何もいらない - タテ書き小説ネット

何もいらない
佐井 識
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
何もいらない
︻Nコード︼
N4306CC
識
︻作者名︼
佐井
︻あらすじ︼
光る竹のなかから、翁がみつけたのは、神々しい美しさを放つか
ぐや姫。成長したかぐや姫は、絶世の美女ともてはやされながら、
男たちの求愛をたくみに拒否する。微笑みの裏にとある覚悟と秘密
を隠すかぐや姫だったが、そんな彼女と唯一対等に渡り合える存在・
帝が現れ⋮⋮。
Stories2﹄収録作品<第1
﹃竹取物語﹄を翻案した小説です。
喫茶マリエール﹃Otogi
7回文学フリマ︵2013.11.4︶出展>
1
第一話
むかしむかし、あるところに竹取の翁という者がおりました。彼
は野山に入って竹を伐採し、売って生計を立てていました。けして
裕福ではありませんでしたが、妻の媼とふたり、慎ましく暮らして
いました。唯一不満があるとすれば、それは子宝に恵まれなかった
ことでした。
あるとき翁は竹藪の中に、不思議な一本の竹をみつけました。そ
の竹は内側に灯りをともしているかのように、根元の部分が発光し
ているのでした。驚いた翁が中を覗くと、手のひらにおさまるほど
小さい娘が座っておりました。
それはたいそう可愛らしい娘でした。人形でも、これほど目鼻立
ちの整った顔立ちは作れまいというほどでした。さらに、全身から
あわやかな光を発しているのです。一目見て、これは何か聖なるも
のである、ということが学のない翁にもわかりました。
翁と目が合うと、娘は静かに微笑みました。幼い見た目に反して、
その笑みは位の高い貴婦人を思わせました。まるで、翁にみつけら
れることを最初からわかっていたかのようでした。
﹁こうしてお会いしたということは、この翁めに、何か役割がある
ということでしょうか﹂
翁の言葉は、問いかけるというよりも独り言の類でした。翁がお
そるおそる手を伸ばすと、娘は抵抗もせず、手の中におさまりまし
た。翁は善良で信心深い人間だったので、娘を家に連れ帰って、大
事に育てることにしました。
娘はとても小さかったので、籠に入れられて育てられました。ひ
な人形のような娘がちょこんと座している愛らしさといったら、手
を合わせて拝みたくなるほどでした。細めた目のまつ毛の長さ、桜
色の上品なくちびる、真珠のように光り輝く白い肌の美しさは、こ
のまま成長したら、いったいどんなことになるでしょう。翁も媼も、
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目の中に入れても痛くないくらいに可愛がりました。かいがいしく
自分の世話をする翁と媼を、娘はいつも静かに微笑んで見つめてい
ました。
娘はぐんぐん成長し、三か月ほど経った頃には普通の人間の背丈
になり、言葉を話すようになっていました。娘の浮世離れした美し
さは、翁に気分が悪く苦しいことがあっても、娘を見るとおさまる
ほどでした。娘がただ座っているだけで、家じゅうに光を満ちるの
です。たとえ帳の陰にいても、光がはみ出してしまう有様でした。
そんなことから、娘はいつしか賛美と畏敬を込めて、﹁かぐや姫﹂
と呼ばれるようになりました。墨で塗ったような夜の闇ですら、照
らし出してしまう存在だったからです。
時を同じくして、翁は黄金の詰まった竹をいくつも見つけ、豊か
になっていました。翁は立派な屋敷を建て、中庭に面した、屋敷の
中で一番日当たりのいい部屋をかぐや姫に与えました。翁はほかに
も、美しい着物や、珊瑚でできた髪飾り、腕の良い職人がこしらえ
た櫛など、年頃の娘が喜びそうなものを買い与えようとしました。
しかしかぐや姫は遠慮してすべて断るのでした。
﹁姫や、ここにあるのはみんなあなたのものです。欲しいものは何
でも言っていいのだよ﹂
﹁いいえ、不要です。お金は、お父様たちのために使ってください
まし。それがわたしのせめてもの親孝行です。わたしは何も返せる
ものがないのですから﹂
﹁おお、なんという心の清らかな娘だろう﹂
翁と媼は、うれし涙さえ流しながら、かぐや姫の心がけを褒めそ
やしました。かぐや姫は目を細めたあと、思い出したように付け加
えました。
﹁もしも、ほんの少し我儘を聞いてもらえるなら、着物や櫛の代わ
りに、書物をいただきたく存じます﹂
﹁勉強熱心で感心な子だ。もちろんいいとも﹂
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なので翁の屋敷には、贅沢品の代わりに、たくさんの本が運び込
まれました。物語、和歌集や漢詩集、仏教の経典まで、ありとあら
ゆる書物が並びました。かぐや姫は日ごとにそれらをめくっては、
中庭からの風に静かに吹かれているのでした。
立派に成長したかぐや姫が、いよいよお披露目されることになり
ました。祝宴は、それはそれは立派なものでした。あらゆる娯楽が
催され、町中の人が呼ばれました。訪れた誰もが、かぐや姫の美貌
にハッと息を呑み、続いてうっとりした眼差しでみつめました。
男も女も、かぐや姫と話したがりました。
﹁どうしてそんなにお美しいのですか﹂
﹁ご趣味はなんですか﹂
﹁今度一緒に祭へ出掛けませんか﹂
かぐや姫はあらゆる質問と賛辞を、微笑みをたたえて受け取りま
した。自分から何かを語ることはほとんどありませんでした。喋れ
ば喋るほど、姫が大きな瞳でじっと見つめてくるので、相手は気恥
しくなってみずから話を撤収することがほとんどでした。それでも、
会話の最後にかぐや姫が鈴を鳴らすような声音で﹁楽しゅうござい
ました﹂とささやくのを聞けば、ぽおっとなって満足してしまうの
でした。
美しく、清楚で、控えめ。﹁あれこそが本当の気品というものだ﹂
と、人々は口にしました。かぐや姫がいかに素晴らしいか、帰路に
つきながら皆が語り合いました。
﹁姫は俺の話を楽しそうに聞いてくれたぞ﹂
﹁嘘言え。俺のほうが姫を楽しませた﹂
﹁姫様があんたたちの武骨な話に興味なんてあるかい。あたしら女
同士の話こそ盛り上がったよ。最後までニコニコと聞いてくれて、
本当にやさしいお方だった﹂
かぐや姫がほとんど自らを語っていないにもかかわらず、誰もが
かぐや姫をよく知ったかのような口ぶりでした。
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盛大な宴会もようやくお開きとなりました。老父母に就寝の挨拶
をし、かぐや姫がようやく自室でひとりになったとき、時刻はすで
に夜半でした。かぐや姫がふすまを開くと、夜空には小刀で切りだ
したような細い三日月がありました。かぐや姫はしばらく月を見つ
めていました。そして自分自身にも聞こえないくらいの小さなため
息をひとつ、つきました。
かぐや姫の噂はあっという間に広まり、世の男性は貴い者も賤し
い者も、どうやったらかぐや姫を手に入れられるだろうか、逢える
だろうかと、心惑わされました。かぐや姫はあの祝宴以来、人前に
姿を現すことはありませんでしたので、男たちは昼夜かかわらず翁
の屋敷のまわりをうろうろしたり、垣根の隙間から屋敷の中を覗こ
うとするのでした。
ゴミ捨て場からどうにか家に入れないか画策したり、屋根に登ろ
うとする者も現れましたが、守衛たちに追い返されるばかりでした。
屋敷のそばで夜を明かしてかぐや姫を待つ貴公子も多くいましたが、
どれだけ頑張っても梨のつぶてなので、ひとり、またひとりと、来
なくなっていきました。
しかし、その中でますますかぐや姫への期待が高まっている者た
ちもおりました。それは色好みと言われて有名だった、石作の皇子、
庫持の皇子、右大臣阿部御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂
足の五人でした。会えなければ会えないほど、かぐや姫への想いは
募りました。ろくに食べることもせず思い悩み、屋敷に通いつめ、
手紙を書いて送っても、返事はありません。それでも、真冬の大雪
や、真夏の日照りにもめげることなく、通い続けているのでした。
翁を呼び出し、﹁お嬢さんを私にください﹂と我先に伏し拝み、
手を擦り合わせて頼んだこともありました。しかし翁も困った顔で、
﹁私の実の子ではありませんから、言うことを聞かないんです﹂と
返すしかありません。それでも、男たちは﹁そうは言っても、最後
には結婚させるはずだ﹂と思って、ひたむきに誠意を見せて通い続
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けました。
これを目にして、さすがの翁も、かぐや姫に言いました。
﹁姫や。お前は仏様から預かった娘ではあるけれど、今まで育てて
きた恩を少しでも感じているなら、爺の申すことをお聞きなさい﹂
かぐや姫はこの頃、外国語の書物も読めるようになっていました。
読んでいた中国の歴史書から顔をあげると、その鈴を鳴らすような
声で言いました。
