Title 新田開発はどのように行われたか : 千葉県・椿海の - HERMES-IR

Title
Author(s)
Citation
Issue Date
Type
新田開発はどのように行われたか : 千葉県・椿海の干拓
事業の場合
渡辺, 尚志
日本の歴史を解く100話 : 読めば歴史観が変わる: 250253
1994-09
Book
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/17680
Right
Hitotsubashi University Repository
近
6
0
抄
1
6
(
0
江戸時代初頭)
0
年 ころ
1,
6
3
5
千町歩
1
7
2.
8 慶長三年大名 帳
1
7
(
20
江戸時代中期)
年 ころ
2,
9
7
0
千町歩
3
1
3.
9 町 歩 下 組 帳
しんでん
新
▲明治以前における耕地面積の推移
田開発はどのように行われたか
つ
ば
さ
の
う
みか
ん
た
く
海の干拓事業 の場合
しよう
降 、 明 治初 期 ま で は 一転 し て耕 地 面積 の増 加 は
由 は次 の点 に求 め ら れ ま す 。 日本 の農 業 は、 水 田稲 作農 業 を根 幹 とし て いると
そ れ で は' こ の時 期 になぜ 大 規 模 な耕 地 開 発 が行 わ れ た のでし ょう か。 そ の理
紀 (
近 世 前 期 ) と は、 わ が国 の歴史 上 でも特 筆 す べき 「
大 開 墾 時代 」 だ った のです。
統 一権力 の形成
こ ろ に特 色 があ り ま す。 こ の水 田耕 作 のた め には' 水 田 に水 を引 -用 水 路 と、 不 用 の水 を除 去 す る排
かん
がい
ちすい
水 路 と が不 可 欠 です 。 そし て、 これら の濯 概 設 備 を整 備 す るた め には大 規 模 な治 水 濯 概 工事 が必 要 で
す。中 世 には支 配 関 係 が分 散 し て いて、 広 域 にわ た って大 規 模 な土 木 工事 を行 え るよう な統 一権 力 が
存 在 せず 、 土 木 工事 の技 術 も未 発達 でし た。 と こ ろが' こう し た状 況 は戦 国大 名 の出 現 で 一変 し ま し
た
くえつ
はんらん
た。戦 国 大 名 は' 一円的 で強 力 な領 国 支 配 権 と卓 越 し た用水 土 木 技 術 によ って、 巨 大 河 川 の氾 濫 を防
ひよく
かい
たけだしん
止
り
ん
ぎ ' そ の流 域 の肥 沃 な沖積 平 野 を耕 地 化 し て いきま し た。 そ の代 表 例 は、 甲斐 (
山梨 県 ) の武 田信 玄
かまなし
しん
げん
ブ
つ
み
が釜無 川 に設 け た堤 防 であ る信 玄 堤 です。 こ のよう な戦 国 大 名 の政 策 は江戸 幕府 に受 け継 が れ、 さら
に大 規 模 に推 進 さ れ ま す。 こ の 「
大 開 墾 時 代 」 は およ そ 一六 六〇年 代 ぐ ら いま で続 き ま し た。
しんでん
では' 次 に こ の時 期 の新 田開 発 に ついて具体例 を あげ てみ て みま し ょう 。
あ
さ
ひ うなかみ
ひがた
ようかい
ちぼ
椿海
ば
さ
の
うみ
都の
墾 郡 酢
現つ
在
の
千 葉 県旭 市 .海 上 町 .干潟 町 .八日市 場 市 にま た が る地 域 に、近 世 初 頭 に
と よば れ た大 き な 湖 が あ り、 近 隣 の村 人 は そ こ で漁 業 な ど を し て いま し
は
く.)
