犬とお姫様 ID:39839

犬とお姫様
DICEK
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︻あらすじ︼
陽乃が卒業した後、八幡が三年生、原作同級生の面々が新一年生として入学してきま
﹃女王様と犬﹄の続編です。
す。
原作再構成もの。
主な登場人物
比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、海老名姫菜、一色いろは他、原作同級生メ
ンバー。
陽乃とめぐりは戦隊ものの六人目のメンバーくらいの頻度で登場します。
目 次 やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる
│││││││││││││││
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
│││││││││││││││
こうして、奉仕部は発足する │
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどして
いる │││││││││││││
どう考えても、戸塚彩加は天使である
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
│││││││││││││││
よ う や く、テ ニ ス 対 決 は 決 着 す る ない │││││││││││││
こういう時、ラブコメの神様は微笑ま
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まさかの来客に、比企谷八幡は絶句す
る ││││││││││││││
結 局、折 本 か お り は 何 も で き な い 会う │││││││││││││
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出
い ││││││││││││││
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しな
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139
147
│││││││││││││││
意外なほどに、城廻めぐりは会長をし
ている ││││││││││││
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1
9
19
35
56
70
│
を知っている │││││││││
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する 169
色々あって、比企谷八幡は彼女のこと
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│││││││││││││││
う ││││││││││││││
番外
たこと ││││││││││││
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番外1 少し前のバレンタインにあっ
224
一人を足して、少年少女は山へと向か
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こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
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│
は実家から県内の国立大学に通っている。一度は一人暮らしをしたいと言っていたの
二人しかいない貴重な友人の内一人は、先月総武高校を卒業して大学生になった。今
そして、現在。
知っているはずだが、家の正確な場所は知らないはずである。
が、それも比企谷家とは離れた場所に集合し、解散することが多かった。住所くらいは
生徒会の用事で、あるいは陽乃に巻き込まれて一緒に出かけたこともあるにはある
反対側にあるため、登校はおろか下校も一緒にしたことはほとんどなかった。
は唯一友人と呼べる付き合いのある人間だったが、彼女の家は学校を挟んで比企谷家と
残りの一人は城廻めぐりである。八幡にとっては生徒会活動を供にした、陽乃以外で
るくらいで、それは多くても一月に一度くらいのものだった。
の内一人││雪ノ下陽乃は気が向いた時、いきなりリムジンを家の横につけることがあ
通学を供にするくらいに付き合いのある人間は過去一年遡っても二人しかおらず、そ
一人で通学路を行くのは、比企谷八幡にとって珍しいことではなかった。
やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる
やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる
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で、いずれは部屋を買って││借りて、ではない││大学の近くで一人暮らしをするこ
とになっている。
そうしたら呼んであげるね、と色々と含みのある笑顔で言っていたのを思い出す。
自分の城を持った彼女の家に一人で行くなど、何をされたものか解ったものではな
い。男としての期待は大いにあるが、それ以上に恐怖を感じて仕方がなかった。その恐
怖こそ望むところではあるのだが⋮⋮
ともあれ、現在同じ学校に通っている人間で、辛うじて友達と呼べる人間は、めぐり
一人しかいなかった。他の人間がどの程度友達がいるのか知らないし興味もないが、一
人というのは間違いなく、少ない部類に入るだろう。
そのめぐりは現在、生徒会長をしている。陽乃は誰も公認しなかったので自力で勝ち
とメンバーに誘ってはくれたが、それは丁重に辞退している。
取ったようなものだが、彼女から会長職を引き継ぐ形で生徒会長に就任した。その際、
はっちゃんもどう
期が長期化することになった。その任期の後半には陽乃はいない。彼女の手先となっ
めぐりが生徒会長になった年から、会長選挙の日程が後ろに伸び、めぐりの代だけ任
避けようのないことだった。
いることができたのだ。めぐりの就任時点では陽乃はまだ学校にいたが、三月の卒業は
雪ノ下陽乃という強力な後ろ盾があったからこそ、ぼっちの比企谷八幡でも生徒会に
?
やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる
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て色々やった八幡には敵が多く、庇護のない環境では攻撃をされるだろうことは想像に
難くなかった。
手先になっていたのはめぐりも同様だったが、彼女は彼女なりに自分の支持層を増や
していて、根強い陽乃アンチ派だった真面目層も取り込んでいた。彼ら彼女らに﹃女王
様の犬﹄は受けが非常に悪い。一緒に苦労をした。そのめぐりを助けてあげたい気持ち
がないではない。一緒にいて手伝えることは色々とあったろうが、ダメージの方が多い
ことは疑いようがなかった。
そんなことを一から十まで説明したりはしなかったが、陽乃の下で一緒に働いた仲間
である。八幡の辞退にどういう配慮があったのかは、言葉に出さずとも理解はしてくれ
ただろう。﹃しょうがないね﹄と寂しそうに笑っためぐりの顔を思い出す。自分にもっ
と力があれば、とでも考えていたのだろう。それを慰めるような気の利いた言葉は、八
幡には思い浮かばなかった。
八幡も、それはしょうがないことだと思った。
何でも自分のしたいことを通すことのできる、陽乃のような人間が特別なのだ。大体
の人間は何かを成すのに力が足りないし、それに悔しい思いをするものである。近くで
それを見てきた八幡は、それを嫌というほど思い知った。
そんな絶対者である陽乃も、今はいない。
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個人的な関係は、今もしっかりと続いている。卒業したくらいで、彼女は犬に飽きた
りはしなかった。連絡は一日に一度は絶対に来るし、顔を見て話せるようにと八幡の部
屋にも比較的高スペックのパソコンが設置された。環境が変わる時こそばたばたして
いたが、今では彼女の顔も結構な頻度で見ている。
正直そんなに離れたという気がしないのだ。
だからこそ、学校に行っても陽乃がいないという環境が、八幡にはピンとこなかった。
彼女に連れまわされるようなことが学校ではもうないのだと思うと、無性に寂しくなっ
てくる。
人間強度が下がったとでも言えば良いのだろうか。依存しているつもりはあったが、
ここまでとは思わなかった。これこそ中学を卒業したばかりの時、もう家族以外の人間
を信じるものかと思っていた頃の自分が見たら、絶句するだろう。その依存する相手が
性格以外およそ欠点のない美人だとしたら、夢だと思うに違いない。
赤信号で、足を止める。
通学には少し早い時間だ。何がある、という訳ではないがこの時間に目が覚めてし
まったのだ。学校に行っても生徒会の仕事がある訳ではないし、陽乃に連れ回されるこ
ともない。陽乃がいないと本当に暇なのだな、と思いながらカバンの中を確かめる。参
考書くらいは入っている。学生の本分は勉強だ。図書室辺りで勉強するのも、悪いこと
やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる
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ではないだろう。
陽乃が進学した国立大学は、彼女の学力からすれば大分余裕を持った進学先である。
八幡の第一志望もそこだった。静からはもう少し上を目指したらと言われたが、八幡に
他に選択肢はなかった。陽乃がそこにいるのだから、比企谷八幡に他に選択肢はない。
八幡も三年生で、進学先を本格的に考える時期である。陽乃からは不自然なほどに進学
先に関する質問はなかったが、彼女の方も当然同じ場所に来ると思っているのだろう。
そうであると嬉しい、と思いながら道の反対側を見た。犬を連れた、いや、犬に引き
ずられた少女が走らされている。あれではどちらが散歩しているのか解ったものでは
ない。犬は大変だな、と思いながらぼんやり眺めていると、その犬と目があった。見る
からに単純そうなそのアホ犬は八幡をロックオンすると、一目散に駆けてくる。
おいおい、と思うと同時に右からリムジンが来た。直撃コースだ。そう判断するより
も先に八幡はカバンから手を放し、駆け出していた。柄にもないことをしてるな、と考
えながら、横目でリムジンを見る。何度か乗ったこともある。雪ノ下のリムジンだ。ナ
と思い運転席を見れば、そこにいるのは見覚えのない中年の男
ンバーが一緒だから間違いがない。
もしかして陽乃が
く急ブレーキの音。それでも、リムジンは止まらない。間に合え、と念じながらアホ犬
性。飛び出してきた犬と、それを目指す人間に目をむいて急ブレーキを踏んだ。耳を劈
?
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に手を伸ばし、腕に抱え込む。
八幡にできたのはそこまでだった。
その一瞬後、想像以上の衝撃が八幡とアホ犬を襲い、一人と一匹を容赦なく吹き飛ば
した。
アスファルトの上を転がりながら、それでもアホ犬だけは放すまいと腕に力を込め
る。
ぱたり、と倒れた八幡の腕は、役目は果たしたとばかりに力なくアルファルトの上に
落ちた。何が起きたのか理解していないのだろう。アホ犬は本気に八幡の顔をぺろぺ
ろ と 舐 め て い る。顔 に は ぬ め っ と し た 感 触 が あ る。頭 を 打 っ て 血 を 流 し た の だ ろ う。
人間の血というのは、犬に大丈夫なのだろうか。痛みに耐えながら考えたのは、そんな
ことだった。
人の声が聞こえる。意味まではとれない。朦朧とした意識と激痛の中、眼球を動かし
て空を見上げると、そこに﹃陽乃﹄がいた。真新しい総武高校の制服を着込んだ﹃陽乃﹄
が、八幡を覗き込んでいた。
勝手に一人で卒業したくせに。
決して口には出さず、心の奥に押し込んでいた文句が八幡の中で渦巻いたが、それを
口には出さなかった。卒業したところで関係は変わらない。比企谷八幡は雪ノ下陽乃
の犬なのだから。
絶対に、死んでやるもんか。無事に回復したら、文句や嫌味の一つも言ってやる。犬
陽乃は、比企谷八幡と言う人間を過去のものにするだろう。それは絶対に、嫌だった。
気をしっかり持つと、何だか死なないような気がしてきた。ここで死んだら容赦なく
繋がっているというのなら、犬としてはそれを取り除かなければならない。
うことは、見た目はそれなりに危なく見えるということでもある。それが陽乃の不安に
それくらいなら、おそらくではあるが、大丈夫だろう。見た目ほど重症ではないとい
ほどではない。血こそ出ているが、自分は死ぬかな、と考える程度の余裕はあった。
ようでは、女王の犬とは言えない。身体はバラバラになりそうなほど痛いが、多分死ぬ
だが、らしくないというのなら、それは犬も同じだった。女王の許しなく怪我をする
ながら、つま先で小突くくらいのイカれっぷりがなければ、らしいとは言えない。
い。犬一匹が怪我をしたくらいで心を乱すようでは、女王失格だ。余裕たっぷりに笑い
それではただの美少女だ。雪ノ下陽乃は女王であり、完全で完璧でなければならな
それではいけない、と八幡は思った。
余裕がなく、声もどこか幼い気がする。
いつも余裕に満ちていた﹃陽乃﹄の声には、隠し切れない不安の色がある。態度にも
﹁じっとしてなさい﹂
やっぱり、比企谷八幡は車に轢かれる
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だって、タダで尻尾を振っている訳じゃないのだ。一人で勝手に卒業したのだから、そ
れくらいの報復はあっても良いだろう。
あぁ、でも。
もう見ることのないと思っていた、陽乃の制服姿を見ることができたのは、幸運だっ
た。何を着ていても美人だが、出会った時、彼女が着ていたこの服が一番、八幡の心に
残っていた。
絶対に、死なない。犬の矜持を胸に、八幡は意識を失った。
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
歌が聞える。
耳に馴染みのある歌だ。比企谷八幡の短い人生の中で、一番練習した歌である。
この歌に出会ったのは、去年の文化祭が始まる二ヶ月も前。陽乃の提案で結成された
バンドで演奏した曲の一つで、既存の曲ではつまらないと陽乃が作詞作曲した歌だ。観
客には大いにウケたが、それまでかじった程度だったギターを陽乃の要求通りに弾きこ
なすため、一日4時間の練習を二ヶ月も続けることになったのは、今となっては良い思
い出である。
陽乃の旋律が、途切れる。ちょうどこの後、ギターソロが始まる。トチらずに弾ける
ようになったのは本番の三日前のことだ。本番でしくじったらどうしようと、心臓が飛
び出そうな程に緊張したのを覚えている。
自然に指が動いていた。しばらくギターには触っていないが、あれだけ練習した曲
だ。今でもそれなりには弾くことができるだろう。
本当に穏やかな陽乃の声が聞こえる。影になっていて、顔までは見えないが、陽乃に
﹁⋮⋮お寝坊さんだね﹂
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
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しては珍しく声と同じく穏やかな顔をしているのだろう。首が固定されていて動かな
﹂
い。陽乃が近くにいるのに顔が見えないのは、落ち着かなかった。
﹁俺、どれくらい寝てました
﹂
?
﹁一ヶ月もここにいるんですか俺⋮⋮﹂
全治二ヶ月ってところかな﹂
﹁右足と肋骨が三本と右腕が骨折。筋もそれなりに痛めてて、退院するまでに一ヶ月。
る。
安心すると、自分の現状が良く解ってくる。痛い。動けない。何か色々と不自由であ
うな気がしたが、陽乃の声を聞いたらそんなことはどうでも良くなってしまった。
顔も見えないまま、反射的に答えてしまう。陽乃に対して何か、することがあったよ
﹁それはもう、喜んで﹂
んと埋め合わせはしてね﹂
﹁全くだよ。色々と予定があったのに、八幡のせいでぱぁになったんだから。後でちゃ
ご迷惑をおかけしました﹂
﹁どうすることもできなかったと思いますが、ともあれ死ななくて良かったと思います。
でたらどうするつもりだったの
﹁二日ってところかな。命に別状はないらしいけど、間違いなく大怪我だね。本当、死ん
?
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﹁雪ノ下がちゃんと個室を用意したから、そんなに不自由はしないと思うよ。入院費も
持つから安心して養生してね﹂
﹂
八幡が怪我してまで助けたんだから﹂
﹁それより、あの犬はどうなりました
﹁⋮⋮無事なんじゃない
?
のし損である。
る。一ヶ月も病院にいるハメになったのだ。これであの犬を助けられなかったら、怪我
だろう。これであの犬が死んだとなれば、陽乃の性格ならばそう言っているはずであ
たことを察した八幡は、この話題を振ることを諦めた。言葉の内容からして、無事なの
陽乃の声音に、無視できないほどの険が混じる。一瞬にして機嫌が氷点下まで下がっ
?
のかと思うと、身体の不調も相まって気分が滅入る八幡だった。
孤独を愛するぼっちとは言え、慣れない環境には抵抗がある。ここで一ヶ月も過ごす
なったらホラー度は中々の物になるのではないか。
人という環境には、耐性ができていない。まだ日がある内だから良いが、これで深夜に
に付き合って見聞が広がったとは言え、比企谷八幡は庶民である。無駄に広い部屋に一
個室という配慮はありがたいが、グレードについてはどうでも良いことだった。陽乃
﹁俺相手に何て無駄なことを⋮⋮﹂
﹁あのクソ犬のことはもう良いよ。後、一番グレードの高い個室にしてもらったから﹂
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
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﹂
﹁そんな寂しそうな顔しなくても大丈夫だよ。私が毎日お見舞いに来てあげるから﹂
﹁それは嬉しいんですけど、大学は大丈夫ですか
﹁私を誰だと思ってるのかな、八幡は﹂
﹂
?
﹁嬉しいこと言ってくれるねー。そういう犬っぽいところ好きだよ。八幡が助けようと
ここにあるのだから。
元々一人だったことを思えば、大したことでもない。自分の居場所は学校にはなく、今
が あ れ ば 比 企 谷 八 幡 の 居 場 所 な ど、学 校 の 外 に ま で 吹 き 飛 ば さ れ て い る こ と だ ろ う。
陽乃が卒業した直後から、微妙に風当たりの悪さは感じていた。そこに一ヶ月も空白
﹁0に何をかけても0ですよ。俺の居場所は三月になくなりましたので﹂
居場所を残せるのかな
﹁私の方こそ楽しみだよ。私が卒業したのに一ヶ月も空白期間があって、八幡は学校に
ある。八幡も知らない仲ではない。
で、それなりにお気に入りだ。八幡との恋人関係を、手放しで応援してくれた面々でも
じ大学に進学している。陽乃の言葉を借りるなら、彼女らは決して有能ではないが忠実
も、陽乃ならば余裕で切り込んでいける。そもそも、総武高校からも陽乃派が何人か、同
で陽乃が遅れを取るとは思えない。例えある程度のグループが構築された後だとして
得意気な声に、八幡は思わず苦笑する。人間関係の構築において、たかが一ヶ月程度
?
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したクソ犬より、ずっとかわいい﹂
﹁お褒めいただきどうも。その内嘘でも、かっこいいと言われるように適当に頑張って
みます﹂
﹁それくらい軽口が叩けるなら、大丈夫だね。名残惜しいけど、私は一度帰るよ﹂
﹂
解った。弱さを見せた自分を心の底から面白がっているのだ。
上げた陽乃が、満面の笑みで覗き込んでくる。言葉がなくても何が言いたいのかは良く
言って、自分のあまりに女々しい言葉に、八幡は早速後悔した。パイプ椅子から腰を
﹁もうですか
?
小さく手を振り、陽乃は部屋を出て行った。痛みと動悸が治まると、どっと疲れが出
幡に、陽乃はたった今唇を舐めた舌の意味を変えて答えた。
驚いた八幡がとっさに身体を引くと、全身に激痛が走る。声も動きもなくのたうつ八
にぬめりとした感触。
そっと陽乃のそれが重ねられた。一秒、二秒。これで離れる、と気を抜いた瞬間に、唇
それじゃ、と陽乃が目を閉じて顔を近づけてくる。合わせて目を閉じた八幡の唇に、
﹁それは無理。今日は八幡のかわいさを思い出しながら、ベッドに入ることにするよ﹂
﹁失言でした。忘れてください﹂
﹁明日もくるから、そんなかわいいこと言わないの﹂
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
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てくる。
相変わらず台風のような人だ。身体はびっくりする程動かないが、全身の力を抜いて
ベッドに全てを預ける。
一ヶ月もここで過ごすのは確かに窮屈であるが、陽乃が見舞いに来てくれるのなら
ば、それでも良い気がした。元よりぼっちは他人との交流を必要としない。一ヶ月とい
うのは長くはあるものの、一人でも暇を潰す方法はいくらでもある。優雅に読書しても
良いし、勉強をしても良い。
無理矢理良い方向に考えると、入院生活も悪くないような気がしてきた。
それにはまず、身体を治すことである。
眠気に任せて眠ろうとした八幡を、ノックが邪魔をした。
どうぞ、と答える間もなく、一人の少女が病室に入ってくる。真新しい総武高校の制
服に身を包んだ少女は、ベッドの上の八幡に意識があるのを見るや、目を見開いた。驚
きの表情を浮かべたまま静かに歩みより、ベッドの脇で八幡を見下ろす。
のようね⋮⋮﹂
﹁情報漏洩くらいはあると覚悟していたけれど、貴方の顔を見る限り、それは深刻なこと
﹁軽井沢で会って以来か。話だけは頻繁に聞いてたから、久しぶりって感じはしないが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お久しぶり、と言えば良いのかしら﹂
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ふぅ、と少女││雪ノ下雪乃は小さく息を漏らす。二年ぶりにあった陽乃の妹。姉妹
というだけあって顔立ちは似ているが、こうして見るとやはり雰囲気はまるで違う。前
後不覚になるくらいの極限状況でもなければ、見間違うことはないだろう。どこがとは
﹂
言わないが、陽乃と違って起伏にも乏しい。
﹁今、不愉快なことを考えたかしら
﹁別に何も﹂
先ほどまで陽乃が座っていたパイプ椅子を引き寄せ、座る。
姉と一緒で、勘は鋭い。人でも殺せそうな視線の鋭さを適当にやり過ごすと、雪乃は
?
﹂
?
?
考えて理性的に行動するのは、特に陽乃と付き合うようになってからは当然のことだっ
納得して黙っていた方が、物事はスムーズに進んでくれる。八幡にとって全体の収支を
かったことにはならない。それならば文句を言って他人の気分まで盛り下げるよりは、
今更誰がどうだった、という事実を知った所で怪我をして動けないという事実はな
の事故に関して、お前に言うことは何もないよ﹂
﹁お前が運転してたんなら文句の一つも言ってただろうが、そうじゃないんだろ こ
﹁⋮⋮それだけ
﹁それは気づいてた。あれ、お前が乗ってたんだな﹂
﹁姉さんから聞いたと思うけれど、貴方を轢いたリムジンはうちのものよ﹂
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
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たが、文句の一つも言わず嫌な顔の一つもしない八幡が、雪乃には意外なようだった。
ならその口紅は私の見間違いね﹂
と反射的に身体を動かそうとして、ベッドの上でのたうつ。手で拭うことも
!? ?
た顔立ちのおかげでそれも美人の特徴として捉えられるだろう。華やかな容姿という
雪乃の顔を近くで見るのは、初めてのことだ。陽乃よりも少し目つきが鋭いが、整っ
ベッド脇のウェットティッシュを手に取り、口元に手を伸ばす。
に腹は変えられなかった。
だし、何よりこれを家族に見られたら一月はこの件でからかわれ続けることになる。背
うのが事実であれば放っておくことはできない。少ない見舞い客に見られるのも問題
恋人の妹にそこまでしてもらうのは激しく抵抗があったが、口紅をつけたまま、とい
﹁⋮⋮⋮⋮頼む﹂
﹁まるで芋虫のようね。真摯にお願いするなら口元を拭いてあげても良いのだけれど﹂
かべている。嗜虐的なことに関する限り、陽乃と雪乃の振る舞いは良く似ている。
できず、目で確認することもできない。八方塞になった八幡に、雪乃が邪悪な笑みを浮
なに
﹁そう
﹁まだ病院でいちゃついたりはしてないぞ﹂
病院でいちゃついたりはできないんでしょうけど﹂
﹁あの人の言った通りなのね。気持ち悪いくらいに理性的。そうでなければ、あの人と
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点では陽乃と共通している。
しかし、万人受けしそうな陽乃と比べると雪乃の顔立ちは幾分、怜悧な印象を受けた。
どちらが好みか、というのは人に寄るだろう。八幡個人は無論、陽乃の方が好みである
が、雪乃の方が良いという人間も多いに違いない。
受ける印象が違っても、姉妹と言うだけあって陽乃と良く似ている。似ているとは言
われたことのない比企谷兄妹とは随分な違いだ。
﹁終わったわ。一応、他人の目は気にした方が良いんじゃないかしら﹂
﹁次からはそうする。それからできたら、このことは内密にしてくれると嬉しい﹂
しょうから、それまで寝てなさい﹂
﹁態々来てもらったのに悪いな﹂
?
つめるが、彼女はあっさりと踵を返し部屋を出て行った。無機質な音を立てて閉まった
そこは嘘でももっと、他の理由をつけて欲しかったところではある。じっと雪乃を見
﹁うちの車が轢いた人間だもの。気になるのは当然でしょう
﹂
﹁怪 我 人 を こ れ 以 上 い じ め る の も 何 だ か ら、私 も も う 行 く わ。そ の 内 ご 家 族 も 来 る で
顔は随分と印象が違った。顔立ちが鋭い分、笑顔が際立って見える。
今度は、穏やかに微笑む。邪悪な笑みは陽乃とそっくりだったが、こういう普通の笑
﹁それは貴方の態度次第ね﹂
入れ違いに、姉妹は病室にやってくる
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ドアを見つつ、動かない身体の八幡は寝転がったまま肩を落とす。
人恋しい訳じゃない。
だが、何だか妙に寂しい。
こうして、奉仕部は発足する
﹁八幡、話がある。ついてきてくれ﹂
復 帰 し て 一 日 目。お 見 舞 い に 来 て く れ た 礼 を と 思 っ て 顔 を 出 し た 職 員 室 で 静 に 捕
まった八幡は、不良にカツアゲされるいじめられっこよろしく空き教室に連れ込まれ
た。右手と右足からはまだギブスが外れていないため、歩き難いことこの上ないが、静
は八幡に手を差し出さなかったし、八幡も静に助けを求めなかった。生徒と教師という
間柄ではあるが、ある種対等な関係が築かれていた。
な
﹂
﹁一応確認しておくが、お前の進路は陽乃と同じ大学に進学ということで間違いはない
?
は細心の注意を払っているはずのものだが、静の扱いは随分と雑なように思えた。静は
の書類である。昨今、取り扱いには十分に注意されたし、と教職員の間でも持ち出しに
空き教室に放置されていた机に腰掛けると、静は懐から資料を取り出した。成績関係
まぁ、とりあえず座ってくれ﹂
﹁どうにも一般試験を受けて入学しようとしているようだから、推薦入試を薦めにきた。
﹁その通りですけど⋮⋮どうしたんです、今更﹂
こうして、奉仕部は発足する
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それをぱらぱらと捲りながら、
ておいてくれ﹂
﹁私もそう思うが、そういうのを気にする人間というのはいるものだ、ということは覚え
﹁気にしすぎじゃないですかね﹂
りかねない﹂
も続投というケースは多いからな。問題があって首になった、というイメージにも繋が
﹁一年で終わった、とも取れる。一年で役員をしていたら、めぐりのように二年になって
﹁執行部員を一年やった、というのじゃ不足でしょうか﹂
な﹂
﹁お 前 の 経 歴 に は 部 活 動 を し て い た 形 跡 が 全 く な い だ ろ う。そ れ が 聊 か 問 題 に な っ て
きたな、と八幡は思わず身構えた。早々上手い話など、あるはずがないのだ。
化祭実行委員のへの協力で問題ないだろう。ただ⋮⋮﹂
捉えている訳ではないが、嘘ではあるまい。内申については、一年間の生徒会活動と文
﹁お前がいたからあの程度で済んだと思ってるんだよ、皆な。彼らの認識は真実全てを
﹁大したことはしてないと思うんですがね﹂
プだ。加えて二年間陽乃を支えた実績を、私を始め教職員は高く評価している﹂
﹁昨年度は普通科で年間主席。最新の全国模試も、国際教養科の連中を抑えて学年トッ
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陰鬱そうに、静は溜息を吐く。
﹁部活についても厳密に言えば、あちらの募集要項に必要だという記述はない。﹃部活か
委員会に所属しており、それを引退まで継続している﹄というのは、こちら側が勝手に
成績では問題ないですよね
﹂
設けたハードルだな。必須ではないが、内申に加点される。あったら有利という程度の
ものだ﹂
﹁なら必要ないんじゃありませんか
?
マシなのかもしれない。
とは話が別、ということなのだろう。後一押し、と向こうから声をかけてもらえるだけ、
のしごきのおかげで入学した時とは比べ物にならないほど成績が伸びたが、それとこれ
はない言葉である。推薦にそれが必要、と言われたらもうどうしようもなかった。陽乃
静の言葉に、八幡は何も言えなかった。積極性、協調性。どれも比企谷八幡の辞書に
そういうものだな。お前、成績は良いんだが、どうにもそういうのがな⋮⋮﹂
﹁推薦するにはお前の人間性もアピールする必要があるんだ。積極性とか協調性とか、
?
何しろ、部活である。比企谷八幡は今三年生だ。果たしてこの時期に部活に入ろうと
八幡の声も、重い。
﹁部活ですか⋮⋮﹂
﹁そういう訳で我々も、お前が自発的に何かに参加したという事実がほしいのだよ﹂
こうして、奉仕部は発足する
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いう人間を、受け入れてくれる所があるだろうか。まして純粋に興味があるのならばま
だしも、内申点を稼ぎたいという下心を持った人間である。何を今更と思う人間がほと
んどだろう。
そもそも、そういう人間関係が苦手だからこそ、比企谷八幡はぼっちなのだ。虎の威
を借る狐という認識がある以上、敵対する人間の方が多いとさえ言える。今の時点で入
れる部活があるとは思えない。
だろう。
?
いから、渡りに船だろう﹂
﹁それについては既に一人当たりをつけている。向こうも適当な部活を探していたらし
﹁同好会にしても、俺一人じゃ具合が悪いんじゃありません
﹂
見ない人間にはそれしか見えない。ポイントを稼ぐならば、それで十分ということなの
本物ならばまずそんなことはしないが、書類の上でそうなのだとされたら、書類しか
﹁随分と比企谷八幡がアグレッシブになってますね⋮⋮﹂
ませてあるから、所属する部については何も問題はない﹂
前に口説き落とされた私が、その部の顧問になる。既にめぐりを通して書類の申請も済
させておいた。時間を遡って、お前が設立のために骨を砕いたということにしてな。お
﹁受ける、という前提で話を進めさせてもらうが、既に奉仕部という名前で同好会を設立
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﹁それでも二人じゃないですか﹂
部を設立、あるいは存続させるのに必要な人数は五人、同好会でも三人である。当た
りをつけた一人を合わせても二人だから、同好会の設立にも一人足りない計算になる。
既に設立されているというのなら急ぐ必要はないのかもしれないが、アクシデントとい
うのはこちらの都合を考えずに起こるものだ。数合わせの幽霊部員でも、用意しておく
に越したことはない。
﹁それにしても良くそんな申請通りましたね﹂
けと言われれば出て行くから、何も問題はない。部室も部費も現状必要としていないの
﹁顧問が既に決まっている、というのが大きかったな。部室は空き教室を使うし、出て行
だから、誰も問題にはするまいよ﹂
それでは書類上はともかく、実態はサークル活動と変わらないが、顧問がついている
ということは、何かあった時はその人間が責任を持つということである。 大人しくポ
イントを稼ぐための部活なのだから何か起こるはずもないが、大人がついていてくれる
というのは、こういう時に大きい。
﹂
?
﹁それでは、契約成立だな﹂
﹁それで推薦に有利になるなら、安いものだと思うことにします﹂
﹁で、どうする
こうして、奉仕部は発足する
23
静の差し出した手を、八幡は強く握り返した。これで自分達は共犯、という事実をお
﹂
互い、改めて確認してから八幡は疑問に思っていたことを問うてみた。
﹁後一人について、当てがあったりしませんか
﹂
?
予算は支給されないので会計も書類を引っ張り出したりはしないだろう。後は教室を
部活、同好会に関することで執行部の仕事と言えば予算の編成であるが、同好会には
れば部活の書類など見ない。
が、何の役職もない人間はあの部屋には入りにくいもので、執行部の人間も仕事でなけ
書類は生徒会執行部が一元管理している。総武高校の生徒ならば誰でも開示は可能だ
書類を確認しない限り、書面上の正確な部員数を確認することはできない。部活関係の
みに出る可能性は、低いように思えた。既に書類が受理されているのなら、改めてその
アクシデントのためにそれなりに急いではいるが、実際のところ、同好会の件が明る
﹁よろしくお願いします﹂
﹁全くだな。有望そうな人間がいたら、私の方でも声をかけてみる﹂
﹁ぼっちを捕まえて何言ってるんですか﹂
ところだ。八幡の方こそ、心当たりはないか
とっても邪魔だろうと思ってな。どういう人間に声をかけたものか、地味に悩んでいた
﹁全 く な い。だ が ボ ラ ン テ ィ ア を 真 剣 に や り た い 人 間 は、お 前 に と っ て も も う 一 人 に
?
24
借りるためにも書類が必要であるが、こちらは元々軽いものである。部室、同好会室と
して正式に登録した訳ではないだろうから、他に優先する案件があれば立ち退く必要が
あるが、元より同好会の立場などそんなものだ。正々堂々と放課後に屯できる部屋を確
保できたのだから、まずはその事実を喜ぶことにしよう。
﹂
話は終わり、と白衣を翻して教室を出て行こうとする静の背に、八幡は声をあげた。
﹁今更ですが、もう一人の部員って誰ですか
?
﹂
﹁そりゃあ、もう一人の雪ノ下だよ。陽乃の相手を二年もできるんだから、妹なんて楽勝
だろう
?
にもならなかった。八幡にとって辛うじて友人と呼べるのは、共に生徒会の仕事をした
八幡なりに部員がどうにかならないものか考えてみたのだが、やはりぼっちにはどう
静の背を見送り、時間は流れ、そして放課後である。
世界で一番かわいい妹であるが、その事実だけでも八幡を警戒させるには十分だった。
相手には見えなかった。妹だから、と言って油断はできないだろう。陽乃曰く、彼女は
顔を合わせたのは軽井沢を入れても二度であるが、たったそれだけでも組みしやすい
﹁だと良いんですがね⋮⋮﹂
こうして、奉仕部は発足する
25
26
めぐりだけなのだから、そもそも声をかけられる人間すらいない。陽乃経由で貸しがあ
る人間もいないではないが、陽乃なしではその回収はできないし、する気もなかった。
まさしく、自分の力での勧誘は絶望的である。
新入部員に求められるセンスは、適当さだ。変に正義感の強い人間や、主張の強い人
間は雪乃とぶつかる。かと言って、状況に流されるだけの人間、名義を貸すだけの人間
を雪乃は好まないだろう。
便利な人間が、どこかに落ちていないものか。右手は動かないので、左手で頭をかき
ながら廊下を歩き││その先にいた人間を見て、八幡は思わず動きを止めた。
セミロングの黒髪に、赤いフレームの眼鏡。まぁ、お洒落でかわいい部類に入るのだ
ろう。少し前まで中学生だったことを思えば、十分洗練されているように思う。
しかし、である。
そんな及第点以上の容姿を飛び越えて、八幡がその少女に見たのは陽乃にも通じる内
面のどす黒さだった。普通に歩いているのを遠目に見ているだけなのに、背筋がぞくぞ
くする。陽乃的な感性について、犬の嗅覚は敏感に反応する。何も話さなくても、あの
少女がロクデナシであることが八幡には感じ取れた。
自発的に女性に話しかけようと思ったのは、久しぶりのことである。前はいつだった
か、と思い出そうとして、それが中学生の時のことだと気づいた八幡は、思い出すこと
を止めた。
ともかく、八幡は一目で目の前の少女のことが気に入っていた。多分、陽乃も気に
入ってくれるだろう。陽乃について色々な場所につれまわされたが、こんな人間にはお
目にかかったことがなかった。わくわくしながら松葉杖をついて歩き、少女との距離を
つめる。
もう、顔がはっきりと見える。眼鏡の奥の瞳には、どんよりとした闇が見えたような
気がした。
いか
﹂
﹁なぁ、そこのアリの巣に水を流し込んで全滅させたことがありそうな女子、ちょっと良
る。
と理解していた。足を止め、こちらを見つめる少女を見返しながら、八幡は言葉を続け
をかけられた女子は他に廊下を歩いていた女子はいたのに、自分が話しかけられたのだ
思い返せばあんまりな声のかけ方であるが、八幡はそれで通じると思っていたし、声
?
﹂
?
に声をかけられてこんな話をされれば、大抵の女子は引くに違いないのだが、眼前の少
声のかけ方がアレならば、話の内容はもっと最低だった。目つきの悪い上級生の男子
利が得られる上手い話があるんだが、一枚噛んでみる気はないか
﹁なんちゃってボランティアを標榜するだけで、同好会に入っているという書類上の勝
こうして、奉仕部は発足する
27
女は八幡が感じた通り普通の感性をしていなかった。
﹂
八幡の言葉を聴いた少女は小さく首を傾げると、にっこりと笑った。
﹁面白そうですね。話を聞かせてもらっても良いですか
﹁遅かったわね。待ちくだびれた⋮⋮わ⋮⋮﹂
﹁ええ。そして代表は貴方にしてくれ、とも言われたわ﹂
ないんだよな﹂
﹁あー⋮⋮しばらくぶりだな。ここが﹃部室﹄になるって先生から聞いたんだが、間違い
うことである。
それを取りに行こうとすると、雪乃がさっと進路を塞ぐように動いた。話が先、とい
自分の分を探すが、畳んだパイプ椅子は雪乃の後ろにあった。
張する雪乃をとりあえず無視して、手近にあったパイプ椅子を少女に勧める。さて、と
ると、立ち上がりかけた姿勢で動きを止めた。説明してほしいのだけれど、と無言で主
読んでいた本を閉じ顔を挙げた雪乃は、教室に入ってきたのが八幡だけでないのを見
?
28
﹁まぁ、それくらいなら良いか﹂
﹁それで、私からも聞きたいことがあるのだけれど││﹂
﹁こいつのことだな。実は廊下を歩いてたら有望そうな奴を見つけたんで連れてきた﹂
﹁よろしく、雪ノ下さん﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい。私は貴女を知らないのだけれど﹂
﹁雪ノ下さんは有名だから。あ、私は普通科の一年ね﹂
少女の差し出した手を、雪乃は反射的に握り返した。陽乃の妹にしてはらしくなく、
どうにも距離を測りかねているようだった。少女の態度はなれなれしく見えなくもな
いが、上手い具合に距離を保っている。どこまで近づいたら他人が拒否反応を示すの
か、本能的に理解しているのだろう。この辺りは陽乃に通じるものがあった。浮かべる
笑顔も、どこか嘘臭い。
﹂
?
﹁もしかして、この人の名前も知らない
﹂
﹁というか、会ったのも今日が初めてかな。ですよね
こんな目をした人間、会ったら絶対に忘れるはずがない。そんな八幡の内心を知ら
?
?
﹁少なくとも、俺には会った記憶はないな﹂
﹂
﹁ううん。まずはお話を、ってことで、こちらの人についてきたの﹂
﹁それで、入部希望
こうして、奉仕部は発足する
29
﹂
ず、見知らぬ女性に声をかけて連れてきたという事実だけを見た雪乃の目は、氷よりも
冷ややかだった。
﹁つまり、100%見た目でこの人を連れきたということ
﹂
?
﹁知らないわ﹂
?
うなものじゃないかしら﹂
﹁ボランティアということしか聞いてないもの。多分、知っていることは貴方と似たよ
﹁⋮⋮なんだって
﹂
の活動内容をだな﹂
﹁それに入るって確定した訳じゃない。その辺をはっきりさせるためにも、まずは部活
﹁それはそうだけれど⋮⋮﹂
たことはないだろ
﹁先生にも勧誘できるなら、ってことを言われた。俺らとしても、頭数が揃ってるに越し
いう反応をされたら、流石に八幡でも傷ついてしまう。
らは普通に美女美少女だ。話すのは簡単だが、その上で雪乃に﹃お前は頭がおかしい﹄と
あるのならばまだしも、陽乃や少女にはそれがない。少なくとも見た目の上では、彼女
犬の感性は概ね、他人には理解されない。実際、八幡のように目に解りやすい特徴が
﹁そういう穿った言い方をするな。フィーリングで選んだってのは、否定しないが﹂
?
30
雪乃の言葉に八幡は唖然とするが、考えてみれば雪乃も静に誘われた側だ。全ての事
情を掴んでいるのは、糸を引いた静ただ一人である。雪乃が事情を知っていると判断し
たのは、明らかに早計だ。
﹁なら、先生が来るのを待って、話を聞くか││﹂
﹂
﹂
?
き教室に入ってくる。
ははは、と満足そうに笑いながら、静は気取った仕草で白衣を翻し、部室となった空
﹁まぁな。一度これをやってみたかったんだ﹂
﹁入ってくるタイミングを見計らってましたね
そちらを見ると、そこにはドヤ顔をした静が軽くポーズをつけて立っていた。
あんまりにもあんまりなタイミングで力強く扉が開く。うんざりした表情で八幡が
﹁話は聞かせてもらった
!
