Title Author(s) Citation Issue Date Type アメリカにおける労働者災害補償法の形成 藤田, 伍一 一橋論叢, 92(1): 1-15 1984-07-01 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/11313 Right Hitotsubashi University Repository (1) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 藤 田 伍 下が進行し、労働災害を誘発する要因となるのである。 カの政策的保謹が十分でないと、労働カの濫用と質的低 護の未成熱、あるいは労働条件の立ち後れである。労働 要因は、潜実に増大してくるのである。第二は、労働保 もなう。産業技術の発展に則して労働災害の発生を促す えなかった。そうした事情は、後のアメリカ社会保障の をモデルとしながら、結局、独自のコースを歩まざるを バにおよそ二〇年おくれている。法制的にはヨーロヅバ し経済が成熟期に入った一九一〇年代であり、ヨーロヅ アメリカの労災補償制の形成時期は、独占体制が完了 日では金工業国で採用されるに至っている。 失責任主義に立っておこなう労働者災害補償制度は、今 ^1︺ る被災者の段損労働カの回復と経済的損失の補償を無過 への転換がおこなわれたのであった。業務上災害におけ 排除の隈界が認識されるにつれて賠償原理から補償原理 整備とともに使用者賠償責任法が一般化し、技術的要因 ることができるであろう。歴史的には、安全保護法規の アメリカにおける労働者災害補償法の形成 1 はじめに 生産過程における労働災害は、労働者個人の過失を除 いて、基底的には次の二要因によって発生する。第一は、 生産技術に内包される要因である。生産技術の進歩と蓄 したがって労働者災害補償法の形成は、右の二要因の 成立にも投影しており、労災補償制の形成史を通じてそ 積は、生産設備の複雑化、大型化をすすめ、高速化をと 克服を課題とする社会政策のひとつの合理的解決法とみ 一橘論叢 第92巻 第1号 (2) ^2︶ の一端を看取できるのではないかと恩われる。 ^3︺ これまでわが国におけるアメリカ労災補償制の歴史研 究や政策分析は、法理研究の若干の労作を除いて、皆無 ︵4︶ 安全保護法規の考察も次の機会にゆずりたい 牢祝賀記念論文築︶﹄有斐閣、昭和三五年。 労使関係を契約関係ととらえると、一旦、雇用の関係 2 使用者責任法の成立 的側面と法理的側面に留意しながら、一九三五年社会保 が成立するとコモン・ロー8昌昌昌厨ξの下では使用者 に近い状況である。本稿は、以上を踏まえて、労使関係 障制度の前史として、アメリカ労働者災害補償法の成立 に一定の﹁安全保護﹂義務が課されるとみなされている。 ^4︺ 体﹂と呼ばれる次の三つの使用者抗弁によって大幅に制 には、被災者の損害賠償講求権は﹁聖ならざる三位一 レッセフェールの時期と重なるコモン・ローの成熟期 被災者救済の役に立たなかったといわれる。 ^2︶ でも長期にわたる訴訟で多大の費用を要し、結果的には めに、損害賠償を認められなかった。また勝訴した場合 た。多くのケースは、使用者側の過失を証明できないた とができたが、使用者過失の挙証義務は労働者側にあっ 働者は、﹁安全保護﹂義務違反として使用者を訴えるこ 初期のコモン・ローにおいては労働災害に遭遇した労 ω智き鼻を選ぷように要求される。 ^1︺ し、安金な方法で事業を経営し、有能な共働者匡一〇ミ 使用者は安金な職場を提供し、安全な遣具と設備を提供 要因をひとまず整理しておこうとする覚え書きである。 ︵1︶ 医療等の毅損回復の問題については本稿では扱わない。 二つの法制目的については次を参照。O晶=胃旨一b。一﹄§ミー 勺勺−亀N1Soo. ざ昌ミ吻§札ミーミ︸ミ、sミ§一宛oく涼oρ向o二zo茎 くoHぎ Ho傘ざ ︵2︶ 労災補償がとくに強い影響を与えたのは失業保険と思 われる。次を参照。拙稿﹁アメリカ失業保険成立の一側面 −失業防止理論の生成と隈界1﹂﹃一橘論叢﹄昭和四 ︵3︶ 以下は法理研究面での開拓的労作であり、筆者も多く 七年二一月号。 の示唆を受けた。林弘子﹁アメリカにおける労働災害補償 法の成立﹂﹃熊本商大論集三十周年記念論文集﹄昭和四十 八年。同﹁アメリカにおける労働災害補償制度﹂﹃︵九大︶ 法政研究﹄第三七巻、第五・六合併号、昭和四六年。