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連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
李, 圭泰
一橋論叢, 108(2): 392-411
1992-08-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/12397
Right
Hitotsubashi University Repository
平成4年(1992年)8月号 {184)
第108巻第2号
一橋論叢
クワ外相会談を開き、信託統治を決定した。その主な
具体的な政策を実施する一方、一九四五年一二月斥ス
李 圭 泰
連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
は じ め に
となった三八度線問題を明らかにしなければならない。
かし、米ソ共同委員会は最初から﹁民主的﹂という言
的諸政党や団体﹂と協議するというものであった。し
を樹立させるが、その際、共同委員会は朝鮮の﹁民主
連合国の朝鮮戦後構想は四ヵ国︵米英中ソ︶による信
葉の解釈をめぐって対立して、一歩も進まず、失敗に
内容は、米ソが共同委員会を構成して朝鮮の独立政府
託統治であった。これは、口頭ではあったが、第二次
終わってしまう。また朝鮮の諸政治勢力も信託統治反
朝鮮の分断問題に関心をもって朝鮮現代史を研究し
世界大戦中行なわれた一連の連合国の首脳会談におい
対とモスクワ会談決定支持という二つの立場に分れて
ようとする老は、まず米ソによる南北分割占領の契機
て合意されていた。しかし、戦後朝鮮は北緯三八度線
激しく対立した。その結果、朝鮮の政治的状況は一変
ったのである。
し、分断体制の形成に決定的な影響を及ぼすことにな
を境界線として米ソによって分割占領されたことは周
知の事実である。
朝鮮を分割占領した米ソは、それぞれの占領地域で
392
(185〕 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
以上の経緯から二つの疑問が生じる。第一に、四ヵ
国による信託統治構想からどのようにして米ソだけの
分割占領へ変わったのか。第二に、モスクワ外相会談
で決定された信託統治の内容は、戦時中議論された内
容と同じ性格のものであるかどうか。第二の疑間を明
らかにするためには、三八度線による分割占領へ帰着
する過程と米ソの具体的な占領政策を関連させて検討
する必要がある。本稿では第一の疑問について考察す
︵1︶
るが、それは三八度線がどのようにして作られたかと
いう疑問の解明にほかならない。
三 八度線問題に関す る 先 行 研 究 を 整 理 す る と 、 大 き
く二つに分けることができる。第一に、三八度線は朝
鮮駐屯日本軍の降伏接収と武装解除のための軍事的側
面珪、米国によつて画定されたという軍事的便宜説
である。これは米国政府が現在まで一頁して主張して
きた公 式 見 解 で あ る が 、 こ の 説 の 力 点 は 、 三 八 度 線 は
あくまでも暫定的、一時的なものであって、朝鮮を分
断する意図をもって画定した線ではないところに杁砧。
また、最近では、三八度線はもともと﹁日本の大本営
が五月二八日に発した朝鮮軍と関東軍の分担地域指定
の境界線Lで、ソ連軍と戦ったのは関東軍だったので一
﹁三八度線以北の日本軍がソ連極東司令官に降伏する
のは自然の勢い﹂であり、したがって﹁三八度線以北
と以南とがそれぞれソ連軍と米軍とに降伏することは
軍事的暫定措置としてはまつたく合理的なもの﹂だっ
たと主張する研究もある。しかし、日本軍側の史料に
︵一︶
よれぱ、ソ連が参戦したあとの八月一〇日、﹁大命﹂に
よって済州島を含む朝鮮半島の中・南部防衛の任務を
担当していた第一七方面軍が関東軍総司官の指揮下に
編入されたことになつている。したがって八月一〇日
︵5︶
以降、全朝鮮半島は関東総司令官の指揮下にあったこ
とになるので、この主張は説得力を失う。
第二に、米ソ密約説である。この説は、ポツダム会
談前後、米軍首脳部が準備した一連の朝鮮進入計画な
どを挙げて、三八度線は分断線として事前に米ソが合
︵6︶
意したものであると主張する。このような主張は米国
側の資料が公開される以前、韓国での研究で多くみら
れるが、しかし、ポツダム会談の記録をみる修、三蜘
︵7︶
八度線を米ソが合意したといえる証拠は見当たらない。
信託統治は基本的に、植民地の民衆は自治能力がない
たものとして、戦後植民地はいくつかの強大国が協調
︵8︶
して管理するという国際的信託統治案を考え出した。
るルーズベルトは、ウィルソンの委任統治案と酷似し
︵峯8守o峯峯宗g︶の徹底的な信奉老として知られ
︵︸﹃印目巨ま貝 内oo需く①岸︶であった。ウィルソン
ていたのは、言うまでもなく大統領のルーズベルト
第二次世界大戦当時、米国の政策決定の頂点に立つ
1 朝鮮信託統治案
を考えてみることにする。
を受け入れた米ソの意図を明確にし、三八度線の意味
く過程を明らかにする。そして三八度線を画定しそれ
から三八度線による米ソニヵ国分割占領へ変質してい
戦後構想の中身を分析し、四ヵ国による信託統治構想
きた。本稿では、先行研究を踏まえて、まず連合国の
分断線だったかどうかという点をめぐって議論されて
以上 の よ う に 三 八 度 線 に 関 す る 既 存 研 究 は 、 そ れ が
第108巻第2号 平成4年(1992年)8月号 {186
橋論叢
という発想に基づいていたが、そこにはフィリピンに
おける経験が影響していた。ルーズベルトは一九四二
年一一月一五日行った演説のなかで、四四年間のフィ
リビンの歴史は﹁世界の他の弱小国家と民族の未来の
ための模範である﹂としたうえ、それらの弱小民族が
文明国民になるためには、﹁教育の普及と物質的、杜会
的、経済的必要の認識及び達成を通じた準備期問﹂と
﹁地方自治をはじめ完全な国家の地位に至る多様な段
階を通過することによって、究極的に独立主権国家へ
^9︶
到達する自治訓練期間﹂が必要であると主張した。こ
のようにルーズベルトは一九四二年の段階から植民地
問題の解決策として信託統治制度を考えていたのであ
る。
日本の植民地だった朝鮮は、ルーズ、ベルトが考えた
信託統治制度を適用するにふさわしい地域として認識