なったら、後からハードルを上げれば良いのだ。ところで││そっちの女子は、新入部
﹁積極的にやりたいなら私は別に構わないが、最初の内はそれで十分だろう。やりたく
﹁随分と受身ですね⋮⋮﹂
だ﹂
しい案件を募集し、その中から解決できそうなものを選定し、対応するというスタンス
﹁と言っても、
﹃ボランティア﹄という活動内容に違いはない。学内から広く解決してほ
こうして、奉仕部は発足する
31
﹂
前の生徒会長の補佐をしてた、
員ということで良いのかな。まさか八幡が誘ってきたのか
﹁有望そうだったんでつい⋮⋮﹂
﹂
﹁ハチマンって、もしかして先輩、比企谷八幡ですか
女王様の犬の
?
﹁いらねえよ。どうせ悪い話ばっかりだろ
﹂
?
﹂
﹁何とでも言え。話が大分逸れちまったが、ここは俺も含めてこういう連中がいて、こう
﹁内申点のためらしいわ。考えることが姑息よね﹂
﹁その犬さんがどうして部活を
だったのだ。そこから話を聞いた新一年の評判がどうなのか、考えるまでも無い。
比例して、比企谷八幡の評判は生徒にはあまりよろしくなかった。同級生でさえそう
八幡の問いに少女は苦笑で答えた。実際に、その通りなのだろう。陽乃の大人気に反
?
てる話を詳しくしますけど﹂
﹁先代さんは有名ですから。当然、犬の話も付いて回る訳で⋮⋮良ければ一年に出回っ
にやついた静と、どんよりした顔の八幡二人の視線を受けて、少女はひっそりと笑う。
ろです﹂
﹁俺はどちらかと言えば、一年にまで犬の名前が広まってることに衝撃を受けてるとこ
﹁⋮⋮八幡、お前は自分を知らない人間を連れてきたのか﹂
?
?
32
いう所らしい。個人的にはこのまま入部してくれるとありがたいんだが││﹂
﹂
?
﹁良いですよ。私で良ければ喜んで﹂
﹂
﹁⋮⋮自分で言っておいてなんだが、一度くらい話を持ち帰ったって良いんだぞ
?
筋が通らないし、そういう不安を別にすれば八幡はこの少女のことが気に入っていた。
しばらく考えて、八幡は観念した。何より自分が誘ったのだ。ここで難色を示すのは
確保できる保証はどこにもないのだ。
しかし、他に部員が確保できる見通しはない。ここでこの少女を逃したら、もう一人
ないでもない。
てそのまま連れてきてしまったが、落ち着いて考えてみるとこれで良かったのかと思わ
と思ったのは、何より八幡自身である。そんな相手が一筋縄でいくはずがない。浮かれ
まして相手は、比企谷八幡がフィーリングで選んだ相手だ。陽乃に通ずるものがある
がないと告げている。
叶ったりだが、二年で染み付いた犬の感性が、自分にそんな都合の良いことがあるはず
駄目なはずがない。ただ部員がほしいだけの八幡からすれば、少女の提案は願ったり
﹁私もフィーリングで選びました。それじゃあ駄目ですか
こうして、奉仕部は発足する
33
﹁わかった。とりあえず、よろしく頼む。知ってるって話だが改めて。比企谷八幡だ﹂
﹁私は海老名姫菜です。よろしくお願いします﹂
﹁雪ノ下雪乃よ﹂
﹁平塚静だ。この部の顧問をしている﹂
34
言わなかった。その程度には、放課後、誰にも邪魔されない空間を確保できることが、心
ある。三人全員にとって、生まれて初めての経験だったが、雪乃も姫菜も一言も文句を
休日を潰して本当にボランティア活動を行った。子供に混じって川沿いでゴミ広いで
適当にダベっていただけだ、と気づいた八幡たちは適当に活動実績を作るために月末、
幸か不幸か、深刻な話題も含めて依頼は一件もなかった。これでは放課後に集まって
持ち込まれても困るのである。
だ良いが、恋人が三股かけているのが発覚して別れたい死にたい、という痴情の縺れを
めているのは、学生でも何とか解決できる程よい悩みなのだ。進路相談くらいならばま
いう人間もいるが、そこまで深刻だと今度は奉仕部の人間に対処できない。奉仕部が求
それを良く解らない人間に曝け出せる人間が、どれだけいるだろうか。藁にも縋ると
言い換えればそれは、その人間の弱みである。
に請け負ってもらう、ということに他ならならい。
とを早速やってはみたが、依頼というのは要するに自分では対処しきれない問題を他人
奉仕部という名の同好会を結成して、早一ヶ月。校内から広く依頼を集めるというこ
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
35
地良いことだったのである。
このまま月一回程度のボランティアでお茶を濁して、しばらく過ごそうかしら。三人
全員が本気でそう思っていた頃、思い出したように奉仕部のドアは叩かれた。
つまりは、初めての正式な依頼人である。
ああ、そう言えば陽乃にも良く同じ感想を言われたよ。
?
ねっとりと、しかし的確に急所を抉ってきた陽乃に比べると、雪乃の言葉は鋭くはあ
ちくりとした嫌味を言ってくる雪乃に、八幡は即座に言葉を返す。
流石、姉妹は良く似てるな﹂
﹁自販機よりはまだマシだろ
﹁その割には、味もそれなりよね﹂
﹁例の女王様に何度も淹れさせられたからな。経験値だけはそれなりなんだよ﹂
﹁八幡先輩が紅茶得意って意外ですね﹂
36
るものの、どこか幼い気がする。陽乃ではない、という思いが余裕を持たせる一因かも
しれないが、余裕を持って相対してみると雪乃の毒舌にもどこか親しみが感じられた。
陽乃の名前を出したら案の定、雪乃は不機嫌そうに押し黙ってしまった。陽乃と比較
されるのは相変わらず、好きではないらしい。態度に出るようだとまだまだだな、と八
幡は雪乃に見えないように苦笑を浮かべる。
﹁でも、本当にまったり進行ですよねぇ、この部活。八幡先輩も雪乃くんも、勉強したり
本読んでるだけだし﹂
﹂
?
﹂
?
だが、TSしているのが﹃ゆき﹄の方だったら、そこから先はもう未知の領域だ。で
ば、それなりに楽しんでみることができるだろう。
味がない訳ではない。自分が女になっているという事実にさえ目を瞑ることができれ
同士ならばまだ受け入れることができるし、そういうものも見たことはある。何より興
うことだ。﹃はち﹄がTSしてるなら、男性の八幡としてはまぁ、良い。同性物でも女性
てしまった。八幡にとっての問題は﹃はち﹄と﹃ゆき﹄のどちらがTSしてるのかとい
それだけ聞いて、八幡は姫菜が書いてる小説がどういう内容なのか、ある程度理解し
のか﹃ゆきはち﹄なのか、それが問題ですよね
﹁はい。私TS物って初めての挑戦なんですけど、もう色々刺激的で⋮⋮﹃はちゆき﹄な
﹁そういう海老名は書き物してるな。小説でも書いてるのか
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
37
38
きることなら、と思わずにはいられないが、姫菜が雪乃のことを﹃雪乃くん﹄と呼んで
いる辺り、どちらがTSしているのかは考えるまでもないことだった。
そもそも、比企谷八幡を女性にするよりは雪ノ下雪乃を男性にするほうが無理がな
い。そう思うのは、自分が男性だからだろうか。姫菜に聞けばその辺りの機微も詳しく
教えてくれそうだが、それは聞かない。人間が腐っていると顔を見た時に思ったものだ
が、こういう方向に腐っているとは全くもって予想外だった。
問題なのは、雪乃だ。ホモが嫌いな女子はいないという暴論を聞いたことがあるが、
雪乃までそうだとは限らない。何かと潔癖なこの少女のことである。もし自分が男性
にされて、姉の恋人と絡まされていると知ったらショックで倒れてしまうかもしれな
い。
見てみたいと思う反面、心配でもある。それに愛する妹の学生生活に影響が出たら、
あの歪んだ妹愛を持つ女王様が何をすか解らない。
姫菜の小説は雪乃に見せるべきではない。八幡はひっそりと心に決めた。
この手の創作物を扱う人間は、やたらと他人にそれを勧めたがる物らしいが、姫菜は
書いていることを見られているにも関わらず、八幡が聞くまで内容についてはまったく
口にしなかった。自己主張の少なさは不気味な程である。だからこそ、八幡も雪乃も助
かっている訳だが、今後もこの静けさが続くとは限らない。今が潜伏期間ということも
考えられないではないのだ。
態 々 藪 を 突 い て 蛇 を 出 す こ と も な い だ ろ う。内 容 に つ い て は 全 く 興 味 あ り ま せ ん
よー、という顔をしながら八幡は紅茶セットの前に立つ。元々、生徒会室にあったもの
で、陽乃の卒業と共に八幡に譲渡されたものだ。それなりに値段のするものなので、貰
う訳にはいかないと八幡は断ったのだが、練習用にあげる、と押し切られて八幡の物に
なった。そもそも家では大体マックスコーヒーのため、紅茶はそれほど飲まない。
どこで練習しようと思っていた矢先、部室の寂しさに苦言を漏らしていた雪乃を見つ
け、それならと持ち込んでみた。雪乃は紅茶の腕前にぷちぷちと文句を言うが、それで
も飲んではくれる。不機嫌そうな、それでいて痒いところをかけないようなもどかしさ
﹂
を感じさせる雪乃の顔を見るのが、八幡は好きだった。
?
ポットとにらめっこしていると、誰かが部室のドアを叩いた。
から、失敗しても大目に見てもらうより他はない。
れれば良いだろう。正式に別のやり方があるのかしれないが、初めてやるやり方なのだ
ポットからお湯を別の入れ物に入れ替える。これをしばらく冷まして、それで紅茶を淹
その注文に、八幡の動きが止まる。ぬるめというのも初めての注文だ。とりあえず
﹁ありがとうございます。ぬるめでお願いしますね﹂
﹁海老名、おかわりいるか
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
39
その音に、三人は顔を見合わせる。まさか依頼者
はできない。最初に対応したのは、余所行きの顔になった姫菜だった。
ここ姫菜の部活
﹂
﹂
まだ確定ではないが、依頼のためにやってきた人間だとしたら、これを雑に扱うこと
しかし、仕事である。
だっただろうか。
からからと遠慮がちな音を立てて、ドアは開いてしまった。小さな溜息は誰のもの
﹁失礼します⋮⋮﹂
かもしれない。そういう可能性にかけての行動だったが、
かに行くのをじっと待つ。中からどうぞ、という反応がなければ、諦めてどこかに行く
八幡だけでなく、雪乃も姫菜もそう思っていた。息を潜めて扉の向こうの人物がどこ
う。
その時、三人の意思は図らずも統一されていた。このまま居留守でも使ってしまお
?
﹁奉仕部にようこそ││ってなんだ、結衣じゃん。はろはろー、どうしたの
﹁姫菜││え
﹂
?
段の姫菜を八幡は知らないが、全方位にこの態度なのだとしたら中々の外骨格である。
最初に我に返った姫菜が対応するが、何というか笑顔がうそ臭い。学年が違うため普
﹁そうだよ。言ってなかった
?
?
?
40
そんな姫菜の友達││結衣というらしい││は、良く言えば今風な風貌の少女だっ
た。赤みがかった茶髪は最近染めたものなのだろう。似合ってはいたが、髪の色の鮮や
かさにそれ以外がついていっていない。結衣の八幡の第一印象は﹃軽そうな女﹄だった。
何も考えずに本能のままに判断するなら自分からはまず近づかないタイプであるが、こ
の少女のことをどこかで見たような気がした。
八幡が思い出せずにいる内に、結衣は姫菜に手を引かれて部室中央の椅子に座らされ
た。姫菜は卓を挟んで反対側に移動する。そちらにはパイプ椅子が3つ並んでおり、結
衣から見て左側に姫菜が、右側に雪乃が座っていた。空いている中央の席が、比企谷八
幡のもの、ということか。この野郎、と視線を向けると、雪乃は僅かに口の端を上げて
得意そうに微笑んで見せた。先ほどの意趣返しのつもりなのか、整った容貌に反して、
子供っぽい皮肉な笑みが浮かんでいる。
﹂
!
同時に錯覚をしたというのでなければ、結衣は共通の知人という可能性が高いが、そ
同様に疑問を解決するには至らなかった。
由比ヶ浜、と雪乃は繰り返す。雪乃にも、ひっかかるものがあったらしいが、八幡と
⋮⋮お願いがあってきました
﹁一 年 の 由 比 ヶ 浜 結 衣 で す。こ ち ら こ そ、よ ろ し く お 願 い し ま す。そ れ で 今 日 は そ の
﹁はじめまして。私は一年の雪ノ下雪乃。話を聞かせてもらえるかしら﹂
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
41
もそも雪乃とは彼女が総武高校に入学するまでほとんど付き合いはなかった。情報こ
そ一方的に知ってはいたが、顔を合わせた回数はそれまで二度。共通の知人などいるは
ずもない。
結衣が有名人という可能性もないではないが、それならば顔を見るか名前を聞いた段
階で、思い出しても良さそうなものだ。凡才の自分はともかく、雪乃まで思い出すこと
ができないというのは、違和感を覚える。
やはり共通の知人という線が強そうであるが、さて││と考えて、八幡はようやく思
い至った。
陽乃以外に、比企谷八幡と雪ノ下雪乃を結びつける強力な要素があった。八幡にとっ
ては既に過去のことだったので失念していた。
自分達は二ヶ月前の事故の加害者側と、被害者だ。
そして事故にはもう一人、原因となる人物がいた。こちらに駆けてきた犬と、その飼
い主。横目に結衣の顔を見て、ようやく思い出す。あの時は黒髪だったから、思い出せ
なかった。良く見ると、顔立ちはそのままだ。
間にどのようなやり取りがあったのか、八幡は良く知らない。金銭については雪ノ下の
一度か二度は病院に来たはずだから、顔はその時に覚えたのだろう。由比ヶ浜家との
︵こいつ、あの時の飼い主か⋮⋮︶
42
顧問弁護士が間に立って、スムーズに処理してくれたとだけ聞いている。
犬は助かって、自分も無事だった。そりゃあ、一ヶ月の入院生活に加えて更に一ヶ月
不自由を強いられたが、入院中、それなりに良い思いもしたので、今更どうこう言うこ
とはなかった。
紅茶の準備をしながら、雪乃に向かって影絵の要領で﹃犬﹄
﹃車﹄と伝える。聡明な雪
乃はそれで全て理解した。
﹁実は、ある人にプレゼントがしたいの。できれば、手作りの。でも私、料理とか全くで
﹂
きないから、作るの手伝ってほしくて⋮⋮﹂
﹄という視線が強くなっ
その⋮⋮感謝の気持ちを伝えたいって言うか⋮⋮﹂
?
話が進むと雪乃が﹃やっぱりこれは貴方の担当ではないの
!
父の日近いもんね﹂
?
やっぱり貴方の担当だったわね、と雪乃は視線を外した。これはもう決めてかかって
んだけど、私個人ではまだお礼してないから﹂
﹁違うよ。うちのサブレを庇って事故にあった人。一応、家族みんなでお礼には行った
﹁お父さんとか
するのは早計というものだ。二人の意を汲んだ姫菜が、更に探りを入れていく。
てくる。感謝の相手=比企谷八幡ということか。ありえない話ではないが、ここで判断
?
﹁そういうのじゃなくて
﹁なに、結衣。好きな人でもできた
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
43
いる。言いたいことは色々とあったが、この三人の中でなら自分が担当するべきことな
のだろうし、話が早い。
八幡にとって、あの事故は済んだ話だ。一番の被害者である自分が気にしていないの
﹂
に、関係者が引きずっているというのも、不憫な話である。
﹁紅茶で良かったか
﹂
!!
ようがない。
﹁久しぶりってことで良いのか
﹁あ、はい。由比ヶ浜結衣です。よろしくお願いします
?
﹂
﹁よろしく。ちなみに俺を轢いたリムジンに乗ってたのが、そっちの雪ノ下だ。図らず
!
よろしくな﹂
一応奉仕部という名の同好会の部長、比企谷八幡だ。
町に言わせると悪かった目つきがより悪くなったらしいが、二ヶ月では流石に変化のし
う。結衣と違って八幡の見た目は、ここ数年全くと言って良いほど変わっていない。小
椅子から立ち上がって叫び声を上げ、八幡を指差した。本人と気づいてくれたのだろ
﹁あー
た。結衣は目をぱちくりとさせると、
姫菜のリクエストのせいでぬるめになった紅茶を差し出すと、初めて結衣と目があっ
﹁あ、ありがとう││﹂
?
44
﹂
も関係者が全員揃ったな﹂
﹁え⋮⋮え
﹁はい
サブレ超元気です
﹂
!
﹂
は、唯一怪我をして八幡としても望むところではなかった。
それに追従している。事故の原因を作ったとは言え、結衣がこれ以上嫌な思いをするの
内、轢かれて怪我をした人間が気にしないと言い、轢いたリムジンに乗っていた人間も
人の心を抉ってくる。控えめに言っても、陽乃の結衣の印象は最悪だ。関わった三者の
陽乃は意味のないいじめなどしないが、意味のあるいじめはするし、スナック感覚で
い。
そうだったことも忘れそうなくらいにいつも通りであるが、荒れたという事実は消えな
乃の精神状態は雪乃やその両親がドン引きする程のものであったと聞いている。今は
それよりも、八幡には心配なことがあった。自分が集中治療室に運び込まれた時、陽
八幡の前では、雪乃にとっても終わった話である。
平然としている。一人怪我をした八幡が気にしないと言っているのだから、少なくとも
話についていけないらしい結衣は、一人で混乱していた。雪乃はそんな結衣を見ても
?
?
﹁そりゃあ良かった。なら、この件はこれで終わりだ。お前が気にする必要はないぞ。
!
﹁幸いなことに、俺はぴんぴんしてるよ。あの犬は元気か
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
45
46
難しい話は葉山さんとやらが全部やってくれたし﹂
残務処理も全て、その葉山さんのお力により解決している。入院費は雪ノ下が持って
くれたため、比企谷家の収支は八幡が一ヶ月病院に拘束されたことを差し引いても、プ
ラスになっているくらいだ。弁護士、医者、会計士の友人がいると人生は安泰と言うが、
三強の一角の力を思い知った一ヶ月だった。
気持ちの上でも金銭の上でも話は終わっている。だから気にするな、というのが八幡
の言い分だったが、結衣はそれでもまだ納得していなかった。自分のせいで、という思
いに決着をつけるには、何かやっておく必要があるのだろう。
面倒くさい、というのが正直なところであるが、結衣に謝罪の気持ちがあるのも本当
だろう。それを無下にするのは流石に八幡でも気が引けた。
ちら、と姫菜を見る。
全くと言って良い程友達がいない八幡や雪乃と違って、姫菜はリア充グループに所属
している。内面を知っている八幡には意外なことだったが、どろどろした内面を発揮す
ることなく、それなりに上手くやっているらしい。結衣はそのグループの一人だろう。
世間的に言えば彼女らは友達のはずだが、姫菜から依頼を受けてやれ、という圧力は全
く感じられない。存外に反応が軽い。
雪乃は結衣の目的が解った段階で、これは八幡が処理する案件という意思を固めたよ
﹂
うだった。結衣の正面に座り、話を聞いてはいるが心はもう別のところに言っているの
が良く解る。顔にはしっかりと我関せずと書いてあった。
﹁一応確認するが、そのお礼ってのは俺にってことで良いんだよな
﹂
?
私、全然料理とか得意じゃないんだけど、その、受け取ってもらえます
﹁これで違ったらかっこ悪いわね⋮⋮﹂
か
﹁違わないし
!
いぞ﹂
!
子なのだろう。陽乃ならば都合の良い子と呼びそうだが、八幡はこういう少女のことが
結衣が吼える。めんどくさいなぁ、と思うが、その熱意は本物のように思えた。良い
﹁それじゃあ私の気持ちは伝わらないし
﹂
だ。何なら野菜を棒状に刻んで貰って、調味料と一緒に食べるんでも俺は一向に構わな
?
て、まさか失敗などするまい。
こ う い う の は 気 持 ち が 大 事 な ん
るのか知らないが、依頼をされた以上この中から補佐が付くのは確定だ。そこまでやっ
めにここにきた。それくらいには、結衣は善人だ。その気持ちは信じても良い。何を作
強い人間は、そういない。黙っていれば風化したはずの問題に、自分で決着をつけるた
結衣のすがるような視線に、八幡は思わず天を仰ぐ。ここでNOと言えるような心の
?
﹁別 に そ ん な に 凝 っ た も ん じ ゃ な く て 良 い か ら な
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
47
三人で行くか
﹂
﹂
﹂
││自分に深く関わらない場合、という前提ではあるが││嫌いではなかった。
﹁で、誰が手伝う
﹁それなりかな。雪乃くんは
﹁一人暮らしを始めたばかりよ﹂
﹂
﹁なら、メンバーについて選択肢はないわね。海老名さん、料理の腕は
﹁できれば比企谷先輩には完成した後に見てほしいんだけど⋮⋮﹂
?
た。小さく咳払いをした雪乃は、
し食い下がれば雪乃はOKを出しただろうが、話を最初に切り上げたのは雪乃の方だっ
菜はしかし、思っていた以上に雪乃と距離を縮めていた。押せば倒れる。姫菜がもう少
八幡の目には雪乃が迷惑そうにしているようには見えなかった。つかず離れずの姫
思いを抱いていた。
一の友人という可能性すらあるが⋮⋮おそらくそれが真実だろうと、八幡は確信に近い
かりだが、雪乃の交友関係について八幡は詳しく知らない。最悪、姫菜がこの高校で唯
るが、それだけに過去の雪乃にはなさそうなイベントだ。友達がいないと決め付けたば
をしているようにも見える。友達とお泊りというのはなるほど、リア充向けの展開であ
姫菜の提案に、雪乃は一瞬微妙な表情をした。潔癖な内面と、寂しがりな内面が喧嘩
﹁へぇ、良いなぁ。今度泊まりに行っても良い
?
?
?
?
48
﹂
﹂
﹁その話はまたの機会にしましょう。由比ヶ浜さん、私達二人で手伝うことになるのだ
けど、良いかしら
だ。
だろう。それなりに料理ができる二人の協力をもってしても、結果が芳しくなかったの
が暗い。出張してまで行った調理実習がどういう結果になったのかは、聞くまでもない
さて、と立ち上がった八幡が見た三人は、一様に暗い顔をしていた。特に結衣の表情
紅茶を飲みながら、勉強して待つことしばし。
れる。
りとは知らない仲ではなない。奉仕部だ、と言えば特に何も聞かずにハンコを押してく
用できるはずだ。当日、飛び込みでというのはあまり良い顔はされないが、会長のめぐ
を出て行く。向かったのは家庭科室だろう。生徒会執行部に申請すれば施設として利
まるで比企谷八幡という人間などその場にいないとでも言うように、女子三人は部室
衣と話す雪乃は、普通に女子高生していた。
れなりに喋るようだ。部室で静かに読書をしている雪乃も絵になっていたが、姫菜と結
ないが、結衣は見るからに饒舌なタイプだ。こういうタイプが一人混じると、雪乃もそ
女三人揃えば姦しいという。姫菜はともかく雪乃はおしゃべりが得意なタイプでは
!
?
﹁よろしくお願いします
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
49
50
お互いのことを考えるなら別の日にまた、ということを提案するべきなのかもしれな
い。結衣は失敗したことをなかったことにできるし、八幡は失敗作を食べなくても済
む。そうするつもりで口を開きかけた八幡は結衣が後ろ手に小さな箱を隠しているこ
とに気づいてしまった。ラッピングまでされている。
誰が見ても明らかな失敗作であれば、雪乃辺りが後にすべきと提案しているはずだ。
依頼を受けた以上、それを完遂しなければ気分が悪い。完璧主義の雪乃が結衣の行動を
黙認した以上、消極的にではあるが、ここで渡すという結衣の行動に賛成しているのだ
ろう。
雪乃が黙認している以上、食べられないような代物ではないはずだ。最悪でも、クソ
マズイくらいで済むはずだが、そこまで理解できたところで八幡の顔は明るくならな
かった。
こういう時、男の方が立場が弱い。女の努力というものは、何よりも優先される。そ
ういう場の流れ的なものを雪乃も姫菜も好まないはずだが、調理に付き合ったという事
実が、二人を結衣寄りにしていた。男の八幡に味方はいない。
できることなら食べてほしい、というのが三人の本音だろう。
不景気な顔をしながら、八幡は結衣に向かって手を差し出した。恐る恐るといった様
子で、結衣は包みを手渡す。ラッピングも手ずからやったのだろう。きっちりしていな
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
51
いへにゃっとした見た目に手先の不器用さが見て取れるが、これで良いやという手抜き
は見られない。作り手の気持ちが解る、丁寧な仕事だ。
そっとリボンを外す。小さな箱を開けると中から出てきたのは⋮⋮想像した通り、黒
ずんだ何かだった。炭化した匂いがする。明らかに焼き時間を失敗しているのは見て
取れた。ある程度料理のできる人間が二人もついていてどうして⋮⋮と視線を向ける
と雪乃と姫菜は気まずそうに視線を逸らす。
比企谷憎しでわざとということはあるまい。言い訳もせずに黙っていることから﹃気
が付いたらこうなっていた﹄という線が濃い。
黒い固形物を一つ手にとって見る。持ってみると更に炭だった。手には既にパサパ
サとした黒い粉末が付着している。やはりこれを人の食べる物とするのは間違ってい
ると思うが、八幡に食べる以外の選択肢は残されていなかった。
一思いに、その黒い固形物を口の中に入れる。顔をしかめないようにしながら、とり
あえず噛み砕き、嚥下した。
匂い以上に、舌触りは悪い。炭の匂いが口の中に広がり、ざらざらとした感触が今も
残っている。はっきり言えば失敗作だが、クッキーを失敗したのだ、ということは辛う
じて解った。原型を留めているのだから、まだマシだろう。食べたことはないが、炭を
直接食べるよりはいくらか美味いはずだ。
不味くない
﹂
﹁⋮⋮想像してたよりはマシだった。悪いな、気を使わせて﹂
﹁ほんと
?
?
る。
﹁その⋮⋮自分で作っておいて言うのも何だけど、大丈夫ですか
﹂
い固形物を全て一人で平らげてしまった八幡に、結衣を含めた三人は複雑な視線を向け
もそもそ、と決して美味そうには見えないが、八幡は手も口も止めなかった。結局、黒
ようが勝手だろう﹂
﹁そう思うなら次からは美味いものを出してくれ。貰った以上は俺のもんだ。どう食べ
﹁あの、まずいなら別に無理して食べなくても⋮⋮﹂
い。
菜がそっとマックスコーヒーをを差し出してきた。適度に無遠慮な甘さが、喉に心地良
りにもある程度抵抗ができた。それでも立て続けにこの味はキツいと思っていると、姫
愚痴を零しながらも、八幡は手を止めない。覚悟ができたからか、ざらざらした舌触
﹁ならお前らこれを食ってみろ﹂
﹁ほんと、こういう時にこそ気を使えないでどうするのかしら﹂
﹁八幡先輩さいてー﹂
﹁⋮⋮⋮⋮流石にここでNOと言える日本人にはなれないぞ、俺﹂
?
52
﹁大丈夫ではないな。マックスコーヒーの助けがなければ危ないところだった﹂
﹁少しだけ感心したわ。貴方でも男を見せる時があるのね﹂
る﹂
﹁去年までに比べたらどうってことはないな。何しろ食えば終わりだ。温いにも程があ
ね
﹂
﹁なるほど、八幡先輩はちょっとやそっとのプレイじゃ満足できないドMってことです
て仕方がない。
見ようとするだろう。その時、男になった自分の妹を見たらどう思うのかが、気になっ
うにない。ドMになった自分など見たくもないが、陽乃が姫菜の趣味を知ったら喜んで
ぐふふ、と不気味に笑う姫菜はもはや腐海の住人だった。これを止めることはできそ
﹁薄い本を厚くしないでくれよ﹂
?
もないことの前触れに見えた。
る。その姿はやってしまった悪戯を親に告白する子供のようで、八幡にとってはロクで
今度こそこの話は終わり、と突き放すような言い方をする八幡に、結衣は言葉を続け
﹁それなんだけど、比企谷先輩⋮⋮﹂
くれると俺は助かる﹂
﹁じゃあ、今日はありがとうな、由比ヶ浜。これで貸し借りはなしってことで、安心して
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
53
54
この部にもいずれ、陽乃がやってくるだろう。それは結衣にとって良い結果を生まな
い。それをどうにかして解らせないといけないのだが、直接陽乃の名前を出すことには
抵抗があった。陽乃も八幡と同様、あの事故は終わったものとして処理しているが、内
面はそうではない。あれで陽乃は根に持つタイプだ。家族がドン引きするほどの怒り
を一番向けられていたのが、他ならぬこの結衣である。
陽乃がやってきた時、一番損をするのは結衣に間違いがない。本当に話はこれで終
わったのだ。お手伝いが二人もついていたのに、クッキーを黒い固形物にするぽんこつ
だが、根は良い娘なのだ。それが女王の暴虐に晒されるのはやはり忍びない。
万全を期するなら断るべきなのだろう。ここにいてもロクなことにはならない。そ
の説明をするのに陽乃を語らなければならないのならば、七日七番でも語り続ける自信
があったが、例え真実全てを語ったとしても結衣が納得してくれるかはまた別の話だっ
た。
八幡がしようとしていることは、要するに拒絶である。どれだけ理由を並べたとして
も、結衣がそれを信じてくれないのならば、単純に相手は自分のことを嫌いなのだ、と
解釈されてしまうかもしれない。
何度でも言うが、根は良い娘なのだ。これ以上つまらない理由で傷ついてなど欲しく
はないし、面倒なことに関わってもらいたくはない。こういうタイプにとって陽乃は劇
薬だ。既に怒りを買っているのだから尚更である。
押し黙っている八幡を他所に、結衣は一人で決意を固める。それを止める手段は八幡
にはなかった。力不足を痛感しながら、八幡は結衣の言葉を聴く。
﹂
?
﹁私もこの部活、参加しても良いですか
つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている
55
﹂
どう考えても、戸塚彩加は天使である
﹁ヒッキー先輩さ、運動って得意
﹁や、うちのクラスにね さいちゃんっていうすっごくかわいい子がいるんだけどさ、
少し前には依頼者だった結衣も、今では奉仕部の一員に収まっている。
拗ねてるー、と軽くはしゃいでいる姫菜に今度はデコピンを入れ、結衣に向き直る。
﹁で、どうしてまた運動だよ。海老名の言う通り、俺はインドア派だぞ﹂
ろうが、陽乃の威圧感に比べればそよ風のようなものである。
乃がやるとどこか美しくさえあった。並の高校生ならばその場に竦みあがっていただ
れたから睨み返すチンピラのような反射であるが、睨みつけるという仕草一つでも、雪
に視線を受けることになった雪乃は、威圧するかのように睨み返してくる。ガンつけら
からかうような口調の姫菜を軽く睨むと、彼女はささっと雪乃の影に隠れた。代わり
﹁インドアそうですもんねー、八幡先輩﹂
﹁得意ではないな。自分から率先して運動しようと思ったこともない﹂
?
56
その子がテニス部なんだ。でも、さいちゃん以外幽霊部員で、全然練習できないんだっ
?
て﹂
﹁ほー、そりゃ大変だな﹂
答える八幡の口調は、完全に人事のそれだった。姫菜に分析された通り、インドア派
の八幡はそもそも運動部には全く縁がない。それどころか、全くと言って良いほど良い
印象を持っていなかった。体育会系のノリというのが、どうしても肌に合わないのだ。
リア充とはまた別の暑苦しさが、どうしても好きになれないのである。
せめてもう少し食いついてくれると思っていた結衣は、肩透かしを食らった気分だっ
た。彼女にとってはこれが、入部して初めての依頼である。しかも友達からの依頼であ
るから張り切っていたのに、部の仲間達は皆消極的に見えた。特に八幡のヤル気のなさ
﹂
は際立っている。思わず声を荒げるのも、彼女の性格を考えると当然と言えた。
!
﹁テニスの練習相手になれって由比ヶ浜、お前テニスできるのか
﹂
﹁できないけど⋮⋮経験者じゃなくても、練習に付き合うだけで良いんだって。それな
?
できないからって﹂
手になってほしいみたい。一応、個人では大会に出れるけど、このままじゃ練習も何も
﹁そんなこと言わないでさ。さいちゃん、正式な依頼をしたいんだって。私達に練習相
﹁運動部は俺の敵だ。係わり合いになりたくない﹂
﹁ヒッキー先輩、食いつき悪いよ
どう考えても、戸塚彩加は天使である
57
ら全然テニスできない私でも手伝えるし﹂
﹂
依頼は練習の手伝いということで良いのよね
?
﹂
?
﹂
?
﹁廃部の動きが出た辺りから、素行の悪い連中がそれなりに大人しくなった。それにそ
﹁今も残ってるみたいですけど、それはどうしてですか
になってな。その後も素行の悪さばかりが目立って、一時は廃部寸前まで行った﹂
なった。元から真面目にやってる奴は少なかったらしいんだが、それを切っ掛けにゼロ
﹁俺 が 入 学 し た 前 後 の 話 だ。テ ニ ス 部 員 が 不 祥 事 を 起 こ し て、公 式 大 会 に 出 ら れ な く
﹁どういうことなのかしら、比企谷くん﹂
た。苛立つ内心を顔に出さないように苦心しながら、雪乃は静かに八幡に問うた。
案が、一瞬で否定されたのだ。意外に気の短い雪乃にとって、それは耐え難いことだっ
間髪入れずに否定をした八幡に、雪乃が目を向ける。それなりに自信を持って出した
﹁いや、勧誘は難しいと思うぞ﹂
﹁毎回手伝う訳にはいかないしねぇ﹂
ら部員の勧誘でもした方が早いのではなくて
﹁私達が今回協力したとしても、それが終わったら部員一人に逆戻りでしょう。それな
ゆきのん﹂
﹁そうみたいだけど、他に良い方法があるの
?
﹁その﹃さいちゃん﹄さん一人が強くなっても、解決する問題には見えないのだけれど。
58
どう考えても、戸塚彩加は天使である
59
いつらは陽乃の同級生だったから、もうこの学校にはいない。そいつらが卒業した段階
で廃部もしくは同好会に格下げってことにもできたらしいんだが、今年度入学者を対象
にした募集要項には﹃テニス部はある﹄と書いちまったらしいんだな。だから少なくと
も、年度初めまではテニス部を部として存続させる必要があった。で、誰も入部者がい
な け れ ば 廃 部、も し く は 同 好 会 に 格 下 げ と い う 線 で 話 は ま と ま っ て た ら し い ん だ が
⋮⋮﹂
真摯にテニスに打ち込みたいという真面目な﹃さいちゃん﹄が入部した、という訳だ。
一応部としての体裁を保っているテニス部であるが、陽乃が会長の時の予算編成会議
で活動実績と素行の悪さを理由に予算をばっさりとカットされた。更に翌年、めぐりが
会長になってからの会議でも同様の理由で予算を削減された。現在の予算は運動部ど
ころか文化部を合わせてもぶっちぎりの最下位であり、まさに雀の涙だ。
運動部としては踏んだり蹴ったりであるが、小額であっても予算が降りることに変わ
りはない。それは同好会には無いものだし、何より部には固有スペースである部室があ
る。過去、それなりに部員がいたテニス部の部室は、運動部全体も見回してもかなり広
い部類に入る。テニス部が廃部、もしくは同好会に格下げになると、この部室が放出さ
れる可能性が高いのだ。ルームレスの部や同好会は、これを狙っているのである。
そういう連中を始め、素行の悪い連中にちょっかいをかけられた人間等々、テニス部
がなくなって欲しい人間は実のところ、校内に一定数存在していた。
方々に敵がいる上に、テニスの指導をできる人間がいない、予算が少ないなどマイナ
スの要素が揃っている。道具とコートこそあるが、これを新調するとなれば少ない予算
ではまかないきれず、部員のカンパで何とかするしかない。加えて現状活動しているの
が、ヤル気はあるが一年が一人というのでは、テニスを始めてみようかな、という人間
が門戸を叩く可能性は限りなく低い。経験者ならば尚更である。
救いがあるとすれば今の二、三年に幽霊部員がまだそれなりにおり、それで頭数だけ
は確保できていることだが、
﹃さいちゃん﹄以外が幽霊部員であることは既にめぐりも把
握している。今すぐ廃部ということにはなるまいが、部員の数がこのままであれば部室
を放出させられる可能性は大いにある。そうなれば、後はテニス部にとっては悪夢の、
負のスパイラルが続いていく。今の時点でも、部員の勧誘が難しいのだ。これで部室ま
でなくなったら、さらに可能性がなくなってしまう。
結衣の言葉には実に哀愁が漂っていたが、八幡はそうは思わなかった。テニス部の事
﹁さいちゃんかわいそう⋮⋮﹂
だって、いつまで続くか解らんしな。できるだけ早く手を打つ必要があるぞ﹂
が か な り 現 実 味 を 帯 び て く る。そ う な っ た ら ジ リ 貧 だ。そ の﹃さ い ち ゃ ん﹄の や る 気
﹁せめて団体戦に出れるくらいまで活動する気のある部員を確保しないと、部室の放出
60
情を最初から知っていたのであれば、今から他者の同情を引くのは筋違いであるし、知
らなかったのであればそれは本人のリサーチ不足に寄る。その﹃さいちゃん﹄が悪いと
は言わないが、今の苦境に好きで身を置いているのならば、全く責任がないとは言えな
い。
何もしないのに文句だけは言う人間を、八幡は陽乃の近くで何人も見た。そういう連
中相手に、陽乃は笑顔で大鉈を振るい情け容赦なく予算をカットしていった。何かしよ
うとしているだけ、﹃さいちゃん﹄は彼らよりマシだと言える。
しかし、気持ちがあっても何とかなるかは別の話だ。ことは﹃さいちゃん﹄のテニス
の技術が上達しても解決する問題ではない。彼女が経験者で、大会でも好成績を望める
のならば話は別だが、素人相手に練習相手を求めるくらいだ。今週、来週にでも賞状を
貰って来るような活躍は、期待できない。
﹂
?
あと、さいちゃんは男の子
﹂
﹁運動部の女子と話が合うとも思えないから、俺は席を外しても良いか
﹁ヒッキー先輩もいないとダメだし
!
!
﹂
?