荒木 誠之﹁米国災審補償法の形成−コモンローの法理と補微 の法理1﹂﹃労働法と経済法の理諭︵菊池勇夫教授六十 (3) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 や不注意による損害賠償責任を免じるものであった。ア 理的な注意をはらう限りは、共働者の業務遂行申の過失 この原則は、もし使用者が共働者を選択する場合に合 ω﹁共働者原則雰昌Oミω雪轟鼻勾邑Φ﹂ 限されたものとなった。 ^3︺ 容易に想像できるであろう。 償額は不明であるが、相当低い水準にとどまったことは わめて困難であった。正確な訴訟件数や実際の支払い賠 損害賠償を請求しても事実問題として勝訴することはき るためのものである。したがって右の制隈下で労働者が メリカでは一八四〇年代にこの抗弁が確立したといわれ を修正しようとする動向は、主に﹁使用者責任法向亭 確実な救済機能を果さないコモン・ロー下の責任理論 旦O烹易.巨ぎ⋮︷■嘗幸蜆﹂を制定する運動となってあら る。 ②﹁寄与過失OO鼻H亭まOq乞①Oq岳竃O①﹂ われた。責任法制定の狙いはいずれもコモン・ローの使 ○昌↓墨9巨Oq昌ごを禁じた法偉。第二に、被災者死亡の ーからなっている。第一に、雇用条件として﹁免資特約 使用者責任法と呼ぱれる一群の法規は三個のカテゴリ 一用者抗弁を修正あるいは廃止することであった。 この原則は、使用者の過失によって損害を被り、損害 賠償を講求する場合には、原告自身が無過失であること を立証しなけれぱならない、というものである。原告側 に過失がみられ、事故発生の一因あるいは近因と認定さ れれぱ勝訴できなかった。 使用者が保護義務を忠実に履行したにもかかわらず、 る。中でも﹁共働者原則﹂のリベラル化にカ点がおかれ 目−上の使用者の抗弁を廃止または修正した法偉、であ 場合の訴権の遺族継承を認めた法偉。第三に、コモン・ 職業にともなう通常のリスクではなく、ブブノーマルな ることが多い。とくに危険度の高い鉄道業や鉱山業では ㈹﹁危険引受けぎ竃目暮一昌O︷峯浄﹂ リスクが存在し、被災者がそれを承知して労働に従事し 一八六二年にはアイオァ州が続き、一九〇〇年までに他 一八五五年のジ目ージァ州の鉄道に限定的に適用された。 ^4︶ ていた場合には、そのリスクは被災労働者に﹁引受け﹂ そうであウた。﹁共働者原則﹂を修正した最初の立法は られているとみることができた。 以上三つの抗弁は、すべて使用者の賠償責任を免除す 一橋論叢 第92巻 第1号 (4) ^5︶ の七州が同様のアクシ目ンをとった。 ところで一八八○年にイギリスは﹁使用者資任法H幕 向目旦O︸①易.ごき;身>9﹂を制定したが、この法律は その後のアメリカの使用者責任制度の形成と発展に大き な影響を与えたといわれる。もともとイギリスは個人主 義的思想を信奉し、契約の自由を尊重する社会であるた め使用者責任の法制化時期はドイツより遅延し、かつ内 容的にも眼定的なものとなった。すなわち一八八○年ま で産業災害の損害賠償はコモン・ローの過失責任主義に 立っており、使用者の抗弁はアメリカのそれよりも犬き ^6︶ なウエイトが与えられていた。一八八O年法はコモン. ローに対するはじめての修正立法であった。法律は被用 し、﹁危険引受け﹂を修正した。しかし﹁寄与過失﹂は 者に第三者の位置を認めて﹁共働者原則﹂をかなり緩和 手を加えられなかった。そして﹁免責特約﹂はなお認め ^7︶ られ、過失の挙証責任は労働者におかれたままであウた。 一八八○年法はたしかに労使関係の構造を改善した点 初の使用者責任法が制定され、一八八七年にマサチュー セッツ州がこれにつづいた。世紀をこえて一九一〇年頃 ^8︺ までにば、アメリカ全州で使用者責任法が制度化された といわれる。 ほとんどの責任法は﹁共働者原則﹂の廃止を主張した が、先きにのべた通り、鉄道業などの特殊な危険業務に 築中して適用された。﹁危険引受け﹂や﹁寄与過失﹂も 部分的に修正されたにすぎなかった。一八八O年のイギ リス賛任法をモデルにした以上、眼定的な改善にとどま .らざるを得なかったのである。 連邦レベルでは、一九〇八年に﹁連邦使用者責任法 Hま句&宵巴向目旦O壱鶉.ご臼一U畠身>9﹂が成立してい る。この法津は鉄遭従業員を対象としたもので、州境を こえる鉄遣業の特性を踏まえ連邦法として制定された。 