Title 現代中国における犯罪学研究 - HERMES-IR

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現代中国における犯罪学研究 (犯罪研究動向)
王, 雲海
犯罪社会学研究, 19: 144-149
1994
Journal Article
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/16408
Right
Hitotsubashi University Repository
1
4
4
(犯 罪 研 究 動 向)
〔
犯罪社会学研究
第1
9号
1
9
9
4〕
現代中国における犯罪学研究
王
雲
海
(
一橋大学)
は じめに
現代中国の犯罪学研究は,かつては学問としての意義を もちえず ,単に政治的イデオ
ロギーの一部門と化せ られた時期があ り,今でもこの ような政治性は完全に失われては
いない.しか し1
9
9
2
年 5月 ,中国犯罪学会が全国規模の民間学術団体 として初めて創立
された ことに象徴 されるようにl
)
,近年になってか らは犯罪学研究が政治性か らの脱皮
をはか り,学問として再出発 しようとい う動 きが急速に現れている.以下においては,
歴史 と現状 との 2つの視点か らこの ような動 きを見 ようと思 う.
1 現代中国におけ る犯罪学研究の歩み
現代中国における犯罪学研究はその意義 ,方法 ,担い手な どを基準にお よそ次の 3つ
の時期に分け られ るように思われる.
(
1
)1
9
5
0
年か ら1
9
6
6
年 までの犯罪学研究
1
9
4
9
年中華人民共和国成立後 ,旧政権のイデオ ロギーを一掃 して新 しい政権のイデオ
ロギーを普及す ることが緊急課題の一つ とされた.その一環 として ,「
階級闘争論」とい
う新 しい政権のイデオ ロギーを犯罪原田論にまで具体化 して,犯罪原因に関する旧時代
の理論 ,見解を排除 しようとい う試みが,人民政権が育てた革命的刑法学者に よって横
極的になされた2
)
.彼 らは刑法教科書の中の 1章あるいは 1節 として犯罪原 因論 を取 り
上げて ,「
階級間争論」に基づいた新たな犯罪原因論を展開 して,およそ次の 4つの見解
を示 した,①犯罪 とは何かに関 しては,犯罪は人類誕生当初か らすでに存在す る永久的
現象ではな く,む しろ階級社会になってか らの特有な社会現象であって,その総根源が
生産手段の私有制にある.従 って,犯罪は本質的にいえば階級闘争の一種で,その現れ
)
.②社会主義制度にも犯罪の原因があるのか否かに関 しては ,社会主義
であるとい う3
制度が犯罪を生み出さないどころか ,次第に犯罪を消滅 させるとい う4
'
,③現在 の中国
社会で存在 している犯罪の原因が どこにあるのかに関 しては,一部の研究者は,それが
中国の社会主義制度にあるのではな く,旧中国社会か らの影響 とい う 「
歴史要素」 と,
現代中国における犯罪学研究
1
4
5
外国帝国主義か らの影響 とい う 「
外部要素」 と,社会主義思想を身につけ られなか った
とい う 「
個人要素」とにある5
)
としているのに対 して,他の一部の研究者は,過渡期にあ
る中国の社会主義制度は部分的に私有制を認めているので,そこに犯罪原因が依然 とし
て部分的に残 っているとい う6
)
.④資本主義諸国における犯罪学研究 を ど う見 るべ きか
に関 しては,当時のあらゆる教科書や論文の中では , ロンブ ロー ゾの 「
生来性犯罪人
説」が資本主義の犯罪学研究の代表 としてあげ られ ,その ような研究が全 く科学性を持
たない反動的なものとして批判 された7
)
.
(
2
)1
9
66
年か ら1
9
78
年 までの犯罪学研究
周知のように,この期間がいわゆる 「
プロレタ リア文化大革命」中であって,中国社
会が 「
階級闘争」 とい う名のもとで無限の混乱状態に陥 ってお り,司法実務 も法学研究
も例外ではなか った.当時 ,警察以外の司法機関がすべて解散 させ られ ,また ,法学研
究者のほとんどが追放 され,学問的研究が完全に中断させ られた.しか し5
0
年代に具体
化 された 「
階級闘争論」的犯罪原因論が,この時期の法的ニヒリズムの蔓延 ,大規模な
政治迫害な どを正当化す るような役割を果た していた8
)
.
