■ はじめに ■ さんぶたろうは伝説では精霊と土地の男との間に生まれた混血児です。 ※凡 例 ○ 本 文 中、 「さんぶたろう」の表記にあたっ ては、史上の人物として表記する場合、「す がわらさんぶたろうみつすけ」は菅原三穂 太 郎 満 佐 に 統 一 し た。 ま た、 伝 承 上 の 存 在 と し て 表 記 す る 場 合 に は、 「さんぶたろう」 異類女房譚(蛇、鶴、天女など、人にあらざるものと人の男性とが結ばれるお話)では、多くの場合、妻(異 類)と夫(人間)の関係が主であり、二人の間に生まれた子どものその後について、あまり語られることはあり に統一した。 足を配した。 ム に 注 釈、 引 用 文 の 出 典、 参 考 文 献 等 の 補 ○画面中、上段フレームに本文、下段フレー 漢字表記等異なる場合がある。 そ の た め、 同 一 の 固 有 名 詞 で も 読 み 振 り、 た。 詞の表記については原則として底本に従っ ○ 引 用 文 中 の 神 名、 人 名、 地 名 等 の 固 有 名 ません。 それに対し、さんぶたろうのお話では、主人公は大蛇の子たろうですし、物語の前半部分では、 妻である大蛇が夫 を 上 回 る 存 在 感 を 顕 わ し ま す 。 その血につながる人たちが多数あり、現に那岐の地で栄え続けているという点でも稀有な伝説といえます。 とにかくスケールが大きく、筋立ての分かりやすいお話なのに、今ひとつメジャーになれない理由のひとつ に、今までこの伝説が、単に蛇女房とだいだら法師の昔話を合体させただけのお話と考えられていたことがある でしょう。 また、例えば同じ中世に生きた英雄である源義経など広い地域に足跡を残した人物とことなり、 ○ 注 釈 と 本 文 を 交 互 に 参 照 し や す い よ う、 主 人 公 さ ん ぶ た ろ う の モ デ ル 菅 原 満 佐( す が わ ら み つ す け ) が 地 域 密 着 型 の 英 雄 で あ る こ と が、 美作地方以外の人に今ひとつその存在をアピールしにくくさせる原因の一つになっているのでは 関連する該当個所にそれぞれ同一の番号を 振った。 ないか、と思いま す 。 ある伝承が地域を越えて、多くの人たちの興味と共感を呼び起こすには、人々に共通の普遍的 なテーマを持っていること、そしてその伝承が人を惹きつける「謎」の部分をどれだけ残してい るかが重要なので は な い か と 思 い ま す 。 るのと似たような も の か も し れ ま せ ん 。 じ章 は めに Ⅰntroduction 第 Chapter 有名人の私生活のように、はっきりしないから気になる、隠れているからよけいに知りたくな 大いなる巨人の伝説 』と題して、本編とは切り離 intermission は じ章 めに Ⅰ ntroduction 第 Chapter うれしいです。 本稿が皆さんにとって、聞きなれた郷土の伝承が持つ、隠れた魅力に気づくきっかけになれば 機会があればゆ っ く り 取 り 上 げ た い と 考 え て い ま す 。 た関係で、たろうの父についてはほとんどページを割くことができませんでした。 また、「巨人(さんぶたろう)」「蛇(たろうの母)」という二つのキーワードに沿って稿を進め 読者の皆さんには最後まで気楽にお付き合いいただけたなら幸いです。 ですが、もしかしたら読み進む内に、10に1つぐらいの真実に出会えるかもしれませんので、 る部分が多くなっ て し ま い ま し た 。 なにぶんにもアイデア先行で今となっては証明しようのない事柄も多く、推測や憶測にとどま した形で載せるこ と に し ま し た 。 そのうち、面白そうなものについては、『閑話休題= るに、イメージばかりが暴走して収拾がつかなくなっただけですが) また本稿を執筆するにあたっては、切り捨てざるをえなかったアイデアもありました。 (ようす とその背後に隠された編纂意図について考えていきます。 である菅原三穂太郎満佐〔すがわらさんぶたろうみつすけ〕について紹介した上で、伝説の源流 本稿では、さんぶたろうの世界を知っていただくため、作北各地に残る伝承と、実在のモデル 筆者が思っている)、もしかしたらこれからも明かされることのない「謎」の部分なのです。 筆者が、さんぶたろうに強く心惹かれたのも、さんぶたろう伝承のいまだ明かされていない(と 大いなる巨人の伝説 ■ 第一章 史実 と 伝 説 の は ざ ま で ■ □ さんぶたろ う の 伝 説 さんぶたろうは、岡山県那岐山麓一帯(現在の勝田郡勝田町・勝央町・勝北町・奈義町などを含む、 美作地方東北部)を中心に語り伝えられる巨人伝説である。 初めての方に誤解を承知で少々荒っぽく説明すると、中世鎌倉時代末期に実在したといわれる 菅原三穂太郎満佐〔すがわらさんぶたろうみつすけ〕-この地方に勢力を張っていた武士団「美 作菅家党 1-1a 」の首領とされる-をモデルに、蛇女房とだいだら法師、蛇婿入りの伝説を加えた お話を想像していただければ、いくらか近いかもしれない。 おそらくこのページを見てくださるほとんどの人にとって、はじめて耳にする名前ではないか と思う。 そこで、伝承の内容については第2 部で考察するとして、ここでは当地に残る伝承のアウトラ インとさんぶたろうのモデルになった実在の人物菅原三穂太郎満佐の人となりについて紹介して いきたい。 □ 伝説のアウ ト ラ イ ン 。 1-1c 菅原道真の子孫を名乗る男が、菩提寺 1-1b で女と出会い、太郎丸という名の男児をもうけた。 女は太郎に乳をやるときだけは産屋をのぞかぬよう男に約束させたが、我慢しきれなくなった 男は、とうとう産 屋 を 覗 い て し ま っ た 。 正体を見破られた大蛇は去り際、山を八巻きして約束を破った男への恨みをあらわした。 以後、大蛇が消えた山=能畝山〔とかりやま〕は、八(鉢)巻山と呼ばれるようになった 章 史実と伝説のはざまで 一 Chapter1 第 ※注 釈 ○ 1-1a 美作菅家党 十 三 世 紀 末 か ら 十 六 世 紀 末 に か け て、 美 作地方東部に勢力を張っていた地方武士団。 『 東 作 誌 』 な ど に よ れ ば、 美 作 国 に 配 流 さ れた菅原道真の後裔知頼の子孫満佐が祖と 浄土宗高貴山菩提寺 1-1b される。 ○ 那 岐 山 の 中 腹 に あ り、 行 基 に よ っ て 開 か れたと伝えられる。 ) 1873 『菩提寺古今録』によると延暦二四( 805 ) 年まで法相宗、 承安四( 1173 )年まで天台宗、 寛文五( 1665 )年まで浄土宗、 明治六( 年までは真言宗であったという。 - 1133 「 法 然 上 人 行 状 絵 図 」 や「 元 亨 釈 書 」 な ど に よ れ ば、 浄 土 宗 の 開 祖 法 然( )は十三歳で美作国を出て比叡山にの 1212 ぼ る ま で、 伯 父 に あ た る こ の 寺 の 院 主 観 覚 そこにはとぐろを巻いて太郎に乳をやる大蛇が・・・ 女は蛇精だったのである。 大いなる巨人の伝説 う 。 1-1f 三穂太郎記※ 第 一 章 史実と伝説のはざまで の元にあった。奈義町高円地区。 ○ 1-1c 八(鉢)巻山 さ ね か ね が、 さ ん ぶ た ろ う の 母( 大 蛇 ) と の 誓 い を 破 り 産 屋 を 覗 い た た め、 正 体 を 見 破 ら れ た 大 蛇 は、 こ の 山 を 八 巻 き し て 怒 りをあらわしたという。 能畝山(とかりやま)ともいう。 那岐山の支峰については位置のはっきり し な い も の も 多 い が、 菩 提 寺 の 南 西 付 近 を 指すといわれている。 ○ 1-1d 蛇淵 さんぶたろうの母はこの淵の主であった。 那岐山中腹にあり、現在は付近を登山コー スが通っている。 ○ 1-1e 精霊である大蛇の血をひくたろうは金気 に弱かったと伝えられる。 ま た 草 履 に 針 を 仕 込 ん だ の は、 佐 用 姫 に 横恋慕した頼光という男であったともいわ れている。 Chapter1 □ 其子を実兼といふ。 二男治郎長次其子ヲ久常といふ。 其子兄弟三人武勇を顕わし勝田郡五ケ庄を押領しけり。 其先祖を尋ねるに、前伊豆守菅原秀治郎近衛院の勅勘を蒙り、此国に下り保師と名乗られける。 爰に美作国豊田の庄に、三穂太郎光佐と云人あり。 1-1g 地 元 の 人 間 は、 那 岐 山 か ら 吹 き 下 ろ す 大 風 を 「 さ ん ぶ た ろ う が 吹 く 」 と 呼 ん で 恐 れ 敬 っ た と い また血は川に、肉は黒ぼこという肥沃な黒土になり、息吹は北大風をよんだ。 の土師、右手は梶 並 の 里 へ と ど ま っ た 。 で死んでしまった 1-1e 。 大地に倒れ伏したなきがらのうち、頭は関本の里、胴体は西原の里、かいな(腕と肩)は因幡 ある時、豊田姫に嫉妬した佐用姫が草履に仕込んだ針で足の裏に傷を負った太郎は、それが元 の佐用姫の元にも 通 っ て い た 。 この地方きっての勢力者になった太郎は豊田姫との間に七人の男児をもうけたが、一方で播州 ばれた。 に操り、三歩で京まで行き交い、奈義の地にいながら禁裏の護衛を勤めたので「三歩太郎」と呼 大蛇が消えた淵は蛇淵と呼ばれるようになった 1-1d 。 その後、珠の霊力でぐんぐん成長し、雲も突き抜けるほどの巨人になった太郎は、仙術を自在 淵の中へ消えてい っ た 。 大蛇は五色に光る珠を差し出し、太郎が乳をほしがったらこれをしゃぶらせるように伝えると、 男は太郎を連れて山中をさまよい、やがて淵のほとりで大蛇に再会した。 大いなる巨人の伝説 其子を近藤武者是宗ト云フ。 承 ○ さんぶたろうに関するさまざまな伝 1-1f にあったといわれる。 尾城)の北方人形石より戌亥の方角の山頂 那岐山頂、あるいは是宗川上流、是宗城(細 (三)さんぶたろう屋敷 の住居地という。 地。 さ ん ぶ た ろ う の 妻 小 菅 戸 の い た 豊 田 氏 奈 義 町 西 原 地 区、 柿 地 区 へ 越 す 古 道 の 谷 頭 (二)豊田屋敷 奈義町西原地区 さんぶたろうの恋敵である頼光の在所。 (一)頼光(よりみつ) A 地. 名に関する伝承 した。 教 育 委 員 会 発 行 ) か ら 引 用、 ま た は 参 考 に ※『さんぶ太郎考』(高村 継夫著;奈義町 関する伝承地が数多く残っている。 美 作 地 方 東 北 部 一 帯 に は、 さ ん ぶ た ろ う に 前記のほかにも、岡山県奈義町、勝田郡、 是宗文武両道にたつし、和歌のみちにもたつし、殊に双なき美男也、頃ハ弘長三年三月十八日 菩提寺の観音へ参詣有しが、折しもサクラの盛にて花見の御遊を催しける。 近郷の老若男女へだてなく袖をつらねて並居たりける。 其中に年の頃二 十 ば か り の 女 凡 人 と も 思 は れ ぬ 。 肌にはしらむく上には重あやを四季のもよふに染なし春もようようあけぼの染霞に匂ふ梅がゑ に、初音を知らす鶯茶左右の袖ハ夏来にけらし白妙の卯の花色に、腰のもようは目にはさはやか に見えねども、あきの千種の花紅葉妻恋鹿もかわいらし、裾も浪速のあしの葉に積れる雪の冬景色、 岩間も氷る池水に鴛鴦の浮寝のおもひはに思ひ染しよの心かや、いとたわやかな其の姿、腰ハ柳 の春風にゆられゆられる風情して、露をふくめる海道(棠)のほころびかかる目元にて、かつら の 眉 す み ほ そ ほ そ と 丹 花 口 び る あ ざ や か に、 芙 蓉 の ま な じ り い と け だ か き 誰 が 袖 ふ れ し か を り に て、 心ときめくば か り な り 。 近 藤 武 者 是 宗 ハ 此 姫 を 見 る よ り も 情 の 心 催 し て、 飛 び 立 つ ご と く 思 へ ど も 軽 々 敷 言 葉 も か け が たく、見慮にながめ居たりが、懐中ヨリ短冊を取いだし、 一首の歌に云 春毎に見る花な れ ど 今 年 よ り 咲きはじめたる心地こそすれ 物堅き成人なれば招き寄て、あれなる女を知り及ふやと尋るに、長光坊答て云様ハ、此程折々此 寺へ参らるるといへども、何国いかなる人ともいまだ知り申さず、去ながら御用あらバ仰付られ 候得といへば、夫ハ又近頃添仕合拙者今日見恋に心のもつれ解やらすさしもつれ、泪の川の渡し もり。と書いて渡し出家に似合ぬ事ながら宜敷はからいくれ、程能調ふ物ならば恩賞をへんとて 頼ミ、又短冊に一首の歌を書て、枝高き花の梢も折バおれ及ばぬ恋もなるとこそきく。是を渡し けれバ長光坊頓て姫の元へ行、先刻此短冊を拾い 見申所美敷手にて書かたれども。恋の歌内へ出 章 史実と伝説のはざまで 一 Chapter1 第 と詠じ首を書て姫の側なる桜の枝に結び付さけ、片原なり寺へ行僧に長光坊といへる出家あり、 大いなる巨人の伝説 第 一 章 史実と伝説のはざまで B.さんぶたろうの死に関する伝承 (一)さんぶたろうが吹く か つ て 北 風 の つ よ く 吹 く 日 に は「 さ ん ぶ た ろ う が 吹 き 出 し た 」 と 言 っ た。 彼 の 死 に あたり吐き出した息吹という意味。 (二)くろぼこ 那 岐 山 麓 一 帯 の 肥 沃 な 黒 土 を「 く ろ ぼ こ 」 と 呼 ぶ。 さ ん ぶ た ろ う が 死 ん だ 後、 そ の 肉 や血がくさってできたものといわれる。 (三) 「じやがたに」または「ちあらいのたに」 さ ん ぶ た ろ う の 死 ん だ 時、 那 岐 山 の 一 角 が 崩 れ て で き た と い わ れ る。 