その特徴は、第一に、使用者が安全法規に低触したこと ^9︺ が一因で事故が発生した場合は﹁寄与過失﹂を主張でき ないとした都分修正である。第二は、使用者の安金法規 する﹁比較過失原則UOoま冨O︷OO目唱HきくΦ2ooq−. 違反に関係なく被災者の過失の程度に応じて責任を緩和 況ではその実質効果はきわめて部分的なものにとどまっ 。q昌8﹂を導入したことである。第三に、使用者が安金保 では評価されようが、﹁免責特約﹂が一般化している状 たのである。アメリカでは一八八五年にアラバマ州で最 (5) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 護義務に違反して災害の一因となった場合には、﹁危険 引受け﹂を主張できなかった。この法律は災害が州際通 商に関連して生じる鉄道に適用される州法のモデルとな った。その後、テネシー、ジ目ージア、イリノイ等の諸 州もこの﹁比較過失原則﹂を採用した。 ︵1︶ O。昌冒o鶉一﹄・印簿>邑篶蓋一﹄1田二、ミ§書ぎ呉 旨ぎζ竃ミ§し昌・匡;芝邑①q;茅ミ<。鼻6①N. o1∼墨. ︵2︶§き℃.8一. ︵3︶O−3。司辱貧景ミニ勺−婁1§∴O昌旨喜蜆一﹄. ︵4︶ 林弘子、前掲第二論文、ニハ四−ニハ五頁、参照。 戸俸>自旨oミm一﹄1炭二冬.o︸、1勺o−sooI8H1 ︵5︶ Ω晶−ポ邑9︷ 1 良 、 = 勺 . ω S ’ ︵6︶里叫昌罫具−刈.声し§軋ξ§軋9ミ§ミ§ミ 約八万二五〇〇人が災害事故で死亡した。このうち二万 ^1︶ 五〇〇〇人は危険業務で亡くなったと考えられている。 これは国民経済の効率性の点でも、残された遺族の生計 維持の点でも看過しえない間題であった。使用者責任法 では有効な被災者救済も事故の効果的防止もできないこ とがはっきりしてきた﹄ 責任法を弾カ的に解釈し、運用してきた。一九=二年に もとより司法当局はコモン・口1の延長にある使用者 は連邦最高裁は安全保護法規違反の使用者には﹁危険引 受け﹂の抗弁を認めないとの態度を打ち出した。しかし 責任法体制では、大規模で複雑な設傭や工程をもつに至 った産業社会にもはや原理的に対応しきれなくなってき たのであった。 向にあった。たとえぱニューヨーク使用者責任委員会 業務に付随する危険から生じる事故の割合は著増の傾 蜆ミ§s黒■老oミく昌ぎH旨>やoooo. ︵7︶ さ迂−勺やooooloop 、、、ネソタの委員会は二五三件の災害事故のうち七 ^3︺ 一.六%は薬務の内因的危険によるものとみている。 ^2︺ 化﹂にともなう原因は八七・五%もあった。 起ったニューヨークの死亡事故二八○件のうち﹁近代 ︵乞く向■O︶の調査では、一九〇七年から八年にかけて ︵8︶9曽昌昌蜆こ﹄ら>暮姜こ﹄.し、.ミら1§. ︵9︶3曾彗員亭ミー−電.竃−亀ド 3 労働者災害補償法への模索 アメリカにおける使用者責任法が各州で出揃ってくる のは一九一〇年であるが、一〇年代のアメリカでは毎年 第1号(6) 第92巻 一橋論叢 使用者貴任法の制度的欠陥として指摘されるのは第一 に、賠償額の低さである。賠償額についての包括的資料 はないが、若千の州の貴重な調査結果によれぱ死亡事故 ^4︺ の三分の一弱が無賠償であった。 第二に、賠償額が不定である。たとえぱ片足喪失事故 のケースで一万五〇〇〇ドルであったこともあるし、死 ^5︺ 亡ケースであるにもかかわらず五〇〇ドルのときもあっ た。鉄道従業員は強い組合を背景に非常に高い賠償金を 手にすることができた。したがって彼らは労災補償に反 対して賠償責任の方を選好する傾向があった。 第三は、訴訟による解決のおくれである。 カンサス州最高裁の記録︵一八七一年−一九一一年︶ によると、事故発生から三年以内に訴訟が決着するのは かかるケースもあった。上級裁判所に控訴するとさらに まれであった。平均四年を要しており、中には十年以上 ^6 ︶ 長時閲を要したのである。 第四に、労使関係の悪化があげられる。また裁判に訴 えた場合、被災者は解雇や、その他の不当な圧カを受け やすく、低い和解金で妥協するケースもあるとみられた。 第五は、事故防止効果があがら在いことである。﹁危 険引受けLや﹁寄与過失﹂、そして﹁共働者原則﹂のた めに救済されない災害事故がほとんどであるが、過失責 任理論では救済コストを必ずしも負担しないので防止的 方策の開発を刺激することがない。むしろ補償を与える ?︶ ことで防止技術が開発されていくと考えられている。 