犬とお姫様 ID:39839

犬とお姫様
DICEK
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︻あらすじ︼
﹃女王様と犬﹄の続編です。
陽乃が卒業した後、八幡が三年生、原作同級生の面々が新一年生と
して入学してきます。
原作再構成もの。
主な登場人物
比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、海老名姫菜、一色いろは
他、原作同級生メンバー。
陽乃とめぐりは戦隊ものの六人目のメンバーくらいの頻度で登場
します。
やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる ││││││││││
目 次 入れ違いに、姉妹は病室にやってくる ││││││││││
1
番外1 少し前のバレンタインにあったこと │││││││
番外
一人を足して、少年少女は山へと向かう │││││││││
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める ││││││││││
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する │││││││││││
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている ││││
結局、折本かおりは何もできない ││││││││││││
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う ││││││││
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない │││││││││
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する │││││││││
ようやく、テニス対決は決着する ││││││││││││
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない ││││││││
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る ││││││││││
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている │││││││
どう考えても、戸塚彩加は天使である ││││││││││
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている ││││││││
こうして、奉仕部は発足する ││││││││││││││
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13
23
36
46
54
63
75
85
152 135 126 115 107 100 94
159
やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる
一人で通学路を行くのは、比企谷八幡にとって珍しいことではな
かった。
通学を供にするくらいに付き合いのある人間は過去一年遡っても
二人しかおらず、その内一人││雪ノ下陽乃は気が向いた時、いきな
りリムジンを家の横につけることがあるくらいで、それは多くても一
月に一度くらいのものだった。
残りの一人は城廻めぐりである。八幡にとっては生徒会活動を供
にした、陽乃以外では唯一友人と呼べる付き合いのある人間だった
が、彼女の家は学校を挟んで比企谷家と反対側にあるため、登校はお
ろか下校も一緒にしたことはほとんどなかった。
生徒会の用事で、あるいは陽乃に巻き込まれて一緒に出かけたこと
もあるにはあるが、それも比企谷家とは離れた場所に集合し、解散す
ることが多かった。住所くらいは知っているはずだが、家の正確な場
所は知らないはずである。
そして、現在。
二人しかいない貴重な友人の内一人は、先月総武高校を卒業して大
学生になった。今は実家から県内の国立大学に通っている。一度は
一人暮らしをしたいと言っていたので、いずれは部屋を買って││借
りて、ではない││大学の近くで一人暮らしをすることになってい
る。
そうしたら呼んであげるね、と色々と含みのある笑顔で言っていた
のを思い出す。
自分の城を持った彼女の家に一人で行くなど、何をされたものか
解ったものではない。男としての期待は大いにあるが、それ以上に恐
怖を感じて仕方がなかった。その恐怖こそ望むところではあるのだ
が⋮⋮
ともあれ、現在同じ学校に通っている人間で、辛うじて友達と呼べ
る人間は、めぐり一人しかいなかった。他の人間がどの程度友達がい
1
るのか知らないし興味もないが、一人というのは間違いなく、少ない
部類に入るだろう。
そのめぐりは現在、生徒会長をしている。陽乃は誰も公認しなかっ
とメンバー
たので自力で勝ち取ったようなものだが、彼女から会長職を引き継ぐ
形で生徒会長に就任した。その際、はっちゃんもどう
に誘ってはくれたが、それは丁重に辞退している。
雪ノ下陽乃という強力な後ろ盾があったからこそ、ぼっちの比企谷
八幡でも生徒会にいることができたのだ。めぐりの就任時点では陽
乃はまだ学校にいたが、三月の卒業は避けようのないことだった。
めぐりが生徒会長になった年から、会長選挙の日程が後ろに伸び、
めぐりの代だけ任期が長期化することになった。その任期の後半に
は陽乃はいない。彼女の手先となって色々やった八幡には敵が多く、
庇護のない環境では攻撃をされるだろうことは想像に難くなかった。
手先になっていたのはめぐりも同様だったが、彼女は彼女なりに自
分の支持層を増やしていて、根強い陽乃アンチ派だった真面目層も取
り込んでいた。彼ら彼女らに﹃女王様の犬﹄は受けが非常に悪い。一
緒に苦労をした。そのめぐりを助けてあげたい気持ちがないではな
い。一緒にいて手伝えることは色々とあったろうが、ダメージの方が
多いことは疑いようがなかった。
そんなことを一から十まで説明したりはしなかったが、陽乃の下で
一緒に働いた仲間である。八幡の辞退にどういう配慮があったのか
は、言葉に出さずとも理解はしてくれただろう。﹃しょうがないね﹄と
寂しそうに笑っためぐりの顔を思い出す。自分にもっと力があれば、
とでも考えていたのだろう。それを慰めるような気の利いた言葉は、
八幡には思い浮かばなかった。
八幡も、それはしょうがないことだと思った。
何でも自分のしたいことを通すことのできる、陽乃のような人間が
特別なのだ。大体の人間は何かを成すのに力が足りないし、それに悔
しい思いをするものである。近くでそれを見てきた八幡は、それを嫌
というほど思い知った。
そんな絶対者である陽乃も、今はいない。
2
?
個人的な関係は、今もしっかりと続いている。卒業したくらいで、
彼女は犬に飽きたりはしなかった。連絡は一日に一度は絶対に来る
し、顔を見て話せるようにと八幡の部屋にも比較的高スペックのパソ
コンが設置された。環境が変わる時こそばたばたしていたが、今では
彼女の顔も結構な頻度で見ている。
正直そんなに離れたという気がしないのだ。
だからこそ、学校に行っても陽乃がいないという環境が、八幡には
ピンとこなかった。彼女に連れまわされるようなことが学校ではも
うないのだと思うと、無性に寂しくなってくる。
人間強度が下がったとでも言えば良いのだろうか。依存している
つもりはあったが、ここまでとは思わなかった。これこそ中学を卒業
したばかりの時、もう家族以外の人間を信じるものかと思っていた頃
の自分が見たら、絶句するだろう。その依存する相手が性格以外およ
そ欠点のない美人だとしたら、夢だと思うに違いない。
赤信号で、足を止める。
通学には少し早い時間だ。何がある、という訳ではないがこの時間
に目が覚めてしまったのだ。学校に行っても生徒会の仕事がある訳
ではないし、陽乃に連れ回されることもない。陽乃がいないと本当に
暇なのだな、と思いながらカバンの中を確かめる。参考書くらいは
入っている。学生の本分は勉強だ。図書室辺りで勉強するのも、悪い
ことではないだろう。
陽乃が進学した国立大学は、彼女の学力からすれば大分余裕を持っ
た進学先である。八幡の第一志望もそこだった。静からはもう少し
上を目指したらと言われたが、八幡に他に選択肢はなかった。陽乃が
そこにいるのだから、比企谷八幡に他に選択肢はない。八幡も三年生
で、進学先を本格的に考える時期である。陽乃からは不自然なほどに
進学先に関する質問はなかったが、彼女の方も当然同じ場所に来ると
思っているのだろう。
そうであると嬉しい、と思いながら道の反対側を見た。犬を連れ
た、いや、犬に引きずられた少女が走らされている。あれではどちら
が散歩しているのか解ったものではない。犬は大変だな、と思いなが
3
らぼんやり眺めていると、その犬と目があった。見るからに単純そう
なそのアホ犬は八幡をロックオンすると、一目散に駆けてくる。
おいおい、と思うと同時に右からリムジンが来た。直撃コースだ。
そう判断するよりも先に八幡はカバンから手を放し、駆け出してい
た。柄にもないことをしてるな、と考えながら、横目でリムジンを見
る。何 度 か 乗 っ た こ と も あ る。雪 ノ 下 の リ ム ジ ン だ。ナ ン バ ー が 一
と思い運転席を見れば、そこにいるのは見覚
緒だから間違いがない。
もしかして陽乃が
えのない中年の男性。飛び出してきた犬と、それを目指す人間に目を
むいて急ブレーキを踏んだ。耳を劈く急ブレーキの音。それでも、リ
ムジンは止まらない。間に合え、と念じながらアホ犬に手を伸ばし、
腕に抱え込む。
八幡にできたのはそこまでだった。
その一瞬後、想像以上の衝撃が八幡とアホ犬を襲い、一人と一匹を
容赦なく吹き飛ばした。
アスファルトの上を転がりながら、それでもアホ犬だけは放すまい
と腕に力を込める。
ぱたり、と倒れた八幡の腕は、役目は果たしたとばかりに力なくア
ルファルトの上に落ちた。何が起きたのか理解していないのだろう。
アホ犬は本気に八幡の顔をぺろぺろと舐めている。顔にはぬめっと
した感触がある。頭を打って血を流したのだろう。人間の血という
のは、犬に大丈夫なのだろうか。痛みに耐えながら考えたのは、そん
なことだった。
人の声が聞こえる。意味まではとれない。朦朧とした意識と激痛
の中、眼球を動かして空を見上げると、そこに﹃陽乃﹄がいた。真新
しい総武高校の制服を着込んだ﹃陽乃﹄が、八幡を覗き込んでいた。
勝手に一人で卒業したくせに。
決して口には出さず、心の奥に押し込んでいた文句が八幡の中で渦
巻いたが、それを口には出さなかった。卒業したところで関係は変わ
らない。比企谷八幡は雪ノ下陽乃の犬なのだから。
﹁じっとしてなさい﹂
4
?
いつも余裕に満ちていた﹃陽乃﹄の声には、隠し切れない不安の色
がある。態度にも余裕がなく、声もどこか幼い気がする。
それではいけない、と八幡は思った。
それではただの美少女だ。雪ノ下陽乃は女王であり、完全で完璧で
なければならない。犬一匹が怪我をしたくらいで心を乱すようでは、
女王失格だ。余裕たっぷりに笑いながら、つま先で小突くくらいのイ
カれっぷりがなければ、らしいとは言えない。
だが、らしくないというのなら、それは犬も同じだった。女王の許
しなく怪我をするようでは、女王の犬とは言えない。身体はバラバラ
になりそうなほど痛いが、多分死ぬほどではない。血こそ出ている
が、自分は死ぬかな、と考える程度の余裕はあった。
それくらいなら、おそらくではあるが、大丈夫だろう。見た目ほど
重症ではないということは、見た目はそれなりに危なく見えるという
ことでもある。それが陽乃の不安に繋がっているというのなら、犬と
してはそれを取り除かなければならない。
気をしっかり持つと、何だか死なないような気がしてきた。ここで
死んだら容赦なく陽乃は、比企谷八幡と言う人間を過去のものにする
だろう。それは絶対に、嫌だった。
絶対に、死んでやるもんか。無事に回復したら、文句や嫌味の一つ
も言ってやる。犬だって、タダで尻尾を振っている訳じゃないのだ。
一人で勝手に卒業したのだから、それくらいの報復はあっても良いだ
ろう。
あぁ、でも。
もう見ることのないと思っていた、陽乃の制服姿を見ることができ
たのは、幸運だった。何を着ていても美人だが、出会った時、彼女が
着ていたこの服が一番、八幡の心に残っていた。
絶対に、死なない。犬の矜持を胸に、八幡は意識を失った。
5
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
歌が聞える。
耳に馴染みのある歌だ。比企谷八幡の短い人生の中で、一番練習し
た歌である。
この歌に出会ったのは、去年の文化祭が始まる二ヶ月も前。陽乃の
提案で結成されたバンドで演奏した曲の一つで、既存の曲ではつまら
ないと陽乃が作詞作曲した歌だ。観客には大いにウケたが、それまで
かじった程度だったギターを陽乃の要求通りに弾きこなすため、一日
4時間の練習を二ヶ月も続けることになったのは、今となっては良い
思い出である。
陽乃の旋律が、途切れる。ちょうどこの後、ギターソロが始まる。
トチらずに弾けるようになったのは本番の三日前のことだ。本番で
しくじったらどうしようと、心臓が飛び出そうな程に緊張したのを覚
かったと思います。ご迷惑をおかけしました﹂
﹁全くだよ。色々と予定があったのに、八幡のせいでぱぁになったん
だから。後でちゃんと埋め合わせはしてね﹂
﹁それはもう、喜んで﹂
顔も見えないまま、反射的に答えてしまう。陽乃に対して何か、す
6
えている。
自然に指が動いていた。しばらくギターには触っていないが、あれ
だけ練習した曲だ。今でもそれなりには弾くことができるだろう。
﹁⋮⋮お寝坊さんだね﹂
本当に穏やかな陽乃の声が聞こえる。影になっていて、顔までは見
えないが、陽乃にしては珍しく声と同じく穏やかな顔をしているのだ
ろう。首が固定されていて動かない。陽乃が近くにいるのに顔が見
﹂
えないのは、落ち着かなかった。
﹁俺、どれくらい寝てました
﹂
?
﹁どうすることもできなかったと思いますが、ともあれ死ななくて良
我だね。本当、死んでたらどうするつもりだったの
﹁二日ってところかな。命に別状はないらしいけど、間違いなく大怪
?
ることがあったような気がしたが、陽乃の声を聞いたらそんなことは
どうでも良くなってしまった。
安心すると、自分の現状が良く解ってくる。痛い。動けない。何か
色々と不自由である。
﹁右足と肋骨が三本と右腕が骨折。筋もそれなりに痛めてて、退院す
るまでに一ヶ月。全治二ヶ月ってところかな﹂
﹁一ヶ月もここにいるんですか俺⋮⋮﹂
﹁雪ノ下がちゃんと個室を用意したから、そんなに不自由はしないと
思うよ。入院費も持つから安心して養生してね﹂
﹂
八幡が怪我してまで助けたんだから﹂
﹁それより、あの犬はどうなりました
てあげるから﹂
﹂
﹁そんな寂しそうな顔しなくても大丈夫だよ。私が毎日お見舞いに来
八幡だった。
で一ヶ月も過ごすのかと思うと、身体の不調も相まって気分が滅入る
孤独を愛するぼっちとは言え、慣れない環境には抵抗がある。ここ
度は中々の物になるのではないか。
いない。まだ日がある内だから良いが、これで深夜になったらホラー
は庶民である。無駄に広い部屋に一人という環境には、耐性ができて
ことだった。陽乃に付き合って見聞が広がったとは言え、比企谷八幡
個室という配慮はありがたいが、グレードについてはどうでも良い
﹁俺相手に何て無駄なことを⋮⋮﹂
てもらったから﹂
﹁あのクソ犬のことはもう良いよ。後、一番グレードの高い個室にし
のし損である。
にいるハメになったのだ。これであの犬を助けられなかったら、怪我
なれば、陽乃の性格ならばそう言っているはずである。一ヶ月も病院
た。言葉の内容からして、無事なのだろう。これであの犬が死んだと
氷点下まで下がったことを察した八幡は、この話題を振ることを諦め
陽乃の声音に、無視できないほどの険が混じる。一瞬にして機嫌が
﹁⋮⋮無事なんじゃない
?
﹁それは嬉しいんですけど、大学は大丈夫ですか
?
7
?
﹁私を誰だと思ってるのかな、八幡は﹂
得意気な声に、八幡は思わず苦笑する。人間関係の構築において、
たかが一ヶ月程度で陽乃が遅れを取るとは思えない。例えある程度
のグループが構築された後だとしても、陽乃ならば余裕で切り込んで
いける。そもそも、総武高校からも陽乃派が何人か、同じ大学に進学
している。陽乃の言葉を借りるなら、彼女らは決して有能ではないが
忠実で、それなりにお気に入りだ。八幡との恋人関係を、手放しで応
援してくれた面々でもある。八幡も知らない仲ではない。
﹂
﹁私の方こそ楽しみだよ。私が卒業したのに一ヶ月も空白期間があっ
て、八幡は学校に居場所を残せるのかな
﹁0に何をかけても0ですよ。俺の居場所は三月になくなりましたの
で﹂
陽乃が卒業した直後から、微妙に風当たりの悪さは感じていた。そ
こに一ヶ月も空白があれば比企谷八幡の居場所など、学校の外にまで
吹き飛ばされていることだろう。元々一人だったことを思えば、大し
たことでもない。自分の居場所は学校にはなく、今ここにあるのだか
ら。
﹁嬉しいこと言ってくれるねー。そういう犬っぽいところ好きだよ。
八幡が助けようとしたクソ犬より、ずっとかわいい﹂
﹁お褒めいただきどうも。その内嘘でも、かっこいいと言われるよう
に適当に頑張ってみます﹂
﹂
﹁それくらい軽口が叩けるなら、大丈夫だね。名残惜しいけど、私は一
度帰るよ﹂
﹁もうですか
イプ椅子から腰を上げた陽乃が、満面の笑みで覗き込んでくる。言葉
がなくても何が言いたいのかは良く解った。弱さを見せた自分を心
の底から面白がっているのだ。
﹁明日もくるから、そんなかわいいこと言わないの﹂
﹁失言でした。忘れてください﹂
﹁それは無理。今日は八幡のかわいさを思い出しながら、ベッドに入
8
?
言って、自分のあまりに女々しい言葉に、八幡は早速後悔した。パ
?
ることにするよ﹂
それじゃ、と陽乃が目を閉じて顔を近づけてくる。合わせて目を閉
じた八幡の唇に、そっと陽乃のそれが重ねられた。一秒、二秒。これ
で離れる、と気を抜いた瞬間に、唇にぬめりとした感触。
驚いた八幡がとっさに身体を引くと、全身に激痛が走る。声も動き
もなくのたうつ八幡に、陽乃はたった今唇を舐めた舌の意味を変えて
答えた。
小さく手を振り、陽乃は部屋を出て行った。痛みと動悸が治まる
と、どっと疲れが出てくる。
相変わらず台風のような人だ。身体はびっくりする程動かないが、
全身の力を抜いてベッドに全てを預ける。
一ヶ月もここで過ごすのは確かに窮屈であるが、陽乃が見舞いに来
てくれるのならば、それでも良い気がした。元よりぼっちは他人との
交流を必要としない。一ヶ月というのは長くはあるものの、一人でも
暇を潰す方法はいくらでもある。優雅に読書しても良いし、勉強をし
ても良い。
無理矢理良い方向に考えると、入院生活も悪くないような気がして
きた。
それにはまず、身体を治すことである。
眠気に任せて眠ろうとした八幡を、ノックが邪魔をした。
どうぞ、と答える間もなく、一人の少女が病室に入ってくる。真新
しい総武高校の制服に身を包んだ少女は、ベッドの上の八幡に意識が
あるのを見るや、目を見開いた。驚きの表情を浮かべたまま静かに歩
みより、ベッドの脇で八幡を見下ろす。
﹁⋮⋮⋮⋮お久しぶり、と言えば良いのかしら﹂
﹁軽井沢で会って以来か。話だけは頻繁に聞いてたから、久しぶりっ
て感じはしないが﹂
﹁情報漏洩くらいはあると覚悟していたけれど、貴方の顔を見る限り、
それは深刻なことのようね⋮⋮﹂
ふぅ、と少女││雪ノ下雪乃は小さく息を漏らす。二年ぶりにあっ
た陽乃の妹。姉妹というだけあって顔立ちは似ているが、こうして見
9
るとやはり雰囲気はまるで違う。前後不覚になるくらいの極限状況
﹂
でもなければ、見間違うことはないだろう。どこがとは言わないが、
陽乃と違って起伏にも乏しい。
﹁今、不愉快なことを考えたかしら
﹁別に何も﹂
﹁⋮⋮それだけ
﹂
﹁それは気づいてた。あれ、お前が乗ってたんだな﹂
のよ﹂
﹁姉さんから聞いたと思うけれど、貴方を轢いたリムジンはうちのも
せ、座る。
過ごすと、雪乃は先ほどまで陽乃が座っていたパイプ椅子を引き寄
姉と一緒で、勘は鋭い。人でも殺せそうな視線の鋭さを適当にやり
?
﹁そう
この事故に関して、お前に言うことは何もないよ﹂
ならその口紅は私の見間違いね﹂
﹁まだ病院でいちゃついたりはしてないぞ﹂
ければ、あの人と病院でいちゃついたりはできないんでしょうけど﹂
﹁あの人の言った通りなのね。気持ち悪いくらいに理性的。そうでな
は意外なようだった。
だったが、文句の一つも言わず嫌な顔の一つもしない八幡が、雪乃に
に行動するのは、特に陽乃と付き合うようになってからは当然のこと
スムーズに進んでくれる。八幡にとって全体の収支を考えて理性的
他人の気分まで盛り下げるよりは、納得して黙っていた方が、物事は
という事実はなかったことにはならない。それならば文句を言って
今更誰がどうだった、という事実を知った所で怪我をして動けない
ないんだろ
﹁お前が運転してたんなら文句の一つも言ってただろうが、そうじゃ
?
と反射的に身体を動かそうとして、ベッドの上でのたう
なった八幡に、雪乃が邪悪な笑みを浮かべている。嗜虐的なことに関
する限り、陽乃と雪乃の振る舞いは良く似ている。
﹁まるで芋虫のようね。真摯にお願いするなら口元を拭いてあげても
良いのだけれど﹂
10
?
つ。手で拭うこともできず、目で確認することもできない。八方塞に
なに
?
!?
﹁⋮⋮⋮⋮頼む﹂
恋人の妹にそこまでしてもらうのは激しく抵抗があったが、口紅を
つけたまま、というのが事実であれば放っておくことはできない。少
ない見舞い客に見られるのも問題だし、何よりこれを家族に見られた
ら一月はこの件でからかわれ続けることになる。背に腹は変えられ
なかった。
ベッド脇のウェットティッシュを手に取り、口元に手を伸ばす。
雪乃の顔を近くで見るのは、初めてのことだ。陽乃よりも少し目つ
きが鋭いが、整った顔立ちのおかげでそれも美人の特徴として捉えら
れるだろう。華やかな容姿という点では陽乃と共通している。
しかし、万人受けしそうな陽乃と比べると雪乃の顔立ちは幾分、怜
悧な印象を受けた。どちらが好みか、というのは人に寄るだろう。八
幡個人は無論、陽乃の方が好みであるが、雪乃の方が良いという人間
も多いに違いない。
11
受ける印象が違っても、姉妹と言うだけあって陽乃と良く似てい
る。似ているとは言われたことのない比企谷兄妹とは随分な違いだ。
﹁終わったわ。一応、他人の目は気にした方が良いんじゃないかしら﹂
﹁次からはそうする。それからできたら、このことは内密にしてくれ
ると嬉しい﹂
﹁それは貴方の態度次第ね﹂
今度は、穏やかに微笑む。邪悪な笑みは陽乃とそっくりだったが、
こういう普通の笑顔は随分と印象が違った。顔立ちが鋭い分、笑顔が
際立って見える。
﹂
﹁怪我人をこれ以上いじめるのも何だから、私ももう行くわ。その内
ご家族も来るでしょうから、それまで寝てなさい﹂
﹁態々来てもらったのに悪いな﹂
﹁うちの車が轢いた人間だもの。気になるのは当然でしょう
八幡は寝転がったまま肩を落とす。
行った。無機質な音を立てて閉まったドアを見つつ、動かない身体の
る。じっと雪乃を見つめるが、彼女はあっさりと踵を返し部屋を出て
そこは嘘でももっと、他の理由をつけて欲しかったところではあ
?
人恋しい訳じゃない。
だが、何だか妙に寂しい。
12
こうして、奉仕部は発足する
﹁八幡、話がある。ついてきてくれ﹂
復帰して一日目。お見舞いに来てくれた礼をと思って顔を出した
職員室で静に捕まった八幡は、不良にカツアゲされるいじめられっこ
よろしく空き教室に連れ込まれた。右手と右足からはまだギブスが
外れていないため、歩き難いことこの上ないが、静は八幡に手を差し
出さなかったし、八幡も静に助けを求めなかった。生徒と教師という
間柄ではあるが、ある種対等な関係が築かれていた。
﹂
﹁一応確認しておくが、お前の進路は陽乃と同じ大学に進学というこ
とで間違いはないな
﹁その通りですけど⋮⋮どうしたんです、今更﹂
﹁どうにも一般試験を受けて入学しようとしているようだから、推薦
入試を薦めにきた。まぁ、とりあえず座ってくれ﹂
空き教室に放置されていた机に腰掛けると、静は懐から資料を取り
出した。成績関係の書類である。昨今、取り扱いには十分に注意され
たし、と教職員の間でも持ち出しには細心の注意を払っているはずの
ものだが、静の扱いは随分と雑なように思えた。静はそれをぱらぱら
と捲りながら、
﹁昨年度は普通科で年間主席。最新の全国模試も、国際教養科の連中
を抑えて学年トップだ。加えて二年間陽乃を支えた実績を、私を始め
教職員は高く評価している﹂
﹁大したことはしてないと思うんですがね﹂
﹁お前がいたからあの程度で済んだと思ってるんだよ、皆な。彼らの
認識は真実全てを捉えている訳ではないが、嘘ではあるまい。内申に
ついては、一年間の生徒会活動と文化祭実行委員のへの協力で問題な
いだろう。ただ⋮⋮﹂
きたな、と八幡は思わず身構えた。早々上手い話など、あるはずが
ないのだ。
﹁お前の経歴には部活動をしていた形跡が全くないだろう。それが聊
か問題になってな﹂
13
?
﹁執行部員を一年やった、というのじゃ不足でしょうか﹂
﹁一年で終わった、とも取れる。一年で役員をしていたら、めぐりのよ
うに二年になっても続投というケースは多いからな。問題があって
首になった、というイメージにも繋がりかねない﹂
﹁気にしすぎじゃないですかね﹂
﹁私もそう思うが、そういうのを気にする人間というのはいるものだ、
ということは覚えておいてくれ﹂
陰鬱そうに、静は溜息を吐く。
﹁部活についても厳密に言えば、あちらの募集要項に必要だという記
述はない。﹃部活か委員会に所属しており、それを引退まで継続して
いる﹄というのは、こちら側が勝手に設けたハードルだな。必須では
成 績 で は 問 題 な い で す よ ね
ないが、内申に加点される。あったら有利という程度のものだ﹂
﹁な ら 必 要 な い ん じ ゃ あ り ま せ ん か
﹂
まして純粋に興味があるのならばまだしも、内申点を稼ぎたいという
に部活に入ろうという人間を、受け入れてくれる所があるだろうか。
何しろ、部活である。比企谷八幡は今三年生だ。果たしてこの時期
八幡の声も、重い。
﹁部活ですか⋮⋮﹂
ほしいのだよ﹂
﹁そういう訳で我々も、お前が自発的に何かに参加したという事実が
だけ、マシなのかもしれない。
ということなのだろう。後一押し、と向こうから声をかけてもらえる
とは比べ物にならないほど成績が伸びたが、それとこれとは話が別、
らもうどうしようもなかった。陽乃のしごきのおかげで入学した時
企谷八幡の辞書にはない言葉である。推薦にそれが必要、と言われた
静の言葉に、八幡は何も言えなかった。積極性、協調性。どれも比
にもそういうのがな⋮⋮﹂
とか協調性とか、そういうものだな。お前、成績は良いんだが、どう
﹁推薦するにはお前の人間性もアピールする必要があるんだ。積極性
?
下心を持った人間である。何を今更と思う人間がほとんどだろう。
14
?
そもそも、そういう人間関係が苦手だからこそ、比企谷八幡はぼっ
ちなのだ。虎の威を借る狐という認識がある以上、敵対する人間の方
が多いとさえ言える。今の時点で入れる部活があるとは思えない。
﹁受ける、という前提で話を進めさせてもらうが、既に奉仕部という名
前で同好会を設立させておいた。時間を遡って、お前が設立のために
骨を砕いたということにしてな。お前に口説き落とされた私が、その
部の顧問になる。既にめぐりを通して書類の申請も済ませてあるか
ら、所属する部については何も問題はない﹂
﹁随分と比企谷八幡がアグレッシブになってますね⋮⋮﹂
本物ならばまずそんなことはしないが、書類の上でそうなのだとさ
﹂
れたら、書類しか見ない人間にはそれしか見えない。ポイントを稼ぐ
ならば、それで十分ということなのだろう。
﹁同好会にしても、俺一人じゃ具合が悪いんじゃありません
﹁それについては既に一人当たりをつけている。向こうも適当な部活
を探していたらしいから、渡りに船だろう﹂
﹁それでも二人じゃないですか﹂
部を設立、あるいは存続させるのに必要な人数は五人、同好会でも
三人である。当たりをつけた一人を合わせても二人だから、同好会の
設立にも一人足りない計算になる。既に設立されているというのな
ら急ぐ必要はないのかもしれないが、アクシデントというのはこちら
の都合を考えずに起こるものだ。数合わせの幽霊部員でも、用意して
おくに越したことはない。
﹁それにしても良くそんな申請通りましたね﹂
﹁顧問が既に決まっている、というのが大きかったな。部室は空き教
室を使うし、出て行けと言われれば出て行くから、何も問題はない。
部室も部費も現状必要としていないのだから、誰も問題にはするまい
よ﹂
それでは書類上はともかく、実態はサークル活動と変わらないが、
顧問がついているということは、何かあった時はその人間が責任を持
つということである。 大人しくポイントを稼ぐための部活なのだ
から何か起こるはずもないが、大人がついていてくれるというのは、
15
?
﹂
こういう時に大きい。
﹁で、どうする
たことを問うてみた。
?
しよう。
﹂
に屯できる部屋を確保できたのだから、まずはその事実を喜ぶことに
があるが、元より同好会の立場などそんなものだ。正々堂々と放課後
した訳ではないだろうから、他に優先する案件があれば立ち退く必要
が、こちらは元々軽いものである。部室、同好会室として正式に登録
たりはしないだろう。後は教室を借りるためにも書類が必要である
るが、同好会には予算は支給されないので会計も書類を引っ張り出し
部活、同好会に関することで執行部の仕事と言えば予算の編成であ
部の人間も仕事でなければ部活の書類など見ない。
能だが、何の役職もない人間はあの部屋には入りにくいもので、執行
執行部が一元管理している。総武高校の生徒ならば誰でも開示は可
正確な部員数を確認することはできない。部活関係の書類は生徒会
受理されているのなら、改めてその書類を確認しない限り、書面上の
同好会の件が明るみに出る可能性は、低いように思えた。既に書類が
アクシデントのためにそれなりに急いではいるが、実際のところ、
﹁よろしくお願いします﹂
﹁全くだな。有望そうな人間がいたら、私の方でも声をかけてみる﹂
﹁ぼっちを捕まえて何言ってるんですか﹂
りはないか
をかけたものか、地味に悩んでいたところだ。八幡の方こそ、心当た
てももう一人にとっても邪魔だろうと思ってな。どういう人間に声
﹁全くない。だがボランティアを真剣にやりたい人間は、お前にとっ
﹁後一人について、当てがあったりしませんか
﹂
犯、という事実をお互い、改めて確認してから八幡は疑問に思ってい
静の差し出した手を、八幡は強く握り返した。これで自分達は共
﹁それでは、契約成立だな﹂
﹁それで推薦に有利になるなら、安いものだと思うことにします﹂
?
話は終わり、と白衣を翻して教室を出て行こうとする静の背に、八
16
?
幡は声をあげた。
﹁今更ですが、もう一人の部員って誰ですか
﹂
﹂
陽乃にも通じる内面のどす黒さだった。普通に歩いているのを遠目
そんな及第点以上の容姿を飛び越えて、八幡がその少女に見たのは
しかし、である。
洗練されているように思う。
い部類に入るのだろう。少し前まで中学生だったことを思えば、十分
セミロングの黒髪に、赤いフレームの眼鏡。まぁ、お洒落でかわい
八幡は思わず動きを止めた。
で、左手で頭をかきながら廊下を歩き││その先にいた人間を見て、
便利な人間が、どこかに落ちていないものか。右手は動かないの
だけの人間、名義を貸すだけの人間を雪乃は好まないだろう。
や、主張の強い人間は雪乃とぶつかる。かと言って、状況に流される
新入部員に求められるセンスは、適当さだ。変に正義感の強い人間
かった。まさしく、自分の力での勧誘は絶望的である。
ないではないが、陽乃なしではその回収はできないし、する気もな
も声をかけられる人間すらいない。陽乃経由で貸しがある人間もい
呼べるのは、共に生徒会の仕事をしためぐりだけなのだから、そもそ
りぼっちにはどうにもならなかった。八幡にとって辛うじて友人と
八幡なりに部員がどうにかならないものか考えてみたのだが、やは
静の背を見送り、時間は流れ、そして放課後である。
その事実だけでも八幡を警戒させるには十分だった。
できないだろう。陽乃曰く、彼女は世界で一番かわいい妹であるが、
でも組みしやすい相手には見えなかった。妹だから、と言って油断は
顔を合わせたのは軽井沢を入れても二度であるが、たったそれだけ
﹁だと良いんですがね⋮⋮﹂
から、妹なんて楽勝だろう
﹁そりゃあ、もう一人の雪ノ下だよ。陽乃の相手を二年もできるんだ
?
に見ているだけなのに、背筋がぞくぞくする。陽乃的な感性につい
17
?
て、犬の嗅覚は敏感に反応する。何も話さなくても、あの少女がロク
デナシであることが八幡には感じ取れた。
自発的に女性に話しかけようと思ったのは、久しぶりのことであ
る。前はいつだったか、と思い出そうとして、それが中学生の時のこ
とだと気づいた八幡は、思い出すことを止めた。
ともかく、八幡は一目で目の前の少女のことが気に入っていた。多
分、陽乃も気に入ってくれるだろう。陽乃について色々な場所につれ
まわされたが、こんな人間にはお目にかかったことがなかった。わく
わくしながら松葉杖をついて歩き、少女との距離をつめる。
もう、顔がはっきりと見える。眼鏡の奥の瞳には、どんよりとした
闇が見えたような気がした。
﹂
﹁なぁ、そこのアリの巣に水を流し込んで全滅させたことがありそう
な女子、ちょっと良いか
思い返せばあんまりな声のかけ方であるが、八幡はそれで通じると
思っていたし、声をかけられた女子は他に廊下を歩いていた女子はい
たのに、自分が話しかけられたのだと理解していた。足を止め、こち
らを見つめる少女を見返しながら、八幡は言葉を続ける。
﹁なんちゃってボランティアを標榜するだけで、同好会に入っている
﹂
という書類上の勝利が得られる上手い話があるんだが、一枚噛んでみ
る気はないか
悪い上級生の男子に声をかけられてこんな話をされれば、大抵の女子
は引くに違いないのだが、眼前の少女は八幡が感じた通り普通の感性
をしていなかった。
﹂
八幡の言葉を聴いた少女は小さく首を傾げると、にっこりと笑っ
た。
﹁面白そうですね。話を聞かせてもらっても良いですか
?
18
?
声のかけ方がアレならば、話の内容はもっと最低だった。目つきの
?
﹁遅かったわね。待ちくだびれた⋮⋮わ⋮⋮﹂
読んでいた本を閉じ顔を挙げた雪乃は、教室に入ってきたのが八幡
だけでないのを見ると、立ち上がりかけた姿勢で動きを止めた。説明
してほしいのだけれど、と無言で主張する雪乃をとりあえず無視し
て、手近にあったパイプ椅子を少女に勧める。さて、と自分の分を探
すが、畳んだパイプ椅子は雪乃の後ろにあった。
それを取りに行こうとすると、雪乃がさっと進路を塞ぐように動い
た。話が先、ということである。
﹁あー⋮⋮しばらくぶりだな。ここが﹃部室﹄になるって先生から聞い
たんだが、間違いないんだよな﹂
﹁ええ。そして代表は貴方にしてくれ、とも言われたわ﹂
﹁まぁ、それくらいなら良いか﹂
﹁それで、私からも聞きたいことがあるのだけれど││﹂
﹁こいつのことだな。実は廊下を歩いてたら有望そうな奴を見つけた
﹂
19
んで連れてきた﹂
﹁よろしく、雪ノ下さん﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい。私は貴女を知らないのだけれど﹂
﹁雪ノ下さんは有名だから。あ、私は普通科の一年ね﹂
少女の差し出した手を、雪乃は反射的に握り返した。陽乃の妹にし
てはらしくなく、どうにも距離を測りかねているようだった。少女の
態度はなれなれしく見えなくもないが、上手い具合に距離を保ってい
る。どこまで近づいたら他人が拒否反応を示すのか、本能的に理解し
ているのだろう。この辺りは陽乃に通じるものがあった。浮かべる
﹂
笑顔も、どこか嘘臭い。
﹁それで、入部希望
﹁もしかして、この人の名前も知らない
﹁というか、会ったのも今日が初めてかな。ですよね
幡の内心を知らず、見知らぬ女性に声をかけて連れてきたという事実
こんな目をした人間、会ったら絶対に忘れるはずがない。そんな八
?
?
﹁少なくとも、俺には会った記憶はないな﹂
﹂
﹁ううん。まずはお話を、ってことで、こちらの人についてきたの﹂
?
だけを見た雪乃の目は、氷よりも冷ややかだった。
﹁つまり、100%見た目でこの人を連れきたということ
﹁知らないわ﹂
﹁⋮⋮なんだって
﹂
﹂
にも、まずは部活の活動内容をだな﹂
﹂
﹁それに入るって確定した訳じゃない。その辺をはっきりさせるため
﹁それはそうだけれど⋮⋮﹂
が揃ってるに越したことはないだろ
﹁先生にも勧誘できるなら、ってことを言われた。俺らとしても、頭数
されたら、流石に八幡でも傷ついてしまう。
のは簡単だが、その上で雪乃に﹃お前は頭がおかしい﹄という反応を
い。少なくとも見た目の上では、彼女らは普通に美女美少女だ。話す
解りやすい特徴があるのならばまだしも、陽乃や少女にはそれがな
犬の感性は概ね、他人には理解されない。実際、八幡のように目に
否定しないが﹂
﹁そういう穿った言い方をするな。フィーリングで選んだってのは、
?
とは貴方と似たようなものじゃないかしら﹂
雪乃の言葉に八幡は唖然とするが、考えてみれば雪乃も静に誘われ
た側だ。全ての事情を掴んでいるのは、糸を引いた静ただ一人であ
る。雪乃が事情を知っていると判断したのは、明らかに早計だ。
﹂
﹁なら、先生が来るのを待って、話を聞くか││﹂
﹁話は聞かせてもらった
ポーズをつけて立っていた。
﹁入ってくるタイミングを見計らってましたね
?
﹁と言っても、
﹃ボランティア﹄という活動内容に違いはない。学内か
部室となった空き教室に入ってくる。
ははは、と満足そうに笑いながら、静は気取った仕草で白衣を翻し、
﹁まぁな。一度これをやってみたかったんだ﹂
﹂
した表情で八幡がそちらを見ると、そこにはドヤ顔をした静が軽く
あんまりにもあんまりなタイミングで力強く扉が開く。うんざり
!
20
?
﹁ボランティアということしか聞いてないもの。多分、知っているこ
?
