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Title
レンブラントの風景画
Author(s)
兼重, 護
Citation
長崎大学教育学部人文科学研究報告, 30, pp.四一-五三; 1981
Issue Date
1981-03
URL
http://hdl.handle.net/10069/32829
Right
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レンブラントの風景画
レンブラントがそれのみを主題として風景を描き始あたのは、
きないことも事実である。
護
めたのが、 一六五〇年代の半ば頃である。つまりレンブラント
段によって風景を描写したが、この三つの異なった表現手段を使
におけるより、この三つの表現手段の使い分けがかなり意識的に
い分けることは、風景に限らず、彼の聖書主題や人物描写などに
行われているように思えるのである。つまり同じ風景を主題とし
も等しくみられるものである。ただ風景主題の場合に、他の主題
続けている。ところが風景画に限ってはある一定期間しか描かな
の問題に関して多くの研究者の一致した見方は次の通りである。
紙片に定着しようとし、エッチングにおいては自然から得たもの
ながら、それぞれに異なった表現意図をもって取組んでいる。こ
の風景画のスペシャリストたちが活躍し、優れた風景画を作り出
している。このような時代の風潮の中にあって、レンブラントの
を更に自己のイメージに従って改変し、一層自然らしい自然を表
かったのは何故なのだろうか。
風景画へのアプローチの態度は、他とは全く異なり、彼はそれを
しようとした。
現しようとし、そして油彩では、想像的或いは幻想的風景を創造
レンブラントは、二五〇点以上の風景素描、二十四点の風景エ
営為であったと言わなければならない。
世界で生きている人物たち、これら全ての人間、そして自分自身
親しい周囲の人たち、彼に肖像を依頼する人たち、歴史や聖書の
レンブラントの絵画の究極の目的は人間を描くことであった。
ルが異なってはいても、レンブラントの絵画活動の全てがこの一
が等しく彼の興味をひく対象であった。年代によってそのスタイ
ッチングそして十六点の風景油彩を遺した。素描、エッチング、
点に集中していたことは否定することができない。レンブラント
レンブラントの風景画︵兼重︶
油彩それぞれの全作品数に対する風景の割合は決して高いとは言
えない。特に油彩は際立って低い。しかし、それだからといっ
て、風景画を除外してレンブラントの全芸術を展望することがで
すなわち、素描においては自然と直かに相対し、自然の諸現象を
り彼の風景画は、時代の風潮とは離れて、全く個人的な芸術上の
彼の芸術形成の一過程として位置づけていたように思える。つま
レンブラントの時代のオランダは、風景画が特に好まれ、多く
彼は、肖像画、聖書・神話などの主題画はその生涯を通じて描き
の作画活動の中の、二十年間に限って風景を描いたことになる。
レンブラントは、素描、エッチング、油彩という三つの表現手
重
は、一六二〇年代半ばからその死の 六六九年までの四十数年間
一六三〇年代の半ば頃とされている。そして風景画を描くのをや
兼
六三六年以前に制作されている。つまり、レンブラントが風景そ
味あることには、その半数以上が、 ﹃宙官の洗礼﹄の描かれた一
四二
の油彩やエッチングによる自画像、肖像画、歴史・聖書の主題画
長崎大三教育学部人文科学研究報告第三十号
などは端的にそのことを物語っている。しかし、素描によるそれ
絵画的表現の可能性の追究という側面も多分にもっているという
ントにとって素描は、直接的な人間観察という側面がある一方、
代風の建築物のある小高い丘を背景に聖者の殉教の場面が表わさ
画、一六二五年作の﹃聖ステファンの殉教﹄ ︵︼WH.αG。H>︶は、古