﹁お父様の仰ることなら、承知しないはずがありませんわ。本当の
親だと思っておりますもの﹂
﹁嬉しいことを言ってくれるものじゃ﹂
翁の目尻に皺が寄りました。翁は手をこすり合わせながら言いま
した。
﹁爺は、年が七十を過ぎました。今日とも明日とも知れぬ命です。
この世の人は、男は女と結婚し、女は男と結婚します。そうして家
が栄えていくのです。どうして、それをしないでおられる﹂
﹁わたしに結婚しろ、とおっしゃるのですか﹂
かぐや姫の口元から、ふっと微笑が消えました。
﹁仏の化身といえども、女性です。爺がこの世にある限りは、こう
して暮らしていることもできるでしょうが⋮⋮。あの方たちが長い
年月を経ても通ってきておられることをよく考えて、誰か一人と結
婚なさい﹂
﹁わたしは美人でもないのに、愛の深さも知らないで結婚して、浮
気でもされたら、後で悔しいこともあるだろうと思うだけです。社
会的に認められている人でも、愛情の深さを知らないままでは、結
婚するのに抵抗があります﹂
﹁美人でもないなどと、よく言うものじゃ﹂
年頃の娘らしい頑なさだと思って、翁は笑いました。
﹁それに、姫のいう愛の深さとはどのようなものですか。こんなに
求愛してくださっていること自体、愛情深さの証明だろうに﹂
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かぐや姫は居ずまいを正すと、目を細めて言いました。
﹁わたしが望むのは、たいそうなことではありません。あの方たち
の愛情はみなさん同じくらいに見えます。その中で、どうやって、
一人に決めることができるでしょう。ですから五人の中で、わたし
の望むものを見せてくださった方と結婚します﹂
﹁それは名案じゃ﹂と、翁は承諾しました。ニコニコしながら部屋
を出ていく翁を、かぐや姫は黙って見つめていました。
日が暮れる頃、例の五人が集まりました。ある者は笛を吹き、あ
る者は歌をうたい、ある者は口笛を吹いていると、翁が出てきまし
た。
﹁もったいなくも、むさくるしい所に長い間お通いくださったこと、
まことに恐縮でございます。結婚相手に関して、かぐや姫から条件
がございます。姫の望むものを持ってきていただいた方と結婚した
いと申しております﹂
五人は﹁名案です﹂と承諾しました。
翁がかぐや姫にそのことを伝えると、かぐや姫はそれぞれに望む
ものを挙げました。
いわく、石作の皇子には、仏の御石の鉢を。
庫持の皇子には、東の海の蓬莱という山にあるという、白銀を根
とし、黄金を茎とし、真珠を実として立っている木の枝を。
阿部御主人には、唐土にある火鼠の皮衣を。
大伴の大納言には、竜の首に五色に光る珠を。
石上の中納言には、ツバメの持っている子安の貝を。
﹁難しいことじゃ。どれも、この国にあるものでもない。こんな難
しいことを、どうして伝えられよう﹂
翁は弱りましたが、かぐや姫は涼しい顔で言いました。
﹁難しいなら、それまでのことでしょう﹂
翁は仕方なく五人のもとに戻り、﹁このように申しております。
申し上げたようにしてみせてくだされ﹂と伝えました。かぐや姫の
条件の難しさに、五人の貴人たちは﹁素直に、二度と家の辺りをう
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ろつくな、と仰ってくれればいいのに﹂とがっかりするほかありま
せんでした。
あとから翁に話を聞いた媼は、かぐや姫に問いました。
﹁大変なものをご所望されたものですね。姫が一番欲しいものはど
れなのですか﹂
かぐや姫は小首をかしげました。
﹁さあ、どうでしょう﹂
﹁五人の方は、みな評判の殿方ですよ。一人くらいはお気に召した
方がいらっしゃるのでは?﹂
﹁わたしはこの家でお父様お母様と静かに暮らせれば、それで充分
なのです﹂
かぐや姫の健気な言葉に、媼は涙ぐみました。
﹁嬉しいことを⋮⋮。ですけれど、爺も婆もいつまでも生きられる
わけではないでしょう。立派な伴侶をみつけて幸せになってもらう
のが、老父母の願いでもあるのですよ。それに、あなたも一度恋し
てみればわかります。ときめいて、心がはずんで、たいそう素敵な
ものですよ﹂
﹁まあ、お母様ったら、恋だなんて﹂
いつもくちびるを三日月のようにして微笑むかぐや姫が、珍しく
歯を見せて笑ったので、媼は驚きました。ひとしきり笑ったあと、
かぐや姫は独り言のようにつぶやきました。
﹁何もいらないわ﹂
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第二話
石作の皇子に課せられた仏の御石の鉢は、天竺にあると言われて
いました。しかしさすがに天竺まで取りに行くことは無理だと思い、
ある計画を立てました。かぐや姫に﹁今日、天竺へ石の鉢を取りに
ぴんずる
参ります﹂と伝えて、姿を消しました。そして三年後、大和の国の
十市の郡にある山寺の、賓頭盧像の前にある真っ黒にすすけた鉢を
取って、錦の袋に入れて、造花の枝に付けて、かぐや姫の家に持っ
て来たのです。
かぐや姫が怪訝に思って見ると、鉢の中に手紙がありました。
“海山の 路に心をつくし果て ないしの はちの涙流れき”
︵筑紫を出て海山の路に精魂を尽くし果て、果てない石の鉢探しに
血の涙が流れました︶
しかし本物の御石の鉢ならば光輝くはずが、蛍ほどの光さえあり
ませんでした。かぐや姫は返事を返しました。
“おく露の 光をだにも やどさましを おぐらの山にて何もとめ
けむ”
︵草葉に置く露ほどの光さえ宿さないものを、小暗い小倉の山で、
何を求めてきたのでしょうか︶
石作の皇子は鉢を姫の家の門口に捨てて、この歌に返しました。
“白山に あへば光の失するかと はちを捨ててもたのまるるかな”
︵白山のように輝く貴女に会ったから光が消えたかと鉢を捨てまし
たが、恥を捨てても諦めきれません︶
かぐや姫は手紙を一瞥すると、返事もせずに屑籠に入れました。
石作の皇子は、とぼとぼと帰るほかありませんでした。
倉持の皇子は謀略家で、朝廷には﹁筑紫の国に湯治に参ります﹂
と休暇をとり、かぐや姫の家には、﹁玉の枝を取りに参ります﹂と
伝えて、都を出発しました。皇子はあえて従者も多くは連れて行き
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ませんでした。﹁行ってしまわれた﹂と人には見せかけておいて、
三日後に帰ってきました。
皇子の計画はこうでした。名匠と言われた鍛治工匠六人を召しと
って、人がたやすく近寄れない家を用意し、かまどを三重に仕込ん
で、皇子も同じ所にこもり、持ちうる資金のすべてを費やして、人
知れず玉の枝を作ったのです。
かくして、かぐや姫が言ったものと寸分違わない玉の枝を作り出
しました。
ついに完成した暁、長旅でぼろぼろになった様子を装って、難波
の港に降り立ちました。その姿を見て、世間は﹁庫持の皇子は優曇
華の花を持って帰ってこられた﹂と騒ぎたてました。
噂はすぐにかぐや姫のもとにも届きました。
﹁まさか、庫持の皇子が?﹂
かぐや姫は眉をひそめました。
﹁姫や、ついに結婚相手が決まりましたぞ﹂
﹁この目で確かめるまではわかりませんわね﹂
翁の前では平静を装っていましたが、かぐや姫はもの思いにふけ
っている様子でした。
そうこうしているうちに、庫持の皇子が屋敷にやってきました。
﹁一刻もはやく届けたかったので、旅姿のまま来ました﹂と言うの
で、翁が応対しました。皇子は﹁命を捨てて、かの玉の枝を持って
来ました。どうぞ姫にお渡しください﹂と、手紙をくくりつけた玉
の枝を渡しました。
“いたづらに 身はなしつとも玉の枝を 手折らでさらに帰らざら
まし”
︵むなしく身を失おうとも、玉の枝を手折らないことには、決して
帰るものか︶
かぐや姫は無表情でこの手紙をながめていました。そこに翁が駆
け込んできました。
﹁皇子は、約束をお守りになった。これ以上とやかく申すことがあ
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ろうか。旅姿のままで、自分の家にも立ち寄らずにおいでになった
んじゃぞ。はやく結婚しなさい﹂
かぐや姫は翁の声が聞こえないかのように、頬杖をついたまま、
黙って外をみつめておりました。
庫持の皇子は、﹁今更とやかく言いませんよね﹂と言いながら、
ちゃっかり縁側にあがりこみました。翁も歓迎して、﹁この国には
存在しない玉の枝を持って来て下さったのです。どうして結婚をお
断りすることがありましょうか。人柄もよい人でおられる﹂などと、
上機嫌です。さらに気の早いことに、召使に命じて、新婚夫婦の寝
室の内装に手を入れ始める始末でした。
このままでは初夜を迎えてしまいます。かぐや姫は心ここにあら
ずといった様子で、帳の陰にじっと座っていました。翁や召使はせ
わしなく立ち動いていたので、姫を包むやわらかな光が薄れている
ことに、気づいた者はおりませんでした。
翁は皇子をもてなしながら、旅の話を聞きました。