ま た 一 説 に は 鎌 倉 山 城 の 北 方 の こ の 地 で 戦 い が あ り、 そ の 血 を あ ら っ た た め に「 血 洗 い の 谷 」 と い う ともいう。 (四)山麓に点在する巨石群 さんぶたろうが死んだ時那岐山が崩れて飛 び散ったものといわれる。 Chapter1 家が持てハよろしからず差上げ申は、御手本に遊ばし候得と何気なく差いたしければ、姫は手に 取つくづくと見て申されけるは、足ハ御出家にハ媒頼まれけるかな、か様の物貰ふ身にて非ず差 返しければ。長光 坊 取 あ へ ず 一 首 わりなしや嬉し き も の な ぐ さ ま で 又一筆にそふおもいかな 立帰りけり。扨此後細々なる文を認め、折々此寺へ参るを待て長光坊が取次しける文の奥ニ とかへりて、近藤武者に渡し、かく語りけれバ是宗大ニ悦ひ此上ハ宜敷頼むと申置、家来引ぐし と書て渡し、はや日も夕暮になりけれバ何国ともなく帰りぬ。長光坊も返し歌ヲ受取てすごすご 変るともぬし有人ハ觧ましき、結ぶ神のゆるしなければ た返しの歌を美敷 手 に て 書 け る 。 と書て、これを送り見候へと渡しければ、長光坊又姫の元へ行、差出しけれバ此度ハ得と見てま 恋すれど人の心 の と け ぬ に は 結れながらかへる玉づさ と書申ける。長光 坊 か へ り 此 よ し を 語 り け れ ば 又 、 心こそ心まよわ す 心 な れ 心にこころ心ゆるすな と詠じければ、姫 は 独 言 の 様 に 申 け る ハ いい捨る言の葉 ま で ハ 情 あ れ 只いたずらにくちはつる身を 大いなる巨人の伝説 あわれとも人の 心 の な さ け あ れ な 数ならぬにはよらぬなげきを 又姫のかへし 哀とて人の心に ゆ る し あ れ なかずならねともままならぬ身を 又是宗つかわしけ る 文 の 奥 に 海も浅し山も本 を な し 我 恋 を 何によそへて君にこたへん 又送る是宗の文の 奥 に くれなひに泪の 色 の な り 行 を 幾しを迄も君にとはばや 又姫のかへし 一花に思ひ染め た る 紅 の 泪の色ハさめもこそすれ 近 藤 武 者 是 宗 ハ 此 外 幾 度 と な く 年 月 を 重 ね て、 よ れ つ も つ れ つ 六 ツ ヶ 敷 色 ニ 口 説 の 歌 を か き、 数限りなく送るといへども、逢べきかへしの筆づさみもなく心つよき返事ばかりにて、引事もた とへ事も情も心も盡果て、貴来る恋にやつれつつ、最早露の命の置くべきかたもなく、文も言葉 (五)さんぶたろうの四方に飛び散った亡骸 を祀ったところ イ.三穂神社=三穂大明神 さんぶたろうの頭部を祀る。別名「こうべさ ま」。奈義町関本地区 もかかれぬゆへ集 歌 に て つ か わ し け る 。 章 史実と伝説のはざまで 一 Chapter1 第 する墨も落ちる 泪 に あ ら ハ れ て 恋きたにもへもかれぬ 大いなる巨人の伝説 第 一 章 史実と伝説のはざまで ロ.杉神社=荒関大明神 さんぶたろうのあら(胴体)を祀る。別名「あ らせきさま」。奈義町西原地区 Chapter1 もいまだしらず、斯情に預る上ハ如何なる人にもせよ苦からず、身の上を語り聞せ候へと問けるに、 此時是宗尋ねけるハ、過しころ見染しより年月、文玉づさを通すといへども、何国如何なる人と 仮初めのしのの を さ さ ぬ 一 ふ し に 寄かかりきと人に語るな 女とりあへず一首 うれしきもつら き も お な じ 泪 に て おふ夜の袖ハなおぞかハかぬ つらつら思ひし胸 晴 れ て 、 嬉 し き あ ま り に 是 宗 一 首 さのふし間も、肩の情の新枕おふが別れの始めとて、ならひとはあさましき、其の夜の袖はぬれ衣、 はたして彼の女忍び来り、家来に案内あれバひそかに一間へ伴ひつつ、蜷子ヲ取揃へささのむさ れり旧跡有、扨近藤武者是宗は二十三日の夕くれを、誠に千年を待心ちして程なく其夜に成ぬれば、 細川長光と名乗らせ武名顕わしたるは此僧の事なりとかや、則関本村長光の屋敷とて地名のみ残 拝み、長光坊にも一礼なして、其後恩賞を与へんとせば、還俗して是宗の姫となり長光坊を其儘に、 せて思ひの煙むべに消、心のにごりすむうれし嬉しき、急ぎ菩提寺に行、観音のお影ならんと伏 の下に忍ぶとゆふ字なればしもの弓張月に忍ぶとハ二十三日の夜忍来るとの事なり。はんじおふ 此歌をかいて遣しければ、姫も打觧たる躰にて返しにはんじ物をおくる。 1-1h 如此のはんじ物、是宗つくづくと見てモのと書いて四ツあるは、しもの三ヶ月は弓張る月、刃 永久しきは蔓を 限 り と か き つ め て せきあへぬ物は泪なりけり 胸はふし袖は清 め る 関 な れ や 煙も波も立たぬ日ぞなし 恋しきをいかが わ す へ き と 思 へ ど も 身数ならず人はつれなし 待詫て二とせ過 る 床 の 上 猶かわらぬハ泪なりけり 大いなる巨人の伝説 女申様ハ、わが身の事は儘ならぬ者なれば、有様物語り候へば、君の御為に宜しからず、去りな がら深き御情に預る上ハ、つらつら何の仇には存じ申さず、是れよりハ此館へ忍び申すと、つき ぬ言の内に寄るもふけ渡りて、鳥のこへしけば是宗一首の歌 契り来て逢はる 夜 半 の 程 も な く あわれも知らぬ鳥のこへかな 女の読みけるハ 己が音につらき 別 れ ハ 有 と だ に 思ひも知らで鳥の明らん と 読 み て そ の 夜 ハ 別 れ ぬ。 そ れ よ り 幾 度 な く 忍 び 通 い 月 日 も 重 な り け る が、 有 夜 女 の 物 語 り に、 仮の契りも重ねて、懐胎の身となりしとおぼへ候よし語りければ、近藤武者是宗悦びて、さもあ ら ば い ま よ り は、 わ が 館 の 妻 と 定 め ん 、 帰 る 事 な く 昼 夜 と も に 此 家 に 居 な ん と す す む れ バ 、 我 身 事いわれ有身の悲しさ、さ様には成難し、しかし御子は産て後養育して成長なし候ハんと申帰りぬ。 日行月来りて、すこやかなる男子生まれければ、名を太郎丸とつける。その後三才に成迄此母七 日めの夜なくなく太郎丸を抱いて、是宗が館へかよいける。ある夜其子に添て残し置かへり遺す 処の歌 逢初し嬉しき事 の 有 り て ま た ならひつらき別れ成けり 人ならず人たる 人 に 人 た ら で 人たる人の親もやいうらん ハ.河野神社 さ ん ぶ た ろ う の 肩 の 部 分 を 祀 る。 そ の た め 肩 や 手 の 病 気 に ご 利 益 が あ る と い う。 別 名 「若一王子権現=にゃくいちさま」 ニ.右手大明神 鳥取県八頭郡智頭町土師 身の上は浦島が 子 の 玉 手 箱 明ていさそ反悔しかるらん 者近藤武者是宗の子三穂太郎勝正をさす。 こ こ に い う さ ん ぶ た ろ う は、 源 氏 の 落 ち 武 さんぶたろうの右腕を祀る。 