熱物性論 2014 (松本充弘) : p. 58 9 9.1 相転移の統計力学:その1 核生成 前章までに,相転移温度以下に冷却されて自由エネルギーの形が変わる(single minimum から multi minima へ)ことにより,混合状態から相分離状態への相転移が起こる様子を, Monte Carlo 法,平均場近似,そして TDGL モデル,といった手段で調べてきた.これは いずれも,不安定状態から安定状態への相転移であると言える. (補足) このような, 「不安定状態から安定状態への相転移」は,一般的な相転移の分 類としては,スピノーダル分解 spinodal decomposition とよばれることがある.抽象 的に述べれば,ある制御変数の変化に伴って,これまで自由エネルギー的に安定で あった状態が不安定状態に変わることによって起きる相転移である.前章の TDGL 方程式系は,温度 T を制御変数として,無秩序状態から秩序状態への相転移を調べ たわけである. 自由エネルギー曲線の形 (図 9–25) が, 背骨 spine の断面図に似ているとこ ろから spinodal と名づけれたと聞い たことがある(出所不明). 別の例として,制御変数を体積 V にとるとき,一定温度で V を大きくするにつれ て液体状態が不安定になり気体状態(蒸気相)が出現するという現象がある. この転移点(図 9–25 中の ×)は安定性の限界であり,この点を超えると系は絶 対不安定になる.これは, P − V 図 (図 9–26) を見るほうがわかりやすいだろう. ( ) ∂P < 0 が,系が安定 stable であることの必要条件であり,× を超えると不 ∂V T 安定 unstable になる. (参考図) “spinodal decomposition” という言 葉の由来となったという 脊椎骨 spine の模式図.出典は http://tsurumi.e-chiryo.jp/ X X Spinodal Decomposition Gas Phase Pressure Free Energy category/1466969.html Liquid Phase X Liquid Phase X Volume (Control Parameter) Gas Phase Specific Volume (Control Parameter) 図 9–25: スピノーダル分解の例:液体の体積を一定温度で大 きくしていく(→)と,気相との平衡点(○)を過ぎても, すぐには相転移は起こらず.不安定点(× )に至って系全体 図 9–26: 液相を膨張させる際の圧力変化の模 が急速に気相へと相転移することがある.この → の過程が 式図. 図 9–25 と同じ過程を p − V 上にプロッ spinodal decomposition である. トした. 熱物性論 2014 (松本充弘) : p. 59 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141204-00000040-asahi-soci (参考)「突沸」でやけど相次ぐ 飲食物の温め方にご用心 朝日新聞デジタル 12 月 4 日 (木)19 時 49 分配信 みそ汁やコーヒーなどを電子レンジなどで温めた際に、急に沸騰して噴き上がる「突沸(とっぷつ)」と呼 ばれる現象が起こり、やけどをする事例が相次いでいると国民生活センターが4日、発表した。 「冬の間は飲 食物を温めることが多くなる」と注意を呼びかけている。 液体の飲食物を加熱した時に、うまく対流しないことなどが原因で沸点に達しても水蒸気の泡が出ないこ とがある。その状態で振動を与えたり加熱を続けたりすると、突然泡が噴き出して中身が飛び散ることがあ る。これが突沸だ。調味料を加えた時など、小さなきっかけでも起こりうる。 センターによると、突沸でやけどなどを負ったという情報が2009年4月以降35件寄せられた。 「電子 レンジで豆乳を加熱した。外に出してのぞきこむと、突沸が起こり顔をやけどした」などだ。顔の被害が半 分を占め、1カ月以上のけがが8件あった。危害のおそれがある「危険」事例も33件あった。これとは別 に医療機関からもやけどの事例が2件寄せられた。 突沸はガスコンロやIHクッキングヒーターでも起きることがある。みそ汁やカレーなど、とろみのある 食品はより注意が必要だ。センターは(1)電子レンジでは飲み物を温めすぎない (2)温めすぎた場合は 1、2分は待って外に出す (3)ガスコンロなどでみそ汁などを温めるときは、火力を弱めにして、かき混 ぜる――などの注意点を挙げている。 (高橋健次郎) 電子レンジで温めたコーヒーに砂糖を加えたところ、 突沸で噴き出した=国民生活センター提供 これとは異なり、多くの場合は準安定状態から最安定状態への相転移が見られる.自然 界は常に自由エネルギー最小の状態をめざす,という意味では不安定状態から安定状態へ の相転移と同じなのだが,図 9–27 のように転移のメカニズムが違うため、転移速度も大 きく異なる. 