坂本, 清 Citation 一橋論叢, 106(1) - HERMES-IR

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タルデュー・プランの崩壊と小協商
坂本, 清
一橋論叢, 106(1): 61-81
1991-07-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/12497
Right
Hitotsubashi University Repository
(61) タルデュー・プランの崩壊と小協商
タ〃デュー・ブランの崩壊と小協商
坂 本
り、また、ある意味では、小協商が三〇年代に内部から
いわゆるタル.デュー・プランは、経済再建をめぐる恐慌
H胃畠昌によって提議されたドナウ地域の経済再建案、
一九三二年三月にフランス首相兼外相タルデュー>−
ルデュー・プランの失敗が小協商にとってもった意味を
での経緯とプランに対する関係各国の対応を検討し、タ
シァチヴを中心に、タルデュー・プランの作成に至るま
に立って、チェコ外相ベネシュ向・︸實&の外交的イニ
弱体化していく起点でもあうた。本稿は、こうした観点
期の外交の中でも、ひとつのクライマヅクスとして位置
論じようとするものである。この小論は、一次資料に関
はじめに
づけられる。これまでは、このプランの失敗がもつ政治
しては補足的に用いるにすぎないが、東欧諸国の諸業績
ほぽ、
外国からの投
コとドナウ諸国間交渉の展開
東欧の諸小国は、第一次大戦後、
チェ
^1︶
の研究に若干の貢献をなしうると考える。
を踏まえて従来の研究を論じた点で、恐慌期国際政治史
的意味が必ずしも明らかにはされぬまま、単なるエビソ
ードとしてその重要性が見過ごされがちであったように
思われる。しかしながら、タルデュー・プランの崩壊は、
南東欧諸国が三〇年代にドイツに対する経済的依存度を
著しく高めていき、やがてはドイツの影響下に陥ってい
くという過程の中では、ひとつの分岐点をなすものであ
“
清
‘
一橋論叢 第106巻
第1号 平成3年(1991年)7月号 (62)
まま、二〇年代後半、穀物価格の下落による農業恐慌を
により、二〇年代を通じて充分な経済発展を遂げられぬ
国際競争カの欠如、市場獲得の困難さなど、様々な原因
民経済の安定と発展を図っていったが、貿易障壁の増大、
裕はなかった。これに対して、その金融力を政治的に利
リス、ドイツには、ハンガリーに経済的援助を与える余
ンガリーが政治的支援で頼みとしているイタリァ、イギ
オーストリアと同様、金融危機に陥ることになるが、ハ
銀行クレディヅトーーアンシュタルトの被産の煽りをうけ、
に苦しむさなか、一九三一年五月のオーストリァ最大の
むかえ、次いで大恐慌に直面した。大恐慌期には、経済
用できるフランスは、ハンガリーに借款を供与する代償
資と金融的援助に頼りつつ貿易に依存するという形で国
的再建の試みがドナウ地域で展開されるが、危機に陥っ
として外交面での譲歩を要求したのであった。この背後
ひとつの契機になって、経済問題をめぐるドナウ諸国間
は完全に放棄されるが、独填関税同盟問題と金融恐慌が
は、チェコやフランスの強い反発をまねき、同年九月に
九三一年三月の独壊関税同盟の締結であった。この事件
をもつドイツは、致治目的を優先して甫東欧への経済的
?︶
膨張志向を明確に打ち出してくる。この端的な例が、一
にはイギリス志向の強いと目されるベトレンH・団Ωま−昌
の借款を供与することが二国間で合意され、八月一九日
月中旬には、フランスがハンガリーに対し五百万ポンド
姿勢に一定の影響を及ぼすことになった。一九三一年八
こうしたフランスの影響カの増大は、ハンガリーの外交
^2︶
た南東欧諸国に対して、余剰農産物を吸収できる潜在カ
交渉は活発化していくことになる。以下では、タルデュ
に代り、より親仏的とされる力ーロイρ穴茸o−首が首
?︶
相になった。力−回イ政権の登場は、ハンガリーH小協
には、チェコの働きかけもあった。ドナウ地域における
ー・プランの前史として、ドナウの経済外交をチェコの
商間の政治的緊張の一定の緩和につながる。まず、これ
^4︺
動きを中心に概観してみる。独壊関税同盟問題で揺れる
したまま新たな通商条約が成立せず、二国間の関係が悪
コ⋮ハンガリー間では、通商条約が一九三〇年末に失効
は、チェコ“ハンガリーの関係改善に表れている。チェ
向は、とりわけチェコやフランスにとっては重要な意味
ヨーロヅパ情勢の中で、ハンガリーやオーストリァの動
をもった。ハンガリーは、農産物価格の下落と輸出不振
鵬
(63) タルデュー・プランの崩壊と小協商
とともに、通商問題をめぐる交渉が再開される運びとな
化していたが、八月、7ランス^ハンガリー関係の改善
っては少なからぬ意義をもっていた。ベネシュの政治的
しかしながら、ハンガリーとの関係改善はチェコにと
両国の代表が会談し、一〇月、木材と豚の輸入間題で部
ユレトでまず交渉がなされた。九月には、ジュネーヴで
の増大を阻む目的に加えて、ユーゴスラヴィァとルーマ
ったが、ここには、ドイツのドナウ地域に対する影響力
ンガリー、オーストリァとの経済協カを進めることであ
意図は、諸犬国の直接参加を排除した形で、小協商とハ
分的合意が成立した。両国間の交渉は、その後も非公式
ニァに対しドイツに代わる経済協カの基盤を与える目的
り、フランス公使の臨席のもとでチェコの保養地リラフ
なレベルで続けられ、十一月末には、中欧協力の提唱者
には、ハンガリー政府特使グラーツρ9顯ぎがチェコ
ラハを訪問、ベネシュらと交渉した。また、十二月中旬
シュは、ハンガリー特使グラーツとの会談で、チェコ、
とっては大きな意義があった。一九三一年二一月、ベネ
あれハンガリーや才ーストリアとの関係調整はチェコに
があったのである。こうした考慮から、限定的なもので
^8︺
を訪れ、ベネシュ外相と会談した。さらに、ハンガリー
ハンガリー、オーストリア三国による経済連邦案を提議
であったハンガリーのハントシュ貝︸彗ざ蜆教授がプ
議会でも、隣国、とくにチェコとの関係改善を要望する
は進展しつつあったが、これは、あくまでも隈定的なも
菱言が出はじめた。このように二国間の関係改善の試み
マニア、ユーゴスラヴィアとそれぞれ対立する関係にあ
に対抗する目的で形成されたのではなく、チェコ、ルー
したが、この際、ベネシュは、﹁小協商は、ハンガリー
^6︶
.のであった。ハンガリー側は一定の留保のもとに非公式
るドイツ、ソ連、イタリアという大国が中欧に介入して、
明や経済連邦案の提議自体が、独瑛関税同盟問題に対処
されたのである﹂と述べた。事実を歪曲したこうした説
^9︶
この地域を紛争の対象とすることを阻止するために形成
なレベルでだけチェコと交渉を行ったのであり、この交
渉はフランスの圧カに対する譲歩という意味合いも大き
