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赤報隊の結成と年貢半減令
佐々木, 克
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities
(1994), 73: 109-141
1994-01
http://dx.doi.org/10.14989/48414
Right
Type
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Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
赤報隊の結成 と年貢半減令
佐
々 木
克
は じめに
Ⅰ京都 を脱す
Ⅲ 挙兵の計画
皿
赤報隊の中山道進軍 と高松実相 の挙兵
Ⅳ
「
悪 い噂」 と滋野井隊
Ⅴ
Ⅵ
「
年貢半減令」 をめ ぐって
「
偽官軍」への道
おわ りに
は
じ め
に
この稿では,綬小路俊実 と滋野井公寿 とい う,二人の公卿 を擁立 して挙兵 ・結成 された赤報
隊の,主 として結成過程 とその解隊の経緯 に問題 を しぼって,論 じてみ ようと思 う。
周知の ように,赤報隊については,高木俊輔氏のい くつかの,かつ詳細 な研究があ る。 た と
えば, (
A)『
維 新 史 の再発掘』 (NHK ブ ックス, 1970)。(
B)『
明治維新草芥運動 史』(
勤草書房,
1
97
4)
。(
C)『
それか らの志士』(
有斐閣,1985)な どがその代表的な ものである。 こうした高木氏
の研究 に学 びなが ら,赤報隊結成の地である近江の国-滋賀県 に居住す ることになった とい う
経緯 もあって,少 しずつ赤報隊関係の史料 を集めて きたのであるが, もとよ りその量 は微 々た
るものではある ものの,多少,高木氏の研究 につけ加 えることので きる事柄 も出て きたように
思えるので,小論 を纏めて見 ることに した ものである。
とくに本稿では,高木氏の研究 において,比較的手薄であった,赤報隊の結成前後の状況 と
人間関係,滋野井隊の行動 とその意味,年貢半減令 と政府 ・赤報隊 との関連 などについて論 じ
て見 ようと思 う。
また,新 し く芳賀登氏 の 『
偽官軍 と明治維新政権』(
教育出版センター, 1992) も出 された。
本書 は,高木氏の研 究 などにたいす る批判が述べ られているが,その論点 に関 しては本論のな
かで触れて行 くことに したい。 ともあれ赤報隊に関す る研究がす くない とい う研究状況のなか
で, この小論が少 しで も,研究の前進 に役立つ ことになれば幸いである。
-
1
09-
人
文
学
報
Ⅰ 京都 を脱す
慶応 4 (
1
8
6
8)年 1月 6日の夜,綾小路俊実 と山科元行 ほか30人 た らずの人数が, 山鼻 (
規
京都市左京区修学院山ノ鼻町)の平八 とい う茶店 に集 ま り,そ こか ら比叡 山 を越 え,近江 国坂本
(
現滋賀県大津市坂本。日吉大社のある所)に出た。(なお断らない限 り,慶応 4年 1月中の出来ごとな
ので,年月は原則として,省略する)
。
京都 か ら近江 の大津 (
滋賀県大津市)にいた る道 は,東海道 の本道であ る,逢坂越 えの他,
い くつかのルー トがあるが,綾小路等 は,京都側か ら直線的に比叡 山 を越 える, この雲母越 と
呼ばれる, もっと も険 しいルー トを,選 んだのであった。歩 き慣 れない綾小路 に とっては,難
行苦行 だ った と思 われ るが,だれかが担 いだのか もしれない。一行が坂本 に到着 した ころには,
夜が明けていた。
赤報隊 に関す る唯一の史料集である 『
赤報記』 の 7日の記事 には 「山花村 ニテ暫時休足,叡
山越坂下へ至 ル,御両朝 臣へ一 同拝謁 」1
)
とある。 この場合 の一 同 とは,相楽総三等 の グルー
プである。 このほか,水 口藩 グループ と元新撰組 グループ等が加 わ って,一行 は琵琶湖 を船で
対岸の守 山に渡 った。
ところで, この 『
赤報記』 の記述 によると,相楽 らは綾小路俊実及 び滋野井公寿等 と坂本で
一緒 になった ように述べ られてい るが,考慮すべ き余地がある。 それは綾小路 の手紙 に 「(滋
野井 )公寿朝 臣ニ モ不 図守 山ニテ出会 」2)とあ るこ とであ る。 私 はこの手紙 の文面 を信 ずべ き
だ と思 うのであるが, とすれば,綾小路 と滋野井 は,守山で初めて一緒 にな ったわけである。
つ ま り,綾小路,滋野井,相楽,水 口藩士,元新撰組等 々の諸 グループは,それぞれ別個 に京
都 を出発 して,守 山で合流 したのであ った。そ して 8日,彼等 は松尾 山金剛輪寺 (現滋賀県神
崎郡秦荘 町)に到着 した。
1
0日,赤報 隊が結成 された。 1番 隊隊長
組)
。 3番隊隊長
相楽総三。 2番 隊隊長
鈴 木三樹 三郎 (元新撰
油川信 近 (水 口藩士 )であ った。 この前 日の 9日,綾小路 と滋野井 の連名
で,政府 (議定,参輿 )宛 てに,挙兵の届書 が送 られているが,それによれば 「
為勤王義勇之
士 ヲ相募 り候処,不期 シテ志士蜂 ノ如 ク起 り,雲 ノ如 ク集 り,昨今忽二百人二飴 リ候 」3)とあ
って, またた くまに人数がふ くれあが ったことが知 られる。 先の綾小路 の手紙 に よれば,最終
的には300人程 に なった とあ る。赤報隊 に参加 した者 は,脱藩士,農商民,神官,僧侶等 々,
いわゆる草芥 の志 士が多か った4)。 この挙兵の届書 は, 9日に松尾 山 を発 って京都 に戻 った相
楽が,政府 に差出 した ものである。 以下 に全文 を掲 げてお こう。 また, この届書 に対 して,政
府 か らの回答が出 されているが, それ も続 けて紹介 してお こう (なお引用史料の番号は,便宜上
佐々木がつけたものである)5)。
- 1
1
0-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐々木)
(
1
)
伏惟,京摂之 間,朝敵追討之儀,勤王之諸藩 日々奏功,実以恐悦奉存候,就 テ東方之処,
如何被馬在候哉 卜心痛仕,於江川愛知郡松尾寺村松尾山金剛輪寺学頭妙寿院,為勤王義勇
之士 ヲ相募 り候処,不期 シテ志士蜂 ノ如 ク起 り,雲 ノ如 ク集 り,昨今忽二百人二余 り候,
是全 ク朝威 ノ赫々タル所以 卜探奉感戴候,此上,迫々誠義之徒蟻集可仕候,若王命二不随
之賊於有之ハ,速二退治可仕存候間,此段言上仕候,或即今可追討所モ有之候得ハ,朝命
奉戴,如何成強賊 ヲモ課戟可仕候,所集 ノ兵士 ノ儀ハ,実こ水火モ不相避者共ニテ,於公
寿,俊実モ,固 ヨリ決意 ノ事二有之候得ハ,可然御沙汰奉希度,此段宜御執奏奉願候也
正月九 日
俊美
公寿
議定
参輿
御中
(
2)
来翰令披見候,方今中興之機会,不忍座視傍観之忠志 ヨリ被及脱走候修,犯朝憲候儀ハ,
甚不容易儀二候得共,勤王之為 メ不顧身命憤発,被及義挙候段ハ神妙之儀,叡感思召候,
然ル二,頃 日,追討 ノ諸兵決死奮戟之カニ ヨリ,賊徒速二敗亡,徳川慶喜遂二束奔二及 ヒ,
南方一旦鎮定二及候上ハ,其地屯集之義徒等,厚被加鎮撫,弥以洋励,赫々皇軍之威光 ヲ
被輝候テ,必軽動無之様可被致,猶,征東之官軍不 日進発二可及候間,東海道鎮撫総督実
梁朝臣之手二属 シ,応援戦力,桑名城 ヲ襲撃可有之候,弥以勉励,奉安忌襟候様可有奉公
冒,総裁宮御沙汰有之候,偽テ回答如此候也
正月十一 日
滋野井侍従殿
綾小路侍従殿
A)
によれば,京都に着いた相楽総三は,早速嘆願書 と建 白書 を政府に提 出 した とい う。
高木(
すなわち 「
最初の嘆願書は現存 しないが,たぶん今度の挙兵 を正式に許可 してほ しい, さらに
官軍 として認めてほ しいことを,綾小路 ・滋野井両卿の名で願い出たものであろう」 と推測 し,
1日に,政府 か ら 「
達 し書が下 りた」6)
と述べ る。 この達 し書 とは,議定 ・参輿 か ら出
そ して1
された(
2)
の文書である。
しか し高木の推測 は再考の余地がある。(
2)
文書 を見ると分かるが,これは 「
来翰」 にたいす
る 「回答」の形式 をとっていることが明 らかで,(
1
)
の滋野井 ・綾小路の届書 (
書簡)に対する
議定 ・参輿の返答 とみるべ きである。 はた して高木のいうように,最初の滋野井 ・綾小路両脚
の嘆願書 と建 白書 はほんとうにあったのだろうか。
1)
で は,挙兵の状況 をのべ,「
王命」 に従わない 「
賊」 を速やかに 「
退治」 した
両卿の届書(
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報
いか ら,「
追討」 の 「
朝命」 をいただ きた く, しかるべ き 「
御沙汰」 を希 うとい うものであ っ
2
)
の政府か らの回答 は, まず両脚が 「
朝憲」 を犯 して脱走 したのは,由々 し
た。 これに対 して(
き事ではあるが,勤王のため奮発 して 「
義挙」 におよんだのは 「
神妙」であると,彼等の行動
軽動」 な きようにすべ きこと,東海道鎮撫総督橋本実梁の 「
手二属」
を認める。 その うえで 「
し「
応援戟力」すべ きであることを,総裁宮 (
有栖川宮俄仁親王 )か ら 「
御沙汰」があった と
い うことを,回答 した ものである。
1
2日,相楽総三 は,かの有名な年貢軽減の建 白書 と嘆願書 を政府 (
議定 ・参輿局 )に提 出 し
た。たぶん 9日夜 か1
0日朝 には京都 についた相楽が,以前か らあたためていた年貢軽減の建 白
書 を, この 日にな って初めて提 出 したのは, 11日に,政府か ら両脚の 「
義挙」 を可 とす る 「回
答」 を得 ることがで きたか らであったのではなかろうか。義挙 と認め られず,あ くまで も 「
朝
憲」 に触れるとい うことな ら,建 白書 も嘆願書 もほとんど無意味な ものになるか らである。 つ
ぎにその建 白書 と嘆願書7
)
を掲 げてお く。
(
3)
誠恐誠憧謹言,草葬卑賎之身 ヲ以建言仕候ハ,甚恐入次第二候得共,此度綾小路,滋野井
殿両脚之御勢 二加 リ,先登仕候 二付,愚存之義万死 ヲ犯 シ建 白仕候,当時賊勢既 二浪花 ヲ
去候趣意ハ,必関東割拠之所存ニテ,唯今之処ニテハ,賊之余塩無之様 二候得共,関東ハ
固 ヨリ彼之巣窟二候間,弥東下仕候ハ 、,是則虎 ヲ山二放チ候患 卜奉存候,東海道ハ小 田
原之城二塚,兵 ヲ函嶺二出シ,中仙道ハ高崎二様,兵 ヲ臼嶺二出シ,要地 ヲ塞キ防禦被致
候 テハ,甚蹟破 り難 ク,実二斧 ヲ用 ル悔可有之候 間,賊 ノ不意二出,両葉之内達 二御征伐
被為在度奉存候,加之今鮎夷之輩,我隙 ヲ親娘致居候義政,此融蜂之弊二可乗モ難計,是
又一大事之義 こテ,兎角急 二御東征被為在度奉存候,尤右御東征之義二付定 テ御廟算ハ,
数々可有之候得共,当時之虞,是迄幕府二於テ,関東ハ甚暴飲 ヲ極 メ,民心皆肝吏之 肉ヲ
喫ハ ン ト存居候義政,幕領之分ハ暫時之間賦税 ヲ軽 ク致候ハ 、,天成之難有二帰暫 シ奉 り,
仮令賊二金湯之固有之候 トモ倒克之者,賊之粛培二起 り,必以御東征之御一助ニモ可相成
卜奉存候,乍恐右等之条々ハ卑購之者之建言仕候迄モ無之,定テ廟議モ有之義 卜奉存候得
共,滋綾両脚之思召ニ ヲイテモ,此義探 ク御心痛被遊候義政,不憧 中上候以上
この建 白書で相楽 は,旧幕府領地の年貢 を,暫 くのあいだ軽 くすべ きである, と主張 してい
るのであるが,「
半減」 とは,いっていない。 もう一過の嘆願書 は次の ごとくである。
(
4)
方今御東征之義二付,滋野井侍従殿,綾小路前侍従殿,江州松尾山正明寺迄御 出張被成候
庭,御人数迫 々馳加 リ,一方之御助 ニモ可相成思召候 ヨリ,其段御届 申上,官軍之御印且
御東征先鋒之義御願二相成候庭,官軍之義ハ勅許二相成候得共,御印且先鋒之義不被命候,
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赤報隊の結成と年貢半減令 (
佐々木)
官軍之義 二候 ハ 、,是非其御印無之候 テハ,全軍之居合等こモ相懸 り,且賊 ヲ討伐仕候 こ
モ,都 テ ノ義 二付不都合之次第二候 間,此情実逐一御憐察被下置,嘆願之両様急速勅命 ヲ
蒙 り度奉存候 ,願之筋相叶候得ハ,今賊之巣穴 ヲ不結 内先鋒仕,連二寸功 ヲ奉奏候,以上
この嘆願書 で は 「
官軍之御印且御東征先鋒之義」 を願 い出た ところ,官軍 とい うことに関 し
ては 「
勅許」 にな ったけれ ども,官軍である とい うこ との印や,先鋒 を命ず るとい う沙汰が ま
だないので, ともか く官軍である とい う 「
御印」 を, はや くいただ きたい と嘆願 した ものであ
った。相楽が い う官軍である とす る 「
勅許」 とは,(
2)
の総裁官 の御沙汰 と考 えるべ きであろ う。
この建 白書 と嘆願 書 にたい して,政府 か ら以下 の よ うな御 沙汰書 が出 された。(
引用は 『
赤報
記』から,なおカッコ内は,『
復古記』の記述 )8)。
滋野井
(
5)
侍従
綾小路前侍従
其手 二属 シ候草葬士,従前勤王之志願不浅趣,殊 二関東民情弁知之聞モ有之候間,傍以尽
力可仕,三通官軍関東打 入之節ハ,御印之品朝廷 ヨリ可下賜候 間,其節ハ速二束下,億兆
士民王化 二服候様,暫導先鋒可仕 (可致候 )
,夫迄之庭蓄兵力儲粒食,機会到来 ヲ相待,
尤過 日被仰 出候通 り,東海道鎮撫使之随指揮候様可 申候 (可 申付 )
,御沙汰之事 (ニ候事 )
正月
但今度不 図干支二至候義 こ付 テハ,万民塗炭之苦モ不少,依之是迄幕領之分,総 テ当年
租税半減被仰付候,昨年未納之分モ,可矧 司様, 巳年以後之虞ハ御取調之上,御沙汰
可被馬在候 義こ候 間,右之 旨分明二可 申付 (聞)事
この史料 は,赤報 隊のその後 を考 える上で,決定的 ともいえる位置を占める ものであ る。 そ
