フローライト - タテ書き小説ネット

フローライト
藤谷郁
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︻小説タイトル︼
フローライト
︻Nコード︼
N2554CC
︻作者名︼
藤谷郁
さいこ
︻あらすじ︼
彩子は恋愛経験の無い24歳。ある日、友人の婚約話をきっかけ
に自分の未来を考えるようになる。結婚するのか、それとも独身で
過ごすのか。﹁⋮⋮そもそも、私に恋愛なんてできるのかな﹂そん
な時、伯母が見合い話を持って来た。写真には、スーツを着て、黒
髪をきれいに撫でつけた青年が、穏やかに微笑んでいた。﹁趣味は
こうぶつ?﹂釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年に
は会いたいと思うのだった。※個人サイトに掲載した作品を修正・
1
転載します。※番外編更新中。
2
1
さいこ
秋も深まる11月半ば。土曜日の午後。
彩子は一人、県立図書館にいる。
﹁今年もクリスマスの季節なんだ﹂
ふっとため息を漏らすと、ひとりごちた。喫茶室の窓から見える
大通りの街路樹には、早くもイルミネーションが取り付けられてい
る。
高校を卒業後、地元の中小企業に就職した。包装容器類製造工場
の事務所で働いている。
生産管理、経理、総務。小さな会社なので、あらゆる仕事を受け
持っている。来客を案内したり、お茶を出したり、雑務が重なると
結構忙しい。
事務所には50代の課長、40代の主任、そして彩子の3人が入
り、毎日かわり映えのない作業に従事している。
休日は映画を観に行くか、友達と食事をするか、今日のように図
書館に面白そうな本はないかとぶらぶらしに来るのが主な過ごし方
だった。
半年前まではファンタジーやSFと言ったジャンルの本を好んだ
が、この頃は違う。
恋愛物を選ぶようになった。
それも極端にドラマチックな内容のものは避けて、ごく誰にでも
起こりそうな恋愛を描いた本を。
ともこ
親友の智子が結婚すると聞かされたのも半年前。
もちろん、本と親友の告白は関係している。同い年の、もうすぐ
25歳になる彩子は大いに刺激を受けた。
3
高校時代、ソフトボール部で共に汗を流してきた智子は、誰から
見ても超体育会系の女だった。男のような短髪で、年中真っ黒に日
に焼けて、体型も逞しくて声も雷のように大きい。
また、目鼻がはっきりとした凛々しい顔立ちなので、﹃あんたが
男だったら女をたくさん泣かせてるよね∼﹄などと、部の先輩たち
に真顔で言われたりしていた。
智子は2年生の時からチームのエースだった。
そして彩子は二塁手として幾度も彼女の苦しい戦況を救う好プレ
イをし、打者としても、ここぞと言うチャンスに強いタイプだった
ので、部活動仲間としての信頼も厚かった。
読書が好きなのも共通点で、話が合った。ジャンルは多少違って
いたが、そこがまた話の幅が広がるきっかけになって楽しかったの
だ。
何より彼女と話すのは楽だった。
部を離れると穏やかな表情になり、彩子の多少神経質な相談ごと
にも真面目に乗ってくれる。大人っぽい落ち着きが有難かった。
充実した高校生活を送れたのも智子のおかげだと、心から感謝し
ているほどである。
卒業後も、ちょっとした行楽や旅行にも出かけたり、﹁デート﹂
をしたものだ。
本当に楽しかった。
それが、去年の今頃から智子の休日に他の予定が入るようになり、
あまり会えなくなってしまった。
そして半年前の5月のある日。久しぶりに智子に会って、婚約す
る事、来年の3月に結婚する予定なのを聞かされたのだ。
4
待ち合わせた午後のカフェで、彩子は窓際のポトスを眺めていた。
なぜか、智子と眼を合わせられなかった。
今までも感じていたが、はっきりと彼女はきれいになっていた。
窓からの日差しにも映え、とても眩しかった。
高校時代の、あの逞しき親友はもういない。
目の前には長い髪をきれいに束ねて、整った顔立ちに美しく化粧
を施し、幸せに微笑んでいる女がいる。
ただ、その温かで優しい眼差しはあの頃と何も変わらず、彩子を
包んでくれている。まるで別れを告げられるような哀しさに、泣き
そうな自分に戸惑った。
友達に対してそんな感情を抱くのは初めてだった。
﹃彩子には結婚式に絶対に来てほしいの。一番大事な親友なんだか
らね﹄
智子のストレートな言葉に、とうとう涙がこぼれ落ちてしまった。
人に涙を見せるのは何年振りだろう。
﹃おめでとう﹄
彩子は親友の手を握り締めて、泣き笑いでやっと言えた。
運ばれてきたホットコーヒーをひと口飲んで、彩子は思い出して
いた。
5月の午後の日差しの中、微笑む智子の眩さを。
彩子は今、ぼんやりと恋愛に憧れている。親友をあれほど美しく
変身させた恋とは、どんなものなのだろう。
そして⋮⋮とある事実に愕然とする。
彩子は今まで、好きになった男の子はいるが、きちんと付き合っ
5
たことがない。まったくの恋愛無精で、何も考えずに生きてきたの
だ。
6
2
彩子は図書館を出ると、夕暮れの街を駅まで歩いた。
この頃は日が暮れるのが早く、風にも冬の冷たさが混じっている。
秋物の上着をまとったくらいでは肌寒かった。
来年の2月には25歳になる。彩子は初めて自分の将来を案じた。
﹁結婚⋮⋮か﹂
母親や近所に住む伯母が、時々見合い話を持ちかけてくる。わず
らわしく思っていた身内のおせっかいが、有難くすら感じられてき
た。
﹁呑気な娘だもの、世話を焼きたくもなるよね﹂
だけど、彩子が不安なのは結婚そのものではなく、それ以前の過
程についてだった。果たして自分のような無精者に、男性と恋愛関
係が結べるのか。
出会いの形はどうあれ、その相手と恋愛して結婚するのが自然な
流れだと、彩子は思っている。つまり、恋愛できなければ結婚もで
きないという理屈になる。
このまま家に帰る気にならず、彩子は駅前のコーヒースタンドに
立ち寄った。
本日2杯目のホットコーヒーを口にし、冷たい風の吹く街を眺め
る。日曜日の夕方。窓の外は駅に向かう人、これから街に繰り出す
人が行き交い、にぎやかだ。
高校生とおぼしき男女のグループが、はしゃぎながら通り過ぎて
いく。
彩子があの年頃には、土日は部活に燃えていたし、男の子と遊ぶ
などという経験は一度もない。
7
ふと、窓に映る自分に気がつく。
どうにも野暮ったいと、自分でも思う。ファンデーションと薄い
口紅だけの化粧。眉の手入れも自己流で、ほとんど適当。髪も男の
子みたいに短くて、あろうことか寝癖がついている。朝からずっと
このまま出歩いていたなんて、自分でも呆れてしまう。
とにかく、24歳の女らしくない。
︵いつだったか、智子が言ってたっけ︶
︱︱自分を知らない人間はダメ。知ろうともしないのはもっとダ
メ。
教室かグラウンドか、あるいは遠征先の試合会場での発言か思い
出せないけれど、いつになく厳しい表情だった。今の自分を叱る言
葉のように、なぜかリアルに聞こえてくる。
空になったカップを見下ろし、なるほどなあと一人頷いた。
︵私は、男の人だけでなく、自分にも無関心なんだ︶
コーヒースタンドを出た後、女性向けのファション誌でも買って
いこうと思い立ち、駅の書店に寄った。立ち読みの女性達の隙間か
ら控えめに物色し、3冊ほど選んでみた。
女性向けの雑誌は意外に重い。彩子はトートバッグを両手で抱え、
図書館で何も借りなかったのが幸いだと、苦笑いしてしまった。
単純なことに、雑誌を買っただけで何となくわくわくしてくる。
何が始まるわけでもないのに、我ながら単純だなと彩子は思う。
バッグを肩にかけ直すと、急行電車に乗り遅れないように、階段
を駆け上がった。
家に着くと、母親が夕飯を作って待っていた。台所から漂ってく
るのは、彩子の好物であるチキンカレーの匂いだ。
8
﹁家の手伝いもしないでブラブラと。また図書館? お一人様で﹂
この頃の母は辛らつである。
親友の智子が結婚すると知ってからは、特に皮肉がきつい。何で
も結婚に結びつけた言い方をするようになった。
口答えすれば正論と言う名の反撃を受けるだけなので、彩子は黙
ってしまう。
﹁イマドキは30代でも独身なんてフツーだし、いいんじゃないの。
しんじ
そんなに焦らなくてもさ﹂
﹁真二、お母さんは23歳でお前を生みました﹂
一つ年下の弟がさりげなく援護するが、母はぴしゃりとはねつけ
る。世代間ギャップはどうにも仕方がない。
﹁とにかく、家の手伝いの一つもしないのはどうなの﹂
弟の援護が油を注いだと見えて、火勢が激しくなってきた。
︵洗濯と掃除はしてるけど︶
と、彩子はいつも心で言い返す。
だが、たとえ家事全般を請け負ったとしても、この母は納得しな
いと知っている。理不尽なようだが、これが現実。彼女は山辺家の
法律なのだ。
﹁いただきま∼す﹂
彩子は食卓に付くと、チキンカレーをほおばった。
つとめて明るく振舞うのは、自衛手段である。母の機嫌を損なわ
ぬよう、24年と数か月を生きてきたのだ。
﹃いつも仲良しで、いいわねえ﹄などとご近所さんに羨まれるが、
母娘の微妙な関係は他人には分からない。
嫌味や皮肉を言うわりに、娘の好物をこしらえる母の気持ちを、
彩子だってよく分からないのだ。
父親は趣味の釣りに出かけており、今夜は遅くなるようだ。
9
それも母親の不機嫌の一因だと彩子も真二も知っている。いつも
ながら、自分の妻に気遣いをしない父親を、二人は恨めしく思って
いる。
﹁あ、そうだ。あんたの友達から電話があったわよ。何て言ったか
しら、ソフト部の仲間だったって子﹂
母親は電話機の横からメモを持ってきて、彩子に渡した。
ゆきむら りつこ
雪村律子さん ソフト部 電話×××−××××−××××
走り書きのメモに目をみはる。懐かしい名前だった。
智子と同じく彼女もソフトボール部の仲間で、気の置けない友人
の一人である。
用件は智子の結婚についてだろうと察しはつく。彩子は食事を終
えると、とりあえず自分の食器だけ洗い、電話をかけるために自室
に引っ込んだ。
﹃はい、雪村です﹄
携帯電話から聞こえる懐かしい友の声。相変わらずの低音だ。
﹁電話ありがとう。久しぶりだね、雪村﹂
なぜか上ずってしまう彩子だった。
﹃ホントだな、高校を卒業して早や6、7年か? 智子が結婚する
って聞いて驚いたよ。チームのメンバーん中では3人目だね。あい
つは最後だと思ったんだけどなあ﹄
ソフトボール部に所属した同級生のうち既に2人が結婚している。
2人とも20歳くらいで学生結婚したと聞いた。
卒業後はあまり付き合いが無く疎遠になっているが、どこからか
伝わってくるのだ。
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﹃披露宴に招待されるのは彩子と、まりと、エリ、あと私の4人な
んだ。それで、お祝いの品を皆で買おうって話してるんだけど﹄
雪村は今もみんなのまとめ役だ。頭の回転が早く、気がきいて、
ぶっきらぼうな口調のわりにナイーブな寂しがり屋なのも知ってい
る。
﹃じゃあ品物は適当に見繕っておけばいいね。お代は式場でいただ
く事にしてっと﹄
用件が済むと、ひと呼吸置いてから雪村が訊いた。
﹃ところで彩子はどうよ﹄
﹁何が?﹂
﹃彼氏⋮⋮とか、いんの?﹄
ある意味タイムリーな質問である。見栄を張りたいところだが、
彩子に張る見栄は無い。
﹁いない﹂
﹃ふーん、そっか﹄
﹁雪村は?﹂
思い切って訊いてみた。
﹃う∼ん、一応いるよ、一人﹄
何かとてつもない脱力感が彩子を襲った。自分でも思いがけない
ほどの過剰反応で、情けなくなってしまう。
﹁そう、いいね﹂
声が震えているのではと、彩子はドキドキした。
﹃はは⋮⋮でも、結婚する気はないからね、私は﹄
﹁え?﹂
﹃仕事が死ぬほど忙しいし、まったく余裕ないよ。大体私ってさ、
家庭向きじゃないだろ? だからしないのよ、結婚は﹄
﹁そ、そうなんだ﹂
11
それも雪村らしいと思う。
しかし、実は寂しがり屋のこの子が本気で言っているのだろうか
と、彩子はちょっと首を傾げた。
その後、互いの近況を報告し合い、30分ほどで通話を切った。
彩子は携帯を握りしめ、しばし考え込む。
一生をひとりで生きる。そんな選択もあるのだと気付かされた電
話だった。人生は様々な方向に枝分かれして、私を待ち構えている。
思わぬ選択肢だってあるのだ。
ベッドに寝そべり天井を見つめていると、階段から母のカン高い
声が聞こえてきた。
﹁電話終わったんでしょ。さっさと風呂に入りなさいよ∼﹂
そうでした。たとえ選択肢があったとしても、あの方が独身なん
て許しはしないでしょう。彩子は力なく笑みを浮かべる。
︵親離れが先だよね︶
あらい しょうこ
彩子は頑強な寝癖の付いた頭をそっと撫でた。長い間の癖を直す
のは、なかなか難しいことだった。
11月末︱︱
彩子が食後のコーヒーを飲んでいると、主任の新井祥子がソファ
の向かい側に座った。
﹁彩子ちゃん、この頃ファッションが違うわね﹂
眼鏡越しにニヤリと笑う。
﹁えっ? あ、はい⋮⋮少しだけ﹂
彩子は先日購入した女性向け雑誌を参考にして、化粧や服装を今
風に変えてみたのだ。
きのした
新井は今年48歳になる女性社員で、彩子の勤める﹁木下パック
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株式会社﹂の総務主任。
総務というのは便宜的な呼び方で、営業・経理・生産管理などあ
らゆる事務仕事を、工場内に一か所だけある事務所が請け負ってい
る。
25年間の勤務暦を持つ新井は、子供を出産した後数か月を休ん
だのみで、ずっと働き続けている人だ。
年齢よりも若々しく、その秘訣はなんなんだろうと、彩子が常々
不思議に思う人でもある。
﹁いいわよ∼、女の子なんだもの。オシャレしなくっちゃ﹂
﹁は、はあ﹂
今は昼休みで、事務所の中で課長や工場長をはじめ数人の社員が
休憩している。
気心の知れた人達ではあるが、その前で﹃オシャレしている﹄と
言われては、たまらなく気恥ずかしいものがあった。
何しろこの会社に就職して以来、彩子は野暮ったい女子で過ごし
てきたのだから。あからさまに色気づいたと思われたら、いたたま
れない。
﹁そうか、彩子ちゃんもいよいよ適齢期か。いい人見つけて結婚す
る年頃なんだなあ﹂
工場長が缶コーヒーを片手に感慨深げに呟いた。
﹁ここに来た時は高校を出たばかりで、おぼこくて、子供みたいだ
ったけどなあ。そうか、もう結婚か∼﹂
彩子は勝手に決めつける工場長の口に、梱包用のガムテープを貼
り付けたい衝動に駆られた。
︵結婚どころか恋愛もありません!︶
﹁いやいや、結婚なんぞ延ばせるだけ先に延ばしなさいよ、彩子ち
ゃん﹂
13
たやま
工場長の隣に座る総務課長の田山が、のんびりとした口調で言っ
た。
田山課長は、昼休み中にも書類に目を通している。白髪交じりの
頭に鉛筆をトントンと当てながら、﹁ねえ主任さん﹂と、新井に話
を向けた。
﹁そうねえ。たしかに24、5じゃ、今時は早すぎると思うわね。
でも課長は、彩子ちゃんに会社を辞められるのが困るんでしょう﹂
﹁そりゃそうだろ。彩子ちゃんがいないと、新井さんと二人きりに
なっちゃうもんな﹂
工場長がすかさずちゃちゃを入れると、皆笑った。
﹁どういう意味ですかそれは∼﹂
新井が工場長をドンと小突くので、また笑った。
どうやら話が逸れたようで、彩子はホッとした。
正直なところ、この会社にいて、仕事にやりがいと言うものを感
じた事はない。
だけど、第二の家庭のように馴染んでいる空間であり、離れがた
い場所であるのは事実だ。
それどころか、実の母親の”口撃”にさらされる実家より、何倍
も居心地が良いのである。
ただ、最近になってあることに気付いた。
彩子の恋愛対象になりうる男性は、ここに存在しない。男性従業
員はそのほとんどが中高年であり、皆、既婚者だった。
かえってそのことが居心地の良さを生んでいたのかもしれない。
複雑な思いで、彩子は分析していた。
14
3
12月に入ると急に寒くなった気がして、彩子は会社帰りにカイ
ロを大量に買った。冷え性なのか、冬になると手足がとても冷たく
なるのだ。
携帯カイロは彼女にとって、とてもありがたいアイテムである。
乗換駅のコーヒースタンドに立ち寄り、ドラッグストアの袋をカ
ウンターの棚に収めると、甘い香りにほ∼っと一息つく。今日はコ
ーヒーではなく、カフェモカを選んだ。
︵カイロか⋮⋮︶
この季節になると、いつも思い出す。彩子はふと、窓の外に目を
やった。
ビルの壁に、サンタクロースの形に這わせたイルミネーションが、
キラキラと輝いている。足を止め見上げるカップルが何組かいた。
幸せそうな光景からカフェモカに目を戻すと、あの頃の風景が自
然と浮かんでくる。
中学二年生の時、初めて好きになった男の子。
彩子は小学生の頃から、あの子いいなあ⋮⋮と思う男子は何人か
いた。
だけど、たいていはクラスの人気者だとか、かっこいい先輩だと
か、周りに乗せられるように盛り上がっただけで、その子のどこが
良いのか聞かれると、理由にオリジナリティは無かった。
初恋の男の子は違った。
彼は、どちらかといえば地味な印象だった。背も彩子と同じか、
少し低いぐらいだった記憶がある。野球部に所属し、ソフトボール
部の彩子とはたびたびグラウンドなどで、すれ違った。その時、妙
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に目が合う事があり、何となく気になっていた。
クラスも違うし、口もきいたことがないのに。
二年生の秋のある日、野球部が他校と試合するというので、ソフ
ト部のメンバーも見学することになった。雪村も同じ中学の部活仲
間だったので、校庭の階段に座り一緒に見学していた。
フェンスの周りには女の子のギャラリーが出来て、エースで4番
のイケメン君に声援を送っている。
﹁どこがいんだろうね∼。エースで4番ってだけじゃん﹂
雪村が忌々しそうに舌打ちしたのを彩子は憶えている。実はエー
スの彼を好きなんじゃないかと思っていたが、確かめた事は無い。
試合には、彩子の何となく気になる男の子も出場していた。
彼の打順は1番、ポジションはショート。
その時、3回表の攻撃でランナーは無し。相手のピッチャーも強
くて、皆、攻めあぐねていた。
バッターの彼はツースリーからボール球を叩いた。インコースの
低めだった。サードゴロでアウトになると思ったら、彼の足は物凄
く速く、何とセーフになった。
驚いた彩子だが、その後も彼は走りまくった。
2塁3塁と盗塁を決めるたび、彩子の目は彼に釘付けになる。走
る姿勢に無駄は無く、離塁のタイミングもばっちり。いつも相当練
習しているのだと分かった。
彩子は、彼にこれ以上目立たないでほしいと願った。他の女の子
達に気付かれてほしくない。複雑な心境に戸惑いながら、彼を応援
した。
彼は最後にホームスチールをも決め、試合を逆転させた。
彩子は携帯カイロを握り締めてドキドキしていた。頭がくらくら
16
するような興奮状態を初めて体験した。
﹁おい、どうしたんだよ。熱でもあるのか﹂
クールな雪村が心配するほど、真っ赤になっていたらしい。
それからは、彩子にとって学校は天国と化した。
グラウンドですれ違うぐらいしか縁のない彼を好きになったわけ
で、どうする事も出来なかったが、世界は一変したのだ。
彼のプロフィールについては、彼と同じ小学校だった女の子に教
さえきりょういち
えてもらい、少し知る事ができた。
名前は佐伯諒一。家族は両親とお姉さんがいて、お父さんは大工
さん。運動会では常にリレーの選手だったと聞いて納得する。週刊
XXと言う少年漫画雑誌を愛読しているのも分かった。
ただ、彼についてひとつひとつ知っていくのはとても楽しかった
けれど、それだけでは当然物足りない。彼とは口をきいたことも無
く、一方的に思っているだけなのだから。
そんなわけで、何も進展の無いまま冬を迎えた。
恋の神様は、思いがけない縁を用意している。
それは1月の終わり。彩子が部室に忘れ物を取りに行った時だっ
た。
グラウンドまでの通路で、向こうから彼が歩いてくるのが見えた。
一人である。泥だらけの練習着で、バットを2本肩にかつぎ、帽子
を斜めに被っていた。
彩子は動揺したが、突然のことで、引き返すことも回り道するこ
とも出来ない。
自分でも顔が赤くなってくるのが分かった。北風が吹く寒い日な
のに、体が汗ばむほどに熱い。
1メートル先に来て、ふいに彼が顔を上げた。
17
初めてまともに互いを見たような気がする。
まるっこい目が瞬きした。
すごくかわいい顔をしていると思った。
だけど、そのまま二人はすれ違った。
﹁お疲れさま﹂とか﹁さようなら﹂とか、何も言えなかった。
彩子は涙が出そうになる。
なので、驚きのあまり飛び上がりそうになった。
﹁おい﹂
彼が呼び止めたのだ。
さまざまな妄想が頭を駆け巡ったが、それも一瞬のうちにかき消
される。
﹁カイロ落ちたぞ﹂
彼の指差す足元を見ると、携帯カイロが地面にへばりつくように
落下していた!
彩子は悲鳴を上げて走り出したい衝動に駆られたが、かろうじて
自制した。
彼が拾って手渡してくれたからだ。
目の前に彼が立っている。
﹁ありがとう﹂
やっとの思いで言えたが、彼は﹁ふふっ﹂と笑って走って行った。
さすがの俊足で、あっという間に通路の向こうに消えてしまった。
手のひらにカイロのぬくもり。心には彼の少年らしい笑みが、ほ
んのりと残った。
﹁神様!﹂
彩子は思わず声に出していた。
18
それから思わぬことが起こった。
彼⋮⋮﹃佐伯君﹄はそれ以来、すれ違うたびに﹃カイロちゃん﹄
と、彩子を呼んだ。
﹁おっ、カイロちゃんだ﹂
﹁がんばれよカイロちゃん﹂
などと親しげに話しかけるものだから、彩子は最初こそ動揺した
が、少しずつ応えるようになっていった。
不思議な事に、そんなやり取りを繰り返す度、異様にドキドキす
る事はなくなっていった。
憧れの対象としてではなく、同じ中学に通う身近な同級生として
認識したせいかもしれない。
ただ単純に、会うと嬉しくて幸せな気分になる。友情と愛情が合
わさったような感情だが、14歳の彩子には細かく分析する余裕は
無かった。
交わす会話といえば、友達や部活動、プロ野球や漫画など、他愛
も無い話題⋮⋮それも学校内で、1週間に1、2回のものだ。
彩子には大切な、好きな男の子との交流だった。
二人はそのまま卒業した。
宝物のような想いを残して、離れた。
彩子はうっとりとした目つきで、街行く恋人たちを眺めた。
﹁佐伯君と付き合い始めてたら、あのカップルのうちのひと組にな
れてたかな∼﹂
初恋は純粋すぎて実らないのかもしれない。カフェモカの底に、
ちょっぴり苦みを感じる彩子だった。
19
冷たい雨が降っている。
12月半ばの日曜日。夕方には雪に変わるかもしれないという予
報どおり、とても寒い。
彩子は一昨日の夜、智子に電話してみた。
智子のお相手がどんな人なのか、訊いてみたくなったからだ。
﹃それなら日曜日に会おうよ。N駅の巨大クリスマスツリーも見た
いし、あそこで待ち合わせない?﹄
彩子は同意し、そのように約束した。
﹁うう⋮⋮冷えるなあ。風邪を引いちゃいそう﹂
アンゴラ混のコートを羽織ると、思い切ったように玄関を出た。
﹁それにしても、クリスマスツリーか⋮⋮﹂
普段は大人っぽい智子だが、クリスマスになると、まるで子供の
ようにはしゃぐ。高校時代から変わらない彼女の様子に、彩子は微
笑みを浮かべた。
智子の家は父親が早くに亡くなり、母親と幼い妹と彼女は力を合
わせ生活してきた。お金に苦労したという事情がある。
そんな中、毎年クリスマスには親子三人で街に出かけ、レストラ
ンで食事して、駅前の大きなクリスマスツリーを眺める。それがと
まこ
ても幸せな思い出になっていると聞いた。
﹁おばさんも真子ちゃんも元気してるかな﹂
彩子はN駅に向かう電車に揺られ、智子の母と妹の姿を、懐かし
く思い出していた。
待ち合わせ時刻は午後1時。
日曜日だけあって、N駅のコンコースには大勢の人々が行き交い、
混雑している。年の瀬が近付いているためか、慌しい雰囲気でもあ
20
った。
ツリーの下に立っていると、1時ちょうどに智子が現れた。
長身にロングコートが良く似合う。姿勢良くまっすぐ歩いて来る
彼女は、ファッションモデルのようだ。友人のまとう華やかな雰囲
気に、彩子は圧倒された。
﹁うわあ。今年も立派だねー!﹂
智子はツリーを見上げると、その大きさと、煌びやかなオーナメ
ントに感歎した。
﹁今でもツリーが大好きなんだね﹂
﹁もちろん。これを見ないとクリスマスじゃないって感じ﹂
二人はひとしきり笑い合うと、馴染みの喫茶店に向かった。
暖房の効いた喫茶店に入ると、彩子はほうっと息をついた。ピア
ノ曲が流れる落ち着いた店内は、街のざわめきと隔てられている。
二人はテーブル席につき、温かい飲み物を注文した。
﹁外は冷えるよね。彩子は寒さに弱いから、今日はよそうかって思
ったんだけど﹂
﹁いいのいいの﹃カイロちゃん﹄があるから﹂
﹁あ、カイロちゃんね﹂
智子はニヤリとした。彼女は、彩子の初恋話を知っている。
﹁それでは、例の話を聞かせてもらおうか﹂
﹁取調べみたいね﹂
つい前のめりになる彩子に、智子がクスクスと笑った。
そして手元のバッグから一枚の写真を取り出すと、テーブルに置
いた。
写真には、無精ひげを蓄えたTシャツ姿の男性が写っている。精
悍な顔つきで体格も良い。いかにも頑丈そうな、スポーツマンタイ
21
プだ。
﹁何かやってる人?﹂
﹁彩子の好きな野球。甲子園に出場した事もあるのよ。一回戦で敗
退だけど﹂
﹁へえ﹂
ごとう れいと
甲子園と聞いて、何だか別世界の人のようだと思い、写真を見直
す。
﹁年はいくつだっけ?﹂
﹁三つ年上の28歳。あ、名前は後藤伶人っていうの﹂
﹁れいと⋮さん﹂
飲み物が運ばれてきて、二人は一旦写真から離れ、一息ついた。
﹁えっとね、私の勤めてる会社の野球チームが、彼のとこのチーム
と試合したの。私は応援に行ってたんだけど、その時にその⋮⋮﹂
﹁ひと目惚れされたんだね﹂
充分あり得る話だと、彩子は納得した。
もしも自分が男で、その場にいれば、智子に目が留まっただろう。
﹁それにしても、いい体格してるね。背はどれぐらい?﹂
﹁確か、185だよ﹂
﹁智子と並ぶと、ちょうといい感じだね、うん﹂
彩子の頭に、ウエディングドレスの智子とタキシードの彼が浮か
んだ。二人が並ぶところを想像すれば、とてもよく似合っている。
﹁結婚式が楽しみ﹂
﹁ふふっ、ありがと﹂
︵おめでとう、智子。最高のクリスマスだね︶
彩子は心の底から嬉しかった。
輝く街の明かりすべてが、智子を祝福しているように感じる。彼
22
女のまとう華やかさは、幸せのオーラなのだ。
﹁伶人、このシアワセ者﹂
世界一の幸運な男。智子を幸せにしてくれた彼に、心から感謝し
た。
夕方家路につくころ、雨がみぞれに変わった。
彩子はとぼとぼ歩きながら、寒さに肩をすぼめる自分が何となく
惨めに思えた。でも、これまでにない希望も抱いている。
友人の幸せは、宝石のかけらを持たせてくれたようだ。
ほたるいし
彩子の胸に、蛍石のイメージが映し出されていた。
23
1
12月23日。今日は火曜日だが、祝日なので会社は休み。
彩子が朝寝をしていると、母親がいきなり部屋に入ってきた。彼
女はノックなどしたためしが無い。
言いたいことは大体わかっているので、彩子はノソノソと起き上
がる。
﹃いい若い者がいつまでも寝てるんじゃないの﹄
﹃どこかで彼氏でも見つけておいで﹄
など、最近はほとんどこんな調子である。
ところが今朝は何だか様子が違う。彩子のベッドの端に腰掛ける
ゆうこ
と、妙に優しい口調で話しかけてきた。
﹁ねえねえ彩子、木綿子伯母さんが、とってもいいお話を持ってき
てくれたのよ﹂
やっぱり⋮⋮と思ったが、逆らうとうるさいので、とりあえず聞
く姿勢をとる。
﹁K社にお勤めで、あんたより三つ年上。とっても良い感じの人な
のよお﹂
母が良い感じなのは勤め先だろうと思ったが、口には出さない。
ああ、もう勘弁してほしい。
お見合いなんて堅苦しいのは性に合わない。
ご免こうむる!