かった。こうした意味においてチェコー−ハンガリー間に
は﹁改善された友好の雰囲気﹂が存在していたのであ
する意味から、ベネシュが従来以上にハンガリーを重視
^ 7 ︶
る。
63
一橋論叢 第106巻 第1号 (64)
しだしたことを示していた。実際、ベネシュは、一九三
ーストリァに有利な付帯条項をそれまでの通商条約に加
いる。そして、独填関税同盟が放棄された秋以降、ベネ
一年秋には、チェコーーハンガリーu才ーストリア三国に、 えることで、オーストリアの経済状態への配慮を行って
よる経済ブロヅクの形成を志向しており、これを基礎と
1ーオーストリア三国の経済提携案を示し、対ハンガリー
シュは、オーストリアに対しても、チニコー−ハンガリー
広汎な中欧の経済提携を実現することを目論んでいたの
交渉と並行した形で働きかけを行った。
してルーマニアとユーゴスラヴィアの加入を図ることで
である。しかしながら、この場合、彼は、フランスが提
このように、ハンガリーやオーストリアヘ働きかける
^12︶
唱したチェコ”ハンガリー“オーストリア三国による関
税同盟は政治的意味合いが強いため主権の侵害につなが
ーツのプラハ訪問の結果に危倶の念を抱いていたが、こ
ヴィアヘも配慮を示した。ユーゴスラヴィア側は、グラ
一方で、ベネシニは、小協商、とくに同盟国ユーゴスラ
るおそれがあるとして関税同盟には反対する立場をとっ
れに対し、ベネシュは、﹁グラーツはチェコ、ハンガリ
税同盟には反対であった。従来から、小協商諸国は、関
てきたといういきさつがあり、また、ベネシュ自身も、
協商全体とハンガリーとの合意を主張し、最終的合意に
ー、オーストリァの経済同盟を提案したが、チェコは小
は小協商の崩壊につながるという認識をもっていた。
チェコHハンガリi1ーオーストリア三国による関税同盟
^皿︶
至るまで小協商1ーハンガリー関係が誠意に基づいた正常
なものであるよう要望した﹂と伝えて、ユーゴスラヴィ
オーストリァ問題でも、ベネシニは、こうした関税同
盟への否定的評価と警戒心から、独瑛関税同盟が間題に
距離を置き、冷ややかな態度をとっていた。しかし、一
にみても、小協商Hハンガリー関係には一定の改善がみ
一九三一年末から一九三二年初頭にかけては、全般的
ア側の危倶を緩和するよう努めたのである。
^螂︶
方で、彼は、外交の窓口を通じて、オーストリァの永世
られたが、これは、深刻な経済危機という特別な状況下
なっていた一九三一年夏には、オーストリアとは一定の
中立化構想を示してオーストリァに働きかけることを忘
で、経済問題の解決が緊急の課題となった結果にほかな
^μ︶
れなかった。また、経済面では、チェコ側が、七月、オ
^n︶
64
(65) タルデュー・プランの崩壌と小協商
タリアとの関係弱化を望まなかった。ハンガリーは、
れた。ハンガリーは、フランスに援助を求める一方、イ
したハンガリーの二重外交は、対仏、対伊政策にもみら
対する外交を同時に行っていたことを示していた。こう
は、非公式なレベルで、中欧経済協カの交渉とこれに反
与を否定せざるをえなかったが、ベトレンのローマ訪問
家にも外国訪間を勧めたことはないと釈明して政府の関
ガリーのヴァルコー外相−名巴ぎは、いかなる政治
行うためにローマヘ向かった。この問題に関して、ハン
三二年一月には、ムッソリー二申峯畠ωo−巨と交渉を
ンガリーの接近は問題外であると言明していたが、一九
に反対して、政治問題が未解決である隈り、チェコとハ
外に出ていたベトレンは、ベネシュの中欧経済協カ構想
中にベトレンがとった行動に表れていた。内閣崩壊後閣
このことは、チェコ阯ハンガリー間の経済協カ交渉の最
ンガリーの対外関係の支柱として存在していた。事実、
に転換したわけではなく、依然、イタリァとの関係がハ
あった点に留意する必要がある。ハンガリー外交が完全
らず、関係改善とはいってもあくまでも隈定的なもので
動きは、チェコ外相ベネシュの構想からタルデュー・プ
中欧の経済問題をめぐる以上のようなドナウ諸国間の
ことでの利害の一致を背景に、イタリァの婆勢に影響を
^〃︶
与えることができると計算していた。
になるが、チェコ側は、独瑛のアンシュルスに反対する
結ぷというチェコの提案は、イタリァの拒否にあうこと
という立場を再三強調した。こうして、小国間で協定を
されたヨーロッパの経済協カ案には断固として反対する
定の関心をもっていることを示したが、イタリアが除外
カに反対しないこと、およぴ、フランスとの協カにも一
渉で、イタリア側は、イタリァが中欧での広汎な経済協
イタリアの出方を窺っている。外交の窓口を通じての交
三二年初めにかけ、プラハ駐在のイタリァ公使を通じて
ァの了解が不可欠であると考え、一九三一年末から一九
チェコは、中欧での経済協カを推進するうえで、イタリ
して、イタリアがもつ重要性をはっきり認識していた。
いた。チェコやフランスは、中欧間題での合意成立に関
るかは、結局のところ、イタリアの出方に深く関わって
ハンガリーが中欧の経済協カ問題でいかなる政策をと
^比︺
義をL求める政策をとっていたのである。
^15︶
﹁フランスからは金融的援助を、イタリアからは修正主
65
一橋論叢第106巻第1号(66)
ランにつながっていく過程として把握できる。
= 経済的再建問題をめぐるジュネーヴ協議
めぐっては、対ハンガーリー、.オーストリア政策にみられ
るように、小協商各国が独自に対応する面が目立った。
また、小協商の内部でも、中欧の経済再建案の具体化は
定を結ぷという原則に、フランスと.イタリアは、イギリ
渉を重ねて協定を結ぴ、協定成立後に我々が諸大国と協
従って行動しなけれぱならない。我々の間だけでまず交
ベネシュは、﹁我々ドナウ諸国は、合意されたプランに
軍縮会議フランス代表マシーリ声峯農ω屯︷との会談で、
に対し、小協商側の基本的要求を示した。二月一七日、
であった。ジュネーブでの協議で、チェコは、フランス
がドナウ経済の再建問題で語し合う機会を提供するもの
に幕を開けたジュネーブ軍縮会議は、チェコとフランス
会が一九三二年二月にやってくる。一九三二年二月初め
案が失敗した後、ドナウ経済の再建問題の解決を図る機
ウヘの刑害の少ないイギリスが提議したドナウ関税同盟
危機の深まりを背景に、一九三二年一月、従来からドナ
前もって創設することが必要である。
農業を保護する目的で、チェコ国内で小麦の独占組織を
うことができるであろう。そのためにはまず、チェコの
印された際には、小協商とハンガリーとの閲で交渉を行
する必要がある。チェコとハンガリーとの間で条約が調
二、戦術的観点からみて、ハンガリーから交渉を開始
とる。
た中欧諸国間の経済的接近に関しては、一致した行動を
一、小協商は、ハンガリー、オーストリアを対象とし
相会談では、次のような合意が成立した。
われた二月一七日のジュネーブにおける小協商三国の外
に小協商三国間で意見調整を行った。こうした目的で行
