フィリピン学校ストライキ論: 1930 年のマニラ高校ストライキを中心に

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フィリピン学校ストライキ論 : 1930年のマニラ高校スト
ライキを中心に
岡田, 泰平
東南アジア―歴史と文化―. 40, p. 27-53
2011-05-30
http://hdl.handle.net/10297/7773
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東南ア ジア ー歴史 と文化 一 NQ 40,2011
抜刷
フィ リピン学校 ス トライキ論
1930年 のマニ ラ高校ス トライキを中心 に
岡田 泰平
フィ リピン学校 ス トライ キ論
一-1930年 のマニラ高校ス トライキを中心に一―
岡田 泰平
キーワー ド
学校 ス トライ キ,植 民地教育 ,人 種差別 ,ア メ リカ人教員 ,1930年 代
は
じ
め
に
フィリピンの公式 の歴史観 において も,大 衆的な歴史観 において も,ア メ リカ植民
地期 の公立学校教育
(以 下 「植民地教育Jと
記述 )は ,ア メ リカのフイ リピンに対す
る「恩恵」 として位置づ けられて きた (1)。 この「恩恵」 の論理で は,ア メ リカ人教
員が もた らす優れた知識や価値観 を, フイリピン人が好 んで学 んだ ことが強調 され る。
本稿 で は,1930年 のマニ ラの「学校 ス トライキ」 (以 下 「ス トライ キ」「学校 ス ト」
「ス ト」 とも記述。煩雑 さを避 けるために 「 」 は取 り外す)を 取 り上 げ,一 時的 に
せ よ, この論理 に対す る異議 申立がなされた ことを論 じてい く。 とくに, この学校 ス
トライキにも関わ らず,な ぜ 「恩恵」の論理が保 たれ続 けたのか を明 らか に した い。
そのための手続 きとして,学 校 ス トライキが,民 族や国家 のための輝か しい犠牲 を生
み出 したわけではな く,む しろ,小 さな屈辱感 を具現 してい ることに注 目したい。
第一 に1930年 の学校 ス トライキに至 る過程 として,1930年 以前 のアメ リカ植民地期
において生 じた学校 ス トライキについて素描す る(2)。 第二 には,1930年 のマニ ラで
,
主 に高校 生 によって行われたス トライキを詳述する(3)。
この事件 に関 しては,新 聞・
雑誌資料が充実 して い るし,内 部資料 も大手 した。 そ して,最 後 に第二の論点 として
,
植民地 における学校 ス トライキ とい う闘争の限界 と,そ の限界の中で現出 した,歴 史
的意義 を論 じることにしたい。
この学校 ス トライキは,す でにい くつかの先行研究で触れ られてい る。主 として
後 にサ クダル運動 を興すベニ グノ・ ラモス (B釦蛇no RmOs)が ,民 族運動へ傾倒 し
,
て い くきつか け とな った事件 として,位 置 づ けて い る [Goodman 1967 135 13Q
東南アジア ー 歴史と文化 一 M40,2011
Constanuno 1975: 373: Slrtevant 1976: 218: Teranli 1988: 132-133; 1992: 33-34;
鈴木 1986:D■ i― 苅K]。 また , レナ ト・ コンス タ ンテ ィー ノ (Renato Co¨ 働面 nO)の
評伝や植 民地期 フィ リピンの アメ リカ人社会 につ いての記録 におい て も触れ られて い
る [Oieneo 200■ 11-la C71eeck 1977 172]。 さ らには,フ ィ リ ピ ンの 著 名 な歴 史
家 ア ゴ ンシ リ ョ lTeodorO A Agondlo)は
,詩 人 デ・ ヘ ス ー ス
lJOse C deJeSus)
の 評 伝 や 詩 の 注 釈 に お い て も,こ の 学 校 ス トライ キ に 言 及 して い る [Agondlo
197■
179-18Q DeJesuS 199'186]。
しか し,こ れ らの研 究 で は,こ の 事 件 の 内実
につ い て 踏 み込 んだ議論 が 展 開 されていない 。本 稿 において , この 点 につ いて 詳述 す
る研究史上 の意義 は大 きい といえ よ う。
1930年 以前の学校 ス トライキ
アメ リカ植 民地期 の公立学校教育 を知 る上での重要な資料 として,『 フィリピン委
員会報告
(閥
Jと 「教育局長報告 14RDEl』 が あ る。教育局 は公立学校 を統括 し
て い た 部 局 で あ る。 1908年 の「教 育 局 長 報 告」で は,「 学 校 ス トライ キ (school
mtes)」 を次の ように説明 して い る。「教員 によ り感情 を害 され ると,生 徒 は,大 挙
して頻繁 に学校 を出て行 く。 ……教員 の名誉 と学校 にお ける望 ましい秩序 を守 ること
を考 えれば, この ような態度 を許容で きるはず も,考 慮 した り認知 した りす る余地 も
ない」, と。 さらに,ス トに参加 した生徒 (4)は ,公 教育制度 か ら除外 され,事 態 の
収拾 が な され な けれ ば,学 校 が 閉鎖 され た こ とを挙 げて い る
[の E(8・ )1908
2Q盟 ℃ (91h)1903814]。 1911年 の報告書 に も学校 ス トライキに関す る短 い記述があ
る。 それによると,学 校 ス トライキは許 され ぎる行為であ り,そ の ような方法 によ り
生徒 の訴 えが受 け入れ られ る こ とはない, とい う し⑭ E(lP)191■
20]。
また
,
1913年 の報告書で は,1912年 度が史上最 も多 く学校 ス トライキが発生 した年であつた
とし,南 イ ロ コス 州 ピガ ン,同 州 カ ン ドン (Candon),マ ウ ン テ ン州 タ グデ ィ ン
lTagudh),プ ラカン州立高校 (5),カ マ リネス州立高校,ア ルバ イ州 タバ コ lTabacO)
のセ ン トラル学校
(central schO。
1)と 高学年学校
rmediate schOOl)を
“
トライキが起きた場所 として列挙している L⑭E(13・
“ )1913:1415](6)。
,学 校 ス
ただし
これ以降は,1930年 の事件を含め,『 教育局長報告』にも『フィリピン委員会報告』
にも学校ストライキの記述はない。
,
他方,学 校 ス トライキヘ の対応 を示 してい る公式文書 として,教 育局発行 の『職員
手帳 (馴 ιBD』 があ る。 この手帳 は1911年 ,1917年 ,1927年 と3回 発行 されてお り
,
28
フィリピン学校ストライキ論
アメ リカ人教員のみな らず,フ ィリピン人教員 も含 めた公立学校制度 におけるすべ て
の教員が従 うべ き規則 を示 してい る。 まず,1911年 版 についてみる と,学 校 ス トに参
加 してい る生徒 は, もはや生徒 とは認 め られない とす る。学校 を出て行 きス トに参加
した生徒 は,そ の年度中には学校 に迎 え入れ られ る ことはな く,ス トを主導 した生徒
は 「公立学校 への通学 に値 しない人物」 とされ ,教 育局長 の命 によ り退学処分が下 さ
れ る [9燿 E191■
99]。 また,1917年 版,1927年 版 による と,学 校 ス トライキ参加
い
者 は学 籍 を失 ,教 育局 長 の 認 可 な しに は復 学 が 許 され な い [馴 凝E1917202■ 192747-48]。 その上で,「 職員手帳』 は,学 校 ス トライキを行 うので はな く,要
望が あれ ば,教 育行政 にお け る上位者 に対 して上訴 す る こ とを生徒 に求 めて い る
[9唆E191■ 10Q191719192745]。 すなわち,学 校 の外 に出て,学 校 内の問題
を示威行動 によって解決 しようとす ることは,生 徒 の権利で はな く,処 罰 の対象で し
かなかったのである。
これ らの公式文書 に記述 された学校 ス トライキの一部 は,断 片的なが らも,新 聞・
雑誌資料 に よ り裏づ けられ る。 とくに,1912年 7月 か ら8月 にか けては,上 述 の公 式
文書で示 されたカン ドン,マ ロロス, ビガ ンでの学校 ス トライキについての記事が残
さ れ て い る [PFP 1912/8/24:14;Dθ %1912/7/2:11912/8/16:1:α 1912/7/3:
10,1912/7/2017,1912/8/1611]。
さらには,マ ロロスの学校 ス トライキに関 して は
,
教育局 内部 の資料が残 されてい る(7)。
これらの資料から,1930年 以前にも学校ス トライキが問題 となっていたことは確認
できよう。 しか し,資 料的制約か ら, この時期 において,何 を根拠に生徒が学校 ス ト
ライキとい う方法 に訴えたのかは判然 としない。それにも関わらず,公 式文書や新聞
の社説 は,次 のように学校ス トライキの原因について論 じてい る。すなわち,1913年
の報告書では,「 重要な点 として,常 に学校 ス トライキは,隠 れた動機を持つ政治家
の介入 によるものであるとい うことだ」 と説明 している L価 のE(1炒 )191315]。 他
方,新 聞の社説は生徒の問題を指摘 し,学 校ス トライキは「未熟な子供」の「精神」
か ら生 じるとする [041912/8/104]。 また,別 の社説 によると,通 常 のス トライ
キは,対 峙 している労使が同意に至る上で,時 には必要な過程であるが,学 校 ス トラ
イキは,そ のような肯定的な側面を持たない。なぜな らば,教 育局 に教育 に関す る決
定権があ り,教 員 は 「規律 (dis¨ Lne)Jを 維持 し,生 徒 は「規律」に従 うべ きだか
らである, と レIP 1912/8/2414]。
これ らの見解 によると,学 校 ス トライキが起きる原因は,外 部者 による不当な介入
とそれに呼応 して しまう生徒 の未熟さにある。 さらには,学 校 における「規律」の欠
東南アジア ー 歴史と文化 一
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如 こそが問題 で あ る とされて い る。 この ような見解 は,以 下 で述 べ る1930年 のマ ニ ラ
学校 ス トライキに も共通 してい る。 しか し, これ らの見解 で は,そ もそ もなぜ 生徒 が
示威行動 を行 うほ どに,感 情 を害 して い るのかが 不 明で あ る。 そ こで , よ り詳細 に内