んじゃないかな﹂
﹁OKだよ。今日はさいちゃん日直だから、少し遅れるって行ってたけどそろそろ来る
いうことで良いのね
﹁話は戻るけど、由比ヶ浜さん。今回の依頼はその﹃さいちゃん﹄さんの練習を手伝うと
どう考えても、戸塚彩加は天使である
61
62
なんだそりゃ、と八幡の口から思わず言葉が漏れた。男性で﹃さいちゃん﹄というの
は、一体どういうことなのだろうか。結衣と同じクラスであれば、姫菜も知っている可
能性が高い。どんな奴だ、と問おうと視線を向けると、姫菜は既に﹃グフフ﹄と嫌らし
い笑みを浮かべていた。
勿論、知っていて黙っていたのだろう。男性に興味があると口にしたら、それこそど
んな妄想に巻き込まれるか解らない。いや、あの顔は既に妄想を展開している顔だ。八
幡は今すぐ姫菜の顔をタコにして懲らしめてやりたい衝動に駆られたが、姫菜のこと
だ。それも妄想のスパイスに転換してしまう可能性が大いにあった。やおいだのBL
だのが絡む時、姫菜は無駄に高いバイタリティを発揮する。係わり合いにならないのが
吉と視線を外すと、軽いブーイングを始めた姫菜の隙を見てデコピンをする。額を押さ
えながらも、どこか姫菜は嬉しそうだ。
本当にタコにしてやろうか。八幡が一歩足を踏み出した時、部室のドアがノックされ
た。他の三人の視線がドアに向いた瞬間、姫菜は椅子ごと八幡から距離を取る。安全域
まで逃げ遂せたことで軽く舌を出して挑発する姫菜に、八幡は手近にあったものを掴ん
で放り投げた。それが雪乃の読みかけの本だったのは全くの偶然である。本は姫菜が
反射的にキャッチしたが、飛んでいく過程で栞が床にはらりと落ちた。
今度は八幡が逃げる番である。全力で姫菜の後ろまで逃げる八幡を、雪乃が追う。室
内で唐突に始まった追いかけっこに、結衣は複雑な視線を向けるが、好奇心よりも仕事
の方を優先させた。はーい、とドアを開ける結衣に、八幡は完全に逃げ遅れたことを理
解した。栞を拾い、姫菜から本を回収した雪乃は、それで八幡の後頭部を軽く叩く。
﹁逃げられなかったわね﹂
やくだった。
結衣に伴われ部屋に入ってきたさいちゃんに、全員の目が集まったのはこの時、よう
挙げて降参した。雪乃は自らの小さな勝利をかみ締めながら、元の椅子に戻る。
陽乃のことを彷彿とさせる。そんな雪乃の顔を見て抵抗する気を失った八幡は、両手を
ていることに、そこはかとない快感を覚えているのだろう。面差しは似ているだけに、
完全に行動を封じたと確信した雪乃の目には、ドSの輝きがあった。男性を下におい
いということだ。
こうという説明を受けたが要するに、雪乃に触れられている限り、身体の自由はきかな
乃の手がそれを邪魔する。いつか陽乃もやっていた、合気道の技の一つだ。重心をどう
りで、八幡は手近にあった椅子に座らされた。立ち上がろうとしても、肩に置かれた雪
る。抵抗する間もあればこそ。そんなに力を込めたようには見えない雪乃の腕の一振
それでも諦め悪く部屋の隅に移動しようとした八幡の肩に、そっと雪乃の手が置かれ
﹁俺のことは置物とでも思ってくれ﹂
どう考えても、戸塚彩加は天使である
63
先に聞いた説明によれは﹃さいちゃん﹄というのは、部員不足に悩むテニス部の﹃男
子﹄のはずである。
そのはずなのだが、八幡には目の前の人物がどうしても男子には見えなかった。雪乃
も同じことを思ったのだろう。彼女にしては珍しいはっきりとした驚きの色を顔に浮
かべて﹃さいちゃん﹄を凝視している。
主だよ﹂
﹁ゆいちゃんの友達で、戸塚彩加っていいます。依頼をしたいんですけど││﹂
?
強敵が犇いているのだ。
という自信があったが、それが過信であることを思い知らされた。世の中にはまだ見ぬ
と八幡は内心で戦慄した。美人は陽乃で見慣れている。今更多少の仕草では動じない
受けてくれると理解した彩加の顔がぱぁと輝く。笑顔一つでこれだけの破壊力とは、
葉が出てしまったのだから、もうどうしようもない。
で責めてくるが、そんな昔のことはとうに忘れてしまった。それに考えるよりも先に言
が集まる。﹃貴方、さっきまであんなに乗り気じゃなかったじゃない⋮⋮﹄と雪乃は視線
既に受けることにした、という物言いの八幡に、部員達の││特に雪乃の強烈な視線
﹁話は由比ヶ浜から聞いた。俺達は素人ばっかりだが、本当にそれで構わないのか
﹂
﹁紹介するね。こちらさいちゃん。さっきも話したけど、テニス部の部員で、今回の依頼
64
﹁手伝ってくれるんですか
﹂
﹂
りも今は、眼前の依頼人のことだ。
回は掘られる側だろうな、という確信が芽生えた。確認してみたい気もしたが、それよ
しゃか凄まじい勢いでペンを動かしている。中身を呼んだ訳ではないが、何となく、今
探していた。姫菜はと言えば、ぐふふと下品に笑いながら八幡と戸塚を見つめ、しゃか
た。雪乃はもう八幡に任せると決めたのか、回収した本を開き栞が挟まっていた場所を
う。断られる可能性すらあった話が纏まったことで、結衣もそっと胸を撫で下ろしてい
礼を言って、頭を下げる。ただそれだけなのに、何故こんなにもかわいらしいのだろ
﹁十分です。ありがとうございます﹂
﹁一応な。全員が毎日協力できる訳じゃないが、それでも良ければ﹂
!?
?
﹁それなら、一年を中心に部員を勧誘した方が良いな。最低、次の予算編成までには活動
良いだろう。
の美少女││ではない、彩加が頼んでもダメならば、彼らの復帰は絶望的と諦めた方が
だ。反応が芳しくないだろうということは、やる前からでも想像ができる。加えて眼前
彩加の表情は暗い。自分の力不足を責めている様子だが、元より幽霊部員だった連中
﹁そうなんです。他の部員にも練習しようって声はかけてるんですけど⋮⋮﹂
﹁テニス部、本当に一人なのか
どう考えても、戸塚彩加は天使である
65
してる奴らだけで部の要件を満たすぐらいにしておいた方が良いと思う﹂
せんぱい、という少し舌足らずな彩加の言葉が、八幡の胸に響いた。姫菜も結衣も八
﹁解りました。何とかしてみます、せんぱい﹂
幡のこと呼ぶ時に先輩と付けるが、彩加の﹃せんぱい﹄は響きからして二人とは違った。
この﹃せんぱい﹄を毎日聞けるのならば、テニス部も良いかもしれない。彩加のような
後輩が一人いればどんな部活にも身が入ると思うのだが、声をかけられた二、三年はそ
うは思わなかったのだろうか。
﹂
奴らはアホだな、と顔も知らない生徒のことを軽く罵倒しながら、彩加に視線を戻す。
﹁で、俺達はいつからどれくらいの期間手伝えば良いんだ
は助けたいと思った。
そうしないといけないくらいに、戸塚彩加は困難に直面している。そんな彼を、八幡
など下げないはずだ。
いるだろう。テニス部を救う妙案に心当たりがあるならば、そもそもド素人の集団に頭
状が変わるとは思えない。現状がかなり厳しいということは、彩加本人が一番理解して
四人全員が素人である。そんな連中が彩加の練習に一週間付き合ったところで、彼の窮
精々一ヶ月と予想していた八幡には、大分控えめな提案に思えた。そもそも奉仕部は
﹁平日一週間。来週の月曜から金曜まで付き合ってくれれば十分です﹂
?
66
﹁それじゃあ、来週からよろしくお願いします﹂
細かな話を詰め終わった彩加は、ぺこりと頭を下げて部室を出て行く。彩加の足音が
完全に遠ざかると、最初に口を開いたのは雪乃だった。。
﹂
﹁どういう風の吹き回しかしら。運動部の男子というのは、貴方の好みの対極に位置す
る存在だと思っていたのだけれど﹂
﹁いかにもな運動部ならな。さっきの戸塚を見て、運動部だって思うか
﹁思わないわね⋮⋮﹂
まった訳だが、全部出られそうな奴は俺以外にいるか
﹂
んてそんなもんだよ。それより、来週一週間。月金帯でスケジュールを押さえられち
﹁だからって気が合うとも限らないけどな。たまには運動でもしようと思った。理由な
?
まぁ、私はこっちに出るけど、と姫菜は言葉を結んだ。二人がクラスで同じグループ
とに、何か思いそう﹂
﹁女子が一人ってことは別に気にしないと思うけどなぁ。むしろ、私も結衣もいないこ
﹁いや、姫菜がずっとこっちだと、女子が優美子一人になっちゃうし⋮⋮﹂
?
線を逸らしている。
﹂
八幡の問いに、手を挙げたのは雪乃と姫菜。話を持ってきた結衣は、気まずそうに視
?
﹁││結衣、別に毎日優美子に付き合う必要はないと思うよ
どう考えても、戸塚彩加は天使である
67
68
に属しているというのは聞いているが、その参加具合には二人の間で随分と温度差が
あった。結衣はたまに部活に顔を出すという感じだが、姫菜はたまにあちらに行くとい
う感じである。
だからどうした、というつもりは八幡にはない。部として活動さえするのならば、そ
の貢献度合いも参加の頻度も完全に自由だ。基本的に毎日やってくる八幡や雪乃が、本
来は異常なのである。学校に友人が一人しかいない八幡にとって、友人付き合いという
のは馴染みのあるものではないが、それが大事という人間がいることは理解できる。結
衣などはその口だろう。
八幡が気にしているのは、姫菜の方だ。結衣が頻繁に顔を出す以上、そのグループは
それなりに連帯を求めるのだと推測できる。まさか全員が帰宅部ということはあるま
いから、放課後、全員で一緒になることは毎日ではないはずだ。それでも、基本参加す
る結衣が近くにいると、参加の頻度が低い姫菜の行動は相対的に目立つようになる。リ
ア充というのは、同じ行動をしない人間を排除するものだ。それで大丈夫なのかと、一
応、部活の仲間である姫菜のことが心配になった八幡は、一度だけと決めて問うてみた。
よほどそんな質問をされたことが意外だったのか、姫菜はしぱらくぽかんとした後
に、陽乃を思い起こさせる、魅力的だがどろりとした微笑みを浮かべて﹃大丈夫ですよ﹄
とだけ言った。 きっと、その後にも言葉は続く。そこで言葉を切ったのは、姫菜がそ
れなりに結衣のグループを大事にしている証だ。
﹁話を戻すけれど、根本的な問題を解決するには、部員を増やすしかないと思うわ。比企
谷くんには、何かアテがあるのかしら﹂
﹁そっちのアテはないが、何も解決方法は一つじゃないと思うぞ﹂
﹁おー、何か妙案があるんですね、八幡先輩﹂
﹂
﹁一応な。他力本願過ぎて、あんまり好きじゃないんだが﹂
﹁ヒッキー先輩。どっか行くの
行くか
?
と振り返って雪乃たちを見やると、三人は揃って首を横に振った。
﹁執行部室﹂
どう考えても、戸塚彩加は天使である
69
?
なった。素人仕事が際立って安っぽく見える、というのは製作者の逆贔屓目という訳で
このプレートを作れと言われ、散々リテイクを食らった挙句、最終的には彫ることに
八幡はこのプレートを見る度に、感慨深い思いにさせられる。ある日突然、陽乃から
の期間はこの部屋のことを執行部室と呼んでいたし、認識している。
下げられおり、陽乃政権の時のメンバーである八幡とめぐりは、プレートができてから
公式にどうなっているのか知らないが、少なくとも部屋の前にはそういうプレートが
前の生徒会長の陽乃が﹃生徒会執行部室﹄と名称を改めた。
りが良いだろう。総武高校のそれも元々はそういう名前だったのだが、紆余曲折の末、
学校によって異なるため一概には言えないが、
﹃生徒会室﹄と呼ぶのがおそらく、一番通
では、その役員たちが集まる部屋を何と呼ぶのか。そもそも所謂﹃生徒会﹄の名前も
す。
動的に加入させられる組織が生徒会であり、そのメンバーとなれば全校生徒のことを指
までその役員であって、生徒会そのものではない。その学校に通っている生徒が概ね自
よく、会長以下役員たちを﹃生徒会﹄であると勘違いする学生がいるが、彼らはあく
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている
70
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている
71
はないだろう。陽乃からめぐりに会長の座が移動した時、八幡はこれを取り払うことを
提案したのだが、新会長の鶴の一声によって使用継続が決定された。
基本的に陽乃とは違う路線の政策を行うことで、支持を集め実績を作っているめぐり
にしては珍しい、陽乃路線を踏襲した部分である。
この部屋に、ノックをせずに入っていたのも今は昔のことだ。複雑な心境のままドア
をノックし、待つことしばらくして、ドアが開いた。
さて、仲が良いかは別にして、八幡は現政権のメンバーを全員記憶している。結局最
後まで会長を含めても三人しかいなかった陽乃政権と異なり、城廻政権は引継ぎの段階
で既に全ての役職が予備人員も含めて埋まっていた。メガネ率の高い地味な集団だっ
たと記憶しているが、ドアを開けた少女は初めて見る顔な上に、何とメガネをかけてい
なかった。
随所にアレンジの見える制服には、まだ真新しさがあるから一年だろう。お洒落具合
は、結衣よりは堂に入っているように見え、彼女よりも幾分華やかに見えた。何という
か、自分がどの程度かわいいのかを自覚しているかのような図々しさをひしひしと感じ
る。
八幡一人ではおそらく、友達にはしないタイプだ。なるべく視線を合わせないように
する八幡を他所に、一年女子はじっと彼の目を見つめていた。小さく溜息を吐いて、そ
の目を見返すと、一年女子は不満そうに視線を逸らした。自分の視線を受けて動揺しな
い男がいるとは思ってもみなかったのだろうが、陽乃の視線を間近で受け続けてもう二
﹂
年が経過している。今更年下の視線など、どうということはない。
﹂
﹁その腐った目⋮⋮もしかして比企谷先輩ですか
﹁もしかしなくてもそうだ。城廻はいるか
﹁いるよー﹂
?
りの前に立つ。
もしかして、引継ぎの時以来
?
﹂
﹁そうだね、ごめん。それにしても珍しい。はっちゃんがここに来るのも久しぶりだね
﹁そこはもう、俺の席じゃないだろ
﹂
来訪に、彼女は八幡が使っていた書記のデスクを指差すが、八幡はそれを無視してめぐ
かつて陽乃の席だった会長のデスクで、めぐりは微笑んでいた。かつての同僚の急な
入れた。
いまいち歓迎していない様子の少女を気にするでもなく、八幡は執行部室に足を踏み
﹁⋮⋮ようこそ、いらっしゃいませ﹂
八幡は、今度は自分から少女に視線を向けた。
少女の肩越しに、めぐりの声が聞こえる。それを﹃どうぞ﹄という意味だと解釈した
?
?
72
?
﹁部外者が態々顔を出すようなところでもないだろ﹂
﹁うちの生徒に生徒会の部外者はいないよ。たまには顔を出してくれても良いのに﹂
めぐり相手は、どうも調子が狂う。このままだと押し切られそうだと感じた八幡は、
﹁そのうちな﹂
定番の断り文句で強引に話を終わらせた。相変わらずな八幡の態度にめぐりは苦笑を
浮かべるが、それ以上は追求してこない。どこまでならば踏み込んでも良いのか。その
絶妙な距離感を理解しできるのは、友達ならではである。
﹂
?
の生徒会長だから﹂
﹁ここに座ってるのがハルさんだったら何とかなったかもしれないけど、私はほら、普通
﹁お前の強権一つでどうにかなるか、と少しだけ期待してたんだが無理そうだな﹂
﹁他所の生徒を呼んで、校内で問題とか起こされちゃうと困るからねー﹂
﹁面倒だな⋮⋮﹂
先生の許可﹂
先生と校長先生の許可が必要だよ。それから今度はあっちの校長先生と、部活の顧問の
﹁相手のあることだから、こっちとあっちで別の許可が必要だね。まずこっちは顧問の
﹁他校と部活動同士で交流するための規定について聞いておきたい﹂
﹁それで、今日はどういう御用かな
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている
73
ははは、とめぐりは笑うが、会長としての彼女の評判はそれほど悪いものではない。
前任者が陽乃なので事あるごとに比較され悪し様に言われることもあるが、堅実で痒い
ところに手が届く実に細やかな手腕は陽乃とはまた違った良さがあった。教師からの
信頼は陽乃よりも厚く、申請などをねじ込む時はめぐりを仲介すると通りやすいと、生
徒の間では評判である。
勿論、何でもかんでも引き受ける訳ではないが、それが切実なもので会長として公平
な判断の内に入るならば、めぐりは断ったりしない。一つの部に肩入れすることは黒に
﹂
近いグレーと言えるが、その話を切り出す前に黄色信号が灯ってしまった。テニス部の
先行きは暗い。
﹁その許可は簡単に出ると思うか
る八幡に、今度はめぐりが問うた。
?
れってな﹂
﹁テニス部から依頼を受けたんだよ。練習相手がいなくて困ってるから、相手をしてく
﹁はっちゃん、部活にでも入ったの
﹂
想定していたよりも厳しい条件に、八幡の表情が曇る。いつも以上に暗い顔をしてい
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁顧問の先生に寄るかな。先生の方がOKなら、校長先生はOKって言うと思うよ﹂
?
74
﹁あれ、テニス部って幽霊部員しかいないんじゃありませんでしたっけ
﹁一年の中ですらそんな認識か⋮⋮﹂
校と交流ができるかどうかだ。
﹂
息を吐いて、気持ちを切り替える。今知りたいのは、実質部員一人のテニス部でも、他
鬱な気分になったが、それで諦めるくらいならば、態々執行部室にまで足を運ばない。
少女の言葉に、八幡は渋面を作った。部員の勧誘が早くも暗礁に乗り上げたことに憂
?
?
ら、今すぐ廃部ってことはないだろうし﹂
﹁このままだと部室が取り上げられる可能性が高いだろ
そうなったら部員集めにも
﹁粘 り 強 く 部 員 を 集 め て い く 方 が 良 い ん じ ゃ な い か な。幽 霊 だ け ど 部 員 だ け は い る か
べしである。
テニスをやりたいという人間にとってそれがどれだけ良くない環境なのか、推して知る
わらず、部外の人間を頼らなければ普通の練習もできないほどに、人員がいないのだ。
前の知られた競技でコートも道具も揃っているという十分な環境が整っているにも関
いっそのこと清々く思えた。ドマイナーなスポーツならばいざ知らず、テニスという名
めぐりの正直で率直な意見は想定の範囲の物だったが、ここまで芳しくない結果だと
生もそんなにヤル気がある方じゃないから、今のままだと難しいと思うよ﹂
﹁はっちゃんは知ってると思うけど、うちのテニス部は外で評判が良くないし、顧問の先
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている
75
支障が出る。次の予算編成の前には大会に出れるくらいに部員を集めて、活動してます
アピールをさせときたいんだ﹂
﹂
?
?
出したというように声をあげた。
?
い、と機械的に判断した故の即答だったのだが、その即答が少女の気に障ったらしい。
覚えたくない八幡でも、流石に記憶に残る。記憶にないということは会ったことはな
整った容姿をしていた。これだけ﹃私かわいい﹄オーラを出していたら、リア充の顔は
そいつという呼称にむっとした表情を浮かべた少女は、少女は陽乃ほどではないが
﹁そこのそいつのことなら、会ったことはないな、多分﹂
﹁はっちゃん、いろはちゃんとは初めてだよね
﹂
するしかないだろう。助かった、と礼を言って踵を返した八幡に、めぐりがさも今思い
ともあれ、これで聞きたかったことは聞いた。状況は良くないが、それでもどうにか
外で最も理解しているめぐりは、即答した八幡に笑みを浮かべた。
事実だが、傾く程ではない。犬が簡単に他人に尻尾を振ったりはしないことを飼い主以
だよねー、と同意するめぐりに、八幡も当然のように頷いた。気持ちが動いたことは
﹁確かに天使みたいだったが、それはないな﹂
だったりした
﹁珍しく面倒見が良いけど、どうしたの テニス部の依頼主さんがハルさんより美人
76
﹁はじめまして、一色いろはです。どうぞよろしくお願いします、先輩﹂
差し出された手を握り返すと、いろはと名乗った少女は更に渾身の力を込めた。とは
言え女子の膂力である。部活に汗を流すよりも、友達と喋ることに放課後の時間を使っ
ていそうないろはの全力は、やはり大したことはなかった。それでも年上の男子相手に
どの役職も人は足りてただろ﹂
﹃やってやった﹄ことに溜飲を下げたのか、当のいろはは満足そうな表情だった。
﹁メンバー増やしたのか
﹁会長になりたいから生徒会活動に参加して勉強したいんだって﹂
?
い。陽乃からみれば、いろはたちは三つ下になるから中学で一緒だったということもな
もっとも、陽乃みたいになりたいという言葉に、内面までが含まれているとは限らな
いろはからは全く感じられない。
はは、色々と力不足に見えた。陽乃を構成する上で一番重要な、あの﹃人間の濃さ﹄が
だが、犬の感性でもって言わせてもらうと、陽乃を目指す人間として見た場合のいろ
んだ。目指すかどうかは人の自由である。それに口を出す権利は、八幡にもない。
いや、無理だろと反射的に口を突いて出そうになった言葉を、八幡はとっさに飲み込
﹁先代の会長の雪ノ下陽乃さんみたいになりたくて⋮⋮﹂
を、どうしてまた﹂
﹁⋮⋮悪いが会長とかやりたがるタイプには見えないんだが、そんなめんどくさい仕事
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている
77
いはずだ。下手をしたら、会話をしたこともないかもしれない。八幡からすればそれで
どうして憧れることができるのかと疑問に思うばかりだが、それも人それぞれだろう。
﹂
何しろ陽乃は内面の強烈さほどではないが、見た目も十分輝いているのだから。
﹁一色は陽乃と会ったことがあるのか
﹂
けである。これで皆、自己主張の強い人間であれば文句も出ただろうが、八幡と静はラ
観客は皆、陽乃だけを見ていた。舞台にいたのは陽乃たちではなく、陽乃とそのおま
ブを見に来た人間で、めぐりを記憶している人間はほとんどいないに違いない。
を埋めるために打ち込みもやった。あの日の成功の影の功労者であるがおそらくライ
笑った。元々ピアノが弾けたらめぐりはライブではキーボードを担当し、ドラムの不在
自分がその筆頭であることを棚にあげている八幡の物言いに、めぐりは声をあげて
﹁俺が言うのも何だが、世の中趣味が悪い奴が多いな﹂
﹁ハルさんみたいになりたいって人、結構多いんだよ﹂
とだけだ。
いない。緊張と羞恥と戦いながら舞台の上で考えたことと言えば、演奏でトチらないこ
たのも、今となっては痛ましい思い出である。舞台上での良い思い出など何一つ残って
あー、と乾いた声が八幡の口から漏れる。そのライブで陽乃の横でギターを弾かされ
﹁去年、文化祭のライブ見ました
!
?
78
イブなど早く終わってくれと心の底から思っていたし、めぐりは全力で皆でバンドとい
うのを楽しんでいたから他人の視線など二の次だった。思い返してみれば、共にバンド
を組む面々としては割りと理想的だったのかもしれない。
めぐりの視線が、机の上の写真立てに移る。ライブが終わった時、陽乃に撮らされた
記念写真だ。八幡にとっては黒歴史そのものの写真も、めぐりにとっては良い思い出ら
しい。
ハルさんの一の子分は、間違い
?
点でこれでは、卒業するまで頑張っても陽乃の影も踏めないだろう。
になるというのであれば、よほど劇的な環境に身を置かない限りは不可能だ。一年の時
陽乃個人の能力や置かれていた環境は、他人に真似できるものではない。今から陽乃
抗があるが、陽乃が陽乃であることの最大の要因はおそらく、生まれ持った感性である。
陽乃はああだったはずだ。それまでに培ってきたものを才能の一言で片付けるのは抵
になっている。高校に入ってからも色々あったに違いないが、おそらく入学する前から
他人からアドバイスを受けたくらいで陽乃になるのならば、世の中もっとスリリング
﹁子分じゃなくてそのものになりたいって奴には、俺の助言は役に立たないだろ﹂
なくはっちゃんだし﹂
んも何か、アドバイスとかあったら言ってあげてね
﹁⋮⋮まぁ、そんな訳で人は足りてたんだけど、役員に加えることにしたんだ。はっちゃ
意外なほどに、城廻めぐりは会長をしている
79
﹂
﹁⋮⋮見た目は良いみたいだから、頑張れば何とかなるんじゃね﹂
﹁雑過ぎません
何か言っている後輩を気にもせず、八幡は足早に執行部室を出て行き、ドアを閉めた。
﹁ちょ、せんぱ││﹂
﹁頼む﹂
﹁はっちゃんなら別に良いよ。他校との交流のことは、こっちでも調べておくから﹂
﹁じゃあな。忙しいところ悪かった﹂
といういろはに、八幡はなるべく関わるまいと心に決めた。
できれば一生お目にかかりたいものだが、万が一がないとは限らない。陽乃を目指す
い。
ぞっとするが、幸いにも陽乃とキャラが被るような人間には今のところ遭遇していな
乃 が 許 容 す る と は 思 え な い。全 力 で 相 手 を 潰 し に か か る 陽 乃 な ど 想 像 す る だ け で も
人間はそれだけで疲れるし、何より自分と似たような存在が近くにいることを、あの陽
の意見には賛成してくれるだろう。あんな内面の濃い人間が他にもいたら、周囲にいる
要約するならばその一言に尽きる。雪ノ下陽乃は一人で十分だ。めぐりも雪乃も、こ
﹁陽乃が増えても俺に良いことないからな﹂
!?
80
安堵の溜息を漏らした。普通とは違う感性をしていると自覚していて、それを受け入れ
顔を見合わせた八幡と姫菜は、隣にいる人間が自分と同じ感想を抱いたことにそっと
を抱いたのだ。
像していたのだろう。それが思っていた以上に綺麗だったものだから、八幡と同じ感想
もコートを見た瞬間、
﹃うわー⋮⋮﹄という声を挙げた。姫菜ももう少し寂れた風景を想
自分とは明らかに人間が違う。八幡の隣にはジャージに着替えた姫菜がいたが、彼女
い彼はは彩加の行動に尊敬の念を覚えると同時に引いていた。
上げたものだと心の底から思う八幡だったが、部活でスポーツに打ち込んだことなどな
できない環境で一人黙々とコートやボールの清掃整備を続けられる気持ちの強さは見
新しい部員はいつやってくるか解らないし、最悪来ないかもしれない。練習も満足に
ら、当然、この整備をしているのも彩加一人ということになる。
されていた。彩加以外に部活に顔を出している人間はいないというのが事実であるな
を持ち、雪乃、姫菜と一緒にやってきたテニスコートは、思っていた以上に綺麗に整備
八幡にしては珍しく気合を入れて望んだ月曜日。ジャージに着替え自前のラケット
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
81
ていても、たまにはマイノリティになるのが怖いこともあるのだ。
そんな中、見た目と性格に反して内面は意外にも熱血系だったらしい雪乃は、きちん
と整備されたコートを見て、満足そうに頷いた。
﹁やめてくれよ誰得だよ﹂
﹁今お前の発想と視線に恐怖を覚えてるよ﹂
さに、恐怖と共に興奮を覚えたりしません
?
﹂
野球部にサッカー部。沢山部員のいる部活がフェンスの向こうで汗を流し、青春の声
﹁ならねーし、なっても教えねーよ﹂
﹁そのうちその恐怖が快感に変わりますよ。そうなったら是非知らせてください﹂
?
﹁もちろん私と八幡先輩にですが
想像だにしなかった美少女のような美少年の力強
﹁私は実は細マッチョに一票入れたいですねー﹂
ら、それはそれで残念に思う。
ということもありえない話ではないものの、ジャージを脱いだ彩加が細マッチョだった
れほど筋肉がついているようには見えなかった。女性のスタイルと一緒で着やせする、
えへへ、と笑う彩加は天使のように愛らしかったが、テニスの腕はともかくとして、そ
﹁筋トレにもなるかなって。テニスの整備や清掃って、結構重労働だから﹂
﹁一人しかいないのに、ちゃんと整備しているのね﹂
82
を挙げている中、部員一人と部外者三人の練習は始まった。
基本的には雪乃が球を出し、彩加がそれを追い、八幡と姫菜がボールを拾うという役
割分担となった。雪乃が球出しを買って出たことに驚いた八幡だったが、前後左右、ス
パルタンに彩加を動かす様を見て、雪乃の中にあるスポ根魂とドSの精神に火が点いた
のだと理解した。
ボールを拾いながら、彩加の動きを観察する。フォームは悪くない。こうあるべしと
いう理想の形に近づけるよう、日々練習をしているのが良く解る。動きもそれなりだ。
基礎練習の反復をしている証拠だろう。一人でこれだけできるのだから、まともな練習
環境、面倒をみてくれる先輩や指導者、一緒に雑用をやる同級生がいればもっと伸びた
に違いないのだが、いかんせん、彩加は一人だった。
それに他にも問題はある。雪乃のボールを受けて五分ほど経つと、彩加の息は上がり
始めた。運動部にしては体力が少ない。雑用とラケットを持った基礎練習だけで、走り
こみの時間まで取れないのだろう。他のことができていても、最後までそれを実行でき
るだけの体力がなければ宝の持ち腐れである。
十分ほどでコートに倒れ込んだ彩加を見て、雪乃は休憩を提案した。彼女からすれば
﹂
実に物足りない結果だろうが、彩加の体力が足りないのは誰が見ても明らかだった。
﹁戸塚、大丈夫か
?
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
83
﹁あ⋮⋮ありがとうございます、せんぱい⋮⋮﹂
彩加の手を取り、引っ張り上げる。小さい女子のような手だが、ラケットのタコの固
さが残るスポーツマンの手。その固さは線の細い印象の彩加には似つかわしくない感
﹂
あ の 人 と 軽 井 沢 ま で 行 っ て た で
触だったが、それも努力の証だと思うと素直に彼を尊敬することができた。
しょう
﹁と こ ろ で 比 企 谷 く ん。貴 方 テ ニ ス は で き な い の
は初めてのことだった。基本的に、陽乃は我慢をしない。機嫌が悪いとなれば即座に報
とにおいて、陽乃は天才的な才能を持っている。こういう、解りやすい反応をされるの
も合わせなかった。機嫌を悪くしたというのは八幡にも解ったが、内心を悟らせないこ
その時の陽乃はまず信じられない、という顔をし、そして顔を逸らしてしばらく視線
ぞ﹂
﹁負けることが大嫌いなんだろ。うっかり勝っちまった時は、そりゃあ酷いもんだった
より大好きな人だから﹂
﹁そんなに落ち込むことはないわ。あの人は勝負を挑んでくる人間を叩き潰すのが、何
才能がないんだな、と嘆息する八幡に、雪乃は珍しく同情的な表情を浮かべた。
ことがない﹂
﹁行ったが、テニスはてんでダメだな。陽乃はもちろん、誰とやっても1ゲームも取った
?
?
84
復をしてくるのが雪ノ下陽乃という人間である。その陽乃が何もしてこないというの
は逆に八幡の恐怖を煽ったが、その不可思議の答えは勝負の当事者以外のところから齎
された。
その時の勝負に付き合っていた最後の一人である静が、にやにやと笑いながらこっそ
りと八幡に近寄り、耳打ちをする。
﹂
﹃負けたくらいで拗ねる人間だと、狭量なところをお前に見られたくないんだろう。か
わいいところもあると思わないか
﹄
?
﹂
それでも本気を出されるとどうしようもないのだが、それは言わないでおく。
てると思うぞ﹂
﹁数える程だけどな。ゴルフとかボーリングとか、直接妨害されない種目だと意外と勝
?
勝負事に対する姿勢を知った。
陽乃は溜飲を下げいつものように振舞うようになったが、その日、八幡は改めて陽乃の
一にも負けないと本気モードになった陽乃に、八幡は手も足も出ずに完敗した。それで
いながらひらりと避けた。その後、恥辱を雪ぐべく勝負を挑まれた訳だが、今度は万が
その言葉を耳ざとく聴きつけた陽乃が思い切り放り投げたスポーツバッグを、静は笑
﹃静ちゃん、うっさい
!
﹁貴方⋮⋮姉さんに勝ったことがあるの
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
85
基本的に何でもできる陽乃に勝つには、その道に打ち込んでいる才能ある人間を連れ
てくるしかないが、陽乃派そういう人間と相対するような状況に追い込まれないよう、
器用に立ち回る。勝てる勝負しかしないのではなく、陽乃が勝負に出る時はもう、勝て
る算段がついた時なのだ。ある日の八幡の勝利も偶然と幸運の産物である。決して八
幡の実力で勝った訳ではないのだが、雪乃にはそれが自慢の一種と思えたらしい。
雪乃は一瞬、憮然とした表情を浮かべると、すぐにその表情を引っ込め、八幡から視
線を逸らした。
何があったんだろう、とその背中を見ながら首を傾げていると、あの日の静と同じ笑
みを浮かべた姫菜が寄って来て、やはり彼女と同じようにそっと耳打ちした。
﹂
?
それを姫菜のように﹃大好き﹄と表現するのは抵抗があるが、好意があるのは間違い
を、八幡は見抜いていた。
いるのは誰が見ても解ることだが、その感情の向こうに屈折した愛情を持っていること
ないが、雪乃が陽乃を好きだと言っているのは聞いたことがない。複雑な感情を持って
ながら回避した。陽乃は少なくとも八幡に対して、妹を好いていることを隠したことは
その言葉が聞えていたのだろう。鋭い角度で飛んできたテニスボールを、姫菜は笑い
ことがあるっていうのが気に食わなかったんじゃありません
﹁雪乃くん、あれでお姉ちゃんが大好きみたいですから。八幡先輩相手とは言え、負けた
86
がない。目の腐った八幡をして実に屈折した姉妹愛だと思わずにはいられないが、それ
が逆に、雪乃らしいとも言えた。あの陽乃の妹が、解り易い愛情表現をするはずもない。
気持ちを落ち着けるためにコートから離れた雪乃と入れ替わるように、体力も回復し
﹁せんぱい﹂
手の空いた彩加がぱたぱたと足音を立てて寄ってくる。ラケットを抱え、もじもじとす
る仕草はその辺の女子などよりも格段に可愛らしい。
﹁良ければ、アドバイスが欲しいんですけど⋮⋮﹂
できないと思うが﹂
﹁前にも言ったが俺は素人だぞ テニスを上手くなりたいって戸塚の野望には、貢献
﹂
子は大変だろうな、と心中で彼らに同情しながら、八幡は先ほどから思っていたことを
あったが、この仕草この表情この声には、同性を惑わす力がある。これでは同級生の男
うか。陽乃という決まった相手がいる八幡は、間違っても間違いを起こさない自信が
た。彼女、いや彼はこれまで男性の中で生きてきて身の危険を感じたことはないのだろ
あるが、天然だとしたら更に性質が悪い。そんな彩加の仕草を見て、八幡は疑問に思っ
身長差から上目遣いになっている。これを狙ってやっているのだったらまさに悪女で
雪乃様に走らされた後だからか、彩加の頬は紅潮していた。目も僅かに潤んでいて、
?
?
﹁それでも、聞きたいです。何かありませんか
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
87
提案してみた。
﹂
?
時間が取れない以上、部活外でその時間を捻出するしかない。
﹂
﹁休みの日でも良ければ、走りこみくらいなら付き合うが、どうする
﹁ほんとですかっ
?
いからな、特に海老名﹂
﹁目を輝かせてるところ悪いが、走りこみに付き合うだけだぞ それ以外の意味はな
!?
﹂
ともあれ、技術の向上を求めるならば、体力作りは避けては通れない道だ。部活内で
占できたことが大きい。
できることではない。一人でも彩加が部活を続けていられるのは、コートとボールを独
を定められない状況で、一人筋トレ走りこみを続けるのはよほどメンタルが強くないと
諦めて、基礎体力を作ることに専念すれば十分な時間も取れるのだろうが、明確な目標
のメンテナンスにも多くの時間を取られるのは間違いない。いっそボールもコートも
いうのは本当だろう。彩加一人とは言えボールとコートを使って練習するのだから、そ
申し訳なさそうな彩加の声に逆に八幡の方が申し訳なくなったが、時間が取れないと
﹁部活内だと時間がとれなくて⋮⋮﹂
た方が良いと思うぞ。走りこみとかしてないだろ
﹁⋮⋮そうだな。これは俺が言うまでもないことだと思うが、体力作りをもう少しやっ
88
?
﹂
﹁そ ん な こ と よ り 八 幡 先 輩、私 も 走 っ て 良 い で す か 二 人 と 一 緒 な ら ど こ ま で で も
走っていけそうな気がします
﹂
﹂
だが、彩加はそれに気づいていないかのように、姫菜の案に同調する。
﹁いいですよ。皆でやろう
﹁適当にな。そういう訳で休みに走ることになったんだが、雪ノ下はどうする
?
ではあるがOKを出した。雪乃にしてはかなりの譲歩である。思いも寄らなかった付
というところなのだろうが、雪乃は一瞬も逡巡することなく、今回だけという条件付き
タイプでないのは見て取れる。本音を言えばランニングなど面倒くさくて仕方がない
人間によっては﹃不健康﹄にも見える白さだ。性格からしても、自発的に走ろうという
雪乃の肌ははっとする程に白く、普段外に出ていないことは見て取れる。それは見る
微妙に曖昧な返事は、継続して付き合う気はないという意思表示でもあった。
﹁今週末、ということであればとりあえずは良いけれど⋮⋮﹂
﹂
彼が区切った期限は金曜日まで。八幡の提案した休みの日というのはその外になる訳
ニングをしよう、というイベントのメインは彩加であるから、当然、決定権の彼にある。
確認の意味を込めて、八幡は彩加を見た。この場で一番の年長は八幡であるが、ラン
﹁来るっつーのを止める気はないが⋮⋮﹂
!
?
?
?
﹁やった。八幡先輩、おいしいの期待してますからね
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
89
き合いの良さに苦笑を浮かべつつ、八幡はこの場にいない最後の部員のことを思いだし
た。
﹂
?
か
﹂
﹂
!
わったのだろうか。それにしては切羽詰っているように見える。よほど急いできたの
ジャージ姿の結衣である。今日は予定が入っていると言っていたはずだが、予定が変
﹁ヒッキー先輩
が息を切らせて飛び込んできた。
彩加が自分のバッグに駆けて行こうとしたその時、テニスコートに見覚えのある人間
!
?
