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ブ ラー フ マ ナ に お け る生 の完 成
Agnicayanaの
風
間
思想
敏
夫
シ ャ タ パ タ ・ブ ラ ー フ マ ナ 第 六 巻 一 第 十 巻 は 一 貫 し た 特 徴 を 具 え, 本 來 濁 立 の
書 巻 で あ つ た と 考 え られ る(ISt. XIII. p. 266-267)。 其 の 内 容 は 全 て ア グ ニ ・チ ャ
ヤ ナ(Agni-cayana)の
と し て,
祭 儀 に 捧 げ られ て い る。Agnicayanaは
ブ ラ ー フ マ ナ(Br.)祭
ソー マ祭 の 一 要 素
式 中 で も高 度 に 獲 達 し た も の の 一 で あ る が,
今 こ
れ に 注 目す る 所 以 は 祭 儀 そ の も の に あ る の で は な く, これ に 關 連 し て 述 べ ら れ る
説 明 解 繹 の 中 にBr思
想 の 究 極 的 獲 展 の 一 段 階 が 観 取 さ れ る か ら で あ り, そ れ は
更 に凡 そ人 間 の思 想 とい うもの の 實 態 を 考究 反 省 す る上 に重 要 な 示 唆 を 與 え る と
考 え ら れ る か ら で あ る。
Agnicayanaは
そ の 名 の 示 す 如 く, 萬 鯨 の 煉 瓦 を 用 い て 普 通 五 層 よ り成 る 鳥 形
の 祭 壇 を 築 き,
そ の 上 にAhavaniya祭
と云 い, 或 い は 軍 にAgniと
し(e. g. IX
火 を 安 置 す る。 こ の 祭 火 壇 をcitya
も稻 す る。 こ のAgniは
4. 1. 3.), 同 時 に 又 祭 圭(yajamana)そ
1. 31)。 抑 々 火 壇 築 造 に 用 い る煉 瓦(iaka)の
る(VI.
一 方 でPrajapatiを
5. 3. 2, cf. VII. al.
agni
の も の で も あ る(e.
象徴
g. IX. 5.
大 さ は 祭 圭 の 足 の 大 さ を 基 準 とす
7)。 自Pち當 事 者 た る 祭 圭 個 人 の 肉 盤 的 條 件 に 基 づ く
相 封 的 尺 度 で あ る(ISt. XIII. P. 239)。Prajatiは
言 う迄 も な く一 切 宇 宙 で あ る。
こ こ に 宇 宙 一 祭 式 一 個 髄 の 相 鷹 に つ い て は 詳 説 を 要 し な い で あ ろ う。
さ て こ の 基 盤 の 上 でAgnicayanaを
skrti*(Praj°を
冒 頭VI.
一 貫 す る 思 想 の 骨 子 はPrajapatiのsam-
同 復 再 構 成 す る こ と)》 で あ る。(* 名詞 形VIII.
1. 1以 下 にPraj°の
VT. 1. 2. 12 sa prajah
宇 宙 創 造 紳 話 が 説 か れ て い る が,
srstva/
sarvam ajim itvd vyasramsata,
yah sarvam ajim eti vy eva sramsate,
mat, tasminn
enam utkrante
彼(Praj°)は(一
3. 4. 11)
tasmad
visrastat
そ の結 果
tasmad u haitad
prano madhyata
udakra-
deva ajahuh.
