Title Author(s) Citation Issue Date Type 農村不況へのふたつの答え−準戦時下の三多摩農村 佐藤, 正広 国分寺市史, 下巻: 573-629 1991-03 Book Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/17720 Right Hitotsubashi University Repository 第十章 満 州 事 変 の 意 味 農 村 不 況 への ふた つ の答 え - 準 戦 時 下 の三 多 摩 農 村 第 一節 第 九章 で は' 昭和 恐慌 以降 の農 村 不況期 ( 昭和 二年 から六年 ご ろ) に三多 摩 で' 人 々の暮 ら し向 き が 不況 によ ってど のよう な ば つは つ 影響 をう け た か、 そ し でそれ に対 し てと りあ えず と られ た対策 とそ の効 果 は' ど のよう なも のであ った かと いう ことを見 た。本 章 で は、 これ に つづ -時期' 満 州事変 から 日中戦 争 勃 発 ま で の期 間 ( 昭和 七年 から十 二年 ご ろ) を中 心 にと りあげ'第 九章 で見 た諸 問題 が' そ の後 ど のよ- な方 向 に動 いて い O . た かを考 え る。 はじ め に'第 九章 で取 り扱 った時期 と比較 したとき のこ の時 期 の特 徴 に ついて簡 単 に触 れ てお こう。 そ の第 一は、農 村 ・都 市 を問 わず政 治 上 ・経済 上 の 一種 の統 制 を求 める動 きが'自 然発 生的 に活 発 にな ってく る こと であ る。 そ し て これ ら の動 き は'第 九章 凪も触 れ た中 央志 向 を強 めて い-。第 二 に' 政府 はそれ ま で人 々の動 揺 や自発 的 運動 に対 し て いわば 場当 た り的 な対 処 を重 ね てき たが' .こ の時期 にな るとそ の対策 が 「国民更 生運 動」 と し て体系 化 され る。 そ の中 でt LL ま第 1の特 徴 と し てあげ た統 制 を求 める動 き が政 府 によ っ七 汲 みあげ られ' 国民 はそ の中 に組織 され て いく 。 こ の流 れ は次 の日中戦争 期 に は'総 力戦 遂行 のた め の 「国民精 神総 動員 運動」 へと つなが るも のであ る。第 三 は' こう した政府 の側 で の組織 化 と時 を同 じく し て' それ ま で各 個 に運 動 を続 け てき た無産陣営 の側 でも' 「無産 大 合 同」 と呼ば れ る運動 の組織 化 が行 われ た。最後 に' こう した 一連 の動 き の背 五七三 景 と し て見落 と し てな ら な い のは' こ のよう な組織 化 がす す められ る に際 し て満 州事 変 のも った効果 であ る。戦 争 状 態 の有 無 は' 第 九章 で検 討 し た時 期 と決定的 に異 な る条件 とな って いる。 以 上 のよう な点 を考 慮 しなが ら本章 で は' 主 に次 の二点 を めぐ って検討 をすす めて い- こと にした い。 第 一節 満州事変 の意味 第 十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村- 五七四 第 一は' 不況 のな か で人 々の経営 上 の対策 にはど のよう なも のが あ った か' ま たそ の対策 を講 じ よう と した時 に' どう いう障 害 が出 てき た かと いう点 であ る。 これ は第 九章 のテー マと重複 す る部分 が大 き いと思 われ る か7 9しれ な い。 し かし' 第 九章 で は 対策 と い っても' 地域開発 など の地域 を単位 と し た公 共事業 や補助金 など の政策 的対 応 が中 心 であ った のに対 し' 本章 で はそう した対策 が 必要 とされ る に至 る経 過 を み るた め に' 個 々の経 営 の中 で の不況 への対 処 と' そ の結 果 に・ ついてみ る こ七 に主 眼が お かれ る。 これ は第九章 で は正面 から と りあげ られず' む し ろ こう した個別的 な対 処 の結 果 を前程 と し て議 論 が 出発 し て いた ので あ る。従 って' 本章 では この点 に関 し て時期的 に第 九章 と重複 す る ことを避 けな い。検 討 す べ き第 二 は' そう し た事情 を背 景 に、 政 府 はど のよう な形 で対策 を体 系化 し た か' ま た無 産陣 営 の動き にはど のよう なも のが あ った かへ さら に両者 の関 係 はどう だ った かと いう点 であ る。 こ のよう な課 題 に ついて検討 をすす めるた め に' 本章 で は対象 地域 を北 多摩 を中 心 とす る三多摩 全 域 とす る。 一 養 蚕業 第 二節 う ち つづ く 不 況 への対 策 養 蚕業 で の対 策 第 一の' 人 々は経営 上 ど のよう な対策 を講 じ ょう と した か' ま たそれ に対 しど のよう な障害 があ った かと い う問題 に ついて見 て いく こと にしよう。 三多摩 にと って' 最も大 き な意味 をも った養 蚕業 の合 理化 と'経営 の角多化 の二 つにし ぼ って以下議 論 を進 めて いき た いと思 う。第 九章 では文 脈 の関係 上詳 しく は触 れえな か った ので'本章 で は少 しさ か のぼ って述 べて いく こと にした い。 ・ まず養 蚕業 に ついてみよう。繭価 格 は昭和 二年 (1九 二七) ■に大きく落 ち込 み' 昭和 四年 には 1時 回復 す るが' そ の後 金解禁 の影響 でま た落 ち込 んでしま い' 昭和 五年 には実 に前年 水準 の三分 の 一になる のであ った。 こ の中 で養 蚕中 心 の農 家 で は、 現金 収 入か半分 にな ってしま った. ま たへ 米価 の下落 も大 きく 米作農 家 でも収 入が 三割 ぐ ら い減 ってしまう と いう状態 だ った。 そ の 対策 と し て' 農 家 は養 蚕業 の枠 のな かで何 を しよう と し ただ ろう か。結論 から いう と大 きく分 け て三 つあ る。 そ の第 一は' 経費 を節減 し て超費 余 剰 を確保 し て いこう と いう動き で'今 日 の減 量経 営 にあ た る。第 二 は' 品質 向 上 に努力 し て' 少 し でも売 上高 を維 持 しょう と いう動 き であ る。そ し て最後 は 小- ら作 っても販路 が確保 され て 小なければ 元も子も な いと いう こと から'販路 を確保 しょう とす る動 き'以 上 の三点 であ る。 次 にこ の三点 に ついて順 を追 ってみ て いく こと にしよう。 集桑 青 の採 用 第 1の経費 節減 と いう対策 於が' そ の代表的 な例 は ; )の時期急速 に普 及 した粂桑青 であ る。そも そも養 蚕 はほ ざ そう いく と んど の工程が手作業 で'労働 力 を非常 に多 -投 じ なければ なら な い。' * の中 でも桑畑 から桑 の葉 を摘 んでき て' それ を蚕 に与 え る作業 には特 に多 量 の労働 力 が 必要 であ る。粂 桑育 と いう のは、 従来 の劉 桑青 では奏 の葉 を 一枚 一枚 摘 ん でき て' それ を細く 裁断 して蚕 に与 え て いた のに対 し て、 桑 を枝 ご と切 り取 ってき て、これ を蚕密 に のせてや ると いう 方法 であ る。農 林省蚕糸局 「 春 う ち つづく不況 への対策 蚕飼育法'補 温 及雇 人 三関 スル調」 には'粂 桑青 を はじ め' 各種 の飼育 法 に ついて の簡 単 な説明が なされ て いるが、 ここで粂 桑 第 二節 ( . D. 重 宝 垂 ≡≡ の の ■ t D OD r t O CJ l N ト ■ 一 " ● く つ l ⊃ J q ト . ▲ ( = > く つ 亡 ) トー ▲ くつ L > . A = = > J iく A く J ⊃ ■■ ー A C ■n LA D の L LA D ー 如 ・ U⊃ Cr l A . t D t D = > く = >( 一 、 コ d L D の 亡 . 】 ∩ L t d ヽ J ■ ⊂ . l C J D ⊂: > ⊂h . J l( 一 、 1 ⊃ ○ l LI J N ト . ・ . . ▲ こ八 つ N 亡 ⊃ t J . N■ 一 ⊃ 0 ト. 一 t O ( ⊃ く つ LA D A C J D … . … . J I 1 ⊂ hC ⊂: > ト ー ■ L C A D CA D 一 一 ■ ▲ く = : >-1 A く D の C「l ■ 巨 ■ . ト . ・ . ■ lo o 一 つl 〇 N 一 t J l く 亡 . 一 1 わ q ⊃ト l f i . … ー ▲ l Jゝ ー ■ -1 ゝ N 一⊃ 一 q つ q . の く == l トー ▲ Ln 翠 トー 一 一 Lt = の 、1 ⊃ -. コ ∽ ( ⊃ ○ く = = l l tn の t o t o D 。 ○ ○L . A . 8 亡 ,1 Ji S 斡 A Pf E E 【 町 C . n lの O O ● u ⊃ 一 戸 ー l l ■ 一 . ▲ i ⊂: > lヰ ゝ 一 事 ゝ . S NI ⊂ J 1 C D A t J▲ トー u⊃ ー ■ トー ■ ⊂ ⊃ 一. ■ ■ … t = : > ( つ く ⊃ ト ー ⊥ Ⅲ A 斡} 沖 H 旨f U1 … L I 1 く つ ヽ ⊂ ⊃ 亡 . r l ○ …○ 料 # Ut ○○ ○ ○ LL 3 、 1 … … lの く . ⊂ ) ロ ー l 一 一 一 トー ▲ . A0 0 A ( ) ○ト ー ▲ l l fー tjつ A LI J W の l ト一 ト. 一 A く つヽ . … … 亡 くd h l… よ っ く . D I. J -. ■ . Cl J く . D ト ー 一 一 一 一 " - 1 の lト ー ▲ 臣 〇〇 ( . 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つつ いて繭 と し て の形 を 置 いて' そ の中 で繭 を煮 る. 商 と いう も の は、 そ のま ま で糸 が と れ る わ け で はな い。 うちつづ-不況への対策 五七九 維 持 し て いる わ け であ るo これ を沸 騰 し た湯 の中 で煮 立 て てや る と' そ の腸 質 が 溶 け て し ま う 。 そ う し て は じ め て糸 が と れ る かい じよ よ- にな る の であ る。 従 って生 糸 の生 産 量 は操 業 釜 数 に比 例 す る と み て よ い ほど であ る。 そ れ を 二割 封 印 す ると いう こ (解 野 ) 第二節 第 十章 農村 不況 へのふた つの答 え-準戦時下 の三多摩島村- と は、事 実 上 二割減産 を意味 す る。 春 蚕 の打撃 はただ養蚕家ば かり でな-府 下 の製糸業者 も手 昭和9・ 製糸 家 は こ のよう にし て二割封 印 す る' あ る いは操業 休止 す るなど の手段 により減産 す ると い- 対策 を講 じ たわけ だが' そ の 府 下二十三 工場何れも赤字遂 に廃業者 も現 る︺ 効果 はと いう とあ ま.J S ,はかば かしく な か ったよう であ る. そ の間 の事 情 を示す と思 われ る記事が あ る ( 東京 日日新 聞 . ・24) 。 - ︹ 惨落 の春 蚕 地獄製 糸家 にも反映 痛- い. じめ つけられ て いかが' 府農林課 では府 下 の製糸 工場 二十三 を調査 したと こ ろにょ ると 殆ど全部が赤字 を出 し ており' 殊 に首釜 以上 の工 場 では欠損 二' 三万円が普通 であ る ことが判 明'今 更 なが ら驚 いて いる、 こ のう ち熊 川村 山 八製糸 工場と 町田町近藤製糸 と は事業 不振 に陥 った た め遂 に廃業す る こと にな っており、 こ のほか休業中 のも のは1 1 1 工場があ ると いう惨倍 た るも のであ った。 この両 工場 に ついで 昭和 六年 (1九 三 1) 「 東 京府 工場要覧」 ( 東 京府知事官 房 調 査課) で調 べてみる と' 町 田町 の 「近藤製糸 場 」 は' 昭和 五年 の開業 とし て掲載さ れ て いるが'熊 川村 の 「山八製糸場」 と いう名 称 の工場 は見当 たら な か った。 し かし' 山 (一九 三六) の 「 東 京府 工 八製糸場 は' 「明治後 期 の森 田製糸 工場 におけ る労働 事情」 ( 「みず -ら いど 12」福 生市史 研究) によれば、 明治 二十 三年 (1八九・ 〇) の創 業 で' 三多摩 でも指 折り に歴史 の古 い製糸 場 のひと つであ る。 これら の工場 は' 昭和十 一年 場要 覧」 で は完全 に姿 を消 し て いる。 こ・ の二年 次 のあ いだ で の製糸 工場数 の変化 を み ると'北 多摩郡が 昭和 六年 の二工場 から昭 和十 1年 の四工場 (ただ し後者 には民間経営 でな い 「 東 京府繭検 定所」 および 「 保 証責 任 生糸販売 組 合連 合会東京社」 の二工場 を含 む) へ増 加 し て いる以外 は' 南多摩 が 六 工場 から四 工場 へ' 西多 摩 が 〓 ハ工場 から 一 〇 工場 へ' 三郡合計 でも 二四工場 から 一八工場 へと減少 し て いる。 封印 を したりあ る いは休業 した にも かかわらず' こ のよ. う な経営 困難 に陥 って いたわけ であ る。製糸業 の状態 は こう いうも の であ った。 さ て' ただ でも経営 困難 な状態 であ る。 そ こに養 蚕家 が粂 桑青 を始 める。製糸業者 に してみれば'売 れ な いで困 って いると こ ろに'粂 桑育 などと いう手抜き飼育 を され' も しも そ のた めに繭 の品質 が悪 く な ってしま ったら'生糸 の晶質 や コスト にも影響 き ヽ 人 Lt 結 果 的 には自 分 た ち の経 営 を脅 か し かね な いと いう危 倶 の念 を いだ いた と し ても当 然 であ ろう 。 そ う し た危 供 は製糸 家 にと う' 極 めて切実 であ ったo そ のた め彼 ら は粂 桑 青 に大 反 対 を す るo当 時 製 糸 家 で は最 大 手 の片 倉 製 糸 ( 現 八 王 子市 所 在) で は' 生 商 取引 は来 月十 日を中 心 にはじま り 二十 日前後 が最 盛期 の見込 み で約 せいけん ・28)。 昭 4・5 飼 育方 法 にかかわらず優 良 な繭 が欲 し い︺. 三多摩 東京 日日新聞 条桑 青 に ついて次 のよう に語 って いる ( ︹ 製 糸家 が 買 う繭 百万貫 の取引 が行 われ る' 郡 下取引製糸 工場 は片倉系 の製糸 工場が大多数 を し めて いる' 同 工場・ の取引意 向 を聞 -と次 の通 り であ る。 目下府 下 にお いて激論 され て いる飼育 法問題 に就 いて普 通青 の南 か粂 桑育繭 か何れを購 入す るかと いえば' 当 片倉 系 の工場 は普通 育' 経 済 青 を問 わず優 良 な る生 糸 を取 り得 る繭 を購 入す る' 経済青 でも随 分優 良 な蘭 を生産す るが、目下多-行 われ て いる経 済青 は'手数 を省 - こと を主 眼 fJ L繭 質 不良 なも のが 比較 的 多数 であ る' 仮 に生 糸千 五百円 に納 め得 るも のと して購 入 した場合' 歯 質 不良 のた め千 三 百円 に下落 したとき は八 王子 工場だけ でも 月 五' 六千 円 の損失を蒙 る ので' 当 工場 は優 良 な繭 を生産 す る養蚕 組合 に飼 育法 を指定 し'物 質 的 に応 援 を な し優 良繭 を購 入 し人 綿糸 '支 那絹糸 の追従 を許 さ ぬも のを生産 す る に努 めると。 経済 青 で手 抜 き を され て' 質 が 悪 い繭 が でき て は困 ると いう のであ る0 製 糸 家 は昭 和 二年 に粂 桑 青 によ る繭 は取 引 を い っさ いしな いと いう こと を申 し合 わ せ た。 と こ ろが' そ のよう な こと を決 めて み ても' 養 蚕 家 は続 々と経済 育 t. 粂 桑 青 を始 め るわ け であ る から' 原 料 が確 保 でき な- な る。 そ のた め' こ の申 し合 わ せ はそ の 年 の内 にな し-ず L にな って し まう 。 そ う す ると次 に は' 繭 の取 引 方 法 を変 え る こと を申 し合 わ せ た。 そ れ ま で の繭 の取 引 方 法 は見 本 取 引 と い って' 養 蚕 家 が 一部 の見 本 を持 って いき ' そ れ を製 糸 家 側 が 鑑 定 し て' 全体 の契 約 を し て いた の であ るが ' 申 し 合 わ せ によれば ' 条 桑 青 によ る部 分 に ついて は全 数検 査 を す る。 具 体 的 に は' 紫 外 線 を 虜 て て中 身 の検 査 をす ると いう こと にな 暗 2・6・2)0 繭価 引 下 の貯 手段だと︺ そ ろそ ろ府 下 の春繭 も 出 回 る時 期 と な ったが' 府 下製 糸 同業 鼠 合 では去 東京 日日新聞 った。 これ に対 す る養 蚕 家 の反 発 の声 が 次 のよう に紹 介.され て いる ( ︹ 製 糸家 側 の粂 桑 育排 斥 に養 蚕家 いたく憤慨 ( 月)三 十 一日立川 町府 立蚕 業 取締所 に臨時 総会 を開 き'最 近府 下 に非常 な勢 い・ で普 及 し っつあ る粂 桑青 に つき 協議 の結果 、同法 による時 は歯 質 を 不良 な ら しむ ると て排 斥 を決議 しそ の実 行法と して従来 の慣例 にな って いる見本 取引 を同飼 育法 のみ避け総荷 による取引 に改 める こと に決定' 第 二節 うち つづく不況 への対策 第 十章 農村 不況 へのふた つめ 答 えー準戦時 下 の三多摩農村- 五八 二 それ より府 立蚕巣試 験 場を訪 問 し同法 によ る飼育 法 を視察 し右 反対 の事情 を述 べ ると ころあ った' 右 は片倉製糸 会 社等が 主とな って行 ったも の であ るが' 八王子市貴会 で聞 - に製 糸家 から見 れば 条桑青 によると幾分解 じ ょが 悪 - こ の点が 欠陥 と され るが' 一方養 蚕家 の立 場 から見れば 同 法 は頗 る手数 の省 け た経済的飼 育 法 で長 野' 群 馬等 の先 進 地 は殆 ど同法 によりt.府 と しても 同法 を奨励 して いるも ので大局 から見れば排斥 す べ き も のではな い' 右 の排 斥 は製糸家 と して の立場 から のみ見 たも のであ ろう と静 って いた' 又 1養蚕家 にただす と' いたく製 糸家 の横暴 を憤慨 し、資 本家が われ われを苦 しめるも のに外 な ら ぬ'そ の排 斥 も養蚕が始 ま る前 にでも され た のなら又き く処もあ ろうが蘭が 出廻 ろう とす る直前 に 行 う のはそれ によ って繭価 を引 下げ ようとす る手 段と し か思 えな いと い っで いたQ相当解 決 ま で面 倒 の模 様 で府 の立場も 困難 のも のがあ ろう. 以 上 のよう に養 蚕 家 と製 糸 家 の間 に' 条 桑青 を めぐ って対 立が生 まれ てY る。 これ を受 け て' 指導 ただ」 零 細 経営が多 い養 蚕家 の状 況 を反映 し、 そ の反発 は組織 的 な形 を と ,ってはあ らわれ て いな い。 指導 機 関 に も 対 立 が 波 及 機 関 の間 にも対 立が生 まれ たO当 時' 東 京府 の蚕糸 業 の指導機 関が 二 つ存 在 した. ど ちらも農 林課 に所属 す る組織 であ るが' ひ と つは蚕業取締 所' も う ひと つは蚕業 試験 場 であ る。似 た よう な名 称 でまざ らわ し いが' これ は別 々な 組織 であ る. 0. こ のう ち蚕 業取 締 所 が'条 桑青 に対 し て肯 定的 な立場 に立 った。 これ は実際 に町 や村 にまわ って'養 蚕家 の経 営 の改善 等 々の線導 を し て い る役所 であ る から'養 蚕家 は苦 し いと いう こと が' 現場 で の業 務 を通 じ てわ か・ つて いた のであ ろう。 蚕業 取締 所 が条 桑青 に対 し て肯 定 的 にな った のは' そ- した背 景 があ って のi Jとと思 われ る。 これ に対 し て蚕業試 験 場 は条 桑 青 に反対 した. こちら はより じよ A r 1 し よ 学術的 な レベルで検 査 ( 歯 質 等 に ついて) や試験 をす る場所 であ った ので' 蚕業 取 締 所 に- ら べれば'養 蚕家 の経営実態 に深 - 古 井府農林課長 は井上 蚕業取締 所 長 奥 田 (立川) 山本 0 昭5・5・ 29 ) か_ かあ る ことが少 な か ったと思 われ る。 こちら の側 で は粂桑 青 による繭 偲晶質 が悪 いと いう主張 を し て いる。 こ の二 つの場 所 の 井上蚕業 取締 所 長と立川 町鈴 木蚕業 試験 場長が︺ 長 が' あ る所 で はち合 わ せを し て大論戦 にな ったと いう話が' 新 聞 に紹 介 され て いる ( 東京 日F 。新 聞 ︹蚕経済青 の可否 またも論戦 の花 ( 福生) 両取締所支所長河 合技師等 を従 皇 子 七 日府 下各 地 の蚕況 を視察 したが' 同 日年後 一時 半 立川 の府 立蚕業試験 場 に立寄 り春蚕飼 育状 況 を視察 した' こ の際試験 場長 は日下 五齢期 の屋外条 桑青 を課 長等 に見 せ' 該飼育 法 の欠点 を述 べた処 同行 の井 上所 長 は これ に反ぱ くを与 えた' 鈴木 場長 は依 然と して条 桑育 そ の他 の経 済飼 育 によ る繭 の 「 南 層厚薄」 「 糸長 の長短」 「織 度 の細 大」 「 解 野 不良」 等 に つき 述 べれば' 井上所 表2 粂 府 県 名 奉 蚕 戸 数 実戸数.延戸数 桑 青 の 飼ヽ、 育 方 法 別 戸 数 の 割 合 ㈲ 判桑育 到芽育 普 及 (昭和 1 0 年) 掃立数量 飼 育 方 法 別 掃 立 数 量 到桑育 仝芽育 到桑仝芽育 条桑育 判 芽育 仝芽育 判 桑全芽育 の 割 合 ( %) 桑 育 屋 内飼育条屋外飼育 計 茨 城 61, 7 4 5 61, 7 4 5 1. 