呑気な娘を心配してくれるのはありがたいが、いつ何時でも押し
付けるのは本当にやめてほしい。
﹁早く着替えて、居間に下りてらっしゃい。うっふふ。楽しみだわ
∼﹂
24
彩子が応じるものと決め付けている。相当気に入った話のようだ。
せっかくの休みなのに。気持ち良く朝寝してたのに。彩子は階段
途中の小窓から、晴れ渡った空を見上げた。
無性にイライラしてくるが、母も伯母も私を思ってのことなのだ。
自分を納得させると、階段をもたもたと下りていった。
伯母は彩子が来たのに気付くと、ぱっと振り向き、愛嬌のある笑
顔を見せた。
﹁おはよう、彩子ちゃん。お休みの日にごめんねえ﹂
母と違って、お人よしで優しい伯母である。子供の頃から何かと
めんどうを見てくれる人だ。彩子はこの人には弱かった。
﹁コーヒー、淹れなおしてくるわね﹂
母が台所に立つと、伯母は声を抑えて囁いた。
﹁もしその気が無いなら会わなくても大丈夫よ。お母さんには私か
ら上手く言っておくからね﹂
伯母は彩子の母の姉であるから、よくわかっている。彩子が相手
に会う前に断るのに対し、母が激烈に怒ることを。
伯母は、少しでも会ってみたいという気持ちが無ければ、無理は
させないという考えだ。母の方は、会ってみなければわからないと、
積極的に押していく。
どちらが正しいのか彩子には不明だが、見合いの当事者としては
伯母と同感だった。
﹁とりあえず、見てみて﹂
伯母は手元の封筒から写真と釣書を取り出して、彩子に渡した。
写真の中で、少し窮屈そうにスーツを着て、黒髪をきれいに撫で
つけた青年が微笑んでいる。穏やかで、落ち着いた感じの人だ。
25
彩子はなぜか、智子の婚約者を頭に浮かべた。この人は、後藤怜
人とは正反対のタイプだと思った。がっしりとした彼と違い、体型
もスリムに見える。
彩子は、﹁う∼ん⋮﹂と、思わず唸ってしまった。どういう意味
彩子より三つ年上で、
で唸ったのかと、伯母が不思議そうに窺ってくる。
はらだ よしき
次に釣書を見てみた。名前は原田良樹。
K社にお勤め⋮⋮今、母から聞いた通りだ。
会社の寮であるアパートに一人暮らしだそうで、家族は両親と彼
の三人。兄弟は無し。
﹁同居しなくてもいいそうよ。親御さんもまだお若いし、そのあた
りは今風でわかってる方たちよ﹂
すかさずフォローを入れる伯母。
﹁ありがたいお話よね∼﹂
コーヒーを淹れてきた母が、満面の笑みで相槌を打つ。彩子は包
囲されつつあるのを感じ、怖くなってきた。
ふと、趣味のところに目が留まった。﹃鉱物﹄とだけ、書いてあ
る。
﹁趣味はこうぶつ?﹂
伯母はコーヒーをひと口飲むと、首を傾げつつ言った。
﹁私もよくわからないんだけど、石が好きなのよ。小学生の頃から、
どこかの山なんかに行って、探してくるとか何とか⋮⋮﹂
﹁今、流行ってるのかしらね。パワーストーンとか﹂
母は週刊誌の広告を連想したようだ。
もう一度、写真を確かめる。
彩子はどちらかと言うと、俊敏で運動神経の良いタイプが好みな
のだが、この写真からはそんな印象は受けない。
26
しかし、気になるものがあった。
﹁ねえ、何だかお腹すいちゃったわ。さっき持ってきたケーキ食べ
ましょ﹂
﹁ああ、そうね。いただこうかしらね﹂
母が再び台所に消えると、伯母は身を乗り出して訊いた。
﹁どう、彩子ちゃん、会ってみる? どちらでもいいのよ、遠慮な
く言って﹂
伯母は台所の方をチラチラ見ながら、早口で急かした。母がいる
と強引に進めてしまうので、遠ざけてくれたのだろう。
﹁う∼ん、う∼ん﹂
何度も唸った。本能的なものが彩子の心を支配してきたようで、
これは思わぬ現象だった。
﹁うん、会ってみたい﹂
﹁うわあ∼!﹂
伯母はひっくり返った声を上げ、台所に走っていった。
間もなく母の狂喜する声も聞こえてきた。
急激に意気しぼむ彩子だが、それでも﹃会いたい﹄という気持ち
が揺るがないのは不思議だった。
彩子は苺のケーキを頬張りながら、写真を何度もチラ見する。も
のすごく好きなタイプではないのに、何かがとても気になる。
どうしてなのか、本当に不思議だった。
それにしても、お見合いと言うのは結婚を前提に行われるもので
あり、その前に恋愛はあるのだろうか?
その答え︱︱今は出そうに無かった。
﹁じゃあ、早速、相手の方に電話してみるわね﹂
伯母はいそいそと携帯電話を取り出すと、相手方の番号を押した。
27
﹁えっ、もう?﹂
せっかちな母も驚く、早い展開だった。
﹁でも、相手の方に彩子の写真や釣書をまだ渡していないわよ﹂
そう言われてみると、確かにそうだ。と、彩子も気がつく。
そんな二人に、伯母は大丈夫というジェスチャーをする。
﹁今時のお見合いはね、タイミングなの。だから、形式ばったこと
をしないで⋮⋮あっ、もしもし﹂
彩子は伯母が話している間、コーヒーを飲んでいたが、味がわか
らなかった。
﹁ねえ、お相手の方が明後日から5日間の出張なんですって。でき
れば明日の夜に会いたいそうだけど⋮⋮﹂
伯母が少々困惑した顔で言う。
﹁まあそう⋮⋮明日の夜? まあ、いいわよね彩子?﹂
母は戸惑いながらも、やはり進めたがっている。
﹁ああ⋮⋮うん、いいけど﹂
彩子は急な展開に頭が付いていかず、よく考えないまま返事した。
﹁じゃあ、そういう事で﹂
話はまとまったようである。
﹁それにしても、写真も釣書も無しなんて。相手の方はそれでいい
のかしらね﹂
母が今更ながら不安になって来たようだ。
﹁こだわりがないのよ、きっと﹂
伯母はケーキの残りをフォークで刺しつつ、明るく言った。
︵こだわらないって⋮⋮誰でもいいってこと?︶
彩子は多少の落胆を覚えた。
﹁まあ、お見合いと言うよりは、私の紹介で二人で会ってみるって
感じね﹂
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伯母は気楽そうだが、当の本人は気になるので訊いてみる。
﹁じゃあ、着物を着たりしなくていいの?﹂
﹁もちろんよ! 普通の格好で、普通の感覚で行けばいいのよ。場
所もホテルとか高級な場所じゃなくて、N駅ビルの10階にある⋮
⋮ええと、﹃アベンチュリン﹄っていうレストランに午後の7時に
予約するようにしたわ﹂
﹁アベンチュリン?﹂
聞き覚えのある名前を、彩子は復唱した。
そのレストランならば以前、新井主任とランチに出かけたことが
ある。
料理の味付けが好みで、とても美味しかった。エキゾチックな雰
囲気の素敵なお店で、また行きたいと思っていた。
﹁私は何を着ればいいのかね?﹂
母が言うと、伯母はかぶりを振った。
﹁だから、二人で会うのよ二人で﹂
﹁ええ∼っ﹂
彩子は母と一緒に、驚きの声を上げる。
﹁いくらなんでも気軽すぎじゃない? その人、安全な方なんでし
ょうね﹂
訊きにくい事を平気で口にする母が、今は頼もしい。
﹁失礼ね。私の信頼できる人しか紹介しないわよ。会うのは街の真
ん中だし、彩子ちゃんも子供じゃないんだから大丈夫よ。ねえ﹂
﹁う、うん﹂
とりあえず、子供でないのは確かだ。
﹁ふうん、そうなの。時代は変わったのねえ﹂
話はついたようで、母と伯母はさっさと買い物に出かけてしまっ
た。
29
﹁明日か⋮⋮水曜日は仕事も忙しくないから早く帰れるし。あっ﹂
カレンダーを見ながら、彩子は気がついた。
﹁クリスマスイブだ﹂
ドラマなんかだと、イブに運命の人と出会ったり、プロポーズさ
れたり、恋のイベントが起きるのだが、現実はどうなんだろう。
﹁わっ、どうしよう。何を着ていこうか﹂
期待と不安が交錯し、浮足立ってしまう。
彩子はオロオロしながら、お見合いの準備に取り掛かかった。
30
2
12月24日 水曜日。
彩子は今、N駅の巨大クリスマスツリーの下にいる。
今日はお見合い当日。待ち合わせはレストランだが、早く来すぎ
たので、とりあえずここで時間を潰すことにしたのだ。
︵あと20分。なんか、だんだん緊張してきた︶
10日前に智子と待ち合わせたのと同じ場所なのに、まったく異
なる状況と心境だった。
今夜はクリスマスイブのためか、コンコースを行き交う人の流れ
が多い気がする。クリスマスケーキやプレゼントらしき箱を抱える
人もちらほら見かける。
︵一年の内で、街がいちばん華やぐこの夜を、私はいつも独りで過
ごしてたんだ︶
実際は家族と過ごしていたのだが、もちろんそういう意味ではな
い。
彩子の横に立っていた女性が、ふいに手を振った。見ると、恋人
と思しき男性が笑顔で歩いて来る。二人は手をつなぐと、人波の中
へと消えていった。
幸せそうなカップルの、息の合った動作が羨ましかった。
﹁ふう。ますます緊張してきちゃった﹂
今の彩子は、ソフトボールの試合前と同じぐらい上がっている。
コートの上から”お守り”をぎゅっと握りしめた。
時計を見ると、18時45分になったところだ。そろそろ約束の
31
店に移動しようと思い、ビルのエレベーターホールへと足を踏み出
した。
10階にたどり着き、フロアを歩いて行く。履きなれないパンプ
スのせいで、足もとがおぼつかない。
﹃アベンチュリン﹄と書かれたプレートが見えてくると、急に引き
返したい気持ちになった。
彩子はここへきて、最高に怖気づいている。
店先でウロウロしていると、案内係の女性が気付いて声を掛けた。
彩子はあきらめたような、意を決したような、曖昧な気分で伯母の
うおづ
苗字を告げた。
﹁あの、魚津で予約したものですが﹂
案内係の女性は、にこりと微笑んだ。
﹁いらっしゃいませ。こちらでございます﹂
窓際の席に案内されると、女性が椅子を引いてくれた。
新井主任と来たランチタイムには無かった扱いだ。
あらためて店内を見渡すと、全体的な雰囲気が昼間とは違ってい
る。ライトは抑えられ、その代わりに、眼下に広がる夜景が美しく
煌いている。
﹁きれい⋮⋮﹂
彩子はようやく、来て良かったと思った。
﹁お待たせしました﹂
不意に声がした。
驚いて見上げると、黒のコートを手にしたスーツ姿の男性が、彩
子に微笑みかけていた。
﹁山辺彩子さんですね。はじめまして、原田良樹です﹂
32
﹁あ⋮⋮﹂
彩子は思わず立ち上がり、ぺこぺことお辞儀した。
﹁あっあの、はじめまして。いえ、私も今来たばかりです。全然、
待っていませんので⋮⋮﹂
お気になさらずと続けるつもりだったが、しどろもどろで相手に
は聞き取れない有様となる。緊張しているのが丸わかりだが、原田
はやはり微笑んでいる。
﹁そうですか、良かったです。あ、コートを預かってもらってもい
いですか﹂
原田は案内係の女性にコートを渡すと、﹁山辺⋮⋮さんも?﹂と、
促した。
彩子は白いコートを脱いで、同じく女性に手渡した。うっかりコ
ートのままでいたのが、恥ずかしかった。
コートの下は淡いピンクのカシミアニットに、グレーの膝丈スカ
ート。散々迷った末に、無難な組み合わせにおさまった。
︵カジュアルすぎたかも︶
原田のスーツを見て、せめてワンピースにするべきだったかなと、
少し後悔した。
二人は向かい合って座った。
彩子は原田をそっと窺う。
ずいぶん落ち着いた人⋮⋮というのが、第一印象だった。
当たり前だが、顔や姿は写真のとおり。よく見ると、写真と同じ
スーツを着ている。黒髪をきれいに撫で付け、穏やかに微笑んでい
る。
背は175くらいで、体格は細身というほどでもないが、すらり
としていた。
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じろじろ見ては失礼だと思いつつ、かと言って余所見をするわけ
にもいかない。視線が泳いでしまい、我ながら挙動不審だがどうに
もならない。
原田良樹は何も言わず、笑みを湛えたまま。もしかしてこれが地
顔なのではと疑うほど、なぜか嬉しそうにしている。
ほどなくして、ウエイターが注文を取りに来た。
﹁山辺さんは何にしますか﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
メニューを見せてもらうが、注文の仕方がよくわからない。ラン
チと違って種類も多い。
﹁では、おすすめにしましょうか﹂
﹁あ、ハイ、そうしてください。何でも食べますので﹂
﹁それはいい。じゃあ、こちらのコース料理で⋮⋮お酒は?﹂
﹁あ、あまり強くありませんので。すみません、軽いものなら﹂
﹁そうですか。ええと、これなんてどうですか。口当たりがよくて、
食事にも合いますよ﹂
﹁はい、それでお願いします﹂
原田はよどみなく、ウエイターに注文を伝える。印象どおり落ち
着いた態度に、彩子は感心した。
﹁あの、私は山辺彩子といいます。紹介してくれました魚津木綿子
は私の母方の伯母に当たります﹂
日本語が変ではないかと考えつつ、彩子は自己紹介した。
﹁木綿子さんは、僕の母親の古くからの友人です。時々家に遊びに
きてくれるのですが、明るくて楽しい人ですよね。僕も子供の頃は、
よくめんどうを見てもらったものです﹂
﹁そうなんですか。私も子供の頃から木綿子伯母には世話になって
います⋮⋮﹂
彩子は、原田の視線が少し下がっているのに気が付いた。
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カシミアニットの襟元から、蛍石のレザーチョーカーが覗いてい
る。彼は、その蛍石を見ているようだ。
﹁あの⋮⋮これ、でしょうか﹂
彩子がチョーカーの革紐を指でつまんで言うと、原田は慌てた様
子になり、微かに赤面した。
﹁失礼しました。ついジロジロ見てしまって﹂
思いがけない反応に、彩子は少しだけ緊張がほぐれた気がした。
﹁私が生まれた時に、木綿子伯母がプレゼントしてくれたものなん
です。小さな石ですが、これを身に着けていると、守られているよ
うな安心感があるんです﹂
彩子は言った後で、しまったと思った。この場合、蛍石に守られ
るというのは、すなわち目の前の原田から守られるという意味にな
ってしまうからだ。
しかし、原田はそんな迂闊に気付かないのか、吸い込まれるよう
に薄緑色の石を見つめている。
その目はくるっとして、店内のライトを星のように映している。
彩子は動揺した。原田の目元が、初恋の彼に似ているような気が
した。
﹁お待たせしました﹂
ウエイターが飲み物を運んできて、二人はあらためて向き直った。
﹁梅の香りが爽やかですよ﹂
彩子はグラスを手にして、鼻先に近づけた。やや無作法だが、原
田は大らかに見守っている。
﹁本当だ。いい香りがします﹂
﹁乾杯しましょうか﹂
原田はグラス越しに彩子を見つめた。ほんの一瞬ではあるが、真
摯な眼差しだった。
35
﹁え∼と、そうだな。では、二人が今夜出会えた事に﹂
互いにグラスを掲げ、軽く合わせる。
梅酒と炭酸が織り成す爽快な味わいに、彩子は感嘆した。
﹁美味しい!﹂
﹁それは良かった。勝手に選んでしまって、実は心配していたので﹂
彩子と原田は、初めて自然に目を合わせ、微笑み合った。
インド料理をベースにしたメニューは、スパイスが効いている。
しかし辛すぎることはなく、和風にアレンジされたコース料理はと
ても食べやすかった。
彩子は緊張しながらも、美味しくいただけた。それは、自分でも
意外なことだった。
︵いつも緊張すると食が細くなるのに、何故だろう︶
デザートはヨーグルト風味のアイスクリーム。ボリュームのある
コースだったが、すべて食べ切った。
﹁気持ち良いぐらいの食欲だ﹂
感心する原田に彩子は面映ゆくなるが、そういう原田もきれいに
完食している。
食べ物の趣味は合うかもしれないと思った。
﹁アベンチュリンは、緑水晶の事ですね。インドで多く産出される
ので、インド翡翠とも言います﹂
ウエイターがデザートの皿を下げると、原田が独り言のように呟
いた。指を組み、窓の外を見つめている。
﹁あ、だからインド料理がベースなのかな﹂
彩子はつい、友達と話すような調子になった。いつの間にか馴れ
馴れしくなっていることに気付き、慌てて姿勢を正す。
そっと腕時計を見てみた。時間は午後9時になろうとしている。
36
食事の間、互いについて大まかに話した。
原田は大手レンズメーカー﹁K光学株式会社﹂の製造部に勤務す
るエンジニアだ。彩子の母が喜んだとおりの大きな会社である。
仕事の内容については、彩子が聞いてもあまりピンと来なかった
が、かなり忙しい部署のようだ。
彩子の勤め先は地元の中小企業である。案の定、彼は会社の名前
も知らなかったが、仕事内容には関心を持って耳を傾けてくれた。
やがて運ばれてきた食後のコーヒーが、二人の出会いの幕引きを
告げている。
彩子がカップにクリームを入れ、スプーンで渦を描くのを、原田
はじっと見守っている。
食事を終えた客がひと組ふた組と、店の外に消えていく。
︵私は、私達はどうするのだろう⋮⋮︶
彩子は判断が付かずに困っている。自分の気持ちも、雲を掴むよ
うに判然としない。
こんな短い時間で、すべて決めなければならないのだろうか。
あまりにも無茶な話だった。
彩子は、食事の前に交わした蛍石についての話を思い出す。もう
少し、彼に聞きたかった。
﹁原田さんは、石がお好きなんですね﹂
﹁えっ﹂
意外な所を突かれたという表情になった。
﹁アベンチュリンという石も、よくご存知ですし、この⋮⋮チョー
カーも﹂
彩子はもう一度、チョーカーの革紐をつまんでみせた。
﹁そうです。石は、僕の最大の関心ごとです。鉱物は僕にとって、
永遠の探求テーマかもしれません﹂ 彼の瞳は、周囲のあらゆる光を集め、キラキラと輝き始めた。
37
﹁そうだ、山辺さん﹂
原田が急に、テーブルに身を乗り出した。
﹁僕が出張から帰ったら、一緒に山に行きませんか﹂
﹁⋮⋮﹂
唐突な誘いに彩子は戸惑いながらも、反射的に頷いていた。
﹃アベンチュリン﹄を出た後、原田は駅の改札まで彩子を送り、携
帯電話の番号を添えた名刺を手渡した。
﹁明日の25日から5日間、神奈川の工場へ出張に出かけます。何
かあったら連絡をください。仕事中は出られませんが、必ず折り返
し電話を入れますので﹂
懐っこい笑顔を見せると、ホームに向かう彩子に手を振った。
彩子も同じように、片手を上げて振り返した。
﹁とてもいい人だ﹂
彩子は心からそう思った。
男としてと言うより、人として好きになれそうな気がする。穏や
かで温かな空気が、彼女を包んでいた。
ぼんやりとしたまま電車に乗り、いつの間にやら駅に着いていた。
駅には弟の真二が迎えに来ていた。
家に着くと母があれこれ訊いてきたが、さすがに疲れたし眠かっ
たので、勘弁してもらう。
また、今夜の出会いを一人で噛みしめたい気分でもあった。
だけど、シャワーを浴びてベッドに倒れこむと、たちまち睡魔が
襲ってきた。
とても幸せな、それでいてゆらゆらと揺られるような、夢の世界
へと落ちていった。
38
翌朝、出勤前の朝食の席で、母は彩子にあれこれと質問した。
今朝に限って父と真二が揃って食卓に付き、箸を止めたまま母子
の会話に聞き耳を立てている。
彩子はいたたまれず、早めに家を出る事にした。
会社に着いてもそわそわと落ち着かず、浮き足立ったまま一日を
過ごした。まっすぐ家に帰る気にならず、いつものコーヒースタン
ドに立ち寄る事にした。
誰かに相談したくてたまらない。そして、心が落ち着くような言
葉を与えてほしいと、切実に願っている。
彩子は智子を思い浮かべた。高校時代、悩みごとがあるとすぐ彼
女に相談したものだ。
迷った挙句、携帯電話を取り出してメールを打った。
﹃相談したい事があります。時間あるかな? もしよければ会って
話したいです﹄
送信ボタンを押し、コーヒーをふた口ほど飲むと、メールの着信
音が鳴った。
驚くほど早い返信に、彩子は焦った。
﹃彩子の相談を受けるのも久しぶりだね。もちろんOKだよ。そう
いえば、雪村達も会いたがっています。皆も一緒に会う? それと
も二人きりがいいかな﹄
皆というのは、智子が結婚式に招待するソフトボール仲間だ。
まりとエリ、そして雪村。
懐かしさが胸にこみ上げてきた。なんだかとても嬉しくなって、
返信した。
39
﹃私も、皆に会いたい!﹄
智子はすぐに連絡を取ってくれた。
今年最後の土曜日に、食事会を開く事になった。
旧友に会える嬉しさと、かつてない感情が混ぜこぜになって、彩
子の胸はパンク寸前。
でも、家路につく足取りは軽やかだった。
未知の何かが始まる予感がして、彩子の心と体はどうしようもな
いほど高揚していた。
40
3
﹁うわ∼スッゴイ久しぶりだよね∼! 彩子お、元気だった?﹂
待ち合わせの店にやって来た彩子を見つけて歓声を上げたのは、
まりだった。彼女はリボンベルトのワンピースに身を包み、全身ベ
ビーピンクだ。
﹁相変わらずカワイイなあ﹂
思わず彩子も声が高くなる。
既に席に着いていた雪村と智子が、笑顔で見守っていた。
ここはN駅近くのホテル内にある和食レストラン“黒潮”
交通の便もよく、各々が集まりやすい位置にあるということで、
再会の場に決定した。
﹁あれ? エリはまだ来てないの?﹂
彩子がキョロキョロしていると、背中をポンと叩かれる。振り向
くと、長身のエリが顔を覗き込み、にんまりと笑った。
﹁エリ!﹂
﹁喫煙室で一服してた﹂
12月最後の土曜日。
元ソフトボール部の仲間達は何年ぶりかの再会を果たした。
何年も会っていない事など忘れてしまいそうに、変わらない雰囲
気だった。
でも、それぞれ少しずつ大人で、そしてすごくきれいになってい
る。彩子は懐かしさに感激しながら、皆のまばゆさに目を細めた。
まずはビールで乾杯。アルコールに弱い彩子とまりはひと口だけ
飲んで、あとはウーロン茶である。
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続いて運ばれてきたのは、女子会向けのコース料理。旬の食材を
使った、ちょっとお洒落で、適度なボリュームのメニューだ。
大皿も小皿も次々と空にしながら、わいわいとお喋りした。
高校時代のソフトボール部の話題が出ると、ますます盛り上がっ
てくる。県大会で誰がヒットを打った、バントに失敗したなどなど、
特に雪村が事細かに憶えていて皆を驚嘆させた。
﹁さすがキャッチャーだね、雪村。よく見てる﹂
智子が感心して言うと、
﹁そりゃあね、決勝戦は絶対勝つつもりだったからさ。すごく印象
に残ってるんだよ﹂
﹁そうだったね。あれは、高校最後の試合だった﹂
彩子達は遠い目をした。今はもう遠い思い出の、18歳の記憶⋮⋮
その時その時、なんにでも一生懸命すぎて、いっぱいいっぱいだ
ったあの頃。
コースも終わり、話も落ち着いてきたところで、ホテル内の喫茶
店に移動することにした。
智子は酔ったようで、随分と赤い顔をしている。彩子は心配して
肩を貸した。
一方、かなり日本酒をあけたはずの雪村とエリは素面も同然。彩
子はまりと一緒に、妙に感心してしまった。
喫茶店に入り各々注文も済ませると、智子が彩子の耳元で囁いた。
﹁ねえねえ、相談の件だけど、皆に聞いてもらおっか?﹂
﹁え⋮⋮﹂
囁くと言っても地声の大きな智子である。皆に丸聞こえだ。
﹁相談って?﹂
﹁なになに、何の話よ?﹂
まりとエリがきょろきょろする横で、雪村がずばりと言い当てた。
42
﹁男だな﹂
彩子はウッと言葉に詰まり、彼女を見返す。
﹁大当たり。でも彩子、この前の電話では彼氏はいないって言って
たよな。見合いでもしたか﹂
本当にいい勘をしている。こうなったら素直に頷くしかない。
﹁男! 彩子が男と付き合ってるの﹂
クールなはずのエリが、テーブルに身を乗り出した。まりはいじ
けたように指をくわえている。
﹁ええ∼、じゃあ彼氏がいないの私だけえ?﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってよ﹂
彩子は皆の反応に狼狽するが、智子は楽しそうに笑った。こうな
ることを予測して、わざと大きな声で言ったのかもしれない。もう
! と、彩子は肘鉄をくらわすが、酔った智子には全然きかず、か
えって嬉しそうにしている。
﹁大丈夫よ、ここにいる皆を誰だと思ってるの。あんたの親友、盟
友、仲間達よ。何でも言ってみなさい、さあさあ﹂
なにごともハッキリとさせたいエリが、相談の内容を催促する。
半分楽しんでいるように見えるのは、やはりお酒のせいだろう。
いきなりの注目に焦る彩子だが、この四人ならば信用できる。意
を決して、今の状況を話してみることにした。
彩子が話し終えると、まずエリが唸った。
﹁う∼ん。彩子らしい出会いだね﹂
どういうことだろうと彩子が黙っていると、彼女は続けた。
﹁うん、好ましい。今の時点ではその男、合格ね。私、基本的に男
は信用しないけど、その人は人として信用できる気がするわ﹂
43
﹁ええっ、本当にそう思う?﹂
ひと
仲間内でも男子に厳しく慎重なエリである。そんな彼女にお墨付
きを貰えたようで、彩子は嬉しくなった。
﹁甘いね﹂
雪村が横から異を唱えた。エリに負けず劣らず他人を見る目がシ
ビアな彼女の切込みに、彩子はドキッとする。
﹁一度会ったきりだろ? しかも日が暮れてから、夜景のきれいな
レストランでさ。私だったら真っ昼間にもう一度会うね。そうじゃ
ないと何とも言えない﹂
﹁へえ∼、なるほどねえ﹂
智子とまりは頷いている。二人はどちらかといえば、初めから好
意的に人と接するタイプだ。雪村は彼女らに水を向けた。
﹁どう思うよ。特に智子、彩子のことは、お前が一番よくわかって
るだろ?﹂
﹁う、う∼ん、確かに感じのいい人だよね。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
皆、一斉に智子に注目する。彩子の一番の親友として、核心を突
いた意見を述べるのではと期待して。
﹁ただ、彩子の好みと少しイメージが違うんじゃないかな、と思っ
た﹂
﹁彩子の好みって、どんな感じ?﹂
まりが大きな眼をさらに見開いて智子に迫った。
飲み物がきたので、場はひとまず沈黙するが、ウエイトレスが去
ると再び額を寄せ集める。
︵どうしてこんなに熱心に?︶
彩子は俎板に乗せられた鯉の心境になってきた。
﹁だってほら、彩子ってもっと俊敏な、スポーツマンタイプの男子
44
が好きでしょ? その人は、聞いた限りではすごく落ち着いて、静
かなタイプに思えるから﹂
智子は、彩子の初恋の彼、佐伯諒一をイメージしているようだ。
それは、間違ってはいない。
だけど⋮⋮
﹁ってことは、とりあえず妥協してるってわけか﹂
彩子はハッとして、雪村を見た。今の言葉は聞き捨てならなかっ
た。
﹁違う! 私は原田さんのことは真面目に考えてる。いい加減な気
持ちじゃない﹂
思いのほか大きな声になり、彩子自身が驚いた。雪村はもちろん、
他の三人も面食らっている。
﹁あ⋮⋮私、その﹂
急に恥ずかしくなり、俯いた。なにをこんなにムキになっている
のか。
﹁ごめん、悪かったよ。お前はいつも真面目だもんな﹂
雪村がめずらしく取り繕っている。
彩子は興奮した自分に困惑しながら首を振った。ただ一度会った
だけの相手なのだから、雪村のように考えたって変じゃない。それ
なのに︱︱
﹁ま、ともかく。そう言うことなら、もう少し付き合ってから決め
てもいいんじゃない﹂
エリは紅茶を取り上げると、冷静な声で総括した。皆、うんうん
と同意している。
﹁でも、お見合いって何べんも会っていいものなの? 大丈夫なの﹂
まりが心配そうに訊くが、彩子も初めてのことなので何とも言え
ない。
45
﹁伯母さんは堅苦しく考えなくていいって言うけど⋮⋮うん、とに
かく誠実に向き合う﹂
自然に返事をしていた。不思議なことに、いつの間にか道筋が明
らかになった気がした。雪村のひと言は、彩子のもやもやとした迷
いを吹き飛ばしたのかもしれない。
原田良樹のことを、誠実に考えたい。
結論が出たところで、彩子の相談話は終わった。 ﹁ところでさあ、みんな男性と付き合うポイントってあるでしょ。
参考までに、ちょこっとだけ教えて?﹂
異性の話題に触発されてか、彼氏募集中のまりが目をきらきらさ
せて質問した。
﹁ねね、智子は後藤さんのどんなところが結婚の決め手になったの
?﹂
指名を受けた智子は、﹁そうねえ﹂と、しばし思案する。酔いは
ほとんどさめている様子だ。
﹁前向きなところかな。どんなことがあっても、めげずに進んでい
くところに惹かれたわ﹂
﹁生活力ね、それは﹂
エリの言葉に、智子は納得したように頷く。
﹁うん、そうかもしれない。生活力は、私にとって重要なポイント
かも﹂
﹁そういうエリは? 年下の同僚クンでしょ﹂
﹁へ∼年下なんだ﹂
まりの振りに、雪村が意外そうに目を丸くした。
エリは苦笑すると、
﹁年下に思えないんだなこれが。大学を出たばっかりのヒヨッコの
46
くせに、同等に張り合ってくるのよ﹂
﹁エリに張り合うなんて、すごい心臓だね∼﹂
一同、声を合わせて感心する。
﹁ポイントはそこね、きっと⋮⋮大胆でバカなところ。自分にない
ものを持ってるって言うか﹂
︵自分に無いもの、か︶
彩子は、原田の落ち着いた態度を思い浮かべた。
﹁じゃあさ、雪村は? お相手は仕事関係の人だっけ﹂
まりが訊くと、雪村は胸元を飾るクロスペンダントに指を触れた。
﹁いや、趣味でアクセサリーを作ってるんだけど⋮⋮その、工房に
いる人﹂
雪村の瞳が、一瞬愁いを帯びたように彩子には見えた。
﹁合うんだよね、すごく﹂
﹁何が?﹂
まりがきょとんとして訊ねる。
﹁カラダの相性が﹂
彩子は紅茶を噴きそうになった。
まりはたじろぎながらも、けんめいにリアクションしている。
﹁そっ、それは重要なポイントだよね! うん、多分、じゃなくっ
て、かなり⋮⋮みたいな?﹂
雪村は表情を変えず、胸元のクロスをいじっている。
エリが呆れたように口を出した。
﹁まっさかアンタ、それだけじゃないでしょうね!﹂
雪村は答えず、
﹁カラダの相性は重要だよ﹂
彩子を見て、ニヤリと笑った。
47
ホテルを出ると、みぞれが降っていた。
彩子はコートの襟を合わて白い息を吐く。いつの間にか時間が経
ち、帰りは終電を残すのみとなった。
﹁今度は智子の披露宴だね﹂
﹁うん、楽しみにしてる﹂
約束すると、仲間達は名残惜しげに別れ、それぞれの場所へと帰
っていった。
別れ際、智子がポンポンと彩子の肩を叩き、ガッツポーズをして
見せた。彩子は笑顔で頷いたが、熱を帯びた頭は別のことを考えて
いた。
雪村の言葉に、カーッとのぼせた。
相談を皆に持ち掛け、おかげで前向きになることができた。それ
は良かったけれど⋮⋮
今度は別の悩みで眠れなくなりそうな、複雑な心境の彩子だった。
48
1
翌日、日曜日の朝早くに伯母の木綿子が訪ねて来た。
まだ寝ていた彩子は母に起こされ、慌てて洋服に着替えて顔を洗
った。
洗面所の窓から外を見ると、昨夜のみぞれが朝方雪にかわったら
しく、道路が白くなっていた。
﹁彩子ちゃん、何だかいい感じみたいね。伯母さん嬉しいわ﹂
居間のソファに座ると、伯母は明るく笑って彩子の手を取った。
﹁うん⋮⋮あ、でも﹂
﹁大丈夫よ、慌てないで。これからしばらくお付き合いしてから返
事してちょうだい。待ってるから、ね﹂
おっとりとした口調に、彩子は安堵した。
前向きに考えると決めはしたが、今は彼についてほとんど何も知
らず、性急な返事はできないのだから。
﹁ああ、夢なら覚めませんように﹂
母がコーヒーカップを両手に包み、大仰に祈る真似をした。
