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戦後アルザス地域主義の展開と特質
坂井, 一成
一橋論叢, 114(2): 452-467
1995-08-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/12179
Right
Hitotsubashi University Repository
橋論叢第114巻第2号平成7年(1995年)8月号(254)
坂 井
成
戦後アルザス地域主義の展開
指標との関連において捉えようとするものである。
るとの認識に立って、戦後の政治意識の変化という動的
的・社会的変動によって絶えず変転する動的なものであ
わらない。本稿はこうしたアルザス地域主義を、政治
する意志の存在は、他のエスニツク・マイノリティと変
消滅したわけではない。エスニヅクな独自性を守ろうと
アイデンティティを擁護する動きが終戦にようて完全に
バのものとなっている﹂。しかし、自分たち自身の文化、
︵1︶
にフランスのものとなっている。さもなけれぱヨーロツ
戦後アルザス地域主義の展開と特質
−政治意識の変容をめぐって1
はじめに
第二次大戦以後のアルザス地域主義は、概して穏健な
ものとなうている。戦前、ドイツとフランスとの間で、
アルザス人自身の判断を仰がずに﹁頭越し﹂に帰属国家
が何度も変わる状況下で、目治主義が隆盛を極めた。そ
して、共産党などの一部の急進派が従来の自治主義から
逸脱した分離主義へと突き進み、これがナチスヘの対独
協力への大きな要因になったために、戦後は﹁自治主
義﹂という言葉さえもアルザスではタブーとされて、
﹁フランス国民﹂としての政治、アイデンティティだけ
が肯定されてきた。ル・ロワニフデュリーも指摘するよ
うに﹁アルザスの政治は、全国政党の支配によって厳密
︿一九五〇年代︷一九六〇年代前半﹀
−政治意識の変化との関連をめぐってー
1
452
(255)戦後アルザス地域主義の展開と特質
の﹁特別地位﹂︵99巨寝三昌=實︶の維持を擁護する中
=8巨①︶の流れを引き、とりわけ宗教面でのアルザス
となったのは、戦前のUPR︵⊂邑昌8君巨篶宛曾仁σ−
戦後、政治的側面においてアルザス地域主義の代弁者
ザス併合が直接にもたらした帰結は、地域政党の消滅で
﹁政治的側面においては、ヒトラーのドイツによるアル
ではなくなっていた。フィリップスが述べるように、
が全国政党となり、単に一地方の利害のみに関わる存在
の地域の国民統合の推進であった。政治においては政党
ル︵旨彗−雲彗亮ζO昌彗︶らが目治主義寄りのアルザ
ベール ︵Oプo二①ω==①σ①﹃︶、 ジャン⋮ビェール ・ムレー
例えぱ共産党は、一九二九年に分裂し、シャルル・ユ
あったのである﹂。
︵3︶
道派のMRP︵⋮9き昌彗↓カ曾仁彗8ぎ勺o君巨冨︶
である。カトリヅク政党であり主として教会に関わる場
面の利益代弁者の性格をもっていたが、地域言語、アル
ザス.アイデンティティという領域でもその保持を目指
し、戦前には急激に盛り上がった自治主義者の要求をも
−o胃巴自︶を組織していたが、戦後、共産党は全てフラ
スnロレーヌ共産党︵霊;O◎昌ヨ仁邑9①≧竃9彗■
もっとも、戦後のアルザス地域主義は、分離主義者を
ンス共産党︵霊;OO昌昌⋮華①∼彗o印邑の旗の下
・かなり取り込んだ。
含む急進的自治主義者の一九三〇年代から戦時中にかけ
ていたため、アルザスにおける政治的主導権はフランス
たURPと、そこから分裂したAPNA︵>oま昌巾8宇
については、戦前、アルザスにおける最有力政党であっ
にまとめられてしまった。またカトリツク系の政治勢力
︵4︶
共和国への統合主義者にあった。反面、戦前の自治主義
曇篶z豊昌巴①旦.≧窒8︶の両党の構成員が、戦後に
てのナチスとの結び付きによって甚だしく評価を落とし
がラディカルになり過ぎたという事実の認識のために、
なって全国規模のMRPに再統合されたのである。
されたかに見えたが、民衆意識の底辺では地域主義の水
過度の統合推進への反動によってナチス化されたアルザ
スヘ戻ってしまうことに対する拒絶から、統合主義者の
︵2︶
積極的な活動にブレーキが掛けられもした。
脈が尽きたわけではなかった。
さて政治の表舞台ではこうして﹁地域﹂の色彩が脱色
しかし、大勢としては、反ナチスのフランス共和国へ
453
一橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号 (256)
戦後アルザス地域主義の思想的基盤形成に指導的貢献
をなした人物として、フィリップスはバース︵内∋=①
︸婁︶、オツフ一︵∼匿窒;亀&、ミニール︵o①、
︵5︶
昌巴目⋮⋮胃︶の三人を挙げる。バースはいち早く一九
こととなったのである。
こうした政治的思想的背景のもと、戦後のアルザス地
域主義は展開を見せ、一九五〇年頃からすでに、バ”ラ
四五年に﹃アルザスの状況﹄を著して、アルザス人の人
に厳しい態度をとった。とりわけアルザスに関しては、
スに帰り、政府は地域言語に対しては国民統合の名の下
バリに働きかけていた。終戦によづてアルザスはフラン
ン、オ・ランの両県議会がドイツ語教育の復活を求めて