恋しくバなぎの 谷 川 住 と み よ かわる姿も人目をゝなる 章 史実と伝説のはざまで 一 Chapter1 第 君が為かりの契 り も 不 志 明 て 日影の花も顕れけり 大いなる巨人の伝説 第 一 章 史実と伝説のはざまで 10 Chapter1 C.さんぶたろうの行動に関する伝承 (一)さんぶたろうのせっちん岩 是 宗 の 奥 の 谷 間 に 岩 が か た ま っ て お り、 た 跡 と い わ れ る。 ま た 那 岐 山 頂 三 穂 太 郎 屋 さんぶたろうが谷の稜線をまたいで排便し 此所へ来りなバ逢んとの事なりと案またしても、いかなる変化のものにもせょ、此子が為にも こんだ。 ふ ぐ り( 陰 の う ) が ふ れ て 山 頂 の 一 部 が へ (六)さんぶたろうが那岐山をまたいだとき、 山(和気郡吉永町)をひとまたぎした。 (五)さんぶたろうは、那岐山と備前の八塔 て因幡の賀露の浜で足を洗った。 (四)さんぶたろうは、那岐山に腰を下ろし して、瀬戸内海で足を洗った。 (三)さんぶたろうは、那岐山頂に腰を下ろ 三歩太郎と呼ばれたという。 さんぶたろうは三歩で都まで行ったので (二)さんぽたろうの名の由来 われる。 横六間の厠と呼ばれる黒石があったともい 敷 か ら 巽 の 方 角 に 井 戸、 南 の 方 に 長 さ 八 間 1-1i 夫と見るより太郎丸、あれよあれよと手招きす、ささゑさせんと取上渡せば夜の別れの其時より、 出たり。 不思議や滝つぼの水中より青黄赤白紫の五ッの色のあざやかなる一ッの玉、逆巻水の勢に浮かび の逆立我子ヲ小脇にかいはさみ、なんなく彼滝の本へうかがい寄、水底白眠で居たりける。共時 しにせんよりハ、滝壷に身を沈めて逢て後溺死てなり共、せめてのはらいせせんものと、身の毛 かへせ戻せと呼はれど、更に答もなかりけり。悲歎の涙に暮たりしが、我子共に此儘に、こがれ 是が此の世の御暇乞、さらばさらばと名残おしやとばかりにて、名木川の滝壷へ飛入失にけり。 彼 の 大 蛇 答 て 曰、 か か る 恥 敷 身 に し て、 仮 に も 君 に 情 を 受 け た る 事、 定 め て 悪 し と や 思 召 さ ん、 時に是宗言けるハ、扨々恐敷形を見せる物かな、今一度元の姿見せたまへと泪を流し申しける。 附「大なるが野 」 関本村削弓之間に有りける八巻の左の左并ニ蛇淵のいわれ 形あらわれ、畝の山を八廻り、物すさましきその其の有りさま 凄 く さ わ が し く、 や ゝ 有 り て は れ 行 雰 の 下 よ り も 、 き の ふ の 姿 引 替 て 頭 は 其 儘 こ こ に 居 て 大 蛇 の 片原なる大石に腰をかけて、しはし休らひ居る内に、不思議なるかな俄に秋雰立込て、いと物 太郎丸が母恋しと、そこよここよとかけまわり、大聲上て呼び叫ぶ。 忍 び 出 て 奈 義 の 裾 野 を た ど り つ つ、 大 成 さ し て 登 り 見 れ 其 子 細 な か り け れ バ、 太 郎 丸 が 母 恋 し、 親子の別れ、我も名残を惜しまんと、かいかい敷も身こしらへ我が子を脊におひながら、只一人 なるなん所あり。 ハ 皆 深 き 意 あ り、 し り ヘ の 一 首 恋しくば名木の谷川住むとハ、奈義川に住物ならん。ここに大 のふしぎ、斯事ハ今更に驚くべきにあらねども、今別れてとは残念や、百千万の心をこめし此歌 扨是宗ハ此歌を見て、扨こそ扨こそ年月馴し夫婦の中、よるの寝覚の睦言も、名所語らぬ一ッ 大いなる巨人の伝説 大いなる巨人の伝説 是迄見ざりし笑か を 悦 ふ 躰 を 感 じ 入 。 さんぶたろうが那岐山と八頭寺山をひとま (七)中島西津山渡瀬の北方の淵 あ る た め、 早 魅 時 に も 決 し て か れ る こ と が 現 在 は 約 十 坪 ほ ど の 小 池 で あ る が、 湧 水 が (八)きんたま池 奈義町中島西地区。 れ、現在は河川改修のためなくなった。 た ぎ し た 時、 金 玉 が こ す れ て で き た と い わ 扨ハ母が心をこめし此玉ハ、我子へたまもの賜りしか、此上恋ひ慕ふは未練の迷ひと漸々に、思 ひ切飛が如くニ我 が 家 を さ し て 帰 り け り 。 蛇 淵 の い は れ 此 事 な り。 末 の 世 の 今 に 至 り て も、 蛇 淵 に 雨 こ い 祈 り け れ バ 三 日 の 内 に 雨 ふ ら ず と いう事なし。又、能畝の山を大蛇八廻り巻たるいはれ有に依テ、共後此山を八巻とも言伝ふるなり。 又太郎丸が授かりし玉、五ッの光を顕すヲ以テ五光の玉と号く。 則今菅家に代々傳りし名玉なり、太郎丸常に肌身を離さずして成長して、凡人ならず、飛行自在 な い と い い 伝 え ら れ て い る。 さ ん ぶ た ろ う の金玉を押しつけた跡が池になったといわ の通力叶ひ、妖術に等敷三穂太郎光佐とて、名を満天に輝かし、其身此国に居ながら京都禁中の 守護をし、玄番頭の勅任を蒙り、三歩に行通ふに依て、三歩太郎とも申伝ふ、豊田修理進の娘を れ る。 こ の 池 よ り 南 方 に わ た り、 か つ て は である。奈義町滝本地区八軒屋。 窪 地 と な り、 沼 澤 乃 至 湿 地 帯 で あ っ た よ う 妻として、男子七 人 有 り 。 依テ菅家七流の祖 と い ふ な り 。 (九)津山市瓜生原 嫡男有元太郎佐高、二男福元彦治部(郎?)佐長、三男原田彦三郎佐秀、四男広戸主馬之助近長、 五男弓削蔵人頼光、六男垪加六郎定宗、七男菅田七郎年信、何れも秀でたる人々にて、武勇を顕し、 さんぶたろうの金玉によってできたとい いう。 い、 山 の 斜 面 に 禿 地 が あ り「 き ん す り 」 と 威を国中に振ひ、 皆 そ れ ぞ れ 取 領 を 得 た り 。 光佐ハ美作守りに任して、名木山の絶預近き所に城を築き、其屋敷跡有、東西二十五間、南北拾五間、 西北東に堀有。 (十)小鞠山 さ ん ぶ た ろ う が 都 に 上 る 時、 草 履 よ り 落 西の方に二十三間の馬場有、南の方に書院の跡有、両方長サ入間横六間里石有、此三穂太郎ハ齢 かたぶく頃迄も、不老不死容体にして、智仁勇の武威有て、七珍万宝を集めて其身ヲ全して、い ちた土塊が転がってこの山になったといわ れている。 と 栄 花 に 暮 ら し 肩 を 並 る 人 も あ ら ざ り し が、 爰 に 庄 内 西 原 村 と い ふ 所 に、 一 族 光 奥 と 申 人 あ り、 光奥の娘に小菅戸姫として、容体古今無双の美女有ける。 三穂太郎栄耀のあまり、彼の女の元へ折々忍び通ける、又同じ村に頼光といふ人あり。 是も同く彼の女恋心を寄、忍び通ひける内、双方ねたみの心でき、有時三穂太郎が忍び入りしを知っ て、はき来りしぞうりに針をさし置ければ、光佐斯共知らずかへりさに、彼の針を足の裏に踏たて、 章 史実と伝説のはざまで 一 Chapter1 第 11 大いなる巨人の伝説 Chapter1 第 一 章 史実と伝説のはざまで 此痛ミ頻りにして 種々療治を尽くすといえ共身体大きに悩乱して、変化三体を顕し、五色の息 を吹出し、庄内近郷迄四五里四方雲霞満たる如くに成りけり。 