイデカーは﹁根本学としての哲学の理念﹂を掲げる。根本学として想起されていたのは﹁学につい
て の 学 的 理 論 で あ る ﹂︵
︶という無前提性を主張するためであ
それ自体根本的でない学から導出されることはない﹂︵ ibid., 16
る。この無前提性は、哲学自身の導出にあたっては自己基礎付けとならざるを得ない。これは、ハイ
a. a. ︶
O.であり、﹁哲学と哲学
a. a. ︶
O.として積極的に支持される。本講義におけるハイデガー
デガーの言葉に従えば 根「本学の理念につきものの循環的なあり方﹂︵
の方法の本質性格が発現したもの﹂
︵
の意図を要約すれば﹁講義の本来の目的は、領域と、それに応じた方法の性格付けによる、現象学的
109
哲学の基礎付けである﹂ということになろう︵
︶。
GBT, 44
︶でもある。哲学は己が依拠し、
ibid., 121
さて、学の構築はそれを支える土台を欠くのではなく、ハイデガーはこれを﹁主観的│個別的な体
験領域に基づいて﹂︵ GA56/57, ︶
77行うことを構想する。体験領域は学を基礎付ける層であるばかり
ではなく、哲学が己を支えるべき﹁真の現象学的な根源層﹂︵
︶と名を変える。同時に自己基礎付けという方法にかかわ
ibid., 96
且つ学を発生せしめる根源層を同定することによって、﹁理論的なものそのものがそこから根源を受
]﹂︵
け取る源の学[ Ur-wissenschaft
る課題は、体験領域そのものに適用される。﹁現象学の方法上の根本問題とは、体験領域の学的解明
︶として、体験領城における自己基礎付けはその学的解明
の仕方についての問いである﹂︵ ibid., 109
5
に替わる。ところで、引用中の問いはフッサールと共有するものであり、フッサールは自らの方法を
﹁反省的に経験する行為﹂と定式化していた。これに対してはナトルプが、記述的反省をもってして
︶。この批判に対し、ハイデ
ibid., 100
︶。なぜなら、﹁記述であっても既
も体験の直接的な把握はありえないと強く反論していた︵ ibid., 101
に概念を用いて操作する﹂ため、﹁抽象化﹂を伴うからである︵
ガー自身も回答を与えねばならないだろう。果たして、体験の直接的な把握は可能なのだろうか。
ハイデガーの見るところ、体験は﹁端的に反省抜きで体験されていた体験を、ひとつの﹃見て取ら
︶という仕方で、事後的に捉えられる必要はない。むしろ体験には﹁規
れた﹄体験にする﹂︵ ibid., 100
︶が備わる。哲学が持つ自
定性が一切の理論的記述に先立ってあるという謎めいた性格﹂︵ ibid., 117
110
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
︶にあって、生は
ibid., 70
己基礎付けの循環性格は体験自身が備えるものでもあったのだ。ハイデガーはこの性格を生の有意義
化機能の内に看取する。理論的態度を採る以前の日常性、﹁環世界体験﹂︵
ibid.,
既に有意義連関の中で生きている。講義をすべく講堂に入ったハイデガーは、講壇を目にしてそれを
まず茶色の箱として認識するのではない。彼は﹁自分がそこで話をしなくてはならない講壇]︵
6
︶
71を見ているのである。事物ないし内世界的存在者の持つ意義についての理解内容を既にして体験
ibid.,
︶と
ibid., 115
が有しているという事態を、ハイデガーは﹁意義付帯的性格﹂と術語化する。これは、例えば講壇を
見るという体験に先立って、生が講壇という意義を、﹁世界的な性格付けを穿ちだす﹂︵
い う 事 態 で も あ る。 こ の 穿 ち 出 し、 有 意 義 化 の 働 き を ハ イ デ カ ー は﹁ 前 世 界 化 的 意 味 機 能 ﹂︵
︶と術語化する。前世界化的意味機能は可能態と現実態という概念対で図式化することも可能で
117
あるし、彼の術語を解釈する際の一助ともなろう。しかし我々にとって重要なのは、ハイデカーがこ
の機能を﹁捕捉しつつ自己白身を伴っていく体験行為﹂︵ a. a. ︶
O.とみなしたことだろう。前世界化
的意味機能は有意義連関の形成という生の自己構造化の場面にとどまらず、生の自己理解の文脈に置
かれたのである。
上述のように、体験を直接的に把握することの可能性に対する問い乃至疑いは、生に備わる有意義
化機能を自己理解の文脈に置き換えることによって答えられた。こうした置換が持つ、ハイデカーの
思索の発展における意義をこそ、問題とすべきであろう。元来、生が備える前世界化的意味機能とは、
111
生が自らを構造化するものだった。しかしこれに、構造化というプロセスが認められたことによって、
この機能は同時に、構造化による時間的差異の幅を負わされたのである。これが自己理解という文脈
︶と名指
ibid., 117
a. a. ︶
O.という、生の自己理解に件う歴史性である。日常性における生が持つ有意義
に置換されたときに何か生じるか。それは﹁生そのもののうちで生きており﹂ながら、﹁由来を自己
の内に担う﹂︵
化機能は哲学的に、あるいは﹁根源学的に﹂彫琢されるならば、﹁解釈学的直覚﹂︵
されるものになるだろう。解釈学的という形容詞を関しながらなおも直覚であろうとするこの機能は、
形容矛盾とも取られかねない代物だが、生の直接的把握および、ハイデカーの思索における歴史性へ
の促しという文脈において、どのような役割を演じるのか。体験把握への問いにおける回答は既に得
られているであろう。では歴史性との問題連関においてはどうであろうか。これには、ハイデカー自
身が答えている。すなわち、彼は﹁後に説明すべき﹂こととして、﹁還帰的把握︵動機付け︶﹂︵ ibid.,
ibid.,
︶を挙げている。生の有意義化という働き、すなわち生の自己構造化ないし自己理解を│体験の
116
直 接 的 把 握 の 方 法 と し て 利 用 す る た め に は │﹁ 動 機 付 け │ 動 囚 と 動 機。 生 は 歴 史 的 で あ る ﹂︵
︶という事態を解明しておかなければならない。だが残念なことに、ハイデガー自身、この問題
117
に関しては困惑を示している。生が持つ自己把握の構造を捉えたにせよ、﹁だからといってそれをど
︶。
う扱ってよいのかが分からない﹂︵ ibid., 117
上述の困惑にもかかわらず、ハイデガーは本講義を終えてまもなく、﹁体験的な態度]と﹁理論的
112
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
な態度﹂を対置させることによって、動機付けに対する手がかりを得る。既に同講義において、事象
に対する理論的な把握を、理論的態度といえども体験であるという側面から考察していた。そこでは
︶。この過程性格に注目することによって、﹁理論的な振る舞いの体験的な側面と
GA56/57, 89f.
