日本最古の庚申堂「八坂の庚申堂」

日本最古の庚申堂「八坂の庚申堂」
1、「八坂の庚申堂「と四天王寺庚申堂
私が以前に書いた「中国伝来文化・三尸の思想」という論文で、次のように述べた。すな
わち、
『 現在の「八坂の庚申堂」は、江戸時代に日本三代庚申堂の一つと言われてきたが、こ
れはもともと秦氏の菩提寺であったものである。平安時代に浄蔵がそこの住職になってか
ら朝廷の支援も得ながら庚申堂としての形を整えてきたものであろう。 』
『 庚申信仰を積極的に唱導し、その普及に一役も二役も買ったのが天台宗であり、主な
庚申堂はすべて天台宗である。 江戸時代、八坂の庚申堂とともに 大阪の四天王寺庚申堂
と江戸の入谷庚申堂が「日本三庚申」と言われた。入谷庚申堂は今はない。』
『 四天王寺庚申堂は山門に「本邦最初庚申堂」の表札をか かげ、自称・日本最初の庚
申堂となっている。しかし、私の調べたところでは、「八坂の庚申堂」の方が古いよう
だ。八坂の庚申堂は正式名を大黒山金剛寺延命院と称する浄蔵ゆかりのれっきとした天台
宗の寺院である。』
以上において、『四天王寺庚申堂は山門に「本邦最初庚申堂」の表札をか かげ、自称・日
本最初の庚申堂となっている。』と述べたが、この点については、窪徳忠(宗教民俗学者
で東大名誉教授)の著書「庚申信仰の研究・・日中宗教文化交渉史」(昭和36年3月、
丸善)で次のように述べられている。すなわち、
『 庚申待が文武天皇大宝元年に始めて四天王寺庚申堂で行なわれたという説は、江戸時
代には広く流布していたらしく、「太上恵民庚申秘録」はじめ諸書に見えている。けれど
もその論拠になったと思われる庚申縁起類には、単に帝釈天の使者である童子が作法を教
えたと記されているにすぎないから、大宝元年庚申待始修説は、後人が縁起の説を曲解し
た結果に他ならない。』・・・と。
四天王寺の公式ホームページには、四天王寺庚申堂のことは書かれていないが、四天王寺
には境内のお堂などを巡る集印帳というのがあって、その集印帳に四天王寺庚申堂の「い
われ」が書いてある。四天王寺庚申堂が第33三番の札所になっているのである。
( http://cendriillon.blog.jp/archives/34106872.html より)
この集印帳には次のように書かれている。
日本最初の庚申尊出現の地。
本尊は青面金剛童子(秘仏)。
大宝元年(701)正月7日庚申の日、毫範僧都(ごうはんそうず)が、疫病に苦しむ多
くの人々を救わんと一心に「天」に祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現し、
除災無病の霊験を示され、以来1300年、庚申の日及びその前日(宵庚申)に本尊に祈
れば、必ず一願が叶うと尊崇さている。
なお、四天王寺の正式な行事として、この四天王寺庚申堂において「庚申まいり」が厳修
されている。それについては次のホームページをご覧いただきたい。
http://www.shitennoji.or.jp/report/423%E3%83%BB24%E5%BA%9A%E7%94%B3%E3%81%BE
%E3%81%84%E3%82%8A/
四天王寺庚申堂の写真は次のホームページが良い。
http://ameblo.jp/rallygrass/entry-11179424587.html
さて、四天王寺庚申堂のご本尊「青面金剛童子」の像がどういうものかは、秘仏になって
いるので私達には知ることができない。一般的に庚申堂の本尊は、青面金剛とされてお
り、次のようなものである。
八坂庚申堂の青面金剛像
( http://www.geocities.jp/yasakakousinndou/honzon.htm による)
東大寺には、平安時代に作られた青面金剛像がある。これが作られた経緯はまったく不明
であるが、庚申信仰と関連があるのは間違いないだろう。
2、青面金剛像について
青面金剛(しょうめんこんごう)は、インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に
