「連帯」への痛み PBハムにまつわるもう一つの物語 怒りを含んだ「報告

この文書は、パルシステム連合会発行の著書「パルシステム産直物語」に掲載された内
容を一部編集して掲載しています。
著作権の関係で、個々にお読みになることは可能ですが、転送・転記等はしないでくだ
さい。
「連帯」への痛み
PBハムにまつわるもう一つの物語
※PB
プライベートブランド (private brand) とは、小売店・卸売業者が企画し、独
自のブランド(商標)で販売する商品です。パルシステムブランドになります。
1970年代後半、日本の流通業界は大変貌を遂げた。
それまで小売業の中心だった個人商店に代わって、大量仕入れ、大量販売、低価格路線
を謳う、ダイエー・西友・イトーヨーカー堂といった量販店が小売の主流となる。
当時、全国に店舗展開していた「日生協(日本生活協同組合連合会)」は、単協(単位生
協)ごとの小さな生協を1県1単協にまとめる(都道府県下にある全生協を一つの生協に
合併する)という内容を盛り込んだ「日生協第一次中期計画」を発表する。
一方、パルシステムの前身となった各地の生協群は、最大規模の「あけぼの生協」でも
共同購入組合員数6400人、年間供給高4億円程度。
日生協から見れば吹けば飛ぶような弱小生協ばかりだった。
「はじかれるか、呑み込まれるか」。どちらも茨の道。ならば、と選んだのが、小さな地
域生協による「連帯」という答えだった。
1977年1月23日、本郷の旅館に首都圏の16生協が結集し、「首都圏生活協同組合
事業連絡会議(事業連)
」が産声を上げた。
「連帯」は、彼らにとって生き残りをかけた究極の選択であったが、また同時に、その後
も長い時期をかけて大きな痛みを伴いながら成し遂げられた難事業でもあった。
怒りを含んだ「報告」の意味するものは?
「最後に、連合会理事会に対して、次のことを要望します。
長い連帯事業の歴史のなかで、組合員の出資金を預かり、生協経営に責任のある連合会理
事会が、加工肉問題で、事、ここに至るまで、決断されてこなかった責任を明確にしてく
ださい。そのために、組合員の商品委員会に重い課題を課すことになりました。組合員の
産直への思いと今回の判断をすることの痛みを理解していただけるでしょうか。理事会の
『今までの連帯のあり方もふくめた総括』が出されること、それが、首都圏コープの新し
い産直運動の一歩になると考えます」
厳しい筆致で綴られたこの一文は、1991年2月、当時Eコープ理事で、商品委員会
委員長を務めていた小山邦子の手による「委員会報告」だ。
この報告は、なぜこのように苦渋に満ちた文面になっているのか。そこに「怒り」さえ感
じさせるのはなぜなのか。この報告の意味を理解するためにも、時代をさかのぼり、各生
協が「連帯」に向かう時期の、そのプロセスにおける物語をたぐってみよう。
「ゆるやかな連帯」から「グループ産直」の強化へ
「流通業界のチェーン化と日生協の単協再編成に対抗するために、われわれも事業連合
をつくろう!」そんな呼びかけで首都圏生活協同組合事業連絡会(以下、事業連)が発足
したのは1977年のこと。その運営には、各生協のトップが集まる「単協代表者会議」
があたっていた。
しかし発足当初の事業連合はあくまでも業務の効率化やコスト削減を目的とした機構で
あり、会員生協は任意で自らの事業にとって必要な商品のみを共同で仕入れるという「ゆ
るやかな連帯」がイメージされていた。
事業連発足と同時に「北海道牛乳(よつ葉)」、「信州ハム」、「せいきょう醤油(宮醤油。
結城醤油)
」など共同商品の開発が着手されたものの、その一方で各生協では、それぞれの
独自商品の開発や独自産地との産直も並行して進めていたのである。
しかし1980年代に入り、情勢が急激に変化した。