一切)生 類 を創 造 し 了 りて, (印 ち)全 コー ス を走 了 して分 解(弛 緩)
せ り。故 に今 日 も競 走 の全 コー ス を走 り抜 く者 は困 懸 す。 分 解 せ る彼 の 中 心 よ り生 氣 は
抜 け去 り, 生 氣 の 抜 け 去 る と共 に諸 示
申も彼 を棄 て去 れ り。
と い う。 火 壇 の 各 層 の 諸 要 素 は こ の 分 解 せ るPral°の
-315-
髄 の 諸 部 分 を 意 味 す る。 例
ブ ラ ー フマ ナ に 於 け る生 の完 成(風 間)
(65)
せ ぱ 第 二 暦 に於 て
VIII. 2. 1. 11: 此等 の. Asvini煉
瓦 を 積 む所 以 に就 て。 諸 紳 は分解 せ るPraj°(の
部 分)を 取 りて四 散 せ り。彼 の足 よ り上, 腰 よ り下 の 部分 はAsv垣
諸
隻 紳 が 之 を 取 りて逃
亡 せ り。
の 如 く で あ る。 今Agniを
て,更
め てPraj°の
築 く こ と に 由 り,
全 盤 を 構 成 同 復 す る(sarh-s-kr)の
こ の よ う な 《Pral°のsamskrti》
十 巻(Agnirahasya)中
X. 4. 2. 2:
これ ら の 諸 部 分 を 残 りな く還 し集 め
で あ る。
と は 何 を 意 味 す る か。 これ を 考 察 す る に、
は第
の 稽 々 進 ん だ 創 造 紳 話 が 参 考 に な る で あ ろ う。 印 ち
so 'yam samvatsarah
prani yac capranam,
ubhayan
na-iva mene, sa mrtyor
この 歳 な るPraj°は
pra japatih
deva-manusyant,
bibhayam
sarvani
bhutani
sa sarvani bhutani
sasr je, yac ca
srstva ririca-
cakara.
生物, 無 生 物, 紳, 人 諸 共 に 一切 の有 類 を創 造 せ り。彼 は 一切 有
類 を創 造 し 了 りて, 謂 わ ば室 盧 の感 を懐 け り, 彼 は 死 を 怖 れ ぬ。
X. 4. 2. 3: sa heksam
atmann
bhutanam
avapeya,
punar
cakre/
katharn
atman
nv aham
dadhiya,
katham,
imani
sarvani
nv aham
bhutani
evaisarn
punar
sarvesam
punar atma syam iti.
彼 は思念せ り, 如何 にして吾 は これら一切有類 を再び吾 が内に投入 し, 再び吾が もの と
なすを得 ん, 如何 にして吾 は再び こ劉 ら一切有類 の自我(圭 髄)た るを得ん, と。
騨 話 を 人 間 のpsychologyと
して観 れ ば,が 宇 宙 を創 造 し了 つ て分 解 した とい
う こと は, 人 間 に とつ て世 界 が 己 の 内 に成 立 し, や が て そ の無 常 攣 化 に 氣 付 い た
こと で あ る。 世 界 の無 常攣 化 に氣 付 い た時 は 同時 に人 間 の 自我 が 意 識 され た 時 で
あ る。 そ こで 自我 に よ る世 界 の法 則 的 支配 が意 圖 さ れ る。 《室 虚 を感 じ死 を 怖 れ
た》 もの が, や が て 《萬 有 を再 び 己 が もの とせ ん》 と意 圖す るに 至 る の で あ る。
これ が饗 の 示申話 に云 う 《Praj°の同復 再 構 成 》 の意 味 で あ る。 祭 式 は 複 雑 な 法
則 に よつ て 支配 され て い る。假令Agnicayanaを
行 う も, 唯 軍 に無 数 の 煉 瓦 を
積 む こ とに よつ て は不 死 を得 る こと は 出來 ない。 所 期 の 目的 を達 成 す る爲 に は過
不 足 な きPraj°の 完 全 形(sarvapi
5-6)。 さてX,
rapi)を
築 造 しな けれ ば な らな い(X. 4. 3.
4, 2の 神 話 に戻 つ て,如 何 に してPraj°が
た か を見 よ う。先 ずPraj°の
再 び萬 有 の 自我 と成 つ
自 己分 化 が始 ま る。 Praj°は 歳 で あ る。 そ の 自 己
分 化 は時 間 概 念 の 細 分 で あ る。無 常 攣 化 を捕 捉 す るた め に 時 間概 念 の 獲展 を以 て
す る こと は一 慮 の理 で あ る が, 所 詮 目的 達 成 の 方 途 で は な い(4∼20)。 そ こ で
Praj°は 更 め て遍 く萬 有 を観 じ(21),
-314-
(66)
ブ ラ ー フ マ ナ に 於 け る 生 の 完 成 (風 間)
X. 4. 2. 22: sa aiksata
hanta
trayim
prajapatih/
eva vidyam
彼Praj°は
trayyam
atmanam
vava
vidyayam
abhisarhskarava
sarvani
bhutani.
iti.
