長谷川 修 - アイヌ文化振興・研究推進機構

「東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属北海道土人教育所について」長谷川修
東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属北海道土人教育所について-
8 月 28 日(木)18:30~20:00 札幌会場
9 月 04 日(木)19:00~20:30 東京会場
講師
長谷川修
レラの会会長
はじめまして。長谷川と申します。
願いが祖母の中にあったのではないかと思っています。
今日は「東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属
だから、今、ぶつかっている、命あるもの、心あるもの
北海道土人教育所について-」ということで、いくつか
とどういうふうにつき合うのか、関わるのかというテー
のことをお話できればと思っています。
マについて、私が一つ一つに言葉をかけて話をしていく
最初にお断りしておきますが、私は研究者ではありま
中で、私が何をすべきなのかということが出てくるよう
せんので、歴史的な資料の分析など、十分な勉強をした
に思います。やはり祖母が言ってくれたことは私のテー
わけではありません。そうした歴史的な背景、その他に
マになるのだと思います。
ついては、狩野雄一、広瀬健一郎という2人の研究者が
それから、最近の私が考えていることは、自分の出
『《東京・イチャルパ》への道~明治初期における開拓使
発点をどこに置くかということです。私の肉親はもう
のアイヌ教育をめぐって~』(東京アイヌ史研究会編
北海道には誰もいませんが、かつて祖母が日本人に徹
集・発行 2007 年)という本に分かりやすくまとめており
底的にいじめられた姿を覚えています。私が4歳か5
ますので、その本を参考にしていただければと思います。
歳くらいの頃のことなのですが、石を投げられたり、針
最初に自己紹介を兼ねて、最近私が考えていること、
金で首を絞められたりという情景を覚えていて1枚の絵
のようにパッと時々思い出すのです。私の生き方という
思っていることをお話ししたいと思います。
チャンスがあって今年の正月から畑を2反ほど預かる
か今ある悩みなどを考えると、どうしてもそこから抜け
ことになり、春から野菜作りを始めました。それも、い
られないものがあります。私だけではなく、首都圏に住
わゆる自然農法で、地域の人たちからは草だらけの畑だ
むアイヌは北海道でいろいろな体験をしてきたと思いま
と言われながら野菜作りをしているところです。それで、
すが、私の場合はどうしてもその記憶が忘れられず、そ
最近、草とか昆虫、そうした小さな生き物とのつき合い
こに戻ってしまうのです。そして、そこに戻るたびに人
方がよく分からなくなってきているように感じています。
間が嫌いになるのです。そのため、私は今でも人間が嫌
苦労しながらキュウリやナスやトマトを作ろうとしてい
いです。だから、時々誰とも会いたくない、誰とも話し
るのですが、草の成長の方が早いのです。どんどん草が
をしたくないという気持ちになる時が周期的にやって来
大きくなって、私が作っているものが草の中に埋もれて
るのです。私にはそうしたトラウマというか、自分の出
しまうのです。既に自然農法で野菜作りに取り組んでい
発点になってしまっていることがあるので、余計に、何
る人が書いた本を読んでは、やっぱりここでくじけては
とか人と話をして、人と関わりを持って、人間を好きに
いけないと思いながら、自分自身で考えなければならな
ならなければと思い、意識的に多くの人と出会うように
いテーマとして、草とどうつき合うのか、昆虫など、小
しています。しかし、立場上、いろいろな人との出会い
さくとも命あるものとどう関わりを持つのかということ
があり、名刺入れの数は4冊にも5冊にもなっているの
を考えるようになりました。まだ、1年もたっていませ
ですが、人間関係を保ち続けて今でも関わりを持ってい
んので、もう少し挑戦して私なりに考えていきたいと思
る人は本当に数人しかいません。皆さんも出会った全て
っていますが、今は、本当に自由にならないと思ってい
の人と親しい人間関係を築いている訳ではないと思いま