生協にとって大きかったのは、女性の社会進出が進み、「主婦が昼間家にいる」ことが常
識でなくなってきたことだった。それまで、注文書の回覧、集計、集金などの仕事は組合
員が当番で担い、単品ごとに毎日のように届く商品の仕分けも、その都度組合員がこなし
ていた。しかし組合員の在宅率が低下し、こうした従来の共同購入のしくみ自体が成り立
ちにくい状況になったのだ。
日生協傘化の拠点生協では、第一次中期計画に沿った各県ごとの組織合併の結果、この
時期2けた台の急成長を更新し続けていたが、その躍進を後押ししたのが共同購入システ
ム近代化だった。現在も多くの生協で使用されている共同購入の標準システム― 個人別注
文書、光学読取機と連動したコンピューターシステム(OCR)
、班別セットの機械化、週
1回配送、個人別請求と、銀行の個人口座からの代引き引き落としによる集金業務の自動
化など― は、当番組合員の負担を劇的に減らしたのである。
ところが一方の事業連側は、加盟生協のリーダーの多くが事業経営に疎かったことも災
いし、業務の近代化は思うように進まなかった。ほとんどの単協が相変わらず「在宅主婦」
に依存した手づくり的な供給体制に甘んじ、供給高や組合員の減少から赤字経営が続いて
いた。
「このままではみんなつぶれてしまう……」という重苦しい空気が事業連全体を覆って
いた。
「経営危機を脱するためには、何をすべきか」「われわれは何のために『連帯』を選
んだのか」― 先の見通しの立たない不安感を払拭しようと、事業連は、原点に戻り、連帯
のあり方、運営組織のあり方、商品政策の基調などについて、日夜論議を繰り返した。
単協のトップは、その多くが市民運動や労働運動、学生運動などの出身者であり、いず
れも強固な理念や方針の持ち主だったが、それゆえ、事業連へ結集しようという意識や他
から学ぶという姿勢に欠けている傾向があった。
妥協点を見いだすことは容易ではなかった。いくら論議しても折り合いがつかず、途中
で話が決裂しかけたこともある。
しかしその一方で、誰の脳裏にも「ここで連帯できなければ共倒れだ」との共通の危機
意識があり、それがギリギリのところで分裂を防ぐ歯止めとなった。激しく意見を戦わせ
るなか、ある時はそれまでの自己を否定し、ある時は自己を犠牲にするという痛みを味わ
いながら、それぞれがなんとか歩み寄りの方向を模索し、いわば「痛み分け」ともいえる
形で事業連への結集を高めていったのである。
こうして、任意の商品開発・共同仕入れ機構として発足した事業連は、次第に「共同事
業」の部分に比重をシフト。そしてそれに伴い、開発商品を拡大し、加盟生協との取引金
額も伸長、事業高は増加していった。
やがてスーパーや他の拠点生協との差別化をはかるため「原型に近い農畜産物の開発と
供給」という理念が確認され、単協ごとに行っていた産直は、
「事業連グループの産直事業」
として統一されていく。
理想の養豚、理想のハムを求めて―
単協ごとに行われていた産直事業の舵を、グループ統一事業の方向へと大きく旋回させ
るきっかけとなったのが、1983年に事業連として初めて自前で設立したハム工場(㈱
事業連ハムの後、㈱首都圏コープに統合、現㈱パル・ミート)の存在だった。
事業連が自前のハム工場をつくろうと決意したのは、「原型に近い農畜産物」という自分
たちの理念に基づくハムや養豚を追求した結果でもあった。「たぶんに理念先行だったが
…」と前置きしながらも、当時専務だった川西弘泰さんはその頃の熱い思いをこう述懐す
る。
「私たちが考えていたのは理想の養豚は、豚糞を田んぼや畑、果樹に還元する循環型の
有畜複合農業だった。そんな昔ながらの庭先養豚の食肉基地を建設し、そこの産直肉を使
った無添加ハムをつくるというのが私たちの『夢』だった」
