Title Author(s) Citation Issue Date Type 産業革命研究の新たな視点を求めて 依光, 正哲 一橋大学研究年報. 社会学研究, 13: 131-161 1974-03-30 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/9609 Right Hitotsubashi University Repository 産業革命研究の新たな視点を求めて 一 問題 提起 依 光 正 哲 イギリスの産業革命はさまざまな学問領域から分析がなされ、多くの成果がこれまでに蓄積されているのである が、その研究成果は大きく二つに分類されている。一方に﹁悲観論的産業革命論﹂があり、他方に﹁楽観論的産業革 ︵1︶ 命論﹂があるのである。議論の対立点は、産業革命の社会的成果をいかに評価するかという点である。そして、より ︵2︶ 基本的には資本主義の本質理解あるいは価値観の相違が二つの産業革命論へと収敏してゆくのであろう。 これまでの日本における西洋経済史学界の研究動向として、封建制から資本主義への移行が集中的に議論されたこ とは周知のことであろう。ところが、﹁封建制から資本主義への移行期の研究のいわば不均等発展の結果として、他 ︵3︶ の時代とくに近代史・現代史の分野はほとんど未開拓なまま残されるに至った。﹂しかし、日本の歴史家の緊急かつ ︵4︶ 窮極の研究課題は﹁近代社会“資本主義社会の構造分析でありその運動法則の究明﹂であり、そこから﹁古代・中 世・近世初期の研究に従事した歴史家の少くとも一部は近代史・現代史の研究に移るべきであり、新しく出てくる研 産業革命研究の新たな視点を求めて 一=二 究者もまたこの研究対象に集中すべきである﹂という吉岡民の主張がでてくるのである。そして、一九六五年に高橋 一橋大学研究年報 社会学研究 13 二二二 ︵5︶ 幸八郎氏の編纂による﹃産業革命の研究﹄が公表されたのである。しかしながらこの研究の基本的視角は﹁封建制か ら資本主義への移行﹂という従来からこの理論的枠組みをもちつづけていたのである。即ち、産業革命はこの移行の ︵6︶ 最終局面として位置づけられているのである。 、 このような伝統的な研究動向に対して、最近、角山栄氏は﹁産業革命﹂を出発点とする経済史研究の必要性を提唱 される。角山氏によれば、長い間日本の近代化と民主化のモデルとして扱われてきたイギリスは経済停滞に悩まされ るようになったが、他方日本は高度成長を達成し、イギリスはもはや日本のモデルではなくなった。その上、近代史 の課題として、産業革命、経済恐慌、帝国主義、世界資本主義などが、経済史の中心課題となってきた。従って、 ﹁産業革命﹂をゴールとする経済史ではなく、﹁産業革命﹂を出発点とする経済史が必要である、と角山氏は主張さ れるのである。 ︵7︶ われわれは角山氏の﹁産業革命﹂を出発点とする経済史研究の必要性という主張に同意するものであるが、何故に ﹁産業革命﹂を出発点とする経済史が必要であるのかという理由に関して、角山氏と若干意見を異にしている。ただ 単に﹁産業革命﹂以降の諸事態が重要であるというだけでは、﹁産業革命﹂を出発点とする経済史研究の意義は必ら ずしも明確とはいえないと考えるのである。 われわれは以下の諸点を根拠として、産業革命の画期性を主張したい。第一に、産業革命は歴史上の大分水嶺、あ るいはロストウ流の表現を使えば﹁離陸﹂であり、産業革命は産業革命以前とは異なる社会を生みだしたこと。第二 に、自然と人間との関係が産業革命を境にして質的に転換したこと。第三に、産業革命期にエネルギー源が根本的に 変化したこと。第四に、世界の人口は産業革命を境にして爆発的に増加しはじめたこと。そして最後に、産業活動の 活発化の裏側にある産業公害が産業革命とともに開始されたこと。以上のような諸点を考慮するならば、従来の古 代・中世・近代という歴史区分ではなく、産業革命を一大画期とする歴史理解が成立しうると考えるのである。従っ て、われわれは角山氏のいわれる﹁産業革命﹂を出発点とする経済史という主張に同意するのである。 いま指摘した諸点について若干論じてみることとしょう。第一の点、即ち、﹁離陸﹂あるいは﹁大分水嶺﹂につい てであるが、この問題はいわゆる経済成長史学に属する研究者によって主張されていることである。その代表的人物 はいうまでもなくW・W・ロストウとR・M・ハートウェルである。 従来の伝統的な歴史区分によれば、経済社会の発展過程は、奴隷制社会・封建制社会・資本主義社会・社会主義社 会という段階に区分されていた。この歴史区分に従えば、﹁産業革命﹂は資本主義経済が成立したのちに、資本主義 経済を確立せしめる重要な歴史的役割を荷ったものとされていた。従って、﹁産業革命﹂は資本主義社会の成立・確 立・発展という枠組みのなかに位置づけられていたのである。このような伝統的解釈に対してロストウは、﹁離陸﹂ ︵8︶ という概念を提出することによって、産業革命の重要性を強調することになった。また、R・M・ハートウェルは産 ︵9︶ ︵10︶ ︵n︶ 業革命を08暮∪善o暮貯巳なとして位置づけている。ハートウェルの主張の根幹をなす部分は、産業革命を﹁エ 業化を通して一人当り産出高の持続的成長﹂と理解し、産業革命期にはじめて﹁持続的経済成長が達成され﹂、生活 の質も工業化とともに改善されたことの意義を強調する点にある。われわれは、ハートウェルの議論に全面的に賛同 ︵12︶ 産業革命研究の新たな視点を求めて 一三三 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一三四 するわけではないが、一人当り産出高の持続的成長は産業革命を他の歴史的諸現象以上に評価する一つの根拠になり うると考えている。 第二の点、即ち﹁自然と人間﹂との関係が産業革命を境にして質的な転換をなしとげたということは、生産活動に 対する基本的な考え方が変ったことを意味する。中世までの世界は、自然の流れに逆らうことなく、いわぱ自然の諸 カの運動に身をゆだねて生産活動を行なっていた。ところが、近代科学の成立によって、自然を﹁科学的﹂に分析し、 ︵13︶ その分析結果が生産活動に導入されることによって、あるいは生産活動の側から﹁科学﹂に尉して問題の解明を迫る ことによって、﹁科学﹂と生産活動は結合し、その結果が累積的に蓄積され、そのことによって、人間の自然に対す る支配が噌段と強化されてくることになる。その意味で、近代科学の成立はきわめて大きな意義を有するものである といわねばならない。ところで、後に論ずる点であるが、近代科学の成立は産業革命期に先行している。にもかかわ らず産業革命期を重視するのは、科学と生産活動が本格的に結合し、生産力の増加を確実なものにしえたのは産業革 命期に他ならないと考えるからである。 第三点はエネルギー源の問題である。産業革命期に蒸気機関が登揚してきたことは常識に属する事柄であるのであ るが、蒸気機関の登揚の本質的な意義は、従来の水力・風力・畜力に依存していたエネルギー体系から再生不可能な ︵14︶ 鉱物資源を主要なエネルギi供給源にしたエネルギー体系への転換なのである。