ます。相手があることなので当然のことなのですが、相
すが、私の場合は少し極端なところがあるように思いま
手が何を考え、どういう成長を、生き方をしているのか
す。今日、私の話を聞いて、私と関わりと持ちたいと望
ということですが、草やバッタやコオロギと話をしなけ
まれる方は、しつこく関わってきて下さい。そうでなけ
れば答えがでないのではないかと思ったりもしています。
れば私は何も返事をしないと思います。
それでは今日のテーマである東京・イチャルパのこと
こうしたことを考えていると、私の祖母が私につけて
についてお話ししたいと思います。
くれたアイヌ語の名前を思い出します。祖母は私に「オ
シ ケオ プ 」という名前をつけてくれました。日本語で言
先ほど紹介した『《東京・イチャルパ》への道~明治
うと「はらわた」、生きているものの 腸 という意味で
初期における開拓使のアイヌ教育をめぐって~』は、ア
すが、これを少し解釈すると「心」という意味にもなり
イヌ文化振興財団の出版助成を使って出版したものです。
ます。いわゆる命あるもの、心あるものとうまくつき合
その後で、現代企画室というところで増刷をしています
うことができる、話ができるアイヌになりなさいという
ので、書店で購入することが可能です。
はらわた
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「東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属北海道土人教育所について」長谷川修
葉に、私が今でもこだわっている「不欲」
という言葉を見つけたことです。「北海
道から東京に連れて来られたアイヌの精
神状況は不欲であった」という記述があ
ったのですが、この「不欲」という言葉
は生きる希望というか、生きる意欲を失
くしてしまっている状態ということです。
この「東京留学」と「不欲」という言葉
を見つけてから、私は開拓使仮学校に連
れて来られたアイヌの東京で生活する中
での精神状況について考えるようになり、
この2つの言葉に対するこだわりを持つ
ようになったのです。
開拓使仮学校というのは、今の北海道
大学の前身です。開拓使仮学校は札幌農
学校になり、そして北海道帝国大学、北
海道大学となっていくのです。その開拓
使仮学校が芝公園の中にあったというこ
とは資料を見て分かったのですが、芝公
園の中のどこなのかということが分から
ず、増上寺を中心とした芝公園内を1~
2年の間、ただうろうろと探し回ってい
た時期がありました。
そんな時に、広瀬健一郎さんという、
今は鹿児島純心女子大学にいる方が書い
た論文に出会い、開拓使仮学校と土人教
育所の歴史的な背景ということを少し学
ぶことができました。広瀬さんは論文の
中で、東京留学ではなく東京連行であっ
たという言い方をしています。私も、留
学というと華々しい情景が浮かびますが、
皆さんのお手元に今年のイチャルパのチラシを配付し
アイヌは強制的に連れて来られたのですから明らかに連
ていますが、そこに「2008 年東京・イチャルパ~シンリ
行だと思います。その後、同じテーマで書かれた川崎在
ツモシリ・コイチャルパ~」と書いています。イチャル
住の狩野雄一さんの論文も読ませてもらい東京留学の歴
パというのは先祖供養というような意味合いで使ってい
史的背景を学びました。2人の研究者とその論文に出会
ます。シンリツモシリというのは先祖の大地という意味
い、そこからいろいろなことが知ることができたのです。
で、コイチャルパというのは、共に一つの行為をする、
それで、北海道土人教育所がなぜ東京の芝公園にできた
または、共に何かをするという意味です。チラシの上段
のか、何人のアイヌが連れて来られたのか、そして、そ
には、土人教育所に連れて来られた女性の写真、中段に
こで何人のアイヌが死んだのかということも分かったの
は同じく土人教育所に連れて来られた男性の写真、下段
です。
この土人教育所の目的は何かということですが、これ
には昨年のイチャルパの時に作ったものですが、イナウ
は異質であるアイヌを日本人と同質にする、後々の言葉
という祭具の写真を載せています。
私が、開拓使仮学校、北海道土人教育所に出会ったと
では同化するということです。この異質であるというこ