実 を明 らか にで き る1930年 の事例 を論 じるこ とによ り,学 校 ス トライ キの よ り根本 的
な理 由を考察 した い 。 もっ とも,1930年 の事例 に み られ る理 由 力池 の事例 に も適用 で
きるのか につ いて は,さ らな る調査が必 要 で あ る。 これ につ い て は,今後 の課題 とし
たい 。
Ⅱ 1930年 のマニ ラ高校 ス トライキ
1930年 のマニ ラの学校 ス トライキは,マ ニ ラの中心部 で起 きた (図
1)。
事件 の経
過か らは以下の 4時 期 に分 けることがで きる。第 1期 はマニ ラ北高 校のアメ リカ人教
師ブル ミット (MabelE Bmm血 0が フィリピン人に対する差別発言を行 い,そ れ
に対 して 1回 目の学校 ス トライキが起 きた時期,第 2期 は教育局長 ビュー リー
(LutherB Bewleylが 下 した裁定に対する対応模索期間,第 3期 は 4名 の退学処分 に
対する2回 目の学校ス トライキが発生 した時期,第 4期 は学校閉鎖 に伴 い学校ス トラ
イキが瓦解 した時期,で ある。
ブルミットの足跡 は以下の通 りである。1890年 にアメリカ合衆国のインディアナ州
に生 まれ,同 州バ ルパ ライゾ (Valp出 おo)で 小学校から師範学校 までの教育 を受け
た。その後,1918年 までは小学校や高校で教師 として勤めてお り,1922年 には退役軍
人事務所で教鞭をとった(3)。 192年 5月 8日 付の渡航記録 には,シ ア トル発 マニ ラ
着の太平洋横断船 に乗 ったことが示されている。 鴫
s」
とい う称号が付されてお り
“ ,パ ンパ ンガ高校 に配属 とな
彼女が独身であることが伺われる(9)。 フイリピンでは
り,そ の後,ヌ エバ 。エシーハ州の中央ルソン農業学校。。,カ ビテ州立高校で教え
,
ている。中央ル ソン農業学校では問題を起 こしてお り,カ ビテ州立高校 に異動 となっ
たが,問 題の内容は明らかになっていない。 そして,1929年 にマニ ラ北高校 に赴任 し
た EPH 1930/3/■
1
7]。
経過
0
第 1期 (1回 目のス トライキ, 2月 13日 ∼21日 )
事件 は1930年 2月 13日 (木 )の 午前中に生じる。マニ ラ北高校 4年 8組 において
,
ブル ミットカ満 辱的な発言をした。パ スクアル (Ranlon Pa― al)と い う名の生徒 を
311
フィリピン難
図
1
ス トライキ論
マニ ラ中心 部 と1930年 高校 ス トライ キ
出奥 1920 Sheet l,Bureau oflnsA・ A量い ,■ ■詢山mS Cenml Recomに m/21/18/51,
い tomDl■ dtt BIA Records,RC 350,N0
注 :19"牛 作成の地図に各所を記入し,略 図にした。それぞれの場所は同地図および文献から類輩 し
た [RosellstDck 1917:8口 4 CO.‐ nelo 1939/J0991 AgOm 197■ Dado 1990 41□ .マ ニラ北高
である。マエラ
校からマニラ南高校までの直線距離は,お よそ14mで ある。また,地 図の上0● ヒ
西高校は地図の1ヒ に位置しており,記 載されていない。
東南アジア ー 歴史と文化 ― M40,2011
中心 とし,そ の クラスの生徒 が彼 女 の授業 か ら退 出 した 。教室 を出た生徒 は,ブ ル ミ
ッ トの 解 雇 を求 め る 申 立 書 を作成 し,校 長 室 に行 き,校 長 の カ ー ル ソン (Mabel R
Carlson)│こ 面 会 した。生徒 に よれ ば,プ ル ミッ トは同校 に来 て 以来 ,フ ィ リ ピン人
に対 す る差別 発言 を繰 り返 して お り,こ の 日 には「 フィ リ ピン人 は詐欺 師 の 民族 (a
m“ n
of cheaters)だ J「 フ ィ リ ピン人 は 馬車 の 御 者 (coぬ cros)に しか む いて い な
い」 との発言 が あ つた。 しか し,カ ール ソンは生 徒 の要 求 を取 り上 げるので はな く
,
逆 に この 事態 が 新間 に漏れ るよ うな ことが あった ら, 4年 生全 員 を停学 に処 す と脅 し
た EPH 1930/2/141,1■ ι71930/2/1■ 1]oD。
翌 2月 14日 (金 )に は,マ ニ ラ督学官 (2)ポ ー ドナー (HarveyA Bordner)が , 自
らが行 つた調査 に基づ き,発 言 してい る。 ブル ミッ トに関 しては,差 別発言 はな く,
不適切 な発言があつた として もそれは比喩 として使 つた までである とし,生 徒 に関 し
ては,教 室 を出て校長室 に抗議 を しに行 つただ けであ り,学 校 ス トライキには当た ら
ない との見解 を示 した。 しか し,ポ ー ドナーの調査 はカールソン とブル ミッ トの証言
を基 に してお り,生 徒 へ の間 き取 りが不十分 だ った [PH 1930/2/1,1,2]。
結局
,
これ とは別 に,教 育局 による公 式調査が行われ る こととなった EP1 1930/2/181]。
一方,生 徒 は独 自に示威行動 と教育局 との交渉 を行 つてい く。 13日 午後 と14日 午前 に
授業 に出 た後 ,14日 午後 には,マ ニ ラ北 高校 の 3年 生 お よび 4年 生,約 1,000Aが 学
校 の前の教会 にて集会 を開いた。同集会 ではブル ミッ トの差別 発言や怠慢 さを告発 し
た EPH 1930/2/1,1,2]。
2月 18日
(火 )の 昼すぎか らは,マ ニ ラ北高佼か ら数 プロ ック離れた場所 にあるノ
ックス記念教会 輸 ∝ Mclnodal Church)│こ おいて,約 1,lll10人 を集 めた集会が開 か
れた。 マニ ラ北高校 3,
4年 生のほかには同校 1,2年 生や フィリピン大学法学部 の
学生が発言を した後,決 議 を読み上 げた。 この決議 は,中 傷発言 を行 う教員 を雇用 し
続 ける ことは憎悪 を蔓延 らせ ,平和 を乱す との理 由を述べ,ブ ル ミッ トの免職 を求め
た。 そ して,「 満場一致で採択」 された EP1 1930/2/191,12]。
2月 19日
(水 )に
は,生 徒 は公然 と授業 をポイ コッ トし,示 威行動 を始め る。正午
にはパ ス クアル を含 む生徒 の リー ダー は,マ ニ ラ市議会議長 トー レス は nt洒 oC
Torres)に 率 い られた数名のマニ ラ市議会議員団 とともに,教 育局長 ビュー リー を訪
れ た lPIr 1930/2/201,lλ 1930/2/2&1]。
しか し,交 渉 は ビュー リーが生徒 を叱
責 した ことに よ り決裂 した。同 日午後の ノックス記念教会 の集会で は,マ ニ ラ市長 の
アー ンシ ョウ
OOnぃ Earnshawlや マニ ラ市議会議長 トー レス,さ
らにはヘ レー ラ
(Mateo Herreralら の市議会議員が生徒 に次のように述べている。教育局長 ビュー リ
32
フィリピン学校ストライキ論
―が 同 日に手渡 された教育局調査会 の公 式報 告書 を検討 し,少 な くとも決 を下
断
すま
で の 間 は,教 室 に戻 るべ きで あ る, と。 しか し,3,lXXl人 の生 徒 力も プル ミッ トの 免
職や公正 な対応 を求 め るプラカ ー ドを掲 げ,ノ ックス 記念教 会 か らヽiの 南側 の広場
までデ モ行進 を行 った。市庁 に も入 り込 もうとしたが ,あ ま りの人数 に建物 の床が抜
けそうになったので中止 した。市庁前の広場ではヌエ ノ OOseT Nueno),サ ン トス
(Pascual santOs)ら の 市議会議員 の「煽 動 的な演説」に生 徒 が 耳 を傾 け た EPI
1930/2/201,12]。 生徒 の リーダーは,事 件の事実調査が行われてい る間は,ブ ル ミ
ットを一時的に体職 にするか,他 の部署 に出向させ ることを求めていた。それを受け
ヘ レー ラ,メ エ ノ,サ ン トス らの市議会議員は,ブ ル ミットがいな くなるよ であれ
う
ば,学 校 に戻 るべ きであ ると,生 徒 の リー ダー を説得 しよ う と試 みて い る L7
1930/2/1912]。 また, これを機に,マ ニ ラ市議会 内にヘ レー ラを座長 とした学校委
,
員会が設けられた「P11930/2/1912]。
2月 20日 (木 )に は,ノ ックス記念教会の広場には生徒のみならず生徒の親が集ま
り始める。同集会にはホセ・ リサール・カレッジやサン ト・ トマス大学の学生も参加
し,ま た,そ こではフィリピンの国歌 (mmnO Nagonal「lLplno)や 守咀雌Ⅲnes,My
Ph山 がnes"が 歌われた I171930/2/2012]。 同日に,教 育局長 ピュー リー はプル
ミットの代わ りの教員をマニ ラJヒ 高校 に派遣することを決定 した。 しかし,プ ルミッ
トを免職処分 にするか,他 の学区に異動するかについては明らかにしていない EPI
1930/2/2■
1,12]。
2月 21日 (金 )に は,教 育局長 ビュー リーの決定 どお り,プ ル ミットはマニ ラ北高
校 を離れ マニ ラ学区部付 となった EPH 1930/2/221,2]。
東されるかにみえた。
これによ り,事 態 は収
なお,事 実関係 として,ブ ル ミッ トが いかなる差別発言 を行 ったのか とい う点を考
察 しておきたい。 2月 14日 の集会 に関す る記事では,そ れ までにブル ミッ トが発 して
きた生徒 や フィ リピン人 に対す る侮蔑 が列挙 されてい る。生徒 に向 けて発せ られた
「野蛮人
(― ges)」
creatures)」
とい う発言や フィ リピン人全体 を「みすぼ らしい生 き物 (wi
と形容 したな ど,lo以 上の事例 を挙 げてお り,そ の記述 の多様性 と詳細
さか ら,こ の報道 に対する信憑性は高 い と考えられる EPH 1930/2/1,1,2]。 また
2月 19日 付の教育局 の調査報告書 によると,彼 女 は報道 された「詐欺師」「馬車 の御
者」などのい くつかの差別表現を使 ったことを認めているが,生 徒が申し立てたよう
,
な文脈やフィリピン人全体に対する蔑視 としては使っていない と主張 している。ただ
し,彼 女 も「あなた方,フ ィリピン人は … lYou,Fl雌 血os.… ¨)」 との表現を使っ
東南アジア ー 歴史と文化 一 NQ観
21111
た と認 めて い る(■ )。 これ らか ら,ブ ル ミッ トは意図的かつ常習的 に差別発言 を行 つ
て いた こと力