ゆ
うく り
た。全 国 的 な新 田開 発 ブー ム の 一環 とし て' 九 十 九 里海 岸 に近 い椿 海 の湖水 を太 平 洋 に落 とし て、 そ
干 拓 工事 が始 ま り ま し た。
村 々で は用水 不 足 にさえ な ら な け れば 、 と いう条 件 で干拓 を 了承 し ま し た。 こう し て、 一六 七〇年 に
の跡 を耕 地 化 し よう と いう計 画 が近 世初 頭 から構 想 さ れ て いま し た。
す
ぎやまさん えもん
しらいじ ろ えもん
最 初 に江戸 の人杉 山 三右 衛 門 が計 画 し'次 いで江戸 の町 人白 井 治 郎 右 衛 門 が開 発 を出 願 し ま し た が'
E
j
とうり
ょ
う つ
じうちぎ
ょ
うぶぎ えもん
許 可 にな り ま せん でし た。 そ の後 '白 井 治 郎 右 衛 門 が幕 府 の大 工棟 梁 の辻 内 刑 部 左 衛 門 と共同 で開 発
かんぶん
かん
'3
よ
うぶb
よ
う
願 いを出 し た と こ ろ'今 度 は許 可 が下 り ま し た。 そ し て'幕 府 は 一六 六 九年 (
寛 文 九 ) に勘定 奉 行 の
つ
まきひこ えもん
かんたく
妻 木 彦 右 衛 門 らを現 地 調査 に派 遣 し ま す。妻 木 ら が近 隣 村 々 に干拓 によ る支 障 の有無 を尋 ね た と ころ'
江戸時代 』 (
中央公論社) より引用
大石憤 三郎 『
● 千葉 県 ・椿
算
9
4
6
千町歩
尚 志 (一橋大学助教授)
下 の表 は、 わ が国 の明 治 以前 におけ る耕 地
面 積 の推 移 を表 わ し たも のです 。 こ こから'
1
0
0.
0拾
LU
,
う
抄
1
4
(
5
室町中期)
0
年 ころ
渡辺
かいこん
大 開墾 時 代 の到来
九 三〇年 ご ろ から 1四五〇年 ご ろま で の間 にはわず かし か耕 地 が増
加 し て いな いの に対 し て、 一四五〇年 ご ろ から 一六〇〇年 ご ろ (
戟
国 時 代 ) には耕 地 面 積 が大 き-増 加 し' そ の増 加 の勢 いは 一六〇〇
しよう
ご ろ の三倍 以 上 にも な って いる こと がわ かり ま す。 そ し て、 これ以
びび
微 々 た るも の にな ってし ま いま す。 す な わ ち、 一
七世
年 代 には さら に加 速 し て' 一七 二〇年 ご ろ の耕 地 面 積 は 一四 五〇年
み
名
よ
う
工事 の中 心 は、椿 海 の水 を太 平 洋 に落 とす排 水 路 の掘 り割 り 工事 です。排 水 路 の工事 は、 海 岸 線 か
E]
不許可の理由は、干拓が実現す ると、それ まで椿海 を用水源 としていた近隣の村 々が水不足 になること
け ねん
を幕府が懸念 したため と推測 される。
和
わ
8
6
2
千町歩
9
1.
1
9
3
(
0
平安中期)
年 ころ
拠
典
耕地面積
年 代
働
世
251160.新田開発はどのように行われたか
253I60.新田開発はどのように行われたか
ヽ
ワ
ら白井治郎右衛門 ・辻内刑部左衛門 の二人 がそれぞれ片側ず つを請 け持 って始 められましたが、白井
は資金 に行 き詰 ま って開発 の権利 を放棄 したため' 工事 は中断 しました。し かし、同年中 に辻内 一人
〇
の手 で再開 され' 二 一
月 には掘 り割 り工事 が完成 し'椿海 の水 を太平洋 に落 とす ことができました。
ちよ
うぶ
町 歩 (
約 五〇 ヘク
ところが'廃水 の際、 一緒 に流 れ出 した土砂 が下流七 力村 の耕地 に流入し、五
ター ル) におよぶ被害 が出 まし た。 また、近隣村 々では この段階 にな って用水不足 にな ること に気 づ
き、椿海 の水 がまだ三割程度残 って いた 〓 ハ七 一年 三月 の時点 で' これ以上 の排水を止 めるよう幕府