いうか、そのことに気持ちを傾けるようになったのは、
とについて記録された資料があります。私は北海道の旭
6年前にイチャルパを始めたのですが、さらにその3年
川市出身なのですが、『旭川市史』の中に、町から市にな
か4年前のことです。その最初のきっかけはというのは、
る時に、有識者が集まって旭川が市として栄えるために
『石狩アイヌ史資料集』(加藤好男 私家版 1991 年)と
何をしなければならないか検討した際に出されたいくつ
いう本の中に「東京留学」という言葉があって、それに
かの問題点が書かれていました。その中に、アイヌを旭
関する説明が3ページくらい、文章は本当に僅かで写真
川の町の外に出さなければ旭川は繁栄しないという文章
が何枚か載っていただけなのですが、その文章の中の言
があったのです。その文章を正確に覚えているわけでは
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「東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属北海道土人教育所について」長谷川修
ありませんが「蒙昧無知にして不潔なる旧土人と共存す
れ、1人東京に連れて来られたというのは、非常なスト
ることは市の発展を妨げる」というものだったと思いま
レスになっていたのではないかと思います。開拓使仮学
す。要するに、アイヌは特殊で異質である。蒙昧無知、
校、北海道土人教育所に連れて来られたアイヌの状況と
いわゆる無知で知識がない、無能であるということです。
いうのは、まさにいろいろな意味で「不欲」になってし
不潔なる旧土人、風呂に入らないとか、ひげを伸ばして
まう状況、自分の生活に希望を持つことができず、ただ
いるとか、風習の違いからくる、そうした身なりをも含
家族に思いはせるだけという生活になってしまう状況だ
めて不潔なる旧土人と評して、その旧土人と共存するこ
ったのではないでしょうか。
そんな事が明治時代にあったということを思うと、私
とは市の発展を妨げるという文章を当時の有識者といわ
はじっとしていられなくなったというか、それまでの自
れる人達が残しているのです。
そうした特殊で異質なアイヌを学習活動、教育を通し
分自身の生活、生き方と考え合わせると、余計に 38 人の
て日本人と同質にさせる、同化させるということを当時
アイヌがどんな気持ちで東京での生活をしたのかという
の開拓使長官の黒田清隆が発案して、仮学校の附属施設
ことを考えるといたたまれない気持ちになったというの
として土人教育所を置いたのです。そして、そこに 38
が、この問題に関わるようになった大きな要因です。
人のアイヌを連れてきて、日本人教育をしたということ
この強制的に連れてこられた 38 名のうち、病気などで
です。このことの背景にはいろいろ他の意味合いがあっ
5名が亡くなっています。1人は発病後に移された函館
たようで、そこには天皇の存在も見え隠れしています。
の病院で、あとの4人は東京で亡くなっています。その
土人教育所に連れて来られたアイヌが、明治天皇の皇后
うちの1人にアイヌ名がハモテ、日本名で瀬上はととい
の前でアイヌの踊りを披露しているという事実もありま
う女性がいます。ハモテは上京した年の 11 月に死んだの
すので、黒田清隆が天皇に対してどのように自分の業績
ですが、その原因は今で言うと脚気だと言われています。
を見せるかという意図もあったのではないかと思います。
それまで雑穀を食べていたアイヌが白米を食べることに
いずれにしても、特殊なアイヌ、異質なアイヌを日本
よって、栄養バランスが崩れてしまい脚気になったので
人にする、日本人と同質にするための1つの方法として
はないかと思うのです。食生活をも含め、いろいろなス
土人教育所が置かれ、そこでアイヌに対する日本人教育
トレスがあったと思うのですが、そういういろいろな条
が行われたのです。アイヌは強制連行され、強制就学さ
件が重なり合ってハモテは死んでしまったのです。
そのハモテが死んだという資料を読んでいくうちに、
せられ、自分の意思に関わらず、食生活をも含めて日本
芝公園から愛宕山の方にちょっと歩いて行ったところに
人の生活を強要されたのです。
資料を読むと、日常生活を管理する教師もいたようで