思 念 せ り, げ に三 明 の 内 に こそ 一切 有 類 は あれ, い ざ三 明 そ の も の と して
己 を仕 上 げ ん, と。
か くて 遂 に 三 明(=Veda)を
己 が も の と な し,萬
い う。 自 我 に よ る 萬 有 支 配 の 方 途 は 祭 式 で あ り,祭
Vedaは
萬 有 の 根 源 で あ り, そ のVedaに
有 のatmanと
な つ た(27)と
式 の 根 檬 はVedaで
よ つ て 自我(atman)を
う。 これ は 正 に 梵 我 一 如 の 前 夜 で あ る が,
猫Br思
あ る。 今
完 成 す る とい
想 の 特 徴 た るatma-samskrti
の 範 團 に 留 つ て い る。
註
Br. に於 け る"atman
十 九號p.
Praj°紳
363-359.
の 語 義 及 びatma-samskrtiの
拙 稿On
the Conception
話 と し て 読 か れ て い る 事 柄 は,實
が て 祭 圭 自 身 のatma-sarhskrtiで
分 解 せ るPrai°の
各 部 分 を 還 集 し,完
the Br. 滲照。
は 祭 圭 の 人 間 的 希 望 で あ る。 祭 は 神
々 の 模 倣 で あ り, 神 は 人 間 の 理 想 像 で あ る。Praj°の
で あ り,や
思 想 に 就 い て は,印 佛 研 究 第
of atmanin
同 復 は 結 局atma-salhski
あ る。 然 ら ばcitya
全 な るPral°を
Agni印
Pral°は 歳 な り。Agniは
ち一 切kamaと
一 切kamaな
望)で
nam
あ る。
り。 か の 歳 な るPraj°
は己を
し て築 か ん と欲 せ り。彼 は己(が 艦)を 百 一 の部 分 よ り成 る如
く構 成 せ り。彼 は 己(が 髄)を 百 一 の部 分 よ り成 る如 く構成 し て,己
kamaと
よつ て
再 構 成 す る と い う こ と は,
祭 圭 個 人 の 人 間 的 立 場 か ら見 て 何 を 意 味 す る か。 そ はkama(欲
X.2.4.1:
agniに
して築 き た り(sa
abhisamacinuta)。
ekaatadhatmanath
彼 は 一切kamaと
vidhayagnirh
をAgni帥
sarvan、kaman
成 り, 彼 の 外 に は何 等 のkamaも
ち一 切
atma存せ ざ り
き。……
同 様 に 祭 圭 も 之 に 倣 い(2)隔 又 一 切 宇 宙 に 確 立 す(3)云
五 層 のAgniに
kamaを
よ りて,こ
れ ら(天
完 成 す(samskurve)(X.
室 地 の)諸
4. 5. 3)と
々 と い う。 又 一 説 に,
世 界 及 び(祭
もい う。Br.
築 くの は 一 切kama達
こ の や うなkama成
etam
……彼(第
so 'syaisa
kasya
cana
sarvasyantam
あ,る の も當 然 で あ
6. 4. 11; VI. 8. 2. 11)。
evatma,
sa eso 'kamah
sarvakamo,
ち(Agniの)本
膣 は一 切 宇
kamah.
一暦 のhirah-maya
purusa黄
宙 の究 極 な り。……彼 は一 切 のkamaを
封 す るkamaも
成 の た め で あ る(VI.
瀧 の 極 を 示 す 一 節 は,
X. 5. 4. 15.
na by
身 及 び一 切
の 言 う一 切 宇 宙 は 自 我
の 投 影 と し て の 世 界 で あ る。 從 つ て そ れ は 同 時 に 一 切kamaで
る。 故 にAgniを
圭)自
金 製 の人 形)印
具 す るが故 にakamaな
彼 に(起 る こ と)な けれ ば な り。
-313-
り。何 とな れ ば何 物 に
ブ ラ ー フ マ ナに 於 け る生 の完 成(風 間)
(67)
吾 々 は 直 ち に ブ リハ ッ ドア ー ラ ニ ヤ カ ・ウ パ ニ シ ャ ッ ド の 詞 と し て 有 名 な
《apta-kama,
atma-kama,
a-kama》
の 一 節 を 想 起 す る。 そ し てBr.