﹁はい
ちょっと待っててください﹂
﹁そうだな。戸塚、お前と連絡取れるようにしておきたいんだが、番号を教えてもらえる
﹁それでは、今週末は皆でランニングということで良いのね
動神経だとしても、犬の散歩のついでと思えばランニングもそれほど苦にはなるまい。
うだった。ただ走るだけでも一緒にやれば、少しは気も晴れるだろう。見た目通りの運
雪乃の言葉に、八幡も頷く。結衣は活動に参加できないことを大層気に病んでいるよ
﹁それは良いことね﹂
﹁皆がやるって言ってる上に休みを使うなら、喜んでくると思いますよ﹂
﹁由比ヶ浜にも声をかけないとな。あいつも運動得意そうには見えないが﹂
90
﹂
だろう。ぜーぜーと息を切らせている仲間の違和感の正体に、最初に気づいたのは姫菜
だった。
﹁⋮⋮優美子
﹂
姫菜の機先を制するように、八幡は彼女に問うた。 しのつかないことをしでかす前に、思う通りに誘導する必要がある。
いう目をしている人間を勝手に行動させると、何をするか解ったものではない。取り返
の目が、危険な感じに細まる。部活に勧誘したあの日と同じ、ロクデナシの目だ。こう
る。それが自分の力不足で妨げられようとしていることに、心を痛めているのだ。姫菜
そこで結衣は黙り込んでしまった。テニス部の手伝いは結衣が持ってきた依頼であ
たんだけど││﹂
じゃ止められなくて、せめてヒッキー先輩たちに知らせなきゃって思って一人で先に来
﹁そう。これからここで、テニスやりたいって。今準備してるとこなんだけど、私一人
?
?
﹁でも、見学するくらいならOKですよ
部員増えるかもしれませんし﹂
﹁準備をしてたんでしょう そのユミコさんは、見るだけじゃなくて参加するつもり
?
ですから﹂
﹁無理だと思います。私と結衣でテニス部に協力するって聞いて、興味を持ったみたい
﹁二人でなら説得できるか
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
91
?
のようよ。私見だけれど、冷やかしの可能性が大ね﹂
言葉にこそしなかったが彩加の顔には﹃それは嫌だ﹄と顔に書いてあった。依頼主の
﹁それは⋮⋮その⋮⋮﹂
意向であるならこれは尊重したいが、部活仲間がクラスのグループに馴染めなくなるの
も避けたいところだ。依頼主である彩加との関係は、悪く言ってしまえば依頼が終われ
ばそれまでだが、結衣と姫菜はこれからも同じ部活に残るのである。個人的な感情を別
にすれば、どちらを優先すべきかは考えるまでもない。
だが、優先すべきを優先したら彩加の依頼を完遂することができなくなる。何かを得
るために何かを完全に切り捨てるなど、二流の証拠だ。欲しい物は全て手にするのが、
雪ノ下陽乃のやり方である。比企谷八幡は雪ノ下陽乃ではないが、その思想は身体に染
みこんでいた。彩加を立てて、姫菜たちの問題も解決する。奉仕部が、比企谷八幡がす
﹂
るべきは、それだった。焦る結衣と暗く淀んだ姫菜の視線を受けて、八幡は考える。ま
ずは、相手の戦力を分析することだ。
﹁お前らのグループって全部で何人だ
姫菜の挙げていく名前の一つに、聞き覚えのあった八幡は眉根を寄せ、雪乃に視線を
いですね。名前は││﹂
﹁私達も含めて女子が三人と男子四人です。男子は皆サッカー部。今日は部活休みみた
?
92
向けた。雪乃は苦々しい顔をしながら、小さく頷く。
﹁察しの通りよ。父の会社の顧問弁護士のご子息ね。一応、私の昔馴染みでもあるわ﹂
どんなもんだ
﹂
﹁雪ノ下のご令嬢らしいハイソな交友関係だな。それで、葉山某のテニスの腕ってのは
﹁勝てるか
﹂
ないかしら。少なくとも、平均よりは大分上よ﹂
﹁中学の時に対戦したきりだけれど、誰かに師事した訳ではないにしては、上手い方では
?
姉妹である。
いた。そんな雪乃に視線に、八幡は歪んだ快感を覚えていた。性格は違っても、やはり
たが、見た物を凍てつかせる氷の視線には、人をたじろがせるには十分な迫力が篭って
の方が高く体重も同様である。非力な雪乃が渾身の力を込めてもそれは高が知れてい
語気を強めた雪乃は八幡に詰め寄り、その胸倉を掴み挙げた。もっとも、身長は八幡
﹁誰に物を言っているのかしら。それよりも││﹂
?
れて久しい故に、かつてのご主人様にならって策謀のようなものを巡らせることもな
雪乃に襟首を掴まれながら、八幡はにやりと笑った。陽乃が卒業し、執行部からも離
﹁悪かった。ただこれで方針は固まったぞ﹂
﹁次にそんなふざけた呼び方をしたら、ただでは済まさないからそのつもりでいなさい﹂
珍しく、比企谷八幡は自分で策を練る
93
かったが、久しぶりにその機会を得ることができた彼は喜びのあまり邪悪に笑ってい
た。
それは妹である雪乃をして、陽乃に通ずると感じさせるほどのものだった。姉の人を
人と思っていないかのような、ロクデナシの笑みが雪乃は好きではなかったが、八幡の
微笑みはどこか親しみを感じさせた。姉ではないという贔屓目のなせる業かもしれな
いが、その笑みに毒気を抜かれた雪乃は思わず彼の襟首から手を離してしまった。
自由になった八幡は、居並んだ一年生たちを見回して、宣言する。
りいただく。葉山某に恨みはないが、精々テニス部の礎となってもらおう﹂
﹁最終的に叩き出すのは当然だが、煽りに煽って練習相手になってもらってから、お引取
94
﹂
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
﹁対戦
﹁別にあーしらがそれを受ける必要は││﹂
﹁そうだ。そっち全員とこっち全員でダブルスだ﹂
?
支えた人間だ。唯我独尊で知られた陽乃に対する忠犬っぷりから﹃女王様の犬﹄とも呼
比企谷八幡。現生徒会長である城廻めぐりとともに、先代の会長雪ノ下陽乃の政権を
いうことを、良く知っていた。
故お前が⋮⋮と思った優美子だったが、耳ざとい彼女は目の前にいるのが何処の誰かと
良かったのだが、八幡はあくまで﹃部活にまぜてやる﹄という姿勢を崩さなかった。何
のものすら二の次だった。結衣や姫菜とおもしろおかしく遊ぶことができればそれで
テニス部を見たかったのであって、テニスがしたい訳ではない。本音を言えばテニスそ
取り付く島もない八幡の物言いに、優美子は苛立たしげに押し黙った。彼女はここの
探してくれ﹂
もテニスがしたいってんなら、そこはもう俺の知ったことじゃない。どうぞ他の場所を
﹁いやなら﹃正式な﹄コートの使用許可と校則を盾に、お前らを叩き出すまでだ。それで
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
95
96
ばれる男である。生徒会活動に一年も関わっていた男だ。普通の生徒ならば校則など
ほとんど知らないだろうが、彼ならば校則に精通していても不思議ではない。そんな人
間を相手に、生徒手帳など一度も開いたことのない優美子は、太刀打ちすることはでき
なかった。
だが、葉山隼人はそうではなかった。将来弁護士になるつもりの彼は生徒手帳も熟読
し、校則にも精通している。いつかやりあうことがあるかもと思って部活に関する規則
もしっかりと読み込んでいた。それによると授業以外で学校の施設を使うためには、校
庭ならば校庭の、テニスコートならばテニスコートの使用許可が必要になる。校庭など
の広い場所の場合はそれ全体ではなく、半分とか四分の一とかエリアを区切って許可が
出されるのだがそれはさておき、それら運動部が使用する場所については、そこを使用
する部が持ち回り、あるいは場所固定で終日、かつ恒常的に許可を得ているのが普通だ。
総武高校の場合、校庭ならば野球部、サッカー部、陸上部といった具合だが、テニス
にしか使えないテニスコートについては、基本的にテニス部が校庭と同様の使用許可を
得ているはずで、これは八幡の言う通り学校が認めた正式なものだ。
そしてこの手の許可は、他の全ての生徒の都合よりも優先される。それを無視して行
動した場合、校則違反として処罰の対象になる可能性があった。まさかいきなり停学な
どという重い処分にはなるまいが、サッカー部である隼人たちがそれを破るのは、運動
部全体のパワーバランスに関わる問題になってくる。野球部もサッカー部も、もっと広
いスペースを使いたいと常々思っているし、スペースについての争いは使用許可が厳密
に区切られている現在でも後を断たない状況だ。
ここで隼人たちがそれを無視した、という話が広まるとサッカー部以外の他の部から
突き上げられかねない。最悪使用スペースの削減などという事態に陥ることも考えれ
ば、ここで八幡の提案を突っぱねるのは得策ではない。
﹂
これは従っておいた方が良さそうだ。そう判断した隼人は、八幡の提案を受け入れる
ことにした。 ?
﹂
?
人的な案件を請け負うこともあった。雪乃の乗ったリムジンが八幡を轢いた際の示談
問弁護士をしており、社長である雪乃や陽乃の父とも親しい。それ故に、雪ノ下家の個
隼人の父は弁護士事務所を開いている。県下でも有数の企業である雪ノ下建設の顧
例え話に大笑いする三人を冷めた視線で眺めている八幡を見ながら、隼人は考えた。
﹁俺なら練習サボってそっち行くかも﹂
ゲットで遊んでたらムカつくだろ
でも一応部活なんでな。サッカー部だって、半面空いてるからって俺らがキックター
﹁俺達の相手をするならな。それから、いきなり来るのはこれっきりにしてくれ。少数
﹁テニスコートを使わせてもらえるってことで良いんですよね
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
97
交渉を請け負ったのは、記憶に新しい。
その時、彼が陽乃の恋人であるということを知った。隼人自身は彼に縁がないことも
あって見舞いにはいかなかったが、あの陽乃が毎日病院に顔を出し、献身的になってい
たと聞いた時には耳を疑った。
あの陽乃にそんな人間らしい面があるなど、誰が信じられるだろうか。何より驚いた
のは陽乃がそうであることよりも、彼女に恋人がいて、それが学校の後輩ということ
だった。学校でもプライベートでも﹃あの﹄陽乃と一緒にいて、これからも一緒にいた
いと思える人間。きっと菩薩のように心が広い人間か、陽乃と同じように人格が破綻し
ているかのどちらかだ。勝手にそう予測していたのだが今日初めて相対して、後者の方
がより近いと理解した。陽乃とはまた方向性が違うが、彼は陽乃の同類である。
深く淀んだ目からは、言い知れないプレッシャーを感じる。陽乃よりは控えめだが、
致死量を超えた毒ならばそれがどういう種類の毒かは関係がない。これを覆すのは自
分では力不足だ。それを悟った隼人は、八幡の提案を今度こそ全面的に飲むことにし
た。
マジで
と戸部たちがその言葉に食いつく。
﹁おうよ。その代わり勝ったらその分だけ残り続けて良いぞ﹂
﹁解りました。それでお願いします﹂
98
!?
彼らにはそれが、とても太っ腹で良い条件に思えたのだろう。実際には特に話し合い
もせずに勝手に条件を追加されただけなのだが、それには気づいていないようだ。
話もどんどん大きくなってきている。元々テニス部の様子を見に行こうと言い出し
たのは優美子で、隼人はそれに賛成しただけだ。結衣と姫菜がどういう部活に顔を出し
ているのか気になってはいたし、たまにはテニスをするのも良いと思ったからだ。
歓迎されないということも勿論考えてはいたが、ここまでとは思っていなかった。皆
で楽しく、というのが隼人の流儀である。それは多くの場合に好評で、今回もそうであ
ると楽観していたのだが、八幡は明らかにそう思っていなかった。軽い主義の対立に、
隼人は密かに気を引き締めた。簡単には負けられない。
姫菜を向こう、結衣をこちらとすると、数の有利は自分たちにあるが、その利を活か
せるのが全員が一定以上の腕を持っている場合だけだ。隼人以外の男子三人は、ボール
を前に飛ばせるレベルの腕であり、運動そのものが得意ではない結衣も、気持ちは大分
あちらに傾いている。仮に得意であったとしても、善人で情が強い結衣は、こういうグ
ループ同士が対立する構図では十分に実力を発揮できない。戦力としてカウントでき
るのは、自分と優美子の二人だけだ。そう隼人が考えをまとめる直前に、八幡はさり気
ないタイミングで、話を進めていた。
﹁じゃ、ローテでやろうぜ。最初、俺らは戸塚と海老名が入る﹂
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
99
﹁隼人くん、最初に俺、俺やりたいんだけど
﹂
陰のベンチに下がると、やりとりを眺めていた雪乃が話しかけてくる。
八幡は自分の企みが半ば成功したことを悟った。ルールの細かい設定を彩加に任せ日
どうすればこの状況を打破できるか、考えをめぐらせている隼人を横目に見ながら、
ならばそれに抵抗するまで。
るのだろう。一回以上付き合うつもりはないという、八幡の強い意志を感じる。
経験者が多そうなあちらは、腕に劣る人間を参加させることで勝率を上げようとしてい
ぐことはできなくなった。腕で劣る人間が入ればその分勝率が下がる。頭数で劣るが
力強い戸部の主張に、隼人は陰鬱な気分で頷いた。経験者二人で押し切り、時間を稼
!
はあるが、相棒の姫菜はボールを前に飛ばせるレベルの腕である。対する男子二人は姫
そうこうしている内に、最初のゲームが始まる。彩加が現役のテニス部員という有利
チーム構成は、結衣と残りの男子、隼人と優美子というペアで決まりだ。
と彩加が出て、あちらは男子二人が出てくる。二人ずつ出るのであれば、残り二つの
具も揃っている。他に決めなければならないことは、それ程多くはない。こちらは姫菜
ダブルス、ローテーション。こちらが飲ませた条件はそれだけだ。コートがあり、道
﹁そうだな﹂
﹁貴方の予想の通りになったわね﹂
100
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
101
菜と同じレベルであるが、現役のサッカー部男子故に、体力と腕力では分があった。結
果、二組の実力は均衡し、一進一退の攻防を繰り広げることとなった。
あくまでレクリエーションの域を出ないやり取りに、表面上は和やかな空気となって
いたが、相手方のベンチでは隼人と優美子が入念な打ち合わせをしていた。明らかに勝
ちにきている。
それも狙い通りだ。依頼内容は彩加の能力の向上であって、遊びにきた素人集団を叩
き潰すことではない、奉仕部的にはこの勝負、勝とうが負けようがどちらでも構わない
のだ。あの二人相手ならば、彩加も良い経験になるだろう。これからもふらっと現れる
ようになれば問題だが、それについては八幡が釘を差した。
遠まわしではあるが、部活中に迷惑だと伝えたのだ。優美子はどうか知らないが、同
じく運動部に所属する隼人は運動部の暗黙の了解を無視することはできない。仮に今
日と同じ流れになったとしても、その時は彼が止めに入るだろう。集団の核はあの二人
だが、精神的には対等とは言えない。隼人が反対すれば、優美子はきっとそれに従うと
いう確信が八幡にはあった。この問題はそれで良い。
この勝負に勝つ、というのは奉仕部というよりも八幡や雪乃の個人的な理由だった
が、八幡にとってはここからが難しかった。向こうのへっぽこを引きずりだすために、
ダブルスでローテというルールを持ち出したが、こちらは姫菜が戦力にならず彩加もテ
ニス部にしては体力が少ない。雪乃はテニスの腕は期待できるが、体力については彩加
以下ということが推測できた。
この面子で確実に勝利を得るならば、隼人と優美子のペアが出てくる前に確定的な
リードを得ることだが、人数で劣るこちらは各々の負担があちら以上だ。特に男子四人
はサッカー部で、体力に自信があるのが見て取れた。少なくともこの点においては、テ
ニス奉仕部連合に勝ち目はないだろう。
勝つためには一瞬の油断もできない。それを良く理解していた雪乃のコートを見る
﹂
目は、今まで見たこともないくらいに真剣だった。
﹁戸塚くんは、固定なのよね
ない。そもそもこの勝負は偶発的なものだ。部活のルールを持ち出した以上、自分たち
奉仕部の仕事は彩加のテニスの腕を向上させることであって、この勝負に勝つことでは
ことは目に見えている。せめて彩加が固定でなければまた話も違っていたのだろうが、
知っていた。一気に勝負を決めるつもりで畳み掛けたとしても、決めきる前に力尽きる
自分の腕に絶対の自信があっても、勝負を決めきる体力がないことは雪乃本人が良く
﹁善処はするわ。でも期待はしないで﹂
ころだが⋮⋮﹂
﹁そうなるな。次は海老名とお前で入れ替えだ。できればこれで勝負を決めてほしいと
?
102
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
103
がそれを侵す訳にはいかない。
雪乃の態度には苛立ちが見えた。自分で決め切れない以上、勝負が次のセットに流れ
ると思っているのだ。彩加が経験を詰めるのだから、それはそれで奉仕部本来の目的と
合致してはいるが、誰だって負けるのは悔しい。雪乃は特に負けず嫌いであり、八幡も
それに大いに同調した。
この場で最も真摯に勝利したいと願っているのは間違いなく雪乃だ。自分で勝ちき
れないことを予感した彼女は非常に苛立っており、それは隣に立つ八幡にも伝わる程
だった。無言で佇んでいるだけなのに、この迫力なのだから溜まらない。性質は大きく
違っても、やはり雪乃は陽乃の妹だ。
八幡が俯き、にやつきそうになるのを堪えていると、コートでプレイ中の姫菜が手を
挙げた。
体力の限界だ。へとへとになってコートから出てくる姫菜と入れ替わり、コートに入
る雪乃の背中には昔のスポ根物のような炎が燃えていた。これで勝負が決まってくれ
るのならば本当に楽なのだが、そう上手く話は転がらない。雪乃の体力が尽きる可能性
は高く、そうなれば自分に出番が回ってくる。自分の出番を半ば確信した八幡は、ベン
チから立ち上がってストレッチを始めた。
雪乃の猛攻に相手もペアを交代する。二組目は大柄な男子と、結衣のペアだ。結衣は
一応、奉仕部の内通者、ということになるのだろう。あくまで無理のない範囲で協力し
てくれるだけで構わないと説明した。授業以外でテニスをしたことがなく、加えて運動
もそれ程得意ではないという彼女では、不自然でない程度に八百長するのは無理だ。下
手に何かされて話がややこしくなっても困る。八幡としては遠まわしに﹃何もするな﹄
と言ったつもりだったのだが、その真意は結衣には伝わっていなかった。
奉仕部と友人のために役に立とうとしているのは、八幡にも理解できる。彼女なりに
何かしようと考えた結果、とにかく時間を稼げばと思ったのだろう。何から何までもた
もた行動する結衣は実にいじらしかったが、雪乃にとってそれは逆効果も良い所だっ
た。きっちりと休む時間を貰えるならば助けにもなっただろうが、結衣が稼げるくらい
の時間ではそれも高が知れている。
テンポ良く進まないゲームに雪乃は苛立ち、それ故に体力を予定よりも早く消耗して
いたが、皆のためと必死になっている結衣は普段ならば真っ先に気づいていたはずの雪
乃の変化にも気づかなかった。
善意が空回りする好例を横目に見ながら、ストレッチを終えた八幡はベンチに腰を下
ろした。その横に、姫菜がつつ、と距離を詰めてくる。眼前の試合にはまるで興味がな
﹂
いらしい姫菜は、ストレッチで軽く汗をかいた八幡の顔をしげしげと眺めていた。
﹁何だ。何か用か
?
104
﹂
﹁⋮⋮八幡先輩、メガネとかかけてみません
と見繕ってあげられますよ
私はほら、メガネキャラですから、色々
?
を感じた八幡は、ついに根負けした。
姫菜はずっと八幡を見続けていた。話が決着するまで諦めないという、姫菜の強い意思
も、姫菜を喜ばせるだけである。もう係わり合いになるまいと試合に視線を戻しても、
いと自覚していたが、姫菜も相当なものだと改めて実感したのだ。これ以上見ていて
そんな姫菜を見て、八幡は深々と溜息を漏らした。彼も自分が普通の感性をしていな
しろ、その威圧感を身体に感じ、嬉しそうに身震いしている。
たのだが、同じく内面が歪んでいる姫菜にとって、そんなものは何処吹く風だった。む
合は言い知れない迫力を生み出しており、見つめた人間に威圧感を与える程になってい
の代わりに陽乃から感染したある種の自信が漲っていた。その自信と生来の淀みの融
た。陽乃がかつて﹃死んだ魚のような目﹄と評した目にかつてあった卑屈な色はなく、そ
本気ならばなお悪い。八幡は内心の呆れを隠そうともせず、胡乱な目つきで姫菜を見
が、メガネの奥にある姫菜の澄んで淀んだ目には、冗談の色は欠片もなかった。
自他共に友達がいないと見とめている八幡は、それが姫菜なりの冗談なのかと疑った
?
﹁いやー、八幡先輩は絶対鬼畜メガネの才能があると思うんですよね。メガネ越しの冷
﹁⋮⋮俺は別に目は悪くない﹂
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
105
たい視線で隼人くんを見つめてくれたりすると、もう最高って言うかー﹂
﹁俺はメガネに詳しくないんだが、もしかして鬼畜メガネって種類のメガネがあったり
﹁⋮⋮残念です。八幡先輩に似合うと思うんですけどね、鬼畜メガネ﹂
と、脈なしと判断した彼女は渋々と白旗を揚げた。
あーでもないこーでもないと提案してくる姫菜にそっけない態度を取り続けている
れを知ることはできない。迂遠な意趣返しであるが、これはこれで気分も良い。
な、くらいのことは言いそうだと思った。姫菜の要望には応えつつも、しかし姫菜はそ
逆に自分の見ていない所で勝手に何かすることを激しく嫌う。むしろ学校ではかける
いと見ていた。ドSな陽乃は犬が羞恥プレイに悶える様を自分で鑑賞することを好む。
陽乃にそう言われれば学校でもかけることにもなるだろうが、八幡はその可能性は低
メガネは間違いなく、近いうちに一緒に買いに行くことになるだろう。
ち、それは決定事項だ。女王様の意思の前に、犬の趣味嗜好は問題にならないのである。
お洒落が肌に合わない八幡は当然難色を示したのだが、彼女が提案をしたのならば即
と会ったとき、伊達メガネでもしてみたらと勧められたばかりだった。そういう小癪な
あった訳ではないのだろう。しかし、メガネというのは地味に的を得ていた。先日陽乃
何でもない風を装う八幡だったが、内心では少し驚きを覚えていた。何かの確信が
﹁俺はお前の腐った趣味に付き合うつもりもない﹂
106
するのか
﹁八幡先輩
﹂
すごい
かけてくださいよ、そのメガネ
﹂
さいこー そんなメガネあったら私大喜びですよ やっ
ぱりかけると鬼畜になるんですか
﹁気が向いたらな﹂
!
は我慢するのが、姫菜と上手に付き合っていくコツである。
た。余計なネタを提供してしまったようで気分が良くないが、薄い本が厚くなるくらい
鼻息荒く詰め寄ってくる姫菜の態度に、そんなメガネは実在しないことは理解でき
!
!
!?
!
?
!
?
い。
﹁ここから勝てる
﹂
を決めきれずにガス欠になってしまったのは事実だ。雪乃は文句を言える立場ではな
幡が交代を告げると、雪乃は素直にそれに従った。交代に不満はあるだろうが、ゲーム
ここから雪乃が逆転するという、少年漫画のような展開はないだろう。ベンチから八
ようだ。
ていた。雪乃に変わって大きく得点を重ねたはずだが、目を離していた隙に逆転された
らのチームは隼人と優美子に変わっている。スコアを見れば、僅かにあちらがリードし
姫菜の言葉にコートに視線を戻すと、雪乃の動きが目に見えて鈍り始めていた。あち
﹁あ、雪乃くん、そろそろヤバイみたいですよ﹂
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
107
﹁善処はするが、期待はするな。だがまぁ、ここであの葉山某に負けたとなると、陽乃に
何を言われるか解らないからな。死力は尽くす﹂
﹂
?
陽乃と恋人なったことで八幡の視野は広がり能力的に大きく成長したが、その事実は
壁だけが友達だった﹂
﹁テニスは陽乃としかやったことがないからな。授業でもやったが、その時はボールと
﹁1ゲームも取ったことがないのよね
企谷八幡は勝たなければならないのだ。
陽乃は許してはくれない。彩加からの依頼があるなしに関わらず、勝負を受けた以上比
はない。そこだけを見るならば、八幡と条件は一緒だ。そういう相手に負けることを、
子レベルで存在する。だが彼はサッカー部だ。テニスは苦手ではないようだが、得意で
隼人がバリバリのテニス部であるならば、陽乃でも目こぼししてくれる可能性は微粒
の前の試合だ。
輩の態度に聊か傷ついた八幡だったが、目下の問題は彼女の機嫌や好感度ではなく、目
肩の動物の糞を見るような目で八幡を見ると、ささと距離を取ってベンチに走った。後
雪乃の冗談に、八幡は冗談で返したが、雪乃の方はそれを冗談とは思わなかった。路
﹁それは良いな。その程度で良いって言うなら、俺は喜んで鞭で打たれるね﹂
﹁乗馬用の鞭で叩かれたりするのかしら﹂
108
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
109
交友関係を広げたりはしなかった。高校に入ってからできた友人は同級生の中ではめ
ぐりのみで、教師まで含めてようやく静が増えるくらいだ。片手で数えても十分に足り
る。
そしてその中に、授業で一緒にテニスをやってくれる人間はいない。結果、体育で二
人組なる時はいつも余る訳だが、中学生の時ほどその環境に悲しさを覚えることはな
かった。心が強くなった訳ではない。心中に引かれた線が、より鮮明になったと言うべ
きだろうか。何が大事で、何がそうではないか。はっきりと意識した八幡は、そのくら
いでは悲しいとか寂しいとか思わなくなったのだ。
それだけ孤独な八幡であるから、テニスができるということはあまり知られていな
い。知っているのは友人として数えられる二人と陽乃。それから小町くらいのもので
ある。実力がどの程度のものかは八幡自身にも解っていないが、隼人は少なくとも陽乃
よりは弱く、動きも単調である。彼女に比べればまだ勝てる可能性はあるだろう。八幡
は隼人の実力をある程度看破しているが、隼人はそうではない。その情報の差も、優位
に働くはずだ。
ケースから取り出したラケットには、流麗な文字で雪ノ下陽乃の名前が刻印されてい
る。陽乃としかテニスをしたことがない八幡が持っている、唯一のラケットだ。
すれ違う時、八幡のラケットに姉の名前を見た雪乃は、不満そうに眉根を寄せた。こ
れは雪ノ下の家も姉の名前も関係なく、奉仕部として自分たちが請け負った仕事だ。こ
こに姉の名前を出されるのは、自分たちの仕事を横取りされたようで気分が悪いが、そ
れを口にするのはあまりにも狭量だ。何より八幡は陽乃の恋人で、あちらよりの人間で
ある。文句を言ったところで、聞きはしないだろう。
不満を燻らせた雪乃を他所に、八幡は雪ノ下陽乃の名前と共にコートに入る。彼を出
迎えたのは、葉山隼人のきらきらとした笑顔だった。人の黒々とした内面を見抜くこと
が得意な八幡をして、その笑顔には裏が見えなかった。心の底から微笑んでいるのだろ
う。尊敬できる美徳であるが、波長が合う気は全くしない。
だが、それくらい合わない方が、割り切った友人付き合いができるのかもしれない。
事故の件で助けてもらったこともある。自分でも意外なことに、八幡の隼人に対する評
価はそんなに悪いものではなかった。
﹁せんぱい⋮⋮﹂
人の背中を眺める八幡の隣に、彩加が駆け寄ってくる。
るので、その言葉には答えない。よろしく、と短く応えてパートナーのところに戻る隼
あくまで勝つつもりの八幡に、隼人は苦笑を浮かべる。勿論、隼人も勝つつもりであ
﹁比企谷八幡だ。俺が勝っても悪く思うなよ﹂
﹁改めて、葉山隼人です。良いゲームをしましょう﹂
110
﹁あと1ゲームくらいは体力は持つな これに懲りたら、体力作りはもっときちんと
しろよ﹂
?
必ず勝つ。八幡の心にも、炎が燃えていた。
相手は陽乃ではない。そのことが、八幡の心を軽くしている。
ができた。
も、テニス奉仕部連合が勝てる見込みは少ないが、付け入る隙はいくらでも見出すこと
り、二人とも間違いなく八幡よりも上手だ。彩加がテニス部であることを考慮に入れて
確かに隼人はテニスに強い。相方である優美子も経験者だけあって、中々の腕であ
部連合にあった。
セットマッチ。つまり、これが最後のゲームだ。誂えたように、サーブ権は奉仕テニス
ラケットを握り、ボールを持つ。ゲームカウントは5│5。タイブレークなしの1
見かけに寄らないということを思い知った。
ようで愛らしい彩加が、この中で最も純粋に闘志を燃やしていた。八幡は改めて、人は
けてでも、テニスの上達を望んだだけのことはある。そこらの女子よりもよほど少女の
疲れてはいるようだが、彩加もまだ集中は切れていなかった。関係ない素人に声をか
﹁がんばります﹂
こういう時、ラブコメの神様は微笑まない
111
精神を、集中させる。
ない。テニスに限らず、それが勝負というものだ。
様は正に天使といった風だったが、いくら見た目が可愛らしくても得点しなければ勝て
た動きも、更に精細を欠いている。荒い息を吐きながらもそれでも勝つために前を向く
対してこちらは、彩加の体力の消耗がかなり激しい。元々決して機敏とは言えなかっ
くらいは持ちそうに見える。
するならば優美子の方だが、こちらも見た目の割りに体力があるようだ。このゲーム内
自信があるのだろう。今すぐガス欠ということにはなりそうになかった。それを期待
優美子はともかく隼人が疲れているようには見えない。やはりサッカー部。体力には
ラケットを弄びながら、呼吸を整える。相手二人はしばらく試合をしていた訳だが、
りも先にこちらが4回得点すれば良いのだ。
れている。状況は芳しくないが絶望的でもない。要するにあちらが後3回得点するよ
タイブレークなしの1セットマッチ。ゲームカウント5│5。15│0でリードさ
対角線上に優美子を見ながら、八幡はルールを確認する。
ようやく、テニス対決は決着する
112
テニスの腕では、相手二人に劣る。試合が長引けば長引くほど、不利になるのは明白
だった。奇策の連打で最短距離を走りきる。それが最も安全かつ確実に勝つ方法だが、
果たして上手くハマってくれるだろうか。
考えて、八幡は苦笑した。
手には陽乃の名前が刻印されたラケットがある。今この試合を見ているはずもない
が、こういう試合をしたことはいずれ彼女の耳にも入るだろう。そこで惜しいところま
で行きましたけど負けました、などと恐ろしい報告はしたくはない。それはそれでぞく
ぞくするが、負けは負けなのだ。どうせならば負けた報告よりも勝った報告をしたい。
大きく息を吐き、吸う。ボールを高く放り投げ、八幡はサーブを放った。
ボールは正面に││飛ばない。フレームに引っかかったボールは大きく弧を描き、天
空へとすっ飛んでいった。ホームランである。このタイミング、この雰囲気でこういう
た。
!
励ましてくれたのは彼だけだった。その優しさに涙が出そうになるが、今はまだ試合中
憮然とした表情で構えを解く八幡に、彩加が駆け寄ってくる。これだけ人間がいて、
﹁どんまいですよ、せんぱい
﹂
漂ってきた。特にこちら側、雪乃の視線は刺すように鋭くそれが八幡の背筋を震わせ
﹃失敗﹄をするとは思っていなかったのだろう。敵味方両方のベンチから、白けた空気が
ようやく、テニス対決は決着する
113
である。ここで鼻の下の一つも伸ばせば、キモい先輩と引かれてしまうことだろう。天
使のような存在に、そうされることは避けたい。八幡は努めて表情を消し、小さく咳払
いを一つ。今すぐ﹃オチ﹄を暴露したい気持ちに駆られるのを押さえながら、数を数え
る。1、2、ああ、もう大丈夫だ。
いる。サーブが狙い通りの所に落ちると確信した上で、相手を油断させるために構えを
隼人と優美子は渋い顔をしていた。特に優美子は射殺さんばかりの目で八幡を睨んで
と単純に興奮してるのは戸部で、もう一人は結衣である。楽しそうで良いことだ。逆に
八幡の何でもない物言いに、何故か隼人サイドのベンチから歓声があがった。すげー
点だな﹂
﹁││こんな風に、どうにか狙ったところに飛ばすのが精一杯だ。とりあえず、これで同
ボールは二度目のバウンドをした。つまりは、テニス奉仕部連合の得点である。
ている。今更気持ちを切り替えて、捕球できるものでもない。呆然とする彼女の前で、
子は気づくが、仕切りなおされるものだと思っていた彼女は、既に構えを解いてしまっ
た。アウトでないことは誰の目にも明らかである。背後にボールが落ちたことに優美
八幡が指で差した先、隼人チームのコートにすとんと、軽い音を立ててボールは落ち
て特に苦手でな、こんな風に││﹂
﹁ありがとう戸塚。まぁ、言い訳するとテニスをするのも久しぶりなんだ。サーブなん
114
ようやく、テニス対決は決着する
115
解いたのだ。正々堂々としているかと言われれば否であるが、公式試合ではないし明確
なルール違反はない。対戦相手に責められる筋合いはなかった。
サーブにおける奥の手をいきなり消費してしまったのは痛いが、レシーブは一球ずつ
交代というのがダブルスの特徴である。運動神経の良い優美子の次は、隼人の番だ。あ
ちらの最強のプレーヤーである。普通に一対一でテニスをするならば、百に一つくらい
しか勝ち目はない。
しかし、これはダブルスだ。
八幡一人で戦う訳ではなく、また隼人も彼一人で戦う訳ではない。何を弱みとするか
は人それぞれであるが、八幡は優美子のことをあちらの﹃弱み﹄と見ていた。おそらく
次も、優美子はこのサーブに対応できないだろう。今現在の懸念は、隼人の前でこの
サーブを見せてしまったことである。
優美子よりも、彼の方がテニスは上手い。一度見ただけで対応できるものでは中々な
いが、できる人間というのはできない人間が思いもしないことをやってくるものであ
る。隼人ならば返してくる。半ば確信に近い思いで、八幡はボールをバウンドさせた。
二球目。八幡は同じサーブを打つことを選択した。
フレームに引っ掛け、天高くボールを打ち上げる。ほとんど同じ軌道を描いている
が、同じくらいの場所に落とせるとは限らない。打った段階では、おそらくアウトには
116
ならないだろう、くらいのことしか八幡には解らない。
隼人ならばどうするだろうか。
彼は八幡がサーブを打った瞬間、空を見ずに大きく後ろに下がった。コートのフェン
スぎりぎりまで下がってから、空を見上げる。それで落下地点は大体予測された。どう
いう意図をもって放たれるのか解れば、対応は何もしないよりも格段に容易くなる。
これならば打ち返せる。隼人が確信に満ちた笑みを浮かべたことで、八幡は現実にそ
の通りになると予感した。悪い予感は良く当たる。
そして、彼がまっすぐ自分を見返していたことで、どう打ち返してくるのかも予測で
きた。彼は裏をかくことを好まない。正々堂々と真正面から戦うのである。勝ち負け
よりも、隼人にとってはそれが重要なのだ。自分は正しいことをしたと胸を張ることが
でき、彼は正しいことをしたと万人に解ってもらえる。ある人には好まれるのだろう
が、ある人には徹底的に嫌われる。それが葉山隼人の流儀だ。
使える奴だけど好きではない、というのが陽乃の隼人評である。
彼女からすれば好ましい人間の方が少ないのだが、能力が高く容姿に優れ、またブレ
ない精神性を持っている点だけは評価していた。比企谷八幡にとって雪ノ下陽乃が絶
対であるように、葉山隼人にとっては善性によって行動するということが絶対なのであ
る。集団に埋没するか、弾かれるかの違いはあるが、集団を俯瞰し、どこか他人ごとの
ようやく、テニス対決は決着する
117
ように捉えることは、八幡と隼人に共通している。
実のところ、八幡は隼人のことが嫌いではなかった。
友達になれるとは思わないが、彼のような生き方には興味をそそられる。違う出会い
方をしていたら絶対に交わろうとはしなかっただろうが、二つも年下で、また陽乃から
事前に情報を仕入れていたことから、主観的なことを考えずに、葉山隼人という人間を
知ることができた。
故に、これから彼がどういう行動をするのかも、ある程度予測することができた。
真っ向勝負を挑む彼は、絶対にそのまま打ち返してくる。勝負だ。隼人の強い意志が
篭ったボールに、八幡は内心で舌を出した。
これは、ダブルスである。
隼人の方に打ち返す││と見せかけて、ぎりぎりまで勢いを殺した打球を、優美子の
方に落とす。意表を突けた訳ではない。こういう行動をする奴だということは、先の
サーブで知れただろう。優美子も警戒をしていなかった訳ではないが、空気を読むのが
普通のリア充にとって、空気を度外視する人間の思考というのは、読みにくいものであ
る。
彼女にすれば、あそこは空気を読んで当然の場面だった。勝負を挑まれたのだから、
勝負は受けるべき。その思考が、警戒を上回ったのである。意識の間隙を突いた打球
118
に、優美子は追いつくことができなかった。隼人はそれを、呆然と見つめている。
30│15。
これで一つリードである。
ボールをコートに打ちつけながら、八幡は優美子の殺意すら篭った視線を平然と受け
止めていた。先ほどは打球を受け損ね、最初はサーブを返せなかった。これを彼女のミ
スと責める人間はいないだろうが、本人の気持ちまではそうはいかない。優美子本人は
ミスをしたと自分を責めるだろう。自分と他人への怒りが態度と表情にしっかりと表
れている。熱しやすい人間、というのは一目みて解っていたが、その通りのようで安心
する。
怒りは集中力を乱し、焦りはミスを生み出す。全ての感情を行動力に変えることがで
きる、陽乃のような感情の化け物であれば話は別だが、怪物というのは早々市井にいる
ものではない。三浦優美子が普通の女子高生であることに安堵し、続けてサーブを放
つ。
ボールは天に││飛ばない。それまでと同じようなフォームから放たれたサーブは、
ネットを越えたぎりぎりの所に落ちた。サーブに対応するために下がっていた優美子
は、全力でダッシュするが間に合わない。
40│15.
これでマッチポイントだ。転びこそしなかったが、裏をかかれた優美子はやはり射殺
さんばかりの視線を送ってくるが、陽乃の威圧感に比べたらそよ風のようなものだ。軽
い敵意など心地良くすらある。
﹁せんぱい、テニス上手かったんですね⋮⋮﹂
今度こそ俺は戦力にならないから、期待はするなよ﹂
﹁でも付け焼刃だからな。今回だけしか通用しないぞ。また勝負ってことになっても、
﹁でも、せんぱいのおかげでここまで来れました﹂
らな。後一ポイントだ。最後くらいはダブルスで勝とうぜ﹂
﹁俺の前に海老名と雪ノ下がやってるんだってこと忘れるなよ。後、まだ勝ってないか
﹂
!