皇子は、この旅がどれほど危険で大変だったかを、とうとうと語
りました。大嵐に見舞われ船が難破し、見知らぬ岸辺に流れ着いた
こと、鬼や化物に襲われそうになり、命からがら逃げだしたこと⋮
⋮皇子の語る冒険譚に、翁はうんうん頷きながら、話に聞き入りま
した。聞き終えた後は、﹁あなたこそ姫の夫にふさわしい人です﹂
と、握手して勇気を讃えました。
そんなとき、男衆が六人連れ立って、庭に入って来ました。その
中の一人が書状を差し出して言いました。
﹁内匠寮の工匠・漢部内麻呂が申し上げます。玉の木を作りました
件ですが、五穀を断って千日あまり、力を尽くしたこと少なからず。
であるのに賃金を未だ頂戴しておりません。これを頂戴して、至ら
ぬ弟子たちに分けてやりたいのですが﹂
竹取の翁は、﹁この職人たちが申しているのは何のことじゃ﹂と
首を傾げました。皇子は虚をつかれ、ぽかんと動けずにいました。
騒ぎをかぐや姫が耳にして、その差し出された書状を取ってこさ
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せました。読むと、手紙にはこう書かれておりました。
“皇子の君は、千日間 賤しい工匠らと諸共に同じ所に隠れ住んで
おられて、素晴らしい玉の枝を作らせて、官職も与えると仰せにな
りました。この件をこの頃思案するに、側室になるだろう かぐや
姫さまが玉の枝を要求されたのだと分かりましたので、この屋敷か
ら代金を頂戴したい”
真っ白だったかぐや姫の顔に赤みが差し、満面の笑みがこぼれまし
た。それは無邪気と言っていいほどの笑顔でした。
﹁なんと呆れた嘘に騙されかけていたことでしょう﹂
かぐや姫の心は満ち足りて、先程の歌に返歌しました。
“まことかと 聞きて見つれば言の葉を 飾れる玉の枝にぞありけ
る”
︵本物だと信じて見ていたら、言葉で飾り立てた玉の枝でした︶
皇子は落ち着かず、居ても立ってもいられないまま、日が暮れる
とすぐ滑り出て行ていきました。この結末には翁も気まずくなり、
さっさと狸寝入りしてしまいました。
右大臣 阿部御主人は、代々の貿易で栄えた資産家でした。中国
の王慶という人のもとに、﹁火鼠の皮なるものを買って送ってくれ﹂
という手紙を書いて、金を送りました。
しばらくして、中国からの船がやってきました。王慶からの返事
を受け取るやいなや、右大臣はつんのめるようにして読みました。
“火鼠の皮衣、かろうじて、人を派遣して買い求めました。今の世
にも昔の世にも、この皮は滅多にないものです。昔、立派な天竺の
聖人が、この国に持って渡っていたのが、西の山寺にあると聞き及
んで、朝廷に申請して、なんとか買い取りました”
右大臣は飛びあがらんばかりに喜び、﹁さすが王慶どのじゃ。あ
りがたい﹂と、中国大陸の方に向かって伏し拝みました。
皮衣の入った箱は様々な麗しい瑠璃で彩ってあり、それは豪華な
ものでした。皮衣そのものも紺青色で、毛の先には黄金の光が輝い
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ており、﹁なるほど、かぐや姫が欲しがるだけのことがある﹂と言
って、意気揚々と翁の屋敷に向かい
“限りなき 思ひに焼けぬ皮衣 袂乾きて今日こそは着め”
︵限りない想いにも焼けぬ皮衣。涙に濡れた私の袂も乾いて、今日
こそは着ましょう︶
という歌とともに、翁に皮衣を渡しました。
かぐや姫は皮衣を見ても、特に表情を変えることもありませんで
した。
﹁麗しい皮です。本物の皮かどうかは分かりませんけれど﹂
翁はそんなかぐや姫をなだめるように、﹁とにもかくにも、まず
は招き入れましょう。世間に見当たらない皮衣の様子じゃから、こ
れは本物だ、と思いなさい。人をあまり悲しませるものじゃないよ﹂
と言いました。
傍で見ていた媼も、﹁今回はきっと結婚する﹂とうきうきしてお
りました。かぐや姫は言いました。
﹁この皮衣を火に焼いて、焼けなければ本物だと思って、仰せに従
いましょう﹂
せっかく手に入れたものを焼くというので、右大臣は少し難色を
示しましたが、かぐや姫の言うことに従わないわけにはいきません。
なにより、自信を持って本物だと思っていたので承知しました。
そこで火の中にくべて焼かせたところ、皮衣はめらめらと燃えま
した。
﹁やっぱり、偽物の皮でしたわね﹂
かぐや姫はにっこりと微笑みました。
大臣の顔が血の気が引いて草の葉の色になる一方、かぐや姫は﹁ま
ぁ嬉しい﹂と、くすくす笑いました。機嫌のいいまま筆を取ると、
大臣が詠んだ歌の返歌を、さらさらと書きました。
“なごりなく 燃ゆと知りせば皮衣 おもひの外におきて見ましを”
︵皮衣が思いのほかにあっけなく燃えると知っていたら、火の外に
置いて眺めていましたのに︶
13
大臣は肩を落として帰っていきました。
大伴御行の大納言は、自分の家にありとあらゆる臣下を集めて、
﹁竜の首に五色の光有る珠があるという。それを取って来た者は、
望みを叶えてやろう﹂とお触れをだしました。旅立つ者たちには、
道中の食糧に加え、殿中の絹、綿、銭などある限り持たせました。
臣下たちは出発したものの、﹁こんな物好きなことをなさって。
主君といえど、こんな横暴なことを仰せになるとは﹂とこぼし合い、
真面目にやる必要はないという結論に達しました。支給された物を
分けあって、ある者は自分の家にこもり、ある者は自分の行きたい
ところへ旅立っていきました。
当の大納言はというと、﹁かぐや姫を迎えるには、並の家では見
苦しい﹂と言って、麗しい屋敷を作りました。壁には漆を塗り蒔絵
を施し、屋根の上は色々に染めた糸で葺かせました。内装は、言葉
にも出来ない程の綾織物に絵を描いて、部屋ごとに張りました。か
ぐや姫と確実に結婚するため元の妻たちを追い出し、独りで暮らし
ていました。
臣下たちが戻るのを今か今かと待っていましたが、年を越しても
音沙汰がありません。我慢できなくなった大納言は、護衛二人を連
れて難波の港に行き、﹁大伴の大納言の臣下が、船に乗って竜を殺
して、その首の珠を取ったと聞いているか﹂と問いました。船長は
﹁奇妙な話だな。そんな仕事をする船などない﹂と答えました。大
納言は腹を立てて、﹁我が弓の力ならば、竜がいれば射殺して、首
の珠を取れる。遅いヤツらを待っているものか﹂と言って、自ら船
に乗りこみました。
どんどんと航海するうちに、謎の疾風が吹き、様子がおかしくな
りました。嵐が起き、風は船を海中に引き込むべく渦巻いて、雷が
とどろきました。船長は﹁今まで何年も船に乗ってきたが、こんな
ひどい目に遭ったことはない。これはきっと、竜を殺そうと探した
からだ。疾風も竜が吹かせているのです。早く神に祈りなさい﹂と
14
青ざめた顔で言いました。大納言も恐怖に震え、﹁舵取りの御神、
聞こしめせ。恐れを知らず、心幼く、竜を殺そうと思っておりまし
た。今より後は、竜の毛一本にすら触りませぬ﹂と、祝詞を唱えて
祈りました。何度も繰り返していると、ようやく雷は鳴りやんだの
です。
三、四日後、ようやく船は岸辺に戻りました。ほうほうのていで
呻き呻き担がれて、大納言はなんとか家に帰りました。それを聞き
つけた臣下たちが次々に帰ってきて、﹁竜の首の珠を取れなかった
からこそ、屋敷へも参れませんでした。珠が取り難いことをお知り
になったからには、クビにされることもないだろうと参りました﹂
と報告しました。大納言はぐったりして言いました。
﹁お前たち、よく竜の首の珠を持って来ないでいてくれた。竜は雷
神の類であった。その珠を取ろうとして、多くの人々が殺害されそ
うになった。あれは、かぐや姫なんていう大悪党が、人を殺そうと
する企みだったのだ。あの女の家の辺りさえ、今後は通るまい。お
前たちも行くんじゃないぞ﹂
これを聞いて、離縁された元の妻は、腹を抱えて笑いました。糸
を葺かせて造った屋敷は、鳶、カラスの巣に、糸を皆くわえて持っ
ていかれてしまいました。
中納言 石上麻呂足は、家に仕えている男衆に﹁ツバメの持つ子
安貝を取るため、ツバメが巣食ったら報せなさい﹂との命を下しま
した。ある人が﹁大炊寮の飯炊屋の棟の、束柱ごとにツバメは巣食
います。そこに真面目な男衆を率いていって、足場を組み上げて覗
かせれば、卵を取ることができるでしょう﹂と助言したので、中納
言は言われたとおり、男衆を派遣しました。
ところが人が多数見ているのに怯えて、ツバメは巣に上ってきま
せん。中納言が﹁どうしたものか﹂と思い悩んでいると、寮の官人
が﹁これでは、取らせることは出来ませぬ。足場を壊して人を退か
せ、真面目な一人だけを粗籠に乗せて、綱を取り付けて、鳥が卵を
15
産む瞬間に綱を吊り上げさせて、サッと取るのがよろしいでしょう﹂
と助け舟を出しました。
中納言は﹁名案です﹂と喜びました。しかし籠に人を乗せてツバ
メの巣に手を探させても、﹁何もありません﹂と言うばかり。中納
言は、﹁探り方が悪いからです﹂と腹を立て、自ら探すことにしま
