秘要雑集

【現代語訳】
秘 要 雑 集
石川県図書館協会
昭和七年発行本
【現代語訳】秘要雑集 目次(題名は訳者がつけたもの。)
巻一
おおさわきち う え も ん
――――――――
――――――――――――
――――――――――――――
―――――――――
一、預かり人の大沢吉右衛門
まちのさけのじょう
―――――――――――
二、預かり人の町野酒之丞
三、農村の変化
の しんでん
――――――――――――――――
たきやすのじょう
――――――――――
――――――――――――
一六、滝安之丞の家来殺害
やまぐちげんば
―――――――――――――
一七、山口玄蕃の石塚
きりしたん
一九、 強 情 な稲垣源八 ――――――――――――
ごうじょう
一八、最後の切支丹
――――――――――――――――
ご
しょうぎ
二二、武士の養子縁組
い
せみまる
え
え
――――――――――――
じ
ざ えもん
二六、中沢 久 兵衛・深町治左衛門 ―――――――
えもりしち べ
え
―――――――――――――
―――――――――――――――
二八、江守七兵衛
さかもとうんぱち
二九、橋本雲八
―――――――――――――
う えもん
三二、稲垣与右衛門
いながき よ
三一、堀三郎左衛門
三〇、河野三左衛門
―――――――――――――
――――――――――――――
二七、山井甚右衛門
―――――――――――――
きゅう べ
二五、中沢 久 兵衛 ――――――――――――――
きゅう べ
二四、蝉丸の墓
―――――――――――――――
二三、囲碁・将棋をしない深町家
―――――――
二一、初代利治の鷹狩り
二〇、真砂村
まなごむら
―――――――――――
29
32
四、年貢を納める蔵
た
――――――――――――――――
――――――――――――――
五、百姓は米を食うな
や
すいさかやき
なんれいいん
一三、南嶺院様の寄進
一四、借金する貧しい家臣
か こ ひ こ の しん
一五、加古彦之進の家来殺害
1
23
24
30
28
31
33
34
六、矢田野新田
七、吸坂焼
けんじょう
八、菩提石の 献 上 ―――――――――――――
ぼだい
―――――――――――
おうままわりばんしょ
―――――――――――――
―――――――――――――――
九、御馬廻番所の事件
むら い との も
――――――――――――
一〇、村井主殿
付
きつねつき
一一、狐
――――――――――
13
一二、富山城の焼失
―――――――――
14
34
43
5
14
39
45
7
9
15
40
47
42
49
1
4
7
9
9
11
11
19
や ま だ まさひさ
三三、大聖寺城下町の発展
ごのつぼりゅう
三四、五ノ坪流の山田正久
―――――――――
―――――――――
―――――――――――
―――――――――――――
―――――――――――――――
五〇、藩の古い記録
五一、首切り話
―――――――――――――
五四、弟子のために
たか
―――――――――――――
ま
―――――――――――――
み
――――――――――
な ら や ご ん ざ えもん
五八、鷹のえさをとる名人
か と う じ すけ
六〇、才能ある加藤治助
六四、厳しい刑罰
――――――――――
―――――――――――
―――――――
――――――――――――――
―――――――――――――
――――――――――――
六六、親不孝者は死刑
六五、片野大池の工事
――――――――――――
六三、馬場をつくる
六二、水泳の上手な時枝庄左衛門
六一、刀鞘作りの名人宇野四郎右衛門
―――――
五九、いろいろ上手な雨夜平六
あ ま よ へいろく
――――――――
五七、大網を伝えた奈良屋権左衛門
おおあみ
五六、百万石からお見舞い
五五、本当の火元は
――――――
五三、元文五年七月の洪水
五二、たるんだ家臣
――――――――――
68
71
三五、貧しくなる藩士
三六、児玉 松 軒 先生 ――――――――――――
――――――――――――――
69
66
69
73
こ だ ま しょうけん
――――――――――
さいさん ざ え も ん
―――――――――――――
三七、貧乏な医者の正体
三八、才三左衛門
――――――――
三九、敷地で人を切った事件
―――――――――――――
―――――――――――――――
お ぐ ら かんろく
四四、お正月の鏡開き
四五、小倉勘六と息子新十郎
四六、傘屋が大乗寺の住職に
だ すけのぶ
四七、藩政を行えない三代利直
わ
四八、和田祐信
――――
四九、御老中になりたかった三代利直
2
四〇、梶原佐太夫
――――――――――――
――――――――――――
四一、梶原のその後
―――――――――――
60
な た か ぶ
――――――――
61
74
76
78
83
四二、那谷蕪
――――――――
61
四三、御打入の十村
―――――――
63
74
76
79
81
83
52
57
59
64
65
82
87
53
54
54
56
58
59
65
66
巻二
ね
ふじさわ ご
へ
え
―――――――
――――――――――――――
―――――――
――――――――――――――
――――――――――――――
―――――――――――
138 136 135 134 134 133 133 132 131 130 129 127 127 125 123 121 119
か
一七、亀町と『なま曲尺』の由来
一八、加納次郎左衛門の死
――――――
―――――――――
――――――――――
一九、三代利直の領内見回り
―――――――――
――――――――――――
一、焼き物、紙すきの始め
二、五代利道の病気
しまむら ご ろ う う え も ん
二〇、十村の嶋村五郎右衛門の先祖
とむら
―――――――
三、狐突きの名人村田源右衛門
――――――――――――
せいばい
二五、成敗の成功
二六、役人の家来が盗賊
――――――――――――――
――
――――――――――――
――――――――――
―――――――――
――――――――――――
三三、馬の医者と馬乗り名人
三二、実性院の始まり
じっしょういん
三一、彦根の殿様からお礼
ひこね
三〇、質素は長生きか
しっそ
二九、四代利 章 が金沢から ――――――――――
よんだいとしあきら
二八、江戸屋敷の類焼と大聖寺領地の大地震
二七、新橋の費用
―――――――――――
二一、断られたごちそう
五、米屋六郎右衛門
六、古い商人たち
――――――――
二二、天から首が
あま よ へいろく
二三、宴会で謡えない藤沢五兵衛
四、坊主に恨まれた雨夜平六
うら
―――――――――――――
二四、団太郎兵衛
七、天から光る物が
―――――――――――
八、すばらしい心を持つ家臣
く らのすけ
――――――――――
こうかい
九、浅野内蔵助の手紙
き む ら く ざ えもん
一〇、木村九左衛門の後悔
にんじょう じ け ん
にんじょう
一一、 刃 傷 事件ののちに ―――――――――――
――――――――
一二、 刃 傷 のとき ――――――――――――――
一三、事件の様子を記した手紙
―――――――――――
うねめ
一四、家臣思いの采女様
―――――――――――
――――――――――――
一五、殿様のお庭に馬が
一六、耳聞山の射撃場
うた
――――――――――――
93
えんかい
――――――――
94
むらたげん う え も ん
89
94
きつねつ
90
95
97
3
90
96
118 117 116 102 101 101 99
さ
ご
う えもん
――――――
――――――――――
三五、いつもはケンカしている犬が
――――――
三四、力持ちの佐五右衛門
三六、その犬はまちがって殺された
―――――――――――
や しちろう
三七、神谷内膳の鷹狩り
かべ ぬ
――――――――――
―――――
――――――――――――――
――――――――――――――――
三八、壁塗りの名人弥七郎
はら た ん や
三九、原丹弥
四〇、須藤市衛門
おつぎばん
四一、お役人のせいだとはいうけれど
としあきら
な た で ら
かんのんぞう
四、盗まれた那谷寺の観音像
――――――――
―――――――――――
げんろく
五、元禄の大聖寺大火
――――――――
―――――――――――
やまもとしんぞう
六、五代利道の救民策
こうのさんざえもん
―――――――――――
七、河野三左衛門と山本新蔵
ぎ ん み ぶぎょう
ちょうさい
八、吟味奉行役の変化
――――――
―――――――――――
九、殿様思いの 長 斎 ――――――――――――
一〇、他藩に仕えた藩士
と
――――――――――――
――――――――――――――――
一一、武芸だけでは藩に仕えられず
一二、南郷村
かたの
一三、片野のカモ獲り
――――――――
―――――――――
一四、夏の夜の不思議な出来事
しばい
の ぐちひょう ぶ
一五、芝居見物でクビになり
―――――――――――――
一六、野口 兵 部 ―――――――――――――――
ねんぐ
一七、年貢の納め方
―――――――――――――
そうしき
一八、葬式の時間帯
―――――――――――――
――――――――――――――
一九、町人の決まり
二〇、服装の乱れ
4
四二、利 章 様と御次番 ――――――――――――
しょう ず むら
――――――――――
――――――――――――
―――――――――――――
四三、 生 水村の安兵衛は何者か ――――――――
四四、落し物のお礼
四五、加賀藩にお願い
巻三
りゅうこつしゃ
―――――――――――
――――――――――――
一、新しい機械の竜骨車
二、四代利章の死去
三、三河吉田橋の再建
157 155 154 153 151 150 147 145 145 143 142 139
160 159 159
188 185 184 184 182 181 180 177 176 174 173 172 171 171 167 164 163
やり
てんがい
―――――――――――
――――――――――――
二一、槍となぎなたの技
そうしき
二二、葬式に使う天蓋
―――――――――
―――――――――
――――――――――
――――――――――――
二三、歌を歌いながら歩くな
二四、はきものの制限
はん
二五、藩の命令で人を殺害
むらいとのもいっぱ
二六、村井主殿一派の大処分
――――――――――――
―――――――――――――
二七、神谷内膳の謹慎
二八、青山新右衛門
お うままわりばんしょ
――――――――――――
―――――――――――
よしむね
――――――――――――
―――――――――――――
三八、吉宗様のご命令
ごうしょうじ
―――――――――――――――
三九、毫摂寺の移動
たんてい
四〇、藩の探偵
――――――――――――
――――――――――――
――――――――――――――
四一、九谷焼の始まり
四二、玉石の採掘
四三、小アユ漁の禁止
――――――――――――
―――――――――――――
四五、ときを告げる鐘
――――――――――――
四四、山代の火薬庫
四六、江戸時代の刑罰
――――――――――――
―――――――――――――
四八、節約をする藩士
――――――――――――
四七、黒田家の正月
四九、高橋十郎左衛門
――――――――――――
――――――――――――――――
五〇、身分による差別
かし
五一、樫の森
ひつぎ
―――――――――――
―――――――――――――
五二、石堂山の石の 柩 ――――――――――――
五三、色々なきまり
ろ く と のぞ
五四、六斗除きの始まり
5
二九、御馬 廻 番所でのケンカ ―――――――――
はん
三〇、苦しい藩の会計
三一、リーダーの決め方
しょうれい
―――――――――――――――
三二、武芸の 奨 励 ――――――――――――――
三三、丹羽権平
――――――――――
―――――――
―――――――――――――
――――――――――――――
三四、山中温泉の入浴料金
三五、役名の変化
三六、児玉仁右衛門
三七、吟味所(裁判をする場所)
210 206 205 205 205 204 204 203 202 200 198 193 192 192 191 191 190
224 224 223 222 222 220 219 218 217 216 216 215 215 213 212 212 211
か ざ ん ほうおう
あづち
おぎゅう
五五、花山法皇の乳母の石碑
―――――――――
五六、 垜 ケンカと荻生ケンカ ―――――――――
―――――――――――――――
―――――――――――
五七、山崎与蔵
五八、その後の山崎与蔵
―――――――――――
―――――――――――――――
五九、結婚式の禁止事項
六〇、百姓一揆
――――――――――――――――
――――――――――――――――――
6
秘要雑集解説
補充説明
長流亭(『錦城名所』より)
237 236 232 230 225 224
265 239
ひ よ う ざ つ しゅう ま き
秘要雑 集 巻一
おおさわきち う え も ん
一、預かり人の大沢吉右衛門
おおさわきち う え も ん
え
ど ばくふ
ごてん
ろうか
まえ だ とし
大沢吉右衛門という人は、江戸幕府の将軍がいる江戸城の御殿の廊下の見
なお
だいしょうじはん
おおさわかくのじょう
げんろく
直》の時代に大聖寺藩へ罪人として預けられた。これは元禄一二年(一六九
い
の すけ
九)七月九日のことであった。同じく大沢角之丞と吉右衛門の妻、それに子
ちょうきちろう
げじょ
ろうじゅう
あきもとたじまのかみどの
供で九才の 長 吉 郎 と六才の猪之助も預けられた。このとき、吉右衛門の家来
かくすけ
すがたにへい だ ゆ う
の角助と下女のきよという者がついてきた。
のじりはん う え も ん
野尻半右衛門と菅谷平太夫の二人が幕府の 老 中 である秋元但馬守殿から彼
なかせんどう
ひがしのせい べ
え
らを受けとり、七月二一日に中仙道を通って大聖寺へ八月五日に着いた。大
あ お ち や う えもん
聖寺では青地弥右衛門と東野瀬兵衛がいろいろと世話をすることになった。
あ ま よ へいろく
見張り番人は雨夜平六などがするということであった。
《藩では彼を幕府のスパイだと考えて》預かった大沢から何を聞かれても
1
はり番であった。何か良くないことをしたという理由で、円通公《三代前田利
前田大聖寺藩家紋(菅生石部神社)
大聖寺藩のことをいってはならないと指示されていた。それで、平六は少し
も答えないようにしていたが、とにかく、あれこれと話しかけてきた。その
うち、吉右衛門が
「あなたは、むすこ様は何人いますか。」
と平六に聞いてきた。
そのとき平六は、
「どうであるか、はっきりとはわかりません。」と、とぼけた
答え方をした。これから吉右衛門は、相手は答えてくれないことが分かり、
ふ く だ ばし
みみきやま
いこまげんご べ
あ
え
べ ぶんごのかみどの
彼らは大聖寺町の福田橋より耳聞山の方角にある、生駒源五兵衛という武
やしき
士の屋敷あとに建てられた小屋に入れておかれた。
ろうじゅう
翌一三年(一七〇〇)五月二〇日に、江戸幕府の 老 中 の一人、阿部豊後守殿
に大聖寺藩の役人が呼び出され、吉右衛門を許すという幕府の命令が伝えら
さわきじろう ざ
れた。六月一四日に吉右衛門らを残らず江戸に帰らせて、幕府の佐脇次郎左
えもん
衛門へ送り届けた。
2
話しかけなくなった。平六とはそのようなおもしろい人物であった。
福田橋(『錦城名所』より)
大沢が通った中山道など、大聖寺から江戸への街道図
なぜ大沢をスパイと考えたか
ざいにん
おん
預かり人とは 、幕府か ら預けられた 罪人である。 この
みつ
うたが
文では預けられた大沢のことを、幕府が送り込んできた隠
密ではないかと大聖寺藩は 疑 った。実際に、幕府は隠密
を送り込んで、幕 府に さからう疑いがあ る藩 を多くとり
つぶしていた。
だいしょうじはんし
げじょ
では、大聖寺藩は大沢をなぜ隠密と疑ったか。それは、
『大聖寺藩史』によれば、大沢は、妻や子に親類や下女や
げ なん
下男までも連れてくる こと が幕府から許され てい て、罪
人とは考えられないあつかいだったからとしている。
3
いっぽうくんにっきぬきがき
し ょ け もんじょ
※ 町 野 酒 之 丞 … 『 一蓬君日記抜書 』
はたもと
(
『大聖寺藩の諸家文書(一)
』
)による
と、
酒之丞は三〇〇〇石の旗本であり、
げんろく
元禄一四年(一七〇一)八月五日に幕
くさり
府から預ける命令が出されたこと、町
野を 鎖 をかけたカゴに乗せて江戸から
ほうえい
九二名で大聖寺に連れてきたこと、町
野は宝永元年(一七〇四)五月二〇日
死んだことなどである。当時書かれた
ほんじん
この日記の方が日付は正しいと思わ
れる。
ちょくぞく
※旗本…戦いのときに将軍の本陣で戦
う将軍 直 属 の家来のことであり、直接
将軍に会うことができる武士。
まちのさけのじょう
二、預かり人の町野酒之丞
※まちのさけのじょう
としなお
としまさ
※はたもと
え
ど ばくふ
うねめ
町野酒之丞は将軍の家来である 旗 本 であった。この人は江戸幕府から采女
さま
様《三代藩主の利直の弟、利昌》へ預けられた人で、大聖寺町で病死したの
ばくふ
で幕府より調査の使いがあった。死体は調査まで塩づめにされていたが、調
べるときにはウジがたくさんわいて出て、においはひどいものであった。こ
ぜんしょうじ
の死体の調査は六月一一日だった。幕府が町野酒之丞を大聖寺藩の利昌様に
ほうえいがん
お預けされたのは宝永元年(一七〇四)五月だった。死後は大聖寺の全昌寺に
ほうむ
葬 ったので、そこには墓がある。
酒之丞を幕府からお預かりしている間、見はり番人が「どのような罪があっ
ばっ
てこのようになったのですか。」と聞いたら、酒之丞は「罰せられた理由は少
しもわかりません。しかし、私はいつも親子の関係がよくなかったので、こ
のことで罰せられたのだと思います。」といって、理由をわかっていない顔を
していたという。たいへん物わかりが悪い人であった。
4
三、農村の変化
ひゃくしょう
大聖寺藩は、 百 姓 たちが子供や兄弟たちに田を分けて分家すれば、所帯
かんぶん
とむら
(財産)が小さくなって良くないから、寛文六年(一六六六)一二月、村々
ぶんけ
の百姓たちに「今後は分家して田を分けてはならない」と、厳しく十村たち
に命じた。だが、この規則もしだいにゆるんで、近ごろではだんだん分家を
けん
し、以前は大きな百姓も皆、小さな百姓ばかりになった。
くろせ
黒瀬などは、以前は家が一七軒あった村だというが、今は増えて六、七〇
軒もある。近年の火災では半分以上焼けてしまったという家の数は四七軒ほ
どあったというのだから増えたものだ。他の村もこのようになっていると考
えられる。馬の数もたいへん少なくなったということだ。このように田を分
けて分家し、田がせまく貧しくなることを田分け《タワケ》というのである。
加賀藩では今でも田分けがあまり厳しくないと伝え聞く。
5
十 村
なぬし
やく
御収納蔵
こめぐら
ご しゅうのうぐら
お くら
この訳で米蔵とした藩の御 収 納蔵(御蔵)は、この
しょうや
にしぐら
かんぶん
せ ごえ お くら
江戸時代、幕府や大名は農民の中から庄屋(名主)など
お しお
し ちょうまち お くら
永町御蔵(四 丁 町御蔵)をはじめ、瀬越御蔵、山中御
くし お くら
ながまち お く ら
の役人を決め、それらを使って村を治めた。村ごとにおいた
蔵、串御蔵などがあった。永 町御蔵は、 寛文 九年(一
きもいり
庄屋(名主)という役人を、大聖寺藩では肝煎とよんだ。
六〇九)に小塩村から移されたもので、西蔵、 南 蔵、
みなみぐら
加賀藩や大聖寺藩ではさらに、その肝煎を支配する農民
たつ み ぐら
中立蔵、北蔵、辰巳蔵の五つからなっていた。
きたぐら
の役人として十村(十村肝煎ともいう)を決めていた。十
江戸時代も後半になる と、大名が家臣に領地 をあたえ
なかだちぐら
村は、多くの村々を支配し、農業の発展をすすめ、農民の
ても、あちこちの村か ら少しずつ領地をあた え、直接
とむら
生活を指導し、年貢を納めさせる役割をもっていた。十村
には支配をさせず、領地は形式的なものとなっていた。
みょうじたいとう
ねん ぐ
は農民であるが名字帯刀を許されることもあった。
そして、藩がすべての 村々の年貢をこの御収納蔵 に集
ねん ぐ
大聖寺藩では約一四〇の村を八組に分けて、五~六人の十
め、そこから家臣に米を分けあたえていたのである。
くみつき と むら
村に受け持ちの組を治めさせていた。これを組付十村とい
めつけとむら
う。他に組付十村を見張る目付十村が二人いた
6
永町御蔵付近(
『加賀市史・上巻』付録「天明六年大聖寺絵図」より)
ねんぐ
四、年貢を納める蔵
お し お むら
ながまち
かんぶん
昔、小塩村には年貢を納める米蔵があったが、寛文九年(一六六九)七月
しちょうまち
にその蔵を四丁町《今の大聖寺永町》へ移した。そのとき、蔵の長さを一〇
た け べきはちろう
おおつ
いちまんごく
間(一八m)つぎたして二六間にしたので、小塩では一六間の蔵であった。
たなかげんだゆう
田中源太夫と武部喜八郎の二人が担当して建てた。
五、百姓は米を食うな
かんぶん
寛文(一六六一~七二年)のころは毎年、大坂や大津へ売米は一万石ぐら
はんない
いだった。今から見るととても不思議だ。今の世では四、五〇〇〇石を大坂
かみがた
お こおりぶぎょう
などの上方へ送れば藩内の食べる米はなくなって、他国から移入しなければ
ならない。
なかがわひこさぶろう
このことについて、以前中川彦三郎が農村を治める御 郡 奉行であったとき
に、私たちは彼から次のように聞いた。その話というのは、「昔とはちがって、
百姓どもが米を食うことになってしまったからだ。私が伝え聞いたところで
7
は、昔は、百姓が米を食うということは年に二、三度ぐらいしかなかった。
ふだんは第一番にヒエをイリ粉にして食べ、他はいろいろとそまつな物だけ
ねだん
食べ物にしていたのに、今は一日に一度は他のものをまぜながら米を食うこ
しょう
とになった。私が若かったころはヒエをあちこちで作り、一 升 のヒエの値段
が二、三文であった。今は少しも作らない。だから、かえって値段が高くな
り、一升が一〇文以上にもなると聞く。食べ物が非常に粗末なものでは奉公
人《他家で働く人》はきてくれない。一人につき一日一合ずつ米を食ったと
すれば、領内の分は一万人として一日一〇石、一年分として三五〇〇石ほど
の米を食いつくす。」ということであった。
あんえい
この話を聞いたのは安永(一七七二~八〇年)のころで、これがしだいに
ぜいたくな生活になって、今は米をたくさん食べている。わずか百年ほどの
間に大きく変わってしまった。昔は町人もヒエ、アワ、麦などをまぜた飯だ
けを食べたと聞く。昔は一万石ぐらいの米を大坂や大津に売ったはずである。
農村に米が余るぐらいなら、すべて藩から上方へ売りに出さねばならない。
8
※イリ粉…ヒエをいって粉にしてから
練ったもの。
永町御蔵(
『錦城名所』より)
としあき
こうせき
※矢田野新田…二代藩主利明のときに
かみ や な い ぜんもりまさ
いぶりは し が わ
よこ
おこなわれ、家老神谷内膳守政の功績
ちょくし
さかえ だ に
とされる事業である。動 橋川の水を横
ぎた
北 付近から取り入れ、 勅使 、 栄 谷 を
や
た
の
通る約一二㎞の用水を作り、水のとぼ
し か った 矢 田 野 の 畑を 水田 に変 え た。
用水路を作るとき、トンネルがくず
むずか
れたため堀わりにするような 難 しい工
かみ や な い ぜん
事であったという。
もりまさ
もりまさ
※神谷内膳守政…神谷内膳といっても
守政とその子の守応がいる。ここに出
だ い しょう じ は ん し
てきた神谷内膳は『大 聖 寺藩史』によ
としあき
としなお
れば守政とされる。守政は三〇〇〇石
としはる
をいただき、初代利治から利明、利直
と三代にわたって家老をつとめ、藩の
政治を動かしてきた。
や た の しんでん
六、矢田野新田
※ や た の
ぶんぎょう
えんぽう
ひろはしご だ ゆ う
矢田野《今は小松市で 分 校 近く》の畑を新しく田に変えた事業は、延宝七
※かみやないぜん
み ぞ ろ いけ
く
ぼ
年(一六七九)一一月二七日、御家老の神谷内膳の指導により、広橋五太夫に
よって実測された。
すいさかやき
七、吸坂焼
じょうきょう
え
すいさかやま
やきがま
貞 享 二年(一六八五)三月に、京都の菩薩池という土地の出身である久保
じろう べ
次郎兵衛は吸坂山の土で焼き物を始めた。焼窯の場所はその下、大聖寺川に
かみかわさき
けんじょう
ぼだい
そってある上河崎村の土地に一部かかった。
ぼだい
としなお
八、菩提石の 献 上
えんつうこう
ぼだい
よこ め つ け
円通公《三代利直》が菩提《今は小松市で那谷寺より山側の村》の石を幕
けんじょう
へ
え
府へ 献 上 することになったので、菩提の石切山の切り出しを禁止し、横目付
こうやま じ
の幸山次兵衛が献上用の石を切り出し、江戸に送った。
9
矢田野用水
吸坂焼と伝えられる焼物
菩提石(菩提町)
蜂の巣のような穴が特徴
10
お う ま まわり や く
※ 御馬 廻番 所… 御馬 廻 役 は 戦いの と
だ のぶなが
き、馬に乗った大将を守る武士の役で
お
ひ と も
あった。 織田 信長 のときから武士は、
こしょう
身分の高い「 人持 ち」、大将の近くに
つかえる「 小姓 」、身分の低い一般の
う ま まわり
はん
「馬 廻 」と分けられた。その流れを受
け、
「御馬廻役」は藩の馬の管理をする
お う ま まわり ば ん し ょ
役となった。
け い ご
御馬 廻 番所 は御 馬廻 役が、 殿様 の
お や し き
御屋敷を 警護す る ため の 番所 で ある 。
おうままわりばんしょ
たか だ でん べ
九、御馬廻番所の事件
※おうままわり
え
御馬 廻 の番所で、高田伝兵衛が、気がくるって人を切りつけるという大き
ぶんげんちょう
はんし
な事件をおこした。これは宝永三年(一六七五)八月六日(実際には九月六
まん じ
日の誤りである)のことであった。
むら い との も
一〇、村井主殿
※むらい と の も 、
む ら い かく だ ゆ う
村井主殿は、万治(一六五八~六〇年)のころの 分
「 限 帳 《」藩士の身分を
わ
か
しょ
記した帳面》によれば、米五〇〇石取りの村井角太夫という名前であった。
れいぜいけ
そののち、一一〇〇石を与えられ、御家老になった。
きぞく
主殿は京都の貴族の冷泉家に入門して和歌をじょうずによみ、そのうえ書も
しょどう
じょうずであった。冷泉家から「主殿は和歌をよむことはへただが、書道は
とてもじょうずである。」とほめられたという。和歌や書は貴族の文化なので、
主殿は武士であるため下手であっても、この和歌については日本一の冷泉家
に良いとか悪いとかいってもらえるのは、めったにないすごいことであると
11
か が は ん
し そ ん
※村井主殿…加賀藩ができたころに活
む ら い ぶ ん ご か み ながより
げんろく
躍した村井豊後守長頼の子孫。本家は
加賀藩で元禄三年(一六九〇)から家
としはる
む ら い
老 を つ とめ 、 一万 六 五〇〇 石 で あ る 。
利治が大聖寺藩をつくるとき、村井
さ こ ん
左近が二〇〇石取りの家臣として利治
にしたがって来た。
よ う し
む ら い と の も
こ の 左 近 の 家 に 養子 と し て む か え ら
としあき
えんぽう
れたのが、この文に出てくる村井主殿
である。二代藩主利明のころの、延宝
は ん し ろくだか
む ら い かく
二年(一六七四)分の 藩士 禄高 (『加
賀市史上巻』の資料編)では「村井覚
だ ゆう
としなお
大夫五〇〇石」と書かれ、八番目に出
てくる。
彼は、
三代藩主利直に好まれ、
にぎ
藩の政治の実権を握った。
いう。
まさともりゅう
そうじゅつ
また、主殿は 正 知 流 の槍 術 の名人でもあった。主殿の槍術について書いた
ししょう
聞書があって、書物類を師匠に返すとき、この文書もそのなかにふくまれて
ふかまち げ ん べ え
いたようであり、のちにそれを深町源兵衛先生のところで、私も見せてもらった。
それは、きっと今でも深町家にあるだろう。この槍術を工夫して、キジをつ
えもの
くことを考え、多くの獲物をとったという。
ふじん
主殿はたいへんぜいたくな生活をし、寒い時期の夜は、年の若い婦人を横
にねさせて、その女性の腹へ自分の足をあててねたという。そのようにした
しちょうまち
のは、女性は暖かいものだからである。その婦人は四丁町の人で、長生きし
てこの話をしたという。私は、幼いときに婦人からこの話を直接聞いたとい
ひばこ
う者から聞いた。この婦人を「主殿どのの火箱《足ごたつ》」と皆がいったと
いう。
12
たけづつ
※ い づ な の 法 … 竹筒 の 中 に 入 れ て 運
べるほど小さな伝説のキツネによって、
いの
祈りやまじないをする術が「いづなの
法」である。精神の病気をキツネがと
り付いたためと考えて、このまじない
で治そうというのだ。
めいしん
江戸時代は、まだまだ病気をこのよう
な迷信で考え、まじないで治そうとし
ていた。
きつねつき
一一、狐 付
きつねつき
ざ えもん
まえかわせい ざ え も ん
※
もりおか し ん う え も ん
狐 付について不思議なことといえば、今の前川清左衛門という人の祖父の
や
.づ
.な
.の法」を守岡新右衛門
弥左衛門のことである。弥左衛門は、若いころに「い
こうかい
から習い、身につけて、一生の後悔をしたという。
.づ
.な
.の法」を学んで身につけたため、狐に取りつかれたの
弥左衛門は「い
を追い出してやることがときどきあったという。あるとき、岡村の百姓が「狐
がついたので追い出してください。」と頼んできた。弥左衛門は、「すぐに狐
を追い出す術を使って狐をやっつければ、狐を立ち去らせることができます
よ。」といった。しかし、なかなか狐付が治らなかったので、百姓は「うそで
しょうもん
しょう。」と弥左衛門を責めたてると、
「それならば 証 文 を書きましょう。こ
しょうこ
れを証拠として、一、二日は待ってみてください。」といって、証文を書いた。
その証文は、いまでも前川家が持っていて、私もこれを見た。証文を書いた
のに相手にわたさないなんて、訳のわからないことである。その百姓はもと
もと読み書きができなかった。これもおかしなことである。もっとも、一、
13
せいしつ
※南嶺院…将軍や大名には一人の正式
そくしつ
な妻である正室と、そのほか何人かの
側室とよぶ妻がいるのが普通であった。
藩祖利治には子が無かったため、二
としあき
なんれいいん
代藩主には弟の利明がなった。利明の
母は、利常の側室の南嶺院である。利
明が金沢から殿様になって大聖寺に来
じっしょういん
て、南嶺院を金沢からむかえた。母子
の墓は大聖寺の 実 性 院 にある。
な お 、 この 『 秘要 雑 集』の 解 説 で は 、
利治の母は南嶺院であると書いてある
が、
正しくは、
正室の天徳院珠姫である。
えつちゅう
二日たつと狐付はすっかり治ってしまった。
一二、富山城の焼失
しょうとく
とやまけん
正 徳 四年(一七一四)二月七日の夜、 越 中 《今の富山県》の富山城が火
こと
な た で ら
ふ ど う いん
災で燃えてしまった。この出火は足軽が見張りする足軽番所からであった。
なんれいいん
※なんれいいん
一三、南嶺院様の寄進
としあき
ふ
二代利明の母の 南 嶺 院 様が、琴を那谷寺の不動院《那谷寺のなかに二つある
き
寺のうちの東側》へ寄付された。
い おうじ
また、山中の医王寺《薬師》へは、その寺の伝説について書かれた巻物一巻
かんぶん
を寄付された。これは、寛文五年(一六六五)一一月一六日のことだった。
14
ふかまち じ
ざ えもん
一四、借金する貧しい家臣
なかざわきゅうべえ
やまもとしんぞう
こうのさんざえもん
おうままわりがしら
中沢久兵衛、深町治左衛門、山本新蔵、河野三左衛門の四人は、御 馬 廻 頭
《殿様が馬で戦うときに、まわりにいてお守りする役目の長》であった。
ある年、藩の家臣たちはたいへん生活が苦しく、年末になるとどうしよう
もなく困った家臣が藩からお金を借りられないかと組頭に頼んだ。組頭はや
むをえないこととして藩に願い出たが、御家老たちの寄り合いの決定では、
お金は貸してもらえないことに決まった。組頭たちは一度帰って話し合った
が、藩も財政が大変苦しいため、組頭同士でも意見が分かれて結論がでなかった。
くみこ
そうしているとき、久兵衛と治左衛門は、一七人の組子《組の部下》が困っ
ているのを放ってはおけず、二人は家臣がお金を借りられるよう強く願い出た。
か み や な い ぜん
このとき、御家老の神谷内膳は、
「いや皆はどうしてこのような不満をくり返
しいうのやら。このごろの藩の財政はとても苦しいので、どうにもならない。」
といいすてた。
かくご
すると、並んで座っていた二人は、中沢が深町の方を向き、「治左衛門は覚悟
15
せっぷく
されたか。」といった。治左衛門は「もちろんだ。」と答え、二人とも切腹し
かみしも
ようと着ていた上下の上をひき脱いだ。そのときの二人の顔つきや動作のい
きおいは普通ではなかった。話し合いのために集まっていた御家老たちは、
その様子を見て皆おどろいた。神谷は、とりあえず「皆がそこまで真剣だと
は思わなかった。しばらく静かに待っていなさい。今、殿様にお聞きする。」
16
といってすぐに立った。二人はこれを聞いて、そのまま身動きもせずに座っ
上下の姿
ていると、間もなく内膳がもどられ、「殿様が皆の願いどおりでよいといわれた。」
と伝えた。
かみしも
それから二人は無言のままひかえの部屋にもどった。そのまま二人は大き
くあぐらをかいて、
「皆様許してくださいよ。死にぞこないの私たちを。切腹
する覚悟があったのにできなかったことを思うと、死ぬということは大変難
たた
しいことだと思うよ。肩がこってしょうがない、部屋係の坊主よ、肩を叩い
てもんでくれ。」といい、大きく息をついた。
かみしも
それから二人は、家来が着がえるための上下を家から早く持ってくるよう
に坊主に伝えさせた。すぐに着がえて寄り合いに出て、
「先ほど殿様の許可が
うけ
でたときは、服装が乱れていたのでお請の返事ができなかった。ただいまは
服装を正したのでお請け申し上げます。本当にありがたいことです。」といっ
て、すぐに、生活を救ってほしいと願い出ていた人々に使いを出して、願い
がかなったことを伝えた。
しばらくたって、願いがかなった人たちは、中沢たちが御家老たちに、命
をかけて願い出た様子を伝え聞いて、とてもありがたく思った。そこで相談
して中沢たちの所へやってきて、「切腹を覚悟してまでお願いしたことも知ら
17
ずに、これまで簡単なあいさつしかしていませんでした。」とあやまった。
二人は、
「それは皆さんのひどく間違った考えだ。けっしてみなさんだけの
利益だとは思ってくれるな。すべて殿様への奉公である。詳しくいえば、み
なさんは代々、殿様の家臣である。わずかのお金に困って生活がいきづまり、
めいよ
名誉を失うようなまちがいがあってはならない。金銀は手に入れやすいもの
こうかい
だ。しかし、大切なみなさんを一人でも傷つけておいては、あとで後悔して
どれだけ金銀をつんでも、もう得ることができない。このことを考えると、
あなた方もしっかり考えて、思いちがいがないようにしてもらいたい。みな
さんの名誉をきずつけるということは、また、殿様の名誉もきずつけること
なのだ。このことはとても大切なことで、決して自分のことと考えてあいさ
つしてはいけない。」と話したという。
18
か
こ ひこのしん
※加古家の事件…加古彦之進が家来を
いっぽうくんにっきぬきがき
げんろく
切 る 事 件 は 、『 一蓬君日記抜書 』 に も
出てくる。姓は賀古とあり、元禄九年
ぞう り
と
(一六九六)七月一四日に事件はお
ごんない
くちごた
こったと記録している。また、草履取
ほうこうにん
りの権内が口答えし、手向かったから
おこったとしている。
ぶ れ い
※ か こ ひ こ の しん
こ またろく
ひ こ の しん
一五、加古彦之進の家来殺害
か
た か お や こ
ざ えもん
加古又六の息子・彦之進は、二五〇石取りの家臣で、今の高尾屋小左衛門の
けん
あるじ
屋敷の所に住んでいた。(高尾屋は福田橋をこえた左側で二軒目にある。)そ
としなお
お や し き
のころ、又六は藩の仕事を子にゆずっており、彦之進が家の 主 だった。これ
えんつう
は円通公《三代利直》の時代で、藩の御屋敷の台所の世話をする役目につい
ていた。
あるとき、彦之進の父・又六に仕えていた女が寺に参りに行って、まだ帰
た
かさ
.っ
.く
.り
.《女性用
らないうちに雨が降り出してきた。又六は家来をよんで、ぼ
げ
の下駄》と傘を持っていけといいつけた。そのとき、家来は「わたしは彼女
の家来ではないので、彼女のぼっくりは持っていきません。」といい、いいつ
う
わきざし
ぬ
けを聞かなかった。そのほかにもひどいことをいったので、又六はしかたな
て
く手討ちにしようと脇差《小刀》を抜いたとき、どうしたことであろうか。
自分の顔に少し傷がつき、血が出てきた。家来はそのすきに逃げ出してしまった。
このとき、彦之進は水で体を洗っていた。さわがしい様子を聞いてすぐに
19
江 戸 時 代 は 、 主 人 が 家 来 や 奉公人 を
無礼だと思えば、切ることも許される
世の中であった。
ぼっくり
それをやめ、ゆかたのまま外に出てみると、又六のおでこから血が出ていた。
や でんじろう
きっと家来が父親にけがをさせたのだと思い、そのまま家来を追いかけた。
き
今の木屋伝次郎の家の前まで追いかけていき、家来が町人の家に逃げ込もう
としていたところを切ってしまった。
そののち、彦之進は江戸にある大聖寺藩の屋敷で仕えてから大聖寺に帰っ
あおう
てくる途中、粟生《能美市の手取り川ぞいの村》というところの河原にて落
な
馬して死んだ。河原でカミナリが大きく鳴っていたので馬がおどろき暴れて
落馬したのだという。子供がいないので、家をつぐ養子をもらう許可を殿様
に願い出た。
しかし、円通公《三代利直》は、
「彦之進には実の子があるのに、どのよう
な事情を考えてよその家の子をあとつぎにたてるのだ。」
といい、
あやしく思った。
加古の家族や一族たちはいい訳ができなかった。それで、家や地位を受けつ
ぐ人も決められず、藩士としての家ではなくなった。
あとになって聞いたことには、彦之進には妻ではない女性に産ませた子ど
20
まつもとそうはく
もがいた。藩内のだれもこのことを知らなかったという。この子は、このと
つ ち だ せい う え も ん
あしがる
まつもとそう う え も ん
き土田政右衛門の家で働いていた。のちに松本宗伯という名前になって、藩
ざつよう
くみがしら
まつもとしげ じ
の御屋敷で雑用係の坊主や足軽として仕え、また松本惣右衛門という名前に
おかち
う
ぼうれい
なって御徒《下級武士》の 組 頭 にまでなった。なお、惣右衛門は松本重次の
よう ふ
養父である。
て
うわさによれば、彦之進が手討ちにした家来の亡霊が、カミナリとなって
彦之進を殺したという。つまり、粟生の河原でカミナリが鳴ったとき馬がお
どろき、落馬して死ぬことになったという。
21
武家の跡継ぎ
だんぜつ
やしき
大名や藩士はあとつぎがいなければ家は断絶となる。つまりは、大名や藩士の家でなく
ようし
ひ こ の しん
なる。そのため残された家族などは、領地やあたえられた屋敷を失ってしまう。さらには、
こ
その家の家来も失業してしまう。
か
加古家の場合、この養子があとをつぐことを殿様が認めなかったので彦之進の家は断絶
した。この時代、家臣としての地位や領地をつぐことには主人の許可が必要だったのだ。
としのり
としみち
大名も主君である将軍の許可を得てあとをつぐことができるのだが、大聖寺藩では断絶
の危機があった。一二代藩主利義が急に死んで、あわてて加賀藩から利行を養子にして大
聖寺藩をつがせようとした。
しかし、養子となった利行は幕府へ家をつぐ願いを出す前に、また急に死んでしまった。
ひっし
このままではあとをついだ殿様はおらず、殿様がいなければ、そのあとつぎの養子もむか
えられない。お家は断絶となる。家臣たちは必死で利行が生きているように見せかけて、
とし か
死んでしまった利行が大聖寺藩前田家をつぐという許可をもらった。
そして、金沢から弟の利鬯を、生きていることにしてある利行の養子に迎え、あとをつぐ
許可をすぐに幕府から得た。
22
たきやすのじょう
一六、滝安之丞の家来殺害
たきやすのじょう
けびょう
滝安之丞の家来は前々から心がけの悪い人物で、体の具合が悪いなどと仮病
う
で休み、家ではお金をとって米つきなどしているという。このような悪い者
て
じ
だ い ど う じ ばん う え も ん
は手討ちにしたいところだったが、このころ安之丞は病気で仕事をやめていた
お
ので、叔父の大道寺伴右衛門にたのみ、
「あなたには思いがけないことでしょ
つ
や まち
じ
し まち
うが、家来の家へ行って、家来を切ってください。」と言った。
み
もも
この家来の家は今の三ツ屋町《大聖寺の地子町》にあったという。伴右衛門
はかま
は承知して家来の家へ行った。入口の木戸のあたりからソロソロと 袴 の股の
あたりを持ち上げながら行ったそうだ。これを見た人はあやしく思ったが、
ふ
三ツ屋町へ入ったと思ったとたんに切り伏せて、家の入口であおむけにして
とどめをさしているのを、付近の人たちが見てこわがった。このとき、伴右
衛門は安之丞の家来が米をついていたところを声をかけて切りふせたという。
23
やまぐちげんば
一七、山口玄蕃の石塚
ほっかいせんせい
げんば
ま え だ としなが
ながひろ
つか
の
み えぬまたいじ
北海先生が考えるには、「前田利長様が大聖寺を攻めた記録の
『能美江沼退治
ききがき
聞書』に、山口親子《玄蕃・修弘》の塚は福田橋の左右にあると書かれている。
くびづか
大聖寺の老人のいい伝えでは、今ある石の塚を山口親子の首塚であるという
が、それがこの記録の塚のことだ。『聞書』に道の左右と書いてある記事は、
も
親子を分けて左右に作ったように見えるけれどもそうではないだろう。土を盛
ほうむ
のきした
った墓一つに親子をいっしょに 葬 っている今の場所であることはまちがいな
いだろう。」とのことだった。
たなかやろくざえもん
これは、今の田中屋六左衛門のとなりにある屋敷の後ろの軒下にある。は
しゅっか
じめはここに大きな松の木があった。この松は、田中屋六左衛門の家から出火
した火事のとき燃えてしまった。
ほりえでん う え も ん
た
以前には、この場所に堀江伝右衛門が住んでいたという。
(伝右衛門は米二
おうままわり
五〇石取りの家臣で、御馬廻の役をしていたが、同番所でケンカして家は絶た
れた。)この人が住んでいたときは、その塚に大きな松があって、この松を庭
24
山口玄蕃の首塚(全昌寺)
めいにち
に取り入れて、周りより一段高くして、毎年七月は《山口親子の命日として》
あか
灯りをともされたという。当時はそのようであったが、いつのころからか商
人の土地になって、軒下になんでもないような石を数十個集めて置き、山口
親子の墓という名前だけになった。もちろん、墓の場所は商人の土地であっ
て、藩の土地ではなかった。このことは、私たちが二〇才ぐらいのときに行っ
じっしょういん
じゅうしょく
れい
こふん
25
実 性 院 の 住 職 に命じて、この盛り土の墓の場所でお経を読んで親子の霊を
さく
なぐさめた。このときから藩の土地となり、今は簡単な柵をつくって古墳の
ようにも見える。
山口玄蕃頭宗永公御堂(大聖寺福田町)
て見たことだ。そののち、山口親子の二〇〇回の命日をむかえるとき、藩は
山口玄蕃霊地碑(全昌寺)
とよとみひでよし
山口宗永の滅亡
豊臣秀吉が亡くなる直前に秀吉から江沼郡を領地としてあたえられ、錦城
やまぐち げ ん ば むねなが
とくがわいえやす
山に城をかまえていたのが山口玄蕃宗永である。秀吉の死後、豊臣を守ろう
い し だ みつなり
せきがはら
とする石田三成を中心にした大名と、天下取りをめざす徳川家康を中心にした
けいちょう
大名が 慶 長 五年(一六〇〇)に関ヶ原で戦った。
ま え だ としなが
このとき玄蕃は石田方につくが、能登、富山や金沢を支配する前田利長は
せきどうざん
徳川方につき、利長は大聖寺の錦城山にこもる玄蕃親子を攻めた。玄蕃の子
ながひろ
の修弘は錦城山から石堂山の利長を鉄砲でねらうなどしてよく戦った。
しかし玄蕃方は一二〇〇人で二万五〇〇〇人の前田方には歯が立たず、玄
蕃親子は自殺して戦いは終わった。その玄蕃の墓が玄蕃塚である。
勝った利長はこの手がらとして、家康から江沼郡などをあたえられ一二〇万
石の大名となった。
26
大聖寺藩領の西部(上)
三谷
熊坂
宇谷
柴山潟
大聖寺藩領の中央部(中)
山代温泉 吸坂 大聖寺
天日
作見
動橋
那谷 矢田野
大聖寺藩領の東部(下)
勅使
片山津
粟津 島
27
林
きりしたん
一八、最後の切支丹
きりしたん
伝え聞くところによれば、切支丹《キリスト教信者》の一族の者はキリス
ト 教 から 仏教 に改 めたあ と も、 子孫 三代 までは 藩 でも きび しく 調べて い て 、
お お の じ ん べ え
し へい
病死したときは幕府まで報告することになっていた。以前、この大聖寺藩の
あしがる
領内でも、足軽の大野甚兵衛と百姓の河崎村の四平という者が切支丹の一族
げんろく
やまかわ さ
じ
う
え もん
か み や ないぜん
であった。元禄八年(一六九五)一〇月一三日に大野甚兵衛が病死し、足軽
わりば
し
しゅうもん ぶぎょう
まつばら か と う じ
などの仕事割り当てをする割場の山川佐次右衛門は、御家老の神谷内膳に届
と
こ づ か じゅう ざ え も ん
け出た。そこで、切支丹などを取り 締まる 宗 門 奉行 の松原 嘉藤次 、同奉行
お めつけ
かん
を補佐する 御目付の 小塚 十 左衛門 らが甚兵衛の家へ行き、死がいを見てた
ほうむ