格形成におけるアルザス語の抜きん出た重要性を、日常
アルザス語はドイツの国家語たるドイツ語の方言である
︵6︶
生活と言葉との密接なつながりを強調して説き、さらに
は禁じられ、また戦前のドイツとの深い関わりの故にア
として、公教育の場から排除されて学校で使用すること
仏独の狭間に位置するアルザスの﹁ヨーロッパ﹂におい
て果たすべき役割の大きさについても主張している。オ
︵7︶
ツフェは一九五一年﹃アルザスの精神分析﹄において、
ルザスの政治史一文化史は教えられず、﹁こうして若者
たアルザス語による風刺喜劇という形でアルザス人の閉
ザスのみならずフランス全体で大きな成功を収めた。ま
フランスの地域語として存在することなど容認されるべ
含まれなかった。終戦間もないこの時期に、ドイツ語が
における復活を認可したものの、アルザス語はここには
で、一部の﹁地域語﹂︵一彗①q亮﹃紺一昌巴①︶の学校教育
一九五一年一月一一日の法律﹂、通称﹁ディクソンヌ法﹂
とになる﹂。そして﹁地方の言語・方言の教育に関する
︵9︶
は意識的にそして体系的に︹フランスに︺同化されるこ
アルザス人が如何に正しく理解されていないかという認
識に基づき、仏独の間を揺れ動いた結果の今日のアルザ
ス人の持つ心理的複雑さ■を分析し、説こうと努めた。
ざされた心を解きほぐすのに一役買ったのが、ミュレール
くもなかった。つまり、戦前の﹁アルザス自治運動があ
﹁アルザスの魂﹂を解明しようとしたこの作品は、アル
であウた。この三人の活躍は、終戦後、ナチスヘの対独
まりにドイツとの関係が深かづたため、ディクソンヌ法
協力という﹁負の遺産﹂を背負い込むことによって失わ
︵8︶
れていたアルザス人の﹁精神の奪還﹂に大きく貢献する
‘
454
(257)戦後アルザス地域主義の展開と特質
ではアルザス語を地域語として認定することは全く問題
︵10︶
外となうたのである﹂。
︿一九六〇年代後半壬一九七〇年代前半V
﹁ルネ.シケーレ協A苫﹂︵O⑦8−①カ①箏Φωo巨o斥9①︶や
の強い意志、 そしてそれを軸に広まりつつあった地域主
■
義の気運は、
のめかしは、全くもって私には我慢ならない、真実に反
公権力がアルザス方言に反対したのではないかとのほ
化と全く同様に尊重されるに値するものである。この地
する主張である。アルザス方言は、その他のアルザス文
罵尻O∼彗竃ωω09彗■︶がアルザス全域でアルザス
メダール︵⋮&彗旦︶神父が主導したICS︵−葦①二〇9・
語.アルザス文化の擁護・発展を目指して自主的なドイ
表れている。
という、バ・ラン県知事のスピーチ︵一九七一年︶にも
域から︹アルザス︺方言を取り除くとしたら、それはア
︵H︶
ルザスがもはやアルザスでなくなることになるだろう。
ツ語講座やセ、ミナーを精カ的に行い姶めた一九七〇年代
前半は、一九六八年﹁五月危機﹂を背景に、政治の舞台
ではゴーリスト︵oq彗≡go︶の政権からの転落、長い
間アルザスを支配してきた﹁中道ーゴーリスト﹂の図式
から少しずつ﹁右翼−左翼﹂の図式への移行が見られる
会党への転換の契機を与えたのは、折しもこの時期一九
ルドリート︵o8掃鶉匡o巨堅亭︶の名を取ウたこの改
革﹂である。アルザス人の学区視学官長ジ目ルジュ・オ
収穫は、一九七二年秋に開始された﹁オルドリート改
そしてこの時期にとりわけ重要な地域主義にとっての
七一年のことであった。以後、周辺地域に対する社会党
革は、ルネ.シケーレ協会が中心となって自主的に学校
時期である。、ミツテランが社会党党首に選出され新生社
の政策方針は﹁自主管理社会主義﹂︵8q筆ω昌Φ彗一〇−
注目したオルドリートの二つの発議に基づき、①アルザ
外で行っていたドイツ語講座が盛況を博している状況に
アルザスにおいて、ドイツ語方言としてのアルザス語
スの地壇言語状況を考慮し、ドイツ語の修得のためにア
oq窃ま昌巴篶︶に基づく地域主義の擁護となった。
保持と、そのための学校へのドイツ語教育導入・拡大へ
455
一橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号 (258)
ルザス語が有する可能性を高めることを唱指す、②生徒
と教師の意志に基づいて、CM1︵小学校第四学年︶と
CM2︵第五学年︶で毎日三〇分の割合でドイツ語授業
を導入するというもので、両県議会で支持を受け、先ず
︵u︶
実験クラスで実施された後、全アルザスに導人された。
︿一九七〇年代後半∫一九八○年﹀
サヴェルヌ選出の中道派︵CDS︶国会議員ゼレール
︵>串一彗N①=弩︶が、今日アルザスが抱える経済.社
︵旧︶
会・文化の諸問題の﹁進歩主義的﹂︵肩OOq篶邑ω芭解
決を目指して左寄りの﹁イニシアティヴ.アルザシエン
ヌ﹂︵巨まごく露巴竃9①昌①ω︶を組織し、具体的な形
で、政治的にアルザス地域の独自性擁護への積極的取り
組みを率先したのはこの時期︵一九七六年︶のことであ
る。もっとも、例えぱ一九七八年三月の選挙時、自治主
義の候補が有効投票数の一・〇四%という微々たる支持
︵M︶
しか獲得出来なかったように、アルザスにおいて地域主
義はイコール自治主義ではないことは想起しておく必要
があろう。エリートが地域主義を牽引するようになって