ていたことを示している。事実、彼の最も初期の年記ある油彩
のものを興味の対象とし、本格的に風景と取組もうとする以前か
ら、風景を絵画制作上欠かすことのできない一要素として認識し
らは、少し趣を異にしているように思える。すなわち、レンブラ
べて圧倒的に多いのは右の理由から明らかである。本稿では、油
におけるラストマンの許での絵画の修業を終え、故郷のライデン
れている。一六二五年といえば、レンブラントがアムステルダム
ことである。風景においても、素描の数が油彩、エッチングに比
彩を中心に、レンブラントのいわゆる風景画が、彼の絵画活動の
年︶の四点があり、レンブラントが三十年代、四十年代、五十年
画面のほぼ五分の二を占めている。右側五分の三は明るい光が当
上げている人物が影の部分としてシルエット的に描かれ、これが
本図の構図は、画面左側に馬に乗った人物とその横で石をふり
ろうか。それについて少し考えてみたい。
なっている風景をレンブラントはどのような意図で取扱ったのだ
の作品にしても、ラストマン及びエルスハイマーの影響大なるこ
ω
とが多くの研究者によって指摘されているが、この主題の背景と
で、ようやく一人前の画家としての活動を始めた時期である。こ
中でどのような位置を占め、また彼の究極的な芸術形成にとって
い。
どのような意味をもち得たのか、ということについて考えてみた
る。このうち年記ある作品は切円●蔭。。㊤︵一六三六年︶、︼W心耳N
㌦存するレンブフントの風景油彩は、前述の如く+六点であ
Z三八年︶、じd円.嵩b。︵一六四六年︶、切︻島ω︵一六五四
風景油彩砂中、右に挙げた一六三六年の年記ある﹃主催の洗礼の
いは説明のための小道具として取扱われており、 ﹃宙官の洗礼﹄
展開されているが、風景はあくまで主題を引き立たせるための或
以前のレンブラントの主題画の多くは、風景を背景にその物語が
扱われ、風景が全体を占めていることから、いずれのレンブラン
ト絵画目録も、これを風景画の部類に入れている。三十年代半ば
これはその題名の示すように、聖書主題であるが、人物が小さく
ある風景︵切︻らω⑩︶が、最も初期のものとして認められている。
前面の人物群に至る、というように設定され、その斜面に数人の
造の建築群が描かれ、その建築群の立つ丘の頂から斜面をなして
る。ところで、これの背景であるが、画面右上方に空を背景に石
明暗の対比によって、十分に劇的な効果をもって表現されてい
いる。これら前面の人物群は、それぞれの姿勢や表情そして強い
てられ、聖ステファンを中心に石をふり上げる人物群が描かれて
への空間関係を不自然なものにしている。つまりこの初期の段階
る。画面全体からみて、この中景の部分が曖昧で、前景から後景
景を含む主題画はおよそ三十点を数えることができる。そして興
の風景とは性格を異にしている。レンブラントの全油彩里中、風
人物が殉教の傍観者として描かれ、これが画面の中景をなしてい
︹図一︺
代に風景油彩を描いていたことが確認される。レンブラントの全
(一
めたことを物語るものではなかろうか。ライデン時代︵一六一三
㈲
年まで︶のレンブラントが、戸外で風景を描いた確証はない。風
では、レンブラントは主題の人物たちの描写に意を注ぎ、背景は
を与える。言い換えれば、ここではドラマの舞台設定のためにの
単にその主題の補足的説明のために描いたに過ぎないという印象
テルダムに移ってから後のことである。
景そのものを興味の対象として、集中的に描き始めるのはアムス
ど︶にも指摘できるものである。そしてこの時期におけるレンブ
場させている。本図の特徴は、建築物やその前にある古井戸のリ
は、明らかに現実の自然を舞台として、そこに聖書上の人物を登
一六三三年の年記のあるエッチング﹃善きサマリア人﹄︵しU.ΦO︶
み風景を取り入れた、という段階に留まっている。このことは、
¥年代の風景を背景にした他の主題画︵UU唇蒔。。8蔭①ρ心①b。な