そして最後に、十分な賠償を得られないことから公私 の救済機関への従属が増大するとみられる。救済を放置 すると社会病理現象の温床になりかねないのである。 以上のような使用者責任法の欠陥を補い、限界を克服 するために登場したのが﹁労働者災害補償法老o寿昌旨、蜆 OO目黒畠き9■凹峯蜆﹂であった。これは使用者責任法が ﹁不法行為責任﹂から賠償を求めるのに対し、補償法は 企業を媒介にして損害を広く社会に分散する技術として っている。今では労災事故の救済法として、この二つの 開発されたもので、両者のよって立つ原理は明らかに異 法制を並存させ両者から選択させているのである。 アメリカの労災補償はヨーロツバの先例から二〇年近 くもおくれて成立した。最初に使用者責任法から労働者 補償へ転換した国はドイツであった。ドイツ帝国が一八 ^8︺ 七〇年に成立したあと、産業の急拡大と災害率の上昇に (7) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 対応して七一年六月に使用者責任法が登場した。この法 ﹁免責特約﹂を廃止していた。しかし﹁寄与過失﹂と﹁危 し、第二に賠償講求額の上隈を撤廃した。そして第三に、 険引受け﹂の抗弁権はそのまま残された。法案は下院を 律は三八年プロイセン鉄道業使用者責任法を全帝国に拡 大するとともに、重要産業に拡張適用した。責任法下で 通過したものの上院の修正動議で難航し、結局、廃案と なった。 ^皿︶ は挙証義務は被用者側におかれ、﹁共働者原則﹂や﹁危 ^9w 険引受け﹂の抗弁が認められていた。責任法の間題点の 担当することとし、そのため使用者は疾病保険コストの 率給付を受けた。二二週までは疾病保険が業務上災害も 災者は事故発生後二二週間後から賃金率の二分の一の定 産業別の使用者組合を設立して保険の運営にあたり、被 八五年十月から施行に移された。その内容を要約すると 次まで用意されて一八八四年にライヒ議会で可決され、 から一気に公法的災害保険の制定に向った。法案は第三 たことである。宰相ビスマルクは諸々の社会政策的配慮 のは、ドイツに強カな社会民主主義的労働運動が存在し して、使用者側の属人的過失がある場合に過失責任法に ることになった。そして九七年法の特徴は、被用者に対 年分、廃疾事故の場合は最高で賃金の五〇%が給付され することが義務づけられた。死亡事故の場合は賃金の三 土木建設業等に適用され、使用者は全産業事故に、補償 転したのである。九七年法は鉄道、工場、炭坑、石切場、 を歓迎した。この間に労使関係をめぐる環境は急速に好 た。自由党のアスキスも賠償原理から補償原埋への転換 の提案によるもので、英語圏諸国で最初の補償法となっ 後の一八九七年である。これはソールズベリ保守党内閣 イギリスで労災補償法が成立したのは、それから四年 三分の一を負担する 構 造 で あ っ た 。 よる損害賠償請求の途を開いていること、また使用者に その後の展開はアメリカと同様である。ただ遼っていた 他方イギリスはドイツとは異なるコースを歩んだ。一 対しても条件つきながら﹁免責特約﹂を認めたことであ その後、イギリス労災補償法の範囲は、一九〇〇年に る。 八八○年の使用者責任法の欠点を痛感した自由党政府の アスキス内相は九三年に使用者責任法改正案を議会に上 程したb改正案は、第一に﹁共働者原則﹂の鹿止を提案 一橋論叢 第92巻 第1号 (8) 農業労働者、一九〇六年には一定所得水準以下の全労働 ︵7︶ きミ;ラωo0Nl ︵6︶き§一や轟一. ︵8︶ ドイツ社会保険については拙稿がある。﹁ピスマルク 者に拡張適用された。そしてリペラル・リフォームの一 社会保険の社会的必然性﹂﹃一橋研究﹄昭和四五年一二月 性論1︵1︶、︵2︶﹂﹃一橋論叢﹄昭和四六年五月号及ぴ 号。同﹁ピスマルク社会保険研究の一視角−経済的必然 環として一九〇六年改正法では特定の職業病を対象事故 に加え、受給権を従属的親族にまで拡大した。災害事故 と賠償法を並存させ、国民の事情にあわせて選択を許す 研究成果を発表して労災補償法へ専門家の注意を換起し J・G・ブルヅクスは一八九四年にドイツ災害保険の 4 労働者災害補償法の成立 ︵11︶ き叫軋;勺や8−81 ︵10︶ き註二勺勺.ooooloo鵯. ︵9︶里彗o5鼻景ミー−電﹂]lo。午 七月号。 が死亡または重度の永久廃疾をひきおこした場合には、 ^u︶ 被災者の﹁重大かつ故意の非行﹂に対する使用者抗弁も 廃止されたのであった。 