このエネルギー源の転換によって、 人類は自然の力を克服し、﹁定常的﹂エネルギーを確保しうるようになり、このことによって、大量生産もはじめて ︵15︶ 可能となったのである。 第四点は世界人口の増加の問題である。産業革命以前の長い歴史のなかで、人口の増加はきわめて低い増加率しか ︵妬︶ 示してこなかった。ところが、一八世紀の中葉を境にして、世界人口はほぼ垂直的に増加しはじめたのである。この 未曾有の人口増加は、人口増加を上廻る生産力の発展によって支えられたのである。すでに第一点を論じた際に触れ. た一人当り産出高の増加はこの急激な人口増加をも上廻っていたことにここで注意しておく必要があろう。そして、 産業革命期に上昇した人口増加傾向は現在まで逆戻りすることなく続いてきているのである。 最後に、いままでに論じてきた諸点が、いずれも産業公害あるいは環境破壊と強く結びついており、産業革命は総 体として、産業公害の出発点として位置づけることが可能であると考える。第一点の生産力の発展は当然のことなが ら生産力の発展に見合った量の産業廃棄物を排出したであろうことは想像に難くない。また、第二点の自然に対する 支配は直接的に環境破壊と結びついているであろう。さらに、第三点のエネルギー源の転換とその大量使用は大気汚 染のきわめて重要な要因となりうるのである。そして、人口の増加そのものは、資源と人間との関係をシビヤーなも のにし、長期的視野をもたずに資源を消費してゆく可能性と現実性を強制するような性格のものであろう。 かくして、われわれは産業革命が歴史上の一大画期であることを主張することが可能になるのである。われわれは 本稿において、以上のような諸点に照して産業革命の歴史的位置づけを試みるのであるが、いまだ試論の域を出ず、 残された処理すべき問題が山積していることを充分自覚している。現代の状況を理解する上で、問題を歴史的に遡っ て解いてゆくための一つのステップとして、われわれは本稿を位置づけることとしたい。 ︵1︶ 国oげo。げ㊤タ、旨︸国’旨己卜暮o窪蕊§Qミ§︸のミ§塁き簿恥輻笈ミ璽&卜&o鐸3■○一益oP一8♪やα高. 産業革命研究の新たな視点を求めて =二五 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一三六 ︵2︶ 岡田与好﹁産業革命論の変遷﹂高橋幸八郎編﹃産業革命の研究﹄、岩波書店、昭和四〇年、七頁。 ︵3︶ 吉岡昭彦﹁日本にかける西洋史研究について1安保闘争のなかで研究者の課題を考えるー﹂﹃歴史評論﹄・ 二二号、 ︵7︶ ︵6︶ ︵5︶ ︵4︶ ヵ○韓oヨ≦・≦‘↓ぎ勲§跨勲肉q§。ミざqき§鳶Oのヨげユα鴨9コ一8ρ・ストゥの段階論に関する検討はさまざ 角山栄﹃経済史学﹄、東洋経済新報社、昭和四五年、六!八頁参照。 高橋幸八郎編、前掲書、﹁序﹂参照。 同上、九頁。 同上、二頁。 昭和三五年九月、四頁。 ︵8︶ ︵9︶ ﹄幾4や&。 国胃け≦o戸界竃‘§。守脳竃“蕊蔑穿§§賊§9義騨§oミ。孚。§、ぷ■o注o戸一〇鐸や命● まな論 れ て い る の で 、本稿では特に取り上げないこととする。 者 に よ っ て 行 な わ ︵10︶ き&‘や鶏■ いわゆる生活水準論争に関して、ハートウェルは、一人当り平均所得が上昇し、労働者に不利な分配傾向はみられず、貨 ︵11︶ ︵12︶ 幣賃金 , で あ っ た時 落 し て お り 、 食品その他の消費財の一人当り消費は増加しており、政府は生活水準の保障あ が 一 定 物 価 は 下 るいは 介 入 す る よ う に な っ た ので 上 昇 の た め に 経 済 に 、 イギリスの大部分の労働者の実質賃金は一八OO年から一八五一年の 近代科学の成立以前において科学や生産活動上の改善・発明がなかったということを意味しているのではない。たとえば 間に上 昇 し て い た 、 と主張するのである。︵韻&‘呂避︶ ︵13︶ 中世に お い て ﹁水力・風力・畜力 この三つの動力源は、ついに合理的に利用されるようになり、世界に巨大な変化をもた らした。﹂︵獣=3、・P﹄瀞詳辱昏罫旨跨§乱由象ミ噂・び○旨創oPち訟・質軌9伊藤新一・小林秋男・鎮目恭夫訳﹃人類と機械 の歴史︵増補版︶﹄岩波書店、昭和四三年、六一頁。︶ ︵N︶ ○ξ巳亘ρ竃‘ミ&肉8きミ融自慧ミ唆&強ミミ㌧§ミミざド悶曾頓鼠昌国85・ω什げa2一Sρ℃マ鴇−誘旧川久保公 夫・堀内一徳訳﹃経済発展と世界人口﹄、ミネルヴァ書房、昭和四七年、五八頁。 ︵15︶ 星野芳郎氏は次のようにのぺている。﹁近代工業技術は、自然の絶えまない変化や苛酷な自然条件をのりこえて、定常的 な生産力の創出を可能にしたところに、決定的な歴史的意義をもつ。﹂︵星野芳郎著﹃反公害の論理﹄、勤草書房、昭和四七年、 ︵16︶ oo鼠三99P閏‘の倉↓ぎ︸§憶哉、吻、§蕊&ざき、き9恥ミ恥県Qき§鳶↓o呂暮Pむ認”づ℃﹂?嵩・﹁一七五〇年には、全 七七頁。︶ 世界人口は六億五〇〇〇万から八億五〇〇〇万の間のどこかにあった。一八五〇年にはそれは一一億から一三億の間にあっ た。一九〇〇年には一六億になった。一九五〇年には約二五億になり、 一九六〇年には三〇億をこえ、いまそれはかつて比類 のない早さで増加しつづけている。﹂︵○甘巳5ρ客︸§・竃昏・︸やε即前掲邦訳書、 一一六頁︶ 二 科学 革命 前節での主張を具体化してゆく一つの試みとして、科学・技術の問題をとりあげることとする。本稿では論述の順 序として、まず近代科学の成立、科学の生産活動への適用の問題を論じ、つぎに、科学・技術の問題をとくに経済学 の分野はどのように扱ってきたのかをとりあげ、今後のわれわれの研究方向を模索することとしたい。 産業革命期の科学・技術の問題にアプ・ーチする揚合、︵−︶科学・技術がどのように発展してきたのか、︵2︶科 産業革命研究の新たな視点を求めて 一三七 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一三八 学・技術がどのように生産活動に採用され七きたのか、︵3︶その結果生産活動はどのように変化したのか、などの 点を追求しなければならないであろう。第一の問題は、近代科学の成立、即ち一七世紀を中心とした﹁科学革命﹂と その後の科学・技術の発展をめぐるさまざまな問題が中心的課題となるであろう。第二の問題は、科学と生産活動と の結合を理論的・実証的に解明してゆかねばならないであろう。第三の間題は、現実に新しい科学・技術が生産現揚 に採用される揚合、労働の諸側面においていかなる問題が発生し、それをいかに解決したのかという問題であり、産 業構造の変化、産出高の変化なども追求しなければならないであろう。以上の諸間題のうち、第三の問題はわれわれ の準備不足もあって、一応本稿の分析対象から除外することとしたい。 第一の問題から入ることとしよう。A・R・ホールがのべている如く、﹁科学は文明の発生と踵を接して開始され ている﹂のである。