も、他の多くのエスノ地域がそうなるように激しく政治
一九七五年のフランス世論研究所︵IFOP︶による
化することはアルザスでは考えられないのである。
調査では、八五%のアルザス人がドイツ語の早期教育を
︵15︶
支持していたように、広いエスノ地域主義の意識的基盤
を背景に、ゼレールは七〇年代前半から中央政府に対し、
とりわけ地婁言語への寛容を巡ってアルザスの地域主義
運動に対する政治的譲歩を求めてい 。たが、この時期依然
としてバリは取り立てて親地域主義的反応は示さなかっ
た。オルドリート改革の成功を受けて、ドイツ語教育の
開始年齢のさらなる引き下げを要求するゼレールに対し
ては、CM1より早くドイツ語を教えると、フランス語
よりも好んでドイツ語を話すようになるのでCM1以前
にこれを行うことは容認できないと拒絶した。ここに働
いているのは、﹁︹地婁言語・文化の︺教育は、、国家
によって具現される国民統一を厳格に尊重するよう認識
されなくてはならず、人工的に国民文化と地域文化とを
対立させてはならない﹂という論理であった。
︵16︶
こうした地域と国家との駆け引きの中、一九七九年の
国立統計経済研究所︵INSEE︶の世論調査では対象
になった家庭の九〇%以上がアルザスでのドイツ語知識
456
(259)戦後アルザス地域主義の展開と特質
からのアルザス議員へのアビール﹂︵一九八O年一月三
感が生み出したのが次の﹁詩人一作家・歌手・文化闘士
には特に深刻な危機感を与えることになった。この危機
は、アルザス語を使う芸術家・作家・教師などの文化人
の有益性を認め、父母の八○%以上が﹁小学校でのドイ
︵〃︶
ツ語学習に賛成﹂していたにも拘わらず、アルザス語を
︵m︶
母語とするアルザス人の比率は減退し続けた。このこと
数十年来、現在ほどアルザス問題が深く追究された時
救うことである。
を話す全ての人の尊厳のために、大至急、一つの言語を
れが秘める昇進と開花の︹可能性の︺ために、その言葉
故に重要なのは、その言葉自体のためだけでなく、そ
わせることになるだろう。
が消失し、ヨーロッパ空間に我々を位置付ける能カを失
るだろう。そしてアルザス・バイリンガルの支柱の一つ
日︶である。
慮すべき衰退が進行していることを、あなた方は知って
アルザスの言語状況において、︹アルザ乙方言の憂
かっている。
相応しい文化的将来を提案する勇気を今持つか否かにか
それは︹アルザスに︺責任を担う者たちが、アルザスに
アルザスが開花するか凡庸なものに埋没してしまうか、
我々は今日、我々の文化の歴史的岐路に立っている。
し言葉としての︹アルザス︺方言と書き言葉としての標
第一歩として我々の地婁言語の二つの構成要素、即ち話
ようて我々はあなた方に要請する。一つの約東をし、
まうだろうo
殊性を考慮に入れるのを拒むならば、不毛に終わってし
こうした考えは、代議士がアルザスの言語的・文化的特
ルザス的共生︵8目三く邑豪︶の探究が必要なのである。
フランス人であるとともにヨーロッパ人であるというア
はない。多様塗言語・文化の対立が必要なのではない。
いる。もしこの変化が続いて行くと、西暦二〇〇〇年に
準ドイツ語に正式な地位を与える交渉を行うことを。
てはならない。そこでは︹引き延ばし作戦で︺窒息させ
もはや委員会の地下牢で︹アルザス︺方言を無視させ
はアルザスの若者はもうアルザス語を話さなくなるだろ
、つ o
︹アルザス︺方言の消滅とともに民衆の記憶は消え去
457
橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号 (260)
られるからである。もはや文化的施設の魔力を信じては
ならない。それは死した言語の博物館に終わうてしまい
かねないからである。民衆に文化的自殺の責任を負わせ
るのはもう止めよ。民衆はエリートが与える危険な例に
を要求し、アルザス地域政界レベルでの中央に対抗する
︵21︶
動きもにわかに活発になった。
︿一九八○年代︵一九八一年以後︶﹀
なた方に行う用意がある。
野での深刻な結果とを避けるために、具体的な提案をあ
周辺民族の地域主義運動にとって有利なことであった。
政権が政治的に後盾となったことは、アルザスに限らず
た︵一九八一年三月一四日、ロリアンにて︶、・、ツテラン
社会党が政権に就いて地方分権化改革が行われる。選挙
︵漉︶
演説の際に、﹁我々は相違への権利至旦言する﹂と述べ
そして一九八一年五月、ギツテランが大統領に選ばれ、
もしこの声が速やかに聞き入れられないならば、アル
事実、これまで周辺地域の言語・文化に概して非好意的
従っただけなのだから。
ザス地域主義の反応が急進化することを恐れることにな
であった歴代の国民教育相であったのに対し、サヴァリ
アルザスの文化運動は、文化の破壊と社会・経済の分
る。詩人が黙り、失望が彼らを沈黙させたとき、暴力の
て検討する﹂と回答し、一月:日にはパ・ラン県議会
ピール﹂に対し﹁我々の方言を保持する方法を立ち入っ
︹諸地域の言語・文化の︺豊・かさを認識するように教え
では学校は、子供ひとりひとりの人格形成のために、
となく再び相応しい地位を占めなくてはならない。そこ
文化・言星胆の全てのものは、憤れ親しんだ環境で隠すこ
流刑にされ、さらには抑圧されてきた諸地域の過去.