う。
のは久しぶりだった。陽乃と出会っていなければ、恋に落ちるくらいまではあっただろ
彩加のことばかり考えそうになっていた気持ちを切り替える。ここまで心が揺れる
ても放っておかないと思うのだが⋮⋮
男子なのだから学園七不思議だ。こんな笑顔を振りまいていたら、男であると解ってい
仕草で気恥ずかしいが、気づいたらやっていた。彩加は楽しそうに笑っている。これで
掲げられた彩加の手を、ぱちんと軽い音を立てて打ち鳴らす。まるでリア充のような
﹁はいっ
ようやく、テニス対決は決着する
119
120
何はともあれ、後一球だ。
一つ決めればこちらの勝ちだが、それは隼人たちに後がなくなったことを意味する。
今までだって本気度は決して低くはなかったが、今の隼人の瞳には炎が燃えているよう
に見えた。死んでもここは落とさない、という鋼の意思が見える。スポ根だなぁ、と八
幡は微笑ましい気分になったが、隼人のそれは独り相撲というものだ。
相手のある勝負である。気持ちを高めて最高の動きをしようと、勝てない時は勝てな
いものだ。勝負に集中するあまり、ボールしか見ていないように見える。狙い以上に視
野が狭くなっていた。これなら、と期待を込めて、八幡はサーブを放った。
全力で、真っ直ぐ。
初めての普通のサーブは、真っ直ぐに隼人の所に向かった。望んでいた普通のテニス
である。困惑しながらも隼人はきっちりと対応し、八幡に向かって打ち返してくる。ち
らと優美子を見れば、今度こそはと気を張っていたがそちらには視線も向けない。この
世界には二人しかいないとばかりに、全力で隼人に向かって打ち返す。
それからしばらく、打球の応酬が続いた。実力の拮抗しない二人である。体力も腕力
も劣っている八幡が段々と押され始め、誰の目にも不利がはっきりと見えてきた。それ
でも八幡はボールに喰らいついていたが、すぐに息が上がってしまう。今すぐ勝負をつ
けないと、このまま押し切られる。そう判断した八幡は優美子の方に視線を向けたが、
ようやく、テニス対決は決着する
121
優美子は気を逸らさず、しっかりと待ち構えていた。
元々、不利な状況である。優美子の方を向いたまま、不安定な視線で打ち返した打球
は、彼女の方ではなく隼人の方に飛んだ。打ち頃の球である。隼人の前には体勢を崩し
ている八幡がいる。このまま打ち込めば、彼は対応できずに得点できる。スマッシュを
打とうとした隼人は、その直前に八幡の目を見た。得点されそうな段階になっても、彼
は不敵に笑っていた。
何かある。瞬時にそう判断した隼人は、ぎりぎりで方向を変え、逆サイドに向かって
打ち返した。シングルならばそれで決まっていただろうが、これはダブルスだった。八
幡の打球に優美子が対応しようとしていたのと同じように、彩加も隼人の打球に対応し
ようと、常に八幡をフォローする形で動いていた。
打ち返した後にコートを見た隼人は、まるで打球が来ることを読みきっていたかのよ
うにそこにいた彩加に絶句していた。八幡にのみ意識を集中していた二人は、彩加の存
在すらその時失念していた。その一瞬が、勝負の分かれ目になる。
見た目の可愛らしさに反して、力強いその打球は隼人の優美子のちょうど中間に打ち
込まれた。
﹁やったっ
やりましたせんぱいっ
﹂
!
解るだろ
と隼人に向けてラケットの刻印を見せる。雪ノ下陽乃という名前に、隼
﹁そう言うなよ。依頼のことだけじゃなくて、俺も負ける訳にはいかなかったんだよ﹂
﹁こちらこそお騒がせしました。良い勝負⋮⋮とはいきませんでしたが﹂
﹁まぁ、悪かったな色々と﹂
断腸の思いで彩加を引き離し、うな垂れている隼人に手を差し出す。
取り戻した。
うな視線と、うはーと野太い悲鳴を挙げながらしゃかしゃかペンを動かす姫菜に正気を
る。汗の匂いとは別の、表現に困る良い匂いにどきどきしたが、ベンチの雪乃の氷のよ
自分たちの勝ちが決まったその瞬間、感極まった彩加はラケットを捨て抱きついてく
!
122
?
人は全ての事情を理解した。陽乃と色々あったのは八幡だけではない。むしろ家族ぐ
るみの付き合いのある隼人の方が、その度合いは大きいと言えるだろう。試合の最中に
は色々と思うところのあった隼人だが、ラケットを見せた時の八幡の表情を見て、心底
彼に同情した。
ただ付き合いがあるだけでも振り回されるのである。恋人となれば、言葉にもできな
いような苦労があるのだろう。
﹁比企谷先輩も、大変ですね﹂
違いないが、外から見てトータルプラスになってるかは微妙なところだな﹂
﹁今はその大変をようやく楽しめるようになったところだよ。良い思いもしてるのは間
﹂
?
﹁やー、いーですよ八幡先輩。鬼畜攻めから一転した誘いうけかと思ったら、はちはや
ていく。
振り返っていたが﹃そっちのフォローをしろ﹄と手で伝えると、大きく頷いて走り去っ
れてテニスコートを出て行った。後ろ髪を引かれている様子の結衣が何度もこちらを
るのだと実感した隼人は、暗い顔をした優美子の腕を取ると、残りのメンバーを引き連
即答した八幡に、隼人は苦笑を浮かべた。この人だからあの人と付き合うことができ
﹁それはねーな﹂
﹁後悔してるとか
ようやく、テニス対決は決着する
123
じゃなくてはちとつだったとか。もう展開が急すぎて私も妄想も追いつきません
﹂
?
﹂
!
﹂
?
できればその、明日からでも⋮⋮﹂
?
彩加は頬を染め、俯きがちにもじもじとしている。付き合うという話だったから付き
﹁じゃあ、一緒にランニングでもしませんか
﹁解ったよ。つっても、俺は体力ねーからそこまで運動できないぞ﹂
た。こんな純粋な視線を裏切ることは、八幡にはできなかった。
幡も無視しただろうが、依頼主である彩加を見れば彼の目は期待できらきらと輝いてい
ベンチに下がって一息つこうとした八幡を、雪乃が呼び止めた。彼女一人であれば八
谷くん。依頼主も、それをお望みのようだし
﹁そこそこテニスができることが解ったのだから、練習には付き合ってもらうわよ比企
││﹂
﹁まぁともあれ、これで邪魔してくる奴もいないだろ。後は若い連中でお好きなように
ないとは思うが、その時は絶対に尾行には気をつけようと八幡は心に決めた。
隼人くんを誘いたい時は私に声をかけてくれれば色々セッティングしますから﹂
﹁じゃあ好きにします。私はリバもOKなんで受けに回ってくれてもOKですからね。
﹁悪かった。好きにしてくれ﹂
﹁八幡先輩は私に死ねって言うんですか
﹁たまには健全な方向で行ってみたらどうなんだお前﹂
124
合うことそのものは吝かではないのだが、さっきから姫菜の目が真剣に鬱陶しい。彼女
もインドア派だから自発的なランニングなどしないだろうが、話がまとまったら一緒に
健 康 に は 良
ついてきそうな気配である。ならばついで、とばかりに八幡は雪乃にも目を向けた。
﹁ど う も 俺 と 海 老 名 は 参 加 す る 気 配 な ん だ が、や っ ぱ り お 前 も ど う だ
いって聞くぞ﹂
﹁体調管理には気を使ってるから、心配は無用よ﹂
うこと聞いてくれると思いますよ﹂
﹁雪乃くん、今はツン期ですから攻め方を変えないと。多分、結衣が一生懸命頼んだら言
?
体力作りのランニング、犬の散歩のついでにどうだ
?
ら、八幡は携帯電話を操作し、結衣にメールを送った。
うことを、雪乃本人も解っているのだ。言い合いを始めた雪乃と姫菜を横目に見なが
姫菜を睨む雪乃だったが、その視線にも言葉にも力がない。そうされると不味いとい
﹁海老名さん、適当なことを言わないで﹂
ようやく、テニス対決は決着する
125
態との場合を除いて、陽乃が約束に遅刻をしたことは一度もないが、どうも体質的に
寝起きが非常に良くないのである。
恋人になってから解ったことだが、陽乃にも弱点があった。
嬢様然としている。
という訳では絶対にないが、口を開かず力を抜いている寝顔は、肩書きの通り良家のお
秘的とでも言えば良いのだろうか。起きている時が美しくないとか、そちらの方が好き
起きている時でも十分過ぎる程美人である陽乃だが、寝顔にはまた別の趣がある。神
のだ。
重みの原因である陽乃は、気持ち良さそうに眠っている。それを起こすのは憚られた
ままに小さく溜息を吐いた。
ここがどこで、昨夜何があったのか。段々と思い出してきた八幡は、腕の重みはその
とのできる、大きなベッドの上。
馴染みの薄い天井。人の暮らしている匂いのしない広い部屋。二人は余裕で寝るこ
目を覚まし、身体を起こそうとした八幡は腕に柔らかな重みを感じた。
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
126
惰眠を貪ることが好きなようで、その日急ぎの予定がない場合は中々ベッドから出てこ
ない。惰眠を貪っている間は大抵寝ぼけており、そこでは普段からは信じられない程
甘ったるい声を出す。
これも恋人の役得かと思えば、そうでもない。
陽乃にとって、寝ぼけている自分というのは間違いなく恥である。そんな恥を晒すこ
とは例え恋人であっても許せないものらしく、それがどういう事情かに関わらず寝ぼけ
ている所を見られた後は、必ず報復が実行される。朝起きて、至福に包まれた瞬間に暗
い未来が確定するというのも目覚めの悪い話であるが、一緒に目覚めた時は大抵そんな
ものである。
後の報復が確定していると言っても、寝顔が美しいことに変わりはない。それに、こ
の寝顔を見ることができるのは、世界でただ一人だ。それが自分だと思うと気分も良
い。。
このままゆっくり寝顔の鑑賞でもしようか。視線を戻した八幡の視線はそこで、陽乃
のそれと交錯した。神秘的な雰囲気の寝顔は消え、瞳には蠱惑的な気配が満ちている。
朝の挨拶を交わしたが、声は間延びしており全くと言って良いほど覇気がない。まだ
﹁おはようございます﹂
﹁おはよう、八幡﹂
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
127
128
まだ寝ぼけているのだろう。んー、と小さく呻いた陽乃が、マーキングする猫のように
身体を押し付けてくる。その間、八幡は無抵抗でじっとしていた。手を出しても怒らな
いだろうし、報復内容が過激になることもないだろうが、途中で介入すると覚醒が早く
なるのは実験済みだ。どうせなら良い思いを長く味わいたいというのは、男のサガであ
る。
結局、陽乃の意識がはっきりとしだしたのは、それから十分もした頃だった。覚醒し
た後の行動は早い。ベッド脇に用意してあったラフな部屋着に着替えて、リビングの方
にさっさと歩いていく。薄手のブラウスにジーンズだ。寝転がりながら後姿を眺めて
いた八幡には、歩くのに合わせて揺れる陽乃の尻が良く見えた。
この世全ての幸福がここにあるのでは、という気になるが、恥ずかしい思いをさせら
れたら必ず報復するのと同様に、相手にタダで良い思いをさせたりはしない。陽乃に言
わせると自分は顔に出るタイプらしく、どの程度良い思いをしたかというのが、勘で解
るらしい。これからリビングに行けば、どの程度良い思いをしたかというのはしっかり
と看破されるだろう。それが先ほどの行為の報復と重なるとどういうことになるのか。
背筋がゾクゾクして止まない。
震える指先で陽乃の匂いのする服を着替え、リビングに向かう。
引っ越したばかりの部屋には、調度品などはほとんどとない。人を通す可能性のある
場所は、できるだけシンプルにまとめたいというのが陽乃の意向である。
ならば寝室には陽乃らしい物があるのかと言えば、これもそれほどではない。
趣味の良い文机の上に小さな本棚。そこには大学で使う教科書と、やたらハイスペッ
クなノートパソコンがあるだけだ。
寝室で一番目を引くのはやはり、ベッドだろう。二人どころか三人で寝ても余裕な大
きさのそのベッドは、八幡も家具屋まで同行して選んだものだ。
寝室に併設されたウォークインクローゼットの中には、実家から持ち出してきたほと
んど全ての衣類が収められている。箪笥どころか段ボール一つで全ての衣類が納まっ
てしまう八幡からすると正気を疑うほどの量であるが、その分陽乃が着飾ってくれるの
外に遊びに行くついでに、そっちで食べるんでも良いけど﹂
だと思えば、嬉しくもあった。
?
八幡としては言うことはない。
元々、土日は陽乃のために空けてあったのだ。一緒に過ごす時間が増えるのならば、
を貸さなければならないような案件はもうない。
トの中にある。家具などの重いものは本職の人たちが運び込んでくれたので、八幡が手
大量にあった服は昨日の内に荷解きを済ませてあり、そのほとんどは既にクローゼッ
紅茶を用意しながら問うてくる陽乃に、八幡はリビングを見回した。
﹁朝ごはん食べる
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
129
﹁外にしましょう。今朝は紅茶だけで﹂
﹂
?
即座に切り返されたのが気に入らなかったのだろう。小さく頬を膨らませた陽乃は、
﹁ご冗談を﹂
﹁⋮⋮一緒に入る
﹁どうぞごゆっくり﹂
﹁八幡が一息入れてる間に、シャワー浴びてくるね﹂
た陽乃は、一瞬だけ人の悪い笑みを浮かべ、すぐに引っ込めた。
計を見た。その一瞬の動作に、八幡は気づかない。紅茶に夢中になっているのを確認し
方一つでここまで味が変わるのかと感心する八幡をにやにや眺めていた陽乃は、ふと時
昨日同じ道具、同じ茶葉を使って紅茶を淹れたが、それよりも明らかに美味い。淹れ
一口飲んだ八幡の口から漏れたのは、感嘆の溜息だった。
差し出された紅茶に、感動に打ち震えながら口をつける。
い。
く。普段紅茶を淹れるのは八幡の役目なので、陽乃手ずから淹れる機会はほとんどな
にあっては八幡専用と決められた物だ。それに琥珀色の液体がゆっくりと注がれてい
八幡の前に、カップとソーサー。実家から持ち出してきた高価なもので、陽乃の部屋
﹁了解。引越しを手伝ってくれたお礼に、私が紅茶を淹れてあげる﹂
130
砂糖壷から角砂糖を取り出す。八幡のカップの中にそれを投入した。一つ、二つ、三つ、
四つ。
﹂
?
二度目のインターホンが鳴った。出ると決めた以上、出なければならない。覚悟を決
ここが恋人の部屋だと思うと、気恥ずかしいのである。
インターホンに出て、応対をする。言葉にすればそれだけだが、八幡の気は重かった。
をするのか。それを観察するのも、陽乃の楽しみの一つだ。
れていない以上、出ても良いということなのだろう。リードを離した犬がどういう行動
だ。主を訪ねてきた人間を、犬の判断で追い返すことはできない。それに出るなと言わ
来客である。居留守を使おうかとも思ったが、ここは八幡の家ではなく陽乃の部屋
ホンが鳴った。
がある部屋だ。泊まりに来る機会も増えるのだろうなと感慨に耽っていると、インター
甘すぎる紅茶を飲みながら、部屋を見回す。陽乃曰く、二人で暮らしても十分な広さ
くの日曜を寝て過ごすことにもなりかねない。 昨日の続きは、また今度でも良い。
だけで済まないのは目に見えていた。﹃それ﹄は﹃それ﹄で素晴らしくはあるが、せっか
向かった。一緒に入るかという提案は半ば本気だったのだと思うが、一緒に入るとそれ
地味に効果的な報復に八幡が渋面を作ると、満足そうに微笑んだ陽乃はバスルームに
﹁はい、今好きという気持ちを四つ追加しました。ちゃんと味わって飲んでね
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
131
めて甘ったるい紅茶を飲み干し、余りの甘さに顔をしかめながら、インターホンを取り
﹄
上げる。そこで初めて端末の画面を見た八幡は、そこに映っていた少女の姿に絶句し
た。
﹃姉さん、私よ。開けてもらえる
思った雪乃は、僅かな逡巡で真実を導き出した。
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮まさか比企谷くん、そこにいるの
?
こまで残念な人間は貴方しかいないわ。ところで、私に若い二人の関係を邪魔するよう
﹃友達のいなそうな残念なオーラが、機械ごしにも伝わってきたもの。私の知る限り、そ
﹁お前、エスパーかよ。どうして解った﹂
﹄
沈黙したのが良くなかったのだろう。インターホンに何も応答がないことを不信に
けたりはしなかっただろう。それが男であれば尚更である。
はあれで結構なお姉ちゃん子であるというから、姉の他に部屋に人間がいたら誘いを受
問題は、誘ったのであろう陽乃が恋人の存在を隠していたことである。姫菜の分析で
関係は良好と言えた。
乃が言う程に良くはないが、雪乃が言う程には悪くない。呼べば来る程度には、姉妹の
ある。陽乃に良く似た面差しには、不機嫌という文字が張り付いていた。姉妹の仲は陽
そこにいたのは雪ノ下雪乃。陽乃の実の妹であり、高校で同じ部活に所属する後輩で
?
132
﹄
な趣味はないのだけれど、もしかして貴方には自分の愚かな姿を見せ付けるような趣味
でもあるのかしら
連れ込んでいる部屋に妹を誘うような変態は、私の姉ではないって﹄
﹃それは遠慮するわ。それから、その辺にいる姉さんに伝えておいてちょうだい。男を
もあるぞ﹂
の時間に外に出たんだから上がっていくのが良いだろ。今なら眩暈がする程甘い紅茶
﹁そんなもんはないし、あったとしても俺主導じゃない。ここは俺の部屋じゃないが、こ
?
必要だ。
?
前ではしている。それに奉仕部は顧問の静を含めて、八幡以外の全員が女性だ。事実と
雪乃と何かあった訳では勿論ないが、陽乃の前では絶対にしないような行動を雪乃の
うすぐ雪乃がここに来ると思うと表現しがたい焦燥感が劣情の先に立った。
が、当然服などは着ていない。何もなければその艶姿にどきどきもしたのだろうが、も
バスルームのドアが開き、中から陽乃が顔を除かせる。ドアで隠すようにしている
﹁雪乃ちゃん、なんだって
﹂
までの時間は稼げた。時間があったところでどうなるものでもないが、気持ちの整理は
端末を操作し、雪乃をマンションに招き入れる。これでエレベーターで上がってくる
﹁了解。婉曲に伝えておく﹂
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
133
して疚しいことは何もなくとも煙が立つくらいの燃料は腐るほどあった。
陽乃と大の仲良しになった小町は、あることないこと情報を漏らしていると聞くが、
それとはまた別次元の焦燥感である。
その焦燥感を何とかするために、八幡は雪乃の言葉を婉曲に伝えることにした。
ては間違っていないのだろう。あの雪乃がそうなのだと思うと笑えてくるが、人の悪感
は、随分と気合が入っているようにも思える。やはり、お姉ちゃん子という姫菜の見た
うな、余所行きのめかしこんだ格好である。一人暮らしを始めた姉に会いにきたにして
案の定、そこには不機嫌な顔をした雪乃が立っていた。いつだか軽井沢で見た時のよ
八幡は即座に観念し、ドアを開けた。
強くノックされた。これ以上待たせるとドアを蹴飛ばされるかもしれないと危惧した
きた。ドアの前で咳払いを一つ。どんな顔をして出たものかと考えていると、ドアが力
部屋のインターホンが鳴る。ドアの向こうのお姫様の、不機嫌な顔は容易に想像がで
しているのだ。それに雪乃の視線が加わったところで、どうということはない。
く今の言葉をバラすのだろうが、毒を食らわば皿までだ。陽乃からの地味な報復が確定
機嫌良さそうに微笑んで、陽乃はバスルームに引っ込んだ。陽乃のことだから容赦な
﹁うん、それは知ってる﹂
﹁お姉ちゃん大好きと言ってました﹂
134
情に敏感な雪乃は、八幡の表情から何を思っているのかを敏感に察知した。踵を返した
雪乃の腕を、八幡が慌てて掴む。
﹁おっと、ちょっと待て﹂
﹁離してちょうだい。バカップルっぷりを見せ付けたいなら、他の人にして﹂
﹁ここでお前を帰したら、俺が陽乃に何されるか解らないだろ﹂
﹁貴方が姉さんとどんな変態的なプレイをしても、私には関係のないことよ﹂
﹁変態は確定かよ。ともかくあれだ、紅茶でも飲んでいけ。今なら角砂糖入れ放題だぞ
﹂
?
﹂
?
クローゼットには服が山のようにあったぞ﹂
?
は寝室に併設されているように見えるのだけれど
﹂
﹁あの人は昔から服を沢山持っていたから⋮⋮それはそうと比企谷くん、クローゼット
﹁そうなのか
﹁少し広いわね。物が少ないのは、私と一緒だけど﹂
﹁お前の部屋と比べてどうだ
は、これ見よがしに溜息を吐くと、陰鬱な気分で姉の新居に初めて足を踏み入れた。
で呼んだのか知らないが、お茶の一つも飲まないと割に合わない。そう判断した雪乃
姉に呼ばれて足を運んだのに、ここで踵を返したら全くの無駄足である。どんな用事
﹁⋮⋮甘くない紅茶でお願いするわ﹂
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
135
?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹂
?
やしても中々良い返事はもらえていない。
毎回残さずに飲んでくれる。どうせならば美味いと言わせて見たいものだが、二年を費
ちくりと釘を刺しながらも、紅茶を飲むのを辞めない。陽乃も雪乃も、文句は言うが
﹁茶葉が良いからじゃないかしら
﹁いつも以上の評価をありがとうよ﹂
﹁まぁまぁね﹂
こりと微笑み、
をしても部室のものよりは美味いはずだが、雪乃は八幡を真っ直ぐに見つめると、にっ
茶葉は陽乃の私物なので、部室で使っているものより高級だ。同じ人間が同じ淹れ方
をじっと眺めた雪乃は、香りを楽しんでからそれに口を付けた。
作で紅茶を用意する。カップとソーサーは、雪乃専用のものだ。注がれた琥珀色の液体
ブルをとんとん、と静かに叩く。暗に紅茶を要求しているお姫様に、八幡は手馴れた所
バツの悪そうに視線を逸らす八幡を他所に、雪乃は優雅に椅子に腰を下ろした。テー
﹁努力するよ﹂
話題をお願いするわね﹂
﹁あの人とどういう生活を送ろうと私は関知しないけれど、もう少し配慮の行き届いた
136
﹁姉さんは
のよね
﹂
﹂
﹁確認だけれど、本当に、バカップルっぷりを見せ付けるために、私を呼んだのではない
と、寝室とバスルームを交互に見やってから、八幡をギロリと睨んだ。
雪乃の問いに、八幡は無言でバスルームを指差す。雪乃は、今度は大きく溜息を吐く
?
かった﹂
﹁お 前 を 呼 ん だ の は 俺 じ ゃ な い。イ ン タ ー ホ ン が 鳴 る ま で、来 客 が あ る こ と も 知 ら な
?
タダで幸せにはなれないんだな、と悟った八幡は冷蔵庫からマッカンを取り出し、雪
する報復が、早速行われているような気がした。
胃が、羞恥やら不安やらで、胃がきりきりと痛んでいる。前借した先ほどの幸福に対
うに仕向けたとバレたら、口にするのもおぞましいような報復をされるに違いない。
女は、陽乃が世界一かわいいと公言して憚らない妹である。陽乃が呼んだ雪乃を帰るよ
本心を言えば、今すぐにでも帰ってほしいのだが、雪乃にその様子はない。それに彼
お泊りをした後となれば、気まずさはいつもの比ではない。
としなかった。八幡は別に雪乃が嫌いな訳ではないが、その姉と先ほどまで二人きりで
いらいらと悪態を吐くくらいならば帰れば良いと思うのだが、雪乃は椅子から動こう
﹁じゃあ、貴方も罠にかけられた口なのね。あの人らいしわ。本当に悪趣味ね﹂
まさかの来客に、比企谷八幡は絶句する
137
138
乃の向かいに座る。陽乃が出てくるまでまだしばらくある。雪乃の刺すような視線に
耐えながら、八幡は無視を決め込んだ。
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない
﹁雪乃ちゃん、いらっしゃい﹂
バスルームから出てきた陽乃は、八幡の懸念に反してちゃんと服を着ていたが、それ
でもきっちり余所行きという訳ではなかった。ここは陽乃の部屋なのだから当然だが、
バスルームに入った時よりもさらにラフな感じになっている。上から三つはボタンを
外しているシャツからは、胸の谷間とブラがしっかりと見えていた
昨晩から今朝にかけて、もっと凄い恰好を見ていた八幡にとってはこれでも十分にき
ちんとしている方ではあったのだが、今日初めてこの部屋にきた雪乃にとっては十分に
アウトであったらしい。これ以下はないと思っていた雪乃の視線の温度が更に下がっ
たのを見て、八幡は自分が今針の筵の上にいるのだと自覚した。
﹂
?
室に戻っていく。学校では一番仲の良い静の言葉でも聞かない時があったのに、妹の言
眦を釣り上げた愛する妹の強い言葉に陽乃は肩を竦め、大人しく服装を直すために寝
﹁それでもよ﹂
﹁ここは私の部屋ー﹂
﹁姉さん、服をちゃんと着てもらえる
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない
139
葉には素直に従うのか。陽乃の新しい一面を見た八幡は、陽乃を思い通りに動かしてみ
た雪乃に対し。小さく感嘆の溜息を漏らした。
﹂
しばらくして、部屋着をきちんと着てきた陽乃は椅子を引き寄せると、雪乃の前で背
中を向けて座った。
﹁雪乃ちゃん、髪をやってもらえる
﹂
たいなって思ったの。ね
﹂
お姉ちゃんのお願い
雪乃ちゃん大好き
﹁││今回だけよ
﹁やった
!
?
﹂
!
よさそうな声を挙げる陽乃を見る雪乃の目は、部室で見る時とは比べものにならないく
の背後に、洗面所からドライヤーを持ってきた雪乃が立つ。髪に櫛を入れられ、気持ち
深々と溜息を吐く妹と、喜ぶ姉。対照的な構図である。椅子に座って後ろを向く陽乃
!
?
﹁そんな訳で自分でやっても良いけど、せっかく雪乃ちゃんがいるんだしやってもらい
﹁悪かったな⋮⋮﹂
﹁それは解る気がするわ﹂
﹁髪はだめ。八幡、こういう手先は不器用なんだもん﹂
くれると思うのだけれど﹂
﹁そこで物欲しそうな顔をしてる比企谷くんにでも頼めば良いじゃない。喜んでやって
?
140
らいの優しい表情をしていた。
こういう顔もできるのかと、八幡は内心で感心する。よほど姉の髪に集中しているの
だろう。普段ならば視線に気づいてキモ谷君だの悪口の一つも言ってくる頃合いなの
に、その気配がまるでない。手持無沙汰になった八幡は、ただぼーっと髪の手入れをす
﹂
る二人を眺めていたが、先にその視線に気づいた陽乃が、雪乃にそっと囁いた。
﹁雪乃ちゃん、八幡が暇そうにしてるから構ってあげて
﹁これを機に仲良くなってほしいなぁ、ってお姉ちゃん思うんだけどなぁ﹂
﹁それは姉さんの役目じゃないかしら。私はただの、部活の仲間よ﹂
?
八幡がボランティアとか意外だな。そういうの嫌いだと思ってた﹂
?
や陽乃のものにその感性は近い。
た。長いこと友人という友人を作らなかった弊害か、所謂﹃普通﹄の感性よりは、八幡
では雪乃が比較的マシな部類に入るがそれでも、一般人の﹃普通﹄とは大分乖離してい
が三人とも、自分と身内以外は基本的にはどうでも良いという感性をしている。この中
陽乃の言葉に雪乃も八幡も大きく頷いた。大枠の主義主張にこそ拘りはあるが、三人
﹁世のため人のためって、柄じゃないもんねぇ、お互い﹂
﹁確かに好きじゃありませんが、まぁ、内申を良くするためですからね﹂
﹁奉仕部だっけ
﹁放課後、それなりに親睦を深めているから、心配は無用よ﹂
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない
141
﹁その奉仕部、普段は何をしてるの 毎日ボランティアしてる訳じゃないんでしょ
?
﹂
?
何にも依頼がなければ、月末にでも適当にボランティアをします﹂
﹁あー、最初の月はゴミ拾いしたとか言ってたね。そもそも、依頼って来るの
﹂
﹁この前はテニスの練習相手をしたわ⋮⋮比企谷くん、姉さんに何も話してないの
?
?
﹁でも、雪乃ちゃん以外の二人のことは知ってるよ まさかあの娘が一緒にいるとは
これから二人で何をするかという話をした方が、八幡から見た陽乃は楽しそうなのだ。
た方がよほど建設的だと思ったのだ。実際、学校で何があったという話をするよりも、
八幡以上に、陽乃はそのテの行為を嫌っている。それなら、これからのことでも話し
﹁ただ集まってダベってるだけの話をしてもなぁ⋮⋮﹂
﹂
﹁依頼があればそれに対応しますが、そうじゃない時は部室で待機してるだけですね。
142
こっていただろう。多少アホなところはあるが、良い奴なのだ。既に知り合い程度の仲
した。そうでなければ、同じ部活にいると知られた時点で、結衣に何某かの不幸が起
陽乃の声に力が籠ったのを聞いて、八幡は結衣が雪乃と仲良しであることに心底安堵
思わなかったなぁ。本当、どの面下げてと思うけど、雪乃ちゃんの友達なら仕方ないね﹂
?
ではあるのだし、不幸に見舞われるのはどうにも忍びない。
﹂
﹁もう一人は何か面白い娘だって聞いてるけど﹂
﹁面白い││のかしら
?
雪乃は怪訝な顔で首を傾げた。雪乃の前では押しの強いお腐れ様という印象が強く、
内面の黒さは形を潜めている。姫菜なりに、相手を選んで﹃腐って﹄いるのだろう。ク
ラスでは同じグループに属している葉山達にも、黒々とした内面を出している様子はな
い。八幡の知る限り、姫菜が全く遠慮をしないのは自分の前だけだった。
ます﹂
﹁陽乃は気に入ると思いますよ。考え方は、俺より大分陽乃に近いんじゃないかと思い
﹁そっかぁ、それなら会ってみたいなぁ﹂
陽乃の声音には、喜色が宿っている。陽乃から八幡へならばともかく、八幡が陽乃に
人間を推すのはめぐりに続いて二人目だ。めぐりの時は彼女に押されてという経緯が
あるから、純粋な推薦はこれが初めてである。あの八幡が、という陽乃の期待は大き
かった。
﹂
?
言うには少し壁を感じる気がするわ﹂
﹁雪乃ちゃんが壁とか、言うようになったねぇ﹂
﹁││私にだって、友人の一人や二人はいるのよ
﹂
!
?
﹁今でてきた二人だけじゃないって、お姉ちゃんは信じてるから
﹂
﹁部活の仲間、と表現するのが一番近いんじゃないかしら。仲は良いと思うけど、友人と
﹁その娘は雪乃ちゃんとはどうなの
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない
143
欠片も信じていない様子で微笑む陽乃に、雪乃は悔しそうに俯く。リア充はぼっちを
見抜く技術に長けている。リア充の代表のような陽乃は、雪乃から鍛えられたぼっち力
﹁八幡
﹂
﹁はい、解りました﹂
﹁少しは抵抗したらどうなの
﹁いや、だってなぁ⋮⋮﹂
﹂
﹁いや、別に雪ノ下で不自由は││﹂
﹂
彼氏と愛する妹の間に
壁があるなんて、私は悲しいよ。せっかくだから呼び方を変えてみようか
?
﹁こういう時は使えない人ね 姉さん、私は遠慮するわ。親しみを込めた呼び方をし
!?
?
?
﹁そ、れ、よ、り、二人はどうしてそんなに他人行儀なのかな
は、他に交流を持つような友人がいないということの証明でもあった。
だだべって過ごすだけの普段は何もしない部活に、出席率が現状100%ということ
のだろう。八幡も、雪乃が自分のクラスでどういう立ち位置にいるのか知らないが、た
︵ぢから︶を感じ取っていた。友達がその二人だけだというのは、陽乃なりに確信がある
144
﹁そう
なら仕方ないね。今日の私は優しいお姉ちゃんだから雪乃ちゃんに無理強い
て、本当に親しいと人に思われても嫌だもの﹂
!
したりはしないよ。どうせ、八幡が折れれば結果的には同じことだから﹂
?
しまった、と雪乃は尻尾を巻いて逃げようと試みたが、椅子の上で器用に反転した陽
乃に腕を掴まれ、背後から抱きしめられた。んー、と声を挙げて雪乃の髪の匂いを堪能
する陽乃に、当の雪乃は身震いして嫌悪感を示したが、がっちりと組まれた腕からは抜
けられそうにない。合気道を嗜んでいる雪乃だが、陽乃の実力はそれ以上だ。抑え込ま
れた状態からでは、例え抜けられるとしても手荒なことをしなければならない。
そして、手荒なことをするという選択肢が全く浮かばない程度には、雪乃は姉のこと
﹂
を大事に思っていた。抜けられないと悟って大人しくなった妹に満足そうにほほ笑む
と、陽乃は身体ごと八幡に向き直った。
?
えば当然である。予想していた雪乃の反応に、むしろ安堵していた八幡だったが、雪乃
ののようだった。渋面を作る雪乃の顔は、少しも嬉しそうには見えなかった。当然と言
び捨てにした時以上の息苦しさを感じた八幡だったが、雪乃が感じたのはそれ以上のも
名前を口にするだけで、ここまで恥ずかしかったのは初めてかもしれない。陽乃を呼
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮雪乃﹂
視線で訴えかけていたが、人間にはできることとできないことがあるのだ。
た。第一、陽乃に命令された時点で、八幡には選択肢がない。雪乃は全力で﹃止めろ﹄と
天使のような悪魔の笑顔からは、﹃これで雪ノ下と呼んだら不幸にする﹄と読み取れ
﹁さぁ八幡。雪乃ちゃんのことを呼んであげて
誰が相手でも、雪ノ下陽乃は遠慮しない
145
の顔を覗き込んだ陽乃は、全く別の感想を持った。
﹂
?
﹂
﹁それで、姉さん。今日はどうして私が呼ばれたの
﹁かわいい妹の顔を見たいから、じゃダメ
?
﹁これから三人で、デートしようか﹂
﹂
そう言って、陽乃は今日、一番嬉しそうに笑った。
﹁心配しないで、目的はちゃんとあるから﹂
せてもらうのだけれど﹂
﹁それならこの人がいない時に呼ぶでしょう 恋人を自慢したいだけなら、もう帰ら
?
?
にする羽目になったら、追求は避けられない。
そういう時に限って良くないことは起きるものである。姫菜や結衣の前で呼び捨て
るを得なかっただろう。なるべく呼ばないように気を付ければ済む話ではあるのだが
八幡はそう答えるのが精いっぱいだった。これで学校でもと命令されたら、そうせざ
﹁⋮⋮⋮⋮善処します﹂
﹁雪乃ちゃん、嬉しそうにしてるから、これからは名前で呼んであげて
146
美女と美少女。どちらも優れた容姿をしているのは言うまでもない。こうして並ん
感じながら、前を歩いている二人を見る。
今の八幡はこれが三人ではなく、二人と一人ということが良く解っていた。視線を肌に
中学生の時分だったら、目立つ集団の一人という事実に舞い上がっていただろうが、
は主に男性からの嫉妬の視線であり、八幡は正確にその視線の種類を理解していた。
とんどが八幡ではなく雪ノ下姉妹に向けられている。数少ない八幡に向けられた視線
例えば今現在、八幡と雪ノ下姉妹の三人は周囲の視線を大いに集めているが、そのほ
なってくると、周囲を観察する余裕も出てくるようになった。
るということに慣れなかったが、次第にそれにも慣れ、視線の種類が理解できるように
それが陽乃に見いだされてからは、目立つ側の仲間入りだ。最初は周囲の視線を集め
自負と自覚がある。
痛い目にあった時が最大であり、それ以外は本当に目立たないように生きてきたという
て目立つというのは、ほとんど悪い意味だった。それにしたって、中三の時の告白で手
総武高校に入学し、陽乃に見いだされて振りまわされるようになるまで、八幡にとっ
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う
147
でみると、容姿の方向性が正反対なのが良く解るが、それでも姉妹と一目で解るくらい
に顔を造りが似ているのだから、見ている側としては面白いものである。
三人でデートと陽乃は言っていたが、実際には姉妹のデートに八幡がついて回ってい
る感じだった。雪乃とのデートは久しぶりなのだろう。いつも二人で出かける時より
もはしゃいでいる陽乃の笑顔が、実に眩しい。あの陽乃が世界一かわいいと公言して憚
らない妹が一緒にいるのだから、無理もない。
そこまで考えて、八幡ははたと気づいた。同じく世界一かわいい妹であるところの小
町と、二人で出かけることも時にはあるのだが、そういう時の自分も今の陽乃と同じよ
うな顔をしているのではないか。顔のつくりは悪い物ではないと信じてはいるが、人に
は向き不向きがある。自分があんな顔をしていると想像した八幡は、思わず身震いし
た。
気持ち悪い。確かに気持ち悪い。
今度から、小町と一緒の時にはあまりはしゃがないようにしようと、八幡は心に決め
た。それはそれで小町的にポイント低い、ということになりそうではあるのだけれど
も、愛する小町にキモいとか言われたら、立ち直ることはできない。
﹁是非もありません。ファストフードならすぐそこに。落ち着いた所が良いなら、少し
﹁ところで八幡、そろそろお茶でもしようと思うんだけど﹂
148
歩きますがどっちにしますか
﹂
﹁近い方が良いかな。雪乃ちゃんもそれで良い
﹂
﹂
している。その分、ハズレを引くこともあるのだが、その時はその時だ。
は使えないのだ。こういう場所を調べる時は専ら、無味乾燥な検索サイトを使うことに
調べようにもリア充御用達のサイトや雑誌には拒否反応が出てしまい、中々情報収集に
だ陽乃には及ばない。自分で開拓などしないのだから無理からぬことではあるのだが、
三年近く陽乃に連れまわされている八幡だが、こういう店のレパートリーではまだま
﹁お前がファッションショーをしてる間に調べただけだよ﹂
いたりするのかしら﹂
﹁別に構わないけれど、比企谷君。貴方、もしかしてこの当たりの喫茶店を全部把握して
?
?
?
と言った所で、雪乃は言葉を切った。
﹁一人になりたいのなら自分の部屋に││﹂
だよ﹂
﹁付き合いで入ったりすることがあるかな。後は一人になりたい時にたまに入るくらい
は、違うのでしょうけれど﹂
﹁別 に 入 っ た こ と が な い 訳 で は な い わ。自 分 一 人 で は 入 ら な い と い う だ け よ。姉 さ ん
﹁雪乃ちゃん、そういうお店大丈夫
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う
149
実家は元より、マンションでも誰かに場所を知られている。一人になりたい時という
のは、それだけで重荷になるものだ。雑多である必要はないのだが、要は誰にも所在を
知られないような状態が﹃一人になりたい時﹄には好ましいのだ。
﹂
?
乃は苦笑と共に呼び止めた。
﹁八幡は席。荷物を持ってくれたお礼に私が奢るよ。何が食べたい
?