れだけに, この史料 の扱 い を巡 って,見解の対立 もあ るのであるが,その点 に関 して は後でふ
れることに して, まず私の,当面の解釈 を,以下 に述べ てお くことに したい。
『
赤報記』 に よれ ば, この文書 は 「
於太政官,坊城大納言殿」 よ り渡 された 「
勅読書」 であ
る, とされている。 しか し当時 「
坊城大納言」 なる人物 は実在 しない し, また 「
勅読書」 とい
えるか どうか, とい うことも考慮すべ き余地があ る。 『
赤報記』 は,後で編纂 した ものなので,
この記述 に関 しては,思 い違いがあると見 るべ きであろ う。 また(
2)
の文書の ように,文書 を出
した主体 が,誰 ・何 処 なのか,記載がな い。 しか しだか らとい って,この文書 その もの を,偽
文書 と片付 け るわ けにはいかない (
後述)
。 日付 は欠 くが ,1
3日か 1
4日に,政府サ イ ドの何処
か らか出 された,御 沙汰書 と考 えてお きたい。
さて内容であるが,両脚 に属 している 「関東民情」 をよ く知 っている 「
草葬士」 とあるか ら,
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これは明 らかに相 楽等のことを指 していると考えてよいであろう。 そ うした草葬に尽力せ よと
命 じているのであ る。 また三道 (
東海,東山,北陸)官軍が 「
関東打入」の節は 「
御印之品」
すなわち,相楽嘆願(
4)
にみ られる 「
官軍之御印」 をあたえるか ら,その節 は 「
轡導先鋒」 とな
東下」)べ し, と述べ る。 注意 してお きたいのは,「
御印」 は今す ぐ下賜す
って関東 に下 る (「
るのではな く,関東討 ち入 りの節だとい うことである。 しかるにこの時点で政府当局はといえ
ば,関東討 ち入 りなどとい うことは,何時のことになるのか,ほとんど何の 目算 もたっていな
い とい う状況だったのである。 もう一つ重要なことは,(
2)
の政府の回答 と同 じように,「
東海
道鎮撫便」の指揮 に従 うべ Lとしていることと, この沙汰が,あ くまで も滋野井 ・綾小路両卿
に宛てた ものであ り,相楽に沙汰 した ものではなかった事である。
租税半
つ ぎに但書 に移 ろう。 ここでは幕府領の,本年度 はもとより,前年度の未納分 まで 「
分明ニ」) 申付 け (あるいは,申 し聞か し)ていることである。 しか も
減」 を,はっきりと (「
来年度の ことまで, とりようによっては,期待 をもたせ る言い方になっている。 この点など,
明 らかに相楽の建 白書の内容 をこえている, ときえいえよう。
相楽総三が この御沙汰書 を, どの程度正確 に読み込み,理解 したかはさてお き,政府が,塞
本的には,両脚の挙兵 と草葬の尽力 を認めた事,お よび政府か ら年貢半減の 「
御沙汰」 を受 け
取 ったことで,彼 はとりあえず満足 して,隊に戻 ったことであった と思われる。1
5日夕方,高
宮に宿陣する赤報 隊に京都か ら相楽が戻 った。そ してその 日,高宮宿の本陣の門前 に,年貢半
減 を告げる高札が掲げ られたのであった。
ここで赤報隊の行動 を追 う前 に, どの ような経緯で,挙兵がなされたのか,その計画段階か
ら,人々の動 きを探 ってみることに したい。
Ⅱ
挙兵の計画
挙兵の計画 は,前年の暮れあた りか ら具体化 されたようであるが,その辺の事情 について,
)
, まずそれか ら見てみるこ
油川信近 と山科元行が,回想談 を残 しているので (『史談会速記録』
とに したい。
(
6)[
油川信近の談話 ]
- (
鷲尾隆衆卿 )が紀州高野山に勤王の義旗 を翻か- しました,そこで今の侍医局勤務山
科元行 は其頃典薬寮医員で能登介 といひましたが-綾小路侍従俊実卿 を首領に戴いて,東
の方江州地方 に義兵 を挙けて,遥に高野山と相応 して京都 を護するといふ考へで,窃かに
綾小路卿 に御話 しました所が,綾小路卿 は其頃幽閉の御身であ りましたが,斯 る天下の形
勢 を座視傍観 するに忍 ひす,義徒 を集めて勤王の師を起 さんとの御計画中であ りました,
- 11
4-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐々木)
故 に意気投合 して,乍 ち御相談が熟 しま した,-其頃私 も出京 して松尾但馬 を訪問 しまし
た ら,岩倉公 が何か御話があるか ら宮 中-来い といふ ことであ りましたか ら,宮 中に於て
岩倉公 に拝謁 した所が,御親兵御取立の ことを御話 しがあって御諮問などもあ りましたが,
それか ら山科 を訪問 して,綾小路卿の義挙 を聞いて大いに勇み立って,先つ藩主の顧問の
為め国元 より中村栗翁 を呼寄せ ることを藩主 に説 きまして,直ちに水 口に帰 り中村 に主命
を伝へて,それか ら窃かに西本祐準,速水湊等へ義挙の話 を した- 9)
(
7日 山科元行の談話 ]
- (
王政復古 クーデター)の際 に五修為栄朝 臣,鷲尾隆宋朝臣が,勤王の有志輩 を率 ひて,
紀州高野山に義兵 を挙 けられた頃ゆえ,東方 に も備-がなければ帝都の護衛が手薄い,加
之今海内擾 々 として,人民ハ王化の何 たるを知 らず して,只方向に迷ふて,人心淘 々たる
形勢 ゆへ, これハ志士が傍観座視 して居 る時でない と思ふて,東の方江川地方-義兵 を挙
けて,遥 に高野山 と相応 して,王化 の寛大仁慈 なることを示 して,人心 を鎮撫安堵せ しむ
るが宜か らうと考へて,綾小路侍従 に其意志 を談示す ると意気投合 して,忽 ち協議が熟 し
たか ら,正月六 日の晩 に叡 山を稔へて進行 しました,尤 も其前 に荒木尚一,山本太宰,袷
木三樹三郎,新井俊蔵,篠原泰之進,阿部十郎,西本祐準,速水湊,箕 田字八郎,油川練
三郎 な と-兼 て同志であるゆえ,此段斯 ういふ都合で勤王の義兵を挙 ぐるか ら,一所 に出
ぬか といふ と,熟れ も同意賛成 したゆへ,尚外 に五六人 を説 きて,同志 を組合 して,其 日
に進行 しました-
1
0)
山科元行の談話 か ら,挙兵の計画 は山科が発端で,綾小路 を説 き,彼の同意 を得た こと,そ
してその時期 は,鷲尾隆衆 らの高野山挙兵 (
慶応 3年 1
2月 1
2日)のあ とであったことがわかる。
また,何時の頃か らとい うことは,はっきりしないが,油川信近 (
練三郎)をは じめ山本太宰,
鈴木三樹三郎,阿部十郎等,のちの赤報隊の幹部 となる人物 と,すでに同志的な結合があ った
事が知 られる。
山科 ・綾小路の挙兵計画が,高野 山挙兵が きっかけとなっていること,そ して,山科が挙兵
の組織の中心 にいたことが,油川信近の談話か らも,判明す る。 ここで興味深いのは,油川の
談に見 える岩倉具視 の存在であ り,岩倉 と松尾但馬 と山科 と油川 をむす ぴつけている ものであ
る。 松尾 と山科 と油川 は,以前か らの付 き合いがあったようであるが,それは何時頃か ら, ど
のようない きさつで始 まった交遊であったのか。赤報隊 を考察す る際,重要 な論点 となるべ き,
この間題か ら, まず考 えてみ よう。
岩倉具視の 「
股肱の臣」 ともいわれる松尾但馬 (
相永。非蔵人。松尾社嗣官の子)は,山科
元行の弟であ る。松尾 と岩倉 は文久 2年の和宮束下の際知 り合い親 しくなった。公武合体派の
岩倉具視が,好物祝 され文久 2年 (1
8
62)に洛中か ら追放 されてか ら,両者の接触 は一時 とぎ
- 1
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れたが,幽閉中の岩倉か らた よ りがあ って,慶応 1年 (
1
8
6
5)秦,松尾 は藤井九成 (
処士。明
和事件で処刑 された藤井右門は曾祖父)をともなって,洛北岩倉村の岩倉具視 を訪問 した。当
時松尾 は御所 の北 ,今出川上ル室町頭の柳 ノ図子 に住 んでいて,その隣が藤井の住居で, この
二人の間には国事 を論 じての同志的結合があったのであった11)。
慶応 1年 といえば,41
歳 の岩倉具視が 「
叢裡鳴虫」 「
全国合同策」 とい う有名 な国事 に関す
8政変 (
1
8
6
3)か ら禁 門の変 (
1
8
6
4)を経 て,尊撲派 は凋落
る意 見書 を書 いた年である。 8 ・1
の傾 向 を強め,世 は岩倉の出番が回 って来そ うか 朝流 となっていた.事実朝廷内では,朝彦親
王の反対で実現 しなか ったが,岩倉具視赦免の議が起 こっていた。岩倉具視 自身ふたたび世 に
出るチ ャンスを狙 っていたのであ り,そのために も,多 くの情報 と,信頼で きる有能 な人材 を
求めていたのであ る。 この様 な岩倉具視 に,松尾 と藤井 を通 じて志士 ・有志が紹介 されたので
あった。
松尾 は松尾杜がバ ックにあって生活 に も余裕があ り, また志士的気概のある人物であったか
ら,松尾の家 には,多 くの志士 ・有志が出入 りしていた。岩倉具視 は,そ うした松尾 を知 って
いて,意 を通 じた とい うことも考 え られる。 松尾の家に集 まる ものは,大体の傾向 として,普
撰派の系譜 につ らなる立場の者が多 く, したが って幕府の嫌疑 を受けている もの も少 な くなか
った。松尾の家は,その ような志士 たちの密会所 となっていて,彼等 は 「
柳 の図子党」 とも呼
ばれていたのであ った12)。
そ うした 「
柳 の団子党」の中に,水戸脱藩士香川敬三 (当時は鯉沼伊織。後皇后宮大夫) と
近江水 口の草葬城多董がいた。そ して山科元行 もまた柳 の図子党の一員であった。城多童 は岩
倉具視 との出会い を以下の ように述べている13)。
十一月中旬積雪 ヲ冒シ岐路 ヲ経 テ潜二京師二入 り,松尾相永 ノ家 ヲ訪 フ,在 ラス,会々香
川敬三其家二在 り互二分挟以来 ノ事 ヲ談 シ逐二留宿 ス,翌 日相永帰 り来 り,留宿 スルコ ト
数 日,相永余 二岩倉前 中将公二謁セ ンコ トヲ勧 ム,余其世論 ノ許サ 、ル人 タルヲ以テ相見
里
ル ヲ肯セ ス,相永世論 ノ謬妄 ヲ弁 シ再三勧 メテ己マス,十二月 三余岩倉村 ノ山荘 二至 り
公二謁 ス,公 己 レヲ虚 シテ余二接 シ胸襟 ヲ披 キ談論ス,器字識見時流二超卓 シ,而 シテ其
忠君憂国 ノ至誠言表二溢ル,一見シテ其有為 ノ大材 タルヲ知ル,是二於テ推誠心服 シ相見
ルノ晩キ ヲ憾 トス
城多はそれ まで,激派 と行動 を共に した ことはなか ったが,心情的には尊摸派 に共感 を抱 い
て きた人物である。 その城多が一度の対話で,岩倉 に心酔するようになったのである。 香川敬
三 もまた城多 と同 じような経緯で,岩倉具視 の腹心 となっていった。 この様 なエ ピソー ドは,
やは り岩倉具視 と言 う人物の,力量 と器の大 きさを示す もの と, ここでは素直 に受 け止めてお
くことに したい。 ともあれこうして 「
柳 の国子党」の多 くは,岩倉具視 と接触 を持 っていった
が,油川練三郎信近 も同志であった と,香川敬三が述べている14)
- 11
6-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐々木)
この様 にみて くると,挙兵 は山科元行が組織行動の中心 となっていたが,その背後 に松尾但
馬がいて, さらにその黒幕 として,岩倉具視 の存在があった, とい うように見 る事がで きそ う
に思 える。 しか し事 はそれほど単純ではない ように も見える。次 に少 し長いが,藤井九成の回
想筆記 を引用 してみたい15)。
(
8)
在京擾夷徒及多少 ノ憂国者中ロ□烏丸卿 ノ如 キモ岩倉 ヲ好者 卜信 シ,翌年正月三 日伏見鳥
羽開戟仁和寺苫 出陣迄二立至 り,三条以下長州 ヨリ帰朝 シテ三条,岩倉倶こ軍事指揮有之,
正月七 日烏丸卿ハ於禁中二岩倉 ヲ刺サ ン ト計 リシ事 ア リテ同志 中沸騰セ シ位,又右等之徒
輩則 チ柳之団子徒モ正月五六 日頃 ヨリ,岩倉徒 ヲウタカヒ別こ滋野井侍従,高松大夫の両
朝臣 ヲ隊将 トシ,参謀二国学者河喜多真彦,安藤石見介,山科能登介,佐 々木可竹等従事
シ,在京 の水 口藩士及諸堂上家来加茂社家 ノ士等一百余人 近江水口附近松尾山へ楯 箆 リ,
暴挙 卜唱ヘ ラ レ方向 ヲ失 ス 「当時各藩 ヨリ注進 ア リ」
正月二三 日官軍監察 ヨリ両脚 ヲ刑法掛へ護送 シ河喜多,佐々木等軍律死罪,安藤,山科
は岩倉党 ヨリ他 二可取調筋有之 旨ヲ以テ,両朝臣 卜共二引戻 シ漸々二助命 シタリ,故二柳
之図子 ノ挙名モ一時不審 ヲ蒙 りタリ,京都人数百人随従す,但馬,九成在京二付 品々論ス
ル也,松尾但馬モ兼テ烏丸卿等会合モア リ,内心岩倉好才 ノ卿 にて,服従ハ不面 白 トノ派
二候へ トモ,岩倉卿 ヨリハ十一月下旬 ヨリ屡招キ有之,再三不参ヲ以テス,十二月四 日九
成 ヲ以テ迎 ヒ是非面会沙汰二付,同姓伯者両人 ヲ連 レ還 り,岩倉卿家来二命 シテ下足井侃
刀 ヲ取上,直二新政公告 ヲ書 シメラル御用書記 トシ,中川対馬,鴨脚加賀等 四人同様 4日
ヨリ留置,秘密 ノ関係 ノ間ニテ,松尾山 ノ暴挙ニハ逃 レタリ ト,東海道総督使勢州滞陣中
二右暴挙徒百余人の所刑相成候事,於勢州桑名城下
右大珍事現今宮内省ニテ一時評判有之候事,柳之図子党 ノ称名高キカ故ナ リ
この回想記 は明治20年代 に書いた ものなので,混乱や思い違いが多少ある。 しか しこれ まで,
ほとん ど史料 的に確 かめ られなか った,滋野井 とその周辺の挙兵に至る事情が, これによって
1
)
烏丸光徳 (
参与,征討大将軍
やや明 らかになった といえよう。 この史料で注 目されるのは,(
参謀 ) と岩倉具視 の対立 ・反 目があ り (この点は,おそらく摸夷に依然として執着を持つ烏丸と,開
,(
2)