0 3. 9 4. 1 1 6. 6 7 4. 4 3, 1 3 グラム 3, 41 4 0. 5 2. 7 3. 3 1 4. 6 3 2. 6 4 6. 3 7 8. 9 栃 木 1 8, 4 0 2 2 0, 8 6 0 0. 8 3. 5 2. 6 1 3. 0 8 0. 1 8 31, 7 8 0 0, 9 3. 6 2. 8 1 3. 5 4 4. 0 3 5. 2 7 9. 2 群 馬 7 9, 9 0 5 8 2, 7 5 8 1. 5 5. 1 4. 9 2 7. 5 61. 0 6, 0 4 9, 0 7 8 1. 1 4. 5 4. 8 2 6. 6 3 2. 6 3 0. 4 6 3. 0 埼 玉 9 3, 5 0 6 9 5, 5 5 2 1. 1 1. 3 0. 9 2. 2 9 4. 5 5, 4 4 2, 3 7 0 0. 6 0. 6 0. 5 1. 3 4 9. 2 4 7. 8 9 7 . . 8 千 葉 3 3, 7 8 0 3 7, 9 6 6 1. 0 6. 3 3. 4 1 6. 2 7 3. 1 1, 7 7 7, 61 9 0. 4 4. 2 1. 7 1 5. 9 5 5. 2 2 2. 6 7 7. 8 東 京 1 8, 81 4 2 5, 1 6 9 4. 0 6. 0 8. 0 1 5. 0 6 7. 0 1, 1 9 2, 5 6 6 5; 0 4. 1 5. 0 1 0. 5 6 0. 0 1 5. 4 7 5. 4 注 1「 延戸数」 とは複数の飼育方法 を挽用 している養蚕家があるばあい、それ ぞれの方法につ いて一戸 と重複 して算 えた もの。 また、「 飼育放法別戸数の割合」が、「 実戸数 」 「 延戸 数」のいずれに対す るものなのかは明記 されていないが、「 延戸数」に対す るもの と推定 され る。 2各飼育方法につ いては、原資料 に以下の ような説明がなされてい一 る。 ( 1 ) 判桑青 とは三齢又は四齢迄 別集 を給与 し、其の後条桑にあ らざる桑葉 を給与す るもの を言 う ( 2) 判 芽青 とは三齢又はE q齢迄到芽 を給与 し、其の後条桑にあらざる桑葉 を給与す るもの を言 う ( 3) 全芽青 とは三齢又は四齢迄全芽 を給与 し、其の後免桑にあ らざる桑葉 を給与す るもの を言 う ( 4) 判桑全芽青 とは- ∼二齢 に於 て到 菓又は判芽 を、三 一四齢 に於 て金芽 を給与 し、五齢に於 て条桑にあ らざる桑葉 を給与す るもの を言 う ( 5) 条桑青 とは-齢乃至三齢に於 て如何 な る給桑方法 を為す も、四齢以後に於 て条桑 を. 給与す るもの を言 う 尚以上五種の飼育法に的確 に該 当せ ざるものは最 も類似の飼育法中に算入せ り ( 以上原文 の まま。但 し正字片カナ交 りを新字平か な交 り文 に変 えた) 妹1 1 転 爪4 0ぐ● ぐ V K. q S(Q夜継 哨<1 1 1 第 十章 農村 不況 へのふた つの答 えー準戦時下 の三多摩島村- 五八四 長 は 「実 際 養 蚕家 の立 場と して経営 上 の経済 問 題」 に つき 述 べ' 苦境 の養蚕家が生き る道 は経済飼 育以外 にな しと花 を咲 か せた ので' 見 兼 ね た 古 井課 長が 「まあ せあ」 と伸 介 に立 ち事 なぐ済 んだ' 府 下蚕糸業 の二大指導当局 の長 と し・ て昨年 来 の正反対意 見が 衝突 したわけ であ るが、 1般 当 業 者 側 も こ の問題 には何 か に つけ て不都 合 の点が多 いと去就 に迷 うも のが多 い。 こ のよう な対 立 が指導機 関 にも生 まれ て- る ほど'養 蚕家'製 糸業者 の利害 対立 は ぬき さ しな ら な いも のがあ ったと いう こと であ ろう 。 こ のよう な困難 はあ ったがt と にか-養 蚕家 は経 営 困難 に陥 っており' 続 々と粂 桑青 に転 じ て い った。製 糸 家 が 抵抗 を試 み て も そ の圧力 をどう しよう も な-' 昭和 五年 (1九 三〇) には八割方 が条.桑青 にな って いると新 聞 は報 じ て いる。 こ の点 を確 認 す るた め'年 代 は少 し下 が るが昭和 十年 の春 蚕 に ついて各種飼 育法 の普 及程度 を調 べ てみた ( 表2)。 これ によ ると' 東 京 では条 桑青が 戸数 で六七 パ ー セ ント' 掃 立量 で七 五 パ ー セ ントであ る のに対 し、判 桑青 はそ れぞ れ 四 パ ー セ ント' 五 パ ー セ ント にすぎ い。 な 以 上が第 一番 目 の対策 の経費 節 減 と'そ れ に対 す る障害 であ.る。 ただ し こ こで注意 し てお かなく て ほなら な いのは'条 桑青 の 採 用が た し か に個 別 の養 蚕 家 にと って は経費 の節 減 に つなが ると し ても'農 村経済 全体 と し ては必ず しも プ ラ スの側 面 だけ で は な か ったと いう こと であ るo つ計 り'養 蚕繁 忙期 におけ る労働 力需 要 が大幅 に減 少 す る こと は、農 村 におけ る雇 用機会 '従 って 農 家 にと って の現 金収 入源 が失 われ る こと窒 息味 し た から.であ る。 こ のこと に ついて は'後 に組 合製 糸 に ついて述 べる際 にあ ら . 次 に第 二番 目 の晶質 向 上 であ るが' これ は東京 府 と養 蚕 実 行 組 合が 共 同 で行 った繭 の晶質検 定 をあげ てお こ た め, V触 れ る こと にし た い. 南 の検 定制 度 う。検 定 と い っても' そ の意 味 は にわ か には了解 され な いかも しれ な い。実 はへ これ を めぐ っても養 蚕家 と製 糸家 の利害 砂絡 み あ いが みられ る のであ る。次 に こ の点 に ついてみ て いこう。 前 述 のよう に製 糸 家 は こ の時期 非常 な経 営難 に陥 って いる。 そ のた め少 し で も 良質 の蘭 を' 少 し でも安 -欲 し いと. いう要求 は' それ ま で にな-高 ま って いたと考 え られ る。 そ こで養 蚕家 と の取 引 で製 糸 家 は繭 を買 いたた- こと にな るが それ に対 し て養 が 蚕家 はな かな か有 効 に対抗 でき な い条 件 の下 にあ った。 なぜ な ら' 繭 と いうも のはそ のま ま放 置 し て おく と 一週間 ぐ ら いで蛾 が 出 て し まう ( 「発 蛾 」 と いう)。 そ の蛾 の出 たあ と の繭 を出 殺菌 と いう が' これ は織 経 が切 断 され て いて製 糸 の役 には立 たな いの で'商 品価値 が な いo そ の七 め養 蚕家 はど う し. ても売 り急 ぎ をす る こと にな る。 .こ のよう にし て製 糸 家 は買 いたたき 、養 蚕 家 は 売 れ急 ぐ 。売 り急 ぐ上 は' 製糸 家 に対 し て' 晶質 に応 じ た価格 を要 求 す る ことも 思 う にま か せな い。替 蚕家 は 1方 的 に弱 い立場 にたたされ て いた のであ る。 そ こで府 が ( 言 い換 え れば お上が) 品質 検 査 を し てt , ) . Q繭 は これ これ こう いう晶質 であ ると iう・ 公式 の保 証 を与 えれば凄 秦 府 では 乾 商 取引 の奨 励並 び に かんけん 繭 質 改善 に資 す るため繭 .Q検定 規 けんし つ 家 の立 場 も少 し は強 - な るだ ろう と いう考 え方 が出 てき た。東 京 府 で は昭和 三年 (一九 二八) に繭 検 定 規 則 へ 昭 和 三年 東 京府 令 昭3 」5 ・30 )0 繭 の検定 規則定 き る 予算 二千 五百円 で試験場 に委任︺ 東 京 日日新 聞 第 四〇 号) を定 めて いる ( ︹ 養蚕製 糸家 の福音 則 を制定施 行す る こと とな った' 本年度 予算 は二千 五百円 な るを以 って こ の範 囲 にお いて立川 の府蚕業試験場 に委任 し検査 事業等 を 行 わ せ る が、 こ の検査 が施行 さ るる ことと なれば 養蚕家 にと って はへ 一' 蚕 の実質 が 明 ら か にな るた め蚕相当 の価値 で売買が でき る。 一、 生菌 取引 の様 に際物 取引 を しな-ともす む。 一㌧次第 に繭質 の改良が 出来 る。 一'保 管繭 に つき金 融を受 く る場合 も これが標 準と な る。 等 の利 益あ り 一般製 糸家 にも 同様 の利益があ るt 検定規則 は次 の如- であ る。 一t検定 は東京 共同繭倉庫株 式会社'農会' 蚕業組 合' 養蚕組合 また は蚕糸業 の改良発達 を目的 とす る団体 の申請 によりて これを行 う。 一t 検定 に供す る繭 の数 量 は生菌重 量 により 一検定 口官 貫迄 は春 蚕繭 は三 百四十匁秋蚕繭 は四百匁 とLt 百貫 迄 を増す毎 に春繭 は百五十匁夏 秋蚕繭 は二百匁 を加う るも のとす' 但 し 1検定 日五首貫 を超 ゆ る場合 に於 いて はそ の都度 これ を定 む. 一㌧ 繭 の検定 は左 の方 法 により これを行 う。 第 二節 うちつづく不況 への対策 第十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村I イ'繰 糸前検定 に供す る繭 に付 同功繭' 死瀧南 そ の他製 糸 に供す ること能 わざ る繭 を選険 し選 除繭 の歩 合 を定 む。 ロ' 工女 二人 以上 に練 糸 せし め' そ の合計 を製糸 量とす。 ハ' 練糸. は四枠 繰と し繊度 は春蚕繭 五粒付'夏秋 蚕繭 六粒付 を標 準とす。 ニ'中枠 の回転 は 一分間 二百 メート ル巻取 を標準とす。 ホ' 生糸 量 は正量 により之 を定 む. へへ 生糸 十匁 に対す る練糸時間 は十 四デ ニー ルに換算 し算 出す。 当初t検 定作業 は府 の蚕業 試験 場 に委 託 し'養 蚕家 が そ ちら に持 ち込 んで い- と いう方 法 をと って いた。 五八六 これ に対 す る養 蚕家 の期待 は非常 に大き か ったら し い。 なぜ なら昭和九午 (一九 三 四) の十 月 には府 立繭検定 所 と い・ う専門機 関 を設 け て' 本腰 を 入れ て検定事業 に乗 り出 し て いる から であ る。公的 な品質検 査 に対 す る要 求 の高 まりと'府 県 によ るそ、 の実 施 は' こ の時期養 蚕巣 のみな らず'多 く の晶 目 に ついてみられ る現象 であ るo こ のこと に ついては後 段 でも. う少 し詳 しく み て い く こと にした い。 「 乾 繭倉庫」 の設立 養 蚕業 の不況 対策 と し て最後 にあげ. た のは'販路 の確 保 であ るが' 三多摩 で は これ は大 き-分 け て二 つ の事業 があ る. そ のいず れも 町や村 の養 蚕実 行組 合が適 合 して行 い' それ に対 し て府が補助 をす ると いう事業 であ った。具体 的 に いう と 一つは大 正十 五年 (一九 二六) 設 立 の東京 共同繭倉 庫 ( 別名 「 乾繭倉庫 」。 ま た は 「 繭 倉庫 」。本稿 は以 下 「 繭 倉庫」 を 用 いる) であ り' もう 一 つ は 昭和 八年 設 立 の組 合製 糸東 京社 ( 正式 名称 は 「 保証責 任 生糸 販売 組合連 合会東京社」 以 下 「 東京 社 」 と略 記) であ る。. 順を追 ってみ て い- こi Jにしよう? まず 繭倉 庫 から み て いこう。前述 のよう に繭 を生 のまま で置 いておく と 1週間 ほど で発蛾 Lt商 品 と し七 の価値 を失 ってしまう から'養 豪 家 は どう しても売 り急 ぐ。 これを長持 ちさ せる方 法 と し て'繭 を乾燥 し蛾 を殺 し て ( 殺嫡)保 管 し ておけば よ い。 そ のよう に処 理す ると長期 間 の保存 が 可能 にな り' 従 って相場 を みて 高 いとき に売 る ことが でき る。 と ころが' これ を採用す る には二 つの問題 が あ る。第 一は' この乾燥 す る設備 が高 価 だ と いう こと であ る。普通 の農 家 の資 金 力 で はとう て い買 え な い。第 二 は' 仮 に乾燥 す る設備 は買 ったと し ても'養 蚕 経 営が 大 き な比 重 を占 める こ の地 域 で は'養 蚕 家 は繭 を でき たとき 一挙 に売 って' そ の代 金 で米 そ の他 の生活 必需 物 資 を買 い入 れ る必要 が あ る。 そ のた め相 場 を み る よう な余 裕 は普 通 の農 家 にはな い。 こ の二 つの問 題 が あ るた め' 乾商 取 引 はそ の 利 点 が あ き ら か であ る にも か かわ らず 導 入が 困難 であ っ た。 そ こで構 想 さ れ た のが繭 倉庫 であ った。繭 倉 庫 の基 本 的 な考 え方 は次 のよう なも のであ る。乾 燥 機 を共 同 で買 い入れ る。 そ し てそ れ を用 いて製造 し た乾 繭 の保 管 ま で共 同 でや る。 さ ら に現金 収 入 の確保 のた め' 保 管 し て お- 間 の信 用 の供 与 も す る。 こ の よう な方 針 を立 て て始 められ た のが' 東 京 共 同繭 倉 庫 であ った。 蘭 倉 庫 によ る具体 的 な取 り扱 い手 順 は次 のよう であ る。 まず 最 初 に養蚕 家 は繭 を作 って' 生 の繭 を繭 倉 庫 に持 って行 - 。 す る と' これ に対 し て繭 倉 庫 で は繭 何 貫 目預 かり ま した と いう こと を記 した証 券 ( 倉 荷 証 券 ) を出 す 。養 蚕 家 はそ の証 券 を持 って銀 行 へ行 く 。 銀 行 で はそ の証 券 に記 載 され た繭 量 に応 じ' そ のとき の市価 の六 掛 か七 掛 ぐ ら いで証 券 を割 り引 いて- れ る。 こ のよ う にし て養 蚕家 は現 金 を手 にす る ことが でき るわ け であ る。 決済 は後 に銀 行 と繭 倉庫 の間 で行 う ので' 結 局養 蚕家 に対 し て蘭 倉 庫 が 立 て替 え を し たと いう形 にな る。 そ し て'繭 は繭 倉庫 で乾 燥 し て倉 庫 に保 管 し て お- 。養 蚕 家 は相 場 を みなが ら高 価格 と判 断 し た時 に保 管 し てあ る繭 を売 る。 そ の結 果得 た売 却 代 金 のう ち から' 繭 倉 庫 によ る立 て替 え部 分 を差 し引 いた残額 を養 蚕 家 が これが 円滑 に いけば養 蚕 家 ' 繭倉 庫 へ 銀行 の いず れも が何 ら か の恩恵 をう け る こと にな る はず で 手 にす ると いう仕 組 み にな って いた。 武 陽銀 行 が 証券 割 引 を拒 否 あ る。 と ころが これ に対 し て は銀行 業 の側 から強 い反対 が あ った。 そ の原 田 と し て は次 の二点 が 考 え られ る。 そ の第 一は' 昭和 二年 (一九 二七) に発 生 した金 融 恐慌 によ る銀 行 の経 営 不安 であ る。 金 融 恐慌 と いう名 前 からも わ か るよう に' 銀 行 業 も こ の時 大変 な経 営 困難 に陥 って いる。 昭和 二年 四 月 二十 三 日付 の東 京 日 日 ち ょ っと 波 紋 を 措 いたが 先 ず 之 で波 も静 か に︺ 財 界 安 定 のた め徹 底 的 に救 済 す る と いう 政 府 の声 明 が ' ど れ だ 新 聞 の府 下 版 に は 「1斉 休 業 に銀行 大 喜 び」 と いう見 出 し の下 に次 のよう に報道 され て おヶ' 当 時 の状 況 を よく伝 え て いる. ︹一斉 休業 に 銀 行 大喜 び 第 二節 うち つづく不況 への対策 第十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村- 五八八 け銀行業著 を喜 ば せ 一般 取引 者 に安 心を与 えた事 か' 二十 一日第 十 五銀行 の休業 が 八王子 に伝 わ るや、 先 に近江 銀行 の休業 で神 経 をとが ら せて いた機 業関 係 の気早老 が そ れき たとば かり に川崎 銀行 の窓 口に馳 せ つけ た' これが波紋 を措 いて午後 の 1時 頃 から銀行前 が人 の波、 内 では江 橋 支店 長が 札 たば を窓 口にうづ 高 く積 み上げ さあ いら っし ゃい現金 は こ の通 り いぐ ら でも払 い戻 します。 と落 着 き を見 せて いる。 行 員 の眼 は張 り切 ってかが やく' 巡査が 入 口を整 理す る' こう した時 の御走 り で いろ いろな流 言が 伝 わ る' 東 京 の本店 が 休業 し たなどと 不安 な ふん囲気が 漸く濃 厚 なら んとす る時 だ った。あ わ ただ し い自動車 の爆音が 銀行前 でピ タ リと止 ま ると 中 から か つぎ 出さ れ る紙幣は 何十 万 か或 は何 百万 円 か' 兎も角 も せま い窓 口には並 べ切 れず支店 長 の机 の上 に山と積 まれ る' そ し て本店 休業 など は飛 ん でも な い 噂' 至 って平静引 出者 も余 りな いと いう事が わか か' いや安 心安 心と誰 かが い った こ の 11 1 1 1 口を し お にほ っと胸 な でお ろし た態 でみ んな帰 って い く' 銀行 で は 明 日も引 続 き営 業致 す べく侯 と大き -書 いて はり出 しぐ っと自 信 のあ る強気 を見 せる「 .こう してそ の夜 も ふけ て二十 二日 の午 前 1時 頃 だ ろう' 本社 の特 報 は二十 二' 三両 日 銀行 は 一斉 休業 払戻 し小 口制 限 と いう政府 の発表 を掲げ た' 銀行大喜 び早速 明 日も引 続 の紙 を ひ っペが し て全国 銀行 一斉 休業 の写真 のよう な は 府中 銀行 は国分寺支店 と共 に二十 二日から 二日間 の休業 を発表 した' 桑 田頭取 は 「 東京 市 内 銀行 の総 り紙 を′ 墨 く ろぐ ろと はり出 し た' これ で 一切 万事波静 かあ と は政府 を信頼 して可なり' 二十 一日川崎 銀行支店 で受 付 け た預 金払 い戻 し老 五 百十 銀行 側 も楽観︺ 三 人払 い戻 し金 額 九十 万 円 な り ︹ 案 外 冷 静 な府中 方 面 休業 を御 紙 の号外 で知 り平井 国分寺 支店 長と協議 の結果取引上 の関係 もあ る ので之 に倣 って休業 す る こと に七ま した' 二十 一日も当 行 は別 段平 常 と変 り はな- 休業 明 けと し ても 同様 と思 って います' 当 地方 は養 蚕期 即 ち五月中旬 から金 融活 況 に入 る のが 例 で目下 は最 も閑 散 期 であ る から 影響 は少 い筈 です' 取付 けが 却 て預金者 にお利 益 な こと は七十 八銀行 など の前 例 で 1般が体 験 し て いる のでtLJの様 な場合 預金 者 は極 め て冷 静 に善 後 に処す と い った風が あ る' それ にこ の銀行 は三菱関係 です から市内 銀行 の波 及もあ りま せ ん」 と楽観 し て いた、 調布 銀行も 殆 ど 同様 状態 であ る、 府中 郵 便 局 では 「二十 日 は市内 銀行 取付 の影響 から幾分小 口の預金があ りま したが 目立 つ程 ではな-今朝 (二十 二日午 前十 一時半) ち 貯金 の方 の預 入 れ払 出 し共 に平常 と変 りなく人 心 の動揺 し て いる模様 はな い」 と い って いるが、 府中 署 では各方 面 の非 常警 戒 を行 って いる。 ■ こ の時期'銀行 が経営 困難 にな り' 休業 が相 次ぎ' 弱小銀行 は次 々. と合併 され て いく と いう状態 であ った。 金 融恐慌 が おき る前 ま で は' 全国各 地 に地方 の有 力者 が設立 した小 銀行が数 多 くあ った.国分寺 村 の近 辺 で いう と' 例 えば府 中 銀 行' 調布 銀 行' 田無 銀行'中 野銀行 なぜ' ま た三多 摩 の中 の他 の地区 で いう と大 き いのが 八王子 の第 三十 六銀行 で' これ は 明潜時代 に設 立 され た第 三十 六国立銀行 の後 身 であ る。 それ から東 村 山 の東 京殖産 銀行' 羽村 銀行' 氷 川銀行、青梅銀行' 立川 の多 摩農 業 銀行 などがあ った。 ちな み に今掲げ た銀行 の多 く はそ の後' 合併 し て武 陽銀行 とな り' そ の後 さら一 に日本 昼夜 銀行 と いう安 田系 の銀行 忙合併 され'今 では大体協 和 埼 玉銀行 (1部富 士銀行 および三菱 銀行 。 図2) の支店 にな って いる。 こう いう小 さ な銀行 が、 経営危機 にな って合併 され て いく と いう状態 は' ≡多摩も 例外 ではな か った。銀行 にし てみれば' た だ でも経営危機 の時 期 に、値 動きが非常 に不安 定 でリ スク の大 き な養 蚕業 に対 し て' 融資 す るなど と いう危険 な こと は' 避 け よ う とす る のが当 然 であ る. これが第 1の原 因 であ る. 第 二 にも っと直接的 な原 因が あ る。当時 の銀行 は' 一般 に荷 為替 業務 のた め自前 の倉庫 を持 って いて' そ こで商 品担保 の貸 し 付 け をす ると いう事 業 をや って いた。今 名前 の出 た武陽銀行 はそ の代表 であ る。そもそも倉庫業 を営 ん で いたも のがt. 銀行業 に 転 業 したも のもあ った。銀行 の中 には東 京 共周繭倉 庫 の設 立 より前 から'自 前 の乾繭倉庫 を持 つも のがあ った のであ る。 そうす ると直 接的 に競争関 係 にな ってしまう。 そ の競争相 手 に喜 ん で融資 す るわけが な いであ ろう。 