された。米国務省極東局︵冒く邑8o︷句胃向鶉↓暮目
>弍巴易︶に所属していたラングドン︵奉自討旨 甲
−彗智昌︶は、一九四二年二月二〇日の報告書の中
で、朝鮮人は絶対多数が貧しく、文盲であり、自由と
394
{187〕 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
いうものを記憶しているのは老年層だけであるとし、
さらに朝鮮人は政治的、行政的な経験もなく、自己防
衛もできないと評価していた。そして﹁朝鮮が近代国
家として発展するためには、少なくとも一世代くらい
は強大国の保護と指導、そして援助を受けなけれぱな
らない﹂と結論をだした。この報告書は、朝鮮問題を
扱う省内のすべての人に回覧され、以降米国務省の政
策担当老たちの対朝鮮認識の原形を成したものであ
一亭
ルーズベルトが戦後朝鮮に信託統治を実施する意向
を同盟国に最初に表明したのは、一九四三年三月二四
日ワシントンで開かれたルーズベルトと英国外相イー
・ ︵u︶
テ
ン︵>巨ぎξ同og︶との会談の場であった。この
場でルーズベルトは満州、朝鮮、台湾、インドシナな
どに関する戦後政策を討議しながら、満州と台湾は中
国に返還され、べきであり、朝鮮には信託統治を実施
^u︶
するのが適当であると言及した。
さらに、米英中三国の首脳は、一九四三年二一月一
日に発表したカイロ宣言文の中で、﹁前記三犬国は朝
鮮人民の奴隷状態に留意し、しかるべき手続きを踏ん
で朝鮮を自由かつ独立の国たらしめる決意を有すLと
し
、
朝
は
じ
め
て
言
︵1
鮮 の 独 立 問 題 に
及3
し︶
た。しかし戦後
即時独立ではなく、﹁しかるべき手続きを踏んで﹂から
の独立だと条件をつけた。この﹁しかるべき手続きを
踏んで﹂という文句は、ホプキンス︵︸胃q−.曽8■
巨易︶が一一月二四日カイロ宣言の初案を作成すると
きには、﹁可能な限り最も早い時期に︵g亭①墨;①g
OOωω亭尿昌O昌①暮︶﹂となっていた。しかしその翌日、
ルーズベルトが﹁適当な時期に︵斗 亭① 肩o潟H
昌O旨8け︶﹂と修正し、最終的にチャーチルによって
され、発表されたという。ルiズベルトが﹁可能な限
﹁しかるべき手続きを踏んで︵ぎ彗⑦8膏留︶﹂と訂正
︵u︶
り最も早い時期に﹂という文句を﹁適当な時期に﹂と
書き直したのは、戦後朝鮮に一定の期問の信託統治を
実施するという彼の意志の反映だったといえる。
カイロ会談直後、ルーズベルトとチャiチルはテヘ
ランに飛んで、スターリンと会談した。朝鮮に関する
言及としては、チヤーチルがカイヱ旦言の予定稿を読
395
橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992年)8月号 (188
んだのかとスターリンに尋ねたと二ろ、スターリンは、
ソ連としてはコメントしないが、完全にその内容を承
認するといい、朝鮮は独立されるべきだとしたのは正
当であると述べた。これをきいていたルーズベルトは、
﹁朝鮮人は独立政府を維持し運営する能力がないので、
四〇年間は信託統治下にあるべきだ﹂と主張し、スタ
︵15︶
ーリンもそれに同意したという。このように一九四四
年一月の段階で、米英中ソ四カ国の首脳は、具体的で
はないにしても、戦後朝鮮に連合国による一定期間の
信託統治を実施するという合意に達していた。
その後、一九四五年二月、米英ソ三国首脳はヤルタ
で会談した。ルーズベルトは、スターリンに﹁ソ違、
米国、中国の各代表から成る信託統治を朝鮮に実施す
ることを考えている﹂といいながら、﹁我々のもってい
る唯一の経験はフィリビンで、そこではその国民に自
立の準備をさせるのに約五〇年かかった﹂ので、﹁朝鮮
の場合にはその期問は二〇年∼三〇年になるだろう﹂
と言った。スターリンはその期間は短かけれぱ短かい
ほど良いと言い、外国の軍隊が朝鮮に駐屯するかどう
かを尋ねた。ルーズベルトはそれを否定し、スターリ
ンもルーズベルトの考えに同意を示した。このように
^16︶
ヤルタ会談においては、戦後朝鮮に一定期間の信託統
治を実施するという合意を再確認したのに止まった。
一九四五年四月、ルーズベルトは他界し、トルーマ
ンが大統領になった。トルーマンの特使としてモスク
ワに派遣されたホブキンスは、スターリンとの会談の
中で、﹁ヤルタで議論された問題について米国政府は
検討の結果、朝鮮に対してソ米中英の四カ国による信
託統治が最も望ましいだろうという結論に達した。そ
の期間は確定されていないが、二五年にもなりうるし、
それより短い可能性もあるが、多分五年ないし一〇年
が有力であろう﹂と言った。これに対してスターリン
も四ヵ国による信託統治に全面的に同意した。しかし、
^17︶
ここでもこれ以上の具体的な検討は行なわれなかった。
ヤルタ会談の結果、ソ連が満州の周辺地域において
主導的な役割を担うことになるだろうと認識した米国
務省政策担当老たちは、一九四五年七月に予定されて
いたポツダム会談において、朝鮮の信託統治に関し、
396
189〕 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
より具体的な話し合いがなされるべきだと主張し、一
鮮の信託統治に関する具体的検討は、米ソが分割占領
も朝鮮に関して具体的な議論は行なわれなかった。朝
したいと考えていた。しかし、ポツダム会談において
極東ソ連の経済力を飛躍的に増進させうる国、不凍港
が一番適切であるか、ソ連流の考え方を適用しうる国、
連の目に映るかもしれない。植民地の民はどう扱うの
﹁朝鮮は誠に魅力的な機会を提供する存在としてソ
を作成、検討した。
してから三力月も過ぎた一九四五年二一月開催された
をもつぱかりでなく、中国と日本に対し有利この上も
方、ソ連側も朝鮮の信託統治問題について意見を交わ
モスクワ外相会談の場において初めて議論されたので
ない戦略的位置を占めている国、それが朝鮮である。
^18︶
ある。
⋮⋮もし朝鮮がソ連に占領されるという事態が起これ
ぱ、それは極東における全く新しい戦略的状況が造成
されることを意味することとなり、中国や日本に対す
2 米国のソ連警戒
一九四三年の末頃から米国務省の政策立案者たちは、
るこのような状況の影響は計り知れないほど大きなも
このように米国務省の政策担当者たちは、もし朝鮮が
のであろう﹂
︵20︶
首脳会談において戦後朝鮮に一定期間の信託統治を実
