Title ウールリッヒ・ツァジウスの「人文主義的」法律学につ - HERMES-IR

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ウールリッヒ・ツァジウスの「人文主義的」法律学につ
いて
勝田, 有恒
一橋大学研究年報. 人文科学研究, 15: 39-111
1975-03-10
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/9933
Right
Hitotsubashi University Repository
ウールリッ
はじめに
ツァジウスの.人文主義的﹂法律学について
勝 田 有
疸
ウールリソヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 三九
されるのが常道であったからである。ツァジウスは、決してドイツ一円を股にかけて活動はしなかったけれども∩彼
ターにかかれば、・マニスト的かゲルマニスト的かが間題となり、一方からは評価され、他方からは非難ないし無視
の深刻な対立をさえ惹起せしめる遠因が設定された時代であったから、とくに一九世紀の歴史法学派の選別のフィル
と固有法の法源上の二元主義が現出され、以後一九世紀否今世紀に至るまでみられた・マニステンとゲルマニステン
ツ法史の一大転換期にあたり、法学者によって・iマ法的法素材やイタリアの普通法理論が導入された結果、学識法
ど、学者間の評価が余り変らない人もいないのではなかろうか。というのはこの・ーマ法継受時代というのは、ドイ
近世初頭、いわゆる・ーマ法継受時代に登揚した法学者ウールリッヒ・ツァジゥスq三9N艶富︵二9iaい軌︶ほ
ヒ
ツァジウスが尽力したフライブルクの改革都市法典が非常に長い生命を保ったー一七八四年までーこともあって、
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 四〇
︵1︶
の残した少なからぬ著作が、弟子の手によって新らたに出版されたり、全集の形に編纂・刊行されて、︸六世紀以降
︵2︶
の法実務に利用されたり、あるいはやはり弟子のフィヒャルトが彼の伝記を書き上げて、その功績をたたえ、さらに
︵3︶
︵4︶
生前はもとより没後の名声は極めて高かったのである。
しかしながら、一九世紀に入ってからは、そうした過去の名声は、歴史法学の手によって打ち砕かれる筈であった。
歴史法学のテーゼを提示したうえで、古典主義に依拠せざるを得なかったサヴィニーは、過去の・ーマ法に関する一
︵5︶
切の法律学を否定しようとした。ツァジウスがサヴィニーの批判を免れたわけではなかったが、ツァジウスの法律学
の人文主義的な要素が、歴史法学の人々にその価値を認めさせる結果となった。すなわち、シュティンチングは、彼
︵6︶
が・iマ法原典の註解作業で、イタリア人やフランス人を凌駕したと讃めたたえ、ツァジウスについての大部の著書
︵7 ︶
を上梓した。またシュトッベも典雅かつ原典に忠実な法律学の代表者と評価し、最初の・iマ法史学者として位置づ
けた。ツァジウスは小規模ではあるが、ローマ法について歴史的なアプ・ーチも試みていたのである。また・iマ法
の研究やその実務への適用あるいはまた都市立法に際して、固有法︵ドイッ慣習法︶との融合を念頭に置き、場合によ
っては立法において固有法を温存せしめたことが、ギールケやハインリッヒ・ミッタイスなどのゲルマニストの注目
︵8︶ ︵9︶
するところとなった。ツァジウスが固有法に対して考慮を払ったことは、殆んどすべてのドイツ法制史教科書で評価
されている。これらを受けて、エーリク・ヴォルフは、彼の功績は、人文主義的思考方法によって法律学の新しい観
︵10︶
点を作り上げたことにある。彼は当時のドイツにおける法学説を変革し、法実務を思いもしない展開へと導いた。法
律家でかつ人文主義者でもあり、これだけの名声を博した者は多くはない。彼は人文主義的生活感情を法律的思考の
なかへと導入するための道を拓き、法生活の形成に決定的な影響を与えたこの法律家は、後世においても注目する価
︵11︶
値がある、として、ドイツ史上の偉大な法思想家の一人に数え上げているのである。
いずれにしても、ツァジウスをかくも高く評価せしめたのは、彼の法律学における人文主義的要素であることに間
違いはない。それでは人文主義的要素とは何であろうか。またよく用いられる人文主義的法律学とはどのような性格
の法律学なのか。かりに、一五・六世紀の人文主義を古典文化による人間性の再発見のための文化運動とするにして
も、ドイツの揚合にはその指導原理が内的に不確定であり、その性格は単なる兆候程度のものであって、精神運動の
画期的なものとして、明白な形で啓示されたものとはいえない面がある。しかも個々の人文主義者達の具体的志向は
︵皿︶
様様であって、これをとくに法律学という局面に限ってみると、一応次のような概観がなされることになる。人文主
義者は法律学と関連する限りにおいて、古典・ーマ法を出来るだけ純粋に再現しようとした。人文主義者には古代の
原典が最終的な智慧をもつものに思えた。彼等は原典のなかに真理が含まれており、古き・ーマ法に付着しているも
のを取り除き、解釈に際して原典に忠実であることによって真理を習得し得ると考えていたし、史料に自己の考えに
よって何かを付け加えることは不適当としたのである。法律学の領域においてのみ、原泉への呼びかけが、適当な量
の実定的なものをもたらしたのであった。⋮⋮というのは、実務上の祭壇に代って文献学上の権威が君臨することと
︵13︶
なったためである。一方では、実務的、社会的、政治的な法律上の課題には全く触れられることはなかったのである。
以上の言明は、一九世紀のシュティンチングやムーター以来の考え方を代表するものといわれているが、これが支持
ウ;ルリソヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 四一
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 四二
されうる略のかどうか、それはツァジウスばかりでなく、一六世紀の多くの人文主義的法学者全体を検討したうえで
はじめて判定されるア︶とであるから、本稿の範囲を越える課題であるにしても、ここでは、ツァジウスの法律学的思
考が、これにあてはまるのか、どの程度違うのか、もし違いがあるとすれぼそれは何故か、ということを追究してみ
ようと思う。それは人文主義的法学についての概念を修正するための一助となるかもしれない。さらにこの小論を通
じて、法の継受すなわち実務への他国の法の受容・適用、法律学およぴ法学教育の在り方といったことにもなんらか
の反省の材料を提供出来ればと思う。なお順序として、ツァジウスの生涯について最初に記すが、これについてはか
つて小論を書いたこともあるので、概略にとどめておく。
︵14︶
︵1︶ 生前に刊行されたもの
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没後に編纂、刊行されたもの
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ウールリソヒ・ツァジウスの﹁人文主義的し法律学について 四三
大学教授であった甘霧三ヨ三雪ゑお段く・問暑且。鼻が編纂した一五五〇年のリオン版の復刻版︵一九六四年シェンティ
お本稿で参照する全集○需声○ヨ三帥はツァジウスの息冒ξ目d三9N霧一岳とツァジウスの弟子でフライブルク
留旨巨昌αq留﹃ω9﹃強8y
鐸upd置畳gN里ご一夷号塁§宕塁四身。葺亀g言ユ畳。。旨αq碁虜﹂塗管p。§のδ器一。2冨鼻一璽
一橋大学研究年報 人文科学研究 b 四四
ア︶である。O℃o養と略称する、
︵2︶穿耳“<ぎ富三臼く一野<。§⋮H鼠§器目一目毒ρ邑§冥中饗一一一舅β⇒p。ロ旨。冒のα。一5u。。ロ﹃一斜・
﹃89江o旨旨く臼o且ぎ団汁β島εo砕。ヨ℃o田唱曾一■男臼写目8詮井①塁。5N壽一酔。>扇鵯げρφ塁一一・蹟鴇・
︵3︶蜜垢経舞。。ぎ善ユω酔§§魯岩暮浮凶げ蓋互浮護岩露ρ評蚕塁魯円口。瞠︵一Φ﹃>口・。のρσ。籍ρ
一〇ひo。ω〇一窪寓Pなお私法の部分のみを収録し、ミ・国毒一8一が解説したものとして、U霧問器θロ嶺Rω鼠︵岸賊。。算”◎q。=。昌
N竃器藷おコ悶ユ奉霞9窪。n碧箆誉耳①Uo昇8巨嘗身どど這まがある。本稿では主として前者を参照した。
︵4︶ 都市法典編纂の功績によって、没後のフライブルクのミュンスター内の墓碑銘が市長によって贈られている、すなわち
﹁法学者フルドリクス・ツァジウスは、生前あらゆる揚所で称讃され、学問上卓越せる栄誉を担い、フライブルク都市法の
再編成に尽力した。市長はこの素晴しき功績による限りなき名声を記念すべしと命じた。﹂と読める。︵即ω窪暮.冒僻9
N塁ご団国首国9嘗品N目O。。。9言耳。匹R園o昌房≦誘。n雪零訂津一ヨN①一梓巴梓Rα雪園駄gヨ緯δp一〇。鴇”ψ賠ひ京大上山安
敏教授の御高配による︶また弟子のフィハルトも、ツァジウスがドイツはおろかイタリアやイギリスにまで知られ、その卓
越した学間上の名声をたたえている︵くσQ一・甲日該①唇ρN窃一島三凶閏おま貫映国・冒≦05ぼ中勘島自①HO。ωo匡o耳。阜
男。。年甲F誓器富三串N仁頃おま9頓一・ω塁這鴇︸ψ8,︶。またフライブルク市には現在でもツァジウス街の名が残ってい
るし・フライブルク大学の名を天下に知らしめ、当大学法学部の黄金時代を築いた学者として、フライプルク大学では、創
立五〇〇年記念に際してツァジウスの名が高く掲げられた。引用したティーメの論文N騨。。一島仁昌山財器ぎ霞のはア一のときの
記念講演である。
︵5︶ 註︵64︶参照、批判したのはドグマーティシュな面である。 一六世紀の法学改革運動全体をサヴィニーは高く評価する
が時期尚早であったとし、その代表者にはアルチャートとツァジウスを挙げている。くαq一・コρ∼oo奨蒔口ざO。ω。三。算。
α■&ヨ置号①ロ菊8犀ω一目冒一洋①一巴梓05タ>=自こく斜8や$,
︵7︶ ρω8σ訂りO霧98算oαo厩α9錺島昌男8耳呂ぎ一一〇PHHい一〇。象ω・8・なおこの部分でシュトツペは、シュティン
︵6︶ω菅Nけ凝︸N毘轟ω,一墜■重ω号鼠お、o。ω。ぎ犀①α段畠①5㎝9窪男①9婁募器房。訂登押一。。。。ρω・嶺。h・
チングの﹁ツァジウスが有益かつ.健全なドイッの慣習に適合するようなものを・ーマ法から学ぴとることを課題としてい
た﹂︵ω江暮Nぎ中N霧ご即Oo,一ミ︶という叙述をかなり疑問視している。野Pρψ8触>昌戸這・
︵8︶ ○、<,O一①蒔ρOOコ8。n窪ω9鉱冨﹃9鐸b目どω■ひ謎とくに﹁ローマ法が巳08ωOR琶P巳90に適合しないことを認識
し、ドイツ的法関係について独自の対処の仕方があると考えていた点﹂を評価している。
︵9︶ フライブルク改革都市法におけるドイツ法の採用に注目し、これをツァジウスの傑作とする︵世良訳﹃ドイツ法制史概
説改訂版﹄四五〇頁︶。また継受に関連させてのツァジウスの評価については註︵92︶参照。なおこの都市法を傑作とみるの
は皆一致している。国g昌犀①ご◎話=oPoo・図図目h劉≦貯8ぎ5℃二毒ぼ87詳鷺鴇三〇洋o山R20目oFド︾βFψ一〇轟・
目■月三〇ヨρN。鮮閃﹃9げ盲αq、oo,b。ρFω、一く■
︵皿︶ く破一■国臼型塁凶言−国鼻7p三叶’Uβ園ρN■>蝦自こ一8一層ωまドω号﹃&R−内pロ浮Rαq、9︾二〇■一〇8りψ£Oこoooヲ・、①ー
ユ〒目三①ヨρタ>島一一濃ρψま命NMドいずれもフライプルク都市法典の固有法の保持が高く評価される。
︵n︶ 閃・≦oヌO﹃oOo男09訂α9詩巽含R3暮鴇プ目09緯o茜08三〇算P曾︸口自・、這蟄、ψひ陛■︵以下︵oFN霧ごωと
略称︶なお、コシャカーは、フライプルク都市法典をドイツ法とローマ法との幸運な結合と記し、それを可能としたツァジ
ウスのローマ法についての学識の深さに注目している︵コ国o。。9P犀①5国菖O℃帥目コユユ器巴αヨ﹃90閃09“一翠yω・一ぐ・︶。
このようにロマニスト、ゲルマニストの区別なくツァジウスは評価されている。
︵12︶O・寄ε﹃・Uすαq§一一岡。一一二一。一一。ω①畠。⊆ε一一徽翁3一一§ぎ一・浮暴巳弩一一ω・頃N山ミ﹂。Nい・ψ§・
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︵B︶ 客匡3R三ほFじ霧aヨぢ30カg犀冒O窪>三ぎ⑳撃畠Rq三くー≦澤睾げoお一︿9#品冒3ヨ緯δ召一9一器9$−
三簿e厨92唱昌α3ヨ雪凶。・鉱。・99一>3g富ぎ三〇屋自首ω目αQoρ這$■P︵零国,円﹃o一〇”Uす①弩8鎌8ぎ男09け鴇8−
β峠霞・目耳R身ヨ閃ぎ身O︵一①ω国⊆ヨき誌ヨ霧“一塁Oo目目ロロρH目一ミρψ象・︶なおヴィアカーは人文主義的法律学に
ついて、e古事学的、口教育論的・方法論的、㊧体系的の三つのメルクマールを挙げている︵譲一$畠2Pp■○こしo・一総む。
またキソシュのように反バルトリスト的傾向のみを挙げる揚合もある︵Ω峯8F団胃8一島巨島ω錺oご一まρoo・8︶。
・ツァジウスとその時代ー概観1
︵15︶
︵N︶ 拙稿﹁フライブルクのツァジウス﹂一橋論叢四八−四、四九頁以下、およぴ同じく﹁一人の法律家﹂ 一橋論叢六三−四、
六五頁以下。
ウールリッヒ
ウールリッヒ・ツァジウスd三9N鐘拐︵正式にはq母三。島N鐘畠またはd三9誤超︶はボーデンぜー湖畔コ
ンスタンツ民o冨9旨の尚口田裕な市民の子として、一四六一年に生まれた。祖父が非常に敬慶なカトリック教徒でその
財産の大半を教会に寄進してしまったため、名家に生まれながら質素な生活に甘んじなければならず、以後四〇歳く
らいまで経済的には必ずしも恵まれたとはいえない。コンスタンツには遠く九世紀に湖る教会の教育機関があり、そ
の司教座聖堂付属学校で、文法・音楽・弁証法などを修めた。一四七七年にヴュルテムベルク太公工ーベルハルトに
よってチュービンゲンにドイツとしては一〇番目の大学が設立され、フライブルク︵一四五七年︶、バーゼル︵一四六〇
年︶とともに南ドイツの学問の揚を形成することになったが、ツァジウスは一四八一年にチュービンゲン大学に入学
する。この最初の︵後にフライブルクでも修学する︶大学生活については、不明な点が多いが、学芸学部に学び、法学部
には席を置かなかった模様である。彼自身法律学はフライブルクで初めて学んだと記している。しかしその後間もな
く法実務家的な活動を行なっていることから、法律学の講義を聴講したことは十分に推定出来るのであり、しかも当
時チュービンゲンの法律学は、未だ教会法が優勢であり、サヴォイ人やイタリア人の外来教師とともにクリュツリン
ガー︵コンスタンツ出身︶とクラフト︵ウルム出身︶の二人のドイツ教師を擁していたのであるが、ツァジウスはクラフ
トd三9国β津に後年再ぴフライブルクで師事していることからみて、両者の関係はこの時に始まると考えるのが
自然であろう。しかしながら、ツァジウスのチュービンゲン時代の勉学は、余り重視することは出来ない。借金に逐
われる蕩児であったと伝記が伝えているからである。ともかく彼は学位を得ることなく故郷に帰り、両親の浅からぬ
教会との関係にすがって司教の役人に就職した。書記、裁判陪席者などを勤め、一方ではコンスタンツ市の顧問の職
にもあった。大学を離れた年も不明であり、一四九四年にフライブルクに都市書記として登場するまでの時期ははっ
きりしないことが多いが、少なくとも、彼の足跡はコンスタンツにとどまらず、バーデン・イン・アールガウω践碧
首卜碧吸磐、フライブルク、チュービンゲンなど上部ライン地方を中心とする地域に認められる。例えば比較的最近、
︵16︶
バーダーは一四九二年バーデンにおいて彼が作成した公証人文書について報告している。この間より有利な公職を求
め、コンスタンツの市長の推薦によってサン・ガレンに都市書記として就職を願い、あるいはミラノ太公と繋りをつ
けてイタリアに留学する手掛りをつかもうと試みた。これらはいずれも実を結ばなかったが、彼はコンスタンツを離
れる決心をし、一四九一年にはコンスタンツ市民権を放棄する。彼のコンスタンツでの法律事件解決の手腕は徐々に
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一橋大学研究年報 人文科学研究 15 四八
上部ライン地方に知られるようになり、有能な法律家を求めていたフライブルク市の招聰するところとなった。当時
フライプルク・イム・ブライスガウはオーストリアの前衛地α緯R邑o言ω9霧く〇二p昌畠︵く。こ。蕊§邑9︶の重要都市
であり、ハプスブルク家の南ドイツ支配ないし帝国権力の再建の拠点とするためマクシミリアン一世が特に地代・貢
︵17︶
租を免除するなどして援助を行なっていた。そこでフライプルクもブルグンドとの戦に際して國窪3巳β三の形で
借金を行ない、皇帯に協力を惜しまなかったが、その返済に際して銀の価値の高騰に関した返済金額の換算や返済方
法など法律的な問題をかかえていた。恐らく一四九一年にはすでに都市書記になっていたと思われるが、折しもコン
スタンツとフライブルクとの間で係争事件が起こり、彼は精力的にこの間題解決に奔走した。すなわちフライブルク
大学のクナップの鑑定を携えてチュービンゲンに行き、ここの教授の賛同を得、コンスタンツの実務家も動かすこと
に成功した。結論はフライブルクにとって有利なものであったが、コンスタンツの司教裁判所もこれを受け容れざる
を得なかった。この自己犠牲的な活躍が契機となって、一四九五年ツァジウスはフライブルクの顧間の職にありつい
たのである。すでにこの間一四九四年のフライブルクの市民台帳にはツァジウスの名がみえており、以後、一五三五
年この地に死去するまで、フライブルクを離れることはなかった。彼がフライブルクに職を得るについては、勿論経
済的な理由︵窓ま言。β呂。︶もあるが、前々からイタリア留学を望んでいたことにもみられるように、法律学を正式
に修得して学位を獲得し、法曹プ・レタリアの地位を清算することにあったとみなくてはならない。彼は直ちに一四
九二年大学での法学を開始し、熱心な法学徒であったという。フライブルク大学法学部には、当時二名の教会法の教
授のほか、一名の市民法︵・ーマ法︶の教授が在職していた。すなわちチュービンゲンから移ったクラフトであり、彼が
一四九五年にバーゼルヘと転職して後はミラノ人チッタディーヌス一〆巳5留Ω洋註旨5が招聰されている。このミ
︵B︶
ラノ人はヤーソン・デ・メイノ冒ω9審竃曙9︵峯累ー頴一。︶の弟子で、バルトリストではあるが非常に注意深く、
また堕落しつつあるイタリア学風ヨ8津巴8島のなかにあってこれに毒されない正しい法学の在り方を認識してい
た法学者であった。メイノは法律学の新しい時代を予感していたようで、人文主義的法学者アルチャート>呂3器
≧9葺島︵辰露i富8︶も彼の弟子であった。チッタディーヌスの薫陶を受けたことは、ツァジウスの法律学形成に大き
な意味があったのである。しかし彼の法学の基調はそれだけで決定されたわけではなく、もしツァジウスの法学を人
︵19︶
文主義的プ⋮声巳豊の9と呼ぶとすれば、この傾向は、当時南ドイツとくに上部ライン地方を風靡した人文主義の思
潮を受けとめた結果であるといわねばならないであろう。ハイデルベルク、シュトラスブルク、シュレットシュタソ
ト、フライブルク、バーゼルなどを拠点に活躍した人文主義者達としては、ガイラーOo一一Rく■因鉱器鵠訂品、ヴィム
ペリング一80σ≦一ヨ℃ま一ぎ⑳、ブラントωoげ帥暮㌶ロ国声昌儲、ツェルテスOo昌声qOo洋窃、ロッハー一80げピooげ震な
どの名を挙げることが出来るが、彼等は、前世紀中葉イタリアの・レンツォ・ヴァラいp霞窪二拐くp膏によって開
始された新しい知的衝動による探究を受け継ぎ、肥大化したスコラ学を排して人間的理解を求め、抽象を捨てて具体
的な事物を明らかにしようと努め、末梢的な教義学を避けて神の意志の領域つまり道徳の間題に立ち帰ろうとしたの
であるが、その強力な支柱が古典古代研究であった。彼等は既存の権威であるスコラ学を攻繋し、教会の腐敗を糾弾
した。伝統の拘束からの解放という点で、人文主義は宗教改革の先駆でもあったのである。ツァジウスは、フライブ
ルクを訪れたツェルテス、あるいは一四九五年以来フライプルク大学で修辞学と詩を講義した・ソハー、あるいはヴ
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イムペリングと親友関係を保ち、とくに・ソハーの影響を直接受けた。古代愛というものをツァジウスは彼から学ぴ
とったといわれるが、さらに重要なことは、帝国に対する愛国的な情熱をも受け継いだことであろう。・ッハーに限
らず当時の南ドイツ人文主義者達はおしなべて皇帝主義者であった。トルコの脅威、フランスとの抗争、スイスの抵
