アメリカのビックビジネス

平成 27 年 2 月 13 日(金)
国際経営経済論 B 第 2 回
アメリカのビックビジネス
1.アメリカ国土の拡大
アメリカは、1776 年の独立時点では東部大西洋岸の 13 州で構成されたが、次第に先
住民しか済まないミシシッピ川以東の地域まで国土を拡大して行く。そして、フランスの
ナポレオン 1 世との交渉により、1803 年に 1500 万ドルでルイジアナ地域の割譲に成功
し、北はモンタナ、サウスダコタ、ミネソタから南はニューオリンズに至る広大な地域を
編入し、国土は約 2 倍になった。さらに、19 年にスペインからフロリダ半島やミシシッピ
州に至るメキシコ湾岸地域を買収し、また 36 年の有名なアラモの戦い(もと聖フランシス
コ教会の伝道所で後に要塞化し、メキシコからの独立を求めて 187 名が砦にこもってメキ
シコ軍と戦い、全員が死亡)を契機として 45 年にテキサスを併合、加えて 46 年にイギリ
スとのオレゴン協定により、オレゴン、ワシントン、アイダホ地域を加えた。さらに 46~
48 年地域を国土に加え、大西洋岸から大西洋岸に至る今日の国土を形成した。また、アラ
スカを 1867 年にロシアから 720 万ドルで買収した。
2.ビックビジネスの発生
第 1 回でも学んだように、鉄道は運河と違い、建設費が安く、そしてまっすぐ西部へ敷
設することができた。これは山から産出される鉱石輸送に適しており、鉱山から港や工業
地帯まで鉱石を輸送するために 19 世紀後半には鉄道の敷設競争が行われた。この時期はア
メリカビックビジネスの黎明期であるが、この競争の中で「産業の米」と言われる鉄鋼業
で、カーネギーが台頭していくこととなった。また、1850 年代にペンシルベニア州西部
のタイタスヴィルで原油が噴出、当時、原油は鉄道での輸送に頼らなければならなかった
が、おりからの鉄道の敷設競争によって容易に輸送できるようになったことから、オイル
ラッシュが発生、ロックフェラーの台頭をもたらすことになった。
さらにその後、ビックビジネスが隆盛していく原動力となったのが、アメリカのシステ
マチック・マネジメント運動であった。そしてこの運動によって生み出されたテイラー・
システムである。
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3.テイラー・システム
3.1 内部請負制度
南北戦争後のアメリカにおいて、鉄道建設の結果として全国市場が形成され
たとき、従来「よろずや」的にさまざまの製品を扱っていた企業が、その事業
幅の狭いものに限定するようになった。よろずや的経営より、専業化した経営
の方が、効率的な活動をすることが出来たからである。
従来の工場は内部請負制度がとられてきたが、アメリカでは 1880 年代、
1890 年代に次第に崩れて、企業が労働者を直接管理するようになった。内部
請負制度が廃止されてみると、これまでは請負契約で比較的把握しやすかった
原価についても、あらためて原価計算の仕組みを持たなければならなくなり、
また労務管理や生産管理など工場の管理の全体が、一挙に経営者の負担となっ
た。
3.2 システマチック・マネジメント運動
当時の工場では、一方で専業化を通じて生産品目が限定されていき、他方で
その限定された品目を効率的に生産するために、工場内の作業工程の分割を進
めていた。すなわち、産業間の社会的分業と工場内の分業に基づく協業が、同
時に進行した。機械技師達は、そのような問題意識と関連して、マネジメント
という機能の重要性に気が付いた。これはマネジメントの科学の議論になって
いった。これはアメリカ機械技師教会の雑誌でも発表や討論が収録されるに至
る。この一連の活動を総称してシステマチック・マネジメント運動と呼んだ。
しかし、この運動はせいぜい生産工場の現場で効率をあげるためのシステムに
関するものくらいにとどまっていた。なお、アメリカ機械技師教会でなされて
いた議論の中でも、意欲を刺激する賃金支払制度は、最も熱心に論じられたテ
ーマの一つであった。
3.3 フレデリック・テイラー
アメリカ機械技師協会の中で最も有名になった人物は F.W.テーラーである。
後に彼は「経営学の始祖」とまで言われるようになった。そしてテイラーが開
発した工場管理のシステムを科学的管理法と呼ぶようになった。
テイラーはフィラデルフィアの名門の商家に生まれた。その後ミッドヴェー
ル製鋼所の機械技師となった。工場で労働をしていくと、労働者は適当に怠け
ながら働いていることに気がついた。これを彼は怠業といった。そして、この
怠業を無くすため、労使双方が満足する高賃金と安い労務費を実現しようとし
た。そこで考え出したのが出来高給制度である。
3.4 テイラー・システムの構造
テイラーは、労働者が怠業をしないシステムを作ろうとした。彼によれば、
怠業が生ずる原因は、1 日にできる本当の作業量が分かっていないからである。
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そのため、動作研究と時間研究を行った。そして、標準作業手順を科学的に見
出し、他方で一日にできる標準作業量を決めた。そして、各々の労働者には計
画部門から指図表で指示を出すようにシステム設計をした。
また、テイラー・システムでは、個々の労働者に精を出して仕事をさせるため
の仕掛けとして、独特の賃金制度である差別出来高給制度を用意したり、職能
別職長制度の採用もなっていった。
3.5 テイラー・システムの影響
テイラー・システムを全面的に導入する企業はさほど多くなかった。しかし、
1910 年にこのシステムは、突然注目を集めることになった。当時アメリカ東