した。籠に乗って様子を窺っていると、ツバメが産卵する気配があ
りました。それに合わせて手を上げて探ると、手に平たいものが触
ったではありませんか。
﹁私は何か握ったぞ。すぐに下ろしなさい。やりましたよ﹂
中納言が叫ぶと、下にいた男衆たちが思いきり綱を引きました。
すると力が強すぎて綱が切れ、あっという間に中納言は地面に落ち
てしまいました。
人々は駆け寄って中納言を抱き起こしましたが、白目を向いて失
神していました。水をすくって口に入れると、かろうじて生気が戻
りました。
﹁意識はありますが、腰が動かせない⋮⋮。けれど、子安貝を取れ
たから、何よりです﹂
そう言って、頭をもたげて、手のひらを広げたところ、そこにあ
るのは子安貝ではなく、ツバメがしておいた古糞でした。
貝ではないことを見ると意気消沈し、結果、腰の骨も折れたまま
治りませんでした。なにより、子供じみた行動をして失敗に終わっ
たことを、人に笑われるのではないかと、中納言は気に病み、日に
日に衰弱してしまいました。
これをかぐや姫が聞いて、お見舞いの歌を送りました。
“年を経て 波立ち寄らぬ住の江の まつかひなしと聞くはまこと
か”
︵長い間、波の打ち寄せない住吉の松のように、お立ち寄りになり
ませんでしたが、待つ甲斐もないと聞くのは本当でしょうか︶
それは、病床の中納言をますます落ち込ませるものでした。息も
絶え絶えのなか、人に紙を持たせて、中納言はかろうじて返歌を書
16
きました。
“かひはかく ありけるものをわび果てて 死ぬる命をすくひやは
せぬ”
︵甲斐/貝はこのように、姫からのお見舞いを得られたのだから有
りましたのに、悲嘆のあまり死ぬ命を救ってはくださらないのです
か︶
そう書き終えると、ついに息が絶えてしまったのです。
翁はバツが悪そうにこの話をかぐや姫に伝えました。間接的に大
納言の死をもたらしたように思ったようで、しきりに﹁あわれなこ
とじゃ﹂﹁まこと残念よ﹂と呟きながら、部屋を出ていきました。
ひとりきりになったかぐや姫はしばらく指で髪の毛の先を弄んで
いましたが、ふうと息を吐くと、御簾に頭を預けて、そっと目を閉
じました。
﹁ばかね。けっして叶うわけがないのに。わたしなどのために、可
哀想に﹂
頭上には、骨のように白い半月が、闇夜に透けておりました。
17
第三話
五人の失敗が知れ渡り、もはやこの国で、かぐや姫に求婚する勇
気のある者はいないように思われました。ただ、一人を除いては。
かぐや姫の噂は、ついに朝廷におわします帝の耳にも入りました。
帝は早くに帝位をお継ぎになり、立派に世をおさめておいででし
たが、まだお若いこともあって、好奇心旺盛で、やんちゃをされる
のが好きな方でした。“絶世の美女”“光り輝くほど美しい”など
という言葉に最初は半信半疑だった帝ですが、五人の求婚を退けた
話をお聞きになると、俄然興味を持たれたようでした。
﹁多くの男の人生を虚しく終わらせおいて、今なお結婚しないかぐ
や姫とは、いったいどれほどの女だ﹂
帝は、内侍の房子を翁の屋敷に遣わせることにいたしました。
最高権力者からの遣いを、翁と媼は恐縮して招き入れました。
﹁かぐや姫の容姿が優れているというので、よく見てくるようにと、
帝に言われてまいりました。お会いできますでしょうか﹂
﹁すぐ伝えますので、少々お待ちくださいませ﹂
媼は血相を変えて、かぐや姫の部屋に駆け込みました。帝の遣い
が来たという騒ぎはかぐや姫の耳にも届いていましたが、かぐや姫
は頬杖をついて、さらさらと風に吹かれながら、静かに読書してお
りました。
﹁姫、早く、あのご使者に対面しなさい﹂
﹁わたしは言うほど良い容姿でもありませんわ。お会いすると恥を
かくだけです﹂
﹁どうして、そんな困ったことを言うのです。帝のご使者ですよ﹂
皆が慌てる姿を見るのが可笑しそうに、かぐや姫は薄い唇の端を
あげました。
﹁帝のお召しのお言葉だからといって、別になんだというのでしょ
う﹂
18
いつもは聞き分けの良い娘なのに、異性の話となると、慇懃であ
りながらどこか突き放したような態度を取るのが、媼には不思議で
した。それ以上叱ることもできず、嫗は内侍のもとに戻って、﹁残
念ですが、娘は強情なものでございますから、お会いしそうにもあ
りません﹂と言わざるをえませんでした。しかし、内侍も簡単には
引きさがりません。
﹁必ず見てまいれとの仰せがあったものを、果たさないままどうし
て帰ることができるでしょう。帝のお言葉を、この国に住んでいる
者が聞かないなどということは許されません﹂
伝書鳩のようになった媼が、かぐや姫にこの言葉を伝えると、か
ぐや姫は口元を押さえてくすくすと笑いました。
﹁まあ、何が可笑しいのです﹂
かぐや姫は答える代わりに、にっこり微笑んで言いました。
﹁帝の仰せに背いているんですから、早くわたしを殺せばよいわ﹂
内侍は宮中に帰って来て、この旨を奏上しました。
帝はやり取りの一部始終を黙って聞いておられましたが、かぐや
姫の捨て台詞を聞くと、声を出して笑われました。
﹁さすが、多くの男を殺してきただけある﹂
どう反応してよいものか、周りの臣下が顔を見合わせるなか、帝
はずいぶん愉しげにされていました。
﹁今回に関しては、引きさがるほかないな﹂
くっくっくと笑いをかみ殺しながら、何やら考えておいでのよう
でした。しばらくののち、帝は閉じた扇でパン! と脇息を叩きま
した。
﹁だが、お前の作戦には負けぬよ﹂
帝は、竹取の翁を朝廷に呼び出しました。
﹁お前の娘、かぐや姫を差し出せ。その美貌を聞いて使いを出した
けれども、その甲斐もなく会えなかった。こんな失礼なことがまか
りとおるべきではない﹂
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帝の堂々としたお言葉に、翁は恐縮して﹁我が娘は、まったく宮
仕えしない気でおりまして、私どもも持て余しております﹂と奏上
しました。
﹁何故、爺が育てたのに、思い通りにさせられない? かぐや姫を
差し出したら、官位でもなんでもやろう﹂
翁は喜んで家に帰り、かぐや姫に宮仕えするよう、改めて言い聞
かせました。が、官位の話を持ち出すと、かぐや姫はかすかに鼻で
笑いました。
﹁このように帝が仰せじゃ。それでもなお、お仕えしないのか﹂
﹁宮仕えをする気はまったくございません。強制するというのであ
れば、わたしは死にます。お父様は官位だけいただけばいいでしょ
う﹂
淡々と恐ろしいことを言うかぐや姫に、翁は青ざめました。
﹁何を言う。我が子を失うなら、官位なんて何の意味があるじゃろ
う。それにしても、どうして宮仕えをしないのじゃ。世間的には大
変光栄なことだというのに、何故死ぬなどと言うのです﹂
﹁まだ嘘だとお思いなら、実際に仕えさせて、死なないでいるか見
ていればいいわ。たくさんの方の求愛を無為にしてきたからこそ、
昨日の今日で帝になびいたりしたら、それこそ恥だと思うのです﹂
﹁わかったわかった。お前の命のほうが大事じゃから、それでもお
仕えする気はないということを申し上げよう﹂
翁は降参して、かぐや姫の言うとおりにすることにしました。参
内して額を床につけんばかりに伏し、おそるおそる奏上しました。
﹁何度も説得したのですが、﹃宮仕えに出せば死にます﹄と申しま
す。実は、私の本当の子ではありません。昔、山で見つけた子なの
です。ですから、価値観も世間の人とは違うのです﹂
﹁ほう、拾い子か﹂
帝はますますかぐや姫に興味を惹かれたようでした。
﹁竹取の屋敷は山のふもと近くだったな。狩りに出かけるふりをし
て姫を見ることは?﹂
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翁は頭を下げました。
﹁大変結構なことです。姫が油断している時に、ふらっと行けばご
覧になれるでしょう﹂
帝は即座に日程を定めて、狩りに出かけることになさいました。
最小限の従者、最小限の装備で、帝は山へ向かわれました。裏手
から屋敷に近づくと、輿から降りられました。従者をお残しになり、
あらかじめ鍵を開けさせておいた裏門から、おひとりで屋敷に入ら
れました。
翁が人払いをしておいたのか、屋敷は静かでした。家の中は風通
しがよく、鳥がチチチと鳴く声が聞こえました。見知らぬ廊下を曲
がったり戸を開いたりするのは、子どもの頃のちょっとした冒険に
も似て、帝は愉快な気分で先へ先へと進まれました。
ふっと、帝の目の端が光をとらえました。心が洗われるような清
々しい光でした。光のほうへ辿っていくと、部屋の隅に座っている
娘の後ろ姿が見えました。ちらりと見える横顔は、それだけで息を
呑むほどでした。
足音を消して、帝はかぐや姫にお近づきになりました。あと二、
三歩というところで、畳がみしり、と音を立てました。
弾かれるようにかぐや姫が振り返りました。目を見開き、驚きで
頬を桜色に染めた顔は、たくさんの美女を見てきた帝でさえも、言
葉を失う美しさでした。
虚を突かれたかぐや姫でしたが、次の瞬間気を取り直し、くちび