そんな夢が実現できる産地を探し、川西さんは関東周辺のありとあらゆる所を歩き回っ
た。しかしすでに関東圏では企業養豚が主流であり、農家養豚は福島以北でないと残って
いないことがわかる。山形を養豚産地として設定するまでには3年ほどの年月を要したが、
有畜複合農業をめざした結果が山形だったのだ。
まだ真っ赤なウインナーが全盛だった当時、事業連では当初から、日本でも有数の無添
加製造技術を誇る長野県・信州ハムの商品を供給していた。それはそれで一定の評価を得
ていたのだが、信州ハムの商品に使われている豚肉がすべてカナダ産の輸入肉であること
に事業連はこだわった。
「いくら無添加でも、原料が輸入肉では本当の意味での安全性が確認できないと考え、
われわれが提携している国内の豚肉で生産してくれないかと信州ハムに依頼した。しかし、
どうしても受け入れてもらえず、つくってもらえないなら、自分たちでつくるしかないと
なったのだ」
山形で生産した肉を山形でハムやソーセージにすれば、そのハムを通して、事業連と組
合員と生産者とがつながることができる。事業連にとってハムは、「自分たちが理想とする
素材を使って理想とする食品をつくる」という、「理想の産直」そのものをイメージさせる
象徴的商品だったのである。
「食品業界は闇の中の世界、素人が踏み込んでも成功しないからやめたほうがいい」
経営面での理念も含め、工場建設には加盟生協からも猛反対の声が上がった。が、大激
論の末「なかば強引に」
、事業連理事会は、全国の生協のなかでも初の自前のハム工場を立
ち上げたのである。
汗と涙の結晶。念願のPBハムが誕生!
反対者が懸念したように、事業連ハムの工場は、建物完成後も土地の引渡しをめぐるト
ラブルにより稼働が遅れるなど、「まさに地獄の底からの」(川西さん)出発だった。加え
て、製造する商品自体もまた、組合員が満足できるような味や品質が実現するまでには長
い時間を必要とした。
「とにかく、苦情が多くてたいへんだったよ」
。事業連が初めて独自商品のハム・ソーセ
ージを開発した頃、組合員理事として商品開発に関わっていたEさんは苦笑する。
当時、市販のハム・ソーセージには、結着剤、保存料、発色剤、着色料などの様々な添
加物が使用されていた。なかでも必要不可欠とされていたのが、肉の結着性を高めるリン
酸塩で、リン酸塩を使えば、質の悪い肉からもおいしいものができるとさえ言われていた。
しかし、事業連が目指したのは、加工品といえども「原型に近い商品」
。産直豚肉と調味
料程度の原料しか使わないハム・ソーセージだった。
「リン酸塩抜きでハムをつくるなんて無謀なことは、プロなら考えつかない。素人集団
だったからこそ発想できた」と、当時製造に携わった大泉幸雄(現㈱パル・ミート山形事
業所所長)は言う。
事業連では、添加物を抜くだけでなく、できるだけ古典的なハム工場をつくろうと「ホ
テルオークラに入っているのと同じタイプ」(元・㈱事業連ハム社長、黒澤保寿さん)レン
ガを積み上げた直火型スモークハウスを導入し、山形名産のさくらんぼの木のチップを使
うなど細部までこだわった。
日夜奮闘してでき上がった試作第1号。外国人を含め専門家などからは「プロ顔負けの
出来栄え」と高い評価を受け、これに気をよくして勇んで出荷したのだが…。
「生肉みたいで全然ハムらしくない」「香辛料が強すぎて子どもは食べられない」「チッ
プのにおいが臭くて食べられない」
「切るとバラバラになる」……。組合員からはクレーム
が殺到した。
「家族に無理やり食べさせたら、夫に『命が縮まってもいいから、市販のを食
べさせてくれ』と言われ、とてもショックだった」と、当時組合員理事の一人は振り返る。
一時的ではあったが、事業連のハムの供給高は、信州ハムが製造していた頃に比べ4分
の1にまで落ち込んだ。