理論的体験とは、環世界体験の﹁脱生動化﹂を伴いつつ﹁実在性の諸段階﹂を経ていく過程とみなさ
れた︵
a. a. ︶
O.を有することを理解せしめた。これらの連関
︶。同時に、理論的な振る舞いにおける目的論性は、連関そのものが、
ibid., 210
は、一つの事柄規定性から別の事柄規定性へと進展する﹂﹁目的論的︲必然的﹂な連関であることが
見出されるのである︵︵
過程の進展に先立ってなんらかの﹁方向性﹂︵
性、方向性を体験一般が備える性格とみなしつつ、ハイデガーは自らの思索の方向を見定める。﹁さ
て我々は、動機付けをもはやあることへの動機付けと見ることはしない。むしろ、あることからの動
︶
機付けと見るのである。︵つまり後退的に見ていく︶。﹂︵ ibid., 210
第二節 「歴史的」なるものへの促し② ─ 精神史的動機付け
前節において、ハイデガーが既に生ないし体験に﹁歴史的﹂な性格を認めていたことは確認できた
であろう。後に、その﹁歴史的﹂なるものが如何に主題化されるかを、主として﹃直観と表現の現象
学﹄講義に即して明らかにしたい。だがその前に一種の中間考察として、果たして生が備える歴史性
が﹁解釈学的直覚﹂の術語に代表される、生の自己解釈に伴うだけのものなのかどうかを確認してお
113
きたい。なぜなら、﹁歴史的﹂なるものの射程を幅広く捉えておくことが、上述の講義における主題
化の仕方に対する理解を助けてくれるように思われるからである。
︶からだ。引用
ibid., 210
前節では生の歴史性を、前世界化的意味機能という体験の自己構造化の側面において、﹁解釈学的
直覚﹂に伴う動機付けを主眼に取り上げた。この構造化は、独我論的自我による自己完結的な構成で
はない。﹁実践的│歴史的な自我は、必然的に社会的な性質のものである﹂︵
中の社会性を共時的な構造としてのみ解するのでは、ハイデガーのその後の思索に通じる射程を測り
誤ることになるだろう。実際、戦時緊急学期講義に続く﹁現象学と超越論的価値哲学﹂では[歴史的
︶ことが課題の一つとなっている。ハイデガー
精神史的動機付けについての理解を得る]︵ ibid., 125
︶という文脈で登場することには注意しておく
ibid., 126
︶。但し、
によれば、﹁根源的な動機付けに立ち返ることなしには真の歴史的な理解もない﹂︵ ibid., 125
ここにいう歴史的理解が、﹁現象学的批判﹂︵
ibid.,
必要がある。なお、現象学的批判とは、﹃直観と表現﹄講義における現象学的破壊に通じる方法論的
装置である。このように断定し得るのは、
﹁批判とは、真の動機付けを積極的に聞き出すこと﹂︵
︶と明言されるからだ。
126
さて、ここで歴史的理解ないし精神史的動機付けの語が登場する文脈に注意を促したのは、それが
﹃存在と時間﹄おける﹁被解釈性﹂に結実するような機能を有するからだ。つまり、この意味での動
機付けは個我的な生の自己解釈に、換言すれば、哲学的な態度をとろうと日常的な環世界体験に満足
114
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
していようと、その自己理解内容に反映されざるを得ないのである。だが、精神史的動機付けの語を
用いる時点でのハイデガーは、こうした一種の影響連関には無自覚的であった。先述のとおり精神史
的な動機付けは哲学上の問題構成に関してのみ問題化されている。しかも哲学的問題構成としてハイ
デガーが対決しようとしたのは批判的価値哲学であって、この意図のもとでは﹁[批判的価値哲学と
、[ ]内は筆者による補足、以下も同様︶が主眼とされたのである。
ibid., 125
いう]典型を、それが扱っている問題系が真のものであるかどうかという観点から理解しようとする
こと﹂︵
初期ハイデガーの動機付けに対する思索が以上のように精神史に対する外在的な批判であったにも
かかわらず、精神史的動機付けは後に、生の自己解釈を彫琢する際にその解釈の構造にも反映せざる
を得ない射程を有するものとなろう。差し当たり以下では、ハイデガーの自覚的な問題設定を無視し、
この動機付けが哲学における生理解に侵入してくる様を見届けたい。こうした手順は、後にハイデ
ガーが現象学的破壊を唱えざるを得なかったことに対する経緯を理解せしめる一助になると思われる
からである。
先にも述べたとおり、ハイデガーは哲学的問題構成が精神史的動機付けから自由ではないことに気
付 い て い た。 こ の こ と は、﹁ 価 値 哲 学 が 一 九 世 紀 的 な あ り よ う か ら 強 い 制 約 を 受 け て い た ﹂︵ ibid.,
問「題史的叙述
」におい
︶との指摘からも明らかである。ハイデガーは価値哲学の成立を一九世紀の思想状況に遡って跡
124
付け、また後にヴィンデルバントが引き受けることになる歴史哲学の発展を
115
て一八世紀の啓蒙主義にまで遡って丹念に論じるが、ここではその詳細を紹介する余裕がない。我々
にとって有要と思われるのは、ヴィンデルバントがコーエン、ディルタイ、ブレンターノという 三「
組「み合わせて考察することで、超越論的価値哲学がどのようにして現代の唯一
つの影響領域﹂すなわち、超越論的方法としての哲学、精神諸科学の基礎付けを意図した歴史︵哲︶
学、そして心理学を
︶という指摘である。この
︵真剣な︶典型的な文化哲学となったかがはじめて理解される﹂︵ ibid., 140
三者は精神史的動機付けをなすと考えられたのである。影響領域三者のうち、わけてもブレンターノ
による表象と判断の区別は重要である。なぜならハイデガーは、本講義のタイトルに他ならない﹃現
象学と超越論的価値哲学﹄の起源と分水嶺をブレンターノに求めるからである。 ブ
「 レンターノに動
︶。起源の語が示唆するように、ハイデガーはここに﹁精
ibid., 150
機付けられているという事態が質的に示す差異と、研究の方向が分離したということが、まさに同一
の起源において理解可能となる﹂︵
︶となる﹁真の現象学的な根源層﹂︵ a. a. ︶
神史の上での動機付け﹂︵ ibid., 121
O.を見ている。これは
価値哲学の側では、当為の基礎付けを行うべき領域であり、﹁心理学的なものとしての﹂﹁判断する主
︶に他ならない。ハイデガーはこのような枠組みにおける基礎付けの試みを﹁体験領
観﹂︵ ibid., 190f.