ラントの主題画は、その構図や小道具を多かれ少なかれ、ラスト
箇所、亀裂の入った壁など細心の注意をはらって描写している。
アルな表現にある。モルタルがはげ落ち、練瓦積みが顕になった
が、二十年代末頃から少し様相を異にしてくる。すなわち登場す
しd戸偶①ω︶のであるが、 一方では自然の風景の重要性の認識が強
が出てき、それがこの時期の彼の絵画を特色づけている︵例えば
のである。
リア人﹄のエッチングは、現実の自然を出発点として完成された
て本図が作られたことは確実である。つまり聖書物語﹃善きサマ
じ井戸のある農家の素描︵udΦ戸まN︶があり、この素描に基づい
ヨンにある︵じd︻α島︶が、それは別にして、もう一枚、本図と同
本エッチングのためのグリザイユスケッチがウォレス。コレクシ
㈹
まった、ということも言えよう。
た。しかも、ヴァイスバッハによれば、ここで表わされた風景
の人物たちがそこで活動する場としての風景へとその性格は変っ
た風景である。多くの研究者の指摘するように、このような想像
た。しかしこの風景は現実の風景ではなく、想像から作り出され
の中に主題の人物が点景的に描き込まれるような作品を作り出し
そして油彩画においては、前述の﹃宙官の洗礼﹄のような、風景
は、一部にオランダの現実の風景も混っていると言う。この図の
的風景に対してレンブラントに刺戟を与えたのはぜーヘルスであ
った。ゼーヘルスは、風景画においてリアリズムとロマンティシ
次の数年に、レンブラントの風景への興味は急速に増大した。
画面右半分は、岸辺で牡牛に連れ去られるエウロペを見て、驚き
開されている。これまでの、舞台の画割的風景から、現実に物語
騒ぐ侍女たちと、その背後に諺填たる森が描かれている。左半分
ラントの財産目録には八点のゼーヘルスの作品が記載されてお
ズム︵空想性︶の二つの傾向を結合させた画家であった。レンブ
四三
り、その中の一点︵現在ウフィーツィ美術館蔵︶にはレンブラン
ト自身が人物を描き加え、他のいくつかの箇所に修正、補筆を行
は、エウロペを背に乗せて海の中に走り込んだ牡牛、そしてその
レンブラントの風景画︵兼重︶
かどうかは別にして、レンブラントが現実の自然に関心をもち始
る。この遠景の描写が、現実の自然の観察に基づいてなされたの
遠景に帆船の停面する港らしい町並がシルエット的に描かれてい
自然の風景が画面全体を占め、その中でギリシア神話の物語が展
一六三二年の年記のある ﹃エウロペの誘拐﹄ ︵しd円.卜①心︶は、
二つの関係をレンブラント独自の明暗法によって一体化する傾向
る人物たちとその舞台たる風景の関係が密になってくる。つまり
マンや他のロマニストたちの先例に拠っていたのである。ところ
・二
四四
構図の工夫などによって比較的容易に達成できる︵例えば一六三
長崎大回教育学部人文科学研究報告第三十号
なったりしている。レンブラントの﹃宙官の洗礼﹄の風景とウフ
ィーツィのゼーヘルスの風景の右半分は構図的に非常に似てい
自然の風景の中でそのようなドラマ性を表現しようとした。ま
は、一際高く突き出た樹木を黄金色に染め、或いは弛い弧を描く
によってこれを達成しようとした。西の空低くさしかかった太陽
ず、彼は画面約三分の二を占める空、そして地上に落ちかかる光
六年の﹃眼を潰されるサムソン﹄ ︵しU円・qOド︶︶。彼はここでは
る。更にレンブラントが所有していたという確証はないが、ゼー
礼﹄と似ており、これがレンブラント作品の直接の刺戟になった
橋の上端部をくっきりと際立たせている。これらの明断と対照的
ヘルスめ他の風景﹃白い岩山のある風景﹄は、より﹃宙官の洗
ことを想像させる。ともあれ、レンブラントは、ゼーヘルス的岩
ブラントは風景を描いたけれども、視覚的現実の再現ではなく、
に、日常性を脱した、神秘的な気分が画面を支配している。レン
いる。平和なたたずまいの村における日常的な人々の生活が描か