しかめたうえ、当番の足軽の三人にまかせた。三人は死体を洗い清めて棺に
ほんこうじ
かん おけ
入れて、本光寺《大聖寺神明町》に移して 葬 った。そのときも宗門奉行な
まいそう
こく
と
どが立ちあい、 埋葬するまで見とどけた。 棺桶 は高さが三尺(九〇㎝)、直
しお
径が二尺一寸(六三㎝)で、塩を一石五斗(二七〇ℓ)つめ込む大きさだった。
ひきゃく
江戸の幕府へは、急ぎの飛脚でそのことを届け出て、その間、昼も夜も足軽
28
が 交 代で 見は った 。藩士 で は、 この 甚兵 衛が切 支 丹と して は最 後であ っ た 。
いながきげんぱち
百姓についても、河崎村の四平のあと切支丹はいなくなった。
ごうじょう
としなお
一九、 強 情 な稲垣源八
えんつうこう
たつじん
円通公《三代利直》の時代に稲垣源八といって、藩から三〇〇石くらいの
いながき せい ざ え も ん
しゃっきん
兄の稲垣 清左衛門に、いつも年末に 借 金 をねだっていた。ある年、また借
金をねだると、清左衛門は、「おまえは毎年このように申していてはいけな
い。もともと収入につり合わないぜいたくのせいだから、以後は必ず生活を
えんじょ
つつしめ。そうでなければ今度の願いであっても援助はしないぞ。」といった。
そのとき源八は、「ごもっとものことではあるが、私はそのぜいたくが好き
なのだから、難しいことをいわないでくだされ。そのぜいたくをしなければ、
このように正座して頭を下げてお願いする必要もない。ぜいたくをやめなけ
れば援助していただけないのか。よ~し!決してお金は借りない。」といっ
29
米を与えられ、たいへんぜいたくな人がいた。弓の技術は達人だったらしい。
旧大聖寺川(大聖寺福田町)
※てんから…「てんから」とは三本の
針をイカリのように組んだ針である。
「てんから」というこの釣り針に糸を
つけサオの先に取り付けて槍のように
水中に突きこみ、
魚をひっかけてとった。
て、援助してもらったお金や米を全部返してしまった。このように、源八はた
いへん気ままな人だった。
※てんから
あ る とき 、ふ とサ ケ を 天 唐 で 工 夫し て、 毎年 サ ケが 川 に上 って 来る こ ろ
に ひ っか けに 行っ ていた が 、三 年の 間は かから ず 、四 年目 に一 本かか っ た 。
もうこれで良いと思い、二度とサケかけに行かなかった。このように、源八
は根気の強い性格の者であった。そのかけ場を一か所に決めて、よそへ場所
げんぱち やなぎ
を変えることはなかった。今の「 源八 柳 」という所である。この稲垣とい
う人物の名前から付けられた地名だという。
けんち
わん
30
ひっかかったあとサオから
「てんから」
針ははずれ、
つけられた糸で釣り上げた
もの。
まなごむら
たいへん口の悪い人だったらしい。のちには、役人をやめさせられた。
まなごむら
として藩に治められるようになった。
くるのを見て、人が住む家があることを知って尋ねて行き、検地を行い、村
たず
大聖寺川の上流で山中の奥深くにある真砂村は、川上から古い椀が流れて
二〇、真砂村
てんから
たか が
※鷹狩り…鷹狩りは、野山でワシやタ
うで
カを使って小動物や鳥をつかまえるも
え も の
のである。
タカを腕 にとまらせておき、
獲物をねらって飛び立たせてとる。江
戸時代の将軍や藩主など上級の武士が
たかじょうまち
鷹狩りを楽しんだ。
大聖寺に 鷹 匠 町 の名が残っているが、
鷹匠とはタカを訓練し、世話をする人
である。
しょだいとしはる
二一、初代利治の鷹狩り
じっしょうこう
※たか
ふかまちまごいち
実 性 公《初代利治》が、あるとき、 鷹 狩りに出かけられ、深町孫市がお
供した。殿様がとても大切にしていたタカを孫市に世話をさせたとき、タカ
が逃げてしまった。実性公はとても不愉快になり、「おのれ孫市め。」とにら
あぜ
みつけ た。 孫市は タカ を元に もど そうと 、田 や 畔 の区 別なく 追い かけ たが、
お や し き
タカは空高く逃げて行った。実性公はおこったまま、すぐに御屋敷に帰られた。
つか
てんじん
孫市は一人になって、とにかくタカを捕まえようとしたけれども、けっきょ
しきじ
く捕まえられずに帰る途中、敷地の天神様《石部神社》へ行った。心をこめ
てお願いしたから天神様は願いを聞きいれてくださったのだろうか、そのタ
カが天神の庭の松の枝にとまって鳴いていた。そのまま孫市は庭に飛び出し
きざ
て、タカをうでにとまらせた。彼は、天神様のありがたさを心に刻みこんだ。
このことがあってから、深町家では毎年正月一〇日に白旗一二本を敷地の天
神様に感謝の気持ちを込めて納めたという。
31
二代藩主利明の墓(実性院)
としあき
二二、武士の養子縁組
だ い き こう
大機公《二代利明》の時代までは、実の子がいない者が病死したあと、そ
の妻の願いによって養子を迎え、家をつがせることができたという。このと
きは理由を書くということはなかった。病死以外での、死後の養子縁組には
せ じんぐう
理由書きがいった。子どもがいない者が他国へ行くときには、養子をたてる
い
やまかわそう ざ
え もん
理由を書いて藩にさし出すことが必要であったという。例えば伊勢神宮へお
参りなどのとき、行き先で病死したときのためだ。
やまかわきよ の じょう
このような理由書きは、山川清之 丞 より始まった。この人は山川惣左衛門
た
のことだという。清之丞は子どもがいなくて家系が絶え、妻もいなかったの
で、養子を願う者がいなかったからだ。妻でなければあとつぎをたてるため
の養子を願い出ることはできない。
32
い ご
しょうぎ
じ
ざ えもん
二三、囲碁・将棋をしない深町家
ふかまちまごいち
深町孫市のせがれ、治左衛門が一二、三才のころ、治左衛門の家で友達が
しょうぎ
将棋をさしていた。一人の者が一方に助言をしたので他方はゆるせず刀をぬ
むす
い て 切り つけ た。 相手は 刀 のつ ばの 所を 手で受 け 止め て切 られ なかっ た が 、
まげ
少し傷は ついた 。この とき、治 左衛門 は 髷 を 結 ば せながら 見物し ていた が、
後ろからだき止めた。それで、ケンカにならずにすんだ。そうしている内に
親の孫市も仲直りさせようとしたが、「とにかくゆるせない。」と大声で悪口
をいった。それで親のところへ送り届け、ことは終わったが、あとでこのこ
しょう ぎ ばん
とが殿様の耳にはいり、殿様は争った両人の子供をしばらく他国へ行くよう
ご
命じた という 。その 二 人の名 前は知 らない 。 孫市は その 将 棋 盤 を打 ちこわ
い
して、二度と囲碁や将棋をしてはならないと、せがれの治左衛門をいましめた。
今でもその家では囲碁や将棋は禁じていると聞く。
33
いのくち
※井口村…現在の粟津小学校付近の地
名である。この南、約一㎞に「牧姫の
塚」があり、土地の人は蝉丸の墓とも
言い伝えている。
せみまる
知る
※蝉丸…蝉丸とは、
百人一首にある
「こ
おうさか
れやこの行くも帰るも別れては
も知らぬも逢坂の関」という歌の作者
である。しかし、蝉丸については言い
伝えが多く、どのような人物であった
かははっきりしていない。墓について
も ど こ にあ る かは っ きりし て い な い 。
せみまる
※いのくちむら
二四、蝉丸の墓
あわ づ む ら
やしき
※せみまる
粟津村の隣の 井 口 村 というところに、平安時代の和歌の名人である 蝉 丸 の
かろう
墓がある。そこから北の方に蝉丸の家老の屋敷あととよび伝えられる場所が
とし なお
お う ま まわり
ばんしょ
ある。人々はどのような理由があってその よ う に い い つ た え た の だ ろ う か 。
きゅう べ え
二五、中沢 久 兵衛
えんつう こう
大聖寺町が火災にあったとき、円通 公《三代 利直 》は 御馬 廻 の 番所の前
さしず
え
ながや
まで出られ、いろいろ火を防ぐ指図をされた。御馬廻組の者はすべて番所の
前に出ていた。
きゅう べ
このとき、円通公は「 久 兵衛、久兵衛。」とお呼びになった。「長屋 の上
こ
には火の粉がたくさん降ってきているが、屋根の上にいる防火の人数が少な
い。御馬廻組の若い者たちを屋根に上らせて火を防がせよ。」と御馬廻の者た
ちにいわれた。組頭は「皆の者、殿様の命令である。屋根へ上れ。」といい、
御馬廻の者たちはその準備をした。
34
蝉丸の墓とも伝えられる牧姫塚
そのとき久兵衛は大声で、「久兵衛の組の者は一人も屋根に上ってはいけ
ない。」といった。円通公はこれをお聞きになって大変おいかりになって、
久兵衛をお呼びになり、火事の場所なのであわててお言葉も十分でなかった
が、ただ「おのれ久兵衛、どういうつもりだ。」と、腰の刀に手をかけられた。
久兵衛は殿様の前にひれ伏し、「お殿様のためにならないことを、この久兵
衛はいたしません。ただ今この場では考えを申し上げられないので、どうか
お許しください。この久兵衛、逃げもかくれもいたしません。火事がおさまった
かたがた
ら、本心をお話しいたします。」と辺りを見まわし、
「お殿様の世話をする方々
よ、お殿様のごきげんがよろしくなるように頼みます。」といい、またもと
へいぜん
の場所へ戻り、平然としていた。
さ て 、火 事も おさ ま った の で、 殿様 は「 約 束通 り 、そ なた の首 を とろ う 。
何か理由があるのか。」とおっしゃった。久兵衛が申し上げたことには、「そ
れはお殿様がまちがったことを命令されたからです。そもそも生まれたとき
から首はお殿様に差し上げていたので、今更のことではございません。あらた
35
めてお約束などするまでもございません。思ったとおりになさってください。
もっとも、とりわけおいかりを持たせてしまったので、ただ今は死ぬ覚悟を
きよ
しているので、もはや体を清めるだけでございます。」といった。すぐに身
をととのえてすぐに殿様の前に久兵衛が出て来た。直接にお会いした殿様は、
「先ほどは本心を申すといったが、聞いてやろう。」とおっしゃった。
久兵衛が申し上げることには、「私の組の者たちは戦いの先頭に立って戦
う組であって、消防を任務とする者ではございません。この火事の混乱を利
用して、どんな思いがけないこともないとは申せません。殿様をお守りする
のが私たちの組の本来の仕事であると心得ております。さて、また私の組の
者たちは武芸はいたしますが、高いところでの仕事はしたことがないので、
ておけ
手桶などを持って屋根へ上っては、役に立たないだけでなく、混雑したなか
で、いろいろの人々に対して無礼があるかもしれません。そのときは刀を抜
いて切ってしまうことなどの心配があります。そんな訳で、火消しに慣れた
じゃま
者にとっても邪魔になり、かえって役に立ちません。また、燃えてしまった
36
お や し き
ところが、大きいところがお殿様の御屋敷、小さいところが長屋というよう
なちがいは、たいしたことではございません。私の組の者よりは、高いとこ
ろでの仕事に慣れている者、大工などは、身分が私の組の者よりしたですが、
十倍役に立つでしょう。もしまた侍たちが屋根から落ちて死んだとなると、
めいよ
名誉が傷つけられるでしょう。このような考えなので、どのようにお命じに
なられても、私の組の者は屋根に上げませんでした。」ということだった。
円通公《三代利直》は「お前が立場を忘れて命令にそむいたなどといった
が、今日はお前のいうことに負けた。お前の申すことはもっともである。」
ばい
とおっしゃり、殿様の近くに仕える者に、久兵衛に酒と肴を出すように命じた。
さかずき
「ありがたくちょうだいいたします。」といって、久兵衛は 盃 三杯を飲んだ。
さらに、「もっと食べよ。」と殿様が強くすすめたとき、「藩のきまりに、殿
様からの盃は三杯をこえてはならないとございます。これ以上お殿様の前で
いただいては、お殿様も私もきまりを破り、この久兵衛は組の侍たち者に何
もいえなくなります。」と久兵衛はことわった。
37
きふる
かみしも
殿様は、また久兵衛にいいまけた。ならば上下をやろうと殿様はお考えに
かみしも
なり、物置から殿様の上下の着古しを一組出させた。それをご覧になり、
「そ
れは古いぞ、新しいものをやれ。」と命じた。これを久兵衛は聞くと、ムッ
ちぎょう
クと頭を上げ、
「私にとって多すぎるほどの知行《土地》をいただいており、
かみしも
その上、上下もいただくなどできません。お下がりであるからこそ、ありがた
いっしょ
くちょうだいいたします。」といった。殿様は、またいいまけたと、着古した
はおり
方をそのまま久兵衛に下された。そのとき、殿様は着ていた羽織をぬいで一緒
に下さり、そこで着なさいとお命じになったので、久兵衛は、「重ね重ねあ
りがとうございます。」とお礼申し上げて、殿様の前からさがった。
隣の部屋に行くと、他の家臣たちはみな喜んで祝ってくれた。そこで久兵
かみしも
衛は、「それではみなさん見てみなさい。こんな古い羽織や 上下を、領地に
代えてもらってしまいました。」といった。殿様はこれをお聞きになると、
大笑いなさったということだ。
38
前田家の菩提寺 実性院
大聖寺藩主
きゅう べ え
じ ざ えもん
二六、中沢 久 兵衛と深町治左衛門
ほっかい せんせい
なかざわ きゅう べ
え
ふか まち じ
ざ えもん
北海先生が老人から聞いた話だが、昔の中沢 久 兵衛や 深町 治 左衛門など
は生まれつきこっけいな人で、いいたいことをそのままいっても少しも人の
おもしろ
気分をこわすことがなく、かえって面白くこだわりのない人であった。身分
や年令や家柄の区別なく誰とでもつきあいがよく、どのようなところへでも
つつし
招かれて、多くの人と親しくしたという。そのため、えらそうにせず、いわ
としなお
れた言葉を手本として守ることができ、慎 み深さを学ぶことができる人だった。
えんつうこう
こういう訳で、円通公《三代利直》の時代に厳しい命令があったころも、二
人は害を受けずにすんで、家を存続させた。そうであろう。このことについ
て、最近の人で彼らのような人がいないかと見てみると思い当たることがある。
39
二七、山井甚右衛門
めいわ
とし あき
くみがしら
やまのいじんうえもん
最近のことで、明和(一七六四~七一年)のころ、山井甚右衛門という者
こうげん こう
せんぱい
は、高源公《六代 利 精》に仕える家来で、 組 頭 もかねていた。強いなかに
しんせき
もおもしろい性質の人であった。私たちも親戚だったので親しく、特に先輩
だったので、ためになる教えもありがたく受けていた。昔の話も色々聞くこ
とが多かった。
この人はたびたび殿様のまちがいをご意見申し上げ、そのほかには重臣た
ちにも、彼らのまちがいを正すため大きなことをいい、その場にいる皆をお
どろかせるほどであったが、殿様をはじめ皆は少しも気を悪くすることなく、
そうじゅつ
実に不思議な人だった。老いた人とも若い人ともよく付き合う人で、特に若
まさともりゅう
い人を好み会合した 正 知 流 の槍 術 をすべて学んで身につけて、年はとった
が道場へ出て練習をなまけることはなかった。武器に関心が強いことなども
あった。武芸としての実用をとても大切にする人であった。
40
『秘要雑集』に見られる武芸の流派
兵学
剣術
山鹿流
山鹿甚五衛門素行が唱えた軍学。
諸侯、武士の入門が大変多く、全国に広まった。
中条流
大聖寺藩における祖は山崎甚兵衛である。
日下流
『大聖寺藩士史』には「日下部流」とある。
新陰流
上泉伊勢守信綱が、愛洲移香斎の始めた
愛洲陰流に自らの工夫を加えた剣術の流派。
小笠原流
『秘要雑集』では、穴沢流の技を取り込んでいるとあるが、
詳しくは不明。
長刀
穴沢流
『秘要雑集』には、能の「橋弁慶」の義経と弁慶の対決の
場面では、弁慶がこの流派の技を使ったとされている。
原田流
大聖寺藩では、元禄時代に藩士村田八右衛門が
この流派の槍の達人であり、師範であった。
正知流
島田与三郎という浪人が大聖寺に来て教えた槍術の流派。
与三郎の実名が「正知」であったため、正知流、または正智流という。
風伝流
大聖寺藩における祖は中村助六である。
槍術
五ノ坪流
山田正久という浪人が大聖寺に来て道場を建てて教えた槍術の流派。
41
えもりしち べ え
え
二八、江守七兵衛
えもりしち べ
さん ざ え も ん
すぐ
江守七兵衛は今の三左衛門の家の先祖であって、そのころは藩から米二〇
え
〇石を もら う家臣 であ ったと いう 。この 七兵 衛は 優 れ た人物 だっ たと いう。
なかざわ きゅう べ
あの中沢 久 兵衛と仲が良く、いつも行き来をしていたが、久兵衛もこの七
兵衛には負けぎみであって、少し頭が上がらないという。
かき
あるとき、久兵衛は家来をこらしめて、屋敷の柿の木にしばりあげたので、
久兵衛の妻は家来のわびをいったが、久兵衛は許さなかった。そこへちょう
ど七兵衛がやって来た。そのとき、気分がすぐれなかったので、十分に問いただ
すこともせず、また妻が家来のわびをいったので、何事だと七兵衛は聞いた。
久兵衛が「こういうことだ。」といえば、七兵衛は「それは当然です。その
者を私に下さい。このような嫌な気分をまぎらわしてあげましょう。私がも
らいうけましたぞ。」というやいなや立ちあがって、「その者はどこにいるの
か。」といいながら行った。その様子は成敗しそうな勢いだったので、久兵
衛はおどろき、「七兵衛、家来は差し上げないぞ。」と声をかけたが、七兵衛
42
、
せいばい
は聞こうともせず、刀をゆっくりとぬきかけなどして行った。久兵衛はもう
と
耐えられず、追いかけて止め、「どうかやめてくれ。あの者に成敗 するよう
つ
な罪はない。ほんの少しこらしめてやっていたのだ。」といった。すると七
お
兵衛は立ち止り、「そうならば早く下ろしてやりなさい。しばって木に 釣り
したう
上げるほどなら、きっと成敗する者だと思ったのです。軽い罪に似合わない
ばっ
罰し方だな。ああもう。」と一人舌打ちをして席についた。久兵衛はそのま
なわ
いんきょ
ま他の家来にいいつけて、木にしばりつけた家来の縄をとき、許したという
ことだ。
さかもとうんぱち
さ へい じ
二九、橋本雲八
はしもとうんぱち
橋本雲八は佐平次の実の父だ。長生きして仕事を子供にゆずり、隠居暮ら
としみち
しであった。大きな体の坊様のようだったのを、私が幼かったころ見ておぼ
けん しょう こう
えている。聞いたところでは、この人は顕 照 公《五代利道 》がお若かった
ようすいぶぎょう
ころに用水奉行を長い間務めいて、仕事で大きな功績があった人だという。
43
う
笑い話ではあるが、そのころ、大昔の中国の伝説の王の禹が水をうまく治めた
という話を雲八に当てはめていったほどだ。性格は気が強い人で、他人に対
ご
していい負けることが大きらいであった。
い
ある日、雲八は若い人たちと囲碁をしたが、雲八は囲碁がへたなので全て
負けてしまった。終わって彼がいうには、「皆さん若い方々よ。かわいそう
は
に、囲碁が強いことですな。世のなかのことがわからない人にかぎって、囲
しょうぎ
碁や将棋はきわめて強いものなので、強いことを恥ずかしいと思いなさい。」
といったらしい。
またあるときには、「田にいるシギという鳥は、くちばしが細長いから虫
を食べるのか、また虫を食べるからくちばしが細長くなったのか。私はこの
ことが分からない。」といった。このようなことをよくいう人だった。以上
ごうじょう
のようなことはすべて 強 情 な性格から出たことだ。
44
としみち
三〇、河野三左衛門
けん しょう こう
こうのさん ざ え も ん
顕 照 公《五代 利道》の時代の 河野三左衛門は、戦いで先頭に立って戦う
お せ ん て も の がしら
御先手物 頭 にまでなった。性格は短気なうえ、何だかんだと非難する人で、だ
れかが少しでも軽はずみなことをいうと、その言葉が終らないうちに、すぐ
に一つ一つを非難した。そのため、世間の人々は、彼のことをするどいトゲ
ありどおし
を持つ木の名前である「 蟻 通 と」呼んだ。
てんから
初秋のころのある日、天唐でハヤという魚をかけようと、人々は川岸に生
やまざき か な い
えるヤナギの木の間にいて、魚をねらった。山崎嘉内の場所は、三左衛門の
隣の場所であった。しかし魚が少ないと、河野は川の向こう岸へ場所をかえ
てしまった。嘉内はこのことを知らないで、きっと遠くはなれた所へ河野が
ありどおし
移 っ たと 思っ て、 近くに い る人 々に 「さ て、隣 に 蟻 通 の神 様が いな くなっ
ご
へ
え
じょうだん
てくれて、ヤレヤレうれしいことだ。」といいだした。
やま ぐち や
山口弥 五兵衛という、おもしろい 冗 談 をいって、いつも人々のあごが外
れるほど大笑いさせる武士がいた。彼はちょうどこのとき山崎嘉内のそばに
45
アリドオシ
ま
む
いて、三左衛門が真向かいのヤナギの間へ移って居ることを早くから知って
「 ありどおし
いたが 、知 らない ふり をして 、わ ざと嘉 内に 三左衛 門の ことを 蟻
「通 と
」呼
ぶ訳を問いかけた。嘉内もまた、そのころは口が軽い人で、今日は魚がとれ
ず 腹 が立 って いた ことも あ って 、弥 五兵 衛の問 い かけ にあ れこ れと答 え た 。
「光る物がヤナギの下へ落ちたかと驚いて見てみると、それは水面にうつった
ありどおし
すじ
さお
ききん
蟻 通 の はげ あた まだ っ た。魚 が いな いと いう こ とで ひ どく いら だっ て 、首
なわ
に縄のような筋を立て、釣り竿を振りかついだ様子は、飢饉の年のやせたえ
びす様のようだったが、いったいどこへ行ったのやら。」などと、次々と何
かをいおうとしたとき、向こう岸のヤナギの間から、「おいおい嘉内どの、
三左衛門はここにおるぞ。悪口にも限度にせんか。」という声がした。嘉内
は大変おどろいて、消えてしまいたいくらいであった。嘉内はすぐその日の
わ
うちにお詫びのあいさつに三左衛門の所へいったそうだ。弥五兵衛もまたこ
のように、大きな欠点のある人であった。
46
いんきょ
三一、堀三郎左衛門
ほり さぶろう ざ え も ん
ぞう ろく
くさ かりゅう
堀三郎左衛門(隠居 して 蔵 六という。)は日下流 の剣術をすべて学び、の
せき し ん ご ざ え も ん
ちに藩の命令によっ て江戸へ行き、そこ で多くの剣術の道場 を修業してま
わった。
でわのくに
出羽国、秋田藩の殿様のそば近くに仕えた家臣に、関新五左衛門という人
さたけ
がいた。この人は殿様の佐竹氏に仕えることをやめ、江戸に住んで剣術を教
うで
かみいずみいせのかみ
むさ しの かみ のぶ つな
えていた。蔵六は一度会って剣術の腕をためしたが、実に天下一の達人であった。
りゅう は
さらに、彼が伝え習った剣術の 流 派は上泉伊勢守《のちの 武 蔵 守信綱 》か
しんかげりゅう
ら 伝 わっ た 新 陰 流 で あ り、 おそ ら く剣 法で はこ の 世で 最 もす ぐれ たも の と
いえよう。そこで、蔵六は今までの古い剣法をやめて、役所が休みのときに
ぶ
さ えもん
まつばら か と う じ
は昼も夜もなまけることなく新陰流の修行をし、ついにすべてを学びとった。
ながぬま じ
同時に長沼治部左衛門、松原嘉藤次なども免許皆伝となった。特に蔵六先生
は剣術の芸術面に抜き出ていたので、新五左衛門は、「大聖寺の殿様は良い
宝物をもっていらっしゃるなぁ。」と、いつもいっていた。
47
このことから、藩の家臣たちはしだいに蔵六の所へ剣術を習いに来て、新
陰流が広まった。この蔵六は老後に腰を悪くし立てなくなったが、弟子と剣
術の話になって、弟子に少しでもまちがったところがあったなら、「イヤイ
ヤそうではない。」と、座りながら技や工夫を「このように、このように。」
と 指 導さ れる 様子 は、ま る で腰 を悪 くし ていな い かの よう に見 えたと い う 。
くや
何かのきっかけにも、「悔しいな、年をとるということは、若いころの万分
の一も剣術の技が使えない。しかし腰はこのように悪くなったが、この年寄
り、お前たちには負けないぞ、負けないぞ。ありがたいことだ。」といわれた
という。
ぜんしゅう
こ う ら
かく
「蔵六」とは、もとは 禅 宗 の言葉で、「カメが野ギツネに食われそうになった
くら
が、頭や手足、尾の六つを蔵におさめるように 甲羅に 隠 して逃れた。」とい
うことわざに由来している。
蔵六は茶道を好む人で、茶の友を招くとき、悪いくせがあって、毎回わが
ままに家来をこらしめた。これは、茶会の席やもてなしに気を張りつめている
48
※御用人…御用所は藩政一般を司る役
所 で 、 家老 と 御用 人 から組 織 さ れ た 。
家老は家がらで決まっており、数人
ごようにん
の家老がいた。御用人は、藩士の中か
ら能力のある人が選ばれ、藩政全般に
ついて進言した。
ときに、何かと家来たちが思うようにしないからである。茶会の友も、招き
にこたえるのはよいけれども、家来がこらしめられるのは気の毒なので、再
び招かれたときは、「招かれるのはありがたいが、家来をしからないのであ
ちか
れば参加します。そうでなければ参加しません。」といった。蔵六は「誓っ
てしかりません。」といったので、いつものようにしかることができなかった。
にぎ
こぶし
しかし、思い通りにならないことが多くあって、とうとうがまんできなく
どぞう
いながき よ
う えもん
なり、すぐに土蔵の裏へ家来を連れて行き、握り 拳 で家来の頭を続けてな
※ごようにん
ぐり、「おのれ、声を出すな、出すな。」といったという。
いながき よ う え も ん
としみち
三二、稲垣与右衛門
けんしょうこう
せきざん
顕 照 公《五代利道》が幼かったころ、御用人の重職を務めた稲垣与右衛門
いんきょ
は
(隠居して夕山という。)、藩の政治で活やくした人で、さまざまな話もあった。
しゅす
むらさきいろ
与右衛門はこだわりなくとても自由にふるまう人で、私が幼いころ、隠居
かみ
.や
.がある繻子の着物の上に 紫 色
して髪をそりおとし、僧侶のように黒くつ
49
はおり
つえ
の羽織を着て、杖をついて一人で歩いておられた。私たちが遊んでいる所へ
来て、「おれも仲間に入れてくれ。このような竹馬をもっているぞ。」といっ
また
て、杖を股にはさんでシャラシャラと音を立てて走りなさるようなことがた
そ う えもん
びたびあって、私が幼かったときのことではあるが、よくおぼえている。
よ
与三右衛門は与右衛門の一人むすこなので、とてもかわいがられ、父はす
べて与三右衛門のいう通りに育てたという。成人して家をつがせたが、与三
右衛門の性格は珍しいほどのケチで、夕山とは裏と表のような逆の性格だった。
夕山はぜいたくを好む人なので、家の暮らしも貧しく、子の与三右衛門は生
活が行きづまっていた。夕山は、「暮らしの貧しさは言葉でいえないほどだ
が、どうしようもない。」といっていた。
え
やまもとしょう だ ゆう
夕山はもともとこだわりなく自由にふるまう人なので、何かと若い者に会
はやしくろう べ
うのが好きだった。林九郎兵衛や山本 庄 太夫など、そのころ若い連中の七・
八人と話し合い、ほとんど毎夜のように、あちこちの家へ行った。夕山の性
格としては、たびたび自分の家に招きたかったが、わが子・与三右衛門がケ
50
チなのを心配して、たった一夜でも自分の家に招くことができなかった。あ
ざしき
れんちゅう
まりにも心苦しく恥ずかしいことだったのだろう。一年に二度くらい、与三
かく
右衛門には隠して町人の家の座敷を借りて、そこへ 連 中 を招いた。招かれた
人は心苦しく思って、強く断ったが、夕山は聞かなかった。それほどまでの
気持ちであった。それで九郎兵衛や庄太夫らは、このようなことをしないよ
う説得しているのを、私は子ども心に聞いた覚えがある。
じせい
そのころの夕山の年令はどのくらいだったかはわからないが、やがて年を
舞い納めたる
年の暮れ」とよまれたという。
とって、年末が近づくころに病死した。そのとき、死ぬ前の最後となる辞世
ほうおう
の句として、「鳳凰も
ほっかい
北海先生が私たちにおっしゃるには、父として子を愛するのは当然の教え
ではあるが、ただ、かわいがりすぎたときはかえって親不孝な子になってし
まう、とこの夕山老先生の例を出して話をされた。
51
錦城山から見た藩主の御屋敷跡と大聖寺町
三三、大聖寺城下町の発展
きょうほう
じ まち
はし
しんちょう
享 保 ( 一七 一六 ~三 五年) の ころ まで は、 大聖寺 町 は、 今ほ ど家 はなく
か
て、鍛冶町が町の 端であって、 新 町 は新しく家が建てられたので「新町」
やごう
なに
というと聞く。それで、商人の家に屋号をつけないで、ただ家の名前だけで
なに べ
え
しょうこ
呼んでいたという。すでに、古い絵図には新町の者どもには屋号がなく、何
う えもん
え
右衛門、何兵衛などとだけ書かれていた。これは、その証拠となるものであ
ろう。
なか や きゅう べ
おけ
まちや
中屋 久 兵衛という町人が私たちに語ったことには、「久兵衛が若かったこ
しょうべん
みやこ
ろには、どの町人の家にも、入口に 小 便 の桶がうめてあった。そのため、町家
にお
の前の 通りで は、夏 の ころには いやな 臭 いがひ どかった が、今 は 都 のよ う
になり、そんなことはない。」という。私が思い当たることとしては、幼い
ころ、大聖寺藩の家臣の家の入口にも小便所がだいたいあったが、今ではめっ
きり少なくなり、ほとんどない。
52
ごのつぼりゅう
や ま だ まさひさ
やり
三四、五ノ坪流の山田正久
ごのつぼりゅう
ろうにん
やまだ
みやべしんご べ
え
五ノ坪流という槍の流派は、昔は大聖寺にもあった。これは、浪人の山田
まさひさ
で
し
え
正久という者がけいこ所を建て、藩の家臣たちへ教えたという。宮部新五兵衛
の じ り よ そ ざ えもん
た
ち
こうげき
・野尻与三左衛門などはこの弟子である。槍の柄は九尺(二七〇㎝)くらい
つ
である。このけいこの仕方は、始めのうちは太刀で相手に近付いて攻撃する
つ
技を教える。突くときの手さばきを教えず、突かないときの手さばきを教える
しきじ
い そ べ じんじゃ
といいつたえられている流派である。とにかく相手に接近して目・手・体を
働かせるけいこである。
みなもとのよりとも
だ い き ぼ
えが
この山田正久は絵を描く人のようで、敷地の天神様《石部神社》に「富士
まきがり
ま
の巻狩」《 源 頼 朝 が富士山のふもとでおこなった大規模な狩り》を描いた
え
大きな絵馬がある。この正久が描いたものという。
53
小松城あと(小松市丸の内町)
としあき
三五、貧しくなる藩士
だ い き こう
ばつ
大機公《二代利明》の時代に、藩の家臣のなかで地位や収入に見合わない
きび
借金をする者には、厳しい罰が与えられた。反対に、地位や収入に見合った
借金をしても、まだ生活が苦しい者には、願い出ればお金を貸すように、と
じょうおう
ま え だ としつね
い う 殿様 の命 令が あった 。 承 応 (一 六五 二~ 五四年 ) のこ ろ、 藩の 家臣で
こ ま つ ちゅうなごん
生活が苦しくなった者たちが、小松中納言《加賀藩三代前田利常》へ願い出
ろうにん
て、お城にたくわえてあったお金を借りたという。
こ だ ま しょうけん
三六、児玉 松 軒 先生
こ だ ま しょう けん
くら
ば
ぐ
児玉 松 軒は越前《今の福井県》の浪人で、馬術にすぐれた人だったとい
おす
う。吉崎に住んで雄のシカを飼っていて、このシカに適当な鞍や馬具をつけ、
福井の城下町や大聖寺町に出かけるときには乗っていた。変なかっこうだと
ばんじゅうろう
い い だ きいちろう
いうことで福井藩の役人にしかられて、シカに乗るのはやめた。それからは
おおさかだい せ
大聖寺へ来て医者となった。大幸岱畝《伴 十 郎 》や飯田喜市郎などの、論
54
ししょう
語を読む師匠だという。年を取ってから愛する子どもと死に別れて、さみし
ぜんしょうじ
55
くなげくあまり和歌を二首並べて墓にほった。その墓は全昌寺にあるという。
山口玄蕃宗永碑(全昌寺)
彼も死んで同じ墓に入った。
神明宮(『錦城名所』より)
慶徳寺(大聖寺本町)
印籠の見本
三七、貧乏な医者の正体
けいだい
ほりぐち
びんぼう
が
し
下の名前は分からないが、堀口という山中村の者が、貧乏で大聖寺町に来
きょう と く じ
て、慶 徳寺の境内に住みついて医者をしていた。死んだときはどうも餓死した
ちょうにん
よ う であ った 。堀 口が死 ん でい たの が、 若い 町 人 た ち の集 まる 場所 だった
こともあって、若者たちは寄り集まって死体の片づけなどを話し合った。皆
めいわく
は堀口の片づけに困って迷惑していたので、堀口が何か持っていれば、少し
くず
でも片づけの費用にあてようと、葛のツルで作った古いカゴの中を開いてみる
わきざし
もんつき
こ そで
いんろう
と、中には金でかざられた脇差《小刀》が二つ、古い小判が二両、銀二〇〇
し ろ む く
目、白無垢《真っ白な着物》二つ、紋付の小袖二つ、印籠一つがあった。皆
そうしき
はおどろき、はなやかで美しい葬式をしようということになった。そのとき、
ほうむ
慶徳寺の住職は、人の 葬 り方が悪いこともあったものだ、といった。
56
さいさん ざ え も ん
三八、才三左衛門
さいさん ざ え も ん
るざい
ちゃせん
才三左衛門というのは加賀藩の身分の高い家臣であった。ところが、何か
ば
よくないことがあって、大聖寺藩の塩屋村へ流罪になった。茶筅《茶の道具》
う
を作って生活していたという。彼には乳母がいたが、病死した。そのころは、
まつだいらただなお
貧しくて葬式をするためのお金もなく、死体をムシロに包んで自分で浜辺へ
う
持っていき、砂の中に埋めたという。
いっぱくこう
たか
あるとき、福井藩の一伯公《福井藩主 松 平 忠直、一六〇七~二三年ごろ》
よしざき
が越前吉崎あたりへ鷹狩りに来られ、内緒で藩の境を越え塩屋まできた。そ
こう
のとき、良い香のかおりがしたので、一伯公は不思議に思われ、
「このような
村里で良い香をたいているとはどうしたことだ。」と、そばに仕える家来に
かお
おっしゃり、どこから香ってくるのかとたずねて回ると、木を三本組んだよ
かやぶき
うな小さい茅葺の家からであった。これは三左衛門の住まいであった。これ
は、三左衛門が今日は一伯公がいらっしゃると聞いて持っていた香をたいた
ということで、一伯公もその香りにお心を ひ か れ た の だ 。 こ の 三 左 衛 門 は 、
57
なぎなた
わきざし
よろい
ひとそろ
しろ む
く
の
し
め
こそで
はっとりじゅとく
このように落ちぶれても、刀や脇差、鎧 かぶと一揃え、白無垢の熨斗目《小袖
かみしも
》、上下、長刀一振りを最後まで持っていたという。これらのことを服部寿徳
が文章に書いたものが残っている。
きょう う ん じ
かんのん
三九、敷地で人を切った事件
しきじ
だれ
敷地にある 慶 雲寺の観音が公開され、寺にお参りにくる人が多いなかで、
てんじん
天神 様 の 庭 で 藩 の あ る 家臣 を 切 っ た 者 が い た。 誰 が やっ たの かは 分から な
かった。役人は多くの人をそこにとどまらせて、刀を調べるといったが、変
わった様子はなかった。それでも厳しく調べられたので、ある侍が逃亡した。
ゆくえ
さてはこの者が犯人だろうと探したが、行方が知れなかった。そこで、その
た
妻と子を捕まえた。そのため、犯人は耐えられずに「私です。」と出てきて、
死刑をいいわたされるということがあった。いつのころのことかははっきり
しない。
58
天日茶屋(『錦城名所』より)
としなお
四〇、梶原佐太夫
えんつうこう
かじわら さ だ ゆ う
ごようにん
円通公《三代利直》の時代のころ、梶原佐太夫は藩の御用人という役職を
ばいけん
はんてい
していた。のちに梅軒と名のったのはこの人である。
まつばら か と う じ
松原嘉藤次も御用人であったが、江戸の藩邸で勤めているときに良くない
ことがあり、家臣をやめさせられ、大聖寺に帰ってきた。
てんにち
佐太夫は天日 の茶屋まで迎えに出て、「あなたも不幸なことだ。私もやが
むら い
て同じことになるだろう。」といった。松原は「なるほど、そうなるだろう。」
ばいけん
かたはらまち
と答えた。間もなく、佐太夫も家臣をやめさせられた。これらはすべて村井
とのも
ろうにん
主殿のしたことであるという。
四一、梶原のその後
かじわら
ふうでんりゅう
まさとも
梶原は藩の家臣をやめ浪人となって梅軒と名のり、福田町近くの片原町《大
やり
聖寺町の北西部》の大聖寺川の方に住んでいだ。この人は、槍の風伝 流 や正知
りゅう
流 などの武芸をきわめ、のちに梶原流といわれる武術をなした。
59
かつきしちのじょう
くにざわしんぱち
たろう ざ えもん
浪 人 に なっ て から 、 勝 木 七 丞 の家 へ ご ちそ う にま ね かれ て 行 った と き 、
おうままわりがしら
ちょうど居合わせた客の 御 馬 廻 頭 の 国沢新八 、山本 太郎左 衛門 らが梅軒の
すわ
背中を押して「あちらへどうぞ、あちらへどうぞ。」と地位の高い人が座る
かみざ
べき上座をすすめた。梅軒は上座に座って、
「このあつかいはどうしたのか、
た ろう ざ
新八、太郎左 。」などというだけだった。二人はていねいに両手をつきなが
ら梅軒と話し合ったという。
わた い
な
た かぶ
のちに梅軒は生活が苦しくなり、破れた綿入れの着物を着ていたという。
な た か ぶ
え
四二、那谷蕪
はやしくろう べ
林九郎兵衛は、あるときの話のなかで、
「私が若いころは那谷蕪といって、
た かぶ
人々がおいしく味わうカブがあった。出入りの百姓から持ち込むと、仲の良い
な
方たちへ使いを出し、那谷蕪が手に入ったので、今日の夕食で食べさせたいな
どといってもてなすのが、最高のごちそうだった。今とは大きなちがいだ。」
といった。
60
しまむら
の み ぐ ん
き
ば がた
※嶋村…嶋村は木場潟の南西岸にある
村で、能美郡にある。
大聖寺藩は江沼郡が領地であったと
考えやすいが、初代利治の初めの領地
は江沼郡一三三カ村と富山の九カ村で
あった。
こうかん
くしむら
のちに、大聖寺藩の富山の領地と加
さ
び
ひ ずえ
賀藩の領地を交換してもらい、串村や
佐美、日末とともに嶋村も含め能美郡
の 六 カ 村が 大 聖寺 藩 の領地 に な っ た 。
さらに、利常の領地だった江沼郡の那
谷村が加わる。
はんすけ
四三、御打入の十村
ぶん ぎょう むら
※しまむら ご ろ う ざ え も ん
分 校 村の 半助が、大聖寺藩の十村に任命されたいきさつは、次のようで
とむら
あった。このころ、十村をしていた 嶋 村 五郎左衛門は、藩の役人から「だれ
か十村の役をさせられるような者はいないか。」とたずねられ、「加賀藩の領
地に半助という者がおります。この人を加賀藩からもらいましょう。」と答
えた。それで、半助を分校村に住まわせ十村に任命した。他藩から招かれた
おうちいり
十村であったので「御打入の十村」といった。こうした関係から、嶋村の五
かがみ びら
もち
郎左衛門が「和田」の姓を名のったように、半助も「和田」の姓を名のった。
こう う え も ん
よろい
今の幸右衛門まで代々十村をし、一一代目になるという。
としみち
四四、お正月の鏡開き
けん しょう こう
わん
顕 照 公《五代利道》は、江戸で 鎧 を飾って 鏡 開きをされた。 餅 を最初
す
に出し、次にお吸い物を出すとき、餅のお椀とお吸い物のお椀を取りかえる
はし
のがしきたりである。そのため、このお吸い物には箸がつかない。
61
ぜん
ところが、食事のお世話をする者が、箸をのせたままの餅のお膳とお吸い
物のお膳とを取りかえてしまった。そんなわけで、次のお吸い物には箸がな
かった。殿様は一度おしかりになったが、お祝いのときなので次第においか
ご と う か きち
つね ひ
わ
か
りも静まったが、どうにも気になってしょうがなかった。殿様の近くにお仕
お そ ば しゅう
えする御側 衆 のなかに、後藤嘉吉という者がいた。この人は常日ごろから和歌
しろ も
は しとり て
ま ず 御祝い に
あぐる 吸物」
すいもの
を少し好んでいたので、「嘉吉よ、和歌をよめ。」と、殿様は命令した。その
かざ
城も ちり ょう の
とき、嘉吉はすぐに頭を上げて、
ろく ぐ
「 六 具 しめ
とよんだ。
よろい
(訳)六具ともいわれる 鎧 を飾り、城持ちの大名が白い餅を持って食べるた
めの、二本の箸を家来が取り去ってしまい、お吸い物の膳を御祝いの席に出
してしまったことよ。箸が無いのに。
じょうきげん
殿様は「うまく作ったものだ。」と、たいへん上機嫌になった。
62
恩栄寺(湯の出町)
和 歌 のつ くり はほ め るほ ど のこ とで もな く 、ま た 意味 も分 かり に くい が 、
かみわざ
それはともかく、殿様のご命令のあとすぐにつくり、申し上げたことのすば
きげん
お ぐ ら かん ろく
らしさ、そして殿様のご機嫌がなおったのは、神業のような和歌と言える。
お ぐ ら かんろく
としみち
四五、小倉勘六と息子新十郎
けん しょう こう
顕 照 公《五代 利道》の時代、小倉勘 六は米八〇石取りの家臣で、組が定
まらない者の入る組に所属していた。生活が苦しかったので、在郷を命じられ、
しち う え も ん
村に住んでいた。そのころは、農村に住むと役目からはずされた。ところが、
しんじゅうろう
息子の新 十 郎(のちに七右衛門という。)は気がくるっていたので、いろい
ろと親の勘六に反抗していた。勘六は息子が親に反抗することを組頭に知ら
い ばやし き
せようと思ったが、そのときは、役目からはずされる身だったので、夕暮れ
はしもとすけろく
が過ぎたら組頭へ申し出ることにした。勘六の親類である橋本助六や伊 林 喜
た ろう
太郎らがあれこれといってやめさせようとしたが、勘六は聞こうとせず、そ
とら
の夜に知らせてしまった。これらのことが殿様のお耳に入り、新十郎は捕え
63
さく み むら
られた。しかし、もともと気がくるっていたため、作見村へ閉じ込めてしま
えということで、勘六へのもとへ新十郎がわたされた。そののち、新十郎は
ふかまち じ
ぶ
ざ えもん
病気がよくなって藩を追放となり、江戸へ出て死んだという。勘六は長い間
おんえい じ
役目をとかれていた。勘六の妻は山中にある恩栄寺の娘で、深町治部左衛門
ぜんしゅう
の姉である。七右衛門は、今の治部左衛門のおいである。
かさや
四六、傘屋が大乗寺の住職に
うお
じゅうしょく
大聖寺の魚町に傘屋何とかという人がいて、禅 宗 の僧になったが、大いなる
だいじょうじ
.と
.り
.を開いて不満を持たぬ僧となり、とうとう金沢の大乗寺の 住 職 にま
さ
ぜんしょう じ
于今于古
倶在一蓮
でなった。全 昌 寺に親の墓があり、漢字の詩がほってある。
惟石惟堅 写焉模焉
(訳)石はただ堅く、何も写し出さず何もかたどらない。
今も昔も、ともにあるだけである。
64
大乗寺(金沢市長坂町)
全昌寺
長流亭
藩主の庭園(江沼神社)
とし なお
四七、藩政を行えない三代利直
えんつう こう
円通 公 《 三 代 利 直 》 は 、 何 か に つ け て 民 衆 の 気 持 ち を 考 え る 殿 様 で
おく づ
あった。ただ、殿様には将軍様のごきげんをうかがう奥詰めの役目があった
みみょう こう
とし つね
とよ とみ ひで より
ほろぼ
ので、大聖寺藩の御屋敷にいることはわず か で あ っ た 。 残 念 な こ と で あ る 。
わ だ すけのぶ
だ すけ のぶ
四八、和田祐信
わ
そば
和田祐信は一三才のとき、微妙公《加賀藩三代利 常》が豊臣秀頼を 滅 ぼ
えき
す「大坂の役」という大坂城攻撃に出陣されたとき側近く仕え、大聖寺藩を
とし はる
こだま に
う えもん
加賀藩 から分 けて 利 治 様が 大聖寺 にやっ てこら れ たとき にお供 をして き た。
え
祐信は三〇〇石の領地を藩から受ける家臣で、住まいは今の児玉仁右衛門の
たけ べ
となりにあったという。武兵衛というせがれがいたが、この武兵衛の代にこ
の家は絶たれてしまった。どんな理由によるかはわからない。
65
としなお
四九、御老中になりたかった三代利直
えんつうこう
ろうじゅうしょく
円通公《三代利直》は、幕府の政治を受けもつ 老 中 職 を、心の中でお望
みであったという。このことは、ただ、江戸城中で御老中がはばをきかせている
ところなどを見て、うらやましく思われたからだという。だれもが小さな声
うち だ はち う え も ん
で、「そうなったらお金を多く使い、家がらも悪くなることなのに。」とつぶ
やいたという。
五〇、藩の古い記録
ごようしょ
藩の政治を行う御用所の古い記録は、以前内田八右衛門の家から出火した
ごてん
いちせき
ときに、殿様の御殿も焼けてしまい、このとき多くが焼けてしまった。その
おおさかもも すけ
のち、 大幸百助(隠居して一夕 という。)がおおよそ覚えていることを記録
のうえの部分に書き加えたということだ。
66
としなお
三代利直
げんろく
つなよし
利直は、元禄四年(一六九一)、二〇歳のときから五代将軍綱吉のそばに仕え、翌年に藩をつぐが、
ろうじゅう
藩主としての一九年間のうち、一八年間は江戸の将軍のそば近くにいた。利直は 老 中 になることを
のぞ
望んだが、家臣たちは「老中になると家がらが悪くなる。」と反対したという。
ふ だ い だいみょう
老中職とは幕府の政治を行う役目で、譜代 大 名 がなった。譜代大名とは、早くから家康の家臣と
して仕え、大名になった者である。
と ざ ま だいみょう
前田家は、関ヶ原の戦いから家康に従った外様 大 名 で、幕府の政治には参加させてもらえなかった
しんせき
とくがわいえやす
にもかかわらず、なぜ家がらが良いと思っていたのか。前田家は、一〇〇万石以上の大名というだ
たまひめ
ご さ ん け
けで家がらが良いというのではない。前田家は、将軍の娘珠姫を利常の妻にして親戚となり、
徳川家康
まつだいら
ぶかん
じょうおう
の一族である松 平 を名のった。それで、将軍の家臣としては将軍家と徳川御三家につぐ家がらとなった。
めいぼ
武家の名簿である武鑑をみると、 承 応 四年(一六五五)のものなど多くに、将軍家、御三家に続
き、加賀、富山、大聖寺藩の前田氏が、