昭2・6 ・ .15)0 I 立川 町 の支店 に最 も大き な倉 庫 を有す る武陽 銀行 こ のような こと から' い' - ら東京 共同繭倉 庫 の方 で'倉荷証券 の割引 方 を交 渉 し. ても' 銀行 は首 を縦 に振 らな いと・ 1う状態 に な った ( 東 京 日日新聞 ︹二行 に裏 切 られ て武陽 の態度悪化 か 各 \方 面 の注 目集 ま る 今後 円満関係 は至難 の模様︺ が東京 共 同南倉庫会 社 の倉庫証券引 受 に つき これを見合 わ せたと は' 単 な る倉 庫 会社 の悩 み であ るば かり でな-' 三多摩 蚕糸界 に 一大 セ ンセ ー シ ョンを巻起す と 同時 に' 倉庫 会社 と倉庫証券引受 の契 約を結 んだ 八王子市 の第 三十六銀行並 び に川崎 銀行支店 と武陽 銀行と の間 に大き な溝 を 形成 され たも のと して各方 面 から今後 の成行き を注 目され て いるが1 こ の間 の消息 を聞けば そ のはじ め乾薗倉庫 から武 陽 銀行 に交渉 の あ っ た 際' 武陽 側 では会社 のいうが 如- そ の設備 にお いて専門家 学者等 の保証 あ る上 に各 地乾繭倉庫会社 の実績 によるも 何等懸念 なしとす るも' 肝腎 第 二節 うちつづく不況 への対策 日野銀行 ( 武相 銀行 ) ( 和泉 銀行 ) 明 41瀬 谷銀行 原町 臼支店 大 正3開 設 四谷銀行 田無支店 大 H青梅 町 信 用組合 開設 図2 多摩 の金融機関系統 図 ( ﹃多摩 のあ ゆ み﹄ 創刊号) 第 十章 農村不況 へのふた つの答 え-準戦時下 の三多摩農村- 武相銀行 ( 相 原村 ) 武蔵野銀行支店 ( 八王子 ) 東 海貯蓄 銀行 ( 八王 子 ) 三井 銀行支店 閉 鎖 大 11開 設 立 川支店 五九〇 昭 18支店 に昇格 昭 19開設 三和銀行墳支店 昭19開 設 南 口支 店 昭16 鎌 倉 鈍行 町 E B支店 - 横 浜銀行 昭17開業 八王子信 用組合 昭16設立 町 田町信 用 組合 昭 11商 号変 更 第 百銀行 昭 11合併 によ り開業 日本勧業 銀行 立 川出張所 武蔵 野信 用組合 有 限責 任 立 川信 用組合 右記 2組合昭 8創 立開業 川崎第 百銀行 9 ・15合併 により 昭 2・ 昭11廃 止 により業 務継承 r 昭 5・l・24 ヽ / 府中支店 国 分寺支店 吉祥寺支店 八王 子支店 周1 8 1 4 合併 旭銀行 ( 八王子 ) 明3I創 葉 東京府農 工銀行 川崎銀行 八王 子支店 川崎貯蓄 銀行 八王子支店 右記 2店 大 4開設 昭1 7 ・ 4 ・ 2 7買収により㈱三難 行 八 王子銀行 三井銀行支店 ⇒ 32創 業 銀 店 21 行 鴻 通銀行 ( 八王子地方 の銀行︺ 明 26解 散 武 蔵 野 銀行 田銀行 ( 中 行 銀支 京祥 東書 l店 呈 府 ・蔓 国 l 武蔵 野銀行 ( 中藤 ) 玉 川銀行 ( 小平 ) 明 浅 府中銀行 勧業 貯蓄 . 拝島 産業 昭61 2. 1 6 買収 東京中 野銀 行 i 行 銀) 宿 行 江 銀 国大 蔓 分 店 立 1 設 与 8 5 妻 店 祥 音;S l 設 1 開 大 享 7 S 1′ 第 二節 うち つづく不況 への対策 野 読 店 五 九 第 十章 島村不況 へのふたつの答え-準戦時下の三多摩農村- 五九二 な入庫繭 に万 1かび等 の生 じた場合、 会社 と し て これ に絶 対 の責任 を負 うや香 やを ただ したと ころ' 極 めて不確 実 な挨 拶 で結局責任 を負 う こ+) を避 け るが如き態 度 であ った ので、 いや し-も荷 主 に対す る信用 を保持 して これ に金 融 の途を講ず る銀行 と して軽 々し- そ の要 求 に応ず べき 性 質 の■ も のでなく' 銀行 と して ほ甚 だ 不本意 なが ら せめて本年 一杯' 会社 の実 情 を みた上確実 であ る ことを認 めてからあ ら ためて交渉 に応ず る こ とと な ったも ので' そ の後 武陽側 に対 し八王子市 の三十 六銀行 と川崎 銀行支店 から相談 を かけ たが' 両行とも武陽 同様 の意 向 を有 し おり' 協議 の結果 この問題 に ついて は' 三銀行が 一致 し て同 一の歩 調をと る ことと な り' 従 って今年 は 証 券 引 受 を見合 わ せると いう申 し合 せが でき た の であ る' 然 る に三十 六と川崎 は如 何な る事情 から か こ の申 し合 せを破 りへ 武陽 銀行 に何等 の相談 も なく突如 と して会 社 の交渉 に応 じた次第 で' 結 局 武陽 銀行と しては三 十六と川崎 のた め に申 し合 せを裏 切 られ 同業者 とし て の徳義 を無視 され たも のであ り' 従 って こ の際あ ら た めて会社 側 から武陽側 に交渉あ りとす るも武陽 銀行 と し ては意 地 でも これ に応ず る の余 地 な かるべく' 今後 におけ る会社 と の関係 を危 険 に導 いたも のであ ると同時 に二11 +六並 び に川崎 に対 しても 同業者 とし て の円満 な関係 に 一大暗 影を投ぜ られ たも のとし てそ の成行き は 1般 に深甚 な注意 を払 われ て いる。 ここで関係す る のは' 武陽銀行 と第 三十 六銀行 と川崎 銀行 の三行 であ るが' この三行 は' い った んは. 共同歩調 をと って倉荷証券 を引き受 けな いこと にしたも のの' 三十 六銀行 と川崎銀行 はそれを覆 して引き受 け る こ. とを決 めたと いう のであ る。そ の時武陽 昭2 ・6 ・15)0 右 に つき 武陽 銀行 の重役中 村半左衛 門氏 は立川在 大神村 の自 邸 で語 る 「 武陽 と して の差 当 り の懸 念 銀行 の重役 はイ ンタビ ユ . Iに応 じて次 のよう に語 って いる ( 東京 日日新聞 ︹二行 の真意が判 ら ぬ 中 村 武陽 重役談︺ は設備 の点 で' これ に対 し会社 側 では肝腎 な入庫繭 に万 一の故障 を生 じた場合'責 任 を負 え ぬと いう態 度 さ■ え ほ のめかし て いる のだ から' 信用 第 1の銀行と し て倉 荷証券 の引受 けを見合 わ せた 9は何とも やむを得 ぬこと で' 殊 竺 た ん今年 だけ は引受 けを見合 わ せようと 同 1歩 調を約 し り ∵ た三十六と川崎 が」 そ の申 合 せを破 るが如き に至. っ . . .てぼ そ の実意が奈辺 にあ るかを 了解 す る に苦 しむ' 武陽 銀行 は憲 政系 だ かi oと か或 は繭倉庫 をも って いるから証券引受 けを拒絶 したなど と いう憶測 に至 って はあ ま り にば かば かし い推測 で、 乾繭倉庫が事業 を開始 したと ころで武陽 の倉 庫 には入 り切 ら ぬほど の依託者があ る のだ から' そ の辺 の勧 心配 はま っぴ ら御 免 を蒙 りた い」 武 陽親 行 は こ のよう な いき さ つから融資 を渋 った ので'結 局' 昭和 二年 の段階 では武 陽 銀行 から の融資 は受 け られな か ったo そ のかわ り三十 六銀行' 川崎 銀行 な ど の いく つか の銀行 が引 受 け団 を作 って東 京 共同繭 倉庫 は曲 が りな り にも開業 す る ことが でき た。 さ て' ここで前章 でも敗 れ た 「中央 直 結型 政 治」 の効 果が あ らわな形 で表 面 に出 て- る。蘭 倉庫 が開業 す る にあ た って は' 国 庫 補助金 が東 京府 を通 じ て何 万 円 か出 た。実 は' こ の昭和 二年 には政変 が あ り' それ ま で の憲 政党 の内 閣 ( 若 槻礼 次郎首 相) か ら政友会 の内 閣 (田中 儀 一首 相).にな った。東 京 共同繭 倉庫 の指導 者 秋本喜 七が政友会系 であ った ので、 補助金 が簡 単 に出 たと 販 路 確保 の第 二策 と し て組 合製 糸 の 「 東 京 社」 が あ る。 これ は昭和 八年 (一九 三 三) .に設 立 され いう裏 話 も当 時 さ さや かれ て いた よう であ る。 組 合製 糸 「東京 社」 の設立 る。 そ の基 本 的 な方針 は'東 京 共同繭倉 庫 にく ら べ ると' も っと直 接 的 な効 果 を狙 って いる。 つま り蘭 の売 り先 が な い の で あ れば'養 蚕実 行組 合が製 糸 工場 を直 営 し ょう と いう動 き であ る。組 合員 から繭 を買 い入れ て販 路 を確保 し、 か つ組 合員 の娘 た ち 既報' 八日 の準備委員 会 で満 場 一致決定 した 「組合製糸」 に ついては' 二十 日各実行組 12) 0 昭 8・4・ を女 子 工員 ( 女 工) と し て使 う こと で'養 蚕家 の家 計 を補充 す るた め の労賃 収 入も得 られ ると いう 一石二鳥 を 目指 したも のであ 二十 日立川 町 に開-︺ った。 これ に対 す る養 蚕家 の期 待 は大 きく' そ の雰 囲気 を当時 の新 聞 は次 のよう に報 じ て いる( 東 京 日日新 聞 { 「組 合製糸」 の創 立委員会 合 より 一人ず つの委 員 を選 んで立川 町南幸 町信用組 合 「多摩館」 に創 立委員会 を開く こと に決定 した'当 日は約 七十名 の委員が参列資金 の募 集 方 法 を決定 す るが' これ は最小 一組合 三十 口 (六百円) と し府 下 二百 の組合が分担す るも ので、 財源 は今年 の乾繭 助成金 十 二万 円' 桑園整 理改 植補助 五万円を初 めそ の他農村救済 補助等 の 一部 で充当 す る こと にな り'第 一回払込 み十 万円 は容 易 に集 ま るも のと 予想 され て いる' 一方 問題 の工場設置場所 に ついて は府 は最初北 郡 に二百釜 のも の 一カ所、 南郡南部 地方 に百釜 も の 一カ所 の案 であ ったが' 三 百釜 程度 のも のを 二カ所 に す る事 は施 設費 や経常費 に冗費 が多 いので大体 北郡 に 一カ所と な ったが' そ の候補 地 は府中' 立川が選ば れ て いる' しかし て最 も密接 な関係 を I 要 す る乾繭倉庫 や衛生 取締 機 関、 交 通 の便利等 の点 で 「立川 に」 と いう のが 至当 とされ、 結局 立川 に設置 され る模様 だが未 だ決定 し て いな い' な お工場 の女 工募集 は出番 期 でな いので困難 を予想 され て いるが' これ は各養 蚕家 の子女を送 って都 合 によ って は製 糸 工場 の暇 の時 は自 宅 へ帰 第 二節 うち つづ-不況 への対策 第十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村- っで養蚕 を手伝 い得 る という名実 共 に 「われ等 の製糸 工場」 としよう と関係者 の意気 込 み は非常 なも dであ る。 五九四 これ に対 し て製 糸 家が当 然 猛反発 を しr たわけ だがt か ろう じ. て昭和 八年 には設立' 昭和九年 から営業 を開 始 す る ことが でき た。 さ てt. さき ■にも述 べた よう に' こ O/ 東 京社 には'繭 の販路確保 と並 んで'養 蚕家 の子女 の就業機会 を つ- りだす と いう狙 いが あ った。当 時 の零細農 家 にと って'■ 農 業 以外 の収 入 は' 生 計 を維 持 す る上 で欠 かせな 小も のであ った。養 蚕 地帯 で は' 前 にも述 べたよう に養 蚕繁 忙期 の日雇 い収 入や'製 糸女 子 工員 ( 女 工) と し て の賃 金収 入が そ の主 なも のであ った。 と ころが'養 蚕 日雇 い の機 会 は粂 桑青 が普 及す る 町 つれ て限 られざ るを えな か ったう え'製 糸業 も さき に見 たよう に操業短 縮 に踏 み切 ったり' あ る \ いは賃 金 の切 り下げ を しなければ営業 が成 り立 たな い状況 であ った から'零細農 家 にと って の農 外収 入 の機会 は大幅 に限 られ る こと にな った。 こ の点 に つき' 猪俣津 南 雄 は次 のよう 町述 べ て いる ( 猪 俣津 南雄 ﹃踏査報告 . 窮 乏 の農 村﹄ ). この地方 ( 長野 ・群 馬 ・ ・ ・ 引用者) の養蚕貧農 を苦 し めて いる大き な事情 は他 にもあ T Q。 それ は彼 ら の家庭 から出 る女 工 の大 量失業 であ り'賃 金 の大変 な切 下げ であ る。 昭和 三' 四年 頃 には月 に二十 円余 りも取 った女 工さ んたちが、 昨今 ( 昭和九年 -引用老) では五円も 取れ るか取れ な い か で' しかも そ んな 「 賃 銀」. の不払 い軒 でが頻発 す る. ただ でも よ いt .食 わし ても らうだけ でも よ いから使 ってくれと いう女 工志願者が め っき り殖 えたと いう話。 こ の事 情 は三多 摩 でも そう変 わ らな か ったと見 られ る のであ り'東 京社 は こ のよう な状態 の下 で'新 た.堅雇用機会 を創出 し よう とし た のであ る。 こ のほか に当 時 の雇 用促進策 と し て注 目す べき も のと し て'政府 が昭和7年 から着 手 した 救農 土木事 業振 興策が あ る。前章 の 「国分寺 駅東 踏切 の ﹃地下﹄化 」 の項 でも触 れ たよう に' 土木事業 が行 われ て就業機 会 の増 す こと に対 し て は農 村住 民 の側 から 大 き な期待 が あ った。救農 土木事業 はt .町村 が計 画 を た てて道 路 の開 聾 や修繕 な どを行 い' 国が これ に対 し て補助金 を出 す形 で ひつばく 就 業機会 を増 大 さ せよう と したも のであ る。 ただ' 補 助金 と い っても全額補 助 ではな か った から前章 でも触 れ たよう に' 一般 に 税 収が減 退 し て財政 の逼迫 して いた当時 の町村 にと っては' こう した事業 を お こす こと自 体 が' 必ず しも容 易 で はな か ったよう であ る。 こ の事 情 に つき ' 猪 俣 は次 のよう に述 べ た ( 同書 )0 八月初 め の 「東 京 朝 日新 聞 」 の 「時 の話 題」 欄 に' 救 農 土木 工事 の実 相 を調 査 し た記 事 が載 り' 「 誰 が救 われ た か」 と 題 し てあ った。 私 の踏 査 し た こと もあ る程度 ま で こ の問 題 の回答 にな る。 ほと んど す べ て の県 に共通 した出来 事 から言 おう。救 農 工事 と し て何を や るか は村 で決 定 す る。 そ し てそ の工事が 許 可 にな り、 工事費 総額 が 仮 に三千 円 であ ると す ると' そ の三分 の二 の二千 円 は補助 され る。 残 る千 円 は' 村 で支 出す る こと にな って いる。と こ 0.-が そ の千 円 の分担 を実 際 に支 出 した村 は少 な か ろう と いわれ て いた。 一文 も 出 さ な い のも 相当 多 か った。 つま り補助 金 の二千 円 し か使 わず に' 表 面 は三千 円 の工事 を し た よう に取 り つ- ろ った わけ であ る。 し たが って表 向 は 一円 の労 賃 にな って いても' 実 際 には七十銭 し か払 わ ぬと い った結 果 にな った。 こ の場 そ の結 果 は? 養 蚕 業 に ついて は今 見 てき た よう に経 費 節 減 と品 質 向 上 ' 販 路 確 保 と いう 三 つの対 策 を た て た。 何 か 合' 労賃 の支 払 いを受 け る者 はも ち ろ ん貧 農 であ り' わけ ても 下層貧 農 であ る。 対 策- に手 を つけ れ ば ' 必ず ど こ か から反 発 が で ると いう状 態 であ った。社 会 全体 が 不況 だ った のだ か ら' 反 発 す る側 に し て も 必 死 で' 従 ってそ こ に生 じ る対 立 は深 刻 な も の にな ったが ' そ の中 で とも かく も 今 み てき た よ う な対 策 を た て た。 そ れ で は こ の効 果 のまず に働 き 結局 から手 惨 た る春繭 の決 算︺ 今 春 蚕 の清 算 は七月末 ま でに三多摩 各 はど う だ った のだ ろう か。 これ に ついて 国分 寺 村 の養 蚕実 行 組 合 の組 合 長 であ った関 田孝 太 郎 が イ ンタ ビ ュー に こ たえ て次 のよ )0 残 る ほ赤 字 だ け 昭9・8・5 一カ月 の辛 苦 も仇 ぅ に述 べ て いる ( 東 京 日 日新 聞 ︹ 食 え ぬ養 蚕家 地 とも 大体 ひと勘定 を終 った、 例年 な ら 六月末 で片づ - のに約 一カ月余 も 延 び た のが 平均 二円 四、 五十銭 の安蘭 で は如 何と し ても 全部 の支 払が 出来 ずt やむ を得 ず 養 蚕実 行 組 合 では組 合 の名 義 で借 金 し て決算 し たも のも多 い、 四 日立 川 町蚕 業 取締 支所 を訪 れ た関 田北 郡 国分 寺 養 蚕 実 行 組 合 長 の報告 によ ると、 いや でも養 蚕家 が 直 接金 を支 払 わ ねば な ら な い春 繭 一貫 目 に要 し た諸 掛 り は' 一円 二十 五銭 桑園 施 肥料 二十銭 黍種代 炭 ' 石 灰代 第 二節 うち つづく不況 への対策 族代 蚕 具代 一円 七十 七銭 十 二鎗 二十銭 第 十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村- 合計 であ った' これ は 一厘 の労 力賃 も加 算 しな い養 蚕 の 「 原 料」 で' 従 って これ だけ の価 格 で売 った のでは 一カ月余 1家 総 が かり で寝 食 を忘 れ て努 力し た のが た だと いう わけ だ' 同組 合 の調査 によ ると繭 一貫 匁 に要 す る最 低 労 賃 は 一円 で' 即 ち 二円 七 十 七銭 に売 ってと んと んと な り、 今 春 の 馴 相 場. から見 れば 結 局養 蚕家 が食 う だ け にな お三十 銭余 不足 と な って' 如 何 に強 じ んな性質 を も つ養 蚕家 も これ で は借金 以外 にそ の場 を糊 塗 す る方 法 はな いこと を 語 って いるへ 蚕 具 の共 同購 入 や産 繭 の共 販等 最 も 合 理的 な経 営 の下 に行 い三多 摩 でも 訓練 と統 制 を誇 る国分寺 風 合 でさ え の ′ こ通 りな ので' 一般 養 蚕家 の苦 悩 が 一通 り でな いこと は想 像 以上 のも のが あ ろう。 これが' こ の三 つの対 策が出揃 った段階 で の養 蚕家 の経営 状態 であ る。養 蚕業 で いく ら経営努 力 を し ても甲斐 が な いと いう認識 が人 々の間 で広 ま ったと し ても 不思議 ではな い。 こん にち' 私 たちが 三多 摩 で桑畑 や養 蚕農 家 を み かけ る こと はほと んど な い。 三多 摩 地方 の養 蚕業 はt だ いた い本章 でと りあ げ て いる時 期 を最後 に消滅 し てtま った のであ る二 二多摩 の農 村 で養 蚕業 が 重要 な位置 を占 めた のは' 長- み て安 政 の開港 から 昭和撃 刑期 ま で の約九十年 間t より正確 には明治 二十年 代 以降 の約 五十年 間 であ ったO こ の間 は1 1 1多 摩 地 方 で畑 の経済 的価値 が' 桑園 と いヶ形 で'最 も高 められ た時期 であ ったと考 え る ことが でき る. それ以前 の北 多摩 では' 市 史 の中巻 にも みられ る よ う に例外 はあ るが' 全体 と し てみ るなら畑 では大 麦 ・陸 稲 など の普 通農 作物 が中 心 で、 あ る 一定 の作物 の特産 地 とな る ことが な いかあ り に' 山林 で は薪炭 生産 が行 われ で人 々の現金 収 入源 とな って いた。 こ の限 り明治 以前 の北 多 摩 では山林 の経済 的 価値 が 相 対的 に高 か ったと いえ るo ま た、 昭和戦後 には こ の地域 にも ベ ッドタウ ン化 の波 が押 し寄 せる こと にな った. こ のば あ い宅 地 化 はまず 山林 から行 われ て い った。従 って山林 の価値 は' ま た別 の意 味 で高 ま る こと にな った。 これ に対 し て'畑 では養 蚕業 が 消滅 し'若 干 の近郊農 業化 はみられ るも の の'大 き な流 れと し て は山林 より遅 れ て宅 地化 の波 に のみ こまれ てしまう。 こ のよう に、 三多 摩' とく に国分寺 を含 む北多摩 では約 五十年 サイ ク ルで'畑 と山林 とが相 対的 に経済 的価値 の大 小関係 を変化 さ せ てき i l 叫爪㌣鳴伯0 11 地組執Q: 曽 Q麻 只 腺加 Q r OdE i t」 J . A J爪 J i i 麗瑠 Qせ㌣僻 牌維 泣叫罫J C t 和 ぐ恵′麗如強硬だ Q麻f W ト Q< ヤ策鳴t Dぷ長 } 助 4 loEn L ' 牽忠出望 由榔 舟 と ぐ} 眠 吋爪 JJ ニ爪推量各, 9日q u伯 i l O AJQ喝 舟屋. 活路 -Ah 中 世彊 Jl J凝 り 小 (偶ev , )o A J長 和 正 伸 JJ' 冨悪橿環 Q駕執戦 表 3 北多摩郡主要畑作物 の作付面積 1 2 3 4 明治 2 0 *大麦( 4 5 ) 小麦( 3 6 ) *乗 ( 3 1 ) 2 4 *大麦( 4 6 ) 小麦佃 *乗 ㈹ ( 4 2 ) 5 6 甘藷 .蕎麦 .秦 ( 各1 3 ) ■ *陸稲 ( 1 4 ) 1 7 6 3 0 1 2 9 1 2 0 *粟 ( 2 5 ) 甘藷 ( 1 6 ) *陸稲 ( 1 3 ) 1 6 7 2 2 1 1 3 1 2 3 *# ( 1 8 ) 甘藷( 1 6 ) *. 陸稲 ( 1 2 ) 1 5 2 2 2 1 1 1 1 2 7 ( 1 5 ) 1 6 . 9 2 4 1 3 4 1 2 9 *陸稲 ( 1 3 ) 1 6 7 8 1 0 0 1 3 5 *莱 ( 1 3 ) 1 7 1 2 1 1 1 2 1 3 4 ( 姻 3 6 *大麦( 4 0 ) 秦 ( 3 8 ) 小麦( 3 7 ). 4 0 大麦( 4 6 ) 秦 ( 4 0 ) 小麦( 3 6 ) 甘藷 .*粟 4 4 大麦( 5 2 ) 秦 ( 4 2 ) 小麦㈹ 甘藷 .*陸稲 ( 各1 5 ) 爪 4 0ぐ● ぐ〉K・ 賀 (Q家継 1 百町 2 2 ( 1 8 ) 秦 鯨1 1 転 百町 8 0. 