ら広く解決してほしい案件を募集し、その中から解決できそうなもの
を選定し、対応するというスタンスだ﹂
﹁随分と受身ですね⋮⋮﹂
﹁積極的にやりたいなら私は別に構わないが、最初の内はそれで十分
だろう。やりたくなったら、後からハードルを上げれば良いのだ。と
﹂
前の生徒会長
ころで││そっちの女子は、新入部員ということで良いのかな。まさ
か八幡が誘ってきたのか
﹁有望そうだったんでつい⋮⋮﹂
﹂
﹁ハチマンって、もしかして先輩、比企谷八幡ですか
の補佐をしてた、女王様の犬の
﹁⋮⋮八幡、お前は自分を知らない人間を連れてきたのか﹂
﹁俺はどちらかと言えば、一年にまで犬の名前が広まってることに衝
撃を受けてるところです﹂
にやついた静と、どんよりした顔の八幡二人の視線を受けて、少女
はひっそりと笑う。
﹁先代さんは有名ですから。当然、犬の話も付いて回る訳で⋮⋮良け
﹂
れば一年に出回ってる話を詳しくしますけど﹂
﹁いらねえよ。どうせ悪い話ばっかりだろ
﹁その犬さんがどうして部活を
﹂
新一年の評判がどうなのか、考えるまでも無い。
しくなかった。同級生でさえそうだったのだ。そこから話を聞いた
陽乃の大人気に反比例して、比企谷八幡の評判は生徒にはあまりよろ
八幡の問いに少女は苦笑で答えた。実際に、その通りなのだろう。
?
良いんだぞ
﹂
﹂
﹁⋮⋮自分で言っておいてなんだが、一度くらい話を持ち帰ったって
﹁良いですよ。私で良ければ喜んで﹂
るとありがたいんだが││﹂
う連中がいて、こういう所らしい。個人的にはこのまま入部してくれ
﹁何とでも言え。話が大分逸れちまったが、ここは俺も含めてこうい
﹁内申点のためらしいわ。考えることが姑息よね﹂
?
21
?
?
?
﹁私もフィーリングで選びました。それじゃあ駄目ですか
?
?
駄目なはずがない。ただ部員がほしいだけの八幡からすれば、少女
の提案は願ったり叶ったりだが、二年で染み付いた犬の感性が、自分
にそんな都合の良いことがあるはずがないと告げている。
まして相手は、比企谷八幡がフィーリングで選んだ相手だ。陽乃に
通ずるものがあると思ったのは、何より八幡自身である。そんな相手
が一筋縄でいくはずがない。浮かれてそのまま連れてきてしまった
が、落ち着いて考えてみるとこれで良かったのかと思わないでもな
い。
しかし、他に部員が確保できる見通しはない。ここでこの少女を逃
したら、もう一人確保できる保証はどこにもないのだ。
しばらく考えて、八幡は観念した。何より自分が誘ったのだ。ここ
で難色を示すのは筋が通らないし、そういう不安を別にすれば八幡は
この少女のことが気に入っていた。
﹁わかった。とりあえず、よろしく頼む。知ってるって話だが改めて。
比企谷八幡だ﹂
﹁平塚静だ。この部の顧問をしている﹂
﹁雪ノ下雪乃よ﹂
﹁私は海老名姫菜です。よろしくお願いします﹂
22
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
奉仕部という名の同好会を結成して、早一ヶ月。校内から広く依頼
を集めるということを早速やってはみたが、依頼というのは要するに
自分では対処しきれない問題を他人に請け負ってもらう、ということ
に他ならならい。
言い換えればそれは、その人間の弱みである。
それを良く解らない人間に曝け出せる人間が、どれだけいるだろう
か。藁にも縋るという人間もいるが、そこまで深刻だと今度は奉仕部
の人間に対処できない。奉仕部が求めているのは、学生でも何とか解
決できる程よい悩みなのだ。進路相談くらいならばまだ良いが、恋人
が三股かけているのが発覚して別れたい死にたい、という痴情の縺れ
を持ち込まれても困るのである。
幸か不幸か、深刻な話題も含めて依頼は一件もなかった。これでは
放課後に集まって適当にダベっていただけだ、と気づいた八幡たちは
適当に活動実績を作るために月末、休日を潰して本当にボランティア
活動を行った。子供に混じって川沿いでゴミ広いである。三人全員
にとって、生まれて初めての経験だったが、雪乃も姫菜も一言も文句
を言わなかった。その程度には、放課後、誰にも邪魔されない空間を
確保できることが、心地良いことだったのである。
このまま月一回程度のボランティアでお茶を濁して、しばらく過ご
そうかしら。三人全員が本気でそう思っていた頃、思い出したように
奉仕部のドアは叩かれた。
つまりは、初めての正式な依頼人である。
﹁八幡先輩が紅茶得意って意外ですね﹂
23
﹁例の女王様に何度も淹れさせられたからな。経験値だけはそれなり
なんだよ﹂
ああ、そう言えば陽乃にも良く同じ
﹁その割には、味もそれなりよね﹂
﹁自販機よりはまだマシだろ
感想を言われたよ。流石、姉妹は良く似てるな﹂
ちくりとした嫌味を言ってくる雪乃に、八幡は即座に言葉を返す。
ねっとりと、しかし的確に急所を抉ってきた陽乃に比べると、雪乃
の言葉は鋭くはあるものの、どこか幼い気がする。陽乃ではない、と
いう思いが余裕を持たせる一因かもしれないが、余裕を持って相対し
てみると雪乃の毒舌にもどこか親しみが感じられた。
陽乃の名前を出したら案の定、雪乃は不機嫌そうに押し黙ってし
まった。陽乃と比較されるのは相変わらず、好きではないらしい。態
度に出るようだとまだまだだな、と八幡は雪乃に見えないように苦笑
を浮かべる。
﹂
﹁でも、本当にまったり進行ですよねぇ、この部活。八幡先輩も雪乃く
んも、勉強したり本読んでるだけだし﹂
﹁そういう海老名は書き物してるな。小説でも書いてるのか
⋮⋮﹃はちゆき﹄なのか﹃ゆきはち﹄なのか、それが問題ですよね
﹂
﹁はい。私TS物って初めての挑戦なんですけど、もう色々刺激的で
?
のかは考えるまでもないことだった。
雪乃のことを﹃雪乃くん﹄と呼んでいる辺り、どちらがTSしている
未知の領域だ。できることなら、と思わずにはいられないが、姫菜が
だが、TSしているのが﹃ゆき﹄の方だったら、そこから先はもう
う。
を瞑ることができれば、それなりに楽しんでみることができるだろ
興味がない訳ではない。自分が女になっているという事実にさえ目
受け入れることができるし、そういうものも見たことはある。何より
ら、男性の八幡としてはまぁ、良い。同性物でも女性同士ならばまだ
き﹄のどちらがTSしてるのかということだ。﹃はち﹄がTSしてるな
か、ある程度理解してしまった。八幡にとっての問題は﹃はち﹄と﹃ゆ
それだけ聞いて、八幡は姫菜が書いてる小説がどういう内容なの
?
24
?
そもそも、比企谷八幡を女性にするよりは雪ノ下雪乃を男性にする
ほうが無理がない。そう思うのは、自分が男性だからだろうか。姫菜
に聞けばその辺りの機微も詳しく教えてくれそうだが、それは聞かな
い。人間が腐っていると顔を見た時に思ったものだが、こういう方向
に腐っているとは全くもって予想外だった。
問題なのは、雪乃だ。ホモが嫌いな女子はいないという暴論を聞い
たことがあるが、雪乃までそうだとは限らない。何かと潔癖なこの少
女のことである。もし自分が男性にされて、姉の恋人と絡まされてい
ると知ったらショックで倒れてしまうかもしれない。
見てみたいと思う反面、心配でもある。それに愛する妹の学生生活
に影響が出たら、あの歪んだ妹愛を持つ女王様が何をすか解らない。
姫菜の小説は雪乃に見せるべきではない。八幡はひっそりと心に
決めた。
この手の創作物を扱う人間は、やたらと他人にそれを勧めたがる物
らしいが、姫菜は書いていることを見られているにも関わらず、八幡
が聞くまで内容についてはまったく口にしなかった。自己主張の少
なさは不気味な程である。だからこそ、八幡も雪乃も助かっている訳
だが、今後もこの静けさが続くとは限らない。今が潜伏期間というこ
とも考えられないではないのだ。
態々藪を突いて蛇を出すこともないだろう。内容については全く
興味ありませんよー、という顔をしながら八幡は紅茶セットの前に立
つ。元々、生徒会室にあったもので、陽乃の卒業と共に八幡に譲渡さ
れたものだ。それなりに値段のするものなので、貰う訳にはいかない
と八幡は断ったのだが、練習用にあげる、と押し切られて八幡の物に
なった。そもそも家では大体マックスコーヒーのため、紅茶はそれほ
ど飲まない。
どこで練習しようと思っていた矢先、部室の寂しさに苦言を漏らし
ていた雪乃を見つけ、それならと持ち込んでみた。雪乃は紅茶の腕前
にぷちぷちと文句を言うが、それでも飲んではくれる。不機嫌そう
な、それでいて痒いところをかけないようなもどかしさを感じさせる
雪乃の顔を見るのが、八幡は好きだった。
25
﹁海老名、おかわりいるか
﹂
﹁ありがとうございます。ぬるめでお願いしますね﹂
その注文に、八幡の動きが止まる。ぬるめというのも初めての注文
だ。とりあえずポットからお湯を別の入れ物に入れ替える。これを
しばらく冷まして、それで紅茶を淹れれば良いだろう。正式に別のや
り方があるのかしれないが、初めてやるやり方なのだから、失敗して
も大目に見てもらうより他はない。
ポットとにらめっこしていると、誰かが部室のドアを叩いた。
その音に、三人は顔を見合わせる。まさか依頼者
なった姫菜だった。
れを雑に扱うことはできない。最初に対応したのは、余所行きの顔に
まだ確定ではないが、依頼のためにやってきた人間だとしたら、こ
しかし、仕事である。
溜息は誰のものだっただろうか。
からからと遠慮がちな音を立てて、ドアは開いてしまった。小さな
﹁失礼します⋮⋮﹂
かけての行動だったが、
応がなければ、諦めてどこかに行くかもしれない。そういう可能性に
こうの人物がどこかに行くのをじっと待つ。中からどうぞ、という反
八幡だけでなく、雪乃も姫菜もそう思っていた。息を潜めて扉の向
も使ってしまおう。
その時、三人の意思は図らずも統一されていた。このまま居留守で
?
﹂
﹂
ここ姫菜の部活
﹂
﹁奉仕部にようこそ││ってなんだ、結衣じゃん。はろはろー、どうし
たの
﹁姫菜││え
﹁そうだよ。言ってなかった
?
学年が違うため普段の姫菜を八幡は知らないが、全方位にこの態度な
のだとしたら中々の外骨格である。
そんな姫菜の友達││結衣というらしい││は、良く言えば今風な
風貌の少女だった。赤みがかった茶髪は最近染めたものなのだろう。
26
?
最初に我に返った姫菜が対応するが、何というか笑顔がうそ臭い。
?
?
?
似合ってはいたが、髪の色の鮮やかさにそれ以外がついていっていな
い。結衣の八幡の第一印象は﹃軽そうな女﹄だった。何も考えずに本
能のままに判断するなら自分からはまず近づかないタイプであるが、
この少女のことをどこかで見たような気がした。
八幡が思い出せずにいる内に、結衣は姫菜に手を引かれて部室中央
の椅子に座らされた。姫菜は卓を挟んで反対側に移動する。そちら
にはパイプ椅子が3つ並んでおり、結衣から見て左側に姫菜が、右側
に雪乃が座っていた。空いている中央の席が、比企谷八幡のもの、と
いうことか。この野郎、と視線を向けると、雪乃は僅かに口の端を上
げて得意そうに微笑んで見せた。先ほどの意趣返しのつもりなのか、
整った容貌に反して、子供っぽい皮肉な笑みが浮かんでいる。
﹁はじめまして。私は一年の雪ノ下雪乃。話を聞かせてもらえるかし
ら﹂
﹂
﹁一年の由比ヶ浜結衣です。こちらこそ、よろしくお願いします。そ
れで今日はその⋮⋮お願いがあってきました
由比ヶ浜、と雪乃は繰り返す。雪乃にも、ひっかかるものがあった
らしいが、八幡と同様に疑問を解決するには至らなかった。
同時に錯覚をしたというのでなければ、結衣は共通の知人という可
能性が高いが、そもそも雪乃とは彼女が総武高校に入学するまでほと
んど付き合いはなかった。情報こそ一方的に知ってはいたが、顔を合
わせた回数はそれまで二度。共通の知人などいるはずもない。
結衣が有名人という可能性もないではないが、それならば顔を見る
か名前を聞いた段階で、思い出しても良さそうなものだ。凡才の自分
はともかく、雪乃まで思い出すことができないというのは、違和感を
覚える。
やはり共通の知人という線が強そうであるが、さて││と考えて、
八幡はようやく思い至った。
陽乃以外に、比企谷八幡と雪ノ下雪乃を結びつける強力な要素が
あった。八幡にとっては既に過去のことだったので失念していた。
自分達は二ヶ月前の事故の加害者側と、被害者だ。
そして事故にはもう一人、原因となる人物がいた。こちらに駆けて
27
!
きた犬と、その飼い主。横目に結衣の顔を見て、ようやく思い出す。
あの時は黒髪だったから、思い出せなかった。良く見ると、顔立ちは
そのままだ。
︵こいつ、あの時の飼い主か⋮⋮︶
一度か二度は病院に来たはずだから、顔はその時に覚えたのだろ
う。由比ヶ浜家との間にどのようなやり取りがあったのか、八幡は良
く知らない。金銭については雪ノ下の顧問弁護士が間に立って、ス
ムーズに処理してくれたとだけ聞いている。
犬は助かって、自分も無事だった。そりゃあ、一ヶ月の入院生活に
加えて更に一ヶ月不自由を強いられたが、入院中、それなりに良い思
いもしたので、今更どうこう言うことはなかった。
紅茶の準備をしながら、雪乃に向かって影絵の要領で﹃犬﹄
﹃車﹄と
伝える。聡明な雪乃はそれで全て理解した。
﹁実は、ある人にプレゼントがしたいの。できれば、手作りの。でも
ありえない話ではないが、ここで判断するのは早計というものだ。二
父の日近いもんね﹂
人の意を汲んだ姫菜が、更に探りを入れていく。
﹁お父さんとか
でお礼には行ったんだけど、私個人ではまだお礼してないから﹂
やっぱり貴方の担当だったわね、と雪乃は視線を外した。これはも
う決めてかかっている。言いたいことは色々とあったが、この三人の
中でなら自分が担当するべきことなのだろうし、話が早い。
八幡にとって、あの事故は済んだ話だ。一番の被害者である自分が
気にしていないのに、関係者が引きずっているというのも、不憫な話
である。
28
私、料理とか全くできないから、作るの手伝ってほしくて⋮⋮﹂
﹂
﹄とい
その⋮⋮感謝の気持ちを伝えたいって言
﹁なに、結衣。好きな人でもできた
﹁そういうのじゃなくて
話が進むと雪乃が﹃やっぱりこれは貴方の担当ではないの
うか⋮⋮﹂
?
う 視 線 が 強 く な っ て く る。感 謝 の 相 手 = 比 企 谷 八 幡 と い う こ と か。
?
!
﹁違うよ。うちのサブレを庇って事故にあった人。一応、家族みんな
?
﹁紅茶で良かったか
﹂
﹂
長、比企谷八幡だ。よろしくな﹂
﹁え⋮⋮え
﹂
雪ノ下だ。図らずも関係者が全員揃ったな﹂
﹁よろしく。ちなみに俺を轢いたリムジンに乗ってたのが、そっちの
!
?
﹁あ、はい。由比ヶ浜結衣です。よろしくお願いします
﹂
﹁久しぶりってことで良いのか 一応奉仕部という名の同好会の部
がより悪くなったらしいが、二ヶ月では流石に変化のしようがない。
言って良いほど変わっていない。小町に言わせると悪かった目つき
いてくれたのだろう。結衣と違って八幡の見た目は、ここ数年全くと
椅子から立ち上がって叫び声を上げ、八幡を指差した。本人と気づ
﹁あー
て結衣と目があった。結衣は目をぱちくりとさせると、
姫菜のリクエストのせいでぬるめになった紅茶を差し出すと、初め
﹁あ、ありがとう││﹂
?
サブレ超元気です
﹂
﹂
るのは、唯一怪我をして八幡としても望むところではなかった。
ている。事故の原因を作ったとは言え、結衣がこれ以上嫌な思いをす
気にしないと言い、轢いたリムジンに乗っていた人間もそれに追従し
結衣の印象は最悪だ。関わった三者の内、轢かれて怪我をした人間が
し、スナック感覚で人の心を抉ってくる。控えめに言っても、陽乃の
陽乃は意味のないいじめなどしないが、意味のあるいじめはする
いにいつも通りであるが、荒れたという事実は消えない。
ものであったと聞いている。今はそうだったことも忘れそうなくら
び込まれた時、陽乃の精神状態は雪乃やその両親がドン引きする程の
それよりも、八幡には心配なことがあった。自分が集中治療室に運
終わった話である。
いと言っているのだから、少なくとも八幡の前では、雪乃にとっても
んな結衣を見ても平然としている。一人怪我をした八幡が気にしな
話についていけないらしい結衣は、一人で混乱していた。雪乃はそ
?
﹁幸いなことに、俺はぴんぴんしてるよ。あの犬は元気か
﹁はい
!
?
29
!!
!
﹁そりゃあ良かった。なら、この件はこれで終わりだ。お前が気にす
る必要はないぞ。難しい話は葉山さんとやらが全部やってくれたし﹂
残務処理も全て、その葉山さんのお力により解決している。入院費
は雪ノ下が持ってくれたため、比企谷家の収支は八幡が一ヶ月病院に
拘束されたことを差し引いても、プラスになっているくらいだ。弁護
士、医者、会計士の友人がいると人生は安泰と言うが、三強の一角の
力を思い知った一ヶ月だった。
気持ちの上でも金銭の上でも話は終わっている。だから気にする
な、というのが八幡の言い分だったが、結衣はそれでもまだ納得して
い な か っ た。自 分 の せ い で、と い う 思 い に 決 着 を つ け る に は、何 か
やっておく必要があるのだろう。
面倒くさい、というのが正直なところであるが、結衣に謝罪の気持
ちがあるのも本当だろう。それを無下にするのは流石に八幡でも気
が引けた。
言えるような心の強い人間は、そういない。黙っていれば風化したは
30
ちら、と姫菜を見る。
全くと言って良い程友達がいない八幡や雪乃と違って、姫菜はリア
充グループに所属している。内面を知っている八幡には意外なこと
だったが、どろどろした内面を発揮することなく、それなりに上手く
やっているらしい。結衣はそのグループの一人だろう。世間的に言
えば彼女らは友達のはずだが、姫菜から依頼を受けてやれ、という圧
力は全く感じられない。存外に反応が軽い。
雪乃は結衣の目的が解った段階で、これは八幡が処理する案件とい
う意思を固めたようだった。結衣の正面に座り、話を聞いてはいるが
﹂
心はもう別のところに言っているのが良く解る。顔にはしっかりと
我関せずと書いてあった。
﹁一応確認するが、そのお礼ってのは俺にってことで良いんだよな
﹁これで違ったらかっこ悪いわね⋮⋮﹂
﹂
私、全然料理とか得意じゃないんだけど、その、受け
取ってもらえますか
﹁違わないし
?
結衣のすがるような視線に、八幡は思わず天を仰ぐ。ここでNOと
?
!
ずの問題に、自分で決着をつけるためにここにきた。それくらいに
は、結衣は善人だ。その気持ちは信じても良い。何を作るのか知らな
こういうのは気
いが、依頼をされた以上この中から補佐が付くのは確定だ。そこまで
やって、まさか失敗などするまい。
﹁別にそんなに凝ったもんじゃなくて良いからな
に食べるんでも俺は一向に構わないぞ﹂
﹁それじゃあ私の気持ちは伝わらないし
﹂
持ちが大事なんだ。何なら野菜を棒状に刻んで貰って、調味料と一緒
?
﹁で、誰が手伝う
三人で行くか
﹂
合、という前提ではあるが││嫌いではなかった。
うだが、八幡はこういう少女のことが││自分に深く関わらない場
うに思えた。良い子なのだろう。陽乃ならば都合の良い子と呼びそ
結衣が吼える。めんどくさいなぁ、と思うが、その熱意は本物のよ
!
﹂
﹂
﹂
いた。押せば倒れる。姫菜がもう少し食い下がれば雪乃はOKを出
つかず離れずの姫菜はしかし、思っていた以上に雪乃と距離を縮めて
八 幡 の 目 に は 雪 乃 が 迷 惑 そ う に し て い る よ う に は 見 え な か っ た。
うと、八幡は確信に近い思いを抱いていた。
で唯一の友人という可能性すらあるが⋮⋮おそらくそれが真実だろ
乃の交友関係について八幡は詳しく知らない。最悪、姫菜がこの高校
はなさそうなイベントだ。友達がいないと決め付けたばかりだが、雪
のはなるほど、リア充向けの展開であるが、それだけに過去の雪乃に
がりな内面が喧嘩をしているようにも見える。友達とお泊りという
姫菜の提案に、雪乃は一瞬微妙な表情をした。潔癖な内面と、寂し
?
﹁なら、メンバーについて選択肢はないわね。海老名さん、料理の腕は
﹁できれば比企谷先輩には完成した後に見てほしいんだけど⋮⋮﹂
?
﹁へぇ、良いなぁ。今度泊まりに行っても良い
﹁一人暮らしを始めたばかりよ﹂
?
しただろうが、話を最初に切り上げたのは雪乃の方だった。小さく咳
払いをした雪乃は、
31
?
﹁それなりかな。雪乃くんは
?
﹂
﹁その話はまたの機会にしましょう。由比ヶ浜さん、私達二人で手伝
﹂
うことになるのだけど、良いかしら
﹁よろしくお願いします
だ。最悪でも、クソマズイくらいで済むはずだが、そこまで理解でき
雪乃が黙認している以上、食べられないような代物ではないはず
が、ここで渡すという結衣の行動に賛成しているのだろう。
い。完璧主義の雪乃が結衣の行動を黙認した以上、消極的にではある
しているはずだ。依頼を受けた以上、それを完遂しなければ気分が悪
誰が見ても明らかな失敗作であれば、雪乃辺りが後にすべきと提案
まった。ラッピングまでされている。
けた八幡は結衣が後ろ手に小さな箱を隠していることに気づいてし
し、八幡は失敗作を食べなくても済む。そうするつもりで口を開きか
きなのかもしれない。結衣は失敗したことをなかったことにできる
お互いのことを考えるなら別の日にまた、ということを提案するべ
二人の協力をもってしても、結果が芳しくなかったのだ。
果になったのかは、聞くまでもないだろう。それなりに料理ができる
特に結衣の表情が暗い。出張してまで行った調理実習がどういう結
さて、と立ち上がった八幡が見た三人は、一様に暗い顔をしていた。
紅茶を飲みながら、勉強して待つことしばし。
くれる。
仲ではなない。奉仕部だ、と言えば特に何も聞かずにハンコを押して
でというのはあまり良い顔はされないが、会長のめぐりとは知らない
会執行部に申請すれば施設として利用できるはずだ。当日、飛び込み
に、女子三人は部室を出て行く。向かったのは家庭科室だろう。生徒
まるで比企谷八幡という人間などその場にいないとでも言うよう
は、普通に女子高生していた。
に読書をしている雪乃も絵になっていたが、姫菜と結衣と話す雪乃
うタイプが一人混じると、雪乃もそれなりに喋るようだ。部室で静か
得意なタイプではないが、結衣は見るからに饒舌なタイプだ。こうい
女三人揃えば姦しいという。姫菜はともかく雪乃はおしゃべりが
?
たところで八幡の顔は明るくならなかった。
32
!
こういう時、男の方が立場が弱い。女の努力というものは、何より
も優先される。そういう場の流れ的なものを雪乃も姫菜も好まない
はずだが、調理に付き合ったという事実が、二人を結衣寄りにしてい
た。男の八幡に味方はいない。
できることなら食べてほしい、というのが三人の本音だろう。
不景気な顔をしながら、八幡は結衣に向かって手を差し出した。恐
る恐るといった様子で、結衣は包みを手渡す。ラッピングも手ずから
やったのだろう。きっちりしていないへにゃっとした見た目に手先
の不器用さが見て取れるが、これで良いやという手抜きは見られな
い。作り手の気持ちが解る、丁寧な仕事だ。
そ っ と リ ボ ン を 外 す。小 さ な 箱 を 開 け る と 中 か ら 出 て き た の は
⋮⋮想像した通り、黒ずんだ何かだった。炭化した匂いがする。明ら
かに焼き時間を失敗しているのは見て取れた。ある程度料理のでき
る人間が二人もついていてどうして⋮⋮と視線を向けると雪乃と姫
﹂
33
菜は気まずそうに視線を逸らす。
比企谷憎しでわざとということはあるまい。言い訳もせずに黙っ
ていることから﹃気が付いたらこうなっていた﹄という線が濃い。
黒 い 固 形 物 を 一 つ 手 に と っ て 見 る。持 っ て み る と 更 に 炭 だ っ た。
手には既にパサパサとした黒い粉末が付着している。やはりこれを
人の食べる物とするのは間違っていると思うが、八幡に食べる以外の
選択肢は残されていなかった。
一思いに、その黒い固形物を口の中に入れる。顔をしかめないよう
にしながら、とりあえず噛み砕き、嚥下した。
匂い以上に、舌触りは悪い。炭の匂いが口の中に広がり、ざらざら
とした感触が今も残っている。はっきり言えば失敗作だが、クッキー
を失敗したのだ、ということは辛うじて解った。原型を留めているの
だから、まだマシだろう。食べたことはないが、炭を直接食べるより
はいくらか美味いはずだ。
不味くない
﹁⋮⋮想像してたよりはマシだった。悪いな、気を使わせて﹂
﹁ほんと
?
﹁⋮⋮⋮⋮流石にここでNOと言える日本人にはなれないぞ、俺﹂
?
﹁八幡先輩さいてー﹂
﹁ほんと、こういう時にこそ気を使えないでどうするのかしら﹂
﹁ならお前らこれを食ってみろ﹂
愚痴を零しながらも、八幡は手を止めない。覚悟ができたからか、
ざらざらした舌触りにもある程度抵抗ができた。それでも立て続け
にこの味はキツいと思っていると、姫菜がそっとマックスコーヒーを
を差し出してきた。適度に無遠慮な甘さが、喉に心地良い。
﹁あの、まずいなら別に無理して食べなくても⋮⋮﹂
﹁そう思うなら次からは美味いものを出してくれ。貰った以上は俺の
もんだ。どう食べようが勝手だろう﹂
もそもそ、と決して美味そうには見えないが、八幡は手も口も止め
﹂
なかった。結局、黒い固形物を全て一人で平らげてしまった八幡に、
結衣を含めた三人は複雑な視線を向ける。
﹁その⋮⋮自分で作っておいて言うのも何だけど、大丈夫ですか
﹁大丈夫ではないな。マックスコーヒーの助けがなければ危ないとこ
ろだった﹂
﹁少しだけ感心したわ。貴方でも男を見せる時があるのね﹂
﹁去 年 ま で に 比 べ た ら ど う っ て こ と は な い な。何 し ろ 食 え ば 終 わ り
だ。温いにも程がある﹂
﹂
﹁なるほど、八幡先輩はちょっとやそっとのプレイじゃ満足できない
ドMってことですね
めることはできそうにない。ドMになった自分など見たくもないが、
陽乃が姫菜の趣味を知ったら喜んで見ようとするだろう。その時、男
になった自分の妹を見たらどう思うのかが、気になって仕方がない。
﹁じゃあ、今日はありがとうな、由比ヶ浜。これで貸し借りはなしって
ことで、安心してくれると俺は助かる﹂
﹁それなんだけど、比企谷先輩⋮⋮﹂
今度こそこの話は終わり、と突き放すような言い方をする八幡に、
結衣は言葉を続ける。その姿はやってしまった悪戯を親に告白する
34
?
ぐふふ、と不気味に笑う姫菜はもはや腐海の住人だった。これを止
﹁薄い本を厚くしないでくれよ﹂
?
子供のようで、八幡にとってはロクでもないことの前触れに見えた。
この部にもいずれ、陽乃がやってくるだろう。それは結衣にとって
良い結果を生まない。それをどうにかして解らせないといけないの
だが、直接陽乃の名前を出すことには抵抗があった。陽乃も八幡と同
様、あの事故は終わったものとして処理しているが、内面はそうでは
ない。あれで陽乃は根に持つタイプだ。家族がドン引きするほどの
怒りを一番向けられていたのが、他ならぬこの結衣である。
陽乃がやってきた時、一番損をするのは結衣に間違いがない。本当
に話はこれで終わったのだ。お手伝いが二人もついていたのに、クッ
キーを黒い固形物にするぽんこつだが、根は良い娘なのだ。それが女
王の暴虐に晒されるのはやはり忍びない。
万全を期するなら断るべきなのだろう。ここにいてもロクなこと
にはならない。その説明をするのに陽乃を語らなければならないの
ならば、七日七番でも語り続ける自信があったが、例え真実全てを
35
語ったとしても結衣が納得してくれるかはまた別の話だった。
八幡がしようとしていることは、要するに拒絶である。どれだけ理
由を並べたとしても、結衣がそれを信じてくれないのならば、単純に
相手は自分のことを嫌いなのだ、と解釈されてしまうかもしれない。
何度でも言うが、根は良い娘なのだ。これ以上つまらない理由で傷
ついてなど欲しくはないし、面倒なことに関わってもらいたくはな
い。こういうタイプにとって陽乃は劇薬だ。既に怒りを買っている
のだから尚更である。
押し黙っている八幡を他所に、結衣は一人で決意を固める。それを
﹂
止める手段は八幡にはなかった。力不足を痛感しながら、八幡は結衣
の言葉を聴く。
﹁私もこの部活、参加しても良いですか
?
﹂
どう考えても、戸塚彩加は天使である
﹁ヒッキー先輩さ、運動って得意
﹁得 意 で は な い な。自 分 か ら 率 先 し て 運 動 し よ う と 思 っ た こ と も な
い﹂
﹁インドアそうですもんねー、八幡先輩﹂
からかうような口調の姫菜を軽く睨むと、彼女はささっと雪乃の影
に隠れた。代わりに視線を受けることになった雪乃は、威圧するかの
ように睨み返してくる。ガンつけられたから睨み返すチンピラのよ
うな反射であるが、睨みつけるという仕草一つでも、雪乃がやるとど
こか美しくさえあった。並の高校生ならばその場に竦みあがってい
ただろうが、陽乃の威圧感に比べればそよ風のようなものである。
﹁で、どうしてまた運動だよ。海老名の言う通り、俺はインドア派だ
ぞ﹂
拗ねてるー、と軽くはしゃいでいる姫菜に今度はデコピンを入れ、
さいちゃんっていうすっごくかわいい子
結衣に向き直る。少し前には依頼者だった結衣も、今では奉仕部の一
員に収まっている。
﹁や、うちのクラスにね
幽霊部員で、全然練習できないんだって﹂
﹁ほー、そりゃ大変だな﹂
答える八幡の口調は、完全に人事のそれだった。姫菜に分析された
通り、インドア派の八幡はそもそも運動部には全く縁がない。それど
ころか、全くと言って良いほど良い印象を持っていなかった。体育会
系のノリというのが、どうしても肌に合わないのだ。リア充とはまた
別の暑苦しさが、どうしても好きになれないのである。
せめてもう少し食いついてくれると思っていた結衣は、肩透かしを
食らった気分だった。彼女にとってはこれが、入部して初めての依頼
である。しかも友達からの依頼であるから張り切っていたのに、部の
仲間達は皆消極的に見えた。特に八幡のヤル気のなさは際立ってい
36
?
がいるんだけどさ、その子がテニス部なんだ。でも、さいちゃん以外
?
﹂
る。思わず声を荒げるのも、彼女の性格を考えると当然と言えた。
﹁ヒッキー先輩、食いつき悪いよ
﹁運動部は俺の敵だ。係わり合いになりたくない﹂
﹁そんなこと言わないでさ。さいちゃん、正式な依頼をしたいんだっ
﹂
て。私達に練習相手になってほしいみたい。一応、個人では大会に出
れるけど、このままじゃ練習も何もできないからって﹂
﹁テニスの練習相手になれって由比ヶ浜、お前テニスできるのか
﹁そうみたいだけど、他に良い方法があるの
ゆきのん﹂
ないのだけれど。依頼は練習の手伝いということで良いのよね
﹂
﹁その﹃さいちゃん﹄さん一人が強くなっても、解決する問題には見え
んだって。それなら全然テニスできない私でも手伝えるし﹂
﹁できないけど⋮⋮経験者じゃなくても、練習に付き合うだけで良い
?
?
﹂
?
ばかりが目立って、一時は廃部寸前まで行った﹂
﹁今も残ってるみたいですけど、それはどうしてですか
﹂
しいんだが、それを切っ掛けにゼロになってな。その後も素行の悪さ
会に出られなくなった。元から真面目にやってる奴は少なかったら
﹁俺が入学した前後の話だ。テニス部員が不祥事を起こして、公式大
﹁どういうことなのかしら、比企谷くん﹂
うに苦心しながら、雪乃は静かに八幡に問うた。
にとって、それは耐え難いことだった。苛立つ内心を顔に出さないよ
信を持って出した案が、一瞬で否定されたのだ。意外に気の短い雪乃
間髪入れずに否定をした八幡に、雪乃が目を向ける。それなりに自
﹁いや、勧誘は難しいと思うぞ﹂
﹁毎回手伝う訳にはいかないしねぇ﹂
でしょう。それなら部員の勧誘でもした方が早いのではなくて
﹁私達が今回協力したとしても、それが終わったら部員一人に逆戻り
?
要項には﹃テニス部はある﹄と書いちまったらしいんだな。だから少
げってことにもできたらしいんだが、今年度入学者を対象にした募集
は い な い。そ い つ ら が 卒 業 し た 段 階 で 廃 部 も し く は 同 好 会 に 格 下
なった。それにそいつらは陽乃の同級生だったから、もうこの学校に
﹁廃部の動きが出た辺りから、素行の悪い連中がそれなりに大人しく
?
37
!
なくとも、年度初めまではテニス部を部として存続させる必要があっ
た。で、誰も入部者がいなければ廃部、もしくは同好会に格下げとい
う線で話はまとまってたらしいんだが⋮⋮﹂
真摯にテニスに打ち込みたいという真面目な﹃さいちゃん﹄が入部
した、という訳だ。
一応部としての体裁を保っているテニス部であるが、陽乃が会長の
時の予算編成会議で活動実績と素行の悪さを理由に予算をばっさり
とカットされた。更に翌年、めぐりが会長になってからの会議でも同
様の理由で予算を削減された。現在の予算は運動部どころか文化部
を合わせてもぶっちぎりの最下位であり、まさに雀の涙だ。
運動部としては踏んだり蹴ったりであるが、小額であっても予算が
降りることに変わりはない。それは同好会には無いものだし、何より
部には固有スペースである部室がある。過去、それなりに部員がいた
テニス部の部室は、運動部全体も見回してもかなり広い部類に入る。
テニス部が廃部、もしくは同好会に格下げになると、この部室が放出
される可能性が高いのだ。ルームレスの部や同好会は、これを狙って
いるのである。
そういう連中を始め、素行の悪い連中にちょっかいをかけられた人
間等々、テニス部がなくなって欲しい人間は実のところ、校内に一定
数存在していた。
方々に敵がいる上に、テニスの指導をできる人間がいない、予算が
少ないなどマイナスの要素が揃っている。道具とコートこそあるが、
これを新調するとなれば少ない予算ではまかないきれず、部員のカン
パで何とかするしかない。加えて現状活動しているのが、ヤル気はあ
るが一年が一人というのでは、テニスを始めてみようかな、という人
間が門戸を叩く可能性は限りなく低い。経験者ならば尚更である。
救いがあるとすれば今の二、三年に幽霊部員がまだそれなりにお
り、それで頭数だけは確保できていることだが、
﹃さいちゃん﹄以外が
幽霊部員であることは既にめぐりも把握している。今すぐ廃部とい
うことにはなるまいが、部員の数がこのままであれば部室を放出させ
られる可能性は大いにある。そうなれば、後はテニス部にとっては悪
38
夢の、負のスパイラルが続いていく。今の時点でも、部員の勧誘が難
しいのだ。これで部室までなくなったら、さらに可能性がなくなって
しまう。
﹁せめて団体戦に出れるくらいまで活動する気のある部員を確保しな
いと、部室の放出がかなり現実味を帯びてくる。そうなったらジリ貧
だ。その﹃さいちゃん﹄のやる気だって、いつまで続くか解らんしな。
できるだけ早く手を打つ必要があるぞ﹂
﹁さいちゃんかわいそう⋮⋮﹂
結衣の言葉には実に哀愁が漂っていたが、八幡はそうは思わなかっ
た。テニス部の事情を最初から知っていたのであれば、今から他者の
同情を引くのは筋違いであるし、知らなかったのであればそれは本人
のリサーチ不足に寄る。その﹃さいちゃん﹄が悪いとは言わないが、今
の苦境に好きで身を置いているのならば、全く責任がないとは言えな
い。
39
何もしないのに文句だけは言う人間を、八幡は陽乃の近くで何人も
見た。そういう連中相手に、陽乃は笑顔で大鉈を振るい情け容赦なく
予算をカットしていった。何かしようとしているだけ、
﹃さいちゃん﹄
は彼らよりマシだと言える。
しかし、気持ちがあっても何とかなるかは別の話だ。ことは﹃さい
ちゃん﹄のテニスの技術が上達しても解決する問題ではない。彼女が
経験者で、大会でも好成績を望めるのならば話は別だが、素人相手に
練習相手を求めるくらいだ。今週、来週にでも賞状を貰って来るよう
な活躍は、期待できない。
﹂
﹁話は戻るけど、由比ヶ浜さん。今回の依頼はその﹃さいちゃん﹄さん
の練習を手伝うということで良いのね
﹂
﹂
!
か
﹁ヒッキー先輩もいないとダメだし
あと、さいちゃんは男の子
﹁運動部の女子と話が合うとも思えないから、俺は席を外しても良い
けどそろそろ来るんじゃないかな﹂
﹁OKだよ。今日はさいちゃん日直だから、少し遅れるって行ってた
?
なんだそりゃ、と八幡の口から思わず言葉が漏れた。男性で﹃さい
!
?