(
3
)1
9
78
年以後の犯罪学研究
1
9
78
年暮れか ら,中国政府が 「
改革開放」政策を打ち出 した ことに よ り,
「
階級 闘争
論」を中心 とした従来の路線が転換 され ,法制度 の整備 も重要 な課題 とされ る よ うに
なった.それを契機に,法学研究 も再開され,公式的イデオ ロギーの具体化 しかできな
いとい う研究環境 もかな り改善 された.それに加えて 「
改革開放」の進行につれて,最
初は青少年犯罪,後に犯罪全体が激増 し,それに どう対処す るかが大 きな社会 問題 と
なった9
)
.こうした状況のもとでは,政府 も単にイデオ ロギーの具体化 の よ うな研究に
はもはや満足できず,より有効な対策を導け るような研究を期待す るようになった.こ
の ような背景にあって,犯罪学研究が新たな展開を見せは じめた.
従来 ,犯罪原因を云 々するのは純粋な刑法研究者だけであったが,中共中央が1
9
7
9
年
に出 した 「
青少年犯罪問題を重視せ よ」 とい う指示に応 じて,一部の心理学者,社会学
者 ,教育学者が,刑法学者の独 占事項 とされてきた青少年犯罪原因の研究に転向 した.
また研究組織に関 しても,5
0
年代以来重要な役割を果た してきた大学の「
刑法教研室」m
)
の他に,青少年犯罪研究室 ,犯罪学教研室 ,犯罪問題研究センター,犯罪学学部 といっ
た ような研究 ,教育機関が次 々と設け られた.中で も,1
98
2
年 6月に創立 された 「
中国
青少年犯罪研究学会」は,初めて刑法学会 とは別個の学術団体 として登場 し,研究会の
開催 ,雑誌の発行等の活動を通 じて,犯罪学研究の発展を大いに促進 した.また,この
ような犯罪学研究の故関 ,魁織が再建 ,拡大 されるに伴 って,犯罪学研究に従事す る研
究者は何倍に も増えた.犯罪学研究の雑誌 ,本 ,論文 ,調査報告 もかつてないほ ど多 く
99
2
年 3月現在 まで.全中国では,犯罪学研究の雑誌は1
3
種類 ,中
出版 ,発表 された.1
1
4
6 犯罪研究動向
国人の研究者が書いた本 は約1
20
冊 ,翻訳 された外国研究者 の本は約50冊 ,犯罪学 研 究
に関す る論文 ,調査報告は約1
780
本に達 している川.
この時期におけ る犯罪学研究は,その性格か ら次の 3つの種類に分け られ る.①5
0
年
代の 「
階級闘争論」的犯罪原因観を さらに体系化 ,理論化 しようとい う研究が一部の学
者に よってなされている1
2
)
.特 に89
年の 「
天安門事件」直後
,「階級闘争論」を もって ,
その他すべての研究を 「
ブル ジ ョア自由化の現れ」 と して排 除 しよ うとい う動 きさえ
あった1
3
)
.② 「
階級闘争論」一点張 りの従来の犯罪理論に対 して ,修正ない し批判 を加え
ようとい う研究が現れた .修正の場合は,私有制 ,階級闘争が犯罪原因の一部分ではあ
るが,そのすべてではな く,犯罪が諸要素の総合的結果であるとす る1
4
)
.批判 の場合は ,
犯罪が私有制 ,階級闘争 とは関係のない,人類社会に共通す る普遍的現象であって,社
会主義制度に も犯罪 の原因があるとす る1
5
)
.③従来のイデオ ロギー的 ・制度論 的議論 を
無視 して,全 く新 しい方法で犯罪学を研究 しようとす る試 み が現れ た (これ につ い て
紘,以下の 2を参照).
2 現代中国におけ る犯罪学研究の現状
ここで現状 として見 るのは ,1
99
2
年中国犯罪学会 創立前後 及 びそれ 以後 の研究 で あ
る.
一言でい うと現在は 「
『
階級闘争論』一点張 りの伝統的研究方法及 びそ こか ら導 かれ
た タブー的結論が全面的に後退 し,各種の新 しい研究方法が模索 され ,新たな仮設が多
く提示 されている」 ことにある,これは具体的に ,中国犯罪学会の創立 自体及びその研
究総会 での議論状況の変化 と,最近 の犯罪学研究の状況 とに現れている.