岩倉具視 と
明派廷臣として列強-の接触をも辞さない岩倉との,立場の違いによるものであろう)
松尾但馬 の間 に亀裂が生 じてお り,松尾 は烏丸 と接触 を もっているとい うこと,そ して,(
3)
「
柳之図子党」 に も立場の違いがあ り,(
4)
この 「
柳 の図子党」の一部 (河喜多-川北 叉は川喜
多真彦,安藤石見介,佐 々木可竹,山科能登介-元行 )が滋野井 に従 って行 った とい う,以上
のようなことがわかることである。
もっとも山科元行 (
能登介)は赤報隊が結成 された後は,滋野井から離れる し,松尾 と岩倉
- 1
1
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人
文
学
報
との間の亀裂 も,決定的な と言 うほ どの ものではなか ったであろう事 は,挙兵の段階で,油川
と岩倉具視のあい だをとりついだのが,松尾であ った とい うことか らも推測 され, したが って
藤井の回想記 はやや誇張があ りそ うであることを認識 しておかなければならない。ただ し,後
で述べ るように,川喜多,安藤,佐 々木 は最後 まで滋野井 と行動 を共 にす る。
ここで挙兵 に関係 した主 な人物の関係 を,図式化 しておこう。
西郷 隆盛
鈴木三樹 三郎 (
岩倉 具視
くり返 しになるが,挙兵 にいたる経緯 を,
相楽総 三 (
三番
一番 隊長)
二番 隊長)
(
1
)
相楽総三 グループ。江戸擾乱の報復 と グループごとにまとめて述べてお くことに しよう。
楽総三 らは江戸 を脱出,慶応 4年正月 5日 して,庄内藩に江戸薩摩藩邸 を焼討 ちされた後,棉
聞か され,西郷隆盛 に新たな任務,すなわ,京都の薩摩藩邸に入 った。そこで綾小路 の挙兵 を
は以前か ら綾小路 家に出
ち官軍の先鋒隊 となることを命 じられた。相楽総三
入 りして,国事 を論 じていたあいだが らであった。
(
2)
鈴木三樹三郎 グループ。新撰組の分派
の手 によって暗殺 された後,薩摩藩邸 に身 (
高台寺党 )で, リーダーの伊東 甲子太郎が新撰組
相談 してお り,薩藩兵 に加わって鳥羽 ・伏 を寄せた。彼等 はすでに油川信近 らと挙兵 について
に相談 した ところ,おおいに賛成 とい うことで,武器
見で載 った後,挙兵 について大久保利通 と西郷隆盛
3
)
油川信近 グループ。油川は慶応 1年 に
発(
した。
,弾薬,金百両の提供 を受 け,京都 を出
視に会い御親兵 についての話 しがあった とは 「
柳 の図子党」のメンバーである。 宮 中で岩倉具
とはこれ以前 にす でに接触があったことが い うか ら, これは王政復古後の話 しであるが,岩倉
帰 り同志 を集め,藩主の許可 を得た上で,挙兵
想像 に参加
される。しこの後,綾小路の挙兵 を知 り,水 口に
触がある
(
4)
滋野井公寿
。
グループ。 このグループに
た。なお油川信近 は薩摩藩有志 とも接
下の ように考 えて いる。 川喜多 (川北 )真関 しては,確 かな史料がな く,推測部分が多いが以
師)
,佐 々木可竹 (
伏見宮家来)
,山本太宰 彦 (国学者)
,安藤石見介 (
小林雲遊斎,典薬寮医
井隊が解散 となる まで一緒 に行動す る。 藤 は滋野井の側近 グループで,四 日市 (
伊勢 )で滋野
の人 と記す。 しか しいずれ も 「
藤,佐 々木 については,松尾但馬 に出入 り井九成の記録によれば,川喜多は同志
柳 の図子党」の人々
と記すが,安
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐 々木)
であることは言 うまで もない16)。
なお 「
柳 の図子 党」 の一人 に,山本要 (上賀茂人,閑院宮侍 ) とい う人物がいる。 この人物
と,山本太宰 (曇珠院の家来 ) とは同人物で はなかろ うか。いずれに しろ, この グループは松
尾但馬 と同類 で, あるいは松尾が挙兵計画の中心 にいた と言 う事 も考えて よいのか もしれない。
以上 の ように見 て くる と, この挙兵 には, 「
柳 の図子党」が深 く関わっていることが は っ き
りす る。 そ して 「
柳 の国子党」 と岩倉具視 との関係 か らみて,岩倉 も挙兵 に無関係で はあ り得
なか った と言 えよ う。 とい うよ り,密接 に関わっていた, とい って よいので はなかろ うか。 ま
た高野 山に挙兵 した鷲尾隆衆が,1
2月 1
4日付 で岩倉具視 に 「
過 日は種々御配慮 を給 り千万深 々
畏入存候,御 蔭二而無滞高野 山へ着任候」 と礼状 を差 し出 しているのを見 る と,鷲尾 の高野 山
挙兵 に も,岩倉が 関わ っていた ことがわかる。 後で も述べ るように,綾小路俊美 と岩倉 は親 し
い間柄 であ った。高野 山挙兵 と赤報隊挙兵の核 となった二人の公卿 は,岩倉 を介 して通 じあ っ
ていたのではなか ったであろ うが
7)
。
従来赤報 隊の結成 に関 しては,相楽総三 と西郷隆盛 お よび薩摩藩 との関係が強調 されて きて
いるのであるが, この点 にかん しては見直す必要がある。
Ⅲ 赤報隊の中山道進軍 と高松実相の挙兵
1月 1
0日。 赤報 隊が結成 された。挙兵の場所 を金剛輪寺 としたのは山本太宰の手配 による。
山本 は当時京都の門跡寺院星珠院の家人で,金剛輪寺 は星珠院の末寺 とい う関係 であ ったか ら,
山本が照会 して,決起 の場所 に選 んだ ものであ った18)。
松尾 山金剛輪寺 は聖武天皇勅願の寺で,天平 9年行基が創建 した寺である と言 われてお り,
本堂 は国宝,そ して重要文化財 に指定 されている数体 の仏像がある。 また境 内に立つ と,湖東
の平野部 か ら琵琶湖 を-だてて比叡 山を望め る景勝の地で もあるように, この寺 は,歴史的 に
も朝廷 とのつ なが りの深い,由緒ある寺であ るとともに,戦略的に見て も, きわめて重要 な位
置 に立地 しているのである。 つ ま り金剛輪寺 は,公卿 を擁 した挙兵の場 に選 ばれるの にふ さわ
しい, シ ンボ リックな存在 なのであ った。 また排仏段釈前 の当時は,多 くの僧堂が有 り,厳寒
の季節 に集 まって きた多数の志士 を収容可能 とす る施設 もあ って,挙兵 には最適 ともいえる場
所 なのであ った。
11日,彦根 藩が大砲 3門, ミニヘル銃 5
0挺 を献上 した。 この交渉 にあたったの は山科元行 で
ある。1
3日,綾小路俊実が誓紙 を読み,隊員が署名,花押 を した。1
4日,赤報隊軍令状 を布告
し,出発 を決めた。1
5日,出発。ただ し滋野井公寿 とその グループは残 ることになった。その
理由を山科がつ ぎの ように述べ ている19)。
滋野井侍従 と綾小路侍従の間が兎角 に折 り合 わぬ所が有て困った-・
自然交誼が浅 い と見 え
- 1
1
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て,一所 に寄 ると議論か合わない,叉滋野井侍従 は夜分な どは神経病 を起 して寝ぬ夜があ
った,綾小路 侍従 の言 はる ゝには昨夜 も夜通 し泣 いて居 った, どうか諭 して呉 れ といは
る ゝ-滋野井侍従 は兎角に心気欝憂 して勇進の気概乏 しきゆへ,宴 に分離 して綾小路侍従
と拙者 とは兵士 を率 ひて先進致 しました
滋野井 はおそ ら く自分の強い意志で挙兵 に参加 した ものではなか ったのだろう。 綾小路 とも
意見が合わず,近江の山の中の雪 も降る寒い寺で心細 くなって しまったのだろ う。 こうして滋
野井 グループは後 に残 ることになったが,強い意志 を持 たない,統率力のない滋野井 に率 い ら
れたこのグループは,後で述べ るように問題 を起 こ してゆ く。
ここで一つ断 って置 く事がある。 記述の都合上, これか らは綾小路俊実の率いる本隊のみ を
赤報隊 と呼 び,滋野井公寿 らのグループを滋野井隊 と呼ぶ ことに したい。 また赤報隊が解隊 し
たあ と相楽総三に率い られて,信州 に進軍 して行 ったグループを暫導隊 と呼ぶ ことにす る。
1
5日,高宮宿。赤報隊が宿陣 とす る本陣門前 に年貢半減の高札 を掲げた。 この 日綾小路俊実
は父綾小路有良に,以下に紹介す るような手紙 を書 いた20)。
(
9)
主上益御機嫌 克恐悦奉存候,厳父君弥御機嫌克恐悦奉存候,然 は過 日脱走後,於江州愛智
郡松尾寺村松 尾山金剛輪寺,義挙仕候処,不期 シテ会候義勇之士,即今三百人二及候,是
仝朝威之輝セ ラレ候ニ ヨリ候 ト,一同深以感戴仕候,総而最早量 り候 よ りも都合克盛事二
で1
副央二存候 ,公寿朝臣ニモ不図守山ニテ出会仕,互二志 ヲ合七事 ヲ行 ヒ,去九 日右趣言
上候節御 内へ も模様万端可 申上 と存候- とも,何分脱走之身分故,朝廷之御時宜如何被為
有候 ヤ と,痛心仕相控候処,昨夜議定参与 よ り返書着,別紙之通伺候,実二有難仰セニテ,
一同感涙 ヲ流 シ候,此上ハ弥以勉励仕,一 日モ早 ク奉安叡慮ロー
一同存候,就而今 日美濃路
迄 出張仕,共 より勢州へ向 ヒ,実梁朝臣之手二属 シ,桑城二逗 リ候心得二有之候,万端軍
師軍裁参謀二依頼仕候故,必御案 シ無之様奉願候,併運ハ天二有之候故,此段ハ兼而御含
奉願候,何分有難御沙汰書二而,一同奮発勇気十倍仕候,尚又後便 申上候- とも,今 日両
役所 回答格別有難存候付此段 中上候,尚御含置御序二宜奉存候,何分春寒強 ク当所ハ雪 も
時 々降 り候,御地ハ如何や,尚万々御 自愛之様伏奉希候,頓首百拝
正月一五 日
言上
俊美
4日)議定 ・参与か らの返書 に接 し,
この手紙で最 も注 目すべ き所 は,綾小路俊実が昨夜 (1
一同感涙 を流 し,勇気十倍 となった とい う状況 を述べているところである。 この返書 とい うの
1日付 回答(
2
)
である。 その回答 は,綾小路俊実 らの挙兵 を 「
義
は政府 の議定 ・参与 か らの, 1
挙」 と認める ものであ った。だか らこそ 「
一同奮発勇気十倍」 となったのである。 またこの返
- 1
2
0-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐 々木)
書 を綾小路俊実は 「
御沙汰書」であると述べている。 つ まり朝廷-政府 (「
両役所」) か らの天
皇の意志 を伝 えた公的文書 (
注 8参照)であると理解 していることであ り,朝廷 -政府が綾小
路 らの挙兵 を 「
義挙」 と公認 したか ら,彼等 は 「
感涙 ヲ流」 したのであった。 さらに綾小路 ら
赤報隊は, これか ら美濃路 (中仙道)を進むが,その後は伊勢-向かい,桑名城に行 くつ もり
である, と述べていることである。 これは地図を見れば判 ることであるが,高宮 (
硯彦根 )か
ら桑名へ は,再 び南下 して東海道 をゆ くか,あるいは間道 を進 むよりも,中仙道 を大垣 まで出
て,それか ら伊勢路 を下る方が,はるかに早 くかつ楽な行程なのである。 すなわち綾小路俊実
は,今 は中仙道 を進んでいるが, まもな く受け取 った 「
御沙汰書」の指示 どお り,東海道鎮撫
総督橋本実梁の指揮下 に入 るつ もりであることを,ここで明 らかに していたのであった。 この
5)
日,相楽総三が京都か ら帰陣,そ して,いずれ官軍の印の品を下賜するとい う政府の沙汰書(
を持 ち帰 った。以後赤報隊は以下のようなコース と日程で,進軍す る。
1
6日,番場宿。・
-1
7日,柏原宿。-1
8日,美濃岩手宿。 -2
0日,美濃赤坂宿。 -21日,加納
0
宿。-23日,鵜沼宿。 -25日,大久手宿。(-29日,中津川--)
9)
の趣 旨を守 ろうとするなら,赤報隊は21日に美
当初の予定 なら,つ まり綾小路俊美の手紙(
濃赤坂宿 (
現大垣市 )か ら,加納ではな く,大垣 を経て桑名の方向に進路 を取 らねばならなか
ったはずである。22日には,東海道鎮撫総督橋本実梁が四 日市 に着陸 し,桑名城接収 に備 えて
いた。 したが って この段階で赤報隊は,東海道鎮撫総督の指示 に従 うべ きであるとす る政府の
指令に,あ きらかに背 く方向で行動 していた, といわざるをえない。ところで彼等の行動 を追
う前に, もう一つの公家 を擁 した挙兵について,是非 とも触れておかねばならない。
1月 1
8日,公卿高松実相 と草葬が挙兵 したが,その高松隊挙兵の経緯か らまず述べておこう。
挙兵の準備 は岡谷繁実 (
館林藩家老格)が中心 となって行 ったが,その岡谷の回想談 によれば
)
。
以下のような事情であった21
彼等 もまた鷲尾隆衆の高野山挙兵 に刺激 を受 け,「
東山,東海両道の咽喉の地」である甲府
を押 さえるために,挙兵す ることを計画 し,高松実相 に話 した ところ同意 をえた。鳥羽 ・伏見
瓶争後,一 日も早 く関東-行 こうということになって 「
大本家」の三条家 (
三条家の分家が三条
西家で,高松家はその分家)に相談す る事 にな り,三条実美 (
副総裁議定)に話 した ところ賛成
を得,三条か らは 「
朝廷の方は何 とか一つ御沙汰に成 る様 に仕や う」 と言われた。 ところが1
6
日になって,三条西季知か ら 「
有志の者 とどういふ工合で関東 に出る」 ことになったのか 「ど
7日に,御所か
ういふ志か」 とい うようなことが,あらためて問い合わせがあった。そ して翌1
ら実相の父高松保実 に呼び出 しがあって,三条か ら 「
俄に御評議が変 じて高松-御沙汰 と云ふ
ことに行かぬか ら,残念なが ら思止 まる様 に」 といわれた。 しか しどうして も実行に移 したい
旨を三条に繰 り返 し伝 えた ところ,三条実美か ら,この うえは本人の決心次第だが,御沙汰 と
いうことはとて も難 しい,精 々差 し止めるように, との伝言があった。 こうして三条の制止 を