ちゃん﹄というのは、一体どういうことなのだろうか。結衣と同じク
ラスであれば、姫菜も知っている可能性が高い。どんな奴だ、と問お
うと視線を向けると、姫菜は既に﹃グフフ﹄と嫌らしい笑みを浮かべ
ていた。
勿論、知っていて黙っていたのだろう。男性に興味があると口にし
たら、それこそどんな妄想に巻き込まれるか解らない。いや、あの顔
は既に妄想を展開している顔だ。八幡は今すぐ姫菜の顔をタコにし
て懲らしめてやりたい衝動に駆られたが、姫菜のことだ。それも妄想
のスパイスに転換してしまう可能性が大いにあった。やおいだのB
Lだのが絡む時、姫菜は無駄に高いバイタリティを発揮する。係わり
合いにならないのが吉と視線を外すと、軽いブーイングを始めた姫菜
の隙を見てデコピンをする。額を押さえながらも、どこか姫菜は嬉し
そうだ。
本当にタコにしてやろうか。八幡が一歩足を踏み出した時、部室の
ドアがノックされた。他の三人の視線がドアに向いた瞬間、姫菜は椅
子ごと八幡から距離を取る。安全域まで逃げ遂せたことで軽く舌を
出して挑発する姫菜に、八幡は手近にあったものを掴んで放り投げ
た。それが雪乃の読みかけの本だったのは全くの偶然である。本は
姫菜が反射的にキャッチしたが、飛んでいく過程で栞が床にはらりと
落ちた。
今度は八幡が逃げる番である。全力で姫菜の後ろまで逃げる八幡
を、雪乃が追う。室内で唐突に始まった追いかけっこに、結衣は複雑
な視線を向けるが、好奇心よりも仕事の方を優先させた。はーい、と
ドアを開ける結衣に、八幡は完全に逃げ遅れたことを理解した。栞を
拾い、姫菜から本を回収した雪乃は、それで八幡の後頭部を軽く叩く。
﹁逃げられなかったわね﹂
﹁俺のことは置物とでも思ってくれ﹂
それでも諦め悪く部屋の隅に移動しようとした八幡の肩に、そっと
雪乃の手が置かれる。抵抗する間もあればこそ。そんなに力を込め
たようには見えない雪乃の腕の一振りで、八幡は手近にあった椅子に
座らされた。立ち上がろうとしても、肩に置かれた雪乃の手がそれを
40
邪魔する。いつか陽乃もやっていた、合気道の技の一つだ。重心をど
うこうという説明を受けたが要するに、雪乃に触れられている限り、
身体の自由はきかないということだ。
完全に行動を封じたと確信した雪乃の目には、ドSの輝きがあっ
た。男性を下においていることに、そこはかとない快感を覚えている
のだろう。面差しは似ているだけに、陽乃のことを彷彿とさせる。そ
んな雪乃の顔を見て抵抗する気を失った八幡は、両手を挙げて降参し
た。雪乃は自らの小さな勝利をかみ締めながら、元の椅子に戻る。
結衣に伴われ部屋に入ってきたさいちゃんに、全員の目が集まった
のはこの時、ようやくだった。
先に聞いた説明によれは﹃さいちゃん﹄というのは、部員不足に悩
むテニス部の﹃男子﹄のはずである。
そのはずなのだが、八幡には目の前の人物がどうしても男子には見
えなかった。雪乃も同じことを思ったのだろう。彼女にしては珍し
41
いはっきりとした驚きの色を顔に浮かべて﹃さいちゃん﹄を凝視して
いる。
﹁紹介するね。こちらさいちゃん。さっきも話したけど、テニス部の
部員で、今回の依頼主だよ﹂
﹁ゆいちゃんの友達で、戸塚彩加っていいます。依頼をしたいんです
けど││﹂
﹂
﹁話は由比ヶ浜から聞いた。俺達は素人ばっかりだが、本当にそれで
構わないのか
信であることを思い知らされた。世の中にはまだ見ぬ強敵が犇いて
いる。今更多少の仕草では動じないという自信があったが、それが過
だけの破壊力とは、と八幡は内心で戦慄した。美人は陽乃で見慣れて
受けてくれると理解した彩加の顔がぱぁと輝く。笑顔一つでこれ
まったのだから、もうどうしようもない。
とはとうに忘れてしまった。それに考えるよりも先に言葉が出てし
なかったじゃない⋮⋮﹄と雪乃は視線で責めてくるが、そんな昔のこ
雪乃の強烈な視線が集まる。﹃貴方、さっきまであんなに乗り気じゃ
既に受けることにした、という物言いの八幡に、部員達の││特に
?
いるのだ。
﹁手伝ってくれるんですか
﹂
﹁一応な。全員が毎日協力できる訳じゃないが、それでも良ければ﹂
﹁十分です。ありがとうございます﹂
礼を言って、頭を下げる。ただそれだけなのに、何故こんなにもか
わいらしいのだろう。断られる可能性すらあった話が纏まったこと
で、結衣もそっと胸を撫で下ろしていた。雪乃はもう八幡に任せると
決めたのか、回収した本を開き栞が挟まっていた場所を探していた。
姫 菜 は と 言 え ば、ぐ ふ ふ と 下 品 に 笑 い な が ら 八 幡 と 戸 塚 を 見 つ め、
しゃかしゃか凄まじい勢いでペンを動かしている。中身を呼んだ訳
ではないが、何となく、今回は掘られる側だろうな、という確信が芽
﹂
生えた。確認してみたい気もしたが、それよりも今は、眼前の依頼人
のことだ。
﹁テニス部、本当に一人なのか
うは思わなかったのだろうか。
どんな部活にも身が入ると思うのだが、声をかけられた二、三年はそ
らば、テニス部も良いかもしれない。彩加のような後輩が一人いれば
は響きからして二人とは違った。この﹃せんぱい﹄を毎日聞けるのな
姫菜も結衣も八幡のこと呼ぶ時に先輩と付けるが、彩加の﹃せんぱい﹄
せんぱい、という少し舌足らずな彩加の言葉が、八幡の胸に響いた。
﹁解りました。何とかしてみます、せんぱい﹂
おいた方が良いと思う﹂
編成までには活動してる奴らだけで部の要件を満たすぐらいにして
﹁それなら、一年を中心に部員を勧誘した方が良いな。最低、次の予算
んでもダメならば、彼らの復帰は絶望的と諦めた方が良いだろう。
からでも想像ができる。加えて眼前の美少女││ではない、彩加が頼
霊部員だった連中だ。反応が芳しくないだろうということは、やる前
彩加の表情は暗い。自分の力不足を責めている様子だが、元より幽
ど⋮⋮﹂
﹁そうなんです。他の部員にも練習しようって声はかけてるんですけ
?
奴らはアホだな、と顔も知らない生徒のことを軽く罵倒しながら、
42
!?
彩加に視線を戻す。
﹁で、俺達はいつからどれくらいの期間手伝えば良いんだ
﹂
﹁平 日 一 週 間。来 週 の 月 曜 か ら 金 曜 ま で 付 き 合 っ て く れ れ ば 十 分 で
す﹂
精々一ヶ月と予想していた八幡には、大分控えめな提案に思えた。
そもそも奉仕部は四人全員が素人である。そんな連中が彩加の練習
に一週間付き合ったところで、彼の窮状が変わるとは思えない。現状
がかなり厳しいということは、彩加本人が一番理解しているだろう。
テニス部を救う妙案に心当たりがあるならば、そもそもド素人の集団
に頭など下げないはずだ。
そうしないといけないくらいに、戸塚彩加は困難に直面している。
そんな彼を、八幡は助けたいと思った。
﹁それじゃあ、来週からよろしくお願いします﹂
細かな話を詰め終わった彩加は、ぺこりと頭を下げて部室を出て行
く。彩加の足音が完全に遠ざかると、最初に口を開いたのは雪乃だっ
た。。
﹁どういう風の吹き回しかしら。運動部の男子というのは、貴方の好
みの対極に位置する存在だと思っていたのだけれど﹂
﹂
﹁いかにもな運動部ならな。さっきの戸塚を見て、運動部だって思う
か
と思った。理由なんてそんなもんだよ。それより、来週一週間。月金
﹂
帯でスケジュールを押さえられちまった訳だが、全部出られそうな奴
は俺以外にいるか
は、気まずそうに視線を逸らしている。
?
﹁女子が一人ってことは別に気にしないと思うけどなぁ。むしろ、私
⋮⋮﹂
﹁いや、姫菜がずっとこっちだと、女子が優美子一人になっちゃうし
﹁││結衣、別に毎日優美子に付き合う必要はないと思うよ
﹂
八幡の問いに、手を挙げたのは雪乃と姫菜。話を持ってきた結衣
?
43
?
﹁だからって気が合うとも限らないけどな。たまには運動でもしよう
﹁思わないわね⋮⋮﹂
?
も結衣もいないことに、何か思いそう﹂
まぁ、私はこっちに出るけど、と姫菜は言葉を結んだ。二人がクラ
スで同じグループに属しているというのは聞いているが、その参加具
合には二人の間で随分と温度差があった。結衣はたまに部活に顔を
出すという感じだが、姫菜はたまにあちらに行くという感じである。
だからどうした、というつもりは八幡にはない。部として活動さえ
するのならば、その貢献度合いも参加の頻度も完全に自由だ。基本的
に毎日やってくる八幡や雪乃が、本来は異常なのである。学校に友人
が一人しかいない八幡にとって、友人付き合いというのは馴染みのあ
るものではないが、それが大事という人間がいることは理解できる。
結衣などはその口だろう。
八幡が気にしているのは、姫菜の方だ。結衣が頻繁に顔を出す以
上、そのグループはそれなりに連帯を求めるのだと推測できる。まさ
か全員が帰宅部ということはあるまいから、放課後、全員で一緒にな
44
ることは毎日ではないはずだ。それでも、基本参加する結衣が近くに
いると、参加の頻度が低い姫菜の行動は相対的に目立つようになる。
リア充というのは、同じ行動をしない人間を排除するものだ。それで
大丈夫なのかと、一応、部活の仲間である姫菜のことが心配になった
八幡は、一度だけと決めて問うてみた。
よほどそんな質問をされたことが意外だったのか、姫菜はしぱらく
ぽかんとした後に、陽乃を思い起こさせる、魅力的だがどろりとした
微笑みを浮かべて﹃大丈夫ですよ﹄とだけ言った。 きっと、その後
にも言葉は続く。そこで言葉を切ったのは、姫菜がそれなりに結衣の
グループを大事にしている証だ。
﹁話を戻すけれど、根本的な問題を解決するには、部員を増やすしかな
いと思うわ。比企谷くんには、何かアテがあるのかしら﹂
﹁そっちのアテはないが、何も解決方法は一つじゃないと思うぞ﹂
﹁おー、何か妙案があるんですね、八幡先輩﹂
﹂
﹁一応な。他力本願過ぎて、あんまり好きじゃないんだが﹂
﹁ヒッキー先輩。どっか行くの
﹁執行部室﹂
?
行くか
と振り返って雪乃たちを見やると、三人は揃って首を横
に振った。
45
?
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている
よく、会長以下役員たちを﹃生徒会﹄であると勘違いする学生がい
るが、彼らはあくまでその役員であって、生徒会そのものではない。
その学校に通っている生徒が概ね自動的に加入させられる組織が生
徒会であり、そのメンバーとなれば全校生徒のことを指す。
では、その役員たちが集まる部屋を何と呼ぶのか。そもそも所謂
﹃生徒会﹄の名前も学校によって異なるため一概には言えないが、
﹃生
徒会室﹄と呼ぶのがおそらく、一番通りが良いだろう。総武高校のそ
れも元々はそういう名前だったのだが、紆余曲折の末、前の生徒会長
の陽乃が﹃生徒会執行部室﹄と名称を改めた。
公式にどうなっているのか知らないが、少なくとも部屋の前にはそ
ういうプレートが下げられおり、陽乃政権の時のメンバーである八幡
とめぐりは、プレートができてからの期間はこの部屋のことを執行部
室と呼んでいたし、認識している。
八幡はこのプレートを見る度に、感慨深い思いにさせられる。ある
日突然、陽乃からこのプレートを作れと言われ、散々リテイクを食
らった挙句、最終的には彫ることになった。素人仕事が際立って安っ
ぽく見える、というのは製作者の逆贔屓目という訳ではないだろう。
陽乃からめぐりに会長の座が移動した時、八幡はこれを取り払うこと
を提案したのだが、新会長の鶴の一声によって使用継続が決定され
た。
基本的に陽乃とは違う路線の政策を行うことで、支持を集め実績を
作っているめぐりにしては珍しい、陽乃路線を踏襲した部分である。
この部屋に、ノックをせずに入っていたのも今は昔のことだ。複雑
な心境のままドアをノックし、待つことしばらくして、ドアが開いた。
さて、仲が良いかは別にして、八幡は現政権のメンバーを全員記憶
している。結局最後まで会長を含めても三人しかいなかった陽乃政
権と異なり、城廻政権は引継ぎの段階で既に全ての役職が予備人員も
含めて埋まっていた。メガネ率の高い地味な集団だったと記憶して
いるが、ドアを開けた少女は初めて見る顔な上に、何とメガネをかけ
46
ていなかった。
随所にアレンジの見える制服には、まだ真新しさがあるから一年だ
ろう。お洒落具合は、結衣よりは堂に入っているように見え、彼女よ
りも幾分華やかに見えた。何というか、自分がどの程度かわいいのか
を自覚しているかのような図々しさをひしひしと感じる。
八幡一人ではおそらく、友達にはしないタイプだ。なるべく視線を
合わせないようにする八幡を他所に、一年女子はじっと彼の目を見つ
めていた。小さく溜息を吐いて、その目を見返すと、一年女子は不満
そうに視線を逸らした。自分の視線を受けて動揺しない男がいると
は思ってもみなかったのだろうが、陽乃の視線を間近で受け続けても
﹂
う二年が経過している。今更年下の視線など、どうということはな
い。
﹂
﹁その腐った目⋮⋮もしかして比企谷先輩ですか
﹁もしかしなくてもそうだ。城廻はいるか
﹁いるよー﹂
﹁そこはもう、俺の席じゃないだろ
﹂
差すが、八幡はそれを無視してめぐりの前に立つ。
つての同僚の急な来訪に、彼女は八幡が使っていた書記のデスクを指
かつて陽乃の席だった会長のデスクで、めぐりは微笑んでいた。か
行部室に足を踏み入れた。
いまいち歓迎していない様子の少女を気にするでもなく、八幡は執
﹁⋮⋮ようこそ、いらっしゃいませ﹂
意味だと解釈した八幡は、今度は自分から少女に視線を向けた。
少女の肩越しに、めぐりの声が聞こえる。それを﹃どうぞ﹄という
?
のも久しぶりだね
もしかして、引継ぎの時以来
﹂
めぐり相手は、どうも調子が狂う。このままだと押し切られそうだ
﹁そのうちな﹂
ても良いのに﹂
﹁うちの生徒に生徒会の部外者はいないよ。たまには顔を出してくれ
?
47
?
﹁そうだね、ごめん。それにしても珍しい。はっちゃんがここに来る
?
﹁部外者が態々顔を出すようなところでもないだろ﹂
?
と感じた八幡は、定番の断り文句で強引に話を終わらせた。相変わら
ずな八幡の態度にめぐりは苦笑を浮かべるが、それ以上は追求してこ
ない。どこまでならば踏み込んでも良いのか。その絶妙な距離感を
﹂
理解しできるのは、友達ならではである。
﹁それで、今日はどういう御用かな
﹁他校と部活動同士で交流するための規定について聞いておきたい﹂
﹁相手のあることだから、こっちとあっちで別の許可が必要だね。ま
ずこっちは顧問の先生と校長先生の許可が必要だよ。それから今度
はあっちの校長先生と、部活の顧問の先生の許可﹂
﹁面倒だな⋮⋮﹂
﹁他 所 の 生 徒 を 呼 ん で、校 内 で 問 題 と か 起 こ さ れ ち ゃ う と 困 る か ら
ねー﹂
﹁お前の強権一つでどうにかなるか、と少しだけ期待してたんだが無
理そうだな﹂
﹁ここに座ってるのがハルさんだったら何とかなったかもしれないけ
ど、私はほら、普通の生徒会長だから﹂
ははは、とめぐりは笑うが、会長としての彼女の評判はそれほど悪
いものではない。前任者が陽乃なので事あるごとに比較され悪し様
に言われることもあるが、堅実で痒いところに手が届く実に細やかな
手腕は陽乃とはまた違った良さがあった。教師からの信頼は陽乃よ
りも厚く、申請などをねじ込む時はめぐりを仲介すると通りやすい
と、生徒の間では評判である。
勿論、何でもかんでも引き受ける訳ではないが、それが切実なもの
で会長として公平な判断の内に入るならば、めぐりは断ったりしな
い。一つの部に肩入れすることは黒に近いグレーと言えるが、その話
﹂
を切り出す前に黄色信号が灯ってしまった。テニス部の先行きは暗
い。
﹁その許可は簡単に出ると思うか
言うと思うよ﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
48
?
﹁顧問の先生に寄るかな。先生の方がOKなら、校長先生はOKって
?
想定していたよりも厳しい条件に、八幡の表情が曇る。いつも以上
﹂
に暗い顔をしている八幡に、今度はめぐりが問うた。
﹁はっちゃん、部活にでも入ったの
﹂
そうなっ
?
ハルさんより美人だったりした
﹂
﹁珍しく面倒見が良いけど、どうしたの
テニス部の依頼主さんが
くらいに部員を集めて、活動してますアピールをさせときたいんだ﹂
たら部員集めにも支障が出る。次の予算編成の前には大会に出れる
﹁このままだと部室が取り上げられる可能性が高いだろ
員だけはいるから、今すぐ廃部ってことはないだろうし﹂
﹁粘り強く部員を集めていく方が良いんじゃないかな。幽霊だけど部
環境なのか、推して知るべしである。
だ。テニスをやりたいという人間にとってそれがどれだけ良くない
人間を頼らなければ普通の練習もできないほどに、人員がいないの
具も揃っているという十分な環境が整っているにも関わらず、部外の
ツならばいざ知らず、テニスという名前の知られた競技でコートも道
しくない結果だといっそのこと清々く思えた。ドマイナーなスポー
めぐりの正直で率直な意見は想定の範囲の物だったが、ここまで芳
ままだと難しいと思うよ﹂
くないし、顧問の先生もそんなにヤル気がある方じゃないから、今の
﹁はっちゃんは知ってると思うけど、うちのテニス部は外で評判が良
きるかどうかだ。
る。今知りたいのは、実質部員一人のテニス部でも、他校と交流がで
態々執行部室にまで足を運ばない。息を吐いて、気持ちを切り替え
り上げたことに憂鬱な気分になったが、それで諦めるくらいならば、
少女の言葉に、八幡は渋面を作った。部員の勧誘が早くも暗礁に乗
﹁一年の中ですらそんな認識か⋮⋮﹂
け
﹁あれ、テニス部って幽霊部員しかいないんじゃありませんでしたっ
ら、相手をしてくれってな﹂
﹁テニス部から依頼を受けたんだよ。練習相手がいなくて困ってるか
?
?
﹁確かに天使みたいだったが、それはないな﹂
?
49
?
だよねー、と同意するめぐりに、八幡も当然のように頷いた。気持
ちが動いたことは事実だが、傾く程ではない。犬が簡単に他人に尻尾
を振ったりはしないことを飼い主以外で最も理解しているめぐりは、
即答した八幡に笑みを浮かべた。
ともあれ、これで聞きたかったことは聞いた。状況は良くないが、
それでもどうにかするしかないだろう。助かった、と礼を言って踵を
﹂
返した八幡に、めぐりがさも今思い出したというように声をあげた。
﹁はっちゃん、いろはちゃんとは初めてだよね
﹁そこのそいつのことなら、会ったことはないな、多分﹂
そいつという呼称にむっとした表情を浮かべた少女は、少女は陽乃
ほどではないが整った容姿をしていた。これだけ﹃私かわいい﹄オー
ラを出していたら、リア充の顔は覚えたくない八幡でも、流石に記憶
に残る。記憶にないということは会ったことはない、と機械的に判断
した故の即答だったのだが、その即答が少女の気に障ったらしい。
﹁はじめまして、一色いろはです。どうぞよろしくお願いします、先
輩﹂
差し出された手を握り返すと、いろはと名乗った少女は更に渾身の
力を込めた。とは言え女子の膂力である。部活に汗を流すよりも、友
達と喋ることに放課後の時間を使っていそうないろはの全力は、やは
り大したことはなかった。それでも年上の男子相手に﹃やってやっ
どの役職も人は足りてただろ﹂
た﹄ことに溜飲を下げたのか、当のいろはは満足そうな表情だった。
﹁メンバー増やしたのか
﹁⋮⋮悪いが会長とかやりたがるタイプには見えないんだが、そんな
めんどくさい仕事を、どうしてまた﹂
﹁先代の会長の雪ノ下陽乃さんみたいになりたくて⋮⋮﹂
いや、無理だろと反射的に口を突いて出そうになった言葉を、八幡
はとっさに飲み込んだ。目指すかどうかは人の自由である。それに
口を出す権利は、八幡にもない。
だが、犬の感性でもって言わせてもらうと、陽乃を目指す人間とし
て見た場合のいろはは、色々と力不足に見えた。陽乃を構成する上で
50
?
﹁会長になりたいから生徒会活動に参加して勉強したいんだって﹂
?
一番重要な、あの﹃人間の濃さ﹄がいろはからは全く感じられない。
もっとも、陽乃みたいになりたいという言葉に、内面までが含まれ
ているとは限らない。陽乃からみれば、いろはたちは三つ下になるか
ら中学で一緒だったということもないはずだ。下手をしたら、会話を
したこともないかもしれない。八幡からすればそれでどうして憧れ
ることができるのかと疑問に思うばかりだが、それも人それぞれだろ
﹂
う。何しろ陽乃は内面の強烈さほどではないが、見た目も十分輝いて
いるのだから。
﹂
﹁一色は陽乃と会ったことがあるのか
﹁去年、文化祭のライブ見ました
真も、めぐりにとっては良い思い出らしい。
陽乃に撮らされた記念写真だ。八幡にとっては黒歴史そのものの写
めぐりの視線が、机の上の写真立てに移る。ライブが終わった時、
ンドを組む面々としては割りと理想的だったのかもしれない。
でいたから他人の視線など二の次だった。思い返してみれば、共にバ
の底から思っていたし、めぐりは全力で皆でバンドというのを楽しん
ば文句も出ただろうが、八幡と静はライブなど早く終わってくれと心
く、陽乃とそのおまけである。これで皆、自己主張の強い人間であれ
観客は皆、陽乃だけを見ていた。舞台にいたのは陽乃たちではな
人間で、めぐりを記憶している人間はほとんどいないに違いない。
た。あの日の成功の影の功労者であるがおそらくライブを見に来た
キーボードを担当し、ドラムの不在を埋めるために打ち込みもやっ
りは声をあげて笑った。元々ピアノが弾けたらめぐりはライブでは
自分がその筆頭であることを棚にあげている八幡の物言いに、めぐ
﹁俺が言うのも何だが、世の中趣味が悪い奴が多いな﹂
﹁ハルさんみたいになりたいって人、結構多いんだよ﹂
ら舞台の上で考えたことと言えば、演奏でトチらないことだけだ。
上での良い思い出など何一つ残っていない。緊張と羞恥と戦いなが
ギターを弾かされたのも、今となっては痛ましい思い出である。舞台
あー、と乾いた声が八幡の口から漏れる。そのライブで陽乃の横で
?
﹁⋮⋮まぁ、そんな訳で人は足りてたんだけど、役員に加えることにし
51
!
たんだ。はっちゃんも何か、アドバイスとかあったら言ってあげてね
ハルさんの一の子分は、間違いなくはっちゃんだし﹂
﹁子分じゃなくてそのものになりたいって奴には、俺の助言は役に立
たないだろ﹂
他人からアドバイスを受けたくらいで陽乃になるのならば、世の中
もっとスリリングになっている。高校に入ってからも色々あったに
違いないが、おそらく入学する前から陽乃はああだったはずだ。それ
までに培ってきたものを才能の一言で片付けるのは抵抗があるが、陽
乃が陽乃であることの最大の要因はおそらく、生まれ持った感性であ
る。
陽乃個人の能力や置かれていた環境は、他人に真似できるものでは
ない。今から陽乃になるというのであれば、よほど劇的な環境に身を
置かない限りは不可能だ。一年の時点でこれでは、卒業するまで頑
張っても陽乃の影も踏めないだろう。
﹂
﹁⋮⋮見た目は良いみたいだから、頑張れば何とかなるんじゃね﹂
﹁雑過ぎません
﹁じゃあな。忙しいところ悪かった﹂
決めた。
い。陽乃を目指すといういろはに、八幡はなるべく関わるまいと心に
できれば一生お目にかかりたいものだが、万が一がないとは限らな
ころ遭遇していない。
もぞっとするが、幸いにも陽乃とキャラが被るような人間には今のと
とは思えない。全力で相手を潰しにかかる陽乃など想像するだけで
より自分と似たような存在が近くにいることを、あの陽乃が許容する
濃い人間が他にもいたら、周囲にいる人間はそれだけで疲れるし、何
めぐりも雪乃も、この意見には賛成してくれるだろう。あんな内面の
要 約 す る な ら ば そ の 一 言 に 尽 き る。雪 ノ 下 陽 乃 は 一 人 で 十 分 だ。
﹁陽乃が増えても俺に良いことないからな﹂
!?
﹁はっちゃんなら別に良いよ。他校との交流のことは、こっちでも調
べておくから﹂
﹁頼む﹂
52
?
﹁ちょ、せんぱ││﹂
何か言っている後輩を気にもせず、八幡は足早に執行部室を出て行
き、ドアを閉めた。
53
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
八幡にしては珍しく気合を入れて望んだ月曜日。ジャージに着替
え自前のラケットを持ち、雪乃、姫菜と一緒にやってきたテニスコー
トは、思っていた以上に綺麗に整備されていた。彩加以外に部活に顔
を出している人間はいないというのが事実であるなら、当然、この整
備をしているのも彩加一人ということになる。
新しい部員はいつやってくるか解らないし、最悪来ないかもしれな
い。練習も満足にできない環境で一人黙々とコートやボールの清掃
整備を続けられる気持ちの強さは見上げたものだと心の底から思う
八幡だったが、部活でスポーツに打ち込んだことなどない彼はは彩加
の行動に尊敬の念を覚えると同時に引いていた。
自分とは明らかに人間が違う。八幡の隣にはジャージに着替えた
姫菜がいたが、彼女もコートを見た瞬間、
﹃うわー⋮⋮﹄という声を挙
げた。姫菜ももう少し寂れた風景を想像していたのだろう。それが
思っていた以上に綺麗だったものだから、八幡と同じ感想を抱いたの
だ。
顔を見合わせた八幡と姫菜は、隣にいる人間が自分と同じ感想を抱
いたことにそっと安堵の溜息を漏らした。普通とは違う感性をして
いると自覚していて、それを受け入れていても、たまにはマイノリ
ティになるのが怖いこともあるのだ。
そんな中、見た目と性格に反して内面は意外にも熱血系だったらし
い雪乃は、きちんと整備されたコートを見て、満足そうに頷いた。
﹁一人しかいないのに、ちゃんと整備しているのね﹂
﹁筋トレにもなるかなって。テニスの整備や清掃って、結構重労働だ
から﹂
えへへ、と笑う彩加は天使のように愛らしかったが、テニスの腕は
ともかくとして、それほど筋肉がついているようには見えなかった。
女性のスタイルと一緒で着やせする、ということもありえない話では
ないものの、ジャージを脱いだ彩加が細マッチョだったら、それはそ
れで残念に思う。
54
﹂
想像だにしなかった美少女のよ
﹁私は実は細マッチョに一票入れたいですねー﹂
﹁やめてくれよ誰得だよ﹂
﹁もちろん私と八幡先輩にですが
うな美少年の力強さに、恐怖と共に興奮を覚えたりしません
﹁今お前の発想と視線に恐怖を覚えてるよ﹂
﹁そのうちその恐怖が快感に変わりますよ。そうなったら是非知らせ
てください﹂
﹁ならねーし、なっても教えねーよ﹂
野球部にサッカー部。沢山部員のいる部活がフェンスの向こうで
汗を流し、青春の声を挙げている中、部員一人と部外者三人の練習は
始まった。
基本的には雪乃が球を出し、彩加がそれを追い、八幡と姫菜がボー
ルを拾うという役割分担となった。雪乃が球出しを買って出たこと
に驚いた八幡だったが、前後左右、スパルタンに彩加を動かす様を見
て、雪乃の中にあるスポ根魂とドSの精神に火が点いたのだと理解し
た。
ボールを拾いながら、彩加の動きを観察する。フォームは悪くな
い。こうあるべしという理想の形に近づけるよう、日々練習をしてい
るのが良く解る。動きもそれなりだ。基礎練習の反復をしている証
拠だろう。一人でこれだけできるのだから、まともな練習環境、面倒
をみてくれる先輩や指導者、一緒に雑用をやる同級生がいればもっと
伸びたに違いないのだが、いかんせん、彩加は一人だった。
それに他にも問題はある。雪乃のボールを受けて五分ほど経つと、
彩加の息は上がり始めた。運動部にしては体力が少ない。雑用とラ
ケットを持った基礎練習だけで、走りこみの時間まで取れないのだろ
う。他のことができていても、最後までそれを実行できるだけの体力
がなければ宝の持ち腐れである。
十分ほどでコートに倒れ込んだ彩加を見て、雪乃は休憩を提案し
た。彼女からすれば実に物足りない結果だろうが、彩加の体力が足り
﹂
55
?
?
ないのは誰が見ても明らかだった。
﹁戸塚、大丈夫か
?
﹁あ⋮⋮ありがとうございます、せんぱい⋮⋮﹂
彩加の手を取り、引っ張り上げる。小さい女子のような手だが、ラ
ケットのタコの固さが残るスポーツマンの手。その固さは線の細い
あの人と軽井沢
印象の彩加には似つかわしくない感触だったが、それも努力の証だと
思うと素直に彼を尊敬することができた。
﹂
﹁ところで比企谷くん。貴方テニスはできないの
まで行ってたでしょう
﹃静ちゃん、うっさい
﹄
ないんだろう。かわいいところもあると思わないか
﹂
﹃負けたくらいで拗ねる人間だと、狭量なところをお前に見られたく
笑いながらこっそりと八幡に近寄り、耳打ちをする。
その時の勝負に付き合っていた最後の一人である静が、にやにやと
答えは勝負の当事者以外のところから齎された。
もしてこないというのは逆に八幡の恐怖を煽ったが、その不可思議の
に報復をしてくるのが雪ノ下陽乃という人間である。その陽乃が何
とだった。基本的に、陽乃は我慢をしない。機嫌が悪いとなれば即座
能を持っている。こういう、解りやすい反応をされるのは初めてのこ
幡にも解ったが、内心を悟らせないことにおいて、陽乃は天才的な才
してしばらく視線も合わせなかった。機嫌を悪くしたというのは八
その時の陽乃はまず信じられない、という顔をし、そして顔を逸ら
あ酷いもんだったぞ﹂
﹁負けることが大嫌いなんだろ。うっかり勝っちまった時は、そりゃ
叩き潰すのが、何より大好きな人だから﹂
﹁そんなに落ち込むことはないわ。あの人は勝負を挑んでくる人間を
を浮かべた。
才能がないんだな、と嘆息する八幡に、雪乃は珍しく同情的な表情
1ゲームも取ったことがない﹂
﹁行ったが、テニスはてんでダメだな。陽乃はもちろん、誰とやっても
?
く勝負を挑まれた訳だが、今度は万が一にも負けないと本気モードに
ツバッグを、静は笑いながらひらりと避けた。その後、恥辱を雪ぐべ
その言葉を耳ざとく聴きつけた陽乃が思い切り放り投げたスポー
?
56
?
!
なった陽乃に、八幡は手も足も出ずに完敗した。それで陽乃は溜飲を
﹂
下げいつものように振舞うようになったが、その日、八幡は改めて陽
乃の勝負事に対する姿勢を知った。
﹁貴方⋮⋮姉さんに勝ったことがあるの
﹁数える程だけどな。ゴルフとかボーリングとか、直接妨害されない
種目だと意外と勝てると思うぞ﹂
それでも本気を出されるとどうしようもないのだが、それは言わな
いでおく。
基本的に何でもできる陽乃に勝つには、その道に打ち込んでいる才
能ある人間を連れてくるしかないが、陽乃派そういう人間と相対する
ような状況に追い込まれないよう、器用に立ち回る。勝てる勝負しか
しないのではなく、陽乃が勝負に出る時はもう、勝てる算段がついた
時なのだ。ある日の八幡の勝利も偶然と幸運の産物である。決して
八幡の実力で勝った訳ではないのだが、雪乃にはそれが自慢の一種と
思えたらしい。
雪乃は一瞬、憮然とした表情を浮かべると、すぐにその表情を引っ
込め、八幡から視線を逸らした。
何があったんだろう、とその背中を見ながら首を傾げていると、あ
の日の静と同じ笑みを浮かべた姫菜が寄って来て、やはり彼女と同じ
ようにそっと耳打ちした。
﹁雪乃くん、あれでお姉ちゃんが大好きみたいですから。八幡先輩相
﹂
手とは言え、負けたことがあるっていうのが気に食わなかったんじゃ
ありません
ボールを、姫菜は笑いながら回避した。陽乃は少なくとも八幡に対し
て、妹を好いていることを隠したことはないが、雪乃が陽乃を好きだ
と言っているのは聞いたことがない。複雑な感情を持っているのは
誰が見ても解ることだが、その感情の向こうに屈折した愛情を持って
いることを、八幡は見抜いていた。
それを姫菜のように﹃大好き﹄と表現するのは抵抗があるが、好意
があるのは間違いがない。目の腐った八幡をして実に屈折した姉妹
57
?
そ の 言 葉 が 聞 え て い た の だ ろ う。鋭 い 角 度 で 飛 ん で き た テ ニ ス
?
愛だと思わずにはいられないが、それが逆に、雪乃らしいとも言えた。
あの陽乃の妹が、解り易い愛情表現をするはずもない。
﹁せんぱい﹂
気持ちを落ち着けるためにコートから離れた雪乃と入れ替わるよ
うに、体力も回復し手の空いた彩加がぱたぱたと足音を立てて寄って
くる。ラケットを抱え、もじもじとする仕草はその辺の女子などより
も格段に可愛らしい。
﹁良ければ、アドバイスが欲しいんですけど⋮⋮﹂
﹂
﹁前にも言ったが俺は素人だぞ テニスを上手くなりたいって戸塚
の野望には、貢献できないと思うが﹂
﹁それでも、聞きたいです。何かありませんか
雪乃様に走らされた後だからか、彩加の頬は紅潮していた。目も僅
かに潤んでいて、身長差から上目遣いになっている。これを狙って
やっているのだったらまさに悪女であるが、天然だとしたら更に性質
が悪い。そんな彩加の仕草を見て、八幡は疑問に思った。彼女、いや
彼はこれまで男性の中で生きてきて身の危険を感じたことはないの
だろうか。陽乃という決まった相手がいる八幡は、間違っても間違い
を起こさない自信があったが、この仕草この表情この声には、同性を
惑わす力がある。これでは同級生の男子は大変だろうな、と心中で彼
らに同情しながら、八幡は先ほどから思っていたことを提案してみ
た。
﹁⋮⋮そうだな。これは俺が言うまでもないことだと思うが、体力作
りをもう少しやった方が良いと思うぞ。走りこみとかしてないだろ
﹂
申し訳なさそうな彩加の声に逆に八幡の方が申し訳なくなったが、
時間が取れないというのは本当だろう。彩加一人とは言えボールと
コートを使って練習するのだから、そのメンテナンスにも多くの時間
を取られるのは間違いない。いっそボールもコートも諦めて、基礎体
力を作ることに専念すれば十分な時間も取れるのだろうが、明確な目
標を定められない状況で、一人筋トレ走りこみを続けるのはよほどメ
58
?
?
﹁部活内だと時間がとれなくて⋮⋮﹂
?
ンタルが強くないとできることではない。一人でも彩加が部活を続
けていられるのは、コートとボールを独占できたことが大きい。
ともあれ、技術の向上を求めるならば、体力作りは避けては通れな
い道だ。部活内で時間が取れない以上、部活外でその時間を捻出する
しかない。
﹂
﹁休みの日でも良ければ、走りこみくらいなら付き合うが、どうする
﹂
﹁ほんとですかっ
そ
二人と一緒な
﹁目を輝かせてるところ悪いが、走りこみに付き合うだけだぞ
れ以外の意味はないからな、特に海老名﹂
﹂
﹁そんなことより八幡先輩、私も走って良いですか
らどこまででも走っていけそうな気がします
﹁来るっつーのを止める気はないが⋮⋮﹂
﹂
に気づいていないかのように、姫菜の案に同調する。
﹁いいですよ。皆でやろう
どうする
﹂
﹁適当にな。そういう訳で休みに走ることになったんだが、雪ノ下は
﹁やった。八幡先輩、おいしいの期待してますからね
﹂
八幡の提案した休みの日というのはその外になる訳だが、彩加はそれ
あるから、当然、決定権の彼にある。彼が区切った期限は金曜日まで。
幡であるが、ランニングをしよう、というイベントのメインは彩加で
確認の意味を込めて、八幡は彩加を見た。この場で一番の年長は八
?
?
?
きではあるがOKを出した。雪乃にしてはかなりの譲歩である。思
のだろうが、雪乃は一瞬も逡巡することなく、今回だけという条件付
音を言えばランニングなど面倒くさくて仕方がないというところな
からしても、自発的に走ろうというタイプでないのは見て取れる。本
れる。それは見る人間によっては﹃不健康﹄にも見える白さだ。性格
雪乃の肌ははっとする程に白く、普段外に出ていないことは見て取
もあった。
微妙に曖昧な返事は、継続して付き合う気はないという意思表示で
﹁今週末、ということであればとりあえずは良いけれど⋮⋮﹂
?
59
!
?
!?
?
いも寄らなかった付き合いの良さに苦笑を浮かべつつ、八幡はこの場
にいない最後の部員のことを思いだした。
﹁由比ヶ浜にも声をかけないとな。あいつも運動得意そうには見えな
いが﹂
﹁皆がやるって言ってる上に休みを使うなら、喜んでくると思います
よ﹂
﹁それは良いことね﹂
雪乃の言葉に、八幡も頷く。結衣は活動に参加できないことを大層
気に病んでいるようだった。ただ走るだけでも一緒にやれば、少しは
﹂
気も晴れるだろう。見た目通りの運動神経だとしても、犬の散歩のつ
いでと思えばランニングもそれほど苦にはなるまい。
﹁それでは、今週末は皆でランニングということで良いのね
﹂
ちょっと待っててください﹂
を教えてもらえるか
﹁そうだな。戸塚、お前と連絡取れるようにしておきたいんだが、番号
?
﹁ヒッキー先輩
﹂
見覚えのある人間が息を切らせて飛び込んできた。
彩加が自分のバッグに駆けて行こうとしたその時、テニスコートに
﹁はい
?
﹁⋮⋮優美子
﹂
ている仲間の違和感の正体に、最初に気づいたのは姫菜だった。
ように見える。よほど急いできたのだろう。ぜーぜーと息を切らせ
はずだが、予定が変わったのだろうか。それにしては切羽詰っている
ジャージ姿の結衣である。今日は予定が入っていると言っていた
!
いる人間を勝手に行動させると、何をするか解ったものではない。取
部活に勧誘したあの日と同じ、ロクデナシの目だ。こういう目をして
いることに、心を痛めているのだ。姫菜の目が、危険な感じに細まる。
持ってきた依頼である。それが自分の力不足で妨げられようとして
そ こ で 結 衣 は 黙 り 込 ん で し ま っ た。テ ニ ス 部 の 手 伝 い は 結 衣 が
らせなきゃって思って一人で先に来たんだけど││﹂
んだけど、私一人じゃ止められなくて、せめてヒッキー先輩たちに知
﹁そう。これからここで、テニスやりたいって。今準備してるとこな
?