︶と解している。ハイデガーはこ
域に関する論述、しかも実在性と志向性から見たそれ﹂︵ ibid., 191
の論述を﹁ある動機付けの連関の内にあることを示した﹂︵ a. a. ︶
O.ものとみなし、この点に価値哲
学 と 現 象 学 の 共 通 の 起 源 を 認 め た の で あ る。 た だ し、 価 値 哲 学 は 体 験 を 心 理 学 的 に 捉 え た た め に、
116
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
﹁リッカートはこの動機性格をそのまま認識の対象に実体化した﹂︵ a. a. ︶
O.ことを批判する。すなわ
ちハイデガーは、価値哲学が自らの基礎付けおよび歴史学の基礎付けという課題に際して依拠する
﹁判断﹂ないし﹁価値判断﹂を、理論的に矮小化された志向性と考え、理論的態度に限定されない体
験一般に備わる志向性という観点から、価値哲学の問題構成を批判するのである。
第三節 「歴史」の主題化における問題構成の準備
先の二節では、ハイデカーの思索に歴史性が登場するに至る背景を捉えることを目指していた。す
なわち、生の自己解釈に含意される歴史性と哲学の問題構成を制約する精神史という意味での歴史性
である。本稿は、ハイデガーが実際に歴史性の主題化を試みる﹃直観と表現﹄講義に即して、その戦
略を明らかにすることを意図している。だが、同講義を取り上げる前に、それに先立つ一九一九、二
〇年冬学期講義﹃現象学の根本諸問題﹄を簡単に振り返っておこう。この講義で取り上げられ るモ
チーフが、﹃直観と表現﹄講義において形成される問題構成に対して、その構成上の規定力を持つと
思われるからである。
一九一九年における三つの講義はハイデガーが自らの哲学を﹁根源学﹂として構想して行く過程で
7
あったが、同時に﹁﹁理論的なもの﹂そのものを問題化する視点﹂に貫かれている。理論批判という
文脈では、前節で取り上げた﹁価値哲学﹂をもってひとまず終結を見たといえよう。以後ハイデガー
117
は、上記の﹃根本諸問題﹄講義において﹁根源学﹂の構想を具体化していくからである。とはいえ、
ハイデガーが理論批判を展開したのは、生の有意義化機能に基づいた体験の直接的把握というこの構
想においても、理論の側からさしはさまれる難点を事前に払底し、自己基礎付けという意味での無前
提性を確保しておきたかったからでもある。この無前提性が哲学の本質性格とみなされ、根本学の要
件であったことは第一節で述べたとおりである。さて、根源学に手をつける前に解決しておくべき理
8
論的難点としてハイデガーが念頭においていたのは、対象領域の所与性と領域性格に即応する方法で
ある。これらの論難に対するハイデガーの解決法については割愛せざるを得ないが、いずれも克服し
えたとみなされている。前者に関してはすでに戦時緊急学期講義において、﹁体験領域に、これから
︶と
GA56/57, 110
GA58,︶5とまで難ずるのである。また方法に関すれば、これも既に、﹁外からそして上から方法を
︶ と 反 論 を 加 え て い た。 本 講 義 で は こ の 見 解 は 強 い 確 信 と な っ て、 所 与 性 を﹁ 現 象 学 の 呪 文 ﹂
111f.
記述されるべき所与という烙印を押すのは、既に隠されてはいても理論ではなかろうか﹂︵ GA56/57,
︵
構成してくるのではないという方向付け﹂が﹁現象学的な根本態度から生ずる﹂
︵
︶に他ならない﹁ただ理解する明証性
明言している。﹁非理論的な性質の基盤的直覚﹂︵ GA56/57, 111
︶のだ。領域と方法に対する危惧の念を払拭したことに
だけが現象学的基準である﹂︵ GA56/57, 126
よってハイデガーは﹁事実的に始める!﹂︵ GA58,︶4と宣言する。またこの着手にあって、自己基礎
付けの循環は﹁生動性という特有な性格、問うことと解決の仕方の﹁組み立て﹂、問題構成の優位﹂
118
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
︵
GA58,︶1として、根源学を具体化していく中で循環そのものが実現されるべき積極的な位置付けを
得るのである。
以上で根源学に取り組む条件は整ったように思われる。今度は﹃根本諸問題﹄講義の成果を、後に
歴史性を主題化する際に、その問題構成に影響を与えると思われる範囲で簡単にまとめておこう。戦
時緊急学期講義で発見された﹁世界付帯的性格﹂を﹁周囲世界、共同世界、自己世界﹂へと構造分節
したこと、また、同じく戦時緊急学期講義の成果である生の有意義化機能を﹁体験の表現連関として
の学﹂︵ GA58, ︶
78という問題設定のもとに、生から学が発生する過程として追跡したことの二点で
ある。
GA58, ︶
30との術語を与える。この命名は、
世界付帯的性格の分節は日常性における体験一般の志向的構造の析出と密接な関係にあり、反省的
記述の生への内在化に対する要求と不可分である。ハイデガーは本講義において体験構造一般に生の
]︵
﹁充実形式﹂としての﹁自己充足性[ Selbstgenügsamkeit
]﹂に基づき、内世界的
生がその即自態、つまり日常性においてはその﹁処理可能性[ Verufügbarkeit
︶とみなすハイデガーにとっ
GA56/57, 100
存在者をもっぱらの志向的対象とすることで安寧を得ることによる。しかし、﹁反省それ自体は、体
験領域に属する﹂ことを﹁体験領域の﹁根本的特有性﹂﹂︵
て、体験はそれ自身とも志向的関係を結ばなければならない。この可能性をハイデガーは自己世界と
︶であるという
の関係に見て取り、﹁私は時折自分に出会いもするが、たいていは逃走的﹂︵ GA58, 96
119
消極的な仕方で表現する。体験が有するこの自己逃走的性格は、体験を主題化する方法にも反映され
る。内世界的存在者を対象とする限り、体験はそれとして際立つことがなく、この目立たなさは生の
即自態においては体験の直接性の指標である。上述の引用は日常性において、実は自己世界こそが最
GA58, ︶
95 が 焦 眉 の 問 題 と な る。 そ の 際﹁ 根 本 経 験 の 遂 行 の み な ら ず、﹁ 獲 得 ﹂ が 問 題 で あ る ﹂
も 目 立 た な い 領 域 で あ る こ と を 示 し て い る。 し た が っ て﹁ 自 己 世 界 の 生 来 的 な 根 本 経 験 の 獲 得 ﹂
︵
︶と付言されることには注意しておく必要があろう。﹁遂行﹂と﹁獲得﹂とは日常性にお
︵ GA58, 101
ける即自態とそれが反省にもたらされるであろう対自態の区別だからである。
︶を追跡する試みに、それが体験の直接
次に﹁学という表現連関のアプリオリな発生﹂︵ GA58, 65
的把握という課題にかかわる限りで、焦点を当てよう。学の表現連関としての性格付けは唐突に響く
が、これは戦時緊急学期講義における前世界化的意味機能の発見に基づく。ハイデガーは体験におけ
る動機付けに注目したことによって、生を体験連関とする見方を獲得した。これに有意義化機能を併
せ て 考 察 し た と き、 生 の 自 己 分 節 性 は﹁ 我 々 が 生 き て い る 生 に お い て 出 会 い う る こ と の す べ て は、
諸々の出来事の連関において己を告知する﹂︵ GA58, ︶
45という告知性格において捉え直されること
︶するのである。
GA58, 83
になる。学もこの告知性格の中で把握可能であることは言うまでもない。﹁非理論的な生の生内実と