彩子と伯母は顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。この母親は、もう
結婚が決まったと思い込んでいるようだ。
伯母は、母が焼いてきたトーストを食べながら話した。
﹁あの子⋮⋮ゴホン! 良樹君のことはね、赤ちゃんの頃から知っ
てるのよ。穏やかな男の子でね、ご両親も﹃あいつが怒るなんてめ
ったにない﹄って、いつも不思議そうにしてるわ﹂
﹁まあ、いいわねえ∼﹂
短気な夫を持つ母は、心底羨ましいという顔をした。
短気な両親を持つ彩子は、そんな仏様みたいな人がこの世にいる
49
だろうかと、にわかには信じがたい気持ちになる。
しかし、原田の微笑みや穏やかな物腰を思い出すと、本当にそう
かも知れないと思えてきた。
﹁それで、原田さんのご両親は何て?﹂
母が伯母をせっついた。母親としては、本人よりも親の方が気に
なるらしい。
﹁そうそう。この前ね、原田のご両親に彩子ちゃんの写真を持って
行ったのよ。そうしたら、可愛らしいお嬢さんですね∼って、喜ん
でらしたわよ﹂
﹁ん、まあ。本当に? おっほほほほ⋮⋮﹂
自分が褒められたかのように舞い上がる母の隣で、彩子はごくり
とトーストを呑み込む。
﹁あちらのご両親もね、彩子ちゃんが私の姪だから、なおさら喜ん
でいるわ﹂
彩子はひたすらトーストにかじりついている。
︵可愛らしい⋮⋮か。ホントかなあ︶
悪い気はしないが、丸のまま受け取るわけにはいかない24歳の
オンナである。
伯母と原田の母親は幼馴染みであり、親友だ。親しい間柄なので、
そのぶん彩子に関して、好意的にとらえてくれるのだろう。
﹁ま、今日はのんびりしなさいよ。私達、買い物に行って来るから
ね∼﹂
母と伯母は、いそいそと歳末セールに出かけて行った。今日は早
朝からデパートが開店しているらしい。
それにしても、母がやたらと機嫌が良い。
勝手に盛り上がって⋮⋮と、彩子はもとより、父も弟もあきれ返
っている。この話が駄目になったらどうするつもりだろう。考えた
50
だけで恐ろしい。
しかし彩子は、どんな結果になろうとも誠実に原田と向き合うと
決めている。周りに何と言われようと関係ない。バッターボックス
に立つのは一人なのだ。
コーヒーを飲み干すと、彩子は﹁よし!﹂と気合を入れて立ち上
がった。
彩子の家からそれほど遠くない場所に、県営の運動公園がある。
中学時代には、たびたびソフトボールの試合をするため訪れている。
野球場のほかにも陸上競技場、テニスコートなどのスポーツ施設が
充実し、園内には遊歩道も整備されているため、地域住民の憩いの
場でもあった。
休みといえば図書館通いが定番の彩子だが、今日は久しぶりに体
を動かしてみようと思った。
高校を卒業して以来、自主的に運動していない。スポーツクラブ
やスイミングに通うわけでなし、相当なまっている。
母親と伯母が買い物に出かけた後、タンスの肥やしになっている
スポーツウエアを着て、表に出た。まだ道路の雪はすでにとけてい
る。気温は低目だが陽射しは暖かく、気持の良い天気だ。
﹁ああ、清々しい﹂
屈伸や伸脚を軽くやり、アキレス腱もよく伸ばす。久々に履いた
ランニングシューズの紐をしっかり結ぶと、走り出した。
運動公園の門をくぐるとペースを落とし、遊歩道の入り口にある
自動販売機の前で整理体操をした。
﹁もっと準備運動した方が、よかった⋮⋮かも⋮﹂
荒い息を吐きながら、傍らのベンチまでよろよろと進む。
51
﹁ああ⋮⋮疲れた﹂
思わずもれたその声に、通りかかったサッカー少年達が振り向く。
中学生くらいの男の子だが、彼らにはおばさんに映るかもしれない。
彩子は居心地が悪くなった。
タオルで汗を拭いてから自動販売機でスポーツドリンクを買った。
﹁ふう﹂
水分を補給し息が整ったところで、ポケットに入れておいた携帯
電話を取り出す。原田の電話番号は既に登録済みなので、あとは発
信するだけ。
﹁今日は日曜日だから、すぐに電話に出るかもしれない﹂
特に用事は無いので、かけようかかけまいか迷ってしまう。何か
あったら電話を下さい⋮⋮と、原田は言った。やはり、かけたら迷
惑だろうか。
いざとなると意気地がなくなってしまう。
︵大丈夫、勇気を出して︶
自分で自分を激励した。
﹁﹃声が聞きたい﹄と言うのが用事﹂
そう決めてから、発信ボタンを押した。そんな理由を彼に言える
わけが無いのだが⋮⋮
呼び出し音が鳴り始めた。2回、3回⋮⋮心臓が早鐘のように鳴
っている。
やっぱりやめよう、そう思ったとたん応答があった。
﹁あっ、あの﹂
彩子が挨拶をしかけると、女性の声でメッセージが流れ始めた。
﹃ただ今電話に出る事が出来ません。お名前とご用件をお話しくだ
さい﹄
52
留守番電話︱︱
彩子は焦ったが、なんとか冷静になるよう胸を押さえた。
﹁⋮⋮あの、もしもし。私、山辺彩子です。えっと、もしもお時間
があれば、連絡をください。よろしくお願いします﹂
たどたどしくそれだけ吹き込むと、電話を閉じた。
拍子抜けしたのと安堵したのとで、思わず空を仰ぎ見る。
﹁神奈川のお天気はどうですか。こちらは上々ですよ。今、私は運
動場に来ています。久しぶりに走りました⋮⋮﹂
何となく用意していた台詞を独り呟いてみる。
今こうしていると、あのクリスマスイブの出来事は夢だったよう
に思えてくる。原田に会ったのも無かったことなのではないか。
その後、彩子はもうひと走りしてから家に帰った。
夜になり、午後10時をまわっても原田からの折り返しの電話は
無かった。
彩子は仕方なく風呂に入った。
急いで上がってきて携帯を確かめたが着信ランプの点滅はなく、
履歴は残されていない。
午後11時になった。
部屋のライトを消してベッドに入り、呆然としている。
午前0時。
もう寝ようと思い目を閉じた時、はじめて自分が涙ぐんでいるの
に気がついた。
朝が来た。
53
カーテンの隙間から明るい陽が差し込み、瞼を照らす。
感情
が湧
まんじりともしない夜を過ごした彩子は、ベッドの中でぼんやり
としていたが、はっと気がついた。
がばりと起き上がると、携帯電話を確かめる。
やはり着信は無かった。
あらためて落胆すると、今度はなんとも言えない
き上がってくるのを覚えた。
それは明らかに、原田に対する不満だった。
﹁必ず折り返しの電話をくれるって言ったくせに﹂
子供のような言い種で彼をなじった。
彩子は自分自身の感情を持て余し、哀しくて、甘ったれた気分に
なっていた。
のそのそと着替え、顔を洗ってから鏡を見た。目が腫れて赤くな
っている。
情けないと思った。
台所に行くと、母親が割烹着姿で大掃除をしていた。
︵そうか、もう年末なんだ︶
彩子はいつの間にか29日になっているのを思い出し、ピタピタ
と頬を叩いた。
しっかりしなくちゃ︱︱
﹁あら、おはよう﹂
母親は彩子の顔を見ると一瞬だけ雑巾を持つ手を止めたが、
﹁今日は大掃除を手伝ってよ。あと、午後から買い物に行くから、
車出してちょうだいね﹂
何気ない風に続けた。
54
﹁はい、そうします﹂
素直に返事をすると、パンと紅茶の簡単な朝食を済ませ、エプロ
ンを着けて2階の掃除に取り掛かった。
掃除機をかけたり床を磨いたりしていると、その作業に集中して
心も落ち着いてくる。何も考えないほうがいいと思うし、考えても
仕方がない。
彩子はいつの間にか、一年ぶんの埃を払ったり拭ったり、掃除に
夢中になっていた。
だが不思議な事に、考えなくなると、それは来るのである。
窓の外側を拭いている時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。驚き
のあまり、危うく屋根の上に転がりそうになった。
彩子は雑巾を放ると、テーブルの上の携帯を鷲づかみにした。
発信者を確認する。
原田良樹だった。
﹁もしもし﹂
つとめて冷静に応答するが、声が上擦っている。
﹃山辺さん、おはようございます。原田です﹄
﹁原田さん﹂
﹃昨日は電話をありがとう。留守録を聞きました。折り返しできな
くて本当に申し訳ない﹄
原田は一語一語を丁寧に話す。
工場で電話をしているのか、機械の動く音が背後にあった。
﹁いえ、そんな﹂
先ほどまでの恨み言は、もう吹き飛んでいた。原田の声は低めで、
結構男らしいのだなと考えたりする。
55
﹃昨日は工場の機械がいかれて、オシャカだらけになってしまいま
して⋮⋮あ、不良品の事ですよ﹄
﹁うふふ﹂
思わず笑ってしまった。原田も可笑しそうだ。
﹃徹夜で直して、やっとまともに稼動し始めた所なんです。電話は
今いま気がついて⋮⋮待ってましたか?﹄
不意に真面目な語調になり、原田が訊いた。
﹁えっ? いえ、特に用事があったわけじゃないんで⋮⋮その﹂
彩子はそこまで言ってから、電話を握りなおした。
﹁はい。待ってましたよ、すごく﹂
﹃⋮⋮﹄
規則的な機械音だけが聞こえてくる。
5秒ほどの沈黙の後︱︱
﹃ああ、やっと帰れる!﹄
弾けるような声で原田が叫び、彩子の全身は痺れた。
﹃帰ったらまた電話します。今日の夕方にはN駅に着きますから。
今、何をしてるんですか﹄
急に訊かれて、再度びっくりする。
﹁今⋮⋮は、大掃除をしています。窓拭きです﹂
﹃そうですか。がんばってますね。いや、楽しみです、帰るのが﹄
﹁あっ、私もです﹂
思わず出た言葉だが嘘ではない。それは原田にも通じていた。
﹃じゃあ、とりあえず電話を切ります。また後で﹄
﹁はい。待っています﹂
携帯を閉じると、彩子はその小さな端末を抱きしめた。
早く会いたいと、こんなに強く思える自分が信じられない。
56
だけど、それ以上に幸せな気持ちだった。
57
2
彩子は大掃除が終わると、母親を車に乗せて買出しに出掛けた。
﹁急にご機嫌になったわね。まあ、元気が出たならいいわ。アンタ
は昔からいじけやすいから﹂
母の口調は呆れていたが、今は何を言われても楽しくて仕方がな
い。原田からの電話は、それほどまでに嬉しいものだった。
郊外の大型ショッピングセンターは買い物客でごった返している。
年末とあって、家族総出で買い物に来る客が多いのだろう。
母親は魚介類のコーナーで、ずわいがにとたらばがにを慎重に吟
味してなかなか動かない。山辺家では毎年、大晦日にはカニ鍋と決
まっている。
﹁いっそのこと両方食べようよ﹂
他の客らのじゃまになっているのを気にして彩子が言うと、
﹁う∼ん、そうね。今回は奢るかあ﹂
娘の結婚話が進んでいるためか、財布の紐も緩くなっているよう
だ。
﹁野菜なんかは31日に買えばいいね。さて、私はあとはお飾りや
ら何やら見て来るから⋮⋮﹂
と言いながら母は財布から三万円取り出して彩子に渡した。
﹁なに?﹂
﹁これで洋服でも買っていらっしゃい。お正月休みに着て行く服を
さ﹂
彩子は目を白黒させている。おそらく原田と出かける時に⋮⋮と
いう意味だろうが、節約家の母がここまでしてくれるのは脅威だっ
た。
さっきのカニといい、かなりの大盤振る舞いだ。
58
﹁じゃあ3時に、ここに集合ね﹂
呆然とする彩子を置いて、母はさっさと買い物客に紛れてしまっ
た。そそくさとして、何だか照れているようだ。
﹁ありがとうね﹂
彩子は母の姿が見えなくなった方に、小さく呟いた。
﹁あれっ、彩子じゃない﹂
専門店街のショップでセーターの棚をゆっくり見ていると、聞き
覚えのある声が呼んだ。
振り向くと、ショップの袋を両手に提げてエリが立っている。グ
レイのスーツにコートという仕事中のような出で立ちだ。
﹁あれっ偶然だね﹂
彩子が言うと、エリもうんうんと頷いている。
﹁休日出勤の帰りでさ⋮⋮っていうか、この前会ったばかりなのに、
ほんと偶然。面白いわ∼﹂
先日の再会まで何年も会わなかったのに⋮⋮という意味である。
彩子も同じように考えたので、思わず笑った。
﹁でも、あんたに会えて良かった! 実はさ、話したいことがあっ
たのよ。今時間ある?﹂
早口でエリに訊かれ、彩子は腕時計を確かめた。母親との待ち合
わせまでにまだ30分ある。
﹁30分くらいなら大丈夫だよ﹂
それならと、近くの休憩コーナーに移動し、空いた席に腰掛けた。
ショップの袋をどさりと置くと、エリがふうーっとため息を漏らす。
﹁どうかしたの?﹂
彩子の問いに、エリは薄い唇を噛み、切り出した。
59
﹁この前の雪村よ﹂
﹁雪村?﹂
﹁大丈夫なのかね、あの子﹂
この前の食事会での、雪村の様子を思い出す。なんとなく、言い
たいことが分かる気がした。
﹁あの、付き合ってるっていう⋮⋮人の話?﹂
﹃カラダの相性がいい﹄と言っていた彼のことだ。
﹁そうそう、セックスだけの人って感じだったでしょ。⋮⋮ってこ
とは、もしかしたら不倫でもしてるんじゃないかってさ﹂
﹁え⋮⋮﹂
エリは高校時代、雪村と仲が良かった。
そして、二人ともしっかり者で、勉強の成績も良く、部活動以外
でも皆にとって頼りになる存在だった。
﹁あんなしっかりした子が、何だか危なっかしい感じがして﹂
エリは友達として心配し、どうするべきか決めかねているようだ
った。
﹁確かめてみようか﹂
彩子が言うと、意外そうな目を向けた。
﹁その男を?﹂
﹁うん。その人、アクセサリー工房にいるって雪村が言ってたよね。
場所がわかるといいけど﹂
﹁あ、わかるわよ、多分⋮⋮だけど、あの子のクロスペンダントの
裏にロゴが入ってた。あれがヒントになると思う﹂
﹁え、そうなの。よく見てたね﹂
﹁実は、私も工房を覗いてみようと思って、さりげなくチェックし
ておいたんだ﹂
エリは、そこまでしていいかどうか迷っていた。彩子に背中を押
してもらい、決心がついたと笑う。
60
﹁よかったわ、彩子に相談して。あんたって人のことになると行動
力あるよね﹂
﹁う⋮⋮そうかな﹂
思い当たる節はある。高校時代も、そんな感じだったような。
﹁よし、それじゃ彩子にも協力してもらって、相手の男がどんな人
か確かめるわ。年末年始は工房も開いてないだろうから、年が明け
てからまた連絡するよ﹂
﹁わかった。待ってる﹂
エリと約束したところで、ちょうど3時となった。彩子はエリと
別れると、母との待ち合わせ場所に戻った。
﹁あら、何にも買わなかったの﹂
手ぶらで現れた娘に、母は驚いている。彩子は三万円を返そうと
したが彼女は受け取らず、
﹁いいから、少しは良いものを買いなさいよ。あんたってばいつも
安物ばかり身に付けて⋮⋮﹂
お札は無理やりポケットに押し込まれ、クドクドとお小言を聞か
された。彩子は耳が痛いが、本当のことなので黙って聞くしかない。
買い物の帰り道、エリと話したことを思い出した。
食事会の日、雪村の瞳が一瞬見せた愁いは気のせいではなかった
のか。
大きなお世話かもしれないが、なるべく早く相手の男性を確かめ
ようと彩子は思った。
家に帰り台所を手伝っていると、エプロンのポケットで携帯電話
が鳴った。
彩子は濡れた手を急いで拭い、2階へ駆け上がる。
誰からの電話か察した母はにこにことして、﹁ごゆっくり﹂と声
61
を掛けた。
﹃ただいま帰りました﹄
﹁おかえりなさい﹂
原田の声に自然に返した後、彩子は照れ笑いした。
﹃やっと休みになりましたよ﹄
﹁大変でしたね。でも、もう安心ですね﹂
彩子はサイドテーブルに置いたカレンダーを手に取る。原田も、
同じことを考えているのだ。
﹃そう、安心して会えます﹄
原田は応え、すぐにそのことを切り出した。
﹃この前の話ですが﹄
﹁山の話ですね﹂
﹃そう。それなんですけど、よく考えると今は雪のシーズンですか
ら、山はまたの機会にしてドライブでもしませんか﹄
彩子の頭の中で、カラフルな花々が一斉に咲き乱れた。
﹁はいっ、行きたいです。ぜひ﹂
二人は1月3日に出掛ける約束をした。
﹃海沿いの道を走りましょう﹄
﹁はい、楽しみです﹂
目的地を設定しないというのが、彩子には新鮮だった。
山辺家は全員、ドライブが好きである。
今は勝手に遊びに出掛けてしまう父だが、彩子と真二が子供の頃
は、よくドライブに連れて行ってくれた。母もそんな時は喜んで弁
当をこしらえ、家族で楽しく過ごしたものだ。
しかし、楽しいばかりではなかった。
父はきっちりと計画を立て、行程どおりにドライブする。なので、
62
家族が寄ってみたい所があっても敢然と無視をした。
︱︱帰宅時間が遅れる。絶対にダメだ。
今でも耳に残る、厳しく突き放す声。
あれさえなければ、もっと楽しいドライブになったはずなのにね
⋮⋮と、母などは今でも愚痴っている。
どうやら原田は、父親と違うタイプのようだ。
彩子は嬉しく思いつつ、来年のカレンダーの1月3日に丸い印を
付けた。
﹁新年の初めての予定がデート。縁起がいいなあ﹂
磨いたばかりの窓ガラスに、にまにまとした顔を映す。初めて味
わう満ち足りた気分。
だが、彩子はまだ気付いていない。
自分が今いるのは、恋愛のほんの入り口に過ぎないということを。
大晦日︱︱
山辺家では毎年恒例のカニすき鍋が始まった。
この日だけは、テレビのある居間に大きな座卓を運び、家族四人
で鍋を囲む。
カニが次々に茹で上がると、皆、一心不乱に食べ始める。それぞ
れの視線はカニと、テレビの年末番組を往復している。
少々行儀が悪いが、大晦日は特別だ。これでなくてはカニを充分
味わえないと、全員が思っている。
ほどなくして、カニは食べつくされた。あとは野菜と雑炊という、
これも定番コースである。
﹁今年は豪勢だったな。ズワイもタラバもたっぷりで、腹いっぱい
63
だ﹂
父がう∼んと唸り、メタボリックな腹をさする。
﹁姉貴さまさまだね﹂
真二がおどけて言い、彩子に小突かれた。
﹁何だ、例の話か﹂
﹁そうなの。怖いくらいに、うまくいってるのよ﹂
鍋に野菜を投入しつつ、母がニコニコして答える。
﹁ほお、前祝いってわけか﹂
父は焼酎が回ったのか、顔が赤くなってきた。
﹁今度デートするのよね﹂
母は、彩子の部屋のカレンダーの丸印を目ざとく見つけていた。
﹁まじで? すげー﹂
真二の驚き方は心外だが、彩子は鍋の野菜が煮えるのを見つめ黙
っていた。
﹁デートって、どこへ行くんだ﹂
父が珍しく質問してきた。母も真二も興味津々で、彩子に注目し
ている。
家族が関心を持ってくれるのは悪いことではない。照れくさかっ
たが、彩子は答えることにした。
﹁ドライブだよ。海の方へ﹂
﹁海ってどこの﹂
﹁特に決めてない﹂
﹁何だと﹂
父は焼酎を空けたコップを座卓に置くと、咎めるように言った。
﹁計画性が無いな。それじゃあ連絡が取れないじゃないか﹂
﹁携帯があるから大丈夫だよ。それに、そんなに遠くへは行かない
から⋮⋮﹂
﹁場所だけは決めてもらえ。それで、お父さんに報告してから行き
64
なさい﹂
彩子の言い分も聞かず、敢然と命令した。
﹁はあ⋮⋮﹂
例の癖が始まったよと、一同、溜め息である。
﹁そんなあ、大丈夫よお父さん﹂
﹁木綿子伯母さんが紹介してくれた人だろ。心配ないって﹂
母も真二も口を揃えて援護するが、父は頑として聞き入れない。
それどころか、誰一人味方につかない状況に機嫌を悪くしている。
父に言ったのは失敗だった。彩子は激しく後悔するがもう遅い。
ますます意固地になった一家の長は、大きな声で言い放った。
﹁そんなことを言ってお前達、彩子が襲われたらどうするんだっ﹂
あまりの暴言に、彩子はもとより、母も真二も絶句して動けない。
鍋の中では、野菜が煮えたぎっている。 彩子は生まれて初めて、父親を睨みつけた。
思春期より今日まで持ち続けている、父という異性への嫌悪感。
それが猛烈な勢いで膨れ上がるのを止めることができない。
﹁さ、彩子?﹂
母が恐る恐る声を掛けるが、彩子は微動だにしない。
誰も見たことのない怒りの目。
普段温和な人物が怒ると異様に怖いのだと、家族は悟った。
父親という生き物は、妻の百の文句よりも、娘にたった一度睨ま
れただけで致命傷を負うようだ。
台所で黙々と後片付けをする彩子の方を気にしながら、父は居間
65
でしょぼくれている。
﹁困ったものねえ﹂
母はなす術もなく、台所と居間をかわるがわる覗いている。彼女
の目に、夫がこれほど惨めに映ったことは無い。
ザマミロ! とも思えるが、ちょっと気の毒だった。親が子供の
心配をするのは当然のこと。今回は口が過ぎてしまったのだ。
だけど、彩子は自分のことだけで怒ったのではない。
原田を侮辱されたのが許せなかった。
もはや彼女の心は、親よりも誰よりも、好意を寄せる男性側にあ
るのだから。
66
3
元旦︱︱
彩子は地元の神社に初もうでに出かけたあとは、のんびりと過ご
した。
2日は母と木綿子伯母を車に乗せて本家に走ったり、食品の買い
足しでスーパーマーケットに寄ったり、忙しく動き回った。
その間、父は大晦日の件で反省したのか、お節料理をつつきな
がら、大人しくテレビを見ていたようだ。弟の真二は長野県の白馬
まで地元の同級生とスキーに出かけている。
そして今日、1月3日。
午前9時に原田は迎えに来た。
インターホンが鳴ると、居間で新聞を読んでいた父は﹁あっ﹂
と大きな声を出し、母はバタバタと玄関に迎えに出る。
肝心の彩子は2階から急いで下りたので、階段を転げ落ちそう
になった。
親子で動転している。
﹁明けましておめでとうございます。あ、はじめまして⋮⋮でも
ありますね。原田良樹と申します﹂
客間に通されると原田は両親に挨拶をして、持参した菓子折り
を丁寧に差し出した。
﹁まあまあご丁寧にありがとうございます。おほほほっ﹂
母は何度も頭を下げつつも、原田を上から下まで観察している。
父は無言のまま、横で突っ立っている。
あからさまな母の仕草と父の無愛想に、彩子は赤面した。
67
﹁今日は彩子さんとドライブに出かけてきます。夕方までには帰
りますので、よろしくお願いします﹂
原田は穏やかに微笑んでいる。
雰囲気は見合いの日と同じだが、今日はスーツ姿ではなく、綿
シャツに紺のニットというリラックスした服装だ。原田のことだか
ら、きちんとした格好をしてくると彩子は思っていた。
意外だったけれど、これはこれで良い効果があった。おかげで
両親も堅苦しくならずに済んだようで、挨拶が終わると安堵の表情
になるのがわかった。
母がコーヒーを淹れてくると、陽ざしも明るい温かな部屋で、
四人は向かい合う。木綿子伯母の話などで和やかな雰囲気になると
彩子は安心した。
落ち着いて話をする原田は大人びて、とても頼れる男性に感じ
る。彩子は一人、胸がどきどきする音を聞いた。
﹁ところで君、原田君﹂
出かける直前、父があらたまったように声をかけた。
﹁はい﹂
客間を出ようとする原田の前に立ち、じっと見据える。
彩子は母と一緒に、対峙する二人の男を不安げに見守った。一
体、何を言うつもりだろう。また目的地を決めろなどと、彼に絡む
のだろうか。
︵もう、いい加減にしてほしい︶
大晦日の出来事が思い出され、彩子は唇を噛んだ。
﹁⋮⋮聞いたより体格がいいんだな。安心した﹂
父は思わぬことを口にすると、原田の腕の辺りをぽんぽんと叩
68
き、客間を先に出てしまった。
彩子は母と顔を見合わせ、ぽかんとする。
﹁ごめんなさいね、原田さん。お父さんったら、もう。あんなふ
うで﹂
﹁いえ﹂
原田は顔を横に振ると、父が消えた廊下のほうに向いて、
﹁行って来ます﹂
静かな声で挨拶をした。
彩子が助手席に座ると、母が嬉しそうな顔を窓から覗かせた。
﹁行ってらっしゃい。原田さん、よろしくお願いします﹂
原田は会釈をすると、アクセルを踏んで車を出した。
住宅街を抜け、県道を通り、しばらくすると国道に入った。
その間二人は何も言わず、ただひたすら前を見ている。
彩子はそっと原田の横顔を窺ってみた。すると原田も同時にこ
ちらを見たので、あわててまた前を向いてしまった。
視線のやり場がなく、自分の指先に目を落とすほかない。どう
すればいいのだろう⋮⋮
﹁今日は最高の天気ですねえ﹂
原田はフロントガラスから空を見上げるようにして、明るく言
った。彩子も釣られて顔を上げる。
﹁えっええ、ホントウに﹂
一応返事をしたが、やはり緊張して堅苦しい調子になってしま
う。
また沈黙が流れた。
交差点の信号が黄色になり、原田が車を停止させる。
69
︵せっかく話しかけてくれたのに。どうしてうまく続けられない
んだろう︶
﹁彩子さん!﹂
急に大きな声で呼ばれ、びっくりして原田に振り返る。
﹁え⋮⋮えっ?﹂
﹁リラックス、リラックス﹂
穏やかだが、どこか楽しそうにも見える、明るい笑顔があった。
﹁あ⋮⋮﹂
彩子はようやく目が覚めた。と同時に、緊張も嘘のように解け
ていく。
﹁そ、そうですよね。リラックス⋮⋮﹂
隣でハンドルを握る、この人は原田良樹さん。
出会って以来、彩子の心は日に日に彼に占められていった。ず
っと会いたかった人がここにいる。
今、こんなにも傍にいるのだ。
信号が青に変わり、原田は再びアクセルを踏む。
彼の横顔を、あらためて彩子は見つめた。
彩子は今日初めて、原田の姿を瞳に映した気がする。
そして、ひとつ気付くことがあった。初めて会った夜には感じ
なかったことだ。
昼間だから? それとも服装のせい?
﹁あの⋮⋮なにか付いてますか? 僕の顔﹂
彩子があまり見つめるので、原田もさすがに戸惑っているよう
だ。
﹁ご、ごめんなさい。無遠慮でした﹂
﹁いえ、いいですよ。ちょっと照れますが﹂
70
彩子は正直なところを伝えてみた。
﹁この前と印象が違うと思って﹂
原田は﹁ん?﹂という反応をするが、やがて納得したように頷
く。
﹁ああ、この前はスーツだったからでしょう﹂
﹁やはり、そうでしょうか﹂
﹁ええ。あのスーツを着ると、かなり細身に見えますからね﹂
そういえば、原田が着ていたスーツはシングルの三つ釦で、胸
の辺りが少し窮屈そうだった。彩子はあの時、目を合わせるのが恥
ずかしくて彼の胸元や手元を眺めていたので、よく憶えている。
︵確かにタイトな印象だった。でも、今日は何というか⋮⋮︶
細く見える、太く見えるという意味ではない。
彼のイメージに、見合い写真から受けた印象が強く残っていた
らしい。失礼だが、運動神経は鈍い方かもと彩子は思っていた。だ
けど、実際にこうして眺めていると何だか違うのだ。
︵そうだ!︶
彩子は心の中で手を打った。
今日の原田からは、随分と﹁敏捷﹂な印象を受けるのだ。
車はいつの間にか市街地に入っていた。
窓の外を見ると、そこはN駅前の交差点だった。
いつも利用するコーヒースタンドが見える。このあたりは交通
量が多く、神経がとても疲れるので、彩子は車で来たことがない。
原田を見れば、慎重ではあるがリラックスして車を走らせてい
る。周囲の状況に対する反応もよく、スムーズな運転である。
それに、彼が操るブルーのステーションワゴンは古い型のよう
だが、とても乗り心地がいい。大事に乗り、きちんと整備してある
71
のだ。ドライブが好きなのかもしれない。
もしかしたらこの人は自分が思っているより運動神経が良いの
ではないか。
彩子は何となくそう思い、尋ねてみることにした。
﹁原田さん、スポーツはお好きですか﹂
﹁スポーツ⋮⋮ああ、体を動かすのは好きですよ﹂
やっぱり︱︱と彩子は頷き、さらに質問する。
﹁例えば、どんな?﹂
﹁そうですねぇ。空手をやっています﹂
﹁空手!﹂
意外な答えに驚いた。
空手のイメージと言うと、ごつい筋肉質の男性が﹁押忍!﹂と
叫んで瓦を割ったりバットを折ったりするような、あるいは鼻血を
出しながらどつき合うようなものだからだ。
目の前の、この穏やかな男性がそんな世界にいるとは考えられ
ない。
しかし、彼は真面目である。
﹁そうなんですか。もう長いんですか﹂
﹁10年目かな⋮⋮大学の空手部に誘われたのがきっかけだから。
今は月に1、2回ですが、近所の道場に通っています﹂
﹁10年っ! すごいですね﹂
彩子は思わず感歎の声をあげる。社会人になっても続けている
のがすごいと思った。
﹁いえ、大したもんじゃありません﹂
原田は彩子の反応が、気恥ずかしそうだった。
車は湾岸道路に入った。
助手席側に青い湾が現れ、晴れ晴れとした視界が広がる。
72
﹁いい天気で良かった﹂
原田は前を向いたまま、眩しげに目を細めた。
﹁さっきの話なんですけど、あの、空手のほかには何か⋮⋮あっ
球技なんてどうですか?﹂
スポーツの話になると、彩子の目はキラキラとして口も滑らか
になってくる。
﹁球技は会社の野球チームに入っています﹂
﹁野球っ。いいですね!﹂
彩子はとても嬉しくなった。
原田は他にも、毎晩基本の筋トレをし、時間があれば会社の周
りを走るのだと教えた。あと、時々山に出かけるので登山も少々か
じってると付け加えた。
﹁わあ、すごすぎます!﹂
﹁ただし、広く浅くですよ。仕事が忙しくて、どれも中途半端に
なっています﹂
それでも彩子は心から感心する。彼に比べたら自分などとんだ
怠け者だ。
彼は想像以上の運動家だった。
﹁でも、釣書にはスポーツのことは何も書かれていませんでした
よ﹂
そのこともあって、運動をしない人だと思いこんだ。スポーツ
が好きなのに、なぜひとつも書き込まなかったのか不思議に感じる。
﹁体を動かす事はメシやフロと同じ習慣ですから、特に書きませ
んでした﹂
﹁そうなんですか∼。なるほど﹂
そんな考え方もあるのかと、何度も頷く。とても新鮮な感覚だ
った。
73
前方に大きな観覧車が見えてきた。この先の海沿いに遊園地を
中心としたレジャー施設があるのだ。
太陽の光を反射して、白く眩しく輝いている。
︵原田さん⋮⋮面白い人だな︶
彩子は彼という人をもっと知りたくて、堪らない気持ちになっ
ていた。
﹁原田さん、そろそろ休憩しませんか﹂
家を出発してから既に2時間が過ぎようとしている。
彩子は原田のために提案したのだが、自分も足腰を伸ばしたく
なっていた。
﹁そうだな。少し行くとパーキングエリアがあるから寄りましょ
うか﹂
パーキングエリアは遊園地の北側にあった。
彩子は車から降りると、背伸びをした。
天気は良いけれど風が冷たいのでジャケットを羽織り、ニット
の帽子も被った。
﹁寒いですか﹂
﹁はい⋮⋮あの、寒がりなんです。原田さんは大丈夫なんですか﹂
原田はセーターのままである。
﹁う∼ん、少し冷えますが無精なんで﹂
上着を脱いだり着たりするのが面倒という意味だろう。それに
しても平気な顔をしている。
駐車場から南の方角を眺めると遊園地があり、その向こうに冬
の海が白く霞んでいる。
久しぶりに見る光景だと彩子は思った。
﹁風邪ひきますよ﹂
74
原田に促され、店舗棟へと歩き出した。
二人はコーヒーショップで飲み物を買うと建物に入り、窓際の
ベンチに並んで腰掛けた。
原田はドリップコーヒー、彩子はカフェモカ。ふたつのカップ
から湯気が立っている。
﹁ふうう∼﹂
彩子はひと口含むと、大きな息をついた。
﹁だいぶリラックスしてきたね。その調子です﹂
いかにもホッとした様子が可笑しかったのか、原田は学校の先
生みたいな口調で言い、楽しげに笑った。
︵ホント、原田さんは落ち着いている。そんなふうに見えるだけ
かな︶
やさしい眼差しが眩しくて、それとなく視線を逸らす。
彩子には判らなかった。
30分ほど休み、出発することにした。
彩子はトイレに寄るからと言い、原田には先に車に行ってもら
った。
手を洗っていると、ポケットでメール着信の音が鳴る。発信者
を確認するとエリだった。
︵あ、雪村のことだ︶
年末に約束したことを思い出し、メールを開いた。
明けましておめでとう!