- 1
21-
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ふ りきったかたちで高松隊の挙兵 となったのである。 かれ らは後に 「
偽勅使」 として処分 され
ることになる。
さてここで注 目したいのは,三条実美が一時高松 らの挙兵 を認め,朝廷-政府の許可 (
御沙
汰)を取 り付 けてやろうと約束 しなが ら,1
7日になってか ら 「
御評議」すなわち朝廷-政府の
評議が変わったか ら,正式 な許可 (
御沙汰)は出来ない, と述べていることである。 いいかえ
ると政府の方針に,重要な変化があった とい うことである。1
6日か ら1
7日にかけて,なぜ, ど
の様 な政府方針の転換がなされたのか。
廟議がなぜ変わ ったのか,直接説明で きる史料 はないが,推測の根拠 となるべ きものがある。
嵯峨実愛の 日記,1
6日の条 に 「
滋野井以下,出先下分乱行 ノコ ト」22)とあるのがその一つであ
る。 松尾山に残 った滋野井 グループに,なにか不都合の行為 「
乱行」があったことが,京都 ま
で届 いているのである。 真相 はよくわか らないが,近隣にたいする金品の強要であったのでは
なかろうか。
上記の出来事 を,ふ まえての ものか どうか分か らぬが,同 じ日に 「
宮,公卿,非蔵人口向諸
家来,下部等二至ル迄,朝廷之御威光
宮人」 にたい して,次の ような告諭が出 されている。 「
ヲ仮 リ,勤王 ヲ口実 トシテ世人ヲ欺キ,金穀 ヲ余 り候者モ可有之哉二付,急度可 申付候」 と,
宮堂上 をは じめ とす る廷臣の家来,下部 (
げぶ。召使のこと。下分も同じ)に,勤王 を口実 とし
て,世人 を欺 き金 品を貧 るような者があるが,今後はそ うした事のないようにと,告諭 した も
のである23)。
家来だけではな く,わざわざ下部 -召使にまで言及 しているところに,注 目したい。つ まり
正規の家来ではな く,食客のような召使のような,そのような者 として,多 くの草葬が宮,壁
上の所 に当時出入 りしていたのであるが, この告諭 はそうした草葬の逸脱 した行動 を,取 り締
まる事 をも意図 していると解釈 してよいのではなかろうか。廟議-政府 は,草葬の統制 を真剣
に考え始めていたのではなかろうか。
以上のような,政府の方針転換 は,当然のごとく赤報隊の扱いに も影響 を及ぼ して行 くと考
えるべ きであ る。 11日か ら1
4,5日にかけての政府の以前の態度(
2)
(
5)
とは,違 った もの となっ
ていったのではないか と,私 は推測 している。
Ⅳ
「
悪 い噂」 と滋 野井 隊
--綾小路侍従の隊は正月二十二 日岩手 を発 って,垂井の宿 に泊 り,二十三 日は加納 に泊
り,加納藩永井家に大砲 を献 じさせた。 ここで悪い噂が伝わって きた,それは江州松 ノ尾
村 に滞在 中の赤報隊士 と称する強盗が,付近数里の間の豪家 を襲い,金 を強奪 したとい う
のである。 京都ではその噂 を信 じているらしい-そういう浮説 は, 目的があって創 られた
- 1
2
2-
赤報隊の結成と年貢半減令 (
佐々木)
らしい
-
- (『
相楽総三 とその同志』24))
長谷川伸の この有名 なノンフ ィクシ ョンは, この くだ りについては,なに も史料 を示 してい
悪い噂」が赤報隊に も届いたのは,や
ない。 また 日付 と場所 も一致 しない所がある。 しか し 「
は り23日頃のことではなか ったか と,私 も同 じように考 えている。 その証明 とな りそ うなのが,
相楽総三の動 きである。
23日,相楽総三 は,朝廷 -政府 に再度の建 白をす るため,京都 に向けて使節 を加納 か ら派出
した。 この時の建 白書 は二通あ り,一つ は 「
難有勅誌 ヲ蒙 り,三通官軍打入之節ハ,先登致候
3日か1
4日)政府か
様被命,一 日千秋其機会期待居候得共,末夕其御沙汰モ無之」 と,先に (1
ら出 された沙汰書 (
5)(
相楽総三はこれを 「
勅誌」という)では,官軍が関東-討 ち入 る節 は,「
御
印之品」 を下賜す るか ら,「
轡導先鋒」 となるべ Lとい う,有難い沙汰があ ったが,い まだに
正式 には何 の沙汰 もない, どうか敵が備 えを充実 させ る前 に,「
速二御東征之錦 職 」 -錦旗 を
下 されたい, とい うものである。 また もう一つの建 白書 は,東海道 は官軍 に加勢す る藩 も多 く,
兵威 も盛大である, しか し 「
東山道而巳何分ニモ兵威モ不張殊二好藩モ多分有之」情勢である
か ら,赤報隊には東 山道進軍 を許可 しては しい とい う,以前か らの彼の主張 を くりかえ した も
のであった25)。
15日に相楽総三が,京都 か ら朝廷 -政府の沙汰書(
5)
を持 ち帰 ってから,朝廷政府サ イ ドか ら
錦旗 など) も与 えられることはなかっ
は,何の命令や指示 もない。 ましてや官軍だ とす る印(
た。先 に述べ た よ うに, 1
6,
1
7日,政府の草芥 に対す る方針の転換があ ったか ら,政府サ イ ド
は赤報隊に新 たな指令 を出さなか ったのである。 そ うした状況の変化 を知 らない相楽総三は,
いささかの焦 りと不安 を感 じて,再 び建 白書の提 出を考 えた ものであった と思 われる。 また先
の 「
悪い噂」 に関 して,京都の状況 を調べ,場合 によっては何か を釈明 しようとい う考 えがあ
ったのか もしれな
い
。
ところで,長谷川伸 『
相楽総三 とその同志』 によると,「
悪 い噂」は赤報隊 をお としいれる
ため,故意 に作 られ,噂 として広め られた, と述べ られている。 しか しこの指摘 は正確でない。
6日に,滋野井隊
朝廷 -政府 は,滋野井隊 も赤報隊の一部であると認識 していたか ら,すでに1
の 「
乱行」の情報 を得ていた以上,赤報隊に関す る 「
悪い噂」 は,故意 に作為 された もので も
な く,意識的に流 された もので もなかったのである。
赤報隊 (滋野井隊 を除 く)は,軍律 も厳 しく統制の行 き届いた隊であ った ようである。 赤報
隊一番,二番,三番 隊の進軍には,民間か らの金銭面での苦情等 を除けば,特記すべ き トラブ
ルがあった とい うような記録 は残 されていないように思える。 しか し滋野井隊に関 しては,だ
いぶ事情が違 う。 ここで滋野井隊の行動 について述べてお くことに したい。
滋野井隊 は赤報隊の本隊に数 日遅 れて,同 じ東山道 を進軍 していった (
一部の本に,滋野井隊
- 1
2
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が,松尾山から水口を-,東海道を亀山,四日市と進んだように書かれているが,それは間違である)26)。
21日には高宮宿 を発 ち, この 日関力原 を通行 しているか ら,赤報隊本隊か ら 4日程後れている。
このあ と滋野井隊 は,大垣か ら揖斐川 を渡 って墨俣-,そこか ら南 に下 り,伊勢長島か ら桑名
表 を経て,25日四 日市 に入 ろ うとしている。
この間,多分2
3日か2
4日に,滋野井隊 は伊勢長島藩 に 「
種 々難題 申懸」,二万両の献金 を要
求 し,三百両 を 「
幕府随従為謝罪献金」 とい う名 目で差 し出させていた27
)
。 これは滋野井隊の
軍資金 として奪い取 ったような もので,朝廷 -政府 に収めるための ものではなか った。すでに
勤王誓紙 を差 出 し,朝廷 -政府軍-帰順 していた長島藩は,当然 このことを政府軍 に訴 えた。
その結果滋野井隊 は官軍の軍律 を犯 したことになった。 また滋野井隊の風体 は,衣服や槍 ・薙
刀な どをことさらに血 に染め,汚れた袴 を付 けた者が,声高 に騒が しくうろついているなど,
見苦 しい ところが あった28)。
25日段 階で,滋野井隊の人数 は1
70人ほ ど29), とい うことであるが, これは途 中か ら参加 し
てい った者が加わ って数がふ くれあが った ものであろ う。 これだけの人員の賄いだけで も,す
くなか らぬ金が必要 となるだろう。 滋野井隊の軍資金押借 は,長島藩の例 だけではなかったの
ではないだろ うか。松尾山を出発 して以来,行 く先々で強引な軍資金集めが行 われていたので
はなか ったか。 と もあれ滋野井隊は,「
官軍」先鋒隊 としてはふ さわ しくない,む しろ厄介な
悪
存在 となっていたのである。 政府か らみれば,滋野井隊 も赤報隊の一部である。 赤報隊の 「
い噂」 に関 しては,その責任の多 くは滋野井隊が負 うべ きであるように思 える30)。
2
6日,滋野井隊 の 「
重臣」数名が,「
非道之金銭取立」 を理 由に,四 日市 に滞在 の東海道鎮
撫総督付属 の肥後 藩兵 によって召 し捕 え られ,その うち数名が処刑 された。 『
橋本実梁陣中 日
戟亡殉難
記』 によれば 9名 (a- i)が逮捕 され, この うち 5人が処刑 された とある。 なお 『
志士人名録』 によれば 8名が処刑 された とあ り, a∼ i以外の人名 もあげ られている。 カ ッ
コ内が同書 に記 された名前であるが同一人物で, j kが 『
橋本実梁陣中 日記』 には挙げ られて
いない人名である31)
。
× * a山本太 宰
×* b河北直一郎 (
川北真一郎 )-川喜多真彦
*C小林雲遊斎
(
安藤石見介 )
d森城之助
×* e玉川熊彦 (k綿引富蔵)
×
f大野幡之助
×* g小笠原大和
*h赤城幸太郎 (赤木小三郎 )
i松 岡主計
- 1
2
4∼
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐 々木)
*j佐 々木可竹
(k綿引富蔵 )
上記 の うち a山本太宰,b川喜多真彦 ,C安藤石見介 ,j佐 々木可竹 (司馬)は,挙兵 の計
画の ところですで に見て きた人名で,川喜多,安藤,佐 々木は柳 の図子党であったこと,山本
もあるいはそ うで はないか, と推測 されること等 について述べ て きた。 また e玉川 は, じつ は
k綿引富蔵 (水戸 藩士)の変名である32)。gノ
J
、
笠原大和 は,現在の私にはまだ素性が分か って
いないが, 『
復古記』 には a 山本太宰 とともに,滋野井隊の 「
謀主」である とす る記録 があ
る33)。
ところで柳 の図子党の一人で,岩倉具視の腹心である城多童の 『
昨夢記』 によれば,水戸藩
士 「
小室某」が赤報隊に参加 して,途中で斬 られた と記 している。 この小室某 とは水戸藩士小
室左 門であることは間違いな く,綿引富蔵 と小室左 門の墓が,二つ並んで四 日市市の泊霊園に
建て られている34)。 また彼等 を逮捕 した肥後藩の記録 『
改訂肥後藩国事史料』 には,長島藩 に
k綿 引)
,f大野 (
小野 とす る史料
難題 をふ っか けた首謀の者 は,a山本 ,b川喜多,e玉川 (
もある)
, g小笠原 であると記 している (×印 )35)。
『
戟亡殉難志士人名録』 によれば,a,b,C,e,g,h,j
, kの 8名が処刑 されたことになっ
ているが, これは正確 ではない。 まず eと kは同一人物であ る。 また C の安藤石見介 は,柳
の図子党の藤井九成 の記録では,四 日市で処刑 されてはお らず,死んだのは後年の こととなっ
複古記』 は a,b, C,e (
k)
,g,h,jの 7名
ている36)。 また 『
(*印)が処刑 された 旨を記
しているが, これ も C 安藤の名前 をあげている。 安藤 は処刑 されたのだろ うか。藤井の記憶違
いなのだろうか。
この とき実際 に処刑 されたのは誰 々だ ったのか。上記の人名の うち,d森 , i松 岡は,逮捕
されただけで処刑者 リス トか ら除外 して よいだろ う。 また確実 に処刑 された者 とみて よいのが,
a山本 ,b川喜多 ,e
k綿引, g小笠原で , C安藤 と f大野 と h赤城そ して j佐 々木 も可能性 は
ある。 この中で,素性 の不明な人物 は,f大野 ,g小笠原,h赤城 の三人である。 とすれば,
e
k綿引 と並 んで墓 が建 て られている水戸藩士小室左 門は, この三人の中の一人である, と推
測 して もよいだろう。 ただ しこれ より先 には,今の ところ,進む材料がない。
「
聖諭 ノ趣二違背 シ,総督府 ノ命 ヲ不待,妄 二敵地へ侵入,刺へ増山対馬守領内二於テ不法
ノ所業有之,彼是人心及動揺,官軍御暇珪 ヲ醸出シ候段,不可許行跡,依是,遂詰問,伏罪,
加課教,正軍律候事」 とい うのが,処刑の理由であった。軍律 を犯 した罪による断罪であるが,
有無 をいわきぬ,みせ しめの意図 をこめた死刑であった37
)
。
- 1
2
5-
人
文
学
報
V 「年貢半減令」 をめ ぐって
1
7日,赤報隊の一行が柏原宿に滞陣 した。赤報隊隊士が百人余 り,随従する彦根藩士 らが5
0
人余であった。相原宿では,一行の食事料や荷物の継立人馬賃 を受 けとらなかった。
1
8日,出発 にあた り,赤報隊は滋野井,綾小路両脚の名で,庄屋 にたい し年貢半減 を申 し渡
した。内容 は,最初の宿の高富で布告 した年貢半減令 と,基本的には同 じもののようであるが,
以下 に参考 まで,全文 を掲げてお くことにしたい38)。
(
1
0
)
近江国坂 田郡何 々村
右 は此迄徳川慶喜支配之処,此度慶喜朝敵 と相成 り候 に付,支配之地は不残御召上に相成
り,以后 は天朝の御領 と可相心得候,尤 も是れ迄於慶喜不仁之処置 も有之,百姓共定めて
難渋不少義 と思召,当年之年貢半減 に被成下候間,此 旨厚 く相心得,天朝の御仁徳に服 し
奉 り,勤王の道相守候様御沙汰之事
滋野井侍従 (
花押)
慶応 四年正月
綾小路前侍従 (
花押)
何 々村庄屋百姓共へ
また参考 までに,赤報隊が1
5日,最初の宿場高宮の本陣門前 に掲げた,高札のなかの年貢半