'伺
0)第 2期
われ るのである。
(裁 定 と対応 の模索,
2月 27日 ∼ 3月 2日 )
2月 27日 (木 )に なつて, ビユー リーが教育局 の報告 を基 に裁定 を下 した。 ブル ミ
ッ トの免職が決 まった。 また,パ ス クアル ら 4名 のマニ ラ北高校 の 4年 生 。っ に対 し
て は退学処分 が下 された [Z71930/2/271,lλ 〃 1930/2/2810]。 退学処分 は
「 2月 19日 お よび20日 において, フイリピン公立学校か ら生徒 をス トライキヘ と,煽
,
動,強 要,ま たは先導 した こと」 を根拠 とし,教 育局 の規則 に基 づいた決定だ つた。
この決定 を受 け,生 徒 の一部 は市庁 に駆 けつ け,市 長 アーンシ ョウ と面会 し,退 学処
分 に対す る差 し止めを依頼 した。市長 アー ンシ ョウは教 育局長 ビュー リー と公教育庁
長官代 理 。っ のアルベル ト lAldan歯 Alberう の決定 は最終 であ り覆 りようのない も
のであ り, しか も学校 ス トライキが起 きた ときに,彼 自身 は生徒 にス トを行 うべ きで
はない と諌 めた と言 い,教 育局長 の決定 に介入す ることはで きない と述べ た。その反
面,マ ニ ラ市議会議員 の一部 は,退 学処分 に対す る抗議 を行 つた。サ ン トスはピュー
リーが退学者 を出さない と言明 していた と述べ,ヌ エノは退学者 を出 した ことは 「報
復である」 と非難 した [″ 1930/2/2310]。
2月 28日 (金 )に はマニ ラ北高校 4年 生が,教 育局 に対 して,退 学処分 の撤 回を求
めた。19日 ,20日 の行動 は自発的 に行 われ,退 学処分 を受 けた 4名 が先導 した もので
はない こと,さ らには, これ らの行動 は生徒 および「フィリピン民族 (raza mpma)」
に対す る侮蔑 へ の怒 りか ら生 じた ものであ り,あ くまで も管轄権限のある権威へ の申
立 にす ぎなか った こ とが,撤 回要求 の根拠 として示 されて い る
L71930/2/281,
10]。
その後,生 徒がビュー リーの決定には納得せず,週 明けには新 たなス トライキを起
こすのではないか とのうわさが広まった。 それを受け,さ まざまな見解が示された。
退学処分を受けたパスクアルら4名 の生徒 は,退 学処分 は再考慮 されることが予測 さ
れるので,ス トライキは必要でない と述べている レ″ 1930/3/■ 1,7]。 また,公 教
育庁長官代理アルベル トは, もう一度学校ス トライキが起きるようであれば,学 校 を
閉鎖す ると述べてい る EPH 1930/2/2810]。 この見解 は,生 徒 の行動 に一定 の理解
を示 してきた市長アーンショウによっても支持された。彼 は,生 徒 は規則 に則 つた適
切な方法で要請 を行 うべ きとの見解を示 した。 このような見解 に対 して,市議会議員
ヌエノはス トを支持 し続けた。ス トライキは平和裏 に行われる要請行動であり,ス ト
ライキを起 こした とい う理由で生徒が公立学校から締め出されるべ きではない, との
34
フィリピン数 ストライキ論
論拠 を示 した。 また,市 議会内の学校委員会 は 4名 の退学 を取 り消すべ く,公 教育庁
長官 または植民地総督 に上訴す ること検討 してい る EP1 1930/3/■
1,7]。
『職員手帳Jに 示 された規則 に照 らし合 わせれ ば,教 育局長 ビュー リーが学校 ス ト
の リー ダー を退学 に処す ことは,彼 の権 限の一部であ り,当 然 の措置であった。 その
反面,ア メ リカ人教員が差別発言 を行 うことを罰す る規則 はなかったためoo, ブル
ミッ トに対す る処分 には政治的な判断が必要 とされた。 2月 26日 にはビュー リーが プ
ル ミッ トに辞表 の提出を求めてい る。 その書簡で は,教 育局 の「厳正 なる調査」 によ
ると,「 貴君 の行為 が退職 を求め られ るものであ る こ とは明 自で ある」 とのみ述べ
,
参考 としてブル ミッ トが認めた差別表現 と「あなた方,フ ィリピン人 は……」 との発
言 を付記 してい る。っ。 また,勤 務評定表 による とブル ミッ トは同年 4月 9日 付で退
職 となってい る。彼女 に対す る評定 は 「要請 されて退職」 と記 されて い るものの, フ
イ リピンでの再 雇用 を阻む「好 ま し くな い (unmm伝 わry)」 で はな く,「 まあ満足
け ,図磁hCtOryl」 と記されてお り,再 雇用 も可 とされてい るoめ 。つ ま り,公 式 に
は,ブ ルミッ トの免職はその理由も曖味なまま行われ,教 育局がそれ以上に差別発言
の問題性を追及することはなかった。
(3)第 3期 (2回 目のス トライキ, 3月 3日 ∼ 3月 8日 )
3月 3日 (月 )に 新たなス トライキが生じる。同日,マ ニ ラ北高校では,生 徒 は
,
午後 1時 に新たなス トライキに突入することを宣言 した。 この時点で は,ス ト参加者
は 4名 の退学処分撤回を要求 していた EyB 1930/3/4:1]。 マニ ラ北高校では生徒総
抱 ,663人 (p)の うち,授 業 に出たのは51111人 に過ぎない。マニ ラ西高校でも1,oooAが
授業出席を拒否 して い る。そのほかに,フ ィリピン商業学校 (島 山洒ュe鋤 ∞10f
Commerce)も ,ス トに参加 したと報道 されている「P11920/3/4:1,2]。
3月 4日 (火 )に は朝からノックス記念教会で集会が行われる。 4名 の退学処分撤
回のみな らず,公教育庁長官代理アルベル ト,教 育局長 ピュー リー,マ ニ ラ北高校校
長カール ソンの免職を運動の目的に掲晩 マ ラカニアン宮殿への大規罠デモ行進を予
定 してい る レ″ 1930/3/4■ Z71930/3/駐
1,8]。
午後 3時 にはマニ ラ西高校の生
徒がス ト参加を宣言し,マ ニ ラ東高校の生徒 も午後 にはス ト参加を表明した。 また
,
夕方には労働団体 レヒオナ リオス・ デル・ トラノ`ホ Gttb脚 おs delTrabJo)12o)が
ス トを支援する集会を開き,ゼ ネス トを呼びかけている「PH 1930/3/駐 1,9]。
3月 5日 (水 )に はオ リンピック・ スタジアム (0■ 町た Stadium)に 生徒,親
,
市議会議員などが集結 し,5,mlAの 参加者か らなる集会を開催 した。マニ ラ市長代
理が下 した決定によ り,マ ラカニアン宮殿までのデモ行進を許可されなかったことが
東南アジア ー 歴史 と文化 T M40,2011
報 告 され た 。 また ,生 徒 に暴力 を振 るつ た警察 に対す るlll弾 が 行 われた。市議会議員
ヌエ ノは 4名 の復 学 が認 め られ るまで ス トを継 続 す べ き と述 べ た 。 この見解 は,「 参
加者 総 立 ち」 で 支持 され ,「 ビ ュー リー を打 ち倒 せ 」 な どの気 勢 が上 が った 。 同集会
にお いて ,親 に よる対策委員会 が結成 され た 。同委員 会 は,夜 遅 くまで話 し合 った 結
果 ,生 徒 のス トライキを支援 す る こ とで 同意 し, 4名 の退 学者 の復 学 を求 め る総督宛
の嘆願書 を作成 した レ ″ 1930/3/61,3ι 71930/3/,1,8]。
3月 6日 (木 )の 朝 9時 には,親 の対策委員会 の代表者 7名 が総督 に嘆願書 を提出
した。嘆願書 を受 け取 つた総督 デ ー ビス (D■ lght E Da、 is)は ,ケ ソ ン (Manuel L
QueZOn)ら 数名 の植民地議会議員や官僚 と会合 を持 つた後, 3事 項 か らな る声明 を
発表 した。① 生徒 は直ち に教室 に戻 ること,② 要請が あるのであれば,適切 な方法 で
管轄部署 に訴 える こと,③ 管轄部署 の判断に満足できない場合 は,総 督 に上訴す るこ
と。 またケソンは,自 らの関与すべ き こ とでない としなが らも,「 一市民の立場Jか
ら,生 徒 が教室 に戻 つた後 に,適 切 な調査 が行 われ るべ き との見解 を示 した [P″
1930/3/6:1;1930/3/7:8,L71930/3/611,10]。
3月 7日 (金 )に は,北 ,西 ,東 の 3高校 とフイリピン商業学校 か らの学校 ス ト参
加生徒 が組織 した「最高委員会 (supreme cOuncll)」 が結成 された。 また,市 議会議
員 ヌエ ノが呼びかけ, ノックス記念教会で集会 が開かれた。 この集会 では, 2回 目の
ス トライキの原因は,退 学処分 には しない との約束 を反故 に した教育局長 ビュー リー
と市長 アーンシ ョウにあると述べ,退 学処分 を受 けた 4名 の生徒 の復学 を要求す る
植民地総督 と公教育庁長官宛 ての請願書 を採択 した。 しか し,「 最高委員会」 はこの
,
ベニ グノ・ ラモス
請願書 を承認 しなかった。 そ して, この集会 の解散直後 に,今 度 は
が呼びか けた もう一つの集会が開かれた。 こち らの集会 では,市 長 がデモ許可 を出さ
ないに も関わ らず, 3月 8日 (土 )9時 にマ ラカニア ン宮殿へ のデモ行進 を行 う決議
を採択 した。その後 ,ヌ エ ノ とラモス は統一 行動 を取 る ことに同意 した。 しか し
,
「最高委員会」 は このデモ行進 にも賛同せず,翌 日再度,ノ ックス記念教会 で集会 を
持つ ことのみを決定 した レ″ 1930/3/81,&ι 71930/3/71,10]。
`
3月 8日 (上 )に は,マ ラカニ アン宮殿へ のデモ行進 をめ くつて,学 校 ス トライキ
は 4つ の派閥 に分 かれて しまう。 まず は,ヌ エ ノが先導す る強行派 と,同 じ く市議会
議員 のアルマ リオ (Rosauro Ahano)が 率 い る慎重派 に分 かれ る。強硬 派 は, 4名
の退学措置撤 回 を求 めて,81Xl人 は どで ノックス記念教会 か らマ ラカニ アン宮殿 へ と
デモ行進 を行 い,総 督 に前 日に採択 された請願書 を提 出 した。慎重派 はノックス記念
教会 に残 り, 4名 の退学処分 の撤回 は,ス トライキを止め,学 校に戻 つてか ら,根 気
36
フイリピン学校ストライキ論
強 く要請 してい くべ きだ と決定 した。 また,ア ルマ リオは,学 校 ス トライキを政治利
用 して い る とヌエ ノを非難 した。 これ らに対 して,「 最高委員会」 は,ヌ エ ノお よび