早速だけど、例の工房について。
雪村のペンダントに刻印されていたロゴはこちら。
スペルは K o r e 75
発音はコレー? 意味は?
木星の衛星で﹃コレー﹄っていうのがあるけど関係あるかなあ?
で、ネットで調べたんだけど、高柳町に﹃アクセサリー工房k
ore﹄ってのを発見。
雪村の勤め先と近場だし、ここで間違いないでしょう。
1月5日から営業とのこと。
カフェも併設してるみたいなので、偵察も兼ねてお茶しない?
連絡待っています。
彩子は﹁偵察﹂の文字に思わず笑ってしまった。短く﹃了解。
夜に電話します﹄と返し、原田の待つ車に急いで戻った。
ひたすら西に走ってきたが、湾岸道を降りてからの海沿いの道
は南にカーブしている。
﹁もう少し走ったら昼にしましょう。ドライブインがあるみたい
です﹂
そういえば、彩子はなんだかお腹がすいてきた。緊張がすっか
り解けているのをそれで自覚して、クスッと笑う。
﹁どうかした?﹂
﹁いえ、何でも。うふ⋮⋮﹂
一人で笑う彩子を原田は不思議そうに見るが、そんな彼の表情
も柔らかだった。
視界いっぱいに広がる海に見とれながら、頭ではメールのこと
も考える。
エリの送ってきたスペルは本当に﹃コレー﹄と読むのだろうか。
﹃コレー﹄とは、どう言う意味なのだろう。アクセサリーに何か関
76
係があるのだろうか。
﹁どうしたんです?﹂
ぼうっとしていると、原田が声をかけた。彩子はふと、何の気
なしに訊いてみた。
﹁今、友人からメールをもらったんですけど、教えてもらったお
店の名前が読めなくて。英語かな? スペルはわかるんですけど﹂
﹁へえ、どんなスペルですか﹂
﹁ええと、ケイ・オー・アール・イー⋮⋮﹂
信号待ちの車内はシンとして、とても静かだ。
なので、原田が一瞬絶句したのが、気配でわかった。
何かまずい事でも言ったかと、彩子は焦った。しかし原田は別
に怒った様子ではない。
というより、少し困ったように眉を寄せている。
﹁原田さん?﹂
﹁それは、何の店ですか﹂
真面目な口調にドキッとしたが、彩子はありのままを答えた。
﹁手作りアクセサリーの工房です﹂
原田の目もとに翳りが見えた⋮⋮気がした。
﹁ご存じなんですか﹂
彩子は胸に、雲が立ちこめてくるのを感じた。何かとても不安
な色をしている。
﹁それは、﹃コレー﹄と読みます。オーナーは⋮⋮僕の知ってい
る人です﹂
原田は微かに笑うが、彩子にはどこか苦しげな表情に映った。
77
4
﹃コレー﹄と言うのは、ギリシア神話に出てくる乙女ではないか。
彩子はふと思い出した。
冥界の王ハデスがひと目惚れをし、無理やり妻にした娘。
ハデスに冥界へと連れ去られ、その時彼女は冥府の食べ物である
ザクロを4粒食べてしまった。そのため、1年の内3分の1を冥界
の女王﹃ペルセポネ﹄として過ごすことになる。
彩子は中学生の頃、神話関係の本を熱心に読んでいた。
中でもペルセポネの話は印象に残っている。多感な年頃の彩子に
は、無理やり妻にされたという部分が衝撃的だったからだ。
神話に登場するコレーが、アクセサリー工房の名前と関係あるの
かどうかわからない。
だけど、なんとなくそうであるような気もする。
それにしても⋮⋮と、彩子は思う。
原田の態度は不自然だった。なぜあんなふうに、苦しげに微笑ん
だのだろう。
夏には海水浴場となる浜辺が一望できるレストランで昼食をとっ
た。オフシーズンにもかかわらず家族連れやカップルでにぎわって
いる。
そういえば、近くに有名な神社があるので、初詣帰りの客が集ま
って来たのかもしれない。
彩子は食事をしながら、それとなく原田を観察した。一見落ち着
78
いて見えるが、微妙にいつもと違っている。それも、気をつけてい
ないとわからない程の微妙さだ。
﹁外は寒いですね。でも、少し歩きますか﹂
原田は伝票を持つと立ち上がった。
彩子は慌てて後を追い、原田が支払いを済ませるのを店の外で待
った。
冬の浜辺はひんやりとするが、風が無いのでそれほど寒さは感じ
ない。
それに、今日はスカートではなくパンツを穿いてきた。海沿いの
ドライブコースなので、浜辺に降りる予想を無意識に立てたのかも
しれない。
﹁これ、おまけだそうですよ﹂
店から出てくると、原田は彩子にオレンジ色のキャンディを手渡
した。ウサギの形をした棒付きキャンディは、明らかに子供へのサ
ービスである。
﹁嘘でしょ﹂
﹁君は僕の子供に見えたようですね⋮⋮うっ﹂
堪えきれないように原田が笑い、彩子も思わず噴き出した。キャ
ンディの意味するところは不明だが、原田の楽しそうな表情に心が
和んでしまった。
﹁ん? でもまてよ。ってことは、僕がおじさんに見えたってこと
か﹂
﹁あっ、そうですよ。 きっとそう!﹂
思わぬハプニングに、彩子は”微妙な違い”を忘れて原田と笑い
合う。あれは思い過ごしだったのだと、彼の朗らかさに違和感は消
えていった。
79
二人は浜辺をのんびりと歩いた。
晴れた空、穏やかな冬の陽射し。遠くの水平線がきらきらと光る
のに、彩子はただ見とれていた。
10分ほど歩いたところで、彩子はハッと思い出すことがあり、
原田に伝えた。
﹁あ、あの。ご馳走様でした﹂
棒付きキャンディの登場で曖昧になってしまったが、食事代のお
礼を言うのを忘れていた。
伯母の木綿子には、﹃食事や何かでお世話になったら短めにお礼
を言えばいいから。くどくしないで、ただし忘れないで﹄と、言わ
れている。
だけど、本当にそれだけでいいのかなと迷ってしまう。
今日は高速道路の料金も、食事代も、休憩で飲んだカフェモカま
で、何もかも支払ってもらっている。
原田は立ち止まると、砂浜に埋もれている小石を拾い、
﹁どういたしましてっ!﹂
と、海に向かってそれを投げた。彩子が思わず目で追うと、かな
り遠くまで飛んでいった。
原田の広い背中に目を戻し、お礼のことはくどくしないでおこう
と決めた。
﹁私も⋮⋮﹂
彩子も手ごろな大きさの小石を拾うと、思いっきり投げてみた。
原田には及ばないが結構飛んだので、彼は﹁おっ﹂と反応する。
﹁やりますね﹂
ニヤリと笑い、セーターを腕まくりした。
そしてまた小石を拾うと、今度は15メートルほど先に立つ杭を
80
めがけて投げた。1投目ははずしたが、2投目3投目は命中させた。
﹁よおし!﹂
彩子も同じように挑戦する。
原田の方が正確だが、命中率はほぼ五分五分だった。二人とも思
わず知らずむきになっていたらしく、気がつくと30分も過ぎてい
た。
﹁暑い!﹂
原田は途中で脱ぎ捨てたセーターの砂を払って肩に引っ掛けると、
額の汗を拭った。
﹁面白かったです﹂
﹁ああ、好敵手だ。楽しかった﹂
原田は笑い、彩子のニットの帽子をポンポンとはらった。
砂が付いていたようだ。
︵え⋮⋮︶
﹁それじゃ、そろそろ行きましょう﹂
﹁は、はいっ﹂
胸がドキドキしている。
原田の手の平は大きく、頼もしく感じられる重さがあった。だけ
ど軽くはらう仕草は優しく、力を加減していた。こんな経験は、か
つてない。
突然の触れ合いに、彩子は激しく動揺していた。 帰りの車の中で、彩子はウトウトした。
気がつくと、いつの間にかN駅前の交差点まで来ていた。車も人
も黄昏の中である。
﹁ご、ごめんなさい、眠ってしまって﹂
81
彩子は失敗したと思ったが、原田はどうということもない調子で
返事する。
﹁そこまで寛いでもらえれば、運転手冥利に尽きますよ﹂
﹁え⋮⋮あっ?﹂
口元によだれがたれている。彩子はショックを受け、恥ずかしさ
で赤くなるが、原田はクスクスと笑っている。
﹁すみませんっ﹂
﹁ふふ⋮⋮でも、リラックスしてるね。いい傾向ですよ﹂
﹁は、はい﹂
彼の傍にいて、彼の運転する車に揺られて、心地よくて眠ってし
まったのだ。
この人には敵わない。彩子はハンカチで口もとを押さえつつ、な
かなか冷めない頬の熱を持て余した。
車は間もなく山辺家に着こうとしている。
彩子はここへきて、焦燥感を募らせていた。考えてみれば、これ
からのことを何も話していない。
二人はこれから、どうなるのか︱︱
車が運動公園の前を通り過ぎようとする時、彩子は﹁止めてくだ
さい﹂と頼んだ。何も考えず、口からこぼれていた。
原田は驚いた様子で、スピードをやや緩める。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁もう少しでいいんです。あの⋮⋮少し、話しませんか﹂
原田は不思議そうな顔をしたが、運動場の駐車場に車を移動させ
ると彩子に向き直り、
﹁どうしたんです﹂
もう一度訊いた。
82
彩子は驚いている。
自分から言おうとしていることに。
そして、そんな自分に戸惑いながらも、それを正確に伝えるため
の言葉を懸命に探した。
﹁あの、ですね﹂
﹁うん?﹂
原田は穏やかな眼差しを彩子に向けている。彼はいつもと変わら
ぬ落ち着いた態度だ。
芝生広場で、一組の親子がキャッチボールをしている。
彩子はフロントガラスに目を向けたまま、思い切ってそれを伝え
た。
﹁私、原田さんと、ずっとお付き合いしたいです。いいでしょうか﹂
静かなエンジン音。そして、微かな息遣いが聞こえる。
これは、彩子のものなのか原田のものなのか判然としない。
リズムは一つだった。
﹁俺もです﹂
彩子は弾かれたように原田に見向く。
﹁先に言われてしまいました。君は本当に面白い!﹂
穏やかだが、まっすぐで、熱を感じさせる眼差しが彩子を包んで
いる。原田は右手を差し出すと、迷いのない返事をくれた。
﹁これからも、ずっとよろしく﹂
彩子はおずおずと握り返し、その男らしい手の平に感動を覚える。
厚い皮膚の感触と、力強さと、温かさ。
原田の手の温もりは、そのまま彩子の体温となり、体中を熱くさ
せた。
83
山辺家に着くと、原田は彩子の両親にあらためて挨拶をした。
弟の真二もスキーから帰っていたので同席した。
二人が交際を続ける意思を告げると、母は相好を崩して喜び、父
はひたすら頷いていた。
﹁親父も気に入ったみたいだな。良かったな、お姉﹂
真二が嬉しそうに、彩子を肘でつついた。
原田は来週から仕事が始まるので、次は10日の土曜日に会いま
しょうと彩子に提案した。
彩子はもちろん承諾した。原田をますます好きになっている。彼
のような人が世の中にいたのだ。いてくれてありがとう。
夜、彩子は風呂の湯に浸かりながら、今日一日を思い返す。原田
と過ごした時間、原田との約束。楽しくて幸せな気分にのぼせそう
だった。
ただひとつ気になることはあるが、それはもう、どうでもいいよ
うに感じる。
早く早くまた会いたい。
ひたすら願うばかりで、頭も心もいっぱいになっていた。
84
1
1月5日月曜日の朝、エリが彩子の家まで迎えに来た。
今日は二人で雪村律子の交際相手がどんな男性なのか確かめに行
くのだ。
﹁高柳町2丁目3−33、アクセサリー工房、コレー﹂
エリがカーナビゲーションで目的地を設定している。彩子は助手
席で見守りながら、ソワソワと落ち着かなかった。
﹁雪村、怒るかなあ﹂
﹁今さら何言ってるの。絶対見に行くわよ。彩子が言い出したんだ
からね﹂
エリはシートベルトを締めると、車を即座に発進させる。
﹁雪村の相手がまともな男ならそれでいいのよ﹂
鋭く目を光らせるエリに、彩子はそれ以上何も言えなかった。
﹁それはそうと、どう? 彩子の方は。え∼と、原田良樹さんとは﹂
﹁うん、付き合うことに決めた﹂
﹁えっ、そうなの。やったわね! じゃあ、もう結婚ってこと?﹂
﹁そうならいいけど﹂
﹁うわあ∼、智子に続いて彩子もかあ。凄いわ﹂
彩子に実感は無いのだが、状況的に見るとそうなる可能性は高い。
﹁やっぱり、お見合いって上手く行くと展開が早いよね﹂
エリの言う通りだと思った。ついこの間まで恋愛も結婚も遠い話
だと思っていたのに、早いといえば早すぎる展開だ。
﹁そう言えばね﹂
彩子は先日のドライブデートでの会話を思い出した。
﹁原田さん、﹃コレー﹄のオーナーと知り合いなんだって﹂
85
﹁うそ、本当に?﹂
﹁Koreの読み方を教えてくれたの、原田さんなんだ﹂
﹁世間は狭い⋮⋮﹂
感に堪えないという風に、エリが呟く。彩子も同じ気持ちだった。
30分ほど走ると、冬枯れの林が広がる公園が見えてきた。その
東側にレンガ塀の建物があり、木製の素朴な看板に﹁アクセサリー
工房&カフェ Kore﹂と、白いペンキで書かれている。
間違いなくここが目的の場所である。
エリは車を駐車場にとめると、
﹁さ、行くわよ﹂
彩子を促し、先に立って歩いた。
﹁待って、エリ。ちょっと⋮⋮﹂
さっさと歩いて行くのを追いかけ、彼女のコートの端をつまんだ。
﹁なによ﹂
﹁ねえ、雪村の恋人ってお店の人なの? それとも会員?﹂
エリは彩子と向き合い、その基本的な問いに答えた。
﹁思うに、雪村が身に着けていたクロスペンダントは、彼からの贈
り物ね﹂
﹁うん﹂
﹁しかも、あれだけの細工が出来る腕のいい職人。技術のある人。
そして、店のロゴが入ってる。そうなると、絞り込めると思わない
?﹂
彩子は、さすがエリだと感心する。そして、何も考えずに来た自
分が恥ずかしくなった。
﹁彼は、ここにいるわ﹂
エリが再び歩き出した。
︵もしかしたら、原田さんの知り合いだと言うオーナーが、雪村の
86
恋人かもしれない⋮⋮︶
彩子は胸がドキドキしてきた。
店に入ると、そこはカフェだった。
コーヒーのいい香りがする。
カウンター席と大小のテーブル席が並んでいる。天井は高く、外
観よりも広く感じる。
見ると、店の奥に扉があり﹁STUDIO﹂という札がぶら下が
っている。扉の向こうはアクセサリー工房になっているようだ。
とりあえず、お茶をいただくことにする。
客は他に五人いた。カップルと親子連れが一組ずつと、白髪頭の
男性が一人。男性は新聞をテーブルに広げ、うたた寝している。
﹁彩子、こっちこっち﹂
エリがディスプレイされているアクセサリーの前で手招きした。
彩子は近付き、それらに見入る。
シルバーや天然石のリング、ペンダント、ピアス⋮⋮どれもとて
も綺麗だ。
各々に値札が付き、販売されているもののようだ。
﹁お客さま、アクセサリーに興味がおありですか?﹂
コーヒーを運んできた店員が声をかけた。
彩子は振り向くと、
﹁どれもとても綺麗で、見とれちゃいました⋮⋮﹂
そう言い掛けて言葉を失う。
ひと
これほど美しい女性を見るのは初めてだった。
卵形の美しい輪郭を持つ顔かたち。肌理細やかな白い肌。黒目が
ちの大きな目は吸い込まれるよう。艶やかな髪はきちんと結い上げ
87
られ、清潔な色香を漂わせている。
﹁あの、どうかされましたか?﹂
微笑んだ顔も、輝くようにきれいだと思った。
エリはボーッとしている彩子を押しのけると、
﹁そうなんです、私達アクセサリーに興味があって、できれば工房
を見学したいのですが﹂
美しい店員はこころよく承諾する。
﹁体験もできますよ。お時間があれば挑戦してみてくださいね﹂
親切に言い置き、カウンター内へと戻っていった。
﹁綺麗な人だなあ﹂
カップを手の平に包んでため息をつく彩子を、エリはしらけたよ
うに見た。そして、テーブルの上にかぶさるようにして顔を近付け
る。
﹁あのね、彩子。あんたってば本っ当に、単純なのよね﹂
呆れた言い方に、彩子は心外そうに見返す。
﹁どうして﹂
﹁あの手の女を私は何人も知ってるわ。しれっとして人を騙すタイ
プよ﹂
﹁ええ?﹂
彩子にはさっぱり理解できない見解だ。
﹁どうしてそう思うの?﹂
﹁勘よ﹂
﹁⋮⋮﹂
エリは四大卒業後、女性向け製品を扱う業界大手の企業に就職し
た。
研修後に配属された企画開発の部署には、製品の性質上女性社員
が多く、仕事の競争も激しかったらしい。今でこそ若手ながら部下
88
も付くほどの立場になったエリだが、当初は愚かしい足の引っ張り
合いや、信じられないような罠を仕掛ける人間も存在して大変だっ
たとのこと。
先日の食事会にて、暗く述懐していた。
毎日が戦争である女社会を生き抜いてきた彼女は、人間⋮⋮こと
に女性の本質を見抜く目を否応なしに養ってきた。
﹁私の勘はね、過去のデータに裏打ちされているの。根拠の無いも
のではなく、ちゃんとした統計学よ﹂
エリは切れ長の目で彩子を睨みつけていたが、なぜか﹁ふっ﹂と
笑いを漏らし、座り直した。
﹁あんたって、ほんとに童顔ねえ。気が抜けるわ﹂
﹁う⋮⋮﹂
彩子はふと、ウサギ形の棒付きキャンディを思い出す。確かに、
エリの言うとおりなのだ。
﹁さてと、それじゃ行くわよ﹂
エリは立ち上がると、先ほどの美しい店員に声を掛けた。
﹁あの∼、工房の見学をさせてもらえますか。今日は時間が無いの
で、体験は無理なのですが﹂
ついさっきまでの辛らつさはどこへ⋮⋮彩子が見上げると、エリ
の肘がすかさず脇腹を突いた。
なるほど、ここからが大事なのだ。目的を果たすためには私情は
禁物だ。
﹁大丈夫ですよ、是非どうぞ。こちらの用紙に記入していただいて
⋮⋮﹂
手続きをしていると、窓際の席でうたた寝していた男性が席を立
ち、近付いてきた。
﹁では私がご案内しましょう﹂
89
﹁あ、私の父です。この工房一番の職人なんですよ﹂
彩子はエリと顔を見合わせる。
その男性は、白髪頭を照れたように掻くと、
かい
ぶんじ
﹁お客さんがいるのにウトウトしてしまったよ。いや、申し訳ない。
甲斐文治と申します﹂
﹁お父様、ですか?﹂
﹁一番の職人さん?﹂
彩子達が口々に尋ねると、文治は穏やかな笑みを浮かべた。言わ
れてみれば、整った目鼻立ちが彼女によく似ている。
﹁はい、親子です。いや、私なんぞよりデザインのセンスは娘がず
っと上ですからね、ははは⋮⋮﹂
みなこ
彩子は驚いた。彼女はカフェの店員というだけでなく、工房の職
かい
人でもあったのだ。
﹁私、オーナーの甲斐美那子と申します。よろしくお願いいたしま
す﹂
彼女は二人に自己紹介して、深々と頭を下げた
彩子とエリは文治に案内されて工房の中へと入った。カフェの2
倍ほどの床面積だが、棚や機械があちこちに配置されているためか、
手狭に感じられる。
工房では二人の女性がバーナーや鎚などを使い、アクセサリー作
りに取り組んでいた。
﹁あの方達は?﹂
エリが訊くと、文治は﹁お二人とも会員さんです﹂と答えた。
文治は彩子達を、木槌を使っている女性の側に連れてきた。
﹁この方が今やっているのは、シルバーリングの整形ですね。あと
一息で出来上がりです﹂
90
リングに芯金という棒を通し、サイズ調整と整形の作業をしてい
るところだと説明された。
﹁おや、これは﹂
文治が覗き込むと、女性は気まずそうな顔をした。
﹁リングの両端を合わせるのは難しいですからね。大丈夫です。慣
れることです﹂
女性が作りかけたリングは、輪にしたつなぎ目の所がほんの少し
盛り上がっていた。
﹁ここは会員制なんですか?﹂
唐突にエリが質問した。彩子は、エリがいよいよ探ろうとしてい
るのにハッとして、唇を引き結ぶ。さっきから、全く違うことを考
えていた。
︱︱それは、﹃コレー﹄と読みます。オーナーは⋮⋮僕の知って
いる人です。
原田の言葉と、その表情を思い出していた。
この綺麗な女性がオーナーで、原田さんの知っている人。
ただ知っていると言っただけなのに、彩子の胸は騒いでいる。
﹁ええ、会員制です。もちろん、体験はその限りではありませんが﹂
﹁やはり女性の方が多いのですか?﹂
エリがテーブルの上にあるチラシを手に取りつつ文治に訊くと、
﹁うちは娘⋮⋮オーナーの方針で、女性会員限定なんですよ。男性
は私だけです﹂
﹁へっ?﹂
エリが変な声を上げたので、作業中の女性二人が何事かと振り返
った。
91
﹁あっ、いやその、失礼しました。しかし、それはまたどうして﹂
﹁さあ、どうしてでしょうか⋮⋮ああ、こちらには天然石アクセサ
リーの材料がありますよ﹂
文治は曖昧に答えを濁すと、話を変えてしまった。
そして、何段もある棚の中から50センチ四方ほどの木箱を選び、
引き出して見せた。木箱は板で格子状に区切られており、そこにさ
まざまな色や形をした石が収まっている。
文治の不自然な様子は気になるが、とりあえず二人は覗き込んだ。
﹁鉱物標本みたいですね﹂
エリの感想に、彩子は﹁あっ﹂と声を漏らす。
︵鉱物⋮⋮原田さんが好きだと言った︶
﹁お父さん、代わるわ﹂
気がつくと美那子が側に来ていた。
﹁ははは、石はオーナーのほうが詳しいからな﹂
文治は二人に﹁ごゆっくり﹂と会釈をすると、カフェの方へ戻っ
ていった。
﹁綺麗ですね﹂
彩子が石を見つめながら言うと、美那子は嬉しそうに応えた。
﹁ええ、まだ何の加工もされていない状態ですが、とても美しい。
自然そのものの魅力ですよね﹂
まさに、その通り。これらには人の手に磨かれていない、ありの
ままの美しさがある。
﹁あの∼、会員は女性限定と言うのは本当ですか?﹂
エリが彩子と美那子の間に入り、質問した。またしても肘鉄され、
彩子は慌てて石から顔を上げた。
﹁ええ、そうです。だからお店の名前もKoreなんですよ﹂
92
﹁ギリシア神話の﹃コレー﹄ですか﹂
彩子が反射的に訊くと、美那子は目を見張った。
﹁そうです。よくご存知ですね﹂
﹁娘⋮⋮乙女という意味です﹂
彩子の言葉に、美那子は深く頷いた。
﹁ええ。ここは女性のための創造の空間です﹂
︵女性のための⋮⋮︶
彩子はあれっと思い、エリと目を合わせる。彼女も納得できない
様子だ。
それはおかしい。
雪村の相手を探しに来たのだが、それでは、男性は甲斐文治さん
しかいなくなってしまう。
﹁文治さんの他に男性はいないってことですか﹂
﹁ええ、そうですが⋮⋮﹂
念を押すエリに、美那子は怪訝な表情をする。その反応は素直な
もので、嘘をついているようには見えない。
彩子はエリに促され、美那子達に礼を言ってから工房を出た。
﹁参ったわねえ﹂
エリは車に乗り込むと、早々に発進させた。イライラした態度で、
運転も荒い。彩子は大人しくしながらも、﹃コレー﹄での偵察結果
を口にする。
﹁結局、いなかったね﹂
雪村の相手らしき男性はいなかった。彩子は普通に考えて言った
のだが、エリは違っていた。
﹁常識でモノ考えちゃ駄目よ彩子。雪村のやつ、よりによってあん
な爺さんと!﹂
93
ハンドルを叩くエリに、彩子はぎょっとする。
﹁なっ何を言うの﹂
エリは公園の反対側に回ると、車をとめてエンジンも切った。そ
して彩子の方を体ごと向くと、彼女が得た答えを聞かせた。
﹁男はあの爺さんしかいないって、あんたも聞いたでしょう﹂
﹁それは、そうだけど⋮⋮﹂
﹁店の人間はオーナーと爺さんの二人だけ。男は爺さん一人で、し
かも相当な技量の持ち主と見たわ﹂
彩子は息を呑む。まさか、そんなことって⋮⋮
﹁もう少し相手選びなさいよね!﹂
エリは雪村を目の前にするように叫び、嘆いた。
状況を眺めれば、確かにその結論に至る。
だけど、彩子は信じられない。
どうも妙な気がしている。
﹁あの、エリ﹂
﹁何よ﹂
﹁カラダの相性って言ってたよね⋮⋮雪村﹂
﹁それが?﹂
彩子は迷いながらも訊ねる。それは、根本的な疑問だった。
﹁あの、真面目というか⋮⋮堅実そうなお爺さんが、できるのかな﹂
﹁⋮⋮そりゃ、できるよ﹂
エリは答えるが、彩子を見返す目は揺らぎ始めていた。
︱︱合うんだよね、すごく。
︱︱カラダの相性が。
﹁あの、文治さんが?﹂
94
二人は同時に言うと、それぞれ雪村を思い浮かべた。
︱︱カラダの相性は重要だよ。
雪村の謎めいた微笑み。
北風に翻弄され、枯葉がボンネットに舞い落ちる。探りにきたつ
もりが迷宮に入ってしまった。
二人は何も言えず、ただそれを見つめていた。
95
2
はらだ ひろみつ
﹁早いなあ。もう5日か﹂
けいこ
原田浩光はカレンダーを眺めている。妻の啓子が居間にお茶を運
んでくると、振り返って訊いた。
﹁良樹は仕事が始まったのか﹂
﹁ええ、今日はこっちに帰って来るはずなんたけど﹂
彼らのひとり息子である良樹は会社の寮に住んでいる。それほど
離れていない場所なので、実家に顔を出すこともあった。
時刻は午後9時を回ったところだ。
﹁忙しい部署なんだな﹂
浩光はソファに腰掛けると、テレビのスイッチをつけた。テレビ
番組も正月気分が抜け、だいぶ落ち着いてきたようだ。
﹁この頃の正月は、ロクな番組をやらんからなあ﹂
浩光は30年間勤めた自動車製造会社を二年前に定年退職した。
現在は再雇用で同じ工場に通っている。妻の啓子は夫の定年と同じ
頃、20年間続けたパート仕事をやめたので、今は専業主婦。
夫婦共々体調もよく、この頃は二人で観光旅行に出掛けるなど、
余暇を楽しんでいる。
何か心配するとしたら、息子の縁談くらいのものだった。
﹁で、どうだい例の娘さんは。交際が決まったんだろう﹂
﹁そうそう、彩子ちゃんね。私も早く会いたいわ∼。ああ、本当に
嬉しくって﹂
啓子は甘納豆をつまみながら、楽しそうに言う。
﹁あいつには心配させられたからなあ﹂
浩光は遠くを見るように目を細めた。
96
﹁もう過ぎたことだけど、あの頃は大変だったわよ﹂
二人は、良樹が大学二年の頃の、とある出来事を思い出している。
﹁もうあんな思いはたくさん﹂
啓子は眉根を寄せると、苦々しげに呟いた。
﹁それで、良樹は彩子さんについて、なんて言ってるんだ﹂
﹁それが男坊主は喋らないから⋮⋮よくわからないのよ。でも、こ
の頃は電話しても機嫌がいいからねえ。相当気に入ってるんじゃな
いかな﹂
﹁ほお∼、へえ∼。あの良樹がねえ﹂
浩光は面白そうに笑っている。
﹁しかし、28、9で結婚なんてこの頃じゃ早い方だろう﹂
﹁私は構わないわ。あの子には早く落ち着いてほしいから﹂
﹁俺だって、そう思ってるさ﹂
噂をすれば影で、玄関の引き戸が開く音が聞こえた。
﹁ただいま﹂
﹁はいはい、お帰り⋮⋮あら﹂
居間に現れた良樹は空手の道着を着て、スポーツバッグを肩に担
いでいる。
﹁稽古だったのか﹂
ソファにどっかと腰を下ろした息子に、浩光が声を掛けた。
﹁稽古始めだったんだ。30分しかできなかったけどね﹂
﹁早く着替えなきゃ風邪ひくわよ﹂
﹁うん。ああ∼、腹が減った﹂
啓子は息子が風呂に入るうちにおかずを温めておこうと、台所に
立った。
浩光はやれやれといった顔で、息子を眺め回す。
97
﹁しかし、お前の道着も帯もボロボロだな。新しいのに替えたらど
うだ﹂
﹁親父さん、これぐらいが体に馴染んで、ちょうどいいんだよ﹂
﹁ふう∼ん、そんなものかね﹂
良樹が風呂に行くと、しばらくして啓子が戻ってきた。ちらりと
ドアを窺ってから、浩光の向かい側に座る。
﹁あの子ったら、着る物に無頓着で困るわ。彩子ちゃんと初めて会
う時も、あんなつんつるてんのスーツを着て行ったんだから﹂
﹁あのスーツをか﹂
﹁そう﹂
浩光は思わずため息をついた。あのスーツというのは、良樹の一
張羅である。
職場では作業着で働くのでスーツは必要ない。出張に出掛けるこ
とがあっても、面倒がって新調しようとしないのだ。
﹁それに、あの空手着だって、誰にもらったのか知ってる?﹂
﹁自分で買ったんじゃないのか?﹂
﹁甲斐さんにいただいたものよ!﹂
浩光はハッとして、妻の顔を見る。
﹁まだ、あれを着てたのか﹂
﹁口出すと嫌がるから、黙ってるけど。わが子ながら無頓着で⋮⋮
というより、無神経なのかしら﹂
廊下から足音が聞こえてきたので、啓子は喋るのをやめた。
良樹が夕飯を食べ終ると、啓子はコーヒーを三人分淹れて居間に
運んだ。
﹁ちょっと良樹。ここに座んなさい﹂
﹁はいはい、何でしょうか﹂
98
ソファを指さす母親に、息子は冗談っぽく返した。
﹁取調べだよ、良樹﹂
父親までふざけるので、母親はじろりと睨み付ける。
男二人は目を合わせ、首をすくめてみせた。
良樹は両親と向き合う格好で座った。
コーヒーにミルクだけ入れると、軽くかき混ぜる。
﹁ねえ、彩子ちゃんのことなんだけど、あんたどう思ってるの﹂
﹁どうって、何が?﹂
﹁どんな風に思ってるのか、気持ちを訊いてるの!﹂
とぼけた返事に、つい声が大きくなる啓子。浩光はまあまあと宥
めてから、良樹を促した。
﹁我々は彩子さんに会ったことが無いからね、どんな感じなのか聞
きたいんだよ﹂
﹁う∼ん、そうだなあ﹂
良樹はコーヒーをひと口含むと、何かを思い浮かべるようにして
言った。
﹁面白い子だよ﹂
﹁面白い? 冗談とか駄洒落が上手いのか﹂
浩光は真面目である。
﹁違う違う。一緒にいて、退屈しないってこと﹂
﹁つまり、気が合うってこと?﹂
しっかりと頷く良樹を見て、啓子は喜びの声を上げた。
﹁いい感じじゃないの。今度ぜひ、うちに来てもらわなくちゃ。な
るべく早く﹂
﹁そうだな、父さんも会いたいな﹂
﹁わかった﹂
良樹はコーヒーを飲み切るとカップを置き、そそくさと自室に戻
99
って行った。
両親は物足りなそうに、それを見送った。
﹁もっといろいろ聞きたいのにねえ。男の子ってホントに喋らない
んだから﹂
﹁はは⋮⋮照れてるのさ﹂
もり
とりあえず、息子の縁談は順調に進んでいる。本人に確認できた
ので、二人は安堵の表情になった。
休み明けの職場は、なんだか騒がしかった。
おか
彩子がパソコンに伝票入力する後ろを、工場長とデザイン室の森
岡が行ったり来たりしている。
﹁一体何なんですか工場長、落ち着かないったら﹂
新井主任が、堪りかねたように声を掛けた。
﹁新井さん、大変だよ。森岡君のデザインした菓子箱が、コンテス
トのパッケージ部門で入賞したらしいんだ﹂
﹁ええ?﹂
彩子も新井も、工場長と並んでそわそわしている森岡に注目した。
森岡は二年前に中途採用された社員で、以前はデザインスクール
で講師をやっていた。不況のあおりでスクールが潰れ、転職したと
いう。
﹁コンテストって、例の、和菓子メーカー主催の⋮⋮﹂
彩子は驚いた。この会社から入賞者が出たのは初めてだ。
﹁へえ、そうなんだ。でも、入賞したらしいと言うのは?﹂
新井が言いかけると電話が鳴った。
﹁ああっ、その電話だ!﹂
工場長が大袈裟に叫ぶので、新井は訝しそうにして受話器を取っ
100
た。
﹁はい、木下パックです⋮⋮はい⋮⋮まあ、ありがとうございます。
わかりました。はい、よろしくお願い申し上げます﹂
丁寧に受け答えする新井を、工場長と森岡、そして集まってきた
社員が固唾を呑んで見守っている。
﹁コンテストの事務局から、正式に入賞が決まったって電話よ。箱
部門の最優秀賞だって﹂
新井の報告する声は震えていた。コンテストを主催する会社は有
名銘菓を数多く持つ老舗の和菓子メーカーだ。最優秀賞に選ばれた
デザインは新製品のパッケージに採用される。
また、全国のメーカーから注目されるコンテストでもある。
﹁正月から縁起がいいじゃないか。やったなあ!﹂
田山課長がぽんと手を叩くと、一同は緊張の面持ちになる。
﹁注文が来るぞ﹂
工場長が真顔で言うと、皆、直立不動で顔を引き締めた。
夜、会社での出来事を思い出していると、手にしていた携帯電話
が鳴った。
原田からだった。こちらから電話をしようと思っていたところな
ので、すぐに出ることができた。
﹁こんばんは!﹂
﹃おっ、こんばんは⋮⋮﹄
素早い応答に、原田は驚いたようだ。
﹁あ、びっくりしましたか﹂
彩子は少しおどけて言った。
﹃そりゃもう﹄
驚きながらも、嬉しそうな声だ。彩子はそれだけで、ドキドキし
ている。
101
﹃ところで、約束していた土曜日ですが、空手の寒稽古があったの
をすっかり忘れていました。勝手言って申し訳ない。これだけはど
うしても参加したいんで⋮⋮﹄
﹁えっ﹂
ということは、約束はキャンセル?