減についてふれている箇所 も,引用 してお くことにす る。 ちなみに 『
赤報記』 には,「
本陣門
1
0
)
に引用 した年貢半
前」 に掲 げた高札 と,「
天朝御領へ相建候高札」の二つが記 されている。(
減の沙汰は,「
天朝御領へ相建候高札」 とほぼ同 じものである39)。
(
l
l
)
徳川慶喜義,朝敵 タルヲ以官位被召上,且従来御預之土地不残御召上二相成,以後ハ天朝
御領 卜相成候 ,尤是迄慶喜之不仁こ依 り,百姓共之難儀モ不少義 卜被思召,当年半減之年
貢二被成下侯 問,天朝之御仁徳厚相心得可申,且諸藩之領所 タリ共,若困窮之相方難渋之
者等ハ, 申出次第天朝 ヨリ御救助可被成下候事
年号月 日
官軍赤報隊 執事
み られるように,(
1
0
)
は幕領の村々に出された年貢半減令であるのにたい し,(
l
l
)
は幕領は 「
年
5
貢半減」 を,困窮,難渋の 「
諸藩之領所」は 「
御救助」す るであろう, とい うものである。1
日高富,1
6日番場 ,1
7日柏原,1
8日岩手 (
垂井)
,20赤坂,21日加納宿 と,行 く先々で赤報隊
1
0
)
,(
l
l
)
の両方の高札
は,年貢半減 を布告 して,進軍 していったのであるが,いずれの宿で も,(
- 1
2
6-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐々木)
を掲げていたのか否か,はっきりしない。
ところで,年貢半減令 に関 しては,周知のようにい くつかの問題が指摘 されて きている。 こ
れか らそれ らの点 について触れてゆ くことにするが, まず問題点 を整理 して置 こう。 それ らは
以下に述べ る諸点である。
ィ,朝廷 -政府 は年貢半減 を,布告 したのか。ロ,布告 した とすれば,何時 どの ような形
での ものか。ハ,朝廷 -政府は,その年貢半減令 を取 り消 したのか,そ うだ とすれば,何
時の事か。二,赤報隊は,朝廷 -政府か ら,年貢半減布告 にかん して指示 を得ていたのか,
否か。
朝廷-政府が年貢半減令 と, どの様 に関わっていたのか (ィ,ロ,ハ)とい う問題か ら述べ
て行 こう。 この点 にかん しては,既 に先学の研究で,多 くの事実関係が明 らかにされているの
で, ここでは,それ らを確認 したうえで,私の知見を少 し加 えてみたい
(
ィ, ロ) 備前,長州,芸州の三溝に,正月1
4日付で政府か ら,「山陽道取調-作州津山其
他諸藩之情実糾問」の うえ書上て報告すべ し, とする指令が下 されたが,この指令の但 し書 き
に,以下に紹介す るような年貢半減 をす る旨の文言がある40)。
(
1
2
)
諸国之中是迄天領 と称 し,右 は徳川氏之宋地其他賊徒之所領等,別而入念調可仕,右 は従
前苛政二苦 ミ居候義二付,当年租税之義 は半減被仰付,去年未納之分 も可為同様,来巳年
巳後之処 は取調之上御沙汰可被為在義二候間,右之旨申諭億兆人民王任 (
化か,ママ)ニ
服候様精 々尽力可仕御沙汰之事
これは去年未納の分 までふ くめて,年貢 を半減 しようという布告であるが,その対象 となる
のは,「
徳川氏之采地」-天領 と,「
賊徒」 -朝敵藩の所領である, と理解すべ きである。 この
3日か1
4日に政府か ら相楽総三に出された御沙汰書(
5
)
,すなわち 「
幕領之分,
年貢半減令 は,1
総テ当年租税半減被仰付候,昨年未納之分モ可為同様候,巳年以後之処ハ御取調之上,御沙汰
可被為在候」 とす る年貢半減の指示 と,基本的には同 じものである。
ところで, この布告が出された前 日の1
3日に,中国四国追討総督 に四条隆詞が任命 されてお
り,この年貢半減令(
1
飢ま, この中国四国追討政策 を遂行するため,その支援策 としての意味 を
持つ もので もあった, と解すべ きであろう。 なぜ なら,この段階における政府 は, まず近畿以
西の諸藩 を味方 に取 り込み,この地域の安定 を実現す る事 を,緊急の課題 としていたか らであ
0日に大阪の本願寺別院
り,仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍 (
兼,議定 ・軍事総裁)とな り,1
を本営 として,中国四国追討の陣頭指揮 に当たっていたか らである。備前,長州,芸州三溝あ
ての指令 には,「
卒忽之義」があった場合は,「
将軍宮」 -仁和寺宮征討大将軍の指示 に従 うよ
う命 じている。
- 1
2
7-
人
文
学
報
またこの年貢半減令 は,勅書あるいは太政官布告 とい うような,発行主体が明確 な ものでは
ない。 しか し政府 か ら出された,正規の布告であることは疑 う余地がないであろ う。 なぜ な ら
中国四国地方の天領や賊徒 の所領の,取 り調べ を行 っている三溝 を,直接指揮 していたのが,
軍事の最高責任者 である仁和寺宮 だったか らである。 仁和寺宮 は議定 ・軍事総裁 ・征討大将軍
(1
8日には, さらに海陸軍務総督 に任 )の任 についてお り, これは総裁の有栖川宮俄仁親王 を
別格 とすれば,当時の政府 における,文武両官の最高官であ り, まさに権力の中枢 に位置 して
)
。その人物が関与 した 「
御沙汰」 なのである。
いた人物 なのであ った41
(
1
2
)
の年貢半減令が政府か ら出 された,いわゆる公文書だ とす るな ら, これ と基本的に同 じ内
5)
もまた,ほ とん ど疑いをいれる余地
容の年貢半減令 といえる,相楽総三 に渡 された御沙汰書(
もな く,政府サ イ ドか ら出された ものであった と見て よいだろう。 この ように考 えてみると,
(
1
2
)
の年貢半減令 は, まず中国 ・四国地方 を対象 とした,地域的な限定性 をもった布告であった
5)
の年貢半減の指示 は,い うまで もな く近畿以東が対象
可能性 もあるが,相楽総三 に渡 された(
地域 となる ものであったか ら, この両者 を合 わせ ると,年貢半減令の対象 となるのは,ほぼ全
国的広が りをもつ と考 えて よいだろ う。 これが この段階に置 ける,朝廷 -政府の意志であ り政
策であ ったのであ る。
(
ハ) この点 については,政府の法令 にかんす る草稿 を集めた 「
内国事務諸達留」 を調査 し
た,宮地正人によって明 らかにされた事実がある。 そこには,年貢半減の布告文 を,朱筆で消
した跡が残 ってい る書類があるのであるが,以下 にまずそれを引用 して,検討 を加 えてお くこ
とか ら始めたい42)。
個
将軍宵井所 々出張総督江
今般 【
翻緩畜】王政御-新二付,是迄天領 と称 シ来候徳川之采地及賊徒之所領等 [
は ]念
入取調可致,右 は従前苛酷之弊政こ苦候哉 [
夫 々取締被仰 付候持
】之趣 も相聞,患難疾病相救之道 も相立兼候こ付,先撫告
之貧民天災に雁 り,困難之者江 は夫 々御取礼之上御救助 も可有之候間,右之 旨申諭兆民王
化二服 シ候様精 々尽力可仕御沙汰候事
(
注 [ 】の部分が削除されたもの。アンダーライン部分が加筆したもの)
元の文章 は, ほ 幡 1
2
)
に引用 した年貢半減の布告 と同 じである。 また訂正 された文章 は,「内
国事務諸達留」の 1月 2
7日の条 にある ものであるが, ほぼ同文の ものが, 『
復古記』(
第一冊,
7
2
5p) の 1月 2
7日の条 に掲げ られている。 出典 は,「
東海道先鋒記 」 「
北陸道先鋒記」 とある。
この ことか ら, この年貢半減部分 を抹消 した布告 (「
年貢半減撤 回」布告で はない)は正式 に
- 1
2
8-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐 々木)
公布 された もの と,みてよいのではないか と思われる。
す なわち,政府 は 1月2
7日には,明 らかに年貢半減 を 「抹消」す る, とい う行為 を行 ってい
たのであ った。ただ し宮地 によれば 「
年貢半減の撤 回は,伺いに答 える形でのみ表明 され,辛
減令撤 回の布告 は まった くなされなかった」 とい うことである。
では 1月 1
4日の,年貢半減令の布告か ら, 1月2
7日の年貢半減令の撤回 までのあいだに,政
府内には, どの よ うな状況の変化がお こっていたのか, とい うことが問題 となる。 以下 に,
こ
の点 について考 えてみ よう。 まず 史料 を紹介 してお こう。
佃 の手紙 は,束 山道鎮撫総督の岩倉具定 に随従 して,近江の大津 に滞陣 していた,岩倉具視
の側近の一人であ る香川敬三が,岩倉具視 に宛てた書簡であるが,その同 じ書簡 に,岩倉具視
が返事 を書 き込んだ ものである43)0 (「 」内が岩倉具視が書 き込んだ文 )
(
1
4
)
頓首誠憧再拝言上
「同紙宥免,不相変御用繁一筆 ヲ取 ルノ間モナシ」
益御機嫌 克被 為渡,恐悦至極 二奉存候,両公様 こ も御機嫌克被馬入候 間,乍恐御安堵被
「
恭存候,益無事勤仕放念給候 」
「
恭安心致候,若年二面小児同様の者,実 によ
ろ しくよろ しく補翼頼存候,累年北 山二而教導終二相逢事実こ御互二本懐 こ候半
也」
馬遊候様奉懇願候,其外御供奉之者供一統,無異罷在候間,是又御安慮之程奉願上候,
「
足下始 メ一同無事之 旨令賀候」
然 は昨 日も言上仕候,年貢半減等之義奉伺候処,今以御沙汰不被馬在,甚苦心仕居候,
*「此事 よほど苦心候得 とも,不被行別紙二申入候通也,乍去民心 を治事 口実而己
二両ハ決而不可成,其間臨機之処置 を以而大二民心 をとるへ し,乍去散財穀之
筋 二而 半減 と申事ハ不可之御事二候」
若御決議こ も被為成候ハ 、急 々奉伺度,恐催之至極二候得共,以書 中奉願上候,扱又今 日
は佐倉静逸下局二而御尊諭之趣被仰聞,難有奉拝承候,尚綾小路卿,滋野井卿之御義 も深
「
静逸供願候得 とも,是ハ先当家二留め置候心得也,併濃州勝手 も承知之人故差
出 し候ハハ よろ しく□□可 申候」
「
此両卿事ハ種 々異論道々注進如何 に も不都合二付別紙中人候通 り也」
御痛心被為在候 由,奉恐察候,是 は愚考 スル二,アナカチ農商之申通 りこ も有之間敷,夫
二は不得止情実 も可有之御事 と遠察仕候,此義 は私共等 よ り,彼の御陣へ参上仕,朝廷之
御痛配之趣 キ等 申上候ハ 、,速 に東海道迄御 出馬之運 ヒニ可立至 卜奉存候間,何卒右御陣
迄,北 島,敬三両人程参上之義,御許容被為在候ハハ無此上 も難有仕合二奉存候。
「
両人行向之事ハ至極之事 卜存候,弟こ も同列殊二綾小路ニハ間柄
- 1
29-
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傍深情 ヲ尽 くし風 聞之儀可 中人頼候,実 二残心之事也」
尤以朋友之情 も有之候 (
朋友之情 トハ, 山科能登之介,油川藤三郎等 ナ リ)間,傍御
「
此両人こ も助才ナカルへ キ ノ所如何致 し候事ヤ,扱 々残心之事 二候」
免之程偏 二奉 歎願候
-
大津代官 石原清一郎 申候 二は,過 日謝罪之事,朝廷-奉歎願候処,御許容二相成,
「
此通 り也」
如元代官職被 仰付候 旨云 々申居候,又信楽代官之義相尋候処,是 も同 しく,天朝之御
「
此通 り也」
代官 と相成侯 旨石原清一郎 申居候,此義 は京 師二於而奉伺候事 も無之義政,為念言上
「申落候 ,不都合 々々御断 申入候」
仕候,左候ハ 、右両所之義ハ,諸帳面持参二而,朝廷迄可参 旨申渡候義ハ相止 メ候而
「
此通 りこ頼候」
も宜敷御事二候 や奉伺候,其他 中上度事ハ山々御座候得共,後便 こ可奉 申上候,誠恐誠憧
頓首謹言
正 月二三 日
香川敬三
拝上
言上
「同紙荒 々及返答候,可 申人事弟こ も山々候得 とも,不住心底,別紙代筆 中人候,只 々成
功早 く帰洛 め され度, 出会祈 り候」
「
鷲尾事 も無 故相済候事実二安心 々々々々」
この手紙 は,大津か ら 1月2
3日付で出 された ものであるか ら,早 ければ当 日に,遅 くとも翌
2
4日には,岩倉具視が読 んでいた, とみて よいだろ うし, したが って,岩倉の返事 も遅 くとも,
2
4日には書 いた もの と判断 して よいだろ う。
最 も興 味が ひか れ るの は,年貢半減 にかかわる所 であ る (*印)
。香川 は岩倉具視 に,昨 日
も年貢半減 につい て伺 い をたてたが,い まだに何 の沙汰 もな く, はなはだ苦心 している, と述
べている。 これに対す る岩倉 の答 えは明快である。 「
財穀 を散ず るの筋 にて,半減 と申す事 は,
不可」 と,財政上 の理 由か ら,年貢半減 は出来ない とはっき り言明 していたのである。
政府が財政 的に,危機状況 にあ ったことは述べ るまで もない実事であ った。当時の朝廷 の財
政的基盤が, きわめて貧弱であった以上,新政府 の財源 は,旧幕府 の領地や,朝敵の所領 か ら
あが る年貢 に頼 らざるを得 ない。 したが って,今後予測 される征討軍派遣のための軍事費 を考
え,財政上の見地 に立 った場合,年貢半減 とい うことは,現実 には きわめて難 しい事であ った
し, ま してや前年 未納分や来年の分 まで半減 な どとい うことは,ほ とん ど実施不可能な事 なの
であ った。
- 1
3
0-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐々木)
に もかかわ らず ,一度 は年貢半減 を布告 したのは,岩倉具視 も述べるように 「
民心 をとる」
ために,やむな く行 った ものなのであった。 まさに 「口実のみ」では,民衆の支持 を得 ること
は 「
不可」である事がはっきりしていたか らである。 あるいは,推測にす ぎないが,年貢半減
の布告 は, とりあ えず中国,四国地方のみで,近畿以東 は状況 をみてか ら, と思 っていた とも
考 え られな くはない。なぜ なら相楽総三 と赤報隊-の御沙汰書(