いる。
︵≧巴目ω彗胃︸︶は就任後まもなく次のように声明して
︵㎜︶
時代がやって来る。
特に後半はかなり過激と至言える表現で彩られている
︵20︶
この﹁アビール﹂は、ドイツ語圏を中心に注目を浴ぴた。
が討議を行い、過半数の議員によって、アルザスの先祖
また早くも一月五日にはアルザスの両県議会議長が﹁ア
伝来の言語・文化に相応しい、当然与えられるべき地位
458
(261)戦後アルザス地域主義の展開と特質
なくてはならない。
︵鴉︶
中央政界レベルでのこうした後盾を得て、一九八一年
一〇・二月、﹁アルザス人の文化的権利認識のための
地域大会﹂において、社会党、共産党、﹁エコロジーと
生存﹂の左翼政党と、CEDT,CGT,SGEN−C
⑤母語での幼稚園への受け入れ
⑥幼稚園.小学校での︹アルザス︺方言による口頭表
現の時問帯︹の設置︺
⑦学校教育の全段階における﹁アルザス文化﹂教育
︹の施行︺
当性会﹂︵⊂冨ユo①so;oqぎ5の地域主義団体が、バ
ザス固有の言語文化の擁護・発展を目指してこうした動
依然として中道・右翼多数の両県議会までが公然とアル
社会党を始めとした左翼諸派の政治勢力だけでなく、
イリンガリズム促進とアルザス文化の擁護を巡る要求と
きに出たことは、かなりのレベルでアルザス人の政治意
FDTの各労組、及ぴルネ・シケーレ協会と﹁我々の正
闘争の﹁セレスタ共同綱領﹂を採択し、翌一九八二年一
識に変化が生じてきたとも考えられる。第二次大戦の
﹁負の遺産﹂の重荷に苦しんできたアルザス人が、戦後
月には右翼多数のバ・ラン、オ・ラン両県議会がいずれ
︵別︶
も全会一致でこれを採択した。内容は次の通りである。
のままの自分たちを評価しようとの意識に目覚めてきた
数十年を経て次第に過去の呪縛から解き放たれて、あり
①地域語︵アルザス語と標準ドイツ語︶のフランスの
ということである。時は流れ、対独協力の告発は過ぎ去
って、その科による被告発者として親ドイツを論じる人
言語としての認知
②アルザスの言語的文化的現実に即したフランス語教
③小学校第二学年︵CE1︶からのドイツ語入門教育
姿勢に牽引されてきた戦後のアルザスであるが、国民議
保守的でフランスヘのナシヨナリズムにも等しい政治的
は時代錯誤になった。中道派及ぴゴーリストの支配の下、
︵25︶
の開始
会選挙などの結果から見れぱ依然として中道右派が多数
育の適用
④中学校第一学年かの箪一言語入門教育の開始
459
一橋論叢 第114巻 第2号 平成7年(1995年)8月号 (262〕
とはいえ、こうした地域の議会表明は、地域言語文化の
擁護という左派的政治活動がアルザスの政治家に要求さ
^η︶
りドイツ語を有している﹂ことを、公的に認知したので
ある。
ま り は否定出来ない。
強い意志にも表れているように、アルザス地域主義の高
は学校では生徒間の使用等において公然と虐げられてい
認可を下すこととなりた。さらに注目したいのは、以前
家族の意志を尊重しつつ、志願者のドイツ語教育の法的
こうした認識に基づいて﹁デイヨン通達﹂は、教師と
そして八○年代初頭のこうしたアルザス人の政治意識
れたが故の行動であるはずであり、アルザス語存続への
の揺らぎと地域主義の動きを受ける形で地域言語文化行
ス地域主義が求める言語文化の諸要求に対して、政府側
そして﹁デイヨン通達﹂を受けて、八O年代のアルザ
ザス地域主義運動にとって大いに価値あるものであった。
ネ・シヶーレ協会による評価にも見られるように、アル
︵30︶
保持と発展のために大きな進歩をもたらす﹂というル
もたらしたコアイヨン通達﹂は、﹁アルザスの固有性の
以上のようにアルザスの地婁言語政策に大きな変化を
義者の要求通り、公に認められたのである。
︵29︶
し言葉としてのアルザス語﹂の双方が、アルザス地域主
られ、遂に﹁書き言葉としてのドイツ語﹂と同時に﹁話
たドイツ語に加え、﹁地婁言語文化﹂が教科として認め
たアルザス語が、条件付きながらも授業の外で自由に使
︵蝸︶
用出来るようにするという勧告がなされた点である。ま
政に現れたのが、一九八二年六月九日のデイヨン
︵雲①弓①o昌昌︶大学区長による﹁アルザスにおける地
婁言語文化に関する通達﹂︵いわゆる﹁デイヨン通達﹂︶
であり、ここにおいて完全ではないがアルザス地域語教
︵蝸︶
育の回復がなされた。アルザス地域語としてのドイツ語
