構想力から見出される時間性

研究ノート
構想力から見出され時間性
──ハイデッガーによる『純粋理性批判』
解釈──
小西浅美 博士課程前期1年
序
18 世紀ドイツの哲学者イマニュエル・カントが 1781 年に『純粋理性批
判』(以下第一批判書)を発表して以来、人間理性の本質を探究している
この作品は多くの人々に読まれ続け、賛辞あるいは批判を生み出し、今日
に至るまで様々な形で解釈を施されてきた。カント以後の多くの哲学者達
もこの批判書を取り上げ、自身の哲学に取り入れるあるいは対峙させるな
ど、各々の方法でカント哲学に触れている。
20 世紀のドイツの哲学者マルティン・ハイデガーはカントの第一批判
書を取扱い、解釈を行った内の一人である。1929 年に発表された『カン
トと形而上学の問題』において彼は第一批判書を自らの哲学の視点から解
釈し、その際立った独創性から高い評価を受ける一方、強引すぎるという
点から多くの批判も集中する事となった。
本稿は上記の著作『カントと形而上学の問題』(以下カント書)におい
て、ハイデガーの独自性が大きく現れる箇所である、カントの認識能力の
一つ「構想力」を扱った部分に焦点をあて、その独特のカント解釈の方法、
そしてカント自身の意向と比較した時の相違点や解釈への批判などをまと
めた研究ノートである。この著作で為されるハイデガーのカント解釈をカ
ントの三つめの批判書である『判断力批判』にぶつける事が私個人の最終
目的であり、今回のノートはその為の準備段階である。尚、ハイデガーの
カント解釈の正当性に関しては先行研究による反論等を挙げるに留め、現
段階では私自身はその是非を問わないものとする。
進行としてはハイデガーのカント書の順序に沿った形をとる。第一節に
おいて、まずカント書におけるハイデガーの目的、及びその目的の為の方
法について説明する。解釈の背景となるハイデガーの思想の「時間性」に
関してもこの節で触れる。第二節から四節にかけては、具体的にハイデガ
ーがどのようにカントの認識論を「構想力」ないし「時間性」を中心に解
釈していったのかを順を追って記す。
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第一節 基礎的オントロギーと有限性
以下の研究はカントの純粋理性批判を形而上学の根拠づけとして解釈
することを課題とするが、それは形而上学の問題を基礎的オントロギ
ーの問題として明らかにするためである。1)
ハイデガーは冒頭で、上記のように自身の研究主題とその目的を示して
いる。まず、形而上学と基礎的オントロギーはどのように関係するのかを
見ていく。ハイデガーは上記の文のすぐ後に基礎的オントロギーを、「「人
間の本性に属する」形而上学のために基礎を準備すべきような、有限的人
間存在者のオントローギッシュな分析論のことである」2)と定義している。
言い換えれば、「形而上学を可能にするために必然的に要求される人間の
現有の形而上学である」3)。つまり人間が形而上学なるものを必然的に求
めてしまう原因を哲学的に説明するのが基礎的オントロギーなのである。
それでは基礎的オントロギーとは具体的にはどのようなものを示してい
るのか。これはオンティッシュ(存在的)な認識とオントローギッシュな
認識の区別によって説明できる。ハイデガーはこの二つの関係を、「有る
ものへ関係すること(オンティッシュな認識)を可能にするものは、有の
態勢への先行的理解、つまりオントローギッシュな認識」4)であると説明
している。要するに、存在者を(あるいは存在者の属性や存在者間の関係
を)認知する行為がオンティッシュな認識であり、そうした行為が可能で
あるために先行的に成立していなくてはならないものがオントローギッシ
ュな認識である。基礎的オントロギーとはこのように、人間がそもそも存
在者にかかわる認識を得るためにあらかじめもっていなくてはならない内
的可能性によって可能となる、その内的可能性そのものについての存在論
的分析の事である。
ここから、何故ハイデガーがカントの『純粋理性批判』を取り上げ、形
而上学の根拠づけとして解釈しようとしたのかが明確になってくる。カン
トがこの書で扱っている事は、人間の経験的認識の為に先行的に備わって
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いるもの、すなわちアプリオリなものを探究することである。従ってアプ
リオリな認識の問題が、すなわちハイデガーの求めるオントローギッシュ
な認識の問題となるのである。
ところで、カント自身は自身の書について、「形而上学一般の可能性な
いしは不可能性の決定、またこの形而上学の源泉ならびに範囲と限界との
規定」 5)を為すものとしていた。しかしハイデガーの時代に近い 19 世紀
後半から 20 世紀前半にかけては、カントの第一批判書を「認識論」に関
するものとして扱う新カント学派がドイツにおいて権勢を振るっていた。