青松寺という曹洞宗のお寺があって、その寺の墓地にハ
す。そして、起床から就寝まで、生活の一つ一つを日本
モテのお骨があるということが記されていました。そこ
人の監督者が管理していたのです。そのことによって、
で私は、青松寺の1つ1つのお墓を調べました。しかし、
日本人になるための言葉や礼儀作法、算盤、女性ならば
ハモテのお墓はありませんでした。いろいろな話を聞い
裁縫などといった教育がこの土人教育所の中で行われて
てみると、戦争中に東京が空襲を受けた時に、青松寺の
いたのです。
墓地一体も空襲を受けてお墓も散り散りになってしまっ
たということなのです。ハモテのお墓もその時に分から
今は核家族社会で、2世代、3世代が同居して一緒に
なくなってしまったのではないか思います。
生活をするということは珍しいことなっていますが、明
治の頃のアイヌは、両親や祖父母と同じ家でなくともご
いずれにしても、ハモテ、瀬上はとがどういう思いで
く身近なところで生活していました。そのように生活し
生活したのかということを自分なりに考えながら、土人
ていた集落を我々はコタンというふうに呼んでいますが、
教育所のことを考え、学習していく中で、だんだんハモ
そのコタンでの生活から、強制的に東京へ連行されて、
テの存在というのが自分の存在に重なり合ってきました。
家族と離ればなれになって東京で生活をしなければなら
そうなると、留学ではなくて連行である、死んだのでは
なくなったという状況が、この土人教育所のアイヌには
なくて殺されたのであるという言葉の変化が自分の中に
あったのです。
出てきました。資料では、日本の政治の中で、明治の時
親がいて、年寄りがいてという生活をしてみたかった、
期に、このハモテ以下、アイヌが総勢5人死んだという
...
一つの表現がありますが、私は、殺されたと表現するこ
すればよかったというふうに思ったりしますが、私には
との方が、むしろ正しいのではないかなと考えるように
そういう経験がありません。現在の話ではありませんが、
なりました。
私が今思うことは、自分の子供の頃、母親がいて、父
そうしたことから、私は、東京に連れて来られた 38
気がついた時には1人でしたので、家族揃って暮らして
人のアイヌについて、その名前も含めて、彼らが東京で
みたかったという思いがあります。
そうした気持ちは、東京に連れて来られたアイヌも同
どういう思いで生活をして殺されたのかを知りたい、そ
じだったのではないかと思うのです。家族や隣近所の人
して、何らかの形で亡くなった人の供養しなければなら
たちと一緒に暮らしていたコタンでの生活から切り離さ
ない、それから、東京の人たち、日本の人たちにそうい
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「東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属北海道土人教育所について」長谷川修
う事実があったということを知らせなければならないと
うことですが、私は宗教行為ではないということで最後
考えるようになり、そのことは自分の役割というか、自
まで頑張りました。私は今でもそう考えているのですが、
分がしなければならないことだと考えるようになったの
アイヌの儀式はカムイノミも含め宗教行為ではないと思
です。
っています。
東京イチャルパを始めるときに、幾つか自分の中で目
いろいろな文献を読むと、カムイノミやイチャルパは
的を持ちました。まず、北海道土人教育所に連行、強制
アイヌの宗教行為だと考えるのは当然のこととされ、ア
就学を強いられ、東京で死んだアイヌのイチャルパを行
イヌ語の「カムイ」は日本語で「神」と訳されています。
うと同時に、アイヌモシリを離れ、帰れずに死んだアイ
また、ほとんどの研究者が、そのようにアイヌの伝統的
ヌウタリのイチャルパ、供養をするということが1つで
儀式を民族宗教、アイヌの宗教であると定義づけて表現
す。それと、北海道土人教育所の歴史的な事実を多くの
をしています。アイヌの中にもそのように考える人が多
人たちに知ってもらう啓発活動です。さらに、カムイノ
イヌが伝承活動を行う場、アイヌ文化を学び継承できる
くいます。しかし、私はそのことを全部否定しています。
.