施することを合意したことで、信託統治施政国として
^㎎︶
政治的 観 点 か ら 検 討 を 加 え て い っ た 。 一 九 四 三 年 一 一
ソ連支配圏に入れば、戦後東アジアの安全保障上、大
ソ違が参加した場合、戦後朝鮮に及ぼす影響について
月末頃、国務省の領土間題小委員会のボートン
頃から米国務省内には戦後処理問題と関連して政策決
きな問題を引き起こすだろうと警戒しはじめた。この
8暮︶、ラングドン、ベニングホフ︵匡.冬①買9 団①亨
定機構が次々と作られ、そこで朝鮮に関する政策文書
︵匡冒①目す︸oユo目︶、ヴィンセント︵−o︸50弩冨﹃<ぎ・
邑長ぎ弐︶、ヒス︵≧①目胃匡げω︶などは次のような文蓄
397
第2号 平成4年(1992年)8月号 (190〕
一橋論叢 第108巻
というカイロ宣言に照らして、どのような暫定的政府
関するものとしては、㈲朝鮮は究極的には独立させる
省は国務省へ長文の質問文を寄せた。その中に朝鮮に
も準備された。一九四四年二月一八日、陸軍省と海軍
場合には、おそらく朝鮮北部から日本軍に攻撃をかけ
国、英国、ソ違をあげた。特にソ運が﹁対日参戦した
領されるとすれば、占領に参加する国として中国、米
可能であるLとしたうえ、戦闘行為によって朝鮮が占
放されることになるのか、現時点で予測することは不
︵ 2 1 ︶
機構がつくられるべきか、ωどの程度米陸軍および
連とは ど う か 、 ㈹ 民 間 救 済 の た め に ど の よ う な 政 策 や
そして︵あるいは︶︵極東での戦争に参加した場合︶ソ
行政の責任は英国、中国と分担することになるのか、
隊である﹂とし、この集団はソビエト・イデオロギー
は、疑いもなく、ソ連極東軍によって訓練をうけた部
勢力をあげたあと、﹁朝鮮人の部隊で最も重要な集団
れらの連合国に加えて参戦する可能性のある朝鮮人の
の部分を占領することになる﹂と指摘した。そして二
るであろうし、そうだとすればソ連軍が朝鮮のかなり
責任をとるべきか、㈲残留するかもしれない専門的能
とその政府運営の仕方について徹底的に教え込まれ、
︵または︶海軍が民事行政に責任を有するのか、ω民事
ど五つであった。この質問に答える形で、国務省は朝
力を も つ 日 本 人 に 対 し 、 ど の よ う な 政 策 を と る か 、 な
ると、まず朝鮮の歴史を簡単に触れたあと、﹁朝鮮が連
H墨﹂という政策文書としてまとめられた。内容を見
これが一九四四年三月二九日、﹁∼奉O−−寄一〇>O−
﹁朝鮮一占領と軍政一軍の構成﹂という文書を起草し、
部局閻極東地域委員会︵︸向>O︶はωとωに対して、
鮮に関する政策文書を準備していった。
口o色巨①︶確立することは、きわめて当然であると
して連合した民事行政もできるだけ早く︵轟①胃気富
区域の分割は避けねぱならないこと︵傍点一筆老︶、そ
地域で同時進行的に行なわれる可能性があるが、軍政
作戦が異なる国籍の司令官の指揮によってそれぞれの
が朝鮮の占領と軍政にあたる可能性と、朝鮮での軍事
よく訓練され、装備も整えていると判断した。連合軍
︵ η ︶
合国軍によってどのような状況下で日本の支配から解
398
(191) 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
した。
︵鴉︶
さらに勾向>Oは、質問㈲に答える形で、﹁朝鮮一政
治間題一臨時政府﹂という政策文書を立案し、これが
一九四四年五月四日、﹁巾ミO−H違PO>O−轟與﹂となっ
た。内容は、朝鮮の歴史的経緯から理由づけて﹁朝鮮
人には自治の経験がほとんどない﹂とし、また﹁外国
にあるどの革命センターの指導老のことも朝鮮の民衆
は知らない﹂こと、﹁独立した弱い朝鮮は再び国際的圧
力と陰謀のもとに置かれ、太平洋の政治的安定と平和
を脅かす﹂ことになるため、﹁なんらかの形の暫定管理
機構が作られることがきわめて望ましい﹂と述べた。
その場合、もっともよいのは信託統治であるが、﹁もし
この過渡期において、ソ連が単独で朝鮮を管理するこ
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
、 、 、 、 .、 ・ 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
とになれば、深刻な政治的問題点が生ずるだろう︵傍
点一筆者︶﹂とした。なぜならぱ、﹁中国は朝鮮のソビ
エト化に脅威を感じるだろうし、米国もそのような事
態展開を、太平洋の安全に対する脅威だと見傲すだろ
う﹂からだと判断した。したがってある一国︵米国も
含めて︶が朝鮮を管理する形ではなく、四大国による
管理を行なうべきであることを主張した。
︵刎︶
以上のように、米国務省の政策担当者たちは、朝鮮
は一国による支配形態より、朝鮮に利害関係をもつ米
英中ソによる国際的共同管理︵信託統治︶が望ましい
と考えていた。しかし一方で、彼らはソビエト・イデ
オロギーで武装されている朝鮮人部隊の存在を重視し
て、ソ連がこれらの勢力を利用して戦後朝鮮に親ソ的
政権を樹立させる可能性もあると判断し、そうなると、
朝鮮はソ連またはソ連を後ろ楯にした朝鮮人政治勢力
にようて完全に掌握されることになり、その結果は米
国の安全を脅かすものであると考えていたのである。
このような米国務省の考えは、その後も変わってい
なかった。米国務省は﹁戦争終結後の極東の状況をど
︵妬︶
う見るか、そして米国の目的及び政策は何か﹂という
陸軍省からの質問に答える形で、一九四五年六月二八
日、﹁極東における戦争終結後のアジアと太平洋地域
の情勢予測と米国の目的及び政策﹂という長文の政策
︵26︶
文書を作成した。この政策文書の中の朝鮮に関するも
のは、﹁戦争終結後の情勢予測﹂、﹁国際関係﹂、﹁米国の
399
一橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992隼)8月号 (192〕
政策Lなど三つの項目に分けられ、そこには朝鮮の戦
後処理に関する米国務省の考えが集約的に示されてい
た。
内容をみると、日本支配下の朝鮮の政治、経済状況
﹁ソ連は極東での戦争に加わるであろうし、おそら
くソ連軍が朝鮮の全部あるいは一部を占領するであろ
う。⋮−ソ連政府は、疑いもなく、彼らの統制のもと
で朝鮮に軍政を実施し、最終的には、ソ連によって訓
的な朝鮮政府を樹立させようとするのは、明白である。