抗などの外患に対抗するに、統一的な強力な帝国、キリスト教的ドイツ帝国の守護者たるべき皇帝に寄せる期待は大
きかった。教会についても、その批判はカトリックの教義の純粋さを保つための使命感に燃えていた。後等は中世的
世界の現状浄化による再建を夢みていたのであり、それはしばしば結果として保守的な性格を顕すのである。ともあ
れツァジゥスは、一四九六年都市顧問の職を捨て、フライブルクのラテン語学校の教師になってしまう。このような
転職は当時決して珍しいものではないが、必然的に収入減を招来する。ともかくラテン語教師として彼の名声は高ま
り、折から帝国国会のためフライブルクに立ち寄った皇帝マクシミリアン一世︵在位一おいi一蟄。︶は、人文主義に対
して極めて好意的であり、その擁護者でもあったが、ツァ或ウスの功績をたたえ、彼に学位︵ヨ品韓R貰試昌ごを授
与するようにフライブルク大学に勧奨した。これは大学の容れるところとならなかったが、これによってツァジウス
は皇帝とハプスブルク家に対して終生忘れえない恩義を感ずるのである。さらに皇帝はフラィブルクを翌九八年に帝
︵20︶
国自由都市にするが、皇帝とツァジウスとの関係はこれで決定的なものとなった。
しかしながら彼は一四九九年僅か四年にして再び法学生に舞い戻ってしまう。そして二年後にはかつてから念願の
法学博士の学位を取得する。この再度の転身は何に起因するのだろうか。多くの著者はこれを経済的な理由に帰して
いる。なるほどラテン語教師として名声を得たものの、その収入は僅かなものであった。ホイジンハーはエラスムス
伝のなかで次のように語っている。﹁知能的な労働で生きようとする人の立揚というものは、当時かなりむずかしい
もので、しかもいつも威厳を保つわけにはゆかなかった。教会の俸禄か有名人の保護か、あるいはその両方に頼って
生きてゆかねぱならない。⋮⋮出版者が印税を払うのは有名な著者の揚合だけで、原則として著者が受取るのは現物
の著書数冊で万事終りであった。主な利益は或る有名人に対する献呈からくるもので、献呈を受けた人が多額の贈物
をして酬いてくれるのである。﹂ツァジウスは勿論当時はまだ文筆活動を行なっていなかったし、パト・ンというべ
︵21︶
き人ももたなかった。すでに四〇歳の彼には、大学に学ぶ長男に加えて二度目の結婚により都合四人の子供をかかえ、
おまけに交際好きで酒に親しむことが多かったというから、折からの物価騰貴もあって家計は決して楽なものではな
く、市当局からは租税の滞納をせめられたりした。一五〇〇年の初頭には修辞学と詩の講義をして三ニフ・ーリンの
年俸を得たといわれるが、この時は>5留ヨ一ω9震国葺のR即9ゴおという資格であった。彼は恩師チッタディーヌ
スの絶大な信頼を受け、博士になる前にその代講さえつとめたという。一五〇一年から正式に・iマ法法学提要H.一ω、
鴬εは88と修辞学と詩を同時に講義したが、修辞学園ぎ8﹃騨あるいはトピーク目〇三︷は法律学と密接な関連を
鴻つ科目と考えられていた。この年にこの地方にペストが大流行し、大学が疎開したり、また多くの教授が辞任した。
︵22︶
そのためツァジウスも勅法集09賃の講義をも担当することになるが、ペストはツァジウスに幸したといえる。と
いうのは恩師チッタディーヌスが帰国しため、一五〇三年には学生の要望もあって正式に法学提要担当教授に就任し
︵23︶
た。しかも前年には、フライブルク都市書記にも登用されている。彼は今や博士として、普通の書記とは違って権威
︵24︶
ある者として、フライブルク都市法の改革法典と都市裁判所の判決録の編纂を受諾している。このように、一六世紀
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 五一
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 五二
の初頭において、晩学の法学徒ツァジウスも漸く、・ーマ法継受期の典型的な法律家の仲間入りをした。市民法博士
Uogo二£き・であって、大学では年俸一〇〇グルデンの教授であり、大学の法律顧問であると同時にフライブルク
市の都市書記、さらに皇帝の顧問などを兼務して、教育活動に加えて極めて多忙な実務活動も行なってゆくのである。
当時の教授の仕事は、ただ学生を教育するぱかりでなく、大学への訴訟記録送付≧含魯<Φ誘貫身鑛によって法律鑑
定を行なうことが日常化していたが、顧問として個別的な諮間に応ずるほか、さらに立法作業にも従事してゆくので
ある。とくにツァジウスが他の同時代のドイツ法曹と異なる点は、法鑑定のほかに人文主義的な観点からの学問的研
究を行なっており、当時支配的であった・ーマ法の標準註釈書のアクルシウスの見解や博士達の共通意見8⋮昌日訴
o口三〇自88毎菖︵バルトールスやバルドス等の学説︶を部分的に修正したことであり、これによってツァジウスの名が
高く評価されることにもなった。
・を高めている。当時の法律学の講義はいわゆる釈義的で・ーマ法の一章を講義するのに二ヶ月もかかるほど冗漫なも
ツァジウスは教授職を一五三五年この世を去るまで続けており、その独特の講義方法は生前においてすでに彼の名
のであったが、ツァジウスは、学生に実生活に則して法を理解させることに努め、実例を供してユーモアたっぶりの
説明をするなどその明快さは定評があった。法を学ぶ目的について、自身次のように述べている。﹁法律学は宮廷で
証書を作成したり、罪人をこしらえたり、裁判所という泥沼のなかを這ずりまわるためにあるのではない。法学者に
︵お︶
なる目的は、法を判告し、疑問を解き、国を導くことにある。﹂彼は学生には親しく接し、プラトンのアカデミアに
倣って多くの寄宿生を自宅に置き、夜も議論の花を咲かせたという。講義の評判は南ドイッ一円に拡まり、イタリア
やフランスからさえ学生が集まったといわれ、その数は宗教改革や農民戦争の影響が直接およんだ時期を除いて、毎
年一三〇1一八O人程度であったという。彼の学生であった一人は、﹁ツァジウスは誰にも親切であり、講義は及ぶ
ものがないほど雄弁で、まるで魔術のように学生達を魅了した。われわれはフランス、スペインを驚かせ、イタリア
︵%︶
人がほめたたえるような、ドイツ人の教師を持つことが出来たのは、何と幸なことだろう﹂と書き記している。こう
︵卸︶
した評判や、高まりゆく権威とともに、ツァジウスの自負心が同僚の反感をかったこともあったが、彼の性格は生来
豪放・闊達で、義務には忠実、そして多くの人たとの交際も好んだという。人文主義者エラスムスとは、哲学者と法
学者ということで考え方が必ずしも一致したとはいえなかったが親交を続けていたし、バーゼルのアーメルバッハ兄
弟との文通は相当の数に昇っており、フィヒャルト、カンティウンクラ、アルチャート等と取り交わした書簡ととも
に、ツァジウスの考え方を知る上での重要な資料となっている。この点も他の人文主義者と共通している。やがてツ
︵28︶
ァジウスは皇帝の顧向に任命されたが、以後は弁護士的な活動を停止したという。一〇年代後半は、都市法典編纂の
仕事も終りに近づき、また日夜の研鑓の成果である本格的な著作﹃夜の仕事﹄■目号声試2霧の出版︵一五一八年︶も
行なわれたが、ルーターの宗教改革への宣言が南ドイツにも鐡きわたり、ツァジウスもこれを好むと好まざるとにか
かわらず、受けとめざるを得なかった。
当初ツァジウスはルーターの見解を天使の声と聞いた。﹁聖書に還れ﹂という標語は、彼の人文主義的原典主義そ
︵29︶
のものであり、初期のルーターがスコラ学や教会の誤りに対して提した批判には、エラスムスともども賛意を表して
いた。しかしながらルーターが、法制度としての教会や教会法の学問伝統に対して攻撃を開始するや、とくにライプ
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 五三
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 五四
チッヒでの議論展開で彼が教会法に基づかぬ新しい教会を設立するという底意を見抜くと、極度に警戒的にならざる
を得なかった。彼は﹁あくまで教会法を尊重すべきであり、遠い昔から承認されてきたものを暴力によって覆えすこ
とは不正である﹂とルーターに書き送り、ツヴィングリにもその教皇領否認が法的根拠を欠くことを指摘した。彼は
宗教改革者をラインの人文主義者グループのo一一α巴凶富。。ごヰ震震昼菊冨轟鼠の線に押しとどめようとした。ルーター
は世俗の既成秩序を覆えそうとは考えていなかったのであるが、人文主義者は、ルーターの言に刺戟された急進的な
改革者の一群が各地に蜂起するに至るや、宗教改革者を改革者ではなく破壊者との感をいよいよ強くした。このツァ
ジウスの言動はカトリックと改革派との双方から移り気とか、恩知らずとかいわれ、非難されたが、要するに他の人
文主義者達と同様に、あくまで既存の制度を前提とした、漸進的な内部改革を考えていた。こうした態度は結局保守
主義に傾かざるを得ないが、とくにブントシュー一派の農民叛乱によってフライブルク市が直接被害を受けるや、そ
の鎮圧につきハプスブルクのフェルナンド一世に懇願の手紙をしたため、現行秩序の維持、暴力によるその否定を訴
えている。
現行の秩序の守護者は皇帝であリハプスブルク家であったが、それを前提として﹁知﹂の発展向上に期待していた。
この限りにおいて、宗教改革者の見解に賛同した場合があったのである。もっともルーターの論敵エックに提示した
論文﹃エックに対する弁明﹄︾零一品魯8留h。屋δ。冒酔声H8戸国良ご日︵一五一九年︶が、後年編纂された全集にこ
れが収録されていたため、ツァジウスの全集の名は、数世紀にわたってカトリック教会の禁書のリストH昌曾から
︵30︶
︵31︶
消えなかったのである。一見これは、ツァジウスがルーターの説を支持した論文を書いたためと考えたくなる問題だ
が、実はエックの・ーマ法の解釈︵如何なる揚合でも敵との契約は守られるべきか︶を廻る論争である。しかル・ー
マ教会は、まさに同様の誤解に基づいてこれを禁書としてしまった。ツァジウスの息子達は、ピウス四世に、﹁父は
一度も教会の不評をかったためしはなく、神に忠実に召された﹂として、父の全集を禁書のリストからはずすように
請願した。これが効を奏して一五六四年の禁書リストからははずされたのであるが、どうした手違いか一五八九1九
︵32︶
O年の禁書リストでは第二級の禁書として指定されるという破目になったのである。たしかにツァジウスの著作には
︵お︶
ルーターの引用があるし、教会の非に言及した箇所もある。そうした中世的権威の否定につながるような論旨が、禁
書リストヘの復活を導いたとも考えられよう。
ツァジウスは老いたが教壇に立ち続けた。六四歳のとき、領邦君主に老齢を理由とした俸給の減額をやめるように
請願し、結局一五一三年︵七〇歳︶に、今日のエメリティールング国ヨ。暮耳9Qqの権利を獲得した。恐らくこれは、
ツァジウスとハプスブルク家との個人的な恩顧関係と彼の永年の功績とくにフライブルク大学法学部の名を高からし
めたことによって初めて可能なことであったと考えられる。しかし彼自身はこの特権に安住することなく、永遠の眠
りにつく三五年まで講義をやめなかったという。最晩年その教えを受けたフィヒャルトは、その若さに驚嘆したと記
している。ツァジウスは約三十年を過した第二の故郷フライブルクで七四歳の生涯を閉じ、フライブルクの、・ニンス
ターに手厚く葬られている。
彼の息子のヨアヒム冒霧巨ヨは、バーゼルで神学者・教会法学者として活躍したし、ヨハン・ウールリッヒ冒、
プきコdヨ9はウィーンの園9。訂ぎ砕≧とく一N①区睾巴窪になっており、父の全集の編纂も行なった。
ウールリソヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 五五
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 五六
︵34︶
ツァジウスの弟子、あるいは講義を聴いた者で一応名を残した者の数は、約一GO名が数えられる。そのなかにア
ーメルバッハ兄弟、フィヒャルト、ジッヒャルト、、・・ンジンガー、カンティウンクラ、の名もみえる。しかしながら、
彼等の大部分は実務家として活躍した。一六世紀後半のドイツは、彼等に実務家として高額の給与を用意していたし、
・ーマ法継受の浴汝たる流れのなかにあって、ツァジウスの説いた歴史的、内省的な・ーマ法原典研究をさらに押し
すすめ、ドイツにおける人文主義的法学の完成へと努力したものは殆んどなく、むしろ﹁・ーマ法の現代的慣用﹂に
よってドイツの生活を学問化する方向に向かっていったのである。そしてツァジウスの学問の原動力であった人文主
︵35︶
義思 潮 そ れ 自 体 も 色 あ せ て い た の で あ る 。
︵15︶ 本章の叙述は数あるツァジウス研究諭文のなかで、罰ωユ旨Nぎ鱗d三畠N霧帥島、お鴇■αo凄oまρO霧〇三98号﹃
象国≦﹂・ω﹂綾1一鐸蜀ω9量身N鐘5g巳。。g器oo琶一⋮の昌畠臼⇒8鐸馨房昌ω。ξP男邑ど嶺R甲o器痒oー
§。。﹃&ρ一8“・国︵。ヌo﹂ん。。犀ω畠2昏きQ・︾島・ψ踏もひ■α①豊σρ曹。剛剛①呂巨・N震o。u・。ぎ一・凶3山己幹、園葦
一〇お・ω・曲ー轟o。﹂肖・日匿。ヨ①唱N舘言ω些写oぎ目αq引>臣αRO。阜印F望器房三。。ω,㌧一獣yω■Oー器,自o﹃ω。一げ。噂N婁扇
瓢区田器。ごoQ。訂巳島,い睾貸一8どψ軌ー旨﹂肖国83ρd三9N琶島琶ユ︹一霧写。ぎ旨σqo﹃斧器ぼΦo拝<g一器P
一頴ヨダ国訪自ヶ胃戸N器ご辺>U句閃阜“♪一〇〇〇〇〇、ω■ざo。ーM一勢に依拠したものである。
︵16︶ こく呂一9<E号N鐘再鉢ω。ぼ一げ9昌頃区窪一目国品9く<9ぎ幕≡9。旨讐毛巴梓oぢo自お﹃目9同一笥毛騨目一9
弦山聲oげσマ。ヨ。ぎ一一貸一一αQ。︻一p一一。昌く民一&窪§ωp日℃叶α。昌<o茜げ。。・。藍g魯の。N品魯℃。諾o巳一9頓。吸。㌣註H凝鳴壽の①昌
げ旦.:.:.、︵屠oo・ωpq聾N霧一島巴のZo鼠さω3岩占器白目q お象、oo・嵩む彼が学識ある鑑定家であったばかりでな
く、仲介人や仲裁者であったということは自身が書き残しているところから知られていた︵くσq一・い20貸dE3N霧一β
国ぢ問おヨ億嶺R国ロ9き一盤一〇。8︶が、具体的にそれを裏付ける史料は従来殆んど発見されていなかったという。
︵17︶ プライスガウは、 一四六三年以降エルザスと合併して同一の行政区画を形成し、エンジスハイムの園。四日。暮の支配
下に入る。︵薫,切ooヨ〇一ヨ憲即U50お騨巳臣は9畠R<Oaoa馨RH鉱o匡鴇げ9田9σ&o瞬二昌国冨曲号9ヨ凶ヨ一9冒穿げ二昌,
留昌N﹂、P阜○げR旨9島一2閂ω昏図図目︸ψ鴇じフライプルクで訴訟物の価値二〇グルデン以上の係争事件に関
する上訴は、エンジスハイムのオーストリアの国oσq冒o暮に移されることになっており、ハプスブルク家は都市法改正に
ついても干渉している。︵=国⇒03ρN器一畠口昌島閏8まξoqR望器昏8耳<9一踏9一診房ヨぎ這鴇・ω・ひOご
ぺーメルマンスの報告によると、 一四七八年に、オーベルエルザスでは旧来のラント裁判所に代って、﹁近代的なランデ
スヘルの役所﹂が設定されたという。それは三名の貴族と三名の法学識者からなり、ラントフォークトの立合のもと、ロー
マ法によって裁判が行なわれたという。︵切8ヨ巴ヨ帥房輸鉾鉾○;ψqoo■︶
<⑳一>’い§喜く■田。品﹃。暮F田&げ喜段蓼貫。喜導聲臣。屠遇プ一身。扇p善。肘凪馨諭罪フライプ
ルク市についてみても、すでに一四五六年頃、アルベルト四世大公が、大学の設立をする一方、ツンフトの合併、市内を六
つの行政区に分け、ラートの数を二四名に制限︵貴族六名、商人六名、手工業者一二名︶した。︵円ω。耳。ヨ葺閏器ま仁お
ぎ閃器ゆ茜窪日器の①言窪d奪αq①げ目αq。pO島〇三〇90=区切8。ぼo一げ巨中岸。一言お一〇。誠讐ψ卜。ω︶
︵18︶ ヤーソン・デ・メイノ︵三蹟ーむa︶はピサの法学者。従来のイタリア法学のもつ無数の法学説を整理して、その諸結
論を明確な形で提示し、煩環な学説引用の弊を除こうとした。他面において独創性には乏しく劉窃の非難も受ける。また鑑
定料の引上げなどは法学者の地位向上に貢献した。彼による学説の整理はイタリア法学の新しい展開の基礎を形成し、弟子
アルチャートは人文主義法学の一翼を担うことになった。ap≦讐ざ“雷。E。算。畠¢ω.σ、凱ω9曾菊9葺の時旨三馨巴巴言5
<一㌧励一一〇︶
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的し法律学について 五七
︵19︶ 例えぱ甲ω昌ヨ虫巳3U器名鋒震o言洋①ポ犀R’一8ρψ鴇高中=■ψ畠O融■を参照。
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 五八
︵20︶ノNαQ一・い園。。。ゴU一。同ヨ。目巨σqα8⊆﹃一9N婁屋N信ヨ冒品翼R貰一冒目段﹃9一︷pδR7n舞冒≡目一一N﹂■畠■ρ
Oげ震旨o言︸Z屑国q■卜ooo”ψ一ホh■
︵21︶ ホイジンハー・宮崎信彦訳﹃エラスムス﹄、三三頁以下。
︵22︶ 日買≦魯≦£︸目名幹躍区一霞一巷昌α雪斜卜。壁>ロヰ這9”ω■鴇臨、
︵23︶ 裁判所書記の俸給がいくらであったかは不明であるが、教授としての年俸︵一〇〇グルデン︶より遙かに高額であった
ことは明らかである。例えば一五二〇年代エンジスハイムの顧問は二〇〇グルデン、刀ンティウンクラはフェルディナント
一世の顧問として五〇〇グルデン、後年息子の冒ぎ昌昌d,N器ごωはカンツラーとして二〇〇〇グルデンを得ていた。特
もつ.一とは当時の大学教授にとって是非とも必要であったし、このこととツァジウスの法学の性格とは無関係とは思われな
に一五〇〇1三〇年にかけて、南ドイッ銀鉱業の発展によって生活費が著しく騰貴したといわれ、こうした実務的な職業を
い。︵<αq一・ま幕身豪∪凶島9爵一①⊇8d﹄鐘5。。●§h碁守舅。一塁馨ωう費9ψ。。δ
︵餌︶ ﹁私、皇帝法の博士ウールリッヒ ツァジウスは、本書面によって左記の件を承諾致します。
も私を都市裁判所書記におとり立てになり、高額の俸給を下さるという恩恵を授けられました。このことにつきしんじんな
フライブルク市の、高貴にして、博識ある、思慮深い市長並に顧間の方方は、とりわけ私に御好意を寄せられ、思慮深く
を受けましたからには、ここに記しますように主旨を帯して、方方共共職務に励む所存であります。
る感謝を捧げるのはもとよりのこと、カの及ぶ限り職務に忠実なること、ゆめゆめ忘れまいと念じております。かかる御恩
すぺての弁論や判決、それに関しての上訴の有無、その結論を、今後、裁判官への教示や同旨事案の参考に役立てるため
に、記録致します。更に、フライブルク市の諸慣習、制定法、諸法を、皇帝法”成定法を参照しながら、裁判所に必要な法
書の形に整理します。これら二つの法書によって、裁判官は係争事件に際して、その疑間点を解決することが出来る筈です。
加えて、私は御好意をお寄せ戴いた方方の恩義に報ゆる博士でなければなりません。そこで私が必要な揚合には、無報酬で、
文書・口頭による御諮問に応じます。出向いて弁護もしますし、普通博士達の行なうことでしたらなんなりと致します。た
だ遠出の場合の経費は別とし、それ以外のものは頂戴致しません。
私は方方に博士としての地位をお認め戴きました。博士たるものは普通の書記よりは高く格付けされるぺきものでありま
す。博士であればこそ、上記の一ぢの法書の件も気軽にお引受けしたわけです。そこで、特別の御配慮を以て、私が全部の
裁判に臨席しなくてもよく、全裁判についての精確な報告書を御用意願うか、二名の有能な代理人を任命して戴きたいので
す。勿論・特に重大な事件や裁判官が事の次第によって熟考を要するような際には、私がいなくてはなりますまい。
私が顧問や裁判官の方方のお役に立つことが、私の意思であり、希望であります。私は職務を庁舎の内外で果します。裁
判事件であれ、契約であれ、婚姻に関する間題であれなんでも結構です。これらのことが私の生き甲斐なのです。
ここに正式な文書とレて、私は方方にここに私の印爾をもってしたためます。一五〇二年聖マルチン祭後の月曜日。﹂︵名o−
隼め口巳ざ昌げ目o茸Uo・N謹,︶なお都市書記の業務についてはO■国9σqΦ5∪一Φ8α≦oω巳①58ゴ①昌Oo富自錺oぼ鉱げR一日冨一﹃
叶o一緯oび一〇ひρψ一鼻博中
︵25︶ 名o一抄O琴=9げ9ダψま。
︵26︶ ツァジウス七〇歳の頃の弟子O町韓名げ<9国昌窪σ臼瞬のツァジウスヘの弔辞。︵舅oFN霧言900・弓︾≧一ヲ一〇。︶
︵27︶ 例えぱアルチャートは次のように記している、=<言︵”N器εω︶昌沖三ロ8ゴω<=9霞㌧u。o島ρ三$ヨ雪巴夏貫ぎロ緯・、.