﹁りょーかい。それじゃあ、行こうか雪乃ちゃん。まずはこの列に並んで││﹂
﹁陽乃と同じもので﹂
﹂
で運ぶのは八幡の役目である。荷物を持ったまま、そのように動こうとした八幡を、陽
結局陽乃が決めたチェーン店に、三人で入る。普通であれば注文を取りまとめ、席ま
﹁じゃ、ここにしよっか﹂
りに、上手くやっていたのだろう。そういう所は本当に如才のない人だ。
補導されたという話は元より、されかかったという話すら聞いたことがない。姉は姉な
服を着ていたのだ。年齢を確認されれば補導されるのは雪乃と変わりないはずなのに、
けらけらと陽乃は笑うが、今は大学生の陽乃も三月までは女子高生で、総武高校の制
﹁私が沢山連れまわしたからね∼﹂
﹁そもそも深夜に出歩くような真似はしないわ。貴方には経験があるようだけれど
﹁あまりオススメはしないけどな。陽乃はともかく、お前の場合は多分補導されるぞ﹂
150
﹁買い方くらいは知っているのだけれど﹂
相変わらず、仲睦まじく列に並ぶ姉妹を横目に見つつ、八幡は席を探した。四人掛け、
片方はソファ、禁煙と条件を絞っていくと奥まった場所に全ての条件に合致する席が見
つかった。
椅子の側に陽乃たちの荷物を置き、八幡も椅子に座る。陽乃と雪乃が座るのは、奥の
ソファだ。何かを取りに行く時、すぐに立てるように八幡が手前の席に座る。陽乃と一
緒にいる時の、いつもの位置取りだ。一仕事終え、八幡は深く息を吐いた。
雪乃が一緒ということでどうなることかと思ったが、陽乃が雪乃を構いまくっている
せいかいつもより八幡の負担は少なくなっていた。物足りないと思ってしまうのは、流
石に毒され過ぎだろうか。
ともあれ、姉妹がこちらに合流するまでは一人の時間だ。気を抜いて、椅子にだらり
と寄りかかっていると、すぐ近くを通りかかった女子高生の一人が八幡の顔を見て小さ
くあ、と声を挙げた。
八幡は声のした方を見て、ほんの少しの間だけ、呼吸が止まる程に驚いた。かつて、声
﹂
を聴くだけで安らぎ、顔を見るだけで幸せになれた人がそこにいた。
?
﹁⋮⋮折本﹂
﹁比企谷
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う
151
普通に彼女の名字が口から出たことに、まず八幡は安堵した。ここで挙動不審な振る
舞いをしたら昔に逆戻りだ。一時期は彼女のことを思い出すだけで体調を崩すくらい
﹂
だったのに、素晴らしい進歩である。
﹁折本、折本。この人誰
中学の時の同級生﹂
?
﹂
?
﹁まぁな。それだけならまだ良いが、翌日に黒板一杯にそれを茶化されて、危うく登校拒
﹁本当だって。ねー、比企谷
﹁いや、そういう冗談は良いから⋮⋮﹂
折本は今度こそ眉根を寄せたが、先に反応したのは連れの少女の方だった。
ある思い出の一つに過ぎなかった。自分が思っていた通りに八幡が動揺しないことに、
あったのかもしれないが、既に恋人がいる八幡にとっては、あまり愉快ではないが、数
折本にすればそれは、必殺の一撃だったのだろう。それで機先を制するような意味も
﹁中学の時に私に告ってきたの﹂
むっとした表情をし、今思い出したというように、
して自己紹介をする。それが、自分の話を邪魔されたように感じた折本は、少しだけ
初見の少女はおそらく折本の友達だろう。その問いに答える折本に、先んじるように
﹁比企谷八幡だ。よろしく﹂
﹁こいつ
?
152
否になりかけたけどな﹂
過ぎたことではあるが、いまだに忘れられない思い出である。中学時代の中でも最悪
に印象に残る事柄で、できれば他人には語りたくないことの筆頭だ。それを、本人を前
に言いたいことを、言いたいように言っている。中学の時の自分が見たら、死ぬほど驚
くだろう。人はちゃんと変われるんだと、実感した瞬間である。
自らの進歩に内心で感動していた八幡を他所に、折本は感じていた違和感を更に強く
していた。目の前にいるのは比企谷八幡であることは間違いがない。見た目は随分変
わったが、声とか身体的な特徴はそのままで、何よりあの、見る人間を不安にさせた目
つきの悪さは健在だった。
八幡のことはそれなりに記憶に残っているが、間違っても自分の目を見て、真向から
言い返してくるような人間ではなかった。誰とも視線を合わせず、きちんと物も言えな
いような男子だったはずなのに、これではまるで別人である。
﹂
!?
血相を変えて、友人︵三日前に失恋。現在恋人募集中︶は折本に詰め寄った。ナイー
﹁あんた、あれを振ったの
陰に隠ると、少女は折本に詰め寄った。
違和感と戦っていた折本を、連れの少女が引っ張っていく。八幡から隠れるように物
﹁折本、ちょっとこっちきて﹂
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う
153
ブな時期の彼女に、贅沢にも男を振ったという話はキツかったのかもしれない。
折本も、中学の時からあぁだったのならば、最終的に受けるかは別にして、その場で
振ったりはしなかっただろう。高校に入ってから何があったのか。元からクラスメー
ト以上の関係がなかった上に、振ってからはより関わりがなくなった八幡に関する情報
は、皆無と言って良い。
個人的な繋がりがない以上、人づてに情報を仕入れるしかないが、比較的偏差値の高
い高校である総武の人間とは折本はあまり交流を持っていなかった。実を言えば八幡
が総武に進学したことも、今思い出したくらいである。あの高校について折本が知って
いることと言えば、一つ上の学年に超絶美人の生徒会長がいて、校内外で﹃犬﹄を連れ
まわしていたということくらいである。
﹂
?
﹁そうなんだけどさぁ﹂
﹁でもさ、今の彼は問題ないでしょ
﹂
?
﹂
?
強面だけどイケメンなのは間違いないし﹂
﹁さぁ⋮⋮何か勘違いしたんじゃない
﹁⋮⋮それでどうして告白とかできる訳
﹁ある訳ないじゃん。同級生のクラスメイトってだけで、友達ではなかったし⋮⋮﹂
﹁うそ。写真とかないの
﹁中学の時は別人だったんだって。いかにも引きこもりな挙動不審でさ﹂
154
?
その事実を認めるのは吝かではない。好みは解れるだろうが、八幡を美形と評するこ
とに異論を差し挟む女子はいないと断言できる。折本がそう認めることに渋っている
のは、過去の八幡を知っているからだった。自分が告白を断ったという負い目もある。
無論のこと、断ったことそのものを後悔はしていないが、自分から振っておいて状況が
変わった後から尻尾を振るというのは、女としてのプライドに関わるような気がして、
気が引けたのだ。
女物の服ばっかりだよ﹂
?
腐った目をしたヒキオタが、目力のあるイケメンインテリヤクザになるとは、何の冗
評した通り、今の八幡は十分にイケメンである。
刀打することはできない。折本もそれなりに自分の容姿に自信を持っていたが、友人が
てくる。今の八幡の容姿を基準にした場合、それと釣り合う恋人が出てきたら、まず太
当時の八幡は受け身になって引きこもるだけだったが、今の彼ははっきりと言い返し
に目を見て物を言われて、自分がどういうことをしたのか薄々と感じ取り始めていた。
く痛めつけたという事実がある。当時は何とも思わなかったことであるが、先ほど八幡
めたのであれば、さっさと退散するに限る。何しろ自分には彼を振った上に、こっぴど
がっかり、と意気消沈する友人に、折本はそっと胸を撫で下ろした。関わらないと決
﹁あー⋮⋮本当だ。デート中なんだね﹂
﹁というか、絶対彼女いるでしょ。横の荷物見た
思わぬ場所で、比企谷八幡は過去に出会う
155
談だろう。
﹁貴女、折本かおりさんだよね 八幡から聞いてるよ。すっごくお世話になったって﹂
イルとして、完成された魅力を持った女がそこにいた。
はあるか派手ではない。洒落っ気はあっても下品ではない。女性が外に出る時のスタ
振り向いた先に立っていたのは、美人という言葉が霞むほどの美人だった。華やかで
耳元でいきなりした声に、折本は死ぬほど驚いて飛びのいた。
﹁まぁまぁ、そんなことないから。少しお話ししていこうよ﹂
﹁そういう訳だから、さっさと行こう。邪魔したら悪いし││﹂
156
﹁自己紹介が遅れたね。私は雪ノ下陽乃。八幡の恋人だよ。よろしく、折本さん﹂
美女はさらに死刑宣告を追加した。
言ったら首をねじ切られるかもしれない。そんな恐怖を感じ取っていた折本に、眼前の
たことのない折本でも、眼前の女性が殺気を放っているのが良く解る。下手なことを
にこにこと微笑んでいるが、まったく友好的な感じはしなかった。武道など全く齧っ
?
結局、折本かおりは何もできない
今日の昼食を持って陽乃が戻ってきた時、彼女の視線は誰に言われるまでもなく周囲
の客から隠れるようにしている折本たちに吸い寄せられた。相変わらず驚異的な勘の
良さである。この人に隠し事はできないな、と再確認する八幡に﹃ちょっと声かけてく
るね﹄とだけ言って、陽乃は折本の方へ歩いていった。面白いおもちゃを見つけた、と
﹂
いう陽乃の背中に、八幡はこっそりと溜息を洩らす。
?
入学した頃ならばともかくとして、もうかなり時間も経った。告白暴露の件もいまや
時代のことを知っているのは、何かと騒々しいあの男くらいのものである。
人として中学の事は話していない。今現在総武高校に在籍している人間で八幡の中学
相当に粘られてようやく話した程だ。まだ付き合いの浅い奉仕部のメンバーには、誰一
八幡の中学時代に、良い思い出などない。今の八幡にとって絶対である陽乃にさえ、
なかったのだ。
たのね﹄とでも言いたげな顔だったが、それが女子というのが八幡のイメージには合わ
折本の方に視線を向けた雪乃が、怪訝そうに問うてくる。﹃貴方に知り合いなんてい
﹁知り合い
結局、折本かおりは何もできない
157
笑い話の一つであるが、思い出したくない過去の一つであることに変わりはない。それ
がいくらか顔に出ていたのだろう。八幡の様子を見て、雪乃は追求することを止めた、
興味を失った様子でアイスティーに口をつける雪乃に、今度は八幡が問う。
﹂
?
る。
口の中に広がった。自分では普段まず飲まない味に、思わず蓋をあけて中身を確認す
割った分が八幡の取り分である。さて、と飲み物に口を着けると、妙に健康的な甘みが
自分の前に置かれた包みを開ける。既に雪乃の分は全て引いてあるから、残りを2で
信を持っているのに、直球を返されると脆い辺り、陽乃に比べるとまだまだである。
顔を逸らした雪乃の頬は、僅かに朱に染まっていた。自分で美少女と言えるくらい自
﹁⋮⋮⋮⋮そう。どっちにしても失礼な人には違いないわね﹂
﹁見た目が美少女なのは軽井沢で会った時から知ってるよ﹂
ね﹂
﹁失礼な人ね。まぁ、姉さんについていけるような人だから、無駄に目が肥えているの
﹁すまん、それは初めて知った﹂
ないのでしょうけど、私はそれくらいの配慮はできる美少女なのよ
﹁話したいなら聞いてあげなくもないけれど、そうでないなら聞かないわ。貴方は知ら
﹁てっきり聞きたがるもんだと思ってたんだが﹂
158
﹁野菜ジュースを頼んでいたはずよ。良いじゃない。健康的で﹂
﹁まぁ、不健康よりは良いんだが⋮⋮﹂
ファーストフードを食べている時点で、飲み物だけ野菜ジュースにしても無駄な抵抗
な気はするが、しないよりはマシなのだろう。別に嫌いではないので、それ以上文句も
言わずにストローに口をつけながら、陽乃と折本の方を眺めていると、陽乃優位で決着
が着いたのか、三人でこちらに戻ってくる。
青い顔をしてる折本と、にこにこしている陽乃。どうして良いのか解らないという顔
をしている残りの一人に、八幡は同情的な気分になった。陽乃のターゲットは折本一人
﹂
だろうから、彼女については完全にとばっちりである。せめてこの人は巻き込まないよ
うにしてほしいな、とは思うものの、それを口にはしなかった。
女王の行動に口を挟むようなことを、犬はしないのである。
﹁まぁ、貴女が言うなら止めはしませんが、雪乃││はそれで良いか
﹁私のことは置物とでも思ってくれれば良いわ﹂
﹂
?
陽乃から水を向けられた少女は、その提案にぱっと顔を輝かせ、次いでバツが悪そう
ちょっと大事な話があるから、外してもらえる
﹁こ ん な か わ い い 置 物 な ら 部 屋 に 飾 り た い な ぁ ⋮⋮ そ れ は と も か く、そ っ ち の 貴 女。
?
﹁この折本さんも一緒することになったから﹂
結局、折本かおりは何もできない
159
な顔で折本を見た。折本の顔には﹃置いてかないでよ ﹄と書いてあったが、誰でも我
それじゃあ、とそそくさと退散する少女を見送ると、陽乃の視線は八幡に向いた。
い道理はなかった。
が身は可愛いものである。帰って良いと主犯格の女に言われているのに、それに従わな
!
スマホのタイマーをセットすると、八幡は一人、目を閉じた。
気味だと思った。そう思う権利くらいは、自分にもあるだろう。
たが、自分が善人でないことを自覚している八幡は、先の折本の顔を見て少しだけ良い
て勘違いから好きになった同級生だ。その負い目から不憫に思うところも少しはあっ
に時間はかけないだろう。折本はこれから、一言で言うならば﹃酷い目﹄に合う。かつ
十分か、十五分か。何しろ折本の相手は陽乃である。言葉で痛めつけるのに、そんな
しないことにした。喧噪を抜け、トイレの個室に入って便器の蓋の上に腰を下ろす。
さとトイレに向かう。途中、折本のすがるような視線が見えたような気がしたが、気に
追い払われる気配を薄々と感じていた八幡は、野菜ジュースを一気飲みすると、さっ
﹁解りました﹂
﹁八幡、ちょっとトイレにでも行ってきて﹂
160
﹁さて、折本かおりさん。まず質問。どうして八幡のこと振ったの
﹂
問には答えるしかない。改めて腹を括った折本は、全てを正直に話すことにした。
りとも消えても良いのだが、眼前の女の雰囲気はそれを許してくれそうになかった。質
も、見ず知らずの女の質問に答える道理はない。有無を言わせず席を立って、どこへな
どんな質問をされるのだろうと、折本は気が気ではなくなってしまった。それにして
一発目からエグい所を突いてくる女である。これでジャブなのだとしたらこれから
?
ことそのものについて、折本は自分の判断に間違いはないと思っていた。現恋人が問題
ただのクラスメートで、特に付き合いがないというのなら、尚更である。告白を断った
そんな日々を送っている人間から告白をされても、受け入れる女子はいないだろう。
る。
暗なりに作っていたグループの中にも、彼は入っていなかった。正真正銘のぼっちであ
ているような人間で、間違っても主流派の人間ではなかった。それどころか、根暗は根
八幡については、それが全てである。クラスでも目立たない、というよりもハブられ
﹁ただのクラスメートってだけで、特に親しい訳でもなかったし⋮⋮﹂
結局、折本かおりは何もできない
161
にするのなら、更にその後の行為である。
隣を見れば、眼前の女によく似た少女が我関せずを貫こうとして失敗しているのが見
える。似た面差しから姉妹なのが解った。眼前の女が姉で、こちらが妹である。姉は笑
顔の中に上手く感情を隠しているが、妹は無表情を貫こうとして明らかに失敗してい
る。八幡を振ったの辺りで飲み物を吹き出しそうになっていた辺り、この妹も八幡と某
かの関係があるのだろう。まさか姉妹で一人の男を、というのではあるまいなと、自分
の想像に折本は寒気を覚えたが、妹の方からは姉のような殺気は伝わってこなかった。
軽い相手とも思えないが、少なくとも今現在敵対する様子はなさそうだった。目下の
敵は、眼前の姉のみである。
﹂
?
の身を守ることを優先するべきだ。
を傾けている乃が解った。恋人の妹というには、距離が曖昧な気がするが⋮⋮今は自分
の方だろうが、妹も相当なものだ。その妹は自分は置物と言いつつも、こちらの話に耳
だった。異性に告白されることなど、片手では数えきれないだろう。男受けするのは姉
折本も自分がそれなりにイケている方だという自覚はあるが、この姉妹は完全に別格
﹁私は置物と言ったはずなのだけれど⋮⋮﹂
もでしょ
﹁あー、それは解るかなぁ。私も中学生くらいまでは、そういうのあったし。雪乃ちゃん
162
﹁で、これは興味本位で聞くんだけど、とりあえずキープしておこうとは思わなかったの
﹂
﹁いや⋮⋮だって、接点なかった訳で⋮⋮﹂
?
﹁接点あってもなくても、それなりに良い顔してるのは見れば解るでしょ 私が見つ
結局、折本かおりは何もできない
163
しても、八幡はああはならなかったと確信が持てる。八幡という素材と、この姉という
しかしそれを惜しいと思うのは流石に傲慢だろう。あの時点で告白を受けていたと
ろか自分から告白をしていた可能性だってあった。
か。あの状態の八幡であればおそらく、告白を断ったりはしなかっただろう。それどこ
ともな恰好をして背筋を伸ばし、自分に自信を持つだけであそこまで変わるものだろう
実は顔が良いということは、今日。久しぶりに再会するまで気づきもしなかった。ま
だった。
クラスの隅で目立たないようにし、声をかけられれば卑屈な笑みを浮かべる八幡の姿
ともに見ていないから、顔がどうかなど考えもしない。折本の脳裏に思い浮かぶのは、
だ。中学の時の空気は少なくとも、誰一人として彼を身内だとは思っていなかった。ま
見れば解ると姉の方は言うが、それはフラットな環境で八幡を見ることができたから
いと思うけど﹂
けたのは八幡が高校一年の時だから、貴女に告白した時とそんなに見た目は変わってな
?
要素がかみ合って、初めて今の八幡ができたのだ。
ついでに言えば、あの時点で容姿が優れていることに気づいていたとしても、告白を
受け入れることはなかっただろう。彼はどのグループにも入っていないはぐれものだ。
それときちんとお付き合いをするということは、同じところまで落ちることを意味す
る。折本がいる位置にまで引き上げることは不可能だ。全体の中心の方にいたという
自覚はあるが、全てをけん引するほどの力を持っていた訳ではない。
異分子を排除するのが集団というものである。八幡とつるむということはすなわち、
集団から排除されるということだ。それを加味したうえで告白を受け入れることはや
はり、当時の自分にはできなかっただろう。
縁がなかった。一言で言えばそういうことだ。自分にはどうしようもないと黄昏る
折本に、姉はにっこりと勝利の笑みを浮かべた。誰もが見とれる綺麗な微笑みだが、正
面から相対している折本には、心の中で自分をあざ笑っているのが良く見えた。女とし
ての格の違いを見せつけられた形である。正直、今まで生きてきた中で一番みじめな気
持ちだった。
笑顔を張り付けた陽乃が、折本の耳元に顔を寄せた。その瞬間、気温が下がったよう
いから、次で終わらせてあげる﹂
﹁もう少し粘ると思ったんだけどな、ちょっと残念。まぁ弱い者いじめしてもかっこ悪
164
な気がしたのは、きっと錯覚ではない。
何かをしたら、私、貴女を殺すからね﹂
﹁魔がさしたなんて言い訳は聞かないから。どんな理由があったとしても、次に八幡に
心が凍り付くような声音に、折本はその言葉に嘘がないことを知った。法律がどうで
あろうと倫理が何であろうと、この女はやると言ったことは本当にやるだろう。生まれ
た初めて人間に恐怖した折本は、ただ首を動かしてかくかくと頷いた。
それを見て、姉の方││雪ノ下陽乃は、にっこりと笑みを浮かべた。自分の優位を確
信した勝者の笑みである。
﹂
?
心の奥深くにそれを刻み込まれた折本は、息が切れるまで走り続けた。
あの女に逆らってはいけない。
が、周囲の目など気にもならないほど、折本の心はたった一つの事柄に支配されていた。
は、全速力で店を出た。全力疾走する女子高生を行きかう人々は怪訝な目で眺めていた
そんなもの、こっちから願い下げだ。転がるようにして陽乃の前から逃げ出した折本
ないでね
﹁自分の立場を理解したなら、もう行って良いよ。できることなら、二度と私の前に現れ
結局、折本かおりは何もできない
165
当然だと思うけどな。私の恋人がいじめられたんだもの﹂
?
﹁でも、姉さんと付き合うようになる前の話でしょう そもそも、それが起こらなかっ
﹁そう
﹁悪趣味ね﹂
166
・
・
・
だからあの程度で済ませてあげたんじゃない﹂
・
たらあの人も総武高校には来なかったと思うのだけれど﹂
?
分を話せて猶予を貰えただけ、あの女は幸運である。
たのであれば、言い訳も何もなくあの女は社会的に死刑にされていたことだろう。言い
というのは、手加減するにも程がある。先ほど聞いたレベルの話が、最近八幡に起こっ
確かにこの姉にしては、言葉だけというのはいかにも温い。何かするまで何もしない
くすくすと笑う陽乃に、雪乃は嘆息した。
﹁少しは感謝してるよ
?
﹁さて、それじゃあそろそろ八幡を呼び戻そうかな。友達いない人はトイレでご飯を食
べるのが定番らしいけど。流石に一人で手持無沙汰だろうし││﹂
﹂
珍 し い ね。雪 乃 ち ゃ ん が 私 に 改 ま っ て。何 で も 聞 い て お 姉 ち ゃ ん、
﹁姉さん。一つ質問があるのだけれど﹂
﹁な に な に
何でも答えちゃうから﹂
﹁姉さんは、あの人のどこが好きなの
?
一かわいいと公言してはばからない妹からの問いに、陽乃は、
もないが、聞くならば今しかないと思った時、雪乃の口からその問いは出ていた。世界
疑問に思っても、照れくさくて聞けなかったことである。それでどうなるという訳で
悪い訳ではないが、色恋の話とは無縁の関係だった。
に至っていたが、姉の方の気持ちを確認したことはなかった。姉妹であり、それ程仲が
よく話すようになってから、姉についていけるとしたらこんな男だろうと確信を持つ
?
?
﹁それなのにたまに見せる、男らしくあろうとするところが好き﹂
﹁からかうと赤くなって、照れるところがが好き﹂
﹁どんなに意地悪をしても、犬みたいに尻尾を振って、ついてきてくれるところが好き﹂
﹁世を拗ねた、捻じれた性根が好き﹂
結局、折本かおりは何もできない
167
﹁私の言うことを何でも聞いてくれるところが好き﹂
﹁ごちそうさま、とでも言えば良いのかしら
﹂
微笑む姉に、雪乃はもう二度とこの話はしないと心に決めた。
?
?
﹁いつでもごちそうするから、気が向いたら言ってね
﹂
﹁うん。八幡にも良く言われる。でもそんな私のことが、八幡は好きだと思うよ﹂
﹁歪んでるわね、姉さん。今に始まったことではないけれど﹂
深く、深く息を漏らす。
恋する乙女そのものの顔で、そう言ってのけた。予想していた以上の答えに、雪乃は
が、私は大好き﹂
ても背筋がぞくぞくするの。八幡の心が私だけに向いてるって、錯覚できるあの瞬間
﹁私を見つめる時にたまに見せる、泣きそうな、寂しそうな顔。あの顔を見るとね、とっ
│﹂
﹁本当に、言葉では語りつくせないくらい、色々なところが好き。でも一番好きなのは│
﹁私のために、自分を変えようと努力してくれるところが好き﹂
168
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
﹁お兄ちゃん、ちょっと会ってほしい人がいるんだけど⋮⋮﹂
折本との不意な遭遇からしばらく。勉強の合間、自宅の居間でマッカンを楽しんでい
た八幡は、愛する妹の小町からそう声をかけられた。その言葉の意味を吟味することし
﹂
ばし。対面のソファに座るように促した八幡は、明日の天気を訪ねるような口調で小町
に問うた。
?
別にどれでも良いんだけど⋮⋮じゃあ、白で﹂
?
?
﹂
?
ヤクザになってるんだから、言葉には注意してよね 本気にする人だっているんだか
もう、心配してくれるのはポイント高いけど、ただでさえ見た目がインテリ
いのか
﹂
﹁違うよ
!
﹁いや、付きまとってくる男が迷惑だから、どうにかして闇に葬れないかって相談じゃな
﹁⋮⋮ちょっと待って、何の話
に聞いてくるから、お前は何もせずにここで待ってろ﹂
﹁解った。俺はこれから大量の塩と壺を買いつつ、信頼のできる業者を知らないか陽乃
﹁それって麻雀の話
﹁東南西北白發中。どれが良い
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
169
!
ら
﹂
ネを尽くして潰しにかかるだろうことは、自分のことだからこそ想像に難くない。
しない。塩と壺は冗談だが、本当に小町にそういうことが起きたのならば、あらゆるコ
もう、とぷりぷり怒る小町はかわいいなぁと思いつつも、半ば本気だったことは口に
!
執行部を離れて久しいが、校内における八幡のアンテナはまだ高いままだ。会長であ
て聞いていないふりをしながら、考えを巡らせてみる。
しかし、小町からの話であるなら、どんなものであれ聞かない訳にはいかない。あえ
ば、聞き流していたことだろう。
いないのだろう。正直、それ程大きな問題とも思えなかった。小町からの話でなけれ
るとどこか大人しい。素行が悪くなったのかもと心配している辺り、家族に実害は出て
理由はそれぞれであるが、所謂進学校の不良であるので他所の気合の入った連中と比べ
る。勉強についていけなくなった、家庭の事情、高校デビューに失敗した等々、グレた
総武高校は進学校であるが、一応世間一般で言うところの不良というのは存在してい
﹁素行なぁ⋮⋮﹂
かって心配してて﹂
だったんだけど、最近帰りが遅くなってきて、その⋮⋮素行が悪くなったんじゃない
﹁あ の ね、塾 の お 友 達 の お 姉 さ ん が 総 武 高 校 に 通 っ て る ら し い の。す ご い 真 面 目 な 人
170
るめぐりとの交流は続いており、彼女は聞いてもいない情報を話してくれる。陽乃閥に
所属していた面々も主力のほとんどは卒業してしまったが、まだ校内にもいくらか存在
していた。
素行不良の人間というのは、執行部としてはそれなりに重要な情報だ。学内で完結す
るならばいくらでも揉み消しは可能だが、一度外部に話が漏れてしまうと、それだけ大
事になってしまう。外で問題を起こしそうな人間は、それとなくマークしているのだ。
そんな訳で。まだ生きている情報網から素行不良の生徒について情報が八幡の元に
﹂
は集まっていたが、ここ最近となるとまだ網に引っ掛かっていない可能性があった。
?
﹂
?
だよね。お兄ちゃん、知ってる
﹂
﹁わかんないよ。小町もまだ話は聞いてないし。でも、その子の名前は川崎って言うん
﹁名前と風貌、解ったりするか
可能性アリ。端的に情報を入力していた八幡の指が、ぴたりと止まる。
でもダメ元で当たってみるつもりで、八幡はスマホを操作した。一年女子で素行不良の
素行が不良になったのが最近であれば、情報はまだ入っていない可能性が高い。それ
小町の言葉に、八幡は嘆息した。
﹁今年入学したばっかりの一年生だって﹂
﹁その姉は何年だ
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
171
?
小町もダメもとで聞いたのだろう。その言葉に期待するような色はなかったが、八幡
は川崎という言葉にぴたりと動きを止めた。
素行不良で総武高校の高校一年という情報から、一人の少女の姿が脳裏に思い浮か
ぶ。女子にしては高い身長、青白いロングヘア│を頭頂部で縛った、とにかく目立つポ
ニーテール。素行不良という印象は受けなかったが、思い返してみるとヤンキーと言わ
れれば、そう見える気もする。
いや、まさか、そんな偶然は⋮⋮考えを巡らせるが、考えれば考える程、その﹃川崎﹄
は小町の言う条件に合致するような気がした。
流石に小町も妹で、兄の変化にいち早く気づいた。陽乃と付き合うようになってか
ら、友達以外の繋がりは無駄に増えていると聞いている。同級生の姉がその中にはいっ
ていた所で今さら驚いたりはしないが、楽天的な小町をしても、その話はデキ過ぎてい
ると思った。
そして小町は、こういう降って湧いた幸運に、素直に感謝できるタイプである。兄の
﹂
正面に回りにっこりと微笑んだ彼女は、兄に無理難題を吹っ掛ける時の声音で、おねが
いをした。
﹁お兄ちゃん、協力してくれる
﹁一応な。違うって可能性も考えて、その川何とかにも繋ぎを取ってくれ。二人きりに
?
172
はなるなよ
ちゃんと人通りの多い所を通って、指定の場所まで連れてこい。不埒な
﹂
﹁⋮⋮お兄ちゃんだけだと心配だから、学校のお友達も連れてきてもらえる
﹂
﹁かわいい顔して酷いこと言うな。あの学校の俺の友達は一人しかいないぞ
奉 仕 部 っ て 部 活 を 作 っ て 女 の 子 と い ち ゃ い
!
陽乃さんから聞いてるよ﹂
?
﹂
!
を閉じた。
こっそりと、某通販サイトで壺を検索していた八幡は、小町の言葉にそっとブラウザ
﹁りょーかい。あと、壺も塩もなしだからね
﹁解った。全員の都合がつく日を選ぶから、その日に川何とかを連れてきてくれ﹂
ら、相談を受ける側にも女性がいた方が良いだろう。
もかく一人よりも二人、二人よりも三人である。女性からの女性がらみの相談であるな
る人間は、八幡を含めて一人もいない。陽乃らしい、微妙に悪意のある伝聞である。と
少なくとも、放課後集まって過ごしているアレを、いちゃいちゃしていると思ってい
﹁内申のためで、別にいちゃいちゃしてる訳じゃないんだが⋮⋮﹂
ちゃしてるんでしょ
﹁そ う い う 悲 し い 暴 露 は も う 良 い か ら
?
ことをされそうになっても安心しろ。その時は壺と塩の出番だ﹂
?
?
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
173
﹁学校外から依頼を受けるというのは、そう言えばアリだったのね⋮⋮﹂
依頼と言えば彩加の手伝いでテニスをしたくらいで、残りは自発的にボランティアを
したくらいである。奉仕部の依頼として、実質的にはこれが二件目だ。設立の目的を考
えるならば、ここで外部からの依頼に奮起しているところなのだろうが、学校生活のカ
﹂
モフラージュの側面が強い部活である。人のために、ということでは唯一奮起しそうな
結衣も、部員の身内からの依頼ということで少し気を抜いている風である。
﹁ところで海老名さんに由比ヶ浜さん。その川崎さんとやらに心当たりはあって
は知ってる
﹂
﹁同じクラスにはいないよね。体育とかでも一緒いなったことはないと思うけど、姫菜
?
174
?
﹁私も知らないかな。素行が悪くなったとかなら、少しは目立つと思うんだけど﹂
一年生の中でも目立つ集団に所属している二人が知らないのだから、学内ではそれ程
目立っていないのだろう。素行不良が事実であったとしても、少なくとも同学年の中で
実害は出ていない可能性が高い。
が﹂
﹁そ う い う 雪 乃 は 知 ら な い の か 実 は そ っ ち の 学 部 と か だ と 話 が 早 く て 助 か る ん だ
?
いから解らないわ﹂
はなく陽乃から言われたので仕方なく始めたことだが、そうであるが故に、八幡にとっ
八幡からすれば、実に面倒くさい質問だった。呼び捨ては八幡が自発的に始めた訳で
きなかったのだ。
動があったが、結衣は家の用事とグループの用事で、今週はほとんど顔を出すことがで
られて折本に会った時から続けている。それが一週間前のことだ。今週も奉仕部の活
今この時呼び捨てに気づいた結衣であるが、呼び捨てそのものはこの前、陽乃に連れ
!?
﹁そうか⋮⋮まぁ、難しいところは会ってみてだな﹂
どうしてゆきのんのこと名前で呼んでるの
!
結衣にしては、凄い剣幕である。
﹁ちょっと待つし、ヒッキー先輩
﹂
﹁うちのクラスには川崎さんというのはいないわね。他のクラスとは交流がほとんどな
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
175
ては絶対のものだった。陽乃の目が届かないからと言って手を抜く訳にはいかないし、
可能性は低いが雪乃本人が陽乃に告げ口をする目もある。陽乃からの、特に雪乃がらみ
の命令に関しては、特に気が抜けないのだ。
﹂
!
捨てにされている。見る人間によってはそれは特別扱いとも言えるものだったが、名前
にまだ違和感があったが、それもいずれ慣れるだろう。三人いる中で、一人だけが呼び
笑顔ですり寄ってくる姫菜に、八幡の答えはにべもない。雪乃を呼び捨てにすること
﹁陽乃がそう言ったらな﹂
﹁それじゃあ、私も姫菜って呼んでくださいよ。ほら、親愛の情でも込めて﹂
た奉仕部のメンバー三人の中では、最も八幡に感性が近い姫菜である。
るが、上手く言葉にならない。うーうーと繰り返す結衣に、助け船を出したのは集まっ
めに何でもするという極まった感性とは無縁に生きてきた。何か言葉を続けようとす
染みが薄いものだ。友人からは犬っぽいと評されることもある結衣は今まで、誰かのた
犬を自認する八幡からすれば当然の返答であるが、その感覚はそうでない人間には馴
一瞬も躊躇わずに答えた八幡に、質問した結衣の方が絶句してしまった。
﹁そりゃあなぁ。今すぐ死ねとでも言われなければ﹂
﹁お姉さんに言われたら何でもするの、ヒッキー先輩
﹁どうしても何も、こいつの姉からそう言われたからとしか⋮⋮﹂
176
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
177
で呼ばれた雪乃と言えば、結衣の八幡への追及も、姫菜の要請にもどこ吹く風だった。
それでも、それが当然という風ではない。雪乃を名前で呼ぶ人間は、家族以外では皆
無と言って良い。一番呼ぶのが姉で、次が父親、その次が母親だ。家族以外で、それも
男性に呼び捨てにされることは、高校一年とまだ幼く、多感な時期である雪乃にとって
それなりに衝撃的なことだったのだが、姉に付き合わされたあの日以降、一週間も時間
があったことで、どうにか表面を取り繕うことくらいはできるようになった。
八幡が感じている以上に、雪乃もまた、違和感を覚えているのだ。その微妙な感情の
機微を見抜いていたのは、その場の人間では姫菜だけだった。腐った妄想を脳内ではか
どらせながら、ぐふふと笑みを漏らす。彼女の脳内では男性に変換された雪乃が、八幡
にあれやこれやされているのだが、その妄想には口を挟まないというのが奉仕部の暗黙
の了解である。
姫菜の要素を見て、逆に冷静さを取り戻した結衣は、呼び捨ての件でさらに食い下が
ろうとしたが、その時には八幡は歩みを進めていた。声をかけそこなった形になった結
衣は唸り声を挙げたが、友人の不満そうなその態度に、雪乃は口を挟むことができな
かった。
自分の友人であるという事実、ただ一点において姉は結衣のことを許しているが、八
幡が死にそうになったという事実については、恐ろしいことにまだ彼女の中では整理が
ついていないようである。結衣とはまだ顔を合わせていないが、下手にちょっかいをか
ければ怒りがぶり返す可能性もある。雪乃の目から見て、結衣が八幡のことを憎からず
思っているのは良く解るのだが、そろそろ自重させた方が良いのではないか、というラ
インに結衣の態度は迫りつつあった。
元々、親しい人間とは距離感の近いタイプなのだろう。同性である雪乃も、たまに結
衣との距離感を測りかねている所がある。男性の八幡ならば猶更だろうが、姉に鍛えら
れた犬は、年頃の男性ならば挙動不審になりそうな結衣の距離感にも冷静だった。あま
りにも冷静なその態度は、お前らとは経験が違うのだと言われているようで、少々気分
が悪い。
少女らの心中で様々な感情が燻っているのを気にもせず、ぷらぷらと歩みを進めた八
幡が待ち合わせのファミレスに着くと、その姿を見つけた小町が窓際の席で軽く手を
振っきた。その向かいにはこざっぱりした恰好の男子が座っている。愛する妹が知ら
ない男子と向かい合わせに座っているという事実に、八幡の心は瞬時に苛立ったが、そ
んな八幡の肩を軽く叩く者があった。
あ気分の荒立つだろうと思うが、公衆の面前で人殺しの形相というのも具合が悪い。顔
微かな苦笑を浮かべた雪乃である。妹と男が一緒にいるという事実の前には、そりゃ
﹁ただでさえ怖い顔が、人殺しの形相になっているわよ﹂
178
の筋肉をほぐすようにしながら歩いた八幡は、雪乃たちを伴ってファミレスに入った
﹁お兄ちゃん、来てくれてありがとう。こっちが川崎大志くん﹂
﹁今日はよろしくお願いします、お兄さん﹂
﹁小町の頼みだからな。後言っておくが、二度と俺をお兄さんとか呼ぶな﹂
怖い顔をしないようにと、僅かに努力しようとしていた気持ちをあっさりと放棄し
て、八幡は全力での不機嫌な顔と声音でもって大志に詰め寄った。妹フィルターを持っ
ている小町をして、インテリヤクザと言わしめる風貌である。ただの中学生である大志
にとって、それは恐怖以外の何物でもなかったが、恐怖で硬直する彼を救ったのは、八
幡にとっては女神に等しい小町の行動だった。
友人相手に凄んでいる兄の頭に拳骨を落とすと、全力で自分の隣の席に座らせる。頭
を押さえながら自分を見る兄に、小町は小さく舌を突き出した。かわいらしい仕草に、
対面の席に座った大志がぼーっとするのが見えた。即座に脛を蹴り飛ばすと、大志は軽
く悲鳴を挙げる。テーブルの下で何かをしたのは解ったのだろう。小町がまた拳骨を
放つが、これが兄として当然と思っている八幡は、悪びれる様子もない。
兄の子供っぽい姿に深々と溜息を吐いた小町は彼を放って、同道してきた雪乃たちに
目を向けた。
﹁はじめまして。妹の比企谷小町です。兄がいつも、お世話になってます﹂
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
179
﹁雪ノ下雪乃よ。聞いていると思うけど、その人のご主人様の妹になるわ。よろしくね、
小町さん﹂
るく結衣に話しかけた。
?