う な り け る 聲 震 動 雷 に 異 な ら ず、 暗 き 事 三 日 三 夜 に し て 名 義 山 を 枕 と し て 其 身 ハ 豊 田 の 庄 内 に 倒 れ臥す。 此時所々に大岩崩れ飛去り、石なき所に大石居り、山なき所に小山でき、久保なき所に久保できて、 跡岩跡田跡久保跡石杯いい伝る所数をしらず程ありける。 三穂太郎光佐倒伏 し 、 其 死 肉 悉 く 腐 り て 墨 と な り ぬ 。 何 国 に て も 黒 ぼ こ と い う 土 あ り と い え 共、 此 庄 内 に 限 り 誠 に 黒 き 事 摺 墨 の 如 く な り 色 の 浅 深 あ り 又頼光其時微塵に 砕 て 死 に た り け り 。 小菅戸姫ハ其後二人の菩提を弔らハんと尼と成山寺を建て、朝夕経念を唱へて住むゆへに、西原 村に小菅戸屋敷あり、又頼光光奥様といへる地名今に残れり。 其後貴賎共に三穂太郎の亡霊を尊敬して、名義山細尾の絶頂に神殿を建立して、奈義大明神と敬 ひ奉りけり。 後 世 に 升 形 と い ふ ハ 此 宮 地 な り。 是 を 勧 請 し て 関 本 村 に、 三 穂 大 明 神、 又 西 原 村 に荒 関 大 明 神、 沢村広岡村に杉大明神、高殿に御崎大明神、豊田の庄五ヶ村の神殿是なり、又三穂の字説多し山 褒三保三歩三宝三穂杯申、正慶二年四月三日に美作国三穂太郎光佐の子孫其外一族三百餘騎、官 軍に属して京都四条猪熊迄攻入、武田兵庫之助糟谷高橋が一千余騎の勢と時移る迄相戦ひて、有 元四郎佐廣、同五郎佐光惣兵衛佐吉、福光彦治部佐長、原田彦三郎佐秀、広戸掃部之助家奥、弓 削蔵人頼元、垪和六郎定宗、菅田七郎佐李、皆木佐京大夫長保、豊田修理之助為次、植月彦五郎 重佐、梶並二郎三郎頼俊、大町主馬之助重遠、小坂六郎衛門保友、戸国八三五郎教保、森安三郎 吉光、野々上兵衛盛行、多坂孫三郎久保、右手治郎通奥、江見四郎元盛、粟井三太夫盛次、松岡 治 部 之 助 種 孫、 揚 浅 五 郎 成 安、 須 江 小 五 郎 行 重、 和 田 又 三 郎 爲 元 と か、 菅 原 家 の 一 族 二 十 四 名、 二十六騎の人と能敵に馳合ニし皆々差遣て討死ヲぞしたりけり。前代未聞の忠戦とかんぜぬ人こ そなかりけり。 (十一)さんぶたろうの足跡に関するもの イ.さんぶたろうの第一歩 滝山の四方に樹木のあまり生えぬところあ り、 「さんぶたろうの第一歩」であるといわれ る。 ロ.さんぶたろうの第二歩目 植月長良池南方の巨石に足跡の形の凹みがあ り、 こ れ が「 さ ん ぶ た ろ う の 第 二 歩 目 」 の 跡 といわれる。 ハ.さんぶたろうの足跡 現在の那美池あたりにさんぶたろうの足跡と 呼ばれる二十間四方の足形地があったといわ れている。奈義町宮内地区道林坊。 ニ.さんぶたろうの足跡 さんぶたろうの足跡といわれる八間四方の貯 め 池 が あ り、 夏 冬 と も 水 が 涸 れ な か っ た と い う。奈義町柿地区逧谷。 ホ.跡田 西原の南、柿に接する谷間にあり、さんぶた ろうが都に上る時の第一歩の足跡といわれ五 畝ばかり足形様をしていたが、現在は整理さ れて原形をとどめない。奈義町西原地区。 12 終二官軍勝利を得たまひて京都六波羅伸時尊時、鎌倉の執権相模守高時、長門の探題、其外諸国 勝北町安井地区。 ヘ.さんぶたろうの足跡田 D.さんぶたろうの食事に関する伝承 の工事などにより原形をとどめない。 た ろ う の 足 形 と 呼 ば れ て い た。 現 在 は 水 路 昔、 荒 内 西 新 地 の 東 に 窪 地 が あ り、 さ ん ぶ チ.さんぶたろうの足形 うの古跡といわれる。 綾 部 村 熊 井 谷 の 内 西 畑 に 在 り、 さ ん ぶ た ろ ト.さんぶたろうの足形石 一家北条従類脊属残らず折亡したまひて、公家一流の御代となりぬれば、戦功の人々の兄弟子孫 に至る迄皆夫々に 恩 賞 ヲ 蒙 り け り 。 美作国菅家の来歴 依 テ 斯 之 通 り 末 世 に 書 残 し け り 。 三穂太郎記 終 1-1j 此本何方へ御取 替 候 共 又かし無用 □ 蛇淵の伝説※ (一)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石 西 原 字 細 田 の 川 の 中 の 巨 石。 高 さ 幅 と も 二 こ の 物 語 は 正 慶 二 年 四 月、 一 族 三 百 余 騎 を 従 え て 官 軍 に 属 し 賊 軍 武 田 兵 庫 之 助 が 率 い る 一 千 余 騎と京都四條猪の熊に戦い、はなばなしく討ち死した元弘の忠臣、さきに贈位の恩典に浴した美 メートル超。奈義町西原地区細田。 いたら飛び出した石といわれる。 さ ん ぶ た ろ う が い り こ を 食 べ る 時、 碗 を 吹 (四)蛇淵の南方、川縁の石 奈義町滝本地区長谷。 現在は某家の墓の台座になっている。 ひ と 抱 え 以 上 も あ る 表 面 が 滑 ら か な 石 で、 (三)さんぶたろうのおかゆに入っていた石 や大きいくらいの石がある。 勝北町こえがたわの奥津川寄りに牛よりや (二)さんぶたろうの飯行李に入っていた石 作菅家一族の祖先 に ま つ わ る 恋 の 悲 劇 。 頃は弘長三年三月、連山の雪も溶けてここ菩提寺の境内、谷間洩れる鶯の音に、梅も散り花は 桜の満開となった 。 あ ち こ ち か ら 杖 を ひ く 数 限 り の な い 花 見 遊 山 の 客、 そ の 中 に 所 も 知 ら ず 名 も 知 ら ず 噂 の 種 の 女 が一人あった。 (本伝説の主人公三穂太郎満佐の実伝には彼女を次の如くいっている) 年の頃二八ばかりになる女、凡人とも見えず、白姿の小袖に上は唐綾を四季の模様に染め分け、 春の弥生のあけぼの霞に匂い、梅ケ枝に初音を知らす鶯茶、左右の袖は夏来にけらし、白妙の卯 の 花 に 時 鳥、 腰 の 模 様 は 目 に は さ や か に 見 え ね ど も、 秋 の 千 秋 の 花 紅 葉、 妻 恋 ふ 塵 も 愛 ら し く、 章 史実と伝説のはざまで 一 Chapter1 第 13 大いなる巨人の伝説 第 一 章 史実と伝説のはざまで (五)さんぶたろうのお櫃石 人 の 身 長 位 の 高 さ が あ り、 飯 を す く う 杓 子 の 跡 が あ っ た。 