ドイツ型災害保険とイギリス型労災補償を比較すると 両者の政策的特色をよく看取することができよう。ドイ ツが階級色の強い社会政策的モチーフから補償を社会保 方法をとったのである。コモン・ローの支配するアメリ た。つづいて九八年には労働省のW・F・ウィロピーに 険技術によって強制するのに対して、イギリスは補償法 カの労災補償制も基本的には後者のタイプに属していた よる初のヨーロヅパ諸国における社会保険の総合研究が ^1︺ のである。 公刊された。彼は何よりもまず世論の啓発が必要である と結論した。そして一つの州がイニシアチブをとれば他 償法をサーベイして、アメリカでも十分受け入れられる ューヨーク労働統計局に提出され、ヨーロヅパの労災補 ^2︺ 〇−己o臼o目9 一ΦHoo−勺勺1HN−Hool ︵1︶ 屋旨雪一ρ宛;吻sぎ﹄ミ︸ミ§ミ§き恥qミ旨軋吻§、凄一 と考えた。九九年にはA・F・ウェーバーの報告書がニ ︵2︶Ω晶=胃旦9冬ーミー一i.︸NN. ︵3︶H巨︷− ︵5︶ き迂︷℃.ωoo9 ︵4︶Oh1Hミ軋二やωS一↓音一〇㎞N. (9) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 1 ^3︶ 州 もたちまち追随するだろうと観測を加えた。同じ時期 の政府職員であった。対象事故は業務遂行中に業務に起 一九〇八年の連邦職員補償法であった。対象は現業部門 アメリカで最初に合憲を確認した労働者災害補償法は、 M.ドーソンはドイツ災害保険とイギリス労災補償を研 因する労働災害であるが、労働者の重過失や非行による にニューヨーク市社会改艮クラブ︵ω射OオくO︶のM一 究するための委員会を設けた。この委員会はイギリス・ 災害は除外された。過失の有無は司法当局ではなく、行 政府が判断した。補償額はスケジュール化されており、 十五日間の待期を経たあと最高額一年分の賃金が︵死亡 プランをモデルに法案を準備して、一八九八年にニュー ^5 ヨークの上院にJ・フォード議員を通じて提案した。 T.ルーズベルト知事も法案に賛成であったが、労働組 事故の際は遺族へ︶補償として給付された。時のT・ル いわれる。 ^6︺ ーズベルト大統領が強力に法案をバツク・アヅプしたと 合が使用者責任法の改善強化に利益を見いだしていたた め、時期尚早として議会で否決された。しかし労災補償 運動に第一歩を刻印し、一定の教育効果をあげたと評価 一九〇九年にはモンタナ州が補償法を制定した。本法 は炭坑労働者を対象としたもので賃金の一%と石炭一ト されている。 一九〇二年のメリーランド州の労災補償法はアメリカ ンにつき一セントを州基金にプiルして有償事故に備え 故への二重払いを招くという理由で違憲を判示された。 償のいずれかの選択を許していたため、使用者の同一事 ○ドル程度の定額補償であった。しかし本法は補償と賠 た。死亡事故は最高三、O○○ドル、廃疾事故は一、OO ^7︶ における最初の補償法となった。本法は鉱山、石切場等 のリスクの高い業務に対象を限定して、使用者の無過失 責任による定額補償を与えるものであった。コストは労 使で折半した。しかし二年もたたない一九〇四年に裁判 によらない補償は認められないとバルチモァの裁判所か 場合は、もっとも注目されるケースの一つである。本法 一九一〇年に労災補償法を制定したニューヨーク州の 一九〇八年にはマサチューセツツ州で労災補償法を可 は一八九七年のイギリス労災補償法をモデルにしたもの ^5︺ ら違憲を宣告された。 決したが、こちらは法律とならなかった。 第1号 (10) 第92巻 一橋論叢 で、鉄道業、建設業等の八種の特定危険業種を強制適用 切っている。ニューヨーク州は改憲後の一九二二年に改 続きを踏んだ特異なケースとして注目されているが、規 めて労災補償法を制定しなおした。本法は最初に改憲手 ^11︶ 二週間の待期後、平均賃金の五〇%、死亡事故では遺族 進的な法制であった。たとえぱ、﹁強制法﹂﹁免責特約の 定内容の上でも、はっきりと補償法原理を打ち出した先 とし、他業種を任意適用とした。補償は、廃疾事故では ^8︶ に二一〇日分の賃金相当額と埋葬費を支給した。本法の 算定された。死亡事故では遺族手当︵遺児手当︶と埋葬 ール化されており、廃疾程度と従前賃金の組み合わせで の基本特徴を備えていたのである。補償額は、スケジュ 禁止﹂﹁補償の排他性﹂﹁無過失責任主義﹂という補償法 補償請求権は﹁排他的﹂ではなく、事前に損害賠償講求 を選択できる途を残してあった。