タイの人件費上昇を巡る政策対応

みずほインサイト
アジア
2015 年 2 月 13 日
タイの人件費上昇を巡る政策対応
アジア調査部研究員
政策効果が出るまで時間を要する見通し
03-3591-1368
杉田智沙
[email protected]
○ 近年のタイでは人件費が上昇し、労働集約産業を中心に輸出競争力が低下している。今後も、生産
年齢人口の減少が予測され、労働需給逼迫からさらに人件費上昇圧力が高まることとなるだろう
○ 人件費上昇に対し、外国人の受け入れなど労働力不足を緩和する政策は不十分である。また、高度
産業の投資誘致、高度人材の育成などの生産性向上策も効果が出るまで時間を要する見通しである
○ 人件費上昇の影響回避に資する政策の効果が当面期待できない中、タイに進出する日系企業には、
高度人材の育成と生産性向上に向けた自発的な取り組みが求められる
1.はじめに
タイでは、2011年後半以降、労働需給の逼迫に全国一律の最低賃金引き上げが加わり、人件費が高
騰した。一方、賃金上昇に生産性向上が伴っていないため、単位労働コスト(1単位の実質付加価値を
生産するのに必要な名目労働コスト)は急激に上昇した(図表1)。これにより、労働集約産業を中心
に競争力が低下し、すう勢的に増加していた工業品輸出が伸び悩んでいる。こうした傾向が続けば、
タイの競争力がますます低下する恐れがある。以下では、人件費上昇の背景と展望、タイ政府の対応
について考察する。
図表 1
2.人件費上昇の背景と展望
単位労働コストと工業品輸出
(2001=100)
(2012=100)
115
人件費が上昇した理由は主に2つある。まず、全国
一律300バーツへの最低賃金引き上げである。インラ
110
単位労働コスト(左目盛)
工業品輸出数量(右目盛)
100
110
90
ック政権(2011年8月~2014年5月)は、国民の過半数
を占める地方住民・低所得層の支持を集めるため、選
105
80
挙公約に最低賃金引き上げを掲げ、まず2012年4月に
70
100
首都圏7県、次いで2013年1月に全国で実施した。選挙
に勝利するためのポピュリズム的な政策の一環とし
60
95
50
て、最低賃金が利用された。
次に、生産年齢人口の伸び率低下に伴う労働需給逼
迫である。国連推計(中位)によると、タイの生産年
1
90
40
2002 03
04
05
06
07
08
09
10
11
12
(注)工業品輸出数量指数は季節調整値。
(資料)タイ中央銀行
13
(年)
齢人口の伸び率はほぼ一貫して低下し続けており、2018年には生産年齢人口が減少に転じると予測さ
れている(図表2)。生産年齢人口の減少は、労働力不足を深刻化させるため、今後はさらに人件費上
昇圧力が高まることとなるだろう。
こうした問題への対処として、労働力不足の緩和と生産性の向上に向けた政策が必須となっている。
政治混乱が続いたことで、従来の政権でこれらの政策への取り組みが停滞してきたが、軍政下で政治
混乱がいったん終息したことで、政策が前進するのではないかという期待が高まっている。はたして
期待どおりになるのか考えるために、タイ政府の対応をみていこう。
3.タイ政府の対応
(1)労働力不足を緩和するための政策
労働力不足を緩和するための政策としては、外国人労働者の受け入れのほか、農村から都市への労
働力移動など既存労働力の有効活用が考えられる。
a.外国人労働者の受け入れ
人手不足に直面する産業界は、外国人労働者を受け入れやすくするため、就労期間制限や届出義務
などの規制緩和を要望してきた。しかし、歴代政権は、政府が把握できない外国人労働者はタイ社会
に悪影響を及ぼすとの認識の下、登録制による慎重な受け入れを図ってきた。軍政も、登録制による
管理を進めるという慎重な姿勢であり、積極的な受け入れ姿勢への転換は見込めない。
一方、軍政は、国境での経済特区(SEZ)開発を掲げ、周辺国の労働者の日帰り就労を認めると表明
している。国境 SEZ は、ミャンマー、カンボジア、ラオス、マレーシアとの国境沿い 6 カ所を重点的