近 藤 村( 現 在 の 奈 義 町 滝 本 地 区 ) の 久 保 田 に あ っ た が、 那 岐 池 構 築 の 14 Chapter1 袖は難波や葦の葉に、積れる雪の冬景色、岩間も氷る池水に、鴛鴦の浮ねの思いは思い、揺られ 揺られる風情して、露を含める海棠の、綻びかかる眼元にてかつらの眉墨細々と、たんかはの唇 鮮やかに、芙蓉の眉尻いと気高く、誰が袖ふれん心地して、心ときめくばかりなる。 とき石垣用に砕石された。 (六)さんぶたろうの飯茶碗に入っていた石 那岐山大神岩の下方にある黒石。 昔、 盗 賊 が さ ん ぶ た ろ う の 釜 を 盗 ん だ と こ (七)釜田 の三流と称し、兄弟三人は勝田郡五ヶの庄を領していた。 ろ、 に わ か に 大 雨 が 降 り 出 し た た め 持 ち 帰 る こ と が で き ず、 そ の 場 に 置 き 捨 て て い っ た。その場所は釜田とよばれるようになり、 捨てていった釜が今も土の中に眠っている といわれる。 (八)右手奥の坂の石 さんぶたろうが立石に腰をかけ昼飯を食べ て い た 時、 弁 当 の 中 に あ っ た 小 石。 箸で 坂 に 落 ち、 地 面 に 食 い 込 ん で 止 ま っ た も の は さ み 投 げ 捨 て た と こ ろ、 向 か い 側 の 奥 の はぢも知れ涙の 川 の 渡 守 こぎゆく舟にまかす心を といわれる。勝央町曾井地区 さんぶたろうのいりこの中に入っていた石 (九)曾井の大岩 といわれる。 言ひすつる言の 葉 ま で に 情 あ れ ただいたずらに朽ち果つる身を そこで長光坊は 長光坊はこの歌を持って彼の女にあい、その意を告げるがなかなか受けてくれない。 技高き梢も折れ ば 折 れ る ら ん およばぬ恋もなるとこそ聞く そして次の和歌を 託 す の で あ る 。 だちを頼むわけで あ る 。 実兼は、「春雨に見る花なれど今年より 咲き始めたる心地こそすれ」と詠んで、僧長光になか ここから歌のや り と り で 話 を す す め よ う 。 この実兼が彼の 女 を 見 染 め た わ け で あ る 。 稀にみる美男子で あ っ た 。 うち豊田の庄の領主を菅原実兼と呼んだ。実兼は文武両道の良将で、殊に和歌の道に達し、なお 美作の菅家は菅原亟相道真二十余代の後胤が、故あってこの国に下らせ給い、子孫栄えて菅家 さてその謎の女、気高い天女は果して何人の為に手折られたであろう。 かった。 噂を重ねるばかりで、花よ花よとたはむれる遊山客さえ、まだ一人として彼と話をしたものはな かくして彼女は朝の霞の中にぼんやり姿を現しては夕暮るる頃、何処となく消えてゆき、噂は 大いなる巨人の伝説 とよんだところ、 彼 の 女 は 次 の 歌 を 返 し た 。 心より心迷はす 心 な れ 心に心こころ許すな(女) 恋ふれども人の 心 の 觧 け ぬ に は 結ばれながらかへる玉章(長光) 恋ふるとも主あ る 人 は 觧 け ま じ き 結びの神の許しなければ(女) これから実兼と女との間に恋歌のやりとりが行はれ、彼らの姿は毎日菩提寺境内に見られるよ うになった。 即ち次のような歌 で あ る 。 哀れとて人の心 に 情 あ れ な 数ならぬにはよらぬ歎きを(実兼) E.その他の伝承 (一)双子山 さんぶたろうが力試しに二つの山をかつい だ と こ ろ、 も っ こ の 緒 が 切 れ て で き た 山 と いわれる。 (二)十王堂の十王像 き わ め て 古 い 時 代 の も の と い わ れ、 土 の 中から頭を出しているのはほんの一部分に 過 ぎ ず、 実 際 の 目 方・ 大 き さ は は か り か ね る ほ ど と い わ れ る。 も と も と さ ん ぶ た ろ う が背負っていたものを落としたことに気付 か ず、 そ の ま ま 通 り 過 ぎ て し ま っ た た め、 を 夢 に 見、 そ れ が 元 で 発 見 さ れ こ こ に 安 置 で は あ る 人 が、 川 の 中 に 光 る も の が あ る の 以 来 こ こ に あ る と い う。 ま た 別 の 言 い 伝 え 海も浅し山も眼 に な く 吾 恋 を 何によそへて君に言はまし(実兼) されたともいわれている。 勝央町岡地区。 哀れとて人の心 に 許 あ れ 数ならぬともままならぬ身を(女) 道ならむ道と思 へ ば 吾 心 何によそへて君に答えん(女) 疣池様の石を借りてきてイボをさすり、治っ で 深 さ は わ か ら な い と い う ) が あ る と い い、 中 に あ っ て 直 径 一 尺 ほ ど の 丸 い 穴( 砂 な ど また岩は、余野と真加部の境界、梶並の水 れている。 勝田町真加部地区。 イボを洗うとたちまちイボが落ちるといわ 跡 と い わ れ、 こ こ に 精 米 を 入 れ、 そ の 水 で て い る と い わ れ る。 さんぶたろうの杖の 岩に空いた孔から水が湧き出て池を成し (三)疣(いぼ)池の岩 紅に涙の色のな り 行 く を 幾しほまでと君に問はばや(実兼) 一花に思ひ始め た る 紅 の 涙の色はさめもこそすれ(女) こうして歌に、思いをかけているうち、慕情つのるばかりの実兼は、とうとう次の歌に、ほか 八首を添へて彼女 に 渡 し た 。 ところがこれに答 へ て 次 の 様 う な 判 じ 物 が 女 か ら き た 。 即ち「モ」の字が四字と「ノ」の字、その下へ弓張月と「刀」の絵をえき、「心」といふ字があった。 章 史実と伝説のはざまで 一 Chapter1 第 15 思へども合ふこ と か た き 片 糸 の いかにいつまで結ばれるらん 大いなる巨人の伝説 第 二 章 実在の人物菅原三穂太郎満佐 たら石三個をお返しするとよいといわれる。 (六)さんぶたろうの飛礫石 和田村の境にある直径八尺ほどの大岩。 (七)跡岩 連 光 寺 の 奥 に あ り、 長 さ 八 尺、 幅 七 尺、 厚 さ 五 尺 の 黒 岩。 人 の 足 跡( 八 ~ 九 才 ぐ ら い の 童 子 の 足 跡 の よ う ) と 馬 の 足 形 が あ り、 さんぶたろうが那岐山から後ろ向きに投げ たためこの地にとどまったという。 (八)さんぶたろうのちんぽ石 広 岡 の 大 谷 池 の 北 方、 あ た ご 様 の 上 方 に あ り、 全 高 約 一 メ ー ト ル 超 の 石。 男 根 に 似 て いる。 16 Chapter2 ■ 第二章 実在 の 人 物 菅 原 三 穂 太 郎 満 佐 ■ (四)杖の跡石 国 ヶ 原 に あ り、 さ ん ぶ た ろ う の 杖 の 跡 と い う。 津山市綾部地区。 (五)しおの下さま ぎ あ げ た と 伝 え ら れ る。 高さ十メートル さんぶたろうが牛に乗ってふもとから担 ぐらいでふもとの石には牛の足形が残って 所収の有元家略系図に、三穂太郎満佐について次のような記述がある。 1-2a いる。 菅原三穂太郎満佐はその祖であり、巨人さんぶたろうのモデルといわれている。 