︵ooユ暮N冒σqいρ阜園≦、ンの・まい︶。そして、ツァジウスは自らもoポ旨ヨ問ユ巨茜窪。。一>8量目置匙江霧・、.と誇り
︵日Z。ヨρN器凶島包ム甲oぎ目中oD・旨︶、大学法学部委嘱の法律鑑定料を独り占めにしたことから、彼の講義開始につき
ウールリソヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 五九
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 六〇
﹁大学の十五分﹂を一分でも過ぎるのを監視されたり、−旨9N器ご昌8訂ヨo器①仁三<9簿鉢05、、といわれたりもした
︵目一一〇日ρN霧ごωF男3陣σ蛋おω・ま,︶。
︵28︶ 書簡は○鷲雷o葺三ρ<o一・ダ及ぴ重要なもののみ国・∼<oFOま=窪ど3に集録されているが、その総てを網羅し
ていると思われるい>・困。器9qα巴﹃一9N器嵩国覧毘器鼠く冒ou。器貫鼠讐器3&匪日8℃∈ヨ蜀翼を見る機会は
なかった。
︵29︶ エラスムスは、真の哲学く。3喜ぎ8覧一笹は、ソクラテス、プラトン、キケ・、セネカ、教父の教説そしてキリスト
の教えにあるとし、あらゆる人文主義的原典解釈を利用して、キリスト教を幸福説的道徳論に希釈しようとした。︵O・園一“
叶R︸ψ奪N’︶
︵30︶ ○℃oβい<’8一、い鴇−鴇P
一雛。。、
︵31︶ノ、σq一・ρ団。畠。5u。昇。・9①一鼠ω8昌旨匹曽おω。ぼ障窪窪︷自窪3昌。階9臼一一・島8のα。ω一動一昏旨⋮畠。ヰの’ GNρ
ψoooo中
︵32︶ Pω9ぎび帥・勲ρ勉ψo。。h・最初にツァジウスの全集を指定した禁書リストはご畠突目8εヨ9一58三5
軌Pであった。
︵33︶ く⑳ピ切oo一︷oさ鍵p。○こψ一〇頓融■
︵34︶ 田・巧ぎ8吾o嶺・Uすω9巳R︿o昌dぼ9N霧冒辞お9の詳細な研究がある。
︵35︶ <αq一■≦一暮oびoお”p、勲○こω,OO矯
ニ ツァジウスの法律学のもつ諸要素
一 人文主義思潮の影響
ツァジウス法律学の特徴は、一言でいえば、﹁人文主義的﹂であるといわれるのであるが、この﹁人文主義的﹂と
いう意味は、法律学に投影された場合でも必ずしも明晰とはいえない。この点については後に記す機会があるが、彼
の法律学に人文主義的な特徴といわれる諸点が具体的にどのようにあらわれているかを見てゆくことにする。
ツァジウスは、その基本的態度を、一五二六年に出版した冒琶下9島冒冨oo5⑳巳碧霧の序文で、﹁私は、法文の
︵36︶
純粋な原典にのみ依拠し、そのほかには法規と自然に基礎づけられた理性にのみ根拠を求めるという.一とを公言す
る。﹂と記しているが、これが、まさに人文主義の影響を受けた彼の法律学の基礎命題と考えられる。原典尊重とい
︵37︶
うことから、彼の有名な反バルトールスあるいは反アクルシウス的な発言が聞かれることになる。﹁バルトリスト達
よ、この世を間違いで満たしてみよ。⋮⋮お前達はしらじらしくも不正を正義と称して、善良な相続人の権利をとり
あげている。﹃悪をよぴて善となし、善をよぴて悪となす﹄とイザヤ書にあるとおりだ。間違いだらけのアクルシウ
スに頼って、法、権利、衡平、学問、理の一切を犠牲にしている。⋮⋮法とは公正な術などとは知るまい。お前達は
︵謁︶
ユダヤの言葉そのままだ。﹃汝等は風に逐わるる水なき雲、枯れてまた枯れて根より抜かれたる果なき秋の木なの
だ。﹄﹂そして﹁この野蛮なるもの︵註釈や註解︶が、古き良き・ーマ法の幹に蔦のようにまつわりついて覆い隠して
しまっているから、これを根こそぎ取り除く必要があるのであり﹂、﹁まさに今学問は、われわれに対して口汚くのの
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 六一
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 六二
︵39︶
しるバルトルス、バルドスやそうした無学の連中と戦うことが急務である﹂とエラスムスに書き送ったのであった。
原典を汚す註釈、註解は、彩しく、ために多くの害毒を生み出している。すなわち﹁多くの法律があると悪習を生む。
ヤ ヤ
医者が増えると病気も多くなると、ソクラテスは医者と裁判官が増えないように配慮したというが、この考えが正し
いことは・ーマの法制史も物語っている。註解の氾濫によって弁護士の手練手管のみが蹟愚した。著作家が新しい考
、えを付け加えると、弁護士に法を曲げる機会を与えることになる。この悪徳漢は裁判所を澄し、裁判官を嘲笑し、平
和を乱し、国々の秩序を覆えそうと企てる、神と人々にとって呪わしい存在なのだ。﹂とし、さらに﹁長すぎる註釈
は短くすべきである。﹂と警告する。法文や註解は出来るだけ簡潔に、法の真の姿を容易に理解出来るようなものに
︵㈹︶
とどめるべきであるという主張は、彼自身の註解において実行されている。原典を起点としながら、スコラ的な議論
の積み重ねによって肥大化してしまった学説を、原典に則して比較的単純な形に復元した例はいくつかあるが、例え
ば過失8ぢ卑について、バルトールスが、最重過失から最軽過失まで五段階に分けたのに対し、これを重過失ρ
︵41︶
﹃訂と軽過失o﹂o≦ωとの二段階で充分であるとして、修正しているし、同様のことは、ヨ①旨旨辞ヨ営言ヨ一ヨ需−
貝ごヨについても行なっており、原典に依りながら単純明確な法理を導き出そうと努力したのであった。このような
︵ 昭 ︶
態度は、フライブルクの立法や法学教育の方針においても貫かれてゆく。しかしながら、原典のみに依拠し、これに
加えられた従来の註釈、註解の類は、すべて誤謬として排除されたであろうか。少なくともこれらのものは当時権威
ある学説として君臨していたのだが、それらについて、﹁権威ある学説についてアリストテレスは学徒はこれを信ず
ベき義務があるといい、セネカもこれを神の栄誉と評価する。しかしながらその伝えられた学説が真実を伝えている
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
限りは固執されねばならない。﹂﹁かかる権威が明らかに誤っている揚合、その名声を恐れることなく拒否するのであ
る。プラトンは私の友であるが、プラトンより真実を愛するという言葉がぴったりする。﹂そして、﹁アクルシウスの
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
註釈やバルトールスの著作を頑強に弁護し、それから離れようとしないことについて、それらのものが法の真理を含
むことが完全に明らかである場合には責任を問おうとは思わない。多くの伝統的な学説の行き詰りや不毛さはなんと
邪悪な有害なことだろう。この伝統に固執し、そのために真実を有する生きた原典を無視するという精神はこり固っ
てしまっている。⋮⋮⋮われわれも誤謬から免れているなどといおうとは思わない。すべての人間は誤りと誤った結
論を免れられない。これはすでにキケ・がいっていることである。それ故私は以前からの権威ある人々の学説から滋
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ハ ヤ ヤ ヤ
養と活力になるものを引き出し、それ以外のものを避けるのである。⋮⋮今日法学教師が何か重要な寄与をしようと
するなら、註釈や多くの野蛮な無用なそして愚かな伝統的学説に盲従することなく、法の真実をより深く認識しなく
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ
てはならない。⋮⋮全力を尽して、偽造されていない︵純粋な︶原典を解釈し、註釈や註解のなかからは真に利用し
︵43︶
うるもののみを選び出す人こそ、法の真の解釈者であると思う。﹂︵傍点筆者︶
,このようにツァジウスは、アクルシウスやバルトルスの学説を権威としてこれに盲従することを厳に戒めるが、一
方では、それらを総て否定するのではなく、法の真実に適っているものは認めている点に注目しておく必要がある。
そしてこの法の真実の解釈は如何にして可能となるのかが問題となる。これについてはまずすでに記したように﹁原
典法文﹂と﹁理性の根拠﹂とが、唯二つのモティーフと考えられる。
註釈・註解を排して原典法文を直接に解釈するということは、当時の法律学の状況からみればきわめて異端的であ
ウ﹃ルリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 六三
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 六四
り、まさに人文主義的と名付けられる新らしい法学方法論の最も重要な要素である。すなわちイタリアのアルチャー
トによってフランスのブールジュに言語学的原典研究が導入され、ブールジュ学派が形成されるに至るが、このフラ
ンスでの人文主義的法律学は、イタリア学風日8一室野島に対応させてフランス学風ヨ畠鳴臣2ωの名で呼ばれ
ると同時に、彼等の用いたラテン語が中世的な﹁俗﹂なラテン語ではなく、古典的で典雅であったが故に、典雅法学
色品婁富冒冨嘆巨o旨とも名付けられるのであるが、このいわば発展した段階での人文主義的な法律学にあっても、
原典主義は終始中心に据えられている。
この原典中心主義ないし原典純化主義にそったツァジウスの業績は、有名なω号o鼠区ドU軽39お一窓ご誘
である。これは、ポムポニウスの・ーマ法史に関する法文についての註解であるが、この仕事について、彼自身ある
献呈の辞でこの法文の解釈は、すでにアクルシウスが註釈の形で行なっており、自分の解釈は、森に木を持ち込むよ
うに思われるかもしれないが、﹁アクルシウスは、僅かの説明しかしていないし、注目すぺき点を見逃しており、僅
かの点についての確証を付加しているにすぎない。アクルシウスは、歴史的事件の真実性と関連性、さらに古い慣習
から直ちに解明出来るようなことも未知のままに放置していたためである。﹂として、アクルシウスの非歴史性を指
摘し、アクルシウスが看過した点を白日のもとにさらすことが、法の起源の解明に通じ、市民法学の初心者に、法源
︵嘱︶
や法の創造者とのかかわりをもたせることに役立つと考えている。ツァジウスが、全体としては決して多いとはいえ
ない註解作業のなかでこの・iマ法の歴史それ自体に関する法文の註解にとり組んだことは人文主義的法学者として
の重要な指標であるといわねばならない。彼は・ーマ法についての歴史性を具体的に把握し、・iマ法史の発展の重
要な原理すなわち厳格法から衡平法への展開を把握することも出来たし、また広い視野から、・ーマ法が継受された
事実をも明確に認識することにもなった。では彼は、・ーマ法の歴史化・相対化を完全に目指したといえるであろう
か。
・ーマ法原典の歴史性を完全に把握するために、原典法文を徹底的に究明するためには、極めて厳絡な言語学的手
法による研究が必要となる。その典型はフランスの典雅法学にみられるのであるが、すでにツァジウスの同時代人で、
彼やアルチャートとともに、人文主義法学者の三羽鳥と謳われたブダエウスO巨一Φ一巨島ω民器5は、この言語学的
な・ーマ法研究を行ない、すでに成果を挙げつつあった。ブダエウスの方法について、自分の方法とは異なることを
明言している。﹁ブダエウスの労作は、私にこの企画を止めさせるものではない。われわれ二人はそれぞれ違った方
法によ喝異った企てをもっているからである。ブダエウスは豊かなラテン語の知識を有していると一般に信んじられ
ているーもっともエラスムスにいわせるとそう大したものではないそうだが。私は、制度、時代、役所、著作者の
歴史を説明し、同時に私の職業であるところの、法の真実を教えることを機会ある毎に意図しようと思う。⋮⋮われ
われ︵ブタエウスと︶の間には、ピラーモスとティスベー︵バビ・ンの相思相愛の恋人達︶の間にあるより一寸ばかり厚
い壁があるにすぎないのだから。﹂と述べて、文法学者としてのブダエウスの仕事を充分に評価し、その基本的姿勢
︵婿︶
における共通性を認めながら.言語学的厳密な分析を避け、法律家的な原典解釈に留まろうとする。ここに、ツァジ
ウスの人文主義法学の一づの限界が表現されているといえる。立入った間題は後述することとして、ここでは、ツァ
ジウスが厳密な言語学的手法とは一線を画そうとしていること、したがって・ーマ法原典のもつ歴史的相対性につい
ウールリソヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 六五
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 六六
ての認識の徹底化には進みそうもないこと、そしてこれとは裏腹に、・⋮マ法原典の絶対性を前提としてゆくことを
指摘するにとどめておく。
︵妬︶
ツァジウスは、・ーマ法原典に矛盾8昌#畳無暮窃は結局はないのだと考えていた。この問題について、矛盾を解
決する揚合、学問的洞察が第一なのであり、言語の組み合せを根拠として︿言語学的な分析﹀議論を提起し直ちに武
器に訴えるのでなくて、まず最初は真の事実関係に基づく事態と法の理性に従って検証して、何かが隠されている固
有の核心に関心を向けるようにする︿法律学的洞察﹀。そうすることによって、一見矛盾とみえるようなものも解決
される、と説いている。このように、ツァジウスは言語学的な解釈よりも法律学的解釈を重視しているのである。
︵静︶
ブダエウス流の厳密な言語学的手法は、ツァジウスのとるところではなかったが、こうした純人文主義的な方法に
対しての批判は、こうした新らしい方法を初めて法律学の原典に適用したといわれる・レンツォ・ヴァラにも向けら
れ、とくにその厚顔無恥の批判過剰や尊大な自信は許せないと考えた。ヴァラは、中世イタリア法学者を越えて、キ
ケ・など一部を除いて古典時代の偉大な法曹を批判したし、キケ・が三日間で裁判官になったことをひきあいに出し
て、三年もあればアクルシウスより立派な註釈書をものすることが出来るとうそぶいているが、これはもってのほか
のことであって、大体キケロがどのくらい法律文献に通じていたか、若いころからスカエヴォラに師事していたから
雄弁家の場合と同様、法学でも傑出した存在になり得たのである。ところがヴァラ自身は文法学には造詣が深いが、
大量の法学文献に接していない。彼が法学全体を前進させることが出来るか、一定限度の寄与をなし得るか、どち
らが正しい判断だろうかと問い、ひるがえって、﹁アクルシウスの誠実な究明は、たとえそれが確実なものでないに
︵娼︶
︵49︶
しても、問題を解く鍵を与え得る﹂とし、人文主義的なヴァラよりもむしろアクルシウスを評価さえしているのであ
るo
ツァジウスの論述にはしばしぱ古代の哲学者達の著作からの引用がみられる。ソクラテス、プラトン、またアリス
トテレスの名もみえるし、キケ・やセネカなどかなりの数にのぽるが、その引用のしかたは、原典法文の揚合と異な
り、単に人名もしくは著書名を挙げるだけの簡単な揚合が多い。とくにプラトンとキケ・の引用に出合うことが多い。
この点にエラスムスのストイック・プラトン的理念の影響をみることが出来よう。ゲルハルト・リッターも、ドイツ
の人文主義者の分類に際して、エラスムスとツァジウスさらにピルクハイマーを加えて、普遍的な人間信仰とストイ
ックなキリスト教とを完全に融合せしめたグループと看徹している。しかしながらツァジウスは、同時に法学者であ
︵50︶
り、しかも法実務を重視していた︵あるいはせざるを得なかった︶ことが、エラスムスをして、ツァジウスの著作
い=2ぼ蝕98について失望させたのであろう。この著作が公刊されたとき、その神学的な面、哲学的考察の浅さな
︵51︶
どを娩曲に指摘し、﹁君も所詮法律家なのだ﹂とエラスムスはツァジウスに書き送っている。原典への対処の仕方も、
他のいわゆる人文主義的法学と較ぺれば純言語学的古典研究とはいい難い。ツァジウスが一六世紀初頭の実務的法律
家であったことは、彼の位置をかなり中世イタリアの法学者へと近づけることにもなったといえよう。
二 伝統的な法律学の方法
六七
ツァジウスの法律学が、元来は伝統的な方法に依拠していることは、 彼の学歴からみてむしろ当然であろう。 彼は
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 六八
チッタディーヌスの教育をほめていたが、チッタディーヌスをはじめすぺての教師達は、バルトリストであり、彼等
が教えた法律学はいわゆるヨ8淳巴一8のであった。しかも人文主義的法律学といっても、一六世紀の初頭において
は、確たる方法を確立していたわけでもなかった。むしろツァジウスの世代の法学者が、新しい方向を見出すべき、
あるいは見出す可能性を有していたというぺきであろう。ツァジウスの業績のなかで、スコラ学的な傾向が非常に強
く出ている例としては、二つの例を挙げておこう。
︵52︶
第一は、著作として一五〇八年に公刊された処女作ともいうべきもので、﹁ユダヤ人幼児洗礼に関する問題﹂とい
う〇一β窃鉱9窃である。この問題は、単なる仮空の設問ではなく、皇帝とプファルツとのフェーデ事件に関連した
︵53︶
フライブルク市が捕えたユダヤ人父子をめぐる実際にあった事件についての論究である。フライブルク市は身代金を