60
!
り返しのつかないことをしでかす前に、思う通りに誘導する必要があ
る。
﹂
姫菜の機先を制するように、八幡は彼女に問うた。 ﹁二人でなら説得できるか
部員増えるかもしれませ
﹁無理だと思います。私と結衣でテニス部に協力するって聞いて、興
味を持ったみたいですから﹂
﹁でも、見学するくらいならOKですよ
んし﹂
そのユミコさんは、見るだけじゃなく
﹁お前らのグループって全部で何人だ
﹂
て、八幡は考える。まずは、相手の戦力を分析することだ。
するべきは、それだった。焦る結衣と暗く淀んだ姫菜の視線を受け
彩加を立てて、姫菜たちの問題も解決する。奉仕部が、比企谷八幡が
谷八幡は雪ノ下陽乃ではないが、その思想は身体に染みこんでいた。
だ。欲しい物は全て手にするのが、雪ノ下陽乃のやり方である。比企
くなる。何かを得るために何かを完全に切り捨てるなど、二流の証拠
だが、優先すべきを優先したら彩加の依頼を完遂することができな
を別にすれば、どちらを優先すべきかは考えるまでもない。
が、結衣と姫菜はこれからも同じ部活に残るのである。個人的な感情
ある彩加との関係は、悪く言ってしまえば依頼が終わればそれまでだ
ラスのグループに馴染めなくなるのも避けたいところだ。依頼主で
あった。依頼主の意向であるならこれは尊重したいが、部活仲間がク
言葉にこそしなかったが彩加の顔には﹃それは嫌だ﹄と顔に書いて
﹁それは⋮⋮その⋮⋮﹂
ね﹂
て参加するつもりのようよ。私見だけれど、冷やかしの可能性が大
﹁準備をしてたんでしょう
?
﹁察しの通りよ。父の会社の顧問弁護士のご子息ね。一応、私の昔馴
せ、雪乃に視線を向けた。雪乃は苦々しい顔をしながら、小さく頷く。
姫菜の挙げていく名前の一つに、聞き覚えのあった八幡は眉根を寄
日は部活休みみたいですね。名前は││﹂
﹁私達も含めて女子が三人と男子四人です。男子は皆サッカー部。今
?
61
?
?
染みでもあるわ﹂
﹂
﹁雪ノ下のご令嬢らしいハイソな交友関係だな。それで、葉山某のテ
ニスの腕ってのはどんなもんだ
﹂
﹁最終的に叩き出すのは当然だが、煽りに煽って練習相手になっても
自由になった八幡は、居並んだ一年生たちを見回して、宣言する。
毒気を抜かれた雪乃は思わず彼の襟首から手を離してしまった。
た。姉ではないという贔屓目のなせる業かもしれないが、その笑みに
雪乃は好きではなかったが、八幡の微笑みはどこか親しみを感じさせ
だった。姉の人を人と思っていないかのような、ロクデナシの笑みが
それは妹である雪乃をして、陽乃に通ずると感じさせるほどのもの
得ることができた彼は喜びのあまり邪悪に笑っていた。
謀のようなものを巡らせることもなかったが、久しぶりにその機会を
し、執行部からも離れて久しい故に、かつてのご主人様にならって策
雪乃に襟首を掴まれながら、八幡はにやりと笑った。陽乃が卒業
﹁悪かった。ただこれで方針は固まったぞ﹂
つもりでいなさい﹂
﹁次にそんなふざけた呼び方をしたら、ただでは済まさないからその
姉妹である。
に視線に、八幡は歪んだ快感を覚えていた。性格は違っても、やはり
線には、人をたじろがせるには十分な迫力が篭っていた。そんな雪乃
力を込めてもそれは高が知れていたが、見た物を凍てつかせる氷の視
とも、身長は八幡の方が高く体重も同様である。非力な雪乃が渾身の
語気を強めた雪乃は八幡に詰め寄り、その胸倉を掴み挙げた。もっ
﹁誰に物を言っているのかしら。それよりも││﹂
﹁勝てるか
ては、上手い方ではないかしら。少なくとも、平均よりは大分上よ﹂
﹁中学の時に対戦したきりだけれど、誰かに師事した訳ではないにし
?
らってから、お引取りいただく。葉山某に恨みはないが、精々テニス
部の礎となってもらおう﹂
62
?
﹂
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
﹁対戦
﹁そうだ。そっち全員とこっち全員でダブルスだ﹂
﹁別にあーしらがそれを受ける必要は││﹂
﹁いやなら﹃正式な﹄コートの使用許可と校則を盾に、お前らを叩き出
すまでだ。それでもテニスがしたいってんなら、そこはもう俺の知っ
たことじゃない。どうぞ他の場所を探してくれ﹂
取り付く島もない八幡の物言いに、優美子は苛立たしげに押し黙っ
た。彼女はここのテニス部を見たかったのであって、テニスがしたい
訳ではない。本音を言えばテニスそのものすら二の次だった。結衣
や姫菜とおもしろおかしく遊ぶことができればそれで良かったのだ
が、八幡はあくまで﹃部活にまぜてやる﹄という姿勢を崩さなかった。
何故お前が⋮⋮と思った優美子だったが、耳ざとい彼女は目の前にい
るのが何処の誰かということを、良く知っていた。
比企谷八幡。現生徒会長である城廻めぐりとともに、先代の会長雪
ノ下陽乃の政権を支えた人間だ。唯我独尊で知られた陽乃に対する
忠犬っぷりから﹃女王様の犬﹄とも呼ばれる男である。生徒会活動に
一年も関わっていた男だ。普通の生徒ならば校則などほとんど知ら
ないだろうが、彼ならば校則に精通していても不思議ではない。そん
な人間を相手に、生徒手帳など一度も開いたことのない優美子は、太
刀打ちすることはできなかった。
だが、葉山隼人はそうではなかった。将来弁護士になるつもりの彼
は生徒手帳も熟読し、校則にも精通している。いつかやりあうことが
あ る か も と 思 っ て 部 活 に 関 す る 規 則 も し っ か り と 読 み 込 ん で い た。
それによると授業以外で学校の施設を使うためには、校庭ならば校庭
の、テニスコートならばテニスコートの使用許可が必要になる。校庭
などの広い場所の場合はそれ全体ではなく、半分とか四分の一とかエ
リアを区切って許可が出されるのだがそれはさておき、それら運動部
が使用する場所については、そこを使用する部が持ち回り、あるいは
場所固定で終日、かつ恒常的に許可を得ているのが普通だ。
63
?
総武高校の場合、校庭ならば野球部、サッカー部、陸上部といった
具合だが、テニスにしか使えないテニスコートについては、基本的に
テニス部が校庭と同様の使用許可を得ているはずで、これは八幡の言
う通り学校が認めた正式なものだ。
そしてこの手の許可は、他の全ての生徒の都合よりも優先される。
それを無視して行動した場合、校則違反として処罰の対象になる可能
性があった。まさかいきなり停学などという重い処分にはなるまい
が、サッカー部である隼人たちがそれを破るのは、運動部全体のパ
ワ ー バ ラ ン ス に 関 わ る 問 題 に な っ て く る。野 球 部 も サ ッ カ ー 部 も、
もっと広いスペースを使いたいと常々思っているし、スペースについ
ての争いは使用許可が厳密に区切られている現在でも後を断たない
状況だ。
ここで隼人たちがそれを無視した、という話が広まるとサッカー部
以外の他の部から突き上げられかねない。最悪使用スペースの削減
ら、隼人は考えた。
隼人の父は弁護士事務所を開いている。県下でも有数の企業であ
る雪ノ下建設の顧問弁護士をしており、社長である雪乃や陽乃の父と
も親しい。それ故に、雪ノ下家の個人的な案件を請け負うこともあっ
た。雪乃の乗ったリムジンが八幡を轢いた際の示談交渉を請け負っ
たのは、記憶に新しい。
64
などという事態に陥ることも考えれば、ここで八幡の提案を突っぱね
るのは得策ではない。
﹂
これは従っておいた方が良さそうだ。そう判断した隼人は、八幡の
提案を受け入れることにした。 ﹁テニスコートを使わせてもらえるってことで良いんですよね
﹂
いてるからって俺らがキックターゲットで遊んでたらムカつくだろ
にしてくれ。少数でも一応部活なんでな。サッカー部だって、半面空
﹁俺達の相手をするならな。それから、いきなり来るのはこれっきり
?
例え話に大笑いする三人を冷めた視線で眺めている八幡を見なが
﹁俺なら練習サボってそっち行くかも﹂
?
その時、彼が陽乃の恋人であるということを知った。隼人自身は彼
に縁がないこともあって見舞いにはいかなかったが、あの陽乃が毎日
病院に顔を出し、献身的になっていたと聞いた時には耳を疑った。
あの陽乃にそんな人間らしい面があるなど、誰が信じられるだろう
か。何より驚いたのは陽乃がそうであることよりも、彼女に恋人がい
て、それが学校の後輩ということだった。学校でもプライベートでも
﹃あの﹄陽乃と一緒にいて、これからも一緒にいたいと思える人間。
きっと菩薩のように心が広い人間か、陽乃と同じように人格が破綻し
ているかのどちらかだ。勝手にそう予測していたのだが今日初めて
相対して、後者の方がより近いと理解した。陽乃とはまた方向性が違
うが、彼は陽乃の同類である。
深く淀んだ目からは、言い知れないプレッシャーを感じる。陽乃よ
りは控えめだが、致死量を超えた毒ならばそれがどういう種類の毒か
は関係がない。これを覆すのは自分では力不足だ。それを悟った隼
65
人は、八幡の提案を今度こそ全面的に飲むことにした。
﹁解りました。それでお願いします﹂
と戸部たちがその言葉に食いつく。
﹁おうよ。その代わり勝ったらその分だけ残り続けて良いぞ﹂
マジで
姫菜を向こう、結衣をこちらとすると、数の有利は自分たちにある
を引き締めた。簡単には負けられない。
明らかにそう思っていなかった。軽い主義の対立に、隼人は密かに気
くの場合に好評で、今回もそうであると楽観していたのだが、八幡は
ていなかった。皆で楽しく、というのが隼人の流儀である。それは多
歓迎されないということも勿論考えてはいたが、ここまでとは思っ
たまにはテニスをするのも良いと思ったからだ。
衣と姫菜がどういう部活に顔を出しているのか気になってはいたし、
行こうと言い出したのは優美子で、隼人はそれに賛成しただけだ。結
話もどんどん大きくなってきている。元々テニス部の様子を見に
れには気づいていないようだ。
には特に話し合いもせずに勝手に条件を追加されただけなのだが、そ
彼らにはそれが、とても太っ腹で良い条件に思えたのだろう。実際
!?
が、その利を活かせるのが全員が一定以上の腕を持っている場合だけ
だ。隼人以外の男子三人は、ボールを前に飛ばせるレベルの腕であ
り、運動そのものが得意ではない結衣も、気持ちは大分あちらに傾い
ている。仮に得意であったとしても、善人で情が強い結衣は、こうい
うグループ同士が対立する構図では十分に実力を発揮できない。戦
力としてカウントできるのは、自分と優美子の二人だけだ。そう隼人
が考えをまとめる直前に、八幡はさり気ないタイミングで、話を進め
ていた。
﹂
﹁じゃ、ローテでやろうぜ。最初、俺らは戸塚と海老名が入る﹂
﹁隼人くん、最初に俺、俺やりたいんだけど
力強い戸部の主張に、隼人は陰鬱な気分で頷いた。経験者二人で押
し切り、時間を稼ぐことはできなくなった。腕で劣る人間が入ればそ
の分勝率が下がる。頭数で劣るが経験者が多そうなあちらは、腕に劣
る人間を参加させることで勝率を上げようとしているのだろう。一
回以上付き合うつもりはないという、八幡の強い意志を感じる。
ならばそれに抵抗するまで。
どうすればこの状況を打破できるか、考えをめぐらせている隼人を
横 目 に 見 な が ら、八 幡 は 自 分 の 企 み が 半 ば 成 功 し た こ と を 悟 っ た。
ルールの細かい設定を彩加に任せ日陰のベンチに下がると、やりとり
を眺めていた雪乃が話しかけてくる。
﹁貴方の予想の通りになったわね﹂
﹁そうだな﹂
ダブルス、ローテーション。こちらが飲ませた条件はそれだけだ。
コートがあり、道具も揃っている。他に決めなければならないこと
は、それ程多くはない。こちらは姫菜と彩加が出て、あちらは男子二
人が出てくる。二人ずつ出るのであれば、残り二つのチーム構成は、
結衣と残りの男子、隼人と優美子というペアで決まりだ。
そうこうしている内に、最初のゲームが始まる。彩加が現役のテニ
ス部員という有利はあるが、相棒の姫菜はボールを前に飛ばせるレベ
ルの腕である。対する男子二人は姫菜と同じレベルであるが、現役の
サッカー部男子故に、体力と腕力では分があった。結果、二組の実力
66
!
は均衡し、一進一退の攻防を繰り広げることとなった。
あくまでレクリエーションの域を出ないやり取りに、表面上は和や
かな空気となっていたが、相手方のベンチでは隼人と優美子が入念な
打ち合わせをしていた。明らかに勝ちにきている。
それも狙い通りだ。依頼内容は彩加の能力の向上であって、遊びに
きた素人集団を叩き潰すことではない、奉仕部的にはこの勝負、勝と
うが負けようがどちらでも構わないのだ。あの二人相手ならば、彩加
も良い経験になるだろう。これからもふらっと現れるようになれば
問題だが、それについては八幡が釘を差した。
遠まわしではあるが、部活中に迷惑だと伝えたのだ。優美子はどう
か知らないが、同じく運動部に所属する隼人は運動部の暗黙の了解を
無視することはできない。仮に今日と同じ流れになったとしても、そ
の時は彼が止めに入るだろう。集団の核はあの二人だが、精神的には
対等とは言えない。隼人が反対すれば、優美子はきっとそれに従うと
67
いう確信が八幡にはあった。この問題はそれで良い。
この勝負に勝つ、というのは奉仕部というよりも八幡や雪乃の個人
的な理由だったが、八幡にとってはここからが難しかった。向こうの
へっぽこを引きずりだすために、ダブルスでローテというルールを持
ち出したが、こちらは姫菜が戦力にならず彩加もテニス部にしては体
力が少ない。雪乃はテニスの腕は期待できるが、体力については彩加
以下ということが推測できた。
この面子で確実に勝利を得るならば、隼人と優美子のペアが出てく
る前に確定的なリードを得ることだが、人数で劣るこちらは各々の負
担があちら以上だ。特に男子四人はサッカー部で、体力に自信がある
のが見て取れた。少なくともこの点においては、テニス奉仕部連合に
勝ち目はないだろう。
勝つためには一瞬の油断もできない。それを良く理解していた雪
﹂
乃のコートを見る目は、今まで見たこともないくらいに真剣だった。
﹁戸塚くんは、固定なのよね
を決めてほしいところだが⋮⋮﹂
﹁そうなるな。次は海老名とお前で入れ替えだ。できればこれで勝負
?
﹁善処はするわ。でも期待はしないで﹂
自分の腕に絶対の自信があっても、勝負を決めきる体力がないこと
は雪乃本人が良く知っていた。一気に勝負を決めるつもりで畳み掛
けたとしても、決めきる前に力尽きることは目に見えている。せめて
彩加が固定でなければまた話も違っていたのだろうが、奉仕部の仕事
は彩加のテニスの腕を向上させることであって、この勝負に勝つこと
ではない。そもそもこの勝負は偶発的なものだ。部活のルールを持
ち出した以上、自分たちがそれを侵す訳にはいかない。
雪乃の態度には苛立ちが見えた。自分で決め切れない以上、勝負が
次のセットに流れると思っているのだ。彩加が経験を詰めるのだか
ら、それはそれで奉仕部本来の目的と合致してはいるが、誰だって負
けるのは悔しい。雪乃は特に負けず嫌いであり、八幡もそれに大いに
同調した。
この場で最も真摯に勝利したいと願っているのは間違いなく雪乃
だ。自分で勝ちきれないことを予感した彼女は非常に苛立っており、
それは隣に立つ八幡にも伝わる程だった。無言で佇んでいるだけな
のに、この迫力なのだから溜まらない。性質は大きく違っても、やは
り雪乃は陽乃の妹だ。
八幡が俯き、にやつきそうになるのを堪えていると、コートでプレ
イ中の姫菜が手を挙げた。
体力の限界だ。へとへとになってコートから出てくる姫菜と入れ
替わり、コートに入る雪乃の背中には昔のスポ根物のような炎が燃え
ていた。これで勝負が決まってくれるのならば本当に楽なのだが、そ
う上手く話は転がらない。雪乃の体力が尽きる可能性は高く、そうな
れば自分に出番が回ってくる。自分の出番を半ば確信した八幡は、ベ
ンチから立ち上がってストレッチを始めた。
雪乃の猛攻に相手もペアを交代する。二組目は大柄な男子と、結衣
のペアだ。結衣は一応、奉仕部の内通者、ということになるのだろう。
あくまで無理のない範囲で協力してくれるだけで構わないと説明し
た。授業以外でテニスをしたことがなく、加えて運動もそれ程得意で
はないという彼女では、不自然でない程度に八百長するのは無理だ。
68
下手に何かされて話がややこしくなっても困る。八幡としては遠ま
わしに﹃何もするな﹄と言ったつもりだったのだが、その真意は結衣
には伝わっていなかった。
奉仕部と友人のために役に立とうとしているのは、八幡にも理解で
きる。彼女なりに何かしようと考えた結果、とにかく時間を稼げばと
思ったのだろう。何から何までもたもた行動する結衣は実にいじら
しかったが、雪乃にとってそれは逆効果も良い所だった。きっちりと
休む時間を貰えるならば助けにもなっただろうが、結衣が稼げるくら
いの時間ではそれも高が知れている。
テンポ良く進まないゲームに雪乃は苛立ち、それ故に体力を予定よ
りも早く消耗していたが、皆のためと必死になっている結衣は普段な
らば真っ先に気づいていたはずの雪乃の変化にも気づかなかった。
善意が空回りする好例を横目に見ながら、ストレッチを終えた八幡
はベンチに腰を下ろした。その横に、姫菜がつつ、と距離を詰めてく
談なのかと疑ったが、メガネの奥にある姫菜の澄んで淀んだ目には、
冗談の色は欠片もなかった。
本気ならばなお悪い。八幡は内心の呆れを隠そうともせず、胡乱な
目つきで姫菜を見た。陽乃がかつて﹃死んだ魚のような目﹄と評した
目にかつてあった卑屈な色はなく、その代わりに陽乃から感染したあ
る種の自信が漲っていた。その自信と生来の淀みの融合は言い知れ
ない迫力を生み出しており、見つめた人間に威圧感を与える程になっ
ていたのだが、同じく内面が歪んでいる姫菜にとって、そんなものは
何処吹く風だった。むしろ、その威圧感を身体に感じ、嬉しそうに身
震いしている。
そんな姫菜を見て、八幡は深々と溜息を漏らした。彼も自分が普通
69
る。眼前の試合にはまるで興味がないらしい姫菜は、ストレッチで軽
﹂
私はほら、メガネキャ
く汗をかいた八幡の顔をしげしげと眺めていた。
﹁何だ。何か用か
﹁⋮⋮八幡先輩、メガネとかかけてみません
﹂
?
自他共に友達がいないと見とめている八幡は、それが姫菜なりの冗
ラですから、色々と見繕ってあげられますよ
?
?
の感性をしていないと自覚していたが、姫菜も相当なものだと改めて
実感したのだ。これ以上見ていても、姫菜を喜ばせるだけである。も
う係わり合いになるまいと試合に視線を戻しても、姫菜はずっと八幡
を見続けていた。話が決着するまで諦めないという、姫菜の強い意思
を感じた八幡は、ついに根負けした。
﹁⋮⋮俺は別に目は悪くない﹂
﹁いやー、八幡先輩は絶対鬼畜メガネの才能があると思うんですよね。
メガネ越しの冷たい視線で隼人くんを見つめてくれたりすると、もう
最高って言うかー﹂
﹁俺はお前の腐った趣味に付き合うつもりもない﹂
何でもない風を装う八幡だったが、内心では少し驚きを覚えてい
た。何かの確信があった訳ではないのだろう。しかし、メガネという
のは地味に的を得ていた。先日陽乃と会ったとき、伊達メガネでもし
てみたらと勧められたばかりだった。そういう小癪なお洒落が肌に
70
合わない八幡は当然難色を示したのだが、彼女が提案をしたのならば
即ち、それは決定事項だ。女王様の意思の前に、犬の趣味嗜好は問題
にならないのである。メガネは間違いなく、近いうちに一緒に買いに
行くことになるだろう。
陽乃にそう言われれば学校でもかけることにもなるだろうが、八幡
はその可能性は低いと見ていた。ドSな陽乃は犬が羞恥プレイに悶
える様を自分で鑑賞することを好む。逆に自分の見ていない所で勝
手に何かすることを激しく嫌う。むしろ学校ではかけるな、くらいの
ことは言いそうだと思った。姫菜の要望には応えつつも、しかし姫菜
はそれを知ることはできない。迂遠な意趣返しであるが、これはこれ
で気分も良い。
あーでもないこーでもないと提案してくる姫菜にそっけない態度
を取り続けていると、脈なしと判断した彼女は渋々と白旗を揚げた。
﹁⋮⋮残念です。八幡先輩に似合うと思うんですけどね、鬼畜メガネ﹂
﹁俺はメガネに詳しくないんだが、もしかして鬼畜メガネって種類の
﹂
そんなメガネあったら私大喜
!
?
すごい さいこー
!
メガネがあったりするのか
﹁八幡先輩
!
びですよ
﹂
やっぱりかけると鬼畜になるんですか
さいよ、そのメガネ
﹁気が向いたらな﹂
﹁ここから勝てる
﹂
かけてくだ
まったのは事実だ。雪乃は文句を言える立場ではない。
交代に不満はあるだろうが、ゲームを決めきれずにガス欠になってし
う。ベンチから八幡が交代を告げると、雪乃は素直にそれに従った。
ここから雪乃が逆転するという、少年漫画のような展開はないだろ
得点を重ねたはずだが、目を離していた隙に逆転されたようだ。
アを見れば、僅かにあちらがリードしていた。雪乃に変わって大きく
始めていた。あちらのチームは隼人と優美子に変わっている。スコ
姫菜の言葉にコートに視線を戻すと、雪乃の動きが目に見えて鈍り
﹁あ、雪乃くん、そろそろヤバイみたいですよ﹂
き合っていくコツである。
くないが、薄い本が厚くなるくらいは我慢するのが、姫菜と上手に付
ことは理解できた。余計なネタを提供してしまったようで気分が良
鼻息荒く詰め寄ってくる姫菜の態度に、そんなメガネは実在しない
!?
ば、八幡と条件は一緒だ。そういう相手に負けることを、陽乃は許し
ニスは苦手ではないようだが、得意ではない。そこだけを見るなら
れる可能性は微粒子レベルで存在する。だが彼はサッカー部だ。テ
隼人がバリバリのテニス部であるならば、陽乃でも目こぼししてく
だ。
だったが、目下の問題は彼女の機嫌や好感度ではなく、目の前の試合
と 距 離 を 取 っ て ベ ン チ に 走 っ た。後 輩 の 態 度 に 聊 か 傷 つ い た 八 幡
思わなかった。路肩の動物の糞を見るような目で八幡を見ると、ささ
雪乃の冗談に、八幡は冗談で返したが、雪乃の方はそれを冗談とは
れるね﹂
﹁それは良いな。その程度で良いって言うなら、俺は喜んで鞭で打た
﹁乗馬用の鞭で叩かれたりするのかしら﹂
となると、陽乃に何を言われるか解らないからな。死力は尽くす﹂
﹁善処はするが、期待はするな。だがまぁ、ここであの葉山某に負けた
?
71
!
!
てはくれない。彩加からの依頼があるなしに関わらず、勝負を受けた
﹂
以上比企谷八幡は勝たなければならないのだ。
﹁1ゲームも取ったことがないのよね
﹁テニスは陽乃としかやったことがないからな。授業でもやったが、
その時はボールと壁だけが友達だった﹂
陽乃と恋人なったことで八幡の視野は広がり能力的に大きく成長
したが、その事実は交友関係を広げたりはしなかった。高校に入って
からできた友人は同級生の中ではめぐりのみで、教師まで含めてよう
やく静が増えるくらいだ。片手で数えても十分に足りる。
そしてその中に、授業で一緒にテニスをやってくれる人間はいな
い。結果、体育で二人組なる時はいつも余る訳だが、中学生の時ほど
その環境に悲しさを覚えることはなかった。心が強くなった訳では
ない。心中に引かれた線が、より鮮明になったと言うべきだろうか。
何が大事で、何がそうではないか。はっきりと意識した八幡は、その
くらいでは悲しいとか寂しいとか思わなくなったのだ。
それだけ孤独な八幡であるから、テニスができるということはあま
り知られていない。知っているのは友人として数えられる二人と陽
乃。それから小町くらいのものである。実力がどの程度のものかは
八幡自身にも解っていないが、隼人は少なくとも陽乃よりは弱く、動
き も 単 調 で あ る。彼 女 に 比 べ れ ば ま だ 勝 て る 可 能 性 は あ る だ ろ う。
八幡は隼人の実力をある程度看破しているが、隼人はそうではない。
その情報の差も、優位に働くはずだ。
ケースから取り出したラケットには、流麗な文字で雪ノ下陽乃の名
前 が 刻 印 さ れ て い る。陽 乃 と し か テ ニ ス を し た こ と が な い 八 幡 が
持っている、唯一のラケットだ。
すれ違う時、八幡のラケットに姉の名前を見た雪乃は、不満そうに
眉根を寄せた。これは雪ノ下の家も姉の名前も関係なく、奉仕部とし
て自分たちが請け負った仕事だ。ここに姉の名前を出されるのは、自
分たちの仕事を横取りされたようで気分が悪いが、それを口にするの
はあまりにも狭量だ。何より八幡は陽乃の恋人で、あちらよりの人間
である。文句を言ったところで、聞きはしないだろう。
72
?
不満を燻らせた雪乃を他所に、八幡は雪ノ下陽乃の名前と共にコー
トに入る。彼を出迎えたのは、葉山隼人のきらきらとした笑顔だっ
た。人の黒々とした内面を見抜くことが得意な八幡をして、その笑顔
には裏が見えなかった。心の底から微笑んでいるのだろう。尊敬で
きる美徳であるが、波長が合う気は全くしない。
だが、それくらい合わない方が、割り切った友人付き合いができる
のかもしれない。事故の件で助けてもらったこともある。自分でも
意外なことに、八幡の隼人に対する評価はそんなに悪いものではな
かった。
﹁改めて、葉山隼人です。良いゲームをしましょう﹂
﹁比企谷八幡だ。俺が勝っても悪く思うなよ﹂
あくまで勝つつもりの八幡に、隼人は苦笑を浮かべる。勿論、隼人
も勝つつもりであるので、その言葉には答えない。よろしく、と短く
応えてパートナーのところに戻る隼人の背中を眺める八幡の隣に、彩
これに懲りたら、体力作り
73
加が駆け寄ってくる。
﹁せんぱい⋮⋮﹂
﹁あと1ゲームくらいは体力は持つな
はもっときちんとしろよ﹂
﹁がんばります﹂
込みは少ないが、付け入る隙はいくらでも見出すことができた。
テニス部であることを考慮に入れても、テニス奉仕部連合が勝てる見
て、中々の腕であり、二人とも間違いなく八幡よりも上手だ。彩加が
確かに隼人はテニスに強い。相方である優美子も経験者だけあっ
たように、サーブ権は奉仕テニス部連合にあった。
レークなしの1セットマッチ。つまり、これが最後のゲームだ。誂え
ラケットを握り、ボールを持つ。ゲームカウントは5│5。タイブ
ないということを思い知った。
で最も純粋に闘志を燃やしていた。八幡は改めて、人は見かけに寄ら
る。そこらの女子よりもよほど少女のようで愛らしい彩加が、この中
ない素人に声をかけてでも、テニスの上達を望んだだけのことはあ
疲れてはいるようだが、彩加もまだ集中は切れていなかった。関係
?
相手は陽乃ではない。そのことが、八幡の心を軽くしている。
必ず勝つ。八幡の心にも、炎が燃えていた。
74
ようやく、テニス対決は決着する
対角線上に優美子を見ながら、八幡はルールを確認する。
タイブレークなしの1セットマッチ。ゲームカウント5│5。1
5 │ 0 で リ ー ド さ れ て い る。状 況 は 芳 し く な い が 絶 望 的 で も な い。
要するにあちらが後3回得点するよりも先にこちらが4回得点すれ
ば良いのだ。
ラケットを弄びながら、呼吸を整える。相手二人はしばらく試合を
していた訳だが、優美子はともかく隼人が疲れているようには見えな
い。や は り サ ッ カ ー 部。体 力 に は 自 信 が あ る の だ ろ う。今 す ぐ ガ ス
欠ということにはなりそうになかった。それを期待するならば優美
子の方だが、こちらも見た目の割りに体力があるようだ。このゲーム
内くらいは持ちそうに見える。
対してこちらは、彩加の体力の消耗がかなり激しい。元々決して機
敏とは言えなかった動きも、更に精細を欠いている。荒い息を吐きな
がらもそれでも勝つために前を向く様は正に天使といった風だった
が、いくら見た目が可愛らしくても得点しなければ勝てない。テニス
に限らず、それが勝負というものだ。
精神を、集中させる。
テニスの腕では、相手二人に劣る。試合が長引けば長引くほど、不
利になるのは明白だった。奇策の連打で最短距離を走りきる。それ
が最も安全かつ確実に勝つ方法だが、果たして上手くハマってくれる
だろうか。
考えて、八幡は苦笑した。
手には陽乃の名前が刻印されたラケットがある。今この試合を見
ているはずもないが、こういう試合をしたことはいずれ彼女の耳にも
入るだろう。そこで惜しいところまで行きましたけど負けました、な
どと恐ろしい報告はしたくはない。それはそれでぞくぞくするが、負
けは負けなのだ。どうせならば負けた報告よりも勝った報告をした
い。
大 き く 息 を 吐 き、吸 う。ボ ー ル を 高 く 放 り 投 げ、八 幡 は サ ー ブ を
75
放った。
ボールは正面に││飛ばない。フレームに引っかかったボールは
大きく弧を描き、天空へとすっ飛んでいった。ホームランである。こ
のタイミング、この雰囲気でこういう﹃失敗﹄をするとは思っていな
かったのだろう。敵味方両方のベンチから、白けた空気が漂ってき
﹂
た。特にこちら側、雪乃の視線は刺すように鋭くそれが八幡の背筋を
震わせた。
﹁どんまいですよ、せんぱい
憮然とした表情で構えを解く八幡に、彩加が駆け寄ってくる。これ
だけ人間がいて、励ましてくれたのは彼だけだった。その優しさに涙
が出そうになるが、今はまだ試合中である。ここで鼻の下の一つも伸
ばせば、キモい先輩と引かれてしまうことだろう。天使のような存在
に、そうされることは避けたい。八幡は努めて表情を消し、小さく咳
払いを一つ。今すぐ﹃オチ﹄を暴露したい気持ちに駆られるのを押さ
えながら、数を数える。1、2、ああ、もう大丈夫だ。
﹁ありがとう戸塚。まぁ、言い訳するとテニスをするのも久しぶりな
んだ。サーブなんて特に苦手でな、こんな風に││﹂
八幡が指で差した先、隼人チームのコートにすとんと、軽い音を立
ててボールは落ちた。アウトでないことは誰の目にも明らかである。
背後にボールが落ちたことに優美子は気づくが、仕切りなおされるも
のだと思っていた彼女は、既に構えを解いてしまっている。今更気持
ちを切り替えて、捕球できるものでもない。呆然とする彼女の前で、
ボールは二度目のバウンドをした。つまりは、テニス奉仕部連合の得
点である。
﹁││こんな風に、どうにか狙ったところに飛ばすのが精一杯だ。と
りあえず、これで同点だな﹂
八幡の何でもない物言いに、何故か隼人サイドのベンチから歓声が
あがった。すげーと単純に興奮してるのは戸部で、もう一人は結衣で
ある。楽しそうで良いことだ。逆に隼人と優美子は渋い顔をしてい
た。特に優美子は射殺さんばかりの目で八幡を睨んでいる。サーブ
が狙い通りの所に落ちると確信した上で、相手を油断させるために構
76
!
えを解いたのだ。正々堂々としているかと言われれば否であるが、公
式試合ではないし明確なルール違反はない。対戦相手に責められる
筋合いはなかった。
サーブにおける奥の手をいきなり消費してしまったのは痛いが、レ
シーブは一球ずつ交代というのがダブルスの特徴である。運動神経
の良い優美子の次は、隼人の番だ。あちらの最強のプレーヤーであ
る。普通に一対一でテニスをするならば、百に一つくらいしか勝ち目
はない。
しかし、これはダブルスだ。
八幡一人で戦う訳ではなく、また隼人も彼一人で戦う訳ではない。
何を弱みとするかは人それぞれであるが、八幡は優美子のことをあち
らの﹃弱み﹄と見ていた。おそらく次も、優美子はこのサーブに対応
できないだろう。今現在の懸念は、隼人の前でこのサーブを見せてし
まったことである。
優美子よりも、彼の方がテニスは上手い。一度見ただけで対応でき
るものでは中々ないが、できる人間というのはできない人間が思いも
しないことをやってくるものである。隼人ならば返してくる。半ば
確信に近い思いで、八幡はボールをバウンドさせた。
二球目。八幡は同じサーブを打つことを選択した。
フレームに引っ掛け、天高くボールを打ち上げる。ほとんど同じ軌
道を描いているが、同じくらいの場所に落とせるとは限らない。打っ
た段階では、おそらくアウトにはならないだろう、くらいのことしか
八幡には解らない。
隼人ならばどうするだろうか。
彼は八幡がサーブを打った瞬間、空を見ずに大きく後ろに下がっ
た。コートのフェンスぎりぎりまで下がってから、空を見上げる。そ
れで落下地点は大体予測された。どういう意図をもって放たれるの
か解れば、対応は何もしないよりも格段に容易くなる。
これならば打ち返せる。隼人が確信に満ちた笑みを浮かべたこと
で、八幡は現実にその通りになると予感した。悪い予感は良く当た
る。
77
そして、彼がまっすぐ自分を見返していたことで、どう打ち返して
くるのかも予測できた。彼は裏をかくことを好まない。正々堂々と
真正面から戦うのである。勝ち負けよりも、隼人にとってはそれが重
要なのだ。自分は正しいことをしたと胸を張ることができ、彼は正し
いことをしたと万人に解ってもらえる。ある人には好まれるのだろ
うが、ある人には徹底的に嫌われる。それが葉山隼人の流儀だ。
使える奴だけど好きではない、というのが陽乃の隼人評である。
彼女からすれば好ましい人間の方が少ないのだが、能力が高く容姿
に優れ、またブレない精神性を持っている点だけは評価していた。比
企谷八幡にとって雪ノ下陽乃が絶対であるように、葉山隼人にとって
は善性によって行動するということが絶対なのである。集団に埋没
するか、弾かれるかの違いはあるが、集団を俯瞰し、どこか他人ごと
のように捉えることは、八幡と隼人に共通している。
実のところ、八幡は隼人のことが嫌いではなかった。
友達になれるとは思わないが、彼のような生き方には興味をそそら
れる。違う出会い方をしていたら絶対に交わろうとはしなかっただ
ろうが、二つも年下で、また陽乃から事前に情報を仕入れていたこと
から、主観的なことを考えずに、葉山隼人という人間を知ることがで
きた。
故に、これから彼がどういう行動をするのかも、ある程度予測する
ことができた。
真っ向勝負を挑む彼は、絶対にそのまま打ち返してくる。勝負だ。
隼人の強い意志が篭ったボールに、八幡は内心で舌を出した。
これは、ダブルスである。
隼人の方に打ち返す││と見せかけて、ぎりぎりまで勢いを殺した
打球を、優美子の方に落とす。意表を突けた訳ではない。こういう行
動をする奴だということは、先のサーブで知れただろう。優美子も警
戒をしていなかった訳ではないが、空気を読むのが普通のリア充に
とって、空気を度外視する人間の思考というのは、読みにくいもので
ある。
彼女にすれば、あそこは空気を読んで当然の場面だった。勝負を挑
78
まれたのだから、勝負は受けるべき。その思考が、警戒を上回ったの
である。意識の間隙を突いた打球に、優美子は追いつくことができな
かった。隼人はそれを、呆然と見つめている。
30│15。
これで一つリードである。
ボールをコートに打ちつけながら、八幡は優美子の殺意すら篭った
視線を平然と受け止めていた。先ほどは打球を受け損ね、最初はサー
ブを返せなかった。これを彼女のミスと責める人間はいないだろう
が、本人の気持ちまではそうはいかない。優美子本人はミスをしたと
自分を責めるだろう。自分と他人への怒りが態度と表情にしっかり
と表れている。熱しやすい人間、というのは一目みて解っていたが、
その通りのようで安心する。
怒りは集中力を乱し、焦りはミスを生み出す。全ての感情を行動力
に変えることができる、陽乃のような感情の化け物であれば話は別だ
が、怪物というのは早々市井にいるものではない。三浦優美子が普通
の女子高生であることに安堵し、続けてサーブを放つ。
ボールは天に││飛ばない。それまでと同じようなフォームから
放たれたサーブは、ネットを越えたぎりぎりの所に落ちた。サーブに
対応するために下がっていた優美子は、全力でダッシュするが間に合
わない。
40│15.