しかし一九一一年の三 9二sH字く。ミご睾オ。向.むH︶で本法は違憲を宣告 費を支給した。 月、有名なアイブス判決︵旨婁婁・い§§あ書︸Ol昂ド されてしまった。その理由は、強制適用の法理が﹁革命 くコモン・ローの賠償原理とは異なる法理を確認された 一連の合憲判決によってアメリカの労災補償法はようや たアイオァ州の補償法︵選択型︶も合憲を宣告された。 ず、強制法を制定したが、その妥当性が認められた。ま 制法であることを理由に違憲判決を受けたにもかかわら ントン州の補償法は、ニューヨークの第一次補償法が強 で画期的な年であった。まずニューヨークの一九二二年 ^u︺ 法が警察権を根拠にした規制であると判示された。ワシ 一九一七年は、三州の補償法に合憲判決が下された点 的﹂であって正当な﹁響察権﹂の行使とは考えられず、 いわゆるデュー■・プロセス旨①唱o8窒条項に違反する ^ 9 ︶ と判断されたからであった。このデュー・プロセス条項 違反宣告の反響は大きく、その後、他州の補償法に﹁選 ^10︶ 択型﹂を普及させる契機になったといわれる。 一九一一年に多くの州が補償法案を起草したが、その うち九州は﹁強制型﹂ではなく、﹁選択型﹂の任意法に 属するものであった。 法を改正する手続きをすすめて、一九=一年に多数決で のであった。この頃から労災補償法の立法運動が各州で またニューヨーク州は補償法を合憲とするために州憲 改憲を実現した。これにつづいて六州が憲法改正に踏み 〃 (1ユ) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 険として扱われることが多い。その意味で社会保険と呼 ぶなら、一九一〇年代に形成された労災補償制はアメリ 急遠に拡がり、一九二〇年末には南部六州を除いて全州 ^H︶ で労災補償法の制定を み た の で あ っ た 。 カにおける最初の社会保険であり、一九三五年の社会保 であった。これまで労災補償の形成過程を法理的側面を 障成立に先駆けて施行されていた唯一つの社会保険制度 ︵1︶ O晶臣aP冬.ミニやωoo㎞1 ︵2︶星σぎ婁LI峯;吻S︸富;婁ミ§§§§筈芝邊、射辛 ミ§§さ\§ミ、§o§軋︷ミ§■zo峯kg打5Hg〇一一畠. 交えて追ってきたが、本節では補償法の早期成立要因を 政策分析してみたいと考える。 ︵4︶き“軋;竃−亀ひ−轟N. ︵3︶O屯一胃q9§ミ︷勺.畠α1 ︵6︶掌札軋二竃.轟N−轟。。一 ︵5︶ 日]己‘ ・ を維持することができた。しかし、近代産業の急速な展 の経済原則を基盤にしたコモン・ローの運用で労使関係 界である。産業危険の少ない時代には、レヅセフェール 第一の要因として考えられるのは、使用者責任法の限 ︵7︶ §§一i.畠ool ︵8︶Oo昌ヨ昌m二.射.淳>邑・o姜一−.■.し、−ミニや8,1 開による大型設備や高速機械類の嫁働は業務内容に内因 ︵9︶射まヲ暑.し、−ミニ弔lH羊 ︵11︶ Ω晶5ao二暑.ミ’、1ωooP ︵10︶ トミ軋■o.一饒、ニュージャージー・プランとも呼ぷ。 的な災害を多発させるに至った。これを過失責任主義で として登場した使用者責任法も産業資本の負担能力に限 対応するのはもはや無理であった。コモン・ローの修正 ︵12︶ ω〇一自o員籟.呂.津ωo目o員>1宛.一ミo喜§§.︸Oo§− 廿§竃ミ§一之oミく昌ぎ岩㎞十一︺ps−ビー ︵13︶ −ミ軋■一勺.塞。全州の法制化は一九四八年である。 界づけられて、実際の救済能カの拡大につながらなかっ アメリカにおける労災補償は、それ自体は保険制度で ーとその延長にある使用者責任法の法理は賠償理論であ 本の過渡的解決策にすぎなかったのである。コモン・ロ た。使用者責任法は増大する産業災害を前にした産業資 はないが、保険技術を使って拠出と給付の財政バランス り、したがって被災事故の増加が訴訟件数をふやし、産 5 労働者災害補償法の成立要因 をはかり危険を社会的に分散しているので一般に社会保 11 一橋論叢 第92巻 第1号 (12) 業批判の世論を形成したことは想像にかたくない。産業 災害の悲惨な窮状を告発して世論の注目を浴びたのは、 一九〇七年から八年にかけて、ビヅツバーグの製鉄工業 地帯においておこなったC・イーストマンの被災者実態 である。