彩子は落胆しかけたが、
﹃日曜日に会いませんか﹄
続く原田の言葉に、たちまち浮上した。
﹁寒稽古というと、ニュースでよく見る、海や川に入って稽古する
行事ですか﹂
﹃そうです。本部も支部も集まってやります。壮観ですよ﹄
原田の声が生き生きとしてきた。彩子は急に興味が湧いてきて、
思わぬことを口にした。
﹁私も見に行っていいですか﹂
﹃へえ、見てみたいですか﹄
原田は感心したように言うが、ちょっと心配そうでもある。
﹃しかし、河原はかなり寒いですよ。大丈夫かなあ﹄
﹁平気です。だって、あの⋮⋮平気ですから﹂
それに、原田さんに会えるし︱︱と、本当は続けたかったが、さ
すがにそこまで言えない。
﹃じゃあ、土曜日の朝8時に迎えに行きます。場所は宮野川の河原
ですが、ほんと寒いですから、しっかり着込んで下さい﹄
﹁わかりました。楽しみです、原田さんの空手着姿﹂
﹃空手着? 脱いじゃいますよ、その日は﹄
﹁え⋮⋮ええっ?﹂
びっくりして、携帯を取り落としそうになる。彩子の動揺を察し
102
たのか、原田が慌てて付け加えた。
﹃いやいや、まさか全部じゃないですよ。上だけ脱いで稽古します﹄
﹁そ、そうなんですか。よかった、安心しました﹂
﹃⋮⋮﹄
電話の向こうで、笑いを堪える気配が感じられる。
彩子は耳まで真っ赤になった。
一体、何てことを想像してしまったのか。
﹃ふふ⋮⋮それじゃ彩子さん、また会いましょう。おやすみ﹄
﹁おやすみなさい﹂
電話を切ると、耳朶に残る彼の声をあらためて感じる。優しく、
男らしく、温かな響き。
﹁おやすみ、か。うふふ﹂
ふと、今頃になって気がつく。
アクセサリー工房﹃コレー﹄のオーナーに会ったことを話し忘れ
てしまった。
とはいえ、どう伝えたらいいのか、そもそも話す必要があること
なのか判断がつかない。原田の、あの苦しげな微笑を思い出すと、
余計なことのようにも思えるのだ。
︵またでいいか⋮⋮︶
彩子はベッドに入ると、寒稽古のこと、原田に会えることを楽し
みにして眠りについた。
103
1
土曜日の朝。今日、彩子は空手の寒稽古を見学する。
父は早朝から釣りに出かけ、母は町内の行事で不在。弟は仕事が
休みなのでまだ寝ている。
一人そわそわして待っていると、8時ちょうどに原田が迎えに来
た。
﹁おはようございます﹂
彩子が表に出ると、原田は明るく挨拶をして、着ているジャケッ
トの前を開いて見せた。
﹁いかがです、彩子さん。リクエストにお応えして、空手着ですよ﹂
なるほどジャケットの下は空手着だ。
原田は随分嬉しそうだ。さては、この前の電話にまだウケている
なと彩子は気が付き、横目で睨んだ。
﹁原田さんって、あんがい意地悪なんですね﹂
﹁アッハハ⋮⋮それで、どうです。ご感想は﹂
﹁えっ﹂
正直、彩子は感動している。これほど似合っているとは思わなか
った。
それに、裸に直接着ているので、意外にも逞しい胸板が覗かれて
困ってしまう。でも、それを悟られるとまたからかわれそうで、
﹁やっぱり黒帯だったのですね﹂
と、別のことを言ってごまかした。
﹁そりゃ10年もやってますから⋮⋮﹂
﹁押忍!﹂
﹁おはようございまっス﹂
104
突然、雷のような大声が聞こえて彩子はビクッとする。
声のした方を見ると、総髪で背がやたらと高い男と、短髪で背は
低めだががっしりとした体格の男が、原田の車の前に立っていた。
﹁お前達、車の中にいろと言っただろう﹂
彼らもジャケットの下に空手着を着ている。昨夜、道場の人と乗
り合わせて行くと連絡があったが、雰囲気からすると原田の後輩か
もしれない。
﹁そう言えば家の人達は?﹂
原田は彩子に向き直って訊いた。
﹁今日は両親は留守で、弟はまだ寝てます﹂
﹁そうか。じゃ、また帰りに挨拶しよう﹂
そう言うと後輩達の方に歩み寄った。
﹁そんな大声ではた迷惑だろ。さあ、乗った乗った﹂
原田は二人の腰の辺りをバシッと叩いて車に押し込む。荒っぽい
扱いだが、彩子の目には新鮮に映った。
﹁道場の後輩です。大学からの付き合いで⋮⋮すごいでしょう﹂
原田はすまなそうに言うが、今日は彼の違う一面を見る事が出来
そうだと、彩子は嬉しくなった。
彩子が助手席に乗り、後輩達が後部席に乗り込んだ。
同乗者がこんなにも猛者であったとは。彩子は初めて見るタイプ
の男達だと思った。
﹁30分ほどで着きます﹂
原田はそう言うとアクセルを踏み込んだ。
今日は晴れてはいるが、気温が低い。河原はなおさら寒いだろう
と予測し、彩子は何枚も重ね着をしている。それなのに、原田や後
輩らは空手着にジャケットを羽織っただけである。
105
三人とも全く平気そうな顔をしているので、彩子は自分がかなり
軟弱な人間に思えてきた。
﹁あの!﹂
突然、後部席から声が飛んだ。
きむら よういちろう
彩子はまたもやビクッと震え、振り返ると、それは総髪の青年だ
った。
﹁俺⋮⋮いや僕は木村陽一郎といいます。原田先輩とは2コ違いの
ひらたかおる
大学の後輩です﹂
﹁俺は平田薫です。同じくです!﹂
短髪の青年が横から続けた。
﹃かおる﹄という名前を聞いて彩子は動揺した。こんないかつい男
性が、女性のような名前とは。
﹁笑っていいですよ彩子さん。平田は気にするような小さな男では
ありませんから﹂
﹁押忍、恐縮です!﹂
原田の言葉に、平田青年は嬉しそうである。木村青年も隣でニコ
ニコしている。
﹁私は山辺彩子といいます。年齢は、えっと、木村さん達よりひと
つ下になりますね﹂
彩子も自己紹介をした。
﹁あ、25歳ですか﹂
木村は意外そうな顔をする。
﹁はい。2月に25歳になります﹂
﹁へえ、彩子さんは2月生まれですか﹂
そう言う原田は8月生まれだ。彩子は釣書に書いてあったのを思
い出す。
後輩達はまだ何か聞きたそうにしたが、原田に遠慮したのか、あ
106
とはシートにもたれていた。
20分ほど走ると、宮野川の堤防に出た。
﹁風はなさそうだな。よかった﹂
原田は晴々とした河川の風景を眩しそうに眺めた。
﹁あの! すみません、彩子さん﹂
また急に木村が彩子に話し掛けた。
﹁はい﹂
彩子は今度は驚かず、後ろを向いて応えた。木村は真顔で、なぜ
かもじもじとしている。
﹁なんでしょうか﹂
﹁すみません、僕ら、お邪魔してしまって﹂
﹁⋮⋮え?﹂
ぽかんとする彩子に、平田が野太い声で言った。
﹁二人きりの方が、良かったですよねえ!﹂
ようやくわかった。原田と二人きりのほうが、ということだ。
彩子は慌てて、しどろもどろになった。
﹁そんなこと⋮⋮大勢の方が楽しいですし、大丈夫ですよ﹂
﹁俺は二人きりの方が良かった﹂
﹁!?﹂
ふいに原田が口を出し、彩子は飛び上がるほど驚いた。しかし原
田は当たり前の顔をして、落ち着いた様子で運転している。
﹁やっぱりそうッスよね!﹂
﹁先輩サイコーッス!﹂
彩子は何となく居心地が悪くなってきた。わけが分からない。
しかし、もしかしたらと推測する。これは多分、男同士の世界な
のだ。この二人が原田のことをとても慕っているのはわかる。
107
︵今日の原田さんは、なんだか違う︶
彩子は困惑しながらもドキドキする胸を押さえた。
﹁彩子さん、もうすぐですよ﹂
原田は彩子の気持ちを知ってか知らずか、寒稽古の会場に到着す
ることを教えた。
いつもの穏やかな微笑みが、横顔に浮かんでいる。
彩子は確かに今、二人きりになりたいと思った。
寒稽古は宮野川の河原で行われる。
川の水温は2、3度と聞いて、稽古の参加者も見学者も震え上が
った。
集まった練習生は150名ほど。それぞれ支部ごとにストレッチ
をしたり、型らしき動きをしたり、寒さに負けないよう準備をして
いる。
﹁では自由に見学していて下さい。この辺なら日当たりもいいし、
大丈夫でしょう﹂
原田は会場に着くと彩子に言い置き、後輩二人とともに走って行
った。
﹁いよいよ始まりますね﹂
彩子の隣で見学している女性が声を掛けた。彼女は少年部の保護
者だと言った。
﹁基本、移動、型、それが終わると川に入るのよね∼。風邪引かな
きゃいいけど﹂
﹁基本、移動、型⋮⋮ですか?﹂
彩子が聞き返すと、女性は﹁おや﹂という顔をした。
﹁練習生のご家族では?﹂
108
﹁あの、知り合いが参加していて、初めて見学に来たんです﹂
﹁そうなんだ∼。あのね、基本って言うのは⋮⋮﹂
女性は親切に、稽古のあらましを教えてくれた。
﹁要するに、師範と、指導員と、一般部の人達が最後に川に入るの
ね。あと、男は子供から老人までみんな上半身裸になって稽古する
の。うふふっ﹂
女性は彩子の肩をぽんぽん叩くと嬉しそうに笑った。
﹁若い子に何教えてんのよ﹂
母親仲間が横から口を出すと、近くにいた他の母親達もどっと笑
った。
彩子はどういう顔をすれば良いのか分からず、困ってしまった。
﹁男性は上を脱いで、女性はTシャツになって下さい!﹂
指示が飛ぶと、母親達の元に子供らが次々と駆け寄ってきて、空
手着を預けていく。
彩子はそれを微笑ましく見守っていたが、ふと河原の方に目をむ
け、原田を見つけると硬直した。
彼は痩身ではなかった。極端に着痩せするタイプの人が居るが、
まさにそうだったのかもしれない。
均整がとれた筋肉質の身体には、適度な厚みがある。きつい打撃
にも耐え得るように鍛え上げてあるのだろう。腰周りも逞しく、し
っかりしている。
穏やかで優しい原田のイメージとは真反対の、猛々しさすら感じ
られる肉体だった。
﹁⋮⋮﹂
彩子は言葉もなく、ひとりで動揺する。
だけど、上気した頬を両手で押さえると、うっとりとした眼差し
で彼の身体に見とれた。
109
水辺に近い側に、黒帯を締めた人達が一列に並んだ。先ほどの母
親が、彼らは各道場の指導員だと教えてくれた。
﹁せいれーつ!﹂
鉢巻をした大柄な男性が声を張り上げると、散らばっていた練習
生がザーッと集まり、整列した。川に背を向けた指導員と向き合い、
高段位の者から順に並んでいるらしい。
原田と後輩二人は前列に揃っている。
支部長の挨拶が終わると、基本から順番に寒稽古が始まった。
彩子にとって初めて見る空手の稽古は新鮮で、迫力の光景はまさ
に壮観だった。
また、空手の型が何とも言えず美しい。彩子は﹁武は舞に通ず﹂
と表現されるのは本当だと思った。
基本、移動、型が終わると、指導員と一般部の大人達から順に川
に入って行く。
大人は腰の辺りまで、お年寄りや小さな子供は足首くらいまで水
に浸かり、冷たさに耐える。見ているだけで、心身が引き締まる思
いだった。
気合とともに正拳突きを100本決めると太鼓が鳴り、寒稽古は
無事終了した。
彩子は原田の清々しい笑顔を見つめ、たくさんの拍手を送った。
河原に設営されたテントで着替えた原田が、彩子のもとに走って
来た。
﹁彩子さん! これからぜんざいが振舞われます。行きましょう﹂
バーベキューの設備がある広場で、大鍋にぜんざいが用意された
らしい。
﹁当番の支部が早朝から準備しています。毎年恒例ですよ﹂
110
﹁そうなんですか。私もいただいてしまって、大丈夫ですか﹂
﹁もちろん! 彩子さんは俺の⋮⋮﹂
原田は言いかけて、頭を掻いた。うまい言葉が見つからないらし
い。
﹁うふふ⋮⋮﹂
﹁ひどいな﹂
彩子の反応に原田は困った顔をするが、気分は悪くなさそうだ。
﹁久しぶりにしっかり基本稽古が出来た﹂
﹁他にはどんな稽古をするんですか?﹂
﹁まだ組手がある。あと、技のコンビネーションの練習も、ミット
打ちも﹂
原田は目を輝かせた。本当に空手が好きなんだなと、彩子には羨
ましいくらいに映る。
﹁そう言えば、川の水は冷たかったでしょう。寒くないですか?﹂
原田はTシャツにトレーニングウェアの上下という薄着だ。
﹁いや、大丈夫ですよ﹂
﹁すごい、寒さに強いんですね。あ、そういえば平田さん達はどこ
に?﹂
彩子は平田と木村の姿が無いのに気がついた。
﹁先に食ってますよ。真っ先に走って行きましたから﹂
﹁えっ、そうなんですか﹂
二人の様子が目に浮かび、彩子は楽しくなって笑った。
彩子達はぜんざいを一杯ずついただくと、車に戻った。
その途中、いかつい顔をした男達に原田が呼び止められ、何か話
していた。
﹁部長と師範、何だったんですか﹂
車に乗り込むと、平田と木村が声を掛けた。
111
﹁いつもの話ですか。師範代の講習会とか﹂
﹁ああ﹂
﹁出てみたらいいじゃないですか﹂
木村が身を乗り出して言い、平田もうんうんと頷いている。
﹁俺は稽古量の点で無資格なんだよ﹂
原田はエンジンをかけた。
﹁それでも勧められてるんでしょう。稽古量を補う方法はあるんで
すよ﹂
﹁挑戦してほしいッス。原田さんなら師範になってもおかしくない
のに﹂
二人の後輩は声を揃えた。
﹁まともに務められない免状はいらないの﹂
平田と木村は顔を見合わせると、肩をすくめた。
彩子は黙ってそのやり取りを見ていた。原田の横顔は頑なだった。
カーラジオから午後1時の時報が聞こえると、彩子は後ろの二人
に振り向いた。
﹁皆さん、お腹すきませんか﹂
﹁えっ、そりゃ空いてますよ﹂
木村が腹をさすりながら答える。
﹁ぜんざい一杯なんて腹の足しにもなりませんから﹂
平田も同じくだ。
彩子はそれを聞くと、原田に提案した。
﹁この先においしいトンカツ屋さんがあるんです。寄りませんか﹂
﹁トンカツ!﹂
﹁う∼、食いたい!﹂
後輩達は提案に大賛成し、よだれを垂らさんばかりだ。
112
﹁いいですね。でも彩子さん、時間のほうは大丈夫ですか﹂
﹁今日は一日空いてます。行きましょう﹂
原田ともう少し一緒にいたいというのが彩子の本音だ。
また、平田と木村という好ましい青年二人に、美味しいものを食
べてもらいたかった。
﹁もう少し行くと、左手に﹃トンカツのやまだ﹄という看板が見え
てきます。そこで食事しましょう﹂
その店は高校時代のソフトボール部の仲間、山田まりの両親が経
営している。
まりもいるかもしれないと、彩子は期待した。
113
2
﹃トンカツのやまだ﹄は、地域の人気を集めるトンカツ専門店であ
る。創業して30年以上になるが、この頃はインターネットのグル
メサイトで紹介されることが多く、新規の客も集まっているという。
﹁あっこの店、俺知ってますよ﹂
木村が口髭をなでながら彩子に言った。
﹁えっそうなんですか﹂
﹁ええ、俺リピーターッスよ。大好きなんですよね∼ここのトンカ
ツ。ジューシーで、他の店と何かが違うんだ﹂
﹁へえ、木村がそんなにトンカツ通だとは知らなかったな﹂
原田が店のドアを開けながら言うと、木村は妙な笑い方をして、
口ごもった。
﹁いらっしゃいませ!﹂
店に入ると元気のいい声が掛かり、すぐに八人がけのテーブルに
案内された。
﹁木村のケツがでかいから∼、広いお席にご案内だ﹂
平田が歌いながら腰掛ける。彼の方がよほど大きな尻をしている
ので、皆笑った。
﹁原田さん、今日は任せてください﹂
彩子が隣に座った原田にそっと耳打ちする。
﹁ここ、友達の両親のお店で、以前食事券をもらったんです。四人
分じゅうぶんありますから、遠慮しないで下さいね﹂
﹁そう⋮⋮じゃ、ご馳走になるかな﹂
原田は少し戸惑ったように、横を向いた。顔を近付けすぎたこと
に彩子は気付き、赤くなった。
114
﹁そういや、ここで可愛い娘が働いてるんだよな。今日はいるかな﹂
木村が独り言のように呟いた。
﹁だからしょっちゅう来てるのか。不純な奴だ﹂
平田がメニューをパラパラめくりながら、けしからんという顔を
した。
︵可愛い娘? ⋮⋮って、もしかして︶
﹁彩子お∼﹂
聞き覚えのある声に顔を上げると、店のエプロンをつけた山田ま
りが立っていた。
﹁あっ!﹂
彩子と木村は同時に叫んだ。
﹁今日はどうしたのお∼。あ、もしかしてこの方が﹂
まりは彩子の隣に座る原田を見て、納得の表情になった。
﹁原田さんですか? 彩子から聞いています。私、この子の高校時
代の部活友達で、山田まりといいます∼﹂
まりは満面の笑みで、好奇心いっぱいの目をキラキラとさせてい
る。原田は立ち上がり、木村と平田のことも促した。
﹁はじめまして、山田さん。原田良樹といいます。こっちは大学時
代の後輩で木村と平田です﹂
﹁あ、よろしくお願いしまッス﹂
﹁恐縮です﹂
後輩二人も頭を下げた。
﹁まあ、礼儀正しいんですね!﹂
まりは感激の声を上げた。彩子には、彼女がかなり興奮している
のがわかる。とりあえず、ここに来た経緯を話すことにする。
﹁今日は空手の寒稽古っていう行事に行って来たの。私も見学させ
115
てもらって﹂
﹁あ、だから皆さんスポーツウエアなんですね。ふうん、なるほど
∼﹂
﹁まりはアルバイト?﹂
﹁そう、お母さんに頼まれちゃって。最近忙しいからしょっちゅう
よ。まあ、暇だからいいけどネ。あ、仕事しなきゃ。ご注文は?﹂
彩子とまりのやりとりを、木村はじっと見守っている。
原田と平田は、このまりという娘が木村のお気に入りだと、すぐ
に察することができた。
木村の目つきは熱を持ったように、ぼーっとしている。
﹁そうだ彩子、訊きたいことがあったんだ。ちょっといい?﹂
注文を確認した後、まりは彩子を厨房横の控室に引っ張って行っ
た。
手首をつかまれた彩子はされるがまま。その勢いから何を訊かれ
るのか、大体想像がつくのだった。
厨房に注文を伝えた後、まりはいきなり彩子に肘鉄した。
﹁いたっ﹂
﹁何よ、カッコいい人じゃない。ズル∼イ!﹂
﹁ええ?﹂
﹁もっとアレな人かと思ってたのに。スポーツマンで、イケメンだ
なんて∼﹂
アレとはどういう意味だろうと気になったが、まりの鼻息は荒く、
彩子は逆らわないことにした。
﹁彩子の好みにピッタリって感じ﹂
﹁あはは⋮⋮﹂
﹁今度、話をじっくり聞かせてもらうからねっ﹂
116
彩子の尻をメニューで叩くと、まりは﹁ごゆっくり﹂と笑顔にな
り、厨房へ入っていった。
尻を擦りつつ彩子も微笑み、原田達の待つ席に戻った。
﹁彩子さんのお友達だったんですか、あの子﹂
席に戻ると、いきなり木村が彩子に詰め寄ってきた。
﹁おい、よせよみっともない﹂
平田が木村の上着を掴んで、椅子に引き戻す。
﹁可愛い子が働いてるって、まりのことだったのね﹂
彩子は木村の額に汗が光っているのを見とめ、冷やかしでない気
持ちだと感じた。
﹁ええ⋮⋮本当に、偶然ッス﹂
木村という青年は、よく見ると顔立ちもいいし、性格も優しそう
だ。まりに合うのではないかと彩子は思った。それに、まりの好き
な年上だ。実際は一つ年上なだけだが、背が高くて大柄なためか、
3、4歳ほど上に見える。
彩子の考えを察してか、平田が顔をしかめて忠告した。
﹁彩子さん、紹介するのはよして下さいよ。こいつ、振られるのが
オチです﹂
﹁え、どうして﹂
﹁朴念仁ですから、飽きられます﹂
﹁酷いこと言うなよ、平田﹂
原田が横から口を出した。木村もむきになって反発する。
﹁そうだよ。朴念仁ってどういう意味だよ﹂
﹁無愛想で頑固ってことだ﹂
平田は決め付けたが、それを言うなら彼の方こそあてはまりそう
だ。原田と木村は、呆れ顔になった。
117
﹁お待たせしました∼﹂
まりがワゴンに料理を乗せて運んで来た。木村は気の毒なくらい
真っ赤になっている。
﹁あらっ、そういえば、いつも来て下さるお客さんですよね。えっ
と、木村さん?﹂
不意にまりが声をかけ、木村は打たれたように顔を上げる。
﹁はいっ。会社がこの近くにあるんで。日曜出勤の時はあの⋮⋮た
いていここに来ています﹂
たどたどしく答えた。
﹁わあ、ありがとうございます∼。これからもぜひ、ご贔屓にお願
いしますね﹂
まりは嬉しそうに言うと、会釈をして戻っていった。
木村は完全に恋に落ちた目をしている。
人が恋に落ちた瞬間を、彩子は初めて目の当たりにした。
そして、隣の原田をちらりと見やる。
︵私にもきっと、その瞬間があった。はっきりとは、気付かなかっ
たけど︶
自らの心と重ね合わせ、木村の恋が成就することを願った。
﹁あっ、そうだ。ちょっと電話してきます﹂
食後のコーヒーを飲んでいると、原田が思いついたように席を立
った。
﹁どうしたのかな、急に﹂
平田が原田の背中を見送り怪訝な顔をすると、木村が﹁仕事じゃ
ないの。忙しい部署みたいだから﹂と、推測する。彩子も、そうか
もしれないと思った。
﹁しかし、原田さんっていいよな﹂
118
木村はカップを置くと、つくづくと言った。
﹁ああ、大学の時から変わらず、俺達と接してくれるよな﹂
平田も頷く。二人の嬉しそうな様子に、彩子は大学時代の原田に
ついて訊いてみたくなった。
﹁原田さんって、どんな先輩でしたか。空手は強いんですか﹂
平田と木村は顔を見合わせる。
﹁強いって言うか、怖いよ⋮⋮な﹂
﹁そうそう﹂
﹁怖い?﹂
彩子には意外な答えだった。
﹁聞きたいッスか﹂
﹁もちろんです。あの原田さんが怖いって、どういうことですか?﹂
不思議そうな彩子に、木村はさもありなんと頷き、話し始めた。
﹁俺達は二人とも、入学してすぐ空手部に入ったんです。高校時代
から大会で好成績を収めていたし、結構自信があったんですよ。バ
リバリの猛者で、ガタイも先輩達よりよかったし⋮⋮要するに、調
子こいてたわけです﹂
確かに木村は背が高いし、平田もがっしりしている。二人とも見
かけだけでなく実際に強いのだろう。
﹁で、稽古で組手をやるんスけど、毎日毎日先輩方を叩きのめして、
最初から無敵状態。本当に天狗になってましたねえ﹂
平田はその頃を思い出してか、複雑な表情をした。
﹁そんな俺達だから、怖いものなしです。それで、1年の夏合宿の
時です。俺と平田とで稽古を抜け出しては遊びまくってたんですよ。
全国に出るには俺達が絶対に必要だから、お咎め無しだとたかをく
くって﹂
木村は鼻の横を掻きながら、ばつが悪そうにした。
119
﹁あっ、遊びと言っても変なことしてたわけじゃないですよ﹂
彩子が変なことを想像したと思いこんだのか、木村は大きな声で
言い繕い、なぜか赤くなる。
﹁大丈夫ですよ。わかっています﹂
純情な仕草に、彩子はついクスクスと笑った。
今度は平田が続けた。
﹁ところが、合宿の最終日に特練をやるって言われたんです﹂
﹁とくれん?﹂
﹁特別練習です。つまり制裁のようなもんだと思いました﹂
﹁制裁!﹂
穏やかでなくなってきた。彩子は少し緊張する。
﹁でも俺達はビビらなかった。めいっぱい暴れてやるって、かえっ
て燃えたもんですよ﹂
平田は拳を作ると、片方の手でバシッと打った。当時の負けん気
が表れている。
﹁ところが道場に行ってみると、3年の原田先輩が一人だけです。
ぽかんとする俺達に、﹃よお、来たな﹄とか言って、水を汲んだバ
ケツを足元に置いてる﹂
彩子はその様子が目に浮かんだ。原田はきっと、穏やかに微笑ん
でいただろう。
﹁はっきり言って、舐められたと思いました。だって、先輩は今よ
り体が細かったし、非力に見えましたもん﹂
木村がそう言うと、平田もうんうんと頷いてみせる。
﹁後輩を怒鳴ったり張ったりするのも見たことが無いし、目立たん
人だったから﹂
﹁では、原田さんは実際、あまり強くなかったんですか﹂
すると、彼らはいきなり厳しい目つきになり、
120
﹁騙されました、俺達。あの人、組手の時に全然攻撃してこないん
です。全部受けてばっかりで。だから、防御するのが精一杯の人だ
と、油断したんです﹂
彩子は固唾を呑んだ。
さば
﹁俺達の攻撃パターンというか、技のキレとか軌道とかを読んでた
んです。捌こうと思えば捌けるものを、わざわざ身体で受けてです
よ﹂
平田の鼻息は荒くなり、目も血走っている。
﹁それで、どうなったんですか﹂
彩子はその後が気になり、続きを促した。
﹁原田さんが、﹃これから一人ずつ順番に三本やる。その内一本取
るまで稽古をやめない﹄って言うんです﹂
﹁3回のうち、1回勝てってことです﹂
木村が注釈を入れた。
﹁俺、﹃一本でいいんですか﹄って訊いちゃいました。生意気です
よね。でも、原田さんは怒りもせず、﹃いいよ﹄って、笑ってるん
です。もちろん三本取ってやるつもりで、ガーって突っ込みました。
そしたら、全部かわされちまう﹂
平田は口を尖らせて言い、木村も身振り手振りで説明する。
﹁突きも蹴りも見事にね、その上絶妙のタイミングで押っつけて来
る。こっちの動きが一瞬止まった隙だらけの所にバシバシ極められ
て⋮⋮﹂
彩子は空手の組手を知らないので何ともいえないが、それはかな
り高度なテクニックを要するのではと想像した。
﹁一発一発が骨身にしみるんです。特にあの下段⋮⋮なあ﹂
木村は平田を肘で突いて同意を求める。
﹁そうそう、足があっという間にガタガタになったよ。それで俺達
121
とうとう一本も取れないまま床にのびちゃった。最後に、汲んであ
ったバケツの水を思いっきりぶっかけられて⋮⋮﹂
﹁俺達は立ち上がることもできず、そしたら原田さんが﹃これで終
わり!﹄って、振り向きもせず、さっさと出て行ってしまいました﹂
平田はありありと思い出してきたのか、悔しそうに拳を握り締め
た。
﹁そうだったんですか。それは⋮⋮﹂
﹁ええ、すごいショックでしたよ。舐め切ってた先輩に徹底的にや
られて、のびちまったんだから⋮⋮だから俺達、原田さんにあんな
ことされて⋮⋮あんなことされてっ﹂
それはさぞ悔しかったろうと、彩子は思った。が︱︱
﹁惚れちゃいました! 原田先輩に﹂
二人はニコニコ顔である。
彩子は目をぱちくりとさせた。
不可解な心理だが、二人の嬉しそうな笑顔を見ていると、男の世
界ってそういうものなんだと、納得できるような気もするのだった。
122
3
二人の話を聞いてしばらくすると、原田が戻って来た。
﹁お待たせしました。会社に電話したらトラブってたみたいで⋮⋮﹂
三人が一斉に注目するので、原田は変な顔をした。
﹁何です。どうかしたんですか﹂
彩子はいたずらっぽく笑うと、
﹁お二人が原田さんに惚れてるという話をしていました﹂
﹁はあ? 何だ、お前ら何の話をしたんだ﹂
﹁いい話です﹂
﹁そうです。感動的な、いい話です﹂
木村と平田も調子を合わせた。
原田はわけがわからんといった仕草をして彩子と目を合わせる。
そんな彼がちょっぴりかわいく思えて、彩子は照れ笑いした。
﹁ごちそうさんでしたあ!﹂
駐車場で平田達に大声で礼を言われ、彩子は恐縮した。
﹁いえ、もともと貰った食事券ですから。そんな、気にしないで下
さい。誘ったのは私ですし﹂
﹁ご馳走様でした、彩子さん﹂
原田まで大げさに頭を下げるので、いたたまれない。
﹁あの、もう帰りましょう﹂
そそくさと車に乗り込んだ。
﹁まず平田達を最寄り駅まで送る。その後で、彩子さんを家まで送
ります﹂
原田は帰りの順路を伝えてから国道に出た。
﹁おお、ようやく彩子さんと二人きりに!﹂
123
﹁やっぱり俺達、邪魔なんですね﹂
平田達が軽口をきくと、原田も﹁そうだ﹂と軽く返す。今度は彩
子も予測した答えだった。
男同士のやり取りに少し慣れたけれど、やっぱりドキドキしてし
まう。
駅前に着くと、木村が彩子に﹁山田さんによろしく﹂と遠慮がち
に伝言を頼み、手を振って別れた。平田もぶっきら棒にだが、﹁ど
うも、彩子さん。また会いましょう﹂とお辞儀をした。
彩子も窓から二人に手を振り返し、さよならの合図をした。
﹁気のいい連中でしょう﹂
原田はロータリーをまわり、再び国道へ出るため、来た道へと戻
った。
﹁はい。二人とも楽しくて⋮⋮私、好きです﹂
﹁へえ、好きですか! 彩子さんもなかなか剛の者ですね﹂
原田は感心したように言った。
そして、しばし間を置いてから、前を向いたまま何気ない感じで
彩子に問う。
﹁では、俺はどうです。好きですか﹂
彩子は一瞬、軽口かと思った。だけど、軽々しく返せる事ではな
い。原田のことを、ちょっぴり憎らしくなる。
﹁原田さんはどうです。私の事、好きですか﹂
﹁うっ⋮⋮﹂
原田は絶句した。思わぬ返し技をくらったというふうに、前髪を
かき上げた。
﹁参ったな。一本取られた﹂
﹁私の勝ちですね﹂