か ら 所 謂Up.
思 想 へ の 獲 展 が 決 して 突 然 の 飛 躍 で な い こ と を 知 る の で あ る。
この よ うにAgnicayanaは
成 で あ る が,
atmanの
一 切 宇 宙 の 再 構 成 で あ り, 同 時 に 一 切kamaの
そ の 原 理 は,
達
上 來 述 べ た 所 に よ つ て も 明 か な 如 く, 祭 式 の 力 に よ る
完 成 で あ る。
一 祭 は紳 々の 自己(atman)な
り。故 に 諸 紳 は祭 を 自己 と成 し了 りて初 めて か の天 室
な る天 界 に坐 せ り。同 様 に今祭 主1ま祭 を 自 己 と成 し了 りて か の天 室 な る天 界 に坐 す(VIIL
6. 1. 10)。
一 切kamaを
把 持 す る も の も亦 當 然atmanで
ここ に諸 紳 は 言 え り,何 もの に よ りて これ らkamaを
己 に よ りて(atmanaiva),
あ る。
吾 等 は 把 持 せ ん, と。 他 な らぬ
と彼 等 は言 え り。祭 は實 に神 々の 自 己 な り, こ の同 じ祭 が又
祭 圭 の そ れ な り。……(IX.3.2.7)
こ のatrnanが
二 段 に 分 け て 考 え られ て い る こ と は 已 に 前 稿(上
べ た 所 で あ る が,
Agnicayanaの
れ る よ うに な る。 自口ちdaiva
引 註 参 照)に
atmanとmanua
atmanと
の 封 比 で あ る。 〔VI.
6. 4. 5; VII. 4. 2. 16-21; IX. 4. 4. 8-9; tX. 5. 1. 11〕 二 段 のatmanは
く現 當 二 世 の 要 請 に 基 づ く。 自口ちdaiva
manua
atmanに
述
部 分 に於 て は それ が 一
一層 明 瞭 な 表 現 を 以 て 説 か
atmanに
云 う迄 も な
よ り彼 世 の 不 死(amrta)を
よ り て 此 世 の 壽 命 を 全 うす る た め で あ る(VII.
4. 2. 17-19)。 何
れ か 一 方 の み で は 意 味 を 成 さ な い の で あ る。
さ て こ の よ うなatmanの
で あ つ て, atmanは
完 成 は 不 死 永 遠 の た め で あ る。 不 死 こ そ 究 極 の 目的
そ の 手 段 で あ る。 不 死 こ そ 一 切 宇 宙 の 至 高 な る も の で あ る
(VIII. 7. 4. 18, cf. IX. 1. 2. 43)。 勿 論 不 死 と 言 つ て も, そ れ は 死 後 來 世 に 於 け る
再 死 の 克 服 で あ る。 人 間 は 此 世 に 於 て 死 を 冤 れ ぬ も の で あ る。 こ の 意 味 に 於 て 一
鷹 不 死 と は 相 容 れ な い。 併 し 乍 らBr.
の 人 間 に と つ て 此 世 の 壽 命(ayus)は
や
が て 又 來 世 の 不 死 と 繋 りを 持 つ も の で あ つ た。
IX. 5. 1. 10:
hanenatmana
etad
sarvam
vai
avur
manusyasyamrtatvam
yat
sarvam
ayur
eti,
tatho
eti.
