創立理 事 岡 村 昇 さ5ん を悼 む 全 く思 いが け な い言卜報 に接 し、嘆 きや悲 しみ の ことばを知 りませ ん。 岡村 さんが酸素 ボ ンベ を引 いて役員会等 に現 れた の を 目に した ときは、 それが生死 に関 わ る重症 であ るとは思 い ませんで した。 そ の楽天的 で 穏 やか な風貌 とは無 縁 の もの で した の に ……… (病 名 :間 質性肺 炎 ) 岡村 さん は画歴 の 上 で は私 よ り先輩 で す が、生 涯 の画業 を私 な り に振 り返 って みま しょう。 そ の 徹底 した リア リズ ム手法 で対象 に追 り、実 に数多 いモ チ ー フに情 熱 を傾 け た と、概観 す る こ とがで き る で しょう。 充実 した、華麗 と もい え るア ー ティ ス ト生涯 だ った と言 え ると思 い ます。 私 が最初 に 目に した作 品 は風 景画、 特 に海景画 であ った と思 い ま 難破船 "と 言 うタイ トルの廃船 に す。岩場 に砕 け る波濤 、 それが “ 移 ります。 当時、鋼 鉄 の廃船 が 横浜港 にあ ったので す。 また、夫人 が フラ ンスの クラ シ ック・ ドールの レプ リカ の制作 に 携 わ ってい らっ しゃ った 関係 か ら、 ジュモ ーや スタイナ ーの人形 を 数多 く描 かれて、最 後 まで人 物画 の 画面 に登場 して い ま した。 しか し彼 の 真骨頂 は人物 画 で しょう。私 た ちのお仲 間 で 早逝 され た K嬢 は衣装 を変 え て何 度 か登 場 しま した し、近年 で は特 に弦楽器 を 弾 く人 々 に魅せ られ て い った よ うです。 バ イオ リン、 チ ェロや ハ ` ー プに至 るまで、弦 の二 本 一 本 にいた るまで丁寧 に仕上 げて い ま し ‐た。彼女 達 はプ ロの ア ー テ ィ ス トで 、各 自選 んだ 曲 目を 演奏 しなが らモ デルを つ とめて い た の で す。 それをスケ ッチす る人 は耳 か ら聞 く音楽 を楽 しみ なが ら制作 に励 んで い たのです 。私 も誘 われ ま した が その機 を逸 しま した。 徳本前 会長 も乞われ るまま に この勉強会 に 参加 したそ うですが、「 弦 を押 さえ る指 や 、手首 の反 りよ うが絶 え 能 "と は余 ず動 くの には閉 □だ つた。」 と洩 ら して い ま したが、 “ 程勝手 が違 っていたので しょ う。 一 日会 " “ また彼 は “ 晨立舎 "等 の グ ループ展 を毎 年 開催 し、勉 強会 の お弟子 さんだ けでな く広 く出品者 を募 っていた よ うです 。 上記 は私 のせ まい 見聞 か ら彼 の 画業 を一 瞥 した の で す が 、先 に述 べ た よ うに、副業 と しては画人 と してか な り濃密 な生 涯 を送 られ た の で はな いで しょうか。正業 であ る建築 関係 の 仕事 と並 んで 、 は る か に趣 味 の域 を こえ た精進振 りは見事 であ った と思 われ ます。 かつ て私 に「 絵描 きに学歴 は無 用 だ。」 と言 われ た こ とがあ りま す が、確 か に学歴 は無用 か も しれな いが 、深 い教養 は必 要 だ、 ゆた か な教養 こそが 作 品 に品格 と真 に豊 か なイ ンパ ク トを もた らす もの だ、 と付 け加 えてお きます。 岡村 さん、 お疲 れ さま ! ゆ っ くりお休 み くだ さ い。 創立理事 川 田 合掌 謙三
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