同様、事象考察の何内実もある仕方では﹁如何に﹂において自らを呈示﹂︵
︶一般の可能
学を事実的体験連関の変容とみなしたことによって、﹁表現連関としての学﹂︵ GA58, 78
120
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
性を論じる学問論を企てることが可能となった。この企ては、体験の直接的把握という文脈からすれ
ば、理論的学との対比を通じて、﹁生の根本学的告知連関としての現象学﹂の条件が示されることに
もなる。
さてハイデガーは、かつて哲学の定義づけに際して所与としての対象領域と方法の性格付けに着目
したように、本講義においても現象学と理論的学をその領域と方法という観点から区別する。とはい
え、両者の所与ないし対象領域が相並ぶものであるかのように判然と区別されるのではない。既に戦
時緊急学期講義において理論的態度が、日常性における意義付帯的性格である世界付帯的性格の脱生
動化という過程を経て成立するとみなしていた。理論的体験は環世界体験からの派生であるとの見方
]﹂の相違による。理論的学においては。
Aspekt
である。したがって現象学と理論的学の出発点が同じ体験にあることには相違ない。だが結果として
異なる領域を対象とするのは、方法を決する﹁視角[
︶となってしまい、
その所与が﹁常に個別化された視角における生の限界付けられた断片﹂︵ GA58, 79
︶。これに対し現象
対象領域としては、学問区分と対応する﹁事象領域へと平均化される﹂︵ GA58, 78
︶という特徴を保持しつつ、生を
GA58, 107
学は、性急に領域的な分節化を行うことを避け、つまり体験の生動性を意味する﹁特定の経験世界に
︶することが課題となる。
GA58, 81
は判然とは裁断されない事実的な経験の限界のなさ]︵
﹁全体として把握﹂︵
この課題に答えようとするハイデガーが注目した事象は、世界付帯的性格の分析を進めた結果であ
121
る﹁有意義性[
]﹂と、事実的な経験に備わる﹁覚知[
Bedeutsamkeit
]﹂の二つである。
Kenntnisnahme
先に述べたように、前理論的体験でもある日常性における生は、内世界的存在者との関与を意味する
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
]という同一の
Existenz
0
︶ 視 角 に 支 え ら れ て い る。 こ の 視 角 に 基 づ い て い て は、
GA58, 104
処理可能性に没頭することで自己充足している。だがこの自己充足は、理論的態度と同様、﹁特定の
0
何 内 実 に 結 び 付 け ら れ て い る ﹂︵
0
﹁経験されるもののすべては│内容的には異質であるかもしれないが│現存[
意味を持つ﹂︵ GA58, 104
、傍点は原文での大字を表す。︶との言明は不可能である。そして、この現
]がまさに有意義性に対する性格付けなのである。先に自己充実性に関
存ないし現実性[ Wirklichkeit
﹂という
Bedeutung
︶を持つことは、即自的な生においては稀である。現象学に求められる
GA58, 104
して述べたことから理解されるように、有意義性が﹁私にとって際立った意義﹁
判然とした性格﹂︵
︶である以上、
GA58, 114
のは、この判然とした性格の獲得であり、この際立ちこそ体験が反省的様態にあることの指標なのだ。
では、反省の発端をどこに求めるべきか。現象学も﹁事実的な経験の変容﹂︵
事実的な経験に求めざるを得ない。ちなみに、この経験の変容としての現象学という構想は、体験の
]ではなく﹂︵ GA58, 114
︶、有意義性の﹁振る舞い[ Verhalten
]﹂
als
]﹂を見出すのである。覚知は﹁類種的な、あるいは概念
Kenntnisnahme
反省的把握の可能性を生の内部に求めるハイデガーの姿勢と呼応する。そしてハイデガーは、反省に
育ち得る経験として﹁覚知[
的に領域的な性格付けの﹁として[
を表現する。すなわち覚知における分節性は、純粋に即自態にとどまる生が自己を形成する有意義連
122
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
関とその局面の性格付けの欠如﹂︵
︶が主導的である。こうした傾向が、
GA58, 118f.
︶を特徴とするのに対して、﹁経験されるものそのもの
GA58, 117
としての連関を構造的に表現する凝固への傾向﹂︵
反省へ育ち行く可能性と期待されたのである。
︶を完遂してみたところ、﹁事実
GA58, 123
体験の直接的把握につながる覚知という現象を見出だしたにもかかわらず、ハイデカーの本講義に
おける試みは中途で放り出される。この頓挫の理由を考えてみることが肝要であろう。頓挫というの
は、覚知を手がかりに﹁事実的経験の全体性形成能作﹂︵
︶が生じ、﹁それ白身で確定され、説明された対象的な連関の理念﹂、﹁事
的経験の解消﹂︵ GA58, 124
︶﹂ に 至 っ た こ と で あ る。 ハ イ デ ガ ー が そ れ を﹁ 方 法 上 の 仮 説 ﹂
GA58, 127
︶と述べる以上、自らが取る方法の不十分さは自覚されていたに違いない。その内実を確
GA58, 123
物 対 象 性 ま た は 事 物 性︵
︵
︶だったという点である。この見解は以後も堅持されるが、本講義で覚知から
GA58, 114
認することが肝要である。思い出しておかねばならないのは、現象学的行為そのものが﹁事実的な経
験の変容﹂︵
事物性の理念に至ったことで、ハイデガーが捉えようとしていた有意義連関そのものが客観的な事象
︶という問題設定のみでは、客観化を防止する保
GA58, 103
連関に育ちいく可能性が露呈されてしまった。換言すれば有意義連関の全体的把握、﹁目立たない事
実的な生経験を完全な直観にもたらす﹂︵
証を得られないということである。﹁最終的な危険に対しては克服されえない。根拠は、事物性の理
念が一定の経験領域から生じ、断ちきられているのではなく、際立たせられていない事実的経験から
123
現象学的に創出可能だということである。この経験へと入りくるものはどれもすべて、事物性連関へ
の理論的傾向から出会われ得るようになるという可能性のうちにあり、事物化の機会を待っている﹂
︶。これは生の全体性が領域的にのみ具体的な考察を得ていたことと無関係ではなかろう
︵ GA58, 128
し、理解する明証性、つまり体験に備わる生動性のみを原理とすることの不十分さでもあろう。自ら
の方法原則が不確かであるとの自覚によるのだろう。続く﹃直観と表現の現象学﹄講義では、現象学
GA58, ︶
78ことへの指摘で
的批判にそれ自身の根源性を測定すべき﹁判定基準﹂が要求される。この要求を促すのは、学的態度
においては﹁固有の自己世界へのどんな関与ももはや存立していない﹂︵
ある。翻せば、現象学においては自己世界への関与が求められるのであり、これは先に述べた自己世
GA58,
界の顕在化の要求に他ならない。しかし覚知という現象の中にこの関与を見出すことができなかった。
覚知において﹁事物性と理論的事物認識の理念﹂が﹁主導理念﹂となることから分かるように︵
︶、生における連関形成はその構造化を促す動機付けによって変容をこうむる。したがって次の課
128
題は自己世界への関与を促すべき動機付けの獲得である。これは同時に、現象学的経験の遂行におい
て、その中にある動機が自己世界へ関与を促すにふさわしいものであるのか、その根源性を判定する
