主日集会 2015.7.5 あなたがたの悲しみは喜びに変わる ヨハネ福音書16:16-24 み 16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくする み とわたしを見ます。」 で し もの たが い 16:17 そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたし み み ちち い を見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くから しゆ い だ』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」 かれ しゆ い なん わたし しゆ い 16:18 そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私 たちには主の言 い われることがわからない」と言った。 かれ しつ もん し かれ み み い なたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言った ろん あ ことについて、互いに論じ合っているのですか。 つ な なげ かな よ よろこ 16:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は 喜 ぶ かな かな よろこ か のです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは 喜 びに変わります。 おんな こ う とき き くる こ う 16:21 女 が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひと ひと よ う よろこ はげ く つう わす りの人が世に生まれた 喜 びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。 いま かな いち ど よろこ み よろこ うば さ もの ば、あなたがたの 心 は 喜 びに満たされます。そして、その 喜 びをあなたがたから奪い去る者はあ りません。 ひ なに ちち もと なん ちち あた がたにお与えになります。 なに な もと もと 16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そう う よろこ み この弟子たちの「悲しみが喜びに変わる」というのは、それがいつのことを指しているのか、3つの解釈がある。 第1は、十字架上で死なれた主イエスが三日目に復活された時のことを指しているという解釈。第2は、主が聖霊と そして、第3は、主の再臨の時を指しているという解釈である。さらに、この3つのどれともとれるとする解釈も ある。どの解釈も「悲しみ」は「喜びに変わ」るからである。私たちはどの解釈をとればよいのか。 (3)女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの 人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。 この3つないし4つの解釈のどれを採用すればよいかは、これに続く主の御言葉によって決めることができる。 主は、まず女が子を産む時のたとえを語られた。 れた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」 このたとえで主が言わんとしておられたことは、子を産むまで苦しんでいた人が、子の誕生と共に喜びに変わる そのことは、それに続く22節の御言葉についても同じことが言える。 な がたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなた いま び」に変わる。 ということである。このようなたとえは、主の復活の時にも、五旬節の時にも、再臨の時にも当てはまる。そして たず 16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなた つ き、嘆き悲しむ。」そして、悪魔の支配下にあるこの「世は喜ぶのです。」しかし、弟子たちの悲しみはやがて「喜 「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生ま あ 16:22 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれ こころ 主が意味しておられたことは、主は、あと何時間かの後、十字架につけられて殺される。その時、弟子たちは「泣 して降臨された五旬節を指しているという解釈。 い 16:19 イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあ たが (2)イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなた がたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったこと について、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなた がたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲し みは喜びに変わります(19-20節) み すれば受けるのです。それはあなたがたの 喜 びが満ち満ちたものとなるためです。 (4)あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、 あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありませ ん(22節) 主が「わたしはもう一度あなたがたに会います」と言われた時とはいつのことなのか、主の復活の時なのか、五 旬節の時なのか、あるいは主の再臨の時なのか。この3つのどの場合も、結果としてもたらされるものは、歓喜で 【祈りながら考えよう】 (1)「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」その時がいつなのか、3つの解釈を述べて下さい。 (2)3つの解釈のうち、決め手となるのは何ですか。 (3)主イエスの御名によって父に求めるものは、どうして与えられるのですか。その根拠は何ですか。 【解 説】 (1)しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわ たしを見ます。」そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。 「『しばらくするとあなたがたは、 わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』、また『わたしは父のもとに行く からだ』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」そこで、彼らは「しばらくすると、と主 が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」と言った(16-18節) 主は弟子たちにこう言われた。「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またし ばらくするとわたしを見ます。」このように主が語られると、弟子たちは、主が語られたことの真意がよく分からず、 弟子たちは混乱した。 混乱の理由は、10節で「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」と言われ たのに、今度は、 「しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る」 と主が言われたからである。この2つの説明を弟子たちは調和させることができなかった。 弟子たちはお互いに「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることが わからない」と尋ね合った。 -1- あり、奪われることのない「喜び」である。 (5)その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがた に告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがた にお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求 めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです(23 -24節) 3つの解釈のうち、どれが妥当なのかは、この23-24節が決め手になる。この主の御言葉に一番良く当てはまる のは、五旬節の日であると思われる。 主の再臨の時に、私たちはなおも主の御名によって祈り求めなくても、直接主イエスとも父なる神とも話すこと ができる。そして、悲しみが喜びに変わるという場合、復活の主に出会ってもそうなるが、やがて主が昇天される と、弟子たちの喜びもまた失われてしまわないとも限らない。 しかし、五旬節の日以来、主が聖霊として来られ、私たちのうちに住んでくだされば、どんな時にも喜んでいる ことができる。しかし、主は天におられるので、父なる神に祈り求める時には、主のお名前によって求めなければ ならない。 主が地上に生きておられた時には、弟子たちは質問や願い事があれば主のもとに来ていた。しかし、今日、主が 天におられ、私たちのためにとりなしておられる。それで、私たちは、主のお名前によって祈り求める必要がある。 主イエスのゆえに私たちの願いは聞き届けられる。私たちがそれにふさわしいからではなく、主イエスがふさわ しいお方であられるからである。ここで弟子たちは、「求めなさい」と勧められている。祈りが答えられることによ って、彼らの「喜び」は「満ち満ちたものとなる」のである。 -2-
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