いわゆる農耕の定着はきわめて大きな意義を有するものであり、たとえばS・リリーは次のよう ︵1︶ にのぺている。﹁農業の開始と、それにともなって生長した技術とは、人類の歴史における最初の大技術革命を構成 している﹂。同様な主張はチポラにもみられる。﹁何十万年ものあいだ、人間は掠奪動物として生活した。狩猟、漁務、 ︵2︶ 果実の採集、ほかの人間を殺して食べるといったことだけが、長期間、必要な生計の糧を人間に保証する手段であっ た。﹂﹁ほんの最近1あるところで、何らかの方法で1最初の大きな経済革命がおこった。それは農耕の発見と動物の 家畜化である。﹂このような一大革命は、自然の観察、新しい知識の応用によってもたらされたものであろう。しか ︵3︶ しながら、農耕の定着以降の長期間にわたって、革命の名に価するような大きな変革を人類は経験することがなかっ ︵4︶ た。チポラは、農耕社会が長くつづいたのち甚、﹁ついで一八世紀の後半、第二の革命が起こった。産業革命である﹂ とのべている。 農耕の発見・定着以後の世界できわめて大きな意義をもつ大変革は﹁産業革命﹂であるのであるが、﹁産業革命﹂ に先行して歴史上登揚してきた﹁近代科学の成立﹂は科学の分野における、あるいは思想の側面での大変革であると 同時に、﹁産業革命﹂の重要な前提条件でもあり、﹁近代科学の成立﹂はきわめて重要な意義を有するものと考えねば ならないであろう。 近代科学の成立は別の側面からも重要である。現時点においては、科学に対する絶対的信頼が動揺しつつあるが、 ﹁最近までは、科学者も一般大衆も、科学の応用は人間の幸福を自動的にもたらすという心地よい信仰にひたって甚 だ愉快にすごしてきた﹂ことは事実なのである。このような思想は非常に古いものでぱなく、﹁・ジャー・ベイコン ︵5︶ の時代にはそれは革命的で危険な思想であったが、その後三〇〇年たって、フランシス・ベイコンによってはじめて 確信を略って主張されるのである。産業革命と共にもたらされた科学と手工業の莫大な進歩的変化によってはじめて、 この進歩の思想は確認された永続的な真理となったのである。﹂即ち、近代の進歩思想あるいは﹁工学万能思想﹂の ︵6︶ ︵7︶ 歴史的淵源は他ならぬ﹁近代科学の成立﹂であり、従って、﹁近代科学の成立﹂の問題は現代の諸問題と密接につな がっていると考えねばならないのである。現代の科学をめぐる諸問題と五代科学の成立との関係について伊東俊太郎 氏は次のようにのべている。﹁われわれが今日その中に生活しているこの現代社会において、原子力や人工衛星によ って象徴されている現代科学の巨大なカはまさしく圧倒的というべきものであり、いかなる文化的・社会的・政治的 事象もこの現代科学の甚大な影響を離れて語ることはできない。それは文字通り現代文明の中心であり、人間の将来 産業革命研究の新たな視点を求めて 一三九 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一四〇 の運命もこの科学の帰趨如何にかかっているといっても決して過言ではない。しかし、今や人類の運命ともなったこ の科学の圧倒的な勢力も、実は一七世紀を中心として起った一回的歴史的事件1﹃科学革命﹄に由来しているので ︵8︶ あり、現代文明というものもひっきょうこの革命の直接的結果にほかならない。﹂しかしながら、科学革命期に示さ れた諸原理が現代の諸問題といかに強く関連しているとしても、それらが現実のものとなるためには、科学革命のの ちに出現する産業革命が必要であったことに留意しなけれぱならない。 われわれはすでに産業革命期を一大画期とする歴史理解を示した。この視点からすれば、われわれは伊東氏とは若 干力点を異にし、科学革命を産業革命の前提条件として位置づけるのである。近代科学の成立、あるいは科学革命の 成果は直接的に生産活動に貢献したというよりはむしろ思想のレヴェルで、科学と生産が一致あるいは共働しなけれ ばならないことが強調された点であり、そのことが現実となり、科学と生産の共働の成果が確実なものとして姿をあ らわすのが産業革命期であると考えるべきであろう。この点をふまえた上で、科学革命に立入ることとしよう。 バナールは﹁科学は︵1︶ 一つの制度として、︵2︶一つの方法として、︵3︶知識の累積的伝統として、︵4︶生 産の維持と発展の重要な要素として、︵5︶宇宙と人間に対する信条と態度を形成させる最も強力な影響力の一つと して、みなすことができる﹂とのべている。このような科学が成立してくるのは、一七世紀を中心とした﹁科学革 ︵9︶ 命﹂によるのである。そして、一五世紀の後半から一七世紀に亘る期間における﹁科学の中での思想の変化は、当時 何よりも重要だと思われていた政治と宗教の中での思想の変化よりもはるかに大きかった。それは結局科学革命とも いうべきものであり、このなかで、ギリシャ人から引き渡され回教とキリスト教の神学者によってひとしく聖典とさ れた知的仮定の全構造がくつがえされ、根本的に新しい体系がそれに取って代ったのである。新しい定量的で原子的 で無限に拡げられた世俗的世界像が、回教徒とキリスト教徒の神学者がギリシャ人から受けついだ古い定性的で連続 的で一定の範囲に限られた宗教的世界像に取って代った。﹂科学革命と総称せらるる一連の諸変化は、ルネサンスや ︵10︶ 宗教改革以上に重要であったことをバナールは主張しているのである。伊東俊太郎氏も同じように科学革命の重要性 を主張している。伊東氏は﹁ルネサンスとは古代ギリシャの学芸をその生地のまま生き生きと復活させてくることを 目標とする、本質的には一つの復古運動であり、ここに何らかの根本的に新しい知的変革が起ったということはない。 ⋮⋮宗教改革も同様であって、これも﹃信仰によってのみ義とせられる﹄原始キリスト教への還帰をめざす復古運動 ︵11︶ であり、それ自身が何ら新しいものへの創造に向かっているわけではない。﹂とさえいい切っているのである。そし て、伊東氏は、科学革命は世俗的世界像をつくりあげ、﹁古代・中世には存しなかった自然に対する新たな知的態度 を形成し、そこに一つの根本的な知的転換を遂行﹂したとするのである。 ︵12︶ ﹁科学革命﹂といわれる歴史的現象のなかで特にわれわれが注目したいのは、科学的方法の確立によって、知識は 累積的性格をもつに至り、かつ科学と技術との提携を主たる目標にした結果、科学は社会に甚大なインパクトを与え ることになる、という連関である。これらの点がまさに﹁科学革命期﹂に達成されたのであるが、バナールは﹁科学 革命﹂を次の三期に便宜上分けている。第一は、一四四〇ー一五四〇年の期間で、ルネサンスの段階ともいうべきも ︵13︶ のであり、この第一期の特色は、﹁中世が古典時代からとり入れた世界像全体に対する挑戦﹂であり、建設的思想よ りはむしろ批判の段階であり、﹁建設的なしごとの大部分は将来にまたねばならなかったが、もはや過去へ逆戻りす 産業革命研究の新たな視点を求めて 一四一 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一四二 ることはありえなくなった﹂のである。 ︵14︶ 第二期は一五四〇1一六四〇年の一世紀で、第一期のし.ごとをひきつぎ、反対勢力.反対思想に対して十分に対抗 ︵15︶ できるようになり、宇宙に関してとられた﹁科学的方法﹂が人体の解剖にまで拡大され、直接の観察と実験などによ って、解剖学・生理学・病理学などの分野がひらけてきたのである。また、新しい科学哲学の提唱者としてのフラン シス・ペイコンとデカルトが出現したのもこの時期であり、﹁この二大人物は中世科学と近代科学との転回点に立っ ていた﹂のである。 ︵16︶ 第三期は一六四〇ー一六九〇年の期間であるが、この期間が近代科学の成立にとっては決定的に重要である。﹁こ の時期の重点は、自然と学芸の全分野にわたる広範囲の探求と、数学的方法を適用することのできる部分での学説の ︵17︶ ︵18︶ 建設的な理論とにあった。﹂そして諸々の科学者の組織ができると同時に、科学者自体の体質も変化し、産業と科学 との結合、より広くいえば社会的経済的問題と科学との結合の方向をたどったのである。 以上のようにして成立した近代科学は、さまざまな領域に及ぶ数多くの成果を生み出してゆくのであるが、科学革 命の一つの大きな成果は、自然を理解するという点で、思想的にも方法論的にも旧来の世界の科学とは質を異にした という点である。そして、人間が自然の理解を深めてゆくと同時に、自然を人間にとって有利な方向で利用すること が無限に拡大されることになるのである。さらにこのことの延長線上に、﹁自然を人間の物質生活に都合のよいよう な形に大規模に改造する﹂ことが存在するのである。この自然の大改造がさまざまな問題を含んでいることは周知の ︵19V ことであろうが、ともかく自然と人間との関係では、現在みられる人間の対応の仕方の出発点が科学革命期であるこ とをここでは確認しておきたい。 ︵1︶ 国巴一い︾切‘箋ミ切竃§騨慧Q肉恥竃叫§ざさ罎8よ魯9H6目α○旨勉一〇象■︾巳一9 ︵2︶ い≡Φざの‘§・言£や分前掲邦訳書、五頁。 ︵3︶ ○首巳5ρ罫矯§しg£℃﹂o。︸前掲邦訳書、二−三頁。 ︵4︶ き&己やN9同上訳書、 一三頁。 ︵5︶ 切Φ旨巴︸い∪‘警器§q§零象ミ噂・ro且oP弩山&ダ這a・や曾鎮目恭夫訳﹃歴史における科学﹄、1、みすず書房、 昭和四二年、三頁。 ︵6︶ き§嚇同上訳書。 ︵7︶ 現時点においては、科学技術に対する価値観が変りつつあり、星野芳郎氏は﹁工学万能思想の破産﹂を宜告される。︵星 野芳郎著、前掲書・三ー一三頁参照。︶ ︵8︶ 伊東俊太郎﹁科学革命について﹂日本科学史学会編﹃科学革命﹄、森北出版、昭和三六年、一〇ー一一頁。 ︵9︶ 切①馨巴︸いU‘§・&こ℃やω19前掲邦訳書、1、五頁。 ︵10︶ ま&‘マ誠ど同上邦訳書、H、二一七ー二一八頁。 ︵11︶ 伊東俊太郎、前掲論文、二頁。 ︵12︶ 同上、 一一1=一頁。伊東氏は科学革命の具体的内容として次の九点を列挙している。︵同上、二九−三一頁。︶ ︵i︶ 世界像の変換 ︵茸︶ 自然観の変革 ︵出︶ 価値観の転換 産業革命研究の新たな視点を求めて 一四三 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一四四 ︵短︶ 科学的方法の確立 ︵v︶ 累積的知識の成立 ︵.斑︶ 制度としての科学の成立 じ ︵面︶ 科学の担い手の交代 ︵”11︶ 科学と技術の提携 V ︵氏︶ 科学の社会へのインバクト ︵13︶ 国oヨ巴︾旨U‘§.亀登や舘9前掲邦訳書、H、二一九頁。 ︵糾︶ 導義こbや鵠Oー謎ご同上邦訳書、H、二四〇頁。 ︵15︶ 奪蕊■︸心や8一18㌣同上邦訳書、H、二五七−二五八頁。 ︵16︶ ま&‘掌8舎同上邦訳書、H、二五九頁。 ︵17︶ き蕊‘や総分同上邦訳書、H、二七五頁。 ︵18︶ρき哉‘℃やωごーω一〇〇⋮同上邦訳書、H、二六六ー二七〇頁。 フラン契●ベイコン ︵19︶ 山田圭一著﹃現代技術論﹄、朝倉書店、昭和四四年、 一六頁。 の科学思想の根幹ともいうべき部分は、ベイコン自身の次の表現の中にみいだすことができるであろう。即ち﹁諸科 近代科学の成立を論ずる際に欠かすことのできない思想家はフランシス・ベイコンである。フランシス・ベイコン ︵1︶ 学の真実で正当な目標は次の点以外の何物でもない。即ち、人間の生活を新しい発見やカで豊かにすることである﹂ という主張である。ベイコン研究者であるファリントンがのべている如く、﹁ベイコンの大志は、人間の生活状態の ︵2︶ 救済に役だてるために、自然に関する人間の知識を再構成することであった﹂のである。ベイコンの﹃大革新﹄の序 ︵3︶ 文は人民にあてられた小論文であるといわれているが、そのなかでベイコンは次のようにのべている。﹁わたしはす べての人々に対して一般的に勧告したいことが一つある。それは知識の真の目的は何であるかということを考えて欲 しいということである。心をたのしませるためでもなく、論争をこととするためでもなく、他人にまさるためでもな く、利得のためでもなく、その他いっさいのこうした低級なことがらのためでもなく、人間生活の利益や効用のため に知識を求め、しカも人間愛をもってこの知識を完成し制御して欲しい、ということなのである。﹂ベイコンが提唱 ﹀ ︵4︶ 革 命 で あ る の で は な く 、 そ の 知 識 を 利 用 し て の 生 活 条 件 の 革 命 で あ っ た の で ︵あ 5り︶ し て い る こ と は 、 た だ 単 な る 知 識の 、 ︵6︶ だから.︾そ、ペイコン以前の学問を批判するのである。そして、ベイコンは人間の野心を三つに分類し、最後のもの を高く評価するのである。﹁人間の野心の三つの種類といわばその段階を区別することは的はずれではなかろう。そ の第一は、自分の勢力を祖国のうちに伸ばそうと欲する人びとの野心であって、そのようなものは卑俗で下等である。 第二は、祖国の権力と支配権を人類のあいだに拡大しようとつとめる人びとの野心であって、そのようなものは品位 はまさっているが、食欲な点で変りがない。ところが、人類自体の権力と支配権を宇宙全体に対してたてなおし、ひ ろげようと努力するひとがあるなら、 ︵それを野心と呼んでよいなら︶そのような野心は、他のものよりも健全で高 貴なものであることは疑いない。﹂さらに、ベイコンは続けて次のように述ぺている。﹁人間の自然に対する支配権は 産業革命研究の新たな視点を求めて 一四五 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一四六 ︵ 7 ︶ ただ技術と学問にのみよっている。﹂かくして、ベイコンは学問の重要性あるいは学問の力を強調するのである。そ ︵8︶ して、同時に、新しい学間の方法として、帰納法を採用すべきことを主張するのである。ベイコンは学問の貝的.方 法をはっきりと明示し、人間の将来に対する希望をさししめしたことになるのである。 ︵9︶ しかしながら、ベイコンが単なる進歩の信仰者であったと考えてはならないであろう。