由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。その典型が八
坂庚申堂の青面金剛像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる
が、三匹の猿が添えられているのに御注目願いたい。三猿のモチーフは、庚申信仰の伝播
とともに平安鎌倉時代以降広く用いられるようになり、掛け軸に青面金剛像を描く場合に
も、主尊の足元に三猿が添えられた例が多い。しかし、この三猿のモチーフは、どうも世
界的なものらしい。
3匹の猿というモチーフ自体は古代エジプトやアンコールワットにも見られるもので、シ
ルクロードを伝い中国を経由して日本に伝わったという見解がある 。「見ざる、聞かざ
る、言わざる」によく似た表現は古来世界各地にあり、同様の像も古くから存在する。し
かしそれぞれの文化によって意味するところは微妙に異なり、またその起源は未だ十分に
解明されておらず、今後の研究と調査に委ねるところが大きいのである。
『論語』に「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなか
れ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうな
かれ)という一節がある。こうした「不見・不聞・不言」の教えが8世紀ごろ、天台宗系
の留学僧を経由して日本に伝わったという説があるが、その教えと結びついて三猿のモ
チーフが出来上がったのかどうかはまったく不明である。
庚申信仰において、なぜ三猿なのか? その点については、「庚申(かのえさる)」の申
(さる)にかけたもの、山王信仰の山王権現の使者が猿であることから申(さる)を連想
させたというもの、また三猿の起源が古く ゾロアスター教、ヒンズー教の中にも認められ
る為、仏教や密教の伝来と共に渡来した教えや儒教の道徳的観念からの流れなどの説があ
る。しかし、私は、三尸の思想との関連から、告げ口をする三尸(サンシ)に対抗する象
徴として、罪を報告させないように「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿のモチーフが
出来上がったと考えているのである。もちろん、三尸の思想が日本に定着した時期以降で
ある。三尸の思想が日本に定着し庚申信仰が行なわれるようになった時期については、後
ほど説明するが、私は、医心方が朝廷に献上された984年、それ以降と考えている。お
おむね11世紀ではないか。
なお、円仁が著した『入唐求法巡礼行記』によると、中国でも日本と同じような夜を寝な
いで過ごす習俗があったことは間違いないが、日本の場合、それは庚申待ではなく、それ
以前に大和朝廷で行なわれていた「日待・月待」であると思う。「日待・月待」について
も後ほど触れたいと思う。
3、「八坂庚申堂」の起源
(1)日待・月待
「日待・月待」については、素晴らしいホームページがあるので、それからを紹介するこ
ととして、私の説明に代えたい。
http://www15.plala.or.jp/yai/sekibutu/himati.html
その要点は、次のとおりである。すなわち、
『 日待、月待の研究は、これまでもっぱら民俗学の分野で行なわれてきた。おのずから
その取り組み方には限界がある。頭から民間信仰と決めてかかり、主上 の御日待や、五
流尊瀧院のお日待法事、かつて行なわれた住吉大社の日待神事などは話題にもあがってこ
ない。』
『 日待は本来、人々が一定の日に決められた場所に集まり、夜もすがら忌みごもりなど
して日の出を拝 した行事であった。この日待の起源について鉄証をあげて明快な説明を
するのは困難だが、あるいは古代の日奉部(日神祭祀にかかわる部民)などにも関係ある
行事かもしれない。ともあれ 日待は古代の信仰に根ざした古い習俗と思われる。』
『 日の出を拝することに主眼があるのであれば、早朝に起きておこなえばすむことであ
る。なぜ夜もすがらの忌みごもりな のか。』
『 庚申待を庚申日待、巳待を弁天日待、榛名代参講の講行事を榛名日待と呼称している