れてはいるけれども、この異様な光による強い明暗の対比の故
に、空の右上方には黒雲がおおいふ下方の村は闇に包まれ始めて
山のある風景の中で、彼の主題画の構想を展開させることを実行
したのである。そしてレンブラント自身、自然の風景を体験する
必要性を感じ、積極的に戸外での風景習作を始めたものと思われ
る。
の洗礼﹄より一年差ど後の制作とみなされているが、これはレン
︹図二︺
アムステルダムの ﹃石橋のある風景﹄ ︵じU︻瞳O︶は、 ﹃宙官
自然のもつ不可思議な神秘性の表現がその目的であった。リアリ
スティックな風景を描きながら、そこにロマンティックな解釈を
ブラントの全風景油彩画の中でも最も現実的な︵想像的でない︶
風景の一つである。確かに、これは典型的なオランダの村の景観
の教会の塔に導く。川にはボートが浮かび、川岸の畑では農夫が
このような自然解釈に基づく風景の中に、点景的に聖書主題を
ーグの指摘は正しい。
ンティックな解釈を加えるそれと同じである、というロ:ゼンバ
働いている。居酒屋の前には人を乗せた馬車が停まり、橋のたも
持ち込んだのが一六三八年の年記のある﹃善きサマリア人のある
加えるレンブラントの態度は、彼の肖像画において、斎主にロマ
とには数人の人物が配されている。画家は彼らと同じ地面に立っ
嵐の風景﹄ ︵uu寒心お︶である。奇妙な形体の木の間の田舎道を、
である。画面左に居酒屋があり、その前の道は、すぐに右に折れ
た観点から見えるままをそのままに描いたようにみえる。単純な
て橋を経、画面を水平に横切り、木々に囲まれた農家や更に遠方
構図と限定された色彩のトーンは、この時期、ヤン・ファン・ホ
広がりの向うに山が立ち上っている。山の上方の空が金色に輝や
傷ついた人を乗せた馬をサマリア人が引いている。左方、平野の
血に強い衝撃を与えるバロック的表現に専念していた。このよう
同じ風景を描く意図はなかった。三十年代のレンブラントは、観
イルを思わせる。しかし、レンブラントはスペシャリストたちと
体験を深めた後のこの作品と、それ以前の﹃宙官の洗礼﹄を比べ
同じ想像的風景の中における聖書主題の表現でありながら、自然
部分は暗雲におおわれ、全体に怖れと神秘の気分を強めている。
き、その光の反映で平野が明るい部分を形成している。空の他の
︹図三︺ 9
イエンに代表されるオランダ風景画のスペシャリストたちのスタ
な表現は、主題画においては、主題の選択、人物の姿勢や表情、
一六三〇年代末の作とされる他のレンブラントの風景油彩画
寄与しているかをみることができる。
て、 ﹃サマリア人﹄の風景が、いかにこの主題の表現に効果的に
てみると、明暗の処理、空間表現そして神秘的な空の表現におい
のように説明している。本図の中心主題は前面左側の農家であ
げたかをよく示している。クリストファー・ホワイトはそれを次
なる引き込みの表現を、いかに細心の注意と創意をもって為し遂
レンブラントが風景エッチングにおいて、前景から遠景への徐々
ような町、円柱、アーチなど雑多なモティーフを構成した想像的
る。農家の前の道は水平線に向けてのび、右側、ほとんど水平に
けて斜めに置かれたので、眼は直ちに背景をなす風景に導かれ
置かれていた︵例えば一六四一年のUd・Nb。①︶が、今回は遠景に向
る。初期のエッチングでは、このような前面の建物は画面水平に
風景である。これら雑多なモティーフは、画家の想像力と強い明
︵しd円・ 癖刮目 恥辱◎Q 卜恥α ︾ U︶も、荒れ模様の空、奇妙な形の木、廃塊の
暗の対比によって、全体として融合し統一され、風景におけるレ
く。また風景エッチングは四十年代に入って初めてその姿を現わ
の効果は増大した。
広がる運河とその向うの村の教会との緊密な関係により、広さが
㈹
表わされている、と。これら構図上の工夫は、更に腐食の強さの
㈲
差異によるトーンの微妙な変化に助長されて、一層その空間表現