教育が、初めて文書で認められたのである。ここでは先
ず、﹁国民教育省が、フランス共和国の一体性を確認し
つつも、地域の言語文化の独自性への十分な配慮を払う
のは当然のこと﹂であると言明し、次いで﹁学校はアル
ザスの子供たちに開花と昇進の新たな可能性をもたらす
域の子供の過半数が話しているアルザス語は、書き言葉
がより詳細に取り組んだ結果は大きく前進を見せた。
もの﹂であり、そして政治的に意義深いのは、﹁この地
としては国際的な教養語であり普及している言語、つま
460
(263)戦後アルザス地域主義の展開と特質
護のための国家の公式な介入、②国民教育における地域
通達﹂︵一九八二年六月二一日︶では、①地婁言語の保
の公共業務における地域文化・地域言語教育についての
﹁デイヨン通達﹂から時を待たずに出された﹁国民教育
述べ、地域の言語の実態についての理解が大きく前進し
方言が持つ重要な潜在能力を考慮に入れ発展させる﹂と
は、﹁ドイツ語教育は、ドイツ語習得のためにアルザス
また一九八五年六月の大学区長総括︵巨彗冨go邑︶
たことを示した。そして同年の大学区通達︵Oぎ巨団ぎ
︵鴉︶
篶go邑︶によって、﹁中学校第四学年からバカロレア
言語の地位の確立、③生徒と教師の志願者に対する地域
語授業の認可、の三点を柱とするもので、ここでは注目
に至るまで、他の教育科目と同じ地位で生徒の時間割に
実際に加えられて週二時間の選択が認められ﹂、遂にバ
すべき進展として、バイリンガルでの実験授業が導入さ
︵釧︶
カロレアの選択科目に﹁アルザス地域文化﹂が導入さ
れた。
一九八五年六月通達では、とりわけドイツ語の教員養
れた。
バーデン・ヴユルテンベルク州などの小学校との交流を、
︵蜘︶
成への一層の配慮が示され、ライン側の対岸のドイツの
の成果は、次第に進展を見せてきた。そこには、一九八
こうして、アルザス地域主義の中央に対する働きかけ
を支える民衆の政治意識の変動がある。中適右派の一枚
地方分権政策を推進するという政治的背景、そしてそれ
一年に社会党政権が発足して﹁相違への権利﹂を擁謹し、
ドイツ語教育の重要な契機になると説き、次のように述
べている。
︹アルザス︺住民が希望し代議士に要望されている小
学校でのドイツ語教育の質的・量的進展は、地域の言語
したのであり、この点に着目しつつ、次節ではアルザス
岩的基盤であうたアルザスでも社会党支持は大きく前進
地域主義の特質を浮き上がらせてみたい。
文化に関する我々のプ回グラムの本質的要素の一つであ
り、このプログラムはアルザスの子供たちに開花と発展
︵肥︶
の新しい可能性をもたらすに違いない。
461
第2号平成7年(1995年)8月号(264)
橋論叢 第114巻
2 アルザス地域主義の特質
フランスという﹁六角形﹂の領域の周辺には、多くの
ルザス労働人口の七・四%はドイツあるいはスイスに毎
日働きに出ている。さらに、アルザスにおける産業資本
︵肺︶
は、フランス国内からのものだけでなく、むしろ上記の
動において経済的要求は一つの要となうている。しかし、
れも経済的にも辺境に置かれており、当然、地域主義運
ターニュ、コルシカ、オクシタニーといった地域はいず
いだアルザス︵フランス︶、バーデンHヴユルテンベル
つまり、EUによる﹁欧州﹂の発展は、ライン川をまた
地域間の経済的交流をますます促進することに寄与する。
ノ・カネの自由な往来は、こうした従来の国境を狭んだ
ドイツ語圏からのものが多く、市場統合によるヒト・モ
︵帥︶
アルザスでは多少事情が異なる。ここにはEU︵欧州連
ク︵ドイツ︶、バーゼル︵スイス︶の三地域を結んで
領域的エスニック・マイノリティが存在し、中でもブル
合︶という戦後の新しい政治・経済・社会・文化の枠組
ストラスブールに擁しており、地理的にフランスの﹁周
欧州蕃議会︵O昌置;工.冒﹃O葛︶の本部を中心都市
要機関である欧州議会︵霊まヨ雪↓①冒o忌彗︶、及ぴ
中にあって、相対的に豊かな地帯に属しており、地域主
おける他の周辺地域がいすれも経済的困難に喘いでいる
ぎわめて有効に作用する。実際アルザスは、フランスに
アルザスの位置価を大きく上昇させ、アルザス経済には
﹁黄金の三角地帯﹂と呼ぷ見方にも表れているように、
︵38︶
辺﹂という性格と同時に、欧州の﹁中心﹂としての性格
義の展開について見てみると、オクシタニー等のそれが
みの進展が大きな背景としてある。アルザスはEUの主