持参させるためにユダヤ人の父親を一応釈放し、身代金持参の際に人質である息子を返却するという契約を行なった。
しかるに、息子は自ら望んで改宗し洗礼を受けた。キリスト教徒となった息子を異教徒の父に返却することは最早出
来ず、そうであるとすれば契約は無効となるのか、という問題であり、当時の神学者・法学者達の間に論争がまき起
っていた。ツァジウスの詳細な論述の骨子を追うと、この問題に対して、まず﹁異教徒の子供が両親の同意なくして
洗礼を受けることが出来るか?﹂と間い︵曾昌”咤霧駐。︶、親子関係は本来神聖なものだが、一方が改宗すれは解消
可能で、父権は最早及ぱないこと、幼児の洗礼は洗礼父の意思表明のみで有効であること、ユダヤ人は・iマの奴
ヤ ヤ ヤ
隷ではないにしても、皇帝の︵プファルッ伯のではない︶家僕であるため権利をもたぬこと、父権の濫用︵この揚合は
洗礼を妨げること︶は息子の解放を強制することになること、などの諸点を挙げて、この洗礼が有効であることを論証
し、第二設問﹁洗礼を受けた幼児を父が取戻せるか?﹂では、満七歳以上の幼児には充分な意思能力を推定出来る
︵法律行為の問題ではなく、改宗することについての︶とし、また子供については、不当利得の揚合を除いて、何らかの
給付の義務を意味する自然債務は成立しないとする独自の見解を提示している。これによって身代金の返還が不要で
あることを導いているのであるが、この自然債務論はアクルシウスの説に反するものである。第三の設間は﹁身代金
支払後の息子の引渡し契約が、洗礼によって無効となるか?﹂であるが、この点については、まず六三三年のトレー
と
い
う
教
会
法
を
根
け
た
息
子
を
異
教
徒
の
い
こ
と
を
︵論
5断
4し
︶、契約は
ド 公 会 議 議 決
拠 と し て 、 洗 礼 を 受
父 の も と に は 返 さ な
履行されないのであるが、そもそもこのユダヤ人は、プファルツ伯と共に皇帝に敵対したのであり、明らかに敵対し
ている者との契約を遵守すべきかと問い、敵対関係者間の契約は軍司令官の個人に関する認可せざる契約を守ること
は法的に義務づけられていないことを、ウルピアヌスの法文によって根拠づけ、さらにアウグスチヌスやキケ・が遵
守を論じている敵との契約はいずれも、平和や停戦などの公的な問題でありしか愈軍司令官によって締結されたもの
である点も付加している。しかしながら、この第三の論点は多くの問題点を含んでおり、例えば洗礼を受けたにも拘
︵55︶
らず息子を返還するということを洗礼に際して契約していたような場合である。しかしながらツァジウスは、そのよ
うなことは不道徳であり、この契約は無効であるとしている。確かに当初の契約は履行されないのであり、フライプ
ルクにとって有利な、しかも教会法に反しない結論を導くのは無理な点がある。ツァジウス自身も第三点の矛盾に気
がついていたから、少なくとも様々の論証がある点を認めつつ、最後には権威的に、疑いあるケースについては、信
︵56︶
仰と魂の救済.自由に則した判断に従うことが出来ると結んでいる。この論述は、形式面からいって、スコラ学の典
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 六九
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 七〇
型的な◎轟霧試oの様式に従っていること。教会法源、神学学説を引用していること。極めて分析的な論述を行ない、
彩しい脚註を欄外に記していること。教皇や神学者といった権威に依拠した判断を行なっていることなどから、伝統
的な論証形式によっているといえるであろう。しかしながら、問題が神学者の論争点にかかわっていることを考えれ
ばこれも止むを得ないことかもしれないし、アクルシウス説の拒否、キケ・やセネカの引用、論旨の単純・明解など、
ツァジウスの特徴の片鱗を認めることは勿論可能である。
ツァジウスの法律学には、かなり後の時期においてもスコラ的な性格を色濃く残している場合がある。一五二六年
刊行の冒芭一①9臣巴お霞巴。ω⋮に収録された﹃バルトールスおよび共通意見とは異なる類についての四つの態様﹄と
いう論文では、﹁類﹂αq撃島に関して、釈義的、分析的、総合的な論述に加えて、教義として﹁代替物﹂お設琶讐玄−
︵57︶
一Φのの概念を提示している。
︵58︶
類の第一の意味は、質や正確な名称では表示されない不特定な表象であって、例えば﹁市民法﹂という類は、法規、
︵59︶
勅法、慣習、民会議決なのか不明である。第二の意味の類は﹁性質﹂と同義であって、種の語をあてている揚合もあ
る。第三は、分け合うことの出来る性質・85∈三8σ一房ρ轟一一5ω98区§oを指し、しかもそれは数・量・重さ
によって測られるワイン・油・穀物・金銭などについていわれる。この類は、分け合うことの出来る性質によってな
︵60︶
りたつのだが、それはそのもののもつ働き身目臨oによっている。そこでツァジウスは、∪・一N﹂﹄﹂の法文を根
︵61︶ 9 ︵62︶
拠として、この第三のカテゴリーに属する物に対して代替物の名称を与えている。基本的に原典主義の立揚に立ち、
新しい学説の創出をなるべく制限して、煩雑な註釈・註解の集積をくずそうとしたツァジウスとしては珍しいことで
︵63︶
ある。このツァジウスによって作り上げられた代替物のドグマは、一九世紀ドイツにおいて、サヴィニーが批判的で
︵桝︶
あったにもかかわらず、ドイツパンデクテン法学の採用するところとなっている。もっとも、この点に着目していた
のはツァジウスが初めてではなく、アクルシウスもバルトールスも指摘はしていたが、彼等の類についての概念が極
︵65︶
めて多様であり、とくにク・ーズアップされなかったと考えるべきであろう。その意味でも、ツァジウスが註釈.註
解の整理を行ない、単純明瞭な体系的なものを作ることを無意識に行なっていたということになる。第四の類は、そ
の性質を多くの種。。鷲。誘に分け与えるが、それ自身は不特定であり、より詳細な区別が種について必要なような揚合
であり、このような類が債務の対象となり得るものと考えている。第三の類については、分ち合える性質が付着して
いるある種が債務の対象となるのであって、類としては債務の対象たり得ない。第四の意味での類は、三つに分類さ
れ、σq80声σq雲①養ぎ一般的な類のみ、例えば人間が償務の内容たり得る。その他の磯。昌。﹃帥鴨房同pまH9いαq。昌。﹃斜=の,
︵66︶
普轟︵生きている存在とか要素といった類︶は、債務の対象とはならないのである。こうした詳細な分類は、確かにそれ
以前の学説の煩破な分類法よりは遙かに明確であるが、その論理の導き方自体は伝統的なものによっているといえる。
七一
かなり精力的な実務活動を行なっている。現
ただ、この議論においてもバルトールスを批判するという点とともに、代替物概念の創出がバルトールスの見解の延
長線上にあることも忘れてはならない。
三 法律学の実務的側面
すでに記したように、ツァジウスも・ーマ法継受期の法律家として、
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 七二
在彼の法律鑑定は四三残されているが、大学教授として法学部の鑑定にも代表絡で関与しているし、皇帝顧問として
︵67︶
も重要な役割を果したことが推定される。さらに実践的な業績としては、有名な一五二〇年のフライブルク改革都市
法典の編纂に際しての指導的な位置にいたことも特筆さるべきである。今日この改革都市法典は一般にツァジウスの
個人的業績と考えられているくらいである。こうした多面的な実践活動は、当然にツァジウスの法学の性格決定に際
して決定的と思・ツ∼るほど重要な意味を有していたことが予想される。これまで、人文主義に由来する原典中心主義と、
伝統的な中世イタリア法学の方法について述べてきたが、この実践的︵実務的︶な活動を通じて、大きな要素と考え
られるものは、一応二点あると考えられる。一つは、当時のフライブルクを中心とする具体的な法生活である。確か
に・iマ法の継受H法の学問化、バルトリストの進出という事態は進行しつつあり、ツァジウス自身がこうした法生
活の変革の担い手でもあったわけだが、固有法・慣習法によって支配されている法域はかなり広かったとみなくてな
らない。こ.﹄に固有法的な法素材にどのように対応すべきかという問題が生じてくる。第二の問題は、第一点と密接
な関連に立つのであって、・iマ法あるいは普通法と固有法との衝突がみられた揚合、最終的な判断の根拠を何に求
むべきか、ツァジウスの揚合それは何であったかということである。
まず第一点に関して、法律鑑定と都市法改正について具体的な問題をとり上げて検討してゆく。一五・六世紀のい
わゆる・ーマ法継受の過程で、法素材の面で大きな影響を・ーマ法から受けた法分野として訴訟法と債務法と並んで
相続法を挙げる必要がある。少なくても、法律鑑定の対象となるようなレヴェルで考えるなら、あるいは相続法のラ
ン
ク
が
第
一
位
を
占
め
る
と
い
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こ
と
に
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か
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ツ
ァ
ジ
ウ
ス
の
二 巻 の 鑑 定 集 に も 多 く の 相 続 に 関 連︵
し6
た8
鑑︶
定を
見出すことが出来る。そのなかに、シャフハウゼンの西シュテゥーリンゲンに領地をかまえるループフェン伯家O声−
h窪鍔い=胤魯の依頼による鑑定がある。数あるツァジウスの鑑定のなかで、この鑑定ほど、当時大きな影響を与え
︵69︶
たものはない。事件の概要は次のとおりである。被相続人には、直系の相続人はなく、男系・女系各一名の兄弟姉妹
があり、殆んど同時に両名は死亡している。男系の方には九人の子供があり、女系の方には一名の子供しかいない。
これら計一〇名の甥・姪の相続分が如何にあるべきかが間われたのであった。
傍系卑属の代襲相続に関しては、中世イタリア法学は、二つの学説を提示していた。一つはアクルシウスが客o︿■
一一〇。bについての註釈で、第四パレンテルについても第三パレンテルの揚合同様、血統分割ω鼠⋮暮毘∈一〇qの原理が
︵70︶
妥当すると記して以来、バルトールスやバルドスもこの見解が・ーマ相続法の基本原理に照応しているとして受け入
れ、いわば権威ある学説となっていた。この説に従うなら、当該の事件について、男系の九人の甥姪は一八分の一ず
︵ 五 ︶
ていたのだが、それはアゾがoo琶巨β9象岳においてρ9鵠・旨に依拠しつつ展開した甥姪の均分相続の見解
つ、女系の一人の甥姪は二分の一の相続分が認められることになる。他の説は当然のことながら異説の地位に甘んじ
︵72︶
である。これによれば、一〇人の甥・姪は各一〇分の一ずついわば公平な相続を行なうことになる。
︵乃︶
ツァジウスは、この二つの見解も紹介したうえで、あくまで・iマ法原典法文を引用しつつ、血統原理ではなく均
等分割原理による平等な相続が行なわれるべきであるとして、結果的にアゾの見解をとっている。この結論は、固有
の︵ゲルマン法の︶法原理﹁口数だけの財産数﹂8ヨ嘗匿昌ヨ巨戸8∋き犀。ω鳳目阜に適応していると考えること
は一応可能であろう。しかしながらツァジウスは、他の論文でこの結論すなわちアゾの説は、﹁原典と理性そしてさ
︵74︶
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 七三
’
らに自然的衡平によって明確に根拠づけられている﹂とし、とくにいわゆる固有法あるいは慣習法について言及はし
一橋大学研究年報 人文科学研究 路 七四
︵75︶
ていない。この結論がいわゆるゲ欺マン法なのかどうかを詮索することは余り意味がない。それよりも、この結論が、
当時の立法に吸収されてゆく点に移ることとしよう。
フライブルクの都市法改正は一五二〇年に完成するが、後にも触れるようにこの編纂作業はツァジウスが都市書記
に任命された一五〇二年から開始されている。初期の段階にツァジウスが直接参加していたかには疑問があるが、そ
の一つの根拠として、甥姪の相続に関する規定が、草案段階ではアクルシウス説がとられ、最終的にはツァジウス・
アゾ説に変更されている事実がある。ともかくツァジウス説は改正都市法第三章の六に含まれる規定として採録かつ
︵76︶ ︵刀︶
規定されることになった。そしてさらにこの問題はフライブルクの枠をこえて、帝国立法の段階に持ち込まれること
になった。一五世紀末以来、帝国国会では相続の問題がしばしば取り上げられ、相続問題がこの時期に重要な議案の
一つであったことを想像させる。一五二九年のシュパイヤーの帝国議会では、甥姪のみが存在する揚合の問題が提示
︵78︶
され、権威ある通説を退けて、ツァジウスの説が採用された。この帝国国会議決の内容を受けて一五二九年のカール
五世の皇帝立法が制定された。この皇帝立法は、甥姪のみの相続という極めて細かな問題についての皇帝の判断であ
︵79︶
り、非常に珍しい例とされている。帝国国会での論議は諮問委員会で実質的に行なわれたのであるが、この委員会で
︵80︶
はツァジウスの弟子でバーデンの書記局長Uμ国●<魯島の活躍がものをいったとされている。そしてツァジウス自
︵81︶
身この栄誉ある結果について、晩年の著、﹃封の慣行についての概論﹄︵一五三五年︶のなかで、この決定にカを貸した
法学者の名を挙げており、また﹁真理は勝てり﹂とも書簡に記したという。もっとも、この帝国国会で勝利に輝いた
学説は、ツァジウスの独創するところではなく、アゾの見解であるととに留意する必要があろう。問題はアクルシウ
スの見解とアゾの見解の選択なのであり、アゾ説を選ぶに際して、それが、原典と理性乏自然の衡平に則していたこ
とが決定的意味を有した点が重要なのである。そして、原典、理性、自然的衡平とが全く同一のものとして考慮され
ていたであろうか。すくなくとも理性即原典とツァジウスが考えていたかということが問題となるであろう。
︵82︶
ツァジウスが遺言の自由を導入したことはかなり知られていることであるが、この点についてはまず鑑定でバルド
ス、デュランティス、ヤーソン、ディーヌスなどの引用を行なっており、普通法に従っている。普通法においても、
遺言の自由の制限は認められており、この点についてもツァジウスは当然のことながら踏襲している。それは都市法
一臼ヨ‘a息口凶によって制限されるのであるが、それは普通法の揚合の制限より都市の事情に即して強いものになっ
︵83︶
とは出来ない。ただしその例外は、葬式およぴ教会への寄付に限るという規定がある。他人というのは文言上不明確
ている。その総べてを例挙する余地はないが、例えば子供のない夫婦の揚合夫は他人の同意なくしては遺言をするこ
︵脳︶
であるが、他の市民を意味すると考えられ、この制限は市民全体の相続人なき財産に対する相続期待権と家屋財産が
︵鴎︶
相互に密接な関係を有していたことによる古くからの都市の慣行に由来するものといえる。さらに父権のもとにある
︵駈︶
子供は、市外のしかも自分のカで獲得した財産についてのみ遺言をなすことが出来るが、これも父の同意が必要とさ
れた。このように、フライブルクの都市生活上維持されてきた慣行で、しかも・ーマ法あるいは普通法には見出し得
ない制限が規定されている。これらの規定は、イタリアの学説すなわち普通法に合致しないのは勿論、ツァジウスが
・ーマ法原典法文から直接導き出したものでもない。それはまさに都市フライブルクの慣習によるものであり、法素
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学にっいて 七五
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 七六
材の面からみるなら、ドイツ法的、ゲルマン法的なものと評価することも不可能ではないだろう。このような規定は、
外人への不動産売買の禁止、財産譲渡の制限などについてみられるし、・ーマ法とゲルマン法の融合といわれる規定
︵87︶
も引き合いに出されてよいであろう。例えば後見は普通法上様々の種類があるが、わがフライブルク市ではそのよう
口頭による訴の提起を認めるなど、・iマ法や普通法上の制限を継受するに際しても、それを簡明なものとし、フラ
︵路︶ ︵89︶
な分類は必要でないと規定しているし、同じく遺留分一①σq三∋㊤もこの市の住民には不向きであるとしている。また
︵90︶ ︵91︶
イブルク市民の法生活に対して、その適不適を充分に考慮したあどを、カズイスティシュな改革都市法の法文上読み
とることが出来る。
四 実践的な法の哲学国℃芭ざ猷論
・ーマ法や普通法の盲目的な継承を避け、ゲルマン的固有法を保全したという理由から、ツァジウスはゲルマニス
トの側からも高く評価されていることはすでに記した。しかしながらツァジウスは、ヨハン・シルタi9ω9痒角
︵92︶
やいわゆるゲルマニステンのように、ゲルマン的な古法に対して民族的な愛着をもっていたであろうか。この問に対
しては否定的な答えが出るであろう。彼に著しい影響を与えたと考えられる人文主義者達のなかには、ゲルマン法史