組合員との窓口になり、
「正直言えば、苦情ばかりでつらかった」とEさん。そんなEさ
んたちを動かしたのは、
「安心して口にできるハムを手に入れたい」「つくり手を支えたい」
という一途な思いだけだった。
相当の組合員理事たちは、クレームを製造現場に伝え改善を求めると同時に、組合員一
人ひとりにときには電話をかけ、ときには自宅を訪ね、「添加物を使わない」ことの意味を
熱心に説いて回った。班会(当時個人宅配はなく3人以上のグループに届け、商品を分け
合っていた。そのグループを班と呼んだ)や地区会(組合員がつくる委員会)で、学習や
試食を繰り返しもった。
「何度も工場を視察して製造現場の方たちが本当に努力していいものをつくろうとがん
ばっていることがわかっていたので、何とか組合員にも買い支えてもらいたいと訴えまし
た」
(Eさん)
Eさんたちの熱心な応援に応えようと、工場でも日夜、改善が続けられた。
「クレームを分析しては乾燥や薫煙の時間や温度を調節したり、調味料の配合を変えて
みたり…。組合員も職員も決してあきらめず支持し続けてくれたことが私たちの励みでし
た」
(大泉)
事業連念願のPBハムの誕生。それはまさに、組合員に喜ばれるものをつくろうと真摯
に取り組んだ製造現場の努力と、その苦労を理解し、普及のために東奔西走した組合員理
事との汗と涙の結晶といっても過言ではない。
「クレームの嵐だった」最初の登場からいくども改善を繰り返しながら、約25年。「命
が縮まってもいいか他のハムを・・・」とまで家族に言わせたその味も、多くの組合員か
ら「これでなければ満足できない」といった高い評価を得るほどまで向上している。
PBハムにまつわる産地統一の物語
数あるパルシステムのPB商品のなかでもロングセラーの位置を不動のものにしている
一連の豚肉加工品。しかしPBハムをめぐっては、じつは、商品開発とは別の、もう一つ
の物語があることはあまり知られていない。
前述したように、1980年代に入り、事業連は「連帯」に向けて歩みを本格的に、ま
た実質的に進めようとしていた。「連帯」とは、シンプルに言えば、「注文書を統一する」
こと。個々の生協がそれぞれで行っていた受注から仕入れ、配送などの業務を集約し、一
本化することである。
1989年に発足した「首都圏コープ協議会」のなかには、商品を検討・決定し、利用
普及をすすめる組合員組織「協議会商品委員会(以下っ商品委員会)」が置かれたが、とく
に、1990年2月に法人化が認可され、「首都圏コープ事業連合」(2005年にパルシ
ステム生活協同組合連合会へと改称。以下、パルシステム)として正式な生協法人の活動
をスタートさせてからは、16生協の商品を統一させ、注文書を一つにまとめることが急
がれた。
それぞれの生協にそれぞれの考え方があり、商品統一は容易な作業ではなかった。協議
会商品委員会の初代委員長を務めた小山は、1990年11月の委員会のまとめに次のよ
うな文章を残している。
「共同するお互いの生協の歴史を認め合いましょう。『一緒にやる』ためには負うリスト
とメリットを大きな視点で考えましょう。『一緒にやる』という入口に共に立ち、改善する
取り組みを、組合員と職員(商品)と共同して、今日から始めましょう。共に手を組み、
より大きな運動と商品をつくる力を持とうと連合をつくったのだから……」
ABパック(キャロッとさんの容器など)の導入や化学調味料使用の是非、食用油の搾
油法……どの課題についても大変な討議が必要だったが、なかでも最大の難関と目されて
いたのが「豚肉の産地統一」だった。
当時、パルシステムの加盟生協では、
「海老名畜産(㈲中津ミートでハム・ソーセージに
加工)
」(あけぼの、江戸川、調布、西多摩、けぽんく等の生協)、「山形コープ豚(㈱事業
連ハムで・ソーセージに加工)」