『東作誌』 □ 三穂太郎は 何 者 か ? そこで本章では、さんぶたろうのモデル三穂太郎満佐について紹介していきたい。 考になると思う。 た 人 物 と そ の 時 代 背 景 を 知 る こ と は、 伝 説 の 中 身 や そ れ が 成 立 す る 過 程 を 想 像 す る 上 で 大 い に 参 本稿はあくまで伝承上のさんぶたろうに対する考察をメインテーマにしているが、モデルになっ 名乗り美作菅家党 と 呼 ば れ た 。 かつて美作地方東北部に、中世を通じて一大勢力をはっていた武士団があり、菅原氏の子孫を 通った異能の人とされているが、もちろん伝説の中の話である。 さんぶたろうは、人と大蛇の間に生まれた半神的英雄であり、仙術を自在に操り三歩で京まで 大いなる巨人の伝説 また、 満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也。満佐其性質太 ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行或云播州中山村佐用姫明神通妻 妬 而 殺 満 佐 干 時 天 福 二 年 甲 子 九 月 十 五 日 満 佐 五 十 二 才 也 満 佐屍 解 飛 去数 仙 不 知 其 終 干 今 祀其 霊。 豊田庄氏神矣関本亦三穂太明神之宮祠則祭日九月十五日也 (九)蛇淵 さんぶたろうの母はこの淵の主であった。 那 岐 山 中 腹 に あ り、 現 在 は 付 近 を 登 山 コ ー スが通っている。 (十)八(鉢)巻山 さ ね か ね が、 さ ん ぶ た ろ う の 母( 大 蛇 ) と 破 ら れ た 大 蛇 は、 こ の 山 を 八 巻 き し て 怒 り の 誓 い を 破 り 産 屋 を 覗 い た た め、 正 体 を 見 とあり、これらの記述によると、満佐は菅原道真の子孫であり三穂太郎と号し、名木山(那岐山) をあらわしたという。 ○ はんじ物 1-1h 書したものとある。 義 町 宮 内 地 区、 吉 元 萩 子 氏 蔵 の 文 書 よ り 転 本 書 に よ れ ば、 底 本 は 1 9 6 9 年 3 月、 奈 ○ 1-1g 三穂太郎記 高村継夫著『さんぶたろう考』より。 能畝山(とかりやま)ともいう。 に城を構え、豊田右馬頭の娘との間に七人の子をもうけたことになっており、また飛行の術を自 在にあやつった異 能 の 人 で あ っ た と も い う 。 なお、文中の「屍解」とはおそらく「尸解」のことであろうと想像される。 。 1-2b 「屍」と「尸」はどちらも音通で人間のしかばねをあらわす漢字であり、 尸解とは死後、 肉体をもっ たまま仙人になる こ と で あ る 満佐は死後、昇 仙 し た の で あ る 。 今でも那岐山麓のどこかで、子孫たちの営みを静かに見守っているのかもしれない。 章 実在の人物菅原三穂太郎満佐 第 二 また同じく植月家略系図には Chapter2 17 大いなる巨人の伝説 第 二 章 実在の人物菅原三穂太郎満佐 ○ 能畝山を八巻きする大蛇 1-1i ○ 1-1j 蛇淵の伝説 高村継夫著『さんぶたろう考』より。 本 書 に よ れ ば、 底 本 は 1 9 6 8 年 4 月、 西 山 薫 氏 蔵 の 書 写 し た も の を 転 書 し た、 原 本 は西原あたり?とある。 18 Chapter2 とあることから、菅原道真の子孫にして三宝太郎と号し、是宗城主であったことになる。 =文歴元年と改元)年52歳卒とあるので、逆算すると寿永 1234 と母が弘長三( 1263 )年に出会い、まもなく生まれたことになっているので、太郎は1263 ~ 4年生まれになる。50歳で死んだとすれば1310年代前半である。 二( 1182 )年に生まれたことになり、先の概算と活躍年に60~80年ほどのずれを生ずる。 その他、『美作略史』 1-2d では文歴二( 1235 )年卒、 『蛇淵の伝説』 『三穂太郎記』では父実兼 ま た、 有 元 略 系 に は 天 福 二 ( 有元家略系図中、満佐の三代前、保安元( 1120 )年卒の真兼を基準にすると満佐は1160年代 から80年代にかけて活躍した人ということになる。 仮に当時の平均寿命を約50 年、家督を譲られてから約20 年で世代交代するとして、 『東作誌』 らないとしかいいようがない(満佐にしても、有元略系と植月略系ではすでに内容が異なる)が、 系図は編纂者の都合でさまざまな改ざんが加えられるのが常であるから、本当のところはわか 満佐はいったい い つ ご ろ に 生 き た 人 だ っ た の か 。 。 1-2c 麓 一 帯 に 勢 力 を 張 る 地 方 領 主 の 一 人 で あ り、 菅 家 七 流 の 祖 で あ る こ と で お お む ね 一 致 し て い る になっているなど細部はことなるが、総合すると満佐は、菅原道真の子孫を名乗り、代々那岐山 三 穂 太 郎 が 三 宝 太 郎、 名 木 山 城 が 是 宗 城、 妻 の 父 親 が 豊 田 右 馬 頭 で あ る と こ ろ を 豊 田 修 理 之 進 という記述がみら れ る 。 三穂太郎は、豊田修理之進の聟と云い、菅家七流の祖と聞伝ふる 文化十( 1814 )年ごろ皆木保実によって著された『白玉拾』豊田庄是宗村の項に 大いなる巨人の伝説 ごらんのように、資料によって満佐の活躍年代にはかなりの時代的隔たりがみられるが、 仮に『東 作誌』有元家略系図によれば鎌倉時代中期、『蛇淵の伝説』 『三穂太郎記』によれば鎌倉時代末期 の人ということに な る 。 □ 太郎の母は 何 者 か ? 伝承によればさんぶたろうの母は蛇精であったと伝えられている。 太郎の母がなぜ大蛇なのか、またなぜ太郎が巨人でなければならなかったか、その意味につい ては第二部以降で推理するとして、ここでは系図上の母親の出自について考えてみたい。 『東作誌』是宗 村 の 項 に 次 の よ う な 記 述 が あ る 。 相 伝 う 近 藤 武 者 是 宗 景 頼 の 子 宇 合 筑 後 守 頼 資 保 元 の 乱 に 新 院 に 興し 奉 り 作 州 豊 田庄 に 被 配 流、 ○ ○ 『東作誌』 1-2a 五色の玉 1-1k 正木 兵馬 輝雄著。文化十二( 1815 )年成立。 著 者 の 正 木 輝 雄 は 津 山 藩 士 で あ り、 元 禄 四 ( 1691 ) 年 成 立 の 地 誌『 作 陽 誌 』( 江 村 宗 晋 撰;長尾隼人勝明編。美作国の西6郡のみで 未完に終わっている)を補うため、東6郡(東 南条、東北条、勝北、勝南、吉野、英田)の 地誌として編纂された。 其邑を近藤村と称す。或は云う平治の乱に近藤武者是宗此国に来り死す。近藤村と云う。是宗村 と云ふ。