田嶋 庄三郎 は古いけれど、古くして力ある意義を持 ズ 柚 子のかをり( にほひでなく かをりであ る) 、そのかをりはほんとうによろし。 ユ つてゐると痛切に感じました。…… く なつた、風 邪 をひき 急 に 右 の 胸 がいた せき そへて、あ ん ま り 咳 を し た た め ら しい、だ かえ るいからすこし 散 策 する(この 程 度の 病 気 よ のこ を 持つてゐることは、私 の た め に は 却つて み 可いかも知れない) 。 製材所の仕事を観る、よく切れる鋸だな。 或る友への消息に、― ……私もだん〳 〵落ちついてきました、 そして 此 頃 は 句 作 よ り も 畑 作 に 身 心 を ・秋のひかりの大鋸のようきれる ・近眼と老眼とこんがらがつて秋寒く ・芋の葉、それをちぎつてつゝんでくれる な ・ゆふ空から柚子の一つをもぎとる ズ 百 舌 鳥 がしきりに啼く、あの声に聴き入 つ て 死 身 の 捨 身 に な つ た こ と も あ つ た が、 モ 引菜などはお汁の実としていたゞけるや 今はどうだ!あゝ。 ま うちこんでをります、自分で耕した土へ うになりました、土に親しむ、この言葉 自分で播いて、それがもう芽生えて、間 ・蓮を掘る泥まみれ泥をかいては 今日の御 飯 はよく 出 来 た、これもほんと うにおいしい。 昭和七年十月十二日 山口県小郡町 其中庵 いっぺき 好晴、まことに秋空一碧だ。 一部が犠牲になつた時に全体が生きる 127 194 Zaikai Kyushu / FEB.2015 い、或 はこ ぢんまり とした 借 家 にふさはし 散 歩 してゐて、コスモスのうつく し さ が わか ハツ キリ 解つた、あの花 は 農 家 にふさはし もあれ、フランキー堺さんの演技は山頭火生 辞退であったという説もある。その真否はと ところが、 「フーテンの寅」のイメージが壊 れてしまうことを危惧した渥美さん側からの 回モンテカ い、は か ないけ れ どもしたしみのある 花 だ き写し、ともいえるもので、第 犠 牲 に な つ た 時 に 全 体 が 生 き る の で あ る、 御 飯 の う まいの は 釜 底 が 焦 げつ く まで 炊 き あ げ た 場 合 だ、いひ かへれ ば その一部 が ア ルコ ー ル について、そ してニコ チン に ついて一考察。 昼 寝 した、ぐつす り 寝 た が、覚 めて 何 物 もなかつた。 を巻いた、と記憶している。 ーンである。そのとき首筋に襟巻きならぬ褌 が戸の前に座り込んで寒い隙間風を防いだシ 一つしかない布団に寝てしまったので、山頭火 今も記憶に残っているのは、其中庵で句会 が開かれたおり、酔った客(国森樹明?)が ている。 (茎もまた) 。 こゝにも浮世哲学の一節を読む。 この放送で、それまで無名に近かった山頭 火のブームが巻き起こるのだが、その山頭火 ふんどし 樹明君、私のために小 遣 銭を捻 出して持 つて 来 て く れ た、そ して一升 飲 ん だ、地 主 についての最大の資料が『定本山頭火全集』 春陽堂から1972(昭和 )年から翌年 にかけて、出版されたこの全集が日の目をみ 全7巻であった。 ぎ ま は つ た ― そ れ で も 帰 る こ と は 帰 つ た、 たのは、同じ自由律俳句『層雲』の句友木 山頭火の死後 年間、大切に保存していたか 21 このドラマの脚本を書いたのは早坂暁さん で、渥美清さんが山頭火を演じることになっ 主演のNHKドラマスペシャル『山頭火 何で こんなに寂しい風ふく』を観てからであった。 私が山頭火に興味と関心を持つようになっ たのは、1989(平成1)年にフランキー堺 ることになり、原稿用紙2000枚以上に清 その存在を知った四国の句友大山澄太さん が、自分が発行する句誌『大耕』に掲載す いたのだった。 けた緑平さんに、山頭火はお礼として、また らである。山頭火の行く先々にお金を送り続 ていたのだが、撮影直前になって体調不調を 書したのも緑平であった。こうして『定本山 形見としてノートを書き終えるごとに届けて 理由に断念したので、急きょフランキー堺さ 頭火全集』は編まれたのである。 むこうずね こけつまろ びつ、向 脛 を す り むい だ り。 被 村緑平さんが、山頭火の句や旅日記 冊を、 布を裂いたり、鼻緒を切らしたりして。― そ れ から がいけ な かつた、―ワ ヤに なつ て し まつた、カフヱー か ら カフヱーへと 泳 家主のJさんもいつしよに。 ルロ・テレビ祭で最優秀主演男優賞を受賞し 30 47 んに代わったとされている。 Zaikai Kyushu / FEB.2015 195 26
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