小豆 小麦的 *大麦的 百町 1 8 畑面積 甘藷( 2 1 ) 3 2 ( 3 3 ) 1 百町 ■ 6 5 商品作物 総 計 C 2 6 ) 小麦 A 他 商品作物 桑 2 8 *大麦㊥㊥ 1合 位 ∼6 計位 慕 ( 細 *莱 ( 1 9 ) ( 各1 6 ) 甘藷 哨i eギ 鯨十碑 朝吏K , q S(Qぺ4 1ぐQ紬. s J 一卦軍曹tLQl l l ㊥激職定/ 大正 8 1 2 昭和 2 6 1 0 注 大 麦( 4 7 ) *大 麦 ( 4 2 ) 秦 ( 4 1 ) 秦 ( 4 4 ) 小 麦㈹ 桑 鋤 小 麦( 3 5 ) 哨i i< 甘 藷 .*陸 稲 ( 各2 1);*粟 .里 芋 ( 各6 ) 甘 藷( 2 6 ) ( 2 3 ) *ノ 陸稲 鋤 1 82 1 4 1 08 1 37 *粟 .里 芋 ( 各6 ) 1 76 1 4 1 06 1 29 ( 5) 1 59 22 1 21 1 29 1 6 2 1 8 1 00 1 38 1 5 3 34 1 38 1 37 C 2 2 ) *大 麦 ( 3 7 ) 小 麦( 3 1 ) *陸 稲 秦 .*大 麦 ( 各3 8) 小 麦( 2 8 ) 甘 藷 .、 *陸 稲 ( 各2 4);里 芋 .漬 菜 ( 各5 ) *大 麦 ( 3 5 ) 小 麦㈹ 秦 ( 3 3 ) 甘藷C 2 9 ) 甘藷 *陸 稲 ( 1 4 ) 里芋 西瓜 ( 8) 1 作付け1 0 0 町歩以上の もの。1 0 町歩の位四捨五入。 2 *印以外は、直接間接に商品生産に入 りこんでいる。 ( 陸稲及び大麦はいちお う除外 したが、北多摩郡北部 ではかな り販売 した との き きとりがある。) 3 「他商品作物」に含 まれるものの うち :①明治2 0-3 0 年代は、大豆 ・小豆 ・貌豆 ・菓藍が主であ り、②明治4 0-大正は里芋 ・大根 ・南 瓜 .午穿 ・茄子 ・馬鈴薯 ・漬菜 ・胡瓜が加わ り藍が消える.③昭和には、 さらに西瓜 ・キャベ ツ ・ホウレンソウ ・トマ トが加 わる。 4 ここにみるような生産統計では、時代 を遡 るほど農家による自給的な部分が脱落 している可能性が大 きい。たとえば里芋はこの表では 大正に入っては じめてあらわれるが、実際には明治の初めか ら自給用 として広 く作付け られていたと考 えられ る。従 って、この表でみ られる里芋の 「 増加」が、実際に作付けが増えたことを意味す るのか、それ とも統計精度の向上による見かけ上の現象なのかを判断す ることは難 しい。同様の問題は、 .案、大麦、陸稲、大豆、小豆 などについて も存在する。 5 「1位 ∼6位合計」が 「畑面積」 を上 まわるのは、この地方で夏作冬作の二毛作が行 われているためである. うち つ. つく不況 への対策 ③果 ② 高 ①雑 ⑥ 繭 42 大正 3 8 00 実 7 4 3 5 3 1 2 7 5 3 1 2 2 ⑥林産物 ⑤ 桑 ⑦種薬草花物 2 1 8 2 7 6 1 1 1 8 2 1 5 ⑧其他雑収入 1 2 5 4 7 菜 穀 類 1 3 昭和 4 9 9 3 2 4 1 4 1 1 6 l l 33 3 1 3 45 1 0 1 8 . 2 5 2 1 5 1 3 9 32 2 7 2 1 2 3 2 2 5 20 2 3 l l 1 6 2 4 9 1 4 1 2 3 1 5 0 それ以前の年次につ いては適宜ふ りわけた。 2 「 雑穀」には米 を含む。 3 「 林産物」には薪 山代、葛代 を含 まず、炭 を含む。 4 「 種 薬草花物」には茶、首類 を含む。 「 其他姓収入」には薪 山代、苗類 を含む。 5 7 「 再掲」部には、上の うち単独 で 5%以上 となる品名 をあげた。 本表には、仕入商品の売上 も含むC 8 農外収入 を含 まない。 6 表 4の 2 ( 再掲 2 0 ① の 内 小 大 栄麦 ② 甘 ③ 百分比) 8 藷 1 5 8 7 5 9 1 9 6 23 1 5 1 5 莱 1 7 9 ㊨ の 内 と「 糸繭」 南 糸甲 71 51 51 2 1 0 5 53 33 42 1 2 ⑦ の 内 小 胃薬根 桑 製 茶 萩 苗 6 6 1 2 1 2 6 7 l 7 l 8 mH l Ml 川ml l l J J r 日日 J l mI I Ml l MHl H I J H 川l HI J H T l I l 日日 l H J I I l m川川l l l H H I H I J MI J l MMH l l l mMI l l l J mMH川I I J I I J I I H J H l H l I J r Ml l J l H m ‖ 川 川 に = け いはん 注 1 分類項 巨 =ま、昭和 11 年以降小柳孫 四郎氏 自身によってなされた ものに従 い、 郡 の作 付 け は大 麦 ・小 麦 ・莱 ・陸 稲 な ど が 中 心 であ った のだ が' 明 治 二十 年 代 後 半 に は' 桑 の作 付 け が 急 速 に伸 び て いる。 これ 第 二節 類 明治3 2 37 分 は養 蚕 業 が 盛 ん にな る に つれ ' 従 来 傾 斜 地 や 瞳 畔 な ど に桑 を植 え て いたも のが (み ち桑 、 めぐ り桑 な ど と呼 んだ)' 今 度 は畑 に 表 4の 1 小柳家 「 農事」収入の構成 ( 百分 比) ) ( 小柳 実家文書「 家宝高年帳 ( 第二号)」 桑 園 を か ま え る よう にな った こと に対 応 t て いる。 そ の後 大 正 期 に は里芋 が 登場 し' 昭 和 に入 る と漬 菜 ・.西瓜 が これ に加 わ る。 表 4 農事収入の構成 ま た' 作 付 面 積 と し て は大 し た こと は な いが ' 昭 和 に入 ると' 大 根 ・南 瓜 (カ ボ チ ャ) ・牛 薯 (ご ぼ う) ・茄 子 (ナ ス) ・馬鈴 薯 ・胡 瓜 (キ ュウ リ) ・キ ャ ベ ツ ・蒋 裏 革 (ホ ウ レ ン草 ) ・蕃 茄 (ト マト) な ど が 盛 ん に栽 培 さ れ る よう にな った。 J ≡ ≡≡≡≡ ≡ ≡三 三三三三 ≡≡≡≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ 〓 ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ 三 三 ≡ ≡≡≡ ≡ ≡ ≡ ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡ ≡ ≡ ≡ 三 三 ≡ 三 三 ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ 〓 ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ 一 あ る農 家 にみ る経 営 の多角 化 1 H l 川 l l l l H T l l l l l f r ] l l l H l 川日 日川日 日 l l H I J mH l 川Hl l J H l H l r T H 日 l l J Mr 川日 日 川=l mm J H 川川HH l 川I H ‖l l ml n 1 1 日 l l l mH 川=l m mHH H H 日 日 日 日 ま ず 木 て 、 い く つ か の 解 釈 を 加 え て み よう 。 第 十章 農村不況 へのふた つの答え-準戟時下 の三多摩農村1 表 に つい 第 一に明治 三 十二年 (一八九九) には、 糸' 製茶' 縞 反物 で農 事 収 入 の 八 五 パー セ ントを占 め' 商 品化 のあ り方 から見 て典 型的 な後背 農業 地域 の姿 を示 して いる。 しかし四 十年後 の昭和 十四年 (1九 三九) には' 疏 莱' 果実' 種薬草花物 で四 四 パー セ ントを占 めるよう に なり' 近 郊農 業 の色 彩 を濃 - し て いる。品 名 は極 めて多岐 に わ た る。例 えば' 昭和 九年 (一九 三四) の⑦ の内訳 は' 葱種、 吉 草根' 連勉 雫実 生 (苗 か) 、 干昼顔 根' 茶' 官合' ハチ ス、 苛 薬' 考案首、 苛 薬花' 苛薬根 であ った. この転換 は徐 々に生 じ て いJ る の で' 明確 な画 期 を設け る こと はむず かし いが' ①読 菜 ( 甘藷 を中 心とす る)が大正 八年 (一九 一九) に急増 し て いる。② 果実 ( 粟 ・梅 ・西瓜等 )が大正 三年 (一九 一四) から売 上代金 にあ らわれ て いる。③糸 販 売 から繭販売 への変 化 が明治末 から大正三年ご. ろま でには完 了 して いる。④ 製茶 販 売 が大正三年 を最後 に少 な- なり' 大正 八年 から百㌧ 花井' 生 薬など が増 加す る。 以 上 の点 から考 え て' 大正前半' おおむね第 一次 大 戦 ご ろから この方 向 での変 化 が急速 にな った のではな いかと推測 され る。東京 市 場 の拡 大 と' 国分寺 村 の市 場圏 へのより深 い組 み込 みが進 行 した結 果 と思 われ る。 そ し て昭和 九年 には菌類 の比 重 が めだ って低 下 し て果実 ( 柿 を中 心 とす るが) が増 え るなどへ 経営 が多 角化 して い る ことがう かが われ る。 多角 経 営 をす す める にあ た って の経 営 上 の方 策 も大 体 養 蚕業 .Qは あ いと 同 じ でt.販 路 の確 保へ 品 質 の向 上 府連 合会 を設立︺ 昭7・3・8) 0 府 下各 町村 にあ る百七十 の共 同出荷組合 は各 々好 成績 をあげ て いるが' 府農 会 及び府農 林課 では組 合 の活 動 ; 川 =H I I HM日 日l H l l l H 川川l 川l l J H l J l l l J l HH 日日 日 日 J H l l J H J H I = I l Ml =l Ml 1 1 日 H H l t J H ] l HH l J l HH 川川Ml l H l 各組 合代表 を府貴会 に集 めて協議 す る こと にな った。郡連 合会 の方 はす でに設立 の 気 運 満 ち' 南 多摩 郡 は発会式 をあげ るま でに進 んでおり' を 一段と高 めるた め各部 に共 同出荷組 合連 合会 を組織 せし めへ さ ら に府連 合会 を設け て全組 合を 一体 とす る統制 を与 え る こと にな り' 今 月中 に ︹出荷 の統 制 し ょう と いう動 き も 出 て- る。 これ ら は東 京 府 の農 林 課 や府 の農 会 の指 導 の下 で行 われ た ( 東 京 日 日新 聞 を作 って農 家 が 直 接 そ こに売 り に行 - と いう よう な ことが行 わ れ て いる。 あ る いは貴 会 が直 営 市 場 を作 って中 間 マー ジ ンを排 除 ば 郡農 会 が中 心 にな って出荷 組 合 を結 成 Lt 共 同出 荷 をす る。 あ る いは こ のは あ い八 王 子 が中 心 にな るが ' 市内 に点 々i J 直売 所 と贋費 の切 り下 げ と いう 三点 にま と める ことが でき よう 。 まず 第 丁の販 路 の確保 は具体 的 には出荷統 制 にな る。 こ の時期 に例 え 出 荷 廟制 への期待 Hl 日日 日 日 H l t l 日日 日 日 l l H I J H H M J l u 日 日 H l mm日 日 H l ‖ l l T I ‖ 川I H H 川日 日 = H H J l H I I H J I H H J t ml mI I 西' 北 両郡 も寄 々協 議 を進 め てお る、 府 連 合会 設 立 の暁 は果実' 疏 菜 等 各. 々そ の地方 に適 し たも のの合 理的 生産 を指導 し' ま た販 売方 面 も府連 が斡旋 す る こ とにな り大 いに期待 され て いる。 多 角 経 営 を す ると い っても や はり コストを下げ な ければ' や って行 かれな い状 態 であ る こと にはかわ り な い ので、 こう いう対策 が 出 てく る わけ であ る。 これ に対 し て は、 容 易 に想像 が つく こと であ るが' 既 存 の商 業 者 の側 から強 い反発 が 出 て- る。 そ の」例 をあげ てお こ- 。 八 王子 の農 会 が 八王子 市内 に直 販 所 を作 ると いう 計画 を立 てた■ 。 そ れ に対 し て八王 子 の小 売商 の側 が大変 な反発 を し た。 昭和 八年 (一九 三 三) の出 来事 であ る。当 時 の八 王 子 の街 は今 の八 王子市 と違 い' 八王子 駅 を中 心 と したご-狭 い範 囲 にと ど ま った のだ が' そ こ に入 る道 と橋 が 五 つあ った。 そ の五 つの橋 と道 を小売 商 が全部 封鎖 す る七 いう 「八 王子市 封鎖 事 件 」 が起 き た。小売 業 昭8 ・10 ・14) 0 と り急 いで立案 中︺ 北 多 摩 郡 農 会 で は農 村経 営 に新 生 面 を開 拓 す るた め積極 策 を と り入れ農 会 直 営 市 場 の 者 にす れば 生活 権 が か か って いるわけ だ から' そう い-強 硬 な手 段 にも 出 た のであ る。北 多 摩郡 でも 同 じ よう な動 きが みられ る ( 東 京 日日新 聞 ︹北郡 農会直営 で市 場開 設 を計 画 開 設 を計 画 し' 各方 面 から材料 を収 集 し違算 なき 立案 を急 いで いるが' 当 局 は 「当 た って砕 け ろ式 に新 取的 に いかねは 活 躍範 囲が 狭 く な るば か )0 北 多 摩 郡貴 会 が 直営 青 物 市 場 を開 設 せ んと Lt 既 に予算 計 上 の内 定 を さ え見 たが' こ 昭 9・-・6 1 りだ、 例 えば東 京在 大泉 辺が北 海 道 から馬 鈴 薯 種 子を購 入 しなが ら、 大需 要 地 の東京 に販売 出来ず 、 関 西 へ移 出 し て いるなど はま った-奇 形的 で、 こう した矛盾 をど しど し打開 し てゆ かねは な ら ぬ」 と い って いる0 北 郡 貴 会直営 市 場 に︺ 北多摩 郡 での既存 業 者 の動 向 に ついても次 のよ -な 報 道 が みら れ る ( 東京 日 日新 聞 ︹既 設市 場側が 反 対運動 の煙 火 れを知 った各 町村 既 設 市場 では、 郡 農 会が 殆 んど 無 手数 料 に等 し い方 針 で大 々的 出荷 を斡旋 す るとす れば ' 各 市 場 の蒙 る打撃 は非常 なも のが あ ると いう ので寄 り寄 り協 議 の結果へ 代 表 者 をあげ て小 川 郡 農 会 長 の自 宅 にね じ込 み、 実 現 阻止 の了解 を求 めた、 郡 農 会 当局 も これ を押 し切 って ま で の実 現 もど う かと いう ので目下熟 慮中 で、 或 は折角 の名案 も流 産 と な る のではな いかと見 られ て いる。 第 二節 うち つづく不況 への対策 た 第 十章 放村不況 へのふたつの答えー準磯時下の三多摩幾村- 六〇二 当 時 ' 主 と し て農 業 で 小 生 産 者 が 協 力 し て 生 産 ・販 売 ・購 買 な ど を 行 お う と い う 産 業 組 合 運 動 が 全 国 的 に盛 ん に な り つ つあ っ が ' こ れ に対 し て 既 存 の流 通 業 者 の間 か ら は ' そ の よ う な 動 き を 営 業 及 び 生 活 に対 す る 脅 威 で あ る と し て 各 地 で 反 対 運 動 が 発 生 し た O こ れ を 「反 産 運 動 」 と いう O 反 産 運 動 は 時 と し て 八 王 子 の 例 に も 見 た よ う な 実 力 行 使 を 伴 う 過 激 な も の に な る 傾 向 が あ 州 州 った 。 ≡ ≡≡三三 ≡≡≡≡ 三≡≡≡ ≡≡≡≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ 1 ≡ ≡ ≡≡≡≡ ≡≡ 〓 ≡l ≡≡≡≡ ≡≡≡ 〓 ≡≡ ≡≡≡≡ ≡≡≡〓 ≡≡≡三 三≡三≡ ≡≡≡≡ ≡≡≡ ≡≡≡ ≡ニ ー ≡三三 ≡≡≡≡ ≡≡≡≡ 三≡≡二 三三三ニ ー ≡≡≡≡三三二 二 ≡ ≡≡〓 ≡ ≡≡≡≡≡≡三 二 ≡≡≡ ≡≡≡≡≡ ≡≡≡≡〓 ≡≡〓 「共益」 の 地 名 の お こ り 従 って、 村 の鎮 守も 別 であ るLt さまざ ま の行事も' ま たそれ に伴 ってあ らわれ る人間関 れ ぞれ 全-違 う村 から の移住者が 切 り開 いた村 であ る( 詳 しく は市史中 巻第 二章 を参 照)0 紀) に開墾 され た新 田村 で'国分寺 市域 の中 でこそ互 いにと なりあ ってほ いるが'元来 はそ 今 日 の榎 戸、 野中 地区、 す なわ ち江 戸時代 の榎 戸新 円' 野中新 田は' 享保 年間 (十 八世 た のだ ろう か。 る こ とを知 る人 は今 では多- な いだ ろう。 しかしなぜ、 このよ-な地名が つ- こと にな っ う 地名 で呼 ぶ ことがあ るが' こ の地名が昭和初期 に結成 され た 「共益出荷 組合」 に由来す の 「共益出荷組 合」 にみられ る。今 日でも、 榎 戸 および野中 地区を総称 し て 「共益」 とい こう した組 合が 人 々の生活 におよ. はした話形鞘 の中 で' = Mも興味 深 い例 のひ と つが' こ して利 用 され たと のこと であ る。 組 合 の活動 も前 述 のよう に盛 んであ ったo戸 倉 にあ った商倉庫 は戦後 は昔年 学校 の教 場 と のあ った建 て物 は戦後 も残 って おり、 地域 の集会所 とし て用 いられ て いた。 ま た養蚕実 行 いう。 国分寺 本村 地区 でも出 荷組合が結 成 され' 同様 の活動 を行 った。 こ の組 合 の事務所 市 場 の相 場を電 話連 絡 で受 け なが ら' ど のi =場 に売 り出す かを決 め、 出荷統制 を行 った と 仰 出荷馨 が実際 に果 たした経済 効果がど れ ほど であ ったかと は別 に、 これ に対す る国分寺 の人 々の淫 と、 - 逆 L J .そ の活動が 人 々の生 側 活 に与 えた影響 は大き か った.例 えは、 榎 戸 および野中 地区 では' 人 々は 「共益出荷 組合」 を結成 したが' この組合 は 日 々変 動す る各 地 の 「共益」 の名が残 る駐在所 ( 並木町二丁 目) 図3 でもな い. ⋮ 州 係 (託 や寄 り合 いなど) も 全 -別 々に営 まれ てき た. これ は基本的 には今 日でも かわらな いし' 日本 の農村 社会 ではと りた てて珍 し いこと と ころが' こ のふた つの村 の地理的関係 に着 目す ると' これ はあ る意味 で極 めて不自 然 な現象 だと も いえる。 なぜな ら、 こ のふた つの村 ⋮ 州 は 「トナリ ムラ」 と い ったとき に通常 われ われが 思 い浮 かべ るような, それぞれ にまと ま った地図上 の広 が 。が ふた つあ って、 それがど こ ⋮ 州 州 州 こ の状態 であ りなが ら前 述 のよう に ムラとし て のさまざ ま の機能 は別 t ,に行 って いる のだ か ら' 例 、 蒜 あ る農家 をと t. Iた' ・. 禁 のいに'隣 の ⋮ か の 一線 で境 を接 して いると いう のではな- て, ど ちらも無数 の短冊状 の土地 にわ かれ ており, し かも そ の短冊が榎戸, 野中交 互 に整 然 と ま の つき あ いがあ ると いう な らんで いるから であ る ( 第 〓早_司 13参 照) O つま り両村 は地図上 では完 全 に入 りく んでしま って いるわけ であ る. 家 はよそ の村 であ るから冠婚葬 祭 など の つきあ いも な-、 一軒 お いた隣 , それ か らまた 一軒 お いた隣と はさ- 州 ⋮ ⋮ こと にな るO まさ に 「 隣 は何をす る人ぞ」 であ る。 こ のよう な状態 は日本 の慮 村社 会 にと ってほ撞 めて異例と いわざ るを得 な い. しかし こ ⋮ 州 の異 例な現象 は榎 戸' 野中 地区 では明治維新後 も' ま た今 日でもあ る程度、 つづ いて いる のであ る。 荷組 合」 た った のであ る。 これ に対す る人 々の期待 は極 めて強 く す メ ンバ・であ ると いう意識 を持 った。 そ こではじ めて'榎 戸' 野 是 実 際 に活 発 な活動が行 われ た. こ のよ-な形 で協 力 し て事業 を行 っ に警 ⋮ ⋮ 州 州 州 た ことが契機 にな って榎 戸' 野中 の人 々に互 いにひと つの生富 さ て、 このような状態 の榎 戸、 野中 地区 の人 々か' おそ らく はじ めて、 ひと つの地域 と し てまと ま った 活 動 を した のが'実 は 「共益 出 ⋮ ≡ ≡ ≡ ≡ lm ≡ H " I" 三 三 三 三 ≡ ≡ l ll 州 中を ひ っ - るめた、 地 里 のひとま とま - の地域 に対す る呼 び名が 必要 とな -、 「共益出荷組 合」 の 「共益」が お のず と 採 用 され る 。と に 州 な ったわけ であ る。 ≡ ≡≡≡〓 〓 ≡≡≡r l l ≡ J l I ≡≡≡= 三三 l I I t ≡≡ ≡≡ J r H l l r ≡≡≡≡ 〓 ≡≡ J l l l J H ≡ ≡[ l l l " ≡≡≡l L J l ≡≡≡≡≡≡f I I l l 1 ≡ l ≡ I r l l ≡≡ ≡≡≡≡ ≡≡≡≡ ≡≡≡≡≡ ≡≡≡≡ r l l ≡≡≡ ≡≡≡≡≡≡≡ I I l l ≡≡≡≡≡ ≡≡≡≡≡ ≡≡≡ J l l l ≡≡〓 7 1 1 1 1 1 1 1 ≡≡ ≡ ≡ 〓〓IlJ17 ≡≡ ⋮ 品 質 検 査 ・包 装 の 統 一 次 に第 二 の晶 質 向 上 に つ い て は 府 営 検 査 が あ る 。 先 程 蘭 の府 営 検 査 の 例 を 紹 介 し た け れ ど も ' 穀 物 や 読 菜 ' 木 炭 な ど で も 実 施 す る こ と に 対 し て 期 待 が 高 ま った 。 つま り ' 公 的 機 関 に よ って 品 質 保 証 を 得 て 規 格 も 統 一す る ' 包 装 も 揃 え る 。 そ う す れ ば 他 の産 地 に 対 し て 競 争 力 が つ- だ ろ う と い う 期 待 で あ る 。 