其の子二人あり兄公資。(一説に父は頼資藤性母は二階堂維行女なり)二男公継此の二子 異本が多数存在するが、本稿は『新訂作陽誌』 という。 上士は飛挙して虚空にのぼる。これを天仙 して、 影響を与えた書のなかで、『仙経』にいうと は『抱朴子』という後世の神仙思想に多大な ○ 1-2b 『抱朴子』 東晋の神仙思想家葛洪(二八三~三四三) した。 全8巻(作陽新報社刊)所収のものを参考に を連れて有元家に す 。 章 実在の人物菅原三穂太郎満佐 第 二 またおなじく『東作誌』所収の有元家略系図にも次のような記述があり、先の記述と一致する。 Chapter2 19 大いなる巨人の伝説 第 二 章 実在の人物菅原三穂太郎満佐 中士は名山に遊ぶ。これを地仙という。 下士はまず死んで、 そののち蛻(もぬ)く。 これを尸解仙という。 と 述 べ、 い っ た ん 死 ん で 亡 骸 を 脱 ぎ 捨 て た 後、 し ば ら く し て 再 び 肉 体 を 取 り 戻 し て 復 活 す る こ と で 不 老 不 死 に な っ た 者 を「 尸 解 仙 」 と い う、 と あ る。 内 篇 2 0 篇、 外 篇 5 0 編 か ら な り、 内 篇 で は 主 に 仙 人 に な る ための理論と実践が述べられている。 ○ 1-2c 菅家七流 一般に有元、廣戸、福光、植月、原田、鷹取、 江 見 の 家 を 指 す と い わ れ、 廣 戸 の か わ り に 野上、鷹取のかわりに豊田とする説もある。 ま た 福 元、 弓 削、 垪 加、 菅 田 な ど を 加 え る 場合もある。 ○ 1-2d 『美作略史』 全4巻。矢吹 正則著;矢吹 金一郎校正。明 治 十 四( 1881 ) 年 発 行。 和 銅 六( 713 )年 か ら 明 治 四( 1871 )年に至る美作地方の歴 史 を 編 年 体 で 記 録 し た 歴 史 書。 本 稿 は『 美 作 略 史 』( 1976 年、 名 著 出 版 刊 ) の も の を 参考にした。 20 Chapter2 とあり金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼の四鬼の力を操り朝廷に反逆し、伊賀伊勢両国を支配したとい 紀朝雄と云ふ人・副将軍となりて之を討つ。 1-2g 伊賀国霧生郷へ籠 居 す 。 藤原千方朝臣・村上天皇の御宇、正二位を望みしに、其の甲斐なくて、日吉の神輿を取り奉つて、 また『准后伊賀 記 』 に 因りて紀朝雄・宣旨を奉じて下り討ち、千方遂に殺さる。 天智天皇の御宇 1-2f に、藤原千方と云ふ者ありて、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と云ふを使えり。 伊賀、伊勢を押領 し 、 為 め に 王 化 に 従 ふ も の な し 。 藤原千方は『太平記』巻十六 日本朝敵ノ事によれば、 満佐が藤原千方(ふじわらのちかた)から仙術を伝授され、自在に空を飛んだという記述がある。 有元家略系図の名が出てきたので系図中、「外祖」とされる人物についても少し触れておくと、 であることは、そ の あ た り の 事 情 に よ る の だ ろ う 。 つまり、仲頼にとって初めての実息が満佐であり、三男満佐の幼名が長男をあらわす「太郎丸」 そこで生まれたの が 太 郎 丸 、 後 の 三 穂 太 郎 満 佐 で あ る 。 になっている。 1-2e そ の 後 夫 は 亡 く な り、 太 郎 の 母 は 二 人 の 息 子 公 資、 公 継 を 連 れ て 有 元 氏 に 嫁 ぐ こ と に な る が、 与 し て い た た め 作 州 へ 配 流 さ れ た 最 初 の 夫 藤 原( 宇 合 ) 頼 資 と と も に 奈 義 の 地 に や っ て き た こ と これらによると太郎の母はもと二階堂姓であり、保元の乱の折、敗れた新院(崇徳天皇)側に 大いなる巨人の伝説 )の御宇の人とも平安時代の人ともいわれ確かなことはわかって 671 われる伝説の人として、『太平記』では平将門、平清盛らに比肩される朝敵の一人として挙げられ ている。 千方は天智天皇( 662 ~ いない。 どちらにしても太郎の生きた鎌倉時代とは隔たりがあるが、朝廷軍を退けるほどの方術の持ち 主であるから、異常な長寿であったとされたのかもしれない。 ちなみに千方が使役した四鬼は、式神(しきがみ。陰陽道で術者に使役される精霊。識神とも) とも忍者ともいわ れ て い る 。 話を戻そう。 満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也 満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行・・・ 有元家略系図で千方は「外祖」と呼ばれている。はじめ母の前夫藤原氏と同姓であることから、 その父親(満佐の祖父)とも考えたが、外祖は外祖父、つまり母方の祖父をあらわす言葉であり、 つじつまがあわな い 。 母方の二階堂氏との関係も考えたが、先に述べたように系図上母方の祖父は二階堂維行である。 仮に千方が父方に連なる人物であるとすれば、兄にとって血のつながった祖父、母の義父であり、 。 1-2h 満佐にとっても血縁関係こそないもののつながりのある人物という程度の意味で「外祖」と表現 されているのかも 知 れ な い 章 実在の人物菅原三穂太郎満佐 第 二 力を権威づけしよ う と し た と も 考 え ら れ る 。 Chapter2 ○ 満佐の子孫が有元姓を名乗ったのは、 1-2e 名 木( 那 岐 ) 山 の ふ も と 元 [ に ] 有 [ っ ] たからとも、宇合氏の血が入ったため(宇合・ 有 元 と も、 音 読 み で は ウ ガ ン ) と も い わ れ ている。 ○ 1-2f 天智天皇の御宇 金勝院本では、恒武天皇とされる。 ○ 1-2g 『尊卑文脈』によれば、藤原秀郷(ム カデ退治で有名な俵藤太である)の孫に千方 という人物があり、村上天皇の治世とほぼ一 致 す る。 た だ し、 知 ら れ る 限 り 正 史 に は こ の千方が反乱を起こしたという記録はない。 ○ 1-2h 『美作太平記』などによれば、宇合 頼資の先祖は俵藤太とされており、そこに連 な る 千 方( 1-2g でいう朝敵でない方の)と も 系 図 上 つ な が る こ と に な る。 同 姓 同 名 の 千方どうしを二重三重にひっかけているの かも知れない。 21 あるいは二階堂氏は元をたどれば藤原姓であるから、同姓の千方に仮託して太郎の不思議な能 大いなる巨人の伝説
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