のは、日待が庚申待や巳待などよりも早くから 実施されてきた習俗である。』
『 民俗学では庚申信仰を舶来でなく、わが国固有の信仰と考え、その講的組織や徹夜の
作法などは日待、月待の形式を真似たものとみている。』
『 庚申信仰の根底に日待、月待があるという想定のもとには、庚申塔に日輪、月輪が刻
まれているという事実がある。すべての庚申塔というわけではないが、相当数のものに日
月輪がみとめられ、日待、月待とのかかわりを疑わせる。』
『 この日待で月の出を待つ一夜、夜もすがら眺めるのは満月であり、月への崇拝は古く
からのことであるから、当然、その夜、月への崇拝や祈願もおこなわれたにちがいない。
結局、日待と同様の方式で月待はおこなわれたのである。』
『 わが国でも平安、鎌倉の時代に十五日の月を礼拝する宗教的儀礼を伴った行事として
夜もすがら月にむかい、勤行看経することが行なわれてきた。』
『 庚申信仰はすでに平安時代にさかんであった。』
『 古代人の生活は月の運行を基にした太陰暦の上に立ち、また日本の祭は本来、夜を中
心にし ておこなわれたものであるから、満月である十五夜と、その前後の上弦、下弦が
祭の日に選ばれた。だから何夜待といったところで、必ずしも月に関する信仰と は言い
切れない。日待という言葉は農村においては月待以上に今なお一般に用いられており、祭
とほぼ同じ意味に用いられてさえいる。』
『 日、月輪は庚申塔や地蔵塔、馬頭観音塔などにもみられる。』
『 日、月輪は石塔以外にもみられる。神社、それも古社、の灯篭の飾りはすべて日月輪
である。『続日本紀』に記された朝賀の儀の模様をみると、四神の旗と並 んで日像、月
像の旗がたてられている。』
『 陰陽道というのは要するに、万事を陰と陽の二元論で説こうとするもので、陰の代表
が月、陽の代表が日である。換言すれば、日輪、月輪の現われる石塔には陰陽師、あるい
はこれと一連の修験者、がかかわっていたということで、日待、月待信仰はこのような視
点から再考してみる必要がある。』・・・と。
以上のとおり、日待は古代の信仰に根ざした古い習俗であり、庚申信仰の根底に日待、月
待があるのである。庚申信仰は平安時代に始まったが、「日待・月待」はそれ以前から行
なわれ来たのである。
(2)三尸思想の起源
道教の古典、抱朴子の微旨
の、三尸(さんし)の説明がある。曰く、① 三尸は人の
身中にあるが、形がなく、霊魂、鬼神のたぐいである。② 三尸は、その人を早く死なせ
たいと思っている。なぜなら、人が死ねば、三尸は、死体に供えられた供物を食べ歩くこ
とができるからである。③ 三尸は、庚申の日(60日に一日はある)になると、いつも
天に登って、天の寿命を司る神様である司命にその人の犯した悪事を報告する。④ その
罪の大きな者に対しては、寿命300日を奪う。罪の小さな者に対しては、寿命3日を奪
う。
中国には功過思想と呼ばれる考え方がある。それは大まかに言えば、天は人間の「行為」
を逐一監視していて、善い行いには賞を、悪い行いには罰をその「報 い」として与えると
いうものである。このような思想は古くから存在し、晋代に記された『抱朴子』という書
物においてその基礎を完成させて以来、道教の倫理 部門の中心となって、長い間中国人の
心理面に大きく影響を与えてきた。
『抱朴子』という書物を著したのは、東晋の
洪(かつこう、283∼363年)という
人物である。 彼は若い頃から神仙思想にも興味をもちはじめ、
師である
玄と
隠に師事した。
隠の
洪の祖父は、いとこ同士である。よって、洪が若くして神仙思想に興味
をもったのも、その家庭環境の影響であると考えられている。『抱朴子』はその後の道教
教理の基礎を築くことになり、そこに書かれた功過思想も当然受け継がれ、後世の善書や
功過格などに集約されることになる。
『書経』・『墨子』・『太平経』や初期道教教団・『抱朴子』という、功過思想が顕著に
表れていると考えられる書物に関して、私は、そこに 書かれた功過思想の特徴とその変化
を勉強した。その中で、私は「功過思想がどういう立場で、何を目的に説かれたのか」と