これでマッチポイントだ。転びこそしなかったが、裏をかかれた優
美子はやはり射殺さんばかりの視線を送ってくるが、陽乃の威圧感に
比べたらそよ風のようなものだ。軽い敵意など心地良くすらある。
﹁せんぱい、テニス上手かったんですね⋮⋮﹂
﹁でも付け焼刃だからな。今回だけしか通用しないぞ。また勝負って
ことになっても、今度こそ俺は戦力にならないから、期待はするなよ﹂
﹁でも、せんぱいのおかげでここまで来れました﹂
﹁俺の前に海老名と雪ノ下がやってるんだってこと忘れるなよ。後、
まだ勝ってないからな。後一ポイントだ。最後くらいはダブルスで
勝とうぜ﹂
79
﹁はいっ
﹂
掲げられた彩加の手を、ぱちんと軽い音を立てて打ち鳴らす。まる
でリア充のような仕草で気恥ずかしいが、気づいたらやっていた。彩
加は楽しそうに笑っている。これで男子なのだから学園七不思議だ。
こんな笑顔を振りまいていたら、男であると解っていても放っておか
ないと思うのだが⋮⋮
彩加のことばかり考えそうになっていた気持ちを切り替える。こ
こまで心が揺れるのは久しぶりだった。陽乃と出会っていなければ、
恋に落ちるくらいまではあっただろう。
何はともあれ、後一球だ。
一つ決めればこちらの勝ちだが、それは隼人たちに後がなくなった
ことを意味する。今までだって本気度は決して低くはなかったが、今
の隼人の瞳には炎が燃えているように見えた。死んでもここは落と
さない、という鋼の意思が見える。スポ根だなぁ、と八幡は微笑まし
い気分になったが、隼人のそれは独り相撲というものだ。
相手のある勝負である。気持ちを高めて最高の動きをしようと、勝
てない時は勝てないものだ。勝負に集中するあまり、ボールしか見て
いないように見える。狙い以上に視野が狭くなっていた。これなら、
と期待を込めて、八幡はサーブを放った。
全力で、真っ直ぐ。
初めての普通のサーブは、真っ直ぐに隼人の所に向かった。望んで
いた普通のテニスである。困惑しながらも隼人はきっちりと対応し、
八幡に向かって打ち返してくる。ちらと優美子を見れば、今度こそは
と気を張っていたがそちらには視線も向けない。この世界には二人
しかいないとばかりに、全力で隼人に向かって打ち返す。
それからしばらく、打球の応酬が続いた。実力の拮抗しない二人で
ある。体力も腕力も劣っている八幡が段々と押され始め、誰の目にも
不利がはっきりと見えてきた。それでも八幡はボールに喰らいつい
ていたが、すぐに息が上がってしまう。今すぐ勝負をつけないと、こ
のまま押し切られる。そう判断した八幡は優美子の方に視線を向け
たが、優美子は気を逸らさず、しっかりと待ち構えていた。
80
!
元々、不利な状況である。優美子の方を向いたまま、不安定な視線
で打ち返した打球は、彼女の方ではなく隼人の方に飛んだ。打ち頃の
球である。隼人の前には体勢を崩している八幡がいる。このまま打
ち込めば、彼は対応できずに得点できる。スマッシュを打とうとした
隼人は、その直前に八幡の目を見た。得点されそうな段階になって
も、彼は不敵に笑っていた。
何かある。瞬時にそう判断した隼人は、ぎりぎりで方向を変え、逆
サイドに向かって打ち返した。シングルならばそれで決まっていた
だろうが、これはダブルスだった。八幡の打球に優美子が対応しよう
としていたのと同じように、彩加も隼人の打球に対応しようと、常に
八幡をフォローする形で動いていた。
打ち返した後にコートを見た隼人は、まるで打球が来ることを読み
きっていたかのようにそこにいた彩加に絶句していた。八幡にのみ
意識を集中していた二人は、彩加の存在すらその時失念していた。そ
捨て抱きついてくる。汗の匂いとは別の、表現に困る良い匂いにどき
どきしたが、ベンチの雪乃の氷のような視線と、うはーと野太い悲鳴
を挙げながらしゃかしゃかペンを動かす姫菜に正気を取り戻した。
81
の一瞬が、勝負の分かれ目になる。
﹂
見た目の可愛らしさに反して、力強いその打球は隼人の優美子の
やりましたせんぱいっ
ちょうど中間に打ち込まれた。
﹁やったっ
!
自分たちの勝ちが決まったその瞬間、感極まった彩加はラケットを
!
断腸の思いで彩加を引き離し、うな垂れている隼人に手を差し出
す。
﹁まぁ、悪かったな色々と﹂
﹁こちらこそお騒がせしました。良い勝負⋮⋮とはいきませんでした
が﹂
﹁そう言うなよ。依頼のことだけじゃなくて、俺も負ける訳にはいか
と隼人に向けてラケットの刻印を見せる。雪ノ下陽
なかったんだよ﹂
解るだろ
乃という名前に、隼人は全ての事情を理解した。陽乃と色々あったの
は八幡だけではない。むしろ家族ぐるみの付き合いのある隼人の方
が、その度合いは大きいと言えるだろう。試合の最中には色々と思う
ところのあった隼人だが、ラケットを見せた時の八幡の表情を見て、
心底彼に同情した。
ただ付き合いがあるだけでも振り回されるのである。恋人となれ
ば、言葉にもできないような苦労があるのだろう。
﹁比企谷先輩も、大変ですね﹂
﹁今はその大変をようやく楽しめるようになったところだよ。良い思
いもしてるのは間違いないが、外から見てトータルプラスになってる
﹂
かは微妙なところだな﹂
﹁後悔してるとか
﹁それはねーな﹂
﹂
!
﹁たまには健全な方向で行ってみたらどうなんだお前﹂
ぎて私も妄想も追いつきません
思ったら、はちはやじゃなくてはちとつだったとか。もう展開が急す
﹁や ー、い ー で す よ 八 幡 先 輩。鬼 畜 攻 め か ら 一 転 し た 誘 い う け か と
ていく。
が﹃そっちのフォローをしろ﹄と手で伝えると、大きく頷いて走り去っ
後ろ髪を引かれている様子の結衣が何度もこちらを振り返っていた
を取ると、残りのメンバーを引き連れてテニスコートを出て行った。
き合うことができるのだと実感した隼人は、暗い顔をした優美子の腕
即答した八幡に、隼人は苦笑を浮かべた。この人だからあの人と付
?
82
?
﹁八幡先輩は私に死ねって言うんですか
﹁悪かった。好きにしてくれ﹂
﹂
﹁じゃあ好きにします。私はリバもOKなんで受けに回ってくれても
OKですからね。隼人くんを誘いたい時は私に声をかけてくれれば
色々セッティングしますから﹂
ないとは思うが、その時は絶対に尾行には気をつけようと八幡は心
に決めた。
﹁まぁともあれ、これで邪魔してくる奴もいないだろ。後は若い連中
でお好きなように││﹂
﹂
﹁そこそこテニスができることが解ったのだから、練習には付き合っ
てもらうわよ比企谷くん。依頼主も、それをお望みのようだし
らでも⋮⋮﹂
﹁じゃあ、一緒にランニングでもしませんか
できればその、明日か
﹁解ったよ。つっても、俺は体力ねーからそこまで運動できないぞ﹂
ことは、八幡にはできなかった。
彼の目は期待できらきらと輝いていた。こんな純粋な視線を裏切る
女一人であれば八幡も無視しただろうが、依頼主である彩加を見れば
ベンチに下がって一息つこうとした八幡を、雪乃が呼び止めた。彼
?
健康には良いって聞くぞ﹂
﹁どうも俺と海老名は参加する気配なんだが、やっぱりお前もどうだ
た。
な気配である。ならばついで、とばかりに八幡は雪乃にも目を向け
ンニングなどしないだろうが、話がまとまったら一緒についてきそう
ら姫菜の目が真剣に鬱陶しい。彼女もインドア派だから自発的なラ
話だったから付き合うことそのものは吝かではないのだが、さっきか
彩加は頬を染め、俯きがちにもじもじとしている。付き合うという
?
﹁雪乃くん、今はツン期ですから攻め方を変えないと。多分、結衣が一
生懸命頼んだら言うこと聞いてくれると思いますよ﹂
﹁海老名さん、適当なことを言わないで﹂
姫菜を睨む雪乃だったが、その視線にも言葉にも力がない。そうさ
83
?
﹁体調管理には気を使ってるから、心配は無用よ﹂
?
れると不味いということを、雪乃本人も解っているのだ。言い合いを
始めた雪乃と姫菜を横目に見ながら、八幡は携帯電話を操作し、結衣
にメールを送った。
84
体力作りのランニング、犬の散歩のついでにどうだ
?
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
目を覚まし、身体を起こそうとした八幡は腕に柔らかな重みを感じ
た。
馴染みの薄い天井。人の暮らしている匂いのしない広い部屋。二
人は余裕で寝ることのできる、大きなベッドの上。
ここがどこで、昨夜何があったのか。段々と思い出してきた八幡
は、腕の重みはそのままに小さく溜息を吐いた。
重みの原因である陽乃は、気持ち良さそうに眠っている。それを起
こすのは憚られたのだ。
起きている時でも十分過ぎる程美人である陽乃だが、寝顔にはまた
別の趣がある。神秘的とでも言えば良いのだろうか。起きている時
が美しくないとか、そちらの方が好きという訳では絶対にないが、口
を開かず力を抜いている寝顔は、肩書きの通り良家のお嬢様然として
いる。
恋人になってから解ったことだが、陽乃にも弱点があった。
寝起きが非常に良くないのである。
態との場合を除いて、陽乃が約束に遅刻をしたことは一度もない
が、どうも体質的に惰眠を貪ることが好きなようで、その日急ぎの予
定がない場合は中々ベッドから出てこない。惰眠を貪っている間は
大抵寝ぼけており、そこでは普段からは信じられない程甘ったるい声
を出す。
これも恋人の役得かと思えば、そうでもない。
陽乃にとって、寝ぼけている自分というのは間違いなく恥である。
そんな恥を晒すことは例え恋人であっても許せないものらしく、それ
がどういう事情かに関わらず寝ぼけている所を見られた後は、必ず報
復が実行される。朝起きて、至福に包まれた瞬間に暗い未来が確定す
るというのも目覚めの悪い話であるが、一緒に目覚めた時は大抵そん
なものである。
後の報復が確定していると言っても、寝顔が美しいことに変わりは
ない。それに、この寝顔を見ることができるのは、世界でただ一人だ。
85
それが自分だと思うと気分も良い。。
このままゆっくり寝顔の鑑賞でもしようか。視線を戻した八幡の
視線はそこで、陽乃のそれと交錯した。神秘的な雰囲気の寝顔は消
え、瞳には蠱惑的な気配が満ちている。
﹁おはよう、八幡﹂
﹁おはようございます﹂
朝の挨拶を交わしたが、声は間延びしており全くと言って良いほど
覇気がない。まだまだ寝ぼけているのだろう。んー、と小さく呻いた
陽乃が、マーキングする猫のように身体を押し付けてくる。その間、
八幡は無抵抗でじっとしていた。手を出しても怒らないだろうし、報
復内容が過激になることもないだろうが、途中で介入すると覚醒が早
くなるのは実験済みだ。どうせなら良い思いを長く味わいたいとい
うのは、男のサガである。
結局、陽乃の意識がはっきりとしだしたのは、それから十分もした
頃だった。覚醒した後の行動は早い。ベッド脇に用意してあったラ
フな部屋着に着替えて、リビングの方にさっさと歩いていく。薄手の
ブラウスにジーンズだ。寝転がりながら後姿を眺めていた八幡には、
歩くのに合わせて揺れる陽乃の尻が良く見えた。
この世全ての幸福がここにあるのでは、という気になるが、恥ずか
しい思いをさせられたら必ず報復するのと同様に、相手にタダで良い
思いをさせたりはしない。陽乃に言わせると自分は顔に出るタイプ
らしく、どの程度良い思いをしたかというのが、勘で解るらしい。こ
れからリビングに行けば、どの程度良い思いをしたかというのはしっ
かりと看破されるだろう。それが先ほどの行為の報復と重なるとど
ういうことになるのか。背筋がゾクゾクして止まない。
震える指先で陽乃の匂いのする服を着替え、リビングに向かう。
引っ越したばかりの部屋には、調度品などはほとんどとない。人を
通す可能性のある場所は、できるだけシンプルにまとめたいというの
が陽乃の意向である。
ならば寝室には陽乃らしい物があるのかと言えば、これもそれほど
ではない。
86
趣味の良い文机の上に小さな本棚。そこには大学で使う教科書と、
やたらハイスペックなノートパソコンがあるだけだ。
寝室で一番目を引くのはやはり、ベッドだろう。二人どころか三人
で寝ても余裕な大きさのそのベッドは、八幡も家具屋まで同行して選
んだものだ。
寝室に併設されたウォークインクローゼットの中には、実家から持
ち出してきたほとんど全ての衣類が収められている。箪笥どころか
段ボール一つで全ての衣類が納まってしまう八幡からすると正気を
外に遊びに行くついでに、そっちで食べるんで
疑うほどの量であるが、その分陽乃が着飾ってくれるのだと思えば、
嬉しくもあった。
﹁朝ごはん食べる
も良いけど﹂
紅茶を用意しながら問うてくる陽乃に、八幡はリビングを見回し
た。
大量にあった服は昨日の内に荷解きを済ませてあり、そのほとんど
は既にクローゼットの中にある。家具などの重いものは本職の人た
ちが運び込んでくれたので、八幡が手を貸さなければならないような
案件はもうない。
元々、土日は陽乃のために空けてあったのだ。一緒に過ごす時間が
増えるのならば、八幡としては言うことはない。
﹁外にしましょう。今朝は紅茶だけで﹂
﹁了解。引越しを手伝ってくれたお礼に、私が紅茶を淹れてあげる﹂
八幡の前に、カップとソーサー。実家から持ち出してきた高価なも
ので、陽乃の部屋にあっては八幡専用と決められた物だ。それに琥珀
色の液体がゆっくりと注がれていく。普段紅茶を淹れるのは八幡の
役目なので、陽乃手ずから淹れる機会はほとんどない。
差し出された紅茶に、感動に打ち震えながら口をつける。
一口飲んだ八幡の口から漏れたのは、感嘆の溜息だった。
昨日同じ道具、同じ茶葉を使って紅茶を淹れたが、それよりも明ら
かに美味い。淹れ方一つでここまで味が変わるのかと感心する八幡
をにやにや眺めていた陽乃は、ふと時計を見た。その一瞬の動作に、
87
?
八幡は気づかない。紅茶に夢中になっているのを確認した陽乃は、一
瞬だけ人の悪い笑みを浮かべ、すぐに引っ込めた。
﹁八幡が一息入れてる間に、シャワー浴びてくるね﹂
﹂
﹁どうぞごゆっくり﹂
﹁⋮⋮一緒に入る
﹁ご冗談を﹂
﹂
らない。覚悟を決めて甘ったるい紅茶を飲み干し、余りの甘さに顔を
二度目のインターホンが鳴った。出ると決めた以上、出なければな
ある。
幡の気は重かった。ここが恋人の部屋だと思うと、気恥ずかしいので
インターホンに出て、応対をする。言葉にすればそれだけだが、八
れを観察するのも、陽乃の楽しみの一つだ。
ことなのだろう。リードを離した犬がどういう行動をするのか。そ
はできない。それに出るなと言われていない以上、出ても良いという
なく陽乃の部屋だ。主を訪ねてきた人間を、犬の判断で追い返すこと
来客である。居留守を使おうかとも思ったが、ここは八幡の家では
うなと感慨に耽っていると、インターホンが鳴った。
しても十分な広さがある部屋だ。泊まりに来る機会も増えるのだろ
甘すぎる紅茶を飲みながら、部屋を見回す。陽乃曰く、二人で暮ら
い。
寝て過ごすことにもなりかねない。 昨日の続きは、また今度でも良
ていた。﹃それ﹄は﹃それ﹄で素晴らしくはあるが、せっかくの日曜を
だったのだと思うが、一緒に入るとそれだけで済まないのは目に見え
乃 は バ ス ル ー ム に 向 か っ た。一 緒 に 入 る か と い う 提 案 は 半 ば 本 気
地味に効果的な報復に八幡が渋面を作ると、満足そうに微笑んだ陽
飲んでね
﹁はい、今好きという気持ちを四つ追加しました。ちゃんと味わって
にそれを投入した。一つ、二つ、三つ、四つ。
膨らませた陽乃は、砂糖壷から角砂糖を取り出す。八幡のカップの中
即座に切り返されたのが気に入らなかったのだろう。小さく頬を
?
しかめながら、インターホンを取り上げる。そこで初めて端末の画面
88
?
﹄
を見た八幡は、そこに映っていた少女の姿に絶句した。
﹃姉さん、私よ。開けてもらえる
そこにいたのは雪ノ下雪乃。陽乃の実の妹であり、高校で同じ部活
に所属する後輩である。陽乃に良く似た面差しには、不機嫌という文
字が張り付いていた。姉妹の仲は陽乃が言う程に良くはないが、雪乃
が言う程には悪くない。呼べば来る程度には、姉妹の関係は良好と言
えた。
問題は、誘ったのであろう陽乃が恋人の存在を隠していたことであ
る。姫菜の分析ではあれで結構なお姉ちゃん子であるというから、姉
の他に部屋に人間がいたら誘いを受けたりはしなかっただろう。そ
れが男であれば尚更である。
沈黙したのが良くなかったのだろう。インターホンに何も応答が
﹄
ないことを不信に思った雪乃は、僅かな逡巡で真実を導き出した。
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮まさか比企谷くん、そこにいるの
﹁お前、エスパーかよ。どうして解った﹂
しら
﹄
して貴方には自分の愚かな姿を見せ付けるような趣味でもあるのか
私に若い二人の関係を邪魔するような趣味はないのだけれど、もしか
私の知る限り、そこまで残念な人間は貴方しかいないわ。ところで、
﹃友達のいなそうな残念なオーラが、機械ごしにも伝わってきたもの。
?
部屋じゃないが、この時間に外に出たんだから上がっていくのが良い
だろ。今なら眩暈がする程甘い紅茶もあるぞ﹂
﹃それは遠慮するわ。それから、その辺にいる姉さんに伝えておいて
ちょうだい。男を連れ込んでいる部屋に妹を誘うような変態は、私の
姉ではないって﹄
﹁了解。婉曲に伝えておく﹂
端末を操作し、雪乃をマンションに招き入れる。これでエレベー
ターで上がってくるまでの時間は稼げた。時間があったところでど
﹂
うなるものでもないが、気持ちの整理は必要だ。
﹁雪乃ちゃん、なんだって
?
89
?
﹁そんなもんはないし、あったとしても俺主導じゃない。ここは俺の
?
バスルームのドアが開き、中から陽乃が顔を除かせる。ドアで隠す
ようにしているが、当然服などは着ていない。何もなければその艶姿
にどきどきもしたのだろうが、もうすぐ雪乃がここに来ると思うと表
現しがたい焦燥感が劣情の先に立った。
雪乃と何かあった訳では勿論ないが、陽乃の前では絶対にしないよ
うな行動を雪乃の前ではしている。それに奉仕部は顧問の静を含め
て、八幡以外の全員が女性だ。事実として疚しいことは何もなくとも
煙が立つくらいの燃料は腐るほどあった。
陽乃と大の仲良しになった小町は、あることないこと情報を漏らし
ていると聞くが、それとはまた別次元の焦燥感である。
その焦燥感を何とかするために、八幡は雪乃の言葉を婉曲に伝える
ことにした。
﹁お姉ちゃん大好きと言ってました﹂
﹁うん、それは知ってる﹂
機嫌良さそうに微笑んで、陽乃はバスルームに引っ込んだ。陽乃の
ことだから容赦なく今の言葉をバラすのだろうが、毒を食らわば皿ま
でだ。陽乃からの地味な報復が確定しているのだ。それに雪乃の視
線が加わったところで、どうということはない。
部屋のインターホンが鳴る。ドアの向こうのお姫様の、不機嫌な顔
は容易に想像ができた。ドアの前で咳払いを一つ。どんな顔をして
出たものかと考えていると、ドアが力強くノックされた。これ以上待
たせるとドアを蹴飛ばされるかもしれないと危惧した八幡は即座に
観念し、ドアを開けた。
案の定、そこには不機嫌な顔をした雪乃が立っていた。いつだか軽
井沢で見た時のような、余所行きのめかしこんだ格好である。一人暮
らしを始めた姉に会いにきたにしては、随分と気合が入っているよう
にも思える。やはり、お姉ちゃん子という姫菜の見たては間違ってい
ないのだろう。あの雪乃がそうなのだと思うと笑えてくるが、人の悪
感情に敏感な雪乃は、八幡の表情から何を思っているのかを敏感に察
知した。踵を返した雪乃の腕を、八幡が慌てて掴む。
﹁おっと、ちょっと待て﹂
90
﹁離してちょうだい。バカップルっぷりを見せ付けたいなら、他の人
にして﹂
﹁ここでお前を帰したら、俺が陽乃に何されるか解らないだろ﹂
﹁貴方が姉さんとどんな変態的なプレイをしても、私には関係のない
ことよ﹂
﹂
﹁変態は確定かよ。ともかくあれだ、紅茶でも飲んでいけ。今なら角
砂糖入れ放題だぞ
﹂
?
﹂
クローゼットには服が山のようにあったぞ﹂
ん、クローゼットは寝室に併設されているように見えるのだけれど
﹁あの人は昔から服を沢山持っていたから⋮⋮それはそうと比企谷く
﹁そうなのか
﹁少し広いわね。物が少ないのは、私と一緒だけど﹂
﹁お前の部屋と比べてどうだ
陰鬱な気分で姉の新居に初めて足を踏み入れた。
割に合わない。そう判断した雪乃は、これ見よがしに溜息を吐くと、
ある。どんな用事で呼んだのか知らないが、お茶の一つも飲まないと
姉に呼ばれて足を運んだのに、ここで踵を返したら全くの無駄足で
﹁⋮⋮甘くない紅茶でお願いするわ﹂
?
配慮の行き届いた話題をお願いするわね﹂
﹁努力するよ﹂
バツの悪そうに視線を逸らす八幡を他所に、雪乃は優雅に椅子に腰
を下ろした。テーブルをとんとん、と静かに叩く。暗に紅茶を要求し
ているお姫様に、八幡は手馴れた所作で紅茶を用意する。カップと
ソーサーは、雪乃専用のものだ。注がれた琥珀色の液体をじっと眺め
た雪乃は、香りを楽しんでからそれに口を付けた。
茶葉は陽乃の私物なので、部室で使っているものより高級だ。同じ
人間が同じ淹れ方をしても部室のものよりは美味いはずだが、雪乃は
八幡を真っ直ぐに見つめると、にっこりと微笑み、
﹁まぁまぁね﹂
91
?
﹁あの人とどういう生活を送ろうと私は関知しないけれど、もう少し
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
?
﹂
﹁いつも以上の評価をありがとうよ﹂
﹁茶葉が良いからじゃないかしら
いない。
呼んだのではないのよね
﹂
﹁確認だけれど、本当に、バカップルっぷりを見せ付けるために、私を
をギロリと睨んだ。
大きく溜息を吐くと、寝室とバスルームを交互に見やってから、八幡
雪乃の問いに、八幡は無言でバスルームを指差す。雪乃は、今度は
﹁姉さんは
﹂
言わせて見たいものだが、二年を費やしても中々良い返事はもらえて
も、文句は言うが毎回残さずに飲んでくれる。どうせならば美味いと
ちくりと釘を刺しながらも、紅茶を飲むのを辞めない。陽乃も雪乃
?
ンを取り出し、雪乃の向かいに座る。陽乃が出てくるまでまだしばら
タダで幸せにはなれないんだな、と悟った八幡は冷蔵庫からマッカ
先ほどの幸福に対する報復が、早速行われているような気がした。
胃が、羞恥やら不安やらで、胃がきりきりと痛んでいる。前借した
るのもおぞましいような報復をされるに違いない。
である。陽乃が呼んだ雪乃を帰るように仕向けたとバレたら、口にす
はない。それに彼女は、陽乃が世界一かわいいと公言して憚らない妹
本心を言えば、今すぐにでも帰ってほしいのだが、雪乃にその様子
ずさはいつもの比ではない。
いが、その姉と先ほどまで二人きりでお泊りをした後となれば、気ま
は椅子から動こうとしなかった。八幡は別に雪乃が嫌いな訳ではな
いらいらと悪態を吐くくらいならば帰れば良いと思うのだが、雪乃
悪趣味ね﹂
﹁じゃあ、貴方も罠にかけられた口なのね。あの人らいしわ。本当に
ることも知らなかった﹂
﹁お前を呼んだのは俺じゃない。インターホンが鳴るまで、来客があ
?
くある。雪乃の刺すような視線に耐えながら、八幡は無視を決め込ん
だ。
92
?
93
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない
﹁雪乃ちゃん、いらっしゃい﹂
バスルームから出てきた陽乃は、八幡の懸念に反してちゃんと服を
着ていたが、それでもきっちり余所行きという訳ではなかった。ここ
は陽乃の部屋なのだから当然だが、バスルームに入った時よりもさら
にラフな感じになっている。上から三つはボタンを外しているシャ
ツからは、胸の谷間とブラがしっかりと見えていた
昨晩から今朝にかけて、もっと凄い恰好を見ていた八幡にとっては
これでも十分にきちんとしている方ではあったのだが、今日初めてこ
の部屋にきた雪乃にとっては十分にアウトであったらしい。これ以
下はないと思っていた雪乃の視線の温度が更に下がったのを見て、八
﹂
幡は自分が今針の筵の上にいるのだと自覚した。
﹁姉さん、服をちゃんと着てもらえる
﹂
い。喜んでやってくれると思うのだけれど﹂
﹁髪はだめ。八幡、こういう手先は不器用なんだもん﹂
﹁それは解る気がするわ﹂
﹁悪かったな⋮⋮﹂
お姉ちゃんのお願い
﹁そんな訳で自分でやっても良いけど、せっかく雪乃ちゃんがいるん
だしやってもらいたいなって思ったの。ね
?
94
﹁ここは私の部屋ー﹂
﹁それでもよ﹂
﹁雪乃ちゃん、髪をやってもらえる
と、雪乃の前で背中を向けて座った。
しばらくして、部屋着をきちんと着てきた陽乃は椅子を引き寄せる
し。小さく感嘆の溜息を漏らした。
新しい一面を見た八幡は、陽乃を思い通りに動かしてみた雪乃に対
でも聞かない時があったのに、妹の言葉には素直に従うのか。陽乃の
装を直すために寝室に戻っていく。学校では一番仲の良い静の言葉
眦を釣り上げた愛する妹の強い言葉に陽乃は肩を竦め、大人しく服
?
﹁そこで物欲しそうな顔をしてる比企谷くんにでも頼めば良いじゃな
?
﹂
﹂
雪乃ちゃん大好き
﹁││今回だけよ
﹁やった
﹂
﹂
?
﹁奉仕部だっけ
八幡がボランティアとか意外だな。そういうの嫌
﹁放課後、それなりに親睦を深めているから、心配は無用よ﹂
なぁ﹂
﹁これを機に仲良くなってほしいなぁ、ってお姉ちゃん思うんだけど
﹁それは姉さんの役目じゃないかしら。私はただの、部活の仲間よ﹂
﹁雪乃ちゃん、八幡が暇そうにしてるから構ってあげて
いたが、先にその視線に気づいた陽乃が、雪乃にそっと囁いた。
無沙汰になった八幡は、ただぼーっと髪の手入れをする二人を眺めて
悪口の一つも言ってくる頃合いなのに、その気配がまるでない。手持
に集中しているのだろう。普段ならば視線に気づいてキモ谷君だの
こういう顔もできるのかと、八幡は内心で感心する。よほど姉の髪
情をしていた。
雪乃の目は、部室で見る時とは比べものにならないくらいの優しい表
が立つ。髪に櫛を入れられ、気持ちよさそうな声を挙げる陽乃を見る
て後ろを向く陽乃の背後に、洗面所からドライヤーを持ってきた雪乃
深々と溜息を吐く妹と、喜ぶ姉。対照的な構図である。椅子に座っ
!
じゃないんでしょ
﹂
﹁そ の 奉 仕 部、普 段 は 何 を し て る の 毎 日 ボ ラ ン テ ィ ア し て る 訳
八幡や陽乃のものにその感性は近い。
と友人という友人を作らなかった弊害か、所謂﹃普通﹄の感性よりは、
に入るがそれでも、一般人の﹃普通﹄とは大分乖離していた。長いこ
も良いという感性をしている。この中では雪乃が比較的マシな部類
拘りはあるが、三人が三人とも、自分と身内以外は基本的にはどうで
陽乃の言葉に雪乃も八幡も大きく頷いた。大枠の主義主張にこそ
﹁世のため人のためって、柄じゃないもんねぇ、お互い﹂
ね﹂
﹁確かに好きじゃありませんが、まぁ、内申を良くするためですから
いだと思ってた﹂
?
?
?
95
!
?
!
﹁依頼があればそれに対応しますが、そうじゃない時は部室で待機し
てるだけですね。何にも依頼がなければ、月末にでも適当にボラン
ティアをします﹂
﹂
﹁あー、最初の月はゴミ拾いしたとか言ってたね。そもそも、依頼って
来るの
﹂
﹁この前はテニスの練習相手をしたわ⋮⋮比企谷くん、姉さんに何も
話してないの
まさかあの娘
?
﹁面白い││のかしら
﹂
﹁もう一人は何か面白い娘だって聞いてるけど﹂
不幸に見舞われるのはどうにも忍びない。
ろはあるが、良い奴なのだ。既に知り合い程度の仲ではあるのだし、
時点で、結衣に何某かの不幸が起こっていただろう。多少アホなとこ
ることに心底安堵した。そうでなければ、同じ部活にいると知られた
陽乃の声に力が籠ったのを聞いて、八幡は結衣が雪乃と仲良しであ
ど、雪乃ちゃんの友達なら仕方ないね﹂
が一緒にいるとは思わなかったなぁ。本当、どの面下げてと思うけ
﹁でも、雪乃ちゃん以外の二人のことは知ってるよ
話をした方が、八幡から見た陽乃は楽しそうなのだ。
何があったという話をするよりも、これから二人で何をするかという
らのことでも話した方がよほど建設的だと思ったのだ。実際、学校で
八幡以上に、陽乃はそのテの行為を嫌っている。それなら、これか
﹁ただ集まってダベってるだけの話をしてもなぁ⋮⋮﹂
?
陽乃の声音には、喜色が宿っている。陽乃から八幡へならばともか
﹁そっかぁ、それなら会ってみたいなぁ﹂
じゃないかと思います﹂
﹁陽乃は気に入ると思いますよ。考え方は、俺より大分陽乃に近いん
る限り、姫菜が全く遠慮をしないのは自分の前だけだった。
いる葉山達にも、黒々とした内面を出している様子はない。八幡の知
を選んで﹃腐って﹄いるのだろう。クラスでは同じグループに属して
という印象が強く、内面の黒さは形を潜めている。姫菜なりに、相手
雪乃は怪訝な顔で首を傾げた。雪乃の前では押しの強いお腐れ様
?
96
?
く、八幡が陽乃に人間を推すのはめぐりに続いて二人目だ。めぐりの
時は彼女に押されてという経緯があるから、純粋な推薦はこれが初め
﹂
てである。あの八幡が、という陽乃の期待は大きかった。
﹁その娘は雪乃ちゃんとはどうなの
﹂
﹁部活の仲間、と表現するのが一番近いんじゃないかしら。仲は良い
﹂
と思うけど、友人と言うには少し壁を感じる気がするわ﹂
﹁雪乃ちゃんが壁とか、言うようになったねぇ﹂
﹁││私にだって、友人の一人や二人はいるのよ
﹁今でてきた二人だけじゃないって、お姉ちゃんは信じてるから
ことの証明でもあった。
﹁そ、れ、よ、り、二人はどうしてそんなに他人行儀なのかな
彼氏
状100%ということは、他に交流を持つような友人がいないという
が、ただだべって過ごすだけの普段は何もしない部活に、出席率が現
幡も、雪乃が自分のクラスでどういう立ち位置にいるのか知らない
達がその二人だけだというのは、陽乃なりに確信があるのだろう。八
陽乃は、雪乃から鍛えられたぼっち力︵ぢから︶を感じ取っていた。友
リア充はぼっちを見抜く技術に長けている。リア充の代表のような
欠片も信じていない様子で微笑む陽乃に、雪乃は悔しそうに俯く。
!
?
び方を変えてみようか
﹂
と愛する妹の間に壁があるなんて、私は悲しいよ。せっかくだから呼
?
﹁八幡
﹂
﹁はい、解りました﹂
﹁少しは抵抗したらどうなの
﹁いや、だってなぁ⋮⋮﹂
﹂
姉さん、私は遠慮するわ。親しみを
なら仕方ないね。今日の私は優しいお姉ちゃんだから雪乃
込めた呼び方をして、本当に親しいと人に思われても嫌だもの﹂
﹁そう
ちゃんに無理強いしたりはしないよ。どうせ、八幡が折れれば結果的
には同じことだから﹂
しまった、と雪乃は尻尾を巻いて逃げようと試みたが、椅子の上で
97
?
﹁いや、別に雪ノ下で不自由は││﹂
?
﹁こういう時は使えない人ね
!?
!
?
?
器用に反転した陽乃に腕を掴まれ、背後から抱きしめられた。んー、
と声を挙げて雪乃の髪の匂いを堪能する陽乃に、当の雪乃は身震いし
て嫌悪感を示したが、がっちりと組まれた腕からは抜けられそうにな
い。合気道を嗜んでいる雪乃だが、陽乃の実力はそれ以上だ。抑え込
まれた状態からでは、例え抜けられるとしても手荒なことをしなけれ
ばならない。
そして、手荒なことをするという選択肢が全く浮かばない程度に
は、雪乃は姉のことを大事に思っていた。抜けられないと悟って大人
﹂
しくなった妹に満足そうにほほ笑むと、陽乃は身体ごと八幡に向き
直った。
﹁さぁ八幡。雪乃ちゃんのことを呼んであげて
天使のような悪魔の笑顔からは、﹃これで雪ノ下と呼んだら不幸に
する﹄と読み取れた。第一、陽乃に命令された時点で、八幡には選択
肢がない。雪乃は全力で﹃止めろ﹄と視線で訴えかけていたが、人間
にはできることとできないことがあるのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮雪乃﹂
名前を口にするだけで、ここまで恥ずかしかったのは初めてかもし
れない。陽乃を呼び捨てにした時以上の息苦しさを感じた八幡だっ
たが、雪乃が感じたのはそれ以上のもののようだった。渋面を作る雪
乃の顔は、少しも嬉しそうには見えなかった。当然と言えば当然であ
る。予想していた雪乃の反応に、むしろ安堵していた八幡だったが、
雪乃の顔を覗き込んだ陽乃は、全く別の感想を持った。
﹁雪乃ちゃん、嬉しそうにしてるから、これからは名前で呼んであげて
﹂
されたら、そうせざるを得なかっただろう。なるべく呼ばないように
気を付ければ済む話ではあるのだが
そういう時に限って良くないことは起きるものである。姫菜や結
﹂
衣の前で呼び捨てにする羽目になったら、追求は避けられない。
﹁それで、姉さん。今日はどうして私が呼ばれたの
?
98
?
八幡はそう答えるのが精いっぱいだった。これで学校でもと命令
﹁⋮⋮⋮⋮善処します﹂
?
﹁かわいい妹の顔を見たいから、じゃダメ
﹂
﹁それならこの人がいない時に呼ぶでしょう
けなら、もう帰らせてもらうのだけれど﹂
﹁心配しないで、目的はちゃんとあるから﹂
恋人を自慢したいだ
そう言って、陽乃は今日、一番嬉しそうに笑った。
﹁これから三人で、デートしようか﹂
99
?
?
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う
総武高校に入学し、陽乃に見いだされて振りまわされるようになる
まで、八幡にとって目立つというのは、ほとんど悪い意味だった。そ
れにしたって、中三の時の告白で手痛い目にあった時が最大であり、
それ以外は本当に目立たないように生きてきたという自負と自覚が
ある。
それが陽乃に見いだされてからは、目立つ側の仲間入りだ。最初は
周囲の視線を集めるということに慣れなかったが、次第にそれにも慣
れ、視線の種類が理解できるようになってくると、周囲を観察する余
裕も出てくるようになった。
例えば今現在、八幡と雪ノ下姉妹の三人は周囲の視線を大いに集め
ているが、そのほとんどが八幡ではなく雪ノ下姉妹に向けられてい
る。数少ない八幡に向けられた視線は主に男性からの嫉妬の視線で
あり、八幡は正確にその視線の種類を理解していた。
中学生の時分だったら、目立つ集団の一人という事実に舞い上がっ
ていただろうが、今の八幡はこれが三人ではなく、二人と一人という
ことが良く解っていた。視線を肌に感じながら、前を歩いている二人
を見る。
美女と美少女。どちらも優れた容姿をしているのは言うまでもな
い。こうして並んでみると、容姿の方向性が正反対なのが良く解る
が、それでも姉妹と一目で解るくらいに顔を造りが似ているのだか
ら、見ている側としては面白いものである。
三人でデートと陽乃は言っていたが、実際には姉妹のデートに八幡
がついて回っている感じだった。雪乃とのデートは久しぶりなのだ
ろう。いつも二人で出かける時よりもはしゃいでいる陽乃の笑顔が、
実に眩しい。あの陽乃が世界一かわいいと公言して憚らない妹が一
緒にいるのだから、無理もない。
そこまで考えて、八幡ははたと気づいた。同じく世界一かわいい妹
であるところの小町と、二人で出かけることも時にはあるのだが、そ
ういう時の自分も今の陽乃と同じような顔をしているのではないか。
100
顔のつくりは悪い物ではないと信じてはいるが、人には向き不向きが
ある。自分があんな顔をしていると想像した八幡は、思わず身震いし
た。
気持ち悪い。確かに気持ち悪い。
今度から、小町と一緒の時にはあまりはしゃがないようにしよう
と、八幡は心に決めた。それはそれで小町的にポイント低い、という
ことになりそうではあるのだけれども、愛する小町にキモいとか言わ
れたら、立ち直ることはできない。
﹁ところで八幡、そろそろお茶でもしようと思うんだけど﹂
﹁是非もありません。ファストフードならすぐそこに。落ち着いた所
﹂
が良いなら、少し歩きますがどっちにしますか
の時だ。
実家は元より、マンションでも誰かに場所を知られている。一人に
と言った所で、雪乃は言葉を切った。
﹁一人になりたいのなら自分の部屋に││﹂
たまに入るくらいだよ﹂
﹁付き合いで入ったりすることがあるかな。後は一人になりたい時に
だけよ。姉さんは、違うのでしょうけれど﹂
﹁別に入ったことがない訳ではないわ。自分一人では入らないという
﹁雪乃ちゃん、そういうお店大丈夫
﹂
とにしている。その分、ハズレを引くこともあるのだが、その時はそ
だ。こういう場所を調べる時は専ら、無味乾燥な検索サイトを使うこ
イトや雑誌には拒否反応が出てしまい、中々情報収集には使えないの
から無理からぬことではあるのだが、調べようにもリア充御用達のサ
トリーではまだまだ陽乃には及ばない。自分で開拓などしないのだ
三年近く陽乃に連れまわされている八幡だが、こういう店のレパー
﹁お前がファッションショーをしてる間に調べただけだよ﹂
店を全部把握していたりするのかしら﹂
﹁別に構わないけれど、比企谷君。貴方、もしかしてこの当たりの喫茶
﹂
﹁近い方が良いかな。雪乃ちゃんもそれで良い
?
なりたい時というのは、それだけで重荷になるものだ。雑多である必
101
?
?