何故ならば、すでに引用し たベイコンの主張から察知しうることであるが、ベイコンは人間愛を知識の中心にすえているからである。このこと についてファリントンは彼の著作﹃フランシス・ベイコン﹄の﹁日本訳へのまえがき﹂で次のように論じている。 ﹁ヨi・ッパ的伝統の最善のもののなかから、ベイコンは自分がもっとも重要と思う二つの徳を選びだした。それは 人間愛と謙虚さとである。⋮⋮人間愛というばあい、それは、あらゆる行動やあらゆる思想を他の人びとの幸福のた めにふりむけることを意味していた。⋮⋮かれが謙虚さという揚合、それは人間の英知はいくらすぐれていても限定 されたものでしかなく、しかも科学はそれ自体の用途を教えてはくれないことをつねに自覚している、ということを ︵n︶ 意味した。﹂この二つの徳のうちの一方である人間愛と、もう一方の謙虚さのいずれかが欠落した学問はベイコンに は考えられなかった。たとえば、﹃大革新の序言﹄で、﹁わたくしは、ヘピが注ぎこんで、そのために人間の心がふく れあがり増長する毒気が学問からとり除かれて、われわれが身のほどをわきまえず、つつしみを忘れて知ろうなどと ︵n︶ せずに、人間愛において真理を完成させて下さることを祈願します﹂とベイコンは神への祈りをささげている。そし て、謙虚さは次の表現のなかに如実にあらわれてくるのである。即ち﹁人間は、自然に奉仕するもの、自然を解明す るものとして、自然の秩序について実際に観察し、あるいは精神によって考察したことだけをなし、理解する。それ ︵12︶ 以上のことは、知らず、またなすこともできない﹂とベィコンはのべ、さらに、﹁人間のなしうることは、ただ自然 ︵13︶ 物を結びつけ、ひき離すことだけであって、他のことは、自然がその内部でやってゆくのである﹂と主張するのであ る。 以上のようにして、ベイコンの科学思想の根底には、人間愛と謙虚さの二つが存在し、この二つを欠いた科学はベ イコンには考えられなかったであろうし、また批判の対象になったであろう。ところが、現実に科学が進歩してゆく 過程で、科学の成果が生産活動に結合されてゆく揚合、科学の内容からベイコンがいう人間愛と謙虚さが徐々に排除 されていったのではなかろうか。バナールが指摘している如く、﹁科学の知的形成と産業の技術的変化と資本主義の ︵14︶ 経済的および政治的支配とが同一の時代に同一の揚所で一緒に生長し開花したのは決して偶然のことではない﹂ので ある。つまり、﹁原価をひき下げ生産を増し利潤を増大させるという目的﹂に現実的に近代科学が役立ち、﹁ひとたび 一八世紀後半にこの過程が動き出すと、それが生みだした新しい資本にしっかり根をおろしたそれ自身の成功によっ ︵巧︶ て、この過程はどんどん生長し、他の諸分野へひろがっていった﹂のである。この過程こそ、科学か航人間愛と謙虚 さを奪ってゆく最大の原因と考えられるであろう。そして、近代科学の成立時において本来的にめざしていたものと は逆の目的のために科学が利用されつづけたのではなかろうか。このことの顕著な現象として、生産点での労働災害 や﹁公望・﹂などがあらわれてくるのである。 ︵16︶ ︵−︶浮8p男‘さ養§oミ§§詳u図図図H︸言因。げ璽ω。p一■客①島‘↓嘗、建8。喜帖&ぎき勉魚孚§暑寒8§㍉§蕊ミ幾 、き馨“ぎ頴慧恥象β&Rイa霧斜&ざ毯・ミミニぎ≧&跨9蕊等邑§2皇肉§晦麟詰良肋官鼠R量9■O昌αOP一8“や謎ρ︵以下に 産業革命研究の新たな視点を求めて 一四七 電 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一四八 おいて、ベイコンの著作はこのテキストを使用し、引用に際しては本テキストの頁数を示すこととする。︶ ︵2︶悶彗ユ轟8P中・肉蓉§躇聰§寒・、歳執8§ぎ鷺亀﹄蔑霧“註&硫9§郵U目qoP一〇蟄一や甜松川七郎・中村恒矩訳﹃フ ランシス・ペイコン﹄、岩波書店、昭和四三年、四頁。 ︵3︶ 鵠幾‘やooQo 同上邦訳書、 一一五頁。 ︵4︶国。げ①器。pい客8‘§g鉢・も・N轟y ︵5︶ 舅即旨旨鴨oP切‘。噂竃εb﹂一曾前掲邦訳書、一四八頁。ペイコンは、文明の進んだ地方と最も野蛮な地方との生活面 での相違は﹁土地からでも人種からでもなく、技術︵跨$︶によるものである﹂︵園oび賃匿○コい竃■a40辱9罰や89︶と のぺ、技術の重要性を強調するのである。 ︵6︶ヵ。げΦ塁op い 軍 Φ 山 ‘ 竜 ・ 轟 ・ も ﹄ ひ ρ ︵7︶ さ蕊こや80、 ︵8︶ さ幾。︸りト。お︾やトoひρ噂マ賠Oi賠歴ホールは、科学の方法として経験主義あるいは帰納法だけでは不十分であることを 指摘している。︵國巴一︾︾菊‘§・裂・︸やまS︶ ︵13︶ ︵12︶ ︵11︶ ︵−o︶ 団Φ吋ロ巴︸いU‘oサ9蛛こ℃や 呂NIω鴇︸前掲邦訳書、H、三〇〇頁、 鵠&。 寒&‘や田P カoびΦ詳ωoコい竃.a‘§。 &肺‘℃︾Nまー㌢S 同上邦訳書、血頁。 悶 費目 頓 εP こ o鳩 言 弊‘ ︵ ユ 昌 ゆ 。 ・bお,前掲邦訳書、 一〇三−一〇四頁。 9︶ ︵14︶ ︵15︶ 摩&‘や累曾同上邦訳書、n、三〇一頁。 ︵16︶ 公害の問題は﹁まず生産の揚そのものにあらわれる。﹂つまり労働災害である。﹁そして、それが確実に全環境に及んでく る﹂という関係にある。︵神保元二﹃生産は環境と調和できるか﹄、日刊工業新聞社、昭和四八年、六一頁。︶従って、われわ れは、まず生産現揚において科学の応用がいかなる災害を生み出していったのか、しかる後に全環境にどのような影響を与え たのかを具体的に追求しなければならない。この点は今後のわれわれの残された課題としておきたい。 四 産業革命期の科学と技術 産業革命期における科学の生産への適用については、従来きわめて消極的な見解が支配的であった。即ち、産業革 命期の技術上の諸改善は手工的熟練の産物であり、科学は技術上の諸問題の解決に対して何ら重要な役割を演じては いないという見解、即ち、科学革命と産業革命を異質のものとして扱う見方が支配的であった。たとえば、バナール は、﹁産業革命は、必ずしも科学の進歩によって生み出されたものではなく、少なくともその最初の段階ではたしか にそうではなかった。﹂﹁新境地の打開は、前者[科学革命]においては本質的に知識の領域で、後者[産業革命]にお ︵1︶ いては実践の領域で行なわれた。⋮⋮知識とカ[生産力]とのこの二つの革命は、ある程度までは平行して進み、別 ︵2︶ 別の内的諸力によって推進された﹂と主張するのである。しかしながら、ベイコンを検討した際にも触れた如く、両 者は結合しており、科学革命期の科学の推進力の重要な部分は現実の生活を豊かにすることであったのであり、科学 の応用はすでに科学革命時代において重要な関心事であったので、産業革命期においては、その延長線上に、科学の 産業革命研究の新たな視点を求めて 一四九 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一五〇 応用が強化されたと考えるぺきであろう。 