に繋るようなドイツ的古典の編纂・研究に従事した者があったにもかかわらず、ツァジウス自身はドイツ古法につい
ては全く興味を示していないのだし、法の歴史についても、・iマ法史しか念頭になかっ。た。
彼の目前の具体的問題、それは事件についての法律鑑定であり、都市法の改正であり、さらに大学における法学教
育の方針であったのだが、彼の判断に際して基準となったのは公共善を前提とした自然的衡平であったと考えられる。
イタリアの法学者の学説陸普通法はまず原典との対比によって批判されることが多かったが、最終的にはこの基準に
よって選別されることになった。従ってバルトールスの学説が仮に原典に厳密にいえばもとる場合でも、ツァジウス
の衡平の基準にかなうものならば受け入れられる可能性があったといえよう。それは原典についての言語学的ではな
︵93︶
い法律学的解釈として正当化されるであろう。原典それ自体についても、実務の局面において具体的な問題の処理に
際して、現代の生活上の諸要求に適応させるためには、適当に選択されることになる。その最終的な判断の基礎は、
ツァジウスにあっては衡平と善11衡平国覧亀︷o昼である。これが、ツァジウスの実務的法律学の中心に置かれていた
考え方であり、法を目的適合的に解釈するモティーフであった。この問題についての出発点は例のケルススの法文
︵輿︶
﹁法は善と衡平の技術﹂︵U﹂﹂﹂・じである。すでに述べたようにツァジウスは原典研究に際して、徹底して言語
学的手法をおし進めることなく、法学的に行なうという基本的態度を表明している。すなわち、法の本質、作用を解
明する法発展の特質や、その起源を把握しようとするのである。まず﹁正義は法の母﹂という註釈学派の命題につい
て、果して法は正義の子供なのかと間い、自分は正義は徳9#島と考え、それは不特定の状態鼠玄註ωであってす
ぺてのものが自身の徳を具備している。人間には正義という徳は発展可能性として生得のものである。正義という徳
が形を備えていない間は、未加工の木材のようなもので、立法者が法を制定してはじめて、立法者が正義に形を与え
るのである。これまでこの徳は正義のある状態のなかに隠されていたのであり、法と正義は常に共存してきた。した
がって﹁正義は法の母﹂とはいえない、と主張する。しかし正義が法以前に存在することは確かである。しかしこれ
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 七七
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 七八
︵95︶
は法の前提または基礎にある素材であって、母と子の関係ではないという。こうした正義と法との関係を前提として、
︵96︶
法・法規の実態について、彼の・ーマ法史研究とブダエウスの研究によるアリストテレスの﹁宜しさ﹂緯気強§につ
いての議論とを組み合せて、その衡平論が造り上げられてゆく。
︵97︶
すべてのものと同様法や法規も最初は未完成である。法や法規は一般的な問題について考慮するものであり、個別
的なことには注意を払わない。ために法規は古い時代には厳格であり、法律家はべつの緩やかな適合的な正義の準則
を持ち込んでくる。法律家はこの素材を別の寛大な形式すなわち一賃富ヨ隠声言を作り上げる。これを哲学者︵アリ
ストテレス︶は∼ミ気訣養﹁宜しさ﹂と名付けた。すなわち法規の改善ヘミ無桑ミざ。日①昌鉢δ一品肪である。これによ
って一般向きの厳格さが排除され、揚所、時代、年齢その他の条件が考慮されるようになった。これすなわち・ーマ
︵%︶
法における衡平と善器ρ巳3。。魯げ9降窃の導入である。古い厳格法は誓ヨヨ5ヨ凶拐と呼ばれたが、われわれはこれ
を珠ユo言日一島と名付ける。まさにここから曽日ヨロヨ一島o露旨ヨヨゆ言一く。。葺幹という表現も生まれる。籍気驚養
を取り入れた法は富日需βε日一島なのである。このようなことからして、法が善と衡平の技術螢.ωげ〇三9器ρ三
︵99︶
すなわち﹁正義の準則﹂”緩和を内包することになる。衡平とは純正な正義である。ローマ法は全世界に継受され
︵m︶
た器。超εヨ88030が、それは、法の厳絡さが取り去られ、適度の衡平へと変容したためであると信ずる。この
ように・ーマ法における衡平の意味を充分に評価したうえで、註釈学派が善と衡平とが異なるもので、それは区別さ
るべきであるという見解に対して、キケ・などの・ーマ法学者が、ギリシヤ語の野鼠票ミを器ρ三3ψとぎ巳5切
との二語によつて同格として理解していることを挙げ、善と衡平とが本来一つのものであることを確認して、これを
︵皿︶
否定し去っている。この言語学的な立揚は、ツァジウスはギリシヤ語原典を読まなかったσq声①β目昌一品暮ε惟し、
︵皿︶
そして恐らくニコマコス倫理学のラテン訳にも接していないと考えられ、ブダエウスの﹁註釈書﹂餅⋮o鼠菖88に
よるものと推定される。この言語学的研究の成果によるアリストテレスの﹁宜しさ﹂は、ツァジウスによってさらに
法実務の世界に導入され、条例についてもそれを極度の厳格さをもって器ロ夷ま昌尊重する必要はないということ
をケルススの法文に基づいて主張するに至る。これは註釈学派以来の条例優先理論﹁条例は厳格に解釈さるべし﹂を
︵耶︶
真向から否定するものであり、衡平理論を実務上非常に有効なものにしようと試みている。ツァジウスによれば、何
︵姻︶
が衡平によって根拠づけられるかということは特定の規則や不変の学説によっては把握出来ないのである。さらに衡
︵瓢︶
平は必要によって見出されるものであり、それは改善による緩和状態であると説明しているツァジウスは自然法を自
然的衡平82ぎωβε声冴と理解し、これはすべての法規の根源・基礎となっているとする。絶対的に不正な法規
は法規と呼ぶことは出来ないから、すぺての法規は衡平を完全に切り捨てることは出来ず、部分的にこれを取り去る
ことが出来るにすぎない。ある特殊な間題に向けられ、書かれたる衡平であるところの衡平は常に成文法規に優先す
︵聯︶
る。まさにその衡平は法規の改善、緩和のために導入されているからである。衡平はまさに法規の極端な正確さω〒
︵窟︶
9一犀器とは逆の機能を有している。まさに﹁法は衡平と善の技術であり、すぺてに衡平をもたらすものである。﹂
従って法律問題の判断や立法に際しては、衡平が優先する。そしてその際には明確なそして偏向することのない衡平
︵鵬︶
が適用さるべきであり、恣意や偏向をもって判断するなら判決は直ちに効力を失うであろうと述べ、裁判官は揚所、
時代、原因、人間、事物、量、契約など様々な条件・ぎ9房9暮す。を顧慮しつつ、衡平によって法の厳格性を緩和
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 七九
一橋大学研究年報 人文科学研究 路 八○
すべきことを説き、もしそこで適用された衡平について修正する必要がある揚合には、上訴における上級審の裁判に
︵”︶
よる判断にまつぺきである。成文法も衡平も見出し得ないような揚合には、あくまで厳しさは捨てられるべきである。
︵nρ︶
厳しくないことはまさに人間の賢明さの顕れなのであって、疑いある場合には、親切な、穏健な判断によるぺきこと
を説いている。
︵m︶
︵麗︶
>8三貫ωとアリストテレスの幅ミ気蔭§を結びつける衡平理論は、キッシュの指摘するところによれば、一六世
紀以降つまり人文主義的法学の時代に初めて登揚したと考えてよいという。ということは、註釈学派や註解学派の時
︵耶︶
代には、この種の立論は殆んどなされていないということである。これはアリストテレスの諸理論を主柱とした中世
の学問としてみれば不思議なことである。しかしながらこの両概念の結合は、人文主義的な言語学的古典研究が、古
典古代の諸著作に向けられた成果であり、アリストテレスーキケロー・ーマ古典法が言語学的に結ぴつけられた
結果と考えられる。この所産をツァジウスは法の歴史的変化の態様と結ぴつけて、岳旨℃①声夢>β巳3ωとして把握し、
法学教育、裁判・鑑定実務、都市立法に応用した。それはあらゆる成文法の目的適合的な解釈に役立てられることに
なった。しかしながら、︾呂ε貫ωについては、註解学派がなおざりにしていたわけではない。それどころか、最近
のN・ホルンの研究は、バルドスの法律学においてそれが極めて重要な役割を果たしていたことを明らかにした。そ
や構成的な解釈によって満足すべき解決が得られない揚合に機能を発揮したという。すでに権威となっている博士達
れは倫理感のバノラマであって、異なった法域の調和、条例問題、法形式主義の克服などについて、原典の純ドグマ
︵餌︶
の共通見解は、アクルシウス以来のスコラ的に構成されたドグマもあろうし、註解学派による衡平をモティーフとす
る法創造も含まれていた。しかしながら、それらは余りにも分岐し、錯雑していたし、なによりも;丁四世紀のイ
タリアの諸事情に適合せしめられたものであった。ツァジウスは、普通法論を人文主義の指導理念に従って純粋な原
典へ立ち返らせて、中世イタリァの諸権威を否定し去り、しかるのちに一六世紀の上部ライン地方、とくにフライブ
ルクの現実を直視し、実務上の諸問題に対処することになる。原典によっても、普通法をもってしても妥当な解決を
得られない課題も少なくなかったし、山口同度に肥大化したイタリアの普通法理論は、法律学の処女地のドイツではなん
といっても消化すること自体が不可能でもあった。
以上のようなツァジウスの衡平理論は、法規や法学説の相対性を前提とするものであり、法律実務家の判断ーこ
れは法創造を意味するともいえるのであるがーを中心とする非常に実践的な意味を含んでいる。実務家による衡平
に則した具体的な事案についての判断は、当然決疑論の形式をとることになる。ツァジウスが、他の人文主義的法学
︵塒︶
者が試みた法の体系化に対して批判的であったのは、・ーマ法それ自体が非体系的であったためでもあるが、・ーマ
法を前提としての衡平理論の故であったとも考えられよう。ツァジウスはまた成文法規が元来一般的なことしか規定
し得ないものと考えていたために、フライブルクの改革都市法立法−今日からみれば多分に決疑論的であるがー
に際しても、つとめて規定の文言を簡潔なものとし、具体的な間題についての判断は裁判官に委ねるという態度をと
︵踊︶
ったのであった。すぐれた法律家に彼はすぺてを託していたのである。すぐれた法律家は如何にすれぱ生まれるのか、
ここで彼の法学教育のやり方が想起されねばならない。
ツァジウスは、法学生に対してまず神聖なる・iマ法の原典を示し、法の法質と起源についての知識を与え、彼等
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 八一
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 八二
のなかに眠っている生得の法の理念を覚醒させることを以って法学教育の方針としていた。勿論そア一で意識されるに
いたった法の理念は、具体的な事案についての判断へと導かれるのであり、ツァジウスの講義はきわめて実践的な傾
︵田︶
向を有していた。﹁実務なくして法なし﹂とも記しているように、法の理念による、すなわち個別具体的な問題につい
て衡平の源泉でもある・ーマ法原典を学ぶことによって得られる衡平の理念による判断が、法律学の目標と考えられ
ていたといえる。この教育方針には、二つの要素が含まれている。一つは、人文主義によって影響を受けたプラト
ン的な再認識への覚醒≧一品8器器である。すなわち﹁彼に見ることを作りこむのではなくて、むしろそれを持っ
ているが、しかし正しい方向に向けられていず、また見るぺきものを見ていないとして、そうするように彼のために
︵雌︶
手段を講じてやる術﹂がツァジウスにとっても教育であったのである。しかも法律学は選ばれた者達のものである。
︵m︶
これは決して秘密学問ではないのだが、誰でもが遊ぶことの出来る運動揚のようなものではないと記しているが、こ
こにもプラトン教育論と、最も内奥の哲学①邑巳は巳p嘗ぎ8嘗誉から法律学を創造しようと考えたキケ。の影響を
みてとることが出来よう。ツァジウスはやはり人文主義的な法律学改革動向の一つと数えることの出来る・⋮マ法原
︵伽︶
典のドイツ語訳は無学の一般民衆向けのものであったからこれに対しては非常に消極的であった。
︵皿︶
第二の点は、いうまでもなく高度の実務性すなわち目的適合性である。一六世紀初頭のドイツにおいては、固有法
は極度の分裂状況にあり、固有法を中心とする、つまり固有法に基づく判例の集積に依拠するような﹁確実な法﹂
一50Rε目は全く存在していなかったといってよい。学識法曹の進出はすでに前世紀後半から顕者になっていたが、
彼等のすべてがすぐれたそして徳のある人々とはいえなかった。註釈のうえに註釈を積み重ね、善良な人々から権利
︵㎜︶
をとり上げる悪徳法曹にかえて、法律問題に適切な判断を下すことの出来る哲学者にも比すべき法律家を育成する.一
とを念頭に置いていたといえよう。従って、彼の国官①幹o置はすぐれて実践的な意味と高い倫理性を有していたとい
わねばならない。
6︶o。§ω茸昏里9馨凶p巨。も話。房馨葺蓼・三塞﹄爵潟遇ご鼠器﹃帥二。昌ぎ5の≧=p。仁①=①吸①・。一
(
①ヨ帥巳島℃昌9暴置を中心とする教会法の学派に対しても批判的であって︵巧oFN霧一一一ω・ψo。一︶、要するに通常イタリ
ア学風ヨ8詳巴言島と総称される学派全体に対して攻撃の矢を向けている。
﹃§喜ω⋮:■富&器訂&。﹃8冒。密痒。い臼℃・一器。&鼠R巨・一。・言ω量戸霧富旨ぎ、g冥。国釜器く壁。強。
まぎ2ヨ馨一垂碑旨巴昏ぎ巨具盲娠る。︶⋮⋮きヨ℃。ぎ2邑。も。&Φ量①θ8舜一葺言β嘗郵器旦$,
。β一鐸§﹄§﹃弩℃。㎝旨げ。葺ζ§。酵’2a富鼻塁8豊辞げ。艶−⋮3く。募≡自自一呂pΦ§の8躍
。εHぢ昌8<8。ω器ω幕8βρ轟g︿。旨。・。一﹃9⋮品翼員喜。﹃8㊤量§。暴§・・§諺三﹃夷憂婁募
。睾⋮■︸○℃。声く︸8一◆ミ軌︵ワい。。y<⑳ド≦。一︵・曹。一一β。。・M・
貫再琶貫⋮・ゐ§琶雪量ぎのぎ8﹃℃。﹃一の・の凶く。のg。。剛・ω一く①旨。α=一一費。一⇒同信﹃一p・¢。﹃。。﹃コ。昌。ロの騨。呂5
9︶ カンティウンクラヘの書簡、 一五一八年二凋一四日付、団鴛げp﹃一Φωβ。一ロ梓サ①﹃げ四唱p﹃一。一曽門同pH=﹃一ω。同く臨一。n℃仁﹃一。。も。一ヨp旨
ヨ。旨器︵く。屋嵩︶、., ■.。巨。饗①一三三ぎ3ヨ塁。﹄㌧o。・賦。。・
︵38︶︿畠曽の。;n貫O≦こωも■N8﹀、︸・−ぎ匿8一陣善99<一。歪9§募・一§岩二p。一一琶一召一。3ヨ琶匹毒
︵37︶ ツァジウスはバルトールスやバルドスのほか、ボローニャのパビエンシス派と呼ばれるペルナルドス.バビエンシス
冨ε轟ゆ§塁ε斜鷲且R①⋮⋮︸○℃9pく,8一■一9
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 八三
(
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 八四
︵叫︶N鉱昼名錠ヨ旨σq。・ぎ馨留穿甘募召窃園。昌R弩牙昌言9きβ3昌β劇馨=蟄。。”O﹂︷ぎダQ婁稗聲章含
○噛βド8一﹂貴一。。y=簿。豊ヨ旨剛巳馨冒p弩互。﹃9﹃誇。・λG︶Φけρ
︵43︶ω&知げ一・爵。鼻一。訂げ。&ゆ婁も⑦﹃・−。目Φ馨畠⋮。三ヨ言8旨ヨけ邑ぎ三げ5富ユけ﹄§島蚕一貫ω翼馨・戸
︵42︶く鷺冒や豊§3≧讐§暮ぎ旨3目震一婁ぎb。臣8一些。お耳這81ま。。﹂宝一器阜一8ざの駅馨
︵8一,い令■。︶
o篶p<・8一﹄い・︶§一陣岳巨三8一鵠言身錺ユ琶貫券け沼。。凶3身窪。℃。﹃§。邑。耳噌暮簿すけ費沖一。昌触
ω℃8酵℃弩捧gg鉾蜀砕誘冒帥ヨ﹂蝕g①β一㊤言β一a。β粋一2誘ぎp⋮⋮ωa巨峯8昌ヨご8註区鉢e昌。界
︵妊︶︷・ω茸N裏浮・−冨ω葛糞薫葺騨一舞ω臼。・一ろ吾馨零琶琶員号亀窪p鼻§8﹂ε旨轄
8簿。且目暮、9。・窪oω凶知︸δ巨三宮ωご○℃。罫一”8一﹄。。N︷﹄ーい■
。。。ポ琴き蕃言一且認2且野§け章2馨§言H鼠鼻§・ヨ冒す8一一お一欝ωgεβ。巳ぎβ誤葺信3魯。二①﹃Φ
・乙ロヨρロ一ωρ仁。ω。Hま。昌仁ヨ§p﹃①賃一一一の。一一δ℃Φ﹃α。一計﹄口の§ω居・⋮蔓。豆ζ﹃。§象区8婁ω冨婁p“2
ω鐸。糞も鼻琴3一。σq琶讐ω8ぎ8冨”鼠。昇之暮﹃言9﹃区588昌ヨま2夢。8ヨヨ昌聾δ昌ヨ豊品ρ
⋮一言ぎ馨三舞犀ωき。日。q昏婁毒。房§梓。垂8ぎ募誘園。目鍔℃馨。・藝F2器一鼻一。暑身E。讐島
。ω器器σQ葺区幕。。・評言馳ω。Rp虜︵仁梓=鋒。ω3鐸︶ご。・巴ω器象gε性5ε穽。三ヨ﹄2且一8ω知幕&。=昌。三富ε
嘗ユ墓一。窟&婁①昇仁幕且=巨留屈ρ聾Qω。馨”吋。§。・凶。暮ρβごゴω℃一・﹃8区旨暮ヨ①身ご①冨℃。§巳蕊&・
・訂gR畳・。8b。旨ヨR。暑ω。ω8三豊。募冥8。・。hR琶“ρ=弩含88身pρω冨ご。一一ワ︿一己一8びp’8ωタ一酵の
9訂p置5℃一扇富ぎ器げ一§雪。言ωぎヨ。hp畠。一区一8耳”2一。8窪。一鼻9U一。。を件註。宕旨。巳き8葺鉱pεヨ
︵如︶曹8需二8窪一⋮・9馨言聾け舞ぎ。器8量蓼﹄聲ω8巨88ヨ馨一話一,募8。§β2冒詳2。,窪
ギ。げ一。馨瑳ω浮暴爵馨盟賃&︸巨眉﹃鼠①昌N﹂8P>嘗目αqどω・。ωn