この学派は哲学を「諸科学の厳密な批判的基礎づけとして」6)復権させる
もので、「『純粋理性批判』中の、とりわけ演繹論に他のあらゆるカントの
理論を還元してしまおうという解釈動向」7)をもっている。これに対して
ハイデガーは、「純粋理性批判は「認識論」とは何の関わりもない」8)と
はっきりと主張し、この主潮と真っ向から対立する。これはハイデガーの
カント解釈の独自性の一つであり、批判を受ける原因の一つでもある。
さて、ハイデガーはカントの分析する認識能力の諸部分を考察し、その
根源的な本質を見出していくのだが、その作業の間に繰り返し提唱される
のが〈有限性〉という言葉である。
形而上学の根拠づけのための源泉根拠は人間の純粋理性であるが、し
かもそれはこうした根拠づけの問題の核心のためにはまさに理性の人
間性、すなわちその有限性が本質的となるという意味でそうなのであ
る。9)
何故基礎的オントロギーの問題に理性の有限性が関係するのか。ハイデ
ガーは有限性の本質を「無限な神的認識すなわち根源的直観(intuitus
originarius)の理念に対して対照させることによって」10)説明する。神とい
う全知全能の存在者は対象を直観する事で認識を完了させる事ができる。
思考を司る悟性へと直観したものを導かなくてもそのものを認識する事が
可能なのだ。これが根源的直観である。これに対して我々有限的存在者で
ある人間は直観しただけでは何も認識出来ず、悟性を用いなければならな
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い。この有限性、制限こそが神と人間を区別し、人間を人間たらしめてい
るのだ。すなわち、人間の存在を知る為にはこの有限性にこそ目を向ける
べきなのである。ゆえに認識における有限性は、基礎的オントロギーの本
質となり得るのである。ハイデガーがカントのアプリオリな認識に焦点を
当てるのも、アプリオリ性が有限性の徴表であるからである。
では第二節に入り、具体的な解釈を見ていくが、その前にこれからの流
れを先取って記しておく。第二節においては、構想力のアプリオリな能力
である超越論的図式論がカントによっていかにして見出され、どのように
位置づけられているかを考察した後、ハイデガーがそれを自身の解釈にど
のように利用したのかを見ていく。第三節においては構想力を用いた感性
と悟性の本質の解釈を扱い、第四節ではそれら三つの総合の際に見出され
る根源的時間性について論じる。
第二節 図式と時間性
カントの認識は感性、構想力、悟性の3つの構成により成り立っている
が、ハイデガーは感性と悟性を結ぶ中間項としての役割を担う構想力を重
要視する姿勢をとる。特に構想力の純粋作用である図式論に関しては第一
批判書の議論の順序にしたがって丁寧に考察している。図式論それ自体の
解釈においては差し当たりハイデガーの独自性は見られず、カントのやり
方をそのまま用いているが、後にハイデガーが行う解釈の土台となるもの
なので、本稿においても大まかではあるがカントの図式論、及び超越論的
図式論について記したい。
悟性は感性により受容されるあらゆる多様なものに適用される概念をも
っていなければならない。しかし、個別的なものを受容する受動性の能力
としての感性と、一般的なものを能動的に思考する自発性の能力としての
悟性は、そのままでは相容れない(カントの言い方では「異種的」であ
る)。そこで登場するのが構想力である。構想力は概念を感性化すること
により、あらゆる受容に答える事の出来るもの、つまり図式を作成する。
例えばペンで打たれた5つの点は感性によって受容されるが、構想力はそ
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こからあらゆる5に相当する図式を用い、5という概念に合致させる。こ
れが図式論の一般的構図である。
さて、感性と悟性の橋渡しとなる図式のアプリオリ性を、すなわち超
越論的図式性を考えた時、そこに時間的性格が登場する事になる。それは
各能力を超越論的に連関させた時に、より明らかになる。
超越論的時間規定は、それが普遍的であり、ア・プリオリな規則にも
と づいているかぎりにおいて、カテゴリー(時間規定の統一をなす
ところの)と同種的である。しかしこの時間規定は、他方では、時間
が多様なもののあらゆる経験的表象のうちに含まれているかぎりにお
いて、現象と同種的である。……この超越論的時間規定が、悟性概念
の図式として、カテゴリーのもとへの諸現象の包摂を媒介するのであ
る。11)
感性のアプリオリ性は空間と時間という形式にある為、無論時間的性質
を持っている。これに対して、悟性におけるアプリオリ性であるカテゴリ
ー(質、量、関係、様相)には一見時間的要素は見られないが、カントは
これを時間的な形式で図式化している。すなわち、質は時間内容、量は時
間系列、関係は時間秩序、様相は時間総括として、カテゴリーの図式を定