アルマ リオの双方 とも距離 をおき,学 校 ス トライキは同委員会 の決定 にのみに従 う と
表明 した。 さらには, この時点で親 の一部 は,子 供 が学校 に戻 ることを望んでお り
,
そ れ らの 親 に 従 う生 徒 は,学 校 ス トライ キ を離 脱 した [P″ 1930/3/92』 ″
1930/3/91]。
(4)第 4期
(学 校 ス トライキの瓦解 とその後,
3月 10日 以降)
事態 は学校の閉鎖 とともに収東 に向か つた。 3月 10日
(月
)に は, アルベ ル トの賛
同の下 になされた,教 育局長 ビュー リーの決定が,以 下 のよ うに示 された。
1 4つ のマニ ラ市の高校お よびフィ リピン商業学校 は,本 日をもつて今年度 は
閉鎖 とす る。
2 4つ のマニ ラ市の高校お よび フィリピン商業学校 の生徒で,
3月 3日 か ら 3
月10日 までの期間 に出席 して いた者 には,(そ れ までの)学 業 に基 づ き今 年
度 の最終成績が与 えられ る。
3
ス トライキ参加者 お よび他 の生徒 で, 3月 3日 か ら3月 10日 までの期間の全
て もしくは一部 において学校 を欠席 した者 は, 3月 17日 まで単位取得 申請 を
,
それぞれの学校 の校長 に対 して行 うことがで きる。 その上で,欠 席 を説明す
る正 当な理 由が ある限 りにおいて, 3月 3日 までの学業 に基 づ き最終成績 が
与 えられ る。
さらに, この決定ではス トライキ中に暴力 を振 るった者 には今年度 の単位が認 め ら
れない としたが,ス トライキの リー ダーに脅 されてス トライキに参加 した者, または
暴 力 を恐 れ 参 加 した 者 に は,今 年 度 の 単 位 が 与 え られ る,と 述 べ て い る
1930/3/1■
1,10;P″ 1930/3/1■
1,14]。
[ι
ア
しか し,ス トライキに自発 的 に参加 した者
の処過 は,明 らかにされていない。
この決定 を受 け,ス トライキが瓦解す るとの危惧か ら,同 日中に生徒が大挙 して学
校 に出席 しは じめ る。 マニ ラ東高校 では2,588人 の総生徒数 の うち2,392人 が出席 し
,
マニ ラ西高校では午前中には800人 が出席,午 後 には新た に500人 が出席 した。 マニ ラ
北高校 の校長 カール ソンによれ ば,同 高校で は1,500人 が 出席 し,彼 女 には,脅 しに
屈 してス トライキに参加 した とい う弁明の手紙が数多 く提 出された レ″ 1930/3/1■
1,14]。
また,単 位取得 申請 に際 し,ス トに自発的 に参加 したわけで はない ことを示
す詳細 な弁明書 の提出が,義 務づ けられて い る。欠席 の理 由 として 「ス トライキJと
い う文言 を使用 す るこ とはで きなかった。 ただ し,生 徒 の親 は,「 民族 の誇 りを守 る
東南アジア ー 歴史と文化 一 M40,ω ll
た め」 (to uphold thc dlgn,ofmy race)に 欠席 した, と書 かせ るこ とで一致 した と
の記事が残 つている lP1 1930/3/1212]。
その後,新 学期 の 6月 9日 か ら13日 にか けて,数 名の活動家が授業登録 を行 つてい
る生徒 に対 して,パ スクアル らの退学処分やその他 の停学処分 の撤回を求 め,ス トラ
イキを起 こす ように呼びかけてい る。 しか し,生 徒 の賛 同をまった く得 ることがで き
なかった lP1 1930/6/91,12,1930/6/1221930/6/1■
1,3]。
すなわち,1930年 2月 か ら3月 にか けて行 われた学校ス トライキは, 2回 に分 けら
れ, 1回 目は,ア メ リカ人教員の差別発言 に対 して,自 発的な示威行動 を行 つた生徒
の行動 に端 を発 した。 2回 目は, 1回 目の学校 ス トライキの リー ダーであった 4名 の
退学処分の取 り消 しを主 に求めた行動 であ り,高 潮時 には要求が公教司 宇長官代理
,
教育局長,マ ニ ラ北高校校長 の免職 へ と拡が つた。 しか し,学 校 の閉鎖 と単位 を与 え
ない とい う脅 しによ り,や やあつ けな く瓦解 して しまった。 この事件 の結果, 4名 が
退学処分 になった ことに加 え,最 終的 には39名 が停学処分 となった EP1 1930/6/13
総参加者 は,10,OIXl人 と報道 されてい る力ヽ それ は誇張 であ るとの反論 も寄せ ら
3]。
れてい る ly7 1930/3/4■ PFP 1930/3/1S301。 この当時 のマニ ラの高 狡生数 は
多 くて も9,lXXl人 ほ どで あ りoo,マ ニ ラ市の 4普 通高 校の うち,南枝 はス トに参加 し
,
なか った。 それで も, 3月 5日 の集会 には5,Ollll人 が集 まって い る こ とか ら,相 当数
の高校生が学 校ス トに参加 した と思われ る。社説 が述べ るように,規模 か らして, こ
の学校 ス トライキはフイ リピン教育史上最大 の ものだつた レリ 1930β /&4]。 若年
層 の ご く一部 のみが高校 に進学 が可能 で あつた時代 において (塑 ,マ ニ ラの高校生 に
よって引 き起 こされた この事件 は,植 民地教育 に とっての大 きな危機だった とい うこ
とがで きる。
2
共産主義者・ 民族主義者 の関与
この学校 ス トライキには,上 述 の事実経過 の他 にも,交 錯す る諸活動が存在 した。
その中で,植 民地 における秩序 とい う側面 か らみ ると,共 産主義者や民族主義者 の関
与 が興味深 い。
1回 目の学校 ス トライキにおいてすで に共産 主義者 の関与 が認め られ る。 2月 18日
の集会 で は,「 反帝 国主義青年 同盟
lYoungAihp調 狙 st
Laguc)」
と名乗 る団体
が ビラを配 つた。「ス トに参加 してい る生徒 と教員,お よび フィリピンの全ての生徒」
に宛て られた この ビラで は,文 字 は赤 いイ ンクで書かれ,「 アメ リカ帝国主義者 の手
先 によるフイ リピン人民
38
(「■pmo
peOple)に 対す る侮辱」 を抗議す る学校 ス トを支
フィリピン学校ストライキ論
援す る, との題 旨が述 べ られて い る。「アメ リカ人労働者 と抑圧 された植民地人民 の
生 き血 をすす り,自 らの寄生的生活 を維持 しようとする」資産家 とい う表現が使われ
ている。その上で,植 民地体制の中で認め られていた フィリピン独立議会 (H測ュme
lndependence Congress)や フィリピン独立使節団
(―
independenceコ 磁お lls)
を,1931年 選挙 にお ける票 目当ての選挙戦術 と非難 し,既 成政党 も本 当 の独立 を求
めていない と糾弾 してい る。 この ような植民地主義 とフィリピン人エ リー トに向けら
れた批判 は,「 我 々の支配者 としての地位 を築 きあげ,我 々を奴隷 の地位 に貶 めたア
メ リカ人教員の即時追放 。教育局 の フィ リピン人化 。教育 のフィ リピン化」 とい う要
求 に総括 された レ″ 1930/2/19:1,PF 1930/2/19:12,ι 71930/2/19:10]。
また, 2回 目のス トライキでは,労 働者が積極的にス トライキに参加 してい く気運
が生 まれ る。 3月 4日 の集会では,労 働団体 レヒオ ナ リオス・ デル・ トラバ ホの委員
長 で あ るポ ンセ (D∞血 申 Pollce)力
m“皿
',学 校
ス トライ キは「民族 に関 わ る問題
(a
であるとの演説を行ってい る レH1930/3/駐 9]。 3月 3日 にゼ
ネス トカ喉 索されると,さ らに多様な人々力 動 に積極的に参加 しはじめる。 3月 4
questlon)」
'運
日の会合では,タ ガ ログ語の作家プラサン (BШberto Pmsan)ヵ 渡 説を行 つている
lyr 1930/3/4:1]。 3月 5日 に設 立 された親 の対策委員会 には,エ バ ンヘ リス タ
(CisantO nmg■ sta)の 名が含 まれてお り EPF 1930/3/09],こ れは1930年 11月
に結成されるフィリピン共産党の創始者 のことであろうと思われる。著名 なタガ ログ
語の詩人デ・ ヘスース も, 3月 6日 にノックス記念教会で行われた集会にて演説を行
っているし EZ7 1930/3/6:10],上 述 のようにベニグノ・ ラモス も, 3月 7日 に集会
を組織 してい る。
しか し, このような遺動の展開に対 して,生 徒 は恐れをなしはじめる。 2月 28日 に
は,「 反帝国主義青年同盟」カツ用意 した大量のビラが警察 に差 し押さえられる。 また
,
同団体 はス トライキに浸透 しようとしたが,一 部の生徒 はその影響を拒否 し,手 渡 さ
れたビラは捨てられ 校合 に貼 られたビラははがされた レ″ 1930/2/281]。 また
3月 2日 には,生 徒 の支援を続けてきた市議会議員のヘ レーラとサ ン トスも,事 態 は
,
深 刻 で あ り,生 徒 に は 過 激 な行 動 を取 らな い よ う に 呼 びか けて い る レF
そして, 3月 5日 の生徒 と親の会合では,生 徒 の代表者 は,親 の対策
に
し
て
委員会 対
,ス トライキから「赤」の労働者を追 い出す ことを要請 している EPr
1930/3/211]。
1930/3/69]。 また,上 述 したように, 3月 8日 には「最高委員会」力 徒以外の影
'生
響を」F除 しようとした。
39
東南アジア ー 歴史 と文化 ―
3
m“ ,2011
学校 ス トライキをめ ぐる論評
この学 校ス トライキはその規模か らいって も,衆 目を集 めた大 きな事件で あ り,幅
広 く論評 されている。2月 半 ばか ら 3月 半 ばまでの間 に, 日刊紙『 フィ リピン・ヘ ラ
ル ド はめ 』 と日刊紙『 ラ・ ヴ ア ンガ ル デ ィア
(ι
め 』で はそれ ぞれ 7回 ,週 刊誌
『 フイリピンズ・ フリー・ プレス lPFFl」 では 3回 ,社 説 で この事件 を取 り上 げてい
る。 また,『 フィリピン教育 ジャーナル
(PJEl』
はフィ リピン人 の教 育者 フランシス
コ・ ベニ テス (Frandsco Benitez)が 編集主幹 を務 める教育専門誌で あるが,1930年
3月 号 の社説 で この事件 を扱つて い る [PJE 1930/3377-378]。 紙幅 の関係 か ら, こ
れ らの論説 を個 々に取 り上 げることは しないが,総 じて これ ら社説 はそれぞれの時期