再建問題に関して小協商の一致した見解を打ち出すため
フランスの原則的合意をとりつける一方、ドナウの経済
必ずしも進んでいなかったのである。そこで、チェコは、
^19︶
スの同意を得たうえで合意しなけれぱならない﹂と主張
三、我々は、工業においても農業においても特恵の付
ドナウ諸国間の経済交渉の展開とドナウにおける経済
した。これは、具体的プランというより交渉を進めるう
与による解決策を原則的に支持する。そして、中欧諸国
歪︶
えでの原則にすぎなかった。この時期、経済再建問題を
66
(67) タルデニー・プランの崩壊と小協商
ブロヅクを形成していくものとする。
が可能な限り他国に対して統一した行動をとりつつ経済
とにする。協定が成立した際には、我々は、大国に自ら
交渉自体は我々の間だけに限るという行動方針に従うこ
これらの合意は、チェコ、フランスの基本的立場ばか
の見解を知らせる。
^2o︺
りでなく、会談に出席したユーゴスラヴィア外相マリン
四、ユーゴスラヴィアは、同国がオーストリァ、チェ
コニ国全体との間にもつ関係以上に緊密な通商関係をイ
とは、工業部門でドイツやイタリアが中欧諸国と協力す
とに成功するが、それぞれの国の動機は異なっていた。
このように、小協商諸国は一致した政策を打ち出すこ
Ω巨ぎの要求を考慮した結果、成立したものであった。
コブィヅチく・峯胃巨ぎく尽ルーマニァ外相ギカ∪・
タリアとの間にもっているので、ユーゴスラヴィアの特
ることを妨げるものではない。チェコやオーストリアが、
別な利害が尊重されなけれぱならない。しかし、このこ
経済ブロック全体の需要を満たすだけの生産ができない。
七、いかなる交渉にせよ、交渉をヨーロッバ委員会や
換を行う。
じて小協商諸国がとるべき行動の指針についての意見交
を交えて草案の作成に着手し、作成後は外交の窓口を通
六、こうした趣旨で、各国は、帰国後すぐに、尊門家
ぶ唯一の方法であると我々は信じる。
五、こうした試みが、ハンガリLと成功裡に協定を結
継承諸国による中欧の安定が実現可能であり、継承諸国
リアーーハンガリー帝国の崩壊であるという批判に対して、
は、また、ドナウ諸国の経済的困難の原因は、オースト
トリァ交渉を積極化し、小協商の強化を狙った。ここに
響カの増大を阻止する目的で、対ハンガリー、対オース
同盟が明らかになって以降、ドイツのドナウ地域への影
ものだった。すでに触れたように、チェコは、独填関税
の問題をみていたのに対して、チェコの動機は政治的な
ルーマニア、ユーゴスラヴィアが主に経済的動機からこ
国際連盟事務局で行うことは、時期尚早であると考える。
ことからみてもなおさらそうである。
我々は、ベネシュ氏がフランスに説明した行動方針、す
は西欧諸国の支持に値するものであるということを示す
^娑
目的もあった。しかし、一方で、チェコは、ルーマニア
なわち、諸大国は我々が交渉を行うことに同意を示すが、
桝
第1号(68)
第106巻
一橋論叢
認識していた。そこで、チェコは、ドイツ、イタリァの
ァに経済的には依存せざるをえないという現実を充分に
るベネシュとの会談で、中欧の経済問題に関しての特別
次いで、二月二九日、タルデューは、ジュネーヴにおけ
やイギリス外相サイモンー凹目冒とも会談を重ねた。
て、タルデューは、イタリア外相グランディUlO﹃竃皇
排除ではなく、経済関係を維持しつつ、その貿易量を逓
な覚書を英伊両政府に対して送る意向であることをベネ
やユーゴスラブィアが程度の差こそあれドイツやイタリ
減させることをめざした。これは、具体的には、小協商
ことでドイツ、イタリアとの貿易関係をブロック内で自
中欧の経済的再建に関しての覚書を送るのである。タル
伊両政府に対して、また、やや遅れてドイツに対して、
シュに伝えた。そして、フランス政府は、三月三日、英
^妬︺
給できないものにできる限り抑鉗しようとするものだっ
デ,一1・プランと呼ぱれるこの覚書は、小協商三国とオ
とハンガリー、オーストリァの経済ブロックを創設する
た。しかし、このためには、フランスに多くを期待しな
ーストリア、ハンガリーの五力国が相互に関税を一〇パ
^22︺
ければならなかった。
ーセント引き下げること、ドイツ、イタリアはドナウの
地域の通貨を支持することを提案しており、ドナウ諸国
農産物に特恵を付与すること、国際借款によってドナウ
軍縮会議の機会にドナウの経済問題に関する意見調整
の主権を侵害する経済組織を避けてこれら諸国の主権を
三 タルデュー・ プランの提議
が行われる中で、フランス首相兼外相タルデニーにイニ
^23︶
堅持し、ドナウの五力国以外の国がすすんで最恵国条款
いる。
dξ淳−にあてた電報で、ベネシュは次のように述べて
月六日、ジュネーヴからチェコ首相ウドゥルジャル弓1
ュが長い間提唱してきたものにほかなら宏かった。三
を放棄するというものであった。これは、まさにベネシ
^26︶
シアチヴを取らせた直接の契機となったものは、オース
トリァにおける経済危機の深化であった。二月ニハ日、
オーストリア首相ブレシュ宍.田昌鶉争は、諸大国のウ
ィiン公使に対し、オーストリァの窮状を訴え、オース
トリァの輸出振興を図るため、諸大国が早急にオースト
リァヘの援助策を検討するように要請した。これを受け
^ 2 4 ︶
68
(69) タルデュー・プランの崩壊と小協商
イタリァはこの問題の解決には反対しないと私に言明し
ィは、この問題で一致した協定が成立するのであれば、
時期であるという私の見解に同意した。また、グランデ
般的問題に関して大国間で合意を成立させるのに適当な
一、先週、タルデューとサイモンは、今が、中欧の全
彼がとくに、我々がまず我々の間で協定を結ぴ、いかな
に、土曜日にはドイツにそれぞれ覚書を渡した。これは、
踏まえて覚書を作成し、金曜日にはイギリスとイタリア
三、タルデューは私と合意した後、右のような趣旨を
る用意がある。
協議を重ね、必要な制限を設けることを考慮す
る他国の介入も承認しないという私の主張を考慮したの
た。私とタルデューやサイモンとの会談は私に何ら義務
を負わせるものではなかった。
︵一︶、国家的権利をもつ共同の政治組織が中欧の諸国
通りである。
する合意が存在せず、また、我が国においても見解の相
行動について触れ、﹁小協商諸国間には問題の細部に関
このような報告をした後で、ベネシ.一は次にとるべき
である。
^堅
によって形成されることを承認しない。
違が存在していることから、公式の交渉はすべて拒否す
二、タルデューとサイモンに伝えた我々の原則は次の
︵二︶、関税同盟を承認しない。
︵五︶、大国が直接参加することを承認しない。
考慮することはできない。
けで決定される諸条件による特恵システムしか
︵四︶、目下のところ、諸大国が関与せずに中欧諸国だ
な る 共 同 行 動 も と ら な い 。
意見調整を図って慎重に対応していった。しかし、表面