義している。ゆえに、二つを結ぶ超越論的図式性は時間的性格を持つに至
るのである。これがカントの提示する超越論的図式性である。
さて、超越論的図式性においてのカントとハイデガーの違いは、この能
力をどのように位置づけるかという部分で顕著になる。カントは「純粋悟
性概念の図式は、純粋悟性概念に、客観との連関を、したがって意義を提
供する真の唯一の条件」 12)であるとしている。つまりはあくまで図式は
「カテゴリーの現象への適用」13)を目的として使用されるのである。これ
に対してハイデガーは、「超越論的図式性は、オントローギッシュな認識
の内的可能性の根拠である」14)と説明している。「ハイデガーはまさにこ
こから、時間性としての超越論的構想力の根源的な地位を獲得しようとす
るのである」15)。
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この試みの目的はカント書以前に書かれたハイデガーの著作『存在と時
間』を見る事で明らかになる。ハイデガーはこの作品で、「現存在の存在
了解に構造的に時間への「先視(Vorsicht)」といったものがつきまとって
おり、そしてそれがそうであるのは、まさしく現存在自体が時間性である
からだ」16)というテーゼを打ち出している。ハイデガーにとっては時間性
こそが存在の本質であり、人間を人間たらしめる有限性なのである。カン
トの図式論に注目したのは「構想力を時間性と同一視することによって、
超越論的時間規定としての図式性、すなわち現存在の時間性の産出物を、
存在了解の本質的構成要素として」17)取り扱う為である。ハイデガーは自
身の哲学のうちにカントの図式論を包摂する事を皮切りに、さらに独創的
なカント解釈へと進んでいく。
第三節 構想力を根源とした感性と悟性
前節において、構想力は認識の根源的統一を為すものであると解釈され
た。そこで次に行うのは、感性と悟性に構想力的本質を見出す事である。
ハイデガーは超越論的構想力を、「純粋直観と純粋思考の間に現れるだけ
でなく、……両者の根源的統一およびそれと共に全体における超越の本質
統一を可能にするものとしての「根本能力」
」18)であると説明する。
しかしカントは心の三つの根源的源泉は感官、構想力、統覚であると定
め、別段構想力を特別視する事はしていない。それどころか、心性の二つ
の根本源泉は感性および悟性であり、その他には何も有していないという、
構想力を省いてしまった見解さえ見られる。しかしハイデガーはこの事に
着目する。すなわち、感性と悟性という二つの幹の根として構想力を位置
づける事によって、上記の三元性ないし二元性の対立を解消し、自身が図
式論において見出した構想力の根源性を主張するのである。
では感性と悟性の根として構想力を位置づける為には、具体的に何をす
れば良いのか。ハイデガーは、感性と悟性に構想力的性格を見出さなくて
はならないと説明する。「「形成力」は、同時に受容的(感受的)「形成」で
ありかつ創造的(自発的)「形成」である。この「同時に」ということにお
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いて構想力の構造の本来的本質が存する。」19)すなわちハイデガーは構想
力の本質を、受容性と自発性を同時に有している事であると定める。感性
と悟性に構想力的性格を見出すという事は、二つの能力のそれぞれに受容
性と自発性の両方を発見する事に他ならない。
まずは感性の構想力的性格を考察する。一見すれば感性とはただ光景を
受容する能力であり、何ら自発的な働きは合わせ持ってないように見える。
しかしハイデガーは、「純粋直観は、それ自身その本質上自分から光景(形
像)を形成しながら与える純粋構想力である」20)と述べる。ただ現前にあ
る光景を受容するという形では人間はいかなる認識も行う事が出来ず、純
粋感性である空間と時間が「経験的に直観可能なものの地平として役立つ
純粋な光景をあらかじめ形成する」21)事で、初めて光景を受容する事が出
来るのである。感性により受容されるものは多様なものとしてバラバラで
はなく、常に空間的時間的に合一性をもっている状態で受容される為、こ
こに自発的な形成作用の存在が確認されるのであり、この自発的作用こそ
感性における構想力的性格なのである。尚、ハイデガーはこの作用によっ
て形成されるものを純粋直観が直観するものとしているが、それが具体的
に何であるのかは論及せず、「純粋構想力としての純粋直観の根源的解釈
こそが、はじめて純粋直観において直観されるものが何であるかを積極的
に開明すべき可能性を与える」22)と言うに留めている。
次は悟性の構想力的性格である。悟性は感性とは対照的に自発性が目立
つ能力である。悟性は特定の概念に感性が受容したものを導く性質を持ち、
さらにはそれらを「私は考える」(統覚)の元で統一するという指導的な役
割を果たしている。その指導的な側面から、カントは他の能力に対する悟