そう
に願 い出 まし たが'聞 き入 れられません でした。 このよう に'大規模 な干拓 工事 は近隣村 々に大 きな
ため い
1六七1
- 七 二年'干拓地 の用水源 とし て の 溜 井 と'用水路 とし て の 惣
官
えん
ぽラ
堀 の築造 が行 われました。 一六七 四年 (延 宝 二) から干拓地 が 1町五両
影響 をあたえ ること にな った のです。
っ
ば
己んでん
椿 新 田 一八 カ 村 の成 立
は
蔭
間
の値段 で売 り出 され' そ の後耕地 が安定 し て い- に つれ て'土地価格 が上 が って いきました。
げんろ
けんち
い
けだしんべえ
〓ハ九五年 (元 禄 八) には、 検 地奉行 の 池 田 新 兵 衛 ら の手 によ って検地 が行 われました。 こ のとき、
ち
ょ
う たん せ
ぶ こ
く
だか
こ
く と し
ょ
う ごう
検地 を受 けた土地 は総計 二七 四 〇 町 八 反 五 畝 二〇 歩 、 石 高 二万四四 1 石 二斗 六升 二合 でした。 こ のう
あしま
まつ
し
ばま
ち約 三分 の二は田地'約 四分 の 7
(
曹 の生 えた土地)・松林 ・松芝間 (
松 や芝 の生 えた土地)・
くさま
草間 ・芝間 など耕地 とは いえな いような生産力 の低 い土地 であ り'畑 ・屋敷地 は 一割 以下 でした。
つ
ば
き
む
らしも い
わいむ
らし
も
「椿 村 下 」 「岩 井 村 下 」など、近 この段階 では' まだ干拓地 に村 は成立 し ておらず、新 田各地域 は
にあ る村 の下 と いう かたちでよば れ て います。 それが、 〓ハ九六年 (
元禄 九) に 一八 の村 に分 けられ
て、 ここに椿新 田 一八力村 が成立 しました。
しんで
ん
っ
ぽ
畠
では,新 田 に土地を買 った人 々は、 ど この出身 だ った のでし ょう か。椿新 里 八力村 の ーつであ る
はるみ
け
んちち
ょ
う
春海村 の場合 を みると二 六九五年 の検地帳登録者 二〇九人 のう ち、半数近 い九 一人 が最 も近 い椿村
の出身者 で、 これを含 め て大部分 の人 々が周辺村 々 の出身 でした。近隣村 々 にあ って、次男以下 に生
まれ て分家 させてもらえな いで いた者 や、 一人前 の百姓 とし て認 められな か った従属的 な地位 の農 民
たちが、独立を求 め て新 田 に移住 し てきた のです。
こそん
新 田 は古 -からあ る村 (
古村) に比 べて、耕地 が不安定 で生産力 が低 か ったため'移住 した人 々 の
ねんぐ
暮 らし は決 し て楽 ではあ りま せんでした。な か には年 貢を払 えな いため、 せ っか-入手 した土地 を手
放 し て新 田を去 る人も いましたが、多 - の人 々の営 々た る
努 力 によ って、 しだ いに生産力 も安定 し て いきました。 そ
し
ょ
う
と
く
の結果、 1七 二二年 (
正徳 三) には八七九軒 だ った家数 が、
*
一八 一四年 (
文化 〓 ) には 一四七四軒 に増 加 し て います。
なぬ
し
新 田村 には当初名主 が おかれず'近隣 の古村 から四名 が
わ
りもと
割 元名主 に任命 され て、新 田 一八 力村 の村政を管轄 し て い
一七 1三年 には年貢 や諸 入用 の
ました。 し かし、他村 の者 に支配 され ること への新 田村 民
ふか
賦 課 を めぐ
の不満 が強 く
って紛争 が起 こり、 一七 一五年 には割 元名主 が廃止 され て、
各新 田村 に名主 が おかれ るよう になりました。 こうし て、
新 田村 は古村 と対等 の行政的地位 を獲得 した のです。
〔
参考文献〕 *大石慎三郎 「
江戸時代』 (
中央公論社 、 1
9
7
7年)
r八 日市場市史 下巻 』 (
1
9
87
年)