5)
は,第一に東海道鎮撫総督の
指揮 に従 うことを命 じた ものであ り, したが って但書の年貢半減 については,東海道鎮撫総督
の指揮下 において, タイ ミングを選んで発令 されるべ き筋の もの と解釈 されるべ きで,赤報隊
が今す ぐ年貢半減 を布告 して もよい とは述べているものではないか らである。
結果論的ではあ るが,東海道鎮撫総督か らは年貢半減令 は出 されなか った。一方で赤報隊は
政府の意志 を先取 りしたかたちで,年貢半減 を掲 げて進軍 していった。か くして年貢半減令 は,
4日に布告 した年貢半
いやお うな しに現 実の全国的な問題 となって しまったのである。 ここに1
減令 をどの ように取 り扱 うか,政府部内の緊急かつ重要 な問題 となって きたのであった。
2日まで政府部内における,重要 な問題だ ったことは,香川 も岩倉具視 も
年貢半減問題が ,2
同 じように 「
甚苦心」 「よほ ど苦心」 していることで察 しがつ く。 出先の東海 ・東山両道鎮撫
総督 において も,赤報隊の年貢半減布告 にどの ように対処すべ きか,同 じように苦慮 していた
4日の段階で,岩倉具視 は 「
不可」 とい う決着 をつ けていた
ことであろ う。 しか し遅 くとも,2
のである。 ただ しこれが政府部内の一致 した結論か と言 うと,考慮すべ き余地がある。 とい う
1
3
)
の 「内国諸事務達留」が2
7日に書かれた もの とすれば,2
3日か ら2
7日まで 日時があ き
のは,(
過 ぎているように思えるか らである。 この間,政府部内での意思統一の時間が必要 とされてい
たのか もしれない し,あるいはそれは,年貢半減令取 り消 しを,布告で正規 に公表す るか,そ
れ とも各地,各機 関か らの伺いに対 して,回答す るとい う形式 にするか とい う,やは りもう一
つの重要 な問題 を巡 って,時間が必要だった とい う事情があ ったのか もしれない。その間の事
情が伺 える史料 を,一つ紹介 してお こう。
個年貢半減 も大分夫 々御施行候哉二申来候得共,今 日二而ハ又,朝儀御止 メニ相成候哉之儀,
実以不容易儀 二付,如何仕候哉 卜苦心仕候,何分こ も一旦以朝命半減 卜御沙汰有之候以上,
猶又御止 メ トハ甚 申難 ク,夫々申渡候,処 々ハ如何之所置二仕候哉,是又何度候
正月二六 日
具定
4日に大津 を出発 ,2
5日守山,そ して2
6日か ら2
8日まで在降 した愛知川 において,
この手紙 は2
東山道鎮撫総督の岩倉具定が,2
6日の午前 に父の具視 にあてて書 いた ものである44) (
部分のみ
引用)
。内容 は,香 川敬三の手紙 に書 いた,岩倉具視の年貢半減不可の旨の手紙(
1
射こ接 し, さ
らに指示 を仰 いだ もので,いちど 「
朝命」 をもって年貢半減の 「
御沙汰」 を出 した以上 は, こ
1
3
1-
人
文
学
報
ん どは中止 とい うことは,はなはだ言いに くい,他の所では, どの ように処理 しているか,伺
いたい, と言 うものである。
6日の昼 に書いた,岩倉具定 と八千麿 (具経,副総督)連名の手
じつ はこの手紙 の後,同 じ2
紙があ り,そ こで は 「
年貢半減之儀,御施行難被遊趣 キ承知仕候,貧民共-能金穀 ヲ散 シ王化
6日の午前 中に,年貢半減令 を撤 回す るべ
二服 シ候様可致 旨奉畏候 」45)とのべ ているように,2
き旨の, なん らか の正式 な指令があったことが推測 される。 しか し残念 なが ら,政府あるいは
岩倉具視か ら, どの ような文面の指令があったのか,史料 は残 されていないので, これ また推
測で述べ ざるを得 ないのであるが,年貢半減 は中止す る旨の,指示 と命令 は伝達 されたが,午
貢半減令撤 回の正規 な布告 は,ついに出 される事 はなか った と見て よいのではないだろうか。
しか しともあれ,年貢半減令 をめ ぐって,政府 も出先機関 も,「
苦心」 に苦心 を重ねていた,
とい うのが当時のいつわ らざる状況であ った。
1
0
)
,
(
ニ) さて赤報 隊 との関係であるが, まず気になることは,赤報隊の年貢半減の高札文(
(
l
l
)
と政府 の年貢半減の布告(
1
2
)
,および赤報隊にたいす る年貢半減 についての御沙汰書(
5)
と,内
容が異 なる点であ る。 その違いを要約 してみ よう。
(
1
0
)
天領の当年の年貢半減 (
村 々への布告 )
。
(
l
l
)
天領の当年の年貢半減 と諸藩の困窮の村方救助 (
本陣高札 )
。
(
但,昨卯年未納之分モ,同様半減被仰付候事 )
(
1
2
)
天領お よび賊徒 の所領の当年 と昨年未納分の年貢半減。来年以後 は取調べの上沙汰
(
5)
天領の当年 と昨年未納分の年貢半減。来年以後は取調べの上沙汰
は じめに(
l
l
)
につ いて説明 しておこう。(
l
l
)
は赤報隊が高宮宿の本陣に掲 げた,最初の年貢半減
の高札であるが, 『
赤報記』 にはカ ッコ内の,昨年度未納分の年貢 も半減す る旨の文言があ っ
2日の条 に赤報隊が美
た とは書 かれてい ない。 ところが 『
復古記』(
東 山道戦記 )に よれば,2
l
l
)
と同 じ文言の布告 を載せ,但書 きの体裁で, カ ッコ内
濃地方 に年貢半減 を布告 した と記 し,(
に引用 した文章 を付 け加 えている。 すなわち美濃路 にはい ってか ら,昨年未納の分の年貢 も半
減す ると,布告 したかの ような,書 き方である46)。
これ をどの様 に理解すべ きか とい うことであるが,私 は以下のように考 えている。 赤報隊は
基本的には(
5
)
の政府 の沙汰書 に基づいて年貢半減 を布告 しているのであるか ら,高官宿の高札
で,昨卯年の未納分 の半減 まで触れ ようとす るな ら,但書ではな く,本文のなかで言及す るの
が 自然であろ う。 『
赤報記』が記す この時の高札 に,未納分 についての記載がなかったのは,
その事 に触 れていなか ったか らであると思 う。 なぜ この時未納分については軽視 したのか,そ
の理由は分 らない。 しか しその うち,なんらかの事情,理由によ り,昨年未納分の年貢半減 を
布告す ることに し, そ こで前か らの布告 に但書 きの形で付 け加 えた, とい うことではなか った
- 1
3
2一
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐々木)
であろ うか。
まず気が付 く事 は今述べたように,赤報隊の最初の布告では昨年未納分 については,何 もふ
れなかった とい うことであ り, また来年以後の事 については一貫 して触れない ことである。 つ
ぎに重要 な事 は,政府サ イ ドの ものは,天領(
5)
,天領お よび賊徒の所領(
1
2
)
, と対象地域が限定
l
l
)
布告では,「
諸藩」の困窮の村政助 と,年貢半減 とは言 っていない
されるけれ ども,赤報隊(
が,対象地域が諸藩一般 にまで拡大 されるとい うことである。 諸侯の領有制が廃止 される前で
あるこの時点で,諸藩の困窮の村方救助 を唱えるのは,内政干渉 ともい うべ きものであろ う。
相楽総三 と赤報隊 は,た しかに政府か ら年貢半減 にかんす る指示 を得ていた し,西郷隆盛や
)
。 しか し相楽 と赤報隊の行為 は,東海道鎮撫総
岩倉具視の年貢半減令の意向 も承知 していた47
督の指揮下 において なされるべ き年貢半減の布告 を,彼等の独 自の判断で行 って しまったこと,
また政府の年貢半減令 (
年貢半減政策構想 ) と異 なる もの を布告 した等の点 において,かなら
ず Lも政府サ イ ドの意向 を正確 に反映 した ものではなかった。
5日か ら年貢半減令 を掲 げて進軍 していった。 この ことは近畿以東へ
相楽総三 と赤報隊 は,1
の,年貢半減実施の新たな展開であ った。岩倉具視 も西郷隆盛 も, まだな りゆ きを見守 ってい
8日に,正月 5日か ら大津 に在陣 していた,橋本東海道鎮撫総督が動 きだ し,1
9日水 口,
る。1
2
0日土山,21日亀山,2
2日四 日市へ と進軍 した。 また岩倉具走東山道鎮撫総督軍 は,21日に東
2日守
海道鎮撫総督軍が移動 して空いた大津 に宿陣す ることにな り, さらにこの東 山道草 は,2
5日愛知川- と進むのである。 相楽総三 と赤報隊の年貢半減令のうわ さは,宿場 か ら宿場
山,2
へ と情報 ネ ッ トワー クに乗 って広が っていったことだろう。 赤報隊は年貢半減令 を残 して先 に
進んで行 くが,東海道,東山道両道の鎮撫総督たちは,その年貢半減令-の対応 を,いやお う
な く迫 られていたのである。 ここに年貢半減令は,赤報隊だけの ものではな く, む しろ政府が
直面せ ざるをえない重要問題 となったのであ った。
結果 として,主 と して政府財政上の問題か ら,岩倉具視 -政府サ イ ドは,多分2
3日には,午
貢半減の中止 を決意 する。 中止す る旨の正規の指令は,2
6日に愛知川の岩倉東山道鎮撫総督の
元に届いた。京都か らの距離 と時間 を考慮 にいれると, この中止指令は,2
5日に政府か ら正規
に出されたことにな る。 同 じく,四 日市 に宿陣 している橋本東海道鎮撫総督の もとに も届いた
ことであろう。 同 じ2
5日に,鵜沼に滞陣 している赤報隊に帰還命令が,政府か ら届 いた。そ し
6日であった。
て滋野井隊の一部が,四 日市で処刑 されたのが2
Ⅵ
「
偽 官 軍 」 へ の道
香川敬三か ら岩倉具視-の手紙佃 で,い まひとつ注 目すべ き所 は,以下の部分である。
-綾小路卿,滋野井卿之御義 も深御痛心被為在候 由奉恐察候,是は愚考 スルこ, アナカチ
- 1
3
3-
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文
学
報
農商之 中通 りこ も有之間敷,夫二は不得止情実 も可有之御事 と遠察仕候,此義 は私共等 よ
り,彼の御陣へ参上仕,朝廷之御痛配之趣 キ等 中上候ハ 、,速 に東海道迄御 出馬之運 ヒニ
可立至 卜奉存候-・
・
・
香川の この手紙 の部分 にたい して,岩倉 は以下の ように 「
弟こ も同列,殊二綾小路 ニハ間柄
傍深情 ヲ尽 くし,風聞之俵可 中人頼候,実二残心之事也」 と述べ る。 両者の往復書簡か ら,つ
ぎの ような情景が,浮び上が って くる。
岩倉具視 は綾小 路俊実 とは特別の間柄であ った事。綾小路,滋野井 にかん しては,(よ くな
い)風聞が伝 わって きてお り 「
痛心」 しているが,その まま香川に伝 えた事。悪い風聞の出所
は 「
農商」 にある こと。 香川 は綾小路 に会いに行 き,岩倉具視の心配 を伝 えようとしているこ
と。 そ う したな らば,東 山道 を進 んでい る綾小路等 は,東海道 に戻 って くるであろ うこと,
等 々である。
「
農商」 か らの悪 い 「
風 聞」 は,おそ ら く金銭 にかかわる ものであろ う。2
6日付 の東山道鎮
撫総督岩倉具定の手紙 には 「
清岡士ハ決両棲小路卿之於兵士ハ,侵民之米金候様之事ハ必有之
間数 卜段 々申候得 共,現在大垣 よ りも申来 り諸所 よ り申来 り候事 二付,仝 ク無之事 トモ不存
候」48)と,民衆か らの苦情が諸所 か ら寄せ られていることが述べ られていた。 この ように滋野
井隊だけではな く,綾小路赤報隊にたい して も,かんば しくない評判が,あちこちか ら上が っ
ていたのであった。
滋野井隊は もとより,綾小路の赤報隊 にたい して も,進軍 コースにあった村 々は,相当の金
額 にあたる兵糧 を負担 していたか ら, これにたいす る苦情があ って当然である。 赤報隊の人数
は,史料 などにも,お よその数 しか書かれていな くて,正確 にはつかみえない。綾小路の赤報
隊,滋野井隊 ともに,1
5
0人前後 とい った ところではなか ったろ うか。その 日その 日で,来 る
者 もあ り,去 る者 もあ っただろう。 宿泊や食事の代金 を,そんな彼等が きちん と支払 った とは
思われない。柏原宿では赤報隊の宿泊 ・荷物継立人馬賃 を受 け とらなか ったが,それは公卿 を
擁 した朝廷の軍 とい うふれ こみであった し,年貢半減 を布告 して進軍す る新政府の軍 とい う装
いだったか ら,金銭 を要求 しに くい雰囲気があったことによるのではなかろうか。
幕末の宿場 と周辺の助郷の村 々が,窮乏化 していたことは,すでに周知の事柄 に属す る。そ
うした宿場 と助郷 の村 々にとって,た とえ赤報隊が,世直 しの切 り札 ともい うべ き年貢半減令
を掲 げていた として も,それはこの年の末に約束 される先の事 なのであって,それ よ りも目前
の大 きな負担 に耐 えかねる面 もた しかにあったのである。 農商のホ ンネの小 さなつぶや きが,
次第に寄 り集 まって,勢いのある波 とな り,京都の岩倉の もとに次 々 と届いたのではなか った
ろうか。
また高松実相等 の挙兵 は弘苔寺でお こなわれ,その際 この寺の檀信徒 (
主として五個荘商人近江商人。現神崎郡五個荘町)が数百両 を献金 した といわれているが49), これな ども後か ら,あ
- 1
3
4-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐 々木)
まりかんば しくない噂 となって,伝 わった事 も考 えられる。 けっ してすべての人々が,喜 んで
献金 した ものではなか ったであろうし,高松隊の事 とは言 え,公家の挙兵であったか ら,赤報
隊 と混同 されて,京都 に伝 わることは,十分 に考 えられる。
岩倉具視 -朝廷政府サ イ ドの 「
痛心」 は,金銭 に関わることだけではなか った。い ま引用 し
た同 じ手紙の中で,総督岩倉具走 は 「