において教育局 の方針 を支持 してい る。第 1期 には示威行動が不適切であること,第
2期 にはブル ミッ トの免職措置 と生徒 の リーダー に対す る退学処分 ,第 3期 には 3月
6日 の総督デー ビスの声明,第 4期 には学校閉鎖 による学校 ス トライキの解決 を支持
してい る。 また, そ こに通底 してい るのは,第 一 には市議会議員 による関与 が不適切
であること,第 二 には学校 ス トが一部生徒 による脅 しと暴力 によって維持 されてい る
こと, さらに重要 な点 として,第 二 に学校 ス トライキを教育 に求 め られ る「規律」の
問題 として捉 える認識であつた。例 えば,第 2期 のビュー リーの裁定 は 「規律」 を守
り,「 格 調 高 く,道 徳 的 な価 値
(lln vttor real y mord)」
を持 つ もの と論 じ る
[ι
/
1930/2/284]。 また,ゼ ネ ス トが起 こるようで あれば,断 固た る措置 を取 るべ きで
あ り,そ の よ うな対応 によ り,「 規律 な き生徒 (und、 dplined pupお )」 に,「 権 カ ヘ
の尊敬 (respectforauthonO」
べている lPH 1930/3/■
とぃ ぅ最 も重要 な事柄 を教 え ることがで きる, と述
4]。
ここまで論 じて きたように,学 校 ス トライキには,生 徒以外 にもさまざまな人 々が
関与 して きた。一般 に社会運動が多様 な要素の結節点であるように, この事件 におい
て も,学 校外 の要素が影響 を及 ぼ した。 アメ リカ人の差別発言 に端 を発 した一連 の学
校 ス トライキは, フィリピン人 を 「民族」 とみな し, この「民族」の視点か らアメ リ
カ人お よび植民地主義 を批判す るとい う論理 を持 っていた。2月 28日 の生徒 の声明 に
ある「フイリピン民族Jへ の侮辱 とい う表現 は, 2月 18日 の共産主義者 のパ ンフレッ
トに書 かれた 「フィリピン人民 に対す る侮辱 」や, 3月 4日 の労働運動家 の 「民族 に
関わ る問題」 との考 え方 に も共有 されている。 この 「民族」の視点か ら情況 を提 えな
おす とい う思考 は,特 段 , この学校 ス トライキで生 じた新 しい ものではな く,大 衆 に
共有 された歴史観 に根 ざ した ものであつた。例 えば,『 労働者 にな Л ″″α
″ )』
“
`α
とい う雑誌 で は,「 誰 で あろ う と,我 が 民族 に敬意 を払 お う としな い者 は,今 日に
40
フィリピン学校 ス トライキ論
限 らず,い つで あれ, ここで は必要 とされていないこ とを率直 に知 らしめなければな
らな い (Dapatlttala ng tahasan sa Sno mang、 、 _alang sa amlg b面 ,na ma'y
Zα %喚 口
α
hha kttangan dlto,i ngγ on at ni kallan nlan)」 と 述 べ て 。,る И な 」
"″
ー
1930/2/288]。 また,フ ィ リ ピ ン大 学 作 家 ク ラ プ の トレ ンテ ィ ノ (ArmrO M
Tole面 no)は , 1回 目の学校 ス トライキ に関 して,ア メ リカ人 の差別 発言 に立 ち上
がった ことは,「 民族意識 (nttonal consdousness)Jの 発展 の結果である と論 じてい
る [″ 1930/3/28]。 こうした「民族」 に根 ざ した見解 の中で,タ ガ ログ語 の詩人
デ・ヘスースが よ り複雑で葛藤 に満 ちた表現 を残 して い る。
1920年 代お よび30年 代 は,詩 が大衆 への多大な影響力 を持 つていた時代であつた。
デ・ヘ スースはこの時代 に大衆 に愛 された詩人 であつた。例 えば,1924年 か ら32年 ま
で,数 回 に渡 り,同 じ くタガ ログ語 の詩人 コレンテス (nOrentto T Colelltes)と 詩
の掛 け合 いを行 つている。1925年 の掛 け合 いは,上 述 のオ リンピック・スタジアムで
行 われ,8,Ollll人 もの聴衆 が 集 まった との こ とで あ る EAgoⅨ皿o197■ 171172]。
デ・ヘスースは, この学校 ス トライキに関す る 2編 の詩 を,タ ガ ログ語のタ リバ紙 に
発表 して い る [DeJesus 199'182186]oぅ 。1編 目は「君連 は登校 して はな らない
(Hulvag Kγ ong MagSpasok)」
で, 1回 目の ス トライ キが 高潮 に達 した 2月 19日 に
掲載 されて い る。「正義の名 において,恐 れてはな らず/正 しい ことは正 しいのだか
ら,君 達 は登校 してはな らな い (sa ngalan ng katarungan hu、 マ
電 ぃ 、ng matatakot,/
・
べ
ang mamttd tt mattl■ ld,hぃ v電 ぃ 、ng magslpasok)」 と述 た後 で,差 別 発言 を生
徒 の魂 を侵 す 「毒 (kamandag)J,ブ ル ミッ トを 「 トカゲの舌 (dlla ng by卸 よ)」
アメ リカ人 を 「よそ者 (mga dり o)」 と表現 した。 そ して,最 後 の詩節で 「普通 の タ
,
ガ ログ人 (2)の ことばで常 に心 に刻んでおかなければな らない/自 らを奴隷 としない
者 は,奴 隷 とな る こ とが な い こ とを …… (Ittong laghg isaslp,Mkang K憔 めng
tagalog/na ndang bubusabush sa“ ,w pabusabos… )」 と結 んで い る。 2編 目は
「君連 は もう一度学校 に戻れ (MagslpasOkヽ、ng Mul)Jと 題 した詩 で 2回 目の ス
トライキが始 まった 3月 3日 に発表 されて い る。 4名 の退学処分 に対す る撤回運動 は
「徐 々 に (untlum)」 「穏便 な方法 で
(sa paraang lnalllllahon)」
行 われ るべ きで あ る
と主張す る。 この詩で は,殉 死 した英雄 ホセ・ リサ ールを挙 げ,ス トライキを続 ける
ことは銃殺 にまで至 ることを予感 し,死 と埋葬 とい うイメージを喚起 して い る。そ し
て,「 ここで君達 は支配下 に置かれ ることの困難 に気づ くだ ろ う/我 々の ような打 ち
負か された民族 には一つ一つの行 いにおいて手錠がか け られて い るのだ (dlto ttvo
m灘鳳tang
mahiap ang masakupan/kγ a tavong lalling salcop,mtt gapos sa bawa't
東南アジア ー 歴史と文化 ― 聰 40,2011
pal‐yl」
と論 じて い る。 1編 目で は徹底 して,ア メ リカ人 の差別行為 に対抗 す るこ
とを求 めてい るのに対 し, 2編 日で は被 値民者 フィリピン人の服従 を悲哀 として描 い
ている。
次 にこのよ うな言説上の対立が,動 員 の側面で どの ような影響 を及 ぼ したのかを考
察 したい。
4
題動の組織 と動員過程
2月 13日 (木 )に 生 じた ブル ミッ トに対す る反抗,さ らには翌 日の金曜 日の集会 は
,
マニ ラ北高使の生徒 による自発的な行動 と考 えて,ほ ぼ間違 えないだ ろ う。 しか し
,
これ以降,生 徒 で はない人 々の関与 が顕著 にな る。18日 には大学生 はも とよ り,マ ニ
ラ市長や市議会議員が集会 において発言 してい るし,共産主義者 も情宣 を行 つている。
2回 目のス トライキでは,生徒 の親 と民族主義者 が直接 に関与 を してい る。
2回 目のス トライキの勃発時には,学 校 を単位 としてス トに突入す る との記述があ
る。 これ はそれぞれの学 校に生徒 を代表す る組織 (以 下 「生徒会 」 と称する)力
り
'あ
,
これ らの組織 が生徒 の動員 に大 きな役割 を果た した ことを示唆 して い る。 しか し, 3
月 5日 の集会以降 は,生 徒で はな く,親 の対策委員会 が総督デービス との交渉 を行 つ
て い る。 また, 3月 7日 にな り,よ うや くス トに参加 して い る生徒全体 を代 表す る
「最高委員会」力=作 られたが,同 時 に市議会議員が先導す る分派活動や,一 部 生徒 の
ス ト離脱 も生 じてお り, この組織 は生徒全体 を掌握す ることはで きなか った。
この ような視点か らみると, 1回 目のス トライキは,ブ ル ミッ トに対する抗議の延
長 上に生 じた,計 画性 のないス トライキであつた。 また, 2回 目のス トライキにおい
て,生 徒 がス トライキを先導 した時期 とい うのは, 3月 3日 の 「生徒会 」 によるス ト
参加宣言か ら, 3月 5日 のオ リンピ ック・ スタジアムでの集会 までであった。運動 に
動員 された多 くの人 々が高校 の生徒であつた ことは明 らかであるが,生 徒 による確 固
た る運動体 は構築 されなか ったのである。
それで は, どのようにして多 くの生徒 を動員す ること力
'で
きたのだろ うか。新間で
は脅 しによるス トヘ の参加強要や,労 働 団体 によるス ト参加へ の勧誘が報 じられてい
るo● 。 しか し,そ の ような行為だ けで数千人 もの生徒 が集 まる とは思 えない。や は
り,生 徒 は, 自らや フィリピン人全体 に対 し発せ られた差別発言 に呼応 し,行 動 した
と思われ るのである。差別発言 を したアメ リカ人教員,さ らにはその差別性 を看過 し
逆 に生徒 を退学処分 に した行政官 に対す る怒 りがあ り,そ の怒 りが彼 らをス トライキ
ヘ と突 き動か した といえよ う。 そ して,そ の怒 りの感情が,マ ニ ラ中心部 とい う密集
2
フィリピン学校ストライキ論
地域 において ,示 威行動 ,集 会 ,ロ コ ミ,ビ ラ,新 間 の報道 な どを通 じて,他 校 の生
徒や生徒 以外の人 々へ 急速 に広 まって い った ことは容易 に想 像 で きる。 また ,怒 りが
ナ シ ヨナ リズ ムに よ り密接 に結 び つ き,体 制変革 を求 め る運動 とな る可能性 はあつた
と思 われ る。
しか し, この怒 りは昇華す ることはなかった。退学処分 は撤回されず,運 動 は所期
の 目的 を果 たす ことがで きなかった。 また,弁 明書で,生 徒 たちは,「 民族 の誇 りを
守 るため」 と書 けた として も, 自らの意志でス トに参加 した とい うことは否定せ ぎる