練された朝鮮人指導老たちで構成された、ソ連に友好
ソ連育ちの人を含む約二〇万人の朝鮮人が、シベリア
を分析したうえ、日本の敗退後の朝鮮は、﹁疑いもなく
政治、経済、杜会的に相当な混乱と紛糾が起こるだろ
に居住しており、そのうち、約二万人から三万人の朝
う﹂と予測し、これらの政治、経済の問題を解決する
鮮系ソ連人が、ソ連軍隊に編成されていると報告され
ための米国政府の目標として、﹁朝鮮における日本統
治が終われぱ、日本の公共財産は朝鮮人に引渡され、
ている。朝鮮における経済的・政治的状況は、共産主
国による信託統治案を朝鮮の戦後処理案として考えな
以上のように米国務省は、首脳会談で合意した四力
民衆の支持を受けるかもしれない。﹂
^28︶
援された朝鮮の杜会主義政権の政策と活動は、容易に
鮮人はソ連に好意を持っていないけれども、ソ連に後
義イデオロギーの採用を促進するだろう。平均的な朝
在留日本人の私的財産の相当な部分﹂を没収すること、
また﹁朝鮮の安全に危険なものや朝鮮経済の発展に妨
害になるものは長期問押収﹂することをあげた。そし
て朝鮮の将来の政治体制については、﹁中国、英国、ソ
連という朝鮮について関心をもつ大国との間で、事前
の合意と協議の上での共同行動を獲得することをめざ
^〃︺
がらも、協調すべき連合国であるソ連に対して、不信
す﹂とした。つまり、連合国との協調のうえで、信託
統治を実施することを明自にしていたのである。しか
感と警戒心を強めていった。米国務省は戦後朝鮮に米
し﹁国際関係﹂のところでは、次のように判断した。
400
(ユ93〕 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
国の主導権のもとで国際的共同管理体制である信託統
治制度を適用しようと考えていた。しかし同時に、ソ
連が極東での戦争に参加すれぱ、朝鮮半島の全部また
は一都を占領する可能性があるし、そうなると、ソ連
は自国に有利な朝鮮政権︵杜会主義政権︶を樹立させ
に提案した。ソ連は米国の提案を拒否しつづけたが、
︵29︶
一九四三年一〇月、はじめて非公式に対日参戦を表明
し、同年のテヘラン会談において公式に意志表示を
した。
︵30︶
その後米ソは軍事参媒会議を重ねて行なった結果、
る大筋の合意に達した。その主な内容は、①ソ連の作
一九四四年一〇月中旬頃、ソ連の対日参戦問題に関す
た朝鮮の戦後処理案としての信託統治案には、矛盾す
戦に必要な資財を米国が援助し、また参戦の前提とな
ようとするはずだと米国は判断していた。米国が考え
る二つの論理が存在していた。つまり、連合国間の協
る政治的側面が整えば、ソ連に対独戦の終結から二
どであった。これに対してスターリンは、満州の日本
^31︶
務は、満州の日本地上軍およぴ空軍の撃滅である、な
∼三ヵ月後に対日戦に参加する、②ソ連軍の戦略的任
調の論理と対ソ不信の論理が共存していたといえる。
3 ソ連の対日参戦問題と三八度線
米国は日本の真珠湾攻撃直後から、日本の対ソ攻撃
の可能性も高いと判断して、犬統領の指示で日本に対
してはならず、西の方面では張家口と北京に強打を加
えるべきであり、東では朝鮮半島北部の諸港をソ連軍
軍の撃減を真剣に考えるなら、作戦地域を満州に限定
年六月一七日と六月二三目二回にわたって、①米ソ秘
が占領せねぱならないと述べた。米国は反論せず、事
する米 ソ 共 同 作 戦 を 検 討 し は じ め た 。 米 国 は 一 九 四 二
密軍事会議の開催、②アラスカ・シベリァ通路の開通
実上、雄基、羅津、清津など朝鮮半島の北部諸港に対
きは、朝鮮半島での作戦はあくまでも補助作戦であっ
するソ連軍の限定作戦は黙認された。ここで注目すべ
^32︶
と対ソ援助物資の輸送能率の増大、③対日共同作戦の
一還として米空軍の沿海州基地使用、④予備処置とし
てシベリア現地調査と米国側の試験飛行、などをソ連
401
平成4年(1992年)8月号 (194〕
第108巻第2号
一橋論叢
一九四五年に入ると、戦争の局面は連全国に有利に
とである。
日本の本土に侵入するかわり、海上封鎖と制空権の確
米の軍事参謀で構成された連合参謀部︵CCS︶は、
米国側の対日作戦計画をみると、一九四三年末、英
明らかである。
展開され、勝利への期待も高まった。ヤルタ会議の首
保および空からの爆撃によって日本を攻撃する作戦戦
て、ソ連軍の戦略目標は﹁満州﹂の日本軍であったこ
脳会談と別に開かれた軍事会議でソ連の対日参戦問題
略を承認した。しかしこの戦略は、一九四四年春米国
年秋の合意内容から何かの変更があったかと質間し、
鎖および空中爆撃によって日本の低抗力を鈍化させる
の軍事専門家たちによって再検討され、海上と空中封
^36︶
が議論された。米軍側は、ソ連軍の対日作戦計画は前
ソ連軍側は、兵士の移送に若干遅れが出ている他は、
ことはできるが、早期に戦争を終結させるためには、
︵鎚︶
日本本土に侵入する必要性を提起した。統合参媒本部
意図に変更はないと答えた。この頃、米ソ間ではソ違
︵脳︶
の対日参戦条件に関する合意もなされたが、その中に
①海上と空中封鎖をするとともに、集中的な空中爆撃
認し、﹁目本を無条件降伏の状況に導かせるためには、
面︶
︵岩ω︶は、一九四四年六月一一日、この戦略を承
てポツダムでの米英ソ軍事会談においてソ連側は、ソ
による日本の空軍力および海軍力を破壊することによ
も朝鮮と関わるものは一切含まれていなかった。そし
連軍の目標は満州の日本軍撃減と遼東半島の占領であ
産業心臓部の目標地点に侵入し攻撃する﹂といった作
︵鎚︶
戦計画を連合国の承認をえるために提出した。この計
って、日本の低抗能力と意志を鈍化させる、②日本の
ると言明して、前年秋以来の米ソ合意を守るつもりで
の内容には、朝鮮半島雀作戦地域にしたとか、または
画案は一九四四年九月、ケベヅク会談で承認された。
あることを明確にした。
︵35︶
どちらかの軍隊が占領するとかいうことは一切なかっ
その後、一九四五年六月一八日、米国政府は犬統領を
このようにソ連の対日参戦問題と関連する米ソ合意
た。これは米軍とソ遵軍の対日戦作戦計画をみても、
402
195〕 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
はじめ陸軍省、海軍省、統合参謀本部の首脳が集まっ
て、対日戦略に関する会議を開いた。そこで示された
米軍の作戦計画は、一一月一日、九州に上陸作戦を行