ンブラントのバロック的表現の理念をよく表わしている。
す。四十年代の風景素描全般について言えることは、レンブラン
四十年号の油彩による風景画は楽ないし五点を数え、そのうち
四十年代に入り、風景素描が飛躍的に増大していることに気付
トが三十年代とは異なって、非常に素直に自然と向き合っている
この時期までにスペシャリストたちの手によって多くの魅力的な
︹図五︺
年記あるものは一六四六年め﹃冬景色﹄ ︵切H・ω認︶だけである。
冬景色が作り出されていた。レンブラントにとって、この作晶は
彼の油彩画中でもその主題、画法において例外的であると同時
は、アムステルダムの運河や橋、運河沿いの屋並、そして近郊の
農家など、或いは丹念に、或いは速筆的に、チョーク、ペン、筆
によるぽかしなどを使い分けて描写している。四十年代後半の素
に、それらスペシャリストたちによる冬景色と伍して、その中で
ということであろう。四十年代前半に属する風景素描の大部分
る風景が中心をなし、これまた自然の景観を素直に写すことを中
描は、アルンヘムにまで至る東部オランダへの画家の旅行を物語
れは、彼の他の風景油彩に比べて、スケッチ風に描かれており、
も最も優れた作品の一つに数えられることに間違いない。またこ
に自然の研究に取り組んだ時期と言えるであろう。彼がこの取り
心課題としている。いわば四十年代は、レンブラントが最も純粋
四つの水平の帯状領域から成っている。前面の明るい氷の面の
層、次にやや暗い北且尽の木々や建物の層、そして画面上半部を占
直接自然の中で作られたという印象を受ける。画面はほぼ等しい
がりの表現であった。このことは、この時期に初めて着手した風
組みの中で追究したものは、自然における光の諸現象と空間の広
景エッチングにも等しくみられるものであり、手間暇かけるエッ
いる。このような簡潔な空間構成の中に、そりを手にした人、ス
める空は明るい水平線際の部分と暗い上方の部分とに分けられて
四五
ケートをつけている人、歩いている人、そして一匹の犬、これら
チングにおいて一層よくその追究の跡をみることができる。例え
ば一六四五年頃の作とされる﹃運河そばの農家﹄ ︵しU.b。卜。。。︶は、
︹図四︺
レンブラントの風景画︵兼重︶
然と人間を最も密に結びつけている﹂とヴァイスバッハが言うよ
㈲
うに、これは、聖書主題を超えて、神秘的な自然の中の人間の営
を他に見ることができない、この場面は独自の感覚によって、自
四六
がリズミカルに配されて、生々とした現実感を表出している。
みそのものを表現したものと言える。レンブラントはここで真の
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号
る。例えば一六四一年頃の作とされる﹃馬車のある風景﹄ ︵bdH.
他の油彩による風景は三十年代と同じような想像的風景であ
意味で自然を理解し、自己の芸術にそれを反映することができた
と言えるのではないだろうか。
として明部と暗部に分けられたドラマティックな空や暗い前景と
五十年代における風景油彩は二点を数えるのみである。そのう
嵩H︶は、少し高い位置に視点をとった眺望である。そして依然
明るぐ輝やく中景との強いコントラストをもっている。しかしこ
ちの一点は、モントリオールにある=ハ五四年の年記のある﹃小
こには、ステホフが指摘するように、以前の、風にそよぐ奇妙な
形の木、ロマンティックな廃怠やオベリスクもなく、農場、麦
︹図六︺㈲
屋のある夕暮の風景﹄ ︵Uσ︻卜αω︶である。これと同じ場所は視
広がり、中央から右側に響蒼とした樹木と小屋が描かれている。
点を変えて三点の素描︵ゆ①戸H卜。刈NHミ。。”日卜。謹︶に残されてお
左手から仕事を終えたらしい二人の男女が中央の小さな木の橋の
いえ、四十年代の風景油彩は、素描、エッチングにおける発展に
に、レンブラントが自然の中で得た風景の理念が表出されている