るを固く結ぶと、さっと逃げようとしました。
﹁待て﹂
帝も負けてはいません。すかさず大股で部屋を横切ると、隣の部
屋に隠れる寸前のかぐや姫の袖をお捕えになりました。かぐや姫は
抵抗しましたが、男の強い力に対してはどうにもなりません。でき
る限り横を向き、自由な反対の袖で顔を隠すことがやっとでした。
﹁無駄だ。もう見た﹂
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帝は力を込めたまま、袖の隙間から見え隠れするかぐや姫の白い
肌を見つめました。若い桃のような芳香が、帝の鼻をくすぐりまし
た。それはとても甘美な感覚でした。
﹁お手をお放しください﹂
﹁逃げることは許さぬ﹂
思い切り袖を引っ張ると、かぐや姫がふらつきました。帝はか細
い身体を両腕で抱きとめられると、またかぐや姫が顔を隠してしま
う前に、顎に指をかけて前を向かせました。
帝はかぐや姫をまじまじと眺めました。
﹁確かにこれは、評判通りに美しいな﹂
﹁このような辱めを受けるくらいなら、わたしは舌を?みます﹂
人形のように表情を消して、かぐや姫は言いました。帝は手を放
して破顔されました。
﹁そうそう。この気性も評判通りだ﹂
帝が愉快そうにしていらっしゃる横で、かぐや姫は黙りこくりま
した。
﹁だがお前の負けだよ。このまま宮中に連れて行く﹂
﹁できません﹂
﹁何故? 私は帝だ。できないことはない﹂
姿勢を正して息を整えると、かぐや姫にいつもの涼やかな表情が
戻りました。裾を払い、まっすぐ帝の目を見据えました。
﹁お連れになることはできません。わたしはこの国に生まれた者で
はございませんから﹂
﹁今こうして喋っているのに、何を言う。とにかく連れて行くぞ﹂
再度かぐや姫の身体を引き寄せようと、手を伸ばしたときでした。
かぐや姫は、パッと光になり、帝の目の前から消えてしまったので
す。
帝はしばらく呆気にとられていました。おもむろに前後左右を見
渡しても、人の気配はありませんでした。
﹁本当に、ただの人間ではなかったというのか﹂
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信じられない思いと、すべてに納得がいくような思い、ふたつの
相反する気持ちが帝の胸に去来しました。
﹁わかった。ならば一緒に連れて行くのはよそう。元の姿になって
おくれ。それを見て、今日は帰ろう﹂
虚空に向かって呼びかけた途端、かぐや姫は元の姿になり、さっ
と座って中庭のほうを向いてしまいました。
帝は感嘆のため息を吐かれました。そして、かぐや姫の隣にあぐ
らをかいてお座りになりました。
しばらく二人はその姿勢のままでおりました。
﹁⋮⋮いつまでいらっしゃるおつもりでしょうか﹂
﹁もうしばらく。減るものでもないし、いいだろう﹂
﹁わたしの心がすり減ります﹂
﹁黙っていれば楚々としているのに、まったく歯に衣着せぬ娘だ﹂
そう言いながらも、帝はお怒りになる様子もなく、楽しそうに目
を細めました。
かぐや姫は帝に振り返りました。
﹁不気味ではないのですか?﹂
﹁何が?﹂
かぐや姫は一瞬言いよどんだのち、小さな声で続けました。
﹁わたしが、人ならざる者であることが﹂
帝はくつろいだ様子でおっしゃいました。
﹁天皇家の始祖であられる神武天皇は、神の御子で、百二七歳まで
生きたと言われている。それなら、お前のような存在がいてもおか
しくはないだろう﹂
あんまり平然とおっしゃるので、かぐや姫は力が抜けてしまいま
した。
﹁⋮⋮変わったお方﹂
愛らしいくちびるの間から、白い貝のような歯が覗きました。笑う
かぐや姫を見て、帝は満足そうにされました。
帝はかぐや姫にいろんなことを尋ねました。最初はそっけなかっ
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たかぐや姫も、だんだん会話に応じるようになりました。帝はかぐ
や姫の機知に富んだ受け答えや、知識量に舌を巻かれました。
気付けば日が暮れかけていました。帝はとうとう重い腰をあげま
した。
﹁名残惜しいな。ずっと話していたい﹂
﹁宮中には行かないお約束です﹂
﹁それは承知している。だが、また会いに来ることはできるだろう
?﹂
かぐや姫は背の高い帝を見上げました。
﹁政治のお仕事が、そんなに暇とは知りませんでしたわ。それとも
この国の帝は、ご自分では何もせずに、ただ遊び呆けてお暮しにな
っている馬鹿者なのかしら﹂
帝は苦笑いされました。腰をかがめると、かぐや姫の顔に自らの
顔をお近づけになりました。
﹁私にそんなことを言うのは、お前だけだな﹂
かぐや姫は静かに微笑みました。
帝は指先をかぐや姫の頬に伸ばしましたが、﹁だめです﹂とかぐ
や姫が遮りました。帝もそれ以上は無理強いなさいませんでした。
帰り際、帝はかぐや姫に歌を贈りました。
“還るさの みゆきものうく思ほえて そむきてとまるかぐや姫ゆ
ゑ”
︵帰るための道行きが物憂く思われて、振り返っては止まる。かぐ
や姫のために︶
かぐや姫からも、すぐに返事がきました。
“むぐらはふ 下にも年は経ぬる身の 何かは玉のうてなをも見む”
︵草むらの茂った下で年を経たわたくしが、どうして宝石の宮殿を
見て暮らせるでしょうか︶
かぐや姫らしい切り返しに、帝はにやりとしました。しばらく今
日の出来事を反芻しておられましたが、やがて凛々しい声色で、輿
の外に告げました。
24
﹁出せ﹂
帝の一行は、竹取の屋敷をあとにしました。
25
第四話
お言葉どおり、帝は時折、翁の屋敷にいらっしゃるようになりま
した。
いらっしゃる間隔は気まぐれで、連続のときもあれば、ひと月以
上あくこともありました。しかも事前に知らせることもせず、音沙
汰なくふらりと訪れるので、翁ら屋敷の者たちを慌てさせるのです
が、帝はそれ自体も楽しんでいらっしゃるようでした。
あれ以来、帝はかぐや姫に指一本触れようとはしませんでした。
何をするということもなく、とりとめのないことをお話しになり、
軽口を叩き、ときにはしばらく黙ったまま、庭を眺めていることも
ありました。滞在されるのは午後の数時間だけで、もてなそうとす
る翁の申し出を断り、日が暮れる前にさっさとお帰りになるのが常
でした。当初は警戒していたかぐや姫も、次第に帝の来訪に慣れ、
今ではもう取り乱すこともなく、それどころか最近では帝がいらっ
しゃっても、平然と読書を続けているほどでした。
その冬の日も、帝は少数の従者を連れて、屋敷を訪れました。従
者たちを別室に残し、慣れた手つきでかぐや姫の部屋の入り口をく
ぐりました。
﹁今年の冬は一段と冷えるな。辿りつくまでに凍えそうだった﹂
帝は遠慮のない様子で、あぐらをかかれました。
﹁それなら、わざわざこんなところまで来ず、暖かい宮中にいらっ
しゃればよかったのに﹂
﹁お前の身体から出る光で、暖が取れるかと思ってな﹂
かぐや姫がいるおかげで、翁の屋敷は冬でも適度な過ごしやすい
空気が流れているのは事実でした。
﹁人を便利な暖房器具扱いとは、失礼なお方﹂
﹁褒めているつもりだが﹂
帝はくつろいだ姿で、頬杖をつかれました。
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﹁それに、宮中は新年の祝い続きで落ち着かん。祭儀や祝宴にも飽
きた。しかも新年の挨拶という口実で、后妃たちの父親が入れかわ
り立ちかわり訪ねてくる。幼い孫の立太子の確約をさせようと必死
だ﹂
帝には三人の后妃たちとのあいだに、年の近い四人の皇子がいら
っしゃいました。この時代、必ずしも長男が皇太子となるわけでは
なく、後見人たちの駆け引きが大いに影響していました。
﹁第一皇子が病弱だからな。余計にややこしい﹂
﹁それでは、ますますこんなところにいらっしゃる場合ではないで
しょうに﹂
﹁少し困らせるくらいで丁度いい﹂
そうおっしゃいながら、帝はあくびをひとつ、ふたつとされまし
た。
﹁やっぱり、ここは暖かいな﹂
しばらく帝はつれづれに会話を楽しまれていましたが、そのうち
目をおつむりになり、やがてかすかな寝息が立ち始めました。
冬の薄い光が、時が止まったような部屋を覆っていました。少し
でも動くと、物音が立ってしまいそうな午後でした。かぐや姫は微
動だにしないまま、帝のお姿を静かに見つめていました。
しばらくして帝がお目ざめになりました。かぐや姫は視線を落と
しました。
﹁ああ、眠っていたか﹂
﹁ずいぶん気持ちよさそうに﹂
﹁そうだな、いい夢を見ていた。夢でお前に会ったよ﹂
かぐや姫が眉根を寄せたのを見て、帝は苦笑されました。
﹁そんな嫌そうな顔をするな。夢くらい見るだろう﹂
﹁わたしは、夢は見ません﹂
﹁一度も?﹂
頷いたかぐや姫に、帝は興味深そうに続けました。
﹁夢うつつ、というようなこともないのか? 眠りが浅いときに、
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現実と夢が入り混じってわからなくなるような﹂