……壽 命 を全 うす る こ とは 人 間 に とつ て の不 死 で あ る。 か くて實 に この 己 に よ り て 全
壽 に到 達 す。
此 世 の 全 壽 と は 百 歳 の 壽 命 を 云 う。 故 に,
……百 一 重(のAgni)を
築 く者, 或 い は百 年 の 生 を保 つ 者 は この 不 死 を獲 得 す……そ
-312-
(68)
ブラーフマナに於 け る生 の完成(風間)
れ故 壽命以前 に(puryuab)恣
意に從 つて此世 を去 るべか らず。(X.2.6.7)
百歳 の壽 命 は 或 る意味 で地 上 に生 存 す る人 間 の完 全 な 相 で あ る。 勿 論 そ れ は
kama成
満 を 内究 とす る人 間 の一 生 で あつ て, 軍 な る時 間 的延 長 で は な い。 それ
は凡 ゆ る意 味 で圓瀧 の 相 で あ るか ら, や が て死 後 の不 死 に 連 な る と考 え られ た の
で あ ろ う。趣 きは 異 にす るが, 後 世 の有 蝕 浬 葉, 無 蝕 浬 葉 とい うよ うな考 え と一
脈 通 ず る所 が あ る。併 し其 腱 で は無 鯨 浬 桀 に 重 貼 が あ つ て, 有 鯨 浬 葉 は そ の準 備
で あ る の と は異 な り, Br. で は決 して 現世 を否 定 す る こ とは な い。 そ こで此 の世
の壽 命(ayus)と
彼 の世 の不 死(amrta)と
を一 貫 綜 合 し て 更 に 之 を 《sarvam
ayur eti》 と言 う。《sarvam ayur eti》 とい う詞 は此世 の 生 の み に 關 して も普 通
用 い られ るが, 今 現 當 二世 を含 め て 言 う時,そ
の究 極 の 目的 は 來世 の不 死 を條 件
とす る現 在 の生 の完 成 に あ る と考 え られ る。
X. 2. 6. 9: annad va asanaya
tamo,
mrtan
mrtyur,
nivartate/
ni ha va asmad
panat
pipasa,
etani sarvani
sriyai papma, jyotisas
vartante,
pa punarmrtyum
jayati, sarvam ayur eti ya evam veda, tad etad amrtam ity evamutropasitayur
itiha, prana iti haika upasate, prano 'gnih prano 'mrtam iti vadanto, na tatha
vidyad,
adhruvam
vai tad yat pranas,
sitayur
itiha, tatho ha sarvam ayur eti.
tasmad
enad amrtam
ity evamutropa-
實に食 に より飢 は止息 し, 飲 によ り渇, 吉 に より凶, 光 によ り闇, 不 死に より死 は止息
す。實 にか く知 る者 よ りこれ ら一切は去 り, 彼 は再死 を克服 して, 完全 なる生命 に達す。
故 に是 を彼世 に於 ける不死, この世 に於け る壽命 として信奉すべ し。1そ
は生氣 な りと信奉
す る者 あ り, Agniは 生氣な り, 不死 は生氣 な り, と読 く。され どか く知 るべ か らず, 生
氣な るものは實 に常住 ならず,……故 に是 を彼世 に於 ける不死, 此世に於 ける壽命 として
信奉すべ し, か くてぞ人は完全な る生命 に達す なれ。
此 庭 に言 う不 死 とか 死 とい うもの は 観 念 的 な もの で あ る。 《不 死 に よ りて 死 は
止 息 す 》 とい うこ こ ろは, 祭 に よ る不 死 の信 念 に よつ て 死 の恐 怖 が止 息 す る とい
う こと で あ る。 勿 論 この 不 死 は再 死克 服 の意 味 で あ る。併 し乍 ら彼 世 の不 死 の信
念 は此 世 の終 末 で あ る死 の意 味 を も攣 え る。 自Pち再 死 の恐 怖 を克 服 す る ことに よ
り, 此 世 の生 命 と彼 世 の生命 とが 一髄 とな つ て完 全 な る生 命 が實 現 す る。 完 全 な
る生 命 と は現 在 の刹 那 に於 け る信 念 で あ る。 それ は將 來 に於 け る生 絶 断 の憂 を 解
沿 した とい う信 念 に 基 づ く現 在 の安 泰 で あ る。 如 何 程 鮫 くる ことな き現 在 の 生 を
享 受 して い て も, 永 績 とい う條 件 を鉄 く時 は無 に等 しい か らで あ る。 そ の故 に 人
は終 生 祭 を 績 け な けれ ば な らな か つ た の で は あ るが, 兎 も角 これ がBr. に於 け る
-311-
ブ ラ ー フマ ナ に於 け る生 の完 成(風 間)
生 命 の 完 成,
人 間 の 完 成 で あ つ た。 當 時 の 人 間 に と つ て 生 命 の 完 成 は 再 死 克 服 の
信 念 に 基 づ き,再
daiva
(69)
atmanの
死 克 服 帥 ち 彼 世 の 不 死 はdaiva
atmanのsarhsk#iに
由 り,
完 成 は 祭 式 の 力 に 依 る。
VIII. 1. 4. 6: sa esa sarvayuso
veda sarvarim haivayur
'gnih/
sa yo haitam
evarim sarvayusam
agnim
eti.