であることを示していた。はぁ、と小さく息を漏らした八幡は、言った。
が、年齢、性別、名字、所属など合致している諸々のことが、眼前の少年と彼女が姉弟
る﹃川崎﹄と大志は地味に面差しが似ている。まだまだ他人の空似と言える範疇である
そうでなければ良いなと思っていたのだが、彼の顔を見て確認した。八幡の記憶にあ
と、型通りのやり取りを横目で眺めていた八幡は、正面に座る大志に視線を戻した。
ます﹂
﹁学校で話し相手がいるようで、嬉しいです。これからもうちの兄をよろしくお願いし
﹁うん。その、ヒッキ││比企谷先輩には、いつも良くしてもらってます﹂
﹁お久しぶりです。一緒の部活だったんですね
﹂
うな顔をしていたが、兄が事故にあった事実など知らないとばかりに、小町は努めて明
下ろした。三人の中で唯一、小町と初めて会った訳ではない結衣は、小町を前に不安そ
小町の初めて顔を合わせた二人は、自己紹介をした後八幡たちの隣のテーブルに腰を
話になってます﹂
﹁海老名姫菜です。部活の後輩⋮⋮ってことで良いのかな。八幡先輩には、いつもお世
180
﹁お前の姉ちゃん、俺と同じくらいの身長だろう。青白い色のロングヘア│で、このくら
﹂
い の 位 置 で 髪 を シ ュ シ ュ で 縛 っ て る。細 身 で 切 れ 長 の 目。ど ち ら か と 言 わ な く て も、
パッと見は怖い印象の﹂
﹁ど、どこで見たんすか
﹁本当ですか
!!
?
ありがとうございます
﹂
今日仕事なら、今日話を着けてくる﹂
根負けしたのは、八幡の方だった。
は、梃子でも動かないという顔で八幡の目をまっすぐに見据えていた。
て、それ以外の人間には関係がない。姉の問題の手がかりを持っていると確信した大志
しかし、それは八幡と沙希とついでに言えば、その時その場にいた陽乃の都合であっ
か沙希だったと思う││とは、あまり顔を合わせたくない事情があった。
おう。そうしたいのは山々な八幡だったが、大志の姉である所の川崎││下の名前は確
も小町に近寄る毒虫には違いない。早いところ問題を解決して、永久にお引き取りを願
るのだろう。家族に対して心を砕ける人間に、悪い人間はいないと思いたいが、それで
詰めてくる大志に、八幡は彼の本気を見た。本当に、この少年は姉のことを心配してい
姉がどこで働いているのか解れば、問題の半分は解決するのだ。身を乗り出して問い
!?
﹁ただ、何かしてるってことはなるべく気づかれないようにな。俺らが合流するよりも
!?
﹁姉ちゃんのシフトは解るか
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
181
前にバイト先を変えられるようなことになったら、また最初からだ﹂
﹂
?
﹁ちょっと待って、待って
ヒッキー先輩とゆきのんだけで行くの
﹂
?
そういう服﹂
?
﹂
?
﹁ありがとー、ゆきのん
﹂
﹁多分大丈夫よ。姉さん程ではないけれど、私も結構な衣装持ちだから﹂
﹁こいつら用の服って、見繕えるか
緒に連れて行った方が、おそらく被害は少ないだろう。
が、姫菜のこの顔は、そうなった場合は勝手にこっそりと着いていくと言っている。一
うが、こちらは置いて行かれるつもりはないと目で言っている。置いていくのは簡単だ
ぐぬぬ、と呻く結衣に、姫菜が助け船を出す。結衣と同じく持っていはいないのだろ
﹁でも仲間はずれは善くないと思いまーす﹂
お前ら持ってるか
門前払いされるところだ。俺は一応そういう服持ってるし、雪乃も持ってると思うが、
﹁話聞いてただろ。こいつの姉ちゃんがバイトしてるのは、それなりの恰好じゃないと
!
ケット着用の店だからそれなりの恰好をして││﹂
から今日だって連絡があったら、今日決行ってことで手伝ってもらえると助かる。ジャ
﹁そうだ、と言えると心強いんだけどな⋮⋮悪いんだが、一人で行くのは心細い。こいつ
﹁比企谷くん、まさか一人で行くつもり
182
!
感激して抱き着いてくる結衣を鬱陶しそうに、それでもどこか嬉しそうにあやす雪乃
を横目に見ながら、八幡は義務的に大志と番号のメアドの交換をした。こういうことで
もなければ絶対にしないという不満がありありと顔にあふれているが、姉の問題を解決
できると希望が見えたばかりの大志はそれに気づかない。八幡としてはもっと、小町に
近づかないようにと釘を刺したいのだが、隣では小町が目を光らせている。
あんまり兄ぶると、しばらく口を利いてくれない気配を感じた八幡は、大人しく大志
とアドレスの交換を済ませた。
﹂
?
そ し た ら 今 日 は、皆 で お
?
﹂
?
?
不満そうな顔をした。結衣と雪乃ははっきりと、あの姫菜でさえ、八幡が見て解る程度
八幡としては会心のネタのつもりだったのだが、それを聞いた奉仕部の面々は一様に
いないからな﹂
﹁知り合いであって友達ではない。友達の少なさなら自慢できるぞ 何しろ一人しか
かしら
﹁この間の一件と言い、不思議な女性の友人がいるのね。もしかして他にも沢山いるの
﹁バイトはあそこだけだ。本人が言ってたんだから、間違いないだろ﹂
しゃれしてデートで終わりですか
﹁で も 八 幡 先 輩。バ イ ト 掛 け 持 ち の 可 能 性 も あ り ま せ ん
﹁遅くなっても戻ってこないようだったら、これで連絡してくれ﹂
色々あって、比企谷八幡は彼女のことを知っている
183
184
には不満そうな顔をしている。俺の友達が少ないことの、何が不満なんだろうか。本気
で首を捻った兄を見て、隣に座っていた小町は深々と溜息を吐いた。
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
る服の中で、文句なく一番上等な服である。金を出したのは陽乃なことが懸念材料では
揃って仲良く固まった三人に、八幡は自分の服装を見下ろしてみた。自分が持ってい
と思わせるには十分な雰囲気があった。
えば違和感であるものの、そういう業界に馴染みのない人間ならば、そうかもしれない
子分でもいたら本職と勘違いされても不思議はないだろう。若すぎるのが違和感と言
スーツも相まって、その風貌はまさにインテリヤクザそのものである。これで強面の
に悪い目つきを強調する結果になっていた。
いない伊達メガネだが、本人は悪い目つきを少しでも和らげるつもりで買ったのに、逆
ルバックに撫でつけられた髪。極め付けはノーフレームのメガネである。度の入って
それくらいに、八幡の面差しは変わっていた。上等なオーダーメイドのスーツにオー
雪乃と姫菜も、八幡の姿を見て同様に固まっている。
八幡の声に振り返った結衣は、彼のその姿を見て声を詰まらせた。遅れて振り返った
﹁遅いよヒッキーせんぱ、い⋮⋮﹂
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
185
あるが、今日の目的を考えれば服の来歴は問われないだろう。事実、結衣と姫菜が着て
いるのは雪乃の借り物である。雪乃の服を結衣が着れるか心配だったが、胸がきついと
かそういう残念なことにはなってないようだ。
視力は別に悪くない﹂
いや、そこもだけど、それ以上に全体的にヤバいよヒッキー先輩
﹁あぁ。メガネは伊達だぞ
﹂
﹁そこじゃなくて
!
だった。
﹁凄いですよ
八幡先輩
!
﹂
後輩たちの反応に肩を落とす八幡の救世主となったのは、固まっていた一人の姫菜
たらこの様である。
のだが、ジャケット着用の店ということで、じゃあこれで良いかと軽い気持ちで着てき
傷ついた。これを着るのは、本当にいざという時だけにしようと封印することに決めた
指す。そういう雰囲気が役に立つ時もあるだろうが、小町に真顔で言われた時は流石に
本物、という響きは悪い物ではなかったが、この場合の本物とは反社会勢力のことを
だでさえ怖い感じなのに、正真正銘の本物に見えると。
実を言えば最初に小町にこの恰好を見せた時も、似たような感想を言われたのだ。た
﹁そうか、ヤバイか⋮⋮﹂
!
?
!
186
興奮した様子で詰め寄ってくる姫菜も、ドレスアップしている。これも雪乃の借り物
なのだろう。結衣ほど女性的なスタイルをしている訳ではないが、ほっそりとしている
雪乃に比べると、姫菜も十分女性的なスタイルをしている。結衣が着れるならば姫菜も
着れるのは道理だろう。黒い、落ち着いた色合いのイブニングドレスは、大人し目な顔
立ちの姫菜には良く似合っていたのだが、それ以上に、腐った趣味の講釈を延々と垂れ
る時の顔をした姫菜に、八幡は早くもうんざりとしていた。
私を萌え殺す気ですねそうですね
あーもう、今す
﹁どういう超進化ですか いつもの腐った目つきでもう十分なのに、私の理想の鬼畜
メガネに変身してくるなんて
!
﹂
!!
は酷い顔をしていた。これさえなければ美少女なのにな、としみじみと思う。
する男がいたとしても、この顔を見たら一瞬で冷めるだろう。それくらいに、今の姫菜
むはーと熱い息を漏らす姫菜の顔を、八幡は鬱陶しそうに押しのける。仮に姫菜に恋
鬼畜メガネサイコーヒャッハー
ぐ家に戻ってこの情熱を何かにぶつけないと、もう本当にどうにかなっちゃいそうです
!
!
うが、今はそれよりも川崎某からの依頼のことだ。
て付き合うことができて面白い。陽乃もきっと、同じ意見だろう。早く紹介したいと思
うんざりするし鬱陶しくも思うが、これくらい趣味も人間も腐っている方が割り切っ
︵まぁ、そういう所も含めて気に入っている訳だが⋮⋮︶
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
187
﹂
それで良いの
﹂
﹁さて、今日はどういう計画で行く 俺が一人でやって良いって言うなら、そうするが
⋮⋮﹂
﹁えー、最初からそういう計画じゃないの
﹁結衣、それじゃ私たちはおしゃれして4Pデートしてるだけだよ
﹂
﹁いや、雪乃が良いならそれで良いんだけどな。お前らもそれで良いのか
﹁ゆきのんがやるなら私も手伝うよ
ないわ。同級生の未来を守るためにも、まずは私たちがやらないと﹂
﹂
﹁このインテリヤクザにそんなことをさせたら、18歳未満お断りの展開になるに違い
﹁私は八幡先輩の鬼畜メガネなところが見たいんだけど⋮⋮﹂
!
?
思っていたのだが、雪乃は妙なところで子供っぽい張り合いをする。
があるのだろう。 面倒なことは御免だ、という思いは雪乃と姫菜と共通していると
ある。前回のテニスは肝心なところでガス欠になったため、今回は自分で、という思い
すまし顔で言うが、要するに﹃自分たちでやるからお前は手を出すな﹄ということで
し、ここは休んでくれていても構わないのだけれど﹂
﹁比 企 谷 く ん 一 人 に 頼 る の も 悪 い わ。貴 方 に は 話 を 早 く し て も ら っ た 功 績 が あ る の だ
姫菜の言い方に形の良い眉を寄せた雪乃は、少し考えるそぶりを見せてから答えた。
?
?
﹁海老名さん、卑猥な言い方はやめてもらえるかしら﹂
?
?
188
うーん、と小さく唸った姫菜は、少しだけ困った顔をした。隠そうと、そして本人は
隠していると思えているようだが、八幡にははっきりと姫菜が﹃この女めんどくさい﹄と
思い始めていると理解できた。まだまだ爆発はしないだろうが、隠そうとしている不満
が身体の外に出るようでは、まだまである。陽乃ならばこういう時、一発で男を恋に落
とすような笑顔で隠すだろう。その後、イラつかされた分はきっちりと報復するのがお
約束である。
まぁ、感情の化け物たる陽乃と同じ行動をしろというのも無理な話だ。幸い、雪乃は
姫菜の不満には気づいていないようだが、今後の円満な関係のためにも注意は必要であ
る。雪乃が視線を逸らしたのを見計らって、八幡は姫菜の後ろ頭を軽く小突いた。振り
返った姫菜に、八幡は黙って首を横に振る。自分がうまくやっていると思っている姫菜
は、八幡の仕草の意味が解らず首を傾げた。
埒があかない。そう判断した八幡は姫菜の耳元にそっと顔を寄せた。
全てのことが些事に思えた。
からだ。この腐った目は自分を見抜くことができる。そう思うと、自分の感情を含めた
情を浮かべ、次いで相好を崩した。そんな言葉を言われたのは、生まれて初めてだった
まさか、見抜かれているとは思っていなかったのだろう。姫菜ははっきりと驚きの表
﹁イライラしてないつもりなら、せめて顔に出すな﹂
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
189
﹁⋮⋮了解、雪乃くん。鬼畜メガネな八幡先輩が見れて機嫌が良いから、今日は雪乃くん
それなら良いのだけれど⋮⋮﹂
に従うよ、私﹂
﹁そう
んな結衣の姿を見て、八幡は懐かしい気分になる。
に入っている。半面、庶民丸出しの結衣は、場の空気そのものに飲み込まれていた。そ
こういう場所に何度も足を運んだことがあるのだろう。スタッフに対する態度も、堂
目的の、ハイソなフロアについても雪乃は全く動じなかった。
拾する面倒を予感しながらも、八幡は黙って雪乃の後ろを歩いた。
するが、本人が自分でやると言っている以上、邪魔をするのも角が立つ。後で事態を収
このメンバーなら姫菜の空気で丸め込むか、まだ結衣が情に訴えた方が上手く行く気が
正直、大上段、真正面から正論で突っ込んでいく雪乃との相性は最悪と言っても良い。
イプだ。そして、それなりに頭も回って弁も立つ。
るようだが、八幡の見立てでは川崎姉はよほど相性が悪いと感じない限り、怯まないタ
八幡はその後をのんびりと着いていく。その細い背中を見るにそれなりに自信があ
決まると、雪乃は足音も高く建物に踏み込んでいった。
ならば、それ以上追求することもない。紆余曲折はあったが、満場一致で先鋒は自分と
あっさり引き下がった姫菜に釈然としないものを感じつつも、任せてくれるというの
?
190
陽乃に最初にこういう場所に連れて来られた時、自分はおそらくこういう態度をして
いたのだろう。
美少女である結衣がやると男性は保護欲を刺激されて仕方がない。事実、陽乃という
絶対的な存在を持つ八幡も、今の結衣を見てそんな気分にさせられていたが、そんな仕
草を過去の自分がしているところを想像したら、その気持ちも一瞬で冷め、むしろ苛立
ちが沸き上がった。美少女ってのは得だなと思いつつ横を見れば、姫菜は物珍しそうに
きょろきょろとしていた。
姫菜も庶民には違いないのだが、結衣ほど動揺はしていない。純粋に、好奇心を満た
すために観察をしているといった風である。姫菜は姫菜で、やはり肝が据わっている。
そ ん な 二 人 と は ぐ れ た り し な い よ う 目 を 離 さ な い よ う に し な が ら も、八 幡 は 遠 目 に、
さっさと歩いていった雪乃が仕事を始めるのを見ていた。
バーカウンターの中に、川崎姉はいた。女性にしては高い身長、整った顔立ち。おま
けに客商売なのに人を寄せ付けまいという雰囲気は離れていても人目を引いた。
雪乃も一目であれが川崎姉だと解ったのだろう。足音も高く歩み寄り部活を開始し
たのだが、形勢はわずか数秒で決した。遠目にも解る雪乃不利の雰囲気に、姫菜が隣で
苦笑を漏らした。
﹁雪乃くん、劣勢みたいですよ﹂
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
191
遠目に見ても、川崎姉に取り付く島もないのが解る。彼女にすれば、バイト先はここ
である必要はない。ここで働けないのならば他を探すだけで、雪乃に比べればまだまだ
余裕があった。対して雪乃は、自分が失敗することなど許せないとばかりに、肩に気合
が入っている。元より相性の悪い相手にそれでは、勝てるものも勝てないだろう。
川崎姉に関わらず、高校生がバイトをする目的など金以外にあるはずがない。金銭を
得るために労働をするというのは、庶民からすれば当たり前の感覚だが、裕福な家庭で
育った雪乃は、いまいちそれがピンときていないのだろう。それがまた、雪乃と川崎姉
の会話をかみ合わない物にしていく。
金を都合しなければいけない川崎姉は、多少のことでは自分を曲げたりはしない。始
まる前から上手くいかないだろうことは解っていたが、全くと言って良いほど聞く耳を
持っていない川崎姉に、ついに雪乃が焦れ出すのを見て、八幡はようやく助け船を出す
ことに決めた
先日、川崎姉と知り合った時のことが脳裏を過る。
本音を言えばあまり、川崎姉の前に顔を出したくはないのだが、背に腹は変えられな
い。後輩の尻拭いをするのは先輩の義務であり、陽乃の妹を助けるのは犬の義務だ。
﹁比企谷くん、私はまだ││﹂
﹁雪乃、交代だ﹂
192
﹂
まだやれる。そう言葉を続けようとした雪乃を遮るように、八幡の姿を見た川崎姉
は、ぱっと顔を輝かせ、
お久しぶりです
!
を努めて無視する形で、言葉を続けた。
こういう顔をされるから嫌だったんだと、後ろ頭をがりがりとかきながら、八幡は雪乃
その声を聴いた雪乃は、今まで険悪な雰囲気だったことも忘れて、茫然と八幡を見る。
差である。
そんな、喜色に満ちた声を挙げた。苛立ちと共に雪乃と会話していた時とは、雲泥の
﹁八幡さん
!
事実だが、まだ現役の高校生だ﹂
﹁そう言えばまともに自己紹介をしてなかったな。俺は比企谷八幡。お前の先輩なのは
決することはできない。意を決して、八幡は更に言葉を続けた。
だが、歌わなければ歌のテストが終わらないように、言葉を続けないとこの問題を解
前で、一人歌わされる時のような嫌な緊張感が、八幡を満たしていた。
ふぅ、と八幡は小さく息を吐いた。音楽の授業の時、クラスメートという名の他人の
﹁俺の後輩だ。それで、俺も同じ事情でここに来た﹂
﹁はい。あれから無事に続けられてます。あぁ、もしかしてそっちのは││﹂
﹁元気そうだな。バイトも続けてるみたいだし﹂
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
193
﹁え⋮⋮⋮⋮え
﹂
﹁これから時間取れるか
休憩の時にでも話せると助かるんだが﹂
混乱している様子の川崎姉を軽く無視する形で、八幡は腕時計を見た。
?
﹂
!
・
・
・
それじゃ、と川崎姉と会話を打ち切った八幡を、雪乃を伴って結衣たちの所まで戻っ
﹁了解。別に急がなくても良いからな﹂
﹁解りました。それじゃあ、八幡さん。十二時に﹂
・
﹁別に構わねーよ。悪口でもなければ、好きに呼んでくれて﹂
﹁すいません、気安く読んじゃったりして﹂
﹁確かに珍しい名前ではあるな。俺の他に見たことないし﹂
﹁いえ、あの、八幡って名前だったんですね。名字じゃなくて﹂
顔をして、視線を逸らした。頬は僅かに、朱に染まっている。
分が声を挙げたことに、驚いたのだろう。八幡が振り返ると、川崎姉はバツが悪そうな
そのまま、踵を返してテーブルの方へ歩こうとした八幡に、川崎姉は声を挙げた。自
﹁あの
⋮⋮適当にメニュー見て注文するわ。邪魔したな﹂
﹁解 っ た。そ れ ま で こ こ で 待 っ て る。後 こ こ に マ ッ カ ン │ │ は な か っ た ん だ よ な 確 か
﹁⋮⋮はい。じゃあ、十二時には休憩に入れると思うんで、その時に﹂
?
194
た。全員の視線が自分に集中している。説明しろと無言の圧力をかけてくる後輩三人
を見渡した八幡は、努めて明るい声で言った。
の家の車に、一緒に送ってもらえ﹂
﹂
﹁そんな訳で、時間がかかりそうだから未成年はもう帰れ。夜道は危ないからな。雪乃
﹁どういうことか説明してほしいのだけど
?
に姫菜と結衣がいたことが雪乃に理性を自覚させ、衝動的な行動を押しとどめた。それ
ここにいるのが自分一人、八幡一人ならば確実にそうしたという自負があるが、近く
選択肢にかなりの魅力を感じていた。
復をするということにだけ着目するならそれでも良いかもしれない。事実、雪乃はその
ば退店させられるだろうが、そうなると奉仕部として受けた依頼が滞ることになる。報
事実だけを見れば八幡も未成年だ。雪乃たちがそれを触れ回れば八幡も時間がくれ
に違いはない。
場所であり、自分たちは未成年である。何かあったら親を呼ばれる弱い立場であること
部室であれば湯水の如く文句が出てきたのだろうが、ここはドレスコードがあるような
事実上の敗北勧告とも言える八幡の言葉に、雪乃は心底悔しそうな表情を浮かべた。
まっすぐ帰れよ﹂
﹁明 日 な。つ い で に 問 題 は こ っ ち の 方 で 解 決 し て お く。念 を 押 す が、寄 り 道 し な い で
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
195
をしても一時的に心が満たされるだけで、誰も得をしないし、何も解決しない。
この場で、最も効率的に事態を収拾できるのが比企谷八幡である。それをかつてなお
程の敗北感と共に自覚したことで、雪乃は撤退を決めた。
﹂
?
?
答えた。小さな勝利を勝ち取ったことに、雪乃は満足そうにほほ笑む。
引き合いに出されてはそうもいかない。雪乃の脅迫に屈する形で、八幡は渋々イエスと
実を言えば、一人で解決してうやむやにしようとしていたことがあるのだが、陽乃を
のことだ﹂
﹁取引も何も、最初から部活の一環だろ 俺部員、お前たちも部員。報告するのは当然
﹁それは、取引成立ということで良いのかしら
ことが、その嘘にも無駄な説得力を持たせていた
のだ。場所も誂えたようにホテルに併設されたバーだ。雪乃の言葉も一部事実である
陽乃の知らないところでその後輩の女子と二人きりになろうとしていることは事実な
そんなことをするはずがないと、陽乃も信じてはくれるだろうが、感情は別のものだ。
﹁それは、その⋮⋮なんだ、やめてくれ⋮⋮⋮⋮﹂
て後輩の女子をホテルに連れ込んだと姉さんに証言するわ﹂
﹁明日、部室で、きちんと報告をすること。それをすっぽかすようなら、依頼にかこつけ
196
﹁それは良かった。それじゃあ、明日学校で。土産話を楽しみにしているわ﹂
あっさりと、雪ノ下雪乃は撤退する
197
最初は自分で払おうという気を持っていたような気もするが、付き合うようになって
する。
理由などどうでも良いのだ。何かにつけて理由をつけて、陽乃は八幡に物を与えようと
買ってくれることになった。進学したのは陽乃なのに、意味が解らない。陽乃にとって
ていける服の持ち合わせはないではなかったが、進学祝いということで陽乃がスーツを
われた。ジャケット着用が義務の、聊か格式の高い店であるという。そういう場所に着
ただ店に行くだけだと思っていたら、陽乃が行きたい店に行くには準備が必要だと言
は陽乃が上手くやってくれると信じることにした。
八幡にとって、陽乃の誘いは絶対だ。学校にバレるかが懸念ではあったが、その辺り
陽乃は八幡を誘っていた。
と誘われてはいたのだ。確認するまでもなく、陽乃も八幡も未成年である。その上で、
乃が大学生になり、八幡がすぐに事故にあったせいで話が流れていたが、前から行こう
何をと陽乃は口にしなかったが、それが酒飲みの誘いということは八幡にも解る。陽
八幡が退院して一息吐いた頃、陽乃から飲みに行こうと誘いがあった。
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
198
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
199
からはそれもなくなった。プレゼントの値段は聞いていないし、深く考えてもいない。
どうせ聞いても答えないだろうし、聞けたとしても払える金額ではない。金のことは極
力、考えないことにした。
これもある意味、ヒモという奴なのだろう。高校入学時の夢が叶ったと言えなくもな
いが、過去の自分が今の状況を見ても決して喜びはしないと断言できた。ヒモにもヒモ
と陽乃が珍しく要望を
の苦労があるのだ。それを身をもって知った、高校三年の春先である。
スーツをオーダーメイドするに当たり、どういうのが良い
然、酒など自発的に飲んだこともないから、名前を見てもどういう酒なのか解らない。
使ったこともあるとか何とか。値段を見ないようにしながら、メニューを眺める。当
店 だ っ た。聞 け ば、こ こ の オ ー ナ ー と は 付 き 合 い が あ り、顔 も 聞 く と い う。夜 遊 び に
インテリヤクザになったその足で、陽乃と共に向かったのはエンジェルラダーという
みは、八幡の印象に強く残った。
えて大笑いした。予想以上の出来と褒めてくれたが、その時のテーラーの引きつった笑
誰が見てもインテリヤクザとなった八幡が姿見の前に立ったのを見て、陽乃は腹を抱
た。インテリヤクザの出来上がりである。
何故か伊達メガネがセットになっていて、髪型はオールバック限定という注文までつい
聞いてくれたが、服飾に希望などない八幡は全て任せることにした。結果、スーツには
?
200
オススメは
れた。
と聞くと、陽乃が﹃こう頼むのがかっこいい﹄という頼み方を教えてく
正義のヒーローになれとでも言うのだろう。陽乃に女性を助けようという正義感が
⋮⋮ちらと振り返ると、陽乃がゴーサインを出しているのが見えた。
にして、使い続けている店だ。本来であれば八幡が割って入るような理由はないのだが
店が店であるから、放っておけば店の偉い人が来るだろう。何しろ陽乃がお気に入り
が、それはもう本能的な反応と諦めるより他はない。
え、一瞬ではあるが気を飲まれそうになった。陽乃に比べれば怖くも何ともないのだ
乃のように図太い神経をしている訳ではないのだ。事実、離れて聞いている八幡でさ
をしていたが、状況が状況である。大の男に絡まれたら、ビビるのが普通だ。誰もが陽
いダミ声が響くと、女性店員がびくついた。女性店員は見るからに気の強そうな顔立ち
ジャケットは着用しているが、如何にもなチンピラだ。店のハイソな雰囲気にそぐわな
カウンターの中にいたのは背の高い女性店員だった。それに、男が絡んでいる。一応
でトラブルが起きているのが見えた。
と顔に出さないようにしながら立ち上がると、これから向かおうとしたバーカウンター
てこいと言っている。やれと言われたらやるしかないのが犬というものだ。やれやれ、
それは八幡でも知っている酒であり、知っている頼み方だったが、陽乃はそれをやっ
?
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
201
ある訳ではない。単純に、八幡が自分のキャラに合わない、正義の味方ごっこをするの
を見たいだけだ。娯楽のためにチンピラにけしかけられる八幡は良い迷惑だったが、女
性店員相手に凄むチンピラにもイラっときていたのも事実だ。
問題は、どうやってチンピラを叩きだすかだが⋮⋮考えながら歩いていると、チンピ
ラの方が先に八幡に気づいた。
八幡の姿を視界に収めたチンピラは、自分が今まで女相手に怒鳴っていたことも忘れ
て、硬直した。
それも無理からぬことではある。全身陽乃のコーディネートで一分の隙もなくなっ
た八幡は、どこから見てもインテリヤクザだ。ハイソな店の雰囲気もあって、それなり
の格の人間にも見える。チンピラヤクザの世界も、男を売る稼業であると同時に、縦社
会であることに変わりはない。粗相をすれば指が飛ぶかもしれない世界なのだ。リア
ルに自分の身に危険が及ぶとなれば、誰でも警戒するというものである。ただの粋がっ
ている素人ならば猶更だ。
硬直したチンピラの姿に、八幡ははっきりと自分の有利を悟った。元より、こんな場
所で堅気の少女相手に怒鳴っている時点で、本職ではないと半ば確信していたのだが、
それはそれだ。調子に乗ってメガネをくい、と軽く持ち上げ下からチンピラを睨みあげ
る。
最近、ますます目力が増したと言われる腐った目だ。見ず知らずの人間に、全力で睨
みつけてやるとその効果は絶大だった。全くひるまずに睨みつけてくる八幡に、チンピ
ラは完全に腰が引けていた。既に逃げ腰になっているチンピラに、八幡は無言で出入り
口を顎で示した。
雑な扱いに、しかし、チンピラは文句を垂れることもなくそそくさを店を出て行った。
あちらからすれば、見逃してももらった、ということになるのだろうか。ヤクザの世界
のことなど知らないが、これからも使うかもしれない店にああいう手合いがいるのも困
る。少しだけ住みよい世界にできたと思えば、気分も良かった。
と
一仕事済んだところで、八幡は陽乃の指令を思い出した。チンピラを撃退したことで
忘れてくれると良かったのだが、振り向くと陽乃はバーカウンターを示して行け
た。
も多大な精神力を発揮して、何やらぽーっとしている女性店員に指示通りの声をかけ
のサイン。仕事がまだ終わっていないことを理解した八幡は、チンピラに近づく時より
!
される世界一有名なスパイを知らなかったらしい。八幡の注文にはっとなると、注文を
火が出るほど恥ずかしくなる八幡だったが、幸いなことに女性店員は数字三文字で表現
知る人間が聞けば何を気取っているのか一目瞭然の注文である。注文一つで顔から
﹁ウォッカマティーニ。ステアではなくシェイクで﹂
202
別のバーテンダーに伝えに走る。
カウンターに立っているだけで、カクテルが作れる訳ではないようだ。新人なのだろ
う。見た限り、自分と同じくらいには若く見える⋮⋮というか、ここで働くには若すぎ
る気がする。注文ができるまでの間に何となくスマホを操ってその懸念を陽乃に伝え
﹄
ると、彼女は即座に返信してきた。
﹃八幡の魅力でたらしこんでみて
を加えた所で最低に違いなく、大勢に影響はない。
かに最低の発想だが、元より女王様からの命令からして最低なのだ。多少最低スパイス
だが見方を変えれば、これ程後腐れのない人間もいないと考えることもできる。明ら
高い相手だった。
そのものは相変わらず苦手なままな八幡に、初対面の女性というのはかなりハードルの
トークができるようになった訳でも、人付き合いが良くなった訳でもない。人付き合い
ある。こいつはイモだと思えば普通に他人と話せるようにはなったが、別に魅力的な
その文面を見て、八幡は頭を抱えた。今までの命令の中でも最高級に面倒臭い命令で
!
﹁なに。連れがやれって言ったからやったまでだ﹂
﹁はい。あの、助けてくださってありがとうございました﹂
﹁災難だったな﹂
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
203
視線を向けると、陽乃がひらひらと手を振ってくる。陽乃を見た女性店員は一瞬だけ
残念そうな顔をした。夜のバーに男と女。それが意味する関係は一つである。
ここのバイトも始めたばかりのようだし、本人的にはここで続けたいところだろう。
バイトは他を探せば済むが、出足で躓くと後が続かないものである。
したいという風には見えないから、目的は金を稼ぐことであるのは間違いない。最悪、
そうなれば、今後の学生生活にも制限が付くことになる。どうしてもここでバイトを
レた時親の呼び出しは免れないだろう。
程度誤魔化しているかにも寄るが、未成年が夜のバイトをしているとなれば、それがバ
せてやる、という半ば脅しのようなものだ。女性店員の顔に、緊張の色が浮かぶ。どの
欠片も冗談ではないといった口調で、八幡は苦笑を浮かべた。冗談ということで済ま
﹁あぁ解ってるよ、冗談だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何をおっしゃいますか﹂
﹁お前、年誤魔化して働いてるだろ﹂
も、八幡は思ったことをそのまま口にする。
性店員の頬は、朱に染まっていた。見た目の割りにウブな反応に心中で戸惑いながら
陽乃から視線を戻した八幡は、指で女性店員を呼び寄せる。素直に顔を寄せてきた女
﹁それはそうと⋮⋮﹂
204
俺は総武高校﹂
実に突き甲斐のある弱みであるが、八幡程他人の人生に興味がない人間もいない。
﹁どこの高校だった
という体で探りを入れてみると、何と同じ高校だった。意図しな
たバーテンダーは八幡に軽くウィンクをすると、そっと顔を寄せた。
どうしたものか。考えていると、注文したウォッカ・マティーニが届いた。持ってき
弱みを握られたのでは、全くもって割に合わない。
だと困る。年齢を誤魔化しているのは、八幡も陽乃も一緒なのだ。たらしこむつもりが
十分に変装できているとは思うが、学校で顔を合わせた時に今日の行動がバレるよう
在も通学している八幡からすると、同じ高校というのはあまり良いことではなかった。
いところで、大当たりが出る。これから先不幸が続きそうで気分が悪いが、実際、今現
卒業した高校は
﹁あ、私も一緒です﹂
?
?
﹁当店の従業員を助けていただいた訳なのですから、当然です。お客様も、くつろがれま
た。
思わず素で返してしまった八幡に、バーテンダーはとびきりの営業スマイルを浮かべ
﹁何か、すいません﹂
ちらはサービスになります、とよろしくお伝えください﹂
﹁先ほどはありがとうございました。雪ノ下様にはお世話になってございますので、こ
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
205
すよう﹂
一礼し、去っていくバーテンダーの背中を見ながら、注文したカクテルに口をつける。
舌がひりつくくらいに冷やされたそれはどうも強い酒だったようで、一口飲んだだけで
頭をふらふらした。思わず頭を押さえた八幡に、八幡の名を呼んだ陽乃は指で﹃戻って
こい﹄という仕草をする。
﹂
!
﹁私、川崎沙希といいます。今日は本当に、ありがとうございました﹂
めた。
もう関わることもあるまい。軽く手を振って去ろうとした八幡を、女性店員は呼び止
﹁あの
﹁連れが呼んでるんで、戻る。バイト頑張ってな﹂
206
その出会いは、沙希からすればそれなりにキレイな思い出だったのだろうと思う。
だが八幡はあの日、慣れない酒で存分に酔わされ、陽乃がこっそりと取っていた部屋
に連れ込まれた挙句、美味しく頂かれてしまった。翌朝、信じられない程の頭痛で目が
覚めると、隣では陽乃が気持ち良さそうに眠っていた。同じくらいの量を飲んだはずな
の に、ど う い う 理 不 尽 だ ろ う。心 中 で 嘆 い て み て も、現 実 は 変 わ ら な か っ た。八 幡 に
とって頭痛で終わったその日の記憶は、どちらかと言えば後味の悪いものだった。
軽く溜息を吐く。
テンダーが、今日もウィンクを返してくれた。問題なし、という店側のリアクションに、
のかとバーカウンターを見れば、あの日、ウォッカマティーニを持ってきてくれたバー
ぎ、上にジャケットを羽織った状態である。休憩中の従業員と言った装いにこれで良い
十二時少しを過ぎた辺りで、沙希は八幡の待つテーブルにやってきた。ベストを脱
﹁お待たせしました﹂
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
207
﹁うちの弟が迷惑をかけたようで、申し訳ありません﹂
﹂
?
?
学までは真面目だったようだし、一緒に暮らしてる家族から見てそれまで非行の兆候が
﹁弟の話では、夜に出歩いて早朝に戻ってくるようになったのはいきなりだそうだ。中
の話は、八幡にとってその典型だった。
ただの思い込みだ。距離を取って離れた他人だからこそ、見えるものだってある。沙希
なかったのである。近しければ近しい程その人間を理解できるというのは、実のところ
目的に思い当っていなかったくらいだ。それを他人に言い当てられるとは思ってもみ
沙希にとってはそれは、純粋な疑問だった。何しろ一緒に暮らしている弟が、沙希の
﹁⋮⋮どうしてそれを
﹁ああ。そして、お前にも関係のあることだろ 学費のために働いてるんだろうしな﹂
﹁内申⋮⋮ですか﹂
﹁これも部活動なんだよ。実を言えば推薦の内申のためにやってることだ﹂
らに恐縮した様子の沙希に、八幡は苦笑を浮かべる。
な沙希は、自分の弟が恩人を引っ張り出したことにかなり負い目を感じていた。見るか
それは八幡の本心だったが、義理堅い性格、というよりは他人に借りを作るのが嫌い
んだ。お前が気にすることじゃない﹂
﹁他人には実感が湧かないかもしれんが、学校での俺にとってはこれが仕事のようなも
208
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
209
なかったんなら、そっちの線は薄い。かと言って、派手に金を使った様子もない。元々
真面目となればそうなんじゃないかと思っただけなんだが、どうやら本当に本当だった
みたいだな﹂
かまをかけた風を装う八幡だったが、実際には半ば確信を持っていた。両親共働きと
いう事情と、沙希を含めて子供が複数いることを加味すれば、川崎家が決して裕福な経
済状況ではないことは想像に難くない。聞けば、バイトを始めた時期は大志が塾に通い
始めた時期と被っている。いくらかはこっそり家計の足しにもしているのだろうが、究
極的には将来のための貯蓄という線が、濃厚だ。
経済的に苦しい家にとって、大学進学はかなりの負担になる。弟を大学に行かせる前
提なら、姉の状況は更に苦しいと言って良い。奨学金という手もあるが、将来的に返済
しなくても良いタイプのそれは審査が厳しく、成績が良かったとしても確実にゲットで
きる保証はない。進学そのものが目的であればそれ以外の奨学金でも十分助けにはな
るが、いずれ返済することを考えれば金は用意しておくに越したことはない。
とにもかくにも金、金、金である。
八幡の言葉に、沙希は黙って俯いた。
隠れてバイトをすることにしたのは、これ以上家族に負担をかけたくないと思ったか
らだ。弟には心配をかけることになったが、実際に不良になった訳ではないのだから、
と内心で言い訳をして、自分を誤魔化してきた。今日まではそれで自分を騙すことがで
きたが、八幡が同級生を引き連れて店にまでやってきたことでそれはご破算になってし
まった。
自分に似て、弟も引かないと決めたら一歩も引かない男だ。明確な成果が出ない限
り、殴られても引かないのは目に見えている。ここまで話が大きくなった以上、家族の
問題になることは避けられないだろう。親が腰をあげたら、バイトを始めた理由まで話
さなくてはいけなくなる。家族の負担にはなりたくない。それだけは、何としても避け
たかったことだったのだが⋮⋮
悔しそうに俯く沙希に、八幡は何でもないように声を挙げる。
ち
も十分射程範囲だ。バイトをしなくても良く、かつ成績も上昇する。これが最善のルー
通科の中では上位の成績をキープしている。本腰を入れて勉強すれば、一桁代のキープ
することも夢ではない。静に手配してもらって成績を調べたら、入学試験からこっち普
給付の奨学金は狭い門だが、沙希はまだ一年だ。最終的な成績次第では、それを獲得
う。時間が作れるようになったら、教務の方にお前の方で申請してくれ﹂
使ったことないが、調べたからやり方はくらい知ってる。お前なら申請すれば通るだろ
の費用だが、総武高校と提携してる塾でなら費用を減免できるシステムがある。俺は
う
﹁そこで、だ。俺は俺の内申のために、お前に耳よりな話を提供することにした。まず塾
210
トだが、世の中そう上手く運ぶ訳ではない。沙希の精神の安定のためにも、ある程度の
金策は必要だった。
しかし、できるだけ家族に心配をかけたくないという沙希の願望を叶えなければ、ま
た今日のような問題が起こってしまう。バイトをするにしても、沙希が都合の着けやす
い時間帯にする必要だあった。
﹁次にバイトだが、うちで家庭教師をしないか うちの妹、世界一かわいいんだが残念
とっては魅力的な条件だった。
るなんて生活をいつまでも続けられるはずがない。勤務時間応相談というのは、沙希に
だ。普通に学校に行き、家族の面倒を見て食事の準備などをし、夜に家を出て早朝に帰
能性があるが、睡眠時間を削って労働するよりはずっと沙希の身には優しくなるはず
店舗ではなく比企谷家が雇うことになるから、ここで働くよりも手取りは低くなる可
だ﹂
だと手を抜きそうだと、女性で、信頼のできる相手がいないか探してるところだったん
んとうちの両親は判断したらしい。最初は俺が教えるつもりだったんだけどな、俺相手
なことに勉強の方は残念でな。お前の弟と同じ塾に通ってるんだが、それだけじゃ足り
?