も兼ね備え、言わば﹁辺境の逆転﹂が生じている。
低開発化に対する異議申し立ての側面を大変強く持って
︵35︶
この地域はライン川を狭んでドイツと、南部ではスイ
いるのに比べ、以上のような状況を反映する形で、ここ
には経済的要素はほとんど含まれない。多分にエスニッ
スと接しており、いずれもドイツ語の互換性も大いに寄
与して、すでにドイツやスイスとの多数の経済的連携が
クな要求のみに彩られている。
欧州統合は、既存の国民国家︵冨ま亨ω冨芭を﹁上
見られる。例えば﹁フロンタリエ﹂︵守◎巨豊①﹃︶、つま
り越境通勤者について言えば、工場労働者などを中心ア
462
(265)戦後アルザス地域主義の展開と特質
向き﹂に相対化するトランスナシヨナルな試みである反
面、﹁地域﹂に力点を置く﹁下向き﹂の動きでもある。
よって、このような潮流の中にあうては、逆説的ではあ
るが、政治的にも経済的にも地域主義が分離や独立を指
向することは可能性も必要も大幅に減じている。こうし
た要因が、アルザスの有する﹁負の遺産﹂に加味され、
かつての政治的自治主義のカはほぼ完全に失われ、アル
ザス地域主義は文化的、あるいはエスニツクな内実のみ
となうている。以上から、アルザス地域主義を指して
﹁エスノ地域主義﹂︵9享O−篶Oq−O竃豪昌︶と呼ぶことは
妥当であろう。あるいはコナーの言葉を借りれば﹁エス
︵珊︺
ノナショナリズム﹂とも言えよう。
一九六〇年代中頃以降、国民国家が唯一絶対の利益配
分者としては必ずしも認め難くなってくる状況の中で、
﹁国民﹂︵目き昌︶に代わる自決の手段として﹁エスニ
スノナシ目ナリズムである。戦後、フランス国民という
︵ω︶
共同体への強烈な自己同定を行ってきたアルザス人が、
それから二〇年を経て、アルザス語・アルザス文化とい
うエスニックな共通性に次第に自決の矛先を向けてきた
という図式である。
主義に変動が訪れる。六〇年代後半からの欧米を中心と
そして七〇年代以降は、政治の舞台でもアルザス地域
したエスニシティの台頭と文化多元主義重視の世界的潮
流−例えぱカナダにおけるケベツク人のエスノナショナ
リ、7ムとそれに呼応して導入された多文化主義政策L
そして左翼の台頭という大きな時代の波の中で、中道保
守の伝統的に強いアルザスにおいてさえも右翼の衰退が
認められた。
アルザスには﹁マジ目リテ・アルザシエンヌ﹂︵竃甲
−oH豪巴留9彗篶一以下MA︶という言葉がある。主と
してアルザスの中道派及ぴゴーリストによって使われ、
全国レベルの政治における﹁右翼−左翼﹂という図式と
シティ﹂︵Φ;巨9q︶が台頭してきた。つまり人々が、
必ずしも自分たちの要求に添えなくなった﹁国民﹂ある
のであり、アルザスに固有の政治的・社会的利ぎの代弁
の相違を、即ちアルザス政治の独自性を表そうとするも
立つとして目を向けたものがエスニシティであり、エス
者を自認する表現である。当然、戦後の地域主義の動き
いは﹁国民国家﹂の代わりに自分たちを結集するのに役
ニックのアイデンティティを前面に押し出した自決が工
463
橋論叢第114巻第2号平成7年(1995年)8月号(266)
をもここには包摂してきたわけであるが、現実にはMA
︵仙︶
に象徴される地域主義は、既に幻想に過ぎなくなって
いる。というのも、上述のような政治的時代背景が、M
Aの力にも大きな打撃を与えてきたからである。
一九八九年、市町村議選においてMAは単独過半数を
割り込んで敗北を喫し、ストラスブールや、、、ユルーズと
いった主要都市の市長は社会党員となった。左派が大き
︵〃︶
く前進し、アルザス政治はまさに﹁断絶状態﹂となった。
かつてのMAへの支持が計算上は社会党に回り、そ、一で
新たに地域主義の動きを押し進めるのだとしても、政治
勢力図においては明らかにアルザスの﹁政治的な特殊性
︵蝸︶
の喪失﹂が認められる。アルザス人はその政治意識にお
いて左と右に分裂した。かつては右一辺倒であづたもの
が、世界的な文化的多元性を是とする左回転の潮流の中
でアルザス人も半ぱ左傾化し、内在的には地域主義を含
んでいるとしても、皮肉にも敵手たるフランスの平均的
政治思潮に歩み寄る結果を生んだのである。
結 び
結果からアルザプ地域主義が一九四五年以降に果たし
て き た 役 割 を 考 え る な ら ば 、 フ ラ ン ス 全 国 レ ベ ル の 政 治 4
脳