要はないのだが、要は誰にも所在を知られないような状態が﹃一人に
なりたい時﹄には好ましいのだ。
﹁あまりオススメはしないけどな。陽乃はともかく、お前の場合は多
分補導されるぞ﹂
﹂
﹁そもそも深夜に出歩くような真似はしないわ。貴方には経験がある
ようだけれど
﹁私が沢山連れまわしたからね∼﹂
けらけらと陽乃は笑うが、今は大学生の陽乃も三月までは女子高生
で、総武高校の制服を着ていたのだ。年齢を確認されれば補導される
のは雪乃と変わりないはずなのに、補導されたという話は元より、さ
れかかったという話すら聞いたことがない。姉は姉なりに、上手く
やっていたのだろう。そういう所は本当に如才のない人だ。
﹁じゃ、ここにしよっか﹂
結局陽乃が決めたチェーン店に、三人で入る。普通であれば注文を
取りまとめ、席まで運ぶのは八幡の役目である。荷物を持ったまま、
そのように動こうとした八幡を、陽乃は苦笑と共に呼び止めた。
﹁八 幡 は 席。荷 物 を 持 っ て く れ た お 礼 に 私 が 奢 る よ。何 が 食 べ た い
﹂
﹁りょーかい。それじゃあ、行こうか雪乃ちゃん。まずはこの列に並
んで││﹂
﹁買い方くらいは知っているのだけれど﹂
相変わらず、仲睦まじく列に並ぶ姉妹を横目に見つつ、八幡は席を
探した。四人掛け、片方はソファ、禁煙と条件を絞っていくと奥まっ
た場所に全ての条件に合致する席が見つかった。
椅子の側に陽乃たちの荷物を置き、八幡も椅子に座る。陽乃と雪乃
が座るのは、奥のソファだ。何かを取りに行く時、すぐに立てるよう
に八幡が手前の席に座る。陽乃と一緒にいる時の、いつもの位置取り
だ。一仕事終え、八幡は深く息を吐いた。
雪乃が一緒ということでどうなることかと思ったが、陽乃が雪乃を
構いまくっているせいかいつもより八幡の負担は少なくなっていた。
102
?
﹁陽乃と同じもので﹂
?
物足りないと思ってしまうのは、流石に毒され過ぎだろうか。
ともあれ、姉妹がこちらに合流するまでは一人の時間だ。気を抜い
て、椅子にだらりと寄りかかっていると、すぐ近くを通りかかった女
子高生の一人が八幡の顔を見て小さくあ、と声を挙げた。
八幡は声のした方を見て、ほんの少しの間だけ、呼吸が止まる程に
驚いた。かつて、声を聴くだけで安らぎ、顔を見るだけで幸せになれ
﹂
た人がそこにいた。
﹁比企谷
﹁⋮⋮折本﹂
普通に彼女の名字が口から出たことに、まず八幡は安堵した。ここ
で挙動不審な振る舞いをしたら昔に逆戻りだ。一時期は彼女のこと
﹂
を思い出すだけで体調を崩すくらいだったのに、素晴らしい進歩であ
る。
﹁折本、折本。この人誰
中学の時の同級生﹂
﹁本当だって。ねー、比企谷
﹂
﹁いや、そういう冗談は良いから⋮⋮﹂
そ眉根を寄せたが、先に反応したのは連れの少女の方だった。
た。自分が思っていた通りに八幡が動揺しないことに、折本は今度こ
とっては、あまり愉快ではないが、数ある思い出の一つに過ぎなかっ
するような意味もあったのかもしれないが、既に恋人がいる八幡に
折本にすればそれは、必殺の一撃だったのだろう。それで機先を制
﹁中学の時に私に告ってきたの﹂
たというように、
れたように感じた折本は、少しだけむっとした表情をし、今思い出し
に、先んじるようにして自己紹介をする。それが、自分の話を邪魔さ
初見の少女はおそらく折本の友達だろう。その問いに答える折本
﹁比企谷八幡だ。よろしく﹂
﹁こいつ
?
過ぎたことではあるが、いまだに忘れられない思い出である。中学
れて、危うく登校拒否になりかけたけどな﹂
﹁まぁな。それだけならまだ良いが、翌日に黒板一杯にそれを茶化さ
?
103
?
?
時代の中でも最悪に印象に残る事柄で、できれば他人には語りたくな
いことの筆頭だ。それを、本人を前に言いたいことを、言いたいよう
に言っている。中学の時の自分が見たら、死ぬほど驚くだろう。人は
ちゃんと変われるんだと、実感した瞬間である。
自らの進歩に内心で感動していた八幡を他所に、折本は感じていた
違和感を更に強くしていた。目の前にいるのは比企谷八幡であるこ
とは間違いがない。見た目は随分変わったが、声とか身体的な特徴は
そのままで、何よりあの、見る人間を不安にさせた目つきの悪さは健
在だった。
八幡のことはそれなりに記憶に残っているが、間違っても自分の目
を見て、真向から言い返してくるような人間ではなかった。誰とも視
線を合わせず、きちんと物も言えないような男子だったはずなのに、
これではまるで別人である。
﹁折本、ちょっとこっちきて﹂
104
違和感と戦っていた折本を、連れの少女が引っ張っていく。八幡か
﹂
ら隠れるように物陰に隠ると、少女は折本に詰め寄った。
﹁あんた、あれを振ったの
連れまわしていたということくらいである。
えば、一つ上の学年に超絶美人の生徒会長がいて、校内外で﹃犬﹄を
出したくらいである。あの高校について折本が知っていることと言
持っていなかった。実を言えば八幡が総武に進学したことも、今思い
比較的偏差値の高い高校である総武の人間とは折本はあまり交流を
個人的な繋がりがない以上、人づてに情報を仕入れるしかないが、
良い。
てからはより関わりがなくなった八幡に関する情報は、皆無と言って
があったのか。元からクラスメート以上の関係がなかった上に、振っ
にして、その場で振ったりはしなかっただろう。高校に入ってから何
折本も、中学の時からあぁだったのならば、最終的に受けるかは別
キツかったのかもしれない。
め寄った。ナイーブな時期の彼女に、贅沢にも男を振ったという話は
血相を変えて、友人︵三日前に失恋。現在恋人募集中︶は折本に詰
!?
﹂
﹁中学の時は別人だったんだって。いかにも引きこもりな挙動不審で
さ﹂
﹁うそ。写真とかないの
﹁ある訳ないじゃん。同級生のクラスメイトってだけで、友達ではな
かったし⋮⋮﹂
﹂
﹂
﹁⋮⋮それでどうして告白とかできる訳
﹁さぁ⋮⋮何か勘違いしたんじゃない
﹁でもさ、今の彼は問題ないでしょ
違いないし﹂
?
強面だけどイケメンなのは間
わるような気がして、気が引けたのだ。
﹁というか、絶対彼女いるでしょ。横の荷物見た
りだよ﹂
﹁あー⋮⋮本当だ。デート中なんだね﹂
女物の服ばっか
況が変わった後から尻尾を振るというのは、女としてのプライドに関
断ったことそのものを後悔はしていないが、自分から振っておいて状
ら だ っ た。自 分 が 告 白 を 断 っ た と い う 負 い 目 も あ る。無 論 の こ と、
折本がそう認めることに渋っているのは、過去の八幡を知っているか
を 美 形 と 評 す る こ と に 異 論 を 差 し 挟 む 女 子 は い な い と 断 言 で き る。
その事実を認めるのは吝かではない。好みは解れるだろうが、八幡
﹁そうなんだけどさぁ﹂
?
?
腐った目をしたヒキオタが、目力のあるイケメンインテリヤクザに
今の八幡は十分にイケメンである。
もそれなりに自分の容姿に自信を持っていたが、友人が評した通り、
と釣り合う恋人が出てきたら、まず太刀打することはできない。折本
はっきりと言い返してくる。今の八幡の容姿を基準にした場合、それ
当時の八幡は受け身になって引きこもるだけだったが、今の彼は
われて、自分がどういうことをしたのか薄々と感じ取り始めていた。
時は何とも思わなかったことであるが、先ほど八幡に目を見て物を言
分には彼を振った上に、こっぴどく痛めつけたという事実がある。当
関わらないと決めたのであれば、さっさと退散するに限る。何しろ自
がっかり、と意気消沈する友人に、折本はそっと胸を撫で下ろした。
?
105
?
なるとは、何の冗談だろう。
﹁そういう訳だから、さっさと行こう。邪魔したら悪いし││﹂
﹁まぁまぁ、そんなことないから。少しお話ししていこうよ﹂
耳元でいきなりした声に、折本は死ぬほど驚いて飛びのいた。
振り向いた先に立っていたのは、美人という言葉が霞むほどの美人
だった。華やかではあるか派手ではない。洒落っ気はあっても下品
ではない。女性が外に出る時のスタイルとして、完成された魅力を
持った女がそこにいた。
﹁貴女、折本かおりさんだよね 八幡から聞いてるよ。すっごくお
世話になったって﹂
にこにこと微笑んでいるが、まったく友好的な感じはしなかった。
武道など全く齧ったことのない折本でも、眼前の女性が殺気を放って
いるのが良く解る。下手なことを言ったら首をねじ切られるかもし
れない。そんな恐怖を感じ取っていた折本に、眼前の美女はさらに死
刑宣告を追加した。
﹁自 己 紹 介 が 遅 れ た ね。私 は 雪 ノ 下 陽 乃。八 幡 の 恋 人 だ よ。よ ろ し
く、折本さん﹂
106
?
結局、折本かおりは何もできない
今日の昼食を持って陽乃が戻ってきた時、彼女の視線は誰に言われ
るまでもなく周囲の客から隠れるようにしている折本たちに吸い寄
せられた。相変わらず驚異的な勘の良さである。この人に隠し事は
できないな、と再確認する八幡に﹃ちょっと声かけてくるね﹄とだけ
言って、陽乃は折本の方へ歩いていった。面白いおもちゃを見つけ
﹂
た、という陽乃の背中に、八幡はこっそりと溜息を洩らす。
﹁知り合い
折本の方に視線を向けた雪乃が、怪訝そうに問うてくる。﹃貴方に
知り合いなんていたのね﹄とでも言いたげな顔だったが、それが女子
というのが八幡のイメージには合わなかったのだ。
八幡の中学時代に、良い思い出などない。今の八幡にとって絶対で
ある陽乃にさえ、相当に粘られてようやく話した程だ。まだ付き合い
の浅い奉仕部のメンバーには、誰一人として中学の事は話していな
い。今現在総武高校に在籍している人間で八幡の中学時代のことを
知っているのは、何かと騒々しいあの男くらいのものである。
入学した頃ならばともかくとして、もうかなり時間も経った。告白
暴露の件もいまや笑い話の一つであるが、思い出したくない過去の一
つであることに変わりはない。それがいくらか顔に出ていたのだろ
う。八幡の様子を見て、雪乃は追求することを止めた、興味を失った
様子でアイスティーに口をつける雪乃に、今度は八幡が問う。
﹁てっきり聞きたがるもんだと思ってたんだが﹂
﹁話したいなら聞いてあげなくもないけれど、そうでないなら聞かな
﹂
いわ。貴方は知らないのでしょうけど、私はそれくらいの配慮はでき
る美少女なのよ
﹁⋮⋮⋮⋮そう。どっちにしても失礼な人には違いないわね﹂
﹁見た目が美少女なのは軽井沢で会った時から知ってるよ﹂
が肥えているのね﹂
﹁失礼な人ね。まぁ、姉さんについていけるような人だから、無駄に目
﹁すまん、それは初めて知った﹂
?
107
?
顔を逸らした雪乃の頬は、僅かに朱に染まっていた。自分で美少女
と言えるくらい自信を持っているのに、直球を返されると脆い辺り、
陽乃に比べるとまだまだである。
自分の前に置かれた包みを開ける。既に雪乃の分は全て引いてあ
るから、残りを2で割った分が八幡の取り分である。さて、と飲み物
に口を着けると、妙に健康的な甘みが口の中に広がった。自分では普
段まず飲まない味に、思わず蓋をあけて中身を確認する。
﹁野菜ジュースを頼んでいたはずよ。良いじゃない。健康的で﹂
﹁まぁ、不健康よりは良いんだが⋮⋮﹂
ファーストフードを食べている時点で、飲み物だけ野菜ジュースに
しても無駄な抵抗な気はするが、しないよりはマシなのだろう。別に
嫌いではないので、それ以上文句も言わずにストローに口をつけなが
ら、陽乃と折本の方を眺めていると、陽乃優位で決着が着いたのか、三
人でこちらに戻ってくる。
﹄と書いてあったが、誰でも我が身は可愛いものである。帰って
いでバツが悪そうな顔で折本を見た。折本の顔には﹃置いてかないで
よ
た。
108
青い顔をしてる折本と、にこにこしている陽乃。どうして良いのか
解らないという顔をしている残りの一人に、八幡は同情的な気分に
なった。陽乃のターゲットは折本一人だろうから、彼女については完
全にとばっちりである。せめてこの人は巻き込まないようにしてほ
しいな、とは思うものの、それを口にはしなかった。
女王の行動に口を挟むようなことを、犬はしないのである。
﹁この折本さんも一緒することになったから﹂
﹁まぁ、貴女が言うなら止めはしませんが、雪乃││はそれで良いか
﹂
﹂
?
陽乃から水を向けられた少女は、その提案にぱっと顔を輝かせ、次
そっちの貴女。ちょっと大事な話があるから、外してもらえる
﹁こんなかわいい置物なら部屋に飾りたいなぁ⋮⋮それはともかく、
﹁私のことは置物とでも思ってくれれば良いわ﹂
?
良いと主犯格の女に言われているのに、それに従わない道理はなかっ
!
それじゃあ、とそそくさと退散する少女を見送ると、陽乃の視線は
八幡に向いた。
﹁八幡、ちょっとトイレにでも行ってきて﹂
﹁解りました﹂
追い払われる気配を薄々と感じていた八幡は、野菜ジュースを一気
飲みすると、さっさとトイレに向かう。途中、折本のすがるような視
線が見えたような気がしたが、気にしないことにした。喧噪を抜け、
トイレの個室に入って便器の蓋の上に腰を下ろす。
十分か、十五分か。何しろ折本の相手は陽乃である。言葉で痛めつ
けるのに、そんなに時間はかけないだろう。折本はこれから、一言で
言うならば﹃酷い目﹄に合う。かつて勘違いから好きになった同級生
だ。その負い目から不憫に思うところも少しはあったが、自分が善人
でないことを自覚している八幡は、先の折本の顔を見て少しだけ良い
気味だと思った。そう思う権利くらいは、自分にもあるだろう。
﹂
109
スマホのタイマーをセットすると、八幡は一人、目を閉じた。
﹁さて、折本かおりさん。まず質問。どうして八幡のこと振ったの
うよりもハブられているような人間で、間違っても主流派の人間では
八幡については、それが全てである。クラスでも目立たない、とい
﹁ただのクラスメートってだけで、特に親しい訳でもなかったし⋮⋮﹂
ことにした。
問には答えるしかない。改めて腹を括った折本は、全てを正直に話す
いのだが、眼前の女の雰囲気はそれを許してくれそうになかった。質
道理はない。有無を言わせず席を立って、どこへなりとも消えても良
なくなってしまった。それにしても、見ず知らずの女の質問に答える
としたらこれからどんな質問をされるのだろうと、折本は気が気では
一発目からエグい所を突いてくる女である。これでジャブなのだ
?
なかった。それどころか、根暗は根暗なりに作っていたグループの中
にも、彼は入っていなかった。正真正銘のぼっちである。
そんな日々を送っている人間から告白をされても、受け入れる女子
はいないだろう。ただのクラスメートで、特に付き合いがないという
のなら、尚更である。告白を断ったことそのものについて、折本は自
分の判断に間違いはないと思っていた。現恋人が問題にするのなら、
更にその後の行為である。
隣を見れば、眼前の女によく似た少女が我関せずを貫こうとして失
敗しているのが見える。似た面差しから姉妹なのが解った。眼前の
女が姉で、こちらが妹である。姉は笑顔の中に上手く感情を隠してい
るが、妹は無表情を貫こうとして明らかに失敗している。八幡を振っ
たの辺りで飲み物を吹き出しそうになっていた辺り、この妹も八幡と
某かの関係があるのだろう。まさか姉妹で一人の男を、というのでは
あるまいなと、自分の想像に折本は寒気を覚えたが、妹の方からは姉
﹂
私が見つけたのは八幡が高校一年の時だから、貴女に告白し
110
のような殺気は伝わってこなかった。
軽い相手とも思えないが、少なくとも今現在敵対する様子はなさそ
うだった。目下の敵は、眼前の姉のみである。
﹂
﹁あー、それは解るかなぁ。私も中学生くらいまでは、そういうのあっ
たし。雪乃ちゃんもでしょ
は思わなかったの
﹁で、これは興味本位で聞くんだけど、とりあえずキープしておこうと
自分の身を守ることを優先するべきだ。
乃が解った。恋人の妹というには、距離が曖昧な気がするが⋮⋮今は
だ。その妹は自分は置物と言いつつも、こちらの話に耳を傾けている
きれないだろう。男受けするのは姉の方だろうが、妹も相当なもの
姉妹は完全に別格だった。異性に告白されることなど、片手では数え
折本も自分がそれなりにイケている方だという自覚はあるが、この
﹁私は置物と言ったはずなのだけれど⋮⋮﹂
?
﹁いや⋮⋮だって、接点なかった訳で⋮⋮﹂
?
﹁接点あってもなくても、それなりに良い顔してるのは見れば解るで
しょ
?
た時とそんなに見た目は変わってないと思うけど﹂
見れば解ると姉の方は言うが、それはフラットな環境で八幡を見る
ことができたからだ。中学の時の空気は少なくとも、誰一人として彼
を身内だとは思っていなかった。まともに見ていないから、顔がどう
かなど考えもしない。折本の脳裏に思い浮かぶのは、クラスの隅で目
立たないようにし、声をかけられれば卑屈な笑みを浮かべる八幡の姿
だった。
実は顔が良いということは、今日。久しぶりに再会するまで気づき
もしなかった。まともな恰好をして背筋を伸ばし、自分に自信を持つ
だけであそこまで変わるものだろうか。あの状態の八幡であればお
そらく、告白を断ったりはしなかっただろう。それどころか自分から
告白をしていた可能性だってあった。
しかしそれを惜しいと思うのは流石に傲慢だろう。あの時点で告
白を受けていたとしても、八幡はああはならなかったと確信が持て
る。八幡という素材と、この姉という要素がかみ合って、初めて今の
八幡ができたのだ。
ついでに言えば、あの時点で容姿が優れていることに気づいていた
としても、告白を受け入れることはなかっただろう。彼はどのグルー
プにも入っていないはぐれものだ。それときちんとお付き合いをす
るということは、同じところまで落ちることを意味する。折本がいる
位置にまで引き上げることは不可能だ。全体の中心の方にいたとい
う自覚はあるが、全てをけん引するほどの力を持っていた訳ではな
い。
異分子を排除するのが集団というものである。八幡とつるむとい
うことはすなわち、集団から排除されるということだ。それを加味し
たうえで告白を受け入れることはやはり、当時の自分にはできなかっ
ただろう。
縁がなかった。一言で言えばそういうことだ。自分にはどうしよ
うもないと黄昏る折本に、姉はにっこりと勝利の笑みを浮かべた。誰
もが見とれる綺麗な微笑みだが、正面から相対している折本には、心
の中で自分をあざ笑っているのが良く見えた。女としての格の違い
111
を見せつけられた形である。正直、今まで生きてきた中で一番みじめ
な気持ちだった。
﹁もう少し粘ると思ったんだけどな、ちょっと残念。まぁ弱い者いじ
めしてもかっこ悪いから、次で終わらせてあげる﹂
笑顔を張り付けた陽乃が、折本の耳元に顔を寄せた。その瞬間、気
温が下がったような気がしたのは、きっと錯覚ではない。
﹁魔がさしたなんて言い訳は聞かないから。どんな理由があったとし
ても、次に八幡に何かをしたら、私、貴女を殺すからね﹂
心が凍り付くような声音に、折本はその言葉に嘘がないことを知っ
た。法律がどうであろうと倫理が何であろうと、この女はやると言っ
たことは本当にやるだろう。生まれた初めて人間に恐怖した折本は、
ただ首を動かしてかくかくと頷いた。
112
それを見て、姉の方││雪ノ下陽乃は、にっこりと笑みを浮かべた。
自分の優位を確信した勝者の笑みである。
﹂
﹁自分の立場を理解したなら、もう行って良いよ。できることなら、二
度と私の前に現れないでね
た。
心の奥深くにそれを刻み込まれた折本は、息が切れるまで走り続け
あの女に逆らってはいけない。
ほど、折本の心はたった一つの事柄に支配されていた。
きかう人々は怪訝な目で眺めていたが、周囲の目など気にもならない
ら逃げ出した折本は、全速力で店を出た。全力疾走する女子高生を行
そんなもの、こっちから願い下げだ。転がるようにして陽乃の前か
?
そもそも、そ
当然だと思うけどな。私の恋人がいじめられたんだもの﹂
﹁悪趣味ね﹂
﹁そう
﹁でも、姉さんと付き合うようになる前の話でしょう
・
・
・
だからあの程度で済ませてあげたんじゃな
・
れが起こらなかったらあの人も総武高校には来なかったと思うのだ
けれど﹂
﹁少しは感謝してるよ
﹁なになに
珍しいね。雪乃ちゃんが私に改まって。何でも聞いて
﹁姉さん。一つ質問があるのだけれど﹂
汰だろうし││﹂
トイレでご飯を食べるのが定番らしいけど。流石に一人で手持無沙
﹁さて、それじゃあそろそろ八幡を呼び戻そうかな。友達いない人は
予を貰えただけ、あの女は幸運である。
あの女は社会的に死刑にされていたことだろう。言い分を話せて猶
たレベルの話が、最近八幡に起こったのであれば、言い訳も何もなく
るまで何もしないというのは、手加減するにも程がある。先ほど聞い
確かにこの姉にしては、言葉だけというのはいかにも温い。何かす
くすくすと笑う陽乃に、雪乃は嘆息した。
い﹂
?
﹁姉さんは、あの人のどこが好きなの
﹂
お姉ちゃん、何でも答えちゃうから﹂
?
ろうと確信を持つに至っていたが、姉の方の気持ちを確認したことは
なかった。姉妹であり、それ程仲が悪い訳ではないが、色恋の話とは
無縁の関係だった。
疑問に思っても、照れくさくて聞けなかったことである。それでど
うなるという訳でもないが、聞くならば今しかないと思った時、雪乃
の口からその問いは出ていた。世界一かわいいと公言してはばから
ない妹からの問いに、陽乃は、
﹁世を拗ねた、捻じれた性根が好き﹂
113
?
?
よく話すようになってから、姉についていけるとしたらこんな男だ
?
?
﹁どんなに意地悪をしても、犬みたいに尻尾を振って、ついてきてくれ
るところが好き﹂
﹁からかうと赤くなって、照れるところがが好き﹂
﹁それなのにたまに見せる、男らしくあろうとするところが好き﹂
﹁私の言うことを何でも聞いてくれるところが好き﹂
﹁私のために、自分を変えようと努力してくれるところが好き﹂
﹁本当に、言葉では語りつくせないくらい、色々なところが好き。でも
一番好きなのは││﹂
﹁私を見つめる時にたまに見せる、泣きそうな、寂しそうな顔。あの顔
を見るとね、とっても背筋がぞくぞくするの。八幡の心が私だけに向
いてるって、錯覚できるあの瞬間が、私は大好き﹂
恋する乙女そのものの顔で、そう言ってのけた。予想していた以上
の答えに、雪乃は深く、深く息を漏らす。
114
﹁歪んでるわね、姉さん。今に始まったことではないけれど﹂
﹂
﹂
﹁うん。八幡にも良く言われる。でもそんな私のことが、八幡は好き
だと思うよ﹂
﹁ごちそうさま、とでも言えば良いのかしら
﹁いつでもごちそうするから、気が向いたら言ってね
微笑む姉に、雪乃はもう二度とこの話はしないと心に決めた。
?
?
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
﹁お兄ちゃん、ちょっと会ってほしい人がいるんだけど⋮⋮﹂
折本との不意な遭遇からしばらく。勉強の合間、自宅の居間でマッ
カンを楽しんでいた八幡は、愛する妹の小町からそう声をかけられ
た。その言葉の意味を吟味することしばし。対面のソファに座るよ
うに促した八幡は、明日の天気を訪ねるような口調で小町に問うた。
﹂
別にどれでも良いんだけど⋮⋮じゃあ、白で﹂
﹁東南西北白發中。どれが良い
ろ﹂
﹂
﹁いや、付きまとってくる男が迷惑だから、どうにかして闇に葬れない
﹁⋮⋮ちょっと待って、何の話
﹂
を知らないか陽乃に聞いてくるから、お前は何もせずにここで待って
﹁解った。俺はこれから大量の塩と壺を買いつつ、信頼のできる業者
﹁それって麻雀の話
?
?
もう、心配してくれるのはポイント高いけど、ただでさえ
かって相談じゃないのか
﹁違うよ
?
本気にする人だっているんだから
﹂
!
だったことは口にしない。塩と壺は冗談だが、本当に小町にそういう
ことが起きたのならば、あらゆるコネを尽くして潰しにかかるだろう
ことは、自分のことだからこそ想像に難くない。
﹁あのね、塾のお友達のお姉さんが総武高校に通ってるらしいの。す
ごい真面目な人だったんだけど、最近帰りが遅くなってきて、その
⋮⋮素行が悪くなったんじゃないかって心配してて﹂
﹁素行なぁ⋮⋮﹂
総武高校は進学校であるが、一応世間一般で言うところの不良とい
うのは存在している。勉強についていけなくなった、家庭の事情、高
校デビューに失敗した等々、グレた理由はそれぞれであるが、所謂進
学校の不良であるので他所の気合の入った連中と比べるとどこか大
人しい。素行が悪くなったのかもと心配している辺り、家族に実害は
115
?
見た目がインテリヤクザになってるんだから、言葉には注意してよね
!
もう、とぷりぷり怒る小町はかわいいなぁと思いつつも、半ば本気
!
出ていないのだろう。正直、それ程大きな問題とも思えなかった。小
町からの話でなければ、聞き流していたことだろう。
しかし、小町からの話であるなら、どんなものであれ聞かない訳に
はいかない。あえて聞いていないふりをしながら、考えを巡らせてみ
る。
執行部を離れて久しいが、校内における八幡のアンテナはまだ高い
ままだ。会長であるめぐりとの交流は続いており、彼女は聞いてもい
ない情報を話してくれる。陽乃閥に所属していた面々も主力のほと
んどは卒業してしまったが、まだ校内にもいくらか存在していた。
素行不良の人間というのは、執行部としてはそれなりに重要な情報
だ。学内で完結するならばいくらでも揉み消しは可能だが、一度外部
に話が漏れてしまうと、それだけ大事になってしまう。外で問題を起
こしそうな人間は、それとなくマークしているのだ。
そんな訳で。まだ生きている情報網から素行不良の生徒について
は川崎って言うんだよね。お兄ちゃん、知ってる
﹂
頂部で縛った、とにかく目立つポニーテール。素行不良という印象は
脳裏に思い浮かぶ。女子にしては高い身長、青白いロングヘア│を頭
素行不良で総武高校の高校一年という情報から、一人の少女の姿が
はなかったが、八幡は川崎という言葉にぴたりと動きを止めた。
小町もダメもとで聞いたのだろう。その言葉に期待するような色
?
116
情報が八幡の元には集まっていたが、ここ最近となるとまだ網に引っ
﹂
掛かっていない可能性があった。
﹁その姉は何年だ
﹂
?
﹁わかんないよ。小町もまだ話は聞いてないし。でも、その子の名前
﹁名前と風貌、解ったりするか
していた八幡の指が、ぴたりと止まる。
を操作した。一年女子で素行不良の可能性アリ。端的に情報を入力
能性が高い。それでもダメ元で当たってみるつもりで、八幡はスマホ
素行が不良になったのが最近であれば、情報はまだ入っていない可
小町の言葉に、八幡は嘆息した。
﹁今年入学したばっかりの一年生だって﹂
?
受けなかったが、思い返してみるとヤンキーと言われれば、そう見え
る気もする。
いや、まさか、そんな偶然は⋮⋮考えを巡らせるが、考えれば考え
る程、その﹃川崎﹄は小町の言う条件に合致するような気がした。
流石に小町も妹で、兄の変化にいち早く気づいた。陽乃と付き合う
ようになってから、友達以外の繋がりは無駄に増えていると聞いてい
る。同級生の姉がその中にはいっていた所で今さら驚いたりはしな
いが、楽天的な小町をしても、その話はデキ過ぎていると思った。
そして小町は、こういう降って湧いた幸運に、素直に感謝できるタ
イプである。兄の正面に回りにっこりと微笑んだ彼女は、兄に無理難
﹂
題を吹っ掛ける時の声音で、おねがいをした。
﹁お兄ちゃん、協力してくれる
ちゃんと人通りの多い所を通って、
﹁一応な。違うって可能性も考えて、その川何とかにも繋ぎを取って
くれ。二人きりにはなるなよ
指定の場所まで連れてこい。不埒なことをされそうになっても安心
しろ。その時は壺と塩の出番だ﹂
﹂
﹁⋮⋮お兄ちゃんだけだと心配だから、学校のお友達も連れてきても
らえる
ないぞ
﹂
﹁そういう悲しい暴露はもう良いから
奉仕部って部活を作って女
陽乃さんから聞いてるよ﹂
!
てきてくれ﹂
﹁りょーかい。あと、壺も塩もなしだからね
﹂
﹁解った。全員の都合がつく日を選ぶから、その日に川何とかを連れ
ける側にも女性がいた方が良いだろう。
りも三人である。女性からの女性がらみの相談であるなら、相談を受
い、微妙に悪意のある伝聞である。ともかく一人よりも二人、二人よ
ていると思っている人間は、八幡を含めて一人もいない。陽乃らし
少なくとも、放課後集まって過ごしているアレを、いちゃいちゃし
﹁内申のためで、別にいちゃいちゃしてる訳じゃないんだが⋮⋮﹂
の子といちゃいちゃしてるんでしょ
!
?
117
?
?
﹁かわいい顔して酷いこと言うな。あの学校の俺の友達は一人しかい
?
?
こっそりと、某通販サイトで壺を検索していた八幡は、小町の言葉
にそっとブラウザを閉じた。
﹁学 校 外 か ら 依 頼 を 受 け る と い う の は、そ う 言 え ば ア リ だ っ た の ね
⋮⋮﹂
うんだけど﹂
一年生の中でも目立つ集団に所属している二人が知らないのだか
ら、学内ではそれ程目立っていないのだろう。素行不良が事実であっ
たとしても、少なくとも同学年の中で実害は出ていない可能性が高
い。
118
依頼と言えば彩加の手伝いでテニスをしたくらいで、残りは自発的
にボランティアをしたくらいである。奉仕部の依頼として、実質的に
はこれが二件目だ。設立の目的を考えるならば、ここで外部からの依
頼に奮起しているところなのだろうが、学校生活のカモフラージュの
側面が強い部活である。人のために、ということでは唯一奮起しそう
な結衣も、部員の身内からの依頼ということで少し気を抜いている風
である。
﹂
﹁ところで海老名さんに由比ヶ浜さん。その川崎さんとやらに心当た
りはあって
﹂
?
﹁私も知らないかな。素行が悪くなったとかなら、少しは目立つと思
と思うけど、姫菜は知ってる
﹁同じクラスにはいないよね。体育とかでも一緒いなったことはない
?
﹁そういう雪乃は知らないのか 実はそっちの学部とかだと話が早
くて助かるんだが﹂
﹂
どうしてゆきのんのこと名前で
!
﹁そりゃあなぁ。今すぐ死ねとでも言われなければ﹂
﹁お姉さんに言われたら何でもするの、ヒッキー先輩
﹂
﹁どうしても何も、こいつの姉からそう言われたからとしか⋮⋮﹂
らみの命令に関しては、特に気が抜けないのだ。
が雪乃本人が陽乃に告げ口をする目もある。陽乃からの、特に雪乃が
目が届かないからと言って手を抜く訳にはいかないし、可能性は低い
だが、そうであるが故に、八幡にとっては絶対のものだった。陽乃の
発的に始めた訳ではなく陽乃から言われたので仕方なく始めたこと
八幡からすれば、実に面倒くさい質問だった。呼び捨ては八幡が自
ループの用事で、今週はほとんど顔を出すことができなかったのだ。
間前のことだ。今週も奉仕部の活動があったが、結衣は家の用事とグ
の前、陽乃に連れられて折本に会った時から続けている。それが一週
今この時呼び捨てに気づいた結衣であるが、呼び捨てそのものはこ
結衣にしては、凄い剣幕である。
呼んでるの
﹁ちょっと待つし、ヒッキー先輩
﹁そうか⋮⋮まぁ、難しいところは会ってみてだな﹂
交流がほとんどないから解らないわ﹂
﹁うちのクラスには川崎さんというのはいないわね。他のクラスとは
?
﹁それじゃあ、私も姫菜って呼んでくださいよ。ほら、親愛の情でも込
ある。
まった奉仕部のメンバー三人の中では、最も八幡に感性が近い姫菜で
葉にならない。うーうーと繰り返す結衣に、助け船を出したのは集
感性とは無縁に生きてきた。何か言葉を続けようとするが、上手く言
ることもある結衣は今まで、誰かのために何でもするという極まった
でない人間には馴染みが薄いものだ。友人からは犬っぽいと評され
犬を自認する八幡からすれば当然の返答であるが、その感覚はそう
まった。
一瞬も躊躇わずに答えた八幡に、質問した結衣の方が絶句してし
!
119
!?
めて﹂
﹁陽乃がそう言ったらな﹂
笑顔ですり寄ってくる姫菜に、八幡の答えはにべもない。雪乃を呼
び捨てにすることにまだ違和感があったが、それもいずれ慣れるだろ
う。三 人 い る 中 で、一 人 だ け が 呼 び 捨 て に さ れ て い る。見 る 人 間 に
よってはそれは特別扱いとも言えるものだったが、名前で呼ばれた雪
乃と言えば、結衣の八幡への追及も、姫菜の要請にもどこ吹く風だっ
た。
それでも、それが当然という風ではない。雪乃を名前で呼ぶ人間
は、家族以外では皆無と言って良い。一番呼ぶのが姉で、次が父親、そ
の次が母親だ。家族以外で、それも男性に呼び捨てにされることは、
高校一年とまだ幼く、多感な時期である雪乃にとってそれなりに衝撃
的なことだったのだが、姉に付き合わされたあの日以降、一週間も時
間があったことで、どうにか表面を取り繕うことくらいはできるよう
になった。
八幡が感じている以上に、雪乃もまた、違和感を覚えているのだ。
その微妙な感情の機微を見抜いていたのは、その場の人間では姫菜だ
けだった。腐った妄想を脳内ではかどらせながら、ぐふふと笑みを漏
らす。彼女の脳内では男性に変換された雪乃が、八幡にあれやこれや
されているのだが、その妄想には口を挟まないというのが奉仕部の暗
黙の了解である。
姫菜の要素を見て、逆に冷静さを取り戻した結衣は、呼び捨ての件
でさらに食い下がろうとしたが、その時には八幡は歩みを進めてい
た。声をかけそこなった形になった結衣は唸り声を挙げたが、友人の
不満そうなその態度に、雪乃は口を挟むことができなかった。
自分の友人であるという事実、ただ一点において姉は結衣のことを
許しているが、八幡が死にそうになったという事実については、恐ろ
しいことにまだ彼女の中では整理がついていないようである。結衣
とはまだ顔を合わせていないが、下手にちょっかいをかければ怒りが
ぶり返す可能性もある。雪乃の目から見て、結衣が八幡のことを憎か
らず思っているのは良く解るのだが、そろそろ自重させた方が良いの
120
ではないか、というラインに結衣の態度は迫りつつあった。
元々、親しい人間とは距離感の近いタイプなのだろう。同性である
雪乃も、たまに結衣との距離感を測りかねている所がある。男性の八
幡ならば猶更だろうが、姉に鍛えられた犬は、年頃の男性ならば挙動
不審になりそうな結衣の距離感にも冷静だった。あまりにも冷静な
その態度は、お前らとは経験が違うのだと言われているようで、少々
気分が悪い。
少女らの心中で様々な感情が燻っているのを気にもせず、ぷらぷら
と歩みを進めた八幡が待ち合わせのファミレスに着くと、その姿を見
つけた小町が窓際の席で軽く手を振っきた。その向かいにはこざっ
ぱりした恰好の男子が座っている。愛する妹が知らない男子と向か
い合わせに座っているという事実に、八幡の心は瞬時に苛立ったが、
そんな八幡の肩を軽く叩く者があった。
﹁ただでさえ怖い顔が、人殺しの形相になっているわよ﹂
微かな苦笑を浮かべた雪乃である。妹と男が一緒にいるという事
実の前には、そりゃあ気分の荒立つだろうと思うが、公衆の面前で人
殺しの形相というのも具合が悪い。顔の筋肉をほぐすようにしなが
ら歩いた八幡は、雪乃たちを伴ってファミレスに入った
﹁お兄ちゃん、来てくれてありがとう。こっちが川崎大志くん﹂
﹁今日はよろしくお願いします、お兄さん﹂
﹁小町の頼みだからな。後言っておくが、二度と俺をお兄さんとか呼
ぶな﹂
怖い顔をしないようにと、僅かに努力しようとしていた気持ちを
あっさりと放棄して、八幡は全力での不機嫌な顔と声音でもって大志
に詰め寄った。妹フィルターを持っている小町をして、インテリヤク
ザと言わしめる風貌である。ただの中学生である大志にとって、それ
は恐怖以外の何物でもなかったが、恐怖で硬直する彼を救ったのは、
八幡にとっては女神に等しい小町の行動だった。
友人相手に凄んでいる兄の頭に拳骨を落とすと、全力で自分の隣の
席に座らせる。頭を押さえながら自分を見る兄に、小町は小さく舌を
突き出した。かわいらしい仕草に、対面の席に座った大志がぼーっと
121
するのが見えた。即座に脛を蹴り飛ばすと、大志は軽く悲鳴を挙げ
る。テーブルの下で何かをしたのは解ったのだろう。小町がまた拳
骨を放つが、これが兄として当然と思っている八幡は、悪びれる様子
もない。
兄の子供っぽい姿に深々と溜息を吐いた小町は彼を放って、同道し
てきた雪乃たちに目を向けた。
﹁はじめまして。妹の比企谷小町です。兄がいつも、お世話になって
ます﹂
﹁雪ノ下雪乃よ。聞いていると思うけど、その人のご主人様の妹にな
るわ。よろしくね、小町さん﹂
﹁海老名姫菜です。部活の後輩⋮⋮ってことで良いのかな。八幡先輩
には、いつもお世話になってます﹂
小町の初めて顔を合わせた二人は、自己紹介をした後八幡たちの隣
のテーブルに腰を下ろした。三人の中で唯一、小町と初めて会った訳
122
ではない結衣は、小町を前に不安そうな顔をしていたが、兄が事故に
﹂
あった事実など知らないとばかりに、小町は努めて明るく結衣に話し
かけた。
﹁お久しぶりです。一緒の部活だったんですね
ヘア│で、このくらいの位置で髪をシュシュで縛ってる。細身で切れ
﹁お前の姉ちゃん、俺と同じくらいの身長だろう。青白い色のロング
示していた。はぁ、と小さく息を漏らした八幡は、言った。
ど合致している諸々のことが、眼前の少年と彼女が姉弟であることを
だまだ他人の空似と言える範疇であるが、年齢、性別、名字、所属な
た。八幡の記憶にある﹃川崎﹄と大志は地味に面差しが似ている。ま
そうでなければ良いなと思っていたのだが、彼の顔を見て確認し
に視線を戻した。
と、型通りのやり取りを横目で眺めていた八幡は、正面に座る大志
よろしくお願いします﹂
﹁学校で話し相手がいるようで、嬉しいです。これからもうちの兄を
す﹂
﹁うん。その、ヒッキ││比企谷先輩には、いつも良くしてもらってま
?