﹁金を払うのは俺じゃないし、勉強を教わるのも俺じゃない。金を出さない以上、俺が注
﹁それは、八幡さんにご迷惑では﹂
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
211
文を付けるのも筋違いだろ
だがあえて注文を付けるなら、信頼のおける相手ってく
の辺りの事情は沙希も汲んでくれるに違いない。
部屋に他の男があがりこんでいたら、と想像しただけで胃がねじ切れそうになるが、そ
なることだが、沙希が比企谷家に来る時に一人で来てもらえば、その心配もない。妹の
強いて問題を挙げるならば、川崎家全体と仲良しになり、小町と大志が親密な関係に
らいだんだが⋮⋮お前は俺の注文通りの相手だしな。何も不満はない﹂
?
前の状況を改善するために努力する。睡眠時間を削ってまでバイトするよりはマシだ
金銭的な問題、その他諸々、解決する用意がある。お前が一つ頷いてくれれば、俺はお
﹁まぁ、こんなところだな。現時点ですぱっと解決したとは言えないが、勉強する環境、
こなしてくれると信じたい。
までバイトをするという選択ができる人間だ。こつこつ勉強を続けるくらいは、難なく
けあってそれなりに勉強はできるのだ。家族に負担をかけないため、睡眠時間を削って
箸にも棒にも引っ掛からない学力ならば目も当てられないが、総武高校に入学しただ
い﹂
て勉強することになるが、その辺りはまぁ、頑張って努力してくれとしか俺には言えな
るんでなければ、それを条件に進学先を探しても良い。その分、一年の今から本腰入れ
﹁後はそうだな。給付の奨学金を真面目に狙ってみるのも良いだろ。進学先が決まって
212
﹂
と思うが、決めるのはお前自身だ。時間をかけて決めてくれて││﹂
﹁お受けします﹂
﹁⋮⋮⋮⋮もう少し考えなくて良いのか
?
り捨てる救い難さであるが、その人間性が八幡は嫌いではなかった。誤解されやすいタ
度しか会ったことのない男の話を鵜呑みにしている辺り、陽乃ならば一言﹃愚か﹄と切
頭がそれなりに回って、一本気。陽乃流の言い方をすれば、実に使いやすい女だ。一
希にそれなりの愛着を感じてしまっているからだ。
直に言えば、バイトの世話までする必要はなかった。それをしてしまったのは、既に沙
れる関係だったはずが、紹介したバイトのせいで関係を続くことになってしまった。正
少女のことを、他人とは思うことができなかった。本来ならばこの依頼が終了すれば切
他人などどうでも良いと思っている八幡だが、結衣とは違った意味で犬のようなこの
に陽乃のような相手だと、知らない内に大失敗をしそうだ。
が、時に欠点にもなるのだということは早い内に理解しておいた方が良い気もする。特
これと信じた人間には、とことん尽くすタイプなのだろう。それはそれで長所ではある
に悪い人間に騙されそうな気がした。これが罠であるとは欠片も疑っていない様子だ。
即決に、八幡は逆に不安になった。沙希は芯がしっかりしていて頭も良いが、それ故
﹁反対する理由が一つも思いつきません﹂
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
213
イプだろうが、悪い奴ではない。自分が苦労することを厭わず、家族のために行動でき
る優しい人間だ。
そういう人間が、良い目を見てほしいというのは、まだまだ甘いという証拠だろうか。
陽乃ならばどう言うだろうと、沙希を前に八幡は考える。内心はどうあれ、結局は笑っ
て許してくれそうな気がした。ならばきっと、これは犬として正しいことなのだ。
それで八幡さんは、その⋮⋮﹃女王様の犬﹄﹂
?
というのに、大した影響力である。
いるのだ。一年でもほとんどは知っていると考えて良いだろう。陽乃はもう卒業した
八幡は小さく溜息を吐く。それ程学校の事情に通じていなそうな沙希ですら知って
﹁一年の間にも悪名が轟いてるようで、何よりだよ﹂
ノ下陽乃さんですね
﹁八幡さん程じゃ。話をしていて思い出しました。あの日、一緒に連れられてた方が、雪
﹁川崎さんちも大変だな﹂
すから、口裏を合わせてもらわないと﹂
﹁いえ、あいつには私の方から伝えます。貯金してることが親にバレると色々と面倒で
えておいても良いが﹂
ついたらってことで良い。弟の方には依頼完了って話に行く用事があるから、詳細を伝
﹁何はともあれ、よろしくな。いきなり辞めるってのもアレだろうから、ここが一区切り
214
﹁それを知ってるなら話は早い。陽乃の手伝いをした関係で、教職員にはそれなりにコ
ネがある。単位をどうこうとまではいかないが、教務関係の話は通しやすいと思うぞ﹂
ぺこり、と沙希は頭を下げる。実に従順で、つい先ほど雪乃とやりあっていた人間と
﹁その時には、お世話になります﹂
同じとは思えない。当初から考えていた通り、雪乃とは相性が悪いことを先の会話で証
明されてしまった訳だ。推薦の内申を上げるため、自分が取った方法と同じものを勧め
ることが、微妙に難しくなってきた。
とは言え、推薦を狙うならば部活や委員会活動はしておいた方が良い。実績が残せな
いならば同じだという向きもあるが、白紙よりは何か埋めるものがあった方が良いとい
うのが八幡と静の結論である。欲を言えば生徒会活動などにもねじ込んでおきたいと
ころではあるが、家の仕事で時間を取られるならば、これ以上学校の仕事を押し付ける
のも気が引ける。その辺りは沙希の事情も鑑みて、ということになるだろう。
ろうか。椅子に座り直して正面を見ると、沙希とまっすぐ視線があった。
立ち上がろうとした八幡を、沙希の言葉が押しとどめる。提案に何か不足があっただ
﹁八幡さん﹂
うにな﹂
﹁まぁ、話がまとまって良かった。俺はそろそろ行く。あんまり家族に心配かけないよ
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
215
﹁内申のために参加してらっしゃる部活について、お話を伺いたいんですが⋮⋮﹂
﹂
?
なるようになるだろう。適当なところで、八幡は考えるのを止めた。
﹁じゃあ、オレンジジュースを﹂
﹁何か飲むか
どうやって紹介したものか。考えた八幡が、悩んだ末に出した言葉は、
前、お前はダメだと断るのは筋が通らない。
つのは、今の内から見えているが、自分が内申のために参加していると標榜している手
が、おそらく沙希は我慢するだけで、仲良くする努力はしないだろう。部活に波風が立
らだ。内申のためならば、そりの合わない相手がいても我慢する。中々できない選択だ
ている。それにも拘わらずこういう提案をしたのは、自分の内面よりも実利を取ったか
八幡が内申目的に参加している部活に、雪乃もまた参加していることは沙希も把握し
張が普段からぶつかるだろうことは、想像に難くない。
くるめた相手である。雪乃から見た沙希ほど苦手意識はないはすだが、それでも主義主
る部活に、自分から参加をしたいとは言いださないだろう。沙希にすれば、自分が言い
いと感じた矢先のことである。例えば雪乃が沙希の立場だったら、相性の悪い人間がい
沙希がこういう提案をしてくると想像していなかった訳ではないが、雪乃と相性が悪
︵あぁ、こういう展開か⋮⋮︶
216
向上心だが、この強面で普段からこれでは、友達はできないだろう。クラスで孤立しな
を開いて勉強を始めた。学校での空いた時間は勉強に使うと決めたらしい。見上げた
る。そんな少女らを無視して、沙希はテーブルの一番端を自分の席と決めると、参考書
るとは予想していなかったのか、八幡の目の前で雪乃たちは口を開けてぽかんとしてい
八幡の雑な紹介に従い、沙希がそれ以上に雑な自己紹介をする。追加で新入部員が来
﹁よろしく﹂
﹁そんな訳で、今日から一緒に部活動に参加することになった川崎沙希だ﹂
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
217
いか心配である。
勉強する沙希を眺める八幡の両腕を、姫菜と結衣が部室の隅まで引きずっていく。そ
﹂
回転するベッドのある
れに、興味なさそうな顔をした雪乃がついてくる形だ。沙希は部員たちにちらと視線を
向けただけである。
部屋に連れ込んでオールナイトですか
﹁八幡先輩、八幡先輩。本当にたらしこんじゃったんですか
乃は雪乃で、奉仕部の平穏無事な空間をそれなりに愛しているのだ。
な訳ではない。自分が行動しないことで立てなくても済む波風は、立てないに限る。雪
覚しているのだ。全てのことで負けるとは思ってもいないだろうが、雪乃も喧嘩が好き
ともせずに文庫本に視線を戻した。昨晩、やり込められたばかりで相性が悪いことを自
そんな結衣を他所に、雪乃は沙希の方を一度見ただけで、それ以降は視線を向けるこ
ラを出せる沙希も相当だ。
をこれでもかと出している沙希に話しかける結衣も強者だが、集団の中で遠慮なくオー
振って沙希を構いに行くが、沙希はその悉くを軽くいなしている。話しかけるなオーラ
かいつまんで沙希の事情を説明すると、根が単純な結衣はさっそく絆された。尻尾を
んだと﹂
﹁人聞きの悪いこと言うな。普通に話して、まとめただけだよ。結局、学費のためだった
?
?
218
雪乃が消極的な無視を決め込んだ後も、結衣はこれでもかと質問を重ね続けたが、結
果は惨敗だった。肩を落としてとぼとぼ戻ってくる結衣と入れ替わるようにして、今度
は姫菜が沙希の隣に座る。攻め手は結衣よりも遥かに緩やかだが、基本的に人間に興味
がない姫菜はそれ故に、やろうと思えば適格に急所に踏み込むことができる。適当な答
えはさせないとばかりに攻める姫菜に、沙希は戸惑いを隠せないでいた。
横目で見ていた八幡は、落ちるのは時間の問題だなと確信し、自分で入れた紅茶に口
を付ける。
気にするなよ﹂
?
﹂
!
ほど、リア充グループに所属しているだけのことはある。自分ではここまでスムーズに
に見ながら、姫菜の様子を見る。巧みな手腕で次々と情報を引き出している姫菜はなる
誰と誰が友達になろうが、八幡にはどうでも良いことだ。ぷりぷりと怒る結衣を横目
﹁他人事だからな⋮⋮﹂
﹁ヒッキー先輩冷たい
長い目で行けよ。俺は知らんが﹂
﹁何かの漫画で言ってたが、友情って植物は花を咲かすのにとても時間がかかるらしい。
﹁でも、ヒッキー先輩には川崎さん優しいじゃん。私も川崎さんと、お話ししたいよ﹂
﹁川崎は誰にもあんな感じだろ
﹁⋮⋮私、川崎さんに嫌われてるのかな﹂
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
219
﹂
はいかないだろうな、と適当に考えていると、姫菜は唐突に振り向き、八幡に話を振っ
た。
﹁八幡先輩。サキサキの趣味って何ですか
﹁なんで俺に聞くんだよ⋮⋮﹂
﹂
と頼まれたと解釈した八幡は、姫菜の疑問をそのまま口にした。
﹁川崎、趣味とか特技って何かあるか
?
てー﹂
﹁裁縫 あ、もしかしてサキサキのシュシュってお手製 すごーい、ちょっと見せ
﹁趣味は特に。特技は⋮⋮裁縫、だと思います、多分﹂
だが、八幡に聞かれたら答えない訳にはいかなかった。
外することを、沙希はあまり好いていなかった。本音を言えば誰にも言いたくはないの
八幡の問いに、沙希は一瞬答えを詰まらせた。自分のキャラにあっていない特技を口
?
ともかく、聞いて
室の中には一人もいない。
雪乃だけだった。同様に、機嫌良さそうに微笑した雪乃を見ることができた人間は、部
きりと顔に書かれていたのを見ることができたのは、たまたま文庫本から視線を挙げた
かったが、今まさに攻められていた沙希はすぐに察することができた。ヤバい、とはっ
問い返すが、姫菜はふふ、とほほ笑むだけで答えない。その意図が八幡には解らな
?
220
!?
?
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
221
わざとらしく声を挙げた姫菜に、結衣も乗ってくる。沙希が参考書を広げているにも
構わず、沙希お手製のシュシュの出来に、女子二人は遠慮のない歓声を挙げていた。普
段、家族とくらいしか会話をしない沙希は、当然ながら褒められることに慣れていない。
そもそも手腕を見せる機会があるのも、妹くらいのものだ。自分の仕事を褒められるの
は悪い気はしないが、それ以上にこそばゆさを感じていた。それが同年代の同性なのだ
から尚更である。
居心地の悪さを感じながら、助けを求め辺りを見回す。女物の装飾に興味のない八幡
は、二杯目の紅茶をいれるべくポットに向かっていた。残っていたのは文庫本を読む雪
乃だけだったが、沙希が視線をさまよわせるタイミングを狙いすましていたかのように
視線を挙げた雪乃は、沙希と目を合わせると小さく笑みを浮かべた。
人を小バカにした笑みというのは、こういうものを言うのだ、と教科書に乗せても良
いくらいの笑顔である。それを、上品なままに行う辺りに雪乃の育ちの良さが出ていた
が、育ちが良かろうが悪かろうが向けられる人間には関係がない。人並み以上の察しの
良さを持っている沙希は雪乃の笑みを﹃良い気味だ﹄という風に解釈した。昨晩やり込
められた報復なのは考えるまでもなかった。
やはりコイツとは、ソリが合わない。
沙希は遅まきながらに、それを確信した。いい加減女子二人が鬱陶しくなってきた沙
希だったが、シュシュ一つにまだ二人は興味を維持したままである。どうしたものかと
途方に暮れた沙希の前に、紅茶のカップが置かれた。
よりも雄弁に内心を語った雪乃の沈黙が、八幡の心にちくちくと刺さる。
で、何も言わない。無言でいられる方が、文句を言われ続けるよりも堪えるものだ。何
雪乃を見た。雪乃は読んでいた文庫本を閉じると、慈愛に満ちた表情を浮かべる。それ
部室では久しく聞いていなかった褒め言葉に、気を良くした八幡はどうだとばかりに
﹁そうか、そう言ってくれるか﹂
﹁美味しいです﹂
正直に言えば物足りない気もするが、それを差し引いても、
久しぶりのことだった。久しぶりに飲んだそれは、適度に温かく上品な味をしていた。
ジュースか牛乳くらいのもの。実を言えばカップに淹れられたお茶を飲むのも、随分と
沙 希 は 恐 る 恐 る と 言 っ た 風 で、カ ッ プ に 口 を 付 け た。。家 に あ る 飲 み 物 と 言 え ば
間に、犬は茶坊主の真似事をしたりはしないのだ。
普段は自分で淹れたいものを淹れ、飲みたいものを飲むスタイルである。たかが部活仲
む人間にはどうなのだろうと、沙希の好みも聞かずに勝手に淹れてしまった。ちなみに
腕前はそれなりだと思うのだが、雪ノ下姉妹の反応は相変わらず手厳しい。初めて飲
﹁粗茶⋮⋮ではないな、茶葉は良い奴だ。市販の奴よりは美味いと思う、多分﹂
222
は、それで満足である。
を犯さなかった。色々あったが、居心地の良い空間は守れらた。八幡からすれば、当面
間に集まるが、誰もが他人の邪魔をしない。今日加わった沙希も、必要以上にその領分
を、沙希は不思議そうに眺めていたが、やがて興味をなくし、勉強に戻った。所定の時
どことなくしんなりした様子で、八幡は自分の席に座りなおした。しょぼくれた八幡
くれ﹂
﹁⋮⋮とりあえず、部室では飲み放題だ。道具はそっちにあるから、飲みたい時に淹れて
こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める
223
やかな夏の装いである陽乃はいつも以上に美しかったが、見とれている場合ではない。
集合場所に、陽乃がいた。思わず二度見してしまったが、間違いなくそこにいた。爽
実に簡単な仕事。その認識は、早朝、集合場所に着いた段階で早くも崩れ去った。
味に痛いが、これも奉仕部が存続するためのノルマと思えば腹も立たなかった。
ていることに比べれば、これほど簡単な仕事は他にない。二泊三日も拘束されるのは地
子供の面倒を彼らが見るとなれば、後は言われたことをただこなすだけだ。普段やっ
相の悪い男よりは彼らの方に好感を抱くに違いない。
く知らないが、リア充チームならばきっと無難にやってくれるだろう。子供たちも、人
いるのならば彼らに任せれば良いのだ。葉山組が子供の面倒を見るのが得意かなど全
適材適所。何も苦手な人間が無理にその分野に手を出す必要はない。得意な人間が
仕部からは沙希を除いた全員が参加し、ここに何故か葉山組が加わっている。
倒を見るならばの話だ。そのイベントに参加する高校生は、何も八幡だけではない。奉
リア充感満載な雰囲気に考えただけで吐き気がするが、それも一人で全ての子供の面
小学生と二泊三日でキャンプ。
一人を足して、少年少女は山へと向かう
224
確かに、予め二泊三日で小学生のキャンプに、という予定を彼女に伝えてはいたが、こ
れは陽乃を伴わずに遠出する時の義務のようなものだ。
それに対して陽乃は特に何も言わなかった。これもいつものことであるから、無意識
に気を抜いていたのかもしれない。陽乃に相対するのに、安心できる時など存在しない
のだ。
にこにこ微笑みながら手を振ってくる陽乃におざなりに手を振り返しながら、考え
る。
陽乃が予想外のことをするのは今に始まったことではないから、ここにいることその
ものに驚く必要はない。そういう気分だから、という理由だけで地球の裏側にでも行け
るような人だ。千葉の山奥までキャンプに行く道中に現れ、合流するくらい何てことは
ない。
﹁それでどうして今回参加を
﹂
心、どきどきしているのを隠しながら、八幡は一つ咳払いする。
下から覗き込むように見上げてくる。相変わらず、男心を擽るのが上手い人だ。内
?
?
﹁八幡が行くから、っていう理由じゃだめ
﹂
﹁小学校以来かな。散策するくらいならたまには良いけど、泊まりは嫌だよね﹂
﹁会えて嬉しいですよ。キャンプとか行くんですね﹂
一人を足して、少年少女は山へと向かう
225
﹂
﹁ダメじゃありませんが、参加することが解ってたら色々とすることができたと思うん
ですがね﹂
﹁前日、私の部屋にお泊りできたね。一緒に楽しく準備したり
﹁⋮⋮まぁ、それは否定しません﹂
方が自然である。
は若干の距離がある。三人とそれ以外で集合し、それがたまたま一緒になったと考える
せてきた⋮⋮ように見えなくもないが、雪乃と結衣と姫菜の三人と、それ以外の面々に
雪乃の後ろには結衣と姫菜、それから葉山組の面々がいた。一年は全員、時間を合わ
乃と同じ立場だったらそうした。
踵を返そうとしたのを理性で強引に押しとどめたのだろう。気持ちは解る。八幡も雪
立っているのを見ると、ぽとりと荷物を落とした。ぐっと身体が動いたのは、そのまま
その黒髪の持ち主││陽乃の妹であるところの雪ノ下雪乃は、姉とその恋人が並んで
た。
ない。誰か助けてはくれまいか。視線を彷徨わせると、視界に隅に綺麗な黒髪が見え
た。ここで更に調子に乗らせると、キャンプの間ずっとからかわれることにもなりかね
からかわれ始めると、八幡は精神的に劣勢に立たされる。大分旗色が悪くなってき
﹁八幡のすけべ∼﹂
?
226
一人を足して、少年少女は山へと向かう
227
結衣は陽乃の顔を見た瞬間に凍り付いた。この世で最も自分を歓迎していない人間
がいたのだから当然であるが、結衣と同じように陽乃の顔を見て凍り付いた人間がもう
一人いた。葉山組のリーダーである葉山隼人である。
朝からお通夜ムードになった二人と雪乃を他所に、葉山組の男子一同は陽乃の登場に
盛り上がっていた。既に卒業したとはいえ、雪ノ下陽乃の名前は一年の間でも有名であ
る。生徒会の一色いろはのように、彼女に憧れて総武高校を目指した、という人間も少
なくはない。
陽乃本人は、自分のやりたいようにやっていただけと笑うだろうが、高い進学率など
よりもよほど、学園の広報活動に貢献したと言える。テンションの上がった男子一同
を、陽乃はにこやかに、しかし物凄く適当にあしらっていた。
八幡から見ると、陽乃が男子一同を路傍の石とも思っていないことは一目瞭然だった
が、男子一同はそれに気づかない。普通は、陽乃に微笑みかけられればそれだけで満足
なのだ。
男子一同とは対象的に、くるくるした金髪の三浦優美子は、陽乃との距離を取りあぐ
ねていた。相手は3つ年上の大学生で、今なお総武高校に異名を轟かせる伝説の女だ。
女王力ちからなるものがあるとしたら、その強弱は歴然である。
優美子も一年の中ではそれなりの存在感を持っているのだろうが、こういう時、年齢
の差はいかんともしがたい。大人しくしているのが賢明な判断というものだが、普段通
しているキャラというのは簡単に変えられるものではない。優美子にとってはこの二
日間、居心地の悪いものになるだろう。陽乃の側に、優美子に配慮する気持ちがあれば
別だが、陽乃もキャラかぶりには厳しい。女王キャラは一つの集団に二人もいらないの
である。
﹂
陽乃相手に無邪気に盛り上がっている後輩を眺めていると、隼人と視線が合った、彼
﹂
は周囲を伺うと、人目をはばかるようにこっそりと歩み寄ってくる。
﹁││どうにかできなかったんですか
﹁悪いな。俺も今知ったところだ﹂
﹁サプライズって奴ですか。お二人はいつも、こんな感じなんですか
﹁いやぁ、流石にいつもじゃないな﹂
ははは、と乾いた笑いを漏らす八幡に、葉山は苦笑を続けるが、
できるのはきっと、今日集まった面々の中では姫菜だけだ。
まとっていたに違いない。想像するだけでぞくぞくする環境であるが、この感性を共有
う。雪ノ下さんちと家族ぐるみの付き合いとなれば、物心ついた時から陽乃の影が付き
その発言に、葉山の苦笑は凍り付いた。きっと、今まで色々な苦労をしてきたのだろ
﹁いつもこんなに温かったら、俺はもう少し楽な学生生活を送れたろうな﹂
?
?
228
姫菜は今、旧来の友人であるかのように、陽乃と親しくしている。ここまで初対面で
陽乃と近い距離を取れた人間は、八幡の記憶にある限りでは一人もいない。仲良くなれ
るだろうとは思っていたが、姫菜の距離の近さは想像以上だった。
﹁八幡先輩、八幡先輩﹂
どんよりした葉山と入れ替わるように、姫菜がやってくる。BL話でテンションが振
り切れている時を除けば、いつになく興奮した様子での姫菜に、今度は八幡が苦笑を浮
かべた。
心の底から。私が今まで出会った中で、二番目に気が合いそうな人
?
ションが上がっているのだろう。それはそうと、と改めて視線を向けてきた姫菜の目は
やだなー、と背中をバシバシと叩かれる。気の合う陽乃と会話をしたことで、テン
﹁あれ以上が何言ってるんですか﹂
﹁あれ以上がいるとは驚きだな﹂
ですね﹂
﹁褒めてますよ
﹁││お前が言ってると褒め言葉にしか聞こえないな﹂
れて初めてですよ。いるんですね、ああいう人を人とも思わない人﹂
﹁いやー、凄い人ですね、陽乃さん。私、あんなに上っ面だけの会話を楽しめたの、生ま
﹁仲良くなれたみたいで良かったよ﹂
一人を足して、少年少女は山へと向かう
229
既に、腐りきっていた。
あんな美人の彼女がいる
ダメですよ恋人がいるのに。でもでも、そういう
のにイケメンと浮気とか業が深いですね八幡先輩﹂
路線で燃えるっていうなら私もアシストしちゃいますよ
?
妹や知人がいるとは言え、初めて会った人間の方が多いのだから、如何に陽乃でも普
なりつつある陽乃が音頭を取って座席を割り振っていく。
後部座席に乗り込んでいく。これだけ人数がいると流石に手狭だが、早速集団の中心に
ようにしながら、嬉々として助手席に乗り込む八幡を余所に、残りの面々がぞろぞろと
集団の中に座りたくなかった八幡にとって、それは天の助けだった。顔には出さない
﹁待たせたな、皆乗ってくれ。ああ、八幡。ナビ役の君は助手席だ﹂
ちるのか他人事ながら心配である。
ンタカーだろう。自分から手を挙げた訳ではない仕事だろうに痛い出費だが、経費で落
ストンマーチン・ヴァンキッシュではなく、全員乗れるワンボックスカー。おそらくレ
どうにか押しやろうと姫菜に抵抗していると、静がやってくる。貯金を叩いて買ったア
は言え女子にする行いではないが、これくらいで怯むのであればどんなに楽だったか。
ぐふふと妖しく笑って近づいてくる姫菜の頬を無理矢理掴んでタコにする。年下と
﹁お前がいつも通りで俺も安心だよ﹂
?
﹁隼人くんと何話してたんですか
230
段であればもう少し時間がかかっただろうが、陽乃の行動に一々姫菜がフォローに回っ
﹂
ている。話が早く進んでいるのはこのためだ。
﹁犬のお株を奪われた形かな
風が立たないことを祈るばかりである。
ていくことだろう。結衣ともそれなりに親しくなってしまった今、犬としては無駄な波
考えれば大した進歩である。これからも雪乃との友情が続けば、やがてこれも改善され
それはそれで大人気のない対応だが、一時期、首でも絞めかねないくらいだったのを
かということだったのが、陽乃は結衣とはきっぱりと壁を作ることで対応していた。
赦がなくなる。静が心配していたのは、結衣が言葉なり行動なりで責められたりしない
持っていないだけならば雑な対応で済むが、一度敵と認識した場合、陽乃の行動には容
いる静は、同時に彼女がどれだけ結衣に敵対心を持っていたかを知っていた。興味を
静の言っているのは、結衣とのことだ。雪乃や八幡に次いで陽乃の性格を良く知って
動ができるとは、私は知らなかったよ﹂
かと思ったが、蓋を開けてみれば、何とも無難じゃないか。あいつがここまで大人な行
﹁まぁ、そういうことにしておこうか。しかし、陽乃から連絡が来た時にはどうしたもの
﹁頭数が増えるのは良いことですよ。俺も負担が減るんで﹂
?
﹁子供に悪い影響がなければ良いんですがね。小学生の内からあんなのに触れて大丈夫
一人を足して、少年少女は山へと向かう
231
なんでしょうか﹂
﹁なに、陽乃大学生になったように、君らもいつか成人するんだ。未成年の内は、未成年
﹁他人事だと思って⋮⋮﹂
﹁私は生徒の自主性を重んじる主義なんだ。未成年は未成年同士、気楽になると良い﹂
﹁そういう時は何とかしてくださいよ、平塚先生﹂
かやりかねない。
るのは彼女からすれば初対面の小学生ばかりだろうけれども、その小学生相手にさえ何
とかいう言葉と同様、無難や平穏無事というのは陽乃が嫌う言葉の一つだ。集まってい
ただ、陽乃がいる以上、ただのキャンプでは終わらないだろう。公平とか無償の奉仕
と前向きに考えれば、更に良い。
イマイチピンとこないが、苦手なよりは遥かに良い。任せることのできる相手が増えた
物たる陽乃にとっては、御しやすい生物であるのだろう。陽乃が子供が得意というのも
打算ではなく感情で動く子供は、八幡にとっては苦手なものの一つだが、感情の化け
﹁俺は子供はそんなに得意じゃないんで、助かりますが﹂
見るということだけを見れば、あいつ以上に適任の存在はいないぞ﹂
は陽乃の得意技だ。小学生の集団くらい、手足のように統率するだろう。子供の面倒を
﹁人生何事も経験だよ。それに、雑に仕事を片付けているのに相手にそう思わせないの
232
にしかできないことをやりたまえ。それは私にはない君らの特権だ﹂
﹁俺が大人になったら、先生のアストン・マーチンを運転させてもらえます
﹂
シートはついていないが勘弁してくれ。あれはそのものじゃなくて、親戚なんだ﹂
﹁そ れ と こ れ と は 話 が 別 だ な。で も そ の う ち、助 手 席 に は 乗 せ て や ろ う。緊 急 脱 出 の
?
﹁ミサイルかステルス迷彩で手を打ちますよ。何はともあれ、楽しみにしてます﹂
一人を足して、少年少女は山へと向かう
233
番外
見た八幡が最初に考えたのは﹃こういう時にどういう顔をすれば良いのだろう﹄という
た彼が下駄箱を開けると、その中にはファンシーな手紙が一通納められていた。それを
さて、その八幡が登校した二月十四日。世の中の男女の第一次決戦のその日、登校し
きた八幡は、幸か不幸かその理論を高校で実践することはなかった。
犬の理論であったのだけれども、高校最初のバレンタインデーを迎えるまでに彼女がで
いれば、成果が0であったとしてもダメージは少ない。冷静に考えてみればそれは負け
期待をするから幻滅するのだ。最初からそんな都合の良いことはないと割り切って
う人間などいるはずがない⋮⋮という悟りを開いたのも大きかった。
ら、という事実もその余裕の一因ではあったが、中学を卒業して以降、自分なんぞに構
内面が色々な意味でアレだけれど、美人でスタイルが良く料理も得意な彼女がいるか
だった。
男の戦場。全ての男がギラギラとした気配を放つその日にも、比企谷八幡は平常運転
番外1 少し前のバレンタインにあったこと
234
ことだった。
これが中学生の時ならば、見た瞬間に挙動不審になっていたことだろう。確実に悪戯
だと理性が告げていても、奇跡を信じずにはいられず、放課後まで淡い期待を抱きなが
ら、結局はすっぽかされたことにさらに絶望し、とぼとぼと帰路についたに違いない。
中学生の時の可能性を幻視しながら、手紙を取って裏返してみる。その辺りの店で
売っていそうな、如何にも女子が使いそうな封筒だ。差出人の名前はない。外周を指で
なぞってみるが、古典的なカミソリ攻撃というのでもなさそうだ。日に透かして見て
も、固形物は入っていないように見えた。虫の死骸というケースも、これで消えたこと
になる。
指で丁寧に封印を解き、中から便せんを取り出す。封筒と同じくこれまた女子らしい
見た目の便箋には、しかしあまり女子らしくない綺麗な字でこう書かれていた。
手紙を懐に仕舞い、教室に向かう。どこに向かうか。犬にとってそんなものは、考え
いにも八幡に視線を向ける人間はいなかった。
した八幡の口の端が挙がる。目つきの悪い八幡がやるとその邪悪さも一入であるが、幸
きてご帰宅される前に辿り着くべし、という勅命に他ならなかった。文面の意図を理解
どこで、という文言はない。それは自分で考えてその場所を見つけ出し、女王様が飽
﹃放課後、待ってる﹄
番外1 少し前のバレンタインにあったこと
235
236
るまでもなかった。
放課後。適当に授業を受けた八幡は、今日は遅くなるという連絡をした後、最寄の駅
に寄った。
こういう時のためにカバンの中には着替えが用意されていた。トイレの中で着替え
て、鏡の前で髪型を整える。制服を脱いだだけで印象はそれなりに変わるが、高校生よ
りも上の年代に見えるかは微妙なところだ。
無駄に背伸びをしているような気がする。八幡はこの手の変装があまり好きではな
番外1 少し前のバレンタインにあったこと
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かったが、制服でいると余計なトラブルに巻き込まれることもある、という陽乃の主張
に折れる形で、着替えを常備するようになった。制服でいようと私服でいようと陽乃の
性格であれば巻き込まれる時は巻き込まれるのだが、それは気にしないことにした。そ
の程度のトラブルなど、陽乃と付き合ってからこっち、驚くには値しない。
私服に着替え、自分の不景気な顔に気合を入れた八幡は、電車に乗って目的地まで移
動した。
あの時は人気もなく静かだった公園は、バレンタインデーということもあって、男女
の 人 通 り が 多 く あ っ た。そ れ な り に 近 隣 に お い て 定 番 の デ ー ト ス ポ ッ ト な の だ ろ う。
リア充爆発しろ、とやはり定番のことを思いながら、陽乃の姿を探す。
絶対にここだ、という確信が手紙を見た瞬間からあっての行動だったが、もしいな
かったらどうしようという不安は、犬になって一年以上経っても消えななかった。
これで間違いだったら大目玉だ。バレインタインにすっぽかしたとなれば、陽乃のこ
とだ。どんな報復をしてくるか解ったものではない。
日も暮れて外灯が灯る頃。思い出のベンチに座っている陽乃の姿を見て、八幡は小さ
く安堵の溜息を漏らした。自分の感性が間違っていなかったことに、少しだけ嬉くな
る。
陽乃に声をかけずに、八幡はベンチの端に腰を下ろした。長い足を組んだ陽乃は、八
幡とは逆の端に静かに腰掛けている。
無言の時間がしばらく続いた。煙草でもあれば絵になるのだろうが、未成年である、
という以前に陽乃からは絶対に吸うなと釘を刺されている八幡である。キスが煙草臭
くなるのに耐えられそうにない、とのことだ。女王様にしてはかわいい理由もあったも
のだが、恋人に言われては仕方がない。多少の憧れはあったものの、陽乃と一緒にいる
限りは一生涯吸わないと心に決めたのも記憶に新しい。
こともしてみたいなと思ったの﹂
﹁一応、私も女の子だからね。それに高校最後のバレンタインだし 少しはこういう
が、目の前に陽乃がいるのだから、何も問題はない。
所となれば、ここしかないと八幡は思ったのだ。それでも心配になったのはご愛嬌だ
た場所である。他にも思い出の場所は色々あるが、校外で、今日中に無理なく行ける場
苦笑を浮かべた八幡は辺りを見回した。ここは陽乃に告白され、付き合うことに決め
て﹂
﹁こういう日くらいは、陽乃も雰囲気とかロマンとか、そういうのを求めるかと思いまし
﹁良くここだって解ったね。ヒントは何も出さなかったのに﹂
少し離れた陽乃が、小さく呟いた。拳一つ分くらいの距離を、そっと詰めてくる。
﹁合格﹂
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?
はいこれ、と陽乃が包みを差し出してくる。一目で陽乃がラッピングしたものだと八
幡には解った。こういう性格でも陽乃は全ての家事に万能だ。主夫を目指すと自称し
た身としては、その完璧さに頭の下がる思いである。
﹁ありがたくいただきます﹂
がこういう要求をしてくることなど、いつものことだ。そう割り切れば大抵のことはで
八幡のような性格をしている人間にとって、それは羞恥プレイに等しかったが、陽乃
ら、と言ってしまえばそれまでだった。
した。自分から行動する陽乃にしては珍しい欲求であるが、これもバレンタインだか
項が見えた。陽乃にしては控えめな態度に、八幡は彼女が何を要求しているのかを理解
ばせば届くくらいの距離になっている。外灯の薄暗い光の中、陽乃のはっとする程白い
言葉の間に、陽乃は少しずつ距離をつめてきていた。離れていた距離は、既に腕を伸
うになっていた。陽乃に毒されているなと思う瞬間である。
のだ。今年もそうなるのかと思うと気分も思いが、今年は幾分、その重さを楽しめるよ
ての彼女、しかも相手が陽乃ということもあって去年のホワイトデーには散々悩んだも
それが一番難しいのだ、ということを解った上で、陽乃はそういうことを言う。初め
りしないから﹂
﹁おかえしは無理しなくても良いからね。心さえ込めてくれれば、私は何にも気にした
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きる⋮⋮はずなのだが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
笑みを堪えながら押し黙っている陽乃の肩にそっと手を置く。僅かに離れた距離で
八幡を見上げる陽乃の顔には、やはり笑みが浮かんだままだった。言ってやりたいこと
は山ほどだったが、それら全てを押し込んで、八幡はそっと目を閉じ││陽乃もそうし
ているだろう、ということを確信しながら、顔を寄せる。
ごちん。
決して小さくない音がした。痛みを堪えつつ目を開くと、すぐ近くに陽乃の顔があっ
た。楽しそうに笑う陽乃の顔を見て、自然と八幡の頭に浮かんできたのは、ただ一言。
﹁うん、良く出来ました﹂
﹁⋮⋮⋮⋮陽乃﹂
タインらしい大好きを込めて﹂
﹁私も雰囲気に流されてるのかも。何だかとても良い気分。次で最後。ちゃんとバレン
﹁陽乃﹂
﹁⋮⋮⋮⋮八幡の声にも味が出てきたね。もう一回﹂
﹁陽乃﹂
﹁もっと呼んで﹂
﹁陽乃﹂
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満面の笑みを浮かべた陽乃は、ポケットから取り出したチョコを自分の口に放り込む
と、そのまま唇を重ねた。甘ったるい味が口の中に広がると同時に、陽乃の舌も侵入し
てくる。逃げようと思った時には、もう遅かった。がっしりと頭を掴まれていた八幡
は、陽乃の気が済むまで蹂躙される⋮⋮
唇を離すと、唾液の糸に外灯の薄明かりが反射していた。真っ赤になっているだろう
自分の顔を自覚しながら、適度に頬を染めている陽乃の肩を押す。気持ちが落ち着かな
い。普通逆だろうと思いながらも顔を逸らそうとする八幡に、楽しそうに笑う陽乃は無
遠慮に身体を寄せてくる。
で﹂
?
のない展望を抱いた八幡は、内心でにやりと邪悪に笑った。
いアイデアが浮かびそうな気さえしていた。来月はこれで勝てる。自分の未来に根拠
しようと頭を巡らせていた。あっと驚く仕掛けができれば良い。一月もあれば何か、良
満足そうに、よしよしと頭を撫でる陽乃の顔を見ながら、八幡は来月のお返しは何に
﹁たまには良いじゃない
年に一度なんだから﹂
﹁男にかわいいとか言わないでくれませんか。俺でもたまには、傷つくことがあるもの
﹁あ、八幡のくせに照れてる。かわいー﹂
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そんな八幡の顔を見ただけで、陽乃は自分の恋人が何を考えているのか一瞬で理解し
た。
裏をかけると思っているのならば思い上がりも甚だしいが、努力をしようという姿勢
が嬉しくもある。それに、普段はあまり見せることのない八幡の真剣な表情は、決して
多くはない陽乃の乙女心を大いに刺激していた。
これはもう、悪戯をするより他はない。
考えに没頭するなど、女王の前では大きな隙だった。そもそも、ポケットの中のチョ
コが一つだけだと決めてかかっている辺り、眼前のワンコはまだまだ詰めが甘い。
﹂
にやり、と邪悪に笑った陽乃はそっと口の中にチョコを放り込んだ。
﹁八幡
振り返った八幡の無防備な顔に、陽乃は勢いよく唇を重ねた。
?
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