﹁⋮⋮昔を思い出すことは、あります﹂
﹁子供の頃の記憶ということか?﹂
﹁ずっとずっと、昔の﹂
かぐや姫が自分のことを話すのは珍しいことでした。かぐや姫自
身も、話し過ぎたことに気づいたのか、その長い睫毛を伏せました。
﹁日が暮れそうだな。そろそろ帰ろう﹂
部屋を出ようと立ちあがった帝は、ふと思い出して振り返られま
した。
﹁そうだ。正月ということで、宮仕えの者たちにちょっとした祝い
をやった。お前も何か欲しいものはあるか?﹂
かぐや姫は首を横に振りました。
﹁ありがたいですが、お気遣いは不要です﹂
﹁そう言うと思った﹂
帝は部屋を見まわし、活けてあった椿の花に目をやられました。
媼が庭で丹精込めて育てている椿でした。帝は花瓶から一本すっと
抜かれると、迷いのない手つきで、かぐや姫の髪に差されました。
赤い花はつややかな黒髪にとてもよく映えました。
﹁では、これが祝いの代わりだ﹂
﹁⋮⋮椿はもともと部屋にあったものではないですか﹂
かぐや姫が反論すると、帝はからからと笑われました。
﹁私の手から渡せば、この国では、それは賜物というのだ﹂
﹁傲慢ですね﹂
﹁帝とはそういうものだ。この国のものはすべて私のものだ。︱︱
たったひとつ、お前を除いて﹂
帝はかぐや姫の右耳の上に咲いている椿の花びらに触れました。
かぐや姫がまばたきすれば、睫毛が煽いだ風が届きそうなほど近く。
夕陽が部屋に差し込んでいました。庭に背を向けているにもかか
わらず、眩しいような錯覚がして、かぐや姫は目を細めました。太
陽の光はかぐや姫の身体を包むように、部屋中に満ちていました。
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次に帝がいらっしゃったのは、しばらく間を置いて、三月のこと
でした。風はまだ冷たいながらも、雪は溶け、花が芽吹き始める季
節になっておりました。
ずいぶん久しぶりのご来訪になったことについて、かぐや姫が口
を開こうとしたとき、帝のご様子がいつもと少し違うことに気づき
ました。帝は普段の軽口もなく、黙ってかぐや姫の傍にお座りにな
ると、中庭を見ながらおもむろにおっしゃいました。
﹁先月、第一皇子が死んだ﹂
かぐや姫は帝の横顔を見つめました。帝は庭のほうに目を向けら
れたまま、淡々と続けられました。
﹁子どもとは不思議なものだな。少し風邪をこじらせたかと思って
いたら、あっという間に死ぬ﹂
﹁お悔やみ申し上げます。皇子様を亡くされたお心は、どれほどお
辛いことでしょう﹂
かぐや姫は静かに頭を下げました。
﹁死んだのは、弱いからだ。生まれたときから病弱な子だった。弱
くては帝にはなれぬ。政争に巻き込まれることを思えば、物心つか
ぬうちに死んだのは、かえって幸運だったかもしれん﹂
庭先では、つがいのメジロが木々と戯れていました。風が幼い花
びらを揺らし、日の光はのどかでした。さらに奥の山には、若く青
々とした竹林が広がっておりました。
﹁この春を見ずに逝ってしまった﹂
帝はぽつりとおっしゃいました。
ふと何かの気配を感じて顔をあげたかぐや姫は、思わず目を見開
きました。
帝の瞳から、音もなく涙が流れ出ておりました。帝はそのことに
気づいておられないように、拭うこともせず、ただ流れるままにさ
れておりました。
﹁可愛い子だったよ。身体が小さくて女児のようでなあ。中宮の落
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胆ぶりはいかほどか⋮⋮﹂
﹁中宮さまのお傍にいらっしゃらないのですか。そのほうがお心も
慰められましょう﹂
﹁ならぬ。私が嘆いたら、逆にあれは自分を責めるだろう。それに
立太子争いで、隙を狙っている者も山ほどいる。私が宮中で感情的
になることは許されん﹂
かぐや姫が言葉を選んでいると、帝は振り返って、笑っておっし
ゃいました。
﹁何も言わなくていいぞ。帝とはそういうものだ﹂
その表情を見たとき、かぐや姫は言葉も理屈も奪われたように感
じました。
この方は、なんて健全に、人生を営んでいるのだろう。誰かに対
してそんなふうに思うことは、今まで経験したことがありませんで
した。
その夜遅く、かぐや姫は寝所から抜け出して縁側に出ました。
空にかかる十三月は、今にもこぼれ落ちそうに、たっぷりとした
風情で光を放っていました。
︱︱約束の時が、近づいているのね。
かぐや姫にとって、月は懐かしく恋しく思う対象であり、また同
時に、痛みと孤独を呼び起こすものでした。
宵の冷たい風が、かぐや姫の髪の毛を弄んで、遠くへ吹き抜けて
いきました。かぐや姫はじきに訪れるであろう未来を思い、両の手
で胸を押さえました。
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第五話
その日以来、かぐや姫は月を見つめては、物思いにふけるように
なりました。気づけば、帝と会ってから三年が経とうとしていまし
た。
お付きの侍女が﹁月の顔を見るのは、忌まわしいことですわ﹂と
忠言したこともありましたが、そのときは素直に頷いても、やはり
人目を盗んで月を眺めているのでした。時を同じくして、ふとした
瞬間に微笑みが絶え、憂いのある表情をすることが多くなりました。
心配した翁がかぐや姫に尋ねました。
﹁どうして、物思いする様子で月を見ているのじゃ。こんなに素晴
らしい世の中なのに﹂
かぐや姫は何でもないというふうに首を横に振りました。
﹁月を見ると、誰しも世の中が心細く切なく感じられるものです。
ちょっとした感傷に浸っているだけのことですわ﹂
しかし、様子をよく見ていると、かぐや姫が物思いしているのは
明らかでした。夕方までは普段通り穏やかでも、空に月がかかる頃
になると、溜息をついたり、思いつめたような表情をするのです。
何かを思い悩んでいることは明らかでしたが、両親をはじめ、誰も
理由がわかりませんでした。
八月十五日近く、帝がいらっしゃった日のことでした。いつもの
ようにかぐや姫と午後をお過ごしになり、夕方お帰りになろうとす
る帝を、翁が引きとめました。
かぐや姫の部屋から離れた部屋に帝をお連れし、翁と媼は並んで
ひれ伏しました。
﹁このようなお願いをすることが失礼とは百も承知ですが、どうぞ
私どもの話をお聞きください。この頃、かぐや姫の様子がおかしい
のです﹂
﹁どういうことだ﹂と帝が聞き返されたので、翁は一連の事情を説
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明しました。
﹁確かに、今日は口数が少なかった気もする。体調がすぐれないの
かと思っていたが﹂
﹁昼間は気丈にしておるのです。しかし夜は食事も早々に、青白い
顔をして月を眺めております。私どもが問いただしても、かたくな
に口を割りません﹂
何か悪い病気なのではと心配で心配で、と言って翁と媼はおいお
い泣きました。このままでは二人が先に病気になってしまいそうで
した。
﹁無理を承知で、どうか帝にお助けいただきたいのです﹂
翁は帝の足元にすがりつかんばかりにひれ伏しました。
夜、部屋にひとりきりになったかぐや姫は、縁側から月を眺めて
いました。
このところ、月がどんどん大きく、近づいてくるように感じてい
ました。おそらくそれは、目の錯覚ではなく、約束の時が迫ってい
る証でした。
月が満ち、約束が果たされることは、かぐや姫がこの国に生まれ
てからずっと願っていたことでした。喜ぶべきことのはずなのに、
沈鬱な気持ちはじわじわと心を侵食していきました。それでも、時
間を止めることはできません。この数日間は、もはや諦めにも似た
境地で、ただ時が過ぎるのを待っていました。
真実を告げたら、両親はなんと言うだろうか。そして、帝は⋮⋮。
今日見送った帝の背中を思い出して、かぐや姫の胸は締め付けら
れました。
﹁結局、帝に言えなかった﹂
月を見上げながら、つい独り言を漏らしたときでした。
﹁何をだ?﹂
その声を聞いただけで、かぐや姫の背中は震えました。
こんなことは許されない。振り返ったら何もかも台無しになってし
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まう。心の一部が警告を叫んでいました。それでもかぐや姫は振り
返らずにはいられませんでした。
いつの間にか、帝がそこにいらっしゃいました。
﹁まるで幽霊を見たような顔だな﹂
帝は呆れたように笑われました。かぐや姫は﹁なぜ⋮⋮﹂と声を
絞り出すのがやっとでした。
﹁爺から聞いた。お前が毎晩、月を見て思い悩んでおると。昼間は
平常を装うだろうから、夜に会ってやってくれないかと﹂
﹁帝のお手をわずらわせるようなことはできません。今すぐお帰り
ください。勝手なことをするなと、父にはよく言っておきます﹂
かぐや姫は顔をそむけて隣の部屋に行こうとしましたが、帝は袖
をパッとお掴みになりました。
﹁逃げるな﹂
﹁帰ってください﹂
﹁帝に命令するのか? 決めるのは私だ﹂