に開発し、投資企業に対して恩典を厚くすることで産業を誘致するものである。周辺国からの日帰り
就労によって、労働力不足の緩和に効果がありそうだ。しかし、日帰り就労が認められるのは 6 カ所
の国境 SEZ に限られ、そこでの外国人労働者にも自国労働者と同水準の最低賃金が適用されるため、
労働力拡大と人件費抑制の抜本的な対策と評価することはできない1。
図表 2
生産年齢人口伸び率
(前年比、%)
2.0
国連予測
1.5
1.0
2018年
0.5
0.0
▲ 0.5
▲ 1.0
2000
05
10
15
(注)生産年齢は 15~64 歳。
(資料)国際連合
2
20
25 (年)
b.既存労働力の有効活用
既存労働力の有効活用については、インラック政権がコメ担保融資制度などの手厚い農家支援策を
実施したことにより、むしろ農業の就労者比率が高まっており、農村に定着した余剰労働力の都市へ
の移動が妨げられてきた。アジア各国では同比率が低下ないし低位で横ばいになっていることとは対
照的である(図表 3)。今後も、タイの政情不安の根底にある農村と都市の所得格差是正を目的に、農
村支援策は継続される見込みであり、都市への労働力シフトが大きく進展することは期待しにくい。
このほか、女性の就労促進も労働力の有効活用策と考えられる。しかし、国際労働機関(ILO)が公
表している女性労働参加率によると、データの得られる東南アジア主要国の中でタイは高い水準であ
り(図表 4)
、厚生労働省(2013)もタイの女性労働参加率は ASEAN でトップクラスと指摘している2。
これらから、さらなる女性の労働力活用の余地は大きくないとみられる。
また、定年を引き上げることで労働力を拡大させる政策も考えられる。タイでは法定定年はないが、
55 歳定年制を採用している企業が過半に達しているとの調査結果がある3。2012 年頃に商工会議所が
政府に 60 歳の法定定年を提唱する動きが出たが、導入に向けた進展はない。背景には、年金制度との
兼ね合いがあると考えられる。タイでは、民間企業従事者を対象とする年金の支給開始年齢が 55 歳で
あり、定年を 60 歳に引き上げても、年金支給開始を遅らせなければ就労を続けるインセンティブが働
かない。しかし、民間を対象とする年金制度は 2014 年から開始されたばかりであり、年金支給開始年
齢を遅らせると国民の反発は避けられないため、年金改革の議論は盛り上がっていない。こうした中
で、年金とセットで扱われるべき法定定年の導入も進展していないのだろう。
(2)生産性向上に資する政策
人件費上昇に伴う競争力の低下を抑えるために、生産性向上に資する政策も求められる。このため、
教育の拡充による高度人材の育成、高度産業の投資誘致、インフラ整備による物流効率化を軍政は目
指している。
図表 3
農業就労者比率
タイ
フィリピン
マレーシア
(%)
45
図表 4
女性労働参加率
(%)
75
インドネシア
中国
ベトナム
70
40
65
35
タイ
60
30
55
25
マレーシア
50
20
インドネシア
45
15
40
10
2006
2007
2008
2009
2010
2011
2012
2009
2013 (年)
2010
2011
2012
2013
(年)
(注)女性労働参加率は、15 歳以上の人口に占める労働
力人口の割合。
(資料)国際労働機関
(注)農業就労者÷全就労者。
(資料)アジア開発銀行
3
a.教育の拡充による高度人材の育成
現状、高度人材の育成は遅れている。人材のスキルを評価する重要なメルクマールとして、地域統
括機能を担うためのマネジメントスキル、本社・周辺地域とのコミュニケーションツールとしての英
語力や、高度産業を担うための理数系の知識・能力があるが、全体的にタイは低評価に甘んじており、
シンガポールやマレーシアといったASEANの優等国に比べると、特に科学技術系人材が厚みに欠けてい
る(図表5)。人材育成に関わる財政措置をみると、1998年に全予算に占める教育省の割合が26%に達