災害の多発と訴訟費用の増加はすでに使用者責 任法の有効性について反省する機会を与えていたが、司 法当局が使用者の抗弁権を制約するに至って、資任保険 のコスト上昇を無視しえなくなってきた。弁護士費用等 ^3︺ の四倍になる計算であった。 の中間コストの膨みもあって平均すると保険料は賠償額 事故の詳細なデータを入手して原因分析した結果、責任 また責任保険を引受けた保険資本にとっても責任保険 調査であった。彼女は四一〇件の業務上災害による死亡 ^1︶ があるのは使用者が一四七、監督者四九、共働者五六、 の財政基盤は不安定であった。それは責任保険が﹁将来 において法的責任による損失を賠償する契約﹂であるた 被災者本人が二二二、であった。本人の=二二件をさら に詳しく調査すると未熟さや不慣れが主因であって、純 め、﹁法偉的観点からするあらゆる要求に対応﹂するた ^4︶ め多額の支払い準備が必要であったからである。財政計 然たる過失は二一%にすぎないと報告された。 被災家庭が救済されず困窮する姿をみた司法当局は、 算の上でも、法的責任を見越して保険料を計算できなか ったし、被災者の二ーズに応じて賠償金を算定するわけ 次第に近代産業の災害発生メカニズムに理解を示して法 解釈を弾カ化しはじめた。一九〇八年までにニハ州が への批判は両方から集中する結果となったのである。 にもいかなかった。使用者と被用者の間に立つ保険会社 受け﹂に制隈を加えた。そして一九〇六年から﹁寄与過 そこへいくと労災補償は訴訟にともなう社会的圧カを ﹁共働者原則﹂の抗弁権を廃止し、二〇近い州が﹁危険引 失﹂も廃止されはじめ、先きの調査を契機にして一〇年 ^2︶ 解放するだけでなく・訴訟費用をカヅトして変動的なコ ストの分散であり平準化であった。コストの平準化によ 束してくれたのである。労災補償による危険の分散はコ スド要因をとり除き、一定範囲内の安定的なコストを約 代に入ると労災補償法への急転回がみられるのである。 補償法成立の第二の要因は、補償法が経済的に低]ス トだからである。具体的には使用者責任法の費用が増加 し、コスト抑制的方法を労災補償に求めた、ということ 〃 (13) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 微妙なのは労働者の立場であった。労災補償制の導入 クた。保険資本にとって労災補償制は﹁ただ得るだけで、 ?︺ 失うものは何もなかった﹂のである。 うになり、賠償請求のわずらわしい認定作業も不要であ であった。財政収支は災害統計に基づいて計算できるよ 労災補償法への転換は保険資本にとってもプラス要因 て消費者に転嫁することも可能となったのである。 災害を予防する動機も誘因も存しなかった。しかし労災 コストを分担せず、むしろ回避していた。その場合には かるとおり、使用者責任法時代の経営者は被災者救済の れたことである。イーストマンのビヅツバーグ調査でわ 第三の要因は、補償法が災害予防効果をもつと信じら 資本のインタレストを軸に形成されたのである。 択方式はアメリカでは採用されなかった。労災補償制は を選ぷ﹁選択型﹂の採用にとどまり、イギリスの事後選 反対しつづけた。しかし結局、使用者が事前にどちらか ^6︶ によって被災者の救済が確実になるのは事実であった。 補償制の下では、コストの安定と平準化が進み、企業は って、生産コストは安定化し、生産物の価格形成を通じ しかし組織労働者は労災補償への移行に金面的に賛成し 者への同時併願権はまた補償水準を引きあげる圧カにな 損賠償への請求権の保持に執着したのであった。また両 ギリス方式を選好した。確実だが低い補償額に加えて実 予防されると思われた。各州で労災補償法が形成された 争を活発化させるにちがいない。その結果災害の発生が 付加されるなら、コスト意識を刺激してコスト引下げ競 で保険料を差別する﹁メリヅト料率制昌①・岸量弍語﹂が 一定のコスト負担を余儀なくされよう。しかも災害実綬 りうると判断していた。 直後に、﹁安全第一﹂で知られる産業安全運動が急速に たわけではなかった。彼らは賠償請求権を留保できるイ とくにこれを強硬に主張したのは鉄遣関係の労働者で 普及したのは決して偶然ではなかった。一九一三年には ﹁全国産業安全評議会之葭まo;−oo冒邑︷冒ぎo冨巨巴 あった。彼らの業務がとりわけリスクが高いことと強い 組織カを背景にしているために、勝訴ケースで高額賠償 ω邑Oq﹂が組織されて安全の確保がコストの低下になる ことをくり返し宣伝した。