「松平」として書かれている。大聖寺藩の前田利直は御三家
徳川につぐ家がらで、他の多くの譜代大名などより家がらが良かったのだ。大聖寺藩士は、老中となる
譜代大名を、自分たちの利直様よりも低い地位にみていたのである。
67
五一、首切り話
やまもとしょうかん
ながぬま じ
ぶ
ざ えもん
きむらそう ざ え も ん
あな むし
しぶや
山 本 将 監 と 長沼治部左 衛門とは兄弟である。長沼は大聖寺町 穴 虫の 渋谷
こうじ
小路、今は木村惣左衛門の屋敷に住んでいた。あるとき将監が長沼の家へ行
き色々話していると、長沼が「突然人を頭上から切ったとき、切られる人は
ちぢ
首をきっと縮めるだろう。首をさっとだして刀を受ける者がいれば、きっと
え
首は見事きれいに切れて、はなれてしまうだろう。」といった。将監も「そ
ふじさわご へ
うだろうな。」といった。ちょうどそのとき、台所に藤沢五兵衛 がおりあわ
せて、奥の座敷でこの話をしているのを聞くと同時に、五兵衛はその席へさっ
ゆかい
と出てきて、
「お二人の話はとても愉快なので、どうか私を思う通りになさっ
てください。」と正座し、首を差しだしてきた。二人ともあきれはてて、「お
まえはあり得ないことをいうなぁ。」と笑ったが、五兵衛はまじめな顔で、
「さ
ごういん
あ、さあ。」と 強引に進み寄ってきた。いろいろといって、ようやくその場
はおさまったということだ。
68
白山周辺
五二、たるんだ家臣
ながぬま
だ い き こう
としあき
えんつうこう
としなお
右の長沼などは、大機公《二代利明》から円通公《三代利直》までの時代
の人である。そのころの家臣たちの会でするお互いの話は、けっして女や財
産やお金などおろかなことを話題にせず、ひたすら武芸などの強く勇ましい
ことだけを話の内容とするのが習わしであったという。もし少しでも言葉の
せんだい
き む ら く
端に女やお金のことが出れば、本当にいってはいけないことをいい、人とし
あやま
て 誤 っているとでもいうように、人々が思うくらいであったと、
先代の木村九
ざ えもん
げんぶん
うるう
じょうじゅん
左衛門が子の九左衛門に教えさとしたという。また、このことを惣左衛門も
聞いたといっていた。
としみち
五三、元文五年七月の洪水
けんしょう
顕 照 公《五代利道》の時代の元文五年(一七四〇)閏 七月 上 旬 のころ、
たきぎ
こうずい
せけん
えちぜん
道具な どさ まざ ま、 あ るいは 古い 木や 薪 など ま でが海 辺へ たく さん 打 ち寄
うるう
せてきた。 閏 七月一日はひどい雨で洪水になった。世間のうわさでは、越前
69
※尾添村…白山のふもとの白峰など一
てんりょう
六か村は幕府が治める領地(幕府領や
天 領 という)
で福井藩が管理していた。
い ち り の
お ぞ う
一方、となりの一里野のスキー場・
ちゅうぐうお ん せ ん
中 宮 温泉あたりの尾添村は加賀藩の領
地だった。しかし、領地争いがおこり、
かんぶん
寛文八年(一六六八)に加賀藩は尾添・
か い づ
荒谷の両村を幕府にわたし、代わりに
滋賀県の海津に二〇〇〇石をもらった。
きゅう う え も ん
の領地の山の方でひどい洪水がおこり、家が流れ、死人がでたということだった。
てした
どこの藩の領地かは分からなかった。
とむら
くず
ゆ つぼ
にじょう
監視役の御目付は、 十村の 手下である 久 右衛門 という者を調査のために
越前へ使いに出した。
※おぞうむら
その報告では、白山の尾添村の湯の上の山が崩れ込んできて、湯壺が二丈
ゆもと
(三・六m)ほど石の下になり、それより六、七町(六五四~七六三m)ほ
や く し にょらい
ちゃや
ど上の山に薬師如来をまつったお堂があったが、山とともに押し流され、湯元
けん
かつやま
にある二〇軒ほどの茶屋は残らず流されたという。ここから森田までの川の
きょり
み
の
う
づ
ほ
流れにそった距離は一五、六里(六〇~六四㎞)あるという。また勝山藩の
だいりちょう
くら
内裏町では二三軒の家が流され、死人は二三人であった。また美濃の宇津波
じろうしろう
村の次郎四郎という百姓は、三〇〇〇石の土地を持っていたが、家と蔵が流
され、その小百姓の家も二三軒流された。流された人や馬の数は分からない。
おおの
また大野藩の領地も洪水にあい、流された家や死人が多いという。このよう
に、大野から奥の山の方は大変な被害だというが、細かいことは分からない。
70
※殉死…主君が死んだとき、その主君
のあとを追って自殺すること。殉死は
特別にかわいがられた家臣の義務であ
り、お礼であり、名誉であった。
いえつな
ぶ
け しょはっと
しかし幕府は、
寛文三年
(一六六三)
、
四代将軍家綱のときに武家諸法度で殉
死を禁止した。
つまり、
家臣が殉死すれ
ばっ
ば幕府の法にさからったとして大名は
罰せられるようになった。
ばくふ
まるおかはん
え
もんじん
しゅぎょう
そのほかに、幕府の領地でも洪水の被害が大きかったことはいうまでもない
なる か
の な か せい べ
が、鳴鹿《丸岡藩の山方》などでも流された家が多かった。
五四、弟子のために
ほん だ とう の すけ
本多唐之助様のある家来は、野中清兵衛の軍事の学問の門人になって修 業
した。熱心に学んだので、ほとんどの教えをさずけられたが、秘密とされる
城造りについては教えられなかった。ときどき、秘密の大切な内容を教えて
ほしいと強く願ったが、重大な秘密なので許されなかった。そのうちに本多
た
様は幼くして病死したので、家は絶たれてしまった。このとき、その家来は、
※
唐之助様の墓へ参り、書き置きを残して主人のあとを追って自殺した。
その書き置きの内容は次のようであった。「主人のあとを追って自殺する
めいわく
ことは幕府から禁止されており、主人の家に迷惑をかけるという。しかし、
た
幕府の命令といっても今主人の家は絶たれてしまったので、迷惑をかけるとい
こころよ
う心配はないだろう。よって 快 くあとを追って自殺し、主人のご恩にむくい
71
てお供する。私が日ごろ熱心に学んでいた軍事の学問は、深いことまで教え
ていただいたが、今なお重大な秘密を習ってはいない。生きていた間で残念
に思われるのはこのことだけだ。それで、すべて学んだということではない
えが
が、生きていた間に好きだった学問なので、この図は自分で一つの城を描い
てみたものだ。」と。
ちんきょ
このことを鎮居 先生がお聞きになり、「私はこの年になって、一生のまち
がいをしてしまった。そのわけは、日ごろ熱心に望むのに城造りについて教
えずにいて、それほど強い心の持ち主とは思わず秘密にしていた。人を見る
は
目がなかったことが恥ずかしい。」となみだを流したという。それで、鎮居
そな
先生は描き残された城の図の地形を描き写し、弟子たちへも、一つずつ城の
とも
かんりん
図を描かせて本多様のお供をして自殺した家来へのとむらいとしてお供えし
るいえん
ようと話された。これは「類縁の地形」といい、今も閑林先生の城造りの書
物の中にもあった。
さて、また、主人にしたがって死んだときに書き置きの文の最後に一つの歌
72
があった。
「死にともな あら死にともな 死にともな 思えば深き 君のめぐみを」
とうじょうぜん ざ え も ん
たけうち げん せつ
この人は、ある説によれば 東 条 善左衛門というように聞いた。
五五、本当の火元は
なかまち
えん
大聖寺の 中町で、「 竹内 玄節 の火事」ということがあった。本当の火元は
ひ ら た で ん きち
てっぽう
隣の平田伝吉であったという。
ご い ふ う
伝吉は御異風《鉄砲の修練をする》の役目にあったので、火薬を縁がわの
たな
棚へあげておいたら、ひどい暑さのころに太陽の光が当たって火がつき、火
事になったという。
てんめい
火元は伝吉であったが、どういうことかこれを「玄節の火事」という。天明
四年(一七八四)から七〇年ほど前のことである。
73
かね
はか
※銀貨…京都や大坂を中心として使
われたお金は銀であり、重さを量って
つかった。しかし、いちいち量るのは
不便なので、一定の重さのかたまり(
ちょうぎ ん
丁 銀という)にしてあった。
文中 に銀七五枚と 書いてあ るのは、
丁銀が七五枚ということである。
磯田道史氏の『武士の家計簿』では、
銀の値打ちは一匁が今の四〇〇〇円く
らいと推測しているので、銀七五枚は
一二九〇万円ぐらいとなる。
としあき
み ま
ちゅうぶう
五六、百万石からお見舞い
だ い き こう
しょううんこう
つなのり
大機公《二代利明》が 中 風 を発病なさったとき、松 雲公《加賀藩五代綱紀
ま
》がこのことをお聞きになり、まず加賀藩の御家老のうちの一人を早々とお
み
いっこく
見舞いにつかわせ、続いて松雲公も大聖寺へお見舞いにいらっしゃった。ご
たいざい
滞在なさっているとき、毎日一刻ごとに大機公のご容体を申し上げた。
お や し き
あみ
大聖寺藩の家臣たちは全員藩の御屋敷に行くと、松雲公の前に呼び出され、
な ら や ご ん ざ えもん
どんなことを直接に申し上げても、松雲公はお聞きになったという。
おおあみ
五七、大網を伝えた奈良屋権左衛門
いずみ
さかい
元禄(一六八八~一七〇三年)のころまで、このあたりの海岸で大きい網
げんろく
おおあみ
をつかった漁法はなかった。しかし元禄七年(一六九四)に、和泉の 堺 《今
な ら や ご ん ざ えもん
の大阪府堺市》の奈良屋権左衛門という大網を使う漁師が来て、一年分の税、
と
銀七五枚を藩に納めて大網で魚を獲った。それより、藩の領内の者がその漁
法を習ったということだ。
74
大網(地引網)想像画
75
たか
たなべたもん
五八、鷹のえさをとる名人
つぼかわ げ ん ご ろう
えざし
たか が
たかじょう
坪川源五郎は、今の田辺多門の屋敷に住んでいたという。この人は、鷹狩
え
も
ん
じょうず
やまが
り用のタカのえさとなる小鳥をとりもちでとる餌指の名人だった。のちに 鷹 匠
よ
となった。今の与右衛門の先祖である。
あ ま よ へいろく
五九、いろいろ上手な雨夜平六
あ ま よ へいろく
かじん
こっけい
たんか
きょうか
雨夜平六は、米二〇〇石取りの家臣で、書が上手だった。軍事の学問は山鹿
そこう
とうがん
かきね
素行の流派を学び、歌人であり、滑稽な短歌である狂歌を上手につくった 。
となり
いっしゅ
ある年、 隣 の家が植えておいた 冬瓜《カモウリ》のツルが、境の垣根を
我を冬瓜のうれしさに
今宵ちぎりて
こよい
しる人にせん
こえてきて、実がなった。このとき、歌を一首よんで隣の家へおくった。
かき
垣越て
とうがん
(この歌は
「垣根をこえた冬瓜を、今晩ちぎってあなたにさしあげましょう。」
76
とうがん
と、「垣根を越えてきた私を、桃顔(桃の花のように美しい顔)と喜び、
びんぼう
きょう か
今晩は結婚のちぎり(約束)を結びましょう。」という二つの意味を持つ。)
夏米きらす
うろたえて
子供ほすてふ
雨夜平六
日ごろはぜいたくな人なので、貧乏であったという。ある年の 狂 歌では
春過て
しろたえ
白妙の
ころも
衣 ほすてふ
か ぐやま
天の香具山 」
あめ
(訳)「春が過ぎて、夏には米をきらしてしまった。おろおろして、子供の
夏きに け らし
お腹を空かせてしまった雨夜平六であるよ。」という意味。
じ とう てんのう
持統 天皇の「春過て
がもとになっている。
まい
こつづみ
たたみ
彼はとても才能のある人物で、知恵があり、話もとても上手だったという。
のう
能の舞が好きで、自分では小鼓を打ったという。家の造りは、茶の間を 畳 が
77
としなお
※太一院殿…三代藩主利直はあとつぎ
つなのり
の男子がいないため、あとつぎを金沢
そくしつ
か
から迎えることになった。名君綱紀の
と し あきら
子の利 章 である。
せんいん
そ の 四 代 藩 主 利 章 の 側室 の 一 人 が 花
詮院 で あ り 、 二 人 の 間 に で き た 子 が
た い ち い ん なかつかさの ぶ な り
太一院 中 務 信成である。彼は藩の家臣
としみち
となり五代藩主利道の家老をつとめた。
じょう
だ い き こう
じょうず
五〇 畳 くらいしけるようにして、そこでときどき能を演じたという。大機公
としあき
《二代利明》の時代の人であった。
え
か と う じ すけ
そう べ
六〇、才能ある加藤治助
か と う じ すけ
か
いしくらじんのじょう
われ
加藤 治 助 は 加 藤 惣 兵衛 の 養 父 で あった 。 と て も かし こ い人 で 、 書 が 上手
わ
だった。和歌を上手によんだ。石倉 甚 丞 が我を失って事件を起こし、金沢
でとらえられていたとき、甚丞を迎えに行った。そのとき、金沢の役人との
としあきら
そくしつ
※たいちいん
のぶなり
やりとりで、すべて解決したので、人は皆治助をたいへんほめたという。
か せんいん
ふ
甚丞は花詮院様《四代利 章 の側室》の父である。太一院様《利章の子信成
そ
》の実の母方の祖父でもある。
ゆらい
治助が殿様に一族の由来 を書いた書類を差し上げたとき、「私の親は商人
としなお
の 生 まれ なの で、 どのよ う な良 い家 がら もござ い ませ ん」 と書 いてあ っ た 。
えんつうこう
そのころは、これでよかったという。
こつづみ
治助は小鼓が上手で、このことで円通公《三代利直》にめしかかえられた。
78
え
く ら ち や はちろう
むこ
道具が好きなので、よい道具を多く持っていたという。
そう べ
惣兵衛は倉知弥八郎の弟を婿養子とした。また惣兵衛は行いが悪かったた
ま
しょうちこう
め、妻が自分で組頭の所まで行き、夫である惣兵衛のことをうったえた。これ
ほりえ し
によって惣兵衛は、家でつつしんでいるようにと命じられた。
さや
六一、刀鞘作りの名人宇野四郎右衛門
う の し ろ う う えもん
宇野四郎右衛門は刀の鞘作りの名人だ。ある日、堀江志摩が正智公《四代
とし あきら
利 章 》 のそ ばに 仕え て、 お 庭の池 の端 にい たと こ ろ、殿 様が たわ むれ に 志
つ
摩の背をお突きになった。それで志摩は二、三歩前へよろけ、そのはずみで
わきざし
脇差が鞘ごと腰から落ちて池のなかに入ってしまった。そのときの様子では、
志摩が脇差を落としてしまったといえば、殿様はご機嫌が悪くなるので、何
ともいわずにそのままにしておいた。
ご てん
ずいぶん時間がたって、殿様が御殿の居間にお入りになったとき、お庭の
者へいいつけて脇差を池から上げさせたが、少しも鞘のなかには水が入って
79
きちのじょう
おらず、さすが名人が作ったものだとおどろいた。
はばき
80
せっぱ
鞘は四郎右衛門、ツバの周りの切羽と 鎺 の部分は吉之丞の作だった。
刀の部分の名前
きん だ ゆう
六二、水泳の上手な時枝庄左衛門
ときえだしょうざえもん
時枝庄左衛門は 金 太夫 の養父である。庄左衛門は話をするときはいつも、
ろくじゅう よ しゅう
何事についても日本六 十 余 州 《日本全国》ということがくせであった。こ
としなお
の人は水泳の術の達人であった。
えんつうこう
ある年、円通公《三代利直》が家来の乗馬をご覧になっていたとき、庄左
衛門は「私は乗馬が得意ではないので、お断り申し上げます。」といった。
円通公はこれをお聞きになり、「そうであるならば、お前は何が得意なのか。」
とおたずねになった。庄左衛門は「私は水泳ではどんなお役にも立ちましょ
う。」といった。
かしま
そののち、円通公が鹿島《鹿島の森》へ船で行かれたとき、庄左衛門を呼
ふなつき ば
び寄せられて、お供をするようにお命じになった。庄左衛門はかしこまりま
おこうどう
したといって、藩の御屋敷の御河道《船着場》からお船近くを少しも離れる
かたびら
ことなく、鹿島まで泳いでお供した。このとき、鹿島でごほうびに帷子とい
う夏用の着物を一枚下さった。また、お帰りのときも泳いでお供した。
81
※京間と越前間…秀吉や家康の天下統
はか
一によって、測る道具が統一されるま
で、長さや重さ体積を測るには、地域
ごとにさまざまなモノサシがあり、例
いっけん
きょうま
えば、同じ一間という長さでもちがっ
ていた。
すん
えちぜんま
ここで出てくる「京間」は一間が六
しゃく
尺 五寸であるのに対し、
「越前間」は
一間が六尺二寸であった。これでは大
変わかりにくいだろうが、江戸時代
になってから六〇年たっても二通りの
モノサシを使っていたようだ。
六三、馬場をつくる
かいどう
せきどうさん
※えちぜんま
※きょうま
関所の外の街道の左の方、石動山(石堂山)のふもとに、長さは 京 間 で
けん
かんぶん
一八〇間(三二四m)、幅は越前間で六間(一〇・八m)の乗馬の練習をする
ば
ば
しば
しゃく
馬場を作れと、寛文五年(一六六五)一〇月にご命令があった。この馬場を
たつみ
うまよせ
「辰巳の馬場」という。四方を芝の土手で囲み、その土台の幅は九 尺 (二・
かいどう
七m)、高さは六尺(一・八m)であった。馬を集めておく 馬寄の長さは三
けん
ぎん
かん
もんめ
〇 間(五四m)、幅が五間(九m)で、 街道から馬場への馬の道は、幅が五
え もん
間、土手の高さが二尺(六〇㎝)であった。
いし や さん う
この馬場の工事は、小松の人で石屋三右衛門という者が銀四貫五三五 匁(一
う
七㎏)で請け負った。工事に必要なお金は、五〇石《一石は一八〇ℓ》以上
もんめ
の米を藩から与えられている家臣から、一〇〇石につき銀五 匁 《一匁が三・
七五g》の割合で差し出させた。今、その 馬 場 は つ ぶ れ て 畑 と な っ て い る 。
かんぶん
藩の御屋敷内にある馬場は寛文五年(一六六五)四月一九日にできて、同
月の二六日にお馬の乗り初めが行われた。
82
※はりつけの刑…加賀藩では移り変わ
りはあるが、民有林であっても、マツ・
スギ・ヒノキ・ケヤキ・クリ・ツガ・
しちぼく
せい
カラタケなどの木を切ることを禁止
した。これを、
「七木の制」といった。
大聖寺藩でもこの制度がおこなわれ、
マツ・スギ・ケヤキ・キリ・ツガ・カ
ラタケなどを勝手に切ってはならない
とした。
特にマツの管理はきびしく、江戸時代
の前半まで違反者は、はりつけにされ
ている。
としはる
六四、厳しい刑罰
じつしょうこう
かんぶん
※
ひのや
いち う え も ん
実 性 公《初代利治》の時代の寛文五年(一六六五)、日谷村の市右衛門とい
すいさか
すけじゅうろう
さ
じ
べ
え
う者が、松の木を切ってぬすんだという罪で、吸坂ではりつけの刑をいいわた
けいばつ
おおうちむら
された。昔はこのような厳しい刑罰もあった。
てん な
また天和三年(一六八三)、大内村の百姓で、助 十 郎と左次兵衛という者
は、たびたび村でぬすみをしたり、山野では土地の境をごまかして取ったり
ばっ
した。お取り調べで、ならず者だという判決が下されたので、二人とも罰せ
かんじょう
たに
られ、山中村のはずれでさらし首となったことがあった。
六五、片野大池の工事
か た の おおいけ
え
かん
う
片野大池の水を、村の向こうの「 勘 定 が谷 」へ流すために山をほってト
うお や ちょう べ
ンネルをつくる工事は、魚屋 長 兵衛という者が、三貫八五〇目で請け負った。
えんぽう
これは延宝六年(一六七八)二月のことであった。
83
大聖寺藩の関所(『錦城名所』より)
大聖寺藩の関所跡(大聖寺関町)
84
錦城山から見た石動山
当時の刑罰名(左は武士関係、右は町人、百姓など)
85
片野大池の掘り抜き内部
(写真提供・(財)日本野鳥の会 田尻浩伸氏)
水の出口
86
あしがる
お か ち
※御徒…下級武士である御徒の地位は
さむらい
侍 と足軽の間にあたり、
身分が低く、
け い ご
その数は少なかったという。
戦いのない
お や し き
け い ご
ときは、
殿様のカゴの先を警護したり、
殿様の御屋敷の警護に立ったり、計算
や文書を書くことも行った。
六六、親不孝者は死刑
※おかち
つじおき う え も ん
む
せいくろう
いつのころであったか。御徒の辻沖右衛門という者の子どもに、清九郎とい
て
うたい そうな 親不孝 者 がいた 。親に 手 向 かう こと もとき どきあ ったと い う。
えん
沖右衛門は親子の縁を切る願いを出し、藩からも追放をいいわたされた。ずい
ぶん年がたって、今は心が改まっただろうと考えた親のなさけで、機会をう
かがってお許しをいただき清九郎は戻ってきたが、なかなか心が改まった様
子がなく、また親にねだったりゆすったりして、親不孝なふるまいであった。
ろうや
このとき、清九郎は藩から捕えられて牢屋に入れられた。そののち、どのよ
うな事情があってか、清九郎は死ぬまで牢屋に入れられることになった。
め つけ
年月が過ぎて、清九郎を死刑にしようというお役人がいて、そのとき話し
お
合いでは意見がばらばらで決まらなかった。そのとき、御目付という藩士を
見張る役人が「我らの役目は検査したことを申し上げることであるが、これ
はわかりきったことなので申し上げるまでもない。理由は、昔の聖人の親不
孝についての考えでは、五つの刑を受ける三〇〇〇の罪のなかで、親不孝ほ
87
ど重いものはないといっているからだ。このような悪い行いをする者は生き
ていても役に立たない。死刑に決まっている。皆さんの話し合いは子どものいい
昔のことをよく知っている老人の話をそのまま記した。
88
合いのようだ。」といって死刑に決まったという。
片野海岸(片野町)
林 町
中田、長谷田
秘要雑集巻二
一、焼き物、紙すきの始め
えんぽう
え
はやしむら
やすよし や
き
へ
え
はち
延宝三年(一六七五)二月、江沼郡の 林 村《小松市の林町》で、皿や鉢な
ふじ や きち べ
なかだむら
じ ろう う
え もん
どの焼き物を、金沢の町人藤屋吉兵衛や小松の町人安吉屋喜兵衛などという
えんぽう
者が焼きはじめたという。
やまなかだに
ろ
べ
え
あし がる
こ がしら
くりむら も
う えもん
山中谷の紙すきは、延宝四年(一六七六)に中田村の次郎右衛門のせがれの
ご
い おうぜん
五郎兵衛を、 足軽の 小 頭 である栗村茂右衛門 という者を付きそわせて、紙
ふたまたむら
すきを習いに二俣村《金沢市の医王山近く》へ藩が送ったことから始まった。
これから紙すきはだんだん広まった。
89
としみち
二、五代利道の病気
けん しょう こう
てんねんとう
顕 照 公 《五代利道》が 天然痘の病気になられたとき、しだいに病気が重
われた。そこで、御家老をよびおっしゃったことには、以前に外出禁止など
ばつ
の罰を命じた家臣を、残らずすぐに許すように使いを送れとのご命令であった。
これを聞いて「本当に今度のお心配りはありがたいことだ。」と、だれもが
むらたげん う え も ん
なみだを流した。殿様の良いお心のおかげで、病気はお治りになった。
きつねつ
三、狐突きの名人村田源右衛門
むらたげん う え も ん
けはい
村田源 右 衛門 と い う 人 が い て 、 不 思 議な くら い知 恵が 回 り 身 軽 さ も あ る
つ
人だった。キツネをうまく突いてとらえることを工夫した。「自分の気配 を
あ
かくすことができなければキツネを突くことはできぬ。」といったそうだ。
あぶら
この工 夫と は次の よう である 。秋 の夜に 油 ネズ ミ《ネ ズミ の 揚 げ物 》を
なわ
エサとして山に置いて、縄でくくり、縄を山から自分の家の方にひいてくる。
90
くなっていったので、殿様は自分で、もう病気が治ることはないだろうと思
五代藩主利道の墓(実性院)
やしき
ど
て
ど て
あ
自分の 屋敷の内に 土手をつくって、土手の中間を一か所切って 開 けておき、
その土手の上を通してエサのネズミを引き寄せる。自分はその土手を切った
間にかくれている。そうすればキツネはエサのネズミのにおいにひかれて少
しずつやって来て、土手の切れ目の所まで来て、その切れ目を飛び越えると
ころを下から突くのである。
かきね
初めのころはキツネが屋敷の境の垣根まで来たが、それより内側へは入ら
なかった。しだいに工夫したところ、その土手の切れ目まで来たが、そこで
けはい
キツネは人の気配に気づいて、切れ目を飛び越さずに巣へ帰ってしまった。
けはい
二、三年もの間そのようだったが、その間に工夫して、キツネは何の疑いも
ひき
なく飛び移ったという。
その工夫とは、自分の気配をかくすという工夫だった。
ひと ばん
それで毎夜、一晩あたり七、八匹 とれるようになり、「さてさてキツネとは
世の中にこんなに多い生き物かな。近くの国のキツネまでも寄ってきている
のではないか。」と、そのころ皆がいっていたという。秋になれば、屋敷の
やま づ
中にキツネの死体が山積みになっていたという。しかし、まったくムダなこ
91
とである。
はち う え も ん
はらだりゅう
やり
おおのじんのじょう
この人の兄の八右 衛門 は 原田流の 槍の使い手で、 大 野 甚 丞 などは兄弟弟
子であった。のちに槍の先生もつとめた。ところが、源右衛門は少しもけい
こをしなかった。兄もそのことをいうと、源右衛門は「何の役にも立たない
ことなので、けいこはしない。」と答えた。
弟子たちはこのことを聞いてひどく腹を立て、「源右衛門は考えちがいを
しているので、私たちからもけいこするようにすすめるのがよい。」と、八
右衛門の弟子たちは再び源右衛門にいったが、源右衛門の答えはやはり兄に
いったようなものだった。弟子たちは、「そのようであるならばためしに一
試合しよう。けいこが役に立つか立たないかためしてみたい。」といった。
ほえば
そうであるならばといって、源右衛門は小刀を出して杪場《燃料用の小さい
まき
薪を積む所》から木の小枝をぬき出してきて、「これで十分だ。」といった。
八右衛門の弟子のなかでも最も優れた者たちが出てきて、試合に加わったが、
つ
源右衛門は彼らを小枝で簡単に突いた。何度やってもすべて同じ結果であった。
92
お や し き
※坊主…藩の御屋敷内には、武士たち
お
い
ま ぼ う ず
い
ま
の世話をする坊主とよばれる者がいた。
ここでの御居間坊主とは、殿様の居間
かみ
で身の回りの世話をしていた者である。
あしがる
彼 ら は 足軽 と 同 じ 低 い 身 分 で 、 髪 を
そっていた。
本当に不思議な人もいるものである。
えんがわ
しょうじ
スズメなどが縁側に来たのを、源右衛門は障子を開けて飛び出し、手でつか
まえたという。山をカモがこえるとき、飛び上がってつかまえたこともあった
あま よ へいろく
こしょう
あま よ へい ろく
という。このような、世にもまれなすばやい人であった。
うら
とし あきら
四、坊主に恨まれた雨夜平六
しょうち こう
ま
正智公《四代利 章 》のそばに仕える小姓であった雨 夜平六 は、とまりの
い
当番でねていたところ、藩の御屋敷の居間の係のある坊主に、人の交わりの
恨みによって突然切りつけられた。しかし運よく体のそばを切っただけであった。
そういうわけで皆が集まり、坊主をとらえてしばった。とらえられた坊主は
まつもとそう う え も ん
うらみのことを打ち明けた。この者はのちに打ち首をいいわたされた。この
まつもと しげ じ
う
とき、今の松本重 次の養父である松本惣右衛門 がいっしょにとまっており、
こ だま に
坊主をとらえた者のなかにいたので、話をしていたのを、前の代の児玉仁右
えもん
衛門が直接聞いたという。
93
山口玄蕃の石碑(錦城山)
ちろり
五、米屋六郎右衛門
こめやろ く ろ う え も ん
商人の米屋六郎右衛門の家は、古くから続く家がらであった。あまり古い
やまぐちげんば
ま え だ とし なが
ことは知らないが、山口玄蕃が大聖寺城主だったころからやはり酒屋であった。
ずい りゅう こう
瑞 竜 公《加賀藩二代前田利 長》が大聖寺をせめたとき、城をせめ落とした
藩士のなかで、下級の者たちが米屋で酒を買って飲んでいた。その者たちの
一人に、酒を温める「ちろり」という入れ物をぬすんだ者がいた。ぬすんだ
のはだれかと調べているうちに犯人が現れたところ、その者を取り調べるこ
せ ん す や
ともせずに、その酒屋で打ち首にした。軍のなかでは、きまりは厳しいもの
なのだと米屋にいったという。
六、古い商人たち
たるや
めいわ
大聖寺で本当に古い商人の家は、前に述べた米屋・樽屋・扇子屋などであった
ほうれき
という。樽屋は宝暦(一七五一~六三年)のころ、扇子屋は明和(一七六四
~七一年)のころに、ともにすたれてしま っ て 、 今 は そ の あ と か た も な い 。
94
しげひろ
かんえん
※加賀藩主重煕…寛延元年(一七四八)
六月二六日と七月四日の二度、加賀藩
江戸屋敷において、食べ物に毒が入れ
られた事件があった。
のう
七月四日の事件は、重煕と位の高い
女中たちとが、能を見ながら料理を食
べようとしたとき、ある女中の飲み物
そくしつ
しんにょいん
に毒が浮かんでいたということから始
まる。
き び し い調 べ で、 側室の 真如院が 、
としかず
重煕と宗辰の母とを殺して、自分の子
いんぼう
である利和をあとつぎにするための
しんそう
陰謀だとされた。真如院は処罰された
か
が そうどう
が、事件の真相はわからない。
この話は「加賀騒動」として有名。
ほんこうじ
うしとら
残りの米屋だけは、今では酒屋で子孫があとをついでいる。本光寺のだんな
で、代々の墓も土地を区切って建てている。
七、天から光る物が
む
先年の七月一二日の夕方の六つ(六時)ごろに、大きく光る物が丑寅の間
しげひろ
どく
《北東の方向》へ天から落ちてきた。落ちたとき地面がふるえた。この日の
※けんとくこう
夕方に、 謙 徳 公 《加賀藩八代前田重煕》に 毒入りの食べ物を食べさせると
い う 悪い 計画 があ ったこ と がわ かっ て、 殿様が 毒 を食 べる こと はなか っ た 。
それが六つごろであった。かしこい主君であるので、そのような天の知らせ
があるものだろうか。
95
金沢城
八、すばらしい心を持つ家臣
くずまきごん の すけ
しょううんこう
つなのり
ばつ
ひはん
加賀藩の家臣、葛巻権之助は 松 雲公《加賀藩五代綱紀》に直接悪い点を批判
ご か や ま
申し上げたとき、殿様のご気分を悪くさせた。それで、五箇山へ罰として流
く
されてしまった。殿様はあとになって悔やまれ、権之助の批判が心のこもった
ものに思われて呼びもどそうとなさったが、権之助は帰らなかった。そのと
きの権之助の気持ちは、「殿様がお心を改められたのであれば、私はこの世
に思い残すことはない。ありがたいことだ。もしも今ご命令に従っては、殿
つみ
様に罪があったことになってしまう。」というものであった。本当に優れた
人である。
そののち権之助は、殿様の力をもってどのように呼び戻そうとしても帰らず、
えっちゅう
一 生 を五 箇山 で終 えたと い う。 松雲 公は 江戸ま で の往 復の 際に 、 越 中 でそ
の近くを通られると、乗り物から降りて権之助のいた五箇山の方に向かって
おが
拝んだという。いつくしみの心の深い殿様であるといえよう。
96
市之瀬神社(山代温泉)
くらのすけ
九、浅野内蔵助の手紙
あさのたくみのかみ
おおいしくらのすけ
やまがじんご ざ えもん
そこう
浅野内匠頭の御家老であった大石内蔵助は、山鹿甚五左衛門《山鹿素行》
の軍事の学問で一、二を争う優秀な弟子であった。また、素行のもとでは大
た か は し じ ゅ う ろ う ざえ も ん
えん
聖寺藩の家臣高橋十郎左衛門と兄弟弟子で親しかった。内匠頭が幕府より死
ろうにん
罪とされて、家臣たちは浪人となっていた。それで、以前からの縁で、十郎
ほっこく
左衛門から内蔵助へ、「浪人の身で生活に困っているのであれば、北国の大
聖寺へ来たらよい。主人との間を取り持とう。」と手紙を送った。
「ご親切はありがたいが、主人のいない身は気楽で、もう、主人にお仕えする
たけだしまのかみ
めいわ
という望みはない。」などと大石が自分で書いた返事の手紙は、どういう訳
やましろしんめいぐう
か山代神明宮の武田志摩守の家にあり、代々伝わっていたが、明和(一七六
四~七一年)のころであっただろうか、志摩守の家が没落し、家の財産が取
り上げられてせり売りがあったとき、この手紙が売り出されていたのを、他
国の商人が買い取っていったと聞いた。
97
おおいし く ら の す け
大石内蔵助
ちゅうしんぐら
せったい
げんろく
あこうはん
あさ の たくみのかみ
大石は「 忠 臣 蔵 」という有名な話の主人公である。元禄一四年(一七〇一)、赤穂藩の殿様である浅野内匠頭
ちょくし
が、京都からの天皇の使い(勅使)を接待する役を幕府から命じられた。しかし、役をつとめるうちに指導役
きらこうずけのすけ
せっぷく
の吉良上野介にうらみをもって、ついに三月一四日、江戸城中で切りかかった。吉良は死ななかったが、浅野
だんぜつ
しゅくん
家は断絶ときまり、内匠頭は切腹、浅野家の家臣たちも散り散りになってしまった。
おおいし く ら の すけ
げんろく
浅野家の家老であった大石内蔵助は、主君が切腹したのに相手の吉良はとがめられず生きていたので、浅野
むねん
う
はか
の家臣の同志と主君の無念を果たそうと約束した。そして苦労の末、元禄一五年(一七〇二)一二月一四日、
やしき
四七名で吉良の屋敷に討ち入り上野介を殺し、殿様の墓に報告したのち死罪となった。
かがみ
はなやかな元禄の文化を楽しみ、すっかりゆるんだ武士たちが増えるなかで起こったおどろきの事件だった。
かたき
大石たちは見事に主人の 仇 を討ったとして、武士の 鑑 とたたえられた。
あだうち
さてこの記事では、大聖寺藩の高橋のさそいに、大石が、主人がない気楽な生活が良いと、断っている。親
かく
切な親友に対しても自分の計画を隠しており、仇討を成功させるための大石の用心深さが感じられる。
大聖寺藩でもこれとよく似た事件がその後おこるが、その話は、この巻二ですぐに出てくる。
98
き む ら く ざ えもん
としまさ
こうかい
お
一〇、木村九左衛門の後悔
うねめ
だ けんもつひでちか
や ま と やなぎもと
前田采女《利昌》様が織田監物秀親《大和 柳 本 藩主》を切りつけたのは、
江戸の上野でのことであった。以前から采女様は監物に腹を立てていたので、
き む ら く ざ えもん
木村九左衛門はいつも、「とにかくはやまったお考えはなさいますな。」と申
し上げていた。
しかし、すでにその前の夕方に、采女様は九左衛門に、「人は切るのがよ
つ
いか、それとも突くのがよいか。」とおたずねになっていた。ところが、以
前から采女様はこのように武芸についてのお話をするのがいつもことであった
ので、九左衛門は何も気づかず、ただいつものとおりだと思っていた。
じ た ん だ
それなのに翌日すぐに事件があり、九左衛門は地団駄をふんでくやまれた
という。それは、「若い殿様に、いい年をした九左衛門が気を配らず、いつ
ものことのように思ってしまい気づかなかったのは、残念なことである。こ
のことを少しでもおっしゃって下さっていれば、できることもあっただろう
に。」と後悔したということだ。
99
ま え だ としまさ
ま え だ としまさ
前田利昌
としあき
としなお
じょうきょう
うねめ
前田利昌は、二代藩主利明の子として 貞 享 元年(一
としつね
つなのり
六八四)に生まれた。三代藩主利直の弟で采女と名のった。
と
こ
りょうない
二人は共に前田利常の孫にあたり、五代加賀藩主前田綱紀
い
とは従兄弟になる。
げんろく
利昌は新しい藩の大名になれた。利直は 領 内 の各地に
しんでん
開発した新田が一万石あるとして、元禄五年(一六九二
七月九日に、それを利昌に分与した。このようにして、
しんでんはん
増えた新田をもとに作られた藩を大聖寺新田藩という。
お や し き
しんちょう
ごうしょうじ
大聖寺新田藩の利昌の御屋敷は、大聖寺町に隣接した
おぎゅう
かやまち
いたばし
荻生にあり、その後、大聖寺町北部の 新 町 の毫摂寺あと
ざ えもん
地に移された。江戸屋敷は茅町と板橋にあたえられた。
く
家老は木村九左衛門である。
)
ほうえい
にんじょう
利昌の刃 傷事件
かんえいじ
つなよし
宝永六年(一七〇九)正月一〇日に将軍綱吉が死んだた
ほうよう
め、月末から法要が上野の寛永寺で開かれ、二月一四日に
ちょくし
としまさ
ちゅうぐうし
きさき
は、京都の朝廷から勅使(天皇の使い)ら七人の使いが来る
せったい
や ま と やなぎもとはん
お
だ ひでちか
ことになった。そのため、前田利昌は中宮使(天皇の 妃 の
使い)の接待を命じられ、大和 柳 本 藩 の織田秀親も使い
の接待を命じられていた。
一六日に勅使一行は上野の寛永寺にお参りに行くという
しゅくぼう
ことで、前夜から利昌や織田秀親らは寛永寺内の 宿 坊 で
ちゅうしんぐら
あさ
はたらいていたが、一六日の夜もまだ明けぬうちに、利昌
とつぜん
にんじょう
さいげん
は織田秀親を突然に切ってしまった。忠 臣 蔵 で名高い、浅
の たくみのかみ
野内匠頭の 刃 傷 事件の再現である。
ちすじ
利昌は織田秀親をうらんでこの事件がおこしたのだが、
原因は、織田信長の血筋を引く秀親が、二四才の若い利昌
を「青二才」とからかったためだという。
100
にんじょう じ け ん
一一、 刃 傷 事件ののちに
けんもつ
うね め
織田監物を切りつけた事件のとき、木村が落ちついて行動したので、采女
お やしき
様は無事に御屋敷に帰ることができた。木村は采女様がお病気であるという
だ
ことにして、すぐさま帰ることができるようにして、お供の者たちに急いで
お
したく
うねめ
用意させた。そのとき織田の家臣たちも、
「それは気の毒だ。どうかなさった
たお
101
のか。」などといって、帰る支度の手伝いなどをしたという。
にんじょう
お
り、玄関まできてそこに座ると、両方の袖から血がどっと吹き出ているよう
かなり深かった。弥一郎は采女様のお供をして控えの場所までいっしょに帰
ひか
めで、「弥一郎です。」というとおわかりになった。このとき、弥一郎の傷は
家臣だと思って、弥一郎までも切りつけられた。これはその場が暗かったた
様が織田監物を押し倒していた。もっと近づいてみると、采女様は他の藩の
けんもつ
事件のとき、岡田弥一郎は、なんだか物音がするので行ってみると、采女
お か だ や いちろう
一二、 刃 傷 のとき
采女利昌のよろい
は ぶ た え
こそで
であった。このとき、弥一郎は気を失っていた。弥一郎は羽二重の小袖を二
つ重ねて着ていた。
羽 二 重と いう もの はすば ら しい もの で、 血がた ま って いる にも かかわ ら ず 、
お やしき
少しも外にもれなかったという。これは羽二重の不思議さである。
一三、事件の様子を記した手紙
うねめ
その采女様の事件があったとき、当時江戸の御屋敷にいた家臣から大聖寺
藩の御屋敷へ届けてきた手紙の写しを持っていた人がいる。私はそれをさら
に写しておいた。その手紙の内容は、事件のときの様子を見るように書いて
あって、読むとなみだが出ることだ。この手紙はだれが書いたのかはわから
ず、その文のまま、ここに書いておいた。
今度のこちらの事件について、すでに少しずつ知っていらっしゃると思い
ます。まことに、何といってよいかわからないことで、これをお読みのあなた
102
※羽二重…織り方の一種で、縦糸と横
糸を交互に交差させる織り方。
羽二重の織り方
※けさがけ…一方の肩から他方のわき
き
腹にかけて、刀で斬ること。
せ けん
も同じお気持ちだと思います。大聖寺の方では世間の話もこのことだけだと
思われます。
ゆうしゃ
しかしながら、采女様は勇者だといえるほどでした。殺された織田どのは、
お ぐ ら かん た
ご ちょう
ちから じ まん
ご存じの小倉勘太などよりいっそう大きくて、酒もたくさん飲み、力持ちで
ごばん
す。いつも、碁盤の上に鉄砲を五 丁 も乗せて持ち上げ 力 自慢するのを、酒
ちゅう
を飲む とき の楽 しみ と してい まし た。 その う え、 中 く らい の長 さの 刀 を使
う名人で、ふだんから油断できない人で、諸大名と親しく知りあう人は、織
田のことを、気をつけるべき人だとみていました。これほど強い人だといい
ます。だがそのときは運がつきて、力がたりずに殺されました。
つ
采女様は初めに相手の右手をおさえ、そのまま刀を右の胸から突き刺しま
した。一さしえぐりなさると、その傷口のまわりは六、七寸(一八~二一㎝)、
※
背中の後ろまで突き通し、二刀目には肩から切り込まれたので大きくけさが
けに肩から腹にとどくまで切り、三刀目にはノドから口にかけて突きさしな
さると、首の半分ほどまで切り、織田どのは何も手を出す間もなく、「これ
103
げ
ぎしき
は…。」と一言いうよりほかなかったといいます。
く
こうけ
京都から来ていた公家や、儀式を伝える大名の高家なども、しだいにこの
きじん
様子を見ていましたが、その場の様子は鬼神も近寄りにくいありさまだった
ので、皆、戸や障子を閉め、部屋の中に入って出てきませんでした。二刀目
やいちろう
を切りつけたときに、弥一郎が采女様のおそばにかけつけると、刀の先があた
りました。これは弥一郎だとお気づきになっていれば何事もなかったのです
ざ えもん
が、暗かったので見えず、他の者だと思われ、お切りになったようです。
「弥
く
一郎です。」と申し上げると、刀をそのままかくされたところへ、九左衛門ど
のがかけつけました。それからただ、九左衛門どのが
「御屋敷へお帰りである。」
といわれて、采女様は玄関のわきへ出られ、
寺の門の外までお出になりました。
なかがわしち ざ え も ん
そこには、外の仕事のために中川七左衛門がつとめていました。この人は走
り回って、すぐにカゴを用意し、采女様はすぐにお乗りになりました。
あ だ ち し ん ご え も ん
安達新五右衛門 なども次第にそこへ集まり、弥一郎や九左衛門どのなど二、
三人は采女様にお供もした。それから次第にお供の人々も集まってきて、何
104
※江戸屋敷…江戸にある屋敷で、江戸
城から近い順で上屋敷、中屋敷、下屋
いけ
はた
事もなく池の端を通って采女様の屋敷に帰られました。そのとき、九左衛門
は采女様の馬に乗り、カゴの後ろにつづき、何事もなかったかのような様子
でした。
※えどやしき
途中で大聖寺藩の江戸屋敷へ九左衛門どのから知らせがありましたが、だ
いたい午前四時ごろだったと思います。ご急病のため屋敷にお帰りになった
としなお
われ
と伝えてきたので、大聖寺藩の殿様の利直様はすぐに采女様の御屋敷へ来ら
むら い との も
れ、藩の御家老の村井主殿をはじめとして我も我もと、どんどんかけつけて
くる様子でした。
采女様は御屋敷に入られて着ている物を変えられ、何の変化も見せないよ
たかもと
ほん だ
や
へ
え
うでした。利直様は大聖寺藩のお屋敷を出られるとき、加賀藩の重臣である
たてわき
じ
ほんだだんじょう
前田帯刀(孝始)どの、本多弥兵衛どのなどへ急ぎの使いを送って知らせて
お
そう
あったので、この人たちもすぐにおいでになりました。采女様の伯父の本多弾正
おおくぼかがのかみ
様はお仕事で上野へ行っていました。そこで事件のことについて、幕府の惣
おぶぎょう
御奉行であった大久保加賀守どのから聞いて、何よりも先に采女様のお屋敷
105
敷とある。上屋敷は参勤交代の際の大
名の居住地で、藩主一家が住んだ。
江戸藩邸の位置
かんとく
をお訪ねになり、ご様子を見届けると、家来たちを監督しました。また、儀
でんそう や し き
式がおこなわれる予定の伝送屋敷に家来たちがいるので、ここへは本多弥兵
だんじょうのしょう
お
じ
衛をおくって監督するよう命じられました。もっともこのとき、早々と引き
さしず
はらって帰るようにしなさいとのお指図でありました。弾 正 少《采女の伯父
としたか
で富山藩主の弟、前田利隆》様も七つ半(午前五時)過ぎに屋敷にお入りに
なり、いろいろのご命令を次々とだされました。采女様がお屋敷でそのまま
生活することは許されるのか、だれもがわからないでいるので、大聖寺藩の
ごようばん
殿様から、すぐに大久保様や幕府の政治を受けもつ御用番へも、また幕府の
じ
たかたけ
役 人 で武 士の 見は り役の 御 目付 へも 案内 の使い を すぐ につ かわ されま し た 。
お
これもまたとてもうまくいきました。
あわじのかみ
そのうち、淡路守《利昌の伯父で、旗本の前田孝武》様などもおいでになっ
お か だ や いちろう
て、皆がいるなかで、事件について木村氏と岡田弥一郎の話を書きあげ、細
おがさわら
かく調べております。それは先にそちらへも写しを送った内容でございます。
ごようばん
それはすぐに弾正少様や、幕府の政治を担当する御用番の小笠原様へも持っ
106
大聖寺藩主前田家の墓所(東京の広徳寺)
ながとのかみ
としおき
ていかれました。長門守《采女の伯父・富山藩主前田利興》様も六つ時(午
前六時)からおいでになり、昼過ぎまでおられました。夕方にもおいでになっ
て、采女様がよそに送られるまでお世話されました。また、朝の五つ時前ま
つなのり
でに一族の人へは残らずお知らせし、つぎつぎとおいでになるので、お迎え
なさいました。
しょうこう
相 公《加賀藩五代前田綱紀》は四つ時(午前一〇時)ごろにおいででした
わかさのかみ
が、半時(約一時間)ぐらいいらっしゃいました。若狭守(加賀藩主六代前
よしのり
田吉徳)様は五つ半ごろ(午前九時)においでになり、昼過ぎまでおいでま
した。お客様は皆、采女様とお会いになり、それぞれ別れのごあいさつをな
さっていたとき、相公様は、今に始まったことではありませんが、たのもし
いお言葉を、大聖寺藩の殿様もこの上なくよいお言葉をかけられ、さすがは
この時代を代表するしっかりした考えのお方だ、と感心いたしました。それ
でなおさら、采女様はふだんの通りお食事をめし上がることができ、お休み
になりました。
107
やましろ
よど
同じ日の夜五時(午後八時)すぎに、「石川様《山城・ 淀 (今の京都府南
部)の大名》の屋敷に采女様を預けよ。」という幕府のご命令があり、一つ
ず つ 準備 をし たの でさし つ かえ はあ りま せんで し た。 四つ 時( 午後一 〇 時 )
に 幕 府の 役人 の御 目付た ち がい らっ しゃ り、幕 府 のご 命令 を伝 えられ る と 、
そ
そのまますぐに采女様をおカゴに乗せて大勢が付き添っていきました。この