なう予定であり、その後朝鮮に進駐する計画であった。
そして﹁アジア大陸における掃蕩作戦に関して言うな
らぱ、満州︵もし必要があれぱ朝鮮︶における日本人
の一掃は、これをロシア人に任せるというのを目標と
すべきである﹂と述べられていた。
︵鎚︶
ソ連軍の作戦計画は、ヴァシレフスキー極東ソ連軍
総司令官のもとで、第一極東方面軍、第二極東方面軍、
そしてザバイカル方面軍とモンゴル人民革命軍が、三
方面から満州を攻撃するとともに、太平洋艦隊は海上
を制圧し、日本と満州の連絡を断絶することになって
いた。ハバロフスクとヴラヂヴオストークの間に陣取
つたメレツコーフ元帥磨下の第一極東方面軍は、満州
に入って、ハルピン、吉林、長春へ進撃し、西からく
るマリ ノ フ ス キ ⊥ 兀 帥 の ザ バ イ カ ル 方 面 軍 と 長 春 で 出
会うとされた。この第一方面軍の最南翼に位置した升
スチャコーフ大将摩下の第二五軍は、諸戦ではまず国
境を防衛し、方面軍主力が関東軍の防衛線を突破すれ
ぱ、その主力︵三個師団と一戦車旅団︶をもって満州
に入り、注清への進撃をめざし、補助的に、.参謀次長
シャーニン少将の指揮下に第三八六狙撃師団とその他
の支隊をもって編成された南部分団を琿春から朝鮮へ
進撃させることになっていた。この南部分団の任務は一
第二五軍のみならず、第一方面軍全体の左翼を確保し、
朝鮮と満州の間の鉄道■道路の連絡を破壊することに
あ一一学
以上のように、少なくとも一九四五年七月末の段階
までは、米ソいずれの地上軍も近い将来朝鮮に進入す
ることは予定されていなかった。ただし、前述のよう
に、朝鮮半島北部の一部の港が、ソ連軍の作戦目標で
ある満州の日本軍を攻撃するための補助作戦地域とし
て、認められていただけであった。
連の対日参戦が現実の問題として登場した。ソ連の対
一方、一九四五年五月対独戦の終結にともない、ソ
日参戦の代償間題をめぐる中ソ交渉は、一九四五年六
月二〇日からモスクワで、宋子文とスターリンとの問
403
ではじまった。最初の対立は、外蒙の現状承認に関す
る間題であったが、中国側が外蒙に対する主権の放棄
て米国務長官バーンズは、中ソ取決めがヤルタ協定に
明して、ソ連の要求の合理性を主張した。一一れに対し
ないと述べた。そして中ソ交渉の合意点と対立点を説
しであるが、その前に中ソ交渉が完了しなけれぱなら
ンに・ソ連軍の対日戦準備は八月中旬頃に終わる見通
七月一七日、ポツダム会談でスターリンはトルーマ
日、ポッダム会議のために一時中断した。
宋子文は反発し、交渉は合意に至らぬまま、七月一二
とって到底受け入れることのできないものだったので、
ソ連が所有し、中国側は経営陣の少数派としてその管
︵犯︶
理と運営に参加することを要求した。これは中国側に
ろん、炭鉱、林業等の関連企業を一切含めて四〇年問
た。また、東および南満州両鉄道は、付帯施設はもち
的および政治的に事実上ソ連が支配する一一とを要求し
国際自由港となるべき大連港とその周辺地域も、軍事
に要求を拡大し、ソ連海軍基地となる旅順のみならず、
を決意したことによって解決した。しかしソ連はさら
^ 蛆 ︶ ’
第108巻第2号 平成4年(1992年)8月号 (196
橋論叢
厳密に合致するなら結構だろうが、もしどこかでそれ
︵蝸︶
を超過したら因難が生じるだろうと指摘した。それま
で 米 国 は 中 ソ 交 渉 に 介 入 す る こ と を 避 け て い︵
た坐
が、駐
ソ大使ハリマンは、米国介入の必要性を主張した。ま
たスティムソンは七月ニハ日、﹁ソ連が大連または満
州の他の商港を経由する貿易を、管理ないし禁制する
ことを許すような、いかなる譲歩もなされてはならな
い﹂と力説するとともに、ソ連には旅順以外に満州の
いかなる部分でも、軍事的権利や管理権をあたえるべ
きではないと主張した。また、ポツダムに来ていた米
^妨︺
国務省の政策担当老たちは、ソ連は中ソ交渉において、
ヤルタ協定を逸脱して過犬な要求を突きつけている、
もし中国がこれに屈して譲歩するなら、ソ連は満州で
軍事的および経済的に特殊な地位を得ることになり、
それによって中国の主権が侵害されるだけでなく、米
国の権益と、ひいては国際平和にとつても有害である、
といった内容の覚書を作成した。しかし、ポツタムで
一蝸一 “
は七月一七日の意見交換的な話し合い以外に、具体的
な話し合いは行なわれなかった。
404
1197) 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
ソ連の対日参戦の前提になる参戦代償問題をめぐる
中ソ交渉がうまく行かない状況のなかで、ポツダム会
議の真最中、アラモゴルド︵ニューメキシコ︶におけ
る原爆実験が完全な成功を収めたという知らせが米首
脳部に報告された。そして数日後、広島と長崎に原爆
^ 〃 ︶
が投下された。
この状況をみたソ連は、八月八日、対日戦に突入し
た。ソ連軍の対日参戦は、建前上、ヤルタ会談での約
束を果したことになる。しかし、それは参戦の前提条
件であるはずの代償問題を解決しないまま、慌しく行
なわれたものであった。原爆とソ連参戦によって強い
危機感を感じた日本は、八月九日から一〇日、深夜の
二二日トールマンの承認を得て、それが英国とソ連に
も伝達され、八月ニハ日スターリンの了解を得た。そ
のあとマヅカーサーのもとへ﹁一般命令第一号﹂とし
て送られた。
一九五〇年七月=百付きの覚え書きによれぱ、当
時国務省の極東問題次官補だったラスク︵U①彗
宛易斥︶は、歴史政策研究課長ノブル︵ρ 思昌胃o
zo巨①︶の三八度線に関する質問への答弁の中で、そ
の画定模様について次のように証言した。八月一〇日
から一一日の問、国務省のダン︵旨昌窃O.U昌目︶、陸
軍省のマヅクロイ︵旨巨−。竃oΩξ︶、海軍省のバー
ド︵内巴o庁︸彗o︶の三人はベンタゴンのマックロイの
部屋でω奉200の徹夜会議を開いた。議題は日本の
降伏処理に関するものであり、マヅクロイはボンステ
御前会議で、ポツダム宣言の受諾を決意したのである。
一 ^㎎︶
一方、目本政府の条件付受諾申し入れに明確な承認
ィール︵Oまユ窃甲︸o亮98−︶大佐と自分に隣の部
﹁ソ連が同意しない場合、米軍が進駐するのは現実的
せる案を作成してくるように指示した。そこで二人は
るという政治的希望と米軍進駐の明白な限界を調和さ
屋にいって、米軍ができるだけ北上して降伏を処理す