にアルザス政治が追随するのを助長することになったの
である。例えば第四共和制最後の首相を務めたフリムラ
ン︵コ胃冨雪巨;︶は、﹁アルザスがアルザス自身か
らなっていることを知らしめるのにひとかたならぬ尽力
をした﹂が、﹁強力な国民統合を前にしては﹂ICSや
イニシアティヴ・アルザシエンヌといった地域主義の現
︵側︶
れは微かなものに過ぎなかった。しかし、ここには、地
︵蝸︶
域主義は今日、﹁政治への影響力を行使出来ない﹂が
﹁文化﹂ではそのようなことはない、即ち﹁政治的﹂に
は脆弱な存在になっているだけで、前に見たように地域
語の学校教育への導入・拡大への働きかけを軸として
﹁文化﹂の領域では依然大きな力を持うている、という
留保を付けておく必要がある。
ところでシュヴァングレールの指摘するように、八○
年代に入ってのMAの衰退に見られる政治意識の変動の
背景には世代交代という要因がある。新しい、戦争を知
︵46︶
らない世代の台頭によづて、選挙においてアルザス人ア
イデンティティに固執することが減じ、政治的な特殊性
︵47︶
の喪失、即ちフランスの平均像への収敏を促したという。
(267)戦後アルザス地域主義の展開と特質
〈表〉 パイリンガルについての意識調査
(1989年,ストラスブールの調査機関1SERCOによる)
合%%%%%
25%
32%
25%
成6153615958
計
アルザス語によるラジオ放送の増加 37%
21%
賛
弱く賛成
しかし、地域主義は政治
ど力を得てきていない。但し、言語が文化の重要な核で
も、政治の舞台では地域主義の流れを汲むものはほとん
であり、ここに立派にエスノ地域主義の血が脈々と流れ
ンボル﹂としてのアルザス語への強烈な愛着があるわけ
︵蝸︶
ス語︶の必要性認識は、背景としての﹁エスニック・シ
ある以上、︿表Vが示すアルザスでのドイツ語︵アルザ
的にははかない存在とな
っていても、︿表﹀から
も分かるように、言葉の
保持を基盤とした文化の
領域での影響力は強く保
は、もう一つ﹁過去﹂か
世代交代の果たした役割
ス語を通じてドイツ語を知っているという﹁手段として
に帰着させることは、問題も残る。その中には、アルザ
て﹁エスニツク・シンボル﹂としてのアルザス語の役割
ている。もっとも、このアルザス語への執着の理由を全
らの解放であったと言え
の言葉﹂という側面も否定出来ないからである。しかし、
っている点から考えると、
よう。アルザス人が抱く
いずれにしても、政治の舞台ではフランスに歩み寄って
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︵2︶92∼9早彗豆ω−08・o・男§§ざき;ぎ§
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︵1︶−①寄︸5旨量向昌ヨ彗篶一一、−9邑昌﹃ま閉早
求める地域主義は生き続けていることは確かである。
いても、非政治的な文化の領域ではアルザスの独自性を
﹁負の遺産﹂を直接には
知らない世代は、﹁アル
ザス﹂それ自体を新しい
価値として発見・認識出
来るのである。
戦後四〇年ほどを振り
返って見ると、極論すれ
ぱ、かつての自治主義と
比較すれば穏健なもので
465
35%
強く賛成
幼児学級でのアルザス語の使用 26%
パイリンガル(仏独)の役所の書類 28%
パイリンガル新聞の必要性 29%
公務員に対するアルザス語の研修 34%
出典)五〇〃舳∫〃㏄ん.no.96.1990,P.1O.
橋論叢第114巻第2号平成7年(1995年)8月号(268)
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︵18︶ アルザスにおけるアルザス語の使用比率は、一九四六
の復権﹄批評社、一九八七年、七二頁。
︵%︶ 匡與﹃け’︷ooqisI︵甘−1io.㎝o’
σ昌轟一〇σ邑貝−竃㊤らー量ω.
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減傾向にある︵sミ§留;峯昌L昌−−oド冨畠\冨鼻
二年︶、七五%︵一九七九年︶、六二%︵一九八九年︶と漸
年の九一%から、九〇%︵一九五八年︶、八六%︵一九六
︵3︶雲⋮暑ω﹄長雪9卜亀ま竃、,ミ§§“二⋮竃8旨8
︵4︶きミら.=o.
≧竃8し竃ooら.=oo.