この(煉 瓦 の累積 よ り成 る)Agniは
完全 な生命力を もつ。か くの如 くAgniが 完全 な
生命力 をもつ ことを知 る者は完全 な る生命 に達す。
後 世 の イ ン ド思 想 に比 較 す れ ば, Br. 思 想 は素 朴 で あ り, 現 實 的 功 利 的 で あ る。
併 し又 一般 人情 の極 め て 自然 な獲 展 の形 態 で あ る。 それ は も し人 間 が 條件 に 恵 ま
れ れ ば 殆 ど必 然 的 に辿 るで あ ろ うと さえ想 われ る経 路 を示 し, や が て吾 々に 形 而
上 學 の 淵 源 を 明 か に して くれ る。 現 代人 はBr. を喧 うで あ ろ う, 併 し宇 宙 の攣 化
を 法 則 的 に捉 え て これ を 人爲 に よ り再 現 せ ん とす る現 代 自然 科 學 も, そ の 人 間 と
して の態 度 に 於 て は 意 外 にBr. 祭 式 に類 似 性 を有 してい る。 もと よ り この事 實 は
Br. 祭 式 の 濁 断性 と無 根 撮 と を攣 え る もの で は ない。Br.
思 想 は二 つ の特 徴 を 以
七 吾 々 に迫 る。 一 方 に は それ が 極 め て 自然 な 人情 の獲 展 を示 す とい う こと, 他 方
に は それ が 明 か に 實 謹 性 を 有 た な い とい うこ とで あ る。 これ ら矛 盾 撞 着 す る二 黙
は人 間 を して そ の有 り方 に 封 す る反 省 に 導 か ず に は 措 か な い で あ ろ う。印 ち, Br.
の生 の完 成 は, 人 間 が 死 後 の 不 死 つ ま りは永 遠 の生 持 績 を希 ふ もの で あ る こと を
無 條 件 の大 前 提 とす る, そ の よ うな 人 間 の 考 え た, そ の よ うな 人 間 に とつ て の生
の完 成 で あ るが, この よ うな前 提 そ の もの の轄 換 の可 能 性 に よつ て 當 然 人 間完 成
の 内容 が攣 化 す る筈 で あ る か らで あ る。 然 し この こ とは 意 圖 離 に 轄換 し得 る性 質
の もの で は な い。 人 間 の意 圖 そ の ものが は や 無 意識 の 裡
從 來 の 方 向 の支 配 を冤
れ な い か らで あ る。 この や うな從 來 の人 間 の 有 り方 とは 全 然 異 な る人 間 の有 り方
が あ るの で は な い か。 この問 題 に 封 す る重 要 な 示 唆 を 與 え る もの と し て, Br. 思
想 の観 黙 か あ 更 め て 繹 迦 晩 年 の 《ayu-sahkharo
ossato》(Maha-parinibbana-
suttanta3. 37, DN vol.II,p. 114)な る表 現 が注 目され る。 この詞 の解 繹 とそ の 前後
の文 脈 に就 て は此 所 に 詳 論 す る鯨 裕 を持 た な い が,上 來 見 た如 くayusもsams.√krもBr.
に は 周知 の重 要 な語 で あ る。已 にatma-sa血skrtiと
五 慈 中 の"sahkhara"が
い う詞 もあ つ た。
繹尊 の 濁創 で あ る に して も,そ れ がatman乃
至anatman
と關 連 す る限 りに於 ては 理 解 の 方 途 を 見 出す こ とが 出來 る よ うに思 わ れ る。 然 し
ayu-sahkharaと
い う合 成 語 の成 立 と そ のossaoと
す べ き含蓄 を感 ぜ ざ る を得 ない と ころ で あ る。
-310-
い う表 現 に は, 更 め て 驚 嘆