方に歩み寄っている。橋のたもとには一人の女が二人置迎えるか
畑、河、堀を囲らす城といった牧歌的な田園を示している。とは
ようにみえる。
のように立っている。一日の仕事を終え、ほっとした静かな夕暮
描写されている。本油彩は、左側にはるか地平線に連なる平野が
一六四七年の年記のある﹃エジプトへの逃避途上の休息﹄︵bd円・
の一時を広大な自然の中に描き出している。ここでも、自然と人
り、更に一六五二年の年記のあるドライポイント︵切●N認︶でも
q刈①︶は、主題の人物たちは自然の中に小さく配され、しかも夜
間の生活が一体となって表現されている例をみることができる。
ように思える。むしろ四十年代は、主題画の舞台としての風景
の場面として描かれている。聖家族が静かな森の水辺で火を焚き
本稿の冒頭で、レンブラントの風景油彩は想像的風景画が中心
比して、 ﹃冬景色﹄を除いて三十年代のそれとあまり変化はない
た牧人が近づいている。更に遠く森の中にランタンを持ち、牛を
休んでいる。そこへ聖家族の逃亡を手助けするために家畜を連れ
となるということを述べた。そのような観点から、五十年代初期
レンブラントの風景油彩の集大成ともいうべき作品であると思わ
︹図七︺
の作とされるカッセルの﹃廃置のある川の風景﹄ ︵︼W︻心事︶は、
ひく他の牧人がみえる。背景の丘の頂上に城の廃嘘があり、薄雲
を通した月の光がその窓を明るくしている。このような夜の森の
たらされる気分は大いに異なっている。ブラウンシュヴァイクの
﹃嵐の前の風景﹄ ︵UU噌・瞳H︶と類似している。しかし画面からも
︹図八︺
と広がるという構図は、ブラウンシュヴァイクの三十年代末の
れる。丘の上に教会の意思らしいものがあり、丘の下方は遠景へ
風景である。森の輪郭は薄明の空を背景におぼろにみえ、森の奥
が人間的暖かみを一層強く感じさせ、闇の中にかすかに光るラン
深くは闇に包まれ静まりかえっている。焚火に浮かび上った周辺
タンの灯が静寂の中の動きの気配を伝えている。 ﹁これほどゲル
マン的メルヘン精神によって作り出されたロマンティックな場面
過剰な激動とあらしの気分と比較して、これは形体の構想や光の
そして風景的モティーフと登場する人物とががっちりと組み合わ
主体となり、遠景に広がる風景は姿を消す︵例えば︼W丁掛Q。◎。”αQ。㊤︶。
の、純粋な風景の中の人物図として、一六五五年頃の作とされる
されて、ゆるぎのない厳格な画面を構成している。この時期唯一
取扱いにおいて、控え目で落ち着いた気分を表わしている。重々
しく引き裂かれた雲の代りに明るくブルーに輝やく空が導入さ
れ、わずかに上部に黒い雲があるだけである。前面は馬上の旅
形体で描かれ、画面に堅固な印象を与えている。色彩的にも、空
向う岸に立つ風車というように自然から得たモティーフが簡潔な
る。それがほぼ画面いっぱいを占め、背後には黄金の空に相対し
る。スラヴ風の服装に軽武装した騎手が馬を静かに走らせてい
ン・アムステルとするヴァレンティナーの説が有力のようであ
ては、諸説あるが、中世のオランダの英雄ヘイスブレヒト・ファ
﹃ポーランドの騎手﹄ ︵bd憎ミ㊤︶があげられる。この主題につい
の青、そして前面の旅人の上着と釣人のヤッケの赤のアクセント
人、アーチ型の石橋、川岸の釣人、水に浮かぶ白鳥や舟、そして
などによって、以前の褐色系のトーンによる彩色とは違った色彩
を反映してはっきりと見分けられる。強い光の当てられた騎手と
て黒々と岩山が横たわり、頂上には砦のような建物が空の明るさ
部、そしてこれまた複雑な色彩による薄明の空、これらが一体と
性がみられる。三十年代の激情とは異なって、ここには﹁憂欝な
て、彼の理想的風景を表現したにちがいない。それは、自然も、
白馬の明部、複雑なニュアンスの色彩で形成された背景の山の暗
複雑さと計り知れない深さをもった人間と同じであるという解釈