︵5︶き§一暮﹂oo蜆−−o o o o −
︵6︶霊葺向邑亙寒§、︷§き;−竃8一︵一異33−違蜆︶一
︵7︶ま茅ゴ写8螢9雰さぎ§s冨“き;ぎ§︵一異3
〇〇−目壷﹃一>−㎝〇一武一 − 〇 一 ω .
︷o−oo−︶一〇〇−目−凹﹃一>尿印ω=P−〇一ω1
︵8︶雲;君98−き.ら.冨o。.
︵9︶−邑貝≦o冨彗oq一旨﹃と邑邑竃ぎbミ§甲§冒吻§§印
§斗∼一ω旨鶉σo胃o目一ω巴ま一ω−お.
︵10︶ 原聖﹁地域語と地域的政治運動﹂﹃地域﹄第一一号、
一九八二年、四七頁。
︵u︶霊二姜o目一写蜜螢9..−.芸ぎ彗一;2若g①凹一一Φ−
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︵u︶ −︸︷、1.o.蜆oo−
︵13︶N①=貸>亭一彗一旨菖S、ざ§§ぎ§§ト9雲言一冒−
︵M︶ −︺﹃o︸︸EωisIo︷ド’〇一トoω.
望﹄﹃−ωo目雪o=OE=E﹃①竺ωogo==P−o↓o〇一〇〇.ωol卜N1
︵ooω︶ −o︷巨..o.①−.
︵η︶ −︸︷、.
︵29︶ 原聖﹁言語問題の諸相﹂原輝史・富島喬編﹃フランス
︵15︶‡彗暮品一§§−一君.害−蜆o。.
︵17︶ ジオルダン、アンリ︵編︶︵原聖訳︶﹃虐げられた言語
︵16︶§ミも.睾
466
(269)戦後アルザス地域主義の展開と特質
一九九三年、一七四頁。
の社会−変革を問われる文化の伝統﹄早稲田大学出版部、
卜ss軋ssωも;§;o.ω二〇〇〇ω一〇.9
︵39︶ Oo目目o﹃一ミ竺斥①■b“ぎsos昌ミoss﹄泳§一勺ユ目o〇一〇自C目−−
︵40︶宛o目雪一Uoく一§雨§§さ﹃寒雫b§§ぎ§§一
く雪色ξ勺冨窃一;違.
訳、浦野起央・信夫隆司﹃自決とは何か−ナシ目ナリズム
之①奏=彗彗一く巴①c邑亮易一q軍鶉蜆二雪ρ暑.ω㌣oド邦
=嘗一ミ①O目一8.9戸P21
からエスニソク紛争へ﹄刀水書房、一九八八年、六二−八
里竃ω胃彗PS.OきO℃.曽O0180.
きミ.一〇1竃.
四頁。
−遣.
ω9ξ彗o日一8§.9、.ら.−o︷一
きミー
§邑.
§ミ一
︸彗藺目雪一〇0E墨目=p..−冨εコ蜆
§登.
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︵一橋大学大学院博士課程︶
−o目Oo目一〇〇﹃目o=O目﹂くo﹃ω言く勺﹃o閉ω一−o↓一一〇P−一↓1−↓印
︵oe一曼ぎざ9ミミぎ§雨§ω鳶§きミ具−;四s彗o
90冨昌写彗争宛晶一昌O−向;邑9員、ぎ黒昌昌一奉■
団自α ﹄ooo巨目㍗
ミミ㎞き︷色9§一A① 耐O箏δ目一ω気凹閉σ9﹄﹃oq一〇σ①﹃=﹃一一−㊤oω一P
︵〃︶ くo餉−o﹃一︸①﹃目団﹃戸︵ωo巨ω5oマ①oゴo目oω︶一トs−㎞so⑮
︵41︶ ω争奏雪o〇一員8.o芦P;−.
§萱.一〇1震.
梶田孝適﹁EC統合と地域の変貌−トランスナシ冒ナ
ルな空間の創出﹂宮島喬・梶田孝適編﹃統合と分化のな・か
のヨーロッパ﹄有信堂、一九九一年、三二頁。
︵36︶量ω冨−≧竃o:;一−︵&ψ︶﹄8§ミ“§きぎ9皐
弐§﹃こsωミ蜆竃、ミ§註−os8−しs、竃員膏きざ嵩§、§
OP曽−竃及びト心§叶§ざき§“巾胃一ω一−胆U心8目毒﹃.
︸ミ㊦こ“■ミs§雨憂§§;ミ膏誉ミー膚ミさ鴬一目戸
︵37︶例えば、一九五五年から六八年にかけて、アルザスで
亘冨0Mら−−ぎより算出。
の新規雇用創出の三八%がドイツとスイスを主とする外国
資本によるものであった︵9歩ω〇一彗oqρ..刃品ざ冨=ω昌
彗o彗ε昌昌く巨≧竃8ω一昌砲−彗o〇一..ま宛o斥訂pω.一俸
p峯・;三目︵o穿︶一§6きミ︷8g§ヨぎざミミ§ぎ貫
︵38︶ 卜“き邑∫Mど彗く討二8−.
−o目o〇三蟹oq①一εo0Nもo.ωωoo山竈︶.
467
48 47 46 45 44 43
35 34 33 32 31 30