いう点に特に注目してその流れを 追ってみたので、それをこの際ここに紹介しておきた
い。
『書経』や『墨子』にみられる功過思想は、主として「周王朝」や「墨子」などが行為者
である民衆を統制する目的で説いたものであり、民衆 にとって「行為」の実践には義務
的な意識が常にあったということができるだろう。しかし個人主義の萌芽によって、民衆
も自身の「行為」に対して、はっきり とした目的を持つようになる。それがあらわれ始め
るのが、『太平経』や初期道教教団にみられる功過思想である。これらの教団が功過思想
を説いたのには信者 を統制する目的があったのも事実であり、信者たちは罪の意識のた
め「行為」に対して義務的な意識を持っていたであろうが、それと同時に彼らは長生とい
う、 非常に個人的な目的のために善い「行為」をしていた。そして『抱朴子』になると、
その傾向はますます強まる。ここでの功過思想は道士の立場から説いたもの であり、彼
らは延年或いは不老不死という、専ら自分自身の利益追求のために善い「行為」を行っ
た。そして、このような傾向は善書や功過格に受け継がれ、一 般民衆が自らの幸福追求の
ために善い「行為」を行う動機となったのである。後世の驚くべき影響力を持った民衆的
な道教思想はこのようにして生み出された。 よって無意識的にではあったにせよ、『抱朴
子』において功過思想を大きく変えることになった
洪の業績は、道教史上やはり非常に
大きいと思う。
(3)阿知王
明日香には高松塚古墳やキトラ古墳や石舞台などよく知られている遺跡があるが、それら
高貴な方を支えた実力者に阿知王ならびにその子孫である「東漢(やまとあや)氏」がい
るのであって、私たちの歴史観を育てるためには、阿知王ならびにその子孫である「東漢
(やまとあや)氏」のことを知らねばならない。
「日本書紀」には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖・阿知使主(あちの
おみ)、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来
帰り」と伝わる。
また、『続日本紀』によれば、阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君
子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと伝わっている。阿知王
は、東漢(やまとあや)氏の祖であるが、『続日本紀』には、東漢氏の由来に関して、
「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優
れていたことが書かれている。
阿知王の末裔、つまり東漢(やまとあや)氏の末裔には朝廷の重臣が多く、彼らはそれぞ
れの時代に大きな働きをした。
その中にかの有名な坂上田村麻呂がいる。 世に出回っている系図によると、坂上田村麻
呂の「大叔父」が「医心方」を書いた丹波康頼(たんば の やすより)である。
阿知王の子孫は、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大国と続くが、坂上大国
の子供に坂上犬飼と丹波康頼(たんば の やすより)がいるという系図があるのだが、坂
上犬飼の子供が坂上苅田麻呂であり、その子が坂上田村麻呂であるから、その系図によれ
ば丹波康頼(たんば の やすより)は坂上田村麻呂の「大叔父」になる訳だ。 坂上犬飼と
丹波康頼(たんば の やすより)が兄弟だという系図は間違いだという見解もあるので、
坂上田村麻呂の「大叔父」が丹波康頼(たんば の やすより)であるというのはともか
く、丹波康頼(たんば の やすより)が本来坂上氏であることは間違いない。 丹波康頼
(たんば の やすより)は、本来坂上氏であるが、永観2年(984年)に『医心方』全30巻
を編集し朝廷に献上、その功績をもって朝廷より「丹波宿禰」姓を賜り、以来医家として
続く丹波氏の祖となったのである。
阿知王は、「中国の医学書80冊」を持って日本にやってきた。そして、その医学書80