をえなかった。 その反面,生 徒 たちには, この運動 を担 うための十分な信念 がなか っ
た ように思われ る。生徒 自身 による統一 された運動体 を作 ることにも失敗 した し,親
が総督デー ビス と交渉す ることに同意 した。 これ らの ことを考慮す ると,生 徒 たちに
は,そ もそも自分たちが運動の主体 とな ることに時躇 があったのか もしれない。運動
の失敗や ス ト参加 の意義に対す る自己否定 は,植 民地主義への迎合 を示すわけで もな
い し,か といってナシ ョナ リズムヘの貢献 を表すわけで もない。そ こに残 るのは,失
敗の経験 と小 さな屈辱感であっただ ろう。 いずれ に して も,怒 りは一時 の熱狂 を巻 き
起 こしたが, よ り強固な主義や信条 に変化す ることはなかった。
さらには,怒 りの感情が主義や信条 へ と変化 しなかったか らこそ,生 徒 自身 による
この事件 の位置づ けが希薄な ものに留 まつて しまつてい る。 2月 28日 の集会で,生 徒
たちは, 1回 目のス トライキを,「 フィ リピン民族」への侮辱 に起因 した,権 威 に向
けた申立, と位置づ けてい るが, これ以降, これ以上 に洗練 された表現 を発 していな
い。 ここでの権威 は教育局長 な どの教育行政官 と理解 で きる。 そうであ るな ら,教 育
行政官 の言辞や新間の社説 と同様 に,生 徒 たち も,あ くまで も教育 とい う秩序 を前提
とし, 自らの行動 を理解 して いたわけである。彼 らは,そ れを植民地主義が もた らし
た秩序 に関 わる問題 であるとは理解 しなか った。 これ は10代 後半 とい う年齢層 ooか
らくる限界 ともいえようが,い ずれ に して も,植 民地主義が もた らした秩序 とい うよ
り大 きな文脈で生徒 の行動を理解 しよう としたのは,む しろ,外 部 の共産主義者や民
族主義者 だつたのである。
おわ りに一一学校ストライキの限界 と歴史的意義
ス トライキに関わつた人々にとって,学 校 ス トライキの歴史的意義はほとんどない
ようにみえる。先行研究で取 り上げられてい るラモスの関与 にしても, ラモスは学校
ス トの周辺 にいたにすぎなかったし,学 校 ス トは多 くの参加者 の自己否定 によって終
東南アジア ー 歴史と文化 ―
m42011
わって しまって い る。 ラモスの主観 はさておき,客 観的 にみた とき,1930年 の学校 ス
トライキが多数の犠牲者 を出 したサ クダル運動 の先駆 けであつた とは論 じられない。
自発的 に参加 した生徒 に とってみれば,屈 辱感 を乗 り越 え,自 己否定 して しまった経
験 をあえて語 る ことは稀 で あつた ろ う。統治 す る側 も同様 であ る。総督 デー ビス は
1930年 の学校 ス トライキを「幾分 ばか けて い る (rather d町 )」 と描写 して い る(271。
また,教 育行政 に深 く関わ って いた者 の証言 も残 されて い る。 マーカー ト lWalter
W Marquardtlは ,1901年 に フィ リピンに教員 として赴任 し,1910年 代 には教 育局
長 を務 め,そ の後 はアメ リカ にお けるフィリピン公教育の担当者 として活動 した人物
で あ る(2)。 彼 はイ ンタビューの 中で,1930年 の事件 に触れて い る。 アメ リカで は教
員 は 「おサル さん Ot“ mo● ky)」 や 「おバ カさん Ome doo」 とぃ った表現 を生
徒 への親近感 を表すために使 うが,フ ィリピンでは生徒 が これ らを侮辱 と誤解 した こ
とか ら学校 ス トが生 じた と述べ てい る
L田並d颯
199■ 125]。
彼 らの認識で は,学
校 ス トライキは子供 じみた行為であ り,何 の意義 も持たなかったのである。つ ま り
,
生徒 に して も,植 民地 の統治者や官僚 に して も,学 校 ス トライキを積 極的 に歴史 に書
き残すだ けの意義 を見出す ことはなかった。
む しろ, この事件 に歴史的な意義があるとすれば,そ れ は植民地 において秩序 が維
持 され る論理 を示 して い る ことにあろ う。「恩恵Jと しての植 民地教育 は,教 育 を受
ける側 が 自発的 に同意゛。 した ことを前提 とす る。 しか し, この学校 ス トライキーー
とくに,最 後 に生徒 が弁明書 を書 くとい う くだ リーー は,そ の 「自発的同意」 の臨界
点 を指 し示 して い る。つ ま り,植 民地主義 が もた らした秩序 は,「 自発的同意Jが な
い場合 で も,そ れがあるように取 り繕 うことを求めるので ある。差別発言 の ような明
らか に反教 育的行為 がなされた として も,生 徒 は教育の求める 「規律」 に自発的 に服
従す ることが要求 された。
この点 は,支 配体制 の学 校ス トライキに対す る認識 をみ ることで よ り明 らか にな る。
1915年 までの『フイ リピン委員会報告』
,1916年 か ら1935年 までの r植 民地総督報 告
lRCPIl』 には,題 名や掲載箇所 は異 なるが,数 年 を除 き,「 治安」 についての項 目
が設 けられてい る。例 えば1904年 には リカルテ将軍の追随者 ,19"年 には警察軍 の反
乱,1931年 にはタユ グ蜂起,1935年 にはサ クダル党 の蜂起 の こと力 かれている(ゅ 。
'書
しか し,1930年 を含 め,学 校 ス トライキが 「治安」の項 目に書 かれた ことはない。 ま
n
(NACP)の 島嶼局資料 には 「フィ リピンの平定 (P価
““
い
この
of蘭山
と うフアイルが あ り,
フアイルには,警 察 お よび警察軍 の 内
"hes)」
部資料 が数多 く含 まれて い るoっ 。例 えば,千 年 王国的な運動やサ クダル運動 のほか
た,米 国国立公文書館
44
フィリピン学校ス トライキ論
に,1934年 のタバ コエ場 ス トライキにつ いての綿密 な報告が含 まれて い るoヵ 。 しか
し, ここにも,い ずれ の学校 ス トライキの事例 も含 まれていない。つ ま り,学 校 ス ト
ライキは 「治安」の問題 としては,位 置づ けられなか った。
それでは,学 校 ス トライキが 「治安」 の対象 となることはあ りえたのだ ろうか。新
聞記事 によると,1930年 の学校 ス トライキではス ト参加者 と警察 の双方 による暴力事
件が多発 して い る。 しか し,結 局 は 6名 が保護観察処分 とな り, 5名 が罰金刑 に処 さ
れたのみで,死 者 も出ず,動 員人数 と比べ ると大 きな騒擾事件 にはな らなかった lPH
1930/3/1〕 ■
1930/4/12 Q PFP 1930/4/1)28](“
)。
大 きな騒擾事件 になれ ば, と
うて い,教 育局 で管理で きる問題で はな くなっただ ろう。つ ま り,「 自発 的同意」の
対象か ら警察権力の 「治安」対象 となっただ ろう。 では,大 きな騒擾事件 に発展 する
可能性 はあつたのか。社説 の一つで は,学 校 ス トライキはいずれ失敗 に終わるが,間
題 は共 産 主 義 の プ ロパ ガ ン ダ と して 使 わ れ る場 合 で あ る と述 べ て い る P″
1930/3/84]。 また,総 督 のデー ビス もこの学校 ス トライキに触れた書簡で,共 産主
義が問題であるが, フイリピン人の性質か らして,彼 らが共産主義 に同調す ることは
ないだ ろ うと書 き残 して い るoり 。事実, この学校 ス トライ キで も,共 産 主義者 と生
徒 が結託す ることはなかった。 これ らの同時代 の見解 によれば,生 徒が共産主義者 を
取 り込 まなかった時点で,学 校 ス トライキは早々に収東す るものであつたoめ 。
以上が1930年 の学校 ス トライキの経過 お よびそれについての考察であるが, この事
件で は,た しか に 「恩恵」の論理 に異議 が突 きつ け られ,「 綻 び」が生 じた といえよ
う。 しか し,同 時 に,そ の収東 の仕方 において は,そ の 「綻 び」 は覆 い隠 され,「 恩
恵」の論理力沢 たれ続 けた ことを示 してい るのである。
略称
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東南アジア ー 歴史 と文化 一
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注
(1)例 えば官庁のパ ンフレッ トや歴史全集 にも「恩恵」 とする諭述 をみることができる
[勧 ι物 餃癖膝 2∞ OI Qurl■ 01"8]
(2)全 体像ではな く,素 描 にとどまるのは,発 見できた新聞記事が非常 に断片的である
ことに加 え,長 期間 にわた り,新 聞・ 雑誌資料を,綿 密 に調査することが求められる
か らである。 19∞ 年以前の学校ス トライキを詳述することは,今後 の課題 としたい。
(3)こ の学校ス トライキに関 しては,2∞ 8年 4月 26日 に東南アジア学会関東例会
(於
:
上智大学)で 発表 した。 この発表やその前後 において,主 に次の 4つ の資料を調査す
る必要があるではないのか との指摘 を受けた。①警察関係資料 ,② ミシガン大学ベン
トレー 歴 史 図書館 ヘ イ ドン文書 lJoseph Ralston Ha17den Papu、
Belltley I鵬
めに』
Lbrar,Unlvcrslty ofⅣk弱 3m),③ オカンポ lAnlbeth R Ocalnpo)に よるア ゴンシ
リョのイ ンタビュー,④ ノックス記念教会関係 の資料。① については,後 述する。②
については,ヘ イ ドンは1930年 9月 にフィ リピンに渡航 してお り,学 校 ス トライキが
起きた 2月 と3月 にはフィリピンにおらず,同 文書 に関連資料 はなかった。スタイナ
ー
(H Anur向
か らア ン ドリュース fAntlrI Andrews)へ の193049月 24
日 付 の 書 簡 ,Flle“ Correspondellce 1930,JtSe""B∝
2“ Correwmよ駆れ 1927
19311,"JOSephRalstonHavden Papers ③ のイ ンタビューには,示 威行動一般 に関する
ア ゴンシ リ ョの 見解 はあ るが,1930年 の 事件 につ い ての直接 の言及 はなか つた
[Oc‐po
1995]。
④ について は,Knox Unlted Methodlst Clllrchが その後継 にあた
る力ヽ この学校 ス トライキについての資料 を保持 して い るかは不明である。llup:〃