ところが、科学史家中山茂氏は蒸気機関の発達過程に触れながら、その際に科学が主要な役割を演じていないこと を次の諸点を根拠として主張するのである。 ︵3︶ ︵1︶ イギリス政府は技術開発に積極的な役割を果たしていない。当時の技術者も資本家ブルジョワジーも、政府 の保護・干渉を必要としなかった。 ︵2︶ 蒸気機関技術者のなかで高等教育を受けた者は一人もいなかった。彼らは産業地帯において、全く伝統的な 徒弟制度の中で訓練を受けたのである。彼らはアカデミックなサークルとも関係を持っていない。 ︵3︶ 技術者は伝統的に﹁手の人﹂であり﹁筆の人﹂ではない。技術者は自分の発明を公表することを嫌い、秘伝 として保持しようとした。 ﹁以上のような状態にあったから、一九世紀初めまでは、科学者と技術者はまだ全く違った価値基準、出身階層、 ︵ 4 ︶ 教育程度をもった異ったグループだったのである﹂と中山氏は主張するのである。従って、﹁蒸気機関の技術の発達 ︵5︶ の主要段階は、既成科学理論の指導も援助もなしに、産業革命期の技術的要請の中から生まれてきた﹂ということに なる。このような主張にはいくつかの点で疑義が生じてくる。まず第一は﹁科学﹂のとらえ方である。中山氏は﹁思 想史的には一七世紀をもって近代科学が成立したといえるが、まだ制度として科学が社会に根を下ろしているわけで ︵6︶ はない。科学研究の体制史・制度史の上からは、一九世紀こそが近代科学の成立期といえる﹂とされ、﹁科学の抽象 ︵7︶ 的理論と職人的技術が一挙に連絡するのではない。その間に、近代工学の成立が介在する。﹂﹁近代工学とは、技術的 知識の断片を、科学によって体系づけたものである。学ぶ方の側では、科学を意識するとしないとで、伝統的職人と ︵8︶ 近代工学者・近代技術者の差ができる。つまり科学を意識した技術を近代工学といえよう﹂と主張するのである。さ らに、中山氏は﹁科学と技術の融合は科学者と技術者という伝統的に異なった職業集団の融合なくしては、考えられ ︵9︶ ないであろう。その融合の揚は、教育、とくに高等教育においてである﹂と述べている。以上の主張から明らかな如 く、中山氏は﹁科学﹂を高等教育を受けた科学者の仕事として規定し、科学の担い手を科学者のみに限定しているの である。しかしながら、特定の職業集団のみが科学を推進したわけではない。また、イギリスの産業革命期の教育の 在り方をみてみると、﹁高等教育﹂“﹁科学教育﹂という図式が成立しうるかはなはだ疑間なところである。高等教育 の頂点にあるオックスフォードとケンブリッヂの両大学が、産業革命期において最も進んだ科学教育を行なっていた ︵10︶ という保証は一つもなく、むしろ、﹁科学教育﹂の面では遅れた教育機関であったことが立証されているのである。 ︵11︶ そして、非国教徒の諸アカデミーが当時最も進んだ﹁科学教育﹂を実施しており、このアカデ、・・ーで学んだ人ぴとが、 中山氏のいう﹁技術者﹂たちであったのである。さらに、工業の中心地として登揚しはじめたランカシヤ地方や、・・ド ランド地方において、﹁文学・哲学の会﹂が結成され、そこに結集する人びとの共通の関心は、科学の推進・普及。 ︵⑫︶ 応用であり、科学者と技術者は絶えず接触を保っていたのである。かくして、産業革命期の技術的諸間題の解決に対 して科学理論の指導と援助がなく、全くの職人的熟練によって技術が推進されたとする中山民の議論には賛成しかね るのである。 マッソン“・ビンソンは科学革命と産業革命の分離という考え方に反対し、﹁産業革命は一つの知的運動でもあっ 産業革命研究の新たな視点を求めて 一五一 ︵13︶ 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一五二 た﹂と主張し、次の四点を強調している。第一に、一八世紀の著名な﹁科学者﹂たち、たとえぱJ・プリーストリー やカヴァンディッシュなどは、当時のワットやウェッヂウッドやボウルトンなどのような工業家を﹁非科学者﹂とは ︵鱈︶ 考えず、むしろ二つのグループの人びとは相互に新たな分野を開拓するための協力者・協働者と考えていたのである。 マッソン”・ビンソンはこの点を﹃産業革命期の科学と技術﹄のなかの随所で、工業家と科学者の私的書簡の往復や 各地の﹁文学.哲学の会﹂の構成メンバーなどから実証しているのである。第二に、科学と経験主義とは対立物の如 く理解されているが、マッソン,・ビンソンは﹁科学の進歩は経験の積み重ねによった﹂と主張し、科学と経験主義 ︵15︶ ︵16︶ とは対立的なものでないア︸とを強調する。そして、現実には、数学的知識が道具や機械の製作の際に利用され、科学 者は実験の遂行に際して職人に依存することが多かった、とマッソン”・ビンソンはのぺるのである。また、各種の ︵17︶ 教育機関を通じて得られた知識が、実地の経験と結合されている例として、スミートンやテルフォードやレニーなど をあげているのである。第三に、産業革命期の科学の役割を低く評価する根拠の一つとして、今から三〇〇年ほど以 ︵18︶ 前の時代の﹁科学理論﹂が今日では誤っていることを指摘することも可能であるが、当時の﹁科学理論﹂が誤ったも のであったとしても、そのことによって、当時の﹁科学﹂が生産に役立たない、あるいは無用であった、ということ にはならない、とマッソンロ・ビンソンは主張する。第四に、科学者も工業家もともに﹁知識﹂と﹁実践﹂の双方に ︵19︶ ︵20︶ 関心をいだいていた、とマッソン日・ビンソンは主張する。そして、フランシス・ベイコンの影響が大きいことをマ ッソン目・ビンソンは指摘するのである。 ︵21︶ 以上のようにして、﹁科学﹂と﹁産業﹂との関係は緊密になってゆき、両者の接触の過程のなかから、蒸気機関や ︵22︶ 機械工業、化学工業などが出現してくるのである。勿論、マッソン目ロピンソンが指摘している如く、従来の伝統的 ︵23︶ 技術が多くの産業部面において、依然として重要な位置を占めていることは確かであろう。また、科学の貢献度は限 られていたともいいうるかも知れない。しかし、われわれがベイコンの科学思想を論じた際に触れた如く、科学革命 期に思想のレヴェルで結合していた科学と産業は、徐々に相互の関係を深めてゆき、そのことによって両者が発展し、 現実に巨大な生産力の上昇として実現されたのが産業革命期であると理解しなければならないであろう。そして科学 き&こや観曾同上邦訳書、H、三〇三頁。 國gロ巴・︾U‘o辱&罰や験押前掲邦訳書、∬、三〇〇頁。 二〇九− 一 二 〇 頁 。 一九九頁。 二一九頁。 二二〇頁。 ω‘の誉§跨き鉢ぎ韓象ミ噂蝦吋脳§ミご浮特偽Ol﹄G。﹁9いoロqoP一89℃サoo軌ーoo9 二二三頁。 ω一目oコ 一五三 成田克矢著﹃イギリス教育 昭和四五年、二〇六ー二〇九頁参照。 の役割は産業革命以降ますます重要になり、従って、進歩の不可避性の確信が強化されることになるのである。 ︵24︶ ︵2︶ ︵1︶ 中山茂﹁産業時代の科学﹂広重徹編﹃科学史のすすめ﹄、筑摩書房、 二〇九頁。 ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ 産業革命研究の新たな視点を求めて 御茶の水書房、昭和四一年、 一三−一四頁。 政策史研究﹄、 ︵10︶ 、 、 、 、 、 、 同同同同同同 上上上上上上 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一五四 ︵11︶ 当時の著名な科学者とアカデミーとの関係については、O仁算貫幹y臼無ミ璽県肉&§息帆§きQま§b蕊欝婁冒昌3P §FaP一8ざb や は 軌 ー 二 y を 参 照 。 ︵12︶ω一目oPヌ韓§‘℃や旨IN9竃岳ωoP︾中即民輿園09霧oP頓言§&9蕊§罫§ご逡き肺富N&竃ミミ 目ロのωo夢︾国,鱒ロq国因〇三塁oP§●3“‘やく一一, 掬s魯§§’目卑β90馨o弓q。b‘一8担℃やooNl一B。 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 た。 ︵24︶ それ固有の、権力、富、文化における進歩は、だれがみてもあきらかであった。進歩の観念はそれ固有の歴史にもっとも この進歩の不可避性の確信について、S・ポラードは次のようにのぺている。﹁一九世紀はブルジ日アジーの世紀であっ 氏は主 張 さ れ る 。 ︵荒川泓﹃近代科学技術の成立﹄、北大刊行会、昭和四八年、九頁。︶ たとえば、産業革命期の製鉄業の発展過程をのぺた部分で、﹁技術が先行し、それを追って科学が生まれてきた﹂と荒川 き蕊‘やo。’ き哉‘サ一9 奪蕊‘や帥 さ&‘℃や→鈎 導&‘℃やNい1刈N 專蕊‘サωoo◎ き哉‘bや818・ ま&’ さ哉●︸やω● ((((((((((( ))))))))))) ふさわしいばかりでなく、苦しんでいる人ぴとの傷ましい抗議をもみ消し、進歩の支配を根こそぎ奪うために武装した階級の 決意を弱めるための便利な道具であることも証明した。﹂︵舟橋喜恵訳﹃進歩の思想−歴史と社会1﹄、紀伊国屋書店、昭 和四六年、 一七一頁。︶ 五 経済学と科学・技術 われわれは産業革命期において、科学が重要な役割を果たすようになったことを主張してきた。この科学をめぐる 問題は単に経済上の問題だけでなく、教育制度の問題や社会構造、社会運動などとも密接な関係があることは自明の ことであろう。このような広範な問題を含む科学と技術の問題について、社会科学とくに経済学はどのようなアプロ ーチをこれまでにとってきたのかをサーヴェイするのが本節の課題である。 すでに触れたことではあるが、現代社会に占める科学・技術の地位はきわめて重大である。にもかかわらず、社会 科学の学問領域によってその扱い方が著しく異なり、また時代にょってもその位置づけが区漕たる状況にあった。経 ︵1︶ 済学は長い間、この科学・技術の問題を﹁非経済的要因﹂として分析の対象から除外してきたのである。他方、経済 史学は、たえず科学・技術の発展に注目し、生産力の発展に占める科学・技術の役割を重視してきたのである。そし て、最近においては、経済学の領域において﹁経済成長﹂の重要な要因の一つとして科学・技術を位置づける試みが なされるに至り、科学・技術の重要性に関する共通の認識が成立しはじめていると言ってもよかろう。 科学・技術の問題が経済学の理論的枠組みから放逐されるようになったのは、一九世紀の後半以降に属することで 産業革命研究の新たな視点を求めて 一五五 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一五六 あり、重商主義の経済理論においても、古典派経済学においても、工業的・技術的発展の問題や社会間題は純粋に経 済的な間題とともに理論的分析の対象になっていたのである。ところが、一九世紀の後半から二〇世紀の初頭にかけ ︵2︶ ての新古典派経済学は、静態分析を主眼とするに至り、経験的・社会的・歴史的アプローチを放棄し、より厳密な理 ︵3︶ 論的・数学的手法を採用するようになったのである。 新古典派経済学の時代において、シュンペーターは長期の経済問題、とくに経済変動をもたらす要因を分析するこ とが重要であると強調した最初の人物であった。シュンペーターは技術上の主要なイノーべーションが経済成長の不 ︵4︶ 連続を説明するものであると主張し、企業者活動を重視したのである。ところが、シュンペーターはイノーべーシ目 ンを採用する企業者の活動に力点をおいたため、科学的・技術的問題そのものに言及することが少なくなってしまっ た。つまり、シュンペーターの理論のなかにも、科学・技術が正当な位置づけを与えられなかったのである。そして、 新古典派経済学の時代において、シュンペーターの著作はいわぱ当時の支配的経済理論の外にあった、といわれてい で経済状態の変化を十分に解明しうるかどうか疑問である、とのべている。即ち、科学や技術の変化が投資の決定に である。マッソンは、短期的にはそのような仮定が成立しうることを認めるものの、長期的にそのような仮定のもと 他の計量化しえない諸変数に関しては、依然として﹁非経済的﹂﹁外因的﹂﹁与えられたもの﹂として扱われていたの 期の﹁動態的﹂要因を除外しており、﹁動態的均衡﹂をめざす動態モデルでも、科学的・技術的要因、あるいはその ケインズの出現によって、経済学の内部から、巨視的経済学が発展してきた。しかしながら、ケインズ経済学は長 駕 際してきわめて大きな判断材料となるし、持続的経済成長にとって決定的に重要であると考えるのである。また、経 済成長の分析にとって、単なる投資量の分析だけでは不十分であり、投資の質、即ち投資の具体的中味まで分析しな ︵6︶ ければならない、とマッソンは主張している。つまり、個々の産業なり企業なりの投資行動を具体的なレヴェルにま で下がって分析する必要があると主張するのである。このような主張とは逆に、経済理論は科学的・技術的・産業的 現実との接触を欠く方向に進展していったといいうるであろう。、 他方、経済発展を扱った経済学者たちは、経済発展の重要な要因として経済的要因のみでなく、心理的、社会的、 政治的、科学的、技術的な諸要因をも重視したのである。サイモン・クズネッツは経済成長にとって科学と技術が決 定的役割を果たすことを強調し、次のようにのべている。﹁科学が近代的な技術の基礎であり、近代的な技術がまた 近代における経済成長の基礎であるということは、ほとんど強調する必要もない。近代科学およぴ科学にもとづいた 技術の出現と発展がなかったならば、経済的生産も人口も、発展した国ルにおいて前世紀から一世紀半にわたって示 ︵7︶ されたような高い率で成長することができなかったであろう。﹂クズネッツは具体的に次のようにのべている。﹁一九 世紀後半以来、先進国における経済成長の主要な源泉は科学に基礎をおく技術ーとりわけ電力、内燃機関、電子、 原子力、生物などの領域におけるーであったということができる。しかし、もっと昔にさかのぼってみても、産業 革命に関連した三つの主要な技術的発明−木綿、鉄および蒸気機関にかんするーのうち、最後のものがとりわけ ︵8︶ 最も重要であり、その後の成長にとって根本的なものであったということができる。