ことであろう。先にあげた﹁判定基準﹂はまさしく動機付けにかかる要求なのである。
124
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
第四節 「歴史性」の主題化と自己世界の問題化可能性
前節で明らかとなったのは、体験の直接的把握という根源学の課題に際して、自己世界の顕在化が
必要とされること、および、体験の有意義化機能のみを頼りとしていては 体「験領域に基づいて学を
構築する﹂という基礎付け課題が、理論的態度への変容が防止されているという意昧での根源性を主
張し得ないという、問題構成にかかわる難点であった。ハイデガーが自らの根源学構想を完遂するた
めにはこれらの困難を克服する必要がある。こうした事情はハイデガーの思索にも影響を与えざるを
得なかった。続く一九二〇年夏学期講義﹃直観と表現の現象学﹄では、自己世界の主題化ととその方
法が問題となるのである。同講義において我々が注意を払わなければならないのは、自己世界の主題
GA58,︶5という理論に対する反駁を、単な
化に当たって主題化する手続きそのものが問題化されることだろう。自己世界という﹁対象領域に、
問うことをその内へと送り込むことのみが必要なのか﹂︵
9
](」
Destruktion
)へ
GA59, 12
GA59,︶3を解きほぐすことから始めら
破「壊[
る論難に終わらせないだめに、あらためて考えねばならない。﹁真正な哲学的理解にとっての体験に
かなった状況を準備する﹂ことが必要なのである。
(1) 精神史的動機付けによる思惟への制約から現象学的
本講義がそれまでと大きく異なるのは﹁哲学の問題況囲﹂︵
125
れる点である。そこでは
確
「 定的な定義を見合わせつつ、問いの地点へ導くという方途︵ GA59,︶3
。体験の直接的把握という問いを端的に提起
GA58, ︶
66
を採ることが示される。こうした手続きは対象領域の事実的所与を訴え、﹁事実的に始める﹂と宣言
した﹁根本諸問題﹂講義とは対照的である︵
現「在の哲学的全体状況から、またその類型的な問題諸形態を手がか
するのではなく、問題設定を行う場面そのものを主題化することによって、設定の適切さを問おうと
するのである。この方途はまた
GA59,︶3を有している。﹁状況﹂への言及は﹃価値哲学﹄講義
精「神史的動機付け﹂への遡及的批判を介して、この動機付けという制約が自らの思索にも
りとして問題連関に到達する意図﹂︵
における
及ぶことが自覚されたことを示していよう。﹁状況﹂という自己自身にとって既知の思惟内容に対す
る外部、 動
「機付け﹂という意味では現在に対する外部を視野に入れたこの方途では、現象学的批判
の基準を﹃価値哲学﹄講義における﹁理解する明証性﹂のみに求めるだけでは十分ではない。﹁理解
する明証性﹂という自らの方法原則の適切さを判定する批判的観点が入らねばならないからである。
GA59,︶
7を指摘し、自らを戒めている。
実際ハイデガーは﹁精製され、徹底化された哲学的立脚点へと滑り落ちる危険、すなわち哲学的問題
構成の世間的な枠組みへの逆戻りの危険﹂︵
﹁状況﹂ないし精神史的動機付けによる問題構成の制約という自覚は、ハイデガー自身の問題構成
において﹃価値哲学﹄講義における﹁現象学的批判﹂を﹁破壊﹂にまで推し進めさせた。﹁現象学的
批判的破壊は直接に哲学的営為の意味に属するものとして理解される﹂︵ GA59, ︶
30べきである。こ
126
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
の 意 味 で の 現 象 学 は 自 ら の 問 題 構 成 に 関 し﹁ 世 間 的 な 枠 組 み ﹂ か ら 区 別 す る た め の﹁ 判 定 基 準
]﹂を持たねばならない。この基準は、既存の哲学の問題構成が世間的な枠組みに滑り落ち
[ Kriterium
ているとすれば、既存の哲学が有する諸概念を頼りにすることはできない。また、問題連関への到達
を意図する現在進行形である以上、基準を既に手中にしているわけでもない。むしろ﹁遂行の性格付
︶のであり、既存の哲学ばかりでなく
GA59, 74
。それどころかこの基準に照らして
けの貝体的な問いにおいて提供されるに達いない﹂︵ GA59, ︶
74
﹁遂行が根源的ないし非根源的と性格付けられ得る﹂︵
自己の思惟の根源性を図る役割をも担わされている。
]﹂︵ GA59, ︶
74 を 下 す た め に は、 そ れ に 先 立 っ て
し か し、 そ も そ も﹁ 現 象 学 的 判 定[ Diiudication
﹁現在の哲学的全体状況﹂にたいする理解内容を既に有しているに違いない。ハイデガーは同時代の
哲学がおかれた問題況囲として、
﹁自覚的に強調された、または含意されている原現象としての﹃生﹄﹂
への集中を挙げる。こうした況囲にあって生という語には﹁客観化作用としての生﹂と﹁体験作用と
。 ハ イ デ ガ ー は 漸 く﹁ 現 在 の 状 況 か ら 問 題 ヘ 至 り ﹂︵ GA59,
GA59, ︶
18
しての生﹂という二様の解釈が認められるが、﹁これら二つの意義方向に即して、現在の哲学の問題
構 造 が 示 さ れ る ﹂ の で あ る︵
︶着いたわけだが、直接的に生を主題化せず、上記の回り道を経たのは、﹁生﹂にまつわる諸概念
29
が 哲 学 と い う 限 ら れ た 領 域 ば か り で な く、﹁ 精 神 的 な 生 の 現 実 性 の 支 配、 ⋮ 生 一 般 の 支 配 に 導 く ﹂
︵ GA59, ︶
15という状況におかれているからである。生に対する何らかの理解内容が、今度は生の自
127
己理解にも反映されるのであり、﹁哲学も生の経験である﹂︵ GA59, 36
︶以上、現象学的哲学もこうし
た制約を免れることはできない。ハイデガーが生の自己理解という事象に依拠して思索を進める限り、
この意味においても、先に述べた判定基準は現象学的哲学そのものに対しても適用されねばならない
のである。
(2) 自己世界の顕在化可能性としての遂行 ─ 生の自己理解の構造化
GA59,
生を主題とする哲学はなんとも錯綜した事情の中にあるが、以下では上に挙げた生の二つの意義の
うち、﹁客観化作用としての生﹂に対する﹁破壊﹂を中心に据える。なぜなら生をこの意義で捉える
哲学的立脚点は﹁哲学の本来的な対象への問い、アプリオリヘの問いと絡みあわされている﹂︵
︶とされるからである。ハイデガーはアプリオリ問題において漸く歴史性を主題化し、我々の関心
39
に応えることになる。その際生を客観化作用とする立脚点においては、﹁歴史的過程﹂﹁生成﹂という
媒介を経ていることには注意を払っておく必要があろう。これは歴史性の主題化を促すと同時に、媒
介という事態が生の自己解釈において如何なる役割を果たすか、生の自己解釈における先入見という
問題設定を準備するからである。
︶という﹁視角﹂を介して﹁客観化作用﹂
アプリオリ問題において生は[歴史的過程]︵ GA59, 39
の語義を得ており、その限りでハイデガーも歴史の意義を問題とする。但し、はじめからアプリオリ
128
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
、ハイデガーから引用する場合は﹁意義﹂と訳す。]使用の六つの文脈から出発する。こ
Bedeutung
問 題 に お け る 歴 史 概 念 を 規 定 し よ う と い う の で は な く、﹁ 歴 史 を 持 つ ﹂ と い う 日 常 的 な 語 義
[