身近な例を上げると • 過飽和蒸気 supersaturated vapor からの液滴生成:雲の発生 • 過熱液体 superheated liquid からの気泡生成:沸騰 • 融液 melt を冷却する際の結晶成長 • 過飽和溶液 supersaturated solution からの結晶成長:銀樹 これらはもちろん,工学上も重要な現象である.いずれも,準安定相中に,熱揺らぎによっ てまず安定相の微小な核 nucleus が生成するところから相転移が始まるので,核生成過程 nucleation process とよばれている. 準安定相(たとえば過飽和蒸気)中に発生した安定相(たとえば液体)の核の自由エネ ルギーは,バルク相の自由エネルギー差と界面過剰自由エネルギー(つまり表面張力)の 寄与の和で書けるだろう.半径を r とし,核が球形であると仮定すると,核の自由エネル ギーは 4π 3 (106) r + γ · 4πr2 ∆F (r) = 体積項 + 表面積項 ≃ ∆f · 3 と見積もることができよう.準安定相から最安定相への相転移であるから ∆f < 0 なので, 図 9–28 のような形の関数が得られる. F F order parameter order parameter 図 9–27: 不安定状態からの相転移(左図)と準安定状態からの相転移(右図)の比較. 融液や過飽和溶液からの結晶成長の場 合は,結晶の方位によって表面張力が 異なるので, 「球形」の仮定は成り立た ない.この場合は,表面張力(つまり 単位面積当たりの表面過剰自由エネル ギー)が最も小さい方位面の面積が最 も早く拡大すると予想できよう. 熱物性論 2014 (松本充弘) : p. 60 150 fs/kT=-1.0 fs/kT=-0.8 fs/kT=-0.6 fs/kT=-0.4 100 ∆F/kT 50 0 -50 -100 -150 -200 0 2 4 6 8 10 Radius 図 9–29: 核生成速度の実測例. 図 9–28: 核生成自由エネルギーの例.γ/kB T = 1.0 として描いた. Y. Viisanen and R. Strey, “Homogeneous nucleation rates for n-butanol”, J. Chem. Phys. 101 (1994) 7835 より. ∆F は,ある核半径 r∗ のところにピークをもつ. 0= [ ] d∆F = 4π ∆f · r2 + 2γr dr (107) 2γ −∆f (108) つまり r∗ = で,このときのピークの高さは ∆F ∗ = 16π γ 3 3 (∆f )2 (109) である.この自由エネルギー障壁 free energy barrier を熱揺らぎによって乗り越える過程 が核生成であると理解される.その速度(核生成速度 nucleation rate: 単位体積単位時間 に生成される核の個数)J は [ ] ∆F ∗ J ∝ exp − (110) kB T と見積もることができる.障壁の高さ ∆F ∗ は γ の3乗に依存するが,微小な核の γ を精 度よく見積もることは容易ではなく,現在もそれぞれの分野で理論的・実験的研究が続い ている [例えば図 9–29].分子シミュレーションで眺めた核生成過程の例を図 9–30 に紹介 する. 過飽和蒸気中の液滴生成の例 過熱 (過膨張) 液体中の気泡生成の例 図 9–30: 核生成過程の例.我々のグループで行われた分子動力学シミュレーション. 熱物性論 2014 (松本充弘) : p. 61 9.2 臨界現象 臨界温度 Tc のすぐ近傍で何が起こるかは,統計力学の大きな関心対象の1つである.こ のときには,2つの相の違いがほとんどないため界面の影響は小さくなる.そこで,界面 項のない,もとの Ginzburg-Landau 自由エネルギーモデルで考えてみよう: f (s) = T ∗ s2 + s4 (111) 統計力学の考え方に立てば,この自由エネルギー密度 f (s) は,秩序変数 s の確率密度に対 応する: [ ] f (s) P (s) ∝ exp − (112) kB T なぜならば,正準集団(canonical ensemble)において,エネルギー E となる確率は P (E) ∝ 微視的状態数 × Boltzmann 因子 [ ] E = W (E) × exp − kB T [ ] [ ] E log S(E) = exp × exp − kB kB T [ ] E − T S(E) = exp − kB T 2行目から3行目の式変形に,Boltzmann の関係式 S(E) = kB log W (E) を使った. と表されるからである. 式 (112) を,いろいろな「温度」T ∗ ≃ T − Tc でプロットしてみたのが,図 9–31 であ る.相転移温度 T ∗ = 0 においては,他の温度に比べて,ピーク付近の分布の幅が広がっ ていることに注意しよう.