を与えなかった連合国側の回答をめぐって日本側が再
ぴもめているちょうどその頃、ワシントンでは朝鮮の
廿割線を計画していた 。 三 八 度 線 は 一 九 四 五 年 八 月 一
〇︸から﹂一日の間、国務・陸軍・海軍三省調整委員
会︵SWNCC︶の徹夜会議において画定され、八月
405
平成4年(1992年)8月号 (198〕
に難しいと考えたが、米軍責任地域内に朝鮮の首都を
︵ω︶ 、
含むのが重要であるLと考えたので、三八度線を提案
した と い う 。 彼 ら に 与 え ら れ た 時 間 は 三 〇 分 で あ り
利用した地図は手もとにあった壁掛けの小さな極東地
図で、北緯三八度線はソウルを通るぱかりでなく、朝
を攻撃し、九日にはハサン湖︵張鼓峰︶から慶興、青
鶴、阿吾地などを攻撃した。そして一〇日、慶興を占
領し、一一日には璋春を占領した。この日、第三九三
師団が南部分団に加えられ、朝鮮半島の雄基、羅津方
向へ進撃することになった。一〇日まで海と空から雄
基、羅津、清津を攻撃していた太平洋艦隊は、作戦計
画を変更して、一一日に雄基、一二日に羅津、二二日
鮮をほぼ同じ広さの二つの部分に分割していることに
ボンスティールは気づいていた。
^50︶
に清津に上陸し占領した。第二五軍の主力が注清をめ
ざして進撃する間、南部分団の第三九三師団は雄基、
羅津をへて、清津に進撃した。そして二〇日、第二五
軍司令部は満州の廷吉に進駐した。従来はソ連軍が参
^51︶
戦して急激に南下したと一般的にいわれたが、ソ連が
三八度線を承認した八月一六日までは、ソ連軍の作戦
は朝鮮半島北部の港に限って行なっており、本格的に
北朝鮮へ進撃し主要都市を占領したのは、八月一六日
城、二四に平壌、二五日に南浦、二七日に新義州を占
以後だった。二一日に元山、成興、城津、二三日に開
領したのである。
少なくとも八月半ぱの段階までは朝鮮占領の計画を
開戦二日目の八月一〇日、ソ連軍第二五軍の主力は
団は、八月八日二三時五〇分頃豆満江をわたって土里
東寧を占領し、そこに司令部を移した。その間南部分
おわりに
たというのがその確定過程だったのである。
て選ばれ、それがそのまま米ソ分割線になってしまっ
する線、しかも首都ソウルを米占領地区に含む線とし
の小さな極東地図を利用して出来うる限り北方に位置
三〇分という短い時間のうちに、手元にあった壁掛け
によって戦況が急激に変化していったあの八月の半ぱ、
このように三八度線は、原爆の投下とソ連軍の参戦
第108巻第2号
一橋論叢
406
理に臨むことを意味するものとして認識されたはずで
ソ分割占領案は、米国と一対一の立場で朝鮮の戦後処
もっていなかったソ連にとっては、三八度線による米
南北の朝鮮人政治勢力の対応の仕方などにかかってい
の朝鮮の将来は、分割占領後の米ソの具体的な政策と、
にすべきだと思うからである。とにかく八・一五以降
けではなくて、対ソ協調の論理を対棄した時点を間題
手段として、ルーズベルトを中心とした国際主義考た
戦後世界において米国がヘゲモニiを掌握するための
q邑き邑専o︷↓買易し㊤﹃ム︶、信託統治はソ連を含む
肉目ω9戸與昌O↓巨①OoE幸印5、、︸=−−︶lo尉ω①ユ印巨oP↓︸①
穴os彗↓昌ω8窃ξp崔昌−崔ミ一弓ぎc邑一&卑津鶉一
としたモリス研究つき冒凶昌Ω8﹃需峯oま9、。↓思
三年以前の時期に比重をおいて、ルーズベルト︵戸U、
丙oo8き5の信託統治構想の意図を明らかにしよう
︵1︶ 信託統治に関する代表的な研究としては、一九四
たといえる。
ある。だからソ連は何の文句もいわず、三八度線を受
け入れたとみることができる。三八度線を日本軍の武
装解除のための一時的なものだったとする主張は、三
八度線を画定しそれを受け入れた米ソの論理を隠す結
果になってしまう。
三八度線の画定は、信託統治案に内在していた対ソ
協調の論理と不信の論理から、後者の論理が優先され
た結果であった。この意味において、カミングスのい
うように、﹁いつもつきまとっていた暖昧さが、一気に
解消したようなもの﹂で、それは﹁すでに一九四三年
ちが考案したものであるが、ソ連との直接対決を主張
する民族主義老たちによってこれが破棄されていく過
一〇月の時点で、朝鮮半島の支配を太平洋の安全に関
程を分析した力、ミングスの研究︵零9①O目邑轟9
︵52︶
連づけて考えていたアメリカの計画からすれば、全く
og昌ζ邑き邑︷?①窪一一九八一。鄭敬護・林哲訳
﹃朝鮮戦争の起源﹄第一巻、シアレヒム杜、一九八九
b§“嚢ミ雨呉ξS§膏完鏑ぎ§−凄φ−−℃へN勺ユ亭
§雨o曇ぎ吻県き“きミss§、㌧トき“§ミoミss、§“
辻棲の合った論理的な帰結であった﹂といえる。しか
し、だからといって、米国が信託統治を完全に放棄し
たことにはならない。なぜなら、信託統治の放棄を閥
題にする場合は、対ソ不信の論理が優先された時点だ
407
連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
(199〕
(200〕
第108巻第2号 平成4年(1992年)8月号
一橋論叢
年、鄭敬謹・加地永都子訳﹃朝鮮戦争の起源﹄第二巻、
一九九一年︶、米国政府は信託統治に確固とした意志
をもっていたというメトレイの研究︵盲昌鶉 H;巨胴
雲g昌き§“完良§膏ミo§吻亀き一㌧§“ぎ§sき§雪
ま、ξぎきミs−凄−−−寄βo邑く①冨ξo︷国印ミ邑
雫鶉ωL㊤o。蜆︶、ロンドン外相理事会における対日管理
をめぐっての米ソの対立に注目して、それが朝鮮にど
のような影響を及ぽしているのかを、モスクワ外相会
談で朝鮮問題が決定されるまでの過程を分析した呉忠
根の研究︵﹁朝鮮分断の国際的起源−原則の放棄と現
状の承認﹂、﹃国際政治﹄第九二号、一九八九年一〇
として利用されたとし、モスクワ外相会談での朝鮮問
月︶、分割占領後の信託統治は占領を正当化する名分
題に関する決定は分割占領、固着化するための米ソの
外交的妥協の産物であるとする李東絃の研究︵﹃韓国
信託統治研究﹄、平民杜、ソウル、一九九〇年︶、など
をあげることができる。この間題については別稿で検
証したい。
︵2︶ O①o﹃胴①く.一≦oO目自①印目o>H亭目﹃FO昂き−﹁一
ω⋮①目O︸〇一き§sぎ§、ミき、ミS−凄︸.畠S一
きミs§§=與ミ胃oc己き邑け<肩⑦隻畠鼻ωog−
一3一〇彗潟竃−書O⋮竃己>き昌FO尋≒・一S・
ζまき易−ξ艮o竺弍o冒︸凹∼霧9岩雪.