﹁だって﹂
言い返そうとしたのに、視線を正面から受け止められると、かぐ
や姫は何も言えなくなりました。
﹁だってとは、駄々をこねる女児のようだな。確かにお前らしくな
いが、可愛げがあって、たまにはいい﹂
そうおっしゃって帝は笑いました。かぐや姫は、この人からは逃
げられないとを悟りました。そして、自分の気持ちからも。
かぐや姫は覚悟を決めました。
﹁以前お話ししたように、わたしはこの国の人間ではありません。
月の都の人です。とある約束によって、この世界にやって来ました。
でも、八月十五日に迎えがきます。そうすれば、わたしはもう戻る
ことはありません﹂
一息にかぐや姫は告白しました。さすがの帝も、驚かれたようで
した。
﹁月の都は、非常に文明が発達したところです。皆美しく、年老い
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るということもありません。畏れ多くも、かの地から見れば、この
国は小さく卑しい場所とされています﹂
卑しいという言葉を発するとき、かぐや姫は声を小さくしました
が、帝はそれよりも、話の続きが気になるようでした。
﹁先ほど、約束と言ったな。なぜそんな都から、お前はここに来た。
そして、どうしても帰らなければならないのか﹂
﹁月の都に、許婚がおります﹂
かぐや姫は、できるだけ感情を排して言いました。
﹁彼は月の皇子で、とても美しく、強い力を持っています。わたし
は彼に見初められ、結婚する予定でした。でも、わたしが本当に彼
にふさわしい女であるのか、彼だけを愛せる資質があるのか、試さ
なければならないと言われたのです﹂
かぐや姫は、月の都でも際立った美貌で評判でした。月の皇子と
恋に落ちたとき、人々はお似合いだとはやしたてたものです。皇子
の妻になることは、月の都の女性にとってこれ以上ない栄誉であり、
一族の繁栄を約束することでした。かぐや姫の家はそれほど位の高
くない貴族でしたので、喜びようもただごとではありませんでした。
しかし、時間が経つにつれ、皇子は嫉妬深い面を覗かせるように
なりました。かぐや姫がほかの男とちょっとした会話をするのも見
逃さず、皇妃となるには躾が足りないと、屋敷に囲い込むようにな
りました。それでも満足せず、お前の存在は罪深い、だから罰を受
けなければならない、と言いだしたのです。
︱︱私だって好きでこんなことを言っているわけじゃない。愛して
いるからこそ、苦しいんだ。私の気持ちをわかっておくれ。
月の皇子が罪だと言えば、それは罪になりました。流刑は皇妃と
なるための修行だと言えば、みんな納得しました。
こうして、かぐや姫はこの国に生み落とされたのです。
﹁本当に愛しているなら、不便で卑小なこの国での生活も我慢でき
るだろうと。充分に反省した頃、迎えに来ようと。それがこの八月
十五日なのです﹂
34
話終えて、かぐや姫は深いため息をひとつつきました。帝は神妙
な顔つきでしばらく黙っておいででしたが、やがて落ち着いた声で
おっしゃいました。
﹁故郷に戻れるなら、よいことではないか。何を思い悩むのだ﹂
かぐや姫は、すがるような目で帝を見上げました。
﹁久しぶりに戻ることに緊張しているのか?﹂
﹁そうではありません﹂
﹁爺と婆に情が残ったか﹂
﹁それもあります。でも、それだけではございません﹂
﹁じゃあ、なんだ﹂
帝は少し苛々した様子で訊き返されました。
﹁戻って皇子と結婚するのだろう、なぜそんな悲しそうな顔をする﹂
﹁帝とお別れするのが辛いのです﹂
かぐや姫は怒ったように言いました。
帝は動きを止め、まじまじとかぐや姫を見つめられました。かぐ
や姫はもはや、何もかもさらけ出そうと決めました。
﹁以前、帝のことを傲慢だと言いましたが、本当に傲慢なのはわた
しでした。つまらぬ国によこされて、辛かった。退屈で仕方なかっ
た。拾い育ててくれた父、母のことは感謝しておりますが、一方で、
愚かで野蛮な人種だとどこかで見下していたのだと思います。それ
以外の人のことは、なおさらです。ここはわたしの住む世界ではな
い、はやく月の都に帰りたいと、そればかり考えて過ごしてまいり
ました﹂
美しい着物も飾りも、かぐや姫にとっては何の意味もありません
でした。ただ書物を読んで気を紛らわせることだけが、心の頼りで
した。
﹁結婚など、もってのほかでした。わたしをよく知りもせず、見た
目の評判だけで求愛してくる男性たちを軽蔑しました。お恥ずかし
ながら、彼らを翻弄して打ち負かすことに悦びも感じました。だか
ら帝のことも、最初は同じように⋮⋮﹂
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野卑で尊大な帝。その想像通りであれば、むしろどれだけよかっ
たことでしょう。
﹁でも、あなたは違いました。話すと楽しくて、さみしい気持ちが
慰められました。わたしのことは珍しい生き物程度に思っておられ
たのでしょうが、かえってそれがラクだった。会えば会うほど、お
人柄に魅せられていくのを止められませんでした。心ひそかに、后
妃さまたちをうらやましいとも思いました。浅ましいことです﹂
かぐや姫は精いっぱいの力で微笑みました。
﹁あなたは素晴らしい帝です。帝が治められるこの国を、うらやま
しく思います。きっと月に来ても立派に治められるでしょう。同じ
国に生まれなかったことを、心から残念に思います。そしてどうか、
数々のご無礼をお許しください﹂
帝は信じられないといったお顔で、問われました。
﹁私のことが、好きだと言っているのか?﹂
かぐや姫は頷きました。
﹁できれば、心に秘めたまま去りたかった。許されないことはわか
っています。許婚がいる身ながら、呆れられても仕方ありません。
確かにわたしは罪深いのでしょう﹂
結局、皇子の危惧したとおりのことになってしまった。そう自嘲
気味に笑おうとしたかぐや姫の口元を、帝の唇がふさぎました。
くちづけはしなやかに、かぐや姫の言葉を奪いました。
﹁珍しい生き物などと、いつ言った﹂
唇を離した帝は、呆然としているかぐや姫の顔を覗きこまれまし
た。
﹁⋮⋮だって、ただ話して面白がられるだけで、いつもさっとお帰
りに﹂
﹁私のほうこそ嫌がられていると思っていたからだ。触ったら、そ
れ以上のことをしたくなってしまうだろう﹂
そうおっしゃいながら、帝の指先がかぐや姫の頬に触れました。
その手が肩へ動き、背中に回り、身体ごと抱き寄せるまでに時間は
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かかりませんでした。
﹁お前みたいに強情な娘には会ったことがない﹂
かぐや姫の髪の毛にくちづけを落としながら、帝はささやきまし
た。
﹁だが、お前みたいに愛おしい娘もはじめてだ﹂
かぐや姫は心が震えるのを感じました。
月の都から落とされたのは、自分が悪いのだと思っていました。
自分に隙があるから罪が生まれ、高貴な皇子を苦しめるのだと。こ
の国では隙を見せないように、装って、我慢して、感情を排して過
ごそうと決めました。人々を見下すことで、孤独な気持ちを誤魔化
そうとしていました。
しかし帝に惹かれてはじめて、かぐや姫は自分の処遇に疑問をお
ぼえるようになりました。誰かの言いなりになって、素を出せない
まま無為に過ごすのは間違っているのではないか。愛しているから
といって、相手の自由を奪う権利があるのか。本当はずっと悲しか
った。さみしかった。諦めることに慣れたくなかった。
帝はかぐや姫を受け入れてくれました。それ以上に嬉しくせつな
いことが、この世にあるとは思えませんでした。
たとえ罪深いと罵られても、淫乱と蔑まれても、もはや構うまい。
帝のくちづけに応えながら、かぐや姫は目を閉じました。
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最終話
かぐや姫に、自分は月の都の者であること、八月十五日に迎えが
来ることを告げられると、翁と媼は失神するばかりの勢いで嘆き悲
しみました。
﹁竹の中からあなたをみつけたとき、爺がどれだけ嬉しかったかわ
かりますか。実の娘だと思って、ここまで大事に育ててきました。
突然迎えが来ると言われて、誰が素直にお見送りできるじゃろう﹂
﹁お父様とお母様に恩返しもできず去って行くことを、心苦しく思
います。本当はわたしもこの国を離れたくありません﹂
﹁屋敷に武士たちを大勢手配して守らせよう。誰が来ようとも撃ち
取ってやる﹂
かぐや姫は首を横に振りました。
﹁私を閉じ込めて守る準備をしたところで、無理なことです。月の
都の人たちに逆らうことはできません。この国の力では太刀打ちで
きないのです﹂
﹁帝は、帝はなんとおっしゃったのじゃ﹂
一縷の望みをかけて、翁はかぐや姫にすがりつきました。かぐや
姫は静かに微笑みました。
﹁お前の思うようにせよ、と﹂
それを聞いて翁はがっくりと肩を落としましたが、かぐや姫はも
う、何も恐ろしいとは思っておりませんでした。