ときのご身分の高い方や低い者すべての人のお気持ちは、きっとおわかりで
しょう。お客様方をはじめ、そのお付きの人から私たちまで、一言もで
ず、ただたださみしい気持ちでいました。それからしだいにだれもがお帰り
しも や しき
になりました。利直様は夜の九つ(深夜一二時)過ぎに母上のいらっしゃる
せ ん だ ぎ
千駄木の下屋敷を見回って、すぐにお屋敷にお帰りになりました。采女様の
けい び
お屋敷には色々な道具がありましたので、
お屋敷内のあちこちの警備のため、
とのも
また、あれやこれやといった用事もあって、大聖寺藩の御家老の村井主殿ど
のをはじめとして、お役人たちは皆残らず一七日の昼までいて、ようやく片
付けができました。それから幕府のお役人と、こちらの御用人などの役人と
108
が立ちあって、二、三日前までにすっきりと片付け、掃除までもすませました。
しかし今からはお屋敷に入ることができないのでと、見はりの当番のほか多
くの人々がお屋敷に入りました。
一 七 日は 何の 知ら せ もな く 、一 八日 も昼 の あい だ は何 事も なか っ たの で 、
せっぷく
お
る
す
い やく
とのも
ころに、 御留 守居役という連絡係から 主殿どのへ手紙が届き、「ただ今、切
腹がすみました。」という知らせだったので、またワッとざわつきました。
上の者も下の者も何もできず、そうはいってもどうにもならないので、その
ままご遺体を引き取る用意をばたばたしていたところへ、本多弥兵衛どのが
お がさわら
おいでになって、ご切腹のことについて、小笠原どのからいわれた幕府の命
たてわき
え
すが たに へい だゆ う
令について話されました。帯刀どのなどもおいでになり、すべて相談をすま
なかざわ きゅう べ
せ、やがて采女様を受け取るため、木村氏、 中沢 久 兵衛、菅 谷平太夫や、
その他采女様の家来で代表的な家臣は残らずつかわされました。
いたい
石川どのの御屋敷で次々と手続きをして、ご遺体を受け取りました。石川
109
ご切腹などないのではないかとザワザワとしていました。日暮れが少し過ぎた
右は前田家の墓、中央が利昌の墓(広徳寺)
こうとくじ
し た や
※広徳寺…江戸の下谷にあった大寺院
ね り ま く
で多くの大名の寺として栄えた。現在
としまさ
は練馬区桜台に移った。大聖寺藩前田
はか
か も ん
家の家族の墓があり、利昌の墓もここ
にある。
広 徳 寺 の 玄 関 に は 前 田 家 の 家紋 が
し
し ぐち
とのものかみ
主殿頭というかたは、とにかくいうことがないくらいていねいな方で、ご遺
ひつぎ
体の確 認な ども 行き 届 いた身 なり でな さり 、 棺 に入れ たと きの 様子 や 、カ
※こうとくじ
ゴの素晴らしさは、とにかくすべていいつくせないほどで、すぐに広徳寺へ
そう ぎ
お移しなさいました。采女様のご葬儀は一九日の晩とお決めになりましたが、
じょうこういん
浄 光 院 ( 徳川 綱 吉の 奥方 ) 様の ご 遺体 を 一九 日に 上野 へ お入 れ しよ うと し
ていたので、そうすることも難しかったのです。ですが、延期するのも気が
かりだということで、急に一八日の夜中にあわててご用意し、一九日の明け
ど そう
方に葬儀をすませ、土葬にいたしました。
石川主殿頭様がおっしゃるには、「身分の高い方のことなのでお預かりする
決まりもありますが、とてもそのようにはできず、できるだけごちそうしよ
うと思っても何も準備ができず、十分なごちそうはなかなかできませんでした。」
ということでした。
ご切腹のとき、幕府の大名を見張る役の大目付や御目付たちが将軍様の命
令をお伝えになると、「ご命令をかしこまって受けました。」と、采女様は見
110
入っており、庭にも前田家の書院の飾
り瓦
「獅子口」
が置かれているそうだ。
広徳寺の玄関
おかちめつけ
事な調子で、きりっと受け答えました。すぐに、切腹の場へむかわれ、切腹
かいしゃくにん
のとき首を切り落とす「 介 錯 人 」の御徒目付にごあいさつされ、
「これから、
言葉をかけるまで首を切るのは待ってくれ。」と命じられ、切腹の作法のと
さんぼう
おり、刀を置いてある「三方」という台を引き寄せました。
そのころ、切腹では刀を取られると、腹に刀をあてる前に首を切り落とす
えば、もう腹に刀を突きさし、真一文字に深々と刀を横に引きつけられました。
少しあとになって、ご自分でとどめをさす力がなくなったところで、役人が
切りつけると、ただ一切りで何の苦痛もないご最後とのこと。なんとも華や
かなご様子で、そこにいた御目付たちや、荒々しい主殿様さえ「前代未聞の
ことだ。まだお若いのに見事なご切腹で、生きていたならばきっとお役に立
つお方だっただろうに。なんとも惜しいことであるな。顔色一つ変えない見
事なご様子がせめてもの救いであった。」と皆さんなみだを流し、しばらく
の間はだれも何もいわなかったということでした。
111
のが秘密のしきたりになっていましたが、采女様は三方を引き寄せたかと思
左端に利昌の名前あり(広徳寺)
切腹を座敷でさせた幕府の命令についても、いまだになかったことで、切
腹は大名であるなしにかかわらず、座敷ですることなどなく、我が藩でもな
しらす
えん
いことで、どのようなお方も外に砂を敷いたお白洲でするものです。ところ
びっちゅうのかみ
が、どのようなことでしょうか。幕府の横田 備 中 守 どのが「座敷の縁側に
たたみ
畳 を敷いた上で切腹。」と幕府の命令をいわれたので、御座敷で行われました。
とにかく、ご命令が特別な内容であったことと、それについて問題が残ら
なかったのはよかったのですが、このようなことはだれにでもあることでは
ありません。江戸城内をはじめ、江戸中ではただただ采女様をほめるばかり
おがさわら
です。特に、その月の幕府の政治の当番である御老中の小笠原 どのなどは、
大変感心しておられました。利直様は采女様の兄として幕府から外出禁止の
ながとのかみ
としおき
罰を受けましたが、早く許されたので、これもまたこのようなことはないと
いうことでございます。
きちゅう
さ
ど
忌中なので、代理の者を長門守《富山藩主・前田利興》様などのところへ
こわ
お礼のあいさつにまわらせました。お屋敷も徐々に取り壊すようにと、佐渡
112
どうさい
(小笠原)どのから申して来られましたが、今でもそれを幕府にお返しして
いません。
かみ
木村九左衛門どのは昨日髪をそって出家し、
道斉と名前を改められました。
ふ じ た じゅうろう う え も ん
采女様から色々親切にしていただいていたからです。藤田 十 郎 右 衛門も髪
をそり、出家いたしました。これも殿様から親切にしていただいていたから
と申し、お墓でその晩に髪を切りました。弥一郎は心のいたみがようやくい
えてきましたが、今も采女様に申し訳がない気持ちが強く残っています。と
しば
にかく、木村や岡田を、世間では采女様の 次 に ほ め て い る と い う こ と で す 。
かんえいじ
織田氏の遺体は、ようやく一六日の昼に、上野の寛永寺から芝にある織田
氏のお屋敷へ引き上げたということです。えらい方々がいらっしゃっていた
ので、ずいぶん差しつかえがあったようでございます。家来たちは上野にひ
せんごく
かえていましたが、夜が明けるまでは事件をまったく知らず、それから仙石
たんば
丹波どのになだめられて屋敷へかけ戻ったということです。少しさわぎがあ
りましたが彼がうまくなだめたことで、仙石丹波どのの働きは天下一だと広
113
114
くいわれました。このほか織田には、あれこれと口々に批判だけがありました
三月五日
広徳寺の前田采女利昌の墓
が、こちらの藩はただただおほめになるばかりでございます。
前田采女利昌の墓に記された法名と命日
利昌の切腹
そくしつ
としまさ
やましろ
よど
いたい
とのものかみ
かんえいじ
せっぷく
そうぎ
幕府の命令で、利昌は山城の淀藩主・石川主殿頭にあずけられ、そこで切腹となった。葬儀は、
つなよし
ほこ
将軍綱吉の側室もこのころ死んで遺体を上野の寛永寺に運ぶ日に重なり、あわただしく行われた。
ほこ
えん
もう
し
しかし、家来たちは利昌を誇らしく思っている。次のようなことが、誇りとした理由だと考える。
あさのたくみのかみ
①浅野内匠頭とことなり相手を殺して、望みをとげたこと。
せっぷく
ざしき
②切腹直前に首を切るならわしを断り、実際に腹を切ったこと。
むらさき
はくふ
③切腹が、浅野内匠頭のときは庭で行われたのとことなり、座敷の縁に毛せんを敷きつめ、六枚
たたみ
の 畳 をしき、その上に 紫 のふとん・毛せん・白布を重ねた所で切腹させよと幕府の命令があ
り、ていねいなあつかいだったこと。
お や し き
④江戸の御屋敷もすぐには取り上げられなかったこと。
他に、利昌の領地一万石は一時、幕府に取り上げられたが、すぐに大聖寺藩に返されている。
115
藩邸付近の侍屋敷跡(荻生町)
うねめ
一四、家臣思いの采女様
うね め
采女様は江戸のお屋敷に池をほり、山を築いて庭を造りたいと以前からお
望みであったが、経費を調べさせるとよほどの費用がかかるようで、収入が
少ない身である采女様ではなかなか思い通りにはできなかった。しかし、こ
の庭造りだけは特別に強い望みだったので、御家老の九左衛門などが相談し
て、毎年少しずつ経費を残して何年も積み立てたうえで、庭造りをする以外
に 方 法は ない だろ うと決 め た。 そし て、 その通 り に心 がけ なさ ったと こ ろ 、
五、六年かけてようやくお金を一三、四〇両ほどたくわえた。さて、大分目
しもじも
標の金額に近づいたと満足なさり、すぐに庭造りにとりかかろうとお思いに
ね だん
なったところ、その年は米の値段が非常に下がり、藩の家臣たちや下々の者
ま で の生 活が たい へん苦 し くな った 。采 女様は こ のこ とを お聞 きにな る と 、
庭造りのためにたくわえたお金をすぐに出して、藩の家臣たちや下々の者に
まで下さった。そのときおっしゃったのは、
「今年の様子では、米を受け取る
家臣たちは皆生活が苦しいが、私は収入が少ない身であるので何事も思うよ
116
うにはできず、皆を助けてやれない。しかし、幸運なことにも年月をかけて
私の物好きのために貯めておいたお金がある。自分の物好きにかえて、下々
の者の苦しい生活をそのままにしておくのは、私の本心ではない。そういう
わけで、今回このお金を皆に与えるのである。どうか受け取るように。」と
いうことであった。だれもが強く辞退しようとしたが、かえって采女様のお
こ がね
けんやく
む いち
黄金以上の価値があるとありがたがって、皆で受け取り、どんな年でも無一
もん
文にならない心得が第一であると、倹約を重んじて暮らしたという。
としあき
一五、殿様のお庭に馬が
だ い き こう
大機公《二代利明》の庭園に、二頭入る馬小屋があった。毎日、馬に当番
くら
を決めて、馬小屋から馬に鞍をつけて引き出し、二頭用の馬小屋に交代でつ
ないでおいた。
117
気持ちにかなわないので、やむをえずいただくことにし、このお金は千万の
侍屋敷跡の井戸(荻生町)
しゃげきじょう
一六、耳聞山の射撃場
みみききやま
がめちょう
昔、耳聞山には 射 撃 場 があった。これは亀 町 の奥で、東の方に玉が落ちる
おかざき は や と
や しき
のである。的もあって、ここに並べられていた。的の向こうは、耳聞山であった。
すそ
このとき、耳聞山の裾ののびたところは、岡崎隼人の屋敷までかかっていた
という。次第につぶれて、今では大きく変わってしまった。それから耳聞山
射撃場地図
の射撃場は途中で絶えてしまったが、今またできた。しかし最初にあった場
所とはちがい、玉が落ちる方角もちがう。
118
射撃場あと地(どんぐり山)
どんぐり山(大聖寺耳聞山町)
正しい曲尺(かね)
か ね
一七、亀町と『なま曲尺』の由来
がめちょう
ば
よ
だ ももすけ
亀 町 の御屋敷は、以前はなかった。道は依田 百助 の屋敷から折れ曲がっ
で
ていて、亀町の方への出張り地が同町に入ったのも最近のことだという。初
み み き や ま なかちょう
かきざわ し ん ざ え も ん
つ つ い こうあん
めは真っすぐな道だった。今の耳聞山 仲 町 は家がある。この耳聞山仲町と
はたけ
道との間、今の亀町の所は 畠 だった。そののち、柿沢新左衛門や筒井幸庵(今
せい だ ゆう
の清太夫の祖先)、もう一人の名は知らないがこの三人が、ここを殿様から
さん かめ
いただいて住んでいたとき、この三人は大酒飲みであった。《大酒のみの人
かめ
を 亀という。》このことから、世間では三亀 とあだ名を付けたが、いつの日
か
ね
おくがた
か地名となって、藩の記録にのるほどの名前になった。これと同じようなこ
とがある。
すみ
殿様のお屋敷の北東の角を「なま曲尺」という。昔は殿様と奥方の住む場
なな
かねじゃく
か
ね
所があったところである。奥方の住む場所は、すべて、正しく直角に曲がった
ものさし
尺 を使わないことがときどきあったので、斜めの曲 尺(なま曲尺)といった
が、これがいつしか正式なこの場所の名前となった。
119
き もん
ほかには、北東の方角は鬼が出入りする鬼門という場所なので、屋敷のそ
かどち
の角地は建物を建てず、正しく測量もしなかったので な「まかね と」いう説がある。
さく
しかし、実はそうではない。その証拠には「なまかね」の所を柵で鬼門とし
120
て区切ってあるが、昔はなかった。
《その場所が鬼門と決められていなかった
のである。》
藩の御屋敷の「なまかね」
一八、加納次郎左衛門の死
かのうじろう ざ えもん
おうままわりぐみ
きょうほう
加納次郎左衛門という家臣がいた。御馬廻組にいて、藩からあたえられた
と
領 地 はは っき りし ないが 一 〇〇 石く らい だった 。 享 保 九年 (一 七二 四)三
お うま まわり
つと
月二三日 夜、次 郎左衛 門は 御 馬 廻 の番所の 泊 まり 当番 であった 。夜中す ぎ
たいこごもん
に「太鼓御門」の後ろの入口広場で死んだ。そのとき、いっしょに勤めていた
こ もり た がの じょう
のは 小 森 多 賀 丞 だった 。この ころ は二人で 泊まる規 則に なってい た。小森
かしら
は番所 を空 にし て、 頭 の 番所へ 知ら せに 出た 。 このと きか らま た、 二 人で
は 番 所が 空に なり やすい と いう こと で、 泊まり は 三人 です るこ とにな っ た 。
以前は全員が泊まることになっていたが、ケンカがあってから二人になって、
加納の死で番所を空にしたときから、また三人となった。今もなお三人である。
加納次郎左衛門が死んだ原因には、このようないきさつがある。御馬廻の
者すべてがあることで願い出たときに、この次郎左衛門はほかの者よりもこ
とさらに強く願った。その自分の思うことを通そうとする気持ちは、じつに
殿様のごきげんを害するほどであった。しかたなく願いどおりにとおいいつ
121
けになったが、あとは何となく殿様のごきげんがよろしくなかった。そこで、
人々はいろいろな方法を使って殿様の信頼を取り戻したが、この加納だけは
.て
.がなく、気に入られることがなかった。
つ
のう
そのころ、能が行われ、藩の家臣たちが拝見を願ったとき、加納だけは願
かな
いが叶わなかった。そのため、非常にこのことを気にかけていたが、性格は
気が小さく、そのころは災難が多くあった人なので、もしも役目をやめさせ
や
くず
られたらどうしようかと、気に病んで心が狂った様子であった。とうとう自
分の身をほろぼしてしまったのである。
しんぐ
このほかには何の原因もないといわれている。その日、加納が寝具や葛を
編んだカゴを持ってきた家来へ、「私は事情があるので、今晩のうちに一家
残らず立ち去りなさい。」という手紙を書いて、家族にわたすようにいった。
この手紙を家来はうっかり忘れて、遅れて家族へわたした。加納の家ではこ
いわはら
の内容を見ると、訳もわからずおどろいて 、 上 を 下 へ の 大 さ わ ぎ と な っ た 。
わかばやしやげんじ
次郎左衛門の屋敷は、ある時期は若林弥源次が住んでいて、そののちは岩原
122
じ
ざ えもん
治左衛門が住んだ。
としなお
一九、三代利直の領内見回り
えんつうこう
円通公《三代利直》は領内を見回ることがあった。あるとき、山中の谷よ
わがたに
い
す
り奥へ入られて、我谷の山の頂で暴風雨にあい、だれも目も口も開けられぬ
かっぱ
くらいだった。ところが、殿様は合羽を着て、折りたたみの椅子に腰かけ落
た
ち着いていらっしゃった。お供の者たちは、
ほとんど耐えることができなかった
おおうちむら
ほどだったという。このとき、だれもが
「さてさて強い性格の殿様であるなあ。」
みす滝の
帰るさ忘る
秋の夕暮」
ゆうぐれ
といって感心したとのことだ。この見回りのとき、大内村のみす滝でつくら
れた和歌がある。
「かかるとも 知らで今まで
(訳)このようにきれいであるとも知らないで今まで見ずにいたこのみす滝
を見ていると、帰る事も忘れる美しさよ。秋の夕暮れの中で。
123
大土町
それからさらに山にお入りになったところ、あの暴風雨でどの川も水が増
えて、なかなかお入りになれる状態ではなく、見回りされるときは数日間の
く たにむら
おとまりとなった。見回りはまた今度にしようと九谷村から引き返されお帰
おくみね
りになった。このとき、越前の国との境の「奥峰」という山々も回られ、今
おおづち
かみしん ぼ むら
とうげ
でも「お休み場」といって、草を切り払い地面もならしたあとが残っている。
いぶりはしがわ
あちら谷《 動 橋 川上流》へは大土村まで入られて、上新保村へ越える 峠 を、
きもいり
馬に乗って入ることができるようにせよとお命じになった。大土村の肝煎《
しょうや
庄屋 のこと》などは困って、「この坂は馬にお乗りになって入られるように
は、なかなか簡単にはできません。」と話し合った。それに、このときもまた
え もん
大雨になり、峠を越えることは中止になり、大土村から引き返された。これ
ご ろう う
は、大土村の肝煎の五郎右衛門という者の話だ。
124
島 町
とむら
しまむら ご ろ う う え も ん
しま
ごろうえもん
二〇、十村の嶋村五郎右衛門の先祖
とむら
わ
だ もん ど
し ず が たけ
し ば た かついえ
十村を務める嶋の五郎衛門の先祖は和田主水という。だれに仕えていたの
ろうにん
じん
えっちゅう
かはわからないが、浪人となっていた。賤ヶ岳の戦いで破れた柴田勝家の、
や な が せ
柳ヶ瀬《滋賀県》の 陣から 越 中 《今の富山県》へ来ていたのを加賀藩二代
としなが
藩主の利長様が、
「そなたは、ただこのようにしているのもいかがなものか。
あわ づ むら
私の領内の粟津村の土地に住みつき、農業でもしたらどうだ。」とおっしゃっ
て、土地をお与えになった。それからは、粟津村に住んで、のちに嶋村で五
しょうや
郎右衛門と名のり、代々大庄屋である十村をつとめてきた。
125
てんしょう
や な が せ
じん
柳ケ瀬の陣
へん
お
だ のぶなが
あ け ち みつひで
天 正 一〇年(一五八二)、天下統一を目前に織田信長が明智光秀のむほ
ほんのうじ
はしば
んによる本能寺の変で倒れた。その後、だれが信長のあとをついで天下を
取るか争いになる。
ひでよし
し ば た かついえ
よくねん
そのよ うな争 いと し て、光 秀をた おし 主 君信長 のかた きを と った羽柴
とよとみ
わ
こ
や な が せ
じんち
(豊臣)秀吉と、信長の古くからの重臣で実力者であった柴田勝家が翌年
び
たたか
に戦った。勝家は琵琶湖北岸の柳ケ瀬に陣地をおいて戦った。この戦いは
しずがたけ
としなが
普通「賤ガ岳の 戦 い」とよばれている。
としいえ
前田利家、利長はそれまで信長の命令で柴田勝家を総大将として北陸で
朝倉氏や一向一揆、上杉氏と戦っていたため、この柳ケ瀬の陣では勝家の
側についた。勝家は秀吉に敗れ、利家は以後、秀吉に従うことになる。
126
二一、断られたごちそう
おぎゅうむら
荻生村に藩の家臣の屋敷があったころ、ある人が夜明けに起きて庭へ出た
ときに、青サギが一羽、家の後ろの川からきて、低く飛んで通った。その人
はサギとも知らないでおどろきながらも、気が早い人で飛び上がり、刀を抜
くなり切った。
さて、その家臣が近所の友にいいやったことは「このようにしてサギを手に
入れた。料理するので食べに来るとよいだろう。」というものだった。人々
は「実際にサギが飛んできて、思いがけないことでおどろいて切るというの
ふかく
は不覚《注意がたりない失敗》というものだ。注意がたりなくて得た物をご
きゅう べ
え
おぎゅうむら
やしき
ちそうしていただくのは、我らの好むことではない。」といって一人も来な
かったという。
二二、天から首が
きむらどうさい
木村道斎の父の 九 兵衛は、荻生村の屋敷にいた。今の荻生橋をわたって、
127
みぞ
としつね
溝の橋を通った右の方に、その屋敷あとがある。切った石が土の下に今もな
なんれいいん
おあるという。この屋敷は、もともとは南嶺院《加賀藩二代利常の妻》様が
お入りになられていたという。南嶺院様がお亡くなりになったのち、土地も
御屋敷も九兵衛へ下されたという。ここに九兵衛は住んで、藩から四〇〇石
を受けていた。
いたぶ
ある夜、板葺きの屋根の上で、すごい物音がした。家来にいいつけて屋根
じ
ぎ
の上を見させると、人の首があった。家来はそのことを伝えると、それを聞
きよ
いた九兵衛は、「そんなこともあるものだ。」といって、ていねいにお辞儀を
あら
し、その首を洗い清めて納めたという。それから家の者を集め、このことは
少しもいわないようにしたという。「納め」というのは、どのようなことを
したのかはわからない。
さらし首などをクマタカがつかんで落とすことがあるという。九兵衛が「そ
んなこともあるものだ。」といったのは、クマタカがつかんで落としたとい
うことなどを考えてのことであろう。
128
えんかい
うた
ふじさわ ご へ え
二三、宴会で謡えない藤沢五兵衛
か み や な い ぜん
御家老の神谷内膳は一年に一度、藩の家臣すべてをお招きになったという。
そ まつ
そのた め、た いへん 粗 末 な ごちそ うなど のもて な しだっ た。数 回にわ け て、
さかな
うたい
身分の低い者までをもお招きしたという。ごちそうがすみ、自由に酒を飲ん
え
つぎ
ま
ざしき
で楽しむようになると、人々は酒にそえる 肴 として 謡 《能などの舞に合わ
へ
せて歌うこと》などを楽しんだ。
ふじ さわ ご
ある日、 藤沢五兵衛がこのもてなしに来て「 次の間」《奥のお 座敷 に続く
さかずき
部屋》にいたところ、客のなかの一人が藤沢に 盃 をわたしてお酒をついだ。
五兵衛はそれを飲み、その盃を客に返し、また酒をつぎ返した。そのとき相
うた
手は、「酒の肴として何か一つ謡ってください。」と望んだ。五兵衛は何も知
らないので強く断ったが、皆は聞いてくれず、ぜひ一つお願いしますと求め
られたので、五兵衛は断りにくくなったか、おうぎを手に取ってまじめな様
子 に なっ た。 何を 謡いだ す だろ うと 聞い ている と 、五 兵衛 は「 若いと き は 、
若いときは。」と大声で謡いだした。そののち、いちだんと声を大きくはりあ
129
た じりいし
うたい
げて「田尻石もかみ割ったが、今は歯はみなぬけましたでござります。」と 謡
うた
でもなく歌でもなく、何かの音程をつけてうたったという。皆はおもしろがった
という。
え
二四、団太郎兵衛
だん た ろ う べ
団太郎兵衛という米三〇〇石取りの家臣が、今の小島町に住んでいた。年
末に家来がお金の計算をまちがえたので、切ってしまおうと刀をぬいたとき、
家来は「お許しください。」というと同時に、太郎兵衛の手をつかんでねじ
は
りかえすと、刃が太郎兵衛の方を向いた。太郎兵衛はどうあっても家来を切
ろうとした。家来はつかんでいた手をはなさず、太郎兵衛はそのまま何度も
切ろうとすると、家来にはあたらず、太郎兵衛の方が多くの傷を負った。そ
のうちに家来は逃げてしまった。そののち家来は幕府にとらえられ、首をは
ねられた。太郎兵衛は、長い間役目を辞めさせられた。
130
せいばい
二五、成敗の成功
ながやごろう う えもん
長屋五郎右衛門(ある説では長井という。どちらだろうか)は、二〇〇石
お うま まわり くみ
くみがしら
ながぬま げ
き
もりもとじゅう ざ
取りの家 臣で、 御 馬 廻 組 を務め ていた。 たいへ ん貧乏 な生活だ ったの で、
ほさき
せいばい
稲の穂先を切ったりするなどの悪事をかさね、 組 頭 の長沼外記と森本 十 左
え もん
衛門の二人は五郎右衛門を成敗するようにと命じられた。話し合いである人
がおっしゃったことには、「成敗する者への最初の一太刀は、必ず頭を切る
ものであるという。うまくやれ。」とのことだった。長沼は、「お言葉ありが
とうございます。もし頭を切るのを失敗したら、帰ってきてどんなご命令で
も受けましょう。」と答えて立ち上がった。そういうわけで、うまく頭を切った。
131
二六、役人の家来が盗賊
や す え ちょう
わたなべしゅ ま
いしのとのものすけ
おうままわり
くみがしら
わたなべはち
今、金沢の藩の家臣に渡辺主馬といって、一二〇〇石取りの御馬廻の 組 頭
え もん
がいる。安江 町 に住んでいて、石野主殿之助の兄である。この先祖は渡辺八
う
右衛門といって、八右衛門も一二〇〇石取りで、大聖寺の藩ができる前、大
い よう
うば
聖寺を治めるために金沢からよこされたことがあった。この家来たちは、顔
すみ
ぶっそう
に赤い色の墨をぬり、異様な姿であたりの家に押し入って財産を奪い、さま
あくじ
ざまな悪事をはたらいた。しかし、そのときはただ世の中が物騒だといって
人々は用心したが、相手はどのような者かわからなかった。
てっぽうまち
あるとき、今の鉄砲町の所にあった、名前は何といったかわからないが、家
に 火 がつ けら れた 。この と き、 火を つけ た仲間 の 内一 人が とら えられ た が 、
そ の 人物 は渡 辺の 家来だ っ た。 どん どん と調べ る と仲 間を 残ら ず白状 し た 。
あしがる
はし
それは皆、八右衛門の家来どもと八右衛門が預かっていた足軽どもであった。
しきじ
それで、金沢へお知らせしたところ、その夜火を付けた者どもは敷地の端で
火あぶりの刑にされた。これからこの場所を
「あぶりこ」というようになった。
132
新 橋(
『錦城名所』より)
橋(大聖寺八間道)
新
二七、新橋の費用
はっけんみち
えんきょう
大聖寺の八間道から福田へ行き来する道の新橋は、昔はなく、ここでは木
きょうほう
み
を く りぬ いた 舟を 使って い た。 それ で、 延 享 元年( 一 七四 四) 一一 月に橋
がかけられた。この橋の費用は藩の家臣に割り当てて出させたものだ。
としあきら
二八、江戸屋敷の類焼と大聖寺領地の大地震
しょうちこう
なか や しき
正智公《四代利 章 》の時代、 享 保 一五年(一七三〇)正月一二日の未の
こく
かやまち
刻(午前一〇時ごろ)、江戸の中屋敷 の前の商人の家から火事がでて、中屋
ご もん
こく
さる
こく
敷の御門や馬小屋などが焼けてしまい、
火はさらに広がって茅町まで焼けて、
かみ や しき
うま
藩の上屋敷も火が移り燃えてしまった。
ほうえい
宝永四年(一七〇七)一〇月四日午の刻(昼の一二時ごろ)から申の刻(午
後四時ごろ)まで、この大聖寺藩の地で大地震があった。ご領内のつぶれた
こわ
家は多く、壊れた所も非常に多かった。死人はなかった。その日から五日や
よしん
六日の夜まで、小さな余震は数知れないほど多くあったという。
133
※正智公…四代利章は加賀藩五代綱
紀の子で、六代加賀藩主吉徳の弟
である。大聖寺藩主の利直に男子がな
よんだいとしあきら
としあきら
しょううんこう
二九、四代利 章 が金沢から
※しょうちこう
としなお
つなのり
正 智 公 《四代利 章 》は 松 雲公《加賀藩五代綱紀》の四番目のお子様で、
えんつうこう
ぬ
しゅんけいぬり
円通公《三代目利直》の御養子である。大聖寺に正智公がお入りになったと
さんき
き、御道具などは新しくつくられ、できた品物は有名な赤く塗った 春 慶塗の
しっき
みで、黒い漆器はまったくなかったと、散木先生はいつも話していたという。
ほっかい
まく
わ
ぎ
北海 先生はこういった。「一〇〇万石の道具ごしらえなのだが、松雲公の
ご もん
えが
お心である。今でも、外にはりめぐらす前田家の幕で、ウリを輪切りにした
うめばち
つなのり
かみ
ような輪の中に梅鉢の御紋が描かれているものは皆、正智公が持って来られた
幕である。」と。
しっそ
三〇、質素は長生きか
※しょううんこう
松 雲 公 《加賀藩五代綱紀》はご自分で髪にクシを入れて整えられた。江
戸城に登城なさるときなどに、カゴに乗られるときは、ボウボウとした乱れ
がみ
髪であった。江戸城でカゴから降りられるまでに乗り物の中で、ご自分で髪
134
く、養子になって金沢から四代藩主と
して来た。
前田利章の系図
つなのり
ご
と
も め ん
み
そ
ぞ
※松雲公…綱紀は、五斗味噌のそまつ
は だ ぎ
な汁を飲み、肌着は木綿のウコン染め
いえみつ
のものを着るなど節約につとめた。
みつたか
しょうほう
四代光高と三代将軍家光の養女大姫
との子で、正 保 二年(一六四五)に光
きょうほう
高が早く死んだため三才で一〇〇万石
よしのり
の藩主となった。その後、享 保 八年(一
七二三)に八一才で吉徳に藩主の座を
い げ ん
ゆずるまで、長く徳川家につぐ大名と
して威厳を保った。
もめん
しる
を整えられたというということだ。また、いつも少しのみそ汁を好んでおめ
はだぎ
し上がりになった。また、肌着には質の良い絹よりも、木綿をウコンで黄色
あら
に染めたものを着られたということだ。それは、はだざわりの粗いものを着る
おぜん
方が健康のためには良いというお考えで、御膳にのった食べ物もうすい味の
ものをめし上がり、お身体にとっても粗末なものをめし上がられた。
おうみ
ひこねはん
それが理由だろうか、お年が八二才で亡くなられたが、地位が高く栄えた人
にはめずらしい長生きであった。
ひこね
としみち
三一、彦根の殿様からお礼
けんしょうこう
の
だ さんてつ
顕 照 公《五代利道》の時代に、近江の国《今の滋賀県》、彦根藩の者が大
くさ か げんちゅう
聖寺で病気になり、医者の草鹿玄 仲 と野田三哲は、藩からその者を治療する
たん
ようにと命じられた。その病人は治って近江に帰った。そののち彦根の殿様
もめん
は、「近江さらし」という白い木綿を、玄仲へは三 反 《一反は約一〇m四〇
㎝あり、着物一着分》
、三哲には二反下さった。
135
じっしょういん
三二、 実 性 院 の始まり
そうしき
おかむら
そうえい じ
かそう
いおり
おかむら
じっしょうこう
お は い づか
大聖寺の北部にある岡村に、宗永寺という小さな 庵 がある。 実 性 公 《初
としはる
代利治》のお葬式はこの寺で行われ、火葬された。今もなお岡村に御灰塚がある。
ほう みょう
そののち、宗永寺を今のお寺の場所に移され、実性院と名前をつけた。もと
たま い いち まさ
136
そう えい
初代藩主実性院利治の墓
もと、 宗 永 は 玉 井 市 正 の 法 名 《仏教で 死後のよび名》であ っ た。市正は小
さい庵を岡村に建て、宗永寺と名付けていた。
実性院(『錦城名所』より)
灰塚論争
これまで利治の死去をめぐり、大聖寺の国元に運ばれたのは、利治の遺骸か遺骨かの長い論争(灰塚論争)があった。
『大聖寺藩史』では、本文中で遺骸説をとっているものの、備考において遺骨説も否定しえないとしている。諸
藩の藩主が江戸で死去した場合には、すべて遺骸を国元に運ばれているので、利治も遺骸で大聖寺に運ばれ、岡
村の宗英寺(のち実性院と改名、前田家の菩提寺)で葬儀を行ったものだろう。現在も大聖寺岡町の北端、通称
く そ う だに
「九艘谷」の水田中には、利治の遺骸を荼毘に付し遺骨を仮安置
としか
したという灰塚がある。
この塚の上にはかつて一四代利鬯が設けた
三m四方の柵があり、その中に七〇年を経た黒松がある。
今はその大きな松は枯れ、直径約二〇㎝の松の木が植えられ
ている。
137
へ
え
三三、馬の医者と馬乗り名人
ふじさわ ご
お うま
つめ
そ
う
え もん
藤沢五兵衛は藩の馬の医者であった。あるとき、御馬の爪やタテガミの手
よねくら や
入れをしていた。そのころ、殿様の馬を乗りならす米倉弥三右衛門という者
がいた。馬術の名人であった。五兵衛のそばで見ていて、「爪の切りようは
もう少しこのようにしたらどうだ。」といったが、五兵衛は返事をしなかった。
弥三右衛門が二、三度いうと、五兵衛は後ろむきで、爪切りの小刀のつかで
きも
米倉のひざの皿の所を強く打った。米倉は胆をつぶしておどろき、後ろへ下
ごと
ぶれい
がると、五兵衛はひとり言で、「あなたは馬に乗る人だ。私は馬の医者で、
さしず
私が今爪を切っているのは私の仕事だ。関係のない人が指図するのは無礼だ。
ヒザの皿を打ち割るぞ。」といって落ち着いた様子で爪の手入れをしていた
という。
138
さ ご う えもん
三四、力持ちの佐五右衛門
お お い さ ご う えもん
こ づかっ ぱら
けい じょう
ざいにん
先々代の大井佐五右衛門は人より力が非常に強かった。また、罪人の死体
じょう ず
を切る「すえ 物切り」 が 上 手 だった。江戸の 小 塚 原 の 刑 場 で「すえ物切
つば
り」があったとき、切るための刀の鍔を忘れて持っていなかった。そのあた
もんめ
のようで、切るための鍔をたくさん持っていた。そこで大井は、「何 匁 の重
さでもよいから鍔を一つ借りたい。」とたのんだら、その人は
「お安い御用だ。」
いっ かん め
と重さが 一貫目 (三・八㎏)の鍔を貸してくれた。しかし、「刀に重いこの
鍔をつけると、必ずや刀を折ってしまうか、人間が倒れるかするだろう。そ
うなったら笑ってやろう。」という顔で皆が見物している様子だった。
佐五右衛門はこの鍔を刀に付けて、何と三〇〇目(一・一㎏)くらいの軽
はやし さん き
い鍔を 付けて いるよ う に簡単 に切っ てしま っ た。そ のとき 、 林 三 帰 が父と
いっしょに行って見ており、「気持ちの良いことでした。」といつも話していた
さんき
という。見に行った三帰は林九郎兵衛の養父である。
139
りを見ると、どこの藩士かはわからないが、この藩士もすえ物切りをする人
佐五右衛門の江戸往来姿(想像図)
この佐五右衛門は、何をしても手にマメができないという。それほどの力
のある人なのだが、非常に手のひらが柔らかな人だと思われる。
また、佐五右衛門は江戸との行き来の途中、天気がよければいつもゾウリ
しり
たい ほう
かしん
で、着物のすそを尻のところで帯にはさんで結び、まるで、近くの野原に遊
てっ ぽう
びに出るような様子で旅をしたという。
ほうじゅつ
いっかんめつつ
その刀と、佐五右衛門が中浜で、藩の一貫目筒の鉄砲を打ったが、そのとき
か し ま みょうじん
の玉は、加島 明 神 《鹿島の森の所》へ納められ、今もなおある。
140
佐五左衛門はまた、 砲 術 《 鉄砲 や大砲の使い方》を教える 家臣 であった。
島(『錦城名所』より)
鹿
加島(鹿島)明神
鹿島の森
141
※ニホンオオカミ…ニホンオオカミは
山犬ともよばれ、大陸のオオカミより
小型のオオカミで、日本の本州から四
国や九州にかけて住んでいた。体長一
mあまり、尾の長さ約三〇㎝で、夜に
馬をおそうこともあった。明治三八年
ほ か く
ご さ ん よ う ば
(一九〇五)に奈良県で捕獲されたの
が最後とされている。
げんろく
大聖寺藩では、このほかに『御算用場
とどめがき
留書 』
(『加賀市史料五』
)の元禄一五
年(一七〇二)五月一五日の記録に、
う
オオカミが田畑に出る者を襲うので、
江戸にいる殿様に報告し、鉄砲で撃ち
殺すよう命令を受けた、とある。
そ
う
え もん
三五、いつもはケンカしている犬が
の じり よ
ふかまち じ
昔、野尻与三右衛門の家の犬は、非常に強い犬だった。同じころ、深町治
ざ えもん
左衛門の家の犬も強い犬であった。この二匹はとても仲が悪く、相手のかげ
を見ただけでもおたがいにいかり、先を争ってかみ合った。ところが、ある
たたか
夜、与 三右 衛門 の犬 が 、ほか の犬 とひ どく 闘 い かみ合 って いた 。出 て 見る
※
と、山犬《ニホンオオカミ》と思われる大きな犬だった。人が出ると逃げて
いった。翌日になって昼過ぎごろから、あの治左衛門の家の犬が、与三右衛
門の家に来て、犬小屋に入っていっしょになり、これまで仲の悪かった二ひ
き が 、こ の日 は無 二の親 友 の仲 であ った 。人々 は 不思 議で あや しく思 っ た 。
与三右衛門は考えて、「これは必ず今夜、あの山犬が来るのだろう。いつも
さか い か ず う え も ん
は仲が悪いけれど、手助けするためにやって来たのだろう。」と察し、その
おお の じんのじょう
町内の大野 甚 丞 や坂井数右衛門など若い者たちと打ち合わせし、準備をし
て 待 って いた 。夜 中にな っ て、 やは り山 犬が今 度 は二 匹で 来て かみ合 っ た 。
さあ、と皆は外に出たけれど、山犬は人を見るとすぐに、犬をふり放して逃
142
げた。山犬はその夜限りで来なくなった。それからはその二匹の犬は、また
以前のように仲が悪くなった。浅はかな犬の知恵とはいうけれども、このよ
うに、いざというときは助け合って、すばらしい様子であった。これもまた
不思議なことだと思う。
ざ えもん
三六、その犬はまちがって殺された
ふかまち じ
おおくら
143
前 に 書 い た 深町 治 左 衛門 の 犬 は 、 ほ かに はい ない ほど強 いこ とで 名高 い
ま づか
し
れで、
「この犬は、とてもなつかないだろう。そのうちには餓死してしまうだ
が
悲しそうに鳴いていた。おおよそ五、六日たってもそのとおりであった。そ
かわいがってお飼いになったが、犬は着いた日から少しも物を食わずに、ただ
人、小間使いの者が三人でつれに来て引いて行った。大蔵様は犬をたいへん
こ
かわいがっていた犬ではあったがしかたなく差し上げた。富山から足軽が二
なり、大聖寺に手紙をよこされて治左衛門の犬を欲しがられた。治左衛門は
犬だったので、そのころ、富山の大蔵様《富山藩主》がこのことをお聞きに
富山城
もど
ろうから、返さなければならない。」と、犬を治左衛門のもとへお戻しになった。
犬は、治左衛門の所へ帰ると尾を振って喜んでいる様子だった。
たたか
そのの ち、 治左 衛門 の 屋敷に 山犬 がた びた び 来て、 かみ 合っ て 闘 っ た 。人
が出て行くと山犬は逃げうせて見えなかった。ある夜、また犬が組み合って
やり
闘っているので、家来が槍を持って出たとき、一匹の犬が下に押さえつけら
れていた。暗かったのでよく見えず、どう考えても犬は山犬には力がおよば
ひ
ないだろうから、押さえつけられているのは家の犬だろうと思い、上にのし
つ
かかっている犬を槍で突いた。下にいた犬は逃げて行き、家来は灯をともし
てみると、突いたのはこの家の犬であった。大変におどろいた家来は治左衛
門にこのことを報告した。治左衛門はたいへんないかりようだったが、すで
ばつ
に死なせたあとでは何ともしようがない、といって罰などはなしに終わった。
144
たか が
三七、神谷内膳の鷹狩り
かみ や な い ぜん
神谷内膳は、いつも鷹狩りに出かけられた。えものがあるないにかかわら
ず、本当はほかの目的があって出かけられた。秋になって風がふくと、ひん
ぱんに鷹狩りに出かけられ、稲の育ちぐあいを調べた。真夜中に風がふくと、
え もん
ご ようにん
へんそう
その翌日の朝、仕事に行く時間までに馬に乗って行き、稲の様子を調べたと
いながき ご ろう ざ
いう。稲垣五郎左衛門も、当時は政治に参加する御用人であり、変装などを
や しちろう
たけわき や しちろう
して、いつも稲の調査に出かけられたという。
かべ ぬ
三八、壁塗りの名人弥七郎
えんぽう
たけわき や
ざ えもん
延宝(一六七三~八〇年)のころ、竹脇弥七郎といって、カベぬりをする
あなむし
な
ご
や ぜんぞう
七〇石取りの家臣がいた。親は竹脇弥左衛門といって、この人もカベぬりの
としあき
かみ や
じ
ぶ もりまさ
名人だった。大聖寺の穴虫の、今の那古屋善蔵の屋敷に住んでいた。これは
だ い き こう
大機公《二代利明》の時代のことで、神谷治部守政が非常に熱心に、何度も
この竹脇の家をお訪ねになったことがあった。治部がお訪ねになったときに
145
塩屋町の八幡神社
かゆ
お出しするごちそうは、いつも米だけでつくられた白い粥ばかりで、ほかに
は何もなかった。これは治部が白い粥を好まれたからである。お訪ねになる
日は、弥七郎が住む町内へ使いを出し、「今日は治部どのがいらっしゃいま
なが まち
こめ ぐら
ぬ
す。」と知らせてまわった。そうすれば町内の子供までもが泣くのをやめ、
静かにしていた。
し ちょう まち
な
ご
や いちがく
弥七郎は 四 丁 町 《今の 永 町 》にある 米 蔵 のカベを何度も 塗 った。藩の会計
ごさんようば
の仕事をする御算用場にその記録がある。弥七郎の屋敷を那古屋一学の先祖
ば
が 手 に入 れた が、 家のカ ベ には 絵の よう な模様 が ある カベ もあ ったと い い 、
す
これは本当に素晴らしいもので、最近まであったという。また塩屋村の神社
がく
へ、カベ土でつくった絵を額に入れて納めたという。これも最近まであった
という。今はどうなったのであろうか。カベぬりの名人であった。
146
はら た ん や
三九、原丹弥
けん しょう こう
としみち
はらたん や
じ
ぶ
ざ
え もん
顕 照 公《五代利道》の時代の原丹 弥は、原治部 左衛門 の子である。たい
へ ん 親孝 行だ った 。また 、 父の 治部 左衛 門も、 と ても 愛情 の深 い人だ っ た 。
ところが父の治部左衛門は病死してしまった。丹弥の、遠くをながめ父をな
つかしむ様子はとても切なく見え、月日が過ぎるにしたがい悲しみは強くな
り、とうとう病気になって、ついには大病となった。そのため、丹弥はまだ
あと
跡つぎと認められていなかった。そこで、殿様はかわいそうに思われて、急
いで呼び寄せ、原家のあとつぎとお認めになった。そのころ、丹弥はことの
おうままわりくみ
ほか病気が重かったが、無理に御馬廻組の当番をした。御門の前までカゴに
乗ってきて、そこからは家来二人に肩をかりて歩いた。この一度きりで御馬
廻組の当番を引退し、ついに死んでしまった。
こ の 丹弥 は、 生き て いた こ ろは 書と 絵画 を 身に つ けた 人で あっ た とい う 。
と り わけ 不思 議だ という の は、 一本 の筆 を六、 七 年ほ ど使 って いたと い う 。
その一本でたくさんの本を書き写し、そのほかに手紙を書き、すべてなにも
147
※太宰春台…江戸中期の儒学者。荻生
徂徠の門に入り、とくに経済学で師説
を継いで発展。著書に「経済録」「産
語」
「駿台雑話」などがある。
だ ざ い しゅんだい
だい せ
じゅがく
かもこの一本ですませていた。岱畝先生《儒学の先生》はこのことを聞いて、
しゅんだい
春 台《儒学者の太宰 春 台》の弟子のなかにもそのような人がいて、以前先
生が江戸で生活していたときに筆をおくったところが、「まだまだなんとも
ないので、この一本を使い続けます。」とていねいに断られたという。その
姓名を聞いたというが忘れていた。
この丹弥は、書や絵を身に付けた人というけれども、じょうずに書くとい
りゅうぎ
うものでもなかった。絵もまた何の流儀もなくて、これからの世に残すほど
の絵ではなかった。ただ、集まりの場で求められると人の漫画を描いていた。
と み た さ ぜん
あるとき、富田左膳のいろいろな表情を描いたことがある。この左膳は富
まごすけ
田孫助の弟で、ひどい顔をした男だった。彼が顔をさまざま変えてふざけて
いたとき、丹弥は、「これほどさまざまなおかしい顔をされるが、ただこの
場の人の笑いになるだけで、見てない人がこんなにおかしい顔を知らないの
も残念なことだ。今日は技を出し切っていくつもの変わった顔をしてくださ
れ。私もまた、力をつくしてこれを描きましょう。」といった。それで左膳
148
へ
え
はっとりじゅとく
ころ
つちやまきん ご
はいくつも変な顔をした。丹弥はこれを写生した。見ていた者は皆笑い転げた。
やまかわ や
最近までこの絵はあったと聞いた。今はどうだろうか。
やまかわそう ざ え も ん
ご ん の すけ
また先の年、山川惣左衛門・山川弥兵衛・服部寿徳・原丹弥・土山金吾、
あと
跡つぎの金吾(まだ幼くて権之助といったが、親といっしょに行っていた。)
らが片野の海を見にいった。夕暮れどきまで海辺にいると、太陽が西の方の
く、丸くもなり、いろいろと、わずかな間に形を変え、最後に沈むときの形
はちょうど三角形になって海に入っていったという。
どのようなことなのか不思議なことだ。太陽はいうまでもなく、天にある
ものはすべて、全世界があおぎ見ているもので、片野の海辺だけで見るので
はない。そうであるならば、だれもかれもがこの不思議な出来事を見たとい
うはずなのに、ほかのだれもそのことをいわないのもわからないことだ。
このときも、この太陽の形が変わる様子を絵で残しておこうと丹弥はくわ
しく描いたという。きっとこれも原の家にあることだろう。私はある日、こ
149
海にしずむときに、その形が三角になり、次に四角になり、ときには横に長
片野浜(『錦城名所』より)
片野貝浜(『錦城名所』より)
のことを北海先生から聞いた。
が
や
さ こん
す どう
なおまた、山川弥兵衛・土山金吾などに片野でのことを聞いたところ、少し
た
もちがいはなかった。これもあやしい出来事だ。
四〇、須藤市衛門
えちぜん
越前《今の福井県》の多賀屋左近の身内には、 須藤 何々という人がいた。
す ど う いち え も ん
この人は、須藤市衛門の先祖である。大坂城を攻め滅ぼすとき、せがれがまだ
一四才で若いため、出陣の命令からはずれてしまい、親は連れていかなかった。