こ の よ う な 試 み は' 全 国 的 に は 昭 和 の ご - 早 い時 六 〇 ≡ 府 で は今年 から小麦 と玄 米 の府営検 査 を断行' 小麦 は現在各 期 か ら 行 わ れ て お り 、 昭 和 九 年 (一九 三 四 ) の 時 点 で は 府 県 営 の穀 物 検 査 を 実 施 し て い な い の は 東 京 ・沖 縄 な ど 、 ご - 限 ら れ た 昭 9 ・7 ・15 )0 明年度 から実 施 の牡 で府が 鋭意 調 査開始︺ 府 県 だ け に な って い た ( 東京 日日新聞 ︹ 木炭 から玩菜 ま で府営検 査 を断行 第 二節 うちつづく不況 への対策 第 十章 島 村不況 へのふた つの答 え1 準戦時 下 の三多摩農村I 六〇 四 地 で不慣 れ なが ら実 施 し て いるが、 来年 度 から は更 に府営検 査 の範 囲を広げ る牡 を決 め目下検査 を行 う べき 種 目 に ついて詳細 に調査 研究中 であ る' こ のう ち木炭 の検 査 は最 も 可能 性もあ りへ 東京 市場 への府 下産 炭 の地位 を確保 す るた め にもぜ ひ必要 な ので第 1候 補と な って いる' こ のほ か木 材 検 査 も考 慮 に入れ て いるが' これ は深 川木 場 に集散 す る木材 に対 し て検査 手数料 を課 せられ るかど う か に疑義 があ る ので調査 を進 めて お りt .さ ら に府 下特産 の大根、甘 藷等 の読 菜類 も できれば検査 を した いと い って いるから' 来年 から ほ府営 検 査 に著 し い革 新が見 られ ると いわれ る' ただ府 で は経費 の関係 上 手数 料 の徴収 でき るも のを先決 と して いる ので' 木炭 など は最 も 可能 性が あ ると いえ よう。 府 営検 査 は' 当初 小麦 から着 手 し たが' これが成功 し てかな り安 定 した価 格 で売れ る ことが わ かる。 そう す るとぜ ひ他 の品 目 ま それ から第 三 に経費 の節 減 に当 た るも のが あ るが'多角 経 営 の中 心 であ る野菜 を作 る場 で検査 対象 を拡大 し て ほし いと い-要求 が高 まりt ., 」れ に対 し て府 が こたえ よう と いう わけ であ るo 経費 節 減 への期待 と イ カサ マ肥料素 合' 蚕 の粂 桑青 に当 た るよう な経費 節減 の切 り札 はな いo ただそ の当 時 は購 入肥料 の使 用 が相当 程度 みられ た から' これ を自 給 肥料 に切 り替 え よう と いう気 運 が みられ' これ を組織 し ょう とす る大 運動 が起 き て いる。府 が音 頭 を と り堆 肥 など自 給 肥料 をも 立川農試 で分析 ︺ 立 川 町府農 事試験 場化学分析室 では不況 から肥料 の負 担 に悩 む農 家 に つけ 0 昭9・10 ・24) っと使 おう と いう キ ャンペー ンを行 って いる。次 に紹 介 す る事 件 は' こ の自 給 肥料 に対 し て農家 の間 で非常 に期 待 が高 ま って い 横 行 を極 め るイ カ サ マ肥料素 たと いう ことを逆手 にと った組織 的 な サギ事 件 であ る ( 東 京 日日新 聞 ︹全農家 へ警 告 入 るイ ンチ キ肥料 が 横 行 し て いる事実 を知 り、 各技術員が かね て秘密裡 に調査 し て いたが' 二十 三 日驚 - べき被害 を発見 した ので直 ち に 一般 に 警 告 を発 し た、 これ によ ると今春来 西郡 西多摩村 を初 め南 郡北郡各 地 にわ たり堆 肥 の発 酵素と称 し て練歯 磨 のチ ューブ入程度 の容 器 に白 い粉 末 を 入れ て l個 1円 五十 鈴 で売 り 「1反歩当 り十 五銭 で麦 なら 八俵 とれ る、 1町 に 一個 もあれば 他 のあ らゆ る肥料 は全然 不用 で豊 作疑 いな い' こ れ は細菌 の活動 で堆 肥 の発 酵 を行 う新発 明薬 品 であ る」 と宣伝 し て いるも ので' 何 より 一反歩 十 五銭 の僅少 な費 用 で増収 出来 ると いう点 が苦 し い農 民 の要 求 に合致 し て非常 な勢 いで広 まり' 西多 摩村 の如き は こ の薬 品 一本 で自 力更生 出凍 ると 盲信 し、 注 意 を促 した貴 会技術員 を 反対 に非 難 し て いる有 様 であ る' こ の報告 を受 け た農 事試験場 の井上技 手 は二十 日現品を検査 したと ころ' 水 にとけ易 い白 粉 で 一見 石灰 とうど ん粉 を ま ぜ た よう なも のだが (一) 薬 品 に添付 し た印 刷 物 の内容 が 理論 上 あ り得 な い事。 (二) 一握 り にも 足 りな い量 で l町歩 に要 す る 二千 貫 以 上 の堆 肥を発 酵 さ せ ると 言 - のは余 り に馬鹿 馬鹿 し い事。 (≡) 仮 に多 少 の効果が あ ると し ても 一個 一円 五十銭 は十 倍 に近 い暴価 であ る事。 こ のイ ンチ キ発 酵 素 は英 語 で名 称' いか にも農 民 の食 い つき そう な講 習 会 を開 - と称 した り、 図解 や漫 画' 漫文 で巧 み に の三 点 から イシ チ キと確 信 し直 ち に警告 し たも のであ るが' す で に三郡 一帯 にわ た り数 千戸 の被 害 あ る見込 み であ る。 ︹ 農 民 は自覚 せよ︺ 宣 伝 し て いるも 町で農 試 場 で はそ の方 法 に驚 嘆 し て いるが、 これ は刺 激 肥料 及び細菌 肥料 のう ち に含 まれ肝腎 の肥料 取締 法 に触 れ な いので始 末 に困 り' 何 よりも農 民 の自 覚 によ って駆 逐 す る ことが 必要 であ ると いう' な お こ の 薬 品 以 外 にも他 に多数 のイ ンチ キ薬 が は っこして いる模 樵 井上技 手談 ︺ 右 に つき 井 上新吉 技 手 は語 る 「売 り方 が 頗 る巧妙 な のに驚 いて いる' 例 えば 自 力更 正 の 一つと し て自 給 肥料 で、 農 試 場 で はど しど し検査 を行 い' いかが わ し いも のを追 払 う方 針 だが' イ ンチ キ薬 が こんな に流 行 し出 し た のは 府 下 で は空 前 のこと でめ る。 ︹ 憎 む べき 限 り の奨 励 を行 って いる のに つけ 込 ん で自 給 肥料 を最 も 合 理的 に造 る の把は こ の薬 が よ いと い い' 指導 者 側 の上 を ゆ-方 法 であ るから農家 は迷 う、 それ に無 肥料 でも 一年 は収穫 が あ る ので効果 のな か った事 は 一年 は暴 露 しな いわけ だ、 こう した薬 品 の常 と し て 一年 が 寿命 で来年 から は別 の名 を つけ て売 り出す と い った方 法 を と り' 巨利 を占 め るも のであ る、 苦 し い農 家 の足も とに つけ込 み こんな薬 を売 る のは憎 ん でも余 りあ る」 l0 ・ 14 ) . 北 多 摩 郡 農 会 では昨年 東 北 北 海 道 への甘藷 移 出 を 企 て好 成 績 を納 めた にか んが み、 早 - も 今 昭 8・7・ S I l g こ のよ う に し て多 角 経 営 化 の努 力 が な さ れ た が へ これ も う ま く いか な か った 。 唯 一成 功 し た の は三 多 摩 今 日 で言 え ば 「霊 感 商 法 」 あ る い は 「 催 眠商 法」 に でも あ た る であ ろう か 。 は た か ら み れ ば 笑 い話 の よ う な 話 だ が ' 当 時 の農 家 わら つ か にと って は 「 溺 れ る者 は藁 を も 掴 む 」 と い った心 境 だ った と考 え ら れ る 。 多 角 化 は 成 功 した か 目 下着 々準 備中 ︺ か ら さ つま いも を 東 北 ・北 海 道 に送 り 出 そ う と いう 計 画 であ った ( 東 京 日 日新 聞 ︹ 東 北 地方 へ今 年 も 甘藷 移 出 秋 の新 販路 開 拓 に ついて調査 をすす め て いる' 昨 年 の収 穫 は八 百万貫 であ ったが、 本年 は小 麦 奨 励 に押 され た のと 日照 り被害 で収穫 減 少 し予想 は七 百 五万貫 であ るが' 前年 東北 北 海 道 へ十 万貫 を移 出 した経 験 から本年 は山形' 青 森 ' 郡 山 ほか五駅 にあ る駅購 組 合 に新 販 路 を発 見 した ので 第 二節 うちつづく不況 への対策 第 十章 農村不況 へのふたつの答え-準戦時下の三多摩農村- 六〇六 北多摩 郡 の甘藷 北海 道 出荷 はそ の後 も注 文殺到 の有 様 だが、 肝 腎 の地 元生産 品 は干天 の 交渉をすす める筈 で' こ のほか来月中 旬 から は 一般 問屋廻 りも開始 す ると いう。 ︹ 移 出す るより春売 りを 目論 む 北 多摩 郡 下 の甘藷︺ た め形状 はやや丸き に失す るも色味 共 によ-品質貯 蔵 に耐ゆ る見込 みが ついた ので' 貯蔵 し て春 の洗 い売 りを 目論 むも の多 -' 品払 底 で斡 旋 上 困難 を来 し で いる始末 で' 値 段も昨年 より三割 の高値 で立値 三円を唱え て いる' 尤 も北海道 から の注 文 は 「損 は決 してかけ な いから出荷 してれ」 と い ったも ので' 農会 では こ の好 調 子を逸す ま いと骨 を折 って いる。 ただ これ は文中 にもあ ると おり' 甘藷 の収穫 高 の五 パ ー セ ント にも満 たな い量 にすぎず' 全体 からみ てそれ ほど大き な話 ではな ヽ O i 品 目本位 」 ( 昭和 八年 ) と いう資 料があ る。 こ の資 料 は当 時 の国鉄が晶 日ご と に管 内全駅 の中 から さ て' こう した経営多角化 の努 力 の結 果が ど のよう であ った かを、 別 の面 からも見 てお- こと にしよう。鉄道 省経 理局 「主要 貨物統 計年 報」 の 「 第 一編 発 送 量' 到着 量 の多 い駅名 とそ のト ン数 を列挙 したも のであ る ( 各 品 目とも 上位 五十 駅)。 ただ し この資 料 は' ど の駅 から何 ト ン発 送 し. た か' ど の駅 に何 ト ン到着 した かと いう ことが独 立 に書 かれ て いるだけ で、 あ る駅 から発 送 され た貨物 が ど の駅 に到着 し七 かと いう こと は全-分 からな い。従 って' こ こで示 され る のは極 めて大雑把 に' ■ど の地方 が あ る品 目 の産 地 ( あ る いは集散 也) であ るかと いう ことを示 しう る 尼すぎ な い。 こ の点 を念頭 におき なが ら'農 産品 に ついて' 三多 摩地方 の全 国的 な位 置 を確 人 ただ し' 西武鉄道 および武蔵 野鉄道発 のも のを含 む ので'一 正確 には豊 多 摩郡 上埼 玉県 入間郡 も 一部 含 まれ て い 認 し ておく こと にし よう。 . まず' 三多 摩 ると見 るべき であ る) から の発 送 で'発 送 量が 全 国五十位 以内. の駅が ひと つでもあ る品 目をあげ ると' 次 のよう にな る ( 括 弧内 -)、生 甘藷 (4)' 生 馬鈴薯 ( 2)'繭 ( 3) ま た 農 産 物 で はな いが 一次産 品 と し て石材 は名 のあげ られ た駅 の数)。 麦 類 ( ( 3)' 砂 ( 4)' 砂利 (6)が あ る。 こ のう ち'生 甘藷 では立 川' 西武鉄道 が それぞれ全 国第 三位、 第 五位 に透 り' 国分寺 も 四 十 五位 で名が あが って いる。 ま た石材 で は多摩 川原が 五位 で西武 鉄道 が 二十 六位' 国分寺 も 三十 二位へ 砂 では青梅 鉄道へ 国分寺 が それぞ れ全 国第 一位 と第 二位' 砂利 でも青 梅 鉄道' 西武鉄道' 国分寺 が それぞ れ第 三位'第 四位'第 七位 であ る。三多 摩経済 にと って重要 な意 味 をも った繭 は三駅あ るが' 順位 から いう と 西武鉄道 が三十 二位' 原 町 田が 三十 六位 ' 立川が 四十 五位 と意外 に低 い (こ の結果 は対象 とす る駅 せ東 京 鉄道局管内 に限 って同 じ-上位 五十 駅 に ついてみ ても、あ ま り かわ らな い. 石材が 三駅 から七駅 に' 砂利が六駅 から九駅 打'繭 が 三駅 から四駅 に増 え る程度 であ る)。 次 にこの中 の 主 要 な も の . の発送 † ン数 に つい て、 全 国合 計 に占 める割 合 を み ると'生 甘藷 では四駅計 二十 二万 ト ン.強 で全 国計 の九 ・四パ ー セ ント' 砂が 四駅計 四万 ト ン強 で 全 国計 の 1七 ・九 パ ー セ ント' 砂利 が 六駅計 で三十 八万 ト ン強 で全 国計 ■ の 1九 ・七 パ ー セ ントであ る。 こう し てみ ると' 三多摩 の農産物 で全 国的 にみ ても大 き な シ ェアを占 めると みられ る のは甘藷 程度 であ り'当 地方 から の移 出晶 と し て大 き な意 味 をも っ て いた のは' むし ろ多摩 川 を中 心 に採掘 され た川砂 や砂利 であ ったと いえそう であ る。 つぎ に' 三多摩 への到着 品 目 に着 目 し て同様 にみ てみ る こと にし よら. ただ しへ こJ A Jで は全 国 に ついて ではなく'東 京鉄道 局 分 に ついてみて いく こと にす る。 そ の理由 は' 到着 品 目 は地域 の消費 な いし中間投 入を反映 す る傾向 があ る から' 三多 摩 のよう に加 工産業 ( 原材料 を移 入 し て製品 を移出) が それ ほど発達 し て いな い地域 では' ′発 送品 目 ( 生産 品 目を反 映) ほど には'強 い 地域 性 を示 さな いと みられ る から であ る。東 京 鉄道局管内 で五十位 以内 にあ る駅が 三多 摩 にひと つでもあ る品 目をあげ ると' 次 のよう であ る。米 (5)'麦腰 (4)t. 大豆( 6)'雑穀 ( 5)'生 馬鈴薯 ( 6)' 生 野菜 ( -)'柑 橘 (2)へ果物類 ( -)'藁 及び藁製 品 ( 4)、 丸太類 ( -).'木 材類( -)' 木炭 (-)'薪 ( 2)' 竹( 3)' 石材 ( 4)' 砂 ( 2)' 砂利 ( 2)'薗 ( 4)であ る。 三多摩 な か んず く北多摩 は畑作 地帯 であ るから米 の移 入が多 か った こと はう なず け る. ま た' 三多 摩 で生産 され て いた はず の麦類 ・雑穀 ・石材 ・砂 ・ r 砂利 など の着 駅 と しては吉祥寺 ・武蔵 境 ・立 川 ・八王 子などが あが って いる. こ のこと は≡多摩内 部 でも'都市 な いし都 市化 が進行 し' Oつあ った地域 と.'純 農 村 と し て の性格 を残 しせ いた地域' あ 古 いは砂利 のよう に産 地が 限 られ て いたも のの生産 地域 と の間 で' 域内流 通が鉄道便 を利 用 し てな され て いた ことを意 味 す る のかも しれ な い。 こう した点 を傾 けば 、 三多摩 への到 着 貨物 は' 三多摩 で此 蔵的少 しし か生産 され て いな いと みられ る品 目 粧厚 - な っておりへ そ の意味 では特 にき わだ った特 徴 があ るわけ ではな い。 以上 にみ たよう に' 三多 摩農 村 では長野県 や群馬 県 の 1部 のよ㌢ な養 蚕専業 地帯 でな いと は いえ養蚕 偏重 の状態 にあ り'農 村 第 二節 うち つづく不況 への対策 第 十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村- 六〇 八 不況 への対策 と し て こ の状態 から脱 出 す べく経営 の転 換 が はかられ たo L かしそ の結 果tJ n立 った特 徴 を三多摩 農 村 が持 つよう にな った かと いう と' そう で はな か った。 こ の点 は' 例 えば 山梨 県 の東 山梨 郡 の農 村 が' 三多摩 同様 の養 蚕偏重 の状態 から果樹 栽 培 へと転 換 し'今 日ぶどう や桃 の特産 地 にな って いる のと対 照的 であ る。 第 三節 ふ た つ の答 え . - 政 府 と無 産 陣 営- 1 L 「統制 経済 」 への期 待 さ て' これ ま で前章 で略 述 した ことも含 め' 不況 対策 に対 す る障害 ' ま たそ の効果 に ついて' や や細 かな こと にま で立 ち入 っ て見 てき たわけ であ るが'敢 え て重複 を い.とわず にへ そ のよう な検討 を し てき た理由 は'実 は こう した様 々な不況 から の切 り ぬ け策 と' それ に対 す る期 待 の中 にそ の次 の時 代'戦 争 経済 あ る いは統 制 経済 と い ったも の への芽生 えがあ る のではな いかと思 わ れ た から であ る。言 い準 ㌃るなら戦 争 経済 と い っても' これ は政府 が勝 手 にや った のではなく' 人 々の間 にそ の基盤 があ って' それ を受 け て組織 す る形 で'初 めて政府 の施策 が すす められ た のではな いかと考 え られ る のであ る。 こ の点 .に ついてもう少 し説 明 を加 え て お こう。 これ ま で見 てき た諸 対策 は二 つに大 別 す る ことが でき る。第 一は弱 いも のが協 力 し て' 七 にかく き り ぬけ て いこうJJいう動 き で'養 蚕実行 組 合 を作 る、 あ る いは養蚕実行 組 合 が協力 し て東 京 共同繭 倉庫 や' 東 京 社 を作 ると いう のが これ にあ たる。 そ れ から第 二 は' そう い-動 き の中 で公的機 関 に.よる指導 な いし支援 を受 けへ 制 度化 を 要 凍 す る動 きも あ る。府 営検 査 への要求 とそ の実 施 はそ の例 であ る。 これ を仮 に統制 経済 への期待 であ ると呼 んでおき た い. こ れ は経営危 機 の中 から出 てき て いる。 こ のよう な経済 状況 の中 で' これ に反応 し た いく つか. の動 き が みられ る。 それ ら の中 でも最 も極端 な例が' 一方 では団琢磨 ' 当時 の 浜 口雄幸 など の襲 撃 から五 ・1五事 件( 二 ・二六事 件 と続 - テ ロ ■ リズ ムの潮 流 であ り' 他 方 では非 合法化 され た共産党 を中 心 と した極左 の潮 流 であ る。 小ず れ の潮 流 でも. そ の中 心 は、農 村 で いえば 地主 にあ た るよう な' 比較 的 上層 の出身 者 が多 く 下層社 会 の人 々の暮 ら し の窮 迫 を み かね て の運動 だ ったと いう点 で は共通 し て いる。例 えば 血盟団事 件 の小 沼正 は事 件後 に︰ 自 ふた つの答えー政府と無産陣営- 分 が事件 を お こす に至 った動機 に ついて、農 民 を中 心 とす る勤 労大衆 の悲 惨 な生 活状 況が あ る 1万 で' 三井 三菱 など の財 閥 の資 第 三節 第十章 農村不況 へのふた つの答えー準戦時下 の三多摩農村- 六一 〇 本家 ( 団 琢磨 は三井 一族 の番 頭格 だ った) は' 巨万 の富 を手 にし て'腐 敗 堕落 した生活 を おく って いる のを みたとき' 社会 のこ そ の最 も顕著 な例 と し て五 ・ 1五事 件 の被告 たち に対 し て' 助命 嘆願書 が 七十 万 通 も軍 法会議 によ せられ の歪 みを虐 正す る こと に思 い至 った のだ と いう趣 旨 のこと を述 べ て いる. この流 れ に対 し ては世間 の目も全面支 持 ではない にし ても同情 的 であ っ雪 て いる例 をあげ る こと でが き よう。世 間 一般 の目 には' 彼 ら の行 動 は前章 でも み たよう な赴 会 の いきづ ま りと' 生 活 の困難 とを み かね て の義挙 であ ると映 ったわけ であ る。 これ に対 し てt. 極 左的 な運動 の側 は' そ の当事 者 たち の意 図 と し て は' や はり勤 労 大衆 の解 放 を めざ して いた のだが、当 時 の新 聞報 道 など を み るかぎ り' レ ポ ' アジ ト'リ ンチなど の耳慣 れ ぬ用語 が 踊 って おり' 大方 の人 々には' な にか㌢す気 味 悪 い印 象 を与 え て いたよう に思 われ る。 この両極 端 の潮 流 は' いず れ にし ても多 - の人 々を組 織 しあ る いは多 く の人 々の生活 に' 直 接 の経済 的 効 果 をも たらすも ので はな か った。 これ ら の潮 流 はそも そも少数 の戦 闘的 な革 命 家 た. ち による社 会改 革 を めざ し て いた から であ るo これ「 に対 し' こ の時期 把は本当 の意 味 で広範 な人 々を組織 しなが ら困難 な 社 会状 況 に対 処 し ょう と いう動き が あ ら われ て いる。 これも ま た' 以 下 のふた つの潮 流 にわけ て考 え る ことが でき る。. 一つは政 府 であ り、 もう 一つは社会 大衆党 など を中 心 と した無産 運動 であ る。 こ の時期' 同 じ社 会情勢 を背 景 に' 同 じ よう な答 え を出 し なが ら政府 と無産 運 動 が つば ぜ りあ いをす る。 そ し て結 論 を先取 り し てしまう と' 昭和九年 (一九 三 四) 前後 で政府 が せり勝 っ て いく こと にな るよう に思 われ る のであ る。順 を追 ってみ て いこ-0 政府 の答 え は' ど う い-も のであ った かと いう こと から はじ めよう0前章 の話 堅 戻るが' 不況 の中 で社 二 政府 の答 え - 国民 更生 運動 と戦 争 国 民 更生運動 の登場 会 問 題が発 生 し てく る。 そ れ に対 し て政府 が色 々な対 処 を した。 これ を前章 では 「物」 と 「心」 の両面 から の対策 と いう よう に 整 理 した。第 一の 「 物 」 の面 から の対策 と いう と' 地域開発 を行 ったり' 失業 対策 事業 を行 ったり' あ る いは補 助金 を出 したり す る。第 二 の 「心」 の面 から の対策 と いうと ' 各 種 団体 を充 実 さ せて いく、 あ る いは郷 土愛 教 育 を充実 さ せて い-。 