していたが、2011年に20%を切り、その後はほぼ横ばいにとどまっていた。政府は教育改革に取り組
もうとしており、そのためには予算の拡充やカリキュラムの見直しが求められるが、高度人材の養成
に結び付くには時間を要するだろう。
一方、国外から積極的に高度人材を受け入れることで、国内の人材不足を補い産業高度化を促進す
るという選択肢もあるが、これも進展は見込みがたい。2015 年 12 月末に発足が予定される ASEAN 経
済共同体(AEC)では、エンジニアリング技師などの高度人材の移動の自由化が目標の一つとされてい
る。しかし、タイ政府は、対象となる 8 分野の専門家資格の相互承認条約に署名する一方で、外国人
の専門家にはタイ語での試験合格を受入れの条件に加えるなど、実質的な規制を設けている。このた
め、ASEAN 域内の高度人材をタイ国内で活用できるようになるまでにも、時間を要するだろう。
b.高度産業の投資誘致
高度産業の投資を誘致する政策として、2015年1月に「7カ年投資促進戦略(Seven-Year Investment
Promotion Strategy、以下投資戦略)」(2015~2021年)がスタートした。付加価値の高い経済活動に
対して投資恩典を厚く付与するものであり、特に優遇される経済活動は、研究開発、電機・電子製品
の設計、バイオテクノロジー、再生可能エネルギー発電などである(図表6)。対照的に労働集約産業
図表 5
図表 6
人材に関するランキング
タイ
マレーシア
シンガポール
マネジメントスクールの質
81位
25位
6位
英語力
48位
12位
13位
理科・数学の教育の質
81位
16位
1位
インターネット普及率
96位
41位
33位
科学者・エンジニアの雇用の
しやすさ
54位
9位
16位
人口100万人当たりの研究
者数
332人
1,065人
6,150人
7 カ年投資促進戦略で
特に優遇される経済活動
・製品デザイン・開発センター
・航空産業
・電機・電子製品設計
・ソフトウェア
・廃棄物を利用した発電事業
・省エネ支援サービス
・経済特区開発
・コンピュータ・クラウドサービス
・研究開発事業
・バイオテクノロジー
・エンジニアリングデザイン
・科学研究
・精密測定サービス
・職業訓練センター
・森林プランテーション
(注)1.マネジメントスクールの質から科学者・エンジニアの雇用
のしやすさまで(英語力を除く)は 144 カ国を対象
(2014 年)。
2.英語力は英語を母語としない 63 カ国を対象(2014 年)。
3.研究者数は 2009 年統計。
(資料)世界経済フォーラム国際競争力レポート、Education
First、国際連合教育科学文化機関
(資料)タイ投資委員会後
値
4
への恩典は廃止または縮小され、高付加価値型への産業構造転換の方向性が打ち出されている。もっ
とも、前述のとおり、高度産業を担う人材の厚みが十分ではないため、高付加価値の産業構造に転換
しようとしても、人材供給が追い付かない懸念がある。したがって、投資戦略の実現には時間を要す
ると考えられる。
その一方で、投資戦略において労働集約産業の恩典が廃止ないし削減されることから、その影響を
被りやすい中小企業を意識した支援策が別途導入されている4。ただし、いずれも 2017 年末までの時
限的措置にとどまることから、生産性向上のための持続的な視点に欠けているといえよう5。
c. インフラ整備による物流の効率化
政府は輸送コストの高さが中長期的な成長の制約になっていると考え、物流網の改善を課題と指摘
している。2014年7月末、軍政は、国境への鉄道や道路の延線、バンコク首都圏の大量輸送網整備など
多岐にわたる総額2.4兆バーツ(約7.8兆円)のインフラ計画を承認した。しかし、計画のスケジュー
ルをみると、インフラ整備工事が本格化するのは2017年以降の予定である。工事が完了してインフラ
の供用が始まるまでには、さらに数年単位の時間がかかりそうだ。
4.おわりに
以上をまとめると、労働力不足を緩和する有効な対策は十分ではなく、生産性向上策の効果が出る
