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ソフトバレーボールの
普及に貢献
小 学 生 交 流 大 会
昨年 月、市内で初めての
小学生ソフトバレーボール交
流大会が開かれた。軟らかい
ル連盟の名誉会長など、多く
在も、日本小学生バレーボー
を回ったり。教員向けに指導
掛け合ったり、全国の小学校
うと動き始めた。関係省庁に
つでしょう﹂。
まし合います。人間関係が育
に喜び合い、ミスをしたら励
現在、市内で年に4回のソ
フトバレーボール大会が開か
の役職に就いている。
れ、サークルやPTAなどの
講習会も開いた。﹁全都 道府
県 を4 回 訪 れ ま し た よ ﹂と 振
気軽に親しめる生涯スポー
ツとして、子どもから高齢者
化に取り組み始めてから 年
習指導要領に加わった。教材
小学校はもちろん、幼稚園に
チームが多数参加している。
子どもから高齢者まで
り返る。平成 年、ついに学
バドミントンのコートでプレ
までバレーボールを楽しんで
の時が流れていた。
ビニール製のボールを使い、
ーする手軽さから、愛好者が
もらいたいと考えたのは、昭
市で国体が開かれた。学生時
代にバレーボールをしていた
ことから運営に加わり、その
まま小樽バレーボール協会を
手伝うように。退職後は、日
本バレーボール協会の専務理
事となり、全日本チームに同
行し海外を巡った。 歳の現
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う軽く軟らかいボールを開発
子どもでもプレーしやすいよ
どが普及の壁だった。
そこで、
速くラリーが続かないことな
体に当たると痛い上、落下が
マークを集めて購入に協力す
トが開発され、PTAがベル
その後、移動式のポールネッ
の開発が遅れていたからだ。
うように
しかし、普及は思
進まなかった。専用のネット
浸透の3つの目標を実現でき
の普及と教材化、小学生への
ある。﹁ソフトバレーボール
んから生前に言われた言葉が
日本のバレーボール界をけ
ん引してきた故・松平康隆さ
作品を作ってもらった。その
ある学校で、障がいがある子
ジが輝いている。﹁思えば、
ール協会から贈られた金バッ
このバッジが私への金メダル
が試合でサーブを打って得点
いう話も聞いた。
なのでしょう。誇りに思って
います﹂と話した。
バレーボールを通して多く
の子どもたちが、努力する大
メ
切さを学んでいくことだろう。
金
﹁スポーツは協力する心と
忍耐力、努力する姿勢を培い
の
ます。点が入ると仲間ととも
胸
及させるため、学校の授業で
ル
を挙げた時、とても喜んだと
小学校に働きかける
50
こうして誕生したソフトバ
レーボールを子どもたちに普
教材として取り入れてもらお
ダ
結果、ゴムより軽いビニール
*
製のボールが考案された。
ル製造メーカーに依頼し、試
できればと思い立った。ボー
20
たら、金メダルだよ﹂。
るという動きも出てきた。授
山 さんの胸には、特別功
業 に 取 り 入 れ る 学 校 も 増 え た。
労者表彰として日本バレーボ
50
も普及を進めている。
増えている。ボールを追う子
和 年代ころ。ボールが硬く
さんだ。
長く教員をしていた山 さ
ん。昭和 年、赴任先の小樽
バレーボールと歩んで
力を注いできた。
年間、バレーボールの普及に
ル連盟会長の山
は、北広島ソフトバレーボー
どもたちを優しく見つめるの
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やまざき・のりお
北進町在住。
教員として働く傍ら、バレーボー
ルの普及に努めた。ソフトバレー
ボールの誕生に尽力し、小学校の
教材化を推し進めた。日本小学生
バレーボール連盟会長のほか、北
海道バレーボール協会などの役員
を務めた経歴を持つ。
昨年10月に開催された小学生交流大会の様子。70
人の子どもたちが技術を学んだ
宣夫さん
山
*…元バレーボール全日本男子代表監督。
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広報 北広島−2015.1.1