彩子は平田達の話を思い出し、ウフフと笑う。
124
原田は肩をすくめたが、まんざらでもない笑みを浮かべている。
﹁ところで、さっきは会社の他に、親にも電話したんです。明日の
日曜日、俺の実家に君を連れて行きたいと思って﹂
﹁えっ、原田さんのお家にですか﹂
﹁うん、彩子さんの都合さえよければ⋮⋮ですが﹂
彩子はびっくりした。しかし驚く事ではない。そもそも原田と彩
子の付き合いは、両家の親公認のものだからだ。
﹁親父もお袋も彩子さんに是非会わせてくれと言ってる。会っても
らえますか﹂
﹁は、はい。もちろん。えっと、明日ですね。大丈夫です﹂
原田と会うのとはまた別の緊張感が生じた。
それにしても急な話である。原田は意外に強引なところがあると、
彩子は戸惑いながら感じていた。
山辺家に帰り着き、原田が彩子の両親にその事を話すと、二人と
もやけに恭しい態度でわかりましたと返事をした。そして夜遅くま
で、彩子の母はあれを着て行け、あれを持って行けと大騒ぎだ。
昼間出掛けた疲れもあり、彩子は半分夢の中にいる状態でそれを
聞いていた。
◇ ◇ ◇
﹁では、行って来ます﹂
翌日の朝、彩子は母に見送られて玄関を出た。
今日は原田の両親に初めて会うのだ。
﹁ああ、どうしよう﹂
行く前から疲れた声が出る。
125
相手の家族に対して異様に神経を使う母が、着るものや持ち物に
ついて、今朝もうるさく指導してきた。そのための疲れである。
シルクシフォンのブラウスにツイードのスーツ。いつもパンツス
タイルなので、スカートの膝辺りが心もとない気がする。
﹁何だか窮屈だなあ﹂
彩子はむずむずして、我ながら似合わない格好だと思った。
アクセサリーは服装に合わせて真珠のネックレスを選んだ。緊張
する場面でいつも身に着ける蛍石のチョーカーはバッグに忍ばせて
ある。
先に車で待っていた真二に﹁よろしくお願いします﹂と声を掛け
て乗り込んだ。
いつもより女らしい装いの姉を、彼は珍しいようにしげしげと眺
め回した。今日はメイクもきちんとして、年相応の彩りを添えてい
る。
﹁いつもそうしてりゃいいのに﹂
真二はそっけなく言うと、車を出した。
原田とは両家の中間にあたる位置で待ち合わせている。
その場所が近付くにつれ、彩子はどうしてかとても恥ずかしい気
持ちになってきた。今日は何かの理由で予定変更になるといい。い
っそ帰ってしまいたいとすら思う。
﹁原田さん、もう来てるよ﹂
真二の声に顔を上げると、スポーツ用品店の駐車場で、原田が車
にもたれた格好で待っていた。彼はスーツではなく、ジャケットに
パンツという軽装だ。
彩子は少しだけホッとした。
真二は原田の横に車を停めた。
126
彩子は土産の入った袋とバッグを手に、ぎこちない動作でゆっく
りと降りる。
原田は彩子の姿を見ると、あれっという顔をした。
﹁今日は少し違うでしょう﹂
﹁そうですね。誰かと思いました﹂
真二が愉快そうに声をかけると、原田はとぼけた調子で応えた。
だが、眩そうに全身を捉える視線はまっすぐで、彩子はいたたま
れなくなる。
﹁もうっ﹂
からかった真二を、怒ったように小突いた。
﹁では原田さん、今日は姉をよろしくお願いします﹂
﹁わかりました。帰りは僕が家まで送り届けますので﹂
真二は頷くと車に乗り込み、すぐにエンジンをかけた。
﹁ありがとう、真二﹂
彩子が慌てて窓越しに言うと、片手を上げて合図をし、あっとい
う間に走り去ってしまった。
﹁いいですね、兄弟って﹂
原田は真二が去った方向をしばらく見やり、彩子に振り返る。
﹁さて、行きますか﹂
助手席のドアを開けて、彩子にどうぞと乗車をすすめた。
﹁あっ、ありがとう﹂
﹁今日は特別サービスです﹂
原田のちょっとおどけた言い方に、彩子もようやく笑顔になった。
住宅街から少し離れた場所に原田家はあった。
車から降りて周りを見渡すと、畑があり、林があり、その間に民
家が点在しているような、のどかな風景が広がっている。
127
山辺家の周囲に環境が似ている事に、彩子は安堵を覚えた。
﹁彩子さん、こっちですよ﹂
原田に手招きされて門をくぐると、石敷きのアプローチがポーチ
まで続いている。一歩一歩慎重に渡ると、玄関に到着。玄関脇には
プランターが並べられ、季節の花々がきれいに咲いている。
家屋の南側に庭があり、北側の塀の向こうは隣家の庭先になって
いるようだ。
﹁そんなに緊張しないで﹂
硬い表情のまま目だけきょろきょろさせる彩子に、原田が声をか
けた。
﹁えっはい⋮⋮あの、がんばります!﹂
試合前の選手のような気合に、彼は可笑しそうに笑った。
だが彩子には笑みを浮かべる余裕もない。今、最高潮に上がって
いる。
彩子はふと、原田が初めて山辺家を訪れた日を思い出す。彼は随
分と落ち着いていたが、本当はかなり緊張したのではないかと想像
できる。結婚を望む相手の両親に対面する。それがいかに大変な行
為なのか、身をもって理解したから。
﹁こんにちはー﹂
玄関の引き戸を開けた原田の声に、奥から﹁はーい﹂と返事が聞
こえてきた。
スリッパの音とともに現れたのは原田の母親だ。
﹁まあまあいらっしゃい、彩子さん。よく来て下さいました。どう
ぞどうぞ、お上がりになって﹂
満面の笑みでの出迎えに、彩子は倒れそうになりながらもぐっと
堪える。
128
﹁こ、こんにちは。本日はどうも、あ、おじゃまいたします﹂
つっかえながら挨拶をしたあと、パンプスを脱ぎ、上がり框に足
をかけた。
本人にしかわからないが、体が小刻みに震えている。
彩子は我ながらみっともないと思うが、どうしようもない。原田
がさり気なく支えてくれたので、なんとか立つことができた。
客間に通されると、彩子は原田の両親に挨拶をし、母に託された
菓子折りを差し出すと、また深々と頭を下げた。緊張のあまりぎこ
ちない動きになるが、原田は微笑ましそうに見守っている。
﹁彩子さん、よく来てくださいました。お会いできるのを家内と楽
しみにしていましたよ。あ、どうぞ楽にしてください﹂
父親の浩光が、労わるように声を掛けた。
﹁ああ、本当に嬉しいわあ。彩子さん、今日はゆっくりしていって
下さいね。ささ、ここに座って座って﹂
挨拶が済むと母親の啓子はくだけた感じになり、彩子の肩を抱い
て座布団に座らせた。
﹁あ、はい。ありがとうございます﹂
啓子の手のぬくもりに、何となく力が抜けた彩子だった。
原田が初めて山辺家を訪れた時と同じく、両親や木綿子伯母の話
をするうちに、段々と和やかな雰囲気となる。リビングに席を移す
頃にはさらに彩子はリラックスし、かえって気を引き締めなくては
と自分に言い聞かせるほどだった。
﹁そうそう、アルバムを見ましょうか彩子さん﹂
啓子が名案というように手を叩いた。
﹁ああ、いいねえ。父さんも久しぶりに見たいな﹂
浩光も同意する。
その提案に原田だけは難色を示したが、あっさりと無視された。
129
﹁あまり小さい頃のはよしてくれよ﹂
いつも落ち着いた原田がそわそわと焦っていて、彩子はつい微笑
んでしまった。
﹁わかったわよ。じゃあ、小学校の高学年くらいからね﹂
啓子は彩子が見やすいようにアルバムを開いた。写真はどれも色
あせて、年月を感じさせる。
野球のユニフォームを着た原田が写っている。くるっとした目の、
なかなか凛々しい野球少年である。
﹁良樹は野球が好きでね、中学も野球部だったのよ﹂
﹁そうなんですか﹂
だから今でも会社のチームに入っているのだなと、彩子は納得す
る。
﹁あっ、かわいいですね﹂
友達と肩を組んでおどける原田の写真を見つけた。今の原田から
は考えられない、ひょうきんな表情だ。
﹁あーもう、やめよう!﹂
﹁駄目駄目。良樹はあっちへ行ってなさい﹂
抵抗する息子に啓子はにべもない。
次は中学時代の写真だ。
なるほど野球の試合と見られる写真が数多くある。ユニフォーム
に﹃IWAMOTO﹄と学校名が入っている。
﹁高校になっても続けると思ったんだがね﹂
浩光が残念そうに呟いた。原田はレギュラーで、試合では活躍し
たらしい。
﹁彩子さんはソフトボール部だったんですってね。木綿子さんから
聞きましたよ﹂
﹁はい、ソフトボールも野球も大好きなスポーツです﹂
130
浩光は生き生きとした顔になり、身を乗り出した。
﹁それはいい。今度、プロ野球を観に行きましょう﹂
嬉しそうにする父親を、原田は肩で押した。
﹁親父、勝手に約束しないように﹂
口を尖らせて注意するので、皆笑った。
131
4
原田のアルバムに高校時代の写真は少なかった。
彩子もそうなのだが、この頃になると写真をあまり撮らなくなる
のかもしれない。
﹁あれ、もう終わりか。大学の時のは⋮⋮﹂
浩光は言いかけたが、急にアルバムを閉じると、サッと立ち上が
った。
﹁おい、そろそろ食事に行こう﹂
﹁そうね、そうしましょう﹂
啓子もソファを立つと、部屋の戸締りを始めた。
どことなく不自然な様子に、彩子は原田のほうを振り向いたが、
車を出しに行ったのか姿が無かった。
車で15分ほどの和風レストランに予約がしてあった。
さきほどの不自然さは移動や何かで取り紛れてしまい、四人は再
び和やかに食事を楽しむこととなった。
食事から戻ると、啓子がコーヒーを淹れると言うので彩子は手伝
おうとした。
﹁いいのいいの。大丈夫よ、ゆっくりしていて。そうだ良樹﹂
手をぱちんと打って、息子に見向く。
﹁あなたの部屋を見てもらったら。昨日めずらしく掃除してたでし
ょう﹂
あからさまな言い方に、原田は苦笑した。
﹁掃除しましたとも。どうぞ、彩子さん﹂
どこの家でも母親には敵わないなと彩子は思い、クスクス笑った。
原田の部屋は2階の東側角とその隣の二間だった。
132
8畳と6畳の続き間になっていて、フローリングカーペットが敷
かれている。6畳の部屋を見ると、今は使われていないベッドがカ
バーをかけられた状態で置いてある。
原田はその6畳間の襖を、何となくという感じで閉めた。
そして南側の窓のカーテンを開けると彩子の方を向き、照れくさ
そうに手を広げた。
﹁まあ、こんな感じです﹂
彩子は本棚を見てみた。
︵原田さんって、どんな本を読むのかな︶
化学や地学関係の本がずらりと並び、文学などの読み物は見当た
らない。この辺は彩子と相違するところだ。スポーツ関係の雑誌は
共通している。
﹁あ、これは?﹂
本棚の隣に大きな棚が設えてあり、そこには何段もの引き出しが
納まっていた。
﹁石ですよ﹂
原田は言うと、一段出して見せた。
﹁あ⋮⋮鉱物の﹂
アクセサリー工房﹃コレー﹄で見せてもらったような、鉱物の標
本だ。一つ一つに採集日・場所などのシールが貼ってある。ごく近
場で採集したものが多いようだ。
﹁全部自分で集めたんですか﹂
彩子が訊くと、原田はもちろんと頷いた。
﹁小学生の頃からの趣味だから、相当なもんでしょう﹂
確かにこれはすごい数である。
﹁今はきれいにしてあるけど、前はもっとひどくて、床なんか砂利
だらけだった﹂
原田はこれでも整理した方だと言い、隅にかけてあるカーテンを
133
開いた。
その一角には作業台が置かれ、引き出しにはルーペや顕微鏡、ふ
るいやスポイトなどが整理されてあった。また、棚には薬品のビン
が並び、壁にはハンマーなどの工具が掛けてある。
﹁本格的ですね﹂
彩子は感心するが、原田は首を横に振る。
﹁う∼ん、まだまだだね。将来は作業所付きの一戸建てを持とうと
計画している所だけど⋮⋮﹂
言いかけて、彩子を見つめた。
﹁駄目ですかね﹂
﹁⋮⋮え﹂
作業所付きの一戸建て︱︱
彼の言わんとするところを理解すると、彩子は頬を染めた。
つまり、それは将来ともに暮らす家のことであり、彼は了解を得
ようとしている。
﹁い、いいと思います⋮⋮はい。あの、いいですよ﹂
汗をかきながら、それでも何とか返事をした。
﹁それはよかった!﹂
原田は嬉しそうに笑った。それは心からの喜びを素直に表す、野
球少年の笑顔だった。
彩子は鉱物の標本や道具を眺めるうちに﹃コレー﹄と、そのオー
ナーをどうしても連想してしまう。
やはり原田は、これら鉱物の関係で彼女と知り合ったのだろう。
工房は女性限定だから、カフェで石の話でもしたのかもしれない。
そういうことがあっても、全然不思議ではない。
でも、彩子は訊くことができない。
134
あの美しい人を思い出すと、どうしても口に出せなかった。
﹁彩子さん﹂
原田の声で我に返った。
﹁はいっ⋮⋮あ﹂
原田はいきなり彩子の手を取ると、白い小さな箱をその中に持た
せた。
彩子は大げさなくらい驚いた。
結婚までしようとする相手に手を取られたくらいで、これほど動
揺するのはおかしい。だけど仕方がない。二人は何年も付き合った
カップルとは異なり、こんな触れ合いは初めてなのだ。
﹁な、何でしょうか?﹂
原田を見上げると、彼はにこりと微笑む。
﹁開けてみて﹂
不思議に思いながらも蓋をそっと開くと、彩子は﹁あっ﹂と声を
上げた。きれいにカッティングされた葡萄色の石が、純白の布地に
納められている。
ゴールドを使い、ペンダントヘッドにデザインされた石はアメシ
スト。
2月の誕生石だ。
﹁少し早いけど、誕生日プレゼント⋮⋮下に行こうか﹂
原田は早口で言うと、先に部屋を出て行ってしまった。
﹁原田さん⋮⋮﹂
思わぬ贈り物に、またもや頭も心もいっぱいになる。
コレーやオーナーの事など、彩子の中からたちまち弾き出されて
しまうのだった。
135
1
1月10日土曜日午後2時30分。
その時、アクセサリー工房﹃コレー﹄の前オーナー甲斐文治は工
房の留守番をしていた。美那子は資材の調達に出かけて不在だった。
会員にアクセサリー加工のアドバイスをするところに、携帯電話
の着信音が割り込んだ。
美那子に持たされている携帯だが、普段はどこからもかかってこ
ない。誰だろうと、首を傾げながら応答する。
﹁もしもし、こちら甲斐ですが﹂
﹃先生、お久しぶりです。原田です﹄
文治はハッとして、顔を上げる。
﹁原田⋮⋮原田良樹君か!﹂
﹃はい﹄
思わず椅子を立っていた。文治らしくもない興奮した様子に、会
員らが不思議そうにしている。
﹁おお、何とまあ久しぶりだ。元気だったかね﹂
﹃はい、おかげ様で。先生もお元気そうで安心しました﹄
﹁ああ、私は相変わらずだよ。いや、本当に久しぶりだなあ﹂
文治は少年の頃から見知っている彼の、すっかり落ち着いた大人
の声に感激した。実際に彼を前にするかのように、一人で何度も頷
く。
﹃先生の年賀状に電話番号が書かれていたのでこちらにかけました
が、今、大丈夫でしょうか﹄
﹁もちろん、いいとも。それより電話をくれて嬉しいよ。君もすっ
かり大人になって﹂
136
﹃とんでもない。まだまだ半人前ですよ﹄
﹁ははは⋮⋮そう思っているのは本人だけだ、私にはわかる。いや
それにしても﹂
文治はそこで一旦言葉を詰まらせる。彼から連絡があったら、ま
ず言わばならぬと決めていた。それを思い出したのだ。
﹁あの時は本当に済まなかった、本当に﹂
﹃もうよして下さい。俺は何とも思っていません﹄
﹁しかし﹂
﹃先生﹄
原田の気性は変わっていない。文治を助けてくれた、それは彼ら
しい男気だ。
﹁わかった。よし、もう言うまい﹂
電話の向こうで、ホッとした気配がある。文治もようやく落ち着
き、椅子に腰を下ろした。
﹁それはそうと、どうして私に電話を?﹂
﹃はい、実は⋮⋮すごく急なお願いで申し訳ないのですが、アクセ
サリーをひとつ作っていただきたいのです﹄
﹁アクセサリー?﹂
文治はピンと来た。原田が少年だった頃の、はにかんだ表情が浮
かんだ。
﹁ほう、そうだったのか。それは素晴らしい。おめでとう、原田君﹂
文治は心から嬉しかった。あれからずっと、心配していたのだ。
﹃いや、まだそんな⋮⋮まあ、いずれお話ししますが﹂
﹁そうかそうか。それで、どんなものをご所望かな﹂
﹃2月の誕生石で、ペンダントヘッドを作ってもらいたいのです﹄
﹁2月というとアメシストだな。いいよ。いつまでに?﹂
﹃明日、彼女に渡したいんです﹄
137
原田少年はせっかちだった。それを踏まえても、文治は驚いてし
まう。
﹁明日! そりゃまた急な話だな﹂
﹃すみません﹄
﹁ああ、いやいや大丈夫。ただし、石も台座も雛形のあるシンプル
なデザインになるが、いいかね﹂
﹃ええ、構いません。甲斐先生の細工なら俺はそれだけで満足です﹄
﹁あっはは⋮⋮高く買ってもらってありがとう﹂
﹃よろしくお願いします﹄
礼儀正しい申し出に微笑みながら、文治はメモを取る用意をした。
﹁それでは、作品のコンセプトを決めたいんで、ひとつだけ訊いて
おきたい。どんなイメージの娘さんかな﹂
﹃そうですね⋮⋮年は25で、その、可愛い人です。純粋で、まだ
少女みたいなところがある女性で﹂
﹁ほう、それじゃあ君と同じだな﹂
﹃えっ?﹄
﹁君も少年のようなところが残っとる﹂
﹃俺が⋮⋮そうですか? でも今、大人になったって言われたばか
りなのに﹄
﹁ああ、大人になった。でもこうして話していると、やっぱり君は
純粋だ。変わらなくていい、そこが君の素晴らしいところだ﹂
﹃は、はい。ありがとうございます﹄
可愛い・純粋・25歳︱︱
文治はメモ用紙に走り書きして、ポケットにしまった。
﹃明日の朝、取りに窺います﹄
138
﹁うむ⋮⋮しかし家に来ると、あいつと鉢合わせするかも知れんぞ﹂
﹃もう昔の話です。平気ですよ﹄
原田の言い方から無理は感じられない。もう大丈夫なのだと信じ
られる、確かな響きがあった。
﹁そうか。では、朝の5時には起きとるから、いつでも来なさい﹂
﹃良かった。ありがとうございます﹄
文治は電話を持ち直すと、話の向きを変えた。
﹁空手の方は、がんばっとるかね﹂
﹃ええ。実は、今も寒稽古の帰りなんです﹄
﹁そうか、偉いぞ﹂
﹃先生からいただいた空手着も、ちゃんと着てますよ﹂
﹁そうかそうか。嬉しいねえ。あ、ご両親はお元気でお過ごしかな﹂
﹃ええ、二人ともピンピンしてます。人生を楽しんでるって感じで﹄
﹁それは良かった。いや、本当に良かった﹂
文治は会員らの視線に気付くと、老眼鏡を外して瞼を拭った。
﹁よし、頼まれたものは心をこめて作らせて貰う。明日の朝、君に
会えるのを楽しみにしてるよ﹂
電話を切ると満足そうに微笑み、かつてオーナーだった頃のよう
に気合を入れた。
翌日︱︱
まだ薄暗い冬の早朝、原田良樹は﹃コレー﹄の前に立ち、懐かし
さに目を細めた。
8年ぶりに訪れたその建物は、確かに古くなっている。だが歳月
のぶん、レンガ塀がより深い趣を見せて彼を迎えてくれた。
﹁先生⋮⋮ただいま﹂
﹃コレー﹄のオーナーが文治から娘の美那子に代わったのは知って
139
いる。それでも、原田にとっては未だオーナーは文治であり、唯一
の石の師であった。
甲斐家の居宅は店の裏手の畑を横切り、しばらく歩くと見えて来
る。
原田はインターホンのボタンを押した。
﹁はい﹂
女性の声が応答した。美那子である。
﹁朝早くから失礼します。私、原田良樹と申します。文治先生は⋮
⋮﹂
言いかけると、通話がプツリと切られた。そしてバタバタと廊下
を走る音が聞こえて、すぐに玄関のドアが開いた。
﹁良樹君⋮⋮﹂
美那子は8年ぶりに訪れた原田に目を見張っている。
﹁お久しぶりです、美那子さん﹂
﹁⋮⋮﹂
ひと回り大きくなった身体と、落ち着いた眼差し。彼女の名を呼
ぶ低い声。
目の前にいる青年は、すでに美那子の記憶にある良樹ではなかっ
た。
﹁あ、あの、父は工房で作業しています。呼んで来ますね﹂
美那子は見知らぬ男性客に対するように、原田と接した。
その戸惑いを知ってか知らずか、原田は黙って頷く。
﹁おお、原田君﹂
文治が小さな紙袋を手に提げ、玄関先に現れた。
﹁出来上がったよ。間に合ってよかった﹂
﹁無理言ってすみませんでした﹂
原田はすまなそうに、ぺこりと頭を下げる。
140
﹁いやいや。それより、アメシストはあらかじめカットされた石の
中から、一番いいものを選んでおいた。きれいな紫だ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁それにしても⋮⋮おお⋮本当に大人になったなあ。学生の頃より
背も伸びたんじゃないかね﹂
文治が大げさに、見上げるようにした。原田は照れくさそうに笑
い、首を横に振る。
﹁背はそれほど変ってません。体重は増えましたが﹂
文治の後ろから美那子がそっと顔を覗かせ、眩しげに見守ってい
る。
原田が財布を出そうとすると、文治はその手を掴んで止めた。
﹁これは私からのお祝いだ。受け取ってくれ﹂
﹁駄目ですよ。それじゃ俺からのプレゼントになりませんから﹂
﹁あ、そうか。言われてみれば⋮⋮﹂
二人のやり取りを、美那子は黙って聞いている。視線は原田に注
いだまま微動だにしない。
原田は代金を払うと丁寧に礼を言い、帰ろうとした。
﹁あのっ、お茶を淹れますので⋮⋮﹂
美那子が不意に呼び止めた。
原田は振り向くと、
﹁ありがとうございます。でも今日は急ぎますので、これで。また
寄らせていただきます﹂
あらためて頭を下げ、背中を向けると真っすぐに歩いて行った。
原田を見送った父娘は、長いことその場に立っていた。
﹁8年ぶりだなあ、美那子﹂
﹁ええ、本当に。驚いた⋮⋮﹂
141
﹁大人になって、男っぷりが上がって、逞しくなった。本当に良か
った﹂
夜明け前の冷えた空気が、公園の林から流れてくる。美那子は少
し震えた声で、父親に訊ねた。
﹁今のは、アクセサリーね。お祝いって、何を頼まれたの?﹂
﹁良い人が出来たらしい。その女性への贈り物を頼まれた。なあ、
美那子。お前も安心したろう﹂
﹁ええ、そうね。あの頃は本当に迷惑をかけたから。ずっと気には
していたんだけど﹂
玄関に入る前、美那子はもう一度後ろを向き、原田が去った方向
を見つめた。
懐かしさとともに、こみ上げてくるものが何なのか、彼女自身も
わからない。ただ愁いを帯びた目で彼を追っていた︱︱
原田は車に乗ると、手提げ袋の中の小箱をそっと開けてみた。
﹁きれいだ⋮⋮﹂
思わず呟いて、美しい葡萄色の宝石に見入る。彩子の驚く顔が目
に浮かび、気分が高揚してきた。
小箱の蓋を閉じると、手提げ袋にもとどおり大事に仕舞う。エン
ジンをかけると、満たされた気持ちでアクセルを踏み込んだ。
﹃コレー﹄は後ろに遠ざかり、いつしかバックミラーから消え去る。
原田の心は今、山辺彩子という一人の女性に占められ、他の何にも
捕われることはなかった。
142
143
2
彩子は今、原田の運転する車の助手席にいる。
原田の両親との初対面は緊張したが、今日は本当に楽しかった。
特に、予期せぬ誕生日プレゼントがどうしようもなく嬉しくて、
つい顔がほころんでしまう。
﹁どうしたんです? ニヤニヤして﹂
ニヤニヤは心外だが、今は何を言われても笑顔がおさまらない彩
子である。
﹁原田さん、プレゼントすごく嬉しいです。大切にします﹂
想像以上に喜ぶ彩子を見て、原田も満足そうに笑った。
﹁どういたしまして。ところで彩子さん、少し寄って行きませんか﹂
原田は寄り道を提案すると、運動公園の駐車場に車をとめた。
﹁遊歩道を行ったところに美味しいコーヒー屋があるんです。付き
合ってください﹂
﹁美味しいコーヒー屋さんですか? はい、もちろん﹂
彩子は同意すると車を降りてコートを羽織り、原田の横に並んで
歩いた。
木立を抜ける遊歩道はきれいに整備され、花壇もよく手入れして
ある。
ふと、思いついて質問した。
﹁原田さんはいくつですか。175はありますね﹂
﹁背ですか。178です。彩子さんは160ぐらい?﹂
﹁159です。体重は49キロです﹂
自分から体重を披露する女性は珍しいが、原田はそんなところが
好ましいと感じてか目を細めた。
144
遊歩道は静かで、二人が踏みしめる細かな砂の音だけが、冬の空
気の中で響いている。速く打ち始める鼓動が聞こえてしまうのでは
と、彩子は心配した。
これまでになく原田の存在を強く意識し、高揚している。
彼の笑顔が好き。
低い声と、話し方が好き。
空手や鉱物に夢中になっている心が好き。
穏やかな眼差しがすごく、安心できる。
できるなら今すぐ、ここで抱きついてしまいたいぐらい、何もか
もを好きになっている。
彩子は思春期の少年のように、胸をかきむしるような衝動に駆ら
れている。それが何なのか分かっているので、自分自身に羞恥の心
を持った。
﹁ここですよ、彩子さん﹂
原田が連れてきたのは、明治の建物を思わせる外観を持つ、コー
ヒー専門の喫茶店だった。
中に入ると、静かに流れるクラシック曲とコーヒーの良い香りが
歓迎してくれた。
﹁こんな素敵なお店があったのですね。知りませんでした﹂
﹁そこの野球場まで、会社の試合で来た事があるんです﹂
窓の外を見ると、野球のナイター設備が木々の梢から覗いている。
彩子達の座った後ろの席にも、そのグラウンドでの野球帰りと思
145
しき一団が陣取っていた。
﹁野球もいいなあ。最近は仕事が忙しくて、なかなか参加できない﹂
原田はレザーのジャケットを脱ぐと、伸びをした。
野球と言えば、彩子は思い出す事があった。
﹁あの、私の友達で⋮⋮今度結婚する智子って言うんですけど﹂
﹁その子もソフトボール部の?﹂
﹁はい、一番の親友なんです。それで、その智子が今度、会社の野
球チームの対戦相手にいた人と結婚するんです﹂
あらましを話すと、原田は感心した様子になる。
﹁へえ、そんな出会いもあるんだなあ﹂
﹁一目惚れされたみたいで、今すっごく幸せそうなんです。今度紹
介しますね⋮⋮﹂
﹁岩本中の原田じゃねえか!﹂
突然、後ろの席から声が飛んで彩子の話を遮った。
驚いて振り向くと、大柄な男が身を乗り出し、原田の方を見てい
る。
︵あれ⋮⋮?︶
野球のアンダーシャツ姿。無精ひげを生やした精悍な顔立ち。
見覚えのある顔だった。
﹁岩本中の野球部で5番打ってた原田だろ? 俺だよ。酒田中のエ
ースで4番だった、ご・と・う・れ・い・と!﹂
﹁あっ﹂
と、彩子は思わず声を上げる。
たった今、原田に話したばかりの、智子の婚約者である後藤伶人
その人だった。
﹁おい、でかい声出すなよ後藤﹂
野球仲間が彼をたしなめる。周りの客達がこちらを注目していた。
146
﹁おっとすまねえ。なっ、そうだろ﹂
原田はあっけに取られた様子だが、やがて思い出したようだ。
﹁ああ、地区大会の決勝戦で当たった酒田中のエースだ﹂
﹁そうだよ! あの試合は勝ったけど、お前に3本もヒット打たれ
てショックを受けたんだ。だから今でも憶えている﹂
よほど悔しいのか、後藤は激しく頭をかきむしった。
智子の話以上にエネルギッシュな男性だと彩子は思いつつ、おず
おずと話しかけてみる。
﹁あの、後藤さん﹂
﹁何? お嬢さん﹂
後藤は彩子の存在に今気が付いたようである。
﹁はじめまして。私、大垣智子さんの友人で山辺彩子と言います﹂
さすがの後藤も驚いたようで、﹁嘘!﹂と大声で叫んだ。
野球仲間も、もう苦笑するのみである。
﹁智子がいつも話してるソフト部仲間の、おぼこい女の子だ。ええ
∼、原田と付き合ってるんだ﹂
後藤はアイスコーヒーを持って、彩子の隣に席を移動させてきた。
プロ野球選手なみに大柄ないい体格をしている。近くで見ると、す
ごい迫力である。
﹁原田さん、今話していた智子の婚約者の後藤さんです﹂
﹁そうなのか?﹂
原田は心底驚いたようすだが、それは彩子も同じである。彼らの
繋がりと、このタイミングでの遭遇に驚かずにはいられない。
﹁感動的だ。こんな出会いがあっていいのか﹂
後藤はストローでちゅうちゅうコーヒーを吸いつつそんな事を言
った。彩子には大きな熊が蜂蜜を吸っているようなその姿が何だか
可笑しくて、可愛かった。
147
﹁しかし、あれからどうしてたんだお前。高校では野球をやらなか
ったのか。いいセンスしてるくせによ﹂
﹁お前はないだろう。馴れ馴れしいぞ﹂
原田がめずらしく語気を強くした。
﹁あ、そう。勘弁してくれ。じゃ原田、どうして野球を続けなかっ