...
...
カムイは神ではなくカムイであり、カムイノミはカムイ
..
ノミなのです。それは宗教とか信仰とか、そういうこと
場として、せめて年に1回であっても継続的に計画して
とは無縁なもの、別なものとして私は考えています。
ミの学習活動、伝承活動、私だけではなくて首都圏のア
いきたいということ。そして、4番目には、北海道土人
私のことを少しお話しますと、私は東京の神学校を出
教育所の調査活動をしている研究者の協力を呼びかけ、
てキリスト教の牧師の仕事を 11 年ほどしていたことが
事実確認と学習を継続していくという、4つの目的を持
あります。なぜ牧師になったのかということですが、ま
ちました。
だ北海道にいた頃、ラジオで放送されていたキリスト教
東京イチャルパを行う準備を始めてから、実際に行う
の通信講座を聞いて、キリスト教もいいものだと思って
まで2年ぐらいかかりました。いろいろクリアしなけれ
いて、学力もなく、先の展望があまりない中で、安定し
ばならない問題点がいくつもあったのです。
た生活を送るためにはどんな仕事がいいのか、逃げるつ
1つは根本的な問題で、私自身がアイヌの伝承を受け
もりはなかったのですが、とにかく北海道を出たいとい
ていないということです。つまり、カムイノミをするに
う気持ちばかりで、布団だけを持って東京に出ようとし
も私にその知識がないのです。もっと基本的なことで、
た時に無理に入れてもらったのが神学校だったのです。
アイヌ語そのものも私は継承していなかったのです。そ
もう 40 年以上も昔の話なので無理がきいたのだと思い
のために、まず、そのアイヌ語とカムイノミの勉強をし
ます。1年目は予科生として勉強して、その後、本科生
なければなかったのです。
として勉強して、最終的には卒業論文を書いて牧師にな
りました。
では、誰から学ぶかということですが、首都圏にはカ
そうした経験がありますので、いわゆる宗教の概念、
ムイノミがきちんとできて、イナウなどの祭具を1つ1
つ作ることができるという男のアイヌはいませんでした。
宗教とはどういうものかということについて理解してい
そのため、北海道のアイヌからそうしたことを受け継ぐ
るつもりでいます。そのことを前提にして、私は、アイ
ということから始めなければならなかったのです。
ヌの伝統的な儀式は宗教行為ではない、宗教とは別なも
のだと思っているのです。
もう1つは、どこでするかという場所の問題です。開
拓使仮学校の土人教育所があった場所は芝公園の4号地、
東京イチャルパを始める時、イチャルパが宗教行為か
現在、港区図書館のある場所なので、そこは公の公園内
どうかということで、東京都の人権部の人とは何度も議
ということになります。そうした場所でイチャルパ、カ
論をして納得してもらったとうか了承してもらったとい
ムイノミをするためには、当然、公園の管理者から承諾
う経緯がありますが、黙認と宗教行為ではないという結
を得なければならないのです。
論が出されたことにより、芝公園を利用できるようにな
りました。
この承諾を得るためにはクリアしなければならない大
きな2つの問題がありました。1つは、カムイノミをす
その時、もう1つ、私が行政に対して要求したことが
る時には、火を使わなければならないということで、も
ありました。カムイノミの時に必要になるヌササンにつ
う一つは、アイヌが行うカムイノミが宗教的行為なのか
いてです。ヌササンとは皆さんもお分かりかとは思いま
どうかということです。公の公園では火を使ってはなら
すが、イナウを立てておく祭壇のことです。
ないという決まりと、宗教行為をしてはならないという
昔のアイヌの家には、戸外にヌササンという常設の祭
決まりがあり、この2つの問題を解決するために東京都
壇があって、カムイノミなどで作ったイナウはそこに立
の人権部の人たちとの話し合い、チャランケが始まりま
てておきました。ヌササンに一度立てたイナウはそのま
した。
まにしておいて片付けることはありませんでした。新し
