しかし、この研究は地元の人々や新選組 一女ヲ生」と書かれており、三男の存在が が作った『芹澤家譜』には、貞幹が「三男 梅原義明 研究家の支持を得てない。研究内容に問題 示唆されている。ところが、肝心の三男に 幕末 ヤ撃団 があるからだ。そこで今回は、この問題に 箱 根 氏 は 、「 三 男 一 女 」 は 誤 記 だ っ た と のは長女と長男興幹と次男成幹だけだ。 関する記載が無く、家系として現れてくる 通説「芹澤鴨本家出身説」 関して検証してみたい。 「芹澤鴨は行方出身にあ ら ず」と 言えない事実 芹澤鴨に関する新説の登場 近年、芹澤鴨に関して、新説が出回って いる。それは「芹澤鴨分家出身説」と呼ば れているものだ。 芹澤鴨は、通説によれば「行方市芹沢村、 い。だが、誤記だという確証を得るために する。本当に誤記ならば、通説は通用しな この通説は、昭和期に釣洋一氏が広め、 芹澤本家の三男」とされてきた。これが近 年の新史料発見により、 否定されたという。 は、裏付けとなる史料か傍証が必要だ。 現段階では、箱根氏からの問題提起が行 平成期にあさくらゆう氏が完成させたと箱 根氏は言う。 この研究は、地元郷土史家の箱根紀千也 氏と、その協力者浦出卓郎氏によって発表 を 書 く 研 究 者 だ 。 論 文 は 、『 常 総 の 歴 史 の生年ははっきりしないとある。この時点 玉 造 町 観 光 協 会 発 行 )』 に よ れ ば 、 芹 澤 鴨 で 「 玄 太 ( 幼 名 )」 と さ れ た 。 な ぜ 名 前 が さて家譜で名前が無い三男は、通説の中 か無い。つまり、通説はまだ崩れていない。 われただけで、今後の研究の進展を待つほ 第四六号~四八号(崙書房) 』に掲載され、 で、芹澤鴨の正確な年齢は不明だ。だから 判明したのかと言えば、法眼寺にある芹澤 『新選組を創った男(あさくらゆう著・ 箱根氏が集大成と言う論文が、霊山歴史館 年齢に関することは、すべて憶測となるの 本家の過去帳に、ある女性の戒名が記載さ される。共に京都の霊山歴史館紀要に論文 紀要第二二号に掲載された。 でご注意願いたい。 い、ウィキペディアの芹澤鴨に関する項目 新聞記事を装う投稿サイトに書き込みを行 始したのだ。インターネット上において、 の論文発表以降、凄まじい勢いで宣伝を開 の中で、貞幹の子と記載があるのは、長女 記載が無い。貞幹が作成した『芹澤家譜写』 料『芹澤家譜』には、鴨に該当する三男の の三男に生まれたとされる。ところが、史 鴨は、水戸藩上席鄕士芹澤貞幹(本家) 太だと証明できていない」と主張した。名 ここでも、箱根氏は「三男の名前が、玄 の「玄太」だと通説では語られる。 たからだ。名前の解らなかった三男は、こ れており、その下に「芹澤玄太妻」とあっ だが、ここで問題が起きる。彼らは、こ も書き換えられた。一部では、あさくら氏 前不明の三男が「玄太」とするのは、歴史 研究家の憶測でしかないからだ。 と長男興幹、次男成幹の三人だけらしい。 しかし、貞幹の孫にあたる芹澤美幹(潔) を誹謗中傷する行為も行われている。 ( http://chishikizatsugaku.com/?p=1081 ) -1- 箱根氏は、芹澤鴨本家出身説否定の立場 これは箱根氏が『芹澤潔戸籍』を見てい になった」とする説は、完全に否定される。 ないからこそ起きた間違いだろう。 から、そもそも「玄太」は、研究家あさく らゆう氏の古文書誤読であり、 正しくは「兵 った家督を、また兄兵部(成幹)の血筋に 戻すという不自然さが出てくる。 以上の考察から、箱根氏の芹澤鴨本家出 とは、箱根氏が示した史料『石橋彦兵衛の 澤鴨の年齢に関する考察を行っており、そ さて、箱根氏は論文の中で、たびたび芹 身否定論は、成立していない。 