平和は誰かが与えてくれるものなのか……? 幸福は一人で実感

【 特 集 】 幸 福 を 再 定 義 す る ◉ 主 筆 対 談
平和は誰かが与えてくれるものなのか……?
幸福は一人で実感し得ることなのか……?
この
「平和、
そして幸福」
という人間にとって最も基本的なテーマを、私たち日本人は、
え
せ
まんえん
しゆうえん
政治や権力側が与えてくれるもの、
常に
〝享受〟
され得るものと、大きな勘違いをしているのではないだろうか。
だから、似非平和と幻想の幸福が蔓延する社会の裏側では、終 焉へ向かうべき資本主義の残影とともに
空虚な軍国化がハイスピードで進められていることに気付かない。
関係性の中の豊かさに目を凝らし、
主体的な
「民」
という自覚を背負い、一歩一歩の足取りを
きば
む
平和という
「行為」
に向けていくことで、
私たちはその虚構を超えていくしかない。
―
ぎ まん
さもなければ、
八百年以上続いた資本主義がついに最後の牙を剝き、人類が価値としてきた民主主義さえ粉砕しようとする、
最悪の
〝紛争〟
シナリオを、
当の人類全体で演じることになってしまう。
本当の
「積極的平和」
とは何か……。
たい じ
。
私たちが真に
「平和、
そして幸福」
を考えるならば、
政権が説く「積極的平和主義」に込められた欺瞞を看破して、
そ
この問いかけを続けていかなければならない。
目を逸らしたくなる「不快」と対峙しながら
幻 想 の「 快 」と 関 係 性 の 豊 か さ に 生 じ る「 幸 福 」
井原 「きれい・かわいい・きもちいい」の気持ち悪さは何だろ
うかと考えると、
〝批判的な精神〟の欠落なんじゃないかと思う
んです。飼い慣らされていることを無自覚に喜んでいる姿がそこ
の裏側には一〇〇〇兆円に及ぶ財政赤字を抱える実態があります。
かわいい・きもちいい」国になったのかもしれません。でも、そ
国は、先達たちの努力と勤勉によって敗戦後七十年で「きれい・
ている。言ってみれば、楽園の裏側は帝国化というか、軍国化だ
中 で あ り ま せ ん で し た。
「 快」 の裏 側で 確実 に「不 快」 が進 行 し
自衛権の行使を閣議決定した。こんなことは戦後七十年の歴史の
その状況の中で、特定秘密保護法を成立させ、武器輸出三原則
を防衛装備移転三原則と名称を変えて骨抜きにし、そして集団的
に見て取れますね。
このアンバランス感。
なくなっているのに、それでも国民は「集団的自衛権の行使」な
シヤン ハイ
まるで「地上の楽園」のような言葉で表面は覆われているのだ
けれど、収入を大幅に超える借金で生活を成り立たせているわけ
どという世界情勢をまったく無視した幻想を見せ付けられて納得
井原 二〇一〇年の 上 海万博で日本産業館が掲げたコンセプト
は「きれイ・かわいイ・きもちいイ」でした。確かに、私たちの
で、その放漫なやり方が常態化して、社会までが放漫なやり方と
している。立憲主義や民主主義までが機能しない退嬰した国家に
社会だと思います。見たくないものを見ないでも済むように、ご
だけれど、そんなくすぐられ方で居心地のよさを演出されている
ています。何もかもがそんなふうになった社会は気持ちが悪いの
まなものに「カワイイ」と当てはめられることが、より一層増え
奥本 「快」
「不快」という言葉で考えますと、
「きれい・かわいい・
きもちいい」はすべて「快」です。昔からそうでしたが、さまざ
資本主義の実態としての右肩上がりなど、もはやあり得ないと思
を維持する。アベノミクスはそれを進めるやり方です。ですから、
消えていく。かつての中間層を貧困化させることで一部の富裕層
富の格差がますます広がり、民主主義を支える中間層がどんどん
がもたらされ、同時に帝国化、軍国化が進んでいく。そして、貧
上がりの成長を目指した結果「きれい・かわいい・きもちいい」
せんだつ
局面的な推移に終始する、いわば社会的な退嬰が始まっているよ
なり下がっているのではないかと思うのです。
まかされているのですね。でも、そんな気持ちの悪さ――〝違和
うのです。
った、ということです。日本はそれこそ戦争なんてできる国では
うに思うのですが、奥本さんは今の社会のこうした二面性をお感
感〟――は一般的には議論になりませんし、異議を申し立てるこ
たいえい
じになることはありませんか?
こうした状況を推し進めてきたものは何だったのか。それは、
実は資本主義ではなかったかと考えているんです。限りない右肩
と も な い。 そ こ が 危 な い 状 況 だ と 感 じ ま す。 つ ま り、 私 た ち は
奥本 それも幻想ですね。
井原 そうです。ですから、もはや幸福な社会をもたらす資本主
を見つけ出せない。それなのに、このままでいいのだ、このまま
義ではないと分かっているわけです。でも、それに代わる仕組み
得るのだろうか? と。私にはそういった一人っきりの幸福とい
うものは想像できないのです。他者とかかわり、対話し、一緒に
の人との関係を絶って、自分一人が幸せになるということはあり
「快」の落とし穴にかかってしまったモルモットみたいです。
幸せが続くのだ、そう多くの人が考えている。
在するのではないかと思えてならないのです。つまり、他者との
何かを創造し……といったプロセスの中に、幸福というものは存
奥本 それなりの幸せを求めて、せっせせっせと暮らしているの
でしょうか……。私も「幸福って何だろう?」と考えるのですが、
関係性の中で幸福というものを考えると何かが分かるかもしれな
◎月刊 MOKU 2014.12 0 1 6
MOKU 2014.12
0 1 7 ◎月刊
正直、分からないのです。ただ、こういうふうには思えます。他
大阪女学院大学教授。東北アジア地域平和構築インスティテュート運営委員会委員長、日本
平和学会理事、国際トランセンド東北アジア地域コンビーナー、非暴力平和隊・日本理事、
京都造形芸術大学・東北芸術工科大学共同研究機関「文明哲学研究所」客員教授。著書『平和
ワークにおける芸術アプローチの可能性:ガルトゥングによる朗読劇Ho'o Pono Pono:Pax
Pacificaからの考察』(法律文化社)、共著・翻訳『ガルトゥング平和学入門』、共監訳『ガルト
ゥング紛争解決学入門』
(法律文化社)、共著『平和学を学ぶ人のために』(世界思想社)、『非
武装のPKO:NGO非暴力平和隊の理念と活動』
(明石出版)など。
奥本 京子 おくもと・きょうこ