︵45︶ノNαq一一Ω一︵一。−。宣ppOこ。。’凱。︷ーN駐偉ω一ま身・ロσqのく。HHa。旨賊い男。目。﹃・ω・。轟・
︵46︶o■霞。。。Fo①の琶富員ψ軌M・
︵σ︶⋮⋮耳冨塁な色。注帥遇垂蚕一旨﹄甚鼠・・。≦ζ夷⋮量舞g唱帥﹃。巨﹂一ω。仁一①肘①蝿﹃の象四砕β﹃・ω凶
。図E暴羨げ。旨ヨbσq轟一匿諏︷毘昏8昌ω①雪倖﹄9唱喜霧費註⋮四8pgp置。戸・ゆ①ユ。葦。﹃津鈴梓。①二償﹃凶ω簿円㊤,
ぎ巳累弩器日富=コ℃鴇言ま藍ω幕豊一弩§旨巳器鼠p言=。﹃ざ曾2器3程。。。匿且昌・。一⋮再、
同毒8昌。一一凶①貫■︵一︷帥ω。Fo①ω琶醇、ω﹂9︾豊・い”冒。・鼠鉱曾。ω・§。。も・。。一︶・
︵48︶o﹂診昌爵欝ぎp。。﹄R
している。︵○℃Φβり月8一,ま9まy
︵49︶ アクルシウス、バルトールス、バルドスに対して畏敬の念を払い、またバルドスを⇒。ω仲。﹃一①σqp一一。。℃霞一。。。。覧一百のと呼ぴ
ウールリッヒ・ツァジヴスの﹁人文主義的﹂法律学について 八五
ヨ。﹄。ρ■葵く三ρ﹂︵”。’F鼻98ε一・︶○℃Rp、くも・呂一・
ま。。臨量︷げ塁。旨二且。3§8旨営昌喜。o。登一二円。一舞巳畠。。韓。葺①&一。一欝︷σq一﹄阜留。艮毒”H昌9H鼠器ど
︵54︶ヒ身墓区。馨罫聖。ω富げ畳一N帥8ω冒。毒℃§。三・・翼毒・§旦吋喜の試一αq。昌江びg・.ω一一げβ。昌一﹃。昌一一Φ㊤馨一
︵53︶ ωけ言言3四N塁言∫ω一旨卑に詳しい紹介がある。
際にはU①貯α器諒O=霧鉱oづ窃嘗oの︵○℃R勲∼や器一∼累曾︶となっている。
︵52︶ O轟富二9器3℃巽︿巳凶。・冒匹802ヨげも試N昏島即>嶺9獣コ即ρ蹟Oo。が出版当初の表題であり、後に全集に収録され
︵51︶誇一,≦&﹄鐘声ωふ。F善ヨ﹂・ も
︵50︶<騨p家藷5豆。国区雲ε轟α・=⋮豊弩βω﹂軌9
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 八六
た客p目。閃o⇒o自o<08げ巳oo営昌8厨鼠㎝H$ぎρ三σ基o簿8ヨ日ロ巳o彗一P℃3℃什R巴日旨ゴ色一一〇ヨ昌o簿50冨の
︵砿︶国∼轟冒一・・ζ磐営の8ヨ暑昌畳房ε畦騨募善島h巨αq蓉葬諾&げ§。曾⋮⋮ふ琶畠pも。=p罫ま
。。n江昌。。呂8ヨ目巨凶8匡ざ=畠9ま82毘算99。且p8一。墨写
︵α︶くβα①ρロ。2ロ﹃⑦。。⇒ω・言2言あ昌εこ。8葛昌馨費①ωぎ。叶再。i基・濃①婁。§言2量曹区§
聾・門帥琶ρ⊆琶巴邑喜・・㌧一一三§。H。も。注§熱幕馨β8⇒。・一ω§蓼β○冥ρく︸8一・一p一。’
︵6。︶o。コロ切Φ昌一一じ。。言﹃梓凶。暮匹38貴⋮お。暮昌。琶一のρ邑pヨ憲一一蕾。舞霊§象閂ρ慧。喜5§婆
︵59︶oo一巨N冒鱒Nゆω蕊”ψ旨N・
。山陣§目⋮−暮﹂﹂︾ゆ訂①。畠菖ロ算一9
︵認︶①げ。ロ畠四・。。=。。・土島。三一。首σq①づ§旨。巴一。§。芭;。一嘗。8ξ集章の。自帥8けρ。。穿。畠二①図﹄。。
o昌,一■
︵即︶o。昌ロ㎝ρ仁p酔二。﹃暮旨§一質崇。三βmヨ穿8一・ω熱8琶⋮一§U8一。暴。・信暮。嘗葺い○℃Rp<も。二ざ
。三轟、yo℃①β<も﹂いv’ 6
となれば正しき者は信仰によって生きるからである。﹂︵<玄〇三ヨ。。貴騨φ山88昌o簿㌧言旨σ一ロ98ρ2す一霧ε。・霞
唖。げ。賊騨同p該。営ヨω口⇔信一。凶費再・︵ObR岱ダサ雛9︶また次のようにもいう、﹁健全な信仰なきところ正義は存在しない、な
器ヨ。。﹃仮。言馨8①量hΦ同餌戸。。一。馨ω巨豊巳g。日㎝窪け霧ρ§ま。こ一げ舞畳弩旨§。馨⑳一旨暴け熱2馨
︵56︶ご℃﹃8。ω一8彗舅需σq。。一。旨乙言暴①。嘗一。昌Φω毎蒼。暴善三昌。巨コ量巴§剛呂費一釜。・色の§鼠昌
じられている。なお本稿五五頁参照。
︵55︶ この論点は﹁エックに対する弁明﹂という人騒がせなルーター的ともみえる表題をもった論文においても繰り返して論
︷目昌⑳剛げ嵩Oω廿ρ唱凶㊧一昌O一ωO切幹︷信昌O酔一〇い一“①ω“ 自の¢の℃﹃Oヨ﹃Oロロoo噂○℃O﹃Pり一、OO一・ひいω” ひ・
なお、二の新しい概念を基礎として、フライブルク改革都市法典の契約の部の貸借の序文において、その対象に二つの種
類がある二とを規定している。≦冒穿α自曾ζぎ昌撃話︻一毒3誘oぎ琶訂“騨目o屋富戸8∈舜鼻鴨F’乏昌﹂6ヨ︸
2畠﹄鼠琶璽器鼻g<且帥&霧畠塁巨叶。野日αqぐgg誰3’&R富Np葺蓉巳聲旨郵⋮>β騨区窪員⋮る耳−
﹃①Oげけ︸ 一H冠 一、 くO貝貝OqO,
︵63︶ 自己独自に考察して、新しい説を打ち出すことは知識の発展につながるのだが、危険でもある。これについては、有用
で目的に適うものであるかぎりにおいて価値がある、といった主旨のことを述ぺている。くαq一・○℃o﹃p一り8一■卜。鴇”繋一
≦O一ひ O露Φ=05讐 ω, 一bJ幽■
︵64︶ ︷∈一σqε二aを<9昏9げ畦と醗訳したのはティボーであったといわれている。<堕・望ぎ9冒界9穿自け・菊≦層押9ま9
サヴィ昌−はこれを非古典的な概念として拒否した︵コρω雪、西一ざoo葦3ヨ阜ざ暮おo昌a日・即o号寅9切F一〇。≒、
ω’§いを参照︶。しかしパンデクテン法学においては、ヴィントシャイトが採用した。︵≦53号虫ρ■9ぴ琶び自巽℃睾−
留算貫ぞ♪ど≧ヨ﹂◆瞑、u。ヨ言φ評昌簿8p四ぎ∋窪︻あ・一謹︶喧・↓獣①昌ρN琶泰F津①雪﹃の︸o。・
一〇’
︵衡︶ O一〇のω帥o﹃α剛口四ユ卑、αq一’”匹ーHV■一〇ヤ ど N” 一,︼W四吋鉾 一ピ①oげ 一昌℃詠日■M﹂ ♂、①﹁ p山・ げ・一・ρ口幽酔 ℃賊o唱けo︻ o唐昌一︻口oq費一昌
巴ヨ出津目α一昌Oヨ﹃OO一℃諜 ︵℃P昌び︶ h自昌O梓一〇昌①旨一昌梓O増GoΦ一昌ω目O⑳O昌O﹃O‘ ω訟昌一N一昌の鵯NPω一口のいQo・一bのNい
︵66︶ Qn叶一昌けN凶昌σqい N餌ω一βω、 ω, 一N轟h
︵67︶ 男。ぞO基o旨ヨ一霞一ω巴<。Oo塁まo旨ヨ∪算q号ぎ〇三Np監いr,Uo9、o一胃奮一目凶93︾。p号き型写き目叩ごげR
ロニ毫あ鼠いo。■ごげR。・8目コ自臣嶺岩■国塁ぎ器としてツァジウスの死後H出R9冤旨暴︾昇o首びと冒芭峯里富oお﹃冒が
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 八七
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 八八
纂し刊行した。なおドイツ語訳2。鶴譲Φ℃叫ρ。自。p一ξ.ぼが一五七四年に出ている。ラテン語原文はC℃oヌ,<Hに収録さ
9の第七章の表題罰ま島些。﹃9目h旨珪9置器ε巴一鵯器5象緯導叶8℃暮歪O呂8aロ導貯一8笠3一昌8ぎω試も聲
ωa3。塑営梓帥⇒。﹃剛αΦげ。fO鷲﹃辞くど 8一・畠魍一︵窪ヨe霧一=日yこの結論は一昇亀8ε切一ξ闇ω。陰一夷三胃β獣ダン
︵怨︶<ヨ厩ρ酔H一ω勲ω。﹃。﹃一ω℃昌卑。日。H峠§琶豊ぎ翼量富馨鼻卑喜冥瞬&:。§葺の§竃自。三3喜3
︵72︶>N。暴ω琶暴o。身一の㌧評ωま四。﹂頴ωもモNド
玲口ぎ﹃ぎ雰一醇9昌量三ωω。舅鼠琶費①﹂。蜀ω﹂。。。︷■あぎ鼠嶺N霧一5。。﹂叢。
ω帥ロαqロ一コ。。の・㈱螢σq一一pま己。塁聖。の﹂。搾○℃馨り<、8よω■く吸二剣﹄舅一塁葺自一。三昏﹃の。耳乙。島。。享
︵”︶︾。。g﹃切凶自の,.。−.℃想仲ρ区ロ。2箒ξ①の﹄。三:畳言の=§q葺曾&穿8一唱霧。。募鼻豊三も。ωけ8㌣
薯a象。ぎ﹃叫こω一︿Ro昌。居ρgρ、.>8霞ω蕊■
良。。いgp目αq=目。馨ロヨ鼠﹃ρ§弩鷲貯Φβ言冨昌量。﹄聾ぎ鼻幕ヨ窮塞;。一一馨:馨2ヨ睾喜8
℃帥砕﹃蔓ω芝。同。昌一房富婁ω毛。誘乙。︷琶。8﹄巴農=糞⋮二ま。§38℃塁<。。ぎ⋮庁旦>N。あ&§鼠
q。ヨ︶hロ①﹃︸一一=巳p梓﹃①ωも。﹃ゲ。。巨騨葺ρ・。自一凶三Φ注・。江<。§§ぢ。・喜窃㌧舅誉。⋮翼募旨。邑轟馨
︵⑳︶。。﹃℃麟・,凶一一﹃凹ω。一く臣ω︵9。ωωp。賊身喜︶・喜ヨ・§ξβ婁一乙・一=×﹄け﹄§冒8よド基一︵章
9夷触ψ卜﹂犀 参 照 。
辞こ一。国憂。一碧璋o。切畠惹器豪&。⊇邑年酵Nωpご。・﹂コ舅ρ9まガψ簑㌧目、一。§﹄婁一釜﹄皐
︵69︶ Oo島出言旨H目ど○需β︸<押8一。鳶−軌bの’この事件については、○図警PUε因a器急oげo国8毘ε試2<o昌鼠謡
︵68︶ 第一巻の二三のうち少なくとも一〇の事件は相続問題に関係している。
れている。
一
8旨声8日日巨窃o口旨8舞にうたわれ、詳細な論証がなされ、さらにぎd。n霧8鼠oH目ヨ。口8ヨρ国p巴Φ器讐唱﹃ω
<一H一︸○℃R欝Hく噌やoooo︷ーでも再三にわたって論じている。
︵74︶ 一九世紀末甲国薯ヨ曾ββ中<・∪巳餐貫によって主張されたが、近時P譲。ω。昌げ。H騨U一①℃﹃ぞ簿尻。号酔茜。の。一Nの。,
g品畠窃国。言①茸冒一ω9Φづ園。喜ω<8。窪>諄。暮一8げ一ωN琶甘一一賢。昌翌。鼠げω&巴賃&量吋α諺。び。
o号壁ω言象言日①旨9昼9型図08げ匙︵R㌧<o一ー押一3♪ψ80。は疑問を投げかけている。︿鴨・9国OプPPPρ、
ω。い一高,
8益巨ω知曇一gρ言。冨言邑;β鼻ぎ§旨8一⑦囲琶・①葺■目。蓉婁冥。。p帥℃Φ善。・㌧⋮−ド○需罫く”8一・ひゃ
︵75︶28身霧§﹄①暑。貯。昌。嘗曲§β旨巨島。ωωΦ露目陣・・−,冒四旨首。冨嘗島b垂⋮の号。鴛。8畠①﹃。﹄ε§
o,その撃ヨ日曾ごヨは男β#ロ旨⇒一δω冒S℃詳ρ廼昌o昌日ω寓弓8窪08αRρoo旨βoo旨ヨ首昌o目Uo9臼器馨o暮㌶ヨ︸
一〇醇ま岳勲量江9ま拐8旨三目詳∪■N霧言ωとある。<αq一。9困零戸国審ωヨ畠賃ロαα一〇一弩冨℃暑α窪N讐uo・い旨宍
︵76︶<σq一■国高幕塁き乙撃田昌旨目臣§く9d﹄艶・ω﹂逃あ茎く孕○・昏ぎ・p・p9幹誤・
彗①コ且馨ヰRプ巴ダの一喜<。暑”且け壽§﹄87叶&ぐ毘霧ω①Fω。3窪q一。訂巨臼<&ω。︸・藷ωけR寅&邑叶
︵77︶国象9匿量藷裟。き。p葺匿爵卑且。コ区尋壽器芦ω昌倉﹃9。菩﹃民。同昌a9∼<婁。昆民喜。冒
&ぎσq8仲。ぎ雪げ邑。﹃<邑ω。薯Φ器β超5弩。暮器審ぎ器馨。一一ム3幹ω。葺巴巴Hく鋒。門く区馨け§αq。一一。,
馨昌ぎぎp<&α一。訂区實く且ω。薯婁。ヨΦ吾雪旨9ユ窪ぎ后§p身邑け・琶一撃註︻畠。昌σq。ぼ・9ω。
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穿四二昌毒切①あ糞菖睾置Rσq睾。8三ω“号の。浮。三善。p︵u。﹃■<H■目ぎ乙。しn含霧一・目§gεのく・2。<。。。5鐸。,
犀。仁■ω茸暮gRω富鼻写gσ日αq首鯨①屠貰一器。⋮く。p塁ε﹃=9窪。量。訂律窪、、し丼、.<8耳まR匿呂窪三¢
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 八九
菖叶く昌3旨Rぎ旨︶として兄弟姉妹のほか代襲相続権をもつ甥姪がある揚合、兄弟姉妹段階での均分相続分を認め、
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 九〇
らに次の規定︵18︶では≦窪些oぎぼ置9aRのoび巧窃酔段ざ注き浮p呂撃。・ヨ象という表題のもと、≦盆R呂㎎−
︵81︶○℃。声一くも〇一一。。p卜。9
︵80︶ この帝国国会議決、皇帝立法の経緯についてはρ一診げPPPO・ψQ旨h剛・に詳しく述べられている。
︵79︶<の一,客。目留ヨ昆琶αq■戸ψい。一■
れ、帝国等族の賛同を得て帝国国会議決となった。
の息子達の相続の問題として提示されたが、諮問委員会では姉妹の息子、さらに甥姪全体の相続の問題として議論がなさ
園o曽3四σω〇三a9ω蝉ヨ日一匿ロ三9葎碍o昌菊90げ3げ零三房ωoP閏βロ霞仁ユ旨≒,目ω■賠Pなおこの議題は、当初は、兄
P・鋭ρいψい嵩・ア︼の議決は一五二九年帝国国会決議第三一項であるくαp一・205=⇒畠<o房莚昌9鴨同o留ヨ三量αq伍R
琶富H蚕・。。賊密﹃︸くレ﹃吸・身尋α一。空ωけ﹂︷§巨・・㎝喜σ阜野義,>ぎα阜蓋ωω,㍉■田,ω﹂一。。一,︶い○﹂︷魯p
ω。穿更。H喜α。円糞。鼠区。同耳葺。ぼ山一g。畳R巨匹葺凶え一。望ぎ日。﹃げ。室。一套・︵∪“謹。鼻婁聾窪
&。羅p鼠ωα。ヨ目①身窪舅プ昏く昏琶︷;&巴一。な自身一げ聾σQ窒婁2毘p鼠のユ弱。量讐竃&R。融
ω。邑①﹃一一。︸一§7H。。犀塁p一⑳①昂σq善。身嘗窪山。﹃営R①葺色翁・−。一げ一σq聲民oげ。導N。ヨ爵。コ・。一昌一・σq。邑酵。昌−
︵78︶評﹃畳の馨琶耳⋮q藷量。︸乙蕊8畳爵一ω琶げ窪”尋艮σ費Φ7葺睾韓騨豊葺撃匹。二お⋮匹
いては、学者の見解が二つあることを述ぺつつ、血統原理を否定。
9ω言R需﹃。。o一一㌧<且冨昌一ヨ78冥R戸く昌α三げ睾号円巴8ヨ切3詳Rげ9。。o一一艶・として、甥姪のみがある揚合に
α。9段R聾N⋮吸<§巨”<昌艮彗≦ム’く。一ぎ鼠。・自一。。・。一σ窪酵まR<区。−。薯。ω婁畢g圃こ。蜜葺む・喜ω。一σω
巨げく。暑目暮壽曇謁①島婁p三睾。三嘗①言睾3巨αq巨量α窪§一・語号き昌旨昌。鐸8訂ごg三同く房
ω8号窪蚕ロ耳まR&Φ寓9藷¢霞pの○区R窪p一一曾鼠一聲野呂。﹃≦6ω。ヲく。器旨巳㌧αおぎく畳R<区日曽洋R
︵82︶⋮⋮咤&ρ巳ぎ①叶℃。一。簿霧毎凶①3邑冨賊。山。の昌げ。巳の﹄幽ω=巨Φ一﹂。葺①も﹃婁。冥。三σ一言㎝・き跨目一﹂。目℃け・
㈱、自暮。冨峠評一自。・冒>耳一琵“9⋮①の需器σq言一,二−⋮9象犀ぎ窓三ψ一暮R2一8㌧暮げ。冨昌自器。葺目。。u。”
ω象器まR8号5一轟耳口5象旨6沖ゴヨ睾oごお8旨日魯鼠ε昌ε昼巴自βΦ品oご①﹃$色鼻評三串⋮・一g目
同畳呉己①げ。p創帥⋮・︵u﹂・。・N。・MyO℃①︻p・≦・。。一・一ひ・いい
︵83︶国。仁一馨㊦昌二一げ。﹃彗舅3区一欝葺。一。一一な。馨り暮自筥毘£鉢︸霧9⋮−・S韓一9ρ2。25。三一ρ㊤2。,
講耳δ9触犀ヨ誓旨℃裟F需﹃讐鼠富9良。8凝言さ毘品雪︵一。u岩。⋮・−犀畠言巴3日︾轟巴口。。⋮⋮富器こ品①
首巳。首巴な。馨臼8島p芭一=8ぎ目日講鼠旨臼江噂ε&奮3ヨ窪ε∋2賃。。三一訴F。器昌。。尻一江g﹃を菖g
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 九一
の窪曾三叶の8且o腎乏o&o昌︵戸P一ド︶の表題をもつこの規定では、都市建設期のツェーリンゲン太公による=包象$言
︵87︶ロの。区。σq薯﹃α一ω震ωgθ梓く且Nぎ犀・・。=自α§⑳①馨凶器昌崖言<。碁5の。3旦く乱旨αの9ぎく薯臼毒且ε段,
ω言酵。。年問邑げ旨中
島望身尋岳①昌αq。ω。プ鐸=9。写鴨≦⋮匿三・。ぎp鼠<g日α⑳雪昌昌叶げ。・・豊a。昌Φ一一<。§p9①亭−⋮・目軌﹄
ω欝。p8階ωく鋒塞三=。p誤。。鵯ぎ馨一二養3身困&。酋昌讐戸鼠三琴昌お馨﹃爵巴σぎ﹃昌σq駄亀窪毒噌a霞
︵86︶H︷一&α一。凶三房く鋒。おの9邑訂巨噂窃馨暮す筈。&①乙。身。ヨ一邑αQ。⇒旨諺げ彗。暮且。轟&①二。訂コく竃窪
︵85︶国昌09ρψ旨o。■
讐け⋮⋮﹂戸魯ωωg畠葺8耳津。凶げ琶叩
9話8三⇒撃日貫8≦R身目32﹃①募く誤。・。。ぎ﹃器一。鼠一邑雪⋮⋮2。プくヨ拐耳N罫昏茸義αq。目豊
︵84︶雪琶三。守葺⋮ム帥①暮ζ猛訂げβω爵雪く呂。三。コ垂母鴛募8ユ$帥&。﹃雪毛ぎ昌耳霧ユ。§
⋮−■①σq§。三ヨヨ琶一ε訟盲首∋宕羅ぎげ。門旨臣ぎ∫ε彗言日ごω貫冒・⋮言。び。、○℃。鐸く卸8一・N。。。・藁・
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 九二
の規定.一p切σ.、.図¢q。﹃切ロ﹃σq。吋。凶昌①門藩岳9目団8井鎧夷囎昌o紹。。岩・に依拠することが記されている。また次の規定
耳檜誌・では市民以外の人間に市内の不動産が帰した揚合の市当局の取戻権お葺8εω舞εお冒8一〇冨2。。すなわち
目貧匹O旨ロのが規定されている。<αq一・国ロ87ρOO・一〇〇。・F園・瞑pげβ①50讐昌曾︷西o阜鼻・bユ<P需8犀即9>ロφ・Oo・おQ。・
.︼の制度は、典型的にドイツ法的といわれるネーエルレヒト2警Φ霞。。算︵土地に対する物権的取得権︶の一種であり、相
続期待権に由来するものが重要である。マルク員、隣人、グルドヘル等々に・ーズングが認められていた。︵ミッタイス・
世良”広中訳、﹃ドイツ私法概説、﹄二〇五頁以下。︶
ドイツ法的といわれる制度が明確に保存された例は、土地譲渡に関する規則︵目タい︶で、売り手の近親者は一ヶ年の
期限内に契約をする権利を有することを規定するネーエルスレヒト2夢Rお。算に基づくもの。また土地の分割・譲渡の制
限、外人への土地譲渡の禁止についての規定は多く、目・斜・評目P=1一評、さらに動産抵当︵自・o。・一︶と土地につい
︵88︶≦一。≦oTく即門の幽昌コ一。。耳︵一器言α8囎8耳一げ昌目同。。馨。P良①&αq二昌。プく。三≦・ユ霧9。旨αq。。。。陣N;ぎヨα。7
ての抵当権設定方式︵自・o。・轟︶などが挙げられている。<触・因目09ρ幹鼠タ
8一一・g9。。巨・自け三∼一・豊。讐窪ぞ。・。・<g駐魯く粛蔓弩冨ヨ馨置琶αqαq。喜喜$客鉱己§⋮。−筈震駐ぎ
<一一器﹃。D叶帥ヰ一旨ω。一旨§昇。g7藍喜芝5昔昌お含§一①喜昌ヨ目噂酵︸まぎ一葺爵§の翁p一醇三け
巧旨。﹃げ。一毘①昌⋮:︸一月一。くo躍&Φ、