もし、箱根氏の言う通りに「兵太」が正 願 書 』 に よ っ て 明 ら か だ か ら 、「 兵 太 」 と の方面からも通説の批判を行っている。 そして慶応四年に兵太が当主であったこ しければ、元治元年九月二十二日~十二月 「 芹 澤 潔 ( 美 幹 )」 は 同 一 人 物 で な く て は 太」であると主張する。 まで、兵太は芹澤兵部(成幹・次男)と共 ならない。 史料『昭和大礼贈位書類第二冊』の中か に、諸生党の治療に当たっていた記録『御 つ まり 、「 兵太 」 は 芹 澤 潔 の 幼 名 と 私 は る記述が発見されたからだ。その記述によ 長 谷 川 庄七 ( 内 務 省 二 )」 に関 す 追討ニ付戦士疵療治ひかえ』があるから、 考える。当然、貞幹三男の玄太と兵部(成 ら 「故 文久三年九月頃に暗殺された芹沢鴨とは別 芹澤本家で外記の名を使用したのは、芹 も「文政九年」と記されている。 澤 外 記 ノ 四 男 ( 後 略 )」 と あ り 、 生 年 月 日 れば「長谷川庄七ハ常陸國行方郡芹沢村芹 「玄太」は「兵太」の読み間違いとする 幹)長男の兵太(潔・美幹)は別人だ。 また箱根氏は、石橋彦兵衛の慶応四年四 箱根氏が、読み間違っているのではない 人になる。 月 の 願 書 に 、「 本 家 芹 澤 兵 太 殿 宅 え 罷 出 候 か?。そして『御追討ニ付戦士疵療治ひか 箱根氏は、ここで登場する外記を貞幹と 処」とあることから、慶応四年の芹澤本家 次男)と兵太(貞幹三男)が兄弟で治療に 考え、通説の「芹澤鴨は、芹沢村芹澤家本 澤貞幹とその父清幹だ。 幹 三 男 と さ れ た 「 玄 太 」 が 、「 兵 太 」 だ っ 当たった」とする説も「兵部(成幹)と兵 家貞幹三男で、文政九年生まれの幼名玄太」 え』で、箱根氏が言う「兵部(成幹・貞幹 たとすれば、箱根氏が言う通り、完全に芹 太(成幹長男)の親子」で、治療に当たっ は、当てはまらないと主張する。 当主が「兵太」だと主張した。本当に、貞 澤鴨と兵太は別人ということになる。 たことになる。このように理解すれば、 『芹 ところが、私があさくらゆう氏から見せ しかも前戸主は「亡父芹澤兵部」とある 主は芹澤潔(美幹)だ。 載がある。だから、慶応四年の芹澤本家当 関し 、「慶 応 三 年 七 月二 十 日 相 続 」と の 記 (美幹・成幹の長男)が本家を継いだ日に わらず、三男の弟兵太が継ぐことになって の死後、兵部の長男である潔がいるにも関 ば、家督者である貞幹次男の兵部(成幹) 幹)の間に、当主として兵太が入るとすれ 箱根氏の言う通り、兵部(成幹)と潔(美 家督は、長男が継ぐのが順当だ。もし、 蔵伴勝といい、新治郡宍倉村(現かすみが 親とはなりえない。また、清幹の四男は又 齢であり、妻の年齢も考慮に入れると、父 が生まれたとされる年代に御年六〇代の高 父清幹の二人がいるわけだが、清幹は庄七 政期に芹沢外記を名乗ったのは貞幹とその 解らないが歴史研究家を名乗る人物が、「文 その後、インターネット上で、何者かは から、家督を兵部の後に潔(美幹)が継い しまう。しかも、明治時代の当主は潔(美 うら市宍倉)の浜野茂衛門家に養子入して 澤家譜』とも符合し無理が無い。 だことは間違いない。従って、箱根氏が主 幹)なのだから、一旦三男の弟の血筋に移 て頂いた『芹澤潔戸籍』によれば、芹澤潔 張する「兄の兵部の後に。弟の兵太が当主 -2- 親 は 貞 幹 と い う 事 は 確 定 し た 。」 と い う 記 いることが判明している。長谷川庄七の父 な く な る 。 