○きpξ超淳昇﹁米国の占領政策と三八度線の誕
生﹂、﹃分断前後の現代史﹄、日月書閣、ソウル、一九八
三年、一八二頁。トルーマンも後でこれと似た発言を
している。匡顯﹃員ω.↓ε昌”pき§良δ曳§ミり
■ミ§sミ㌧さミミbs室§“zo婁く冒ぎH竃9op
録、決断の年﹄、垣文社、一九六六年、三二八−三二九
違㌣宝蜆・加瀬俊一監修・堀江芳孝訳﹃トルーマン回顧
︵4︶ 関寛治﹁分断の責任−米ソ冷戦は何をもたらした
頁。ωo冒−匿轟O=9o㌻、ジ君−墨−竃しき−N轟.
のかー﹂、﹃世界﹄一九八四年八月号、四九頁。
︵5︶ 朝鮮軍残務整理部﹃朝鮮に於ける戦争準備﹄、一九
四六年二月、宮田節子編・解説﹃朝鮮軍概要史﹄、不二
出版、一九八九年、所収、一九三頁。
︵7︶朴俊圭﹁誰が38線を引いたのか﹂、﹃新東亜﹄、ソウ
︵6︶李用煕﹁三八度線画定親孜﹂、﹃亜細亜学報﹄第一
集、ソウル、一九六五年二一月、四五四−四六〇頁。
ル、一九六五年八月号、李萬沫﹁38線悲劇の起源−米
月号など。
国の過誤を中心に1﹂、﹃青脈﹄、ソウル、一九六六年八
一9一ω竃冨二−河秦⋮彗亘.一一§雨§§o§§
︵8︶旨冒⑦己三屋雲箒ξ一§.ミ一P。。・
①−睾彗一オ①峯k昌ぎ岩g一勺o.ミω−ミ9
s§“㌧∼∼ミ88ミ、§§ミぎb.氏§竃§ミH貨ドくo−.
408
︵10︶ 、ωo昌①>眈o9誌o︷亭①O冒①9﹂o目o申宍o8與目−目一
〇①潟目宗目8,、一−凹目藺qoo目雪①昌o量目o≡戸︸①一u﹄9H虞ド
之則饒o冨−>﹃g才①9内①8﹃oΩ;E0轟一〇。雷.旨\お.
氏“s募県き“qりb魯sミ§§、呉吻ざ膏完“ざ註秦ざ
∼冒巨−s巨昌一︺くω905﹃ξ宛霧o膏8ω5ρ二8−昌o1−
ぎ§訂§ミ§“δ呉き“§−凄Q−−凄心一呂ド82∋
岩O。㊦■旨昌①巴。峯9冨ヌ§.︹きPO.この報告書は﹁臨
八ペイジにおよぷ。
時政府﹂の承認問題と関連して作成されたもので、一
︵u︶ 一九四三年二月ルーズベルトと蒋介石総統夫人の
宋美齢との協議の場であったとする見解もある。呉忠
根、前掲論文、九 七 頁 。
︵12一弓ω﹄8葦目雪;鶉↓箒一きミ雪尋§§呉
き“sざ、⑦ざ雪㌧b曹ぎ§淳ま雨δ︵以下勇s
と略記︶L㊤貞く0Fω一ラ竃.ωo昌ω⋮胴Oブ9§・ミ。P
HΦ.しかしルーズベルトの考えに対して、英国など同
盟国は自国の植民地に及ぽす影響を考え、これに反対
の立場を取った。︸.O⋮ぎ撃§.oき暑・昌﹄−Ho蜆.
︵13︶,勇S一H違9くo−19o−H8oo.
−印昌窃−峯斗冨ぎ§’9ごop−べ山oo’
H違ω一暑.ω竃ム8・朝鮮人の反応については、﹃新韓民
︵14︶ 勇易§“Oo鳶§ミSミOミ§sミ、饒き§§
報﹄一八六二号︵一九四三年一二月二日︶、 一八六三号
︵15︶ 勇姓Oo鳶ミミh8ミOざ§sミ良饒き§§
︵一九四三年二一月九日︶を参考されたい。
H㊤もω一〇〇1蜆①9oo①㊤.
︵16︶ 毫8§“9鳶ミミSミき§亀s、ざ§一
︵17︶ 勇易§“9喜ミミ“県b“ミ§畠^9<o=一淳
−Φ壮9〇一↓べo.
︵18︶ きミJo.墨卜勇姓9鳶ミミh“ミ黒ミ§
ムベ.
H漫μくOFドOO.寄N占蜆①一N雲−塞①.