小協商三国のとるべき行動については、小協商三国間で
のうちは、英独仏伊四国の出方を注意深く窺いながら、
く認識していたのである。したがって、ベネシュは三月
地域で包括的プランを一挙に実現することの困難さをよ
治的・経済的再建に取り組んできたベネシュは、ドナウ
るものとする﹂圭言明している。長年、ドナウ地域の政
^㎎︶
︵六︶、相互の制度に関する五力国の協定が成立した際
上はこうした慎重な姿勢を維持しつづけたにせよ、タル
︵三︶、ルーマニァやユーゴスラヴィァを排除したいか
には、ドイツやイタリアと最恵国条款の問題で
69
第1号(70)
第106巻
一橋論叢
デュー・プランは、そポそもはチェコの提案に応じてフ
ランスが自ら検討を重ね、イニシァチブを発揮したもの
とになる。
み寄ρたこと、さらには、ドナウ問題が、賠償問題や軍
ギリスが関税同盟案の失敗によってフランスの立場に歩
刻化し、同時にドナウ諸国間で経済交渉が進む中で、イ
なからぬ障害があったが、ドナウ諸国の経済的危機が深
のにほかならなかった。このプランを実現するには、少
単位と扱う点では、ベネシュが従来からめざしてきたも
タルデュー・プランは、ドナウ五力国をひとつの経済
けで我々五カ国の協カを成し遂げることである。
重要な原則は、いかなる大国の干渉も排して我々の間だ
なわちベネシュ外相のプランなのである。このプランの
実を言うと、タルデュー・プランは我々のプラン、す
宍;︷雪は、外務省内で次のように言明していた。
結果、独伊間には意見の一致せぬ諸間題が存在したにも
求めることにする。外交の窓口を通して行われた交渉の
然と独仏対立をまねかぬように、イタリァとの一致点を
にこの提案を葬り去ることにした。ドイツは、まず、公
たが、ドイツは、フランスの政治的意図を見抜き、すぐ
た。フランスは、当初、英仏伊三国の合意をめざしてい
た。それだけに、フランスヘの不信感がいっそう強かっ
に関する情報が新聞で公表された後で、正式に知らされ
伊三国の協議に関わっていなかったぱかりか、同プラン
ドイツは、同プランの提議に先立つジュネーヴでの英仏
ー・プランに対して不安を抱いたのは、ドイツであった。
否定的なものであった。諸大国の中でとくにタルデュ
タルデュー・プランに対する各国の反応は、おおむね
プランと各国の対応
縮間題というヨーロヅパ国際政治の主要問題を解決する
かかわらず、タルデュー・プランに反対することでは簡
四 タルデュ
障害になってはなヶないという考慮が一部政府当局者に
単に意見が一致した。二国ともドナウの市場で経済的に
であった。三月一〇日、チェコ外務省のクロフタ内・
働いていたことなど、何らかの協定が成立しうるいくつ
不利になる事態を容認できなかったからである。さらに、
^29︶
もの好条件がそろっているように思われた。しかしなが
タルデュi・プランの実現によってドナウ諸国間の特恵
^31︶
^30︺
ら“ごのような包括的な企図も、すぐに頓挫をきたすこ
η
(71) タルデュー・プランの崩壌と小協南
た。三月一二日、ドイツは、ルーマニア政府に対し、一
イタリアとの意見調整を図った後で、新たな手段を講じ
とが非常に困難になると予想された。そこで、ドイツは
協定が成立すれぱ、ドイツが経済進出をドナウで図るこ
リーとオーストリアに7.ランスが政治的影響カを行使せ
気︶
答で、タルデュー・プランに反対するとともに、ハンガ
ンス政府に伝えた。三月七日にフランス政府にあてた回
一方、イタリアは、諸犬国の中で最も早く回答をフラ
とする意図があったと考えられる。
こうした中で三月一五目、ドイツは正式にフランス政府
ドイツの提案は、ルーマニアがフラ。ンスの態度を考慮し
^初︶
て条約の適用を延期する措置に出たため実現しなかった。
プランを葬るための策略であると危倶を示した。結局、
に対し、フランスは、ドイツのこの措置はタルデュー・
ァに多くを期待することはできなかった。ハンガリーは、
出振興条約を締結したが、金融的援助の面では、イタリ
ーマを訪問した。この際、ハンガリーは、イタリアと輸
ーがタルデュー・プランについて協議を重ねるため、ロ
答を出したのと同じ三月七日、ハンガリー外相ブァルコ
みせた。イタリア政府がタルデュー・プランヘの正式回
これに対し、ハンガリーをはじめ小国は慎重な対応を
ぬように要請していた。
九三一年六月に実質的に合意していた、ドイツ側からの
に回答を送った。この回答の内容は、もちろんタルデュ
フランスの信用供与に期待してタルデュー・プランに慎
特恵付与を含む通商協定の暫定的適用を提案した。これ
ー・プランを拒否するものであったが、経済的援助が必
ー・プランに対し政治的な留保を表明していたが、この
重に対応せざるをえなかった。ハンガリーは、タルデュ
プランは経済的には一定の利益をもたらすものであった。
ともに、中欧の問魑についてはまず犬国間で合意し、そ
の後にドナウ諸国へ大国間で決定された合意を提案し、
要な国としてまずハンガリーとオーストリァを挙げると
ドナウ諸国も含めて共同で交渉する、という交渉手順を
なぜなら、ドナウ地域の農産物に対する特恵の付与は、
ず交渉を行い、合意が成立した後で犬国間の交渉を行う
を活発化するものであったからである。しかし、こうし
ハンガリーの農産物の市場を拡大するとともに商品流通
^翌
提案していた。この提案の裏には、ドナウの小国間でま
という交渉手順がもつ政治的意味合いを骨抜きにしよう
η
一橘諭叢 第106巻 第1号 (72)
他のドナウ諸国の対応をみても懐凝的ともいえるほど
^筆
治問題で譲歩する意志はな・かった。
た経済的利益が期待できるにせよ、ハンガリー側には政
的な側面がみられた。二国ともチェコの利己的な経済政
ルーマニァやユーゴスラヴィァの姿勢にも日和見主義
^38︶
ドイウについては批判しつつもイタリアに対しては一定
た、タルデュー・プランの実現に際し政治的意図が入り
的障害を指摘しつつも中欧での協カの用意を述べた。ま
は歯切れの悪さが目立った。ベネシュは、演説で、国内
おけるチェコ上・下院外交委員会でのベネシュの演説に
に要求したのである。こうした事憎から、三月二二日に
農民党はなおも反対し、議会に交渉を逐次知らせるよう
ジャル首相に、農民党の利益を擁護する約束をしたが、
は、チェコの最大政党農民党の指導者でもあるウドゥル
タルデュー・.プランヘの反対も強かった。ベネシュ外相
オーストリァの農業保護勢カと同様、チェコ農民党の
1・プランに強く反対 し て い た 。
かし、その一方で農業利益を代表する勢カはタルデュ
界はドイツからの特恵付与をもっぱら期待していた。し
た交渉には消極的姿勢を示したが、オーストリァの工業
がみられたわけではなか.った。さらに、ユーゴスラヴィ
する立場をとったが、政府や世論にそれほど明確な姿勢
は、マリンコブィッチ外相がタルデュー・プランを支持
線を維持することは困難であった。ユーゴスラヴィアで