せがれは非常に残念がり、留守をまもる家来にある日、「何としても大坂
へ行きたい。」となげいた。それで、その家来は「ごもっともなことと思い
ます。私でさえ、これまで残念でくやしいのですから、ましてあなた様はそ
よろいびつ
やり
うでしょう。よく考えてその心に変わりがなければ、私はお供をして戦いに
よろい
行きましょう。」といって、家来は 鎧 を入れた 鎧 櫃という箱を背負い、槍を
持って若様を連れて行った。父がきびしく命じていたので、父のもとへは行
150
あんたい
と く が わい え や す
※大坂の陣…関ヶ原で勝った徳川家康
と よ と みひ で よ し
ひでより
が 、 徳 川 の 支 配 を 安泰 に す る た め に
豊臣秀吉の子秀頼をほろぼした戦いを
大坂の陣という。これには二度の戦い
けいちょう
があった。
まず 慶 長 一九年(一六一四)の冬、
たお
家康は、自分を倒そうとしていると秀
頼にいいがかりをつけ、諸大名に秀頼
の大坂城を攻めさせた
(大坂冬の陣)
。
一度は秀頼と和を結ぶが、その条件と
げ ん な
して巨大な大坂城の堀をうめてし
まった。
その後すぐ翌年の元和元年(一六一
五)、家康はまた大坂城を攻め、つい
に秀頼をほろぼした(大坂夏の陣)
。
くみがしら
きにくく、父の軍の組 頭 の所に行った。組頭は、「よくぞ来られた。折をみ
ぐんぜい
て父上にお話し申し上げよう。今まだお許しがない間は、父上の軍勢の中に
は入られないので、特別に私の組に入ったらよい。」という。
※
その日は大坂城が落ちた日だった。そんななか、負けて馬に乗って逃げた
落武者が一人、息を切らせて田のあぜに腰かけていた。そこへ若様は馬でか
けつけて槍で突こうとした。その武者がこれを見て、「来たか、無礼な子ど
やり
もめっ。」というところを槍で突いた。若様と家来の二人で、相手をねじ伏
かぶと
せて首 を取 った 。 甲 か ら 考える と身 分の 高い 者 の首で 、そ のま ま組 頭 の所
へ持っていくと、組頭は「もうそれで安心だ。さてさて、おてがらだ、おて
がらだ。」と喜んだ。
ざつだん
四一、お役人のせいだとはいうけれど
ほっかい
ある夜、北海先生の雑談でこのように話された。
いつのときか、三人の年取った農夫が田んぼのあぜに腰をかけて、笑いなが
151
ら話しているのを聞くと、一人は、「このように世の中が悪くなり、これか
ら、どのようになっていくのだろう。」という。他の一人は、「これはまった
くお役人たちの考えが悪いからだ。」という。残りの一人は、「まちがったこ
とをいうものだ。藩の家臣は武芸のけいこをしなければ武士ではなく、町人
はそろばんや読み書き、もうけることを身につけなければわたる世間をすご
していけない。しかし、お殿様が藩を治めるようになったときのお役人には
政治のけいこがあったとは聞いたことがない。それでも、これほどまで治め
ていらっしゃるということは、かなり能力がある人たちだ。われら農民は田
を作ることから始め、農業のすべてを習っている。そのうえ、年々工夫をこ
らし、いろいろとためしてみて、皆それを教えてもらって、そのうえ、いつ
も用心しているけれども、いまだに名人はいなくて、作物を作るのがへただ。
このことから考えると、武士はけいこなしに良くなさっていることだ。」と、
二人とちがって一人で役人をほめていた。
152
としあきら
おつぎばん
とし あきら
四二、利 章 様と御次番
しょうち こう
さ
正智公 《四代 利 章 》の時代に、殿様の料理などを管理する御台所奉行の
におう
おつぎばん
山崎惣兵衛は心が狂い、マガモを焼けて黒くなった首を手に提げて、殿様の
ま
けい ご
前に出て仁王のように立った。昔から「御次番」といって、殿様の居間の隣、
つぎ
「次の間」という部屋に、殿様を警護する者がいることになっていたが、そ
どうつぼ
のころはこの部屋で警護しておらず、少し離れた「銅壺の間」という部屋に
いた。そのため山崎を止められなかったので、またこのようなことがないよ
あかさかばん
うにと、新しく赤坂番という役職ができた。これは、殿様のそば近くに仕え
そば こ しょう
や はちろう
て雑用 をする 側 小 姓 を 終えた 者など が任命 され、 殿 様の警 護をす る御次番
くら ち
とは別のものであった。倉知弥八郎などは、この赤坂番を命じられた人である。
正智公の時代で殿様の部屋の隣の部屋に御次番がいたときは、御部屋のふ
すまをお開けになられて、暑い季節には、
「暑さが強いときっといやになるだ
ろう。」などおっしゃり、仕えている御次番に直接お菓子などをわたされた
りした。
153
橘町付近の北国街道
しょう ず むら
四三、 生 水村の安兵衛は何者か
えぬまぐん
あつた
しょう ず むら
や す べ え
かんびょう
この 江沼郡の九谷近くにある 生 水村の 安兵衛という者は、二四才で国を
おわり
出て、 尾張の国の 熱田で病気になり、とまっていた宿で 看 病 されていたと
ころ、お役人の耳に入り、医者をつけられて治療を受けた。安兵衛は少し病
気がよくなって、どうにかして国に帰りたいというので、宿場を次々と利用
させて帰すことになった。そのとき、尾張藩の役人から宿場の役人へ手紙が
そえられていた。手紙の内容は、「加賀の国大聖寺江沼郡生水村の安兵衛と
いう者だ。尾張の国の熱田で病気にかかり、あれこれ治療させて次第に病気
がよくなりつつあるので、国に帰りたいという本人の願いによって、宿場を
利用して帰そうと思う。行く先々の宿では気くばりして休養させ、とまると
そまつ
きは夕飯・朝飯、そして昼飯は弁当を用意し食べさせ、粗末にあつかわない
ようお願いする。」というものだった。(この手紙の内容から考えると、この
安兵衛に対する殿様のようなあつかいはなぜだろうか。)そのほかに、この
安兵衛の着物や持っている色々な品々まで、すべて書き記して送られた。さ
154
美川本吉(白山市)
らに新しい送りカゴを作って、安兵衛はこれに乗せられた。これらの手厚い
てんめい
さい く しょく にん
あつかいはいいつくせない。これは天明四(一七八四 年)正月のことである。
う えもん
四四、落し物のお礼
おけや じ
ぬし
桶屋治右衛門 という者は家具などの細 工 職 人 で、先の年の雪があったこ
やと
ろのあ る朝、 橋立村 の 雇 い 主 の家へ いくと き、 道 のはし にある 雪の間 か ら
さいふ
ヒモのような物を見た。引っ張り出してみると財布で、ずっしりと重かった。
中をみるとお金が一〇〇両あった。これを拾って道具箱の中に入れて、橋立
のある人の所へ行った。そこで、食事など食べて、仕事にとりかかった。
あるじ
し ば らく して 、台 所に来 る もの がい た。 家の 主 と の 言葉 のや りと りを聞
もとよし
くと、あのお金の落とし主のようで、「私は本吉 《今の白山市美川町》から
橋立への使いで、橋立でお金を受け取って帰ることになっていました。橋立
よ
を朝出発するときに酒を飲んで酔ってしまい、気がゆるんで財布を落として
しまいました。橋立からかなり行ってから、気が付きおどろいて引き返して
155
きたのです。使いなので主人に申しわけなく生きていられません。」などと
いっていた。
それを聞くと治右衛門はたまりかねて、作っていた小物を放りだして出て
いき、さらに様子を聞くと、まちがいなくお金の落とし主だった。治右衛門
は「その場所で、そのお金を拾いましたよ。」と財布を取り出してわたすと、
その人は死んだ人間がよみがえったかのように、おどり上がって喜んだ。そ
うして、そのお金のうち五両を取り出して、治右衛門にお礼としてわたそう
とした。治右衛門は、「このお礼はいただくわけにはいきません。あなたが
五 両 を出 して も困 ること が ない のな ら受 け取っ て もよ いか もし れませ ん が 、
使いのあなただからどんなに困るかわからず心配です。」といった。使いの
者は、「私の身分はご覧の通りで、すこしのお金のたくわえもなく、このよ
うな使いをしてお金をもらい、生活をしています。でも、もしほかの人がこ
の財布を拾ったならば、私の手にはとても返ってはこないものを、あなたが
拾ったからこそ不思議なことに手に戻ったのです。だから、お金の半分をわ
156
けてあげても惜しいものではないともいえます。しかし、そうしたら私は本
当の持ち主にうめ合わせることができなくて、五両でお礼をするのが精いっ
ぱいの気持ちです。」といった。これを聞いて治右衛門は決してお金を受け
取らずに返した。
身分の低い者の心だがほめたたえるべきものだ。この人は、今、吉崎屋の借
家に住む桶屋小兵衛の兄である。
とし あきら
四五、加賀藩にお願い
しょうち こう
正智公 《四代 利 章 》は以前から藩の御屋敷が気に入らず、もっと立派な
つな のり
建物にしたかったが、ほかに多くの好きなことにお金をつかい、藩の財政が
苦しくなっていて、御屋敷をつくる資金はなかった。
しょう うん こう
ある年、 父であ り一〇 〇万石の 藩主で ある 松 雲 公 《加賀藩五 代 綱 紀 》が
こちらの大聖寺に来られるとき、正智公は「このたび松雲公が来られるのを
良い機会として、御屋敷の建築のことをお願いしたい。」と思っていること
157
を、おそばの者たちにもおしゃっていた。だれもが「それはよろしゅうござ
います。この機会が良いと思います。お願いなさいませ。」という。
やがて、松雲公がいらっしゃり、お部屋なども一つ一つご覧になることと
は「簡単でむだのない良い住まいだな。これこそ、そなた自身の収入に合った
建物で、住むのに便利にしてある。けっしてこの住まいを壊されないように。」
とおっしゃった。
正智公のおそばの者が、「今、お願いなさい。」と後ろから正智公の着物の
袖 を 指先 でチ ョコ チョコ 突 っつ いた が、 ついに 正 智公 は何 もお っしゃ ら ず 、
松雲公はお帰りになった。正智公は、あとで、「残念だが、松雲公のお心は
今のままで良いということなので、とうとういいだせなかった。」とおっしゃった。
158
なった。後ろから正智公がお供をされ、部屋を次々とご覧になった。松雲公
大聖寺藩邸の様子が残る錦城小学校(郵便はかき)
りゅうこつしゃ
ふ
※竜骨車… 竜 骨 車 とは、水車を足で踏
み回して、低い水路の水を上にある田
や水路にくみ上げようとするもので
としあき
ある。絵でしめしてみたが、二代利明
の と き 、大 聖 寺藩 に 取り入 れ ら れ た 。
竜骨車
秘要雑集巻三
りゅうこつしゃ
一、新しい機械の 竜 骨 車
てんな
りゅうこつしゃ
みぎむら
いまい ぎ
ざ えもん
天和二年(一六八二)に、大坂から初めて 竜 骨 車 という、田んぼに水を
え
かける道具が取り寄せられた。それで、右村の領地へ初めて今井儀左衛門と
ひがしのせい べ
な
東野瀬兵衛がこれを使って水をかけに行ったそうだ。
としあきら
二、四代利章の死去
しょうちこう
まちまわ
正智公《四代利 章 》がお亡くなりになり、殿様のお世話をする少年である
お なか こ しょう
御中小 姓 があまってしまったので、町廻りのお使い役に入るようにと藩は
命じて、当番の札の先頭に書いた。
このことで、町廻りのお使い役たちは「御中小姓は自分たちよりも地位が
上ということは分かるけれども、私たちが町廻りをいいつけられているのは
特別な任務なので、御中小姓が町廻りのお使い役の中で一番えらいというの
159
はいけない。」と反対した。
そのとき、御家老たちが相談して、「正智公が可愛がっていた御中小姓たち
であるし、それに地位が上の者の最後には書きにくい。そのうえ、当番の札
なっとく
もでき上がっているので、いまさら直せない。」などといろいろいってなだ
こ だま に
う えもん
めたが、町廻りのお使い役たちは納得しなかった。なかでも反対する中心人
やまもとしんぞう
められて、このことはおさまったということがあったという。
三、三河吉田橋の再建
ほうれき
まつだいら い ず の かみ
とよはし し
ほりえ
宝暦元年(一七五一)一二月、幕府の命令で吉田橋《愛知県豊橋市にある
ま
さん き
さしず
にんそく
橋》を造らされたとき、御老中の 松 平 伊豆守どのから土地をいただき、堀江
し
志摩(のちに散木という)が指図してていねいに囲いをつくり、役人や人足
などを厳しく取り締まった。つまり、役人から人足まで小屋を割り当てて入
れ、お互いにムダづかいをしないように工夫をして、すべての人をこの囲い
160
物の山本新蔵と児玉仁右衛門などは、急に役職を変えられ、他の者たちはなだ
四代藩主利章の墓(実性院)
の中で生活させた。
ところが、宝暦三年(一七五三)七月に再び吉田橋のかけかえを命じられた
しゅくばまち
ときは、役人は何の深い考えもなかったので、宿場町の吉田の宿屋に全員を
ばっ
入れた。重役から全員、旅館を使ったので、多くの人がお金をたくさん使い、
藩の費用も多くかかった。
えいきょう
それからは、その 影 響 で江戸へ行ってもお金を使い、最後には罰せられ
て、藩からあたえられた米まで減らされる 者 ど も ま で い た 。 そ れ に し て も 、
堀江散木のしたことは深く考えたものだったといえる。
161
吉田橋(三河国)の工事
ふしん
としみち
幕府は大名が力をつけて反抗しないように、幕府の工事(普請)や事業を大名に「お手伝い」とし
ほうれき
てさせ、お金を使わせた。大聖寺藩もこれに苦しめられた。
みかわ
三河国(愛知県)の吉田橋については、宝暦元年(一七五一)一二月、五代藩主利道のときに作る
よう命令を受け、翌年二月に工事を開始し五月に完成させた。費用は二万三六五〇両であった。
ほうれき
しゅっぴ
しかし、なぜかすぐ、宝暦三年(一七五三)七月に吉田橋のかけなおしが命じられ、翌年三月に完
成させた。費用は三万両以上であった。
ばっ
利道は一回目の工事を担当した家老らを罰している。二回の工事の出費は大きく、合わせて五万三
おくえん
はんし
ほうろく
〇〇〇両以上かかった。今のお金になおすと一六〇億円くらいになる
(一両を三〇万円として計算した)。
ほうれき
これで藩はお金にこまり、宝暦五年(一七五五)に藩士にあたえる俸禄から半分借り上げ、大聖寺町
ご よ う きん
に二〇〇〇両の御用金を出させた。
162
な た で ら
かんのんぞう
四、盗まれた那谷寺の観音像
な た でら
かんのんぞう
ぎ しゅう
ぎょうせい
那谷寺にある最高に良い金で造られた観音像を、義 舟 と 行 成という弟子
だ とうすけ
だいく
の坊主二人がぬすんだ。二人はつかまって、首をはねられた。このとき、ぬ
つ
すんだ二人はお堂をこわしたので、
津田藤助という大工に命じて修理をした。
藤助が修理のときにぬすまれた観音像をみると、金のメッキであった。藤助
はおどろいて、すぐに役人へ届け出た。
ぶつだん
このあとでまた、那谷寺の弟子の坊主と他の悪い人が相談して、その観音像
ふどういん
をぬすんだ。これから、観音像を那谷寺の境内にある不動院の内部の仏壇に
ほんどう
納めた。これより前までは、観音像は本堂にあったという。
163
げんろく
たいか
や しき
五、元禄の大聖寺大火
うちだはち う え も ん
とうろう
内田八右衛門の屋敷の灯篭の灯から火事がでた。これは七月一四日のこと
であった。このときは、殿様の御屋敷も燃えてしまった。その御屋敷の図は、
さく じ しょ
建築をうけもつ作事所という役所に今もあって、私も見たが、大きな建物で
おひろしき
あった。奥方様の住む建物の御広式は、今の御家老たちが政治をする役所の
すみ
後ろから、北東の角の「なまかね」へかけての場所にあった。
火事のとき、正面の方は火を防いだけれども、火の向きが変わって、御広
ごもん
式に火がつくと、そこは消防の人数が少なく火が燃え上がり、あたり一面の
火となって燃え広がった。
はし
そのころ、北東の端の「なまかね」とよんでいる所まで、御門と建物をつ
へい
ないだ塀が続いていたが、裏からの風にのった火事であったため、建物の北
はし
東の端「なまかね」から焼けてきた。それで、門まで続く建物の半分の所で
切りくずして火を止めた。よって半分は残った。今の御門は焼けずに残った
おぎゅう
御門だ。そのころは「なまかね」の場所に橋があって、荻生の侍屋敷へ通じる
164
※江戸時代の消火…当時の火事を消す
方 法 は 、燃 え 広が る のを防 ぐ た め に 、
お や し き
家などの建物をこわしてしまうのが
ご も ん
主だった。この藩の御屋敷の火事の話
ながやもん
でも御門の続きを切りくずして火を防
いだとある。
ところで、
この門とは長屋門といって、
へい
外から見ると塀のようだが、武器庫や
あしがる
倉庫などや足軽のいる部屋が続く長屋
であって、かんたんには切りくずせな
かった。それで、切りくずしやすい所
を知っていた人がほめられている。
道であった。
このように、御屋敷の正面の御門は長く建物が建ち続いているものである。
そのため、大工はこのように長い建物には、必ず火事にそなえて切りくずせる
こころ え
ところを作っておくのが 心 得であるという。しかし、それを覚えている者
は誰もいなかったが、町大工のなかの一人が覚えていて、そこで建物を切り
はなしたので、火が燃え移るのをうまく防いだ。お手がらであった。
内田八右衛門の屋敷から火が出て御屋敷が焼けたのは、元禄六年(一六九
うま
三)七月一四日のことであった。午の刻(正午ごろ)過ぎに内田家から火が
い こ ま けんもつ
出ると、南東の風が激しくふいて、生駒監物の家に燃え移った。それから殿
おひろしき
たかはししち ざ え も ん
こう の さん ざ
様の奥方たちがお住まいの御広式へ燃え移り、御屋敷が残らず焼けてしまった。
よこくらや ざ え も ん
いしぐろいちろう う え も ん
おお の じんのじょう
かみ
さらに川をこえて燃え移り、焼けてしまったのは、高橋七左衛門、河野三左
え もん
かわさきろく う え も ん
衛門、横倉弥左衛門、石黒市郎右衛門、大野甚 丞 などの家で、それから上
ふく だ むら
福田村も残らず焼けてしまった。
おこおりぶぎょう
この火事で、当時農村を治める御郡奉行であった川崎六右衛門は責任をと
165
お お や きゅうしん
むらたわない
らされ、藩士をやめさせられた。この川崎は今の村田和内の屋敷に住んでいた
となり
かわ ち せんのじょう
という。また、この 隣 に大野 休 心 が住んでいるという。川崎は二〇〇石取
おこおりぶぎょう
りの家臣で、御郡奉行だった。この人は河地千 丞 の次男で、川崎家へ養子
まつばら か と う じ
に行った。松原嘉藤次の兄弟であった。松原も河地の子であった。川崎六右
すぐ
衛門はそのころ才能の優れた人といわれた。彼のころに農村の政治について
の多くの決まりができたという。とにかく 上 の 者 に も ず け ず け も の を い い 、
せ じ
お世辞をいわないので、当時の色々な人たちからよく思われていなかった。
ところで、この火災のときに御屋敷から火が飛んで、福田までほとんど焼
けてしまった。しかし、この川崎の御屋敷だけは燃えなかった。これは農村
の百姓たちがたくさん集まって、火を防ぎくいとめたからである。このこと
があって、殿様は「御屋敷が燃えてしまうのをかまわず、自分の屋敷へ百姓
を集めて火を防がせた。」とご不満に思い、川崎をやめさせた。このとき、
世間でも「川崎は、殿様よりも自分の屋敷を優先した。」と、皆が悪口をいった
という。
166
実はそうではなく、このとき集まった百姓たちは全員、大聖寺より西の地
域の農村の者たちだった。村から出ると火が大きく広がっており、福田から
御屋敷の方へは行けなかった。ぐうぜんに奉行の屋敷があったので、ここに
とどまって火を防いでいた。川崎は消火のために御屋敷に出動していたので、
このことを知らなかった。
そのころ川崎は、殿様のためよく働いて、能力のある家臣だったので、
「人
のねたみを受けることもあったからだ。」とつぶやく人々もいたという。
としみち
六、五代利道の救民策
けんしょうこう
かんじょうがしら
やまもとしんご
顕 照 公《五代利道》の時代に、この大聖寺町で大火事があった。殿様は
よくちょう
ほりえ し
ま
その火事の 翌 朝 八時ごろに会計の責任者である勘 定 頭 という役の山本新五
ざ えもん
ながまち
左衛門、堀江志摩をおよびになり、「今度の大火事では、きっと食事もでき
しちょうまち
ない者が多いだろう。かわいそうなので、すぐに四丁町《今の永町、大聖寺
くら
高校の場所》の藩の蔵から米を出して、藩士から身分の低い者まで皆にあた
167
としみち
※五代藩主利道のころ…五代藩主利道
げんぶん
のころ火災がよくあった。元文二年
(一
七三七)に利道は五才で藩主になった
ほうれき
が、翌年の正月には江戸の火事で
かみやしき
上屋敷が 燃 え 、宝暦八 年 (一 七 五八 )
二月には大聖寺で大火があり二〇〇戸
が燃えた。
二年後の宝暦一〇年(一七六〇)二月
にはさらに大きな火事があった。七日
なかしんみち
夜中の一二時ごろ、
中新道から出火し、
はげしい南西の風にあおられ火は燃え
お や し き
広がった。このとき、藩主の御屋敷は
燃えなかったが、家老や藩士から町人
の家が焼けて、
大聖寺のほとんどである
あしがる
ちょうにん
一二五二戸が燃えてしまった。このた
め藩は、家老から足軽や 町 人 にまで米
をあたえた。
えよ。」と、直接ご命令なさった。二人はすぐに役所に戻り、そのことを役
かしら
所の 頭 の者へ伝えた。
つかたになお う え も ん
きんきゅう
このとき、頭の塚谷猶右衛門が
「どのような割合で配ればよいでしょうか。」
こめぐら
とうかがった。また、「米蔵を緊 急 に開いて人々に配るということは、前の
ごせんだい
殿様のときから非常に重大なことで、まずはないことです。しかし御先代の
ききん
殿様のころの大飢饉の年に、緊急に米を蔵から出したことが一度あったと伝
え聞いています。蔵の米を緊急に出したのはこのときだけです。もうすぐ蔵
の米を出すと決められている日が来ますが、その日まで待ってもらえません
つ
やく
か。」といった。そこで、山本と堀江は塚谷のいったとおりのことを、
と
取り次ぎ役を通じて殿様へ申しあげた。殿様はごきげんを非常に悪くされ、
「とんでもない決めごとだ。」といい、次のように話された。
「こんなにたいへんなときに、前から決められた日などといっている場合
ではない。人々は、昨夜から働き続けて苦労して、最後には自分の住む家を
なくし、家財道具もなく、食事も焼けてできないだろう。今は、腹が減って
168
いっこく
苦しんでいるにちがいない。このようなときは米をあたえることは一刻もお
くれてはいけない。それにまた、配る割合がどうだなどというとは、お前た
ちの考え方が悪い。このようなときに割合 な ど と い っ て い る も の で は な い 。
じ
ごようしょ
何としても早く米を出してやることこそ大切なのだ。割合など聞くことでは
ない。」
おお か
としあきら
この大火事について堀江志摩が、御用所で御家老たちに、「殿様が焼けあ
しょうちこう
とをお見回りになるべきです。昔の例では、今までに正智公《四代利 章 》
あたま
のときに、大火事ののちにお見舞いなさったとがあります。」といった。そ
いっしきご ざ え も ん
のとき、一色五左衛門はまばたきをして 頭 を横にふった。その訳は「この
うやま
大変なときにそのようなことをしたら、だれだれは殿様を 敬 わなかったと
しょばつ
か、だれそれは殿様と会っても殿様と気付かなかったなどと処罰することが
多くなり、この火事のさわぎのなかで思わぬ罪人が多くできてめんどうである。
殿様のお見回りはいらない。」というものであった。
殿様は見回りのことはお気づきでなく、このときに御家老から申し上げさ
169
(
『大聖寺藩史』より)
えすれば、お見回りされたことだろう。そのころでも皆は、「殿様の性格で
ばっ
は、ふだん人を罰するときは取るに足りないような小さなものだけだ。あった
ばつ
としても、人の命をうばうような重い罰は何もあたえずに終わったことが多
かった。このようなことから考えれば、この大変な災害のお見回りのときな
としあきら
が
し
らば、どのようなことでもお見逃しなさっただろうに。」といった。
しょうちこう
きんきゅう
くら
正智公《四代利 章 》の時代、農村に餓死する人がつぎつぎと出たという。
に
かしら
つかたに
それで、藩では相談して、 緊 急 に米を蔵から出すことになり、農村の数か
かま
所で、おかゆを釜で煮て配ったという。前の文で 頭 の塚谷が「先代の殿様
ききん
が飢饉の年に緊急に下の者たちへ米をおあたえになったことがあった。」と
いうが、この飢饉のときのことだ。
170
こうのさんざえもん
やまもとしんぞう
やまもとしんぞう
七、河野三左衛門と山本新蔵
こうのさん ざ え も ん
お う ま まわりぐみ
かしら
おこな
河野三左衛門と山本新蔵は御馬 廻 組の 頭 で、藩の政治を御家老とすすめる
ごようにん
御用人もいっしょに務めていた。河野は学者であり、立派な 行 いをする人
やまがりゅう
であった。山本は山鹿流を学びとった軍事についての学者であった。二人と
しんちょう
も 慎 重 で用心深く、気むずかしい性格であった。それで、この二人は人か
らきらわれ、にくまれもした。
おうえん
このことから人々は、この二人の部下たちの応援をして、二人の頭として
の支配をやめさせた。それで殿様は、河野が藩からもらう米を三〇〇石から
いんきょ
かしら
二〇〇石に減らし、四〇才あまりで子どもに藩の仕事をゆずって隠居させた。
山本は三五〇石の領地を二〇〇石に減らされたという。
ぎ ん み ぶぎょう
八、吟味奉行役の変化
おこな
ぎ ん み ぶぎょう
古いことをよく知っている老人の話では、「昔は組に分けた家臣の 頭 である
くみがしら
組 頭 の中から、裁判を 行 う吟味奉行を選んで、組頭と吟味奉行をいっしょ
171
に務めていた。」という。「吟味奉行は、吟味という裁判の仕事をするので重
ひと
要な役目であるし、組頭は当然、人がらが良いということで選ばれたので、
このことから、組頭がかねる役となった。」という。なので、もしも裁判が
とう
あれば、組頭の勤めを途中でやめて、裁判をしたという。しかし、当時の盗
ぞくあらため ぶ ぎょう
賊 改 奉 行 は吟味奉行とは別にあった。今は、盗賊改奉行は吟味奉行とか
ちょうさい
しょうちこう
としあきら
ねることになっている。これもまた、昔とは変わったことだ。
ちょうさい
九、殿様思いの 長 斎
た なかぐんぞう
田中軍蔵の祖父である 長 斎 は、正智公《四代利 章 》時代に一〇〇石取り
で、殿様から受けた高いご恩は、言葉ではいいつくせないものがあった。
げんぶん
いがい
正智公がお亡くなりになったのは元文二年(一七三七)九月六日のことだった。
いんきょ
このとき長斎は七四才で、隠居生活をしていた。殿様の遺骸がお寺に入って
まいそう
から、長斎は家には帰らないままお寺で番をして、殿様の埋葬がすむと、そ
えんきょう
の日から毎日お墓へお参りに行った。これを元文二年九月から 延 享 二年(一
172
実性院の御霊屋
七四五)正月の終わりまで九年の間続けた。正月の元日であっても一二月の
三〇日であっても、雨の日も雪の日も、一 日 も 欠 か す こ と な く お 参 り し た 。
せんき
もっとも身体は病気がないけれど、年老いた身体なので腰や腹が痛む疝気と
いう病気はあり、あるときは腹痛、またあるときは腰痛などとなやんだこと
か
お た ま や
はよくあったようだが、殿様のお墓参りを一日も欠かしたことはなかった。
つも
もし、雪などが積っていてお墓へ行けないときは、
お寺の御霊屋へお参りした。
そのようにお墓まで行けなかったときはいつも、家に帰ってから何もいわな
きげん
お お の きゅうしん
いが一日中機嫌が悪かったという。
としあき
一〇、他藩に仕えた藩士
だ い き こう
大機公《二代利明》の時代に、大野 休 心 が藩士をやめたいと願い出た。
殿様は、
「お前は、藩があたえた領地を不足に思ってやめようと願い出ている
あるじ
のか。当然のことだ。しかし、私は領地もせまい藩の 主 なので、思う通り
にはできず、お前に少しの領地しかあたえられないでいる。しっかり武芸で
173
名をあげて良い藩に仕えることができるならなおさらよいが、もし同じ収入
で仕えるのであれば、他の藩に仕えてはいけない。どうかこちらへもどって、
すぐに私に仕えてくれるように。」とおっしゃった。
そういうわけで、休心は武者修行に出た。関東へは行かず、西国へ行った
が、どこにも大聖寺の殿様以上の領地をくれるところはなかった。大機公と
の約束もあったので、休心は再び大聖寺藩に帰り、お仕えしたということを
お聞きした。
としなお
ひ ら い かんすけ
一一、武芸だけでは藩に仕えられず
えんつうこう
円通公《三代利直》の時代に、平井勘介が藩士をやめたいと願い出た。こ
ひとはたら
れは、藩からあたえられた領地が少ないと思い、一 働 きして大きな領地を
つか
くれる藩の殿様に仕えようとしたためであった。
そこで殿様は、「武術で良い所へ仕えようと思ってやめるのはいいだろ
う。ただし、お前が文字を書くということは取り上げるぞ。文字を書くこと
174
武芸だけでは
によって仕えることを日本では禁止するぞ。」とおっしゃった。
ろうにん
このため、勘介は長い間仕える所のない浪人となり生活に困ったので、殿
わ
さむらい
ほうきゅう
様にお詫びを申し上げて、元の領地でめしかかえていただいた。
お お の きゅうしん
さいしゅうしょく
藩をやめるという武士の話が二つ続いた。前の話では、大野 休 心 という 侍 が、より多くの 俸 給 をくれる主君を
まんじ
ぶ
け しょはっと
さがしてやめていく話である。彼は自分の武芸をより高く売ろうとしたようであるが、再 就 職 はうまくいかなかった。
としあき
むずか
利明が二代藩主になった万治三年(一六六〇)は、江戸幕府が大名をとりしまるために出した武家諸法度もゆるめ
ひ ら い かんすけ
ろく
られたころだ。戦いは無くなり、武芸によって新しい主君に召しかかえられることは 難 しい世の中になっていた。
としなお
さいしゅうしょく
三代利直が藩主のとき、平井勘介が同じように高い禄を求めて他に主君を求めようとした。このとき利直から「書
ほうこう
をもって奉公」してはならないといわれ 再 就 職 できなかったが、武士にとって学問がより大切な時代になったこと
を物語っている。
175
一二、南郷村
ほうれき
なんごうむら
ろうや
宝暦(一七五一~六三年)のころに南郷村で松の木が多くぬすまれるとい
きもいり
う事件があった。山を見回る番人や肝煎や組合頭などを牢屋に入れて取り調
めやすばこ
べたところ、彼らは何も知らないといった。月日がたっても事件は解決しな
いこましゅり
かったので、御家老の生駒修理の工夫で、犯人の情報を求める目安箱が南郷
村に設けられた。だが、だれも目安箱の中に犯人を書いた紙を入れなかった。
そののちも犯人はわからず、藩の御家老らは犯人探しをやめようにもやめ
ろうや
られず、牢屋に入れた村の役人たちを許そうにも許せず、村の役人たちはずる
ずると長い間牢屋に入れられていた。百姓は、藩のお役人に気に入られるよ
う工夫すればよいというように考え、それから、あちこちにワイロをおくった。
このことから、南郷村はすたれてしまった。
ぎょく
そのころ、人々は、「箱の中の宝石の 玉 がこわれたのは、誰のせいだ。山
の番人を捕まえて死刑にでもしたらよい。そうすれば藩のお役人へワイロを
おくることもないので村が貧乏にならず、木を切れば死刑になると思っての
176
ばいしん
※陪臣…陪臣は主君にしたがう直接の
じきしん
家来(直臣)を主人として従う家来で
ある。ここの話でいうと、殿様の家来
め
である家老の山崎や、酒井が直臣であ
り、その酒井が召しかかえた家来を陪
臣という。
幕府でいうと、将軍に従う大名や旗本
は 直 臣 で、 大 名の 家 来は陪 臣 と な る 。
もちろん直臣はいばっていた。
ちの山の木の取り締まりもできるだろう。」といった。
さかあみりょう
目安箱も何の役にも立たず、のちに村の庄屋などの役人たちも許されて、みっ
と
さ か い しょうはち
ともない藩の政治の様子であった。
かたの
一三、片野のカモ獲り
やまざききよのり
なかざか
あみ
御家老の山崎清記と藩士の酒井 庄 八 の家来とが、カモの 坂 網 猟 に良い場
かたの
所である片野の「中坂」で、二人同時に一羽のカモを網にかけたとき、二人
としあきら
とも「私の物だ。」と争いになり、とんでもなく見苦しいことだったという。
しょうちこう
このことを正智公《四代利 章 》がお聞きになり、「もともと御家老と、家
※ばいしん
臣の家来( 陪 臣 )とが、同じ所に並んでいるというのはあってはならない
おおわり
りょうば
ことだ。御家老には別に場所を設けておくのがよい。」とお話があったよう
おおさか
で、そのころに「大坂」と「大割」という二か所が御家老専用の猟場になった。
ばいしん
そうすると、家臣であっても、陪臣と入り混じることはよくないということ
さかあみりょう
で、「陪臣は坂網 猟 をするな。」というお知らせがあった。
177
けんしょうこう
としみち
えんりょ
ときがたち、顕 照 公《五代利道》の時代になると、殿様は生き物を殺すこ
きら
とを嫌ったので、御家老たちも遠慮して生き物を殺さなかった。それで、御
家老専用の二つの猟場は使われなくなったので、藩士たち皆は、私が先だと
争ってここへ猟に来た。御家老たちのための二か所は、利用する権利に税金
がやはりかけられていたので、のちに御家老たちは、毎年この場所を利用する
権利の税金をとられるのはお金がかかるということで、この二か所を藩に差
さかあみ
またしばらくたって、御家老たちの猟も始まり、坂網の坂へも行きたいの
しんざか
で、全員がクジに参加するようになった。これでまた、猟場にだれもが入り
すいさかむら
混じるようになった。そのあとまた、吸坂村の「新坂」と右村の「上場」と
が御家老のご猟場になった。そこは、そのころ猟をするのに良い場所だった
からである。そのように良い場所なら、他の藩士が楽しむ場所へは行かない
はずだと考えたが、実際には御家老はどこ の 場 所 に も 入 り こ ん で 、 そ の 上 、
殿様からいただいた御家老専用の猟場も持っていたのだった。
178
し上げて、利用する者は全員でのクジ引きで決めることになった。
坂網と猟場の想像図
大聖寺藩の坂網猟
さかあみりょう
む ら た げん う え も ん
かもりょう
片野のカモ池での 坂 網 猟 は、大聖寺藩の村田源右衛門が始めたと伝え
し み ず おきいちろう し こ う
つ
られていることを、
『清水沖一郎氏稿大聖寺独特の 鴨 猟 』を引いて『大聖
寺藩史』では述べている。
ひ よ う ざっしゅう
村田は『秘要 雑 集 』巻二の初めに出てきたキツネ突きの名人で、カモ
と
しゃめん
でさえも跳びあがってつかまえたという話も出てくる。
しっち
その独特のとり方は夕方、湿地からまわりの丘の斜面に沿って飛び立つ
あみ
カモの群れをねらって網を投げ上げ、ひっかけてとるものである。
昔の、農薬も使わない冬の水田は、カモにとって良いえさ場でカモが多
りょうば
うわぎ
ながい
よしざき
みや
ふかた
くいたのだろう。猟場は、江戸時代には六七〇カ所もあった。片野だけで
すいさか
なく、吸坂や、上木、永井や吉崎、宮、深田にもあった。
殿様や家老が良い場所を得て、他の猟場は、藩士がクジで猟のシーズン中の場所を決めて利用した。
179
田尻浩伸
坂網猟(財)日本野鳥の会
一四、夏の夜の不思議な出来事
やま ば とうはち
はし
山葉藤八は、藩から二五〇石の領地をあたえられた家臣であった。夏の夜
しょうじ ど
に障子戸を開けたままねていたが、板ぶき屋根の端から黒い坊主が頭を出し
て、
「行こうか、行こうか。」といった。藤八が「ムムッ、来い。」というと、
つ
さ
坊主はすぐに藤八に飛びついて、上になったり下になったりして取っ組み合
まくら
いになった。藤八は 枕 もとの刀を取り、坊主を刀で何度も突き刺し、つい
たたみ
には 畳 まで突き刺しておいて家族をよんだ。
ゆか
それで、皆が起きてやってくると、藤八は「このあたりの床は血みどろだ。
あかり
気安く近寄ってはいけない。」といった。皆は 灯 をかかげて見たけれども何
も見えなかった。よく見ると、藤八の布団がシワクチャになっていて、それ
を刀で突き刺してあった。あやしく、不思議なことだ。
180
しばい
あま よ きゅうぞう
一五、芝居見物でクビになり
やま ば とうはち
はちろう ざ え も ん
じ
ざ えもん
山葉藤八は雨夜 久 蔵の次男で、山葉家の養子になった。久蔵は今の治左衛門
そせん
の祖先である。
し みず
この藤八は清水家のある人(八郎左衛門の先祖である)と二人で金沢へ芝
居見物に行って、そのことをかくすためのいい訳をした。そのことが藩士を
お め つ け
見はる御目付たちから殿様に報告されて、三日後に二人とも藩士をやめさせ
られた。藩の領地の中に住むことさえ許されなかった。
藤八は金沢へ行き、雨夜藤八と名のって加賀藩に仕えた。清水は越前《今
よしざき
おかち
おかち
の福井県》の吉崎へ去ってそこに住み、そのうちに男の子が生まれた。その
たけうちたく う え も ん
じろうしろう
生まれた子はのちに竹内宅右衛門といって、大聖寺藩に御徒として仕え、御徒
こがしら
小頭にまで出世した。その子が次郎四郎である。
うらがみけ
はじめはどのような訳か、清水家は養子をむかえよといわれ、浦上家から養
はちろう ざ え も ん
子をむかえて清水家をつがせ、代々八郎左衛門を名前とした。清水家の本当
の血のつながりは竹内宅右衛門にある。
181
※筆頭家老…藩の政治を動かしていた
ごようしょ
御用所で、家老らは月ごとに当番で政
治をしていた。有力な家臣が殿様以上
の力を持たないよう、また一人が強い
力を持たないようにしてあったようだ。
しかし、ときには家老の中で特に力を
む ら い と の も
持った人物が出てくる。今までの話に
か み や な い ぜ んも り ま さ
あった、神谷内膳守政や村井主殿、そ
してここに出てくる野口兵部らである。
神谷内膳守政は藩主が江戸から帰る前
に藩士を死刑にした。藩主のみが家臣
の死刑を決定できるのだが、長く家老
かんじょうがしら
を続けた彼は殿様の指示がないまま決
めて実行させた。
きょうほう
この話で、
野口をこらしめた 勘 定 頭 の
国沢新八は、 享 保 一〇年(一七二五)
へいもん
八月に閉門となった。
としあきら
の ぐちひょう ぶ
一六、野口 兵 部
しょうちこう
※のぐちひょう ぶ
いんきょ
ほうあん
正智公《四代利 章 》の時代の野口 兵 部(隠居して法庵という。)は、藩
ごようばん
では権力があり、いばっている人であった。御家老らのなかで政治をする御用番
は、月に一度は色々な役所を見回ることがしきたりとなっていた。
かんじょうがしら
その役所の一つに、藩が集めた年貢を管理したり、会計を受けもったりする
ごさんようば
しきい
御算用場という役所があり、 勘 定 頭 がそこの責任者であった。その勘定頭
みぞ
の席の近くには、境として溝がない敷居があった。この御算用場という役所
たたみ
は、農民や商人など身分のいやしいものが多く入って来る所で、 畳 もよご
れてきたならしかった。
そのためだろうか。その役所に法庵は見回りに来るのだが、御算用場の畳
うわ ば
をしいてある広間を上履きのゾウリをはいたままで境の敷居の場所まできて、
ずきん
この場所でゾウリをぬいで中へ入る。そのうえ、冬には頭をかくす頭巾をか
ぶったまま広間まで通る。《畳の上をゾウリで歩くことや、部屋で頭巾をか
ぶったままいるのは悪い態度と考えられていた。》
182
はんない
ね ん ぐ
ほうろくまい
か ん り
※御算用場…藩内の年貢をすべて管理
かみがた
し、藩士な ど に俸禄米を 渡 す。ま た 、
藩の米を上方へ送ってお金に変え、そ
し は ら
さ ぶ り
の金で藩の政治に必要な費用や、藩主
お や し き
のくらしの費用を支払う役所。
場所は藩の御屋敷の前で、家老佐分の
屋敷の南にあった。
こんなことが何度もあるので、それぞれの人があれこれいって批判をして
かげぐち
はいたが、全員陰口ばかりで、そのころの法庵の権力を考えると、はっきり
と問題にもできないでいた。
くにざわしんぱち
あるとき、法庵は見回りに出られた。このときは国沢新八が勘定頭であった。
ま づか
法庵は以前と同じように御算用場に入って来た。見回りがすんで帰るときの、
こ
まだ広間をはなれないところで、国沢勘定頭が、小間使いの者を急に呼び、
ちくしょう
「それ、そこにあるシュロぼうきで、あそこへ行く 畜 生 めのスネをたたき
折れ。」といった。さすがの野口兵部法庵も少しだけ早足になったと、その
とき見た人々はいったという。そのときから法庵は、二度と上履きのゾウリ
をはいたまま、頭巾をかぶったまま室内に 入 る の は お 止 め に な っ た と い う 。
183
※年貢…農民にかけた主な税である年
ふ ぎん
ぞうぜい
こ も の なり
貢は主に米で納めさせた。(これ以外
の 労 役 の 税 ・ 夫 銀 と 雑税 の 小物 成 は
ぎんのう
銀納であった。
)
米で納めさせたのは、
農村にお金が出まわってなく、米が中
お し お
心の経済であったためである。
き っ て
ところが、橋立、小塩、大聖寺山田町
きたまえぶね
は
「切手」
で納めてよいとなっている。
ここは農業中心の所ではなく、北前船
はんさつ
の商売や船乗りに漁業、町のくらしな
ど に よ り 、 藩札 で 納 め る 方 が 便
利だったためだろう。
ねんぐ
一七、年貢の納め方
しちょうまち
ながまち
おこめぐら
※ねんぐ
百姓は、四丁町《今の大聖寺永町》の御米蔵に年貢を納めなければならな
はんさつ
おしお
かった。「藩札」《銀のかわりになる藩のお札》で納めたことにはできなかった。
はしたて
しかし、橋立と小塩、大聖寺山田町は百姓が願い出ることによって藩札で年
貢を納めることが許されていた。この許可も毎年改めて願い出て、御算用場
で受けつけることになっていた。
そうしき
かんぽう
一八、葬式の時間帯
げんぶん
元文、寛保(一七三六~四三年)のころまでは、葬式は夜中にすることに
なっていた。これは、日本の古い時代からの習慣であったと聞いた。夜中に
葬式をあげるということには、どのような理由があったのだろうか。自分は
ばつ
学問が足りないのでわからない。今の時代では、罰を受けている者が病死した
ときか、何か知られたくない事情があったときにだけ、夜中に葬式を出すこ
とになっている。
184
一九、町人の決まり
町人が自分たちで大聖寺の町を治める役所に、町人についての八五か条の
きまりがある。そのきまりの中では、町人が生き物を殺すことを禁止している。
このきまりが持つ意味は、町人はできるだけ優しく弱々しくなるようにする
ことである。これは人々を治めていくのに都合がよい。
し ば た かついえ
百姓も同じだという。昔、柴田勝家が農民の武器を農具に替えさせたのも、
はんこう
人々を治めるための理由があるのだった。北国のこの地方はとくに、農民が
いっき
一揆を起こしたり、仲間を作って反抗したりするおそれがある。
185
刀狩りのさきがけ
し ば た かついえ
とよとみひでよし
かたな が
「刀を農具に変えたと」いう記事は豊臣秀吉の「 刀 狩り」を思わせる。だから、それよ
ほろ
としなが
せいふく
り先に秀吉に滅ぼされた「柴田勝家が・・」というこの記事はまちがっているかのように
ま え だ としいえ
お
だ のぶなが
いっこう い っ き
えちぜん
思ってしまう。だが、武将の前田利家、利長らが柴田勝家のもとで北陸を征服したとき、
実際にあった話である。
てんしょう
に
わ ながひで
天 正 三年(一五七五)に織田信長は一向一揆を破り越前(福井県の東部)を平定した。
は し ば ひでよし
せんりょう
さらに、羽柴秀吉や丹羽長秀、柴田勝家らの武将を加賀に攻め込ませ一向一揆の勢力を破っ
て ど り がわ
て江沼から手取川までを 占 領 した。
きたのしょう
信長は越前 北 庄 (現在の福井市)に柴田勝家を大将にして置き、前田利家らが北陸方
面を攻め取ることになった。
てんしょう
そのころ柴田勝家は、 天 正 四年(一五七六)から同六年(一五七八)にかけて、農民の
武器を没収したという。これを「刀ざらえ」といい、一〇〇年間続いた一向一揆をおさえ
こみ農民が反抗できなくさせたものである。
186
北国の農民は一揆を起こす恐れがある
ひ ようざつしゅう
おそ
あ み だ ぶ つ
いっこう い っ き
ごくらく
『秘 要 雑 集 』でこのように書いているのは、加賀の一向一揆の歴史をふまえて一揆とい
はんこう
う百姓の反抗を恐れているからだ。
しんらん
いっこうしゅう
ぶんめい
れんにょ
よしざき
鎌倉時代に親鸞が始めた、
ひたすら阿弥陀仏の名前をとなえればだれでも極楽へ往生できる
じょうどしんしゅう
とがし
という教えの浄土 真 宗 ( 一 向 宗 )を、文明三年(一四七一)、蓮如が吉崎にきて加賀の国
の農民に広めた。
し ゅ ご だいみょう
一向宗を信じた農民たちは加賀の国の守護 大 名 である富樫氏をほろぼし、大名の支配を
せいふく
受けずに自分たちで国を治める「坊主と百姓の持ちたる国」を作った。これが一向一揆だ。
ちょうきょう
一揆は 長 享 二年(一四八八)に、この加賀で起こり信長に征服されるまで約一〇〇年間、
加賀の国を支配した。
天下統一をめざす信長とは、一向宗を守るための戦いで死ぬなら極楽へいけると信じて農
民は激しく戦った。これは江戸時代の領主からみても恐ろしい歴史だった。
187
二〇、服装の乱れ
はかま
の ばかま
け
し
かざ
袴 で、すそにヒモがあるものを野 袴 という。すそに芥子という飾りがあっ
じょう
としあきら
かしら
て、ヒモがない袴は「 乗 せん《馬に乗りやすいように両足に細く分かれた
しょうちこう
袴》」という。正智公《四代利 章 》の時代までは、 頭 以上の身分の者は「乗
ひらざむらい
.ち
.つ
.け
.