災害の﹁予防﹂は﹁補償﹂と ^フ︺ を受ける場合が多かったといわれる。彼らは﹁代替物に なるほど十分な額﹂を期侍できない労災補償への転換に お 第1号(14) 第92巻 一橋論叢 ならんで今や労災補償制の原理であると信じられた。ア メリカ労働立法協会︵>>■■︶のJ・B・アンドリウス 6 若干のまとめ アメリカにおける労災補償法は、独占段階の大企業体 法の限界が意識された時、一斉に開花した。しかしその 成立過程はみてきたとおり、決して平担な遣ではなく、 制の下で、コモン・ローとそへ改訂版である使用者責任 法理面での絶えざる法廷闘争と費本のコスト意識への圧 やその師でウイスコンシン学派の創始者J・R・コモン ^8︶ ズは﹁補償﹂よりも﹁予防﹂に関心を払ウていた。後に の予防的側面に求められたのである。事故の予防競争が 力を双軸にして形成・発展してきたのであった。最後に、 アメリカ型の失業保険を開拓するヒントはこの労災補償 コスト抑制に連なるという論理は競争社会であるアメリ 度上使用者が一度救済費を負担するとしても、生産物の 分散にともなうコストの分散と負担の平準化である。制 理論であろう。無過失責任を支える経済的視点は危険の ^1︶ アメリカ労災補償制にみられる負担原理は﹁生産費﹂ めくくりとしたい。 アメリカ労災補償法の特徴と問題点を指摘して本稿のし カではもっとも歓迎される性質のものであったのである。 ︵1︶ 向閏津目凹PO−−ミo、ホー﹄oo沽軋冊ミ旨ss匙“¥雨卜s§、老oミくo﹃岸i 宕ひp勺やoo︸12一 ︵2︶;σoく9宛二皇耐吻ミ奏﹄耐盲・いSミ黒§ミミ、8o l6∼、や賞. ︵3︶き§一勺−睾 ︵4︶さミ一?鼻 値格形成を通じていずれ消費者に転嫁されよう。市場支 ︵5︶ さ迂’甲亀. ︵6︶−ミきo.軍 配カの弱い企業では賃金や雇用に後転されるのである。 語っているといえよう。 災補償を実現してきた過程は、アメリカ的特質をよく物 いずれにせよコスト意識をもち、コスト競争を通じて労 ︵7︶掌§一〇.塞. ︵8︶ >目o冨ξ9−.■二射oぎ匡o目艮ミo﹃斤昌o目.蜆Oo昌弓o目咀距. 巨o目8>8己o昌け句冨く何目けげpド昏舳﹄ミsミ肺呉き雨㌧§冊、、 HS9勺や8い18ρ O§き辻冊ミ県まミぎこ畠軋い§ミい§ミ§<〇一.H∼ω一 また制度面ではイギリスをモデルにしながら、独自の μ (15) アメリカにおける労働者災害補償法の形成 制度的特徴をもつに至った経緯も面白いと思われる。イ .ギリスでは労災補償を受けても使用者過失が認められる ときは賠償請求権をいつでも発動できた。すなわち、労 災補償︵現在は保険︶をナシヨナルニミニマムとみなし て、その上に賠償制度をのせた﹁直列型﹂制度を実現し たのである。これに対して、アメリカはユニークなコー スを歩んだ。一九一〇年にニューヨーク州の補償法が違 憲判決を受けた。これが結異的に﹁任意法﹂を数多くつ くり出す契機になった。すなわち賠償法と補償法を並存 させる﹁並列型﹂制度を構成したのであった。これは労 災補償制がアメリカで統合的な社会保険に進展しない事 情の一つを説明するものであろう。 ^2︶ 次に問題点を二点指摘しておきたい。第一は、拠出率 が低いことである。コスト競争の結果、若干の水準低下 はやむを得ないが、平均拠出率が一%内外であるのはや はり低すぎたと思われる。拠出率が小さいとメリツト料 率制の効果が小さくなろう。したがって事故防止のイン センチブもそれだけ弱くなるのである。 第二は、給付水準の低位なことである。拠出水準が低 いために、当然給付能カは減退してくる。およそ従前所 得の半分から三分の二の水準にとどまった。これでは所 ^3︺ のためにはじまったコスト抑制の競争がメリヅト制の効 得代替能力はなかったということができよう。災害防止 果が小さいために、直接、給付水準の低下に結ぴついた 過程は、のちの失業保険において、コスト抑制動機が失 ^4︺ 業防止よりも失業給付の低下に傾斜したことを改めて想 起させるのである。 ︵1︶ρ・Ω曇彗員︷﹄一;℃.§一 ︵2︶穿写−奉Pぎ邑§向岩邑買;享ぎま冨曽が O。ξ。量ま目し§ミ§尊§§、ぎミ§<。=oレ。. ︵3︶ ㌧ミ軋二勺.全伽. −︵曽葭昌戸−岨No︶勺一“ド ︵4︶ 前掲拙稿﹁アメリカ失業保険成立の一側面−失業防 止理論の生成と限界I﹂参照。 ︵一橋大学助教授︶
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