する勢カとが対立し、外交においてひとつの一貫した路
ゥ諸国の協カによっては望めないとして経済利益を重視
を重視する勢カと、ドイツ市場に代わりうる市場はドナ
ティトゥレスク字−言−塞;をはじめとした政治提携
ヴィアとも慎重な姿勢をとり続けた。ルーマニアでは、
金融的援助に対する期待から、ルーマニア、ユーゴスラ
の政治的提携を維持するという配慮と、フランスからの
ランに対する関心はあまりなかった。しかし、チェコと
リアがタルデュー・プランに乗ってこない限りはこのプ
輸出に大きな関心があった。したがって、ドイツやイタ
策には慣りを感じており、ドイツ、イタリアヘの農産物
の配慮を表明していた。
の慎重さがあった。オーストリァ政府はドイツを除外し
こむ余地はないと主張し、フランスを範として他の大国
ァの経済界では経済的困難の克服はドイツやイタリァと
^η︶
^36︶
もドナウ地域で公正な態度をとるように求めた。同時に、
閉
(73) タルデュー・プランの崩壌と小協商
る国はなく、外交指導者がタルデュー.・プランに政治的
諸国だけみても、タルデュi・プランを全面的に支持す
が主流であった。このように、国内的にみると、小協商
の密接な協力によってはじめて可能であるという考え方
政府金体がこうした方向に傾いていたわけではなかった。
ランスの立場に歩みよることになる。しかし、イギリス
リス外務省は、ドナウ地域の特恵関税制度を主張するフ
盟を実現することの困難さを認識した。その結果、イギ
自らが提案したドナウ関税同盟案が失敗した後、関税同
^39︺
意義を見い出していただけであった。したがって、外交
だけによる交渉をまずは優先するという交渉手順が等閑
る姿勢が明らかになった後、自己の意図していた、小国
ベネシュ外相は、諸大国のタルデュー・プランに対す
動がとれなかったのである。
折りにタルデューと交渉し、意見調整を行った。そして、
図から、サイモン外相は三月二百、ブリアンの葬儀の
らず、対仏交渉を行うことに関心があった。こうした意
相は、マクドナルド弟・峯gUo量巨の留保にもかかわ
当初消極的姿勢をとウたのである。しかし、サイモン外
したがって、タルデュー・プランに対して、イギリスは
に付され、フランスがドイツやイタリァと直接取引をす
三月二六日、イギリス政府はタルデュー.プランについ
指導者も国内的制約と諸大国の姿勢を考慮して独自の行
ることを警戒した。ベネシュは、三月末、フランス政府
府に伝えた。このようにして、ロンドン四大国会議が決
^41︺
て英仏独伊四大国で協議を重ねたいという意向を各国政
に対し、チェコや小協商の合意なしに申欧問題でドイツ、
あ︺
イタリア、イギリスと交渉をもたぬよう警告した。
定されるが、フランス首相タルデューは、予定された四
行われることへのベネシュの危倶は、現実のものとなっ
ドナウ問題に関する大国間の協議が小国を抜きにして
た資金の保全に関心があった。こうしたイギリスの立場
オーストリアに集中しており、イギリスは二国に供与し
相と会見した。イギリスの金融界の利害はハンガリーと
犬国会議の二日前にロンドンを訪問し、マクドナルド首
ていった。以下では、その経緯をみてみる。イギリスは、
を考慮したうえで、タルデューはマクドナルド首相に対
五 ロンドン四大国会議の開催
元来、中欧においては関税同盟を望んでいたが、一月に
閉
一橘諭撞 第106巻 第1号 (74)
し、交渉の経緯を諸大国に伝えながら小国間で交渉を行
うこと、最恵国条款の放棄に最終的には賛同すること、
対処する必要性については意見が一致したが、具体的方
策をめぐっては対立するぱかりであった。マクドナルド
はこの会談で、ドナウ地域の危機は深刻であり、何らか
の措置がとられなけれぱドナウ諸国は経済的に破綻し、
ドナウ諸国への金融的援助に先立って大規模な金融改革
がまずなされねぱならないこと、厳しい金融的管理のも
であると主張した。しかし、これに対してビューローは、
世界の諸問趨がいっそう深刻化するであろうと萎言し、
実効性のある提案ならぱ賛成するが、特恵制度では効果
とではじめて中欧問題での協定が結ぱれるべきこと、以
結局、借款の供与を拒否した。とはいえ、この協議によ
がないと主張し、こうした会議では間題が解決できない
四国一致の必要性を説いた。これをうけて、フランスの
り四大国会議を前にして英仏両国間の意見調整を行うこ
として世界的な協定の必要性を説いたのである。これを
上の四点を主張した。これに対し、マクドナルドは、ド
とができたのであった。ところが、当初四大国による協
うけて、イタリア外相グランディは九力国会議を提唱し
フランダンは、ドナウ諸国間で特恵制度を樹立すること
議に好意的であったドイツ、イタリァは、会議を前にし
たが、この提案をビューローは支持し、ドイツもイタリ
イツとイタリアが反対しないことを条件にタルデューの
ての英仏二国間協議を知るやこれに不満をもち、ロンド
^禍︶
ン会議での姿勢を硬化させることになる。
ァもフランスの主張に反対するという結果になった。イ
こそが必要であり、これによってドナウの経済は改善さ
四月六日から八日まで行われたロンドンの四大国会議
ギリスのサイモン外相もマクドナルド首相も四犬国によ
主張を受け入れた。しかし、タルデューが求めたドナウ
には、フランス貿易相フランダン勺.雪彗畠目、ドイツ
る協議に犬きな意義を認める立場から、独仏伊三国の代
れ、さらに新たな信用を供与することで信用回復が可能
外務次官ピューロー単く昌宙昌o考、イタリア外相グラ
諸国に対する借款供与問題では、イギリスは譲歩せず、
^硯︺
ンディが出席し、イギリスのマクドナルド首相らと会談
表の間に立って仲介役を務めようとしたが、結局成功し
^竺
なかった。実際、ドナウの特恵制度ではドナウ地域の経
した。四国の代表ともドナウ地域の深刻な事態に早急に
μ
(75) タルデュー・プランの崩壊と小協商
同時に、議会選挙を控えたブリューニング内閣の立場の
ナウ地域と緊密な経済関係をもつことを考慮に入れると
ることはできなかった。 一方、イギリスは、ドイツがド
工業製品にとって代わられるような特恵制度を受け入れ
何らかの見返りのないまま、自国の工業製品が升エコの
ローの主張は、的をえたものであり、また、ドイツは、
済的再建にわずかの効果しかもたらさないというビュー
ーを援助しようとする大国の目論見を小協商の利益とな
ぐことをせずに沈黙したまま、オーストリァとハンガリ
協カの雰囲気が作られるという利点がある。小協商は急
ぱ小協商諸国への信用供与が容易になり、申欧に新しい
とはできない。しかし、︹こうした試みには、︺実現すれ
ナウ諸国の提携によって経済困難を決定的に解決するこ
していた。﹁小協商諸国の経済的利害を考慮すると、ド
三月申旬にはこのような可能性を見通して徴妙な萎言を
を望むが、ドナウの提携が存在しなくてもやっていける