(わかば、さきたま、柏市民、下総、花見川、たつみ、小
金井、北多摩など)
、
「サンシンファーム(埼玉・入間にあった黒豚産地・精肉のみ)」(タ
マ消費生協)の3つの産地(加工工場)を抱えていた。
自前の㈱首都圏コープ(現・㈱パル・ミート)の商品利用が思うように伸びず、工場が
生産可能量を半分しか稼働していない現実を抱えていたパルシステムでは、精肉に関して
はその3産地と取引を続行しながらも、ハム、ウインナーなどの加工品については原料肉
の産地も加工工場も1つに絞ろうと考えていた。
関係者の胸を苦しめたジレンマ
しかし、各生協には、自分たちがゼロから関係を築いてきた産地や加工工場に対する特
別な思い入れがある。それを突然、他の産地から届く他の商品に変えることへの組合員の
強い抵抗が予測された。
たとえば、あけぼの生協は、自家配合飼料による養豚に先駆的に取り組んでいた海老名
畜産とすでに1981年から産直協議会をつくり、その関連会社である㈲中津ミートから
無添加ハム・ソーセージを供給していた。
「中津ミートさんと協力して、苦労の末にようやく自分たちの満足できる味に仕上げた
経緯がありますから、ハム・ソーセージへの愛着はひとしおでした」と、元あけぼの生協
理事Bさんは語る。
組合員から預かった出資金で建てた自前の工場を充分生かしきれていない焦燥感。加盟
生協と産地との関係。組合員にとってのなじみの味……。1986年には、あけぼの、た
つみ、江戸川生協で、海老名、山形、それぞれの産地から商品を相互供給し、お互いの商
品を認め合い、歩み寄ろうとする苦肉の策がとられたこともあったが……。海老名か山形
か、どっちだろうなんて、届くまでわからない状況で、組合員も混乱していましたね」(B
さん)
共同事業を進めないことには、
「連帯」の意味がない。共同事業としてのメリットを生か
しきるためにも「自前の工場をフル稼働させたい」というのはパルシステムとしての自然
な結論だったが、商品開発や交流を通じて長年築き上げた「顔の見える関係」やそれを支
えてきた生産者に対して生協としてどう責任をとるのか、培ってきた人間関係はどうなっ
てしまうのか……。関係者が皆、ジレンマに苦しむなかで迎えたのが、冒頭に「報告」を
記した1991年2月4日の「商品委員会」だった。
賛否は小差。組合員苦渋の決断
事業連合側からは、産地として山形、海老名、入間黒豚を「共通の産地」として残すも
のの、加工に関しては山形ハム工場に1本化する、という産地政策が提案されていた。こ
の間の調査結果で、海老名畜産と入間の黒豚が将来的に供給の増量を見込めない点や衛生
上の問題が浮き彫りにされていたというのがその表面的な理由だったが、その裏には「加
工工場を統一しないことには事業連ハムの経営が立ち行かない」という切羽詰まった事情
もあったのだ。
午前10時から始まった委員会は予定の4時を大幅に超えて午後6時半までもつれこん
だ。窓の外はすでに暗く、いつもなら出席者の多くは台所に立っているような時間帯だっ
たが、どのメンバーも長年交流してきた産地や生産者を守りたいとの一心で席を立とうと
はしなかった。
論議に議論を重ねたが、意見は真っ二つに割れたまま合意に至らない。
ここで議長の小山は、苦渋の決断をする。
小山は委員一人ずつに、賛成か反対かの意見表明を求めた。
出席者のなかには、Eコープ(あけぼの、たつみ、江戸川の三生協が1988年に合併
して発足)の理事長に就任したばかりのFさんもいた。前理事長であけぼの生協出身のG
さんが海老名畜産との産直契約を懸命に築いてきた中心人物の一人だっただけに、自分の
考えだけでは判断するのはむずかしいと感じたFさんは、事前にGさんに相談した。
結局Gさんのアドバイスを受けていたFさんは、山形工場を黒字経営に転換させること、