性の優位性を認めている。このように特にカントの立場から言えば受容的
側面が見えにくい悟性であるが、ハイデガーはある意味簡潔に悟性の受容
性を見出す。それは、悟性が感性と構想力を通ってきたものを受け取らな
ければならないという点である。いくら悟性が二つを指導するとはいえ、
最初に為さねばならない事は感性による対象の受容である。これなくして
はいかなる認識も可能ではない。この事実により悟性の受容性は十分に確
保される。
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こうして感性と悟性の構想力的性格は各々が受容性と自発性両方を合
わせ持つという発見によって見出された。感性と悟性を構想力に関係させ
る事に成功したハイデガーは、いよいよこれまでの成果を一つにまとめる
作業に入る。
第四節 総合的認識の内的時間性格
ハイデガーは超越論的構想力の根源的時間性に注目し、さらに感性と悟
性の根源が構想力であるとして、両方の構想力的本質を示した。その集大
成として行うのが、感性、構想力、悟性によって行われる総合的認識の時
間的解釈である。感性と悟性は根源的には構想力であり、構想力は時間的
であるならば、総合的認識全体を時間性として解釈する事も可能になると
いう事である。
総合的認識の時間的解釈に移る前に、ハイデガーは構想力の時間的性格
を根拠づけるものとして、カントの形而上学講義における「形成力」の分
析に注目している。「形成力」とは現在、過去、未来の時間の表象を産出
する能力である。各々以下のように分けられている。
一、 現在の時間の表象である写像の能力、facultas formandi。
二、 過去の時間の表象である模造の能力、facultas imaginandi。
三、 未来の時間の表象である予像の能力、facultas praevidendi。23)
「写像」という表現をハイデガーは次のように説明している。「それはコ
ピィという意味での写しを作ることを意味するのではなく、現存する(現
前する)対象そのものにおいて直接受け取られるべき光景を意味する」
。24)
模造はかつての写像を再生するという意味で模造であり、予像はあらかじ
め表象するという意味で予像である。ハイデガーは、カントはこの箇所で
超越論的構想力について語っていないと言いつつ、しかし「「構想」とい
う形成作用がそれ自身において時間に関係づけられているという一事は明
らかになる」25)として、構想力の内的時間性格の存在を裏付けるのには十
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分であるとしている。ハイデガーはこの現在、過去、未来という三位一体
的性格を、カントの感性、構想力、悟性の三つからなる総合的認識に当て
はめ、各々の時間性を証明していく。
まずは感性による純粋覚知に、ハイデガーは現在の時間をあてがう。覚
知とは受容した多様からなる光景を「今」として切り取り、他(過去の表
象など)から区別しながら総合する働きである。感性は不断に流れていく
「今」を見て取るものであり、その時間的性格はまさに「現在」にふさわ
しい。
次は構想力による純粋再生である。感性の覚知によって受容されるもの
はあくまで「今」を取り扱うものであり、連続する「今」から形成される
現象を認識する為にはかつて「今」であったもの、「過去」を保持してい
なくてはならない。その働きを担うのが構想力による再生である。対象が
現前になくても表象するという構想力の基本的な働きは「過去」を表象す
るものとして適役なのである。
さて、感性と構想力の現在と過去の時間性は幾分単純に取り出す事が出
来た。最後に残るのは悟性による純粋再認であるが、「第三の総合の分析
は最初の二つの綜合よりは比較にならぬほど広汎なものである」26)。上記
二つの能力の場合は、カントの記した働きそのままに時間性に関係させる
事が出来たが、悟性に関しては時間的な表記は少なくとも第一批判書にお
いては見る事は出来ない。ましてやここであてがわなければならないのは
「未来」であり、一見して悟性との関連性を見出す事は困難である。ハイ
デガーはこの困難をどのようにして解決するのだろうか。
再認とは、感性によって受容された「今」と、以前感性が受容し現在構
想力が保持している「過去」を、同一のものであるとして一つの認識へと
合一させるという働きを指す。「私たちが思考しているものが、私たちが
一瞬間以前に思考したものとまさに同じものであるという意識がなけれ
ば、諸表象の系列におけるすべての再生産は無益となるであろう。」27)感
性による覚知と構想力による再生は、最終的にこの再認において完全に総
合され、一つの認識へと至るのである。ハイデガーはその際、現在するも
のが過去に捨て去ったものと自同的であると心性に告げるものがなくては
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ならないと述べる。しかもそれは、覚知や再生よりも先んじて存在しなく