つ ま り 、「 庄 七 の 父 親 は 貞 幹 と 四男が同じ年に生まれた可能性は否定でき 確に解っていないのだから。 事を提示している。 確定した」などと、豪語できるほどの条件 (http://rensai.jp/147379) これが事実だとすれば、四男庄七が文政 が揃っていない。第一、芹沢鴨の年齢が正 九年生まれなので、文政九年生まれという 主張するに至ったと考えられる。 確かに、芹澤本家三男は長い間、謎の人 物であったし、下村家でも継次の名は不明 だった。その意味では、両家をつなぐ確た る史料は無いし、下村祐斎と継次の関係も だが、史料『鈴木大日記.文久元年四月 史料的には不明確と言えるだろう。 ことはできないと私は考える。これにより、 七 日 の 項 』 に 、「 一 、 下 村 継 次 ナ ル 者 、 潮 したがって、庄七が貞幹四男と確定する 箱根氏が主張する芹澤鴨本家出身否定論の 来松本や遊女色橋と云者を連、村芹沢外記 芹澤鴨の通説は崩れ、文政八年以前の生ま 箱根氏の本家出身否定論では、兵太と庄 核心部分が、すべて崩れてしまった。そし れにしなければならない。 七が貞幹の子とすることが、本家出身説を 宅ニ潜居いたし候を監府、召捕」とあり、 箱根氏の言う「兵太」は、正確には潔(美 て、通説は何一つ崩れてはいない。 つまり、兵太に該当するのは、名が不明 幹)だから、貞幹三男の名は通説のまま「玄 なぜなら、何の縁も無い指名手配者を、 完全否定する絶対条件となっている。 の三男しかありえず、四男は庄七で確定し 太」で良いだろう。玄太は、元服すると現 芹沢本家が匿う理由が無いからだ。匿った これが、芹沢本家と下村家をつなぐ有力な ている。兵太は慶応四年まで生存している 在の北茨城市松井村の神官下村祐斎の婿養 ということは、芹沢本家と下村継次には強 箱根氏は、この養子の件でも「芹澤本家 村家で名前不明の行方不明者が、下村継次 いつながりがあったことを示している。下 史料となる。 から、五男以降が鴨の候補だ。 子となり、名を下村継次に改めた。 示していない。したがって貞幹の子は、五 から下村家に養子に入った証拠が無い」と ところが、五男の存在など、どの史料も 男以降はいない。そうなると、芹沢鴨は本 史料『芹澤家譜』には、貞幹三男に関す 箱根氏は、このことに関しても下村祐斎 だとすれば、下村家と芹沢本家に明確に関 しかし、これを事実とするためには、裏 る記載がないため、当然、養子に出された と下村継次をつなぐ証拠が無いとしたが、 主張する。とにかく、通説徹底否定だ。 付けとなる史料か、傍証が必要になるだろ とも書かれていない。また下村家に関して つい先日、史料『明善先生日記』の中に、 家出身では無いということになる。 う。史料には「外記」としかなく、芹澤家 も、行方不明になった人物の名が不明のま 係していたことの証明となろう。 の誰を指すのか判断は難しい。また、文政 この行方不明者の名前が、継次だと判明 次郎八の倅 文久元年に捕縛された下村継次の名が見つ さ れ な い 。 つ ま り 、「 文 政 期 に 芹 沢 外 記 を したのは、研究家あさくらゆう氏の調査の 者也」との記載があるという。神職次郎八 まで伝えられている。 名乗ったのは貞幹とその父清幹の二人がい 結果だ。箱根氏は、あさくら氏の主張を「憶 とは、神官下村祐斎のことだ。 期に二人も同じ「外記」を名乗ることは許 る」はずはないのだ。 測の産物」と考え、玄太が養子に入ったと かった。それによると「手綱領松井村神職 そして、そもそも庄七の母親が誰か解っ するには証拠不十分と結論。養子否定説を この発見によって下村家で名前が判らな 次郎八百姓より神官御取立の ていない。