れら六つの文脈は互いに無関係に成立してきたものではなく、﹁それらのすべてが統一的な意味連関
︶を持ち、この根源に即応した概念性を以っ
GA59, 49
を遡示する﹂︵ GA59, ︶
43とされる。日常的言語表現における歴史概念の多義性は、これらの﹁諸意
]﹂﹂︵
義連関がそこから生じる﹁根源[ Ursprung
てアプリオリ問題の破壊を狙うわけである。ここで注意しておかなければならないのは、歴史の語が
0
0
0
0
0
]、関与[
Gehalt
0
]│ において優勢的に、だ
Vollzug
GA59, 、
60傍点は筆者による強調︶と
]、遂行[
Bezug
用いられる意義連関を単なる語義解釈として取り上げるのではないという点てある。むしろ意義連関
は﹁未分節な意味方向 │内実[
0
がなお粗雑な仕方で把握された意味連関として己を与える﹂︵
される。アプリオリ問題における生理解か﹁生成﹂という視角によって媒介されていることへの指摘
から推測されるとおり、ハイデガーは歴史概念が生の自己理解にとっての地平をなすと見ており、歴
史の語義が現れる意義連関は、生が既に有している自己の意味連関に対する理解内容の言語的表現に
他ならない。したがって引用中の意味方向に従った意義連関の分節は、同時に生が理解している体験
連関の分節でもある。そこで次に、内実、関与、遂行意味の分節化を概観することで、ハイデガーに
おける体験構造の把握を読み取り、その後でこの分節化が実際に歴史の語義解釈に適用された際に生
じる問題構成を見届けることにする。
129
第一節で指摘したとおりハイデガーは体験の直接的把握という課題を、生の有意義化機能を方法上
の観点から捉えなおし、解釈学的直覚と名づけて、生の自己理解を通じて果たし得ると考えていた。
︶という見通しを得てもい
GA58, 261
その後の﹃根本諸問題﹄講義では、内実意味、関与意味、遂行意味という﹁この三つの︿意味契機﹀、
正確には︿意味遂行﹀において生の自己充足性が解釈される﹂︵
る。この見通しは﹃直観と表現﹄講義において漸くその実現を見ることになる。ハイデガーは引用中
の意味契機を分節するに当たって、﹁名指された意義において思念されているもの[術語としては内
べ、
﹁この接近関係を関与と名づける﹂
︵
︶であり、﹃根本諸問題﹄講義において﹁自己充足性﹂
GA59, 74
、
[ ]内は筆者による補足︶。関与は﹁何内実に従っ
GA59, 60
実意味、現象学的破壊という文脈においては歴史を指す]への接近の仕方の展開﹂を目指すことを述
て発生的に考察される﹂﹁意味連関﹂︵
と述語化された、生の﹁充実形式﹂に相当する。換言すれば、内実意味との相関において構造化され
る、体験の志向性一般に対する新たな命名である。さらに、関与は﹁それ自体としてこれはこれで可
︶。生は関与という構造において即自的に経験を充実するばかりでなく、この経験に
GA59, 61
能な関与のうちに﹂あり、後者は﹁﹃それについて反省する﹄や﹃判断する﹄と述べたことで告示さ
れる﹂︵
対する反省的様態、自己理解を持ちうる。さてハイデガーは、﹁反省﹂という語を用いながらも、﹁関
与への関与﹂という意味連関が対象化されるのではないかと危惧する︵ a. a. ︶
O.。むしろ﹁関与への
関与を、関与が持たれる仕方と述べることによって、問題領域が開ける﹂のであり、この仕方に当た
130
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
るのが﹁遂行﹂である︵
︶。
GA59, 62
]﹂、﹁如何に内実[
Wasgehalt
]﹂という二つの視座の相違に基づく、体験の二様態である。
Wiegehalt
遂行意味が体験構造の分節化という文脈で据えられたことから明らかなように、これは無限背進を
許すような人れ子式の反省ではない。関与と遂行とは、﹃根本諸問題﹄講義で獲得されてた﹁何内実
[
関与が何内実という視座に捕らわれ、内世界的存在者をもっばらの内実意味とするのに対し、遂行は
如何に内実を視座とすることによって、関与における経験の仕方、その﹁如何に﹂を捉えることがで
きるのである。﹃根本諸問題﹄講義で要求されていた﹁自己世界の根本経験の獲得﹂は、遂行意味を
体験構造の分岐として内在化させることによって、実現の可能性を得た。つまり体験の反省的様態と
して内容的には未規定なままに要求されていた、﹁固有な自己世界への関与﹂を成し遂げる可能性が
遂行という分岐に托され、構造的に確定されたのである。次なる問題は上述の体験構造の分節化が歴
史の語が用いられる意義連関に適用されることによって、ハイデガーの問題構成のもう一つの課題で
ある判定基準の獲得がなされ得るかであり、この点を次節において確認することにしよう。
第五節 体験構造としての歴史性の同定と自己世界の様相化
前節で述べたように、ハイデガーは歴史の語義使用に即して体験構造の分析を具体化していく。語
義使用の文脈として選択されるのは﹁歴史を持つ﹂という言い回しであり、﹁持つ﹂という用法への
131
10
意味での歴史性が中立的な可能性とされたことである。既に指摘のとおり、ハイデガーは歴史の語に
132
着目は体験構造を志向性として改めて確認することになる。
ハイデガーは﹁歴史を持たない民族がある﹂という例に依拠しつつ、﹁﹁歴史を持つ﹂ないし﹁持た
ない﹂における﹁持つ﹂は︵形式的な︶関係であり、そこでは一方の関係項、つまり民族は客観とし
GA59, ︶
52と述べる。この関係は﹁経験されたものの十全な形式と仕方、すなわ
てではなく、固有に且つ様々な仕方で﹁持つ﹂ないし﹁持たない﹂ことのできる主観として機能し、
考えられている﹂︵
]の接近の仕
ち例にあげられた諸々の意義のうちで考えられているもの﹁歴史﹂とその如何に[ Wie
方]﹂︵ GA59, ︶
60として﹁関与﹂と同定される。﹁形式的な﹂という補足がなされていることは、関
与が体験一般の構造の謂いであることを傍証する。ところで関与は、志向的構造として自我ならざる
︶例に即して取り出された、 そ「れ白身生きられた自分の過去との内在的な現存在関係﹂と
GBT, 129
対 象 に 向 か う ば か り で は な い。 そ の 特 徴 は、 そ の 意 義 が﹁ 他 の す べ て の 意 義 よ り 根 源 的 で あ る ﹂
︵
歴史という語義の分析の中で、この可能性に関与の語を当てたことは、ハイデガーが構造としての歴
おり、関与の形式性を示す﹁できる﹂は、自己獲得と自己喪失の可能性としての中立性を意味する。
待って構造的な表現を得たわけである。歴史は、内実意味としては自己固有の過去として考えられて
いう自己関係性にある。﹃根本諸問題﹄講義で指摘されていた自己世界との関係は歴史性の主題化を
11
史性を体験の志向性と同定したことを示している。その際注意しておかなければならないのは、この
12
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
含まれる多義性を考察の糸口にしていた。体験構造としての歴史性に中立性が認められたことによっ
て、歴史概念の多義性は即自的な関与主体における自己理解の多様性として様相化を図られるのであ
る。この様相化が持つ意味を考察する前に、遂行意味を分節したことによる、その方法論上の意義を
確認しておこう。
さて、志向性一般としての関与が遂行という体験様態において、その﹁如何に﹂を捉えられること
は先述のとおりである。解釈学的直覚に含まれていた歴史性、つまり可能態と現実態の区別に類比し
