特集:煉瓦文化財の魅力とその再生 明治初期の煉瓦煙突・改修復原工事が完成 小菅煉瓦を使用、綾瀬川流域の歴史を象徴∼足立区綾瀬・大室家邸内 このほど、足立区綾瀬四丁目の大室家邸内にある煉瓦煙 突 (約4m) の改修復原工事が行われた。煙突は明治初期に建 造されたもので、「桜」マークが刻印された煉瓦が見つかっ たことから、小菅煉瓦製造所の煉瓦を使用していることが 判明した。小菅の煉瓦は銀座の煉瓦街をはじめ広く活用さ れ、東京の近代化の一翼を担ったが、その多くは関東大震 災と空襲で失われており、民間で保存されている事例は極 めて貴重だと言える。 本稿では、施主の大室康一さん(三井不動産㈱前副社長・ 現顧問)を訪ね、煉瓦煙突に秘められた綾瀬川流域の歴史 を紐解くと共に、改修復原に向けた想いを伺った。また、 大野タイル工事店・社長の大野繁幸さんの手掛けた工事の もようを写真と共にレポートする。 (編集部) 大室家の晒し業 綾瀬川と共に発展してきた綾瀬地区は肥沃な穀倉地帯で あり、江戸の住民の農作物を賄う役割を果たしてきた。か つては五兵衛新田と呼ばれたこの地に、施主の大室家は江 戸幕府開幕以前より代々根を下ろしてきた。鎮守社である ▲復原工事が完成した約 4m の煉瓦煙突。 綾瀬稲荷神社の総代も務める同家は、地元の名士として知 られており、大室康一さんは十四代目に当たる。 600億円を使ったと言われる)により没落し、1935(昭和10) 大室家では、1877(明治10)年に十代目の大室源蔵が「晒し 年に閉店。また1930( 昭和5)年に荒川放水路が開設される 屋」 を開業し、綾瀬川の豊富な水量と水運、舟運の利便性を と航行が難しくなったため、大室家の晒し業は1937( 昭和 活かすことで大きく繁栄した。 「晒し」 とは、木綿の不純物を 12) 年にやむなく閉業となった。 取り除き染色しやすくする染物の前工程である。得意先は、 綿織物 (金巾) の輸入により財を成した薩摩治兵衛が一代で築 綾瀬川の産業遺産として き上げた日本橋の織物問屋 「薩摩商店」 。薩摩治兵衛は 「木綿 王」 と称され、長者番付にも名を連ねた大商人である。 一方、綾瀬川流域では明治以降、その土質と水運により 事業は順風満帆であった。邸内に現存する三棟の蔵(明 煉瓦産業が興隆した。1872(明治5)年、東京府第11大区1小 治、大正、昭和の建造。江戸期の蔵は20年ほど前に火事で 区小菅村(現・東京都葛飾区小菅)に、洋式による煉瓦製 焼失)から当時の栄華を偲ぶことができ、煉瓦煙突もその 造所が設立された。「小菅煉瓦製造所」である。英国人技師 一つである。地方から住み込みで働きに来る大勢の若い衆 トーマス・ウォートルスの指導により日本で最初のホフマ に「賄い」をつくるために、大きな煙突や竈を必要としたも ン窯が設けられ、良質な煉瓦の大量生産が可能になると、 のと推察される。 銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元となった。工場は 晒し業は昭和初期にかけて続いたが、薩摩商店が三代 1879(明治12)年に政府が買い上げて以後は官営となり、東 目・薩摩治郎八(バロン・サツマ)の浪費(仏で、10年間で約 京集治監 (現・東京拘置所) で煉瓦製造を行うようになった。 12 No.460 2014 年 12 月号 特集:煉瓦文化財の魅力とその再生 「綾瀬の産業遺産として大切に保存したい」と 語る施主の大室康一さん。 t 復 原 工 事 を 手 掛 け た 大 野 タ イ ル 工 事 店・ 大野繁幸社長。 s で崩落していたが、 番号を振って積み分けた煉瓦。解体後、同じ位置に 再利用された。 t 最上部の煉瓦アーチ。 ・ 見事復原された。 ▲徐々に先細となる形状を目地で再現。難度の高い施工が求め られた。 t 11 3 解体した煉瓦から見つかった 「 桜 」マ ー ク の 刻 印 。 小 菅 煉 瓦 と 判明した。 s ベニヤ板を当ててアーチの形状を確認。 s 13 No.460 2014 年 12 月号
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