部の鉄道運賃値上げ問題が起きる中でこの内容が取り上げられたのである。翌
年テイラーは『科学的管理の諸原理』と言う本を出した。
これは第 1 次世界大戦後のヨーロッパや日本にも影響を与え、レーニンなどが
論評するに至った。
4.アメリカビックビジネスの興隆
4.1 フォード
ヘンリー・フォード(Henry Ford)
・Ford Motor Company の創業者
・1903 年 6 月 16 日に創業
・アメリカ合衆国ミシガン州ディアボーンに本社を置く
※元々は機械工であり、職人として自動車を大衆の手に届くものにしようと
した。
※革新的な生産方法の開発によって大衆が購買可能な乗用車を生産。
※独創性が仇となり、視野の狭さとなってしまった。
4.2 アメリカ的生産方式
4.2.1 フォード・システム
互換性部品制度や作業方法の標準化など、19 世紀を通じて徐々に形成されて
きたアメリカ的大量生産方式の諸条件が大量生産方式として集大成したのが、
フォード自動車会社の T 型フォードの生産体制である。ちなみにこれはアメリ
カ的生産方式の典型と言っても良い。
1910 年に竣工したハイランドパーク工場、1922 年竣工のリバールージュ
工場は、T 型フォードという単一製品を大量生産するための巨大な専門工場で
あった。製品は極端に単一であり、単一製品の原則は彼の経営理念であった。
工場のすべてはその単一の製品に向けられ、部品の専門工場や製鉄工場が付
属した一貫生産体制を形成していた。
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生産品目が単一であれば、工場が巨大であればあるほど、そこでの作業工程
をより細かく分割することができる。ハイランドパーク工場では、1914 年に
移動組立式が導入された。
アメリカ的大量生産方式では、個々の労働者の行う作業が、単純化され標準
化されていると共に、そこで生産される製品の品目も限定され規格化されてい
る。なんといっても、フレキシビリティーとはおよそ縁のない固定化された仕
組である。
ちなみに、T 型は発売当初の 950 ドルからリバールージュ工場の完成後の
1922 年には 300 ドルを割り込んだ。このような価格低下によって、フォー
ドが狙いとしていた自動車の大衆化は著しく進展した。高賃金政策も、「作る
人が買える」という彼の理想を促進した。
フォード・システムのような固定化された仕組みは、成長している市場にお
いて寡占的な市場支配を保っているときには、フル操業が保証されて、生産コ
ストをますます低下させる。しかし市場が縮小してフル操業が維持できなくな
ると、償却負担を抱える新鋭設備であれば生産コストを跳ね上げることになる。
4.2.2 アメリカ的大量生産方式の普及
アメリカでは 19 世紀末から今世紀初頭にかけて、多くの産業で巨大企業が
出現し、それおれで大量生産方式をすすめた。
第 1 次世界大戦の経過はアメリカ的生産方式の成果をさらにめだたせること
になったので、戦後 1920 年代に、工業国の多くは、多少でもアメリカ的生産
方式の条件を整えるべく、産業合理化運動という名で規格化を進めた。
革命間もないソ連でも、生産力を増大させるためにアメリカ的生産方式が模
倣すべき目標となった。実際ソ連型社会主義は、工業生産ばかりではなく農業
生産においても、無理やりにでも集団化を進めて、大量生産の形を整えようと
した。
ヨーロッパ諸国でも、アメリカ的生産方式の成果に目を見張り、それを見習
おうとしたけれども、規模の小さい企業が残ってクラフト的生産方式の伝統を
受け継いでいる産業では、すぐに生産方式を全面的に切り替えることはできな
かった。
第 2 次世界大戦後には、アメリカ的生産方式の優越性はますます揺るがない
もののように見えた。1950 年代になると、アメリカの諸産業に比してヨーロ
ッパの競争力が劣勢になっていることに気付いたとき、ヨーロッパでも大きな
マーケットを作ってアメリカ的大量生産方式を追求できる条件を作ろうとした。
これがヨーロッパ共同市場(EEC)である。
なお、フランスでも 1960 年代に政府が経済近代化運動をすすめた。地場産
業的な中小企業の合同を進めて大企業の下に再編しようとするものであった。
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しかしその結果は、フランス産業の伝統的な競争力をかえって低下されること
になった。
日本の工業化において、アメリカ的生産方式を見習うべきモデルとしてはっ
きり見定めたのは、1950 年代になってからのことであった。60 年代の産業
政策は大量生産方式をとりうる条件をつくることに向けられ、企業は規模の経
済を追求する設備投資を続けて、大量生産の技術を高度化していった。
4.2 GM
ウィリアム・クラポー・デュラント
・GM の創業者
・1908年
・ニュージャージ州に設立
※1904 年に破たんしたフリントのビュイック・モーター社を買収し、自動車製造に乗り
出す。
※事業部を編成
※フルライン戦略でフォードを圧倒。
4.3 シアーズ、ウォルマート
*シアーズ
リチャード・ウォーレン・シアーズ
・シアーズの創業者
・通信販売の先駆者
*ウォルマート
サム・ウォルトン
・ウォルマートストアーズの創始者
・DS と MWC を併用して成功した。
5.アメリカビックビジネスへの警戒
第 4 回で話をします。
参考文献
安部悦生他(2002)
『ケースブックアメリカ経営史』有斐閣ブックス。
土屋守章(1995)
『現代経営学入門』新世社。
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