お おむ ね以 上 のよう にまと めた. と ころが前章 で' 対 象 と し た昭和 二年 (1九 二七) から昭和 六年 (1九 三 一) ま で の段階 で は、実 は こ の 「物 」 と 「心」 の両 面 と いう分 け方 は当 事者 によ っては明確 には行 われ て いな い。 この区分 はむ し ろ後 から私 た ちが ふり かえ って見 た 結 果 で あ っ て' そ の当時 にし てみ ると、 色 々な問 題 が 1挙 に起 き てく る のに対 し て' いわば 場当 た り的 に対 処 を し て いく' そ の全体 の積 み 重 ね、 寄 り集 ま り、 そ う いう状態 であ った。 例 えば青 年 の風 紀 が 乱 れ て- る。 そ れ な ら青 年 訓練 所 を充実 しょう。 あ る いは失業 者 が増 え て- る。 それ な ら失業 対 策 事 業 を し よう' 等 々。 昭和 二年 から昭和 六年 ま で の段階 に行 われ て いた のは' そ う し た対 処 のし かた であ った。 と こ ろが 昭和 六年 ご ろ にな ると' こ の政策 の無 計 画 さ' 場 当 た り的 な性格 が自覚 され るよう にな ってく る。 例 えば 青 年 の風紀 が乱 れ た とな ると'方 々から 一度 に解答 が出 て来 る。内務 省 は青年 団 を充実 さ せよう と いう方 針 を出 す 。陸 軍省 は青 年 訓練 所 を 充実 さ せ' 軍事 教 練 をき ち んと やれば筋 金 入 り の青年 にでき ると考 え る。 さ ら にや や こし いこと に' これ に農 林 省 が関 係 し てく る。経済 的 困難 を打 開 す る の空 目年 の力 によ りなが ら' 青年 の生 き 甲 斐 も つく ろう と いう狙 いで'産 業 組 合青 年 連 盟 と いう組 織 を推進 す る。青年 と ても身 は ひと つであ る こと にかあ り はな い。 そ こに青 年 団 と青 年 訓練 所 と産 業 組 合青 年 連 盟 と三 つが かぶさ ってく る。 いく つも の省庁 の政策 が食 い合 いをす る状態 にな って いた のであ る。 そ の結 果 ' こう した組織 9間 で ト ラブ ルも発 生 し てき た。 そ の 一例 をあげ ると' 昭和 九年 (一九 三 四) に産 業 組合青 年連 盟 ( 農商 務 省系) と' これ はや や こし い名 称 だが' 青 年 団 の産 業 部 ( 内 務 省 系 ) の二 つの組織 のあ いだ で、組織 す べき対象 と な る青 年 の範 囲 を めぐ って' 重大 な トラブ ルが発 生 し た こ守もあ る。農 商 務省 と内 務 省 と は前 々から対 抗 関 係 にあ ったと いわれ るから' こ の争 いにも そ の事 情 が 手 伝 って いる かも しれ な い予 , も か- こ の時 は青年 団 の方 が 二十 五歳 ま で,産 業 組 合 の方 は二十 五歳 以 上 と いう こと で 1応 折 り合 いを つけ た のだが, そう いう問題 が頻繁 に起 き てき た のであ る。同 じ よう な現 象 は 一般農 家 にも あ った。 これ は言 ってみれば 各省 庁 の セク シ ョナ リ ズ ム' 縄 張 り意 識 の結 果 で'今 日も似 た よう な こと は多 く見 られ る。 ただそ れ ま で旦 止った問 題 も な か った のに' こ の時 期 にわ か に セク シ ョナ リズ ムによ る弊 害 が表 面化 し たと いう こと は' そ れ な り に時代 の状況 を反映 し て いるも のと言 え る。 つま り人 々 ふた つの答 え-政府 と無産陣営- の間 に救済 措 置 に対 す る期 待 が非 常 にた かま っており、 各 省庁 が自 分 の受 け持 ち と い-狭 い窓 を通 し て見 て いても' 何 ら か の対 第 三節 第 十章 姓村不況 へのふたつの答え-準戦時下の三多摩農村- 策 を強力 に実 行 しな いわけ に いかな いと いう社 会 の状態 であ ったと言 え る。 さ て ' こ の場当 た り性あ る いは無 計 画性が昭和 六年 ご ろ にな ると政府 によ って自 覚 され る。 このよう な状態 で' 各省 庁 の政策 が食 い合 って いた のではどう しようも なく な る ので' そ れ を 1本化 し て' 全体 と し て統 Tのとれ た政策 を と って いこう と いう発 想 があ ら われ る。 そ の結果 と し て政府 が姶 めた のが 「国民更生 運 動」 と いう 一大 運動 であ った。 これ は別名 「自力 更生 運動」 と も呼 んで いる.余 談 にな るが'中 国が戦後 「 自 力 更生 」 と盛 ん に言 った語 源 は' 戦前 日本 が や った自 力 更生 からき て いると いう 説 を と る人も あ るよう であ る。 こ の国民更 生運 動 は' 政府自 身 が 内 容 を 大 き - ふた つに分 け て いる。 ひと つは 「経済 更生」 もう ひと つは 「 精神 作 興」 であ 昭 7・ 農村 の経済 更生 並び に精神 の作興 を期す るた め、 府 では独自 の 匡 救 計 画を立 9・ 2 0 )0 る。 言 い換 えれば 「 物」 の面 「心」 の面 と. いう こと にな ろう。 こ の運 動 に具体的 にど のよう な事 業 や活 動 が含 まれ て いた かを' 次 にみ てみ る こと にし ょう ( 東京 日日新 聞 ︹ 自 力更生促進 に 匡救 計 画を立 つ 三万 五千円府会 に提案 ︺ て' 本年度 所要経費 三万五千 円を七年度 追加 予算と して二十 一日臨時府 会 に提案'府 会 の協賛 を得 た上直 ち に実施 す ること にな った' この匡救 計画 は農村 の自 力更生運動 の促進 を 目的 とす るも ので' 経済 更生 には農 林課 が、 精神作 興 には学務 課が、 ま た中小商 工業者 の更生 には商 工課が 専 ら指導 の任 に当 た る こと にな って いるが、 農村 の経済 更生策 は各 町村 か ら若 干 の委員 を選 出 し て墓相更生委員 会 を組織 Lt 適当 な る更生計 画 を立 て' これ を各 町村 で実施 さ せる予定 であ り' 精神作興案 は学務課と 各市 町村 とが協 力 して随時試演会、 講 習会 を開-と 共 にパ ンフ レ ット、 百四十 三万円︺ 府 の農 村匡救 事業 予算案 は十 九 日脱稿 した ので' 香 坂知 事 は二十 日午後知 事室 に各派幹部 を招き内 示会 を開 リー フレ ッ-等 をも印刷 配布す る計画 であ る。 ︹ 農村匡救 予算 山林復 旧' 林道 改修' 製炭、 船津へ 牧 野改良、 桑園改良、 蚕蔚補 給共 同作業 場 催、 二十 一日臨時府会 に提秦 す る こと にな ったが' 予算総額 は約 百 四十 三万円 で過般 の臨時 議会 で決定 した農村 匡救 計画 を実施 せんとす るも の 小開墾'小 用排 水 池へ暗渠▼農林課 で' 実 施 事業 は左 の如 - であ る ︻内務部 ︼▼整 地課 中小 商 工業者 救済 ︻土木部 ︼道路 改修、 軍事 国道' 河 川改修へ 砂 防 工事' 港湾 社会 事業 の普 及 医療機関 の整 備▼商 工課 精神作興案▼社会課 設置' 自給 肥料奨励▼衛生課 ︻学務部 ︼▼学務 課 合 圭 √∵ 了 五 i L. : i. . . . .. I,. I ; Ir l. I. ' T . T . .. L T・T . '' T . F J .J Zf , ・ =・ ・ L 国 書 村大字 穿 嘉 習 一、年末尋 始 -% T 苧 騰物± 切重層 「 年 賀 回穆 ハ酒肴 夕仝療 レ茶 菓 二止 ム 看 ハ可成 1'出産 、七五 三親 ハ長男 . 長女 . t限 サ就 夕従来 ノ年額 節約 ㌣ 一. 醐醐 齢 枕 等 7琴 牛 警 節約 違 調度品 ハ可 成自 給 自足 夕原則 - ス 一 ㌧病気 其 ノ他 ノ見舞 ハ節 約 ハ従 来 ノ 年 額 組合近 所 ノ レ 1-葬儀 ノ際 ハ 一般合 葬者 ハ酒 及 ピ ソ ノギ全廃 租シ床取ハ 家二 妃りテ碕ノ! 升。捉収ハ 凹人r維中迎合時間午前十 二時. 其 ノ 他 ノ引 物 香 料 造 花 二 封 二限 ル事 葬 儀 ノ際 ノ和解 サ ンノ供 ハ廃 止。 但 人 ガ供 夕代理 ス 「 手 ノ不足 ノ場合 ハ組合 以外 ノ近所 夕鶴 ム 一、嘗 地 三 一 ケ月以上住居 ノ場合 ハ村 ノ費 用 夕徴収 ス 一'入退兵蓬迎 一 二 婁骨 及 ビ土産 物 夕全焼 「 時間 厳 守 昭 利 前 年 十 l月 什 日 ふたつの答えー政府と無産陣営- 国 分寺村青 年困本村支部 主催 第 三節 図 4 国分寺村大字 国分寺節約 申合 (小柳賛家所蔵) これ ま で検 討 し てき た事 業 を全部 包 含 す る よう な計 画 であ った こ とが わ か る。 さ て こ の計 画 の遂 行 のた め には' あ り とあ らゆ る団 体 が 動員 され た。 ど う いう 団体 が 動 員 さ れ て いた かと いう と' 学 ・ 10 ・ 13 )0 校 の生 徒 ' 在 地 の軍 隊 組 織 ' 宗 教 団 体 ' 男 女 青 年 団 な ど' 極 めて 昭 7 二十 六 日 は西多 摩協 議 会 ︺ 多 岐 にわ た る ことが わ か る ( 東 京 日 日新 聞 ︹ 知 事 陣 頭 の 国民 更 生運 動 着 々実 を結 ぶ 府 の国民 更生 運動 は香 坂知 事 陣 頭 に立 ち学務 部 総 動 員 で密 閉 し、 十 月 に入 ると共 に各 地 に講 演 会 や講 習会、 座 談 会 を開 いて府 民 に非 常 時 の覚 悟 と自 力 更生 の精 神 を喚 起 し て いるが' 最 近 の業 績 と計 画 は次 のよう に 多方 面 にわ た って いる。 十 日 -国民 更生 運動 標 語募 集締 切' 府 下 の男 女 中等 学校生 徒 と 一般 か ら 五千 人 の応募 が あ り、 係員 が 山 と 積 まれ た葉 書 を前 にし て汗 だ- で 整 理 し て いる' 発 表 は 1週間 後 十 三 日 -在 郷 軍 人分 会 長座 談 会 ( 午 前 府 庁内 日本赤 十字 社) ◇ 青 年 訓練 所 主事 座談 会 ( 午 後 一時 半 同所) 十 四 日 -宗 教 団体 ( 神 仏道) 代 表 者 座 談 会 (同所) 十 八 日 =二十 二日 =府 女 子達 合青 年 団講 習 会 ( 神宮 外 苑 日本青 年館 ) 二十 日 =国民 更 生運 動 ポ スタ ー募 鎚 締 切、 募 集 は 二部 に分れ第 1部 は 二 二 男 女 中 等 学校 生 徒' 青 年 団員' 音 訓生' 実 業 補 習 生' 第 二部 は小 学校 生 徒 であ る 二十 五 日 -府 下青年 団幹 部講 習 会 ( 小 金 井浴 恩館 ) 六 第 十章 農村不況 へのふたつの答え-準戦時下の三多摩農村- 二十六 日 =国民更生運動 西多摩協 議会 1市三郡 のト ップ として先ず 西多摩協議会 を 二十六 日午 前十時 から青 梅 町旧都役所内 に開催、 郡内 町村長' 学校長 ( 音 訓 主事) ' 神職' 宗儀家' 農会長' 産業組合長' 在郷軍人分会 長' 男女青年 団長等 の中 から 一町村 五人内外 の代表者が 出席' 更 生運動実施法案 そ の他 を協 議す る こと にな って いる' な お当 日は司会者 と して安原 学務 部長が出席'吏 生運動計画 の説明があ って協議 に入 る予定 このよう に'今 ま であ った諸団体 、前章 で 「心 の面 から の対策 」 の担 い手 と した諸団体 を全部傘 下 に納 めて' そ の上 に更生 運動 協議会 と いう団体 が あ り' これが 全体 を 一本化 し て統 括 す ると いう しく み にな って いる。 念 のた め述 べておく と 「国民更生 運動」 を前 述 のよう に' 「 経済 更生」 「 精神作 興」 と二 つに分 け るけれども' この分 け目 はあ ま り は っき りしな い。 なぜ なら経済 更生 と い っても全員参 加 し て不況 をき り ぬけ よう と いう方 針 であ るわけ で' 全員参 加す る こ と によ って' 対 立が解消 す る効 果 も同時 にも つ。対立が解潤 す ると いう意味 で. は 「 精神作 興」 とも通 じ てく るわけ であ る。 この国民更生 運動 の中 でも と りわけ 「 精 神 作興」 の方 では' 国分寺村 民 は積 極的 な役 割 を果 たし て いる。特 に女 子青年 団 の活 昭 8・ H・ 16)0 北郡女 子青年 団 の国民更生運動非 常時女 性訓練 大会 は十 五日午 前十時 国分寺 動 は活発 であ ったO そぅ した青年 団体 の雰 囲気 が ど のよう なも のであ った かを示す記事が あ る ので、 次 に掲げ てお こう ( 東京 日 日新 聞 ︹ 熱 と力を こめ 女 性 の覚 悟 を説く 北 郡女子青年 団訓練 大会︺ 東 分校 に開き' 出席会員 五百余' 会 場 に盗 るる盛会裡 にまず 君が代合 唱 に つぎ小 池団長令旨 を奉読 Lt引 続き大会 開催 の趣旨 を述 べ'中島 学務 部長代 理' 府小 野指導員 の訓辞' 村越北都青年団長 の祝辞あ った後' 団員 の意 見発表 に入 る 「婦 人 の重大任務 に ついて」 昭和村中室喜 代' 「 農村更生 は我等 女性 より」国分寺 神 山 はるへ 「 所感」小金井島 田澄子' 「 所感」 三鷹村小高安 佐子' 「 非常時 に於 け る我等 の使命」 神代村金 子すず' 「 非常時 に対す る認識」 国分寺富 士野ゆき' 「 非常時 におけ る女性訓練」村 山村内 野 た ま' 「 新 興 日本農村婦 人 の覚 悟」 小金 井村高 橋さき 等熱 と力 を こめた非常時 女性 の覚 悟を滑 々流露す る雄弁 は来賓 並 に会衆を魅 了し' こ の心強き女性 の叫び に感 激 しな い者 はな か った'次 に府 の 横溝視 学 から青年 の必行要 項 に ついて話があ り昼飯'午後 一時 再) 開'拍 手 のう ち に左記宣言と決議 を な し、東京 女子大 学安 井哲 子女史 の 「現下 非 常 時 に お いてわ れ 等 女 性 は何 を な す べき か」 と 題 す る 一時 間 .にわ た る講 演 を 傾 聴' 終 り に余 興 の奈 良 島 知 堂 氏 の講 談 で漸 く 緊 張 を と き ' 午 後 わ が 国内 外 の情 勢 極 め て重 大 な る に鑑 み' わ れ等 女 性 の立 場 よ り.さ き に換 発 せら れ た る詔 書 の御 趣 旨 を 奉 戴 Lt 時 局 に対 す る正確 な る認 三時 半 閉 会 し た 宣言 議 識 を 高 め' 国 民 的 信 念 啓 培 に力 め' 相 率 いて わが 国 女 性古 来 の美 徳 を 発 揚 Lt 以 て難 局 打 開 に遠 進 せ ん こと を 期 す 右 宣 言す 決 二 日本古 来 の婦道 を 発 揮 す る こと 。 一㌧ 家 庭 生 活 の浄 化 を 期 す こ. と。 一' 経 済 生 活 の合 理 化 を 計 る こと 。 一、 団 体 的 訓 練 の実 を 挙 ぐ る こと . 二 体 力 の向 上 に力 む る こと 。 一㌧ 国 防 そ の他 公 共 奉 仕 に努 む む る こと 。 以 上 諸 項 を 実 行 しも って非 常 時 女 性 の訓 練 に努 む るを 緊 要 と 認 む' 右 決 議 す 。 北多摩 郡 女 子青年 団 さ て' 国民 更 生 運 動 は実 は単 に景 気 の い いアド バ ルー ンを上げ たと いう だ け には終 わ って いな い。 それ な り の効 こ こ に述 べら れ た ことを ひと言 でま と めれば ' 全 員 参 加 でと にか- こ の苦境 をき り ぬけ て い こう と いう内 容 であ る。 戦 争 の効 果 果 をあげ う る実 質 的 な保 障 が あ る。 そ の実 質 的 な保 障 を与 え る役 割 を果 た し た のが戦 争 であ った。 前 章 で' 村 対 抗 運 動 会 の話 ' あ る いは郡 対 抗 の スポ ー ツ の話 を と りあ げ た。村 対 抗 ' 郡 対 抗 にな って しまう とそ の村 の中 で の対 立 が解 消 し' ど こ か に消 し飛 ん でし まう と いう話 で' 戦 争 の効 果 も これ と の類 似 した側 面 があ ると考 え る ことが でき る。 つま り' 国民的 な規模 で の対 抗 の中 ふた つの答 え1政府と無産陣営- に' 人 々の対 立 が解 消 す る ので はな いかと いヶ こと であ る。 し かし こ の説 明 は不十 分 であ る. なぜ な ら'高 校 野球 な ど と いう の 第 三節 第 十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村- 六 一六 は' そう したければ」 人 は無関 心 で いる ことも でき る。あ んなも のはど こか で勝手 にや って いるだ けだ と し て' かたづ け てしま う ことも でき るわけ であ る。 し かし戦争 と いう のは' この時期 人 々にと ってとう て い無関 心 ではあ り得 な い' 人 々の生活 と密接 にから みあ った問題 だ った. こ.のはぅ な ことが言 え るのは'戦 争が次 のよう な ふた つの効 果 を待 ったと考 え られ る から であ る。 昭 9・ 2・16) C き ょう小 林組長協議︺ 躍進 八織が念願 の満州 国関税引 下げ に ついては、 昨年 日本織物中 央会会頭 であ る小 第 1は経済 的効果 であ る.満 州事変 に ついて' 三多 摩 の人 たちが どう いう ふう に受 け と めて いた かと いう ことを示す資 料が あ る ( 東京 日日新聞 ︹ 満 州関税引 下げ漸 -実現 の曙光 林 八織 組長以 下業界代表が渡満'引 下げ の猛運動 を したが' こ の程漸-引 下げ 可能 の曙光が見 え出 した ので' ここを逃 さ ぬと ころと小林組長 紘 今十 六 日午後 一 二時渡 満 に同伴 した大阪織物 同業組 合片桐 主事等 と織 物中央会事務所 で会 見' 善後策 を講ず る こ のこ ろ絹織 物 は、作 っても売 れ な いと いう状態 だ ったわけだ から' そ こ へ低 い関税 の市 場が確保 され ると いう のは大き な意味 をも つ。 こ の効果 は八王子織 物 に限 らな い。 八王子織 物 が景気 が良- なれば' それ に つれ て他 の産 業 も'製糸業 も良 く な る。製 糸業 が良 く なれば'養 蚕業 も良 - な る。就 労機会 も増 加 し て 賃 金 収 入も増 え る。■ こ のよう な具合 に経済 的波 及効果 が期待 され 昭 7 ・3 ・17)0 八王子市 三多摩都農会 では満 州新 国家 の建 国され た のを機会 に、満蒙開 る。 それ からもう ひと つ' も っと直 接 に' 国内 で経営 ・生活 がな り たたなく な った者 に新 天地を確保 す ると いう意味 も戦争 には あ った ( 東京 日日新 聞 ︹三十 五家族 を送 り 「三多摩鋲 」建 設 満蒙 へ三多摩 から移民計画︺ 発 に ついて去. る十 四 日 の青梅 町旧都衝 に開 かれた役職員懇 談会 にお いて、 三多摩人 の移民計画 に ついて協議 をとげ' 八王子市 五' 西南北多摩郡 各十、 合計 三十五家 族 を選抜 して移民 せしめ大 いに開拓 に つと め' 三多摩鎮 (一部落) を建 設 せし める こと に内定 したが、 この計画 に ついては 近-拓務省 と打 ち合 せ、 支障 のな い限 り 四月末 ま でに第 一回 の移民 を実現 し、 成績 の如 何 によ っては六月中更 に賃 二回 の移民 をも計 画す る筈 で あ ると。 こ の時期'農 村 で は何 を や っても う まく いかな い。先 にみ てき た よう にいろ いろな対策 を た てたけれども' 結果的 にみ ると' ど れも う まく いかな いと いう状態 だ ったわけだが' そう した状況 の中 に いる人 々に対 し て' いよ いよ の時 は新 天地 に行 って開 拓 す かた め の場 所 を保 障 す ると いう意味 があ る。 これ は経済効 果 と し ては大 した こと はな いかも しれ な いけれ ども'何 を や っても う まく いかな いと い って自 暴自 棄 にな って いる人 たち に対 七て希 望 を与 え ると いう' 不満 のはけ 口と し て の意味 は大 き か ったと思 われ る。 こ の満 州移 民 と い㌢ のは、 三多 摩 だけ ではなく て全 国的 な運動 であ った。特 に養 蚕中 心 の経営 を行 って いた長野県' あ こう いう ふた つの効果 が あ る ので' 「 満 州」 と いう 日本 の言 いな り に な るよう な場所 を確保 し ておく る いは恐慌 の影響 が非常 に厳 し か った東 北 地方 など で は盛 ん に こ の運動が行 われ て いる,0 戦 争 への期待 の高 まり 人 々はへ そ の戦争 の成 り行 き に注 目 せざ るを層 な い状態 だ った。 こ の気分 こと は' 人 々の生活 に直 接関係 してく る非常 に切 実 な問題 だ った のであ る。従 って満 州事変 に つい・ ては' 戦争 が ど こか海 のむ こ ぅ で起 こ って' ド ンパ チや って いると いう話 でなく し かも楽観 的 に- 立川〇〇〇 隊 の空 中勤務者○○名 は八八式偵察機〇 台 に搭乗'藤 田堆蔵大尉 昭7 ・4 ・19 )0 さ せる大 イ ベ ント の役割 を果 た した.. ま た' 立川 に駐屯 し て いた' いわば 「 郷土 を国民更生運 動 はう まく組織 したと言.え る。 