いイナウを作った時には、そこにさらに加えていったの
東京都人権部には何回も何回も足を運んで話し合いを
です。
重ね、火を使うことについては黙認をしてもらうことに
そこで、かつてのヌササンと同じように、東京・イチ
なりました。後は、カムイノミが宗教行為かどうかとい
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「東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属北海道土人教育所について」長谷川修
ルドワークをしました。
ャルパのために芝公園内に設置するヌササンもそのまま
にして置きたいので、その場所を永続的に貸してもらえ
毎年何人かのエカシやフチにこの東京・イチャルパに
ないかという要求したのです。しかし、公園の一画を誰
合わせて北海道から来てもらっています。北海道には少
かが占有してもいいという考え方はありませんので、こ
なくなったとはいえ、まだまだ言葉とか文化を継承して
れは叶いませんでした。そのため、ヌササンに立てたイ
次の世代に伝承していこうとしているエカシやフチがい
ナウなどの祭具の全ては、イチャルパが終わった後、私
ます。残念ながら首都圏にはそうした伝承者であるエカ
が住んでいる山梨に持ち帰って自宅のヌササンに立てて
シやフチがいませんので、まだまだ不十分な継承しかで
います。本当は、芝公園の4号地で一度ヌサを立てたら
きていない首都圏のアイヌは、そうしたエカシやフチに
そのままにしておきたいのですが、それは叶わなかった
イチャルパに合わせて来てもらい、その時に指導を受け、
ということです。
文化の継承をしているのです。
そんなこともありましたが、イチャルパができるよう
東京・イチャルパでは、かつて家の中で行っていた儀
になりました。私も北海道のアイヌの指導を受けて、カ
式も全て戸外で行うことになります。先ほど、カムイノ
ムイノミを司ること、イナウを作ることを覚えました。
ミには火を使うと言いましたが、カムイノミはアペオイ、
今では満足ではありませんが、カムイノミのイタク ノン
日本語で言うと囲炉裏ですが、カムイノミはアペオイの
ノ、カムイに語りかける言葉も自分で文章を考えて、で
火のカムイに最初の言葉をかけるところから始まります。
きないなりに一生懸命アイヌ語に訳して、アイヌ語でカ
言葉をかけた火のカムイがイナウとともにいろいろなカ
ムイに語りかけています。これは私だけではなくて、東
ムイに言葉を伝えてくれると私達は考えているのです。
京・イチャルパを始めた時に、何人かの男のアイヌが一
そうしたカムイノミをするために、火のカムイがいるア
緒にカムイノミについて勉強し始めたのですが、今は、
ペオイは重要な場所なのですが、東京・イチャルパでは
皆が参加して、皆で役割分担ができるようになっていま
そうした儀式を行える家はありませんので、戸外にアペ
す。10 年くらい前に首都圏でカムイノミをする時にはわ
オイの場所を設定して儀式を行っています。
ざわざ北海道からエカシに来てもらっていたのですが、
今年の東京・イチャルパにはアイヌが 30 人くらい、支
今は、自分達で祭具、イナウを作って、カムイに言葉を
援してくれる人を含めると 100 人ぐらいの人が集まりま
語りかけられるようになっているのです。多分、一人一
した。カムイノミの儀式が終わった時には、必ずカムイ
人が相当の努力をしたことによって、このようにできる
に感謝をするウポポやリムセ、日本語でいう歌や踊りが
ようになったのではないかと思います。
あります。アイヌの歌、踊りというと、今は古式舞踊と
先ほど東京・イチャルパの目的についてお話しました
いうことで舞台に上がって踊りを披露して多くの人に見
が、その中に啓発活動があります。その啓発活動の1つ
てもらうということが多いですが、本来はカムイに歌や
として、去年からフィールドワークをするようになりま
踊りを見せると共に自分達も一緒に楽しむというもので