たんだ﹂
後藤は言い直すが、さほど気にも留めずに訊いてくる。原田は仕
方ない感じに答えた。
﹁他にやりたい事があったんだ﹂
﹁ほかにやりたいことがあったんだ⋮⋮フッ。聞いた? 彩子ちゃ
ん。気障だよな﹂
﹁うふっ﹂
もう彩子は我慢ならないくらい可笑しかった。智子の結婚相手が
こんなひょうきんな人だとは、想像していなかった。
彩子が笑っているので原田は怒る気にもならないようだが、いさ
さか不機嫌な口調でやり返した。
﹁対戦相手の女性をナンパするような奴に言われたくないぜ﹂
﹁なにい? 自分だってこんなおぼこい娘をゲットしてるじゃねえ
か。お互い様よ﹂
﹁おぼこいって、智子が私についてそんな風に言ってるんですか﹂
後藤は横から入ってきた彩子をまじまじと眺め回す。
﹁そうだよな。そんなにおぼこくないよな。あいつ少し言い過ぎだ
って、今度叱っておきます﹂
﹁おい、後藤﹂
原田がたしなめようとすると、ウエイターがコーヒーを運んでき
た。
﹁彩子ちゃんはカフェモカだろ﹂
後藤が彩子に顔を近付けて言う。
148
﹁智子から聞いてますね﹂
﹁ほら、やっぱり。大当たり∼!﹂
原田はちょっと面白くない顔をして、二人のやり取りを見ている。
﹁おっといけねえ、睨まれた﹂
後藤は彩子の後ろに隠れるようにする。子供のような仕草に原田
は何を言う気にもならないのか苦笑を浮かべ、黙ってコーヒーを含
んだ。
﹁な、原田。俺すごく嬉しくてさ。こんな所でお前に会えて。メア
ド交換してくれ﹂
﹁メアド?﹂
唐突な申し出に原田は目を瞬かせた。
﹁いや、俺達会社とは別に、有志で草野球チームを作ってるんだ。
おま⋮⋮原田が助っ人に来てくれると有難いんだけど∼﹂
﹁野球はいいけど、そんな時間ないよ。会社のチームにも参加でき
ない有様なんだから﹂
﹁大丈夫、本当に時間が出来たらでいいからさ。携帯番号を交換し
よう﹂
原田は躊躇している。後藤に教えたら毎日でもかかってきそうな
予感がするのだろう。
﹁嫌なのか、仕方ないな。じゃ、智子に彩子ちゃんの電話を教えて
もらって連絡取るか﹂
﹁わかったよ、貸せ﹂
原田は乱暴に後藤の携帯を奪うと、自分の番号を押した。
﹁ヒャッハー! ありがてえ﹂
﹁言っとくが、本当に時間が無いんだ﹂
原田が念を押すが、後藤はまったく聞いていない。対照的な二人
に、彩子はクスクスと笑っている。
149
﹁おい、行くぞ後藤﹂
後藤は仲間に呼ばれて立ち上がった。
﹁じゃ、原田またな。彩子ちゃん、いい男に惚れたもんだねコノ∼﹂
そう言い残すと片手を上げて、あっという間に店を出て行ってし
まった。
急に店内が静かになった。
﹁やっと落ち着ける﹂
原田はほっとして、彩子を見た。
﹁凄い人だね﹂
﹁ああ。それにしても智子さんって人は大した女性だ。あいつの嫁
さんになるって事は、猛獣使いになるに近いものがある﹂
﹁うふふ⋮⋮智子は大人だから、大丈夫﹂
﹁そうか。それはあいつもラッキーだ﹂
原田と微笑み合うと、彩子はゆったりとしたひと時を楽しんだ。
嵐は過ぎ去り、もとの穏やかな時間が戻ったのだ。
だが、それは少し違っていた。
後藤怜人という嵐は、平穏に進んでいた二人の関係に思わぬ影響
をもたらしていった︱︱
原田はモヤモヤとした感情を抱えている。
後藤が彩子に無遠慮に接近したためであろうかと考えるが、どう
も違う。
いやそれも原因には違いないが、大本の理由ではない気がする。
喫茶店を出ると、辺りは薄暗くなっていた。
﹁しまった。遅くなりすぎたか﹂
考え事をしていた原田は我に返った。
150
﹁そんなに遅くないですよ。まだ4時前です﹂
﹁曇ってきたから暗く感じるのかな﹂
足元から冷気が這い上がってくる。店に入る前に比べて、息もは
っきりと白くなっている。
﹁雪になりそうですね﹂
彩子が空を見上げて嬉しそうに言う。
﹁雪が好き?﹂
﹁そうなんです。雪って滅多に降らないから、嬉しくって﹂
彩子の肌が、冷たい空気のためか、青白く透き通って見える。背
伸びをして空を見上げる姿は、原田にはひどく無防備に映った。
原田は分かった。
後藤が彩子に接近した。そして気の合う男女のように会話を交わ
した。別の男とやり取りしたすべてが、自分を無性にいら立たせた
のだ。
彼女はもう俺のものだと、いつの間にかそう決めていた。
だが、それはあまりにもあやふやで何の根拠もない思い込みだ。
男の傲慢でもある。
彼女は誰のものでもない。
いつどこに飛んで行ってしまってもおかしくない、意思の翼を持
つ自由な鳥なのだ。
急激に昂ってくる心を抑えきれず、それでもその心に正直に向き
合う。
俺はこの子が好きだ。どこにも行ってほしくない。
自分の傍に居て欲しい。
他の誰にも、渡したくない︱︱
151
初めての感情に戸惑いながらも、原田は率直に告げた。
﹁彩子さん、結婚しよう﹂
いつの間にか遊歩道を抜けて、グラウンドが見渡せる場所に来て
いた。
彩子は全身に電気が走ったように動けない。
時間が止まるとはこういう事なのかと、意識のどこかで感じてい
る。
ひとひら、ふたひらと、雪が舞い降りる。
グラウンドにも、遊歩道にも、雪は次々に白い世界を創ってゆく。
二人のほかに誰もいない。
﹁は⋮⋮はい﹂
震える声で、やっとの思いで応えた。
やがて声だけではなく、手も足も、全身が小刻みに震えだす。
彩子は不意に手を伸ばした原田に引き寄せられ、腕のなかにすっ
ぽりと抱え込まれた。
そして、確かめるような眼差しで瞳の奥を覗かれ、優しく重ねら
れる唇を素直に受けた。
原田の体温を感じ、力の強さを感じている。
彩子はもう、このまま雪になって消えてもいいとさえ思った。
152
3
原田啓子と魚津木綿子は仲の良い幼馴染み。
大人になってからも、嫁ぎ先が近隣だった事もあり付き合いは続
いている。何かあればすぐ相談にのったり協力したり、その間柄は
いわゆる水魚の交わりだ。
木綿子は啓子のひとり息子である良樹の面倒をよく見た。彼女に
は子がないが、子供は大好きなので、時々良樹をアイスクリームな
ど食べに連れて行った。
啓子はその間に用事を済ませたり買い物をしたりと、何かと助か
っていた。
木綿子は良樹に姪っ子の話をよくした。同じ子供だから、関心を
持つと思ったのだろう。
﹃おばちゃんの妹の子がね⋮⋮彩子っていう名前なんだけど、面白
い子でね∼﹄
といった調子に、幼稚園で活躍した事、反対に失敗した事など、
さまざまなエピソードを話して聞かせた。良樹は子供なりに耳を傾
けた。そして、会った事もない山辺彩子という女の子を何となく身
近に感じていた。
良樹が高学年になると友達と遊ぶ事が多くなり、そんな時間も持
てなくなってしまったが、その後も相変わらず木綿子は啓子のとこ
ろに遊びに来ていた。
良樹が高校生の時だった。
学校から家に帰ると、木綿子が居間で留守番をしていた。
﹃あれ、お袋は?﹄
153
﹃買い物に出かけてるわ。もうそろそろ帰る頃よ。⋮⋮それにして
も、久しぶりねえ良樹君﹄
良樹は木綿子に照れくさそうに挨拶をすると、重そうな手提げ袋
を床に置いた。学校帰りに採集してきた石が入っている。
﹃相変わらず石が好きなのね﹄
良樹が石ころを拾ってきて困ると啓子が愚痴っていたのを木綿子
は思い出した。
﹃うん﹄
楽しげにひとつひとつ取り出してみせる。どれも同じように見え
るそれらを、彼は宝石でも眺めるように、ためつすがめつした。
﹃野球はやめちゃったって聞いたわ﹄
﹃そのかわり、今は地学部に入ってます。石ころ集めが存分にでき
るんで﹄
﹃そうだってね∼。文化部に入るとは意外だったわ。私の姪っ子は
今、中学でソフトボール部よ﹄
良樹は石から木綿子に視線を移した。
﹃山辺の⋮⋮彩子さん?﹄
﹃そうそう。がんばってるわよ∼。毎日傷だらけになって。でも、
この間の試合ではね⋮⋮﹄
木綿子はその時、久しぶりに彩子の話をした。
良樹は興味のあるようなないような、ちょっとぎこちない反応だ
った。小学生の頃とはまた違う感受性で耳を傾けていたようだ。
ソフトボールが好きで、本が好きで、我慢強くて、人前で泣かな
い、そんな少女の話。
その夜、良樹は鉱物図鑑を眺めていて、ふと蛍石に目を留めた。
独特の透明感がある淡いグリーン。蛍石では珍しくない色合いだ
が、ほんのりと明るくて優しい薄緑を、彼は気に入っている。
154
心に少女が浮かんだ。顔も姿も知らないはずなのに。
﹃山辺彩子さん⋮⋮か﹄
何故だか彼女は、蛍石のイメージだと思った。
時はさらに流れ、良樹が28歳の冬。
思わぬことが起こった。
母親がうるさくせっつくので書いた釣書を、木綿子が山辺彩子の
ところに持って行ったと言うのだ。
﹃木綿子の姪御さんならいい子に決まってる。返事が来るといいわ
ね∼﹄
母親は一人ウキウキして、鼻歌まじりでそんな事を言っている。
良樹は女性に関心が無いわけではないが、仕事が忙しく、またわ
ずかな暇さえあれば鉱物収集や空手や野球に飛び回っているので、
色恋には縁のない生活をしていた。
会社の友人や先輩から女性を紹介される事もままあったが、どう
にもその気にならない。要するに恋愛無精である。
ところが、山辺彩子と聞いたとたん、何かが頭の中で弾けた。
いや、心の中で弾けたと言うべきか。
急に落ち着きを無くす自分自身に、良樹は動揺した。初めての心
境だった。
それから数日後、12月23日の祝日だった。
木綿子から電話が来たと、啓子が大慌てで良樹に報告した。
﹃ねえ、山辺彩子さんがあんたに会いたいって言ってるらしいわよ。
どど、どうする?﹄
母親の上ずった声につられた訳ではないが、良樹も緊張の面持ち
になる。
155
しかし迷う事は無かった。
﹃いいよ、会う﹄
﹃まっ、本当に?﹄
息子の思わぬ反応に驚きつつも、啓子は喜色満面である。
﹃あ、でも良樹、明後日から出張よね。帰ってからにしてもらう?﹄
﹃いや、明日の夜に会うよ。相手さえ良ければ⋮⋮﹄
息子の乗り気な態度にまたしてもびっくりだが、啓子は電話口で
待つ木綿子にその事を伝えた。
話はまとまった。あとは会うだけである。
﹃きちっとした格好で行きなさいよ。まあまあどうしましょうねえ
∼﹄
啓子は我がことのように舞い上がっている。そばで見ていた浩光
が﹃誰の見合いだよ、一体﹄とあきれていた。
良樹は相手の釣書きや写真が無いのに気がついた。
しかし、何となく分かると思った。
写真が無くても彼女のことは見つけられる。どうしてか確信でき
るのだった。
翌日12月24日 クリスマスイブ
良樹は一張羅のスーツを着て、N駅ビルにあるレストラン”アベ
ンチュリン”の前に立っていた。
﹃アベンチュリンか﹄
石英に雲母が入った緑水晶だな⋮⋮などと考えながら、店の中に
足を踏み入れる。
窓際の奥の席で、白いコートを着て窓の外を見ている女性が眼に
156
入った。
良樹は、間違いなく山辺彩子だと思った。
案内役の店員が出て来て﹃魚津様のご予約ですね。こちらへどう
ぞ﹄と先導しようとしたが、
﹃僕に行かせてください﹄
そう言うと、真っ直ぐに彼女の席に向かった。
彼女は夜景を眺め、嬉しそうに笑っている。
良樹は既に、愛おしいという気持ちが芽生えてくるのを感じてい
た。
﹃お待たせしました﹄
声を掛けると、彼女ははっとして立ち上がり、しどろもどろに、
﹃いえ、私も今来たばかりです。全然、待っていませんので⋮⋮﹄
最後の方はよく聞き取れなかったが、凄く可愛い人だと思った。
良樹は心底、嬉しかった。
木綿子に深く感謝した。
料理を注文し終えて向かい合うと、彼女は自己紹介をした。
その時、良樹は息を呑んだ。
彼女が身に付けているチョーカーに、直径8ミリほどの蛍石が付
いているではないか。
良樹は吸い込まれるようにその薄緑色の小さな石に見入った。
これはただの偶然だろうか。いや、そうではない。
見つけた!
彼は心で、歓喜の声を上げていた。
157
﹁この蛍石ですね﹂
彩子はバッグの中に忍ばせておいた、お守り代わりのチョーカー
を原田に見せた。
﹁ああ、これだ﹂
原田はその小さな石を、フロントガラスの光に透かすようにして
観察した。
﹁やっぱり、水晶でカバーされているな。蛍石はわりと脆いから﹂
﹁脆い?﹂
﹁うん。硬度が低くてアクセサリーには本当は不向きなんだ。でも
上手に加工してある。凄くきれいだ。俺は薄緑色のフローライトが
一番好きだな﹂
﹁フローライト﹂
彩子は素敵な響きだと思った。
﹁紫外線をあてると蛍光するものもある。不思議な魅力を持つ石だ
よ﹂
原田が返そうとすると、彩子は首を横に振った。
﹁彩子さん?﹂
﹁原田さんが持っていて。あの、持っていてほしいの﹂
そう言って、彼の手の平に石を包んだ。
﹁でも、大切なものだろう﹂
﹁大切だから、あなたに持っていてほしい﹂
原田は不思議そうな顔をしたが、
﹁じゃあ、これを君だと思って、お守りにするかな﹂
シャツの胸ポケットの中へ大事そうに仕舞った。
﹁それにしても、木綿子伯母さんから私の事をいろいろ聞いていた
のですね。だから初めて会った時からどこか余裕があるし、落ち着
158
いていたんですね﹂
﹁う∼ん、落ち着いてたかな﹂
﹁伯母は原田さんのことを話してくれたこと無かったなあ。何だか
ずるいですね﹂
彩子はやんわりと原田を睨んだ。
﹁あっはは⋮⋮勘弁してください。その代わり何でも質問に答える
から﹂
雪が激しくなってきてフロントガラスに積もり始めた。
﹁これはやばいぞ。早く帰ろう﹂
原田は公園の駐車場から車を出して、彩子の家に向かった。
彩子はかろうじて平静を保っているが、本当は逃げ出したい気持
ちでいっぱいだった。
ついさっき、原田の腕に抱かれて、初めてのキスを交わしたばか
りである。
長いキスだった。一度唇を離しかけたが、まだ不足のように、原
田は彩子の柔らかな感触を繰り返し確かめた。
意外な情熱を見せられたようで、彩子は未だにドキドキしている。
男と女の違いかしらと、彩子は不思議な思いで彼を見てい
一方原田は、相変わらず平常心と言うか、普段どおりの顔をして
いる。
た。
﹁これから忙しくなる。まず、両親の顔合わせに婚約や何かの打ち
合わせ。式場の確保。あと、肝心なのは新居を決める事﹂
原田がハンドルを慎重に操作しながら彩子に話しかけた。
彩子は驚いて目を丸くする。
﹁原田さん、詳しいんですね﹂
159
﹁えっ?﹂
彼は一瞬、虚を衝かれた表情になるが、すぐに引き締める。
﹁まあ、ね。前もって調べておいたから﹂
彩子は意外だった。
結婚を意識しているのは自分の方だと思っていたから、原田がそ
こまで考えていたとは気が付かなかった。
﹁でも、楽しい忙しさですよね﹂
彩子がはにかんで言うと
﹁その通り!﹂
彼は明るく、いつものように微笑んだ。
160
1
昨日から降り続いた雪は辺り一面を雪景色に変えた。白銀の世界
と表現されるが、まさにそのとおり。朝陽が反射して、あまりにも
眩しい。
8年ぶりに再会したあの青年⋮⋮原田もそうだと、美那子は思っ
た。
年月の重みが彼女にのしかかる。
立ち眩みを起こしそうになっ
決して老け込む年ではないが、
︵彼は28歳、私は33歳︶
実際に彼の若さを目の当たりにし、
た。
彼はまた、えも言われぬ男らしさを身に着けていた。
低い声に、確りとした眼差しに、頼もしい体躯に。
男⋮⋮
男などという生き物は、とうに自分の世界から追い払ったはずな
のに。
その男らしさに今、胸が波立っている。
美那子は独り窓辺に座り、雫を落とす小さな氷柱を見つめていた。
やがてかぶりを振って立ち上がり、照明のスイッチを入れると、
工房の掃除に取り掛かる。カフェの客や会員らが来る前にやってお
かなければならないことはたくさんある。
美那子はそう自分に言い聞かせ、机を拭いたりゴミを捨てたりし
た。
最後に、文治のエプロンを洗濯するためにポケットの中を調べた。
161
かさりと音がして、小さな紙切れが出てきた。何かのメモのようで
ある。
﹁可愛い・純粋・25歳﹂
呟くように読み上げた美那子は、作品のイメージメモだと悟る。
更によく見ると、読めるか読めないかのかすれた字で﹃ハラダ﹄
と記してあるのがわかった。
﹁ハラダ⋮⋮原田良樹君﹂
彼に良い人が出来たと文治は言っていた。アク
美那子は、先日彼が文治の細工したアクセサリーを受け取りに来
たのを思い出す。
セサリーはその女性への贈り物だと。
つまりこのメモは、彼女のイメージなのだ。
﹁可愛くて、純粋な、25歳﹂
美那子は単語を組み立てて読んだ。
何とも言えない想念が暗雲となって湧き上がる。一旦は頭を振っ
て払おうとしたが、駄目だった。
見も知らぬその若い女を憎らしいと思った。
自分が過去に男に裏切られてボロボロになったのも25歳だった。
同じ25という年齢で、彼女はあの理想的に成長した青年から愛
され、贈り物を受け取っているのだ。
さぞ幸せだろうと想像した。
美那子は誰もいない工房の中、崩れ落ちるように膝をついた。
どれだけ理不尽なのか分かっている。分かっているが、憎しみの
気持ちをどうすることも出来ない。
あの時、美那子は25歳だった。 一年ほど付き合い、結婚しようと約束した男性が傍らにいた。彼
も同じ25歳だった。
162
危ないもの
甲斐文治は妻を早くに亡くし、ひとり娘の美那子を、それこそ箱
入り娘といわれるその言葉通り、大切に育ててきた。
は遠ざけ、見苦しいものは見せないように先回りし、現実を実感す
る経験するという、大人になるには不可欠な要素を排除してきた。
そのせいかどうか、多少世間知らずになったと文治は思っていた。
しかし、これほど人を見る目が曇った娘になってしまうとは。後
悔先に立たずである。
大学卒業後、一流といわれる企業に美那子は就職した。巨大企業
の自社ビル、その正面玄関で受付嬢として働く彼女は、常に男達の
噂の中心となる。
多くの男達はマドンナのように彼女を扱い、かしずいた。貢物と
称してプレゼント攻勢をかける者もいた。
竹中という男は、その誰とも違うアピールをした。
彼は美那子と同期入社の社員だった。
姿良く顔立ちのきれいな男で、女性社員からの評判はことに良い。
仕事も要領よいやり手であり、若くして出世頭と目されるほど目立
つ男でもあった。
竹中は美那子を強引に誘ったかと思えば、翌日には知らぬ顔をす
るというように、女が戸惑う扱いをした。
美那子はそんな彼に魅力を感じてしまう。
手練手管を使い、女を振り回しているだけなのに、それが男らし
さだと見当違いをした。彼女は女性慣れした見栄えの良い男の術中
に実にあっけなく嵌ってしまったのだ。
そんな魅惑的な男に結婚を申し込まれた美那子は、二つ返事で承
163
諾する。彼女はその時すでに竹中に隷属していたが、自覚は無かっ
た。
デートでは美那子が交通費や食事代を負担するのが度々で、それ
だけではなく、竹中はなんだかんだと言い訳しては美那子に財布を
開けさせた。
美那子の生活が乱れはじめて、文治はようやく娘が性質の悪い男
に引っ掛かっているのに気が付いた。
父親である文治は我慢がならなかった。そんな奴と結婚など、と
んでもない話である。
だが美那子は理性など入る隙も無い愛欲の渦中にいた。父親が懸
命に道理を説いても耳を貸さず、竹中を全肯定するという体たらく。
文治は頭を抱えた。
今に娘どころか自分の店も土地も何もかもを、あの不埒な男に持
っていかれる。
それだけの事をやりそうな危うさを、竹中に感じていた。
その頃、文治がオーナーを務める手作りアクセサリーの工房﹃コ
レー﹄に、時々顔を見せる原田という大学生がいた。
彼は小学生の頃から文治の店に遊びに来ては、工房を見学したり
石の話をして行く、少し変った男の子だった。文治は自分の息子の
ように、かわいらしく思っていた。
ある日、いつものように彼は店に来て、リングを器用に細工する
文治の手元に見入っていた。
﹁原田君も大学生か﹂
﹁ええ、もうハタチですよ﹂
﹁君のような、純粋な男だったらよかったのに⋮⋮﹂
文治はため息をつくと、ついつい娘の問題を愚痴ってしまった。
164
﹁大変ですね﹂
原田は打ちひしがれる文治を見るに忍びないと思ったのか、誠実
に励ましてくれた。
﹁俺に出来る事があれば言って下さい。協力しますよ﹂
原田にとって文治は石の師であり、もう一人の父親と呼んでもい
い存在だった。本当に力になりたいという気持ちがこもっていた。
﹁ありがとう、原田君。ありがとう﹂
文治は涙が出そうになった。
やがて、事態は深刻な様相を呈してきた。
美那子が店の金に手をつけたのだ。もちろん、竹中の差し金だっ
た。
﹁あの男とそうまでして一緒になりたいなら、もう娘でも何でもな
い。あいつときっぱりと別れるか、さもなくば家を出て行け!﹂
﹁ええ、出て行くわ。今から外国に行って、彼と二人で暮らす。も
う帰ってこないから﹂
売り言葉に買い言葉と思っていた文治は、美那子の行動に愕然と
する。
美那子は泣きながら、いつの間に用意してあった旅行鞄を持つと、
別れも告げず玄関を飛び出した。彼女は文治に隠れ、海外で起業す
るという竹中のために資金を調達しようとした。そしてついて行く
つもりでいたのだ。
雨の中、家を捨てて男のもとに走る娘に、文治は絶望した。
今まで何のために懸命に働き、母親のいない寂しさを感じさせな
いよう努力してきたのか。単なる自己満足に過ぎなかったのか。
﹁お願いだ⋮⋮誰か、助けて下さい﹂
文治は無意識のうちに、原田を呼んでいた。
165
美那子は騙されていた。
竹中にとって、彼女は単に金づる女の一人に過ぎない。彼は自分
と同じように世間擦れした頭のいい女をパートナーに選んでいた。
美那子が資金を調達し損ねたと聞くと、竹中は残忍な目をして別
れを告げた。
空港に一人取り残された美那子には行く当ても無い。いまさら家
にも戻れず、夢も轟音とともに海の向こうへと消え去った。
原田は空港のロビーでぐったりしている美那子を見つけると、声
を掛けた。
﹁美那子さん、帰りましょう。文治先生に頼まれたんです、俺﹂
見上げると、無垢な少年のような瞳をこちらに向けて、原田が立
っていた。
﹁帰れないわ。帰れない⋮⋮﹂
﹁駄目ですよ、帰らなきゃ。俺が一緒に謝りますから、帰りましょ
う﹂
美那子は虚ろに彼を見つめた。
﹁じゃ、帰ってもいいけど⋮⋮﹂
美那子はなぜかその時、自分を棄てた男に対する恨みを、同じ男
である原田に転嫁させていた。黒い感情が膨れ上がり、止められな
かった。
それから原田の生活は美那子によって一変させられる。
美那子はいつ何時でも彼を呼び出し、行く先々に付き合わせた。
気まぐれで、無軌道な行動。憂さ晴らしの酒に付き合わされるのが
ほとんどだが、美那子が大声で叫んだり、店の備品を壊したりする
166
ので、原田は謝罪役だった。
男を言いなりにすることで矜持を保つといった姿に、原田は何も
言わず従っていた。
困惑したのは、当時同居していた原田の両親。
昼夜問わず呼び出され、いいように振り回される息子を心配した
彼らは、美那子の行為について文治に強く抗議した。
しかし、原田自身が美那子の気が済むまで付き合うと決めていて、
両親は歯噛みをして見守るしか出来なかった。
そして数か月後、事件が起こる。
美那子が夜の街で声を掛けてきた若い男をいきなりひっぱたいた。
怒った男はあっという間に美那子を突き倒すと、拳で殴り、足で
蹴り飛ばした。
一瞬の出来事であり、原田には止めようもなかった。
それは容赦のない激しい暴力で、しかも格闘技の蹴り方だった。
原田はその時、目も眩むような怒りを覚えた。
男は酩酊して、異様な目つきだった。美那子を介抱する原田に近
付くと、ボキボキと指を鳴らした。
﹃お前の女か? よし﹄
形勢はあまりにも
原田は立ち上がると、思わず身構える。相手の体格はこちらを上
回り、腕力の差も見ただけで歴然としている。
不利だ。
通りすがりの酔客たちが遠巻きに見ている。
ここで死ぬかもしれないと、原田は本気で思った。
﹁警察が来たぞー!!﹂
突然誰かが大声を上げた。
167
その瞬間、男の拳が原田を吹っ飛ばした。
意識を失う直前、文治の顔が頭に浮かび無念を感じた。
気がつくと、病院のベッドの上。
母親の泣き顔が、覗き込んでいる。
廊下で父親と文治の話す声が聞こえる。
原田はぼんやりとしながら、若い男の一撃で気を失ったらしい⋮
⋮と状況を把握した。
拳が入る瞬間、反射的に防御した。そのおかげか、大事に至らず
に済んだようだ。
男は逃げたらしいと母親が言った。
美那子はようやく目を醒ました。
事件の数日後、文治が面やつれした彼女を連れて原田家に謝罪に
訪れた。
玄関に入ろうとしない二人に父親が対応し、原田の母親は姿を見
せなかった。
父親は、今後一切良樹に関わらない事を文治と美那子に約束させ
た。
原田は堪らず、母親が止めるのを聞かず玄関を飛び出した。
頬が腫れて痛々しい怪我人の姿に文治は驚き、頭を深々と下げた。
美那子も同じようにして、長いこと顔を上げられないでいる。
﹁俺が百も承知でやった事だよ、文治先生﹂
原田はいたたまれず、だけどそれだけ言うのが精一杯だった。
二人は原田家を立ち去った。
168
文治の背中が哀しくて、原田の心は痛んだ。
それからしばらくして、文治から荷物が届く。中身を見ずに捨て
ようとした母親から原田はふんだくるようにすると、その箱を開け
てみた。
真新しい空手着が入っていた。
﹃原田君の勇気が美那子を救ってくれた。原田君と、原田君の勇気
を育んだ空手道に心からの感謝の気持ちを贈ります。受け取って下
さることを、切に切に願います。 甲斐文治﹄
後日届いた手紙には、そう認められていた。
原田は深く頷き、文治の心をしっかりと受け取った。
原田良樹、二十歳の出来事だった。
169
2
1月半ばの土曜日。 原田家山辺家の顔合わせが、両家の中間に位置する料理店にて行
われた。
双方、相手方に対し好印象を抱いた。
終始和やかに会食は進み、結婚への段取りは滞りなく運ぶ。仲人
は魚津夫妻に依頼することに合意し、結納の日取りも決まった。
彩子は正直、その流れに戸惑っている。
プロポーズをされた夜は嬉しさのあまり眠れない程だったが、冷
静になってみると、原田と付き合い始めてまだひと月も経っていな
いのだ。
望んでいるはずの展開なのに、ここへ来て少し早すぎるのではな
いかと、体勢を整えられないでいる。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、原田はどんどん次の準
備を考えている様子だ。
一生を決める事柄なのに、男性はあまり不安にならないものなの
か。それとも表に見せないだけなのかと、彩子は首を傾げてしまう。
彩子は妙に神経質な所がある。あまりに上手く行ってしまうと心
配になる。そんな時は、常に客観的にものを見てくれる友人⋮⋮特
に大垣智子に相談をしていた。
﹁そういえば智子に最近会っていないなあ﹂
智子の婚約者の後藤伶人には、先日原田と入ったコーヒー店で遭
遇したが、智子にはここのところメールもしていない。
彩子は無性に智子に会いたくなってきた。
170
料理店を出た後、原田と彩子は二人でドライブしてから帰る事に
した。両親達は快く送り出してくれた。
車に乗り、原田と二人きりになると肩の力が抜けた。やはり、相
当緊張していたのだ。
﹁彩子さん﹂
﹁はいっ?﹂
原田が急に呼ぶので、素っ頓狂な返事をしてしまった。
﹁⋮⋮どこか、行きたい所があれば付き合いますよ﹂
原田は笑いを堪えながら、要望を訊いた。
﹁驚いたんです、急に呼ぶから﹂
﹁緊張してた?﹂
﹁ええ。結構上がり症なんで﹂
﹁そうみたいだね。どうしてかな⋮⋮いやそれよりも、何処へでも
連れて行くから遠慮なく言って下さい﹂
﹁あ、はい。そうですね﹂
彩子は少し考えてから、﹁港に行きませんか﹂と提案した。
﹁港⋮⋮南へ30分くらいだな。いいね、ついでに夕飯も食べて来
ますか﹂