︵89︶三。≦。乙一。窟島︻巨9・§7ざ﹃二じ。二量ω暮。。一酵①喜ユ乱δ犀。ぎ。昌身夷<Rω。区黛畠。醤壁け
くo屋昌Φ一二・昌。昌・畠N<pけけR≦益ヨ・一洋o﹃言寒一・犀匙一〇の芹σq暮o暮臥。一・。昌旨α磐pのg匹R<①吾∈三魯。σ一呂一昌自目ヨ
目ぎω什①⇒。ぎ魯。毎。陣江三彗二。αq窪暴σq馨馨﹄爵㎝善⋮⋮。。。一喜窪爵垂山。9蓼。︸夷。凝。嘗。一芝露邑亭
鴨﹃・町量鐸く区一薯。一一①君。一喜。=8耳臼暮ω。民艮gげ①一祭昌⋮⋮︵一鍔伊一・︶
︵90︶く且ωo=。三ω鼠ヰξ。。算。自o一3ま嶺超o簿畠①ヨ塁葺畦8︻︿注Ro品。昌噂⋮・−︵一︸一㌧卜。︶≦o犀器茸窪審山窪団巳8
答く嵩R。巨おR望区︸⋮⋮盆;o=器ロ①ぎ㎝9艮島9Ω霞。凶曾&R訂αq3・旨目σq︿昌g昌ωRoQgF&R山窃
ω。言一夢①一。。ω窪冒ω蒔。一旨・濤。ぎ。ヨσq①の9妻oヨ自くロ。。霞日ω彗零げo窪魯<&Ro夷自⋮⋮︵担H9︶
そのほか・ーマ法と固有法とを結合し、しかも単純な制度を創り出した例としては、受託者と担保物占有者の貴任を同じ
ものとし︵HH・o。・軌︶、用益賃借人と使用賃借人の責任も同じに扱い︵H一・休ご、養子縁組について男親と女親の揚合につ
いて区別をしていない︵目りN・N・︶。く撃国89ρ oo・蹟顕こうした点からツァジウスを﹁ローマ法の現代的慣用﹂ロω易
ヨ&oヨ島b導山昇霧9昌の法律家のグループに編入することがある。例えぱ角9≦芭5僻一耳窪8。no信昌匹軍ぞ緯ω貫9h①
ダ冒>げ一㎝N躍ヨ園O切嚇一SρψNN♪>pヨ’一一ー
︵91︶ ・ーマ法の規則を単純化した例として、用益賃貸借勺8耳と使用賃貸借を統一して一つの制度としており︵目軌﹄︶、
後見↓耳①﹃と保護O⊆審を概念上同一に扱い︵=一・ドド︶、精神病患者と未成年者を等置している︵=い一・命︶。<解
国⇒ooげ①︸ω、一“ω■
︵92︶ 例えばハインリッヒ・ミッタイスは、ツァジウスのような人がもっと多くいたなら、そして彼の影響力がシュヴァーペ
ンの一隅に留まらなかったなら、ドイツ人は・ーマ弦継受を幸にして防いでいたであろうに、と述ぺている。国竃一90量
園oo︸一け巴αoo旨山RO①u。o寓o耳o覧ω。軌αド
︵93︶ 例えば改革都市法においては、ツァジウスが旨山09鵠・εヨに訴権を認めたとされる︵三日月章、契約法に於ける形
式主義とその崩壊の史的研究、同著民事訴訟法の研究5、三七五頁︶。いω雲験拝N目O霧38げ$貸○巨お緯o房畠窪
<R葺讃P一〇。。。どψ一〇ドしかしながら、この都市法の第二部︵債務法︶にはいわゆる契約総論の部分がなく、少なくとも
一般的に昌ロ山⊆昌短oε旨に訴権が認められたわけではない。むしろツァジウスは、コムメンタリアにおいては℃8言ヨ
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 九三
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 九四
典法の原理窪置3醤908江058コp。っo評霞に忠実であった。しかしながらツァジウスは衡平理論によって、団図
己一一ヨ8瓜o犀ヨ一δロ勺麟﹃写︵C℃Rρど8一,まP嶺;Oo一臼8曾旨,碑P︶といっており、この限りにおいては、ローマ
IP
耳ヌ寄讐5冥婁窪℃梓琶も§毒益畳。贈ご日自ご豊言p婁常毒富い信①=22g浮ヨ聾﹄。一﹄タ“㌔
β窪暮2。〇三。αq一己一。F一5。のの①噌。一弩帥島一一辞ρ⋮⋮ω&ご。・。ωけH。αq巳2島什一言ρ2ヨ一場葺す旨。凶碁ωぎ7p−
℃。奮9。ε昌蒼。駐鼠げ巳2&ω⋮ヨ婁”ε。三碁乙一塗ど盲2彗一叶且話鼠玄ε房豪器・⋮−28裟藷。
︷。§鉾<&①一ΦαQ︻・。耳R。毒ωξΦ二墓倉ε。艮。け﹂彗臣。ヨ弩ユ。象景葦四。﹂§℃。酔裟賃。§﹃=二ωまp一聾−
す目声8碁藝ω﹄・。葺轟⋮⋮H旨9ヨ一三。⋮ぢ霧魯︷葺。。︻。・二酋・§三。旨p昌凶区ど。昌g婁§。§
鉱円茸⋮良・。枠﹃喜8﹃す一き且器2。身・毒舞・一鋒昌εω。再訂耳島畳鼠βω一。=∼器ま。2耳轟ρ三︷戸一三〒
︵95︶H蚤一蕃。。8⋮畠⋮αQ一・婁目器二言ω﹄一§亀酉ぎp。ぎ爵’9。β同も。一甲N斜ω﹂’凝。野。一鼻一三四5
冒ユεoβヨ魯ε包ヲ︵O℃角欝一︶で展開されている。
︵94︶ <σQ一・ρ 囚一零ダ団β雪三Poo・総監この問題についての議論は主として、∪蒔①簿ρUoご簿三3①什言3の註解一Φ辺
F>一一5,M丼
ている。この問題をドイツ法的とギールケは評価している。くαq戸ρ讐90詩ρU窪σ号$甲巴<#8拝﹂自︾一2ドψU恥一
o営巳980﹂・知一.断3冒辞︵○℃震P押8一・まP一〇。︶と記し、教会法学の衡平を根拠として、博士達の共通意見を認め
区葺①誘・り①﹄三仁。負。ヨ①邑擁戸許日α。器ρ葺曽富8昌。昌一8。N匡ユo醤砕goo暮弩8ぎ噂の8巨9ヨ8ヨ旨琶。切
三①﹃。婁①葺も①乙・㈱・ぎき。梓一婁ω。。巨9日∪8叶レ。ユ凶。h。量馨。民目山。冒。8号器曾馨。8μ8凶8お①おε﹃
昌鼠o彊。8ロ&8。ヨ冥o自g芽曹p&o。巨ε。象葺旦粛旨含o冨go一・8鼠二四&o昌。β<R巨一。。・“三巴匹o一島
︵96︶ アリストテレスは∼ミ無禁ミについて次のように論じている。﹁法はすぺて一般的なものであるが、ことがらによって
は、ただしい仕方においては一般的規定を行ないえないものが存在する。それゆえ一般的に規定することが必要であるにか
かわらず一般的なかたちではただしく規定することのできないようなことがらにあっては、比較的多くに通ずるところを採
るというのが法の常套である。⋮⋮しかも法は、だからといってただしからぬわけではない。けだし過ちは法にも立法者に
も存せず、かえってことがらの本性に存するのである。つまり﹁個々の行為﹂なるものの素材がもともとこのような性質を
帯ぴているのである。もしだから、法が一般的には語っていても時として一般的規定の律しえないような事態が生ずるなら
ば、その揚合立法者の残しているところ、すなわち、彼が無条件的な仕方で規定することによって過っているところをうけ
て、不足せることがらー立法者がその揚合に臨めばやはり彼自身も規定に含ませるであろうところの、そしてもしそれを
知っていたならば立法しておいたであろうところのことがらーを補正することはただしい。﹁宜﹂が﹁正﹂でありながら
或る種の﹁正﹂ー無条件的な意味におけるそれでなくして無条件的なるがゆえに過ちであるような﹁正﹂1よりもより
よきことがらたる所以である。すなわちこれが﹁宜﹂ということの本性にほかならない。法が一般的なるがゆえに不足して
いる場合においての、法の補正たることが。︵高田三郎訳﹃ニコマコス倫理学、五i一〇、河出版世界の大思想﹄、 一二〇頁
以下︶くσq一’ぼ’Oo冒叩Nロ目国5自ロ㊧匹巽勺ま一〇8℃置o畠窃︾ユ誓08冨切ρ焦象o国暮三畠ぎ昌吸匹①ωaヨ冨oげ①⇒園8洋即N菊O︸
男‘一〇顛ρω■轟い■
︵97︶2塁・2一poe巳pp駿ぎ。督3琶ユヨ冥&99い一島ま=窪ε&屈ぎ。一℃p年R8&︻εヨ。。・江ヨ℃Rh。。ε昌臣葺、β昌
ロ三<R霊ヨ三こ¢。。F昌c昌ρ三ら昌一一一一ごま一二互⋮⋮暮一一〇ω一¢O℃ΦβヤH﹄oo一。N盆”一〇∼二■
ご﹃一ω5=oσQ﹃冥o冥ご日①の“ρ⊆oαゆq∈試<①おP⇒o昌帥伽℃貰ユ8一巽一p器ぞ9辞い品厨一韓o﹃8ロ診臨R曽oαoσoけρロ巳一昌
︵98︶ ◎轟冥○冥R一舞﹂島噌冥一ψ8ε5℃oお身写9一毎昌︸一昌霞o声ゴ5冒詩砦ヨ”R鉢簿品p島コαq9三ユ幹く撃03宕降串
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 九五
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 九六
一目菖﹃区9・釜矯ρ巳8日・一畠§暮匹目三斜ヨ一。σq一μεa婁。梓一琴ぎ毒窪一ω﹄8訂げR。π鋒g。日饗a2耳一仁β冥。−
ユ長魯葺箏包・話磐﹃旨講葺凶。昌ぎ器膏卸言ヨ鷲田試。器Bp富目8§pヨ巨ぎ器ヨゴざ導穽琶器冒冥塞⋮“
2弩嘗=8。喜臣一毫昔馨部建へ、餐ミ粛ざ鈴§。&畳g聾一。管﹄σξ昌ぎ扇凝。二舅礪§扇門目卸訂耳翼鋒自。
一〇8釜琶。訣㌧器馨冨,需a。碁⋮⇒簿島弩一旨畠893巨鐸琶一㌧器2ぎω沖ぎ葺霧5珪。身鼻耳民鼻琶一も。馨酔
一巽,O℃03Hり8一。N云噂罵1一9
︵99︶○℃。声鮮8一﹄轟♪昏1一。。。
︵m︶。邑一α。言℃。§ご・・。一昌一島。暴昌。﹃毒§巴一騨韓一⋮藷§。暑日叶。け。。量ρ仁慧ρ8注轟。一5§貝−
耳馨。彗二2葺p嘗言目鷲犀g日器含診$目象轟霊o℃。葬Hも。一﹄参醇
︵瓢︶き基⋮ヨ簿げ3⋮眉憲暑邑鼻暮巴貫⋮旨3耳巳三。窒⋮言葺ヌ§邑⋮菩琶。ε婁。”αp叶
舞舅℃σ暮ぎαQ一﹂、韓言目罧器ロ号8暮壁旨幹2騨ヨε&o冨。。鼠栞禽の身琶陣レ8昌8帥β⋮目粋び。暑ヨ目串
冥。鼠日葺再ぎの葺8目。蔭﹄一。暮象注oσqβ。8巨p①。・庁“9島2Φ区8昌琶窪8H島耳言o㎝一。。疹9。口R旦
器2⋮・勲ご02β冥o暮三。㎝目・巨言58導。臣旨昇︾○℃臼p一一℃・Nよるωン、のrN&ひ・
接続詞なしにキケ・はブルートのなかで器ρ≡ぎ三㌶9δというと記している、また器繭三ぎ葺こ霧“ε=一鷲一.pε
鵠冨巨ぎ5。巨=昌o山。邑一g。﹄三p一婁。国巨p。ρ。日昌器ρ鼻暮。日。・。一p昌=一。昌一§旨君8霧﹄。ρ⋮ヨ勲げ。量目一一で
梓。=唖5¢一匹ε﹃斜≦帥“。。一一一巨詳ぎ9一﹃幹伽Uo。鉾o旨需醗ε一冥梓費口江⋮。旨一一品①旨σ。一声βε8き昌ω詳き2p。
z80富9け﹂﹂﹂,3基弱8サ急一ぎ唇讐裏8ご・嘗&8葺目。。n“ε&3巨巳⋮=9菖器品o農。巷雪昌“ε&
<一3ε邑8葺屋霧ρ葺緯。β暮品ocxHcεp。融・一胃島器ω、卑8旨琴”。。。江巳ρ⋮目、言o仁p江。β⋮”Pぎ巨β
。一暮一一p2&﹃弩ρ轟日良ロび。昌。葺巳。卸σ。冨ま。ρ巨。8℃・の器辞92ま昌自窪︷。諺。。■卑声ぎ8ρ信一糞冨
冒竃p一。αQ。ωR一讐ρ。ω“器ω。一一一8け自oヨ一巳即器暑ヨ。・一暮ぎぎ8詳ρ20島婁。巳︵一。三言β⋮量−−−○℃①葬押︾
N盆h巽ーま’なおバルドスも衡平と善とを異った法の属性として区別している点について、客国9P>8巳鼠ω言α目
︵翅︶O巳芭目一ω鼠器一娼胃巨o霧す岩讐器R。鼠益一>目o鼠ユ9田ぼ=耳8弼帥&8鼠旨葦■︵最も早期の版は一五〇八年に
いoぼ自島島國四観島・一まo。・ψ這い参照。
刊された模様︶国N一〇αqo℃嵩ヨ四︽Uo一島葺す碑旨話︾︵U・一 一・一︶勺8ぎ留︾二巽9巴窃9一〇<①号o園層完08も陽=Pダ
ールリソヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 九七
︵窺︶ 註︵鵬︶末尾の層08ヨ目葺=5ま9ぎに注目せよ。 ・
8巨区︷8益ω一.品巳肪琶α。9旨一ω唱。もg駐甲o℃。鐸田”8ピ。。。♪一●議一﹂︷一箆一、騨島量㎝”ω■器軌■>一・目﹄ピ
︵贈︶穿一鋒山。g二善g一量琶傷。§旨弩邑一。目﹄邑鼻ρ⋮8暴梓轟一一;号露葺舞昌。一‘塞舞
M。
。・N・鋒N︶日三貫一一二震。・喜一8一・鼠ω貫9弩韓一8。日鷲。8巳ヨ琶三三一算。。。・ω。賊§讐費○℃。曇ト8一﹂軌勉
9辞﹄巨82目呂器ρ⋮ヨg9一・⋮邑奮ε﹃﹄二巳﹂$巨一一・塞蕊琶p一・ぬp島一■言邑、畠三二自四⋮ω︵u■
。。①ρ三ε弊鎖匹b・中や畠o<ρoび一,︵∪■獣、一,O一,いy目瓢Oo置信uq帥αo一$8塁象9甘ω器勺o℃〇三凶o一80①霞鴛一器げ一目一〇。㎝o一−
暴2の§象耳鋒葺騨器目一商弩霧。。富。⋮四巳騨尋目ぎ巳。3β巳暮留﹃壁2睾。蓋琶なΦ二巴裟琵目諭
ε5誓磐塁霧。屈oE。知区⋮σq琶昌算。一茜。且鉾○需鼻捌8一,N参葵 29鼻。お。け耳目ゴ2&もR
誘①邑碧“窪器20勲げ。き。奉&ヨ︵一。げ8警2器。簿昌o砕己8鼠塁漏ヨ巳ε日ωpぎ8三。韓。5・区巨曹画♀
︵鵬︶誓葺ρ﹄§馨二=ぷ。三誓房§。三什霧﹄。三g器話。﹃弩粋§彙器目§耳匙畠①琶﹄旨巴
団田ωヨ島㌧oo,b。Oざ>昌β一〇、︶
20α目㎝鼠器ρ唇旨暮び。旨ヨ良。巨“。江算臼魯日器ρ鼻緯。ヨ暮>ユω8げ・一8国三。一pp︵p自.一﹂﹂﹂こ︶︵匹㏄。F
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 九八
︵姻︶z寿ε壼二粟聾一E.甕①ωR冨﹄毒菖。爺三。8・雪b ρ。琶㏄も。吋ω。一一一の・﹃。げ。㎝﹄目p昌葺p・。・。。一一,
9■賃①巳ヨρ轟。昌。・。巨。一一言轟婁﹂§匹一g昌自℃。請叶、○℃。曇H<﹄もp貝;8一・b。丼一N・
︵㎜︶浮①訂蓉一Φ話昌・き=慧区。身舅言豊邑再曾け毘冒昌琶富β一一障一二。一冒一一一一奉聾鼻ρひ。一雲ぎΦけ騨一一。
ρ三勲げ〇三昇﹂﹂,融﹂。房骨勲葺己け・ヨ巳薯ω器ρ耳島冥p①hR客・5①σ。邑pるM﹂轟・
自鼠需ヨ§畠目目。§おヨ舞82お・葺い‘叶身g9雪ω⋮⋮○究﹃p﹂∼N乙︶賀こb。ド参℃戦9&①量舞巽ω
⋮曹器8巨琶。霧2・包⑦。一︶﹃。8︵一F言一。のあの呂艶一塞琶翁讐①呂霧宣暮ρβ巳茸一葺彗窮。。一器ρ三2巨q。
ごp∵⋮−器ρ三齢8&9・・。且魯9窪一①σqδ算89。叶帥婁沖婆・。耳㎝巴層8区冒9εβ。二①寮一弩℃。犀日。導薗β
︵餅︶>①ρ鼻錺量Φ器・・需。一。ヨ釜象の一翼・・昌旦一巨㎝。曼。・・。暑。﹃唱﹃p。℃。一一畠①﹃”梓ζ﹃p。h①旨=﹃・。.−−國暫訟。Φω・
<﹄も舞もo一、舘19一ーヨ■寅。−。言鼠ρ臣巳。2。き卑2艮象。冨一弩p一一§。象・︵。げ①邑p﹂N・誓ヨヨp9ヨ︶
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︵m︶ω一目。一突。・。言$降﹄。。麟。ρ昌p㎝﹄一。巨貫9。島ロま巳江βぼ8鼠菩冨冨αq。江02呉盆まの昏唱R診8葺費。−
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器ρ毒P知ρ三8匹3叶器28器Φ器①ぎ日凶器奪○究β’H∼b。,冒罰8一■N。。矯8,
︵囎︶ 古典ローマ法において器ρ三5ωは、具体的な法秩序において実現されている正義と考えられていた。罫民島R”U霧
︵耶︶く箇一・o﹂︷一ω。ダ国塁⋮ω”ψ馨・
a旨ぎぎ刃凶毒窪8年”どψ一謡♪劉ω号巳N’田蜂oq9菊oヨ雪いo鴉一ω9。目ρ這ま、ψ凝’
︵m︶<の一・客頃。β>§蓼﹂。ひp。。・§い
︵螂︶ 例えばメランヒトンの影響を強く受けたアーペルい>究ンニo。軌−賦まが、最初の私法の体系化を試みているし、人文
主義法学者として名の高いアルチャートもこの意図をもっており・最終的にはフランス学派のキュジャス〇三霧、ドネルス
Uo需=島がこれを行なっている。しかしこのような体系化からする帰納的な方法は、ツァジウスの実務的な法学のとると
ころではなかった。︵≦oF園8算巴聲ぎきω,o。象参照。︶彼は人文主義的倫理を法の世界で具体化するためにカズイステ
ークを最も適切な方法と考えてい吏のである。
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 九九
一橋大学研究年報 入文科学研究 15 一〇〇
フィハルトにあてた手紙で、次のようにいう。﹁修辞学の技術によって一般論を組立てるということと、特定の法学説に
よって所与の問題を解くことは全く別なのである。なぜなら、個々の問題に対する考慮を欠く分類によるとか、 一般論的な
基本思考によるだけでは・疑問のある・至難なケースに判断を下すことは出来ない。実務家がよく知っているように・整理
された概念よりは遙かに多くのケースがある。だから体系というものは常に不完全なのである。﹂︵乏oヌむ5=窪ご目ダψ
一〇。一︶
︵%︶ 閑き。一5P費ρいψ一器・しかも改革都市法典の草案を検討してみると、当初の段階のものは、このように簡潔なも
のではなく、他の改革法典閑。h9簿簿δ昌9例えば≦自琶ωR男禽eヨ鉢δP一お。。︵口ーマ法素材が過剰に継受された例
として有名︶等と同じく冗長かつ錯雑していた。最終案の段階でツァジウスの手によって整理されたとクノソヘは考えてい
る。
︵”︶<⑳一ω彗峠N冒中N鉱βω・ま・
︵囎︶ プラトン﹃国家﹄、山本光雄訳、七巻四、﹃河出版世界の大思想、 一、二二八頁。なお﹃メノン対話篇﹄の、ソクラテス
の言葉﹁魂がすでに学んでしまっていないようなものは何ひとつとしてないのである。⋮⋮箏物の本性というものはすぺて
互に親近なつながりをもっていて・しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから⋮:二つの想起がきっか
けとなって、おのずから他のすぺてのものを発見するということも充分にありうるのだ。それはつまり探究するとか学ぶと
いうことは・実は全体として・想起することにほかならないからだ。⋮⋮とするとものを知らない人の中には、何を知らな
いにせよ、彼が知らないその当の事柄に関する正しい考え︵思惑︶が内在しているということになるね。⋮⋮﹂が、前提と
なっている。︵メノン、藤沢令夫訳、筑摩版、世界古典文学全集、プラトンー、二五〇、二五七頁︶
︵囎︶H鼻一鼠豊ヨ婁首ωp旨ε・・﹂島旨ε鉱ω霧。言。﹄冒暮﹃邑。昌鼠。切江ω言㎝一鼠ω・富まp。σけ一箪三ヨ⋮撃−
山⋮ぴ。昌犀p蔦ω己。一一一山①一ロの﹄。一一一・,ω団一昌。ご﹃聲一山。昌pぎまρ。切言葺乙一逢算。門凶辞凶基彙邑鼻一巨ω℃昌鼠鼠
自o。9ρ轟年R身壁O℃①﹃p押8一﹄ひ轟.