﹂
長の目。どちらかと言わなくても、パッと見は怖い印象の﹂
﹁ど、どこで見たんすか
姉がどこで働いているのか解れば、問題の半分は解決するのだ。身
を乗り出して問い詰めてくる大志に、八幡は彼の本気を見た。本当
に、この少年は姉のことを心配しているのだろう。家族に対して心を
砕ける人間に、悪い人間はいないと思いたいが、それでも小町に近寄
る毒虫には違いない。早いところ問題を解決して、永久にお引き取り
を願おう。そうしたいのは山々な八幡だったが、大志の姉である所の
川崎││下の名前は確か沙希だったと思う││とは、あまり顔を合わ
せたくない事情があった。
しかし、それは八幡と沙希とついでに言えば、その時その場にいた
陽乃の都合であって、それ以外の人間には関係がない。姉の問題の手
がかりを持っていると確信した大志は、梃子でも動かないという顔で
八幡の目をまっすぐに見据えていた。
根負けしたのは、八幡の方だった。
﹂
今日仕事なら、今日話を着けてくる﹂
ありがとうございます
﹁姉ちゃんのシフトは解るか
﹁本当ですか
!!
?
﹂
が合流するよりも前にバイト先を変えられるようなことになったら、
また最初からだ﹂
﹁比企谷くん、まさか一人で行くつもり
は心細い。こいつから今日だって連絡があったら、今日決行ってこと
﹁そうだ、と言えると心強いんだけどな⋮⋮悪いんだが、一人で行くの
?
ヒッキー先輩とゆきのんだけで行くの
で手伝ってもらえると助かる。ジャケット着用の店だからそれなり
の恰好をして││﹂
﹁ちょっと待って、待って
﹂
!
そうい
の 恰 好 じ ゃ な い と 門 前 払 い さ れ る と こ ろ だ。俺 は 一 応 そ う い う 服
持ってるし、雪乃も持ってると思うが、お前ら持ってるか
う服﹂
?
123
!?
﹁ただ、何かしてるってことはなるべく気づかれないようにな。俺ら
!?
﹁話聞いてただろ。こいつの姉ちゃんがバイトしてるのは、それなり
?
﹁でも仲間はずれは善くないと思いまーす﹂
ぐぬぬ、と呻く結衣に、姫菜が助け船を出す。結衣と同じく持って
いはいないのだろうが、こちらは置いて行かれるつもりはないと目で
言っている。置いていくのは簡単だが、姫菜のこの顔は、そうなった
場 合 は 勝 手 に こ っ そ り と 着 い て い く と 言 っ て い る。一 緒 に 連 れ て
﹂
行った方が、おそらく被害は少ないだろう。
﹁こいつら用の服って、見繕えるか
ら﹂
今日は、皆でおしゃれしてデートで終わりですか
﹂
﹁でも八幡先輩。バイト掛け持ちの可能性もありません
そしたら
﹁遅くなっても戻ってこないようだったら、これで連絡してくれ﹂
は、大人しく大志とアドレスの交換を済ませた。
あんまり兄ぶると、しばらく口を利いてくれない気配を感じた八幡
せている。
町に近づかないようにと釘を刺したいのだが、隣では小町が目を光ら
が見えたばかりの大志はそれに気づかない。八幡としてはもっと、小
不満がありありと顔にあふれているが、姉の問題を解決できると希望
アドの交換をした。こういうことでもなければ絶対にしないという
そうにあやす雪乃を横目に見ながら、八幡は義務的に大志と番号のメ
感激して抱き着いてくる結衣を鬱陶しそうに、それでもどこか嬉し
﹁ありがとー、ゆきのん
﹂
﹁多分大丈夫よ。姉さん程ではないけれど、私も結構な衣装持ちだか
?
?
他にも沢山いるのかしら
﹂
﹁知り合いであって友達ではない。友達の少なさなら自慢できるぞ
何しろ一人しかいないからな﹂
の友達が少ないことの、何が不満なんだろうか。本気で首を捻った兄
の姫菜でさえ、八幡が見て解る程度には不満そうな顔をしている。俺
部の面々は一様に不満そうな顔をした。結衣と雪乃ははっきりと、あ
八幡としては会心のネタのつもりだったのだが、それを聞いた奉仕
?
﹁この間の一件と言い、不思議な女性の友人がいるのね。もしかして
﹁バイトはあそこだけだ。本人が言ってたんだから、間違いないだろ﹂
?
124
!
?
を見て、隣に座っていた小町は深々と溜息を吐いた。
125
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
﹁遅いよヒッキーせんぱ、い⋮⋮﹂
八幡の声に振り返った結衣は、彼のその姿を見て声を詰まらせた。
遅れて振り返った雪乃と姫菜も、八幡の姿を見て同様に固まってい
る。
それくらいに、八幡の面差しは変わっていた。上等なオーダーメイ
ドのスーツにオールバックに撫でつけられた髪。極め付けはノーフ
レームのメガネである。度の入っていない伊達メガネだが、本人は悪
い目つきを少しでも和らげるつもりで買ったのに、逆に悪い目つきを
強調する結果になっていた。
スーツも相まって、その風貌はまさにインテリヤクザそのものであ
る。これで強面の子分でもいたら本職と勘違いされても不思議はな
﹁そうか、ヤバイか⋮⋮﹂
実を言えば最初に小町にこの恰好を見せた時も、似たような感想を
言われたのだ。ただでさえ怖い感じなのに、正真正銘の本物に見える
と。
本物、という響きは悪い物ではなかったが、この場合の本物とは反
126
いだろう。若すぎるのが違和感と言えば違和感であるものの、そうい
う業界に馴染みのない人間ならば、そうかもしれないと思わせるには
十分な雰囲気があった。
揃って仲良く固まった三人に、八幡は自分の服装を見下ろしてみ
た。自分が持っている服の中で、文句なく一番上等な服である。金を
出したのは陽乃なことが懸念材料ではあるが、今日の目的を考えれば
服の来歴は問われないだろう。事実、結衣と姫菜が着ているのは雪乃
の借り物である。雪乃の服を結衣が着れるか心配だったが、胸がきつ
視力は別に悪くない﹂
いとかそういう残念なことにはなってないようだ。
﹁あぁ。メガネは伊達だぞ
?
いや、そこもだけど、それ以上に全体的にヤバい
﹁そこじゃなくて
!
﹂
よヒッキー先輩
!
社会勢力のことを指す。そういう雰囲気が役に立つ時もあるだろう
が、小町に真顔で言われた時は流石に傷ついた。これを着るのは、本
当にいざという時だけにしようと封印することに決めたのだが、ジャ
ケット着用の店ということで、じゃあこれで良いかと軽い気持ちで着
てきたらこの様である。
﹂
後輩たちの反応に肩を落とす八幡の救世主となったのは、固まって
八幡先輩
いた一人の姫菜だった。
﹁凄いですよ
りとしていた。
私を萌え殺す気
あーもう、今すぐ家に戻ってこの情熱を何かに
!
﹁ど う い う 超 進 化 で す か
ですねそうですね
に、私の理想の鬼畜メガネに変身してくるなんて
い つ も の 腐 っ た 目 つ き で も う 十 分 な の
趣味の講釈を延々と垂れる時の顔をした姫菜に、八幡は早くもうんざ
目な顔立ちの姫菜には良く似合っていたのだが、それ以上に、腐った
道理だろう。黒い、落ち着いた色合いのイブニングドレスは、大人し
性的なスタイルをしている。結衣が着れるならば姫菜も着れるのは
る訳ではないが、ほっそりとしている雪乃に比べると、姫菜も十分女
れも雪乃の借り物なのだろう。結衣ほど女性的なスタイルをしてい
興奮した様子で詰め寄ってくる姫菜も、ドレスアップしている。こ
!
!
﹂
?
の依頼のことだ。
﹁さて、今日はどういう計画で行く
俺が一人でやって良いって言
じ意見だろう。早く紹介したいと思うが、今はそれよりも川崎某から
いる方が割り切って付き合うことができて面白い。陽乃もきっと、同
うんざりするし鬱陶しくも思うが、これくらい趣味も人間も腐って
︵まぁ、そういう所も含めて気に入っている訳だが⋮⋮︶
ければ美少女なのにな、としみじみと思う。
るだろう。それくらいに、今の姫菜は酷い顔をしていた。これさえな
る。仮に姫菜に恋する男がいたとしても、この顔を見たら一瞬で冷め
むはーと熱い息を漏らす姫菜の顔を、八幡は鬱陶しそうに押しのけ
イコーヒャッハー
ぶつけないと、もう本当にどうにかなっちゃいそうです鬼畜メガネサ
!
!!
127
!
うなら、そうするが⋮⋮﹂
﹁えー、最初からそういう計画じゃないの
﹂
﹂
﹁結衣、それじゃ私たちはおしゃれして4Pデートしてるだけだよ
それで良いの
﹁海老名さん、卑猥な言い方はやめてもらえるかしら﹂
のか
﹂
﹂
﹁いや、雪乃が良いならそれで良いんだけどな。お前らもそれで良い
が、雪乃は妙なところで子供っぽい張り合いをする。
御免だ、という思いは雪乃と姫菜と共通していると思っていたのだ
たため、今回は自分で、という思いがあるのだろう。 面倒なことは
な﹄ということである。前回のテニスは肝心なところでガス欠になっ
すまし顔で言うが、要するに﹃自分たちでやるからお前は手を出す
功績があるのだし、ここは休んでくれていても構わないのだけれど﹂
﹁比企谷くん一人に頼るのも悪いわ。貴方には話を早くしてもらった
せてから答えた。
姫菜の言い方に形の良い眉を寄せた雪乃は、少し考えるそぶりを見
?
?
だ。幸い、雪乃は姫菜の不満には気づいていないようだが、今後の円
まぁ、感情の化け物たる陽乃と同じ行動をしろというのも無理な話
ちりと報復するのがお約束である。
に落とすような笑顔で隠すだろう。その後、イラつかされた分はきっ
出るようでは、まだまである。陽乃ならばこういう時、一発で男を恋
まだまだ爆発はしないだろうが、隠そうとしている不満が身体の外に
りと姫菜が﹃この女めんどくさい﹄と思い始めていると理解できた。
と、そして本人は隠していると思えているようだが、八幡にははっき
うーん、と小さく唸った姫菜は、少しだけ困った顔をした。隠そう
ちがやらないと﹂
展開になるに違いないわ。同級生の未来を守るためにも、まずは私た
﹁このインテリヤクザにそんなことをさせたら、18歳未満お断りの
﹁私は八幡先輩の鬼畜メガネなところが見たいんだけど⋮⋮﹂
!
満な関係のためにも注意は必要である。雪乃が視線を逸らしたのを
128
?
﹁ゆきのんがやるなら私も手伝うよ
?
見計らって、八幡は姫菜の後ろ頭を軽く小突いた。振り返った姫菜
に、八幡は黙って首を横に振る。自分がうまくやっていると思ってい
る姫菜は、八幡の仕草の意味が解らず首を傾げた。
埒があかない。そう判断した八幡は姫菜の耳元にそっと顔を寄せ
た。
﹁イライラしてないつもりなら、せめて顔に出すな﹂
まさか、見抜かれているとは思っていなかったのだろう。姫菜は
はっきりと驚きの表情を浮かべ、次いで相好を崩した。そんな言葉を
言われたのは、生まれて初めてだったからだ。この腐った目は自分を
見抜くことができる。そう思うと、自分の感情を含めた全てのことが
些事に思えた。
﹁⋮⋮了解、雪乃くん。鬼畜メガネな八幡先輩が見れて機嫌が良いか
それなら良いのだけれど⋮⋮﹂
ら、今日は雪乃くんに従うよ、私﹂
﹁そう
あっさり引き下がった姫菜に釈然としないものを感じつつも、任せ
てくれるというのならば、それ以上追求することもない。紆余曲折は
あったが、満場一致で先鋒は自分と決まると、雪乃は足音も高く建物
に踏み込んでいった。
八幡はその後をのんびりと着いていく。その細い背中を見るにそ
れなりに自信があるようだが、八幡の見立てでは川崎姉はよほど相性
が悪いと感じない限り、怯まないタイプだ。そして、それなりに頭も
回って弁も立つ。
正直、大上段、真正面から正論で突っ込んでいく雪乃との相性は最
悪と言っても良い。このメンバーなら姫菜の空気で丸め込むか、まだ
結衣が情に訴えた方が上手く行く気がするが、本人が自分でやると
言っている以上、邪魔をするのも角が立つ。後で事態を収拾する面倒
を予感しながらも、八幡は黙って雪乃の後ろを歩いた。
目的の、ハイソなフロアについても雪乃は全く動じなかった。
こういう場所に何度も足を運んだことがあるのだろう。スタッフ
に対する態度も、堂に入っている。半面、庶民丸出しの結衣は、場の
空気そのものに飲み込まれていた。そんな結衣の姿を見て、八幡は懐
129
?
かしい気分になる。
陽乃に最初にこういう場所に連れて来られた時、自分はおそらくこ
ういう態度をしていたのだろう。
美少女である結衣がやると男性は保護欲を刺激されて仕方がない。
事実、陽乃という絶対的な存在を持つ八幡も、今の結衣を見てそんな
気分にさせられていたが、そんな仕草を過去の自分がしているところ
を想像したら、その気持ちも一瞬で冷め、むしろ苛立ちが沸き上がっ
た。美少女ってのは得だなと思いつつ横を見れば、姫菜は物珍しそう
にきょろきょろとしていた。
姫菜も庶民には違いないのだが、結衣ほど動揺はしていない。純粋
に、好奇心を満たすために観察をしているといった風である。姫菜は
姫菜で、やはり肝が据わっている。そんな二人とはぐれたりしないよ
う目を離さないようにしながらも、八幡は遠目に、さっさと歩いて
いった雪乃が仕事を始めるのを見ていた。
バ ー カ ウ ン タ ー の 中 に、川 崎 姉 は い た。女 性 に し て は 高 い 身 長、
整った顔立ち。おまけに客商売なのに人を寄せ付けまいという雰囲
気は離れていても人目を引いた。
雪乃も一目であれが川崎姉だと解ったのだろう。足音も高く歩み
寄り部活を開始したのだが、形勢はわずか数秒で決した。遠目にも解
る雪乃不利の雰囲気に、姫菜が隣で苦笑を漏らした。
﹁雪乃くん、劣勢みたいですよ﹂
遠目に見ても、川崎姉に取り付く島もないのが解る。彼女にすれ
ば、バイト先はここである必要はない。ここで働けないのならば他を
探すだけで、雪乃に比べればまだまだ余裕があった。対して雪乃は、
自分が失敗することなど許せないとばかりに、肩に気合が入ってい
る。元より相性の悪い相手にそれでは、勝てるものも勝てないだろ
う。
川崎姉に関わらず、高校生がバイトをする目的など金以外にあるは
ずがない。金銭を得るために労働をするというのは、庶民からすれば
当たり前の感覚だが、裕福な家庭で育った雪乃は、いまいちそれがピ
ンときていないのだろう。それがまた、雪乃と川崎姉の会話をかみ合
130
わない物にしていく。
金を都合しなければいけない川崎姉は、多少のことでは自分を曲げ
たりはしない。始まる前から上手くいかないだろうことは解ってい
たが、全くと言って良いほど聞く耳を持っていない川崎姉に、ついに
雪乃が焦れ出すのを見て、八幡はようやく助け船を出すことに決めた
先日、川崎姉と知り合った時のことが脳裏を過る。
本音を言えばあまり、川崎姉の前に顔を出したくはないのだが、背
に腹は変えられない。後輩の尻拭いをするのは先輩の義務であり、陽
乃の妹を助けるのは犬の義務だ。
﹁雪乃、交代だ﹂
﹁比企谷くん、私はまだ││﹂
まだやれる。そう言葉を続けようとした雪乃を遮るように、八幡の
お久しぶりです
﹂
姿を見た川崎姉は、ぱっと顔を輝かせ、
﹁八幡さん
葉を続けた。
いとこの問題を解決することはできない。意を決して、八幡は更に言
だが、歌わなければ歌のテストが終わらないように、言葉を続けな
幡を満たしていた。
という名の他人の前で、一人歌わされる時のような嫌な緊張感が、八
ふぅ、と八幡は小さく息を吐いた。音楽の授業の時、クラスメート
﹁俺の後輩だ。それで、俺も同じ事情でここに来た﹂
は││﹂
﹁はい。あれから無事に続けられてます。あぁ、もしかしてそっちの
﹁元気そうだな。バイトも続けてるみたいだし﹂
続けた。
をがりがりとかきながら、八幡は雪乃を努めて無視する形で、言葉を
茫然と八幡を見る。こういう顔をされるから嫌だったんだと、後ろ頭
その声を聴いた雪乃は、今まで険悪な雰囲気だったことも忘れて、
た時とは、雲泥の差である。
そんな、喜色に満ちた声を挙げた。苛立ちと共に雪乃と会話してい
!
﹁そう言えばまともに自己紹介をしてなかったな。俺は比企谷八幡。
131
!
﹂
お前の先輩なのは事実だが、まだ現役の高校生だ﹂
﹁え⋮⋮⋮⋮え
た。
?
﹂
・
・
・
﹁どういうことか説明してほしいのだけど
﹂
ないからな。雪乃の家の車に、一緒に送ってもらえ﹂
﹁そんな訳で、時間がかかりそうだから未成年はもう帰れ。夜道は危
声で言った。
と無言の圧力をかけてくる後輩三人を見渡した八幡は、努めて明るい
たちの所まで戻った。全員の視線が自分に集中している。説明しろ
それじゃ、と川崎姉と会話を打ち切った八幡を、雪乃を伴って結衣
﹁了解。別に急がなくても良いからな﹂
﹁解りました。それじゃあ、八幡さん。十二時に﹂
・
﹁別に構わねーよ。悪口でもなければ、好きに呼んでくれて﹂
﹁すいません、気安く読んじゃったりして﹂
﹁確かに珍しい名前ではあるな。俺の他に見たことないし﹂
﹁いえ、あの、八幡って名前だったんですね。名字じゃなくて﹂
僅かに、朱に染まっている。
り返ると、川崎姉はバツが悪そうな顔をして、視線を逸らした。頬は
は声を挙げた。自分が声を挙げたことに、驚いたのだろう。八幡が振
そのまま、踵を返してテーブルの方へ歩こうとした八幡に、川崎姉
﹁あの
たんだよな確か⋮⋮適当にメニュー見て注文するわ。邪魔したな﹂
﹁解った。それまでここで待ってる。後ここにマッカン││はなかっ
﹁⋮⋮はい。じゃあ、十二時には休憩に入れると思うんで、その時に﹂
﹁これから時間取れるか
休憩の時にでも話せると助かるんだが﹂
混乱している様子の川崎姉を軽く無視する形で、八幡は腕時計を見
?
が、ここはドレスコードがあるような場所であり、自分たちは未成年
表情を浮かべた。部室であれば湯水の如く文句が出てきたのだろう
事実上の敗北勧告とも言える八幡の言葉に、雪乃は心底悔しそうな
寄り道しないでまっすぐ帰れよ﹂
﹁明日な。ついでに問題はこっちの方で解決しておく。念を押すが、
?
132
!
である。何かあったら親を呼ばれる弱い立場であることに違いはな
い。
事実だけを見れば八幡も未成年だ。雪乃たちがそれを触れ回れば
八幡も時間がくれば退店させられるだろうが、そうなると奉仕部とし
て受けた依頼が滞ることになる。報復をするということにだけ着目
するならそれでも良いかもしれない。事実、雪乃はその選択肢にかな
りの魅力を感じていた。
ここにいるのが自分一人、八幡一人ならば確実にそうしたという自
負があるが、近くに姫菜と結衣がいたことが雪乃に理性を自覚させ、
衝動的な行動を押しとどめた。それをしても一時的に心が満たされ
るだけで、誰も得をしないし、何も解決しない。
この場で、最も効率的に事態を収拾できるのが比企谷八幡である。
それをかつてなお程の敗北感と共に自覚したことで、雪乃は撤退を決
めた。
るのだが、陽乃を引き合いに出されてはそうもいかない。雪乃の脅迫
に屈する形で、八幡は渋々イエスと答えた。小さな勝利を勝ち取った
ことに、雪乃は満足そうにほほ笑む。
133
﹁明日、部室で、きちんと報告をすること。それをすっぽかすような
ら、依頼にかこつけて後輩の女子をホテルに連れ込んだと姉さんに証
言するわ﹂
﹁それは、その⋮⋮なんだ、やめてくれ⋮⋮⋮⋮﹂
そんなことをするはずがないと、陽乃も信じてはくれるだろうが、
感情は別のものだ。陽乃の知らないところでその後輩の女子と二人
きりになろうとしていることは事実なのだ。場所も誂えたようにホ
テルに併設されたバーだ。雪乃の言葉も一部事実であることが、その
嘘にも無駄な説得力を持たせていた
﹂
俺部員、お前たちも部員。
﹁それは、取引成立ということで良いのかしら
﹁取引も何も、最初から部活の一環だろ
報告するのは当然のことだ﹂
?
実を言えば、一人で解決してうやむやにしようとしていたことがあ
?
﹁それは良かった。それじゃあ、明日学校で。土産話を楽しみにして
いるわ﹂
134
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
八幡が退院して一息吐いた頃、陽乃から飲みに行こうと誘いがあっ
た。
何をと陽乃は口にしなかったが、それが酒飲みの誘いということは
八幡にも解る。陽乃が大学生になり、八幡がすぐに事故にあったせい
で話が流れていたが、前から行こうと誘われてはいたのだ。確認する
ま で も な く、陽 乃 も 八 幡 も 未 成 年 で あ る。そ の 上 で、陽 乃 は 八 幡 を
誘っていた。
八幡にとって、陽乃の誘いは絶対だ。学校にバレるかが懸念では
あったが、その辺りは陽乃が上手くやってくれると信じることにし
た。
ただ店に行くだけだと思っていたら、陽乃が行きたい店に行くには
準備が必要だと言われた。ジャケット着用が義務の、聊か格式の高い
135
店であるという。そういう場所に着ていける服の持ち合わせはない
ではなかったが、進学祝いということで陽乃がスーツを買ってくれる
こ と に な っ た。進 学 し た の は 陽 乃 な の に、意 味 が 解 ら な い。陽 乃 に
とって理由などどうでも良いのだ。何かにつけて理由をつけて、陽乃
は八幡に物を与えようとする。
最初は自分で払おうという気を持っていたような気もするが、付き
合うようになってからはそれもなくなった。プレゼントの値段は聞
いていないし、深く考えてもいない。どうせ聞いても答えないだろう
し、聞けたとしても払える金額ではない。金のことは極力、考えない
ことにした。
これもある意味、ヒモという奴なのだろう。高校入学時の夢が叶っ
たと言えなくもないが、過去の自分が今の状況を見ても決して喜びは
と陽
しないと断言できた。ヒモにもヒモの苦労があるのだ。それを身を
もって知った、高校三年の春先である。
スーツをオーダーメイドするに当たり、どういうのが良い
せることにした。結果、スーツには何故か伊達メガネがセットになっ
乃が珍しく要望を聞いてくれたが、服飾に希望などない八幡は全て任
?
ていて、髪型はオールバック限定という注文までついた。インテリヤ
クザの出来上がりである。
誰が見てもインテリヤクザとなった八幡が姿見の前に立ったのを
見て、陽乃は腹を抱えて大笑いした。予想以上の出来と褒めてくれた
が、その時のテーラーの引きつった笑みは、八幡の印象に強く残った。
インテリヤクザになったその足で、陽乃と共に向かったのはエン
ジェルラダーという店だった。聞けば、ここのオーナーとは付き合い
があり、顔も聞くという。夜遊びに使ったこともあるとか何とか。値
段を見ないようにしながら、メニューを眺める。当然、酒など自発的
と聞くと、陽乃が﹃こう頼むのがかっこいい﹄という
に飲んだこともないから、名前を見てもどういう酒なのか解らない。
オススメは
頼み方を教えてくれた。
それは八幡でも知っている酒であり、知っている頼み方だったが、
陽乃はそれをやってこいと言っている。やれと言われたらやるしか
ないのが犬というものだ。やれやれ、と顔に出さないようにしながら
立ち上がると、これから向かおうとしたバーカウンターでトラブルが
起きているのが見えた。
カウンターの中にいたのは背の高い女性店員だった。それに、男が
絡んでいる。一応ジャケットは着用しているが、如何にもなチンピラ
だ。店のハイソな雰囲気にそぐわないダミ声が響くと、女性店員がび
くついた。女性店員は見るからに気の強そうな顔立ちをしていたが、
状況が状況である。大の男に絡まれたら、ビビるのが普通だ。誰もが
陽乃のように図太い神経をしている訳ではないのだ。事実、離れて聞
いている八幡でさえ、一瞬ではあるが気を飲まれそうになった。陽乃
に比べれば怖くも何ともないのだが、それはもう本能的な反応と諦め
るより他はない。
店が店であるから、放っておけば店の偉い人が来るだろう。何しろ
陽乃がお気に入りにして、使い続けている店だ。本来であれば八幡が
割って入るような理由はないのだが⋮⋮ちらと振り返ると、陽乃が
ゴーサインを出しているのが見えた。
正義のヒーローになれとでも言うのだろう。陽乃に女性を助けよ
136
?
うという正義感がある訳ではない。単純に、八幡が自分のキャラに合
わない、正義の味方ごっこをするのを見たいだけだ。娯楽のためにチ
ンピラにけしかけられる八幡は良い迷惑だったが、女性店員相手に凄
むチンピラにもイラっときていたのも事実だ。
問題は、どうやってチンピラを叩きだすかだが⋮⋮考えながら歩い
ていると、チンピラの方が先に八幡に気づいた。
八幡の姿を視界に収めたチンピラは、自分が今まで女相手に怒鳴っ
ていたことも忘れて、硬直した。
それも無理からぬことではある。全身陽乃のコーディネートで一
分の隙もなくなった八幡は、どこから見てもインテリヤクザだ。ハイ
ソな店の雰囲気もあって、それなりの格の人間にも見える。チンピラ
ヤクザの世界も、男を売る稼業であると同時に、縦社会であることに
変わりはない。粗相をすれば指が飛ぶかもしれない世界なのだ。リ
アルに自分の身に危険が及ぶとなれば、誰でも警戒するというもので
ある。ただの粋がっている素人ならば猶更だ。
硬直したチンピラの姿に、八幡ははっきりと自分の有利を悟った。
元より、こんな場所で堅気の少女相手に怒鳴っている時点で、本職で
はないと半ば確信していたのだが、それはそれだ。調子に乗ってメガ
ネをくい、と軽く持ち上げ下からチンピラを睨みあげる。
最近、ますます目力が増したと言われる腐った目だ。見ず知らずの
人間に、全力で睨みつけてやるとその効果は絶大だった。全くひるま
ずに睨みつけてくる八幡に、チンピラは完全に腰が引けていた。既に
逃げ腰になっているチンピラに、八幡は無言で出入り口を顎で示し
た。
雑な扱いに、しかし、チンピラは文句を垂れることもなくそそくさ
を店を出て行った。あちらからすれば、見逃してももらった、という
ことになるのだろうか。ヤクザの世界のことなど知らないが、これか
らも使うかもしれない店にああいう手合いがいるのも困る。少しだ
け住みよい世界にできたと思えば、気分も良かった。
一仕事済んだところで、八幡は陽乃の指令を思い出した。チンピラ
を撃退したことで忘れてくれると良かったのだが、振り向くと陽乃は
137
バーカウンターを示して行け
とのサイン。仕事がまだ終わって
いないことを理解した八幡は、チンピラに近づく時よりも多大な精神
力を発揮して、何やらぽーっとしている女性店員に指示通りの声をか
けた。
﹁ウォッカマティーニ。ステアではなくシェイクで﹂
知 る 人 間 が 聞 け ば 何 を 気 取 っ て い る の か 一 目 瞭 然 の 注 文 で あ る。
注文一つで顔から火が出るほど恥ずかしくなる八幡だったが、幸いな
ことに女性店員は数字三文字で表現される世界一有名なスパイを知
らなかったらしい。八幡の注文にはっとなると、注文を別のバーテン
ダーに伝えに走る。
カウンターに立っているだけで、カクテルが作れる訳ではないよう
だ。新 人 な の だ ろ う。見 た 限 り、自 分 と 同 じ く ら い に は 若 く 見 え る
⋮⋮というか、ここで働くには若すぎる気がする。注文ができるまで
﹄
の間に何となくスマホを操ってその懸念を陽乃に伝えると、彼女は即
座に返信してきた。
﹃八幡の魅力でたらしこんでみて
視線を向けると、陽乃がひらひらと手を振ってくる。陽乃を見た女
﹁なに。連れがやれって言ったからやったまでだ﹂
﹁はい。あの、助けてくださってありがとうございました﹂
﹁災難だったな﹂
勢に影響はない。
して最低なのだ。多少最低スパイスを加えた所で最低に違いなく、大
ともできる。明らかに最低の発想だが、元より女王様からの命令から
だが見方を変えれば、これ程後腐れのない人間もいないと考えるこ
の高い相手だった。
わらず苦手なままな八幡に、初対面の女性というのはかなりハードル
も、人付き合いが良くなった訳でもない。人付き合いそのものは相変
るようにはなったが、別に魅力的なトークができるようになった訳で
に面倒臭い命令である。こいつはイモだと思えば普通に他人と話せ
その文面を見て、八幡は頭を抱えた。今までの命令の中でも最高級
!
性店員は一瞬だけ残念そうな顔をした。夜のバーに男と女。それが
138
!
意味する関係は一つである。
﹁それはそうと⋮⋮﹂
陽乃から視線を戻した八幡は、指で女性店員を呼び寄せる。素直に
顔を寄せてきた女性店員の頬は、朱に染まっていた。見た目の割りに
ウブな反応に心中で戸惑いながらも、八幡は思ったことをそのまま口
にする。
﹁お前、年誤魔化して働いてるだろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何をおっしゃいますか﹂
﹁あぁ解ってるよ、冗談だ﹂
欠片も冗談ではないといった口調で、八幡は苦笑を浮かべた。冗談
ということで済ませてやる、という半ば脅しのようなものだ。女性店
員の顔に、緊張の色が浮かぶ。どの程度誤魔化しているかにも寄る
が、未成年が夜のバイトをしているとなれば、それがバレた時親の呼
び出しは免れないだろう。
という体で探りを入れてみると、何と同じ高校
139
そうなれば、今後の学生生活にも制限が付くことになる。どうして
もここでバイトをしたいという風には見えないから、目的は金を稼ぐ
ことであるのは間違いない。最悪、バイトは他を探せば済むが、出足
で躓くと後が続かないものである。
ここのバイトも始めたばかりのようだし、本人的にはここで続けた
いところだろう。実に突き甲斐のある弱みであるが、八幡程他人の人
俺は総武高校﹂
生に興味がない人間もいない。
﹁どこの高校だった
て割に合わない。
も一緒なのだ。たらしこむつもりが弱みを握られたのでは、全くもっ
行動がバレるようだと困る。年齢を誤魔化しているのは、八幡も陽乃
十分に変装できているとは思うが、学校で顔を合わせた時に今日の
同じ高校というのはあまり良いことではなかった。
きそうで気分が悪いが、実際、今現在も通学している八幡からすると、
だった。意図しないところで、大当たりが出る。これから先不幸が続
卒業した高校は
﹁あ、私も一緒です﹂
?
?
どうしたものか。考えていると、注文したウォッカ・マティーニが
届 い た。持 っ て き た バ ー テ ン ダ ー は 八 幡 に 軽 く ウ ィ ン ク を す る と、
そっと顔を寄せた。
﹁先ほどはありがとうございました。雪ノ下様にはお世話になってご
ざいますので、こちらはサービスになります、とよろしくお伝えくだ
さい﹂
﹁何か、すいません﹂
思わず素で返してしまった八幡に、バーテンダーはとびきりの営業
スマイルを浮かべた。
﹁当店の従業員を助けていただいた訳なのですから、当然です。お客
様も、くつろがれますよう﹂
一礼し、去っていくバーテンダーの背中を見ながら、注文したカク
テルに口をつける。舌がひりつくくらいに冷やされたそれはどうも
強い酒だったようで、一口飲んだだけで頭をふらふらした。思わず頭
140
を押さえた八幡に、八幡の名を呼んだ陽乃は指で﹃戻ってこい﹄とい
う仕草をする。
﹂
﹁連れが呼んでるんで、戻る。バイト頑張ってな﹂
﹁あの
﹁私、川崎沙希といいます。今日は本当に、ありがとうございました﹂
女性店員は呼び止めた。
もう関わることもあるまい。軽く手を振って去ろうとした八幡を、
!
その出会いは、沙希からすればそれなりにキレイな思い出だったの
だろうと思う。
だが八幡はあの日、慣れない酒で存分に酔わされ、陽乃がこっそり
と取っていた部屋に連れ込まれた挙句、美味しく頂かれてしまった。
翌朝、信じられない程の頭痛で目が覚めると、隣では陽乃が気持ち良
さそうに眠っていた。同じくらいの量を飲んだはずなのに、どういう
理不尽だろう。心中で嘆いてみても、現実は変わらなかった。八幡に
とって頭痛で終わったその日の記憶は、どちらかと言えば後味の悪い
ものだった。
﹁お待たせしました﹂
十二時少しを過ぎた辺りで、沙希は八幡の待つテーブルにやってき
た。ベストを脱ぎ、上にジャケットを羽織った状態である。休憩中の
141
従業員と言った装いにこれで良いのかとバーカウンターを見れば、あ
の日、ウォッカマティーニを持ってきてくれたバーテンダーが、今日
もウィンクを返してくれた。問題なし、という店側のリアクション
に、軽く溜息を吐く。
﹁うちの弟が迷惑をかけたようで、申し訳ありません﹂
﹁他人には実感が湧かないかもしれんが、学校での俺にとってはこれ
が仕事のようなもんだ。お前が気にすることじゃない﹂
それは八幡の本心だったが、義理堅い性格、というよりは他人に借
りを作るのが嫌いな沙希は、自分の弟が恩人を引っ張り出したことに
かなり負い目を感じていた。見るからに恐縮した様子の沙希に、八幡
は苦笑を浮かべる。
﹁これも部活動なんだよ。実を言えば推薦の内申のためにやってるこ
とだ﹂
学費のために働い
?
﹁内申⋮⋮ですか﹂
﹂
﹁ああ。そして、お前にも関係のあることだろ
てるんだろうしな﹂
﹁⋮⋮どうしてそれを
?
沙希にとってはそれは、純粋な疑問だった。何しろ一緒に暮らして
いる弟が、沙希の目的に思い当っていなかったくらいだ。それを他人
に言い当てられるとは思ってもみなかったのである。近しければ近
しい程その人間を理解できるというのは、実のところただの思い込み
だ。距離を取って離れた他人だからこそ、見えるものだってある。沙
希の話は、八幡にとってその典型だった。
﹁弟の話では、夜に出歩いて早朝に戻ってくるようになったのはいき
なりだそうだ。中学までは真面目だったようだし、一緒に暮らしてる
家族から見てそれまで非行の兆候がなかったんなら、そっちの線は薄
い。かと言って、派手に金を使った様子もない。元々真面目となれば
そうなんじゃないかと思っただけなんだが、どうやら本当に本当だっ
たみたいだな﹂
かまをかけた風を装う八幡だったが、実際には半ば確信を持ってい
た。両親共働きという事情と、沙希を含めて子供が複数いることを加
味すれば、川崎家が決して裕福な経済状況ではないことは想像に難く
ない。聞けば、バイトを始めた時期は大志が塾に通い始めた時期と
被っている。いくらかはこっそり家計の足しにもしているのだろう
が、究極的には将来のための貯蓄という線が、濃厚だ。
経済的に苦しい家にとって、大学進学はかなりの負担になる。弟を
大学に行かせる前提なら、姉の状況は更に苦しいと言って良い。奨学
金という手もあるが、将来的に返済しなくても良いタイプのそれは審
査が厳しく、成績が良かったとしても確実にゲットできる保証はな
い。進学そのものが目的であればそれ以外の奨学金でも十分助けに
はなるが、いずれ返済することを考えれば金は用意しておくに越した
ことはない。
とにもかくにも金、金、金である。
八幡の言葉に、沙希は黙って俯いた。
隠れてバイトをすることにしたのは、これ以上家族に負担をかけた
くないと思ったからだ。弟には心配をかけることになったが、実際に
不良になった訳ではないのだから、と内心で言い訳をして、自分を誤
魔化してきた。今日まではそれで自分を騙すことができたが、八幡が
142
同級生を引き連れて店にまでやってきたことでそれはご破算になっ
てしまった。
自分に似て、弟も引かないと決めたら一歩も引かない男だ。明確な
成果が出ない限り、殴られても引かないのは目に見えている。ここま
で話が大きくなった以上、家族の問題になることは避けられないだろ
う。親が腰をあげたら、バイトを始めた理由まで話さなくてはいけな
くなる。家族の負担にはなりたくない。それだけは、何としても避け
たかったことだったのだが⋮⋮
悔しそうに俯く沙希に、八幡は何でもないように声を挙げる。
う
ち
﹁そこで、だ。俺は俺の内申のために、お前に耳よりな話を提供するこ
とにした。まず塾の費用だが、総武高校と提携してる塾でなら費用を
減免できるシステムがある。俺は使ったことないが、調べたからやり
方はくらい知ってる。お前なら申請すれば通るだろう。時間が作れ
るようになったら、教務の方にお前の方で申請してくれ﹂
143
給付の奨学金は狭い門だが、沙希はまだ一年だ。最終的な成績次第
では、それを獲得することも夢ではない。静に手配してもらって成績
を調べたら、入学試験からこっち普通科の中では上位の成績をキープ
している。本腰を入れて勉強すれば、一桁代のキープも十分射程範囲
だ。バ イ ト を し な く て も 良 く、か つ 成 績 も 上 昇 す る。こ れ が 最 善 の
ルートだが、世の中そう上手く運ぶ訳ではない。沙希の精神の安定の
ためにも、ある程度の金策は必要だった。
しかし、できるだけ家族に心配をかけたくないという沙希の願望を
叶えなければ、また今日のような問題が起こってしまう。バイトをす
うちの妹、世界一か
るにしても、沙希が都合の着けやすい時間帯にする必要だあった。
﹁次にバイトだが、うちで家庭教師をしないか
店舗ではなく比企谷家が雇うことになるから、ここで働くよりも手
たんだ﹂
そうだと、女性で、信頼のできる相手がいないか探してるところだっ
い。最初は俺が教えるつもりだったんだけどな、俺相手だと手を抜き
に通ってるんだが、それだけじゃ足りんとうちの両親は判断したらし
わいいんだが残念なことに勉強の方は残念でな。お前の弟と同じ塾
?