綾小路卿義段 々子細 も有之候 二付,是非東海道 ヲ被進候
得は都合 も宜被遊 ,戦功 も候哉二伝承仕候得共,何分こ も私共東山道鎮撫之任 ヲ蒙 り乍 ラ,右
26日付 )と,赤報隊の処置 に困 っ
脚之如 キ有之候得 は,処置之処 も色 々二相成,甚困入候」(
ているむね を,政府 に訴 えていた。「
処置之処 も色 々」で困るとは, どの ような事だったのか。
確証 はないが推測 で きないことはない。
21日に綾小路赤報隊が宿陣 した美濃加納宿 は,幕府の会計奉行永井尚服の領地であるが,当
時藩主の尚服 は江戸在府で不在であった。赤報隊は重臣を呼 びつ け,相楽総三が応対 し,開城
を命 じた。加納藩重 臣は,江戸 に使い して尚服 を辞職 させ,以後勤王のため力 を尽 くす ことを
0挺 と弾薬 ほか を,赤報隊に献納 した。 また近
誓い,家名断絶 な きよう嘆願 し,大砲 2門,銃7
江宮川藩 (藩主堀 田正養,帝鑑間,走府 )は滋野井隊の山本太宰 らに,武器か根米か金子かい
ずれか を献納せ よ と迫 られ,21日に630両 を差 し出 している50)。
加納藩,宮川藩 ともに一種 の開城処分 (
宮川藩 1万 5千石は陣屋)を受 けた もの といえよう。
しか し開城 には一定 の手続 きと作法があ り,総督の指揮下 に行 われるべ きもので,赤報隊や滋
野井隊が勝手 に行 うべ きものではなか った。 さらに開城後の藩主や家臣の処遇,武器金銭の取
扱い等 々,一定の方針の もとで行われるべ きで,藩により,処分 を実際に担当 した者 によ り,
それぞれ区々であ っては,鎮撫政策全体 に もかかわって くる大問題であるはずであった。処置
が色 々で困る とは,以上の ような事情 を物語 っているように見える。 あるいは早速,赤報隊が
布告 した,昨年の未納分の年貢半減 をめ ぐって,後か ら進 む総督が,村 々に何等かの対応 をす
ることを迫 られていたのか もしれない。
以上見て きたように,赤報隊が進軍 したあ とに残 してい った問題 をめ ぐって,政府 はそれの対応 に苦心 を重 ねていた。 この まま赤報隊の進軍 を黙認 し続 けては, さらに大 きな波紋 を生
じさせ ることになるだろう。政府 は決断せ ざるを得 なかったのである。
2
5日,鵜沼 に在 陣 していた綾小路俊実 と赤報隊の もとに,政府か ら帰洛命令が届いた。「今
1
)
とい う簡略な参与か らの達である。
皮,東征大軍議被為在候二付,-先上京可致被仰 出候事」5
2
5日に朝廷か ら出 されたこの沙汰書 は,即 日,鵜沼の赤報隊に届 け られたのであった。 この達
には付属 した政府 か らの指示があったようで,赤報隊三番隊長油川信近が 「
鵜沼駅 まで進み ま
した所 が,太政官 よ り御達が到来 しま して,大軍議在 らせ らるるに依 って其 の赤報隊引纏め
早々上京すべ Lとい う事であ りました,そこで参謀軍裁等 を綾小路卿の御前 に会 して会議 を開
かれ まして, さて大命黙止難いに依て今 より一同引纏めて帰京する旨を申されると,相楽総三
- 1
3
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学
報
が不承知であ りま して」52)
と述べ るように,実質的には赤報隊の解散命令であった。
相楽総三の グル ープを除いて,綾小路俊実 と赤報隊の二 ・三番隊は, この帰洛命令 に従 った。
綾小路 と赤報 隊は,2
7日に名古屋 につ き,2
9日に四 日市の東海道鎮撫総督の もとに出頭 した。
先 に述べ た ように, この時既 に滋野井隊は処分 ・解散 となってお り, ここについに赤報隊は完
全 に解体 となったのであった。
2
6日以降,相楽総三 とそのグループは, 自らを官軍先鋒暫導隊 と唱え,独 自の行動 を取 り,
相楽総三が一貫 して主張 して きたごとく,東山道 を進軍 してい った。彼 らは政府の命令 に も東
0日,相楽総三 らを 「
偽官軍」 とす
海道鎮撫総督 の指示 に も従お うとしなか った。そ して 2月 1
る,東山道先鋒総 督の布告文 (回章)が出 されることになったのである。 相楽総三 と轡導隊 に
ついては,高木俊輔の著書 に詳 しく述べ られているので, この稿では省略 したい。
お
わ
り に
以上赤報隊の結成か ら,わずか 2週間で解体 に至 った,その過程 をみて きたが,最後になぜ
解隊 させ られたのか, とい う点 を中心 に,い くつかの問題点 と,言い残 した事 をまとめて, こ
の稿 を終 わることに したい。
1,赤報隊 は,政府か らの東海道鎮撫総督の指示 に従 うべ Lとい う命令 を無視 して,東 山道
を進軍 してい った。 この点が,最 も基本的な誤 りで,解体 させ られた最大の原因である。
2,赤報隊の布告 した年貢半減令 は,彼等の独 自な判断による面があ った。基本的にはこれ
も東海道鎮撫総督の指示 を仰いだ上でなされるべ きで,半減令の内容 も,政府案 と異 な り,
布告 の時期 も,適切であったか どうか,疑問 とす るところが少 な くない。
3,特 に滋野井 隊の場合であるが,長島藩 に対す る金銭の強要や,農商民 に迷惑のかかる行
為 な ど,逸脱 した行動がめだち, またその風体 なども (
官軍) としての品位 と規律 に欠け
るところが あ った。
以上 は,赤報隊 それ 自身が持 っていた問題点である。 しか しこれ らの理由だけで,赤報隊が
解体 させ られたわ けではない。朝廷 -政府の側 に も,赤報隊 を解体 させ るべ き大 きな理由があ
った。以下それ らの点 について述べておこう。
朝廷 -政府が徳川慶喜以下,松平谷保や板倉勝静 ら慶喜側近の幕府閣僚の官位 をうばい,い
賊徒」追討が
わゆる朝敵 と して 「
追討」す る旨を布告 したのは,1
0日の ことである。 つ ま り 「
朝廷 -政府の政策課題 となるのはこの 日以降で,それ までは諸道 (山陰,東海,東山,北陸)
の鎮撫が先であった。鎮撫か ら追討-の方針転換である。 しか しだか らといって,政府がす ぐ
軍隊の派遣そ して進軍が可能であったか とい うと,周知の ようにそれは出来なかった。その理
由は,先ず第一 に軍事力が弱体だったか らである。 この段階で,朝廷 -政府の軍隊は,鳥羽 ・
- 1
3
6-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐 々木)
伏見戟争 を戟 った,薩摩,長州,土佐三藩兵が中心で,徐々に諸藩の兵が加 わって きてはいる
ものの, まだ諸藩の軍事力 を十分 には動員で きていなかった。 また朝敵藩の動向はともか く,
暖昧 ・中立的諸藩の態度 も気にな り,先ず京 ・大阪の守 りを固める事が先決問題だったのであ
る。 具体的にいえば,征討大将軍嘉彰親王が大阪に本営 を構 えて,海と山陽道に呪み をきかせ,
山陰道には山陰道鎮撫総督の西園寺公望 を派 し,東海道 ・東山道の合流地である草津 を望 む近
江の大津 には,東海道鎮撫総督橋本実梁 を滞陣 させ るとい う体制であった。
1
0日)が出てか ら,急激 に状況がかわる。 まず中立 ・暖昧諸藩が朝廷政
しか し朝敵追討令 (
府 を支持する方向に転 じ,そうした諸藩の動 きに影響 されて,薩長雨藩 とは比較的距離 をとっ
ていた藩 も,朝廷 -政府支持の態度 をはっきりさせたのである。 という事 は, これ らの藩か ら
の兵士の動員が可能 となったことを意味する。 また四条隆講が中国四国追討総督 に任命 された
のが1
3日であったが,ほとんど軍事行動 に移る間 もな く,中国四国諸藩は,朝廷 に勤王誓紙 を
差 し出 し恭順 して行 き, こうして近畿以西の諸藩にたいする政府の心配はな くなっていったの
5日,政府 は諸外国に王政復古 を通告 したが, これは以上のような状況が背景 として
である。1
あった と考 えてよい。
政府の 目は東国に向けられて行 く。 諸藩兵の動員によって,政府軍の体制 も整備 され増強 さ
8日であるが, これも以上の ような状況の変
れていった。東海道鎮撫総督が大津 を発 ったのが 1
化が背景 にあったのである。 軍事力 と諸藩の動向に自信のなかった政府は,鳥羽 ・伏見戟争か
0日過 ぎ頃までは,あ らゆる手段,あ らゆる勢力 を求めそして利用 しようとした。
ら,その後 1
赤報隊はまさにそ うした時に結成 されたのであった。政府は赤報隊を認め,東国の事情 に詳 し
い相楽総三 ら草葬の力に,一時は頼 ろうともしたのである。
しか し状況 は変わった。諸藩兵 による政府軍の整備 と増強が可能 となって くると,草葬隊に
対する態度が,大 きく転換 していった。たとえば西園寺山陰道鎮撫総督の発向 (5日)にあた
5日になる
り,政府 は一時は丹波山国庄の郷民 (山国郷士)に武器 を執 り随従 を命 じなが ら,1
とい う理由で,帰村 させたのであった。 この よう
と,総督 「
護衛の兵士 目下多人数故不用」53)
6日に政府の評議が変
な草葬にたいする政府の態度の変化 は,高松隊結成の ときにも見 られ,1
わ り,草葬の単独挙兵は正式には認めない, とい うことになった。草葬にたいす る政府の評価
が,大 きく低落 したのである。 いまはこれ以上の史料 を示す事がで きないが,1
4-1
6日あた り
が,その転換点ではなかったろうか。
4,赤報隊が生 き延 びる道は一つあった。それは山国隊や多田隊がそ うであったように,そ
して政府か らの指令 に もあったように,正規軍 (
赤報隊の場合 は,東海道鎮撫総督軍)の
。 しか し赤報隊は,あ くまで独 自の道 を歩 もうとしたので
配下に編入 されることである54)
あった。 しか も草葬隊 に対する政府の評価が大 きく低落 している中で--。
5,政府が 「会計基立金三百万両募債」 を決定 したのは2
3日の事である 三井,小野,島田,
。
- 1
3
7-
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報
鴻池 らの特権 大商人が, これに協力す ることになった。かれ らは交換条件 として,年貢米
の独 占的取扱 いを政府 に要求 した。そ して取扱い高の減少 をまね く,年貢半減令 に反対 し
不可」 と決断 した背景 には, これ らの特権
た, と推測 される55)。岩倉具視が年貢半減は 「
商人の強い圧 力が働 いていたのではなか ったか と思われる。 こうした政府の政策転換 に も
かかわ らず,赤報隊は年貢半減の布告 を出 し続 けたのであ った。
7日,東山道鎮撫総督か ら次の ような布告が
こうして赤報隊 は解隊 させ られたのであった。2
出 された。「
近 日滋野井殿,綾小路殿家来杯 卜唱へ,市在へ排掴致 シ,米金押借 り,人馬賃銭
不払者モ不少趣,仝 ク無頼賊徒之所業ニテ」 と,赤報隊の名 をかた り,悪事 をす る者がいるが,
そ うした者がいたなら,本陣に訴 え出, もし手向か うようであ った ら 「
討取候共不苦」 と述べ
るものであった56)。 これは単 に赤報隊か らこぼれた隊士の事 をさしているのではな く,政府の
統制か ら逸脱 して行動す る,総ての草葬 にたいす る弾圧 と規制であ った と解釈 出来 よう。
岩倉具視の側近である大橋憤三 は, 2月 6日岩倉-の手紙で次の ように述べている。
「
草葬之士 は是迄 は制御回復之御一助 な きにあ らす,且積年賊網 中を排梱仕 り,勤王之志遂 に
屈せす今 日に至 り候故,必 Lも今列藩兵勢盛也 とて,草葬の者 を塵芥之如 く御捨 てに相成 り候
)
と。 相楽総三たちが信州下諏訪で処刑 さ
而 は,御義理 に於 而朝廷之不被為済候訳 も可有之 」57
塵芥」の如 く
れたのは 3月 3日のことである。それよ り前 に岩倉具視の周辺の者が,草芥 を 「
捨てて よいのか と,い ささかの抗議 をこめて訴 えていたのであ った。政府 そ して岩倉具視の周
辺 には,その ような空気が強か った事 を物語 っていると言 えよう。
相楽総三 も塵芥 の如 く捨 て られた。だがなぜ相楽総三は,政府か らの指令 を軽視 し続 けたの
だろうか。赤報隊への帰還命令の後 も,京都 に連れ帰 るべ く,彼の周辺の動 きがあったに も拘
らず・
--。今 にいたるい くつかの謎 を残 して,手綱 をふ りきった奔馬は,ついに後 ろをふ りか
えることがなか ったのであ った。
京都 に連れ戻 された綾小路俊実 と滋野井公寿 は,何の答め も受 けなか った。綾小路 は実家の
9日に海軍先鋒総督
大原家に戻 り,大原重実 とな り, 2月晦 日,海軍先鋒 を命 じられ,閏 4月1
となる。 そ して滋野井 も, 4月2
7日に佐渡裁判所総督 となった。 また油川信近,鈴木三樹三郎
らの隊長 は じめ,隊士の多 くも, しば らく集団戟関の軍事訓練 を受 けたあ と, 4月頃か ら政府
軍に編入 されてい った58)。
1) 『
赤報記』 (『
相楽総三関係 史料集』青史杜,1
9
7
5)赤報隊に関す る記述で, とくに断 らないか ぎ
りは, この 『
赤報記』 を典拠 とする。
2) 岩倉具視関係文書 (
岩倉公旧蹟保存会対岳文庫所蔵)綾小路俊実書簡 R2,七一 1
6(
7
)(
北泉社
マ イクロフィルム)
。以下,引用す るマ イクロフィルムの岩倉具視関係文書 はすべて,岩倉公旧蹟
保存会対岳文庫所蔵の ものである。
3) 『
復古記』 第 1冊,51
6p。
- 1
3
8-
赤報 隊の結成 と年貢半減令 (
佐 々木 )
4) 赤報 隊参加 者 に関 して は,高 木俊輔著書(
AXB)
に詳 しい。
5) (
1)
は注 3) と同 じ。 『
復古記』 第 1冊 ,51
6p。(
2)
は, 『
復古記』 第 1冊 ,5
22p。
6) 高木(
A)
1
2
9p。
7) (
3X
4)
ともに 『
赤報記』1
6,1
7p.