― wlcl∝unlc conlAstoryhtn(2010年
9月 26日 検索)
(4)本 稿においては,大 学生を「学生」,高校生以下を「生徒」 と呼ぶ ことにする。
(5)州 立高佼は州都 に位置 していたので,プ ラカン州立高校 の場住 マロロスにあつた。
(6)1913年 には半期 ごとに『教育局長報告』が発行されている。 この報告は1913年 6月
30日 までのものである。また同時期の『フィリピン委員会報告』 にも学校ス トライキ
につ いての記述がある レR9191■
46
247]。
フィリピン学校ストライキ論
(7)教 育局長代理
(氏 名不詳)か ら公教 育庁長官 ギルバ ー ト 僻 eⅥ n cllbert)へ の
“
1912年 8月 16日 付報告,Box 6,Bound VOlume“ hspect¨ RepOrts,1913-1915,''
輌
W Marquardt Papers
(8)履
歴 書 ,PNIF“ Bmmmt MabelB,"BOx 82,150/57/26/2,DⅢ y21,BIA Recclrds,
RC 350,NACP
(9)PNIF“ Pledad,Fedcrlco,"Brlx
496,1511/57/34/5,Entry 21,BIA RecOrds,RG 350,
N嵐凛
Munoz増汰畑匝d School"と 記 されてい るが,こ れは「中央 ル ソン農
(10)原 文で は “
業学校」(Central LuzonAgnculunl Sch001)の ことで ある LttDE(1響 )191030]。
(11)19∞ 年 2月 19日 付 の 教 育 局 内 部 報 告 書 ,PNIF“ Br― lt ubelE""B12x82,
150/57/26/2,En● 21,BIA Records,RG 35Q NACP
(詢 駆轟mm“ 耐)は ,一 部 の特任督学官 (Supttntendent tlll Sp∝ 園 Duty)
を除き,学 区督学官 (Dluslon鉤 縣山雌Жbの である。植民地期 の初期を除き,学
(12)督 学官
区 (DM山 01ま 基本的には州に対応 してい る。学区督学官はその学区の公立学校全
体を管理する行政官である。教育局 (Bureau OfEducaton)│ま 公教育庁 (Dcparment
hmon)の 中に置かれ,民 政地域すべての公立の低学年学校 (山町
ofPubに
schooに ),高 学年学校 Cntcrmcdlate schools),高 使
lhghschools)を 統括す る部署
である。教育局 の 中で,督 学官 は,教 育局長 (DRctoron更 韻。
n),副 教育局長
゛
“
い 面 stant Dttd‐ OfDユu“ 出咀)に 次 く序列にある [SttE 1927
4つ ]。
(13)193m2月
19日 付 の 教 育 局 内 部 報 告 書 ,PNIF“
B― mlt
Mabcl E""BKlx 82,
150/57/26/2,Entw 21,BIA Records,RC 35Q NACP
(14)他 の 3名 は,パ ガ ン Cettm饉 Pangall),ダ グ ラス
(Charles B Douglas),プ
ノ
(Isaac B RmO)で ある。パ ス クアルを含め, この 4名 のいずれ も力`
その後 どうなっ
たかは不明である。HⅧロヨま含 まれて いない し,コ モンウエルス期の代表的な人名
目録 に も掲載されていない [Conldo 1939/40]。
(15)公 教育庁長官
(SecreLw ofPublc lnstructloll)は 注 (12)で 説明 した,公 教育庁 の
首長である。
(16)た だ し,1911年 版の『職員手帳」では,「 一般注意 (Cenerallnstmttms)」 として
差別発言は 「非常 に不適切」であ り,差 別発言を行った教員は,懲 戒処分の対象 とな
,
る ことが論 じられている ESMBE 191■
意Jと い う項 目がな くなっている。
93]。
その後 の r職 員手帳』では,「 一般注
(17)ピ ュー リーか らブル ミッ トヘの1930年 2月 26日 付 の書簡 ,PNIF“ Br― t Mabel
a,"B∝ 82,150/57/26/2,Enty 21,BIARecO劇 ヽ RC 3∞ ,NACP
(18)1930年 3月 の報告 ,PNIF知贖mmt Mabeln,"Brlx 82,150/57/26/2,Enty 21,BIA
Record、
RC3∞ ,NACPた だ し,そ の報 告 の題 名 は「強 制 され て離 職」 (a
fOrced
東南アジア ー 歴史と文化 ― M40,2011
reslgnatoll)と なつて い る。勤務 評定 の全 体像 はme 13285,BIA Rmrds,RG 3511,
NttFを 参照の こと。
(19)レ ″ 1930/3/&4]
(20)Collgrcs0 0brero de F■ pmas(COFl lま 1913年 5月 1日 に創設され たが, これはフ
ィリピン史上 2番 目にできた労働総同盟細 鶴であった。 この団体は,相 互扶助を行 う
とともに,独 立運動 にも深 く関わつた。 レヒオナリオス デル・ トラバ ホは,後述す
るポ ンセが 中心 とな り1919年 に設立 した団体で,COFの 中核 を担った。 また同じく
後述す るエバンヘ リスタも COFの 活動家であつた [Kerkvhet 1992:31-48]。
(21)公 式報告書ではマニ ラの高校生 (平 均月別登録者数)は 8,991人 である レ盟E(31獣 )
19301∝
105]。
(22)1918年 センサスの総人 口に対する高校学齢層
(14歳 ∼17歳 )の 割合 に基づ き,19311
年 の高佼学齢者数 を割 り出 し,平 均月別登録者数 と比較する と,77%の 高校学齢者
が 実 際 に高校 に通 っていた こ とにな る「/RDE(3191930102105;却 の E(386)
1937137]。
(23)こ の詩の存在についてはウマ リ
lAlex Uma■ )氏 か らの教示を受けた。 また,詩 の
解釈 に関 してはカ ンポアモール (Gonzalo Ⅱ CampoalllKDr)氏 の助けを得 た。
(24)こ こでは 「タガ ログ人」 と書 かれてお り,「 タガ ロ グ人」 と「フイリピン人Jは 異
なる対象を指 しているのではないか, との疑間力'あ るか もしれない。池端 の研究によ
れば,革 命期 のカテイプーナ ンの タガ ログ語の文章では,「 タガ ログ人」 とい うこと
ばは,文 脈 に よって は「フィ リ ピン人Jを 指 す もの として使 われて い た [池 端
1987卜 419%:319]。 1930年 代のタガ ログ語の文学 において,「 タガ ログ人Jが 「フ
ィリピン人」を指す ものであつたのかは,今後検証する必要がある。 いずれ にしても
,
少な くともここで示 した詩の中では,「 普通 のタガ ロ グ人」 は「アメ リカ人Jに 対す
る概念 として提示 されてお り,こ の観点か ら既 に論 じてきた 「フィリピン民族 Jや
「我が民族Jと 同じ位置を占めているもの と理解できる。
(25)例 えば脅 しについては レπ 1930/3/41,と Л01930/3/4:1,4],勧 誘 については
「P11930/3/,9]を 参照 の こと。また, 1回 目のス トライキでは,ハ ラニー リャ家
0肛 調 膿 )の よ う な 名 望 家 の 子 息 が,ス トを 恐 れ 自動 車 で 避 難 し た lPH
1930/2/2012]。 さらには,ア ゴンシ リョは積極的なス ト参加者 でなかったにも関わ
らず,妨 害 もあったため,学 校を休んだ ことを述懐 してい る [DeJesuS 1995 1861。
preadolcsceng
(26)19却 年代 の調査 によれば,小 学校 であっても,生 徒 の多 くはすで に“
pre‐ adoles∝ n′
adolesc∞ ′である [Board ofEducattonal Suvり 192,199]。 “
または “
a“ b"en′ が10代 の ことを指す とす ると,マ ニ ラの高校生は これ よ りは年
または “
齢 が高 い と考えられ,デ モに参加 した多 くの生徒は,注 (22)で 示 した年齢層 よりも高
かった と思われ る。14歳 か ら20歳 ぐらい までだった と推測 してい る。
48
フィリピン学校ストライキ論
(27)デ ー ビスか ら陸軍長官への1930年 3月 28日 付の書簡。PNIF“ Davis,D■ lght
F,"Box
149,57/27/5,Entry 21,BIA Rc。 )rds,RG 350,NACP
(28) LttE(17・ )1916:9,54;И RDE(20血 )1919:7],PNIF“ Marquardt,Vた W,"BOx
390,150/57/32/4,Entry 21,RG 350,NACP
(29)こ の 「自発的同意」 とい う考え方は,「 同盟集団および従属集団へ の 「文化的 道
徳的・ イデオ ロギー 的」指導権 」 と説明 され る,グ ラムシ (Allto■ o Cratnsci)の へ
ゲ モニー論 に多 くを負って い る [フ ォーガチ 199,519]。 なお,こ の考 え方に至 る
過程で,抵 抗 と協力 とい う三分法を乗 り越 えようとする,最 近の植民地研究か ら大き
な影響を受けた。例 えば,[ヂ
2002]。
(30)“ Condl● ons as tO Peace and Order"ERPC(5血 )19∝ :Part l,1-5];“ Public Order"
[RCCP/ 1920:20-21];“ Pubuc ordcr"[RCCPr 1931:12-13];“ Peace and Ordcr"
PCCP1 1935:20-21]
(31)「lle 4865,Entry 5,BIA Records,RC 350,NACP
(32) Πle 4865-190,Entry 5,BA Records,RC 350,NACP
(33)デ ービスも,生 徒 に対する刑事罰は,更 正を目的 とした罰金刑 になると予測 してい
る。デ ー ビスか ら陸軍長 官 へ の1930年 3月 28日 付 の書簡。PNIF“ Da■ ls,DmghtF,"
Box 149,150/57/27/5,Entry 21,BIA RccOrds,RG 350,NACP
(34)デ ービスか ら陸軍長官への1930年 3月 28日 付の書簡。PNIF“ Davis,Dl■・lght
R,"Box
149,150/57/27/5,Entry 21,BA Records,RG 350,NACP