てはならないというのだ。感性と構想力の「二つの綜合には、有るものを
その自同性を目指して合一する作用(総合)がすでに指導的に根底に存す
る」28)のである。覚知と再生はそれら自身単一的に働いているのではなく、
再認の命令により働いているのである。「先に特徴づけられた二つのもの
を最初から指導している総合」29)である再認は、先立ってあらかじめ用意
されている働きとして「未来」に関係するというのがハイデガーの解釈で
ある。こうして最後の綜合であった再認は未来性の本質を持つとされ、総
合的認識の時間性が時間の三位一体的性質に綺麗に収まる事になった。感
性、悟性は超越論的構想力に根差しており、ゆえに感性、構想力、悟性に
よる総合的認識の根底は超越論的構想力であり、それは根源的時間性をも
つのであるということをハイデガーは以上のような手順で論証したのであ
る。
おわりに
序論において説明したように、本稿はハイデガーのカント書における解
釈をカントの批判書である『判断力批判』に対応させるという最終目標の
為の準備である。構想力を中心的に取扱い、その曖昧さから解釈は困難を
極める『判断力批判』に、独創的すぎるきらいはあるものの構想力に重き
を置いているハイデガーの解釈を関与させる事は、カント解釈という面で
は無駄骨ではあっても構想力に関しての私自身の考察を深めるという事に
は大きく貢献するだろう。
注
1) Martin Heidegger, Kant und das Problem der Metaphysik, 1929 (邦訳 マルティ
ン・ハイデッガー著/門脇卓爾, ハルトムート・ブフナー訳『カントと形
而上学の問題』創文社, 2003 年) p.11.
以下本書は略記 GA3 で記す。尚、本書からの引用は邦訳の貢数を示す。
2) Ibid. p.11.
構想力から見出される時間
49
3) Ibid. p.11.
4) Ibid. p.21.
5) Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft (1.Aufgabe, 1781 2.Aufgabe, 1787) (邦
訳 イマニュエル・カント著/原佑訳 『純粋理性批判 上』理想社, 1981
年)p.26. AXII.
以下本書は略記 KrV で記す。尚、本書からの引用は邦訳の貢数に続き、
原書版第一版の貢数、第二版の貢数を示す。
6) 『カント事典』弘文堂, 1997 年
7) 荒畑靖宏「超越論的有限性としての時間について―ハイデガーのカント
解釈」(三田哲學會「哲學 No.103」1998 年, pp. 81-106)p.82.
8) GA3 p.26.
9) Ibid. p.31.
10) Ibid. p.34.
11) KrV p.266(A138-139 / B177-178).
12) Ibid. p.272(A146 / B185).
13) 荒畑(1998), p.94.
14) GA3 p.112.
15) 荒畑(1998), p.94.
16) Ibid. p.94.
17) Ibid. p.94.
18) GA3 p.136.
19) Ibid. p.132.
20) Ibid. p.143.
21) Ibid. p.144.
22) Ibid. p.146.
23) Ibid. p.172.
24) Ibid. p.173.
25) Ibid. p.173.
26) Ibid. p.180.
27) KrV p.212(A103)
28) Ibid. p.182.
29) Ibid. p.182.
参考文献
Martin Heidegger, Kant und das Problem der Metaphysik, 1929(邦訳 マルティン・
50
ハイデッガー著/門脇卓爾, ハルトムート・ブフナー訳『カントと形而上
学の問題』創文社, 2003 年)
Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft (1.Aufgabe, 1781 2.Aufgabe, 1787)(邦訳
イマニュエル・カント著/原佑訳『純粋理性批判 上』理想社, 1981 年)
荒畑靖宏「超越論的有限性としての時間について―ハイデガーのカント解釈」
(三田哲學會「哲學 No.103」1998 年, pp. 81-106)
『カント事典』(有福考岳, 坂部恵, 石川文康, 大橋容一郎, 黒崎政男, 中島義道,
福谷茂, 牧野英二 編)
, 弘文堂, 1997 年
『現象学事典』(本田元, 村田純一, 野家啓一, 鷲田清一 編)
, 弘文堂, 1994 年
細谷昌志『カント 表象と構想力』創文社, 1998 年
原佑『ハイデッガー』株式会社 勁草書房, 1958 年
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