O お よび 『
復古記』 第 1冊 5
39,
5
40p.
8) (
5)
は 『
赤報 記』 1
7pお よび 『
復 古 記』 第 1冊 5
39p にあ るが,文言が少 しだけ違 う。 『
赤 報記』
は これ を 「
右 両度建 白 (相楽総三 の -引用者注 )依之於太政官坊城大納言殿 ヨリ御渡之勅 証書」 で
あ る と して い る。 しか し当時坊 城 大納 言 な る人物 は存在 しない。 この事 や, 「
勅読書」 と しての文
書 形式 の問題 , あ るい は当時 の政府 権力 ・政府組織 が まだ不安定 であった とい う理 由か ら, 『
赤報
5)
もまた疑 問視す る芳賀登 の意見が あ る (『
偽 官 軍 と明治
記』 の史料 的 価値 を疑 問視 し, この史料 (
992,1
32p他 )
。 た しか に 「
勅読書」 と言 え るか ど うか, とい う
維 新 政権』 教 育 出版 セ ンター,1
点 に関 して は確 証が ない。 しか し 「
被仰 出」, 「
御沙汰」 とい う書 き方 は,天皇 の意志 を伝達 す る当
時 の文書 表現 様式 であ り, この(
5)
文書 が,天皇 の意 を うけた形で政府が発行 した公文書 の性格 を持
つ もの と見 るべ きであ る。 これ らにつ いて は原 口活 「
年貢半減令 は朝廷が だ したので はなか ったの
か ?」 (教科書 裁判,第 3次訴訟控訴審 の証言意 見書 )が参考 となる。
9) 『
史談会速記 録』7
8号。
1
0) 『
史談会速記 録 』81
,31
5号 。
ll) 羽倉敬 尚 「幽居 中の岩倉 具視」 (『
国学 院雑誌 』 1
964,1
2)
。 同 「岩倉股肱 の京 人松尾但 馬 とその
周辺」上下 (『日本歴 史』2
44,
2
45号 ,1
965)
0
1
2) 大久保利謙 『
岩倉具視』 中公新書 ,1
32-37p。
1
3) 城 多量 「昨夢 記」 (岩倉公 旧蹟保存会対岳文庫 ,北泉社 マ イクロ収録予定 )0
なお城 多童 につ いては佐 々木克 「
草葬 の志士城 多童 と岩倉具視 」 (『日本歴史』5
00号 ,1
990)が あ る。
1
4) 岩倉具視 関係 文書
Rl,七- 2-(
2)(北泉社 マ イクロフィルム)
。
1
5) 岩倉具視 関係 文書 R ll,十七- 3-(1
08)(北 泉社 マ イクロフィルム)
。
1
6) 同上。
なお挙兵 に至 る経緯 につ いて は, 『
史談会速記録』7
5 (書 中直の談話 )
,7
8 (秦林 親 の談話 )な ど
も参照 。
1
7) 岩倉具視 関係 文書 R2
2, 四一一3
3(北泉社 マ イクロフ ィルム)
。
1
8) 『
史談会速記 録』81,
31
5号 の山科元行 の談話。
1
9) 『史談会速記 録 』81
号 。 なお31
5号 の, 同 じ山科元行 の談話で は,綾′
ト路俊実が神経症 で あ った よ
うに述べ てい るが, これ は速記録 の誤 りと思 う。
2
0) 岩倉具視 関係 文書,注 2と同 じ (北泉社 マ イクロフィルム)
。
21) 『史談会速記 録』1
5号。
22) 『
嵯峨実愛 日記』 (史籍協 会本 )二 ,21
7p。
23) 『
復 古 記』 第 1冊 ,5
95p。 この告 諭 は 『
鹿児 島県 史料
忠義公資料
第 4巻』 (
1
977)873-87
4
pに も収録 され てお り, それ に よれ ば告諭 は,参与 か ら尾張,越前,土佐,安芸,薩摩等 の諸侯 に
も伝達 されてい る。
なお 1
2日の段 階で 「濃 二公寿,俊美等之挙動 二倣 ヒ,勢 ヲ見テ進退」す るこ との ない よ うに との
2
3p)。
「
総裁宮御 沙汰」 が出 されてい る (『
復古記』 第 1冊 ,5
2
4) 長谷川伸 『
相 楽総三 とその同志』 中公文庫 ,下 45p。
25) 『
赤報記 』2
0,
21p。
26) 高木俊輔(
C)
は滋野井隊が大垣 か ら桑名, 四 日市 とい うコース をとったことを本文 に書 いてい るが
(
37p), 同書 3
0pの 「
赤報 隊進軍岡」 は,東海道 を進 んだ ように作 られてお り紛 らわ しい。
一
11
39
人
文
学
報
2
7) 『
改訂肥後藩国事史料』 8巻,4
7p,国書刊行会,1
97
40
2
8) 『
史談会速記録』5
9号,渡辺清の談話。
2
9) 『
橋本実梁陣中 日記』(史籍協会本)1
2
2p。
3
0) 従来の研究では,綾小路俊実 らの赤報隊 と別行動 をとった,滋野井隊の行動があ まり明 らかにさ
れてお らず, 「
悪い噂」 に関 して も,何が原因なのか,かならず Lも明快 に説明 されてこなか った。
C)
著である。
滋野井隊につ いて最初 に言及 したのが高木(
31) 史談会編 『
戦亡殉難志士人名録』復刻,原書房 ,1
9
7
6。
3
2) 「
大原垂実事績」東大史料編纂所。
3
3) 『
復古記』 第 9冊,1
47p。
3
4) 高木(
C)
著36p。なおこの墓 は後に移 された もの と思われ,付近 をさが したが,綿引,小室の墓以
外 に, この時処刑 された者の墓 を見つけることは出来なかった。
35) 注2
7)と同 じ。
3
6) 岩倉具視関係文書,注1
5)と同 じ (
北泉社マイクロフィルム)
。
37) 注3
3) と同 じ。
3
8) 『
山東町史』(滋賀県坂田郡)9
22p。
3
9) 『
赤報記』 1
8p。
4
0) 『
岡山県史』2
8巻,5
8P。なお同 じものが 『
復古記』第 1冊,5
5
7pに収載 されている。
*なお,高野山に挙兵 した,鷲尾隆衆 も年貢半減 を布告 しているので,以下に紹介 しておこう。
鷲尾殿御支配地当戊辰御年貢半減被仰付候,親 も可致精勤之事
慶応 四戊辰正月
鷲尾殿執事
以上の ような ものであるが, この文言の前 に触書があ り,それによると 「
是迄徳川家元支配地之 も
77
の共一切鷲尾殿御支配被相心得為大朝精々御奉公可申上候」 と,(大和国吉野郡の)天領 を鷲尾の
支配地 とするとあ り,つ まり,鷲尾の支配地 とした旧幕領の年貢 を半減するとい う布告である。出
された 日時は不明であるが,鳥羽伏見の戦争で敗れた徳川慶喜が東帰 した正月 6日か ら,「
農商布
告」(天領 を朝廷の直轄地 とす るとい う)が出 される1
0日までの間に出された ものであると考 えら
れる。 この布告が朝廷-政府の指示によるものかどうか,論証する史料がないので,後考 を期 した
い。出典は 『
川上村史』 史料編上巻 (
1
9
87)1
8
9-1
9
0p。
41) 芳賀登は 『
偽官軍 と明治維新政権』のなかで 「(将軍の宮 -仁和寺宮 は)太政官代 におけるその
占める地位か らいって も,それほど権力のある人 とはいいがたい。それが朝廷 を代表するかどうか
について もい ささか問題があるのではないか」(
5
2p) と述べているのであるが,なにかの誤解で
はなかろうか。当時の政府職制によれば,総裁 は 「
万機 ヲ総裁 シ一切 ノ事務 ヲ決ス」 とあ り,職制
上の最高権力者であるが,仁和寺宮の議定は, この総裁につ ぐランクの職で 「
事務各課 ヲ分督 シ議
事 ヲ決定 ス」 (『
法規分類大全』)とあ り,つ まりこの 「
年貢半減令」 を例 にとれば,半減令 を出す
事 を決め,その半減令 を監督する立場 にある人物なのであった。
42) 宮地正人
「『
復古記』原史料の基礎的研究」(
東京大学史料編纂所
『
研究紀要』 1,1
9
9
0)
0
43) 岩倉具視関係文書 R l,七一 7(
7)(
北泉社マイクロフィルム)
。
なおこの書簡の重要性 に注 目した, 目良誠二郎論文 「
年貢半減令に関する岩倉父子の書簡 をめ ぐっ
て」(海城中学 ・高等学校 『
研究集録』1
4集,1
99
0)があ り,書簡の全文が初めて紹介 された。
4
4) 「
東山道督府書類」 4,(国会図書館憲政資料室 『
岩倉具視文書』1
4
0)
。なお注42の 目良論文 に全
文が紹介 されている。
45) 同上。なお この書簡 も目良論文で紹介 されている。
4
6) 『
復古記』 第1
1
冊,1
1
1,
1
1
2p。
- 1
40-
赤報隊の結成 と年貢半減令 (
佐々木)
47) 西郷隆盛の年貢半減意見は, 『
西郷隆盛全集』 第 2巻 (大和書房,昭和5
2)所収の,蓑田伝兵衛
宛明治 1年 1月1
6日付書簡参照。
岩倉具視につ いては,香川敬三宛ての返事(
1
4
)
で,当初は年貢半減に反対する立場ではなかった事が
わかる。
48) 注44)と同 じ。
49) 注 21)と同 じ。
5
0) 『
復古記』 第11
冊,1
06-11
0p。 なお 2月22日に永井尚服 を,同28日に堀 田正養 を,東山道鎮撫
総督が正式に処分 している。
51) 『
復古記』 第 9冊,1
5
0p。なお, この達が25日に出 された ものであることは,以下の史料 によっ
て明 らかであ る。国文学研究資料館史料館所蔵 「岡谷繁実文書」 (『
史料館研究紀要』2
4号,1
99
4年,
0
所収,「
岡谷文書一幕末 ・明治書翰類- 1)
52) 注 9)と同 じ。
988。
5
3) 『
贈従一位池 田慶徳公御伝記』二,370p,鳥取県立博物館,1
5
4) 多田隊 と山国隊については,以下の文献 を参照。宮川秀一 『
戊辰戦争 と多田郷士』(
川西市,昭
和59)
。藤野斎 『
征東 日誌 丹波山国濃兵隊 日誌』(国書刊行会,昭和5
5年)
0
C)
38,
39p。
55) 高木(
5
6) 『
復古記』第1
1
冊,1
20p。
57) 『
岩倉具視関係文書』(史籍協会本)第 3,41
9p。
5
8) 注 9) と同 じ。
- 1
41-