せん」を身につけ、一般の平 侍 は、ひざから下をしめ付けた「た
《たっ
つけ袴》」を着た。
かわ
それで、皮などを使ってひざから下をしめた「たちつけ」の形にして平侍
ははいていたという。これは働きやすかったためである。
しかし、同じ正智公の時代に「たちつけ」は見苦しいという理由で、平侍
も野袴になった。よってすそにヒモがある袴になった。
そうしているうちに年月がたち、服装のきまりが乱れて、平侍にも「乗せん」
をはく者がでてきたが、禁止されることもなかった。さらに中ごろにはまた
おかち
服装の決まりが大きく乱れて、もっと身分の低い御徒まで野袴をはくように
なった。御徒のはいた袴には、ただ飾りの芥子がないだけであった。
188
←「乗せん」と思われる「踏込袴」
野袴の一種で、すそがせまくなって
いる。
↓野袴着用
←野袴
色々な袴
189
ほうしょうくろう
ほうしょうりゅう
ほ う しょう だ ゆ う
※宝生九郎…文中の宝生九郎とは能楽
く ろ う ちょうえ い
者である。
彼は加賀 宝 生 流 、
宝 生 大夫
しょうげ ん と も は る
ぶ
け
将 監友春の四子の九郎 暢 栄である。
のうがく
能楽は武家のたしなみとして大名に重
つなのり
か
が ほうしょう
視された。宝生流は宝生友春が五代加
賀藩主綱紀に教え、「加賀 宝 生 」と言
しょくにん
われるほどに盛んになった。綱紀は
さいくじょ
細工所の 職 人 にまで能を練習させたと
いう。このような加賀藩の影響を受け
大聖寺藩でも宝生流がさかんになった。
やり
じゅうもんじ
二一、槍となぎなたの技
わたなべ た ろ う う え も ん
やり
渡辺太郎右衛門が十文字の槍の使い手と勝負したとき、十文字の槍の横に
は
出た刃で、かかとを切られたという。あとで太郎右衛門は、「さてさて、大
切な所を切ってしまった。」と一生いっていたそうだ。
あおむ
「これは、十文字の槍を引くときに、刃にひっかけて相手を仰向けにひっ
じゅう もん じ やり
くり返す という 十 文 字 槍 の戦術 のひとつ だ。こ の戦術 は、十文 字槍の 流派
では重大な秘密となっている。十文字の槍の使い手と戦うときに心得ておか
はしべんけい
げき
よしつね
べんけい
なければならない第一のことだ。」と北海先生から聞いた。
のう
なぎなた
わざ
きょうみ
能の「橋弁慶」という劇で、義経と弁慶が京都の五条の橋の上で対決した
あなざわりゅう
ほうしょう く ろ う
ほうしょうりゅう
ほうしょう
場面では、弁慶は穴 沢 流 の長刀の技を使ったらしい。その様子はたいへん興味
のうがくしゃ
く ろ う ちょう えい
けん しょう こう
としみち
深いものだ。これは、あるとき能楽者の 宝 生 九郎《加賀藩宝 生 流 、宝 生
だゆ う しょう げん とも はる
大夫 将 監友春の四子の 九郎 暢 栄》が顕 照 公《五代利道 》へお話し申し上
げたことだという。
おがさわらりゅう
小笠原流の長刀の戦い方も穴沢流の最高の技を取り入れたものだ。穴沢流
190
実性院の天蓋
全昌寺の天蓋
たな べ へい ご ろう
ほっかいせんせい
の長刀をつかう動作が大変ためになっておもしろく、その動作をすぐに取り
てんがい
そうしき
入れたものだという。これは田辺平五郎が北海先生に話したという。
そうしき
二二、葬式に使う天蓋
てんがい
かざりがついてきれいな天蓋という上におおう物を、葬式のとき寺に下げ
ひつぎ
ておき 、 棺 が 寺に 来る の を待ち 受け た。 これ は 昔とは ちが って いる と のこ
とだ。
昔は、死んだ者の家から棺の上を天蓋でおおって、棺を運ぶ道をずっと持っ
けが
ていたという。このように、死者のけがれで天の神仏を汚すことのないよう
にとの意味から、「天蓋」と呼んだという。
二三、歌を歌いながら歩くな
えんきょう
延 享 (一 七四 四~ 四八 年) の ころ まで 、町 人が藩 士 の住 んで いる 町を、
夜であっても歌などを歌いながら通ること は 厳 し く 禁 止 さ れ て い た と い う 。
191
は
※足駄…雨の日などに履く高い歯の下
駄。
二四、はきものの制限
※あしだ
※
やまぼっくり
村々に住む者は、足駄やボックリのようなものをはくことは禁止で、「山木履
ぬ
」《 塗りのない木履》というものをはくことは許されていた。お城下でも山
木 履 をは くこ とは 、古く か ら許 され てい たとい う 。今 もわ ずか ではあ る が 、
城下に近い村の百姓が、年貢をすべて納めたときなど大聖寺の町に出て、山
木履をはいて歩きまわっているのを見る。
はん
せいばい
二五、藩の命令で人を殺害
ながいごろう う えもん
え もん
ながぬま げ
き
永井五郎右 衛門 を成敗 したときの話は前にも書いた。この五郎右衛門は、
かわさき や さん う
つば
かわ
今の河崎弥三右衛門の屋敷にいた。成敗をするとき、長沼外記の使った刀は
きん
金の 鍔をつけた刀だったという。あとで長沼は、「革 の鍔とちがって、銅の
鍔は手のひらにひびいてとても使いにくかった。」といった。このことは大
切なことだとしっかり心にきざんでおかなければならない。長沼は成敗する
ことになったとき、最初に「殿様のご命令だ。」と声をかけて切ったという。
192
※ボックリ…少女が履く下駄で多くは
町人の子どもが履いた。
足駄
むらいとのもいっぱ
二六、村井主殿一派の大処分
ほうえい
むら い との も
宝永 七 年 ( 一 七 一 〇 ) 二 月 一 四 日 、 御 家 老 の 村 井 主 殿 を 同 じ 御 家 老 の
さぶりとねり
お や し き
佐分舎人へ預けるという処分が殿様から出た。そのとき家臣たちは一人も残
かみしも
としなお
じきじき
らず、全員が裏地のついた上下を着て藩の御屋敷に出てくるようにとご命令
えんつうこう
があった。円通公《三代利直》が直々にお書きになったご命令は次の通りで
あった。
村井主殿のことは、だれもが知っているような良い家がらで、近年少し
ずつ高い地位につけられてきた。だが、村井はその恩を忘れてぜいたくの
限りをつくし、御家老職の権力をつかって藩士たちを無視するようにあつ
おこな
かい、その 行 いはとんでもなく悪いやり方だ。
しき
まず何よりも、代々の藩の式や行事などの決まりを、だれの意見も聞か
ずに自分勝手に変えて、重大な決まりを混乱させ、我がままなふるまいを
した。これによって、自分と同じ意見の者を重んじて、能力や身分に合わ
193
ない役目をあたえた。藩の貯え金までも全部取り出し、役職にふさわしく
ない遊び好きの者にまでお金を捨てるようにやり、家の作りまでもが世間
のことを気にせずごうかな作り方である。
以前から、内しょにこれらを聞いていたが、藩の御家老であるから、い
つの日か気がついて反省するだろうとそのままにしておいてやったが、少
しも反省した様子がなくぜいたくにおぼれ、悪い行いは日ごとに増えていた。
藩のお金を担当する役人はいうまでもなく、藩士は身分の低い者まで全
員、殿様のためにつくして働きにくい状態になって、領内の者たちは、村
ばっ
井を罰しないと、かえって藩をうらむようになる。そして、主人への反逆
おか
という、人の道に外れた大きな罪を犯そうとしていると聞いた。
いよいよもうやむをえないので、御家老の佐分舎人に村井を預けること
にした。藩の家臣たちは、このことをよく理解し、考えちがいのないよう
にいたせ。
194
※御家老…藩祖利治時代は玉井氏、織
田氏、神谷氏、才氏、山崎氏など七人
がおり、五代利道以降はほとんど異動
がなく、佐分利氏、生駒氏、山崎氏、
一色氏、野口氏、前田氏などから任ぜ
られた。
二月二七日、また殿様は、次のような命令を主な家臣に直接お書きになった。
ばつ
一、村井主殿の罪が決まったので、その罪に応じて罰をいいつける。藩の
御家老という重要な役職を勤めてきたものであるから、加賀藩にもご相
談をし、そのうえで藩の家臣たちの考えも聞いてみたところ、私と考え
めん
は同じことであったが 、その御家老職に 免 じて罪を軽くする。つまり 、
打ち首ではなく、佐分舎人の屋敷で切腹させる。だれもがこのことを理
二月二七日
解し、手下である組の武士たちにもいい聞かせるように。
とあった。
※
たけやまとよぞう
とみおか
せい
一一〇〇石取りの御家老の村井主殿は切腹となり、手伝ってとどめに首を
かいしゃくにん
切り落とす「 介 錯 人 」は武山豊蔵だった。彼はのちに、富岡と姓を改めた。
とみおかげんない
つまり富岡源内の先祖であった。
195
いしぐろいちろう う え も ん
おしあしがる
ひがし の せい べ
なり た ふ じ う え も ん
え
あさぬの
このとき、御用人であった二〇〇石取りの石黒市郎右衛門は、東 野瀬兵衛
ほうこうにん
の屋敷で打ち首となった。奉公人の管理をする押足軽の成田藤右衛門は麻布
かみしも
かいしょ
の上下を着て、一郎右衛門の首を切り落とした。
あだちかず ま
たかともげん べ
え
藩 の 必 要 な 物 を 商 人 か ら 買 う 役 所 で あ る 会所 の 奉 行 で 、一 五〇 石 取 り の
ひろせげん う え も ん
広瀬源右衛門は、安達数馬の屋敷で打ち首となった。押足軽の高友権兵衛は
かみしも
き
ざ
え もん
しばやませい だ ゆ う
麻布の上下を着て、源右衛門の首を切り落とした。
にし お
た け べ え
八〇石取りの西尾喜左衛門は柴山清太夫の家へお預けになったところ、越
え
むらたろくろう う え も ん
前の方へ追放の罰となり、家も財産も取り上げられた。同じく、西尾武兵衛
しん の じょう
みや い じゅう べ
と西尾津之 丞 も追放となった。
だ
よ
う えもん
うちたおりべ
うちだ
一〇〇石取りの藩士の 宮井 十 兵衛 、七〇石取りの 村田六郎 右衛門、五〇
つ
うちたはち う え も ん
石取りの津田与右衛門の三人は追放された。
ざ えもん
く
つ
み せいはち
おひま
一〇〇石取りの内田八右衛門、四〇〇石取りの内田織部、一五〇石の内田
よ
の
と
えっちゅう
与左衛門、七〇石の久津見清八、この四人は藩士をやめさせられる御暇とい
けい
う刑となった。加賀、能登、 越 中 の三か国から追放となり、道具をのぞく
196
やまだ よ そ だ ゆ う
家を取り上げられた。
こ は ら たけ ざ え も ん
まつもとせんぺい
いしぐろへいしち
すぎもとせい う え も ん
小原武左衛門、山田与三太夫、松本仙平の三人は与えられていた米がもら
はんのじょう
えなくなった。西尾武兵衛、西尾 伴 丞 、石黒平七 、足軽の 杉本清 右衛門 、
この四人は追放された。
杉本新七は牢屋に入れるという命令だったが、同月二七日に牢屋で首を切る
またはち
むらたろくろう う え も ん
と命じられた。新七の男の子も同所で首を切られた。新七の弟の又八は越前
へ追放された。
かく だ ゆ う
みやむら う
へ
え
か だゆう
主殿のせがれの村井角太夫は、そのときは七才だったが、村田六郎右衛門
なかむらでんしち
さ とう よ
そ
う
え もん
こいずみぜん べ
え
ふ じ い や ざ えもん
こんどう
の屋敷で切腹となった。とどめに首を切る役は宮村宇兵衛で、この人は嘉太夫
ざ えもん
の先祖であった。
てづか よ
わき た ちゅう べ
え
か と う きん う え も ん
さとう よ
へ
え
ふじいげん う え も ん
わきた り
手塚与左衛門、中村伝七、佐藤与三右衛門、小泉善兵衛、藤井弥左衛門、近藤
ぶん ざ え も ん
のざきかくのじょう
て づ か よ そ べ
え
文左衛門、脇田 忠 兵衛、加藤金右衛門、佐藤与兵衛、藤井権右衛門、脇田理
う えもん
右衛門、野崎覚之丞、手塚与三兵衛の一三人は、藩士をやめさせられて、加
賀・越中・能登の三か国と江戸に入ることを禁止された。
197
※神谷内膳守応…この神谷内膳は守政
もりまさ
の子、
守応である。
村井主殿が切腹した
あとも、多くの藩士の中には、神谷内
としあき
膳守応に対する反感が強かった。そ
の た め 、 四 代 利章 に つ い て 江 戸 か ら
帰った守応は金沢から帰れなくなって
しまった。それで、大聖寺藩の家老神
谷家はなくなった。
二七、神谷内膳の謹慎
※かみやないぜん
しょうとく
神谷内膳は、御家老の職をやめさせられて金沢に残され、金沢では昼の間
きんしん
屋敷を出入りしないよう謹慎させられた。これは、 正 徳 三年(一七一三)
一〇月一六日のことであった。
198
としなお
村井主殿の処分
むらいとのも
か み や な い ぜんもりまさ
もりまさ
いんきょ
もりまさ
お お ど し よ
村井主殿は、利直のとき神谷内膳守政を隠居させた家老であり、巻一で登場した。
ほうえい
主殿は宝永二年(一七〇五)一二月、守政の子である守応を家老よりえらい大年寄りという形だ
けの地位につけてしまった。たとえば守応は、火事や地震でも、殿様のお屋敷に来なくてよい。
殿様への年始のあいさつは一番先にして帰れ、などと命じられた。
にぎ
こうして政治の実権を握った村井主殿であったが、宝永七年(一七一〇)二月に神谷内膳守応
しょばつ
から、利直の命令を渡され、処罰された。神谷家と村井主殿の勢力争いのようすがみえる。
か み や もんじょ
主殿を処罰する理由として、
『神谷文書』
(『大聖寺藩史』)では、村井が藩のお金を勝手に使った
という。
くわしくは、利治が大聖寺藩を始めたときからたくわえてあったお金を、村井は江戸に送って
使ってしまった。また、京都で藩として一万両借りて、九〇〇〇両を遊びに使ったという。この
理由は、政治での敵である神谷家の文書に書かれたものですぐには信じられない。
きび
ともかく、この文にあるように村井のグループは厳しい罰をうけた。
199
とし はる
二八、青山新右衛門
じっしょう こう
ごきんじゅう
あお やま し ん う え も ん
実 性 公《初代 利治》のお側につかえる御近習 の 青山新右衛門 は、利治様
なかざわ
に特別にかわいがられた。初めは一〇〇石与えられていたが、のちには五〇
〇石まであたえられるようになった。
おぐり
さて、利治様がお亡くなりになったとき、殿様に可愛がられた家臣の中沢
こざわ
山も殿様のあとを追って死ぬものだと思っていたが、青山は自殺せずに次の
としあき
利明様につかえた。
青山が腹に
青バエがたつ」
そ こ で、 誰か がい や がら せ に青 山の 屋敷 の 門に 書 いた もの を張 り 付け た 。
やいば立ち
それには二首の歌が書いてあった。
「中沢や 小沢小栗に
つ
( 訳 ) 立 派 な 武 士 であ る 三 人 の 身 体 に は刀 が 突 き 立 つ よ う に 、見 事 に 腹 を
切ったが、青山にはクソやくさった魚にむらがる青バエが飛びまわっている
かわい
事よ。あれほど可愛がってもらったのにくさったやつだ。
200
と小沢と小栗は、殿様の死を悲しんであとを追って死んだ。多くの者は、青
中沢久兵衛の墓(実性院)
小栗、小沢の墓(実性院)
こうよう
「青山が 紅葉するほど
ご恩きて
岡の山へは
なぜにこんこん」
(訳)青山という山が赤く紅葉してくるほどになったのに、岡の山には、な
てがら
ぜ紅葉はこないのだろう。と、青山は手柄を立てたほどにとのさまのご恩を
しゅっせ
うけて出世させてもらったのにとのさまの骨を埋めた岡村の灰塚に、なぜ死
ぬという手がらを立てに来なかったのかと、いう二つの意味をもつ。
とう ふ
さてまた、青山の屋敷の門の中へ豆腐のカスを投げ入れた者があったとい
う。そのころ、豆腐のカスを「キラズオカラ」といったとそうだ。「腹を切
らず」と皮肉ったのだろうか。
201
※山川佐次右衛門…『大聖寺藩史』に
ほうえい
お う ま まわりばんしょ
よれば、宝永三年(一七〇六)九月六
日に
「御馬 廻 番 所 のケンカ」
とよばれる
いっぽうくん に っ き ぬきがき
事件が起こった。
やまかわ さ
じ
う え も ん
『一蓬君日記抜書』によれば、この事
はしもといち ざ え も ん
ついほう
ばつ
件にいあわせた山川佐次右衛門親子、
橋本市左衛門親子は追放の罰を受けた。
か わ い
彼らは藩から追放され、越前の国境ま
あば
で送られた。このほか河合ら三人は藩
士をやめさせられた。
突然に暴れられ、
ひ ようざつしゅう
このような罰を受けるのでは割が合わ
しょばつ
ない。
処罰の理由は、この『秘 要 雑 集 』にある
ように武士として突然の事件にうろた
えたということであろう。
お うままわりばんしょ
二九、御馬 廻 番所でのケンカ
おうままわり
※やまかわ さ
じ
う えもん
藩の御屋敷にあった御馬廻の番所で、家臣の二人が殺し合いのケンカを起
ほうえい
こした宝永三年(一七〇六)ころ、その番所に勤めていた 山 川 佐次右衛門は
ちゅうじょうりゅう
年 令 が四 〇 才以 上で 、 中 条 流 の 剣 術の 達 人で あっ た。 人 がら が よく 、 と
てもかしこい人だったという。だが、このケンカのときは大変なあわてよう
で、ケンカを止めることができず、けがも負ってしまい、武士として恥ずか
しいことであるとして、藩から追放されてしまった。
「このケンカは思いがけず起こった出来事だったので、正しい判断をする
ことができずにこのようになってしまった。とにかく、こういうことは普段
からの努力が必要で、武士としての心構えが大切なのである。」と、経験の
豊かな人がいった。
202
げんろく
としなお
しょうるいあわれ
※苦しい大聖寺藩…元禄八年(一六九
れい
五)に三代大聖寺藩主利直は、生 類 憐
みの令で有名な五代将軍綱吉から命じ
られ、江戸の中野に八万二〇〇〇匹の
ほうえい
犬小屋を作り、六九八六両をつかって
しばぐちもん
ふ し ん
いる。宝永七年(一七一〇)には江戸
城 の芝口門の 普請を 命 じ られ て いる 。
としあきら
そのため、その翌年正月に四代藩主
ほうろく
しょうとく
はん
としなお
三〇、苦しい藩の会計
えんつうこう
つなよし
円通公《三代利直》の時代に、将軍綱吉様から江戸にお犬様の小屋を作る
か み や な い ぜん
よう命令を受けた。そのためだろうか、殿様はお金がなくて、領内の商人か
※
ら御用金を集めよと命じられた。御家老の神谷内膳は「もう大聖寺藩の領内
からお金を集めるのは無理です。大名の必要なお金というものは、どのよう
な方法でもよいから、よそから集めるべきです。領内の商人にはどれだけで
もお金を持たせておけばよいのです。領内のお金は殿様のものです。」といった
そうだ。
203
になった 利 章 は、お金が無くて、藩士
きょうさく
の俸禄をはらえず半分借り上げている。
しょうとく
ひゃくしょう い っ き
翌年の 正 徳 二年(一七一二)は 凶 作
ね ん ぐ
で 百 姓 一揆( 正 徳 の一揆)がおこり、
きょうほう
年貢があまり取れなかった。さらに、
とらのもん
享保 一 七 年 ( 一 七 三 二 ) に 江 戸 城
虎ノ門の普請を命じられて、費用がか
かった。
三代円通院利直の墓(実性院)
(
『加賀市史・上巻』「大聖寺官録帳より」
)
三一、リーダーの決め方
くみがしら
大 聖寺 藩で は、 組のリ ー ダー とな る 組 頭 を 、組に 入 って いる 家臣 の投票
としみち
で選んだ人が任命されたという。この決め方が変わって、殿様や重臣たちに
けん しょう こう
よって選ばれることになった。しかし、また 顕 照 公《五代 利道 》の時代に
もとにもどって、投票で決めた人が任命されていたところ、これも三、四年
で終わってしまったと聞いた。
しょうれい
とし なお
三二、武芸の 奨 励
えんつう こう
円通公《三代 利 直 》の時代に、「家臣の中でも、領地を与えられずに米を
むそく
与えられている無足という者たちは、武芸のけいこに一生懸命はげみなさい。
けいこをなまけている者については、家をつぐとき認めるかどうかについて
考える。」ということを、殿様はいつもおっしゃっていたという。
204
三三、丹羽権平
げんろく
わ ごんべい
元禄(一六八八~一七〇三年)のころまでは、娘の病気でも看病のために
に
ぜに
役目を退くことがあった。以前、
丹羽権平は娘が病気になったときに退いた。
三四、山中温泉の入浴料金
ゆぜに
げんろく
としあき
ごようにん
そうゆ
おおめつけ
ごようしょ
205
山中 湯銭といって、一人につき一文の 銭 を山中温泉に入る人から取った。
としはる
三五、役名の変化
じっしょうこう
ご か ろ う
としなお
かったが、円通公が江戸城にお勤めだったときに、幕府の仕組みを学ばれて
わったのは円通公《三代利直》の時代である。家臣を見張る大目付も昔はな
えんつうこう
御用所にいて政治に参加した「御用人」は「寄合人」といった。役職名が変
よりあいにん
」のことを「寄合所」、「御家老」を「御用人」と呼び、御家老以外の家臣で
よりあいしょ
実 性 公《初代利治》から大機公《二代利明》の時代のころまでは、
「御用所
だ い き こう
この山中湯銭の始まりは、元禄六年(一六九三)に総湯を建てたときである。
山中温泉総湯
できた
役職だという。
う えもん
いんきょ
三六、児玉仁右衛門
こ だま に
いげん
お こおりぶぎょう
児玉仁右衛門(隠居して怡源という。)が農村を治める御 郡 奉行を勤めて
ねん ぐ
いたころのある年、米が不作で、百姓の年貢の割合を下げてほしいとお願い
したところ、御家老たちが年貢の割合を下げるかどうか話し合いをした。結
局、児玉仁右衛門の願いは聞いてもらえず、米のできる様子も調べずに、こ
れぐらい減らすと年貢を決めてしまった。そこで、仁右衛門は「年貢を減ら
す割合は、それぐらいではたりません。」といった。しかし、藩も収入が少
な く て困 るの で、 やむを え ず結 局は 、仁 右衛門 は それ に従 った 。いよ い よ 、
藩が決めた年貢の割合で年貢をとるようになったところ、その年は秋になっ
おかし
ても年貢をすべて納めさせることは難しく、どうにもならなくなった。農民
お め つ け
を見はる役の御目付からも報告があって、しかたなく農民を救うために「御貸
206
まい
E
EA
米 」という米を貸し与 えるように
した。
AE
※御貸米…この場合の藩が農民に貸
おかしまい
AE
した「御貸米」とは、農民に、年貢の
うち、納められない分を貸しておくこ
EA
とにするものである。
ごさんようばとどめがき
AE
EA
『 御算用場留書 』(『加 賀市 史料五 』)
しょうとく
AE
によれば、
「 正 徳 二年の一揆」
(正徳の
一揆)のときにも一万二三七六石以上
の御貸米が記録されている。
藩は、農民の願いどおりに年貢を下
げることはしたくない。かといって農
民が困って一揆をおこせば困る。それ
で、一揆が起りそうなとき、または起
こったときにやむをえず藩は年貢を貸
すというかたちで年貢を下げた。
これについては、農村を治める御郡奉行には相談もなく、米を貸し与える
農民の人数も、御家老たちが決めてしまってお命じになったという。御郡奉
行は不満もあったががまんして、まずは「ありがとうございます。」と申し
上げた。
AE
さ て 、そ の次 の年 も 作物 の 出来 が非 常に 悪 く、 少 しも 食べ 物が な かっ た 。
そうどう
AE
農作業も満足にできず騒動になり、場合によっては百姓による反乱がおこる
ことも心配されるくらいであった。それでまた神谷ら御家老たちだけで、米
※おかしまい
AE
AE
を増産するための元として「御貸米」を出すことと、その米の量を決めてし
まい、突然にお命じになった。
御郡奉行は、まず、「ありがとうございます。」と申し上げ、命令をお受け
し、そのうえで児玉仁右衛門は御郡奉行の役目をやめると申し上げた。その
とき、神谷内膳はお寄り合いの実権をにぎっていた。
207
こ しょうぐみ
AE
お うま
これによって、仁右衛門は殿様の
ご
AE
AE
AE E
E
AE
AE
AE
お側で世話をする御小 姓 組の御馬
まわりぐみ
E
E
AE
AE
廻 組を命じられ、御郡奉行の役目
を願いどおりやめさせられた。その
とき、仁右
AE
衛門が神谷内膳に「あなたは、殿様のためにならない仕事をしています。こ
れまで私とあなたは仲良くしていましたが、今後はあなたの意見は聞きたく
ない。」といった。これから二人は絶交した。たいへん気楽に話し合ってお
られたのが、道で会ってもあいさつをすることもなかった。
あるとき、福田橋の上で二人が会ったところ、内膳はカゴに乗って来たの
で、すぐに降りたが、仁右衛門は神谷の顔を見ても、まったくおじぎもしな
いで通った。なので、内膳はカゴから降りはしたものの、あいさつすること
はなかった。
それから内膳は帰り、すぐに家来を仁右衛門の屋敷に使いに出して、「先
208
カゴ(全昌寺)
ほどは久しぶりにあなたを見かけま
した。お元気そうな様子でなにより
です。さて、お互いに仲良くしていた
AE
ところ、お役目による考え方のちが
えん
AE
いでこのように縁を切ってしまいま
したが、年月がたち、私は別に深い
気持ちもないので、これからは以前
のように親しくしたいのです。」と
伝えた。これによって、仁右衛門も、
年 月 がた ち、 別 に深い 気 持ち も な
かったので、それからは
※神谷内膳の家来…神谷内膳の家来、
A
お か べ や
E
AE
じ
う え も ん
AE
AE
ばいしん
AE
AE
か み や ないぜん
AE
AE
EA
岡部弥治右衛門は大聖寺藩主の陪臣である。大聖寺藩主の家臣である神谷内膳の家
来であるからだ。
ほうろく
AE
AE
しかしこの岡部は、大聖寺藩士の一般的な藩士より多くの俸禄をあたえられていた。
てんぽう
AE
AE
時代はずれるが天保一五年(一八四四)の藩の俸禄を受けている者と比べてみると、
岡部のような二五〇石は、藩士でいうと上位二三位になる。
三〇〇〇石の家老神谷には、岡部以下一五〇石の加藤など数一〇人の家来がいたと
いう。
仲直りしたという。絶交から三年目のことであった。それから再び仲良くし
ていたという。
二人が縁を切っていた間、児玉のせがれ《のちに仁右衛門の名をつぐ。》
は、御家老たちの名前を遊びで書いていたところ、仁左衛門がその雑な字を
見て、「『様』の字は、たとえ初めて書くとしても、上級の役目である神谷内
AE
ていねい
膳ら御家老の『様』はていねいに書きなさい。」とはげしくしかった。この
こうさい
AE
AE
ように物事のけじめをしっかりつけ、交際しないときは絶対にしない、丁寧
E
209
A
にするところは丁寧にする、そのう
うらおもて
A E
E A
え 裏 表 のない人だということはほ
めるべきだ。
※
AE
AE
お か べ や
じ
A
E
E
A
E
E
A
か とう
E
う
このときの神谷内膳の家来は、二
AE
五 〇 石 を 与 え ら れ た 岡部弥 治 右
えもん
E
え もん
AE
AE
AE
AE
AE
AE
AE
衛門と、一五〇石を与えられた加藤
ごん ざ
権左衛門であった。
E
A
E
210
佐分家と御算用場の位置
三七、吟味所(裁判をする場所)
しょうとく
ぎんみしょ
正 徳 (一七一一~一六年)のころまでは、裁判をするための「吟味所」は
ろうや
おこな
とうぞく
まだなくて、牢屋だけがあった。もし裁かれる者がいたらいつでも、会計の
ごさんようば
仕事をする 御算用場で 行 ったという。そしてまた、盗賊 やその他重罪の者
の裁判のときは、御家老たちが参加して裁判が行われた。
いこまげんご べ
え
やまざきごんのじょう
とうぞくあらため
古い記録では、正徳四年(一七一四)五月一六日にぬすみをした者たちの
ほりさぶろう ざ え も ん
裁判があったとき、御家老の生駒源五兵衛、山 崎 権 丞 といっしょに、盗 賊 改
ぶぎょう
奉行の堀三郎左衛門が、御算用場に出られるということがあった。その他の
あさま
裁判にもたびたび御算用場へ来て、その場を借りて裁判を行ったことが書き
残されている。
ほうれき
そののち、おおよそ宝暦(一七五一~六四年)のころだろうか。
「浅間」とい
う役所を建て、裁判はここですることになった。しかし、死刑や重罪の裁判
では最近まで昔からの通りに、御算用場へ罪人を連れてきて裁判をしていた。
210
※八代将軍吉宗…この文は、有名な幕
よしむね
府の将軍吉宗が、虫の退治を命じたも
のある。この命令の出されたわけは、
きょうほう
前年の 享 保 一七年(一七三二)に江戸
三大キキンの一つ、享保のキキンが
あったからだ。このキキンのとき、全
国 で 一 万二 〇 〇〇 人 が餓死 し て い る 。
原因はイナゴ(実際にはウンカ)と言
われている。害虫のウンカが西日本を
中心に大量発生して、稲に害をあたえ
米があまりとれなかったのだ。そのた
め、
虫の退治を吉宗は命じたのである。
てんめい
天明(一七八一~九年)のころであろう。吟味役所もだいたい独立して建
さぶり ぎ
へ
え
となり
てられ、重罪の裁判までもがそこですませることになって、今もその通りで
ある。
※
よしむね
もっとも、算用場がそのころまでは御家老の佐分儀兵衛の屋敷の 隣 にあった
ときのことであった。
よしむね
三八、吉宗様のご命令
きょうほう
享 保 一八年(一七三三)三月、幕府の 八代将軍 吉宗 様から日本全国に出
された命令は次のとおりである。
田畑に虫が発生して、作物が害を受けている。虫の巣が残って、アシや
カヤなどの根に、小さいコブのようなものが取り付く。または、土の一、
二寸(三~六㎝)ほど下にその虫の巣があるそうなので気を付けること。
もしそのような所があれば、アシやカヤは焼き払うか、または、土をほっ
211
ゆ
い しょうせつ
けいあん
※由比正雪の事件…この話に出てきた
へいがくしゃ
由比 正 雪 の事件とは、慶安四年(一六
五一)に兵学者の由比正雪が起こした
し
たお
事件。江戸で兵学(軍事の学問)を教
で
える由比正雪は、弟子たちと幕府を倒
そうと計画した。江戸の正雪の弟子は
三〇〇〇人ほどいたといわれ、江戸、
みっこく
大坂、京都で反乱を起こそうと考えた
しょけい
が、密告され幕府の役人にとらえられ
処刑された。
きび
江戸幕府ができてから幕府が厳しく
大名を取りしまったために多くの藩が
ろうにん
つぶされた。世の中には、仕える藩を
失 っ た 多 く の 浪人 が 生 ま れ て 生 活 に
困っていた。この浪人たちが由比正雪
を中心に反乱を計画したので、四代将
いえつな
軍家綱のときから大名の取りしまりが
ゆるめられた。
むらいやへい
て焼き捨てること。
ごうしょうじ
三九、毫摂寺の移動
かし だ じゅんかく
ご と う す け し ろう
しんちょう
今の樫田 順 格より村井矢柄、後藤助四朗の屋敷あたりいったい《今の 新 町
ごうしょうじ
》は、以前は毫摂寺の屋敷だったという。そののち、毫摂寺が藩に、お参り
に来る人にとって、町の片すみに寺があって不便であるので、町人の家を買っ
て取りこわし、そこ《今の毫摂寺の在る所》へ寺を移してほしいと願った。ただ
としなお
うねめ
し、町役人などは、今まで寺があった通りで良いと反対したという。
おぎゅうむら
※ ゆ い しょうせつ
そののち、以前の毫摂寺のあと地の屋敷に三代利直様の弟の采女様がお住
とし あき
みになった。采女様は初め、荻生村にお屋敷があった。
たんてい
四〇、藩の探偵
だ い き こう
か つ だ は ん ざぶろう
大機公《二代 利 明》の時代に、幕府をたおそうとした由比 正 雪 の事件が
きしゅう
あったとき、この大聖寺藩の前田家から紀州の和歌山藩へ勝田半三郎を使い
212
けいあん
おかち
しょだいじっしょう
に送ったという。これは、情報を聞き集める人間だ。
(半三郎は御徒である。
としはる
ご と う さい じ ろ う
ひぜん
からつ
考えてみると、正雪を処罰したのは慶安四年(一六五一)である。初代 実 性
こう
公《初代利治》の時代である。)
としあき
四一、九谷焼の始まり
だ い き こう
大機公《二代利明》の時代に、藩は後藤才次郎を肥前《今の佐賀県》の唐津
とうき
に送り、陶器づくりを習わせた。唐津では陶器づくりの技術をよその藩に持
ち出してぬすまれないよう、妻や子と暮ら し て い な い 者 に は 教 え な か っ た 。
それで才次郎は、藩の命令を実行するために唐津で妻や子を持って陶器の
作り方を習い、習い終わったのちはこっそりと妻や子を唐津に置き捨てて大
聖寺に逃げ帰った。そののち、才次郎は山中より奥の、大聖寺川の上流にある
九谷で焼き物を作った。
このようにしたことも、殿様のご命令があってのことだろう。
213
毫摂寺(大聖寺荒町)
「九谷一号窯跡全景」
(
『九谷古窯跡発掘調査報告書』より)
214
菩提の石(中央にメノウあり)
四二、玉石の採掘
げんろく
た ま や とく べ
え
な
た むら
元禄四年(一六九二)一〇月に京都の玉屋徳兵衛という者が、那谷村《小
たまいし
松市の那谷寺近くの村》の土地で、玉石というメノウの入ったきれいな石や
かん め
野石を重さ四〇貫目(一五〇㎏)につき、藩への運上銀という税金(銀六枚。
今のお金では一〇三万二〇〇〇円ほど)をさし上げてほった。このときより
ま つ や とう う え も ん
前にも玉石をほることがあったという。こののちも、松屋藤右衛門などとい
つ
う者が、年々、藩へ税金を出してほるということがあった。今ではそこはほ
りつくされてしまったそうだ。
四三、小アユ漁の禁止
げんろく
お
ち
元禄六(一六九四)年三月に、これ以後は小アユを釣ることが禁止となった。
かずあみ
これは「数罟は洿池に入れてはならない」という古代の聖人君主が定めた
決まりに似て、アユも取りすぎないようにし、小さいアユを大事にしなけれ
ばいけないということだ。
215
じ しょうどう
としあき
※ 時 鐘 堂 … 時 鐘 堂 は 二 代 藩 主 利明 の
四四、山代の火薬庫
かんぶん
かんぶん
山代の火薬庫は、寛文五年(一六六五)五月にできた。
四五、ときを告げる鐘
ときがね
いな て
ば
かみがた
大聖寺の時鐘という時間を告げる鐘は、寛文七年(一六六七)三月に上方
とりいいずみ
じっしょういん
の京都から職人の鳥居和泉という人が来て、岡村の稲手場という場所で銅を
やま だきゅう ざ え も ん
溶かして作った。そのときの奉行は山田久 左衛門だった。 実 性 院 の大鐘も
同時にでき上がった。そのときの時鐘は、同じ年の七月一九日に鐘つき堂に
つり下げられた。
216
ころ作られた。当時の鐘つき堂の高さ
もんめ
は一丈九尺(五・七m)であった。鐘
かん
の費用は銀で五貫四五九 匁(二〇・五
㎏)であった。
平成 一五年(二〇 〇三)、 大聖寺本
町に当時を再現して時鐘堂が建て
られた。
時鐘堂(大聖寺本町)
四六、江戸時代の刑罰
かまがふち
ほっけぼう
お や し き
死刑で、打ち首の罪人をためし切りにすることは、旧大聖寺川で法華坊あた
さいがふち
りの犀ヶ淵や、釜ヶ淵でおこなわれていた。しかし、その川下は藩の御屋敷
かんぶん
の生活用水にもなっており、また藩士の用水でもあるからとう理由で、寛文
ふろうしゃ
一〇年(一六七〇)から、この場所でためし切りをしてはならないと決めて
えんぽう
じろう う えもん
あった。また、
延宝五年(一六七七)益庵橋あたりで浮浪者を切り殺す者がいた。
やり
そのころのうわさでは、殿様の長い槍を持つ小間使いである次郎右衛門とい
う者のしわざだというので、つかまえて問いただしたがいわなかった。それ
ごうもん
で、七月一一日、一三日、一九日、二三日、二七日に水責めなどの拷問にか
せいばい
けた。これで白状したので、その年の一〇月に成敗した。
しかし、この次郎右衛門をためし切りにするとき、御家老や重役がいる寄
合所の庭で切ったという。その場所が選ばれたのは、藩の御道具である刀を
いながきそう べ
え
用いてためしたからであろうか。そのとき、藩の武器管理役の御道具奉行は
ふたまつぜんのじょう
二松善之丞、藩士を見はる御目付は稲垣惣兵衛で、次郎右衛門をためし切り
217
ひ ら た じゅう う え も ん
か ね こ よし べ
え
うち だ ごん ざ えもん
したのは平田 十 右衛門、金子嘉兵衛、内田権左 衛 門の三人であったという。
いき どう
えんきょう
このころ、首をはねることや、「 活胴」という生きた人の首と胴体を切る
けい
こ と はす べて 、平 田、内 田 など であ った 。 延 享 三年 ( 一七 四六 )に ろう破
じんすけ
てん な
りをした仁助という者に活胴の刑を命じたとき、平田と内田の二人で切った。
かんぶん
かがみびら
寛文から天和(一六六一~八四年)のころまで、耳を切ったりそぎ落とした
よろい
りして領内から追放になる罪が非常に多くなった。
四七、黒田家の正月
ちくぜん
筑前《今の福岡県》の黒田様の藩では、正月に 鎧 の 鏡 開 きをするとき、
もち
家臣の者全員に餅をくだされた。そのとき、殿様の黒田様をはじめ、家中の
者全員が、城で鎧を身につけるのがこの藩の決まりであった。
218
※藩の財政…大聖寺藩が、お金が無く
て困り、藩士からお金を借りたり、藩
士に節約を命じたりする話だが、八代
きょうほう
将軍吉宗の 享 保 の改革と似ている。幕
あげまい
府も財政が苦しくて大名から米を出さ
とし
せたり( 上米 )、人々に質素倹約を求
ほうろく
めている。苦しい大聖寺藩では四代利
あきら
章 の ころ 、藩 士の 俸 禄 を 減 らし た り
藩士をやめさせ金沢の加賀藩に返した
りしている。
とし あきら
四八、節約をする藩士たち
しょう ち こう
きょうほう
※
正 智 公 《四代 利 章 》の時代 、 享 保 (一七一六~三 五年)の ころ、 藩 の
か
財政が非常に苦しくなったとき、藩から武士たちに収入としてあたえる内の
ぶ
かしら
三分《三割のこと》を殿様がお借り上げになっていたが、そののちまた借り
せつやく
上げる割合を増やすことになった。
かたぎぬ
はおり
このとき、藩士の節約のためにきっとなるだろうと、組の 頭 以上の者た
かみしも
としみち
ちが上下の上《肩衣》を着ることをとりやめて、羽織だけでよいというご命
けん しょう こう
令を出した。それからすぐに顕 照 公《五代 利道 》の時代になったが、その
ほうれき
ままであった。しかし、宝暦(一七五一~六三年)のころに、昔にもどすとい
うご命令があった。今でも頭以上の者は肩衣を着ている。
219
とし なお
四九、高橋十郎左衛門
えんつう こう
お うま まわり がしら
たかはし じゅうろう ざ え も ん
そ こう
円通公《三代利直》の時代のこと、御馬 廻 頭 の高橋 十 郎 左衛門は藩士
やま が
としあき
えんぽう
をやめるよう命じられた。この十郎左衛門は、はじめは山鹿素行の軍事の学
だ い き こう
問で一、二の門人であった。それで、大機公《二代利明》の時代、延宝五年
(一六八七)六月に二五〇石でめしかかえられて御馬廻頭にまでなった。
藩をやめさせられ追放とされたときに、三つの罪を御家老の家でいいわた
たかはし じゅうろう ざ え も ん
された。 高橋 十 郎 左衛門 はその一つ一つにくわしくいい訳をした。これは
御家老にとっておどろきあきれることだったという。そのとき、高橋は、
「こ
んないい訳をいいたてることは、藩からはなれたくないようで、いさぎよくない
ように見えますが、少しもそうではないのです。よそへ出て行き、他の藩の
殿様に奉公して多くかせぐことに心が傷つくので、大聖寺の殿様には失礼な
つ
わ
の
つか
がら申し開きをいたします。」といった。御家老らは一言もいえなかったとい
う。
か め い お き の かみどの
そののち高橋は、亀井隠岐守殿《島根県津和野藩主》へお仕え申し上げた。
220
今も大聖寺には高橋がいた家が残っているという。
この大聖寺藩に仕えていた間に、高橋が教える軍事の学問の弟子たちが話
し合って小判を三〇枚集めて彼のところへ持って行った。十郎左衛門は「それ
ぞれ皆様方のお気持ちを残らずいただきました。しかし、当分の間は何も困る
ご えんじょ
ことがないので、お金を受け取ることはできません。けれども、もしほかに
びんぼう
仕える殿様が見つからず、貧乏して困ったならば、必ず御援助をいただきま
しょう。」といってお金を押し返した。この十郎左衛門はまことに正しくき
ちんとした人であった。
円通公も、高橋を優れた人物だと思って、いつも役に立てたいと思われた
というが、次第に殿様の近くにいる家臣たちは高橋の悪口をいい、殿様はそ
ばっ
の言葉を疑うことなく、このように高橋を罰することになったという。
かんがん
昔から皇帝の周りにいる宦官の、人をおとしいれる毒をふくんだ言葉という
のは恐ろしいものである。主君はこの言葉をもう一度振り返ってみると良い。
221
五〇、身分による差別
た
おかち
た
び
なげもの
昔はこの大聖寺藩のきまりでも、御徒は身分が低い家臣なので、投物《ぞ
げ