腹違いの子と考えれば、三男と -3- かった人物は、 ほぼ下村継次と確定できた。 を重視する。当時、義幹が在京していたか れても不自然では無いのだ。 は、創作も多いので信頼性に欠ける点を指 これに関して、まず私は子母沢寛の著作 れた「下村嗣司」は、前述してきた神官下 藤勇書簡の信憑性は高く、その書簡に示さ 鴨と深く交流していた。その点で、この近 そして、近藤勇は、同じ局長として芹澤 これにより、芹沢本家と下村家が強く結 摘する。それに、分家筋の者が芹澤本家三 村祐斎の子、下村継次と考えるのが妥当だ。 ら、これに符合するというのだ。 び付いていたことが証明できよう。玄太養 男だった芹沢鴨の葬儀に参列しても、不自 詰 ま る と こ ろ 、「 芹 澤 鴨 分 家 説 」 は 、 島 この下村継次が、芹沢本家宅で捕縛され 子説は補強された。逆に言えば、箱根氏の 然では無だろう。それを八木為三郎が「兄 たのである。 養子否定説は説得力を失った訳である。 同じ諱では、名前から兄か弟か判断でき が同じ諱を使うことは、 まず考えられない。 そして、義幹の初名諱が光幹ならば、弟 取ってかわることになる。だからこそ、箱 説は分家出身説しかなく、この説が通説に 本家出身ではないのであれば、残っている もちろん、箱根氏が言うように芹沢鴨が 田魁の『英名録』だけが、唯一の根拠だ。 ず、混乱が生じるからだ。たとえ、兄が改 根氏は、通説の否定にこだわったのだろう。 と勘違いした」可能性は否定できない。 名し、以前の名を弟に与えたとしても、や しかし、本家出身説は、まったく崩れて 以上、説明してきた通り、箱根氏の言う はり混乱は生じる。それを避けるため、同 いない。したがって、箱根氏の分家説は、 「芹沢鴨本家出身説否定論」は、ほとんど では、箱根氏が支持する「芹沢鴨分家説」 じ諱にすることは常識的に考えられない。 なメモがあったことから、芹澤分家筋の芹 末尾、芹澤鴨の横に「又左衛門子」と小さ この説は、島田魁が書いた『英名録』の か。島田の勘違いの可能性が残されている がどの程度芹澤鴨の事を知っていただろう に関しては一考の価値はある。だが、島田 島田魁の『英名録』はどうだろう。これ ただ、言えることは、依然として「本家 て、信憑性の向上を目指す必要がある。 「説」の段階であり、裏付けや傍証を重ね ただ し、現段階では本家出身説もまた 箱根氏による「芹澤鴨分家説」 何も成立しない。 は、 通説に取って代われるほどの説なのか。 澤又衛門以幹の子が、芹澤鴨ではないのか 以上、はやり『英名録』だけでは説得力が 出身説」が通説の位置にいるということだ。 通説よりも信憑性の低い仮説のままだ。 という説から始まる。 無い。島田のメモが正しいことを証明する 箱根氏は、芹沢鴨の諱「光幹」と同じ諱 通説を否定する事で自説を押し通そうとす 以上で検証を終わりたいと思う。今後は、 また、箱根氏は近藤勇書簡に「水府脱藩 るのではなく、事実を明らかにする研究に 史料か傍証が必要だ。 っていたことから、義幹の弟もまた使って 士下村嗣司改芹沢鴨」とあることから、分 重点を置いて貰いたいと願う。 を、以幹の二男又衛門義幹も初名として使 いた可能性があるとした。この義幹の弟こ 家の芹澤又衛門こそ正式な水戸藩士で、水 氏に感謝したい。 (幕末ヤ撃団 梅原義明) 多くのご教授を賜った研究家あさくらゆう なお、この検証に関して、史料の提供、 そ芹澤鴨だというのが、箱根氏の主張だ。 しかし、芹澤本家も上席鄕士であり、士 府脱藩士に文字通りに適合すると言う。 末 記 』や 『 新 選 組 異聞 』 か ら 、「 水 戸様 の 分として扱われている。