︵19︶ 一九四三年末までの米国務省の対朝鮮戦後構想に
㌧ミs§苛oミ㌧−§−−6へpU①o印﹃けヨ①鼻艮ω訂8︸旦︺■
ついては、 匡印二①くzo暮①﹃一ま餉§s、きミ時§㌧oミQ
亭註昌錦o.P幸易巨轟一U・ρし寒oらP竃−o。卜五百旗
頭真﹃米国の日本占領政策﹄上、中央公論杜、一九八
︵20︶ 戸ρS一Zo9胃︸=9、、︸o鶴昌︺−①ωoま9>暮岸⊆o鶉
五年、六六−七四頁。
○冒二轟9§︹きo−ト鄭敬謹・林哲訳、前掲書、ミω
8≦彗庄︸彗向竃叶oE露ごo昌一、”○goσ胃“H竃ω−甲
頁。
見調整をはかるための﹁国または地域委員会︵O>O︶﹂
︵21︶ 国務省内の関連各部課問の連絡と事務レベルの意
員会︵勺向>O︶、議長一ブレイクスリー、事務局長一ボ
の一つとして、一九四三年一〇月﹁部局問極東地域委
409
連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
(201〕
(202〕
橋論叢 第108巻 第2号 平成4年(1992年)8月号
ートン︶Lを設置し、一九四四年一月にはこれらの﹁C
AC文書﹂に政治的見地から検討を加えるために﹁戦
後計画委員会︵勺幸O︶﹂を設置した。竹前栄治﹃占領
戦後史−対日管理政策の全容﹄、双柿舎、一九八○年、
二〇頁。
︵22︶ 勇8畠宣一くo−.蜆一〇﹂H婁・
︵23︶ §迂’oo.昌鶉.旨ミ・
︵別︶ きミ一署.H轟㌣旨S.質問㈲に対する答えとして、
﹁朝鮮一占領と軍政一日本人専門職員﹂︵勺奉01嵩9
0>O−Hωo。︶という文書を起草した。§“き 君。−So.1
ζ1ω−U①寝斗昌8けo︷Uム雪ω9§“肉ミミ曳き雨
§迂jop㎝①Nl蜆①ω一
さ辻二〇〇1蜆胃−蜆雷1
§ミ’oo−蜆σ①1㎝ooo..
夷易H違pくo− . 9 o . 蜆 蜆 ① 1
畠ω9
︵26︶
︵25︶
︵27︶
︵28︶
︵29︶
ω§“ミ§ざミぎざき“§、§“婁、富亀ミ㌧ミミ§ミ
きミ坊−㎏心−−−凄9奉印ω巨目血o↓o目U一〇二H0㎝9oPH01HN・
申福龍編﹃韓国分断史資料集﹄第一巻、原主文化杜、
ソウル、一九九一年、所収。
︵30︶ §迂.一〇.昌1
︵31︶ 勇姓9喜ミ§8ミき§§、きぎ・
H塞9001塞甲ωさ.
︵32︶ 雷胃訂斗忌互Oぎミミミ§完§寒§拝⑦ミぎ甲ま.
og昌cまき邑ξ雫o隻−o鼻署﹂震−ま蜆。呉忠根﹁分
断史の起点一米ソ分割占領過程の再検討﹂、﹃コリア評
論﹄二七一号、一九八四年=一月、二八頁。
︵33︶ 勇舅§“9喜ミ§8ミきぎss、きぎ・
︵34︶ 合意内容は、ωo昌ω冒oqO=〇一魯。ミ。君。ミ,N0。.
畠島一〇〇﹄竃1↓①ω一↓σo〇一〇〇寄.
︵35︶ 亀ε§雨9喜ミミ“ミ■ミ§一−o貞くo−・“ラ
︵36︶ 弓ω.U①混ユ目①巨o︷U①︷9ωP§ミ・一〇・N蜆・
寒蜆1
︵37︶ §迂−一〇﹄oo.
︵38︶ §ミ’冒ωo.
︵39︶ 夷舅§雨9鳶ミミ“ミ黒、§し㊤葺き−・ガ
︵40︶ 和田春樹﹁ソ連の朝鮮政策−一九四五年八月∼一
OOl㊤O壮1㊤O蜆1
〇月l﹂、﹃社会科学研究﹄三三巻四号、東京大、一九
八一年二月、九四−九七頁。
︵42︶ §ミニo惇竃o−㊤違.
︵41︶ 寓易−違9くo−“召.o竃−竃一㊤お、㊤亀・
︵43︶ 勇8§雨9喜ミミ“県黒、§Lo畠一く0Fド
︵44︶§ミ一召1㊤崖−胃98ω−㊤匿.夷易§“9鳶、.
oo.岩oo蜆−H蜆ooべ.
§§呉黒ミぎ一畠島一く〇一.H一〇−N蟹.
410
︵45︶ 勇䧓Oo喜ミ§“県bミ、ざ−違9くo−.“
OO.H§ω1畠冒−勇 易 H 竃 9 く O − 1 一 〇 ヲ O お − ㊤ 宣 .
︵蝸︶ 鶉姓oo喜ミ§“県黒ミぎ−竃9くo−1“
て察知しており、七月一八日のスターリンとの会談で
ソ連側からもこの事実が確認された︵亀易 §雨
oo鳶ミ§雨県黒ミぎ岩ξ一<o−.ド℃pH畠べ−H畠o。.︶。
︵50︶ − −凹ミ一〇コ Oo−ご目9 §、 “§ さ亀︹“諒§“㌧ §“
︵49︶ 勇易H竃9くo−−9o−昌S.
]≦罵雪目Oo’−㊤①㊤一〇〇.N蜆−N①戸︸.O旨旨−目①q9怠‘9戸o.
婁ざミ§、卜“曽§県き§sωogop=昌①q睾g
︵47︶ く印ま目−.ω訂H至員﹄§、ミb“急§ミ一§“
O P 旨 ミ ー − 塞 H −
㌧ざ§㌻bo§︸§、き“o§ミ、ト、§ミ“zoξく冒戸
︵一橋大学大学院博士課程︶
前掲書、一八一頁。
︵52︶ 零冒80自邑轟9§・oぎo。嵩N。鄭敬護・林哲訳、
四年、二六−六六頁。
︵51︶ 森田芳夫﹃朝鮮終戦の記録﹄、巖南堂書店、一九六
旨o.鄭敬護・林哲訳、前掲書、一七九−一八○頁。
H彗切らpN農−Nミ。︵加藤幹雄訳﹃破減への道程−原爆
と第二次世界大戦﹄、↓︸ωブリタニカ、一九七八隼、
三三三−三三四頁︶。
年、二一二−二二〇頁。今井清一編﹃ドキュメント昭
︵48︶ 藤原彰、﹃太平洋戦争史論﹄、青木蓄店、一九八二
和史五一敗戦前後﹄、平凡杜、一九七五年、一九八−二
〇六頁。米国は日本政府の終戦工作を暗号解読によっ
411
連合国の朝鮮戦後構想と三八度線
(203〕