うり、もしくは下駄と考えられる》や足袋ははいてはならなかったという。い
つの間にかこの決まりが破られ、今は御徒 の 者 も 勝 手 に こ れ を 用 い て い る 。
本 家 の加 賀藩 では 、 今で も 御徒 たち が足 袋 をは く こと は禁 止さ れ てい る 。
もくげき
私たちは江戸で加賀藩の上屋敷へいつ行っても目撃している。
おおづちむら
だ い き こう
としあき
222
この大聖寺藩では足軽は投物や足袋はもちろん、金銀をちりばめた刀を持
ていない。
かし
五一、樫の森
えぬまぐん
かし
代に、天草《今の熊本県》から種をお取り寄せになって、ここにその種をま
あまくさ
深い淵があり、その上に樫の木の林がある。これは大機公《二代利明》の時
ふち
江沼郡の南の、 動 橋 川の上流にある大土村の土地に、「馬のまき」という
いぶりはし
ち歩くことも禁止だったという。この決まりも今ではすたれてしまい、守られ
大土町の樫の森
かせたそうだ。ここには今もなお樫の大木が多くある。道のそばにあって見
さる
うまかたまち
いしどうやま
える。これを樫の森という。冬には猿がたくさんここに集まっている。
ひつぎ
五二、石堂山の石の 柩
こ づ か とうぞう
ひつぎ
す
や
小塚藤蔵が町奉行だったとき、馬方町《今の越前町》のものたちが、石堂山
はたけ
ぶぎょうしょ
てんじん
に 畠 を作っていたところ、石の 柩 をほりだした。中を開けてみると素焼き
つぼ
のお香を入れるような壺が一二個あった。これを奉行所にとどけた。
すがわらのみちざね
ところが、昔のことをよく知る老人の話で、菅 原 道 真 がなったという天神様
がお生まれのときに道具を石堂山にうめたという、古くからのいい伝えがある
という。「もしかして、そういう物だろうか。それならもったいない。」と、
しきじ
また元の通りにうめておいた。敷地がつくられた由来などが書かれた話にも、
これに似ていることがあったという。
223
五三、色々なきまり
しょうとく
定例の行事がある日のうち、御家老らの御寄り合いは四日、一〇日、一六
おこな
日、二〇日、二四日、二八日に 行 うことは、 正 徳 三年(一七一三)九月八
日に決まった。
ろ く と のぞ
五四、六斗除きの始まり
きょうほう
おかち
と
224
享 保 七年 (一 七二 二 )九 月八 日 に、 藩の お金 は そこ を つき 、藩 の家 臣 た
始まりであった。
か ざ ん ほうおう
五五、花山法皇の乳母の石碑
げた女の石碑があり、それには文字も刻んであるという。
せき ひ
山代村の薬師の山の上に、花山法皇がお生まれになったころお乳をさしあ
か ざ ん ほうおう
割合で、藩から与える米を減らすという命令がでた。これは、
「六斗除き」の
ろく と のぞ
ちはいうまでもなく、御徒など下級武士までもが、米一〇〇石につき六斗の
山代温泉の薬師
あづち
おぎゅう
※垜ケンカと荻生ケンカ…『大聖寺藩
あづち
て ん な
史』には 垜 ケンカと荻生ケンカについ
て、垜 ケンカの起こったときを天和元
年(一六八一)一〇月のある日とし
ている。また、人物名についても『秘
要雑集』
とは異なっている。
たとえば、
やすだゆう
桑原八太夫を安太夫、三沢甚六の父の
甚太夫を安右衛門と書いている。
あづち
おぎゅう
五六、 垜 ケンカと荻生ケンカ
お や し き
※あづち
藩の御屋敷の中で起こったケンカに、 垜 ケンカというのがあった。これ
お ひろしき
てっぽう
ご
い ふう
は、今は奥方様がすむ「御広式」の場所であったという。昔はここに弓の的
くわばらはち だ ゆ う
を置く「あづち」があった。ある日、藩の鉄砲の技術をきたえる役の御異風
み さ わ じんろく
を務めていた三沢甚六と桑原八太夫の二人がケンカした。その様子は、けい
じんろく
こがすんで、甚六が鉄砲のそうじをしていた。八太夫は、「私は気分が悪い
ので、家へ帰ってから鉄砲をそうじします。」といってうつむいていたが、
フッと立って、甚六の後ろから刀で切りつけてきた。
甚六はサッと前へ飛び出して、振り返り刀を抜いて互いに切り合おうとした
ところに他の人々が入ってきた。八太夫は続けざまに切ろうとしたが、同じ
おお の じんのじょう
御異風の役目であった大野 甚 丞 が八太夫を後ろから止めて、ケンカはおさ
かたなきず
ま っ た。 甚六 は、 最初の 一 振り で 刀 傷 が 少し ついた が 、切 り合 いに はなら
ず、そののちその傷も手当てして治った。
ただし、殿様の御屋敷内でのことだったので、八太夫と甚六の二人はお寺
225
ぜんしょうじ
で切腹することを藩から命じられた。一人は全昌寺であったという。この甚
ちゅうじょうりゅう
六は 中 条 流 の剣術の技をすべて習得した人だったという。
このころの世間のうわさでは、後ろから切りかかられた甚六が前へよけた
ことを「逃げた」といって、「中条流は逃げる剣術だ」とまで悪口をいう者
じん だ ゆ う
があったとかいう。甚六の父親の甚太夫は、年が七〇才ほどになっていたが、
この人もまた中条流の達人であった。このうわさを伝え聞いて、非常に不満
226
に思って、日夜つらい思いでいた。
き
翌年の甚六の一周忌の日、甚太夫はとまりの当番の仕事が終わり、朝になっ
八太夫の親も、今ごろ甚太夫が来ることをあやしく思って、危険に対する
案内をたのんで、
「甚太夫です。ご主人におめにかかりたい。」と申し入れた。
そのころ、荻生 には藩士たちの屋敷があって、三沢も荻生に住んでいた。
おぎゅう
夫の親の所へ、朝の六ツ半(六時半)ごろについた。
くれ。」ということであった。甚太夫はすぐにカゴに乗って、そのまま八太
て家へいってよこしたのは、「体調がよくないので、迎えのカゴをよこして
全昌寺
となり
用意も して いた 。主 人 は 隣 の部 屋に 刀を 置い て 、甚太 夫と 会っ た。 主 人に
は次男がいたが、隣の部屋で様子をうかがっていたところ、甚太夫がいった。
「あなたの息子さんと私のせがれは、二人とも若くて考えが足りず、場所
も考えずにケンカをしてしまいました。よって、二人とも切腹を命じられま
した。今さらしょうがない出来事です。おたがいに年をとってたよる者が少ない
身となりました。今日は一周忌となり、今さらのように思い出されます。それ
としての生き方も成り立たず、死んだのちも名誉をけがされてくやしくてな
りません。難しいこととは思いますが、あなたを相手に戦いたくて来ました。」と。
甚太夫は刀に手をかけると、主人も覚悟していたので、
「わかった。」といっ
て、すぐに隣の部屋に刀を取りに出て行くと、主人の次男は隣の部屋で父を
守るために静かに聞いていたが、思った通りだったのですぐに出て行って刀
を抜いて甚太夫と切り合った。主人も切り合いに加わり、二人で甚太夫と激
しく戦った。
227
についても私のせがれは、そのころからのうわさで逃げたと悪口を受け、男
荻生町の侍屋敷跡
甚太夫は、さすがは剣術の達人で、七〇余りの年をとりながら、二人を相
手に切り合った。そのうちに二人に深い傷をおわせたが、相手は二人で、そ
のうえ七〇余りの年寄りなのでついに切り殺されてしまった。ところが、そ
か
のころまでの甚六や 中条流への悪口はい われなくなり、反対 に甚太夫をほ
めたたえた。これを荻生ケンカという。
しんせき
だ すけ のぶ
ぶ
このとき、荻生あたりに親戚がいた人たちは荻生に駆け付けたが、その人々
わ
の来ている様子などを見て、和田祐信という人は、「もはや 武 という戦いの
おとろ
心は 衰 え てし まい まし た 。ケン カす る場 に行 く 様子が この よう であ っ たこ
しゃく
やり
とは、昔にはなかったことです。」といい、どのようなものだったか聞くと、
かっこう
「やはり、日ごろの武士の恰好のままで、九 尺 (二・七m)の 槍 を持ち、
はだし
三尺(九〇㎝)の手ぬぐいも持って、ゾウリを片手にさげて、裸足になっていな
ければなりません。」といった。その理由を聞くと、「どのことも切り合いの
ケンカという、異常な状態にそなえる心構えです。なのに、そのときは動き
はかま
にくい 袴 をはいた者もおり、そうでない人でも手に何も武器を持たず、動
228
ほろぼ
きにくいゾウリをはいていました。」といった。
とよとみ け
ご
こ ごしょう
みみょうこう
和田祐信は豊臣家を 滅 ぼすため大坂へ出陣したとき一三才で、微妙公《加
としつね
か
じ
や
よ し ろ う
賀藩三代利常》の御児小姓として大坂へ殿様のお供をした人だ。長生きして
となり
今の北海先生の 隣 、 鍛冶屋の 与四郎の土地に住んでいたという。大坂の陣
のことなどをいつも話していたという。
先ほどの、甚六へ八太夫が切りかかった原因となったうらみは、次のよう
にいわれた。そのころ、ある死んだ人の奥様と八太夫が好きあう関係になり、
甚六はつねづね話すときにはこのことをからかっていたが、事件があったそ
の日は特別に強くからかった。実際、この心に積もったうらみが原因だと聞いた。
229
五七、山崎与蔵
やまざき か な い
よぞう
お こおり ぶ ぎょう
山崎嘉内の養父の与蔵は、領内の村々を治める御 郡 奉 行 を命じられたと
くみがしら
き、その場にいた 組 頭 に向かって、「重要なお役目をくださり、ありがとう
ございます。しかし、答えは場所を変えて申し上げます。」ということだった。
組頭は、別の部屋で「どうしたのだ。」とたずねると、「特別なことではご
いた
ざいません。以後、お役目で至らないことがあれば、そのことについてきっ
ばつ
と信じ られ ない人 物と 思われ てど んな 罰 で もい いわた され たいと 考え ます。
しかし今の藩の政治は、家臣を役人として信じられる人物か考えもせず、罰
もあまりあたえようともせず、家臣の能力を考えて重く用いたり、やめさせた
りもしません。無難に役目を変えたり、やめさせたりすることなどは、表面
はなんでもない顔を して、本心では藩の えらい方の色々な事 情だけで決め
ていると思います。
このようなことは、私にとってはとてもいやなことで、至らない点があれば
引き出され、いくらでも藩のえらい方の思うままに罰をお命じくださること
230
こそ本当の願いでございます。万が一、このことを分かっていただけないの
であれば、お役目は勤められません。このようなことなので、場所を変えて
お答え申し上げますといったのです。このことを藩のえらい方にお伝えくだ
さい。」という。組頭は聞いたことを御家老に伝え、それで御家老の月当番
よしだ
である御用番は与蔵が話したことを、うまく考えて組頭へ伝え、ともかくは
え
こ だまへいぞう
御郡奉行の役目を引き受けることはすんだ。このとき、同じ御郡奉行に吉田
かん べ
勘兵衛、目付に児玉平蔵が同じ日に任命されたので、北海先生はその場にい
て聞いていたことを、私は先生から聞いた。
231
五八、その後の山崎与蔵
よぞう
この与蔵が御郡奉行の役についていたとき、藩ではあらゆることについて
けんやく
倹約をさかんに行っていた。また、さしあたっての藩のお金がないため、商
うんじょう
おこな
人 た ちか ら 運 上 銀 とい う税金 が 取れ るこ とは 何であ ろ うと 許可 して よいと
しばい
のことだった。それで、芝居を農村部で 行 いたいなどと願う人々は、運上
銀をはらえば自由にしてよいとのことだった。
このときに与蔵ら皆が藩の重役に、「なるほど運上銀という税は藩の利益
にならないとはいえないけれども、芝居などは民を治めるためにはよろしくない
と思いますので、もっと考えて工夫されるのが良いと思います。お金が必要
と考えるのは正しいようには思えますが、そのような芝居からお金を集めて
はいけません。まったくお金がなくて困っていることで、藩はどこででも芝
居をしたがるからです。」といわれた。
とむら
藩の重役は、こうなっては話し合うことはないと、芝居の許可を得られる
だいしょうや
という話を農村の大庄屋である十村たちにいいわたした。芝居小屋を自由に
232
くしむら
営業できる場所は山中、山代、串村などであった。その中で串村は一番良い
と 思 われ たが 、与 蔵は「 串 村は ご本 家の 加賀藩 の 領地 との 境目 になり ま す 。
とくに、加賀藩では先の殿様が芝居を禁止されています。そのことを、こち
らの大聖寺藩にもお知らせくださっているのに、加賀藩との領地の境で芝居
小屋の営業を認められることは、まったく加賀藩の領内の人が見に来るのを
ことで、失礼なことだと思います。山中、山代がよろしいでしょう。」
といった。
いっしきご ざ え も ん
そのとき、一色五左 衛門 は、「それは良いことではありますが、串村での
芝居を許すことも難しいことではありません。その理由は、加賀藩の役人た
ちと自分たちで内しょに話をし、芝居をすることを承知していただいていま
す。」といった。
ふだ
それではと、すぐに多くの者に芝居をする権利のためにどれだけの税をは
い
らうか書いて投票(入れ札)させたところ、三つの村のうちで、串村で芝居
する人の税金が一番高い金額で投票していたので、串村に決まった。
233
あてにして行う芝居というものです。加賀藩に対して誠意がなく申し訳ない
山代温泉(『錦城名所』より)
串茶屋(『錦城名所』より)
このころまで、この大聖寺藩の領地内では芝居などというものはなく、今
度が初めてのことであるため、どこで芝居があっても大当たりしてもうかる
と、商人などの投票への参加は非常に多かった。それでも串村ですることに
投票で決まった。
それなのに、山中や山代などに投票した町人たちから、御家老の一色に申
し 込 みが あっ た。 そのの ち 、御 家老 や御 用人の 所 へ御 郡奉 行が 呼び出 さ れ 、
御家老の月当番である御用番がいうには、「以前に芝居について入れ札のこ
とを話し合って、串村で芝居を行うことにしたが、そののち、やりなおしで
話し合いをしたら、串村はご本家様の領地との境に近くてご無礼になる。も
う、決めたことだが、もう一度入れ札をやり直しにし、今度は山中と山代の
両方の村にかぎって入れさせる。」とのことであった。
そのとき、御郡奉行の与蔵は「どの人もお酒によったように思えま
すな。」といった。それで、だれもが気を悪くした。一色五左衛門は、「与蔵っ!
許せないことをいうな。」と怒りで顔を真っ赤にしていった。それで、与蔵
234
くしむら
※串村… 串村 は万治三年(一六六〇)
ち ゃ や
に加賀藩領から大聖寺藩領となった。
かつて、串には茶屋があり、にぎわい
し ば い
を み せ て い た の で 、 芝居 の 候 補 地
となったのであろう。現在、串は小松
市内である。他の候補地の山中や山代
も村とはあるが、温泉宿でにぎわう所
であった。
は「そうでございます。そのことについては先日、私が気づいて申し上げた
ことですぞ。それなのに、あのときあなたたち御家老は本家の加賀藩には串
※
村で芝居をする話は承知してもらっており、御家老らの話し合いで、串村に
決 め ても 問題 がな いと決 ま った との こと 。それ で 、私 は商 人に 命じま し た 。
もう今は誰が芝居をするかも入れ札で決まっているのに、そのようなことを
聞くとは、あなた方はまったく本気でいらっしゃるとは思えません。もしか
して、お酒によって おられるのかと聞き ましたが、私の失言 なのでしょう
か。」といった。御家老や御用人たちは、与蔵のいったことが正しいので無
言であった。また、与蔵は「もう入れ札の結果が出て、芝居は串村ですると
申し付けたのに、急にがらりと態度を変えて、今さら串村で芝居はできない
とはいえません。」とはっきりいった。
そのとき誰もが、「そういうわけにはいかん。何といっても先日の話が不
十分だったのだ。加賀藩に対して失礼にあたることはできないので、これは
またそのほかのことともちがい、入れ札のやりなおしはやむをえないこ
235
とだ。」といい、入れ札はやりなおしになった。今度は山中村で芝居が行われる
ことに投票で決まった。串村に決まったときと同じ金額ぐらいであった。
さ て 、そ のの ちは 与 蔵を 御 郡奉 行か らや め させ る こと だけ が問 題 だっ た 。
そ の とき には 御家 老から や めさ せる よう 申し上 げ たが 、ほ かに 事情が あ り 、
殿様はこれらの事情をすべてお聞きになっていたので、やめさせられること
御家老たちが申し上げるままに与蔵をやめさせていたならば、与蔵が最初に
だ
御郡奉行のお役目を命じられ、それをお受けしたときに、御家老らの家臣の
む
としあき
用い方について批判をいったことも無駄になるところだった。
五九、結婚式の禁止事項
だ い き こう
結婚式のときに水をかけることは、大機公《二代利明》の時代におふれが
あり禁止になった。このころは「水あびせ」といって、ひどいものだったとい
う。なかには、以前からうらみなどがあった者に対して、そのうらみをはら
236
は な かっ た。 万が 一、殿 様 がこ れら の事 情を事 前 にお 聞き にな ってお ら ず 、
山中温泉(『錦城名所』より)
しょうとく
きょうさく
※百姓一揆… 正 徳 二年(一七一二)九
はげ
月一〇日の激しい風による 凶 作 のため、
げんめん
大聖寺藩全体を巻きこんでおこな
ね ん ぐ
われた年貢の減免を要求する百姓の一
揆にかかわる記事であり、この一揆を
正徳の一揆という。
要求が聞き届けられなかったことを
な
た むら
きもいりたく
不満とした農民数百人が、一一月四日
の夜に那谷村の肝煎宅をおそったこと
からはじまる。この一揆には藩内のほ
とんどすべての村が参加したと考え
られている。
すために水をかけることがあり、厳しく禁止された。石を投げることも、水
こし
をかけることと同様に禁止されたという。
※
いっき
な
た
かんじょう
藩士が、はでであざやかな大刀や小刀を腰にさすことは、同時に禁止された
という。
六〇、百姓一揆
しょうとく
みや べ しん べ
え
よし だ しょういちろう
正 徳 二年(一七一二)のころ、百姓一揆が那谷へ押し寄せたときに、勘 定
がしら
頭 の宮部新兵衛や吉田 庄 市郎らは一揆をなだめしずめるために、緊急に那
う
え もん
谷へ行くよう命じられた。そのときは乗れる馬がなく、早カゴで行ったとい
に
う者がいたと、北海先生の父の仁右衛門がいったとのことだ。普段は村々の
馬もあてにしていたけれど、このように一揆が起こっているときには使えない。
こ
し
こ の 那谷 の百 姓一 揆 では 、 農民 が大 聖寺 町 まで 押 しか けて きそ う なの で 、
え
大聖寺町のすみずみまで守るようお命じになられたという。皮屋の小路《大
はやし く ろう べ
聖寺永町の山代道・山中道の口》へは 林 九郎兵衛が行ったという。
237
山代・山中道
那谷寺(『錦城名所』より)
238
か
に
書
き
写
さ
れ
た
本
を
借
り
て
見
る
こ
と
が
で
き
た
。
だ
が
、
そ
れ
に
は
「
清
水
沖
一
本
の
内
容
が
あ
っ
て
い
る
か
を
確
か
め
る
た
め
に
、
後ご
藤 とう
松 まつ
吉 きち
郎 ろう
氏
が
持
っ
て
い
た
、
ほ
に
す
こ
し
首
を
か
し
げ
る
よ
う
な
疑
問
が
あ
っ
た
。
そ
こ
で
、
元
と
な
っ
た
本
と
写
し
た
が
青
年
の
と
き
に
書
き
写
し
た
も
の
で
あ
る
。
よ
い
本
で
は
あ
る
が
、
文
の
内
容
や
文
字
と
あ
と
が
き
が
あ
る
本
で
あ
っ
た
。
長
光
は
沖
一
郎
氏
の
祖
先
で
あ
り
、
こ
の
本
は
長
光
が
、
こ
れ
を
気
に
せ
ず
に
写
す
。
清し
水 みず
長 なが
光 みつ
」
「
嘉か
永 えい
壬 じん
子し
年
(
一
八
五
二
)
二
月
二
四
日
か
ら
う
閏 るう
月 づき
二
月
三
日
ま
で
、
字
は
へ
た
だ
239
郎 ろう
氏
か
ら
お
借
り
し
た
も
の
で
あ
る
。
そ
れ
は
今
回
、
昭
和
七
年
(
一
九
三
二
)
に
印
刷
し
た
も
の
の
元
に
な
っ
た
本
は
、
清し
水 みず
沖 おき
一 いち
一
つ
に
数
え
る
こ
と
が
で
き
る
。
な
い
記
録
の
中
で
も
、
『
秘ひ
要 よう
雑 ざっ
し
集 ゅう
』
は
非
常
に
め
ず
ら
し
く
、
大
切
に
す
べ
き
も
の
の
大
聖
寺
藩
に
つ
い
て
の
記
録
は
、
あ
ま
り
多
く
残
っ
て
い
な
い
よ
う
で
あ
る
。
そ
の
少
秘
要
雑
集
解
説
の
記
事
の
書
か
れ
た
年
で
あ
る
の
で
、
そ
の
前
後
に
集
め
ら
れ
た
さ
ま
ざ
ま
な
話
に
ま
ち
四
年
(
一
七
八
四
)
か
ら
七
〇
年
ほ
ど
前
の
こ
と
で
あ
る
。
」
と
あ
り
、
天
明
四
年
が
こ
こ
の
本
が
書
か
れ
た
年
は
、
本
文
の
中
で
火
事
の
事
が
書
い
て
あ
る
と
こ
ろ
に
「
天 てん
明 めい
め
に
と
て
も
力
に
な
っ
た
人
だ
と
い
え
る
。
か
ら
北
海
は
筆
者
で
は
な
い
こ
と
は
確
か
で
あ
る
け
れ
ど
も
、
北
海
も
ま
た
こ
の
本
を
作
る
た
児
玉
仁
右
衛
門
の
こ
と
が
書
か
れ
て
い
る
の
も
、
や
は
り
北
海
が
話
し
た
の
で
あ
ろ
う
。
だ
「
今
の
児こ
玉 だま
仁に
右う
衛え
門 もん
」
と
書
い
て
あ
る
の
は
北
海
の
こ
と
で
あ
る
。
そ
し
て
、
先
代
の
240
先
生
が
言
っ
た
。
」
と
い
う
言
葉
が
あ
る
か
ら
、
筆
者
は
彼
に
学
ん
だ
人
物
と
考
え
ら
れ
、
の
題
名
ら
し
い
。
筆
者
が
だ
れ
か
は
分
か
ら
な
い
が
、
文
の
中
の
と
こ
ろ
ど
こ
ろ
に
「
北 ほっ
海 かい
れ
よ
り
も
清
水
氏
の
本
で
、
単
に
『
雑 ざっ
記き
』
と
い
う
題
名
が
つ
け
ら
れ
て
い
る
の
が
本
当
『
秘
要
雑
集
』
は
、
『
聖 せい
じ
城 ょう
雑 ざつ
話わ
』
と
も
『
大 だい
し
聖 ょう
寺じ
り
領 ょう
内 ない
雑 ざっ
記き
』
と
も
い
う
が
、
そ
本
も
借
り
て
見
て
、
分
か
っ
た
こ
と
が
あ
っ
た
。
は
同
じ
本
で
あ
り
、
笑
わ
ず
に
は
い
ら
れ
な
か
っ
た
。
そ
の
後
、
西 にし
村 むら
算 さん
氏
の
書
き
写
し
た
郎
氏
か
ら
借
り
た
『
聖 せい
じ
城 ょう
雑 ざっ
記き
』
を
写
し
た
も
の
で
あ
る
。
」
と
書
い
て
あ
っ
て
、
結
局
ま
た
の
名
を
藤
之
助
と
い
う
人
が
、
神
に
ち
か
い
を
た
て
た
文
章
で
く
わ
し
く
書
い
て
い
が
い
た
。
北
海
が
成
し
と
げ
た
こ
と
に
つ
い
て
は
、
北
海
の
実
の
弟
で
あ
る
東 とう
郭 かく
福 ふく
岡 おか
じ
準 ゅん
、
手
で
有
名
だ
っ
た
号
が
大 だい
山 ざん
の
児
玉
左 さげ
源ん
太た
が
お
り
、
三
男
に
儒 じゅ
学 がく
者 しゃ
の
旗 きざ
山ん
児
玉
三 さぶ
郎 ろう
才
で
亡
く
な
っ
た
。
そ
の
あ
と
を
つ
い
だ
の
は
仁
右
衛
門
双 そう
で
、
双
の
長
男
に
は
絵
が
上
特
に
ま
正 さと
知 もり
流 ゅう
の
槍 やり
の
達
人
で
あ
っ
た
。
天 てん
明 めい
五
年
(
一
七
八
五
)
四
月
二
七
日
、
五
七
は
家
に
伝
わ
る
学
問
を
教
え
て
、
北 ほう
じ
条 ょう
り
流 ゅう
の
軍
事
の
学
問
を
く
わ
し
く
知
っ
て
お
り
、
(
一
七
五
九
)
六
月
に
父
が
隠 いん
居 きょ
す
る
と
、
家
を
つ
い
で
御お
馬 うま
ま
廻 わり
組 ぐみ
に
入
っ
た
。
北
海
241
え
ら
れ
た
武
士
だ
っ
た
。
北
海
は
き
享 ょう
保 ほう
一
二
年
(
一
七
二
七
)
生
ま
れ
で
、
宝 ほう
暦 れき
九
年
衛
門
則 のり
忠 ただ
は
後
に
平 へい
蔵 ぞう
と
名
前
を
変
え
、
藩
か
ら
一
五
〇
石
分
の
米
が
と
れ
る
領
地
を
あ
た
は
そ
の
号 ごう
《
本
名
や
字
以
外
に
用
い
る
風
流
な
名
前
》
で
あ
る
。
北
海
の
父
で
あ
る
仁
右
は
、
い
諱 みな
《
本
名
》
は
善 ぜん
、
あ
字 ざな
《
成
人
後
、
本
名
以
外
に
つ
け
る
別
名
》
は
子し
勧 かん
、
北
海
て
名
前
が
受
け
つ
が
れ
た
の
で
、
と
て
も
ま
ぎ
ら
わ
し
い
。
こ
の
北
海
と
い
う
仁
右
衛
門
北
海
が
児
玉
仁
右
衛
門
で
あ
る
こ
と
は
前
に
書
い
た
が
、
仁
右
衛
門
は
何
代
か
に
わ
た
っ
が
い
な
く
、
こ
れ
は
北
海
が
亡
く
な
る
前
の
年
に
な
る
の
で
あ
る
。
の
ち
長 ょう
家け
か
ら
と
つ
い
で
き
た
人
で
、
利
治
の
生
み
の
母
で
あ
る
。
花
詮
院
は
利
章
の
奥
け
で
あ
る
が
、
南
嶺
院
は
加
賀
藩
利 とし
常 つね
の
奥
方
の
う
ち
の
一
人
で
あ
り
、
加
賀
藩
の
重
臣
中 なか
つ
務 かさ
信 のぶ
成 なり
な
ど
の
名
前
も
あ
る
。
女
性
で
は
南 なん
嶺 れい
院 いん
と
花か
詮 せん
院 いん
の
名
前
が
見
ら
れ
る
だ
が
成
し
と
げ
た
こ
と
が
書
か
れ
て
い
る
。
藩
主
の
一
族
に
は
真 しん
源 げん
公 こう
采 うね
女め
利 とし
昌 まさ
・
太た
一 いち
院 いん
直 なお
・
正 しょ
智 うち
公 こう
利 とし
章 あき
・
顕 けん
し
照 ょう
公 こう
利 とし
道 みち
・
高 こう
源 げん
公 こう
利 とし
精 あき
に
わ
た
っ
て
、
初
代
か
ら
六
代
ま
で
謙 けん
徳 とく
公 きみ
重 しげ
凞 ひろ
の
名
が
あ
る
。
当
の
大
聖
寺
で
は
じ
実 っし
性 ょう
公 こう
利 とし
治 はる
・
大 だい
機き
公 こう
利 とし
明 あき
・え
円ん
通 つう
公 こう
利 とし
藩
の
殿
様
の
名
前
を
あ
げ
て
み
る
と
、
加
賀
藩
の
瑞 ずい
り
竜 ゅう
公 こう
前
田
利 とし
長 なが
・
し
松 ょう
雲 うん
公 こう
綱 つな
紀 のり
・
242
も
、
古
い
記
録
や
古
い
話
を
集
め
た
も
の
だ
と
言
え
る
。
例
と
し
て
本
文
中
に
見
ら
れ
る
『
秘
要
雑
集
』
の
内
容
は
、
筆
者
が
実
際
に
見
た
り
聞
い
た
り
し
た
こ
と
と
い
う
よ
り
料
を
北
海
か
ら
聞
い
た
の
で
あ
ろ
う
。
ら
れ
た
。
)
と
い
う
句
が
あ
る
。
『
秘
要
雑
集
』
の
筆
者
も
、
そ
う
い
っ
た
時
に
多
く
の
資
夜
に
何
度
か
集
ま
り
、
親
し
く
し
た
。
楽
し
い
話
の
中
に
、
思
い
や
り
の
気
持
ち
が
感
じ
君
は
お
酒
と
楽
し
く
話
を
す
る
こ
と
が
好
き
だ
っ
た
。
花
の
季
節
の
朝
や
、
月
の
明
る
い
る
が
、
そ
の
中
に
「
君
嗜
酒
且
好
談
笑
。
花
晨
月
明
集
二
三
交
遊
。
言
笑
自
情
。
」
(
訳
・
様
で
あ
っ
た
織
田
監
物
秀 ひで
親 ちか
は
、
古
く
か
ら
伝
わ
る
式
の
作
法
に
つ
い
て
と
て
も
よ
く
知
っ
廷
か
ら
の
使
い
を
も
て
な
す
係
で
あ
っ
た
大 やま
和と
《
今
の
奈
良
県
》
の
国
の
や
柳 なぎ
本 もと
藩
の
殿
し
た
時
に
は
古
く
か
ら
の
式
に
な
れ
た
者
が
と
て
も
い
ば
っ
て
い
た
。
利
昌
と
同
じ
く
朝
ら
の
使
い
を
も
て
な
す
係
を
す
る
よ
う
に
幕
府
か
ら
命
じ
ら
れ
て
い
た
。
も
と
も
と
、
こ
う
い
て
、
藩
の
殿
様
と
同
じ
く
ら
い
の
あ
つ
か
い
を
受
け
て
い
た
の
で
、
こ
の
日
は
朝
廷
か
の
殿
様
で
あ
る
前
田
利
直
の
弟
だ
っ
た
利
昌
は
、
利
直
か
ら
一
万
石
を
分
け
て
も
ら
っ
て
徳
川
家
の
綱
吉
を
ほ
う
む
っ
て
あ
る
寛 かん
永 えい
寺じ
で
式
を
お
こ
な
う
予
定
で
あ
っ
た
。
大
聖
寺
243
に
位
を
贈 おく
る
た
め
に
使
い
の
者
が
来
る
こ
と
に
な
り
、
二
月
一
六
日
に
江
戸
の
上
野
の
、
月
一
〇
日
に
死
ん
だ
が
、
朝
廷
か
ら
は
、
い
つ
も
の
決
ま
っ
た
行
事
と
し
て
死
ん
だ
綱
吉
織お
田だ
監 けん
物 もつ
を
刺さ
し
殺
し
た
事
件
で
あ
る
。
将
軍
徳
川
綱 つな
吉 よし
は
宝 ほう
永 えい
六
年
(
一
七
〇
九
)
正
こ
の
本
に
書
か
れ
て
い
る
多
く
の
出
来
事
の
う
ち
で
一
番
重
大
な
も
の
は
、
采 うね
女め
利 とし
昌 まさ
が
い
る
か
を
知
る
こ
と
が
で
き
る
。
の
人
物
の
名
前
を
書
き
連
ね
た
だ
け
で
も
、
こ
の
本
に
い
つ
の
時
代
の
こ
と
が
書
か
れ
て
方
の
一
人
で
石 いし
倉 くら
家け
か
ら
と
つ
い
で
き
て
お
り
、
信
成
の
生
み
の
母
と
な
っ
た
。
こ
れ
ら
い
。
は
大
聖
寺
藩
の
家
老
の
代
表
と
な
っ
て
、
藩
の
農
業
や
商
工
業
を
さ
か
ん
に
す
る
た
め
に
こ
の
本
に
は
ま
た
、
神 かみ
谷 やな
内い
膳 ぜん
の
行
動
が
い
ろ
い
ろ
な
と
こ
ろ
に
書
い
て
あ
る
。
内
膳
も
の
は
こ
の
書
物
の
ほ
か
に
は
な
く
、
こ
の
書
物
の
大
切
さ
を
思
わ
せ
る
も
の
と
い
え
よ
う
。
り
あ
い
く
わ
し
く
伝
え
て
い
る
が
、
当
時
の
様
子
を
実
際
に
見
て
い
る
よ
う
に
記
録
し
た
織お
田だ
監 けん
物 もつ
御 ごさ
殺つ
害 がい
之の
終 しゅ
始 うし
雑 ざっ
記き
』
に
く
わ
し
や
、
江
戸
時
代
後
期
に
書
か
れ
た
『
利 とし
昌 まさ
公 こう
の
利
昌
の
事
件
の
よ
う
す
は
、
江
戸
幕
府
将
軍
徳
川
家
の
歴
史
書
『
徳 とく
川 がわ
実 じつ
紀き
』
で
も
わ
野 のじ
尻り
与よ
三そ
左ざ
衛え
門 もん
が
書
い
た
『
一 いち
蓬 おう
君 くん
日
記
』
の
で
、
利
昌
の
家
臣
は
、
大
石
の
よ
う
な
仇
討
ち
事
件
を
お
こ
す
必
要
も
な
か
っ
た
。
こ
※
利
昌
の
事
件
…
利
昌
の
事
件
に
つ
い
て
は
、
労
し
た
が
、
利
昌
は
武
士
と
し
て
は
見
事
に
相
手
を
殺
す
目
的
を
果
た
し
織
田
を
殺
し
た
244
大 おお
石 いし
義 よし
雄お
は
、
藩
主
の
浅
野
が
殺
せ
な
か
っ
た
吉
良
義
央
を
殺
す
た
め
の
か
仇 たき
討う
ち
で
苦
九
年
だ
け
な
の
で
、
た
い
へ
ん
に
世
間
の
人
々
を
お
ど
ろ
か
せ
た
。
浅
野
家
の
御
家
老
の
央 おう
を
傷
つ
け
た
の
と
、
ま
っ
た
く
同
じ
よ
う
な
出
来
事
で
あ
り
、
二
つ
の
事
件
の
間
は
た
っ
た
石 いし
川 かわ
主 との
殿 もの
頭 かみ
義 よし
孝 たか
の
屋
敷
で
切
腹
を
命
じ
ら
れ
た
。
こ
の
こ
と
は
、
浅 あさ
野の
長 なが
矩 のり
が
吉き
良ら
義 よし
朝
早
く
に
、
寛
永
寺
の
奥
に
あ
る
座ざ
敷 しき
で
、
一 ひと
突つ
き
で
秀
親
を
刺
し
、
そ
の
罰
で
一
八
日
じ
め
な
性
格
だ
っ
た
利
昌
に
は
、
そ
れ
が
が
ま
ん
で
き
な
か
っ
た
。
そ
し
て
、
式
の
日
の
て
い
た
。
な
の
で
、
ま
だ
二
六
才
の
青
年
だ
っ
た
利
昌
を
ば
か
に
し
た
と
思
わ
れ
る
。
ま
あ
り
、
内
膳
守
政
は
宝 ほう
永 えい
三
年
(
一
七
〇
六
)
五
月
二
日
に
大
聖
寺
で
亡
く
な
っ
た
の
で
、
な
ぜ
か
と
い
う
と
、
大
聖
寺
藩
の
た
め
に
大
き
な
役
割
を
は
た
し
た
の
は
内
膳
守 もり
政 まさ
で
な
ま
ち
が
い
で
あ
っ
た
。
二
年
(
一
七
一
七
)
五
月
一
日
に
亡
く
な
っ
た
と
書
い
た
の
で
あ
っ
た
が
、
こ
れ
は
大
き
次
の
年
の
し
正 ょう
徳 とく
四
年
(
一
七
一
四
)
の
三
月
に
加
賀
藩
に
送
ら
れ
、
そ
の
後
内
膳
が
き
享 ょう
保 ほう
昼
間
は
外
出
で
き
な
い
逼 ひっ
塞 そく
と
い
う
罰 ばつ
を
受
け
た
だ
け
で
な
く
、
そ
の
子
供
の
外げ
記き
も
ま
た
え
も
な
い
ま
ま
、
た
だ
内
膳
が
し
正 ょう
徳 とく
三
年
(
一
七
一
三
)
一
〇
月
一
六
日
に
、
金
沢
で
245
ろ
だ
っ
た
。
そ
の
時
、
清
水
氏
の
考
え
に
教
え
ら
れ
る
こ
と
も
多
か
っ
た
が
、
自
分
の
考
こ
の
私
が
『
石 いし
川 かわ
県 けん
史し
第
二
編 へん
』
に
内
膳
の
こ
と
を
書
い
た
の
も
、
ち
ょ
う
ど
そ
の
こ
内
膳
の
最
後
に
つ
い
て
は
ま
だ
く
わ
し
い
調
査
が
で
き
て
い
な
か
っ
た
よ
う
で
あ
る
。
内
膳
』
と
い
う
題
名
の
本
を
書
い
て
、
内
膳
が
成
し
と
げ
た
こ
と
を
明
ら
か
に
し
た
が
、
と
に
つ
い
て
は
あ
ま
り
は
っ
き
り
し
て
い
な
か
っ
た
。
清
水
沖
一
郎
氏
は
以
前
、
『
神
谷
に
し
正 ょう
五ご
位い
の
く
位 らい
を
天
皇
か
ら
も
ら
っ
た
の
で
あ
る
が
、
内
膳
が
年
を
と
っ
て
か
ら
の
こ
努
力
し
た
人
で
あ
り
、
こ
の
よ
う
な
こ
と
か
ら
昭 しょ
和 うわ
三
年
(
一
九
二
八
)
一
一
月
一
〇
日
の
重
さ
に
つ
い
て
は
84
ペ
ー
ジ
の
表
参
照
。
て
お
く
の
が
一
番
よ
い
と
思
う
。
ま
た
、
大
聖
寺
藩
の
歴
史
を
研
究
し
て
い
る
人
た
ち
の
た
な
い
こ
と
だ
と
し
て
も
、
内
膳
の
本
当
の
よ
う
す
を
世
の
中
に
残
す
に
は
、
こ
こ
で
書
い
と
に
つ
い
て
長
く
述
べ
る
の
は
よ
い
こ
と
だ
と
は
思
え
な
い
が
、
か
り
に
そ
れ
が
適
当
で
私
は
今
、
『
秘
要
雑
集
』
の
解 かい
説 せつ
を
書
い
て
い
る
の
で
あ
る
。
そ
の
中
で
神
谷
家
の
こ
〇
)
一
一
月
の
『
聖 せい
じ
城 ょう
公 こう
論 ろん
』
に
の
せ
ら
れ
て
い
る
。
と
か
ら
研
究
を
新
し
く
進
め
ら
れ
た
ら
し
い
。
そ
の
研
究
の
成
果
は
昭
和
五
年
(
一
九
三
贈 おく
ら
れ
た
直
後
か
ら
だ
ろ
う
と
思
う
。
清
水
氏
も
ま
た
、
こ
の
よ
う
に
分
か
っ
て
き
た
こ
246
神
谷
家
の
子
孫
の
こ
と
が
多
く
分
か
っ
て
き
た
の
は
、
お
そ
ら
く
、
内
膳
守 もり
政 まさ
に
位
が
は
、
そ
の
こ
ろ
の
研
究
者
た
ち
は
ほ
と
ん
ど
気
づ
い
て
い
な
か
っ
た
。
門
よ
り
も
軽
く
、
遠
慮
よ
り
も
重
い
。
刑
罰
い
で
あ
っ
た
。
し
か
も
そ
の
子
孫
が
加
賀
藩
の
家
臣
と
し
て
代
々
家
を
つ
い
だ
こ
と
な
ど
し
、
昼
間
の
出
入
り
を
許
さ
な
い
も
の
。
閉
命
じ
ら
れ
た
と
し
た
の
は
八
月
二
六
日
で
あ
り
、
四
年
三
月
に
つ
い
て
の
こ
と
も
ま
ち
が
科
せ
ら
れ
た
刑
罰
の
ひ
と
つ
で
、
門
を
閉
ざ
※
逼
塞
…
江
戸
時
代
に
武
士
ま
た
は
僧
侶
に
応
の
こ
と
だ
っ
た
か
ら
で
あ
る
。
ま
た
、
し
正 ょう
徳 とく
三
年
一
〇
月
一
六
日
に
内
膳
が
逼 ひっ
塞 そく
を
い
っ
た
人
な
の
で
、
き
享 ょう
保 ほう
二
年
五
月
一
日
に
亡
く
な
っ
た
と
い
う
の
も
、
こ
の
内
膳
守
後
で
罰 ばつ
を
受
け
た
の
は
内
膳
守
政
の
子
供
で
、
最
初
の
名
前
は
外げ
記き
、
後
に
内 ない
膳 ぜん
守 もり
応 まさ
と
れ
で
一
五
日
に
江
戸
を
出
発
し
て
二
五
日
に
金
沢
の
宿
に
つ
い
た
が
、
こ
れ
か
ら
行
く
大
利 とし
あ
章 きら
が
幕
府
の
命
令
で
将
軍
に
お
会
い
し
、
大
聖
寺
に
帰
る
許
可
を
い
た
だ
い
た
。
そ
そ
の
後
外げ
記き
と
名
前
を
変
え
た
。し
正 ょう
徳 とく
三
年
(
一
七
一
三
)
八
月
に
は
藩
の
殿
様
で
あ
っ
た
内
膳
守 もり
政 まさ
の
息
子
の
守 もり
応 まさ
は
、
初
め
の
名
前
が
源 げん
蔵 ぞう
で
、
家
を
つ
い
だ
と
き
に
は
伊い
織 おり
、
で
死
ん
だ
。
葬 そう
式 しき
は
大
聖
寺
の
全 ぜん
し
昌 ょう
寺じ
で
行
っ
た
が
、
墓
は
金
沢
の
野の
田だ
山 やま
に
作
っ
た
。
ら
っ
た
。
宝 ほう
暦 れき
《
正
し
く
は
宝 ほう
永 えい
》
三
年
(
一
七
〇
六
)
五
月
二
日
に
七
三
才
で
大
聖
寺
二
五
日
に
家
老
職
を
や
め
て
隠 いん
居 きょ
し
、
不 ふと
得く
と
名
の
り
、
五
〇
〇
石
の
領
地
を
藩
か
ら
も
247
か
ら
三
代
利 とし
直 なお
の
時
ま
で
、
三
代
の
主
君
に
仕 つか
え
た
。
元 げん
禄 ろく
一
四
年
(
一
七
〇
一
)
七
月
さ
ら
に
後 のち
に
、ひ
兵 ょう
庫ご
、
内
膳
と
改
め
た
。
内
膳
は
家
老
を
四
五
年
間
つ
と
め
、
二
代
利 とし
明 あき
職
を
命
じ
ら
れ
て
、
三
千
石
の
領
地
を
藩
か
ら
受
け
、
こ
の
時
に
名
前
を
治じ
部ぶ
と
変
え
、
六
五
七
)
一
一
月
二
日
に
、
二
四
才
で
家
を
つ
ぎ
、
大
聖
寺
藩
を
初
め
た
利
治
の
家
老
の
四
)
に
金
沢
で
生
ま
れ
、
六
才
で
父
に
つ
い
て
大
聖
寺
に
移
り
住
ん
だ
。
明 めい
暦 れき
三
年
(
一
神
谷
内
膳
守
政
は
治じ
部ぶ
元 もと
易 やす
の
長
男
で
、
寛 かん
政 せい
《
正
し
く
は
寛 かん
永 えい
》
一
一
年
(
一
六
三
め
に
も
な
る
と
思
う
。
清
水
氏
の
研
究
と
い
っ
し
ょ
に
、
参
考
に
し
て
ほ
し
い
。
を
は
じ
め
と
す
る
大
聖
寺
の
藩
士
た
ち
が
、
あ
な
た
に
従
わ
な
い
で
逆
ら
う
こ
と
が
あ
っ
あ
っ
た
。
な
の