い、神秘的力をもった自然そのものが描かれたと言えるであろ
なってこの騎手の英雄的気分を強めている。ここでの風景は、登
場人物のための舞台という役を超えて、この英雄的人物と等し
レンブラントはここで彼の十数年にわたる自然の体験に基づい
ロック的傾向から、四十年代を経て五十年代に至り、古典的傾向
・つ。
油彩による想像的風景の完成と、その風景と主題人物の結合と
いる。そしてこれらの素描から得られる印象は、レンブラントが
る。それに反して、風景素描はこの五十年代に最も多く作られて
いう課題はここで完全に解決されたものと思われる。これから以
後、レンブラントの油彩に、風景的要素は殆んど現われなくな
かにヤコブ・ファン・ロイスダ:ルのみであろう。レンブラント
込み、自然の種々相を的確に紙片に写していったにちがいない、
風景素描に際しては、真に自分自身がオランダの自然の中に融け
ということである。この時期のレンブラントは、すでにこの仕事
凌駕する風景画を完成したと言えよう。
を楽しみつつ行なうという域に達しているかのようにみえる。自
四七
い。主題画においても、風景を背景とする作品はわずか数点を数
レンブラントの風景画︵兼重︶
えるのみである。その風景も、前面或いは後面の堅固な建築物が
レンブラントはこれから以後、油彩による風景は描いていな
は風景画のスペシャリストではなかったけれども、ここに彼らを
っていたが、レンブラントのこの作品に匹敵し得るものは、わず
的傾向を示すものと言えよう。同じ時期の風景画のスペシャリス
トたちも、ヴィヴィッドな色彩と構築的な構図をとる風景画を作
が強まってくるが、カッセルの風景画は、彼の風景画の最も古典
に根ざしたものであった。レンブラントの絵画は、三十年代のバ
哀しい気分が自然を超えて支配している﹂ ︵ヴァイスバッハ︶。
㈲
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号
在に操られるペン先から、木々や農家、はるかに見える教会の
四八
略記号説明
に通らなければならない道であったのである。
留める。それらを包む光と大気、水面から立ち昇る水蒸気は、水
66同∴︾・bdδ岳gの︵脱〇三の。αげ団匡●Ooδoう︶”菊固≦切閃>2U弓↓冨
塔、水に浮かぶ舟の帆、あらゆるものの形体が永遠の姿を紙片に
を含ませた筆の一はき二はきで見事に暗示される。彼は完全に自
Oo§覚goa三80h昏①℃”ぎ二昌σQ。。甲島蹄μa.リピ。口鮎8H㊤Oc。・
いOづ血O昌μ㊤﹃ω・
切op一〇畔8ヒロ魯08三日げ①U轟≦ぎαqωo塙男⑦ヨ訂§臼甲。昌冨お巴09︾
h霞目〇三憎○国ロ揖。伍。菊。ヨぴ轟昌臼噌く冨昌§嵩㊤メ
切∴﹀。bd9。#。。島⋮O二巴。σQ⊆o菊β。冨8忌鮎。けε8。。♂ω国ω霊§℃湧遭9
然を手中にしてしまったようにみえる。このような風景素描をみ
ると、レンブラントが何故これから以後風景を描かなくなったか
が分かるような気がする。彼にとって、未だに不可解で奥深いも
の、それは人間をおいて他になくなったのである。
レンブラントの五十年代から最晩年に至る時期の、油彩による
る、しかも奥深い内容を含んだ表現をとるようになった。ここに
至るまでには勿論レンブラント自身の精神的体験や絵画上の研
れる。エッチングはbd●鱒O刈が最初期とされ、一六四〇年頃の作とい
後の作である。油彩は一六三六年記のじd生心ωOが最初期の作品とさ
まN画①熱。9。が一六三三年頃とされているが、他は一六三六年頃より以
ったバロック的劇場性が克服され、より簡潔な形体と構図によ
主題画や肖像画︵自画像を含め︶には、以前より深い精神性がみ
られる。つまり、強い明暗の対比、動きのある身振りや表情とい
究、特にイタリア絵画の研究が大いに預って力があった。それと
割は重要であったと言わなければならない。レンブラントが自然
うことで諸カタログは一致している。最初期の年記は一六四一年︵切.