(35)も っ とも, この当時のフィリピンの公立学校 においては, 3月 が学年末であった
)192,65]と い う幸運や,教 育局長 ビュー リーの行政手腕の確かさとい
う偶然的な要素は,た しかにス トの沈静化 に大 き く貢献 しただろ う。
lARDE(26」
参考 文 献
1
未公刊 一 次資料
oseph Ralston Havden P“ ers,Bcndw Historlcal Lbrary U“ ve亙
」
ヽ熱 r W Marquardt Pap‐ ,Bend"HistOHcal ubrary・ Unl17e雨,ofMIChlgan,US
"OfMthlgan,US
Records Of ule Bureau ofln叡 ルr Amtrs(BIA Records),RC.350,U S Natlon』 籍 chesand
Records Administratlon,Couege Park
2
公刊 一 次資料
Philippinc lslands,Bureau of Educadon 19o6-1940И
勒
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"Mamla Bureal1 0fPmlulg
Phulpphc lslands,Bureau of Educat10n 1911,1917,1927&″
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″′』 ″%α ′Manlla Bureau of
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49
東南アジア ー 歴史 と文化 一 Na 40,2011
V『 Departmcnt Bureau of hsularAfalrs 19ol 1915 R″
U」
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191← 1935R″ ο″び力σω υ′ ′
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Washluron,D CI Ccvernlnent mn● ng Omce
に関 しては,出 版年で はな く,報 告 されている期間の終了時の
年を参照 して い る。
3
タガ ロ グ語文献
Agonc■o,Teodoro A 1971“ Makata ng Bayan:SIJoSe cOrazon de」 esus at ang Owang
)hル ″a′ 電
Panabon"(「 祖 国の詩 人 :ホ セ・ コ ラソ ン・ デ・ヘ ス ー ス とその時代」
″滋 J● 盗 (Fホ セ .コ ラソ ン・ デ・ ヘ ス ースの多
Mパ凛″″ F滋 力■″ 」asι α
"α
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)163 186 Qutton Cけ :Un“ rslw ofthe HШ ttmes
角 的 教 育 つ い て の ジ ヤ ー ナ ル』
Press
De JcsuS,JOSe C 1995 Tln● on at slnun ni MOnico M Atteza,の α
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ル 絡 (rわ が祖国 :ホ セ・ コ ラソ“
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Ocampo,Ambeth R 1995 3α ル′
Mamla De La Salle Umversl●
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COm/1ustoryL血 (2010年 9月 26日 検索)
…
http://quod hb¨ edu/P/pmalner/1‐
e Unlted States and lts Terrltorles,1870¨ 1925:
rlbe Age oflmp… 20084か ら2010年 にかけて随時検索
)
School Strikes in the Philippines under U.S.Colonialism:
With a Paricular Focus on ule 1930 High School Stl・ ike
in NIanila
OKADATaihei
Keswords
school sti(s,colonlal educatoL raelsln,Amerlcan…
,1930's
Abstract
U.S. colonial education has largely been depicted as a be[evolent policy of U.S.
colonialism, where American teachers brought progressive values and modern
knowlefue to the Philippines and the Filipinos were eager students of this education.
The preselt article describes an aspect of colonial education that would interrogate this
logic of belevolence. Io history books and official documeots, there have been a few
vague references to the mass walkout of studelts-generally described as 'school
strikes". The pres€nt study of social history explains tle most serious school stxike in
detail by analyzing official publications, newspaper articles, internal documents and
poems.
tle school stri.kes took place in 1930. There was a series of rallies
and
March of 1930. The flasco vras initiated by ttre racial slurs of an
February
between
The most serious of
52
フィリピン学校 ス トライキ論
Amedcan teacher ln one Ъ ursday mOrlmg,hamg heard one mOre dme ofhercJB蛇
them nalnes and insuhng the Fllipinos as a whole,high school students ofヽ 4anila
North Hlgh SchO。l waked out Ofthe classroom Along wii stlldents iom nearby hlgh
schOOls alld coleges,they held meemgs and petioned tO get id ofthis teacher ttr
an investlgaton,Director of Educaion decided to dis■
lss her by demallding her to
電 theste
h order to rescue the four studellts,Ivho had stood up fOr tllei natlonal pide h tlle
sub血 t resignaion He alsO declded tO expel four student leaders fOr mcI血
、ts ofthe fel10w smden",a second stt tOOk place lt beo■ ne a settous cdds in the
histOry of tlle colonial educat10n
st・ eeヽ
Lw“ no
′(one tlme,a few thousand students were on tlle
longer anヽ sue soleし ofthe students
ηne
sぬ ool stllke was suppOrted
not only by their parellts and 10cal politicians but also by ardent natlonalists and
emergulg collll■ ulutt Ъ issmke,hOwever・ caune to an end ratller abrup」 y
To endthe
school smlee,Diector of EducatOn declded tO dOse the higll sch001s h Manla A mass
of students went bat・ k tO the scho01s tO appし for grades and,as a requirement,they
wbmitted retlactlons that their paricゎ
atOn was coerced
lhis school si■ ∝ puts the c。 10nial order ii a ne、 v perspecive ttainst reLgious
llu■ enanamsm
and arnled rebe■ ons,the co10mal state宙 elded a heaw hand on d10se
who Opposed ne studentsme did not pose,ュ
mclst of the students assen“
ch an htense co」 田ct and,in the end,
d that ul"paliClpated h the sute due“ cOerclon Tlle
case of the 1930 school strlke shows tllat,in the extemes ofideolo」
colonlal state forced the colo壼 zerS and the cO10nized tO felgn■
Cal cOntr。 1,the
■hgnesS to cooperate
mth ea■ other ln tllis wtt tlle loglc ofbenぃ olcnce was preserved
(追 絡先 :〒 18118633 東京都武蔵野市吉祥寺北町
ta■ eiolma@fh
3-3-1
成曖大学文学部
se■ el acjp,ta■ ciokada@gntan cOm)