るように利用しなけれぱならない。我々は、ドナウ連邦
弱体化を危倶して、ドイツに譲歩を迫ることができなか
^竺
づた。こうしてロンドン会議はその後の協議を約しただ
けで何ら成果なく終わることになる。これは、ドイツに
を葬り去ったことは、ドイツがドナウ・バルカンヘ進出
かの支持、とりわけ犬国間の合意を成立させるうえでの
ドナウ諸国の経済的再建問趨に関する大国側からの何ら
のである﹂と彼は述べている。しかし、この時点では、
^価︶
するうえでの障害を作らずに済んだことを意味していた。
フランスの働きに対する期待が、小協商の側に存在して
とっては満足すべき結果であった。タルデュー・プラン
逆に、イギリス、フランスは、この会議の失敗の結果、
いた。したがって、小協商は、小協商と諸大国、とくに
フランスとの合意をまず重視する立場をとるのである。
ドイツの南東欧への経済的進出に事前に歯止めをかける
. 重要なひとつの機会 を 失 う こ と に な っ 夫 。
こうした立場から、ロンドン会議の失敗後の四月一二日、
ァチヴをとって大国に既成事実をっきだすという考え方
る合意が成立しない場合にはドナウ諸国が協定のイニシ
オーストリア政府が、大国間でドナウの再建問題に関す
四大国間交渉の成り行きに最も警戒心を抱いていたの
末 ベオグラード小協商会議
は、チェコ外相ベネシュであった。ベネシュは、すでに
乃
一橋論叢第106巻第1号(76)
を小協商諸国に示したのに対し、小協商諸国は大国との
ンスの義務である⋮−。我々が次の小協商会議でこの問
協定の成立が不可欠であるとしてオーストリァ政府の提
題を取り上げ、我々が共同でフランスに働きかけること
をしなけれぱならない。﹂
^侶︶
案を拒否した。しかしながら、ロンドン会議の失敗後、
^ 〃 ︶
ドナウ間題に関する諸大国間の何らかの協定成立の可能
相ベネシュはティトゥレスクに対し、次のように述べて
化することになる。五月八日、危機感を強めたチェコ外
チェコ外相ベネシュは、ドナウ五カ国間交渉を優先する
ということはチェコには当然予想されたことであった。
るという現実から、ドイツやイタリアヘニ国が接近する
ニァやユーゴスラヴィァが余剰農産物を犬量に抱えてい
ドナゥ地域の経済的再編成が失敗に終われぱ、ルーマ
いる。﹁今や、ドイツの経済的帝国主義に対する熾烈な
原則が放棄され、大国の援助を利用して独自にドナゥ地
性がまったくなくなるにつれて、小協商諸国の姿勢も変
闘いが始まっている。ド■イツは、チェコと競合してチェ
コを経済的に破壊しようとしている。我々が小協商の同
しかし、ドイツヘ大量に売りさぱくことは、ドイツから
イツやイタリァと協定を結ぱなけれぱならないであろう。
剰農産物を処理しなけれぱならず、そのために早急にド
る用意がある⋮:。ルーマニアもユーゴスラヴィァも余
である。チェコには三三バーセントまで関税を引き下げ
くは経済的利益が政治的利益のために犠牲にされるべき
ことを理解し、我々に援助を与えることである。しぱら
結することに大国は反対できぬはずであるとして、ドナ
小協商諸国は、ドナウ諸国の中で二国間の特恵協定を締
ってはわずかな意味しかもたないと言明された。また、
ツと緊密な経済関係を有していても、それは小協商にと
とすることが承認され、各国がそれぞれイタリァやドイ
ー・プランを以後、中欧の経済問題を交渉する際の基礎
における小協商会議であった。この会議では、タルデュ
機会となったのが、一九三二年五月中旬のベォグラード
らかの手を打つ必要に迫られた。こうした措置を構じる
域の再編成を達成できる望みがなくなるや小協商内で何
大量に買い入れることにつながる。ルーマニアやユーゴ
ウ地域に対して大国が千渉せぬよう公式に要求したので
盟国に要望したいのは、経済的独立が問題になっている
スラヴィァの余剰農産物の販路を保障することは、フラ
閉
(η) クルデュー・プランの崩壊と小協商
たとはいえ、この合意はドナウ地域の余剰農産物間題に
ある。しかし、小協商諸国間にこのような合意が成立し
面での依存度は低く、この面では、むしろドイツやイタ
で負うところの大きいフランス、イギリスに対する貿易
︷竺
有効な解決策を提示するものではなかった。ドナウ諸国
こうした経済的依存関係のずれがもつ矛盾を多国間で包
リァの比重の方が大きかった。タルデュー・プランは、
^50︺
間の特恵関税制度だけでは余剰農産物は消費できなかっ
たからである。ドナウ諸国が通商面ではドナウ外の諸国
活発化こそが最も実際的なドナウ諸国の救済策であり、
際的枠組の中に封じ込めて経済カが政治的武器として利
見は、このプランの実現によって、ドイツの経済カを国
った。また、タルデュー・プランに対するチェコの目論
括的な協定を結ぶことにより解消しようとする試みであ
またドナウの危機的な金融状況を改善するものであった。
に多くを依存していた状況下では、西欧諸国との取引の
五月の小協商会議におけるタルデュー・プランの受け入
レス腱であった経済協カ間題を、小国間交渉を通じてド
用されることを事前に阻止するとともに、小協商のアキ
するものであった。しかしながら、構造的矛盾をかかえ
ナウ五力国協カを成し遂げることで一挙に解決しようと
れと小協商諸国間での経済協カの合意の表明は、同プラ
ンの実現の見通しが暗くなった段階で、小協商の結東を
誇示するものにすぎなかった。
る経済的な依存関係に、政治的対立が折り重なったとき、
括的な経済的再建への希望は費え、包括的な解決をめざ
タルデュー・プランの失敗によって、ドナウ地域の包
ドナウ地域で多国間的経済交渉が下火になり、金融的援
解決を迫られるドナウの農産物余剰問題と金融問題は、
解決が困難になるという事態が生じた。恐慌期に緊急の
そこには、政治的対立が障害となってつねに経済問題の
す試みはそのダィナミズムを喪失していった。経済的再
結語
建を進めるうえで、ドナウ地域がかかえる構造的矛盾は、
つれ、二国間の通商協定を武器にしたドイツが、ドナウ
助のもつ意義が低下して農産物の市場問題が浮上するに
・バルカンヘの経済的進出を遂げ、影響カを増大してい
金融面での依存関係と通商面での依存関係が大幅にくい
3︶
違っていた点であった。小協商の場合をみても、金融面
η
一橋論叢 第106巻 第1号 (78)
くことになるのであった。また、小協商は、その経済的
崩壊を阻止しようとするベネシュの意図にもかかわらず、
小協商内で試みられた経済協カは目立った成果をあげな
いまま経済面での関係弛緩を強めていくことになった。
こうした趨勢の起点として、タルデュー・プランの失敗
は、その後の国際政治の展開に大きな負の遺産を残した
のである。
き§き毫ミー;きω鶉一〇タH竃㌣H8い︵﹄b﹄、と略︶、
︵1︶ 刊行史料としては、﹄迂§∼ミきミ餉き§§㎞§軸ミ暗§
﹄︺ooミ、曽雨曽、︸ oさ b、迂︸︸㌻ 、o、雨︸軸き −uo﹄“ミー 、o,o−、o∼o.