(
1
) 中国犯罪学会の創立
中国で学会をつ くることは,日本におけるそれ以上の意義を有 してお り,犯罪学会が
創立 された ことが単に 「
一つの学会がまたできた」 とい う意義だけでな く,会長の康樹
華北京大学教授が指摘 した ように,それは同時に犯罪学が一つの独立 した学 問 として,
政府を含んだ社会全体の東認 を得た ことをも意味 している1
6
㌧ これ まで 3回 の研 究総 会
が行われたが,92
年 5月の第 1回の研究総会 では ,従来 の 「
階級闘争論」的議論が依然
として中心であったが1
7
)
,9
3
年 4月の第 2回研究総会は 「
臨床診断」 とい う目的で ,「
経
済改革」のモデル都市であ り,同時に犯罪の多発地方で もある温州市 で行われ ,「
経済開
発 と犯罪 との関係」が中心テーマで,伝統的な議論はほ とん ど出なか った1
8
㌧9
4
年 6月
経済改革」のモデル地方 であ りなが ら も,犯罪 が少 な
の第 3回研究給会は,同 じく 「
く,環境保護が とて もよく行われている鋲江市で開催 され ,
「
経済開発 と環境犯罪 ,市場
経済 と犯罪の コン トロール」 とい う, よ り現実的なテーマをめ く
.って議 論 が 展 開 され
た 19).
現代中国における犯罪学研究
1
4
7
(
2
) 最近の犯罪学研究
最近の犯罪学研究では次の 3つが主流 となっている.
①犯罪原田一般に関心をもち,新 しい方法でそれを解明 しようとす る研究がある.こ
の代表的なもの としてあげ られるのが次の 3つの仮説である.(
a
)「
人間本能疎外説」.つ
ま り,人間 と環境 との関係か ら犯罪の原因を見る.社会について言えば,犯罪原因が人
類誕生の初期段階の 「
原始性部分」にある.個人について言えば,犯罪原因が生まれた
直後の 「
幼児性部分」にある.社会化過程でその ような部分を うま く取 り除 くことがで
0
㌧(
b)
物理学の 「
エン トロピー」
きなか ったならば,それが犯罪 として現れて くるとする2
概念を用いて,犯罪原因を見る 「
犯罪エソ T
tpピ-説」.つ ま り,あらゆる人 々の身体に
は犯罪の 「
エン トロピー」があるが,それを誘発する 「
エン トロピー性分子」が個人以
外の社会にある.人間はその ような 「
分子」に接触 した ら,犯罪に走 るとす る2
1
㌧(
C
)「
動
態 システム説」.つ ま り,犯罪の原因をマクロと ミクロとの関連で,静態 と動態 との関連
で,システム的に見るべ きであるとす る2
2
)
.
②経済開発 と犯罪 との関係 とい う具体的テーマに焦点を合わせての研究がある.これ
については,商品経済が発展すればす るほ ど犯罪 も増加す るとい う 「
絶対増加説」 と,
商品経済の一定段階においてのみ犯罪 も増加するとい う 「
相対増加説」 と,犯罪の増加
が経済発展の必要代価であるとい う 「
代価説」 と,経済の発展 と犯罪の増加 との間に必
然的因果関係はない とい う 「
無関係説」 とがある2
3
)
.
③実証的 ,事例的研究 も多 く現れている.例えば,公務員収賄の原因に関 して特に注
目を集めているのは,最高人民検察院の現職幹部検事である官暁氷氏の研究である.氏
は自分の担当 した事件等を材料に ,「
公務員の持つ経済能力 と社会におけ る消費状況 の
「
改
変遷 との関係」か ら賄賂の原因を明らかに しようと試みている.その研究に よれば ,
革開放」以来 ,公務員の給料が何回も引き上げられた ものの,それが進行 しているイ ン
フ レに よって完全に相殺 されてお り,昔は公務員個人が負担 しなか った多 くの費用が今
は個人の負担になってお り,公務点の経済能力が実質的に下が っている.逆に,一般社
会においてほ消費 レベルが 日毎に高ま り,消費ブームが しば しば起 こっている.この よ
うな状況では,公務員が,いわば国の不当な分配政策の被害者になっている.その結果
として,彼 らの一部は,収賄を最小限の生活必要品を獲得するための 「
やむをえない手
段」,又は 「
非をもって非を是正す るための方法」 と見て しまう.ある意味では収賄は,
公務員が負っている社会的 ,公的責任 とその家庭的 ,私的責任 との矛盾の現れであると
い うz
J
)
.
む
す
び
これ まで見てきた ように,現代中国における犯罪学研究が ,3
0
年以上の粁余曲折を経
1
4
8 犯罪研究動 向
て,学 問 として動 き出 したのはご く最近 の ことであった .に もかかわ らず ,僅か数年間
で,よ り科学的研究- と姿勢 の転換が実現 され ,多 くの試 みがな され ,多大 な進 歩 が
あった といえ よう.一方 ,提示 された研究の多 くが ,いまだに仮説 の段階に留 まってお
り,理論化 されていないの も事実である.特 に外国におけ る犯罪学研究の現状 と比べ る
と,中国のそれが著 しく遅れているとも言わざるをえない.研究の質を高めて,外国 と
の遅れを取 り戻す ことが ,現代中国におけ る犯罪学研究の至急課題 といえ よう.そのた
めには,研究環境 (
特 にその政治 ,経済環境)が一層改善 され ること,研究者 自身の知
識 ・能力が高め られ ること,外国の研究者 との間で よ り緊密な流行が行われ ることな ど
が望 まれ る次第である.