﹂かくして、クズネッツは、先進 国の主要な﹁資本﹂は物的資本ではなく、人的資本、即ち、経験科学に裏づけられた一群の知識と教育や訓練にょっ 産業革命研究の新たな視点を求めて 一五七 てその知識を有効に使用しうる人間の能力である、と主張することになるのである。このような主張はフェルナーに 一橋大学研究年報 社会学研究 13 一五八 ︵9︶ よってもなされている。フェルナーによれぱ、技術上、組織上の改善が、資源の流動性と金融面での弾力性と合体す ることによって、長期的な成長が可能となる。即ち、技術的改良を経済成長の主要な要因としているのである。また、 ︵10︶ ブルートンは、近代の動態モデルはその人為的仮定によって大部分が非現実的であると批判し、成長過程におけるイ ノ㌧へーションの戦略的重要性を強調するとともに、経済成長理論はイノーベーシ日ン行動の説明を含むものでなけ れぱならない、と主張するのである。 ︵n︶ 同様な主張はサルターにもみられる。サルターは、生産性の背後に経済生活のすべての動態要因が存在しており、 なかでも、技術進歩、蓄積、企業家、社会の制度的パターンなどが重要であることを強調する。そして、生産の増加 ︵12︶ と生産性の向上をもたらす原因として何よりも技術進歩と規模の経済性が重要であることを主張するのである。また、 ネルソン“ペック目カラチェックも同様に経済成長における科学的・技術的進歩の﹁主導的役割﹂を強調し、教育・ ︵ 1 3 ︶ 訓練の決定的重要性を主張するのである。 このような科学・技術の重視という学界動向を背景にして、科学・技術の発展を計量化する試みがあらわれてきた。 その一つがシュモークラーの業績であろう。シュモークラーは特許統計を使用して技術進歩の計量化を試みているの である。 ︵14︶ マッソンによれば、理論分析においても統計的手法を使った分析においても、経済学は科学・技術の発展の理解に は程遠い状態にある。また、社会学の領域においても同様に、科学・技術に関する統一的理論があるわけではないと マッソンはのべている。ところが、これまでの諸理論のなかには、われわれが第一節で示したような問題視角からの ︵15︶ アプ・ーチがほとんど、あるいは全く見られないのである。たしかに、最近では環境問題への関心が高まるなかで、 さまざまな領域からこの問題を扱っている著作が出現している。しかしながら、経済史学の領域においては環境問題 へのアプ・ーチがほとんどなされていないのが現状であろう。われわれは経済史の領域に環境問題を導入することの 必要性をあらためて強調しておきたい。この視点を導入しなければ﹁経済学と経済史の共働作業﹂という新たな試み ︵16︶ は現代の深刻な諸間題を充分解明しえないのではなかろうか。どのような方法と分析用具を使って環境間題を理論 的.歴史的に解明してゆくのかは今後のわれわれに課せられた重大な課題となるであろう。本稿はそのための一つの 作業にすぎないのである。 ︵−︶ 竃ρωのoP︾国・8‘GQ蔑§&﹃題、§oご遷§良肉8竈ミqqさ§訓§簿。肉むミS§評9蕊§遷讐■o昌山oP一℃鳶㌧℃や一ーN■ ︵2︶幅言﹄‘署﹄1轟臼 ︵3︶ の畠ヨ8区9”いぎ器§画§§亀肉Sぎ§ざ孚§罫躍跨奉aq・勺‘這ひρもやいーρ新古典派の微視的・静態的理論は 第一次世界大戦まで支配的になってゆくのであるが、戦争のショックによって経済学者は長期的な経済成畏や経済循環の問題 に目を向けるようになるのである。しかし、科学・技術の問題が理論的考察の対象となるのは、ずっと後のことに属する。 ︵三霧のoP︾り国。a‘§■蔑£℃やooー℃・︶ ︵4︶ ω。げq巨需8ぴい︾‘↓詳ミsミ嘘&閏暑ぎミ恥Ucb還N§慧§辞頃弩く貰山O■b‘一〇﹄♪℃や巽ーO命 ︵6︶さ&‘電﹂OIF ︵5︶冒霧8p︾■国。8‘§§‘やP 産業革命研究の新たな視点を求めて 一五九 一橋大学研究年報 社会学研究 路 一六〇 ︵7︶ 図自箒貫ω・博の§卜題ミ還物§肉Sぎミ&Qきミ訓ロ一﹃o量這治︸やい9畏谷部亮一訳﹃経済成長−六つの講義1﹄、 巌松堂出版、昭和三六年、三五頁。クズネッツは科学や技術的知識の進歩にはそれ独自の型があると考え、その型の追求に当 に結ぴつけること、︵3︶イノーぺーシ日ン、発明を経済的生産へ初めて大規模に応用すること、︵4︶改良、︵5︶イノペー って、次の諸事項を区別する。即ち、︵1︶科学的発見、知識の追加、︵2︶発明、すなわち既存の知識を有用な目的へ実験的 シ日ンの普及、である。そして、これらを継起的段階として考えるけれども、逆の方向に作用することもあるとクズネッツは のぺる。さらに、知識それ自体だけでは充分ではなく、イノーぺーシ日ンが実際に生産的用途に採用される揚合、︵1︶物的 資本と熟練労働力、︵2︶企業者の才能、︵3︶市揚、などの要因が重要であると主張する。︵き蕊‘bや81器⋮同上邦訳書、 三五ー三八頁。︶ ︵8︶ 囚自諾貫P§脳ミ詰肉S蓉詳ざqき§鳶肉駐恥硫壁g9ミ99&魯馬&讐属巴oq.■一Gひ9や一9&℃1一9塩野谷祐一 訳﹃近代経済成長の分析﹄上、東洋経済新報社、昭和四三年、九−一〇頁。 ︵9︶国ロ目o貫P寒§。誉。孚。§詳§画o。妹馨9彗♪2。≦嶋9F一〇鉛℃や軍1い9唱.ひOlひN● ︵10︶ 司〇一ぎoび≦‘↓還蔑助9蔑O駕∼跨き肉8き馨&躯o融蔑婁2Φ≦鴫○詩︸一39や鴇︸やにoo。 ︵11︶bご旨8p頃こ‘δ88目℃o審蔓↓げoo爵ぼ㎎8国88巨oO8薄﹃、ぼ国oω〇一一貫閃●男g鼻円、罵ミ帖題&寒§§融 Qき竃尊劃同=ぎo貫一8ρ℃b■駆oひ一ートo$︸b。NooN. ︵12︶ω巴8﹂ゑ■国。P㌻&竃ぎ愚§画頴。ぎ讐匙Ωぎε“9導ぼ一凝①d。℃‘一80︸サど屠D一鵠1一いか暑●宝OI一黄 づや一aー辰9 ︵13︶乞①一のop界力。﹄Bい︸①畠費且中∪甲囚巴器冨ぎ↓sぎ§遷︾穿睾。誉“$。§ぴ象蔑、息§加箋§一誇昌ぎ讐。p 一8ざ℃やεーβや長や一〇N・ただし、彼らは、科学技術上の進歩は全く独立的なものではなく、発明は経済的要因によ ◎ って刺激を与えられるものであると考え、科学・技術に関して供給面と需要面の双方を評価しようとするのである。 ︵き義‘ やOoo︸︾い弁︶ ︵M︶ の9ヨ8匡βy守e§識§§良肉Sぎミ&qき§鳶国o﹃毒巳φ■b‘一89シュモークラーは経済成長が発明や技術進 歩率を決定するという結論に達したのである︵﹄騨3や一〇。Ol一〇。一・︶が、この点の批判については冒墓8詳鋭■ΦP。サ §‘りやまIb。Sを参照。 ︵15︶ 竃臣8P︾彰aこo掌蔑罰や総、社会学の分野からの経済成長に関する分析については︸蜀鴨P甲国一〇§畔ぎミSミ壁 &警蔑良9§蜜≡ぼo一の︸G8■を参照。 ︵16︶ 竃霧ω8>・鼻&‘。サ魯罰℃・ひo。“国胃け≦o一ご界寓‘§恥智亀§尊蕊&寒§§帆§§匙肉Sぎミ。♀。§、3や図≦ 一六一 ︵昭和四八年一一月一六日 受理︶ 産業革命研究の新たな視点を求めて
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