で
、
や
め
さ
せ
る
。
こ
の
よ
う
に
同
じ
役
目
に
つ
い
て
い
る
御
家
老
ら
あ
な
た
の
こ
と
で
、
御
家
老
の
役
目
を
や
め
さ
せ
た
い
と
、
備 びん
後 ごの
守 かみ
様
か
ら
相
談
が
行
く
と
、
以
下
の
こ
と
を
伝
え
ら
れ
た
。
ろ
)
に
加
賀
藩
の
御
家
老
の
代
表
か
ら
呼
び
出
さ
れ
て
、
金
沢
城
内
に
あ
る
越 えち
後ご
屋や
敷 しき
に
と
き
、
金
沢
に
残
る
こ
と
を
内
膳
に
命
じ
た
。
内
膳
は
そ
の
日
の
酉 とり
の
刻 こく
(
午
後
六
時
こ
248
が
あ
っ
た
。
そ
れ
で
、
二
六
日
の
卯う
の
刻 こく
(
午
前
六
時
こ
ろ
)
に
利
章
が
金
沢
を
出
発
す
る
は
綱
紀
に
会
う
こ
と
が
で
き
て
、
内
膳
を
ど
う
す
る
か
と
い
う
こ
と
に
つ
い
て
話
し
合
い
紀
は
二
二
日
の
夜
に
金
沢
城
に
帰
っ
た
の
だ
か
ら
、
利 とし
あ
章 きら
が
金
沢
に
到
着
し
た
と
き
に
《
今
の
富
山
県
》
魚 うお
津づ
の
し
宿 ゅく
場ば
に
と
ま
っ
て
い
る
と
き
に
そ
の
知
ら
せ
が
届
い
た
。
綱
て
い
た
が
、
大
聖
寺
の
危
険
な
状
態
は
旅
の
途
中
の
綱
紀
に
も
報
告
さ
れ
、
二
〇
日
に
え
越 っち
中 ゅう
ち
ょ
う
ど
こ
の
と
き
、
加
賀
藩
の
殿
様
で
あ
っ
た
綱 つな
紀 のり
も
八
月
一
一
日
に
江
戸
を
出
発
し
聖
寺
で
は
家
来
た
ち
の
内
膳
に
対
す
る
反
対
運
動
が
ひ
ど
く
危
険
な
状
態
に
な
っ
て
い
た
。
の
は
、
大
聖
寺
藩
の
家
臣
た
ち
の
反
抗
が
あ
ま
り
に
は
げ
し
か
っ
た
か
ら
で
あ
る
。
で
、
そ
れ
を
大
聖
寺
藩
か
ら
こ
と
わ
ら
れ
た
と
い
う
の
で
あ
る
。
内
膳
を
金
沢
に
残
し
た
も
の
で
あ
る
。
神
谷
家
は
加
賀
藩
が
大
聖
寺
藩
主
に
つ
け
て
よ
こ
し
た
御
家
老
の
家
な
の
こ
の
文
の
中
に
「
備 びん
後 ごの
守 かみ
」
と
あ
る
の
は
言
う
ま
で
も
な
く
利 とし
あ
章 きら
で
、
命
令
は
綱 つな
紀 のり
の
さ
か
ら
わ
ず
穏 おだ
や
か
に
し
て
い
る
こ
と
。
(
神 かみ
谷や
家け
文 もん
書 じょ
)
249
の
金
沢
に
い
る
よ
う
に
お
命
じ
に
な
っ
た
の
で
、
金
沢
の
旅
館
で
外
出
せ
ず
に
い
て
、
げ
る
よ
う
に
お
命
じ
に
な
っ
た
。
さ
ら
に
聞
き
た
い
こ
と
が
あ
る
の
で
、
ま
ず
は
、
こ
て
ほ
し
い
と
望
ま
れ
た
の
で
、
こ
ま
か
く
ご
相
談
を
な
さ
り
、
た
だ
今
、
あ
な
た
に
告
備
後
守
様
は
す
ぐ
に
カ
ゴ
で
出
発
さ
れ
る
か
ら
、
こ
ち
ら
の
加
賀
藩
で
お
命
じ
に
な
っ
ら
だ
と
殿
様
は
お
考
え
に
な
っ
た
。
ま
ず
は
、
外
出
を
禁
止
す
る
と
の
ご
命
令
で
あ
る
。
て
は
、
か
え
っ
て
備
後
守
様
の
た
め
に
な
ら
な
い
。
あ
な
た
が
非
常
に
い
た
ら
な
い
か
が
わ
か
る
。
金
沢
に
着
き
、
夕
ぐ
れ
に
金
沢
城
に
行
っ
た
。
ど
れ
ほ
ど
重
大
な
こ
と
に
な
っ
て
い
た
か
よ
っ
て
利
章
は
、
九
月
四
日
の
明
け
方
に
大
聖
寺
を
出
発
し
て
、
そ
の
日
の
う
ち
に
ま
た
完
全
に
か
な
え
た
い
と
い
う
の
で
あ
ろ
う
。
か
な
か
お
さ
ま
ら
な
か
っ
た
。
前
か
ら
持
っ
て
い
た
内
膳
を
た
お
し
た
い
と
い
う
願
い
を
お
着
き
に
な
っ
た
。
藩
士
の
は
げ
し
い
不
満
は
、
内
膳
を
外
出
禁
止
に
す
る
だ
け
で
は
な
利
章
が
こ
の
あ
と
帰
る
旅
は
急
い
だ
も
の
で
、
金
沢
を
出
発
し
た
そ
の
日
に
大
聖
寺
に
250
こ
れ
を
見
る
と
よ
く
分
か
る
。
知
ら
せ
が
届
け
ら
れ
た
殿
様
と
は
利
章
の
こ
と
で
あ
る
。
よ
う
に
命
じ
ら
れ
、
神
谷
内
膳
は
金
沢
に
残
さ
れ
た
。
(
政 せい
隣 りん
記き
)
ら
れ
た
。
こ
の
こ
と
で
、
御
家
老
の
佐さ
分 ぶり
舎 とね
人り
が
金
沢
ま
で
呼
び
出
さ
れ
、
お
供
を
す
る
必
ず
争
い
が
お
こ
る
と
い
う
話
が
、
旅
を
し
て
い
る
途
中
の
殿
様
に
大
聖
寺
か
ら
届
け
な
い
と
家
臣
た
ち
は
恨 うら
み
を
持
っ
て
、
内
膳
が
お
供
を
し
て
大
聖
寺
に
帰
っ
て
来
た
ら
利 とし
あ
章 きら
様
の
お
供
を
し
て
来
た
御
家
老
の
神 かみ
谷や
内 ない
膳 ぜん
は
、
最
近
は
仕
事
ぶ
り
が
よ
く
困
り
は
て
て
い
た
と
こ
ろ
、
御
家
老
で
あ
る
神
谷
内
膳
が
殿
様
に
こ
の
こ
と
を
き
ち
ん
臣
た
ち
に
届
い
た
。
こ
の
事
件
の
原
因
は
、
藩
士
た
ち
が
だ
ん
だ
ん
に
生
活
が
苦
し
く
険
な
も
の
で
あ
っ
た
と
い
う
の
で
、
御
家
老
の
生い
駒 こま
源 げん
五ご
兵べ
衛え
か
ら
緊
急
の
手
紙
が
重
八
月
二
〇
日
、
大
聖
寺
藩
の
家
来
た
ち
の
内
膳
に
対
す
る
反
対
運
動
は
、
ひ
ど
く
危
こ
の
事
件
の
原
因
は
何
で
あ
っ
た
ろ
う
か
。
ま
で
も
な
い
。
251
日
に
大
聖
寺
に
帰
っ
て
き
た
が
、
金
沢
に
い
た
間
は
何
度
も
金
沢
城
に
行
っ
た
こ
と
は
言
う
ち
か
い
を
出
さ
せ
ら
れ
た
。
こ
れ
で
ま
ず
落
ち
着
い
た
と
思
わ
れ
、
利
章
は
一
〇
月
二
二
臣
、
深 ふか
町 まち
治じ
左ざ
衛え
門 もん
の
ほ
か
四
人
が
、
一
〇
月
二
日
に
は
中 なか
沢 ざわ
き
久 ゅう
兵べ
衛え
ほ
か
三
人
が
ま
た
び
だ
さ
れ
、
翌
日
に
は
ち
か
い
を
書
い
て
提
出
し
た
。
九
月
二
九
日
に
は
大
聖
寺
藩
の
家
禁
止
さ
れ
た
の
だ
ろ
う
。
一
四
日
に
は
同
じ
く
御
家
老
の
山 やま
崎 ざき
ご
権 んの
じ
丞 ょう
が
越
後
屋
敷
に
よ
よ
び
だ
さ
れ
、
九
日
に
は
二
人
は
ち
か
い
を
書
い
て
出
す
よ
う
に
命
じ
ら
れ
た
。
争
い
を
そ
の
翌
日
に
は
大
聖
寺
藩
の
御
家
老
の
佐さ
分 ぶり
舎 とね
人り
・
生い
駒 こま
源 げん
五ご
ひ
兵 ょう
衛え
が
越 えち
後ご
屋や
敷 しき
に
て
い
る
席
で
こ
の
よ
う
な
こ
と
が
命
じ
ら
れ
た
。
五
年
(
一
七
一
五
)
九
月
に
は
ま
た
越
後
屋
敷
へ
呼
び
出
さ
れ
て
、
御
家
老
た
ち
が
集
ま
っ
で
、
次
に
は
味み
噌そ
蔵 ぐら
ち
町 ょう
の
藩
が
取
り
上
げ
て
あ
っ
た
屋
敷
で
謹 きん
慎 しん
し
て
い
た
が
、
し
正 ょう
徳 とく
こ
な
い
を
し
た
わ
け
で
は
な
い
。
金
沢
で
外
出
禁
止
と
な
っ
た
内
膳
は
、
は
じ
め
は
旅
館
の
心
を
し
ず
め
る
た
め
に
、
内
膳
へ
外
出
禁
止
を
命
じ
た
も
の
の
、
内
膳
が
許
せ
な
い
お
表
で
あ
る
内
膳
が
殿
様
に
伝
え
な
い
の
が
不
満
だ
と
い
う
の
で
あ
る
。
一
つ
の
藩
の
武
士
252
あ
る
。
藩
の
武
士
た
ち
が
生
活
に
困
っ
た
の
で
救
済
を
願
い
出
た
が
、
そ
れ
を
家
老
の
代
文
の
中
の
重
臣
た
ち
は
加
賀
藩
の
重
臣
で
あ
る
。
こ
の
文
章
の
意
味
は
非
常
に
明
ら
か
で
伝
え
た
。
(
政 せい
隣 りん
記き
)
を
こ
の
ま
ま
に
し
て
お
け
ば
、
家
臣
た
ち
は
殿
様
に
お
仕
え
で
き
な
い
と
い
う
様
子
を
く
る
の
で
、
殺
し
て
積
り
つ
も
っ
た
う
ら
み
を
は
ら
そ
う
と
い
う
計
画
が
あ
り
、
神
谷
と
伝
え
な
か
っ
た
か
ら
で
あ
る
。
今
、
備
後
守
様
の
お
供
で
神
谷
は
も
う
す
ぐ
帰
っ
て
加
賀
藩
の
家
臣
の
家
に
つ
い
て
先 せん
祖ぞ
代
々
に
わ
た
っ
て
記
し
た
『
諸 しょ
士し
系 けい
譜ふ
』
に
の
っ
の
こ
と
で
あ
っ
た
。
膳
が
死
ん
だ
の
は
、
そ
の
二
年
後
の
き
享 ょう
保 ほう
二
年
(
一
七
一
七
)
五
月
一
日
で
、
四
七
才
ま
た
、
来
年
の
春
に
は
太
郎
助
を
大
聖
寺
か
ら
金
沢
へ
迎
え
る
よ
う
に
命
じ
ら
れ
た
。
内
郎 ろう
助 すけ
に
受
け
つ
が
せ
、
五
百
石
を
内
膳
の
隠
居
生
活
の
た
め
に
あ
た
え
る
と
命
じ
ら
れ
た
。
れ
て
、
あ
た
え
ら
れ
て
い
た
領
地
の
う
ち
、
米
で
一
〇
〇
〇
石
に
な
る
分
を
せ
が
れ
の
太た
沢
城
二に
の
丸 まる
御ご
殿 てん
に
い
っ
た
。
そ
こ
で
内
膳
は
、
出
し
て
お
い
た
隠 いん
居 きょ
の
願
い
を
認
め
ら
253
御
家
老
ら
重
臣
の
代
表
を
つ
と
め
て
い
た
奥 おく
村 むら
内 ない
記き
の
呼
び
出
し
に
よ
っ
て
、
内
膳
は
金
続
い
て
し
正 ょう
徳 とく
五
年
(
一
七
一
五
)
一
二
月
の
最
後
の
日
に
、
気
持
ち
が
伝
え
ら
れ
た
。
そ
れ
で
隠
居
す
る
願
い
を
殿
様
に
出
し
た
。
(
神
谷
家
文
書
)
こ
の
後
は
隠 いん
居 きょ
し
た
い
と
い
う
願
い
を
出
す
よ
う
に
と
、
前 まえ
田だ
近 おう
江 みの
守 かみ
か
ら
殿
様
の
お
あ
な
た
に
は
外
出
禁
止
を
命
じ
て
い
た
が
、
そ
の
罰
は
な
く
す
と
い
う
命
令
が
で
た
。
兵
庫
を
名
の
っ
た
。
れ
、
米
二
万
三
〇
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
た
。
後 のち
に
能の
登と
の
津つ
向 むぎ
《
七
尾
市
の
近
く
》
に
内
膳
守
政
…
又
助
と
普
段
は
呼
ば
れ
た
が
、
後
に
治
部
、
高 こう
徳 とく
院 いん
《
前 まえ
田だ
利 とし
家 いえ
》
様
に
よ
っ
て
、
親 しん
戚 せき
だ
と
い
う
こ
と
で
家
来
に
め
し
か
か
え
ら
治
部
の
次
男
の
利
政
様
の
女
を
妻
に
し
た
。
な
り
に
な
っ
た
あ
と
、
父
の
八 はち
郎 ろう
右う
衛え
門 もん
重 しげ
政 まさ
と
と
も
に
流
れ
歩
い
て
い
た
と
こ
ろ
、
宗
半
は
最
初
の
名
前
を
清 せい
六 ろく
と
い
っ
た
。
は
じ
め
に
仕 つか
え
て
い
た
信 のぶ
長 なが
様
が
お
亡
く
り
込
ま
れ
、
の
ち
に
家
老
と
な
っ
た
。
利
家
様
か
ら
大
聖
寺
藩
を
分
け
る
時
、
家
臣
と
し
て
送
初 しょ
代 だい
中 なかが
川 わむ
宗 ねな
半 かみ
な
源 もと
光 みつ
重 しげ
米
三
〇
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
て
い
た
。
加
賀
藩
…
名
前
は
兵
庫
。
実
は
中
川
大
隅
の
子
で
あ
る
。
に
し
た
。
良
い
と
こ
ろ
や
悪
い
と
こ
ろ
が
あ
る
の
で
、
次
に
そ
れ
を
あ
げ
て
み
よ
う
。
254
と
よ
く
わ
か
る
。
前
の
『
諸 しょ
氏し
系 けい
譜ふ
』
と
内
容
が
か
ぶ
る
こ
と
に
な
る
が
、
そ
れ
ぞ
れ
に
て
一
万
二
〇
五
〇
国
。
中
川
宗
半
の
女
を
妻
三
〇
〇
〇
石
を
増
や
し
て
も
ら
い
、
合
わ
せ
に
な
っ
た
の
か
は
、
神
谷
家
の
一
族
に
つ
い
て
書
い
た
『
由 ゆい
緒 しょ
一 いち
る
類 いに
つ
附 いて
の
帳 ちょ
う
』
を
見
る
石
を
藩
か
ら
い
た
だ
い
て
い
た
が
、
の
ち
に
の
実
の
子
で
も
な
く
養
子
で
も
な
か
っ
た
。
そ
れ
が
な
ぜ
神
谷
と
い
う
姓 せい
を
名
の
る
よ
う
公
《
前
田
利
家
》
に
仕
え
た
。
米
九
〇
五
〇
し
か
し
、
神
谷
氏
は
も
と
も
と
中
川
氏
だ
っ
た
の
で
あ
り
、
治
部
は
神 かみ
谷や
信 しな
濃 のの
守 かみ
守 もり
孝 たか
丹
波
守
守
孝
…
名
前
は
左
近
、
信
濃
守
を
名
の
り
、
高
徳
で
、
大
聖
寺
藩
に
つ
い
て
の
研
究
者
を
な
や
ま
せ
て
き
た
神
谷
問
題
も
決
着
が
つ
く
わ
け
だ
。
神
谷
氏
諸
士
系
譜
も
と
も
と
は
越
前
国
《
今
の
福
井
県
》
出
身
神
谷
氏
の
系
図
と
が
正
し
い
と
証
明
し
て
く
れ
る
も
の
だ
か
ら
付
け
加
え
て
こ
こ
に
書
い
て
お
く
。
こ
れ
て
い
る
神
谷
家
の
人
の
つ
な
が
り
に
つ
い
て
も
、
こ
れ
ま
で
私
が
こ
こ
に
書
い
て
き
た
こ
に
死
ん
だ
。
六
四
歳
だ
っ
た
。
《
前 まえ
田だ
利 とし
長 なが
》
様
に
お
仕
え
し
、
慶 けい
ち
長 ょう
九
年
(
一
六
〇
四
)
う
閏 るう
八
月
に
五
〇
〇
石
ふ
仕
え
た
。
一
五
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
た
と
い
う
言
い
伝
え
が
あ
る
。
そ
の
後
は
瑞 ずい
り
竜 ゅう
院 いん
明
和
四
年
(
一
七
六
七
)
六
月
一
九
日
和
元
年
(
一
七
六
四
)
に
役
目
を
や
め
、
大
隅
は
武 むさ
蔵 しの
守 かみ
の
実
の
子
で
、
初
め
は
孫 まご
四し
郎 ろう
《
利
家
の
二
男
の
前 まえ
田だ
利 とし
政 まさ
》
様
に
七
五
六
)
に
御
馬
廻
頭
と
な
っ
た
。
明
二
代
中 なか
川 がわ
大 おお
隅 すみ
光 みつ
忠 ただ
五
一
)
に
御
徒
頭
と
な
る
。
六
年
(
一
は
特
に
役
職
な
し
。
宝
暦
元
年
(
一
七
い
た
だ
い
た
。
正
徳
五
年
(
一
七
一
五
)
あ
っ
た
。
〇
〇
石
と
合
わ
せ
て
一
五
〇
〇
石
を
の
る
。
父
が
隠
居
で
も
ら
っ
て
い
た
五
五
〇
〇
〇
石
は
養
子
の
中 なか
川 がわ
八 はち
郎 ろう
右う
衛 えも
門ん
に
つ
が
せ
る
よ
う
に
と
、
殿
様
か
ら
命
令
が
255
蔵
人
守
周
…
幼
い
こ
ろ
は
太
郎
助
、
後
に
兵
庫
を
名
慶 けい
ち
長 ょう
一
九
年
(
一
六
一
四
)
一
一
月
に
、
こ
の
地
《
越
中
》
で
死
ん
だ
。
彼
の
残
し
た
七
一
七
)
に
死
ん
だ
。
ち
か
ら
、
隠 いん
居 きょ
生
活
の
た
め
に
五
〇
〇
〇
石
を
い
た
だ
き
、
名
前
を
宗 むね
半 なか
と
変
え
た
。
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
た
。
享
保
二
年
(
一
け
い
ち
ょ
う
慶
長
一
六
年
(
一
六
一
一
)
二
月
二
日
に
隠 いん
居 きょ
し
た
。
米
二
万
三
〇
〇
〇
石
の
う
金
沢
に
来
て
、
同
じ
年
に
隠
居
し
て
五
い
た
。
い
た
だ
い
た
。
正
徳
三
年
(
一
七
一
三
)
を
名
の
る
。
米
二
五
〇
〇
石
を
藩
か
ら
の
守 かみ
と
名
の
る
こ
と
に
な
っ
た
。
そ
の
と
き
越 えっ
ち
中 ゅう
《
今
の
富
山
県
》
の
増 ます
山 やま
じ
城 ょう
を
い
た
だ
内
膳
守
応
…
家
を
つ
い
だ
と
き
は
伊
織
、
後
に
外
記
県
》
に
作
ら
れ
た
名な
護ご
屋や
じ
城 ょう
に
秀 ひで
吉 よし
様
が
い
た
と
き
、
初
め
て
く
位 らい
を
い
た
だ
き
、
武 むさ
蔵し
住
ま
わ
さ
れ
た
。
文 ぶん
禄 ろく
三
年
(
一
五
九
四
)
、
朝
鮮
を
攻
め
る
た
め
肥ひ
前 ぜん
《
今
の
佐
賀
天
皇
が
行
か
れ
た
と
き
、
微み
み
妙 ょう
院 いん
《
利 とし
常 つね
》
様
の
お
供 とも
を
し
て
都
に
の
ぼ
っ
た
。
七
ら
れ
て
神
谷
と
名
の
る
よ
う
に
な
っ
た
。
寛 かん
永 えい
三
年
(
一
六
二
六
)
、
京
都
二に
じ
条 ょう
じ
城 ょう
に
お
願
い
を
し
て
中
川
元
易
が
殿
様
に
会
っ
た
と
き
、
苗 みょ
字 うじ
を
神
谷
と
名
の
る
よ
う
命
じ
よ
う
に
た
の
ん
だ
。
信
濃
守
が
「
元
易
に
会
っ
て
や
っ
て
く
だ
さ
い
。
」
と
、
殿
様
に
時
ま
だ
小
さ
か
っ
た
の
で
、
大
隅
の
妹
の
婿 むこ
で
あ
る
神
谷
信 しな
濃 のの
守 かみ
守 もり
孝 たか
に
育
て
て
く
れ
る
中 なか
川 がわ
大 おお
隅 すみ
の
後
つ
ぎ
と
な
る
人
で
あ
っ
た
。
父
の
大
隅
が
、
京
都
に
行
っ
て
し
ま
っ
た
三
代
神 かみ
谷や
治じ
部ぶ
元 もと
易 やす
256
行
き
、
だ
れ
に
も
仕
え
ず
に
い
て
寛 かん
永 えい
四
年
(
一
六
二
七
)
六
月
に
病
死
し
た
。
一
八
年
(
一
六
二
三
)
、
あ
る
事
情
が
あ
っ
て
大
聖
寺
藩
の
家
臣
を
や
め
て
京
都
へ
石
の
う
ち
一
万
七
〇
〇
〇
石
を
下
さ
り
、
合
計
二
万
一
〇
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
た
。
と
な
っ
た
。
一
六
(
一
六
一
一
)
年
武
蔵
守
が
隠 いん
居 きょ
し
た
と
き
に
は
、
二
万
二
〇
〇
〇
認
め
ら
れ
て
光
重
の
領
地
か
ら
二
〇
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
た
。
合
わ
せ
て
四
〇
〇
〇
石
や
し
て
い
た
だ
い
た
。
一
五
年
(
一
六
一
〇
)
正
月
に
、
父
の
武
蔵
守
光 みつ
重 しげ
の
願
い
が
明 めい
暦 れき
三
年
(
一
六
五
七
)
一
一
月
に
治 じぶ
部も
元と
易 やす
が
残
し
た
三
〇
〇
〇
石
を
そ
の
ま
ま
四
代
神 かみ
谷や
内 ない
膳 ぜん
守 もり
政 まさ
年
(
一
六
二
九
)
六
月
に
病
死
し
た
。
な
り
、
殿
様
か
ら
い
た
だ
い
た
の
は
米
九
千
石
だ
っ
た
と
伝
え
聞
い
て
い
る
。
寛 かん
永 えい
六
信
濃
守
様
は
、
高 こう
徳 とく
院 いん
《
加
賀
藩
初 しょ
代 だい
利 とし
家 いえ
》
様
の
こ
ろ
に
め
し
使
わ
れ
る
よ
う
に
明 めい
暦 れき
三
年
一
六
五
七
)
七
月
に
病
死
し
た
。
257
手
助
け
す
る
御
家
老
を
命
じ
ら
れ
、
大
聖
寺
に
引
っ
越
し
て
大
聖
寺
藩
の
た
め
に
仕 つか
え
、
一
六
年
(
一
六
三
九
)
に
加
賀
藩
か
ら
大
聖
寺
藩
の
実 じっ
し
性 ょう
院 いん
《
初
代
利 とし
治 はる
》
様
を
か
は
分
ら
な
い
。
殿
様
に
仕
え
る
よ
う
に
言
わ
れ
た
と
き
、
ど
の
よ
う
な
軍
の
組
に
入
る
よ
う
命
じ
ら
れ
た
て
い
な
い
。
こ
の
三
〇
〇
〇
石
の
領
地
は
新
し
い
領
地
と
し
て
く
だ
さ
っ
た
も
の
だ
。
お
り
、
苗 みょ
字 うじ
を
神
谷
と
改
め
た
が
、
信
濃
守
の
養
子
に
な
っ
た
と
い
う
こ
と
は
伝
わ
っ
年
(
一
六
三
〇
)
一
一
月
に
は
三
〇
〇
〇
石
の
領
地
を
い
た
だ
い
た
。
前
に
書
い
た
と
ろ
、
六
年
(
一
七
〇
九
)
に
円 えん
通 つう
院 いん
《
三
代
利 とし
直 なお
》
様
の
思
い
や
り
の
お
心
で
、
政
治
り
位
は
上
》
を
命
じ
ら
れ
、
御
家
老
の
お
役
目
は
や
め
さ
せ
ら
れ
た
。
そ
う
し
た
と
こ
い
た
三
〇
〇
石
は
取
り
上
げ
ら
れ
た
。
寛 かん
永 えい
二
年
(
一
七
〇
五
)
に
大 おお
年 どし
寄 より
《
家
老
よ
石
を
も
ら
っ
た
。
お
役
目
は
以
前
の
と
お
り
御
家
老
を
命
じ
ら
れ
、
以
前
い
た
だ
い
て
七
〇
一
)
、
父
の
内 ない
膳 ぜん
が
隠 いん
居 きょ
を
命
じ
ら
れ
た
と
き
、
三
〇
〇
〇
石
の
う
ち
二
五
〇
〇
れ
、
新
し
く
三
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
て
、
御
家
老
の
役
を
命
じ
ら
れ
た
。
一
四
年
(
一
円 えん
通 つう
院 いん
《
三
代
利 とし
直 なお
》
様
の
時
代
の
元 げん
禄 ろく
十
二
(
一
六
九
九
)
年
に
め
し
か
か
え
ら
258
五
代
神 かみ
谷や
内 ない
膳 ぜん
守 もり
応 まさ
(
一
七
〇
六
)
五
月
に
病
死
し
た
。
を
隠
居
の
た
め
の
費
用
と
し
て
い
た
だ
き
、
名
前
を
「
不 ふと
得く
」
に
変
え
た
。
寛 かん
永 えい
三
年
元 げん
禄 ろく
一
四
年
(
一
七
〇
一
)
七
月
、
願
い
の
と
お
り
隠
居
を
命
じ
ら
れ
、
五
〇
〇
石
代
利 とし
明 あき
》
様
と
円 えん
通 つう
院 いん
《
三
代
利 とし
直 なお
》
様
に
も
お
仕
え
し
た
。
じ
実 っし
性 ょう
院 いん
《
利
治
》
様
か
ら
い
た
だ
き
、
御
家
老
の
役
職
を
命
じ
ら
れ
た
。
大 だい
機き
院 いん
《
二
い
た
五
〇
〇
石
を
き
享 ょう
保 ほう
二
年
(
一
七
一
七
)
一
二
月
に
加
え
て
い
た
だ
き
、
合
わ
せ
と
一
五
日
に
仕
事
を
し
て
い
た
。
死
ん
だ
内
膳
の
隠
居
生
活
の
た
め
に
い
た
だ
い
て
い
た
。
仙 せん
石 ごく
故
内 たく
匠み
様
や
永 なが
原 はら
故
左さ
き
京 ょう
様
の
さ
し
ず
を
受
け
る
こ
と
に
な
り
、
一
日
月
、
一
三
才
で
加
賀
藩
の
殿
様
に
お
仕
え
す
る
よ
う
に
な
り
、
一
〇
〇
〇
石
い
た
だ
内
膳
守
応
が
隠
居
す
る
こ
と
を
命
じ
ら
れ
た
時
、
正
徳
五
年
(
一
七
一
六
)
一
二
な
い
ぜ
ん
も
り
ま
さ
六
代
病
死
し
た
。
神 かみ
谷や
蔵 くら
人 んど
守 もり
周 ちか
259
と
し
て
あ
つ
か
わ
れ
五
〇
〇
石
を
い
た
だ
い
た
。
き
享 ょう
保 ほう
二
年
(
一
七
一
七
)
五
月
に
そ
の
年
の
一
二
月
に
願
い
出
の
と
お
り
隠
居
す
る
こ
と
を
許
さ
れ
た
が
、
上
級
の
武
士
年
(
一
七
一
五
)
し
松 ょう
雲 うん
院 いん
《
加
賀
藩
五
代
綱 つな
紀 のり
》
様
に
隠
居
を
願
い
出
た
と
こ
ろ
、
に
お
帰
り
に
な
っ
た
と
き
に
、
お
供 とも
を
し
て
帰
っ
て
き
た
が
、
金
沢
に
残
さ
れ
た
。
五
し
正 ょう
徳 とく
三
年
(
一
七
一
三
)
八
月
し
正 ょう
智ち
院 いん
《
四
代
利 とし
あ
章 きら
》
様
が
江
戸
か
ら
大
聖
寺
に
加
わ
る
よ
う
命
じ
ら
れ
た
。
で
働
く
よ
う
に
命
じ
ら
れ
、
江
戸
の
屋
敷
で
仕
事
を
し
て
い
た
。
同
じ
年
の
八
月
に
家
の
御
屋
敷
《
今
の
東
京
大
学
の
場
所
》
の
人
数
が
少
な
い
と
い
う
理
由
で
、
江
戸
賀
藩
九
代
重 しげ
靖 のぶ
》
様
が
前
田
家
を
お
つ
ぎ
に
な
る
と
き
、
江
戸
の
本 ほん
郷 ごう
に
あ
る
前
田
左ざ
衛え
門 もん
が
頭
だ
っ
た
組
を
う
け
も
っ
た
。
三
年
(
一
七
五
三
)
五
月
、
天 てん
珠 じゅ
院 いん
《
加
に
御お
徒 かち
が
頭 しら
を
命
じ
ら
れ
、
そ
の
役
の
た
め
に
五
十
石
を
い
た
だ
い
た
。
元
は
和わ
田だ
源 げん
び
江
戸
へ
お
使
い
を
命
じ
ら
れ
て
お
つ
と
め
し
た
。
宝 ほう
暦 れき
元
年
(
一
七
五
一
)
正
月
受
け
持
ち
の
火
消
し
を
や
め
さ
せ
ら
れ
た
。
元 げん
文 ぶん
四
年
(
一
七
三
九
)
一
一
月
、
再
260
野
木
隼
人
様
の
代
理
を
命
じ
ら
れ
た
。
一
八
年
(
一
七
二
三
)
九
月
、
そ
の
新
堂
形
七
三
一
)
三
月
に
新 しん
堂 どう
形 がた
《
金
沢
の
兼 けん
六 ろく
園 えん
下 した
周
辺
》
を
受
け
持
つ
火
消
し
役
の
大
持
っ
た
場
所
が
、
守
周
の
住
ま
い
に
近
か
っ
た
た
め
や
め
さ
せ
ら
れ
た
。
一
六
年
(
一
に
従
っ
て
働
く
よ
う
命
じ
ら
れ
た
。
一
五
年
(
一
七
二
〇
)
八
月
に
は
、
こ
の
受
け
近
》
の
藩
が
家
臣
に
貸
し
あ
た
え
る
屋
敷
を
受
け
持
つ
火
消
し
役
の
大 おお
野の
木ぎ
隼 はや
人と
様
じ
ら
れ
て
お
つ
と
め
し
た
。
一
四
年
(
一
七
一
九
)
四
月
、
本 ほん
堂 どう
形 かた
《
今
の
広 ひろ
坂 さか
付
て
一
五
〇
〇
石
い
た
だ
い
た
。
一
三
年
(
一
七
一
八
)
は
江
戸
に
急
ぎ
の
使
者
を
命
話
が
そ
れ
た
が
、
元
に
も
ど
り
『
秘ひ
要 よう
雑 ざつ
し
集 ゅう
』
に
つ
い
て
、
も
う
少
し
書
い
て
み
よ
う
。
り
お
役
目
を
と
か
れ
た
。
明 めい
和わ
四
年
(
一
七
六
七
)
六
月
病
死
し
た
。
や
め
た
い
と
申
し
上
げ
て
い
た
と
こ
ろ
、
一
四
年
(
一
七
六
三
)
正
月
に
願
い
ど
お
も
何
度
か
つ
と
め
た
。
七
年
(
一
七
五
七
)
二
月
、
病
気
に
な
っ
た
の
で
お
役
目
を
し
ょ
に
命
じ
ら
れ
て
つ
と
め
、
宝 ほう
暦 れき
三
年
(
一
七
五
七
)
か
ら
は
他
の
藩
へ
の
使
い
に
は
、
キ
リ
ス
ト
教
を
と
り
し
ま
る
し
宗 ゅう
門 もん
奉ぶ
ぎ
行 ょう
に
も
、
そ
れ
ま
で
の
仕
事
と
い
っ
261
で
あ
た
え
ら
れ
て
い
た
給
与
は
も
ら
え
な
く
な
っ
た
。
一
一
年
(
一
七
六
一
)
六
月
え
ら
れ
た
。
元
は
大 おお
橋 はし
故
又 また
兵べ
衛え
が
頭
だ
っ
た
組
を
う
け
も
っ
た
。
以
前
の
お
役
目
の
九
月
に
御お
馬 うま
ま
廻 わり
組 ぐみ
の
頭
を
命
じ
ら
れ
て
、
そ
の
お
役
目
の
た
め
に
二
〇
〇
石
あ
た
八
月
に
大
聖
寺
で
用
事
が
あ
り
、
江
戸
で
の
仕
事
を
や
め
て
帰
っ
て
き
た
。
そ
の
年
び
本
郷
で
仕
事
を
す
る
よ
う
命
じ
ら
れ
、
八
月
に
出
発
し
て
つ
と
め
た
。
次
の
年
の
様
の
カ
ゴ
を
馬
に
乗
っ
て
お
守
り
す
る
役
を
つ
と
め
た
。
五
年
(
一
七
五
五
)
、
ふ
た
た
殿
様
が
加
賀
藩
に
帰
っ
て
こ
ら
れ
る
と
き
お
供
を
命
じ
ら
れ
、
そ
の
旅
の
行
列
で
殿
受
け
た
と
い
う
記
事
が
あ
る
。
葛 くず
巻 まき
権 ごん
之の
進 しん
と
い
う
の
は
た
ぶ
ん
権 ごん
佐ざ
雅 まさ
与よ
の
こ
と
だ
ろ
う
に
直
接
に
反
対
意
見
を
言
っ
て
、
越 えっ
ち
中 ゅう
《
今
の
富
山
県
》
の
五ご
箇か
山 やま
に
流
さ
れ
る
刑 けい
罰 ばつ
を
つ
ぎ
に
、
金
沢
(
加
賀
)
の
藩
士
で
葛 くず
巻 まき
権 ごん
之の
進 しん
が
、
し
松 ょう
雲 うん
公 こう
《
加
賀
藩
五
代
綱 つな
紀 のり
》
も
信
用
で
き
る
も
の
で
は
な
い
。
田
川
つ
ま
り
九く
頭ず
り
竜 ゅう
川 がわ
に
関
係
は
な
い
。
茶
屋
が
二
〇
軒
と
書
か
れ
て
い
る
事
も
と
て
泉
の
意
味
で
も
岩 いわ
間ま
温
泉
の
意
味
で
も
、
水
の
流
れ
は
手て
取 どり
川 がわ
に
そ
そ
ぐ
の
も
の
で
、
森
ち
ょ
っ
と
お
も
し
ろ
そ
う
な
記
事
だ
と
目
に
と
ま
っ
た
が
、
尾
添
の
湯
が
、
今
の
ち
中 ゅう
宮 ぐう
温
262
ら
森
田
ま
で
は
川
に
そ
っ
て
一
五
、
六
里
(
六
〇
~
六
四
㎞
)
ほ
ど
だ
と
い
う
記
事
が
あ
る
。
つ
ぼ
が
う
ま
り
、
湯 ゆも
元と
に
あ
っ
た
茶 ちゃ
屋や
の
二
〇
軒 けん
以
上
が
残
ら
ず
流
さ
れ
た
が
、
そ
こ
か
と
こ
ろ
、
白
山
の
尾 おぞ
添う
《
白
山
市
の
一 いち
里り
野の
あ
た
り
》
の
湯
の
上
の
山
が
く
ず
れ
て
、
湯
か
ら
、
十 とむ
村ら
の
使
用
人
の
き
久 ゅう
右う
衛 えも
門ん
と
い
う
も
の
を
送
っ
て
調
べ
さ
せ
た
。
そ
う
し
た
元 げん
文 ぶん
五
年
(
一
七
四
〇
)う
閏 るう
七
月
に
越 えち
前 ぜん
《
今
の
福
井
県
》
に
大
雨
、
洪
水
が
あ
っ
た
の
例
の
一
つ
二
つ
を
書
い
て
み
よ
う
。
こ
の
書
物
の
数
多
く
の
記
録
に
は
あ
誤 やま
り
が
あ
る
こ
と
も
も
ち
ろ
ん
あ
る
。
こ
こ
に
、
そ
件
が
あ
っ
た
が
、
太
左
衛
門
の
実
の
子
供
は
主 との
殿も
の
仲
間
で
あ
る
石 いし
黒 ぐろ
市 いち
郎 ろう
右う
衛え
門 もん
の
お
.
そ
れ
に
よ
る
と
、
清
水
の
二
代
目
太た
左ざ
衛え
門 もん
の
と
き
に
、
村 むら
井い
主 との
殿も
が
罰 ばっ
せ
ら
れ
る
事
き
り
に
言
っ
て
い
る
。
れ
は
清し
水 みず
長 なが
光 みつ
の
家
の
こ
と
で
あ
る
か
ら
、
こ
れ
が
ま
ち
が
い
で
あ
る
こ
と
を
長
光
が
し
か
ら
養
子
を
む
か
え
て
、
八 はち
郎 ろう
右う
衛え
門 もん
と
名
の
っ
た
と
い
う
こ
と
が
書
か
れ
て
い
る
。
こ
藩
に
お
仕
え
し
て
、
御お
徒 かち
小こ
が
頭 しら
に
な
っ
た
。
清
水
家
は
殿
様
の
お
考
え
に
よ
っ
て
浦 うら
上 がみ
氏
は
越
前
の
吉 よし
崎 ざき
へ
行
き
、
そ
こ
で
男
の
子
が
で
き
た
が
、
の
ち
に
そ
の
男
の
子
が
大
聖
寺
263
ん
か
を
し
た
こ
と
が
知
れ
て
し
ま
っ
た
た
め
、
二
人
と
も
追
放
さ
れ
て
し
ま
っ
た
。
清
水
大
聖
寺
藩
の
こ
と
で
は
、
山 やま
葉ば
と
清
水
の
二
人
が
金
沢
へ
芝 しば
居い
見
物
に
出
か
け
て
口
げ
は
、
す
べ
て
を
ま
じ
め
に
信
じ
て
い
る
か
ら
お
か
し
く
思
え
る
。
な
さ
れ
た
。
思
い
や
り
の
あ
る
主
君
と
申
し
あ
げ
る
べ
き
だ
。
」
と
、
こ
れ
を
書
い
た
人
き
に
、
越
中
で
五
箇
山
の
近
く
に
な
る
と
、
カ
ゴ
を
お
り
ら
れ
て
五
箇
山
の
方
を
お
が
み
彼
が
流
さ
れ
た
先
で
死
ん
だ
あ
と
、
「
松
雲
公
が
江
戸
と
加
賀
藩
と
の
行
き
来
す
る
と
が
、
実
は
、
彼
が
流
さ
れ
た
先
は
能
登
の
津 つむ
向ぎ
《
七
尾
市
の
近
く
》
で
あ
っ
た
の
で
あ
る
。
昭
和
七
年
一
月
校 こう
訂 てい
者 しゃ
日へ
置き
謙 けん
264
に
、
清
水
沖
一
郎
氏
の
研
究
が
た
く
さ
ん
の
せ
ら
れ
て
い
る
。
参
考
に
な
る
こ
と
が
多
い
。
『
秘
要
雑
集
』
の
内
容
に
つ
い
て
は
、
昭
和
七
年
(
一
九
三
二
)
一
月
の
『
聖 せい
じ
城 ょう
公 こう
論 ろん
』
あ
る
か
ら
、
長
光
が
言
っ
て
い
る
こ
と
が
本
当
で
あ
ろ
う
。
本
文
の
と
お
り
だ
と
い
う
の
で
あ
る
。
金
沢
で
は
そ
の
こ
ろ
芝
居
な
ど
は
な
か
っ
た
の
で
の
お
許
し
を
も
ら
っ
た
。
そ
の
実
の
子
供
が
の
ち
に
竹 たけ
内 うち
宅 たく
右う
衛え
門 もん
に
な
っ
た
こ
と
は
、
な
か
っ
た
の
で
、
浦 うら
上 がみ
き
休 ゅう
心 しん
の
次
男
の
三 さん
じ
十 ゅう
郎 ろう
を
養
子
に
す
る
こ
と
を
願
い
出
て
、
そ
い
.
で
あ
っ
た
の
で
追
放
を
命
じ
ら
れ
た
。
し
か
し
、
太
左
衛
門
自
身
は
も
と
も
と
関
係
が
265
と ざ ま だいみょう
ま え だ としつね
かんえい
みつたか
最大の外様 大 名 である加賀藩の三代藩主前田 利 常 が、寛 永 一六(一六三九)年
いんきょ
に百二〇万石の領地を、利常自身の 隠 居 生活のために二二万石、長男の 光 高 に
としつぐ
八〇万石(以上が加賀藩一〇二万石)
、二男の 利 次 に一〇万石(富山藩)と分けた。
としはる
そして、三男の 利 治 には江 沼郡一三三カ村と富山 の一部を合わせて七万石の領
はいはん ち け ん
266
地を分けあたえ、大聖寺において治めさせた。これが大聖寺藩で、領地の変更や
めいじいしん
一〇万石に石高が変わるなどしながら、明治維新の 廃 藩 置県まで続いた。
前田利常が分けた三つの藩
267
大聖寺町内図(JR 線、高校などは目安として入れた。)
歴代藩主の墓が並ぶ実性院
268
秘要雑集に出てくる日本中央部の地名
秘要雑集に出てくる西日本の地名と米が上方へ運ばれる経路
269
昔の時刻
昔の方位
270
271
参考資料一覧
文献
著者
書名
出版社
石川県教育会
『石川県之研究第二 神社編』
石川県教育会
侯爵前田家編集部
『加賀藩史料第五編 自元禄二年至正徳三年』
石黒 文吉発行
大聖寺藩史編纂会
『大聖寺藩史』
経業堂印刷所
二村 隆夫
『丸善 単位の辞典』
丸善
日置 謙
『改訂増補 加能郷土辞彙』
北国新聞社
旺文社
『旺文社 古語辞典』
旺文社
橋本 博
『改訂増補 大武鑑 上巻』
名著刊行会
江馬 務・西岡 虎之助・浜田 義一郎
『近世風俗事典』
人物往来社
若林 喜三郎
『前田綱紀』
吉川弘文館
下出 積与
『石川県の歴史』
山川出版
石川県
『石川県史第一編 復刻』
石川県図書館協会
石川県
『石川県史第二編 復刻』
石川県図書館協会
加賀市史編纂委員会
『加賀市史 通史上巻』
加賀市役所
加賀市史編纂委員会
『加賀市の歴史』
加賀市役所
加賀市教育研究所
『こども加賀市史 改訂版』
加賀市教育委員会
国史大辞典編集委員会
『国史大辞典』
吉川弘文館
作者不詳
『原本現代語訳 加賀騒動』
教育社
和歌森 太郎
『図説日本の歴史④ 町人の進出』
旺文社
牧野 隆信
『加賀市資料(五)』「御算用場留書」
加賀市立図書館
中村 幸考・岡見 正雄・阪倉 篤義
『角川古語大辞典』
角川書店
家臣人名事典編纂委員会
『三百藩家臣人名事典第3巻』
新人物往来社
加賀江沼人物事典編集委員会
『加賀江沼人物事典』
江沼地方史研究会
谷田 閲次・小池 三枝
『日本服飾史』
光生館
田中 義男
『大聖寺城下町と町人社会』
能登印刷・出版部
田中 千代
『新・田中千代服飾事典』
同文書院
山口 隆治
『加賀藩山廻役の研究』
桂書房
『広辞苑第五版』
岩波書店
平井 聖
『図説江戸2 大名と旗本の暮らし』
学習研究社
馬場 宏
『二十世紀 石川県方言集』
能登物産商工会印刷部
『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』
小学館
磯田 道史
『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』
新潮社
山口 隆治
『錦城名所 ~大聖寺藩の名所図絵~』
橋本確文堂
字名調査委員会
『加賀江沼の字名』
江沼地方史研究会
二木 謙一
『国別藩と城下町の事典』
東京堂出版
稲田 和彦
『決定版 図説日本刀大全』
学習研究社
柏書房
『イラストでみる日本史博物館第2巻』服飾・生活編
香取 良夫
山口 隆治
『大聖寺藩の諸家文書(一)』「野尻家文書」
北野印刷
大聖寺川上流域の歴史編集委員会
『大聖寺川上流域の歴史』
大聖寺川上流域の歴史編纂委員会
山口 隆治
『日本経済史論』
北野印刷
『前田家系図』(系図纂要・名著出版)複写
山代町文化財専門委員会
『山代志』
171
地図
加賀市江沼郡山中町全図
刊行社
マップルリング 全日本道路地図
昭文社
ホームページ
加賀はとてもいいところ
練馬区公式ホームページ
日本銀行金融研究所貨幣博物館
写真提供
※ 本書掲載写真の無断転載利用をお断りします。
石川県九谷焼美術館 中谷副館長
石川県埋蔵文化財センター
岸 清俊
財団法人日本野鳥の会 田尻 浩伸
山中温泉 喜八工房
監修
文学博士(史学)山口隆治
172