〔
注〕
1)中国犯罪学会 の創立大会が 1
9
9
2
年 5月2
1日に北京の人民大会堂で行われ ,日本か
ら本学会会点 の福 田雅章 ,村井敏邦両教授が招待 され ,研究総会 で講演を行 った .
2) 中華人民共和国成立前 の国民党時代では ,欧米又は 日本に留学 した研究者が ,大
学で ロンブ ローゾを含む西洋の犯罪学者の犯罪理論を教えていた .
3) 中国人民大学法律系刑法教研室編 ,『中華人民共和 国刑法総則講義 ・初稿 ・上冊』
9
5
7
年),3
6
頁.
(
北京 ,1
犯罪的階級性」,『
新建設』 (
北京 ,1
9
5
7
年 1期).
4)李光燦 ,「
5)中央政法幹部学校刑法教研室編 ,『中華人民共和 国刑 法総 則講義』 (北京 ,1
95
7
年),5
2,5
6
貢.
6)危昨非 ,「
我国過渡期時期産生犯罪的原因与 人民民主制 度 的 関係」,『教学 簡報 』
(
北京 ,1
9
5
7
年2
4
期).
7)例 えば.前掲注 5.
8)張宗厚 ,「以歴史悲劇的血与火錘煉現代法文化J.『新華文 摘』て北京 ,1
98
8年 1
0
期).
9) これに関 して ,拙著論文 「
中国におけ る犯罪激増原因の社会学的分析 1
,『
一橋論
叢』 (
東京 ,1
0
9
巻 1号 ,平成 5年).
1
0
) 「
教研室」が ,学部の下にある教育 ・研究を担 当す る教官鼠織 であって ,専門 ご
とに作 られ る.例 えば,刑法を専門 とした教官は 「
刑法教研室」 を作 り,そ こに属
す る.
新 中国犯罪原因研究的歴史回顧与評佑 」,『中国犯罪学研究会会刊』 (
北
ll
)王順安 , 「
9
9
2
年 1期).
京 ,1
1
2
)例 えば,李光燦 ,「
論犯罪的階級本質和社会根源」,『法学研究』 (
北京 ,1
9
8
0
年2
期),
現代中国におけ る犯罪学研究
1
4
9
青少年犯罪実質上是階級闘争的反映」,『
青少年犯罪研究』 (
北京 ,1
9
9
1
1
3
)林文肯 ,「
年 2期).
1
4
)張伯中 , 「
社会主義制度是否存在産生犯罪的原因」, 『
西南政法学院学報』 (
量産 ,
1
9
8
0
年 2期).
1
5
)「
全国首回青少年犯罪研究総会」,『中国青少年犯罪研究年鑑 ・1
9
8
7
』(
北京 ,春秋
9
8
8
年),9
5
7
頁.
出版社 ,1
1
6
)康樹華 ,「
中国犯罪学研究会蕎備工作報告」,前掲 『中国犯罪学 研 究全会 刊』, 1
貢.
1
7
)第 1回研究総会での議論状況について ,前掲 『中国犯罪学研究会会刊』,2
1
貢以下
参照 .
1
8
)第 2回研究総会での議論状況について,康樹華 ,『中国現階段 市場経 済 与犯罪捷
9
9
3
年),3頁以下参照 .
制』 (
北京 ,光 明 日報 出版社 ,1
1
9
) ここでのまとめは中国犯罪学会が提供 した資料に基づ く.
2
0
)皮芸軍 , 「
本能異化論 ・犯罪本源理論的新思考」, 『
青少年犯罪研究』 (
北京 ,1
9
8
9
年 2期).
2
1
)劉智 , 「
罪痛論 ・対社会犯罪問題的基礎研究」, 『
青少年犯罪研究』 (
北京 .1
9
91
年
4,5期).
2
2
)曹子丹 ・許章潤 ,「中国犯罪学十年巡礼 ・一」,『公安大学学報』 (
北京 ,1
9
9
1
年6
期).
2
3
)康樹華 ,前掲書 『中国現段階市場経済与犯罪控制』,5頁 .
2
4
)宮暁氷 ,「
消費変遷与賄賂犯罪的関係」,肖揚編 『
賄賂犯罪研究』(
北京 ,法律 出版
9
9
4
年),1
1
5
頁以下 .
社 ,1