得る自己差異化は、志向性を関与という可能態として捉えることによって、遂行における可能性の現
実化という形で引き継がれることになる。体験構造一般を関与として確定し、然る後に遂行において
分節するという手続きは、反省的記述を解釈学的に徹底化したといえるだろう。むしろ体験一般の構
造に歴史性を内在化させたことによって、この徹底が可能になったのである。しかし、遂行が体験の
構造分岐とされたことは方法論上の一貫性の獲得にとどまらない。即自態における関与が何内実のみ
を視座とすることは既に指摘したが、如何に内実を視座とする遂行が即時的な関与を性格付けること
によって、関与主体とその何内実との相関を露わにすることになるのである。これは即自態における
関与が過去との関係において自己理解を得ることをも意味する。本稿が問題史上の文脈とする歴史性
の主題化においては、即自的な関与主体の自己理解が、その主体が持つ歴史に対する理解内容、つま
り何内実としての歴史概念に依存するということである。これは前節で述べた、生が歴史性を自己理
133
13
解の地平としているという事態に他ならず、遂行は即自的な関与としての自らの過去を、その理解内
容の諸様相として露わにするのである。ハイデガーは遂行による体験把握を﹁意味連関に、根源のほ
うから見られることにおいて認められる﹁系譜学的な位置﹂についての決定である﹂︵ GA59, ︶
74と
︶におけるこれら各様相の規定力を測ろうとするものである。規定力の測定は、﹁根源
GA59, 74
している。遂行における体験の性格付けは、この関与主体の様相の各々において、﹁自己世界的現存
在﹂︵
GA59, ︶
75のかどうかという、自己理解内容の根源性への問いである。そしてこの問いが持つ問題
領 野 ﹂、 す な わ ち﹁ 自 己 世 界 的 現 存 在 と し て 理 解 さ れ る も の か ら 規 定 的 に 動 機 付 け ら れ て い る ﹂
︵
圈をよく示しているのは、ハイデガーが最も根源から遠いとみなした理論的態度であり、その相関者
︶である。
としての﹁理念化された抽象的な主観﹂︵ GA59, 85
。この限界付けは関与主体が持つ自己理解
GA59, ︶
76
さて、歴史学を学ぶといった理論的な態度が採られる意味連関においては、﹁確かにここでも顕在
的なそれとしての関与は、顕在的な主観において遂行されており﹂、しかもこの主観は﹁理論的な認
識課題そのものによって限界付けられている﹂︵
内容であり、生の自己規定性である。﹁顕在的な自己は理論的な課題に関心を持っており﹂、自己世界
︶。遂行性格付けは、関与性格付けにおけるように体験
GA59, 76
からの動機付けを受けている。しかし﹁自己のすべてが理論的な関与自体に入り込むのではなく、内
容的には自己の意味を規定しない﹂︵
構造の性格付けではない。関与性格付けという手続きを踏んだ上で、体験の主体が持つ自己理解内容
134
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
をあらわにする作業であり、その理解内容の形成を促す動機付けにも根源性の判定を下そうとする。
GA59, ︶
83とみなす体験において﹁刷新の様相が属す﹂︵
GA59, ︶
83
理論的体験が十全的な自己規定性を持たないとすれば、根源的な体験においてはどうであろうか。ハ
イデガーは﹁最も根源に近い﹂︵
ことを判定基準に挙げている。この刷新が何を謂わんとしているかを検討することによって、ハイデ
ガーが考える歴史性を理解できるはずである。
ハイデガーは﹁刷新]を規定するに当たって、有意義性の様相を手がかりとする。そこでは﹁自己
世 界 的 に む け ら れ た 破 壊 へ と 進 め ら れ た 衝 撃 ﹂︵ GA59, ︶
82 が 述 べ ら れ、 関 心 に お い て 有 意 義 性 が
﹁周囲世界的な性格をも失う﹂︵ GA59, ︶
84ことが要求される。そして﹁純粋な自己世界的有意義性﹂
︵ GA59, ︶
84に根源性を認めるにもかかわらず、内容的な規定を与えようとしない。根源的体験にお
ける歴史性が排除的な規定性しか与えられないことをどのように考えるべきだろうか。我々にとって
の手がかりも、有意義性に対するこれまでのハイデガーの考察にある﹃根本諸問題﹄講義で明らかに
なったように、有意義性は体験の生動性の指標ではあっても、それ自身客観化しかねないものであっ
た。また、日常性における生は有意義性の中で現れる処理可能性に没頭し、自己世界への関与に促さ
れることがない。他方、有意義性に生の自己分節化機能が認められる以上、自己構造化に他ならない
体験は当然、構造化、自己理解に際して有意義性から制約を受けざるを得ない。ハイデガーはこれら
の論点を世界の周囲世界、共同世界としての分節と併せて、過去が持つ﹁所与性格﹂は﹁そのような
135
諸有意義性のうちで顕在的な現存在の現在を動機付ける﹂ことを指摘する︵
︶。
GA59, 81
︶傾向、﹁自己世界
むしろ生には﹁周囲世界的な、共同世界的に諸有意義性に固着する﹂︵ GA59, 82
]︵ GA59, 84
︶が備わる。生は既知の理解内容に
的有意義性の周囲世界的な有意義性への傾斜[ Abfall
依拠して日常性のうちに安住し、自己世界へと問いを向けることをしない。自己世界的有意義性が有
する無規定性は、自己の理解内容およびその動機付けに対する絶えざる検証の要求である。これは既
知のものに依拠し得ないという意味で創造に類比し得るものであり、根源的な歴史性を構成する契機
であるにもかかわらず、この意味で刷新の語が用いられたのである。また、既知の理解内容に依拠し
︶点に見出されたのである。
GA59, 171
得ない以上、根源的な歴史性は自己世界への問いでしかありえない。それゆえに、哲学の動機は﹁固
有の現存在を確かにする、あるいはむしろ不確かにする﹂︵
現象学的破壊が開くもの ─ 結びにかえて
本稿はハイデガーが歴史性を主題化するに至る経緯を、生の自己理解という観点から解明すること
を目指していた。当初、解釈学的直覚および精神史的動機付けとして現れていた歴史性は、生の自己
世界への関与という反省論的な枠組みを与えられて、生そのものが歴史性として固定されるに至った。
むしろ生の歴史性とは自らが有する自己理解に対する絶えざる吟味なのである。他方で、生は非自己
世界的な有意義性へと傾斜しがちであり、むしろこの有意義性こそが自己理解を代替するようになる。
136
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
ハイデガーは有意義性が必ずしも根源的ではないことの自覚ゆえに、有意義性において生を把握する
ことを拒絶し、自己世界への関与を問いとして開いておく。しかし、既知の理解内容を完全に拒絶し
たとき、我々は如何にして生を問うのだろうか。
︶とする見方に導く。自己世界へ
GA60, 195
ハ イ デ ガ ー 自 身 は 自 己 世 界 へ の 問 い の 開 け を 堅 持 し つ づ け る。﹁ 私 が﹃ あ る ﹄ と は 何 を 謂 う か ﹂
︶。この問いは非自己世界的な有意義性からの動機付けの拒否と結び付き、﹁自己へのラ
︵ GA60, 192
ディカルな指示、本来的な事実性﹂を﹁本来的な動機﹂︵
の問いはむしろ問いそのものの自己動機付けへと向けられていく。存在、事実性といった、この方向
に含まれる諸問題については、後にご報告する機会があろう。本稿では、﹃直観と表現﹄講義が開く
であろう問題圈を示唆することで結びとしたい。
、哲学の全概念性が理解され、