このような特異な分布は,例えばモンテカルロ法により合金組 通常の正規分布(ガウス分布)に比べ 成のヒストグラムを求める際に現れる.ピークの幅が広いということは,秩序変数(濃度, てピークが広いということである.こ のモデルでは自由エネルギーに4次の 密度,組成など)に関して大きな揺らぎが観測されることを意味している.図 9–31 に,s 項があるので,発散することはない. √ の標準偏差 ⟨s2 ⟩ の温度依存性の例を併せて示した.高温側から臨界温度に近づくにつれ 実験的には,一般に,巨視的な大きさ の揺らぎとして観測される. て,揺らぎが増大 することがわかる. 一般に,このような相転移温度に近づくと, • 密度や組成の揺らぎが急速に増大する • 空間自己相関の相関長が増大 (発散) する といった現象が見られる.これらは 臨界現象 critical phenomena とよばれ,様々な研究が おこなわれている. 0.4 T= 2.0 T= 1.0 T= 0.0 T=-1.0 T=-2.0 2.5 ’fluc.dat’ 0.3 2 <∆s 2 >1/2 Probability (unnormalized) 3 1.5 0.2 1 0.5 0.1 0 -3 -2 -1 0 1 Order parameter s 2 3 0 2 4 6 T* = T - Tc 8 図 9–31: Ginzburg-Landau モデルにもとづく確率密度,式 (112),(左) と,揺らぎの標準偏差 ただし確率密度は規格化しないで表示してある. 10 √ ⟨∆s2 ⟩(右). 熱物性論 2014 (松本充弘) : p. 62 身近な物質の例として,二酸化炭素をガラス管に封入して気液臨界温度(Tc ≃ 304 K)近 傍に保つと,非常に大きな(かつ長波長の)密度揺らぎにより,不透明な流体になる.こ れは,揺らぎの特徴的長さが可視光の波長程度まで成長するためであり,しばしば強い散 乱光(臨界タンパク光 critical opalescence)が肉眼でも観測される [図 9–32]. → → 図 9–32: 温度上昇に伴う二酸化炭素の臨界現象の例.二酸化炭素の気液臨界点は,約 31 ℃,74 気圧 である.夕 焼けと同様に長波長の入射光が強く散乱されるため,赤く見えているようである. 動画を YouTube で見ることができる:http://youtu.be/bE5l8c6PF9M 表 9–2: いろいろな物質の気液臨界点. 出典は,丸善:化学便覧改訂5版.ただ し直感的に理解しやすいように,温度単 位を K から℃に変更した. 物質 水 二酸化炭素 窒素 酸素 アルゴン アンモニア 水銀 メタン プロパン ブタン エタノール ベンゼン Tc (℃) 374 31 -147 -119 -122 132 1492 -83 97 152 241 289 pc (MPa) 22.1 7.4 3.4 5.0 4.9 11.3 151 4.6 4.3 3.8 6.1 4.9 (参考)二酸化炭素の相図. http://decarboni.se/publications/ co2-liquid-logistics-shipping-concept-llsc-%E2%80%93-business-model-report/appendix-1-co2 (社)化学工学会 超臨界流体部会 のホームページより http://www2.scej.org/scfdiv/scf.html 一般に,物質の溶解度は密度に大きく依存する。このため,密度がほぼ一定である通常の 液体溶媒では,温度・圧力を変化させても大幅な物性値の変化は期待できない。これに対し, 超臨界流体は,圧縮率が極めて大きいので臨界圧力付近でのわずかな圧力変化に伴って密度 が大きく変化する。つまり、超臨界流体は気液相転移がないため,温度と圧力を操作変数と して、密度を理想気体に近い極めて希薄な状態から,液体に相当する高密度な状態まで連続 的に変化させることができ,諸物性値の大幅な制御が可能となる。 これまでに超臨界流体として最も良く用いられている物質は,水と二酸化炭素である。両 者はともに毒性や燃焼性がなく,自然界に大量に存在している。二酸化炭素は臨界温度が室 温に近いため、熱変性を起こしやすい天然物の抽出や分離によく利用される。水は臨界温度 が高いため,加水分解や酸化反応といった反応場としての利用が数多く検討されている。 他には見られない超臨界流体の特徴をまとめると以下のようになる。 (1) 圧力を操作変数として大きな密度変化が得られる。したがって,圧力変化のみで大き な溶解度差を得ることができる。 (2) 低粘性,高拡散性であり,液体溶媒より物質移動の面で有利である。 (3) 熱容量や熱伝導度が大きく,高い熱移動速度が得られる。 (4) 溶媒和の効果により,大きな反応速度が得られ,反応経路の制御も期待できる。 このような特徴を有する超臨界流体は,有機溶媒に代わる環境負荷の小さい新たな分離・反 応溶媒として大きく期待されている。
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