水府脱藩士と言わ さらに箱根氏は、子母沢寛著『新選組始 家来だという兄が尋ねてきた」という記述 -4- 前述の4頁は、二〇一五年一二月に開催 おかしい。定説ならいざ知らず、通説に疑 通説として通用しない」という主張自体が だから、箱根氏の言う「疑問が多いので、 向など気にすることなく進められる。先行 がら、自らの研究を先行研究者の意向や動 うすれば、先行研究者の研究を参考としな でも参考として使用すべきと私は思う。そ ****************** されたコミックマーケット89において無 問があるのは当たり前だからだ。 研究者の考えを改めさせなければ、自分の 研究が前に進まないなどという意味不明な 前述した史料や資料の扱いのほか、あさ 研究には陥らないはずだ。 箱根氏の研究論文を読んだ時に思ったこ 箱根紀千也氏の研究手法に関して 料配布したペーパーの全文だ。 一枚の印刷物とするために、文字数を制 限した都合上、説明不足の箇所もある。 この場を借りて、そうした部分の補足を 行いたい。 いて「フィールドワークの欠如」を指摘し くらゆう氏は『茨城史林第39号・水戸藩 史料には一次史料と二次史料があり、そ ている。これは、文献資料を史料として用 と は 、「 史料 や 文 献 の 信憑 性 や 信 頼 性を 考 れぞれ信憑性が違う。史料の他に文献資料 いているという疑念とも直結する問題で、 芹澤家について』の論文中で、箱根氏につ 箱根氏の論文を拝見し、まず最初に思っ があり、それらを使って歴史を研究してい つまり「孫引き」の疑念を懐かせる。 慮していない」という点だ。 たことは、箱根氏が「通説と定説の違いが くことになるが、箱根氏の場合、これらの 定説と通説の違いについて 解っていないのではないか」 という疑念だ。 史料や資料の信憑性や信頼性を考慮するこ うのない説、定まった説のことで、実質的 史料の取り扱いに問題があるのだ。 となく使用している感じがする。つまり、 で 使 用 す べ きだ 。「 孫 引 き 」 は間 違 い の 元 究者自身が、自分の目で原本を確認した上 本来、文献に掲載されている史料は、研 「定説」とは、証明ができており疑いよ に「史実」として扱われる。 違いは、証明ができていないために、いく くの支持者を獲得している説だ。定説との っとも信憑性と信頼性が高く、それ故に多 究者に疑問を投げかけて返答を貰わなけれ 究者に対しての疑念や矛盾が生じ、先行研 ってしまっており、その結果として先行研 菊池明氏の著作文献を「史料」のように扱 された史料の原本確認を怠っている可能性 ら、現地調査や先行研究者の文献内で使用 の著書を史料と同様に扱っていることか の疑念をぬぐい去れないのは、先行研究者 を招く。私が箱根氏の論に「孫引き多用」 であり、著しく論の信憑性や信頼性の劣化 つかの「疑問」が残されていること。それ ば、研究が進まないという状況に陥ってい があるからだ。これでは、とても良質な研 特に、 研究家あさくらゆう氏や釣洋一氏、 でも、多くの研究者から検討され、支持さ るように私には感じる。これらは、あくま これに対し「通説」は、仮説の中で、も れるに至った点で、他の仮説と比べて信憑 究とは言えまい。これらの問題が解決でき う。大いに期待しているところである。 れば、芹沢鴨研究のさらなる進展が望めよ でも参考文献であって史料では無い。 り、先行研究者による文献資料は、あくま 研究は史料によって進められるべきであ 性と信頼性に秀でている。 今回の「芹沢鴨本家出身説」も「通説」 であり、 「定説」ではない。 -5-
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