既知の理解内容の拒絶は根源領域を自己世界と同定させ、﹁そこから
︶と結論せしめた。自己世界は﹁全現実性がその根源的意味を受け取る
規定され得る﹂︵ GA59, 174
﹃原現実性﹄﹂︵ GA59,︶9なのである。しかし、ハイデガーはまったく無規定的にこの現実性を捉えだ
し、概念にもたらそうとするのだろうか。そのような試みは可能であるのか。この疑念に手がかりを
与えてくれるのは、歴史性の析出に当たって、歴史概念に多義性を認め、生の自己理解が歴史概念と
相互に規定的な関係にあることを発見したという点である。この発見によってハイデガーは、その後
の﹃宗教現象学入門﹄と題する講義において生を[歴史的なもの]として問いただすことになる。そ
137
の際理論的主観と相関する歴史概念が﹁生起という客観的な存在の全体性﹂︵
︶であり、﹁生
GA59, 85
成﹂という視角を媒介にしているところから、ハイデガーは歴史性を生成と捉える理解地平を時間性
に求めることになる。前節では歴史性を生の自己理解のための地平としたが、自己理解の相関者であ
る歴史概念は厳密には内実意味に相当し、歴史性が理解地平であると結論することはできないだろう。
むしろ、時間性こそが歴史理解という媒介を経て生の理解地平となるのではあるまいか。時間性の
発見は﹃存在と時間﹄の問題設定を想起させるが、ここでの時間性をすぐさまそれと結びつけるのは
いささか性急であろう。むしろ何を理解地平とみなすかという問いよりも、理解地平そのものの発見
が重要であるように思われる。なぜなら、ハイデガーは生の自己分節化機能のみに目を向けていたた
め、概念化と不可分である分節という差異化を可能にする構造をこれまで問うていないからである。
生の自己分節およびその概念化に関して、これ以上の考えを持たないが、この点を今後の課題の一つ
のである。
初期フライブルグ時代︵一九一九∼二三年︶における講義群を指す。内、本稿で取り上げるのは以下のも
としたい。
注
1
Martin Heidegger Gesamtausgabe Bd. 56/57, Zur Bestimmung der Philosophie ; Die Idee der Philosophie und das
Weltanschauungsproblem (Kriegesnotsemester1919), Phanomenologie und Transzendentale Wertphilosophie
138
三、生の自己理解における歴史性 ─初期ハイデガー研究(3)
Ⅱ
2
3
4
5
6
同
同
Bd. 60. Phanomenologie des religi sen Lebens ; Einleitung in die
Bd. 59. Phanomenologie der Anchauung und des Ausdrucks
Bd. 58. Grundprobleme der Phanomenologie (WS1919/20)
(SS1919), Uber das Wesen der Universitat und des akademischen Studiums (SS1919)
同
Phanomenologie der Religion (WS1920/21), Augustins und Neuplatonismus (SS1921), Die philosophishen
Grundlagen der mittelalterlishen Mystik
と略記の上、巻数および引用頁を記す。
GA
のこと。なおこの講義への言及が頻繁となるため、以後本
Kriegesnotsemester1919
なお、上記の全集から引用する場合は
上記の講義群における
文中においてもKNSの略号を用いる。
Ref.GA56/57, S. 88, 89, 117
初 期 ハ イ デ ガ ー が 有 し て い た 哲 学 理 解 に つ い て は、 前 章﹁ 根 源 学 構 想 の 成 立 │ 初 期 ハ イ デ ガ ー 研 究
︵ 1︶ │ ﹂ を 参 照 さ れ た い。 ま た、 George Kovacs, Philosophy as Primordial Science in Heidegar’s Courses of
1919, in Reading Heidegar from the Start, State University of New York, 1994
が有益であった。
これはハイデガー自身による引用であり、 ” Ideen zu einer reinen Phamenologie “ , in Logos VII
への参照指示
が付されている。
なお、ハイデガーは﹁意義付帯的性格﹂の語は体験一般に備わる形式的構造に対して用い、環境世界体験
に代表される日常性において現れる意義付帯的性格には﹁世界付帯的性格﹂の語を当てている︵ GA56/57,
139
7
8
10
︶。
117
56
57
」と抗議している。
は、遂行意味は﹁ノエシス的作用ではあり
Makkreel
Rudolf Makkreel, The genesis of Heidegger's phenomenological hermeneutics and the
現
「 存在の内在の度合いへの意義の層化
und dem Sommersemester 1920; Dilthey-Jahrbuch Bd.. 4. esp., S.64-67
」に関し、簡略にまとめている。
Fr. Hogemann, Heideggers Konzeption der Phanomenologie in den Vorlesungen aus dem Wintersemester 1919/20
は、遂行意味に於ける
Hogemann
得ることをより包括的に論じている。 Vgl. GA60, 51
なおハイデガーは直後の﹃宗教教現象学人門﹄と題する講義において生が歴史性を媒介にして自己理解を
Th.Kisiel, The Genesis of Heidegger's Being and Time, University of California Press, 1993, P.54.
rediscoverd “Aristotle introduction” of 1922, in Man and World 23 305 - 320, 1990
えない
行意味﹂をノエシスに対応させている。これに対し
前記、注9に挙げた論文を参照。なお同論文では﹁内実意味﹂をノエマに、﹁関与意味﹂を志向性に、﹁遂
Vorlesung von Wintersemester1921/22 und ihr Verhaltnis zu Sein und Zeit, in Dilthey-Jahrbuch Bd.4 (1986/87).
Vgl.c.F. Gehtmann, Philosophl?e als Vollzug und als Begriff. Heideggers identitatsphilosopie des Ldebens in der
この点に関しては、注4で挙げたもののほか、前章﹁体験の学の可能性 │初期ハイデガー研究︵2︶│﹂
ジを参照のこと
﹃ハイデッガー全集 第 / 巻 哲学の使命について﹂︵北川東子、エルマー・ヴァインマイアー訳、創
文社、一九九三年刊︶における、北川氏による指摘である。同書に於ける﹁訳者後記﹂、特に二三一ペー
12 11
9
13
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