組合員の満足する商品をつくること、などの条件をつけてハム・ソーセージの産地整理に
賛成の表明をしたのである。
この経緯を知る組合員理事の一人は、
「長年にわたり培ってきた海老名畜産との関係にどれだけ強い思いがあったでしょう。
それにも関わらず、自らの実績や出身生協単独の満足だけに固執せず、パルシステム全体
の利益、組合員全体の利益を優先させたGさんの決断を立派に思いました」と述壊する。
「最終的に意見表明は小差でした。この規模の生協グループで加工肉工場を二つは持て
ない、事業連の加盟生協が共同出資して山形に立ち上げた自前の㈱首都圏コープに結集す
る、とまとめました。誰もがつらかったと思います。前を見ることができませんでした」
(小
山)
小山はこの商品委員会に参加した組合員たちの「心の痛み」をいまでも忘れていない。
生協発足の頃の、組合員も職員もほとんど同じ意識で運動や事業運営に取り組んでいた
時代から、規模も地域も拡大し、組織として全体を判断する機能と意識が職員に強く求め
られる時代へと移行するなか、完全に意思統一がなされていなかった現場にはまだ混乱が
残っていた。
「産地や取引先とどういう関係をつくっていくのか、どうつながっていくのかという先
の見通しを立てるのは経営層の役割だったはず。最後まで豚肉の産地統一がもめたのは、
経営層がその課題を保留のまま残しておいたことが原因だった。結果的に、組合員の意思
によって決定した、と責任のすり替えのようなことが起きてしまったのは残念だった」
こうした憤りが、冒頭の報告の文面ににじみ出ているのである。
「違いを受け入れる」パルシステム風土
パルシステムのハムがPBハムたる所以。それは。これまで見てきたように、豚肉の産
直産地から製造現場まで思いを一つにつくり上げてきた「商品」としての価値と、パルシ
ステムが連合体として共同していくための大きな、そして痛みを伴う重い一歩がその誕生
の歴史に刻まれていることにある。
「産地統一について課題の洗い出しや問題提起ではなく『結論』を組合員に求めたのは
今でも問題だったと思うが、この日の商品員会で一緒に決めたことの重みを組合員に真摯
に受け止め、その後、全体での産地交流やPBハムの利用普及に力を注いだ」と小山。さ
らに、ハム・ソーセージの原料産地として「切られる」格好になった海老名畜産に対して
も、多くの組合員が関わって、商品担当の職員と共に味付け肉などの半調理品・惣菜の開
発に取り組んだ。
いま振り返っても、
「連帯」は、経営的な面だけでなく、組合員の「暮らし」にとっても
さまざまなメリットをもたらした、と小山は言う。
「産地・工場統一によってハム・ソーセージの価格は一割ぐらい下がったし、規格もよ
り利用しやすいものに変わった。連帯によって注文や配送のしくみが整理されたために生
協を続けることができた組合員も多いと思う」
ときには「大局」を見て変化を選択せざるを得ない場合がある。言葉にすればやさしい
が、実際、そこに思い入れがあればあるほど、変化を受け入れにくいのが人間だ。しかし、
どんなに立派は信念も高邁(こうまい)な理想も、ひとたびそれにとらわれ過ぎてしまう
と、柔軟性を失い、他(違い)を排除する負のエネルギーになってしまうことを私たちは
肝に銘じたい。
異質なもの同士が集まってきたパルシステムには、まず議論ありきという風土があり、
ていねいに話し合いを重ねて合意をつくり上げてきた歴史がある。異質なものと一緒に何
かを始めるときに軋轢(あつれき・仲が悪くなること)を避けるためにはどちらかが我慢す
るしかないが、それでは関係は続かない。
違う意見を認め合う、険悪な関係から次の話し合いができる関係に変えていく……そう
した風土こそがパルシステムらしさ、パルシステムの財産ではないだろうか。