ω。山。①円一。一一一一昌。㎝。﹃まp日﹄=騨ヨロ一ω暴一。竃量藁き蚤。﹃搾る量。舅毎曇。・一豊冒3音⋮①の。募撃
ールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 一〇一
だというような感じを出しますね。事実、苦労したものはなんでもかんでも値打ちがあると考えているのです。︵エラスム
って転がしているようなものですよ。注釈の上に注釈を、学説の上に学説を積み上げて、自分らの学問こそ最も困難な学問
いる連中もいませんから。なんの関係もないことの上に法律の文面を積み重ねまして、まるでシシュポスの岩を夢中にな
︵麗︶エラスムスはいう.﹁学者連中のなかで、最前列婁求するのは葎学者ですね・なにしをれくらい自盆笹入っ
︵搬︶<の一。≦再葺凝﹃啓&段導亀。、菖員誤。・鵯ω■。・D・、≦。FN喜ω,。。,。・ひ甲
ぎ玄旨自昌昌霧9ε︻ということであった。
当時の人文主義的警鉾として念暫置くぺき.︸とと説たのは、嘗け喜量量冨蜂α・量§§ 2①
︵㎜︶くα−二ぎ・ξ田昌§琶翁豊藷寄プげ”茎き冨く。!豊。−。喜男塁し真ま一”。・恵。・,
昌自壽﹃一ω一言。﹃一F鉱ω郵巴一8一昌嘗。§す・叶■○℃①βHも。一﹄。・pくの一’ぎ一抄曾。一ぼ耳F。。﹂N■
=コの仁即筥貿①﹃一一p。=一pβ卸昌①ω。一。冒巷のぎ。旨喜§℃。酋界2ご5§埠一。・鼻ρ琶量の耳。毒喜ω
目。吾。﹃一びβ・,創雪。の①のωΦ唱=酔帥垂ω﹄註爵。三牙§目辞昌﹄・弩器雲婁薯2邑弩巨量馨。馨毒轟喜
げ”。同。鼻曽﹃凶。凶目﹃。吋①一凶昌ρ・一①善酵2&ρ邑窪②国。ヨ毘。・誉葺弩ヨ。認。b善箏含。8冒。㎝■局。。c仲昏自。⋮喜の
。。切四豊ヰ①⇒α。の。の・,①﹄。の一㊧犀①肘∼訂一ぎ§母①葺目三畳冒ぎ窪§旨§弩塁,塁2邑弩昆暮
蜜目一ω梓Hロ一・。。幽。塞。。﹃四一。−,帥℃口毛一四・。⇒。i弓﹃。凝。β。喜昏・一量舅区。⋮。の℃。塁。§δ葺。§露器器
試昌。ごp言ヨ昌まロ㎝。巻。ωg一一レ。。。⇒目︹一凶諦・・喜藪麹。§奪三。ご§:器・資薯ρ豊霧含馨竃。σq弓。ω鋒
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 一〇ニ
ス、﹃痴愚神礼讃﹄、渡辺一夫、二宮敬訳、世界の名著∬、一三五頁以下︶ツァジウスも男詫28器器名o暮8旨ヨ仁ロ8
。嘗再。思8霞轟富沖。﹄巴琶耳実馨。お8居訂8貫毒唇計雪枠﹄§昏匹艮吋冒帥切呂弩ω=。旨巴吾。
ご冴きロ旨一9雪言5εR一筍お冒暴。︵○需肖黛ど8一,Q象一賠●く撃≦oF◎5=。Pψ8・︶と指摘。
結びにかえて
ツァジウスの法律学の特徴は、人文主義的な古典研究から導き出された新らしい衡平、すなわち国ロ。算。昼を、法
の発展過程に注目することによって、元来静態的にとらえられていた︾8三什霧を動態的なもの変え、具体的な法律
問題について判断の契機としようとしたことにあるであろう。それは法実務における適確な判断を生み出すこととな
り、その成果については、四世紀半を経た今日でも高い評価が与えられているのであり、そこに近代自然法の曙光を
みる人もある。しかしながらツァジウス自身も述べたように、国覧色譲すがどのように具体的に発現するカについて
︵必︶ 、
は、相対的にしかとらえるしかない。そしてそれはツァジウス自身の置かれた位置によって左右される点があるア︸と
をわれわれは見逃してはならないであろう。それは結局はツァジウスの法律学全体を大きく規定し、ドイツの法学史
の流れにおけるその役割を明かならしめるであろう。
ッァジウスはその七四年の生涯を終始南ドイツの上部ライン地方で送り、とくにハプスブルク家支配下に属したと
いえるフライブルクで活動していた。この地理的条件にあっては、ツァジウスはまず皇帝主義者たらざるを得なかっ
た。彼に影響を与えたこの地方の人文主義者達は、皇帝に望みを託す愛国者であったし、帝国都市となったフライブ
ルクでは、皇帝H領邦君主という二重の権威・権力を備えた支配者を前提としたうえでの都市の自治を主張すること
︵撒︶ ︵勝︶
になる。皇帝はキリスト教世界の守護者であり、法秩序の要に君臨する。既存の秩序の維持は人文主義者としても異
︵恥︶
論のないところであった。ツァジウスは同時代人のマキャベリやモアが提示したような新しい形の国家論を畿論する
ことは全くなかったといってよい。ツァジウスに強いて国家論あるいは公法論を求めるとすれば、すでに崩落し始め
ていたと考えられるレーン制を、私法の論理で裏打ちしたものしかない。しかもそれは国制に関する理論ではなく、
︵卿︶
動揺しつつあるレーン制的秩序の内部で惹起されてくる個別的な封を廻る争に解決の指針を与えるための実務のため
の書物であった。彼は相続の法理などを組み合わせながら、具体的土地支配の問題についてなんとか調和をはかり、
︵粥︶
中世的法秩序の現状維持を心掛けたといえる。この点ではツァジウスは極めて保守的であったといわねばならない。
同様のことは、刑事政策や被用者の問題についてもいえる。フライブルク都市法の改革に際して、やがてドイッ刑法
の光として輝くに至ったシュヴァルツェンベルクの理論を全く省みていないし、被用者の過酷な労働に対しても救済
︵必︶
への手続を示しているにすぎないという。この限りにおいては、人文主義者としてではなく、尊大な支配者の論理に
立っている、あるいはそれに迎合していたといわざるを得ない。彼は都市裁判所書記であり、皇帝の法律顧問であっ
たのである。もっともこの点だけをとらえて彼の法律学を評価するのは適当ではないであろう。当時の法律学はおよ
そ支配者の論理を前提としているのが通例であるからである。ただこうした傾向が、ツァジウスの法律学が極めて私
法的な領域に偏重していたことを裏書きするものといえるであろう。
法律学の人文主義的な性格についてはどうであろうか、実はこの問題を広い視野のもとで扱う揚合には、その典型
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 一〇三
とも思われるフランス学風をかなり立入って検討することが必要となる。残念ながら今はまだその時期ではないのだ
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 一〇四
︵㎜︶
が、一つの仮説を設定したうえで、比喩によりながらツァジウスを位置づけてみよう。人文主義的法律学といわれる
ものは、中世的権威すなわちアクルシウス・バルトールスの学説を否定して、古典ローマ法に直接あたる、という共
通の助走路を備えている。反バルトリスト”古典主義という点ではみ出すものはない。しかしながら、この助走路を
︵m︶
過ぎてからのコースは必ずしも同じではない。まず、古典・iマ法に徹底的に沈潜してこれを言語学的に追究してゆ
く典雅法学の本道が果てしなく続いてゆくようにみえる。それはただ実務などに目もくれず古典古代法の英知に理性
︵麗︶
の高嶺を求めて突き進むようにみえる。しかしこの道を進む者もいつかは実践という海の方に引き寄せられてゆく。
︵珊︶
それは国家論を造り上げたり、古典法の体系を構築して実践の揚を遙かに臨むことになる。ツァジウスはこの本道を
歩むことを最初から放棄したのである。助走路が終り古代法の野に遊んだ彼は間もなく実務へと向わざるを得なかっ
た。人文主義的法学者のなかで彼は最も早い時期にその進路を屈折遷せたのである。古典法の英知を、法の理念を想
起するのに山口同みに登る必要はないと考えたのであった。ツァジウスの弟子達には、実務の海での師の姿が目に焼きつ
道に思えたし、バルトールスのドグマを携えて直接実務に走ったほうが、高い報酬にも恵れることも承知していた。
いていたし、師の歩んだ道には、何も例の助走路を通らずとも行けると考えた。彼等にはそれはまだるっこしい廻り
︵鵬︶ ︵塒︶
大学において研究にも従事して、師の験尾に付そうとした者の数は極く僅かであり、そうした者もやがて挫折してい
ったのである。ツァジウスの法律学の真髄はかくして忘れ去られ、ただ彼の実務の海での成果のみが盛んに利用され
︵燭︶ −
た。それは固有法の法律学的加工ないし同化であった。その人文主義的なモティーフより法律学上の・iマ法と固有
(琳
法の接合という形態に意味が認められたのである。かくしてツァジウスの遺産は、一六世紀後半以降のドイツの法実
務が必要とした﹁・ーマ法の現代的慣用﹂への道標と考えられたに違いない。ツァジウスは一島8ヨ昂目。を形成し
ている諸学説のなかのヴァリエィションにも気付いていたし、旨ω8目ヨ自①と凶塁冥o冥ごヨ︵地域的特別法︶とが実
務や立法の局面で緊張関係にあることを他の法学者よりは明確に把握していた。そして当該の条件のもとで最も適切
な判断を見出しうる能力を、人文主義思潮の影響によって陶冶することが出来たのであった。まさにこの資質によっ
て、一六世紀初頭のフライブルクにおける・ーマ法のアクチュアリテートを引き出すことも可能となったと考えねば
ならない。しかしながら、ツァジウスは、彼独自の体系や精緻なドグマを残したわけではない。それは彼の法律学に
は本来組み込み得ないものであったからである。彼の法律学が弟子達に残したものは、法の理念の想起のための自由
なシュピールラウムであったに過ぎない。人文主義的思潮が後退し、領邦国家権力の擾頭と行政装置の合理化と肥大
化、司法制度の階層化が進展してゆく過程にあって、無定形的なドイツの人文主義的法律学は急速に衰えざるを得な
かったのであり、一般的にいって中世的権威の全面的否定さらに進んで・ーマ法自体の権威の相対化は、ドイツにお
いては一七世紀中葉まで待たなければならなかったのである。
︵伽︶ ツァジウスには理性的な考え方があることは確かで、エラスムス等によって影響されたルネサンスの賊.一破戸α、一。、すなわ
ち2pε吋血霞oo霧ぎの思考が潜んでおり、自然法的な性格を読みとることも不可能ではない︵譲○ヌN島一5・9。。ひ︶。な
お拙訳H・ティーメ﹁・ーマ法継受時代の立法﹂ 一橋論叢六六ー四、九頁以下。
︵伽︶ ツァジウスはU,旨・ゼミの註解で、まずギぎ8窃8一一︵一P什一ΦσqΦω。。廿一筥g⇒①。D㌧ρ=陣ωρ麟。b。℃仁一¢ω℃﹃。唱H一m戸。p・として
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 一〇五
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 一〇六
固有法の立法権が都市にあることを示し、バルトールスの条例立法権限についての説を引用しており、そしてフライプルク
についての立法権は都市建設者の特許状に依拠していることを記している。
ΩE蓼。巳§¢∼一百餌藍ω︵痒δも。弱訂け彗R区。募2器ω琶;・器一言ωα︻g一。塁暮菩℃・二⑦碁卑
葺。頴区ε。旦。畳昌自§品§鼻着豊。﹃弩幕二ξ。聾§日﹄3轟g偉ぎ講Hξ。量8℃婁p。邑
目夷一︸器菩即一。㎝豊ヨ℃。馨§§凝§。三。ヨ扇舞も号ぎ旨耳一三■・三け轟一虹§ε目翼界︵○寅二こ
8一・卜02・a︶ここで引用されたバルトールスの見解は次の如くである。
・・⋮−紳ρ言葺婁身計鴛一﹃8巴雪壁g弩義毒ω轟肖毒§§凝聾β睾巨ぞ一も喜一耳。ゆ冨召一,
ε&三帥嘗o一麟ヲ知蜂ooo暮殿8ε即知o臣巳ω豊湧ρ三蓼ぎopβロa訂げo叶℃08舞緯。5一。αQ冨8呂g鼠ρ訂げ辞
三目一品邑一・9窃舞8℃5一,沖ド℃昌’ρ号3﹂糞①旨搾廼轟o⋮⋮..︵ω巽8累oo臣奮暮貰一騨器qβどミ”
O℃oβ一叶朗冒参目;や蟄讐劇器一一〇器嶺o。℃︶
フライブルクの裁判権の実情はどうであったかというと。一五二〇年の改革都市法典の上訴に関する規定︵押昌︶をみる
と、判決直後の口頭による上訴︵一︶、一〇日以内の書面による上訴︵“︶の二つの可能性があり、審級の点については、二〇
グルデンまでの事件は、都市裁判所から参事会員に︵ω︶、その他の事件については、オーバーエルザスのエンジスハイム国〒
。げ。一日にあるオーストリアの代官所図品自誘。訂津に提起されることになっている︵高︶。この上訴審についての規定は一
ま﹃量二昌浮ω酵。言巨罫冒論﹂.O己6げ。邑匡P冨﹄貸貰一あ■舞藁・一ρ。身あ﹄。hとうした現実
クの審級制は変化していないのである。くαq一・≦・団8目巴ヨ帥昌田噌U一〇〇お節三舞寓o昌山Rく〇三R富ぎ昌o一3冒90P切?
いての不上訴の特権が与えられた点であって、その他の事件についてはインスブルックーエンジスハイムーフライブル
五〇四年に皇帝マクシ、・・リアン一世から与えられた特権“自由に由来するものである。間題は二〇グルデン以下の事件につ
の一
を前提として、ツァジウスが次のように記しているのは興味深い、Ω島3二冒富ユ08旨ρσ一ヨ℃Rp8話品呂零窪二ω3ε、
巴言β語一冥ヨ。一需ヨ一Rβρ垢一〇〇ヨ一$富βど一g目o象宕を一〇垢;g⋮昌申富F亀㊤目ω訂犀帥ヨ三量ヨpg鼻塁
萄お。・冒。。・后且・器ω8一・ω魯誓き巳一8叶■。σ。邑四い8一,まρ。。︵。。・ヨヨp﹃ご日︶・<R仁ヨω一g≦梓霧ω后豊08ヨ﹃。。o讐o切8け
b8一一8曇。。5εR。。。一昌。ω・もao岳8霧。塁口﹂塁梓。o吻﹂島碧一梓。ヨg三一。凶巨沖。戊帥ヨ叶門帥9緯耳9ヨ8昌8三・三。
がフライプルクは建設された際に、建設者から自己の条例制定の特権を取得している。それにもかかわらず、わが君主冥言,
℃Rω鴛◎として従属的な地位にある都市等の立法に際しての上位者の承認が必要であることを一般的に記してのち、﹁わ
9甥を尊敬するが故に確認のために努力をしたのであった。﹂︵2霧ぼp9巳3ω問二σ=嶺賃ヨ・oqヨ診目qp器叶胃・88導搾
8菖H目簿す声害魯︹一P8一・まPo。︶として、条例制定権の根拠を建設特許状に求め、法的には自由に条例が設定出来る
﹃三一。四・ヨ9︷⋮魯酔oβ但&。二一。Rg鶉簿g臼Φ=旨二〇菖gの駿o讐Rg昌R鋒o冨一づ冥ぎ。豆のぎ費=昏。H”巳一きω冥0
それをツァジウスに依頼したことはすでに述ぺたが、一五一八年︵改正施行二年前︶に、皇帝マクシ、・・リアン一世は、フラ
が、領邦君主との間に事実上の承認問題があったことを暗示している。すなわちフライプルク市が、都市法の改正を企て、
ヌ
イブルク市に対し、改正についてその序文に次の三項目を挿入するように要請した。 一、都市法はオーストリァ︵ハプスブ
ルク︶家支配の恩寵により、そしてそのために有効となること、二、将来の改正についても然り、三、ハプスプルク家の権
利にとって不都合なことは除外されるぺきこと。これに対して、フライブルク市は翌年回答したが、一は都市の自治、特許
状があるゆえ挿入出来ない、二は実務上の諸理由から不能なこと、三は皇帝のシュルトハイスアムトヘの滞在権はこれを保
証するといって、都市の自治権を明確に主張したのであった。︵く騨一診09ρP鋭ρ︸ω・コ・︶確かに、改革都市法典の
序文には、参事会員やツンフトの代表者の承認を得たことは記されているが、皇帝や領邦君主のそれについては言及されて
いない。︵く匹,くo員o山oユ8ロヲ<o昌ω罫#鴇9一けoりNg男﹃鴇ぴ筒吋m一旨勺ユ鴇αq9く讐閃〇一■目ご開自﹃犀巴讐◎口o=oPoo・卜o轟いh・︶
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的㌧法律学について 一〇七
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 一〇八
︵撚︶ω§§8凝毒梓u。。∼互書屯。蜂き冒。書こ。一穿﹂ω邑菖寡琶・轟︵o寅pレ8記#N︶
−痒。一凝三。冒名β88男oヨ目ρの巳α①h。扇。局陣質。℃夷蔀8﹃。簿勲①ωω①自。げg刻oヨ嘗p。。。一①ω一p。知自。[
一塁噛①&鴛①覧す馳島讐一鼻・三8一・︷舞・。げ。区斜8一﹄軌恥﹂、舅。区睾・p葺窪・馨8暮§εヨぎ巨召εβ℃。論
︵卿︶ これについては一日℃oβ8き帥びぎ8嵩oH一σロω器富信山ロヨρ8首9・○℃震F一<・02.Nひ辞ご.b﹃言8℃ω蜀oヨpp口の
この両者との比較については、︵oFN霧言㌍oo・o。o。参照。
トリック的な人道主義の立揚に立ち、﹃ユートピア﹄C8℃昼監まによって理想的な国家像を描いている。ツァジウスと
、ツァジウス同様法律家的な面ももち、大法官の職にも就いた。エラスムスと親交をもち、ルーターの福音主義を排して、
の有名な﹃君主論﹄=属5。督。を発表したのは一五三二年である。トーマス・モアoo冒↓ぎ日霧罵oお︵一ミo。1嶺雛︶
︵伽︶ マキャベリ乞圃8=o象困8三婁o臣︵一恥$1一鵠M︶はツァジウスと殆んど同じ時代に生き、ローマ史の研究に基づいて
。詳ぎ9轟①︵魯。且p﹂︶類ぎ8冨一茜げ島のo一耳岳婁■︵○需βン8一一$N﹄﹄﹄︶簿ρ
げ§冥。冨婁轟ε墨βρ奏区。。の訂冒℃一。き窟曇昌知§梓琶る臼富。邑。ωヰきωぎユ岳p勲器ρ邑一箸巨一h。鼠㌣
紳弩勲の。一巷。=。αq巳畳§幕ωω⑦信一畠。叶旨︸巳巴bR冨§ヨ︷。鼠p冒冥。旦。耳旨,H旨。≡貧霞即幕旨︷①且毒言−
・蜜ε審冥。且肢89。ωげ2pa馨ε巴ぎω﹂。&﹃卑℃昔暑δ8吸§p一賃ρ轟耳富8づ3g島層。豊の。7
ρ5q9邑昌ヨ爵。§日q。巨自の8鼠=豊器辞⋮⋮冒器ω聾旨ま。洋郵2器魯①馨ほ。区。ロ8忘窮けλvI
p一吾塞巨;昌欝昌鼠一5昇誉・昌鼠。菖。ξぎ巳。・℃韓一琶∵−⋮⋮H富紳言8区。巴曇p。・呂ω3昌鼠一すm巨“5
豊§・邑。耳一§知更げ。暴ま。葺。員①聾凶。・響⋮・︵ひ︶■国。。2。ε。ωg。昌昌ヨ。の“ω一。暮言p三。・8一旨p。菩5
ぎ奉h。昌ρ勲ぎ昌・。ぞ。。一⇒8一一旨。9。一。。。﹄。ヨ一冨8ω8馨昏守拝︵①げ。昌量8一レ寒軌し︶■ρ⋮。コ凶ヨω写げ窪?
・畳8曾巳8馨診。ε。・。藍昌罫腔ε§昌℃R目自。q鼠鼻員ぎきω8昌貫8ε的㊤一。σq。邑8屋轟鼠ぎω号
。。
。。
ユb8巴前一盆ヨρ8ロ器ρ一一垢ω言08首p肩一霞鉱昌o昌象幕“暮⋮⋮︵oσ窪自ρ8一、繋99︶などの法文が注目されるが、
ツァジウスは都市の法と周辺ラントにおける法とを区別していたと考えられる︵1<oFN器一島・ψoooo︶。
︵伽︶ 例えばツァジウスは遺言の自由についてのローマ法の原則を認めて改革都市法典にも導入した︵註︵82︶参照︶。そして
これと対立する相続契約については、∪8鼠曽88貧8す8ρ一饒①一三器9罫ヨご欝ヨ窪8導旨p9昌8<巴o馨・︵ObR勲
HざN・℃賃・8一・ω鵠玉・。︶としてローマ法を根拠に一応否定する。ところが、固有法的な信義則を信頼するなら、この制度
が不道徳に乱用される催れはないから、としてその有効性を論証している。この背後にはバーデンにおけるマルクグラーフ
が働いているといわれている︵く写≦oFN器一島、ψOρoo試耳臨お、N島一島︸ψ賦轟・︶。さらに相続放棄契約についても、
クリストフ・フォン・ツェーリンゲンの息子達による極めて複雑なラントの分割に対して妥当な解決を与えようとする意図
これを承認している∪8葺50①昌oμ誓80α曾幽o嘗罐口α冨目藍9︵○冥ρ同∼ド℃胃・09・卜09・V9︶なおoQけ冒9ぎoq・
魯窪3参照のこと。
︵欝︶<σq一・矩o;N霧ご即ψo。O・都市法の刑事法については、国唇9ρoo﹂おい、古い都市法の刑法規定に全面的に依拠して
いると考えられて い る 。
︵蜘︶ フランスの人文主義的法学者が決して原典純化主義ではなく、中世イタリァ法学による付加物を除去して後、自己の解
釈を付加したという見方がある。属甲目8す国Pρ一ψ象︷・
︵撒︶ キッシュは、人文主義的法律学について二つの型を示している。一つは徹底的に原典に沈潜し、これを批判的に研究し、
言語学の基礎に基づいてこれを理解し、歴史的、考古学的な背景から原典を考察する型、二つは古代文化の法と法律学的な
思考遺産を、現代の社会に適合させ、利用可能なものとするために、法ドグマーティクヘと進むものである。O・匿8F
ωε象9国霞ζ三彰巳ω蕊9象一F三ぞ旨︵ざ嵩むNρoo・ひO・ツァジウスがこの第二の型に属することは明らかであろう。例の
ウールリッヒ・ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について 一〇九
一橋大学研究年報 人文科学研究 15 一一〇
ポムポニウスの・ーマ法史に関する法文U’一,b。。b。,の註解でも、・ーマの制度をフライブルクにも存在したと考えられる
制度と結ぴつけようと努力している。早ερP帥○こω・鴇・
︵雛︶ この系列に属する法学者ないし研究家はい帥霞窪註のく巴ポ︵三ミー三鴇︶に始まり>コσq巳岳℃〇一三窪霧︵一轟箕1一お轟︶
からアルチャートによってイタリァからフランスに持ち込まれ︵嵩8︶、ブダエゥスとともにブールジュ学派が形成され、
発展をみる。なおH8毘5ぎき鉾POこoo,一弓中参照。
︵燭︶ ローマ法原典の批判的研究が進めぱ進むほど、・ーマ法の歴史性が明白なものとなり、法についての歴史的史料として
評価され、ユスチニアヌス法典の言8弓oポ岳oも全く抵抗なしに受け入れられることになる。こうした歴史化によって、
・ーマ法全体の奉該oωR首岱としての意味が稀薄にもなるゆそして歴史における法の相の一つとして、自己の判断を導く
際に引用されることになる。いわばローマ法の新しいアクチュアリテートが発見されてゆく。この点について早oす勲鋭
ρ︾oD・総・およぴ佐々木毅﹃主権・抵抗権・寛容﹄一一頁以下参照。
︵桝︶ ツァジウスの弟子アーメルバッハは、かなりバルトリスト的であることについて国・碗まoヨPUεωoこ9︾昌03霧汀
■、国賃o彊。=島葺ε犀oヨ§ρヨψ三〇融参照。
︵燭︶ ツァジウスの晩年の頃、大学教師の給与はフライブルクやバーゼルで、八OI一〇〇グルデンであった。この時代学生
一人の生活費学費は三〇グルデンであった。そして実務家︵顧問、カンツラーなどの役人︶の給与はいずれも大学教授より
由口同額であり、エンジスハイムの役人には二〇〇グルデン、カンティウンクラがフェルデナント公の顧問として五〇〇グルデ
ン、さらにツァジウスの息子はカンツラーとして二〇〇〇グルデンの年俸を得たという。︵毛一耳Rび。お、費勲○こoD﹂Oは■︶
︵聯︶ フライブルク大学の法学部はツァジウスの死後急激に凋落した。ツァジウスの後を襲った97な器一夷段は才能に恵れ
ず三四歳で大学を去った。バーゼル大学の法学部も一六世紀中葉においては大して重要な位置になかった。ツァジウスの弟
子のボニファキュラス・アーメルバッハが教授の職にあった期間一人の博士も出していない。︵≦533①轟・費野○こoo
一〇ρ︶
︵撤︶ 註︵1︶参照。ツァジウスの鑑定集、封建法要録などが独立して出版され、しかもドイツ語に訳されたことは、ツァジ
ウスの名声と権威が息の畏いものであったことを示していると思うが、それが実務の面においてであったことに注目する必
要があろう。
一
︵昭和四九年一〇月一六日 受理︶
ウールリッヒ ツァジウスの﹁人文主義的﹂法律学について
ノ