・。自︷ ωoユ鶉︵bb、、 と略︶、bo§§§詩 軋膏ぎ§ミ母§㎞
盲§ミ貴 毫亀−、8や 弓肋9−o ︵bb、と略︶、、ミ舳時s
句良ミぎ§県§砧qミ詩軋吻hミ雷︵、亀q吻と略︶などがあ
るが、bb、は、当該の時期は未刊行であり、b、毫は、
﹄b﹂㌔も、旨qいも、本稿と関連した史料はわずかであ
ドナウの経済連邦問題に関する重要史料を合んでいない。
︸恥ミ﹄uo、“ミ 、b,o−、bへ㎞.︸巨旦岩o餉F−oN︸−o1貝映目斥一■h0曽o、ミ
ωσO−・自昌︷餉片宮匡.勺H里−︼里1 HO舳① O−﹄;旨叫岨ぶ ミミミ昧昌、︸畠ミ 、O、雨・
S茗∼ 、o、雨︸︸ミ 、oミミ■宙O目−Oo﹃1 一〇〇〇い.向■ O顯−自勺冒9 ミ︸oS
、り∼01,O“軸. H岸OくO O㎞−OO. HO①Ol <. <−目聖くO’ ㌧秦O︸、SO母.S
・㌧s︸“、軸軸舳、雨昌− H︸竈〇一﹄﹃^⋮瑚9− H旧ひoo. 冨. <顯目斤E− ミs︸s ﹂s,sミ、s
−︶o︷斥− 肉ミ、母s ミ富 ㌔、軸、o§雨1 −︶曹、o§s、︸軸申“ s ,o、ミ︸o申“
“ミS∼S葛計昌、り、り1、り“卜︸OO餉﹃餌P−ONナく一団<黒ユO斥ざ■一
.、5亘彗↓彗2彗豊二葭葦畠甘昌O心8;昌旦冨監餉寝壱
e“甘.畠ミ竈、O申OO“、り∼い−、O“∼■︸H芭巨叩−印く凹−HONu■<‘■︸㎜片﹃−O斥吋−
ら嘗目一﹄σ−o冒蜆 o胃 ].oωN 0斤 −里一﹁o=伽oom−oく苫一﹄−o−、 吻、ミ軋軌昌 ぎ︸︸“−
○ミ.§艮O§§・<■一−竃仰やご1一S・他に重要な研究と
Oo目σく9一〇ミ一〇一◎胃昌一卜畠O§sき−司ミ、藁ミミざ、雨ミ“
して、オーHO己葭O旨9 卜S、ミざ■Sミミ舳ミ、、∼ミO、宰
札S O軸ミミs− 向ミ﹃喜耐一 〇巨ざ晶9 −o“ω. ﹄. O〇三l Xミ包ミぶ
向ミ“軸ミ、軸. Ωo目ψくo− −oNN. 司. Ω. ︹町H目弓すo−F ooミo彗、s﹄︸os
H“ 匡α勺︷冒o■ H︶雨ミ“肺o“雨 い畠軋o㎞“帖ミ、患専o︸旨札¥ ︷s 軋雨、 二、舳“.
9§亀ミ§軋き雨﹂§Oミ意.9目巨島9昌塞㎝LまN1声−
§邑、砧、弟雨、sひ、叫沖‘ 司﹃閏目片申自H甘陣目−]≦串︷■−−oooω.勺o“o﹃−︵H饒o日o“
一ψoo伽− 雪. ω自目︷す閏目眈眈o目− 、−︺⋮o ∼く−H斤眈oげ印︷“餉斥H︸眈o −ヨ日−︺o目芭目−
H︺︸雨﹄ミ、雨ミo、辻“ホ良雨、 司軸、ミ︸、︸却eoミ ミ舳︷§昌、.−︶串コ自蜆斤曽ρ戸
創o巨庁肋o−−o目>自司o目勺o目ユ片自目“o﹃団H饒目︷目o肩1..﹄︸、雨和、雨∼㎞s、︸o¥雨、
■巴斥里冒−オ嘗目目1自目︷−旨﹃ポ︸OqO自一昌−Oq︷昌ROO目婁嘗冒O色qO﹃
§ぎ“旬§ミ雨蔦LぎN.︵bbと省略︶§ミ§き“意亭
る。東欧の史料としては、昇自庁邑富昌一bo§§雨ミ冊軋意﹄o−
葦奪牢葦pH8ガ筍竃・本稿が負うところの大きい東欧
自目O雪.︵Ψ﹃望昌邑.ω甘OF甘Oq里HFHONα1ω.HNH−一α︷1曽.1﹄.ωO−HαOO’
﹂ミも耐s,o︸辻︷杏 “§ いo. ㌧昌︸、まss“畠、“ ︸﹃moq. くo目 ’く. 団砧目N
諸国の研究書としては、>、o旦彗oく戸o吻弟s臼きき雨ミo−
︵H0o.︶ o “雨㎞︸o−﹄oe雨詩︸¥“ ∼富き、s註︸“註“ 、o、註︸o砧 、灼、㎏−、o“o.
㌔︸討“、O、辻甘杏富 竈軸、§O吊︸ ︵、b、喝1,O∼OO︶.弔﹃顯庁嘗−HOひN.<.ωO]映斥
閉
(79) タルデュー・プラシの崩壊と小協商
、.]Uo自一蜆oげ血 ω白oo蜆“o自﹃o勺嘗勺o−9斤 H旧∼o−Hoいo−、. Ω雨向oき“o¥、雨
ミs∼Ω雨吻雨ミ︸o¥ミー−ト HoNα−ω.㎞−いN.−里〇一自血ωHw里H−耐けく−..︼︺o﹃
]一里Ho川仙自−吊−里目 N冒﹃ω雪目−o﹃自目oq︷o蜆 −︺o目纈目H里目目−ω ︵句oσ﹃一﹄里﹃−
昌顯⋮ Hoωo︶,、.㌧s、雨、s亀、札oss、雨 宙舳∼︸恥昏ミ畠咋価ミ“s軋軸、 ミ雨ミ§︸、、−
︸Oきミ︸︸、“︸雨 、O“01︸O““一 冒﹃蜆Oq. くO目 −. 困OO斤O﹃ 目冒O 内‘
︵6︶<.<旨姜胃一ミ§ーミ〇一弩.企婁>.Ω&彗o昼ミ
︵7︶ <一く巨顯く宵一ミse一きぎ−津﹃一革α㎞一>一Ω&里目oく件 o幸
㌔、“O“ 蜆“﹃.NOO−NO−1
︵8︶くー<ぎ睾貝§S§〇一琴し婁<.男ω片まξ一S.
㌔、臥o♪ 蜆ド﹃.NoH.
O︷“’ 宅. OO卓■
︵m⋮︶ <.崩︸蜆甘ユoキ吋.冬一h辻一−勺一〇〇卓.
︵9︶く.<ぎ彗8§戸きぎ琴.阜筆
缶自創oσH雪■o.富o目o旨o目一 −oooo.ω.ω軌−−ωooooー
なお、フランス”東欧関係の第一人者ヴァンディッチは、
︵u︶ >一〇旦串目oく叫−oミ.㌔、“o“ ω庁﹁N000.<.ωo﹂叫斥−o良一寸、“h“
︵11︶ Ω1句.O閏昌勺訂︼卜S一〇宗一や§o.
未刊行史料を充分に利用してタルデュー・プランをチェコ、
いる。勺一ミ嘗自包︸9一H¥雨﹃§ミ耐ミ県き雨、ミ註O昏向昌急ミミ
︵13︶ く一<ぎ嘗くo■sse一氏曳〇一津﹃一卓αP
眈亭一HOON一く一民︸津ユO岸ざO,9㌻やOON−OOω一
ポーランド、フランス三国間関係の観点から見事に論じて
﹄ミ§O竃∼§IS.弔ユ自090∼εO.OO。勺勺.S㌣竃O。本論文
は、ドイツの南東欧政策を念頭におきながら、小協商に焦
︵∬︶ O■−自ブ甘肋ぶ ︷■Oミ一−勺l HOO■
.︵旭︶ <’<−自芭くo■ 註亀e.軋舳、p 岨片﹃‘ムoN一占ひo−阜NH.
︵㎎︶ <.臼︸眈一ユO斥吋、魯一〇︸、’ 勺.OON.<.国︸眈一ユO片叫一■.−︺O映斥’
眈片H■ N0血■
︵〃︶ くー民︸黒ユo斤メ魯一&ゴ勺一〇〇ω1>一Ω&顯目oく戸h崇、ミ§一
∼雨、o− 閉庁﹃■ 阜NN.