には時間を要すると考えられる。したがって、今後も人件費は上昇し、産業競争力を下押しすると懸
念される。みずほ総合研究所が2014年2月に実施した「アジアビジネスアンケート調査」によると、タ
イに進出した日系企業にとっては、既に人材育成と生産性向上が経営上の上位課題となっており、人
手不足による人件費上昇が問題視されていることがうかがわれる。タイ政府による政策の効果が当面
期待できない中、進出企業にも高度人材の育成と生産性向上に向けた自発的な取り組みが求められる。
【参考文献】
稲垣博史・宮嶋貴之・杉田智沙(2014)「軍政下で底打ちするタイ経済~中期的な見通しは楽観でき
ず」(みずほ総合研究所『みずほインサイト』2014年8月13日)
厚生労働省(2014)「東南アジア地域にみる厚生労働施策の概要と最近の動向」(『2013年海外情勢
報告』厚生労働省、第5章)
末廣昭(2012)「タイのプロビデント・ファンドと社会保障」(東京大学社会科学研究所『社会科学
研究』2012年3月号、pp.101-129)
杉田智沙(2013)「タイの人材スキルの評価~産業高度化を担う人材養成が課題」(みずほ総合研究
所『みずほインサイト』2013年3月29日)
5
1
周辺国も国境付近に SEZ を設けており、タイの国境 SEZ に労働者が順調に流入しないとの見方もある。
その背景として、タイでは、「結婚、出産、育児のために仕事を辞めるという考えがないためか、出産前日まで仕事をし、45 日
程度で職場に戻る者が多く、最大限休暇を取得する者はあまりいないとされるほか、有給の避妊手術休暇制度もある」と指摘し
ている。(厚生労働省「2013 年海外情勢報告」
)
3
末廣(2012)は、地場製造業を主な対象としたタイ国人事労務管理協会調査(2007、55 歳定年制の回答割合が 55.3%と 60 歳定
年制の 44.1%を上回った)、地場・外資の製造業と非製造業を対象としたタイ技術振興協会・末廣の共同調査(2009、55 歳定年
制の回答割合が 59.1%と 60 歳定年制の 38.0%を上回った)
、バンコク日本人商工会議所調査(2011、製造業において 55 歳定年
制が 70%と 60 歳以上定年制の 20%を上回り、非製造業においても 55 歳定年制が 55%と 60 歳以上定年制の 33%を上回った)を
参照し、これらの調査結果を基に、「タイでは 55 歳定年制の方が 60 歳定年制より優位である」と述べている。
4
2014 年 9 月に、省エネや代替燃料使用、環境負荷軽減のための投資や、生産効率向上のための機械更新投資、研究開発投資を対
象に、法人所得税の 3 年間免除(ただし、投資額の 50%を上限とする)
、機械輸入関税免除を与える支援策が発表された。従来
は恩典を受ける条件として、最低 100 万バーツの投資と規定していたが、中小企業が支援を受けやすくするため、50 万バーツの
投資から優遇を付与するとした。また、2015 年 1 月半ばには、紙・プラスチック、農業・農産品、繊維製品、鞄・靴、家具、宝
石など 38 業種で、一定の条件(資産 2 億バーツ未満など)を満たし投資を実施した企業を対象に、投資額の 50%を上限とする
法人税免除を 2 年間適用する措置が発表された。38 業種には、従来の投資誘致策の下では、法人税免除と機械輸入関税免除の両
方の恩典を受けることができたが、「7 カ年投資促進戦略」の下で機械輸入関税免除のみに恩典が絞られた業種も含まれる。
5
シンガポールでも、同様に中小企業を中心とした生産性向上支援(生産性・革新クレジット)が行われているが、2011~2018
年と、8 年間にわたる長期的な計画である。また、シンガポールでは研修訓練などへの支出も恩典対象として認められるが、タ
イの場合は機械投資が主である。シンガポールと比較すると、タイの支援策は短期的な視点にとどまっており、人材育成への配
慮も欠けている。
2
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6