冊とともに、それを読む漢文の知識が、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大
国などを経て丹波康頼(たんば の やすより)へと伝承されいったのである。
(4)三尸の思想の最古の文献・医心方
三尸の思想は、阿知王の中国から持参した80冊の文献の中にあった筈。それ以外の文献
は考えられない。つまり、三尸の思想は、阿知王が日本に齎したもので、長い間日の目を
見なかった。日の目を見たのは、丹波康頼が医心方を表してからである。
医心方に庚申講に関わる記述があるひとつの証拠として、槙佐知子さんは次のように書い
ている。すなわち、
『 窪忠徳著「庚申信仰」に深瀬権作氏談として挙げてある(庚申講の際の)呪文「オー
コーシ、ホウジョウシ、メイシュウシ、ホーショウシ、コウリガッシン」は、医心方の三
尸を去る呪文「 彭候子(ほうこうし) 彭常子(ほうじょうし) 命児子(めいじし) 悉窈冥中(しつようめいちゅう) 去離我身(きょりがしん)」が訛ったり脱落したりし
たものであろう。』(1993年9月30日、東京新聞夕刊、「書物の森を散歩す
る」)・・・と。なお、窪忠徳(元東大名誉教授)の「庚申信仰の研究」には、医心方に
関わる記事が沢山出ていることを申し添えておく。庚申信仰の起源は間違いなく医心方に
あると思う。庚申信仰の
医心方は、
を解くカギは医心方にある。
者丹波康頼により984年(永観2年)朝廷に献上された。これは宮中に納
められていたが、1554年に至り正親町天皇により典薬頭半井(なからい)家に下賜さ
れた。
典薬頭・半井(なからい)家は、和気清麻呂の曾孫時雨(しぐれ)が医博士より典薬頭に
なったのに始まるが、《尊卑分脈》や《和気系図》によると時雨の母方の氏族宮勝利名
(みやのすぐりとしな)に由来するものらしい。中世・近世を通じて京都の貴族・半井
(なからい)家として医道を保持した。
和気清麻呂と秦氏は、ともに平安京建設の立役者であり、秦氏は半井家の医心方を見るこ
とができた筈である。その時点で八坂にある秦氏の菩提寺は、庚申堂となった。宮中の貴
族らが庚申遊びをするのは、それからである。
八坂にある秦氏の菩提寺は、庚申堂となった経緯については、私の論文「中国伝来文化・
三尸の思想」に詳しく書いたので、是非、それをご覧いただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sansisiou.pdf
(5) 庚申の御遊
三尸説あるいは守庚申がわが国へ伝来した経緯は以上のとおりであるが、平安時代、宮中
で天皇を中心とした守庚申がおこなわれていたのは確かで、これを『庚申の御遊』と呼ん
だ。「続日本後記」(869編纂)仁明天皇・承和元年(834)七月庚申の条に『中旬は
じめの庚申の日だから、天皇出御のもと侍臣に酒を賜り、御前で囲碁をして遊んだ』とあ
ることや、慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」承和5年11月26日(庚申日に当たる)の
条に、『(中国揚州の地で)廿六日の夜、人々は皆睡らない。これはわが国正月の庚申の
夜と同じである』とあること、その後の史書あるいは公
の日記などからみて、9世紀末
から10世紀のころ庚申の御遊は半ば恒例化していたという。
宮中でおこなわれていた庚申御遊がどんなものだったかははっきりしないが、清少納言
の「枕草子」(1000年頃)に、『(中宮さまが)「庚申御遊をなさいます」というので、
内の大臣殿がいろいろお世話なされた。夜が更けてきた頃、題を出して女房どもにも和歌
を詠ませることになった。みんなが緊張し、良き歌を詠もうと苦吟いていたが・・・』
(94段)とあるように、人々は管弦を奏したり、和歌を詠んだり、碁や双六をしたり、時
には酒なども出して夜を過ごしたようで、睡らずに三尸の虫を体内に閉じこめるという庚
申本来の趣旨からは外れた遊興的なものだったらしい。
以上縷々述べてきたとおり、日本最古の庚申堂は「八坂の庚申堂」である。