︵16︶>−O暑昌善ミ.ミざ♪琴.S㎞.<.≦畠くP§早
点を当てた点で、いくらか独自の視点を提示できたと考え
︵2︶ 東欧における経済外交の概略として、拙稿﹁﹁独立東
ている。
斐閣、一九八七年 ︶ を 参 照 。
欧﹂の国際関係﹂︵木戸姦・伊東孝之編﹃東欧現代史﹄有
︵3︶ ドイツの新しい動きには、東欧での農業ブロソク創設
の試みへの対応という意味もあった。o・射ぎ頁魯・ミ・一
︵19︶ ただし、ルーマニァの.ガラツィをいわぱ東方のハンブ
○ミ.、、“o“ 閉叶﹃‘㎞N.
行われていた。戸O艘昌勺毒一︷.ミ。一甲o㎞・
ルクとするチェコの案など、非公式なレベルでは、作業が
︵4︶声−﹄−震貝冨■・−富.O−一ω1蟹阜.<1ω急亙ミ、・ぎj
弓、ーひω−ひα.︷.1吊.曽α勺︸目O﹃,S.富.◎.. ω−N︸O−N㎞−.
︵5︶ <.くま芭くo■s富ol軋良p閉9一杜ひ〇一>一〇&固目oく戸 &、一
︵20︶ く一旬︸黒ユo斥ざo、一之、’勺一〇0N−ooo〇一く.宙︸黒ユo斥討 ■一
眈斤H‘ Hooo■
、、“O♪ 餉けHlOOOO.︹⋮.﹄竈−叫“■,急■Oミ’ 宅1 HOO.
㎎
一橋論叢 第106巻 第1号 (80)
U臥打ミーミき♪黒﹃.舳Nふool
︵28︶ <一︸︸津ユ〇一︷㌣o,o幸一勺一0N.く一炭︸黒ユo斥卦■・−︺o映珂
に史料解釈を行い、小国側の考慮を誤って解釈しがちであ
がしぱしぱ示す慎重かつ待機主義的な行動様式を考慮せず
○芦ミ“§黒﹃・s・西欧諸国の研究は、このような小国側
ミ。一やo。ωを参照。小協商側のこうした意図の背景には、
︵21︶ 小協商のこうした意図については、戸O臼旨弓冨一S.
オーストリアー−ハンガリー帝国の再興への警戒心があった。
るo
意味合いの強い組織とを区別していない。チェコが関与し
ズントハウセンは、特恵制度と、関税同盟のような政治的
主張は的外れである。串.ω⋮旦す彗留昌一S。昌、9一ω。宝OO、
であるが、チェコの働きかけを否定するズントハウセンの
フランスがどこまでチェコの主張を受け入れたのかは間題
︵29︶ く一︸︸9饒o斥卦き辻雨§一くー︸︸9ユo片さ■lbo映打§§︸慧ー
掌註軸き勺﹂81
︵22︶ bPや卓墨1<.︸苫まoξ一冬−nきやo.P<・団壱.
ま鼻ぎ■.−︶o穿一ミ.、、ざ♪黒﹃.s.
︵23︶ タルデューについては、−1田串ユ津き富−葛1OJω.ωN一−.
ωご−タルデューは、五月に選挙を控え、個人的野心をもっ
てドナウ問題にのぞんだ。向︸§き一ω.讐ω.
ていたことは、タルデニー文書にあたったバリエティも認
︵24︶Xb\、一ω①ユo日一日P×H×一岩H一Nω十オーストリア
の訴えへのドイツの分析と対応については、﹂b﹂︶ωoユo
めている。−彗ρ目gω彗涼︷一宮−§o.一ω1讐㌣讐σ・
研究に負・つ。崖・ω自目o︸葭o蜆叩o目.§昌・◎・・ω・H阜刈−一︷oo・匡、
︵33︶ 関係各国の対応は、主に、未刊行史料を用いた以下の
オ﹃.娑−﹄軋串bミミミや昂pH−トオ﹃.s少ω一8血ooも富o‘
︵32︶ b貝やさ甲主■﹂b﹂♪ω0H訂μ団o・×〆岩H・畠一
まリ︸ロー×戸暑﹃よおよぴ写.員ω−§
︵31︶ イタリプとの共同歩調をとる働きかけは、﹄b﹄♪ωo−
㌧軋申肉ミミ秦’と略︶
−目.切O勺、顯己曽昌肉チ色PH08.老ゴS少ω18害.︵以下、
ミ雨ぎミミ弟喜ミミきーb膏宍sミミ§向ミミ素トミミ一田p
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︵30︶ タルデュー・プランのドイツヘの提示の経緯は、エb−
貝田P××一Z﹃。全を参照のこと。
︵25︶ く.司︸津ユo斥ざo,1∼ゴolo〇一く一昂︸黒ユo斥メ■一∪o叫ぎ
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ミ.ミざ“眈弐2Is.本稿は、交渉の詳細については未刊
行の一次資料にアクセスできた東欧の研究者に多くを負う
が・このベネシュの報告は・彼とチェコ農民党との関係か
であろう。
ら考慮して、自己の立場をやや正当化したものとみてよい
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−ま.四大国会議に関する報告は、﹂b﹄♪ωoユo貝宙o■
︵44︶ 〇一〇芭H目一〇、.之㌻や−oω一老一−o﹃o里〇一一9oやミゴ甲
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冬。ミニ勺﹂讐﹂宝.タルデュー・プラン提議後の独仏交渉
︵46︶b貝やさo。.ペネシニは、ドナウの連邦はいずれ必要
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︵34︶ イタリァの対抗措置については、∪、O﹃彗員卜富、ミ︷−
は、﹄b﹄加ωoユo貝田p××一オHl−92﹃一8一
︵48︶ bb一や志oo−忘Pヨルダケは、タルデュー・プランに
︵〃︶ H︺b1弓.阜Hひ1阜HOO.
対するチ呈コの婆魏に、反対から支持へと変化がみられる
になるとみていた。、由qμSω“卜OO冒一〇〇ωO。
︵お︶o.o胃⋮一景ミ.;1富。。1声ω冒旨彗馨p§邑.◎.
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ていないことによる誤った議論である。字−oa暮一・9冬・
といっているが、これはペネシュの経済的再建案を理解し
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︵川”︶ >.Ω且芭目oく脾’o註.㌔﹃“o“ ω“﹃. Nψα‘ 岩. −o﹃o円oま9 冬.
ミ.一勺.宝†Hま参照。
︵37︶ く一ωo嵐珂、、−、、“o♪9﹁Ho−−一〇N.
︵四︶ ◎■^o閏H目−一 〇、.oミー−勺.HoooIHoo.
︵50︶ 峯.<芭目斥自’ミ畠E.、雨、o,閉“■ ひNI
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︵38︶ 〇一〇閏H目一暑一&ゴや−oH1一〇ド
︵仰︶ <.ωo﹄叫汗−o辻.㌻、“o“.蜆芹﹃.−oH.
︵付記︶ 本稿作成にあたっては、資料およぴ情報の入手
︵∬︶ ︸1ω口目Oフ嘗=眈眈O目−S1畠■O.− ω‘ HαO・
︵牡︶>1Ω&竃O喜ミミ“§等1Sや4・HO邑彗︸。一魯
に関して、柴宣弘氏、萩原直氏、林忠行氏にご好意
○軌“− ︸. 一いoo.
︵42︶O.O彗冒一〇やミ。勺.H8、カルミは イギリスの文
︵日本学術振興会特別研究員︶
を賜った。記して謝意を表したい。
書に依拠している。
︵何︶ ﹂−︶﹂−u︸ωoユo︸−H⋮o. ︶︵× 2﹃‘ Nω− 岩H. Noo− 老﹃・ ωω
と2﹃。等を比較参照せよ。
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タノレデュー・プランの崩壊と小協商
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