昭和 八年 (一九 三三) に行 われ た関東 防 空演習 は' 国民更生 運動 そ のも ので はな い が' 人 々に戦 争 を意 識- 一万 二千 の見 送 りうけ︺ の部 隊」 が出陣 し て い-様 子も はなは な しく伝 えられ た ( 東京 日日新 聞 ︹ き ょう軍装 検査 の上 立川磯 明朝 出発 指揮 のもと に いよ いよ明 二十日午前 八時 立川飛行 場出発 と決定 した' コー スは〇〇〇 及び○○ に 1泊' 1路 山野帯青 の下界 を僻撤 し っつ初夏 の 故山 を後 に、 二十 二日夕刻 には℃○ に到着す る、 搭 乗者連は十 八日ま でに」切 の整備完 了' 全員 とも落 下傘 及び航空 浮服 ま で用意 成 り、 今 十九 日軍装検 査 の上最後 の休養 をと る' あす晴 れ の出 発 の日は立川初 め近接 町村 一万 二千人 の大群衆が格納庫前 に整 列見 送 り' 一方所沢飛行 学校航 空 技術部御 国 日本 両飛行 学校 の官 民機 十数台が見 送 り飛行 を行 いへ藤 田大尉 以下○○ 名 は辻○隊長 の訓示 の後 飛行 場内 の仮 設食卓 で簡 単 な首途 を祝 う乾杯 の上へ入 時 十分前機 上 の人と な り八時第 一番機藤 田指揮官離陸'第 二第 三と相次 いで離陸初夏 の碧空 に爆音 を轟 かせ つつ○磯鳳 巽 を 明二十日立川 飛行場を埋 める見送 り の団体 は次 の通 り、十 八 日関係団体 と○ 隊本部 と の打 ち合 せを行 ったが'これ等 の人 々は格 連 らね て勇 し- 西下す る筈 であ る' な お〇〇〇 の地上勤務者 近藤 少佐○○ の同勤務者小 林少尉 以下 は十 八日準備 のた め立川 を列車 で出発 した。 ︹ 見 送 り団体︺ ふた つの答 えー政府と無産陣営- 納庫 の前方 コンクリ ート の西方 に並 ぶも ので'○ 隊 ではガ ソリ ンそ の他引火 し易 いも のが多 い関係 上極 力喫煙を遠慮 され るよう希望 して いる。 第 三節 第 十 章 魚村不況 へのふたつの答え-準軟時下の三多摩農村- 六 1八 ▼立川 町関係 、 衛戊 病院 三〇、 技 術部 八 五、 在郷 軍人分会 一 〇〇、 青 年 団 五〇'小 学校 一七 五〇'消 防組 三〇〇'第 二中 学校 二〇〇㌧ 石川 島 二七〇、 立川 工作所 三 五㌧ 民間 飛行 学校 三 七㌧ 青年 訓練 所 三〇 ▼昭和村'青 年 団男女 一四〇㌧ 在郷軍人分会 五〇' 消 防組 四八、 小 学校 八 一 〇 ▼拝島 村' 青年 団訓練所 七五㌧ 小 学校 八〇 ▼国分寺 村' 在郷 軍人分会 二〇、青 年訓練 所 三〇㌧ 小 学校 五三〇 ▼そ の他、 地方 名誉職 一三〇㌧ 一般見 送人 七九〇〇㌧ 合計 一万 二千 人 ( 文中 「 〇〇〇 」 など は、当 時 部隊 名、 人数' 派遣先 などが軍事機密 と みなされ たため施 され た伏 せ字 であ る) これ ら は満 州 で戦 争 が おき た' も し負 け て攻 め込 まれ てき たら大変 であ ると いう こと で' 戦争 気分 の中 に人 々を動員 し ょう と い 三月十 日立川 に集合︺ 非常時 に備 え、 三月十 日を期 して行 われ る北 多摩郡在郷 軍人連合会 の動員模擬 昭 8 ・2 ・2 1 )。 う例 であ ると み る ことが でき よう。 ま た北 多摩 郡 で は昭和 八年 には在郷 軍人が 一度 に七千 人 も 召集 され て' 「非常 時 模擬 召集 」 非常時 模擬 召集 東 京 日 日新 聞 と いう 軍事 訓練 を立川 で受 け て いる ( ︹北郡 の郷 軍 七千名 演習 は' 十九 日 一切 の計 画成 り、 同 日麻 布連隊 区 の藤 田中佐 以下 は集 合 場と な る立川 飛行 場 の実 地視察 を行 った' 参 加者 は同郡在 全兵籍 関係者 七千 五百名 で' 七 日午 前 九時 二十分連 隊区 より郡 下 田無府中 両警察 署 に急電あ り、 直 ち に各 町村役 場を経 て令 状が配達 されへ 十 日午 前十時 に立 川飛行 場 へ到着す るも の' 集 合後 は西 岡少佐集 団長 と な り、 次 の式が行 われ る。 敬礼閲兵 (西岡集団長 指揮) 勅 語奉読 ( 連 合分会長中 野清蔵)式辞 (田無府中 両照察 署長) 訓 示 ( 麻 布連 隊区 司令 官) 分列 ( 集 団長 指揮)祝 辞講演 ( 来賓) 会歌合 唱万歳 三 唱 な お集合 は各 町村 を 一ケ中隊と して大隊別次 の通 り ▼集 団長 西岡少佐 (副官赤尾 比留間 両少尉) 副) 関 田少 尉 (砂川村 山大和)◇第 三大 隊長 築 田 大 尉 ◇第 一大隊長永 井大尉 ( 副)磯 野少尉 ( 立川昭和 拝島府中)◇第 二大隊長寺 田大尉 ( (副)渡 辺少尉 ( 東村 山清瀬 久留 米 西府)◇第 四大 隊長 岡崎 大尉 ( 副) 宮 本少尉 ( 保谷 田無小 平谷保)◇第 五大隊長和 田大尉 ( 副) 金 子少尉 (国分寺小 金 井武蔵 野)◇第 六大隊長萩 本中尉 (副)吉 野少尉 (三鷹神 代千歳)◇第 七大隊長堀 中尉 ( 副) 飯 田少尉 ( 砧調布狛 江多摩) 総 則 東京 肘 北 多 摩 郡国 防 協 曾 矧介 寺 村 支 昏 爪 丁群 々則 訊 山 作 木付 ハ 桐民糾紳ヲ作兆シ城 氏阿防 ノ丸 忠 並 ヲ領 民 一 一透徹 セ ノ完伯 グ鴇 炎 スルヲ臼的 ト ス 六 怖 辞 本命 .,同介奇 村内 L t肝 木骨 ノ祁 邦 ハa= 内 命村 準 楽 シ 一戸 '柄 yメ帝飼 飼帥 ス す総 は ナ ル姓黙 ヲ佃 拙 シ非 フ ル 着 '以 チ軌 俄 ノ 抑架 樹托放 任 策 陶指 仕 7帖 銀輪 州 以 上 又 ハ串柿 金 泣m ヲ納 入ル者 役 員 及 離 間 二、副 骨長 潜 干名 二 若干名 並 抑故 7 〝・ .キ ハ之 シ 且 、 合 本命 '代 穀 ス 和t S 三、 b C = 輪 伐 ヲ納 ム ル粁 骨炎 ・ ・シテ 一時 金 敦 は1-以 上 又 .)串柿 ・ 角 状 ト シテ T封 シ押紙H C;三桁 少食 長 ノ維功 本合 ノク ノ特 L t功奇 跡脊ナ ル譜 L セ ル新 日次 正合 E 3ノ三相 ・ 1・ス 本台 ノ令 fI ハ水砕昏 ; .特 別C= T F( 航 ヲ向 上 スル ヲ本 旨 ト ス 田 催 h J 偵 三、的 港税 超 ノ見 地 p-浦 貨 川凹 ノ研兜 茂之 工封 ヌル拘 筋 遊行 ノ後披 抑紫 四 '的 穀組 物爪 糊 係抑h - /研究 之 力普 及 抑準 正 、机 塞 及机 柁損 捌 ノ耗 僻 地 二兆 ノ横松 二田 スル小史 六 、兆地 本命 日的 達 成 . I必要 ナ 〝祁 築 二、周 防及 刷 折 問櫛 . tM ス〝研究 並 . (之 カ柿櫛 五伸 二朔 スル都築 三 体 本C =.,那 一俵ノ日朋ヲ達ス ルクメ左 ノ祁紫 ヲ行 フ Tr 国民榊紳 ノ作 外 並 一 一之 力扱者 訓 排 ノ助成 横唆 . 1捌 ス 〝榔単 新 二 賛 本命 ハ 淡 泊府 北多畔恥 的 班仏 合 同分 寺 村 支台 卜栴 シ耶路用 ヲ本村 役城 . I 妨 二 惟 花ク 節 折 前 折 一、名*令 日 1 ︰ 二、特 別や1 三、正 や n 三 第 一 名 玉 、肝的 以 名 E X 二 水 木骨. [ 九/柁nヲ爪ク 七 稚 T.付 抑 人 絹骨避 バ科長 ヲ以 夕之 一t光 ヅ'骨艮 Jl舟杯 ,紙. 5 那 九 倣 削C=桔 J,助 役、准 錨 罪人 分母 戊 ヲ以 テ土 工充 ツ ヲ代 印 ス 折 四t 監 郡 十 珂ス a ク身 長 之 '燭 托 ス、監 郡 . t滋 野 ノ監 充 t E 任ス 監 叩 J,合t f小 L 1 億 矧耶 ハ抑椛瓜 や ℡サ合舷之 ヲ現紀 ス、矧柿 .合戊 ノ相称 り交 ケ骨粉 夕革 餌 酢 十 l餓 殺n /化州 三 ケ咋 ト スー伯 シ再任 ヲ妨 ケ ス ', 師的 H ハ 材令 的以又 ハ村内 有 力者巾 r ,y 舟 並碓氷 シ之 ア塊紀 ス 折 十 二俳 押 紙 山 .1本や . 1凹 ス 〝流 婆 抑 耶 ヲ窪 ス 祈 十 三他 卿紋 ハ駒 住着 ノ残 任州 仰 ト ス 那 十 四 雌 顧 問 J,弥枯骨 ノE澄 ヲ朴 デ骨 亜之 7枚 紀 ス ' 祁 新 川 ハ骨 粉 t t脂 シ倉 並 ノ肺 州 二感 スル モノト ス 桁 ヲ 分解 七 シ ム 〝甥 メ柿 氾 ヲ鶴紀 ス 抑 十 五 体 や 楚 ハ此 坊 、食 朴 第 三節 ふたつの答え-政府と無産陣営- 図 5 東京府北多摩郡 国防協会 国分寺村支会会則 (坂本政吉家所蔵) こう い った気 分 を受 け て新 し い団体 も いく つか 設 立 さ れ て い る。 昭和 九 年 には国防 協 会 と皇 道 農 民 協 会 が 組織 され て いる。 こ の 「皇 道 農 民 協 会 」 と い- のは' 字 面 を見 た だ け で は' 単 な る農 民 組織 であ るま いかと思 わ れ る であ ろ う 。農 民組 織 に は違 いな いが' これ は実 は' 陸 軍 が 先 頭 に立 って組 織 を し て いる団体 であ る。 昭和 九年 の 一月 に東 京 府 下 に皇 道 農 民 協 会 が 組 織 さ れ たと いう ニ ュー スを み て み ょう ( 東 京 日 日新 聞 昭 9・-・2 1) 。 大 日本 皇 道 会 東 京 支 部 ︹全 関 東 に先 駆 し皇 道 農 民 協 会 生 る 陸 相 代 理 に土 岐 次 官 も 出 席 き のう 聖 跡 記 念館 に 俵 村 更 生 の雄 叫 び ︺ は全関 東 地方 に先 駆 し て府 下 に誕 生 し、 そ の発 会 式 は松 岡 (洋 右 ︰・ 引 用 者 ) 氏 試 演 会 に先 立 って十 一日午 前 十 時 か ら、 聖跡 記 念 館 で挙 行 され た' こ の日特 に病 中 の荒 木 陸 相 は代 理と し て陸 軍 政 務 次 官 土 し上▲ ノ し 岐 章 子 を 派 過 さ れ、 大 日本 皇 道 会 理事 長 山 崎 延舌 氏 座 長 と な って執 行 さ れ' まず 会 衆 一同黙 蒔 裡 に横 倉 源 治 氏 別 項 の如 き 国 難 打 開 の祈 願 文 を 朗 読 Lt 君 が 代 斉 唱後 「陸 相 の言 葉 」 の朗 読 あ り、 座 長 指 名 で支 部 長 大 日本 皇 道 会 本 部 幹 事 長 亀 川 哲 也 氏 、 副 支 部 長 横 倉 源 治 氏、 理事 に宮 川 隆 司 外 十 1名、 幹 事 に幹 事 長 田中 常 七 氏 外 二十 六 名 と 決 定 、 顧 問 に 田中 光 顕翁 、 松 岡洋 右 氏 等 を推 薦 し た' 来 賓 土 岐 次 今 や皇 国 は建 国 以 来 未 曽 有 の盛 運 と 危 機 に際 会 す 、 若 官 そ の他 の祝 辞 あ って午 後 十 二時 終 了 し た。 ︹祈 碑 文 ︺ 六 一九 第 十章 農村不況 へのふた つの答え-準戦時下 の三多摩農村- 富 国強 兵 は治 国 の要 諦 な り、 しかし てわが 大 日本帝 国 の( 厳 )然 と し て万国 に冠絶 せるゆえ ん のも のはま た実 にここに存 す、 しかる に し 一歩 を過 たば皇 国空 しから んとす' 政 事 の悪 弊を打破 し治 国安 心 の昭和維新 の断 行 に冥助 あ ら んことを祈醸す ( 以 下略) ︹宣 言︺ 現 下 の国状 は内 憂外 患 交 々迫 り万策 効 を奏 せず' 今 や方 に危急存 亡 の岐路 に紡復 す' こ の秋 に当 り吾 人 同志 は敢 然奮起 して、 我建 国 の大本 た る 農民道 を大 に振 興 し、 そ の団結 の強固 な る偉 力 を発 揮 し' 万難 を排 し て殉 国 の決意 を固 めへ 国防 の完壁 と相 侯 ち国民生活 の安定 を図 り' 以 って 昭和維新 の理想 郷土 を建 設 せん ことを期す ︹決 議 ︺ 一' 挙 国 一致 農山漁村民 の生活安定 を期 す 一、 挙 国 一致国防 の整 備完 壁 を期す 難解 な文 句が 並 んで いるが' 「決 議」 の部分 を読 む と実 は' 生活 安定' そ の為 には国防 が 必要 と いう人 々の切実 な要求 に、 訴 え かけ るよう な内容 をも って組織 され て いた ことが わ かる。 さ て国民 更生 運動 と いう形 で' それ ま でバラバラな対策が 立 てられ て いたも のが統 1化 され るo これ は人 々にと ってみれば' ど のよう な意味が あ った かと いう と、政府 が これ から は本腰 を 入れ て対 「無産合 同」 こ の第 一番 目 の答 え に対 し て'非常 によ-似 た答 えを出 した のが無産 運動 であ った。 これが第 二 策 に入 るぞ と いう ことを宣 言したAjいう意味 があ る。 だ から人 々の期待 は非常 に高 か ったとみ る ことが でき る. 三 労働 ・農 民運動 と無 産政党 番 目 の答 え であ る。 当 時'無産 運 動 も政 府 とま った- 同 じ社会情勢 の中 に' つまり色 々な対策 がう ま- いかず' 不況 の中 で挫折 し て いく状況 の中 にあ った. 前章 で述 べた中 に労働 運動が起 き てき たと いう話 があ ったが' 例 えば青梅 電鉄が争議 を起 こす、 あ る いは石川島 の飛行機 工場 が争議 を起 こす、 五 日市電鉄 が争議 を起 こす と い ったぐあ いで'続 々と労働 争議 が起き て- る。 それ から小作争議 も鶴 川村 で大 争 議 が起 き る' あ る いは相 原村 で 「武 相農 民 組 合」 が組 織 され る。 こ■ のよう にし て農 民 組 合 も組織 され て いる。 さ て こ の時 期 の 無 産 運 動 のひと つの特 徴 と し て' 次 のよう な動 き を み る ことが でき る。 そ れ は' こ の労働 運 動 や農 民 運 動 の中 に無 産 政 党 が 入 っ て指導 を Lt そ し て無 産 政党 が' 次第 に支 持 を広 げ て い ったと いう こと であ る。 なぜ支 持 され た のだ ろう か。 これ はあ ら た めて 言 う ま でも な いが' スト ライ キや争議 は これ以 上 だ ま って いた ので は' 暮 ら しが成 り立 たな いと いう こと で始 ま って いる。 これ を無 産 政 党 は支援 し て 一定 の成 果 をあげ る。 そ の 一定 の成 果 が ゆ え に支 持 さ れ て い- わ け であ る。 こ こで注 意 し て お- べき こと は'暮 ら しが 成 り立 たな いとき ' み んな で協 力 し てと にかく政 府 な り' 使 用者 な り に要求 し て いこう と いう姿勢 は' 実 は細 かな 表 現 と そ違 うが' 無 産 運動 でも先 にみ た国民 更 生 運 動 に含 まれ る運 動 でも 共通 し て いる。 さ て' 労働 運動 、 農 民 運動 を無 産 政党 が 指導 し て、 勢 力 を増 し て いく 。例 えば 当 時 の北 多摩 郡 で は無 産 運 動 は弱 か った と いわ れ て いるが' それ でも 昭和 二年 (一 . 九 二七 )の第 1回 目 の普 通選 挙 で は、 前 章 でも み たよう に' 欠 部 甚 五が 日本 農 民党 と いう無 産 政党 こ のよう に次第 に勢 力 を拡 大 し て- る に つれ て' 無産 団体 の間 で食 い合 いが 始 ま った。 そ れ に対 し' こんな こと から立候 補 し て' かな り の得 票 をあげ て いる。八王 子 市 ではも っと早 い時 期 から無 産 政 党 の市議 会 議 員 が う まれ て いる。 無 産大 合 同 で は お互 いに共倒 れ にな ってしまう ので、 一致 団結 し て生 活 確保 を追 求 し て い こう と いう声 が起 き て- る のは当 然 の成 り行 き で あ ろう 。 そ う い った声 が高 ま ってき て' 昭和 七年 (一九 ≡ 二) には三多摩 でも中 央 でも' 無 産 政 党 あ る いはそ の他 の無 産 団体 が 「大 合 同」 をす る こと にな った。 そ し て社 会 大 衆 党 と いう ひと つの大 き な政 党 を結 成 し た のであ る。 政党 レ ベルで の離 合集 散 はそ れ ま でも繰 り返 され て いた のだが' こ の社 会大 衆 党 の結 成 は'実 は政党 の レ ベルにと ど ま らず ' こ の下 で労働 組合 や農 民組 織 ま でも 一緒 にな って' 合 同 し て社 会 大 衆党 に合 流 す ると いう と ころ に意 味 があ る。 言 ってみれば 政 治 のプ ロフ ェッシ ョナ ルだけ で はなく' 一般 の人 々ま で巻 き込 ん で大 無 産 政 党 が作 ら れ た。 そ う いう と ころ に大 き な意 味 が あ る わけ であ る。前 述 のよう にt.政 府 の側 で は場 当 た り的 な対 策 の弊 害 が 認識 さ れ る に至 り' そ れ らす べてが 「国民 更 生 運 動 」 に統 一され て いる。 これ と今 み た無産 大 合 同 の成 り行 き は' 非常 によ- 似 て いると いえ るだ ろう。 ふた つの答 え-政府 と無産陣営- 以 上 のよう に昭 和 七年 と いう年 は、 前 の年 におき た満 州事 変 が本 格 化 す る中 で' 政府 の側 では' バ ラ バ ラ の対策 が 国民 更生 運 第 三節 第 十章 農村不況 へのふた つの答 え-準戦時 下 の三多摩農村- 六 二 二 八王子三多摩無産陣営 単 ナ合 同 の 「社会 大衆党 昭7・9 動 に l本 化 され' 無 産 運 動 の側 で は これ も ま た バ ラ パ テ の運 動 で は いけ な いと いう 反省 から' 無 産 大 合 同が行 わ れ ると いう こと でひと つの画期 的 な年 にな って いる。 「社会 大衆 八市 三多摩支部」 き のう賑 や か に結成式︺ さ て' そ れ で はそ の社 会 大 衆 党 と い十 の′ は' ど う いう実 体 を持 って いた かと いう こと を み て み よう ( 東 京 日日新 聞 ・8)。 ︹打 って 一九 とな る無産 陣営 の大合 同 八王子三多摩 支部」 結成大会 は七 日午後 七時 から 八王子市 三崎 町 の八王子館 で開催' 各市 町村 代議員 出席 八市三 郡 下 の旧労大党八 南支部 並 び に 同西北支部 を共 に改 め' 新 た に各 市 町村 の全農民組 合、≡多摩 自 由労働組 合'武相繊維産 業労働 組合' 紡織 加 工職 工組 合、八王子合 同労働組 合'借家 人組 合' これ等 組合 以外 の 「市民班」 も悉 -網羅 Lt 打 って 一丸 とした懸案 の無産党 大合 同 ( 組 合 の性質 上実質 は合 同 でも裏 面 は支持 に止 ま る も のもあ る) が ここに完 成 され た'新支部 長 には前 に南支部 長 八王子市会議員 の森 田喜 一郎 ( 三 八) \氏'書 記長 には前 八南支部 の山 口加藤 太 (≡ 六) 氏が選定 され、 はか に常任執行委員十 名 とそ の他 の執行委員 役員等が選定 され た' 大会 は八王子市 の三浦 八郎 氏開会 の弁 を 述 べ' 正副議 長 ( マこ の選挙 で議 長 に森 田喜 一郎 氏' 副議 長 に立川 の佐藤 義熊 氏当 選' 次 いで各種委員書 記 の任命、 祝辞祝電 の朗読 出席 I者 に対す る資 格審査報告' 合 同 から新支部結成 ま で の経過報告'民報 の 「フ ァ ッシ ョ粉 砕」等 の議案審議役員選挙 ( 詮 衡委員 から発 表) B n 1 7 1 1 1 か 決議'新役員挨 拶 で閉会 と な った が' 緊急動議 と し て (一) 八王子 の公設質 屋. の実 現 促進 を市当 局 へ要望 す る こと (二)新 支部 結成第 二戸と して市民大会 を開催 す る こと の二 つ 森 田新支部長談︺ 合 同 による新支部 長森 田菩 1郎 民 心語 る 中 央 にお いて資 本主義打 倒 の主体勢 力が出来 た のに呼応 Lt わ を決議 した、合 同 によ る新支部員 は凡そ千 五百人'支部 下 には既報 の如く各市 町村単位 の分会 及び十 二支部 にわた る闘争 各部 門が 設 け られ た。 ︹徹 底的 な闘争 れ われ地方 的 に合 同■ によ って得 る強 力 により' 労農 両組 合 や中小商 工業者等 の日常利 益擁護 のた め ここに徹 底的 な る闘争 を開始 せん とす るも の であ る。 ︹宣言︺ 没落資 本主義 打 倒 の主体勢 力 とし てわが 国無産政党 分 野 の最後的集結 は成 りへ去 る七月 二十四 日社会 大衆党 は輝 かしく結党 され た、し I かし て ここ堅 二多摩 地方 の合 同を完 了し、支部結成大会 を挙 ぐ る に至 った ことはわれ等 の心 から万歳 を叫 ぶ ところであ る'荒 れ狂う資 本主義 の強 圧 は三 百万 の失業 大群 を街 頭 に投げ 出 し'農 業 恐慌時 の犠牲 下 に耕作農民 を飢餓 に瀕 せし め'中小商 工業者 を倒産 没落 の深 淵 に突き落 し' しかる に支 配階 級 は自 己 の権力 と栄誉 の日を長くす るため'大衆 に強 ゆ る に国家 の非常 の名 の下 により多 く の負 担 と犠牲 をも ってし ておる、要す る にわ 政府所有 の死蔵米 を配給 し ろ▼中小商 工業者 へ無担保金 融即時実行▼失業者 にパ ンと仕 事 を与 え ろ▼失業家庭 への電灯 を無料 われ等. は資 本主義 の■強圧 下 に坤吟 す る労働 者' 農 民'中小 商 工業者解 放 のため果敢 な る日常 闘争 の前衛 た る こ とを期 す れ われ は大衆自体 の団結 と組織 の威 力 によらず んは 今 日 の非常時 を打開 出来 ぬを確信 し' われ等社会 主義 大旗 の下 に勇 往溝 進す るも のであ る。 ︹ 決議︺ ︹ス ローガ ン︺ 闘争 各部 門と 同部 長 は左 の如 し で供 給 し ろ▼電灯電 力 瓦斯料金 を半減 し ろ▼失業救済 工事 の即時着 工▼家賃 地代 の五割値 下 ︹ 各部 と部長並び に執行委員︺ ▼組織 部森 田喜 一郎▼宣伝部仲木 星鋲 一▼出版部杉 本悦造▼教育部 佐藤 義熊▼青 年部 太 田久蔵▼婦 人部織 田光 子▼財政部 稲葉茂▼調査部 早川 房之助▼事業部 平本善 八郎▼市 町村選挙 対策部 山 田光清▼傍働 対策部村 上忠男▼農民対策 部泉浮義 1▼市 民班部 三浦 八郎 泉洋義」 外 二十九人 常僅執行委員 太 田久蔵 ( 織維産業組 合) 仲木 星頗 1 ( 自 由労働組 合) 村 上忠男 (八王子紡 織組合) 伊東朝 之助 ( 農 民組 合) 森 専 (八王子合 同 Vbd J 労働組 合) 山 田光清 ( 立川) 佐藤 義熊 ( 立川) 三浦 八郎 . ( 借家人組 合) 野津和 三郎 ( 市民 班) 杉本悦 蔵 (同) 執 行 委員 これも先 はど の皇 道農 民協会 と同 じ で、 むず かし い言葉 が並 ん で いる。 「没落資 本 主義」 など と言 われ ても'何 が 没落 して いる のかわ から な いが'最後 には、極 めてわ かりやす, y 人 々屯と って切実 な要求 が並 んで いるo こ の点 も皇 道農 民協会 と よ-似 て いる。 