した。
した。そのため、カムイノミが終わった時には、必ずカ
去年は、首都圏のアイヌの団体であるレラの会のメン
ムイに「ありがとうと、イヤイライケレ、感謝します」
バーと北海道から来た5人のフチが参加して、増上寺の
という気持ちを込めて歌ったり踊ったりをするのです。
周辺、当時のアイヌが寄宿した清光院があった場所や、
少しまとめの話をしていきたいと思います。私は東京
開拓使仮学校、そして先ほどの瀬上はとのお墓があった
を中心とした首都圏のアイヌの団体の「レラの会」に入
であろうと思われる青松寺、そして愛宕山をフィールド
っています。そのレラの会の前の会長で、もう亡くなり
ワークしました。愛宕山というのは愛宕神社があるとこ
ましたが佐藤タツエさんという方がいました。その佐藤
ろですが、その辺りは、今でも自然がそのまま残ってい
タツエさんが私に言ったことで忘れられない言葉があり
ますので、当時はもっと自然が溢れていたと思います。
ます。滋賀県に一緒に行った時の帰りの車の中で、ぽつ
連れて来られたアイヌはその愛宕山に行って故郷を懐か
りと「新しい法律ができてからアイヌがいなくなった
しんでいたのではないかと思いながら私はフィールドワ
な。」と言った言葉です。新しい法律とはアイヌ文化振興
ークしました。
法のことだということは分かるのですが、何を言ってい
るのかその時は分かりませんでした。
今年も、北海道から5人のアイヌ、それから、土人教
まだ、その言葉の意味を全部理解できたわけではあり
育所についての論文を書いた広瀬健一郎さんや狩野雄一
さんも来てくれて、総勢 40 人近くの人たちと一緒にフィ
ませんが、「アイヌがいなくなったな」という言葉の意味
ールドワークをしました。今年は第三官園のあった広尾
は、伝統的な人の考え方や生き方、年寄りから何かを学
の方に行ってきました。現在、あの辺りには聖心女子大
ぶ、そしてお互いが助け合う、家族やコタンの中で助け
学や日赤の病院があって、その周りは高級住宅街になっ
合い、支え合いながらアイヌは北海道で生活をして、文
ているので、当時の状況はほとんど分かりません。多分
化の伝承をしてきたのですが、そういう伝承形態という
ここがアイヌが寄宿していた場所だろうとか、農場があ
か、生活環境が薄れてしまった、失われてしまったとい
った場所だろうとか、そういうことを考えながらフィー
うこと言っていたのではないかと、私は自分なりにその
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「東京・イチャルパへの道-開拓使仮学校附属北海道土人教育所について」長谷川修
め、計画性のないものだったのです。そのため、北海道
言葉を受け止めています。
誰から伝承を受けるのか、年寄りから伝承を受けるの
のどこどこの地域からアイヌを何人ずつ、ということで
ですが、年寄りはいろいろ余計なことも言います。余計
はなく、急遽、北海道の岩村通俊という役人が、余市と
なことを言うかも知れませんが意味の無い言葉は無いの
か札幌などから手当たり次第、役人の権力をかざしてア
です。そうした言葉を若い者が我慢して聞くということ
イヌを集めたということです。黒田清隆は当初、100 人
ではなく、一緒に和みながら話をして、少しずつ伝承さ
のアイヌを集めて土人教育所で日本人教育をすると計画
れていくという環境が無くなってきたということをタツ
したようなのですが、結果的には 38 人で、うち2人は択
エさんは言っていたのではないかとも思います。
捉島から連れて来ています。本当につじつまを合わせる
ための連行というか、強制的にアイヌを集めて連れてき
このタツエさんがぽつりと言った言葉に、私たちはど
たのだと思います。
う対応したらいいのか、アイヌがいなくなるということ
ではなく、アイヌに出てきて欲しい、変な言い方ですが、
開拓使仮学校に行ったアイヌの中には、自分の意思で
本来のアイヌが出てきて欲しいと思っています。私もそ