八月十五日が来ました。屈強な武士たちが屋敷のいたるところに
配置され、ものものしい雰囲気のなか夜を待ちました。かぐや姫は
屋敷の最奥の部屋に、厳重に鍵をかけて隠されました。
真夜中、突如として屋敷のあたりがまぶしい光に包まれました。
人々は、満月が手が届きそうなほど近く大きくなったのを見ました。
そして夜空から人が雲に乗って降りてきたかと思うと、地面から少
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し浮いたところにずらりと並びました。装束は、すべて金糸で縫わ
れたかのように光り輝いており、一目でこの世のものではないこと
がわかりました。
最後にやってきた車から、ひときわ光り輝く男性が現れました。
豪奢な装束を身にまとい、立派な冠を頭に乗せていました。それが
月の都の皇子でした。
皇子が屋敷に近づくと、磁石で引き寄せられるように、扉という
扉が開きました。剣や弓矢を構えていたはずの武士たちは、酔った
ような不思議な心地になり、戦意を喪失し、ひとりふたりと倒れ込
むように眠りに落ちていきました。
最後までしぶとく気を吐いていた翁もついに陥落し、すべてが眠
りに包まれました。扉があけ放たれた屋敷の玄関から、大きな力で
吸い出されるように、かぐや姫が現れました。
皇子は満面の笑みで迎えました。
﹁会いたかったよ、姫。ああ、やはりなんと美しい﹂
﹁ご無沙汰しておりました﹂
かぐや姫は頭を下げました。
﹁さみしい思いをさせたね。でもわかっただろう、すべてお前のた
めだったんだよ。私もずっとさみしかった。これで、愛が証明され
た。この先はもう離れることはないからね﹂
﹁畏れながら、わたしにはそうは思えません﹂
予想外の返事に、皇子はきょとんとしました。
﹁こんな形で証明できるものがあるとしたら、それは愛ではなく、
別の何かです。月の都に帰ったところで、また同じようなことが繰
り返されるでしょう。わたしはきっと耐えられません﹂
﹁いったい何を言っているのです。姫はこの国の瘴気に当てられて、
少しおかしい状態なのでしょう。さあ、はやく一緒に帰りましょう。
汚れた場所に長くいては、私たちの身体にも障る﹂
差し出された手を取る代わりに、かぐや姫ははっきりと告げまし
た。
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﹁皇子、わたしは人と契りを交わしました﹂
皇子の顔色がさっと変わりました。控えている臣下たちが、顔を
見合わせてざわつきました。
﹁皇妃となるはずの身ながら人を愛したこと、国に背く行為だとい
うことは重々承知です。許されたいとも思っておりません。月に戻
りたいとも思いません。たとえ月に戻っても、結婚することはでき
ないでしょう﹂
﹁愚かなことを⋮⋮。なぜ我慢できなかった﹂
皇子は吐き捨てるように言い、不快感を露わにしました。
﹁今ならまだ、さみしさのあまりの過ちとして、寛大に許してやる。
この国の人間の何がいいというのだ。寿命は短く、野蛮で愚かだ。
月の都とは比べ物にもならない。月に戻れば、私の妻として、何不
自由なく暮らせると言っているのだぞ﹂
美しい顔をこれ以上なくゆがめた皇子は、恐ろしいまでの迫力で
した。皇子をとりまく光は、今や鋭い冷気となってかぐや姫を取り
込もうとしていました。震えだしそうになりながらも、負けたくな
い、とかぐや姫は強く思いました。
﹁畏れながら、もはやわたしにとっての故郷は、月の都ではなくこ
の国です﹂
かぐや姫はまっすぐ皇子の目を見て言いました。
﹁わたしはもうあなたを愛しておりません﹂
そう言った瞬間、月の光が弱まり、皇子の顔に影が差しました。
皇子の顔からはあらゆる表情が消え、ただ侮蔑の色だけが残りまし
た。
﹁恩知らずの淫売め。もうお前に用はない﹂
殺されるかもしれないと、かぐや姫は身体をこわばらせましたが、
皇子は空虚な目で彼女を見ただけでした。臣下たちに指示を出すと、
皇子は背を向けて車に乗り込みました。かぐや姫は息を切らしなが
ら、信じられない気持ちでそれを見つめていました。
車が宙高く浮かび上がり、かぐや姫の頭上を通り過ぎるとき、氷
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より冷たい声が響きました。
﹁月の加護こそあれば美しくいられるものを、自ら放棄するという
のなら、ここで勝手に朽ち果てるがいい﹂
投げつけられた呪いの言葉も、かぐや姫には祝福に思えました。
一行が月へと去っていくのを見届けると、力が抜け、ぺたんと地べ
たに座り込みました。
光が消え、夜が戻りました。寝込んでいた者たちが、ぼんやり起
き上がりだしました。
月はいつもどおりの大きさに戻っていました。狐につまされた気
分で皆が顔を見合わせるなか、かぐや姫だけが、月を見上げて笑っ
ておりました。
翌日、翁の屋敷は、昨晩の騒ぎが嘘のように平静を取り戻してい
ました。
さすがに翁と媼は大騒ぎしたのが老体にこたえたのか、朝から寝
込んでおりました。それでも、かぐや姫が部屋を見舞うと、﹁ああ
よかった、よかった﹂と手を握りしめて嬉し泣きするのでした。
﹁これでもう、死んでも思い残すことはありませぬぞ﹂
﹁せっかくこの屋敷にとどまることになったのに、お父様に死なれ
たら困りますわ。どうぞ長生きしてくださいませ﹂
﹁おお、そうじゃったそうじゃった。はやく元気にならなければ﹂
目尻に皺を寄せて笑う翁や媼、ニコニコして見守る召使たちを、
かぐや姫は愛おしいと思いました。
昼食のあと、部屋でひとり、庭を見ながら涼んでいると、御簾が
揺れる気配がしました。
かぐや姫は、あえて振り向かずにいました。
帝はかぐや姫の横にお座りになりました。ふたりは並んでしばら
く庭を眺めておりました。
﹁気持ちのいい午後だな﹂
﹁はい﹂
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日の光は何もかもを見通しているかのように、静かに降り注いで
いました。
かぐや姫は言いました。
﹁霊力を取り上げられたので、わたしはもう特別な存在ではありま
せん。光を放つこともありませんし、いつかのように姿を消すこと
もできません。そのうち人間と同じように老け、醜くなるでしょう。
性格も人間くさくなって、些細なことで怒ったり、后妃さまたちに
嫉妬したりして、つまらぬ女になるでしょう﹂
それに、と消えそうな声で続けました。
﹁おそらく、子は成せません。次の世代に繋がるような営みはでき
ません﹂
帝の左手が、かぐや姫の右手を握りました。かぐや姫が顔をあげ
ると、帝は目を細めて笑みをお作りになりました。
﹁それでも、私はお前が全部欲しい﹂
かぐや姫は身体を帝の胸に預け、顔をうずめるように頷きました。
﹁帝がいらっしゃるなら、ほかに何もいりません﹂
こうして、かぐや姫はこの国の人となりました。日当たりのいい
屋敷で、翁と媼と、通ってこられる帝とともに、その寿命が訪れる
まで幸せに暮らしました。
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最終話︵後書き︶
お読みいただきありがとうございました。
Stories2﹄の収録作品です。
本作は、文学フリマに﹁喫茶マリエール﹂として出展した﹃Oto
gi
本作を書くにあたって、改めて﹁竹取物語﹂を読み返していると、
五人の求婚者を退ける箇所は有名だと思うんですが、それ以上に帝
とのやりとりが少女マンガぽくて、面白くて驚きました。屋敷にこ
っそりやってきて捕まえようとするシーンとか、妙にエロい⋮⋮。
なので個人的にも第三話の描写に一番力を入れました。
帝の﹁強引で俺様だけど、とにかくやたら格好いい﹂というキャラ
も、実際にいたらヤバい男なんですが、少女マンガだと思って振り
切って書きました。そうすると、だんだんかぐや姫も少女マンガっ
ぽい勝気なキャラになってしまい、土壇場で﹁このカップルならハ
ッピーエンドだろ!﹂と急遽路線変更。原作とはまったく違う結末
となりました。
〆切直前にむりやり登場させた月の皇子は、DV加害者みたいにな
って申し訳なかったですが、愛し合うふたりのために汚名をかぶっ
てもらおうと思います。
たまたま近い時期にスタジオジブリでかぐや姫の映画が公開されま
したが、打ちのめされること必至なので未見です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ご意見、ご感想などお待ちしております。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4306cc/
何もいらない
2014年5月16日01時23分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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