同 じ社会情勢 t. そ し て同 じ行 き詰 ま った人 々を対象 に' 訴 え て いるわけ であ る のだ から' そう違 った訴 え方 が でき るわけ / はな いはず のも のであ る。 では'ど こが違 う のかと. いう と'戦 争 に対 す る姿勢 が違 って いる。 つまり政府 は' 「いろ いろと経費 節減 を し て欲 し い。 そうす れ. i j J補助 金 も出 す。 どう し ても行 き詰 ま ってし ょうが なければ戦 争 を し て確保 した満州 が あ る」 と いう訴 え方 を して いる。 そ れ に対 し て無 産 政党 の側 は 「戦争 な ん かし て これ以 上負担 を蒙 った のではかなわな い。全 体が い- ら よ- っても戦 争 に働 き手 を と られ たり'生命 を おと し たり し た当 人 にと っては身 の破滅 で' 他 の人 の状 況 が よ- な ったと し ても最 終的 には困 る のは当 人 で' 他 の人 にはどう し ても らう ことも でき な い」 と いう主 張 を し て いるわけ であ る. 「そ んな こと よりも社 会 商 な分 け前 を変 え たら 良 い。取 りすぎ て いる連 中 が いる のだ からそ こか■らもう少 し、 苦 し い人 々の方 へよ こせ」 と いう運 動 を し て いる。 この二点 が政 第 三節 ふたつの答え-政府と無産陣営- 第 十章 農村 不況 へのふた つの答 え - 準戦時 下 の三多摩農村- 六 二四 府 の国民 更生 運動 と無 産大 合 同 と の違 う点 であ る。 そう は言 っても' こ の両者 が非常 によく似 た政 策 を出 し て いると いう こと は 旋 いな い。 こ のよく似 た政策 を出 した二 つの潮 流 が、 つば ぜ りあ いを し て ■い く 。 これが 昭和 七年 (一九 ≡ 二) から昭和十 三年 ふた つの潮流 のせりあ い - 無 産陣営 の敗北 - (一九 三 八) ご ろま で の状 況 であ ったと いえ よう。 四 同 じ社会 状 況 を前 にし て'政 府 と無 産 運動 とが似 通 った答 えを出 したわけだが、前 述 のよう に両者 のせりあ いの中 で' 最終 的 には政府 が せり勝 って い- こと にな る。次 に' そ の経過 に ついてみ ておく こと にした い。 まず'無 産 政党 はそも そも' なぜ勢 力 を伸ば し得 た のだ ろう か。結 論 から言 う と'彼 ら は ス ローガ ンを いろ いろと掲げ て いる が、 それ らがき れ い事 で はな か ったと いう こと、 言 い換 え るなら、 生活 が大変 だ と いう人 々の生活 不安 に直 接訴 え る ス ローガ ン を掲げ た から伸 び た のであ った。 と ころが こ の生活 不安 に訴 え ると いう こと は逆 に無産 政党 の最 大 の弱 み でもあ る。 なぜ な ら' 戦 争 をす れば 満 州 を確保 でき' そ こで開 拓 が でき る- これが政府 の主張 であ り、 これ に対 し て戦争 を や めて富 の分 配 を変 え たら 良 いと いう のが無産 政見 の主張 であ ると いう こと は' 既 に述 べたと おり であ る。 と ころが分 配 を変 え ろと い っても そ う簡 単 に変 え られ るわけ はな い。 一方 の利得 は他方 の損失 にな る から であ る。 つまり使 用者側 と いえど も 倒産 の危 枚 にさ ら され て いるわ け で' そう簡 単 に承服 し て労働 の側 のと り分 を多 - す かと は言 え な い条 件 の下 にあ る。 両者 とも に抜 き差 しな ら ぬと ころ に いるわ け であ る。 そ のよう な と ころでへ とど の つま りど ちらが強 いかと いう と'金 と力 を持 って いる側 が強 いのは、 ほと んど自 明 のこ と であ ろうO決 めれば それ を実 行 す る力 を持 って いる側 の方 が'多 少 の問題 はあ る にし ても、 具体 的 な効 果 を伴 っ 五 発 言 をす る こと にな る のだ から' 人 . 々に訴 え かけ る力 は強 いわけ であ る。 これ は今 日 でも 同 じ であ ろう。 例 えば 「組 合 のお偉方 は いろ いろ と旗振 るけども、 そ れ に つられ て ついて い ったわれ われ ヒラ組 合員 は会 社 が 倒産 しち ゃ ったら元も子 も な- な る で はな いか。 そ の時 組 合 は養 ってく れ る のか云 々」 と いう よう な声 を今 日 でも聞 - ことが でき る。革 新 的 で カ ッコいい ス ローガ ンはあ る のだ が、 それ に ついて行 ってわが身 はどう な る のかt と いう 不安 は今計 でも存 在 す る。 それ に対 し て'会 社 ば か り でなく 国全体 が 「倒産」 したら元も子も な いから' と に か く 今 はでき る ことを や ろう'戦 争 でも し ょうが な いと いう主張 に. は強 い説得力が あ る。 この当 時' 昭和 二年 から十 三年 ご ろの時期 も同様 であ る 。\政府 は いう。産業組合 を つく れ。経費 節減 を せよ。 これ に応 じれ ば 補助金 を出す 云 々.政府 は' 具体 肘 な金 額 の多寡 はとも かく' 出 そう と思 えば出 せ るわけ であ る.も しそれ でう まく いかなけ れば満 州 と いう新 天地 の開発 も でき ると いう具体策 があ る。国展更生運動 と いう のは' 威勢 のいい文 句を並 べて いるだけ ではな く て' 具体的 な実行 でき る策 を伴 って いたと いう ことが'無 産運動 に- ら べ絶対的 な強 み にな って いたと思 われ る。 このよう な圧倒的 な説得 力 をも って' 国民更 生運動 が大運動 にな ってく ると'無産運動 の中 に いる人 たち の中 にも動揺が起 き てく る。 「 無 産運動 が養 ってくれ る のか」 と いう 不安 が高 ま って- るわけ であ る。 この不安 の高 まり の中 で∵ 昭和 八年 に三多摩 )0 で無産 合同 に加 わ って いた 大 き な組織 のひと つ' 三多摩 自由 労働 組合が、 方針転換 を し て 社会 大衆党 からそ っ- り脱党 したう 昭8・8・9 既報'愛 国勤労組合結 盟式 は八日八市富 士森 公園大 正殿神前 で挙 行、 三多摩自由労働組 合 え'愛 国勤労組合 と いう新組合 を結 成 す る ( 東京 日日新 聞 ︹ 新組 合旗 の下 に会 員 は誓 う 愛 国勤労 組合生 る︺ の旧組 合 そ の他 八市' 南部 地方 の労働者合 して約 百五十 名' 黒 シ ャツ、 半纏 と りど り の服装 に胸高 々と パ ッチを つけ て集合'定 刻午後 三時 半友 党愛 国青年党首 野 口幹 氏 に迎 え られ て軍部 の高 山中 将副官 を従 え来着 すれば、 式 は君が代 合 唱 にはじまり' 新組 合長仲 木星鋲 1君転 向経 過報告 をな し' 廃赤旗 は潔 よく焼 かれ、 日章 を配す る新組 合旗 は祭壇 に樹 立、 会衆 これ に向 っ・ V宣誓' ここに五 ・1五事件 に因を発す る昭和刷新 の風 一陣' 転 向愛 国勤労組 合 は誕生 した' 高 山将軍 の訓告 の後 組合代表 者 三 十名 は会 場 より徒歩 で多摩御 陵 に奉告 に向 い、 次 いで山と積 まれ た赤 飯 のむすび に酒 の祝宴 は盛 大 に開 かれ、午後 四時 半終 会と な った こ のよう にし て無産陣営 の大衆組織 の中 に動揺 が広 が って- る。 それ を受 け て無 産陣営 の指導者 の間 にも動揺 が みられ るよう に 12・5 昭8・ )0 社 大党 の大桑 を前 にして 態度 をき める大評定︺ 満 州事変 の只中 に戦争 絶 対反対 の旗 印 を掲げ闘争 の な ったO次 にそ の例 を いく つかみる こと にしよう.社 会大衆党 の中 で昭和 八年 にな ると、戦争 の是非 を めぐ って大 路線 論争 が お きた ( 東 京 日日新 聞 ︹ 政策論 二派 に分 れ岐路 に立 つ無産陣 社会大衆党 は漸く現社会 の情勢 に立脚 して戦争 防止等時代 に緩 和す る転 換政策 を樹立'来 る九 日から三 日間芝区協 調会館 で党 本部 大会 を開催 一 第 三節 ふたつの答え-政府と無産陣営- 第 十茸 =3村不況 へのふたつの答えー準戦時下の三多摩幾村- 政策論 二派に分れ 岐路に立 つ無産陣 杜大藁の大骨を前 にして 態度をきめる大評定 村 H, 止 に 爪 か‰め黒い 譲朗爪・ ぐ仲] ・・ ; : h. ,: : / f i 墨.I ・. , い[I;I 桔 か ら か , 熱=即朋' にgl 日仏 . : /; E . ・; J( I I : i f .; Jf T・禦 .I E㌦ 恕 ; ・・: I. - つ 取竺の 恥 爪 が如、畠 十八ケ訂 崇 軒欝 .LlGg:E:・BFTL1つき れ 舵 許 駕 の爪車に耶蓋 鶴 野 壷 郭 軌に- 宗 の窮 節 を軒 取 の私製 戦 法 EL , 賢 べきだ く 取 払 加の仰i i .J 毒し て FN 判 抑 あ げ ら れ ・ 三と に .t j つ L l ・ m郎 窮畔 だ欝十 h ・・転即 耶 & 国防協曾 i.1 如 拙 ひ が# 1 ! S .・5 .で S I . ; 義 木 恥 が こ の 軒 別 に 郎 れ 爺 の村影 な TP . 南郡で韓令 式 3 の 町 村 買 い は T T に 榊;針か崇 の ∼ E j や鷹藍 か : 皇.En 帆 列 黙読 山 野見目か ( } 一 ん6 ハの か かの 杓に ー 翁民に訳 軒に 牛 打て 雪 =・ ) . Il ー J ・ ! : L T < い .df. 響, -: ・ . 汁 : 1 撃梨別室d L A .gl 嬰. 監 1九三甥 師 恩 別 が ぼ 森 田支部長談︺ 山 口書記 長談︺ 六 二六 市 三多摩 から ほ八南 支部 長森 田喜 一郎氏等 十数名が 参加す る が、 これが態 度決定 に つき 三多摩支部 では'今 五日午後 七時 から 八市三崎 町森 田支 部長方 で執行委 員会を開き、 新 旧何れ の政策 によ って進 む べき か大 評定をす る こと にな った' し か し て今後 の運動 に大影響 を 及ぼ す右 政策 に関 して は森 田支部 長' 山 口書記 長両氏間 の意 見が全-相 反 し て いる のを はじ め 党員 の態 度 両派 に分れ分裂 とま で に至ら ぬも激 論 沸 騰 す べ く' か- て三多摩 無産 陣内 にそ の運動方 法を めぐ って 1大溝 を生ず べ-各方 面 から重視 され 八王子署 並び に立川審 兵 隊 で は厳戒' 情勢 調査 に努 めて いる。 森 田 支 部 長 は ' 大 勢 に従 って 戦 争 絶 対 反 対 と いう 政 策 を 昭和九年度 を期 し て活発 な運動 を開始す る に当 り、 党 の拡 大強 化 を はか る上 には社会情勢 を考慮 にお-転 換政 本門 的 の方針 を社会情勢 によ ってそ の運動方法 を転 じ る こと は堕落 で'徒 ら に大勢 に順応す る こと は右翼化 で も う 一例 を あ げ よ う 。 当 時 の 三 多 摩 の無 産 運 動 のも う ひ と つ の中 心 に な って い た 立 川 の活 動 家 ・佐 藤 書 熊 が 昭 和 九 年 末 に脱 党 こと にな る。 こ の よ う に政 策 論 争 が お き る o 実 は 翌 昭 和 九 年 (1九 三 四 ) に な る と ' こ の森 田喜 1郎 と い う 支 部 長 は 運 動 か ら 脱 落 し て し ま う 既成政党 への屈 服 であ る、根 本精 神 による従来 の方針 をも って臨 む べき だ。 ︹ 転 換 は堕 落 策 を認 めね はなら ぬ' 反戦 の ス ローガ ンを た てて進 む は現状 では至難 で' これを叫 ぶよ り戦争 防止 と し大衆 を獲得 が より効果的 であ る ︹政策転 換期 長 は ' そ ん な こ と は裏 切 り だ と い って ' 大 論 争 が 始 ま った わ け で あ る 。 と り 下 げ な け れ ば ' 我 々 は 孤 立 し て し ま う か ら ど - し ょ う も な い じ ゃな い か と い- 主 張 を す る 。 そ れ に対 し て ' 山 口加 藤 太 書 記 ] け郎関取知町野 目 指 郎 町村てら祭 からは八郎を 郊外 訂 ・5;最y新 Yつ,1る卿判肘 r b れ ・ # .手元 撃 十 相 即 が 鷲半る が ・ J h I.A m楳■次 図 6 岐路 に立つ無産陣 ( 庚京 日日新 2・5) 聞 昭 8・1 した ( 東 京 日日新 聞 ︹無産陣営 は揺 らぐ 昭9・ 12・ 29 )。 立川 の佐藤弁護 士 社大党 から脱党 す べて の要 職 を辞 して 1弁護 士と し て更生︺ 立川 町蒋 町社 大党中 央委員弁護 士佐 藤吉 熊氏 (三 五) は二十八日突如党 関係 の中 央委員 を初 め同青年部 長' 農村委員'中 央部員、 労働委員等 を全部 辞任 し' 更 に党 籍 から離脱 し、 一方 日本農 民組 合三多摩責任 者 の立場 からも退き、 同時 に立川 の居 を東京 世 田谷区池 尻 二三七 に転 じ 「従来 の党 関係 を清 算 し 一弁護 士と して更 生」 す る旨声 明 した、 氏突 然 のこ の態度 は各方 面 に異常 な セ ンセーシ ョンをまき起 し'特 に十年 三多摩 無産 運動 の若き指導 者 と し下 田金助 氏 の 後 を受 け て無産 階 級 の法律上 のよき道 しるべ でもあ った農民組合関係者 は色 を失 って いる.転 身 に つき 氏 は転 向 ではな-飛躍 であ ると い って い るが' さき には八王子 の森 田喜 1郎氏が運動 から遠ざ かり、 今 回更 に佐藤 書熊 氏を失 った三多摩 無 産 運 動 は全 - 1名 の有力 リ ーダ ーも なく な 佐藤 氏 は二十 八 日移転 を前 に本社 立川通 信部 を訪 問決意 を語 った。 り'彰 群と し て押 よ せる非常時 の波涛 に根 こそぎ にな る のではな いかと 見 られ る に至 った. ︹記者 と の 一問 一答︺ 佐藤 「主と して個 人関係 で転 居 し党 の関係 を断 った、自 分 では決 して転 向と は思 わな い' む し ろ現在 の立場 から飛 躍す るも のと思 う」 記者 「今後 の方針 は」 佐藤 「学校 を出 て十年 無産階 級運動 に従事' 殆ど勉強 出来 な か った、 現在 の力 では残念 なが ら在 野法曹 と し てブ ルジ ョア弁護 士 に負 け る' 十分 勉 強 し て将来 のた め再武装 の準備 をす る」 記者 「非常時 の種 々な情勢が転 身 の動 機 か」 佐藤 「そ-' 軍部 のあ の盛 んな民衆 の支持' 新官僚 への大き い期待等 を見 て は現在 のまま の無産運動 はあ まり情 けな い' こ の頃 では農村 出身 の 既成政党 の代 議 士さえ農 民 はどう し て救 われ るかと い- ことを考 え て いるへ こう した時代 の主流 から見れば' 小 さな から の中 にあ る従来 の無 産 階級運動 はど う し ても破 らねば な らな い」 記者 「軍部 や新官僚 の理論 に全- 共鳴 な のか」 佐藤 「今 の新 し い経済 思想 は皆 国家社会主義 だ から おなじだ」 記者 「十年歩 んで来 た途を省 み て ﹃われ過 てり﹄ と思 う か」 佐藤 「思わ な い。 」 第 三節 ふたつの答えー政府と無産陣営- 第十章 農村不況 へのふたつの答え-準戦時下の三多摩農村- 記者 「今後 の三多摩農 民と の関係 は」 佐藤書熊 氏 は' 大 正十 三年帝 大法科卒業後直 ち に弁護 士 の資格 を得' 社会民衆党 の創立当時 から党 に関 係、 同党支 持 団体 の 佐藤 「出来 れば めんどう見 た いと思 って いる」 ︹佐藤 氏 の略 歴︺ 三多摩農 民組 合 や山梨' 神奈川'新 潟県 など の風 合運動 及び法律関係 を受 け持 ち、 輝 かし い闘争経 歴を有 Lt つい最近 ま では独身 で通 した希 に 見 る真撃 な学徳 と し て人気があ った、 転向 の重 大 な 一つの動 機 と し ては老 母 は つさ ん (七 五) .を抱 えさら に昨年 名門土倉 一家 から夫人節 子 さ ん (二八) を迎 え'去 る五月 には愛 児民 子さ んを得 るなど家庭 的関係が存 す ると見 られ'数 日前 には満 州軍 事慰 問と し て献金 ( 当時既報) す るな 佐藤 舌熊 氏 の知友某 氏 は語 る。当 人 は転 向 と いう字 を嫌 ノ つて いるようだが 明 か に転 向 だと思 う、 彼 の十年 の闘争 経 歴 は全く純 ど変 った動 き を見 せて いたも のであ る。 ︹ 某知友 の談︺ 情 の血 で終始 したも のだ' 大 正十 三年頃 は社会運動 も力強 -普選実施 を前 にし て無産党 の進 出も前途 を好望 され て いたへ若 い彼が こ の途 に入 っ た のも無 理 はな い'そし て中途 で赤松 克磨 等 の 一派 に走 ったりド ル買 いに憤 激 して銀行 を襲撃 したりし て情熱 な行動が多 か った'最近 の時局 に照 し て自 分達 の運動が ぴ ったり しな いも のにな った時' 彼 の転 向 はむ し ろ自 然 だ' それ に暖 か い家庭 の影響 を受 け たと いう のも ひが 目 ではな い。 無 産 運動 の主張があ まり にも現実離 れ し ており' 人 々が 「軍部」 「 新官僚」 に組織 され て いく ことを引 き と められな いので' そ れ に対抗 す るだけ の力 量 を つけ るた め に勉強 す ると いう のであ る。 このよう にし てあ い つぐ指導者 の脱党 に' 社会大衆党 は頭 を失 った形 にな ってしまう。 この後 も三多摩 では、 国民更生 運動 と ひ つそく 無産運動 と の つば ぜ りあ いが続 き'昭和十 二年 の給 選挙 で は三多 摩 で初 めて の無産 派代議 士が当選 し て いるし .' 昭和十年 代 半ば には佐藤書熊 も三多 摩 の無産 運動 へと復 帰 して いる。 ま た、時代 は下 るが 翼賛体制 が成立 し て、無産 運動 が完 全 に逼塞 したと思 われ る状況 の下 でも'無産 派 の人 々が 一般 の生活 に密着lした形 で' いわば ドブ板 の活動 を続 け て いた こと は' 例えば 元八王子市 議会議 員 の三浦 八郎 の回想録 など からも う かがう ことが でき る。 し かし政治 の表舞台 を み る限 り、 最 終的 には政府 が せり勝 って い- のであ り' そ こに至 る流 れ は' ここでみた昭和 八 ・九年 の動 き の中 に、 す で にあ ら われ て いると み る ことが でき よう. さ て ここで見 たよう に無産運動 の陣営 で は' こ の時 期指導者 が次 々と抜 け てしま ったわけ であ るが' それ では' はた して こ の 人 たち を転 向者 だ と簡 単 に片付 け られ るだ ろう か。結 論 から いう な ら' そう はでき な いだ ろう。 なぜ ならへ彼 ら は人 々の切実 な と ころが' そ のよりど ころとな るべき左翼的 理論 は' あ ま り 生活 改善 への願 いを追求 し つづ け て いるから であ る。 この生活 改善 と いう同 じ土俵 の上 で戦 ったな ら' 金 と力 のあ る方 が勝 つに 決 ま って いる。 そ の土俵 の中 で こ の人 たち は全力 を つく して い.M にも 硬直 し て いて' そ れ に従 って いた ら人 々の心を つかむど ころか人 々の問 から浮 き上が り' 孤立 し てしまう と いう認識 が、 こ う し た人 々のあ いだ にあ ら われ た のであ る。彼 ら の 「脱落」 はそ の結 果 であ った のであ り' それ を今 日' 大義 名分論 から断罪 す 途中 で ぬけ たと は いうも の の- それ でも社会 大衆党 の中 に い る のは誤 り であ ろう。 し か し問 題 は' こ の人 た ちが負 け ると分 か って いても無産 運動 の側 に いたと いう と ころ にあ る。あ る いは 1般 の人 たち ま で組織 した三多 摩自 由 労組 など と いう組織 が- 以 上 に見 てき た よう に' 国民更生 運動 と無産 合 同 と いう 二 つの路線 が 三多 摩 でも せりあ いを し て' 国民更生 運動が せ た。 なぜ負 け ると分 か って いる側 に ついた かと いう のは大 問題 であ って'今 私 た ちが考 えな- て は いけ な い問題 のひと つであ ろ らノ0 むすび か勝 って い ったわ け であ る。 ただ これ は、 政府 が そ の後 得 手勝 手 に振 る舞 え るよう にな ったと いう こと を必ず しも意味 しな いO こ の後 の時 期 にな ると、 政府 は経済 統 制 を 一層進 め' 国民更生 運動 の精 神作 興 の面 も さら に進 めて' 昭和十 二年 (一九 三七) に は国民精神 総 動 員 運 動 へと展開 す る。 そ し て、 これ ら によ って国 民 の掌 握が され た ことを基礎 に' 日中戦 争 から太平洋戦争 と エ スカ レートしなが ら戦争 を進 め て いく こと にな る。 これ はも ち ろん中 央 の資 本家 な り' 政 治 家 な り の意 向 と いう ことも あ ったわ け だが' そ の背 景 には本章 で見 たよう に、 人 々が経済 統制 や 「新 天地」確保 に対 し て大 き な期待 を持 って いたと いう ことがあ っ た。 言 い換 え ると'少 なく とも満 州事変 から 日中戦 争開 始後 しば ら- の間 は、戦 争遂行 に対 し て 国 民 的 な支 持があ った のであ り' それ に対 し て公然 と反対 を 唱 え る こと は極 めて困難 な状況 が あ った。 そ- した世論 を背景 にして' ま たそ の限 り で政府 な い ふた つの答 え-政府 と無産陣営- し軍部 は容 易 に戦争 政策 を遂行 し得 た のであ る。 第 三節
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