︼≦=。。窪§げ巳δ諏Pboρド⑩①ω●ぎσq﹃δ﹃oωゴ♪Zo≦ぢU冨8︿o肖a
⑳ ω超80霞ω=︿ρ弓ぎ鴫8つσQ男①ヨ訂9。昌曾脚≧δ昌]≦oヨ。ユ9>=
ルゾンは更にピd円●瞳。。噛瞳Oも斥けている。
このうち卑.駐刈はバウホ、ヘルゾンによって斥けられている。ヘ
③ ブレデイウスのカタログによると、ヒdび艀ωO∼鮮総の十六点である。
b。嵩︶が最後期。最も遅い年記は一六五二年︵︼W● 鱒笛b∂︾いbO軽︶。
記の︵b6﹃。ホω︶が最後期。 エッチングは一六五三年頃とされる︵ゆ・
を除けば、他は五十年代半ばまでに集中している。油彩は一六五四年
② 素描はべネッシュが五十年代末とする三点︵ごd⑦一p・μω①①り同ω①“℃ドω①G◎︶
bΩb⊃伊Bρb。ωω︶である。
レンブラントの絵画芸術完成のためには、彼の風景画は必然的
る精神を養った、と。
人的問題をも、広い視野からより正常な均衡のとれた感覚で捉え
よって、自然の中に潜むバランスに気付き、ひいては彼自身の個
を学んだ。それと同時に、他方において、自然を観察することに
そして大気の暗示が絵画を活気づけるということ、これらの諸点
かに従属させるかの問題、戸外の光の諸現象の観察とその表現、
体験で得たもの、それをローゼンバーグは総括的に次のように指
㈲
摘している。絵画表現の上からは、個々の形体を大きな全体にい
ω 風景素描bd。昌●α討が例外的に一六二七年か二八年頃とされ、ピぱ。戸
同じように、レンブラントの風景体験が彼の絵画完成に果した役
注
﹀昌紆。≦。。植諺α凶ヨ日跨鉱ヨ。触目おミ℃℃℃・置α∼蔭①・
完成しておきながら、二年を経た後に何故油彩で再びこれをとりあ
勺9。ぎけぎσQげ団﹀紆ヨ巨のゲ9ヨ。眞⇔dξ目昌Φq85竃9σQ・uhO◎。弘8S内羽 撃 ると述べている。ベネッシュは、ドライポイントでこのモティーフを
︵bdg●這置解説参照︶。
㈲ 前川・兼重﹁世界美術全集13・レンブラント﹂集英社、一九七七年、
げたのか不可解であるとし、新しい研究が必要であると述べている
図48解説参照。
⑤ ベネッシュの素描目録ではただ一点聞9●α討がライデン時代の作
を、ぼかしを多く用いて強い明暗の対比で描いたもので、組織的な風
囲 即。。。。昌げ。お前掲書μ一四九i五〇。
として挙げられている。しかしこれとても、町はずれの塀と古い建物
景素描の中の一点とは言えないだろう。
四九
︵昭和五十五年十月三十一日受理︶
㈲ このスケッチはレンブラントによるオリジナルをコピーしたものと
いう論議もある︵bdpα麟解説参照︶。
ω ..臼ず。ピ禽。嵩魁の8℃o≦剛普爵。詔び評。菊oo町べ○黛。5︿騒D。。噛8・窃×胡●qoヨ植
ω。σq冨黄おαω︵閑。一。。霊巴Hり刈◎。y訣㎝q.刈①●コリンズはこの作品が決し
まHヨ窪ξ鷺ぞ薗88=oo鉱oP<δ昌昌国●ピ8ρOo∈霧℃属。円〇三〇。。
いる︵︵UO一謡昌ω℃ で・ OQQ︶。
て想像的風景でなく、画家の自然の視覚的体験から制作されたとして
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構成的に配し、より一層自然らしい自然を作り出そうとするのが特色
⑳ エッチングにおいては、このようにいくつかの現実のモティーフを
@トーンの変化による空間表現は、素描においてはすでにチョークの
である。
レンブラントの風景画︵兼重︶
うとは思うが、何か不安を感じさせる、と言ったのと同じ感じを抱かせ
⑬ ヘルゾンは、かってブレデイウスがこの作品について、多分真作だろ
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⑬ ♂く。ヨ。﹁零9。。冨07国Φ§穿β。旨警甲ごdo二言⊆口αい。昼Nお”μ露ρ℃・
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筆圧の強弱によってその効果を十分に経験していた。
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