取りは低くなる可能性があるが、睡眠時間を削って労働するよりは
ずっと沙希の身には優しくなるはずだ。普通に学校に行き、家族の面
倒を見て食事の準備などをし、夜に家を出て早朝に帰るなんて生活を
いつまでも続けられるはずがない。勤務時間応相談というのは、沙希
にとっては魅力的な条件だった。
﹁それは、八幡さんにご迷惑では﹂
だがあえて注文を
﹁金を払うのは俺じゃないし、勉強を教わるのも俺じゃない。金を出
さない以上、俺が注文を付けるのも筋違いだろ
付けるなら、信頼のおける相手ってくらいだんだが⋮⋮お前は俺の注
文通りの相手だしな。何も不満はない﹂
強いて問題を挙げるならば、川崎家全体と仲良しになり、小町と大
志が親密な関係になることだが、沙希が比企谷家に来る時に一人で来
てもらえば、その心配もない。妹の部屋に他の男があがりこんでいた
ら、と想像しただけで胃がねじ切れそうになるが、その辺りの事情は
沙希も汲んでくれるに違いない。
﹁後はそうだな。給付の奨学金を真面目に狙ってみるのも良いだろ。
進学先が決まってるんでなければ、それを条件に進学先を探しても良
い。その分、一年の今から本腰入れて勉強することになるが、その辺
りはまぁ、頑張って努力してくれとしか俺には言えない﹂
箸にも棒にも引っ掛からない学力ならば目も当てられないが、総武
高校に入学しただけあってそれなりに勉強はできるのだ。家族に負
担をかけないため、睡眠時間を削ってまでバイトをするという選択が
できる人間だ。こつこつ勉強を続けるくらいは、難なくこなしてくれ
ると信じたい。
﹁まぁ、こんなところだな。現時点ですぱっと解決したとは言えない
が、勉強する環境、金銭的な問題、その他諸々、解決する用意がある。
お前が一つ頷いてくれれば、俺はお前の状況を改善するために努力す
る。睡眠時間を削ってまでバイトするよりはマシだと思うが、決める
﹂
144
?
のはお前自身だ。時間をかけて決めてくれて││﹂
﹁お受けします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮もう少し考えなくて良いのか
?
﹁反対する理由が一つも思いつきません﹂
即決に、八幡は逆に不安になった。沙希は芯がしっかりしていて頭
も良いが、それ故に悪い人間に騙されそうな気がした。これが罠であ
るとは欠片も疑っていない様子だ。これと信じた人間には、とことん
尽くすタイプなのだろう。それはそれで長所ではあるが、時に欠点に
もなるのだということは早い内に理解しておいた方が良い気もする。
特に陽乃のような相手だと、知らない内に大失敗をしそうだ。
他人などどうでも良いと思っている八幡だが、結衣とは違った意味
で犬のようなこの少女のことを、他人とは思うことができなかった。
本来ならばこの依頼が終了すれば切れる関係だったはずが、紹介した
バイトのせいで関係を続くことになってしまった。正直に言えば、バ
イトの世話までする必要はなかった。それをしてしまったのは、既に
沙希にそれなりの愛着を感じてしまっているからだ。
頭がそれなりに回って、一本気。陽乃流の言い方をすれば、実に使
145
いやすい女だ。一度しか会ったことのない男の話を鵜呑みにしてい
る辺り、陽乃ならば一言﹃愚か﹄と切り捨てる救い難さであるが、そ
の人間性が八幡は嫌いではなかった。誤解されやすいタイプだろう
が、悪い奴ではない。自分が苦労することを厭わず、家族のために行
動できる優しい人間だ。
そういう人間が、良い目を見てほしいというのは、まだまだ甘いと
いう証拠だろうか。陽乃ならばどう言うだろうと、沙希を前に八幡は
考える。内心はどうあれ、結局は笑って許してくれそうな気がした。
ならばきっと、これは犬として正しいことなのだ。
﹁何はともあれ、よろしくな。いきなり辞めるってのもアレだろうか
ら、ここが一区切りついたらってことで良い。弟の方には依頼完了っ
て話に行く用事があるから、詳細を伝えておいても良いが﹂
﹁いえ、あいつには私の方から伝えます。貯金してることが親にバレ
ると色々と面倒ですから、口裏を合わせてもらわないと﹂
﹁川崎さんちも大変だな﹂
それで八幡さんは、その
﹁八幡さん程じゃ。話をしていて思い出しました。あの日、一緒に連
れられてた方が、雪ノ下陽乃さんですね
?
⋮⋮﹃女王様の犬﹄﹂
﹁一年の間にも悪名が轟いてるようで、何よりだよ﹂
八幡は小さく溜息を吐く。それ程学校の事情に通じていなそうな
沙希ですら知っているのだ。一年でもほとんどは知っていると考え
て良いだろう。陽乃はもう卒業したというのに、大した影響力であ
る。
﹁それを知ってるなら話は早い。陽乃の手伝いをした関係で、教職員
にはそれなりにコネがある。単位をどうこうとまではいかないが、教
務関係の話は通しやすいと思うぞ﹂
﹁その時には、お世話になります﹂
ぺこり、と沙希は頭を下げる。実に従順で、つい先ほど雪乃とやり
あっていた人間と同じとは思えない。当初から考えていた通り、雪乃
とは相性が悪いことを先の会話で証明されてしまった訳だ。推薦の
内申を上げるため、自分が取った方法と同じものを勧めることが、微
妙に難しくなってきた。
とは言え、推薦を狙うならば部活や委員会活動はしておいた方が良
い。実績が残せないならば同じだという向きもあるが、白紙よりは何
か 埋 め る も の が あ っ た 方 が 良 い と い う の が 八 幡 と 静 の 結 論 で あ る。
欲を言えば生徒会活動などにもねじ込んでおきたいところではある
が、家の仕事で時間を取られるならば、これ以上学校の仕事を押し付
けるのも気が引ける。その辺りは沙希の事情も鑑みて、ということに
なるだろう。
﹁まぁ、話がまとまって良かった。俺はそろそろ行く。あんまり家族
に心配かけないようにな﹂
﹁八幡さん﹂
立ち上がろうとした八幡を、沙希の言葉が押しとどめる。提案に何
か不足があっただろうか。椅子に座り直して正面を見ると、沙希と
まっすぐ視線があった。
﹁内申のために参加してらっしゃる部活について、お話を伺いたいん
ですが⋮⋮﹂
︵あぁ、こういう展開か⋮⋮︶
146
沙希がこういう提案をしてくると想像していなかった訳ではない
が、雪乃と相性が悪いと感じた矢先のことである。例えば雪乃が沙希
の立場だったら、相性の悪い人間がいる部活に、自分から参加をした
いとは言いださないだろう。沙希にすれば、自分が言いくるめた相手
である。雪乃から見た沙希ほど苦手意識はないはすだが、それでも主
義主張が普段からぶつかるだろうことは、想像に難くない。
八幡が内申目的に参加している部活に、雪乃もまた参加しているこ
とは沙希も把握している。それにも拘わらずこういう提案をしたの
は、自分の内面よりも実利を取ったからだ。内申のためならば、そり
の合わない相手がいても我慢する。中々できない選択だが、おそらく
沙希は我慢するだけで、仲良くする努力はしないだろう。部活に波風
が立つのは、今の内から見えているが、自分が内申のために参加して
いると標榜している手前、お前はダメだと断るのは筋が通らない。
どうやって紹介したものか。考えた八幡が、悩んだ末に出した言葉
﹂
147
は、
﹁何か飲むか
希だ﹂
﹁そんな訳で、今日から一緒に部活動に参加することになった川崎沙
た。
なるようになるだろう。適当なところで、八幡は考えるのを止め
﹁じゃあ、オレンジジュースを﹂
?
﹁よろしく﹂
八幡の雑な紹介に従い、沙希がそれ以上に雑な自己紹介をする。追
加で新入部員が来るとは予想していなかったのか、八幡の目の前で雪
乃たちは口を開けてぽかんとしている。そんな少女らを無視して、沙
希はテーブルの一番端を自分の席と決めると、参考書を開いて勉強を
始めた。学校での空いた時間は勉強に使うと決めたらしい。見上げ
た向上心だが、この強面で普段からこれでは、友達はできないだろう。
クラスで孤立しないか心配である。
勉強する沙希を眺める八幡の両腕を、姫菜と結衣が部室の隅まで引
きずっていく。それに、興味なさそうな顔をした雪乃がついてくる形
だ。沙希は部員たちにちらと視線を向けただけである。
﹂
﹁八幡先輩、八幡先輩。本当にたらしこんじゃったんですか 回転
するベッドのある部屋に連れ込んでオールナイトですか
結衣と入れ替わるようにして、今度は姫菜が沙希の隣に座る。攻め手
重ね続けたが、結果は惨敗だった。肩を落としてとぼとぼ戻ってくる
雪乃が消極的な無視を決め込んだ後も、結衣はこれでもかと質問を
のだ。
る。雪乃は雪乃で、奉仕部の平穏無事な空間をそれなりに愛している
い。自分が行動しないことで立てなくても済む波風は、立てないに限
負けるとは思ってもいないだろうが、雪乃も喧嘩が好きな訳ではな
られたばかりで相性が悪いことを自覚しているのだ。全てのことで
は視線を向けることもせずに文庫本に視線を戻した。昨晩、やり込め
そんな結衣を他所に、雪乃は沙希の方を一度見ただけで、それ以降
希も相当だ。
に話しかける結衣も強者だが、集団の中で遠慮なくオーラを出せる沙
いなしている。話しかけるなオーラをこれでもかと出している沙希
絆された。尻尾を振って沙希を構いに行くが、沙希はその悉くを軽く
かいつまんで沙希の事情を説明すると、根が単純な結衣はさっそく
学費のためだったんだと﹂
﹁人聞きの悪いこと言うな。普通に話して、まとめただけだよ。結局、
?
は結衣よりも遥かに緩やかだが、基本的に人間に興味がない姫菜はそ
148
?
れ故に、やろうと思えば適格に急所に踏み込むことができる。適当な
答えはさせないとばかりに攻める姫菜に、沙希は戸惑いを隠せないで
いた。
横目で見ていた八幡は、落ちるのは時間の問題だなと確信し、自分
で入れた紅茶に口を付ける。
気にするなよ﹂
﹁⋮⋮私、川崎さんに嫌われてるのかな﹂
﹁川崎は誰にもあんな感じだろ
振った。
﹂
﹁八幡先輩。サキサキの趣味って何ですか
?
﹂
と頼まれたと解釈した八幡は、姫菜の疑問を
﹁川崎、趣味とか特技って何かあるか
そのまま口にした。
ともかく、聞いて
室の中には一人もいない。
同様に、機嫌良さそうに微笑した雪乃を見ることができた人間は、部
とができたのは、たまたま文庫本から視線を挙げた雪乃だけだった。
ることができた。ヤバい、とはっきりと顔に書かれていたのを見るこ
八幡には解らなかったが、今まさに攻められていた沙希はすぐに察す
問い返すが、姫菜はふふ、とほほ笑むだけで答えない。その意図が
﹁なんで俺に聞くんだよ⋮⋮﹂
﹂
ろうな、と適当に考えていると、姫菜は唐突に振り向き、八幡に話を
いるだけのことはある。自分ではここまでスムーズにはいかないだ
と情報を引き出している姫菜はなるほど、リア充グループに所属して
と怒る結衣を横目に見ながら、姫菜の様子を見る。巧みな手腕で次々
誰と誰が友達になろうが、八幡にはどうでも良いことだ。ぷりぷり
﹁他人事だからな⋮⋮﹂
﹁ヒッキー先輩冷たい
間がかかるらしい。長い目で行けよ。俺は知らんが﹂
﹁何かの漫画で言ってたが、友情って植物は花を咲かすのにとても時
話ししたいよ﹂
﹁でも、ヒッキー先輩には川崎さん優しいじゃん。私も川崎さんと、お
?
八幡の問いに、沙希は一瞬答えを詰まらせた。自分のキャラにあっ
?
149
!
?
ていない特技を口外することを、沙希はあまり好いていなかった。本
音を言えば誰にも言いたくはないのだが、八幡に聞かれたら答えない
訳にはいかなかった。
あ、もしかしてサキサキのシュシュってお手製 すごー
﹁趣味は特に。特技は⋮⋮裁縫、だと思います、多分﹂
﹁裁縫
い、ちょっと見せてー﹂
カップが置かれた。
したままである。どうしたものかと途方に暮れた沙希の前に、紅茶の
しくなってきた沙希だったが、シュシュ一つにまだ二人は興味を維持
沙希は遅まきながらに、それを確信した。いい加減女子二人が鬱陶
やはりコイツとは、ソリが合わない。
り込められた報復なのは考えるまでもなかった。
いる沙希は雪乃の笑みを﹃良い気味だ﹄という風に解釈した。昨晩や
向けられる人間には関係がない。人並み以上の察しの良さを持って
辺りに雪乃の育ちの良さが出ていたが、育ちが良かろうが悪かろうが
科書に乗せても良いくらいの笑顔である。それを、上品なままに行う
人を小バカにした笑みというのは、こういうものを言うのだ、と教
雪乃は、沙希と目を合わせると小さく笑みを浮かべた。
まよわせるタイミングを狙いすましていたかのように視線を挙げた
た。残っていたのは文庫本を読む雪乃だけだったが、沙希が視線をさ
に興味のない八幡は、二杯目の紅茶をいれるべくポットに向かってい
居心地の悪さを感じながら、助けを求め辺りを見回す。女物の装飾
が同年代の同性なのだから尚更である。
るのは悪い気はしないが、それ以上にこそばゆさを感じていた。それ
を見せる機会があるのも、妹くらいのものだ。自分の仕事を褒められ
い沙希は、当然ながら褒められることに慣れていない。そもそも手腕
は遠慮のない歓声を挙げていた。普段、家族とくらいしか会話をしな
を広げているにも構わず、沙希お手製のシュシュの出来に、女子二人
わざとらしく声を挙げた姫菜に、結衣も乗ってくる。沙希が参考書
?
﹁粗茶⋮⋮ではないな、茶葉は良い奴だ。市販の奴よりは美味いと思
う、多分﹂
150
!?
腕前はそれなりだと思うのだが、雪ノ下姉妹の反応は相変わらず手
厳しい。初めて飲む人間にはどうなのだろうと、沙希の好みも聞かず
に勝手に淹れてしまった。ちなみに普段は自分で淹れたいものを淹
れ、飲みたいものを飲むスタイルである。たかが部活仲間に、犬は茶
坊主の真似事をしたりはしないのだ。
沙希は恐る恐ると言った風で、カップに口を付けた。。家にある飲
み物と言えばジュースか牛乳くらいのもの。実を言えばカップに淹
れられたお茶を飲むのも、随分と久しぶりのことだった。久しぶりに
飲んだそれは、適度に温かく上品な味をしていた。正直に言えば物足
りない気もするが、それを差し引いても、
﹁美味しいです﹂
﹁そうか、そう言ってくれるか﹂
部室では久しく聞いていなかった褒め言葉に、気を良くした八幡は
どうだとばかりに雪乃を見た。雪乃は読んでいた文庫本を閉じると、
慈愛に満ちた表情を浮かべる。それで、何も言わない。無言でいられ
る方が、文句を言われ続けるよりも堪えるものだ。何よりも雄弁に内
心を語った雪乃の沈黙が、八幡の心にちくちくと刺さる。
﹁⋮⋮とりあえず、部室では飲み放題だ。道具はそっちにあるから、飲
みたい時に淹れてくれ﹂
どことなくしんなりした様子で、八幡は自分の席に座りなおした。
しょぼくれた八幡を、沙希は不思議そうに眺めていたが、やがて興味
をなくし、勉強に戻った。所定の時間に集まるが、誰もが他人の邪魔
をしない。今日加わった沙希も、必要以上にその領分を犯さなかっ
た。色々あったが、居心地の良い空間は守れらた。八幡からすれば、
当面は、それで満足である。
151
一人を足して、少年少女は山へと向かう
小学生と二泊三日でキャンプ。
リア充感満載な雰囲気に考えただけで吐き気がするが、それも一人
で全ての子供の面倒を見るならばの話だ。そのイベントに参加する
高校生は、何も八幡だけではない。奉仕部からは沙希を除いた全員が
参加し、ここに何故か葉山組が加わっている。
適材適所。何も苦手な人間が無理にその分野に手を出す必要はな
い。得意な人間がいるのならば彼らに任せれば良いのだ。葉山組が
子供の面倒を見るのが得意かなど全く知らないが、リア充チームなら
ばきっと無難にやってくれるだろう。子供たちも、人相の悪い男より
は彼らの方に好感を抱くに違いない。
子供の面倒を彼らが見るとなれば、後は言われたことをただこなす
だけだ。普段やっていることに比べれば、これほど簡単な仕事は他に
ない。二泊三日も拘束されるのは地味に痛いが、これも奉仕部が存続
するためのノルマと思えば腹も立たなかった。
実に簡単な仕事。その認識は、早朝、集合場所に着いた段階で早く
も崩れ去った。
集合場所に、陽乃がいた。思わず二度見してしまったが、間違いな
く そ こ に い た。爽 や か な 夏 の 装 い で あ る 陽 乃 は い つ も 以 上 に 美 し
かったが、見とれている場合ではない。確かに、予め二泊三日で小学
生のキャンプに、という予定を彼女に伝えてはいたが、これは陽乃を
伴わずに遠出する時の義務のようなものだ。
それに対して陽乃は特に何も言わなかった。これもいつものこと
であるから、無意識に気を抜いていたのかもしれない。陽乃に相対す
るのに、安心できる時など存在しないのだ。
にこにこ微笑みながら手を振ってくる陽乃におざなりに手を振り
返しながら、考える。
陽乃が予想外のことをするのは今に始まったことではないから、こ
こにいることそのものに驚く必要はない。そういう気分だから、とい
う理由だけで地球の裏側にでも行けるような人だ。千葉の山奥まで
152
キャンプに行く道中に現れ、合流するくらい何てことはない。
﹁会えて嬉しいですよ。キャンプとか行くんですね﹂
﹂
﹂
﹁小学校以来かな。散策するくらいならたまには良いけど、泊まりは
嫌だよね﹂
﹁それでどうして今回参加を
﹁八幡が行くから、っていう理由じゃだめ
下から覗き込むように見上げてくる。相変わらず、男心を擽るのが
上手い人だ。内心、どきどきしているのを隠しながら、八幡は一つ咳
払いする。
﹂
﹁ダメじゃありませんが、参加することが解ってたら色々とすること
ができたと思うんですがね﹂
﹁前日、私の部屋にお泊りできたね。一緒に楽しく準備したり
﹁⋮⋮まぁ、それは否定しません﹂
﹁八幡のすけべ∼﹂
迎していない人間がいたのだから当然であるが、結衣と同じように陽
結衣は陽乃の顔を見た瞬間に凍り付いた。この世で最も自分を歓
る。
以外で集合し、それがたまたま一緒になったと考える方が自然であ
と姫菜の三人と、それ以外の面々には若干の距離がある。三人とそれ
全員、時間を合わせてきた⋮⋮ように見えなくもないが、雪乃と結衣
雪乃の後ろには結衣と姫菜、それから葉山組の面々がいた。一年は
だったらそうした。
に 押 し と ど め た の だ ろ う。気 持 ち は 解 る。八 幡 も 雪 乃 と 同 じ 立 場
ぐっと身体が動いたのは、そのまま踵を返そうとしたのを理性で強引
その恋人が並んで立っているのを見ると、ぽとりと荷物を落とした。
その黒髪の持ち主││陽乃の妹であるところの雪ノ下雪乃は、姉と
視線を彷徨わせると、視界に隅に綺麗な黒髪が見えた。
と か ら か わ れ る こ と に も な り か ね な い。誰 か 助 け て は く れ ま い か。
が悪くなってきた。ここで更に調子に乗らせると、キャンプの間ずっ
からかわれ始めると、八幡は精神的に劣勢に立たされる。大分旗色
?
乃の顔を見て凍り付いた人間がもう一人いた。葉山組のリーダーで
153
?
?
ある葉山隼人である。
朝からお通夜ムードになった二人と雪乃を他所に、葉山組の男子一
同は陽乃の登場に盛り上がっていた。既に卒業したとはいえ、雪ノ下
陽乃の名前は一年の間でも有名である。生徒会の一色いろはのよう
に、彼女に憧れて総武高校を目指した、という人間も少なくはない。
陽乃本人は、自分のやりたいようにやっていただけと笑うだろう
が、高い進学率などよりもよほど、学園の広報活動に貢献したと言え
る。テンションの上がった男子一同を、陽乃はにこやかに、しかし物
凄く適当にあしらっていた。
八幡から見ると、陽乃が男子一同を路傍の石とも思っていないこと
は一目瞭然だったが、男子一同はそれに気づかない。普通は、陽乃に
微笑みかけられればそれだけで満足なのだ。
男子一同とは対象的に、くるくるした金髪の三浦優美子は、陽乃と
の距離を取りあぐねていた。相手は3つ年上の大学生で、今なお総武
154
高校に異名を轟かせる伝説の女だ。女王力ちからなるものがあると
したら、その強弱は歴然である。
優美子も一年の中ではそれなりの存在感を持っているのだろうが、
こういう時、年齢の差はいかんともしがたい。大人しくしているのが
賢明な判断というものだが、普段通しているキャラというのは簡単に
変えられるものではない。優美子にとってはこの二日間、居心地の悪
いものになるだろう。陽乃の側に、優美子に配慮する気持ちがあれば
別だが、陽乃もキャラかぶりには厳しい。女王キャラは一つの集団に
二人もいらないのである。
陽乃相手に無邪気に盛り上がっている後輩を眺めていると、隼人と
﹂
視線が合った、彼は周囲を伺うと、人目をはばかるようにこっそりと
歩み寄ってくる。
﹁││どうにかできなかったんですか
﹁悪いな。俺も今知ったところだ﹂
?
﹁サプライズって奴ですか。お二人はいつも、こんな感じなんですか
﹂
﹁いやぁ、流石にいつもじゃないな﹂
?
ははは、と乾いた笑いを漏らす八幡に、葉山は苦笑を続けるが、
﹁いつもこんなに温かったら、俺はもう少し楽な学生生活を送れたろ
うな﹂
その発言に、葉山の苦笑は凍り付いた。きっと、今まで色々な苦労
をしてきたのだろう。雪ノ下さんちと家族ぐるみの付き合いとなれ
ば、物心ついた時から陽乃の影が付きまとっていたに違いない。想像
するだけでぞくぞくする環境であるが、この感性を共有できるのは
きっと、今日集まった面々の中では姫菜だけだ。
姫菜は今、旧来の友人であるかのように、陽乃と親しくしている。
ここまで初対面で陽乃と近い距離を取れた人間は、八幡の記憶にある
限りでは一人もいない。仲良くなれるだろうとは思っていたが、姫菜
の距離の近さは想像以上だった。
﹁八幡先輩、八幡先輩﹂
どんよりした葉山と入れ替わるように、姫菜がやってくる。BL話
155
でテンションが振り切れている時を除けば、いつになく興奮した様子
での姫菜に、今度は八幡が苦笑を浮かべた。
﹁仲良くなれたみたいで良かったよ﹂
﹁いやー、凄い人ですね、陽乃さん。私、あんなに上っ面だけの会話を
楽しめたの、生まれて初めてですよ。いるんですね、ああいう人を人
とも思わない人﹂
﹁││お前が言ってると褒め言葉にしか聞こえないな﹂
﹁褒めてますよ 心の底から。私が今まで出会った中で、二番目に
ダメですよ恋人がいるのに。で
?
もでも、そういう路線で燃えるっていうなら私もアシストしちゃいま
﹁隼人くんと何話してたんですか
めて視線を向けてきた姫菜の目は既に、腐りきっていた。
たことで、テンションが上がっているのだろう。それはそうと、と改
やだなー、と背中をバシバシと叩かれる。気の合う陽乃と会話をし
﹁あれ以上が何言ってるんですか﹂
﹁あれ以上がいるとは驚きだな﹂
気が合いそうな人ですね﹂
?
すよ あんな美人の彼女がいるのにイケメンと浮気とか業が深い
?
ですね八幡先輩﹂
﹁お前がいつも通りで俺も安心だよ﹂
ぐふふと妖しく笑って近づいてくる姫菜の頬を無理矢理掴んでタ
コにする。年下とは言え女子にする行いではないが、これくらいで怯
むのであればどんなに楽だったか。どうにか押しやろうと姫菜に抵
抗していると、静がやってくる。貯金を叩いて買ったアストンマーチ
ン・ヴァンキッシュではなく、全員乗れるワンボックスカー。おそら
くレンタカーだろう。自分から手を挙げた訳ではない仕事だろうに
痛い出費だが、経費で落ちるのか他人事ながら心配である。
﹁待たせたな、皆乗ってくれ。ああ、八幡。ナビ役の君は助手席だ﹂
集団の中に座りたくなかった八幡にとって、それは天の助けだっ
た。顔には出さないようにしながら、嬉々として助手席に乗り込む八
幡を余所に、残りの面々がぞろぞろと後部座席に乗り込んでいく。こ
れだけ人数がいると流石に手狭だが、早速集団の中心になりつつある
156
陽乃が音頭を取って座席を割り振っていく。
妹や知人がいるとは言え、初めて会った人間の方が多いのだから、
如何に陽乃でも普段であればもう少し時間がかかっただろうが、陽乃
﹂
の行動に一々姫菜がフォローに回っている。話が早く進んでいるの
はこのためだ。
﹁犬のお株を奪われた形かな
いかということだったのが、陽乃は結衣とはきっぱりと壁を作ること
静が心配していたのは、結衣が言葉なり行動なりで責められたりしな
応で済むが、一度敵と認識した場合、陽乃の行動には容赦がなくなる。
持っていたかを知っていた。興味を持っていないだけならば雑な対
性格を良く知っている静は、同時に彼女がどれだけ結衣に敵対心を
静の言っているのは、結衣とのことだ。雪乃や八幡に次いで陽乃の
たよ﹂
ないか。あいつがここまで大人な行動ができるとは、私は知らなかっ
にはどうしたものかと思ったが、蓋を開けてみれば、何とも無難じゃ
﹁まぁ、そういうことにしておこうか。しかし、陽乃から連絡が来た時
﹁頭数が増えるのは良いことですよ。俺も負担が減るんで﹂
?
で対応していた。
それはそれで大人気のない対応だが、一時期、首でも絞めかねない
くらいだったのを考えれば大した進歩である。これからも雪乃との
友情が続けば、やがてこれも改善されていくことだろう。結衣ともそ
れなりに親しくなってしまった今、犬としては無駄な波風が立たない
ことを祈るばかりである。
﹁子供に悪い影響がなければ良いんですがね。小学生の内からあんな
のに触れて大丈夫なんでしょうか﹂
﹁人生何事も経験だよ。それに、雑に仕事を片付けているのに相手に
そう思わせないのは陽乃の得意技だ。小学生の集団くらい、手足のよ
うに統率するだろう。子供の面倒を見るということだけを見れば、あ
いつ以上に適任の存在はいないぞ﹂
﹁俺は子供はそんなに得意じゃないんで、助かりますが﹂
打算ではなく感情で動く子供は、八幡にとっては苦手なものの一つ
だが、感情の化け物たる陽乃にとっては、御しやすい生物であるのだ
ろう。陽乃が子供が得意というのもイマイチピンとこないが、苦手な
よりは遥かに良い。任せることのできる相手が増えたと前向きに考
えれば、更に良い。
ただ、陽乃がいる以上、ただのキャンプでは終わらないだろう。公
平とか無償の奉仕とかいう言葉と同様、無難や平穏無事というのは陽
乃が嫌う言葉の一つだ。集まっているのは彼女からすれば初対面の
小学生ばかりだろうけれども、その小学生相手にさえ何かやりかねな
い。
﹁そういう時は何とかしてくださいよ、平塚先生﹂
﹁私は生徒の自主性を重んじる主義なんだ。未成年は未成年同士、気
楽になると良い﹂
﹁他人事だと思って⋮⋮﹂
﹁なに、陽乃大学生になったように、君らもいつか成人するんだ。未成
年の内は、未成年にしかできないことをやりたまえ。それは私にはな
い君らの特権だ﹂
﹁俺が大人になったら、先生のアストン・マーチンを運転させてもらえ
157
ます
﹂
﹁それとこれとは話が別だな。でもそのうち、助手席には乗せてやろ
う。緊急脱出のシートはついていないが勘弁してくれ。あれはその
ものじゃなくて、親戚なんだ﹂
﹁ミサイルかステルス迷彩で手を打ちますよ。何はともあれ、楽しみ
にしてます﹂
158
?
番外
番外1 少し前のバレンタインにあったこと
男の戦場。全ての男がギラギラとした気配を放つその日にも、比企
谷八幡は平常運転だった。
内面が色々な意味でアレだけれど、美人でスタイルが良く料理も得
意な彼女がいるから、という事実もその余裕の一因ではあったが、中
学を卒業して以降、自分なんぞに構う人間などいるはずがない⋮⋮と
いう悟りを開いたのも大きかった。
期待をするから幻滅するのだ。最初からそんな都合の良いことは
ないと割り切っていれば、成果が0であったとしてもダメージは少な
い。冷静に考えてみればそれは負け犬の理論であったのだけれども、
高校最初のバレンタインデーを迎えるまでに彼女ができた八幡は、幸
か不幸かその理論を高校で実践することはなかった。
さて、その八幡が登校した二月十四日。世の中の男女の第一次決戦
のその日、登校した彼が下駄箱を開けると、その中にはファンシーな
手紙が一通納められていた。それを見た八幡が最初に考えたのは﹃こ
ういう時にどういう顔をすれば良いのだろう﹄ということだった。
これが中学生の時ならば、見た瞬間に挙動不審になっていたことだ
ろう。確実に悪戯だと理性が告げていても、奇跡を信じずにはいられ
ず、放課後まで淡い期待を抱きながら、結局はすっぽかされたことに
さらに絶望し、とぼとぼと帰路についたに違いない。
中学生の時の可能性を幻視しながら、手紙を取って裏返してみる。
その辺りの店で売っていそうな、如何にも女子が使いそうな封筒だ。
差出人の名前はない。外周を指でなぞってみるが、古典的なカミソリ
攻撃というのでもなさそうだ。日に透かして見ても、固形物は入って
いないように見えた。虫の死骸というケースも、これで消えたことに
なる。
指で丁寧に封印を解き、中から便せんを取り出す。封筒と同じくこ
159
れまた女子らしい見た目の便箋には、しかしあまり女子らしくない綺
麗な字でこう書かれていた。
﹃放課後、待ってる﹄
どこで、という文言はない。それは自分で考えてその場所を見つけ
出し、女王様が飽きてご帰宅される前に辿り着くべし、という勅命に
他ならなかった。文面の意図を理解した八幡の口の端が挙がる。目
つきの悪い八幡がやるとその邪悪さも一入であるが、幸いにも八幡に
視線を向ける人間はいなかった。
手紙を懐に仕舞い、教室に向かう。どこに向かうか。犬にとってそ
んなものは、考えるまでもなかった。
放課後。適当に授業を受けた八幡は、今日は遅くなるという連絡を
した後、最寄の駅に寄った。
こういう時のためにカバンの中には着替えが用意されていた。ト
イレの中で着替えて、鏡の前で髪型を整える。制服を脱いだだけで印
象はそれなりに変わるが、高校生よりも上の年代に見えるかは微妙な
ところだ。
無駄に背伸びをしているような気がする。八幡はこの手の変装が
あまり好きではなかったが、制服でいると余計なトラブルに巻き込ま
れることもある、という陽乃の主張に折れる形で、着替えを常備する
ようになった。制服でいようと私服でいようと陽乃の性格であれば
巻き込まれる時は巻き込まれるのだが、それは気にしないことにし
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た。その程度のトラブルなど、陽乃と付き合ってからこっち、驚くに
は値しない。
私服に着替え、自分の不景気な顔に気合を入れた八幡は、電車に
乗って目的地まで移動した。
あの時は人気もなく静かだった公園は、バレンタインデーというこ
ともあって、男女の人通りが多くあった。それなりに近隣において定
番のデートスポットなのだろう。リア充爆発しろ、とやはり定番のこ
とを思いながら、陽乃の姿を探す。
絶対にここだ、という確信が手紙を見た瞬間からあっての行動だっ
たが、もしいなかったらどうしようという不安は、犬になって一年以
上経っても消えななかった。
これで間違いだったら大目玉だ。バレインタインにすっぽかした
となれば、陽乃のことだ。どんな報復をしてくるか解ったものではな
い。
日も暮れて外灯が灯る頃。思い出のベンチに座っている陽乃の姿
を見て、八幡は小さく安堵の溜息を漏らした。自分の感性が間違って
いなかったことに、少しだけ嬉くなる。
陽乃に声をかけずに、八幡はベンチの端に腰を下ろした。長い足を
組んだ陽乃は、八幡とは逆の端に静かに腰掛けている。
無言の時間がしばらく続いた。煙草でもあれば絵になるのだろう
が、未成年である、という以前に陽乃からは絶対に吸うなと釘を刺さ
れている八幡である。キスが煙草臭くなるのに耐えられそうにない、
とのことだ。女王様にしてはかわいい理由もあったものだが、恋人に
言われては仕方がない。多少の憧れはあったものの、陽乃と一緒にい
る限りは一生涯吸わないと心に決めたのも記憶に新しい。
﹁合格﹂
少し離れた陽乃が、小さく呟いた。拳一つ分くらいの距離を、そっ
と詰めてくる。
﹁良くここだって解ったね。ヒントは何も出さなかったのに﹂
﹁こういう日くらいは、陽乃も雰囲気とかロマンとか、そういうのを求
めるかと思いまして﹂
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苦笑を浮かべた八幡は辺りを見回した。ここは陽乃に告白され、付
き合うことに決めた場所である。他にも思い出の場所は色々あるが、
校外で、今日中に無理なく行ける場所となれば、ここしかないと八幡
は思ったのだ。それでも心配になったのはご愛嬌だが、目の前に陽乃
がいるのだから、何も問題はない。
﹁一応、私も女の子だからね。それに高校最後のバレンタインだし
少しはこういうこともしてみたいなと思ったの﹂
はいこれ、と陽乃が包みを差し出してくる。一目で陽乃がラッピン
グしたものだと八幡には解った。こういう性格でも陽乃は全ての家
事に万能だ。主夫を目指すと自称した身としては、その完璧さに頭の
下がる思いである。
﹁ありがたくいただきます﹂
﹁おかえしは無理しなくても良いからね。心さえ込めてくれれば、私
は何にも気にしたりしないから﹂
それが一番難しいのだ、ということを解った上で、陽乃はそういう
ことを言う。初めての彼女、しかも相手が陽乃ということもあって去
年のホワイトデーには散々悩んだものだ。今年もそうなるのかと思
うと気分も思いが、今年は幾分、その重さを楽しめるようになってい
た。陽乃に毒されているなと思う瞬間である。
言葉の間に、陽乃は少しずつ距離をつめてきていた。離れていた距
離は、既に腕を伸ばせば届くくらいの距離になっている。外灯の薄暗
い光の中、陽乃のはっとする程白い項が見えた。陽乃にしては控えめ
な態度に、八幡は彼女が何を要求しているのかを理解した。自分から
行動する陽乃にしては珍しい欲求であるが、これもバレンタインだか
ら、と言ってしまえばそれまでだった。
八幡のような性格をしている人間にとって、それは羞恥プレイに等
しかったが、陽乃がこういう要求をしてくることなど、いつものこと
だ。そう割り切れば大抵のことはできる⋮⋮はずなのだが、それでも
恥ずかしいものは恥ずかしい。
笑みを堪えながら押し黙っている陽乃の肩にそっと手を置く。僅
かに離れた距離で八幡を見上げる陽乃の顔には、やはり笑みが浮かん
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?
だままだった。言ってやりたいことは山ほどだったが、それら全てを
押し込んで、八幡はそっと目を閉じ││陽乃もそうしているだろう、
ということを確信しながら、顔を寄せる。
ごちん。
決して小さくない音がした。痛みを堪えつつ目を開くと、すぐ近く
に陽乃の顔があった。楽しそうに笑う陽乃の顔を見て、自然と八幡の
頭に浮かんできたのは、ただ一言。
﹁陽乃﹂
﹁もっと呼んで﹂
﹁陽乃﹂
﹁⋮⋮⋮⋮八幡の声にも味が出てきたね。もう一回﹂
﹁陽乃﹂
﹁私 も 雰 囲 気 に 流 さ れ て る の か も。何 だ か と て も 良 い 気 分。次 で 最
後。ちゃんとバレンタインらしい大好きを込めて﹂
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﹁⋮⋮⋮⋮陽乃﹂
﹁うん、良く出来ました﹂
満面の笑みを浮かべた陽乃は、ポケットから取り出したチョコを自
分の口に放り込むと、そのまま唇を重ねた。甘ったるい味が口の中に
広がると同時に、陽乃の舌も侵入してくる。逃げようと思った時に
は、もう遅かった。がっしりと頭を掴まれていた八幡は、陽乃の気が
済むまで蹂躙される⋮⋮
唇を離すと、唾液の糸に外灯の薄明かりが反射していた。真っ赤に
なっているだろう自分の顔を自覚しながら、適度に頬を染めている陽
乃の肩を押す。気持ちが落ち着かない。普通逆だろうと思いながら
も顔を逸らそうとする八幡に、楽しそうに笑う陽乃は無遠慮に身体を
寄せてくる。
﹁あ、八幡のくせに照れてる。かわいー﹂
年に一度なんだから﹂
﹁男にかわいいとか言わないでくれませんか。俺でもたまには、傷つ
くことがあるもので﹂
﹁たまには良いじゃない
満足そうに、よしよしと頭を撫でる陽乃の顔を見ながら、八幡は来
?
月のお返しは何にしようと頭を巡らせていた。あっと驚く仕掛けが
できれば良い。一月もあれば何か、良いアイデアが浮かびそうな気さ
えしていた。来月はこれで勝てる。自分の未来に根拠のない展望を
抱いた八幡は、内心でにやりと邪悪に笑った。
そんな八幡の顔を見ただけで、陽乃は自分の恋人が何を考えている
のか一瞬で理解した。
裏をかけると思っているのならば思い上がりも甚だしいが、努力を
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しようという姿勢が嬉しくもある。それに、普段はあまり見せること
のない八幡の真剣な表情は、決して多くはない陽乃の乙女心を大いに
刺激していた。
これはもう、悪戯をするより他はない。
考えに没頭するなど、女王の前では大きな隙だった。そもそも、ポ
ケットの中のチョコが一つだけだと決めてかかっている辺り、眼前の
ワンコはまだまだ詰めが甘い。
﹂
にやり、と邪悪に笑った陽乃はそっと口の中にチョコを放り込ん
だ。
﹁八幡
振り返った八幡の無防備な顔に、陽乃は勢いよく唇を重ねた。
?