自発的にもう少し勉強したいと考えた者もいたのではな
ういう意味では少しずつ自分の中に伝統的な考え方、精
いかと思います。ただ、その自発的にとは言っても、現
神世界を持った人間として、アイヌとして生きていきた
代社会の中で、それぞれの自由意思で、日本語の勉強を
いと思います。
したいとか、日本の歴史を勉強したい、学問を極めたい
私は、東京イチャルパを通して、カムイに言葉をかけ
ということとは少し意味合いが違っていると思います。
ること、つまり命あるものと一緒に共生していくという
その辺の違いはあるとしても、自分から学びたいという
ことがどういうことなのか、私はカムイと言葉をかけ合
ふうに申し出たアイヌもいたということは、開拓使仮学
って、カムイとの関係を良くしていくことが、いろいろ
校が札幌に移った時に、5人のアイヌの入学を認めたと
な意味の命あるものとともに生きるということとして考
いうことを考えると、そういうこともあったのではない
えています。そういうことについて、イチャルパを通し
かと思います。
土人教育所のことに関して、私は、今後もさらにいろ
て見いだしていくというか、身につけていくことができ
いろな人たちに語りかけていきたいと思っています。そ
ればいいと最近は思っています。
最後に、土人教育所に関して、詳しい内容については
して、そのことと同時に、現在も北海道だけにアイヌが
冒頭でお話しした本を手に入れて読んでいただければと
住んでいるわけではなく、東京を中心とした首都圏にも
思いますが、その後どのようになったかについて少しお
多くのアイヌが住んでいるということ、そのアイヌは
話して終わりにしたいと思います。
細々と生活をしながら、伝統的なものを何とか自分の身
土人教育所は2年ほど続いたのですが、先ほどもお話
に付けようと頑張っているということについても、いろ
したように、食生活が合わないとか、いろいろなストレ
いろな形で日本の社会に向かって叫んでいかなければい
スがあって、最後までアイヌはそこになじめなかったよ
けないのではないかなと思っています。このことについ
うです。それでアイヌは北海道に帰りたいという嘆願書
ては、自分の責任としてそのことを考え、言葉にしてい
を出して、ほとんどのアイヌはその願いが叶って北海道
かなければならないというふうに思っています。
芝公園には北海道大学の同窓生が建てた石碑がありま
に帰りました。その後、もう1度上京せよという文書が
出されたのですが、誰もそこに参加しなかったようです。
す。御成門の出口の自動販売機の方です。開拓使の仮学
そのため、土人教育所は2年ほどで終わることになりま
校がここにあったという石碑なので、何かの機会に見て
した。しかし、その後、札幌に開拓使仮学校ができて、
いただければなと思います。
東京から北海道に帰ったアイヌの中から、その札幌の開
東京・イチャルパは、これからも毎年行っていくつも
拓使仮学校に在籍を許されて、そこで学び続けたアイヌ
りです。来年も8月の第2日曜日あたりで計画したいと
もいます。
思っています。8月になったら首都圏のアイヌがそんな
ことをしているんだということを思い出していただけれ
土人教育所で日本人教育をするということは、日本の
ばと思います。
言葉を学ぶということが第一義にありましたので、北海
ありがとうございました。(拍手)
道に帰って通訳のような仕事に携わったアイヌも1人か
2人いました。しかし、全般的には、土人教育所に連れ
て来られたアイヌは、そこでの生活になじめず、北海道
に帰って自分の家族と一緒に生活することを望んだので
す。それが叶えられて北海道に戻って後、学校に戻るこ
とはなかったということです。
土人教育所に連れて来られた 38 人がどのように選ば
れたのかということについてですが、この計画は当時の
開拓使の長官の黒田清隆の思いつきによるものだったた
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