﹁はい、そうしましょう﹂
話が決まったタイミングで、彩子の携帯電話が鳴った。
﹁すみません、出てもいいですか﹂
﹁もちろん﹂
原田はそう言うと、車を発進させた。
電話の相手は智子だった。
﹃もしもし、私でーす﹄
﹁智子! 私も連絡しようと思ってたところなんだよ﹂
171
自然に声が弾んでしまう。
﹃そうだったの、良かった。ところで伶人に会ったんだってね。原
田さんのことも聞いたわよ。すっごく熱々なんだって?﹄
﹁な⋮⋮﹂
後藤が脚色して智子に話したらしい。
﹁え、ええと、後藤さんってすごく楽しい人だよね、アハハ⋮⋮と
ころで何だった?﹂
隣に原田がいるので言葉を選んでしまう。
﹃うん。あのね、彩子の初恋のカイロ君のことなんだけど﹄
﹁佐伯君?﹂
﹃そうそう、その佐伯君って、下の名前なんだったっけ﹄
妙なことを訊くと思ったが、彩子は普通に答えた。
﹁諒一だよ、りょ・う・い・ち﹂
﹃ああ⋮⋮やっぱり﹄
﹁佐伯君がどうかしたの?﹂
﹃ううん、なんでもない! あっ、ところでさ、伶人が原田さんに
2月の第4日曜に草野球の試合があるから出てほしいって言ってる
んだけど、忙しいよね﹄
﹁原田さんならここにいるけど﹂
﹃うっそ!﹄
智子らしくも無い反応だ。なんだか後藤を彷彿とさせる。
﹁訊いてみようか?﹂
﹃ああー、やめて⋮⋮っていうか大丈夫。無理しなくてもいいから。
大した試合じゃないし﹄
﹁でも一応訊いてみるよ。ちょっと待ってね﹂
彩子は隣に座る原田に話した。
﹁後藤のチームの試合か﹂
172
原田はしばし考える風にして、顎を引いた。
﹁他でもない智子さんの頼みだ。出るよ﹂
﹁本当? 良かった。もしもし、智子⋮⋮﹂
﹃ほんっとに、無理しなくていいから!﹄
相変わらずの大声である。彩子の耳がジーンと痺れた。
﹁原田さん、OKだって。詳しい事はメールのほうがいいかも﹂
﹃で、でも彩子、本当に大丈夫なの?﹄
﹁うん、何より智子の頼みだもん。じゃあ、また私も電話するね。
後藤さんによろしく﹂
﹃う、うん、分かった。電話して⋮⋮﹄
智子が何か言いたそうにしているが、彩子はとりあえず携帯を閉
じた。あとは夜にゆっくり話そうと思った。
﹁今のは⋮⋮﹂
﹁えっ?﹂
﹁いや、何でもない。そうか、試合するなら少し練習しておくかな﹂
原田が野球の試合を⋮⋮考えただけで彩子はウキウキしてきた。
﹁私も見に行きます。楽しみだなあ∼﹂
﹁俺のユニフォーム姿?﹂
﹁どうして分かるんですか!﹂
原田と彩子は声を合わせて笑った。
結婚に向けて、順調すぎる道のり。少し不安になるけれど、この
人とならきっと大丈夫。
彩子は今の嬉しい気持ちを大事に胸に抱いた。
港はそれほど寒くなかった。
この辺りは見晴らしのいい港湾で、水族館やアミューズメント施
173
設もあるレジャーパークになっている。土曜日のためか、家族連れ
やカップルなど行楽客が多い。
彩子と良樹は、遠くの水平線を行く貨物船を眺めたり、ベンチで
お茶を飲んだり、交わす言葉こそ少ないが、ゆったりとした時間を
過ごす事ができた。
﹁そろそろ腹が減ったな﹂
原田が時計を確かめた。時間は午後5時を回ったところで、少し
早いけれど彩子も空腹を覚える。
﹁水族館の横にステーキハウスがある。どうです、彩子さん﹂
﹁いいですね、行きましょう﹂
二人は同意し、夕食をとる事にした。
ステーキハウスに入ると、窓辺の席に座った。港が一望できる角
度で、景色がとても良い。
食事しながら、いろんな話をした。話題の中心は、やはり結婚に
ついてである。
先日、彩子は結婚の準備を﹃楽しい忙しさ﹄と表現したが、実際
話を詰めてみると、決めることがたくさんあって、楽しむ余裕など
持てないように思えた。
しかし原田は何に置いても自分の意思をしっかりと持ち、決断も
早い。あまりこだわったビジョンを持たない彩子は、うんうんと同
意するのみ。
話がもつれたり混乱することも無く、案外余裕を持てそうな気も
した。
﹁彩子さん﹂
食後のコーヒーを飲んでいると、原田が正面から彩子を見つめた。
174
﹁はい﹂
﹁俺に合わせようとして、何か遠慮してるんじゃないですか﹂
彩子がこれといった希望を言わないので、原田はかえって気にな
ったようだ。
﹁そんな事ありませんよ﹂
﹁ならいいですけど⋮⋮我慢はしないで下さいね﹂
彩子はふと、閃くことがあった。
原田は彩子について、﹃我慢強くて、人前で泣かない女の子﹄と、
木綿子から聞かされている。だから心配なのかもしれない。
もしそうなら、彩子は困ってしまう。
こだわりを持たず人に合わせるというのは性格で、我慢などして
はいない。
だけど、この性格に関して彩子は別の意味で心配している。原田
に比べて自分はあまりにも物足りない女なのではないか。歯がゆく
思われるのではないか⋮⋮と。
店を出ると、夜の帳がおりていた。
船や建物がきれいにライトアップされた港は、なかなかロマンチ
ックな雰囲気である。何組かの男女が肩を寄せ合い、恋人らしく歩
いている。
﹁そういえば、今日はあのスーツじゃないんですね﹂
彩子は今更ながら気が付いた。色は同じ濃紺だが、見合いの日に
着ていたスーツではない。真新しい二つボタンスーツで、彼にとて
もよく似合っている。
﹁ああ、あのスーツはつんつるてんだけど、気に入ってたんだ。実
は今日も着て来るつもりだったけど、さすがに失礼かなと思って﹂
ばつが悪そうにする原田だが、彩子はクスクスと笑った。
175
あのスーツはスリム仕立てではなく、単につんつるてんなだけだ
った。原田の服装に対するアバウトさは本物のようだ。彩子は納得
し、同時に何かホッとするものもあった。
﹁そんなわけで、この前新調したんだ。成人式みたいだろ?﹂
原田は笑うと、その真新しいスーツの上にコートを羽織る。さす
がに海辺の夜は寒い。
二人は駐車場に向かい、ゆったりと歩いた。辺りには人影も少な
く、とても静かな歩道だった。
港湾の光と、潮の響きに心が揺さぶられたのか。
彩子は突然立ち止まった。
﹁原田さん﹂
﹁うん?﹂
﹁あの、本当に私でいいんですか。付き合って一か月にもならない
のに結婚を決めて、後悔しませんか﹂
彩子は馬鹿げた事を言っていると、自分で思った。そうだねとで
も言われたらどうするつもりなのか。
﹁そうだね﹂
思わず原田を見上げた。彼は困ったように笑うと、海に目を向け
てぽつりと答えた。
﹁それは、俺が訊きたかった事ですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
彩子は言葉が無かった。
考えてみれば原田も同じだ。不安なのは誰だって同じなのだ。私
は自分本位だった。自分だけが、不安な気持ちなのかと︱︱
﹁原田さん⋮⋮キスしてもいいですか﹂
思わぬことを口走った。ほとんど無意識に零れた言葉だった。
176
原田は驚いたようだが、真面目な顔つきになると、
﹁どうぞ﹂
そう言って彩子の前に立った。
彩子は背伸びをすると、かがんでくれた原田の頬を両手で挟み、
そっと唇を重ねた。キスと言うより、触れたという感じの軽いもの
だった。
﹁すごい誘惑だ﹂
照れている彩子に原田は呟く。頬を熱くさせる彩子だが、
﹁本当に君は、面白い子だ﹂
と付け足した言葉に微笑み、恥ずかしさをごまかした。
原田は彩子の冷たい手を自分のコートのポケットに入れると、独
りごちた。
﹁帰りたくないけど、帰るか﹂
彩子は聞こえない振りをして、頬をさらに紅く染めた。
177
3
彩子は入浴を済ませると、自室で一息ついた。
港からここまでずっと、自分から原田にキスをしたという事実に
悶々としている。どうしてあんな事が出来たのか自分でも不思議だ
った。
原田はどう思っただろう⋮⋮考えると頭が痛くなってくる。
﹁そうだ、智子に電話するんだった﹂
彩子は携帯電話をバッグから取り出した。開けて見ると、着信履
歴が残っている。
﹁エリから⋮⋮どうしたのかな﹂
折り返し電話をかけると、エリはすぐに出た。
﹃彩子、ばれたわ!﹄
いきなり吐き出した。彩子はきょとんとするが、すぐに何のこと
か察する。
﹁⋮⋮えっ、もしかして雪村に?﹂
﹃そう、私達がコレーに行ったのがばれたのよ﹄
﹁一体どうして﹂
雪村の怒った顔が目に浮かんだ。
﹃ほら、オーナーのあの女が雪村に言ったんだって。背の高い鋭い
目をした女性と、可愛らしい子供のような女の子が来たって。雪村
はすぐに私達だって見当が付いたって﹄
彩子はどう返せばいいのか分からず、複雑な心境だった。
﹃どうせ私は陰険な目つきよ!﹄
エリは電話口で怒鳴った。智子に負けず劣らずの大声だ。
彩子は耳を押さえながらエリをなだめた。
178
﹃それでね、雪村がそんなに気になるなら紹介してやるから来いっ
て﹄
﹁えっ、付き合ってる人を?﹂
驚きだった。と言うことは、別に秘密の交際ではなかったのだ。
﹁そうかあ∼。それならぜひ会いたいね、雪村が付き合ってる⋮⋮﹂
﹃カラダの相性が抜群だって男にね﹄
﹁そ、そうそう﹂
﹃明日は暇?﹄
思い立ったらエリは速攻だ。
﹁うん。明日は予定無い﹂
﹃原田さんは﹂
﹁明日は日曜出勤だって﹂
﹃そう、なら大丈夫ね。じゃ、明日迎えに行くから、え∼と⋮⋮1
0時に行くけどいい?﹄
﹁分かった。待ってる﹂
﹃よし、決まり。それじゃよろしくね、おやすみ﹄
﹁おやすみ﹂
エリの電話が切れたと思ったら、すぐに着信があった。
発信者を確かめると智子からだ。
﹁もしもし﹂
﹃彩子、昼間はデート中にごめんね。今、大丈夫?﹄
﹁うん、もう家にいるから﹂
﹃えっと、何か話したい事があったんでしょ。また何か悩んでる?﹄
本当に私の事を良くわかっている。心から有難いと思った。
﹁うん、悩んでたけど、何とかなりそうだから⋮⋮もう大丈夫﹂
﹃そっか。本当に大丈夫なのね﹄
179
﹁うん、何かあったらまた相談する﹂
﹃よし。それじゃ、昼間言ってた草野球の件だけど﹄
智子は言いよどんだが、思い切ったように彩子に告げた。
﹃佐伯諒一君が来るわよ﹄
彩子は一瞬何の話かと思った。
﹁佐伯君って⋮⋮カイロ君?﹂
﹃そう、あんたの初恋の男の子が、伶人のチームに助っ人に来るの
よ﹄
﹁ど、どうして﹂
彩子は話に付いて行けない。
﹃もうほんと、地元にいると関わってくるものなのね∼。伶人があ
ちこちの地元の知り合いに電話して、足の速い人を探してたのよ。
そしたら、複数の人が佐伯君を推薦するわけ。結構有名なのね、彼﹄
彩子は遠い日を思い出す。
中学のグラウンドで見た佐伯諒一のスチール。素晴らしく速い足。
速いだけでなく、投手の癖を盗んで走る観察眼のよさ、離塁のタイ
ミングといい、センス抜群だったと今更ながら思う。
﹁佐伯君、地元に居たんだ﹂
彩子は意外だった。中学卒業以来、噂にも聞かなかったのだから。
﹃最近戻って来たらしいわ。東京本社から地元に転勤願いを出して
帰って来たって、伶人が言ってた﹄
﹁そうなんだ﹂
彩子はそわそわしてきた。佐伯がどんな男性になっているのか想
像出来ない。何しろ10年も歳月が過ぎている。
﹃それで、いいかなと思って﹄
﹁何が?﹂
﹃原田さんも来たら、少し気まずいんじゃないかって﹄
180
﹁まさか。だって昔の話だよ。それに付き合ってたわけじゃなし﹂
﹃いいかな﹄
﹁大丈夫だよ、今更。それに、佐伯君だって昔とすっかり変ってる
かもしれないし﹂
﹃そう、それを聞いて安心したわ。何とか大丈夫そうね﹄
智子はふうっと息をついた。結構心配性なんだと彩子は意外に思
った。
﹃それなら、早速場所と時間をメールするから原田さんに伝えてお
いてくれる﹄
﹁了解﹂
﹃それじゃ、頼んだわよ。おやすみ﹄
﹁はーい。おやすみ﹂
彩子は電話を切ってすぐ横になるが、さまざまな事で頭が一杯に
なって寝付けない。
中でも、佐伯のあのくるっとした可愛い目が無性に思い出されて
仕方なかった。
日曜日。今日はめずらしく雨が降っている。
こんな日は気をつけないと体が冷え切ってしまう。
彩子は冷たく濡れた景色を窓から覗くと、なんとなく寒気がして
肩を抱いた。ひさしから落ちる雨だれが忙しない。
10時少し前にエリが迎えに来た。
彩子はエリの車の助手席に乗り込むと、彼女と顔を見合わせ気ま
ずそうに笑った。
﹁雪村に謝らなきゃ﹂
彩子が言うと、エリも同意した。
﹁そうね。少し姑息だったわね、私達﹂
181
コレーに着く頃には、雨はますます激しくなっていた。
二人は車から降りると、傘を差さずに走る。下手に傘など使うと、
開けたり閉じたりする間にずぶぬれになってしまいそうだ。
扉を開けると、カフェのカウンター席で雪村が待っていた。黒い
セーターにレザーのスカートを合わせ、胸元にはクロスペンダント
が煌いている。
﹁探偵のお着きだ﹂
いきなり皮肉をかまされ、彩子もエリも苦笑するのみ。
﹁うふふふ﹂
カウンター内で、あの美貌のオーナーが可笑しそうに笑っている。
﹁雪村⋮⋮コソコソ調べたりして本当にごめん。許して﹂
彩子は頭を下げて率直に詫びた。
﹁私もごめん。らしくなかった。直接あんたに聞けばよかった。勘
弁してください﹂
エリも素直に謝った。雪村はそんな二人の態度に息をつくと、
﹁いいよ、もう。一応心配してくれたんだろ﹂
そう言って笑顔を見せた。
ようやく彩子とエリは安堵した気持ちになり、胸を撫で下ろすこ
とができた。
﹁コーヒーはいかがですか﹂
オーナーの美那子が訊くと、﹁じゃ、三人分﹂と雪村が言いかけ
たが、彩子達に見向く。
﹁その前に紹介するよ。私の恋人﹂
﹁えっ?﹂
エリと顔を見合わせたところへ、工房の扉を開けて文治が現れた。
彩子とエリは腰を抜かしそうになった。
182
﹁や⋮⋮っぱり﹂
エリが震え声で呟くと、
﹁おいおい文治先生タイミングが悪いよ﹂
雪村は文治に向かって文句を言った。
﹁何が?﹂
文治はきょとんとして、スポーツ新聞を手に取ると、また工房へ
と戻って行った。
﹁違ったね﹂
彩子とエリは冷や汗を拭うと、お互いを肘で突いた。
﹁じゃあ一体誰なのよ。どこにいるの、恋人って⋮⋮﹂
雪村がカウンター内の美那子を親指で差している。
﹁なっ﹂
エリが思わず身を乗り出しカウンターの内側を覗き込む。
が、やはりそこには美那子しかいない。
美那子はにっこりと微笑んでいる。
彩子達はぽかんとして、二人を見比べた。
﹁私は同性愛者だ﹂
びっくりし過ぎて、何の言葉も出ない。
彩子は雪村とは中学・高校と6年間の付き合いがある。部活動も
一緒で、ほとんどの時間をともに過ごしたと言っても良い。
﹁気がつかなかったよ﹂
それだけ返すのが精一杯だった。
﹁だろうね、彩子は鈍いから﹂
雪村はクスリと笑う。
﹁コーヒーをどうぞ﹂
カップを置く美那子の白い指先を見つめ、彩子とエリは確かに美
しいと感じた。
183
女性が女性を愛し、愛される。
それは美しい世界なのかもしれないと、危うく感じさせる白さで
あった。
﹁どうでもいいけど、コートぐらい脱いだら﹂
雪村がいつもの調子で言う。
二人はもそもそと無言で脱ぎ、受け取りに来た美那子に預けた。
彩子のコートを受け取る時、美那子はハッとした顔になる。白い
ニットの胸元に、見覚えのあるアクセサリーが飾られていた。
ゴールドの台座にアメシストを組み合わせたペンダントトップ。
コレーのオリジナルのデザインである。
﹁そういえばお二人さん、よく見るとこの間の人達だね﹂
文治が工房から顔を出した。
﹁ひょっとして入会希望かな﹂
﹁いえ、今日は友達に会いに来ました﹂
エリが言うと、雪村がハイと手を上げる。
﹁ほう、雪村さんとお友達でしたか﹂
文治は頷きながら彩子に振り向いた。そして美那子と同じように
アクセサリーに目を留め、驚いた表情になった。
﹁これは⋮⋮これはもしかして、原田君からのプレゼントですかな﹂
今度は彩子が驚いてしまう。
﹁は、はいっ原田さん⋮⋮そうです。あの、どうしてそれを﹂
﹁どうしても何も、そのペンダントトップは私が彼に頼まれて作っ
たものだよ﹂
﹁えっ、そうなんですか?﹂
彩子は改めて葡萄色のきれいな石と金の細工を見つめた。ふと気
付いて台座を確かめるが、コレーの名は入っていない。
184
﹁個人的に差し上げようと思って、店の名は入れなかったんだ﹂
﹁⋮⋮え﹂
﹁そうしたら原田君に、﹃それじゃ俺からのプレゼントになりませ
ん﹄と言われてしまった﹂
﹁⋮⋮﹂
原田らしい言葉に彩子は確信する。文治の言う事に間違いはない。
﹁へえ∼っ、すっごい偶然!﹂
エリと雪村は声を合わせる。
皆が盛り上がるその後ろで、美那子だけは横を向いていた。恥ず
かしげに赤くなる彩子から目を逸らして⋮⋮
そして、体の奥底からどす黒いような感情が湧いてくるのを必死
に抑えようとしていた。
185
1
﹁文治先生、原田って人は彩子の見合い相手だよ﹂
雪村がカウンター席に腰掛け、コーヒーを片手に文治に教えた。
﹁お見合い?﹂
美那子が横から口を出した。
﹁そうそう、この子ったら出会って一か月もしないのに、婚約する
とこまで来てるのよ﹂
エリが道すがら聞きだした彩子の最新情報を披露した。
﹁婚約! そこまで話が進んでいたのかね﹂
﹁嘘だろー!﹂
さすがの雪村も驚いている。
﹁随分簡単に決めたのね﹂
冷めた声に、皆いっせいに振り向いた。
発言したのは美那子だった。
﹁簡単って事はないわよ。彩子に限って⋮⋮ねえ彩子﹂
エリがフォローしたが、昨日までその辺りに迷いが生じていた彩
子は曖昧に頷くのみ。
﹁男なんて、簡単に信用しては駄目よ﹂
美那子は布巾を乱暴にカウンター内に放り込むと、工房の方へ行
ってしまった。
﹁何なんですか、彼女﹂
エリが気色ばんで言うと文治がすまなそうに頭を下げた。
﹁申し訳ない、少々わけありなもので﹂
雪村は何か考えているようだが、彩子に見向くと真面目な声で訊
いた。
﹁もう寝たのか﹂
186
エリも文治もぎょっとして雪村を、そして彩子を見た。
彩子は意表を突かれたが、雪村にそんな質問をされるのはどこか
で覚悟していた。かぶりを振ると、俯いたままカップにミルクを入
れた。
﹁やっぱりね﹂
雪村はふっと息をつく。
馬鹿にしたような、安堵したようにも取れるため息だった。
文治は彩子をしげしげと眺めた。
﹁そうですか。あなたが原田君の想い人か。なるほど、聞いたとお
りだ﹂
﹁文治先生は原田さんと知り合いなのか﹂
雪村が文治を見上げて訊いた。
﹁ああ、小学生の頃から知っとる。私にとっても大事な青年だ﹂
﹁へえ⋮⋮じゃあ、美那子も知ってるんだね﹂
﹁美那子? ああ、知ってはいるが﹂
雪村の問いかけに文治は口ごもった。彩子はそれがなぜなのか気
になった。やはり美那子と原田には、何かあるのではと。
文治は気を取り直したように笑顔を作ると、不安げな彩子に話を
向けた。
﹁原田君はあなたのことを、可愛い純粋な人だと言っておった﹂
﹁えっ?﹂
唐突な発言にはっとした。そしてその言葉を頭の中でなぞると、
顔が熱くなった。
︵原田さんがそんな事を?︶
戸惑いながらも、何とも言えない温かなものが心に湧いてくるの
を感じた。
187
﹁そりゃあ∼、よく彩子を見てるわ。確かにこの娘はそんな感じよ
ね、雪村﹂
エリが面白そうに言うと、雪村が受けて答えた。
﹁そうそう、純粋の純は、単純の純。そして鈍感の鈍に限りなく近
いからな﹂
﹁ひどいなあ﹂
彩子は口を尖らせるが、文治は微笑ましく見守っている。
﹁まあ、とにかくめでたい事だ。原田君によろしくお伝えください﹂
そう言うと、美那子を追うように再び工房の中へ入ってしまった。
﹁そうか、彩子もついに結婚か﹂
雪村は空になったカップ類を片付けると、感慨深げに呟いた。
﹁うん﹂
彩子は小さく頷く。旧友の横顔には、ひとつの別れを迎えたよう
な、じんとくる表情があった。
﹁それはそうと、雪村は彼女とは長いの?﹂
エリが工房の方へと視線を向ける。美那子の事だ。
﹁二年くらいかな。ここに初めて来たのは、今の会社に慣れた頃だ
から﹂
雪村は思い出すように、顎に手をあてた。
﹁私さ、宝飾資材の会社にいるじゃん。だから今必死で石の買い付
けのノウハウを学んでるんだ。最近も香港に行ってきたばかりでさ、
飛行機の中で将来のことをいろいろと考えたんだ。今日はそのあた
りの展望を美那子と話したわけ﹂
﹁展望?﹂
彩子がきょとんとして訊いた。
﹁将来、独立しようと思ってる。そして、美那子と一緒にオリジナ
ルのジュエリーブランドを立ち上げようと考えてるんだ﹂
188
彩子もエリも驚いた。雪村がそんなビジョンを描く人だとは思い
もよらなかった。確かにしっかりした人間ではあるが、起業を考え
ているとは。
﹁まだまだ資金も足りないし、いつになるかわかんないけどね﹂
雪村は肩をすくめて笑う。普段はクールなのに、笑うと途端に可
愛くなる。それは彩子がよく知っている雪村の顔だった。
けれど、今日の彼女は何だか違う人のように感じられて仕方なか
った。
彩子とエリは店を出た。
雨はいつの間にかやんで、空は晴れ渡っている。気温は低く、風
が冷たかった。
﹁いろんな愛があるんだね﹂
エリが空を仰ぎ、つくづくと言う。
﹁うん、雪村ってすごいよ﹂
今日は旧友の知られざる一面を見ることが出来た。思わぬ告白に
二人は驚いたが、彼女の夢を聞いて嬉しくもある。広い空の下、複
雑な心情を共有していた。
◇ ◇ ◇
日曜出勤は仕事がはかどる。
原田良樹はそんな事を思いながら着替えを済ませると、駐車場に
向かった。
︵しかし、彼女に会えないのは残念だな︶
彩子を思い浮かべた。彼の心には常に彼女が存在するようになっ
189
た。以前の原田には考えられない現象である。
女に現をぬかすなど⋮⋮と、やや古風な気概を持っていた。自分
の変わりように、我ながら可笑しくなってしまう。
﹁さてと、久々に打ち込むか﹂
原田は帰りの道沿いにあるバッティングセンターに寄る事にした。
入社した頃は気分転換のためによく利用したものだが、近頃は遠の
いていた。
そのバッティングセンターは、広々とした田んぼの中にあった。
︱︱田之上バッティングセンター
掲げられた看板は色褪せてボロボロになっている。
﹁古くなったよなあ﹂
原田は妙に感心したように呟くと、持参したタオルを首に引っ掛
けて建物に入った。
設備もそれなりに古くなったが、客はまあまあの入りである。快
音を響かせたり、派手に空振りしたりと、楽しそうだ。
原田はとりあえず110キロのケージに入った。隣の140キロ
のケージには原田と同じ年恰好の青年が入り、調子よく打っている。
いい体をしているなと、原田は思った。
100円玉を入れると、早速機械が動き出す。
まず、軽く当ててみた。
その次に、少し振ってみた。ゴロになった。
次に普通に振ってみるとミートして、正面に飛んだ。
それからは、概ね手応えのある快音が続き、あっという間に50
0円分が終わる。額に浮かぶ汗をタオルで拭うと、とりあえずケー
ジを出た。
190
﹁いいフォームですね﹂
見ると、先ほど140キロのケージで打っていた青年が原田の傍
に来て、笑顔で立っている。
﹁そうか?﹂
あまりに屈託無く話しかけるので、原田もつい自然に返した。
原田より少し若い感じの男だ。
﹁超速球もいけますか﹂
男は真ん前のケージを指差す。
﹁いけると思うよ﹂
ここの超速球は、表示速度よりかなり遅い。原田はつい可笑しく
て笑った。妙な男だと思った。
﹁でも、一番難しいのはスローボールですよね﹂
男は、小学校低学年ぐらいの男の子が入っているケージを見て言
った。
﹁まあ、そうだな。山なりだし、かえって打ちにくいね﹂
なぜ自分はこの見知らぬ男と喋っているのだろうと原田は思うが、
不思議と抵抗は感じない。見るからに敏捷そうな若者である。野球
経験者だというのは体つきを見て分かったが、顔つきが”やりそう
な感じ”である。
例えば、思いもよらぬスチール。
﹁佐伯、そろそろ行こうぜ!﹂
友人らしき若い男が向こうで呼んだ。
原田はおやっと思った。
昨日、彩子が智子との電話で﹃佐伯君﹄と言ったのを思い出した。
妙に甘い響きが感じられて、記憶に残ったのだ。
﹁じゃましてすみませんでした。でも、ほんと、いいフォームして
191
た﹂
佐伯と呼ばれた男は原田に会釈すると、まるっこい目を向けてそ
う言った。
﹁諒一ってばよ∼﹂
﹁おう! じゃ、失礼します﹂
原田はあっと思ったが、すでに彼は店の外。
なんとすばやい男だと感心する。
︱︱諒一だよ、りょういち。
彩子が口にした男と同姓同名だった。
原田は狐につままれたような心地になり、彼が消えた方向を暫し
見つめていた。
192
2
アパートの部屋で寝ころび、原田はあらためて考えた。
安易に試合に出ると言ってはみたものの、ろくに練習をしていな
い状態では、無様な結果になりかねない。
今日、バッティングセンターで出会った佐伯と呼ばれた男の体を
思い出してみる。いかにもやり込んでいる肩と腰だった。
基本的な筋トレは原田も毎晩行っているが、打つ、投げるの練習
はしていない。
あれこれ考えていると、携帯電話が鳴った。彩子からだ。
﹁はい﹂
﹃あ、彩子です。こんばんは原田さん﹄
﹁オス、こんばんは﹂
原田は起き上がって胡坐をかいた。
﹃智子から、野球の会場と時間の連絡です。今、いいですか﹄
﹁ああ、大丈夫です。どうぞ﹂
原田は手元のメモに連絡事項を書き取った。
︵出ないわけにはいかないな⋮⋮︶
ペンを置くと、覚悟を決めた。
﹃今日はお仕事だったんですよね。お疲れ様です﹄
﹁ああ⋮⋮いや、なんて事ないよ﹂
彩子に労われ、何となく照れくさいような返事をした。
﹃ところで、今日コレーっていうお店に行ったんです﹄
出し抜けに言うので、原田は言葉に詰まった。
﹃もしもし?﹄
﹁ああ、アクセサリー工房の﹂
193
﹃そうなんです。私の友達の雪村っていう子がオーナーの美那子さ
んと⋮⋮友達で、その関係で行ったんです﹄
﹁へえ﹂
彩子の友人が美那子と繋がりがある。その事実に、原田はかなり
驚いた。そのせいか、友達の前に妙な間が置かれても気にならなか
った。
﹃それで、文治先生から聞きました﹄
﹁えっ、文治先生が何を﹂
原田はめずらしく落ち着きを無くす。電話でよかったと思った。
﹃文治先生がアメシストのアクセサリーを作ってくれたんですね﹄
﹁ああ、実はそうなんだ﹂
内心ホッとするが、それだけだろうかとちょっと気になる。
﹁他にも何か言ってた?﹂
﹃え、他にですか。え∼と、原田さんのことは小学生の頃から知っ
ている。文治先生にとっても大事な青年だと言われてましたよ﹄
﹁そうか⋮⋮﹂
どうやら文治も美那子も過去の件は何も話さなかった様子である。
﹃原田さん﹄
﹁ん?﹂
﹃何だか、いつもと違いますね﹄
ぎくりとした。
﹁そうかな、しかし後藤の奴はなんで俺の方に直接かけてこないの
かな﹂
原田は話題を変えたかった。わざわざ過ぎた事を持ち出し、彩子
を不安にさせることはない。
﹃あ、言われてみるとそうですよね﹄
コレーから彩子の意識が離れるよう、原田はさらに違う話題を振
ってみた。
194
﹁そういえば、昨日智子さんとの電話で﹃さえき
て言ってたろう﹂
﹃⋮⋮っ﹄
今度は彩子が言葉を詰まらせている。
りょういち﹄っ
原田は軽い気持ちで訊いたのだが、意外な反応だった。
﹁ひょっとして、その人は野球をやってるんじゃないかな﹂
﹃知ってるんですか、原田さん﹄
驚いた声で彩子が聞き返す。
﹁目がくるっとして、俺より少し若い﹂
﹃どうして知ってるんですか﹄
やはりそうかと、原田は確信する。全く、分かりやすい人だ。
﹁今日、会社帰りに寄ったバッティングセンターで、それらしき人
に出くわした﹂
本当の事なのだが信じてもらえないかもしれないと原田は思った
が、
﹃そうだったんですか﹄
彼女は信じる人だった。
﹃中学の同級生なんです。野球部で、凄く足が速かったからよく憶
えてるんです﹄
﹁ほう﹂
原田は彩子ほど単純ではない。
﹃えっと⋮⋮﹄
彩子は困っている。その様子が目に浮かび原田は可笑しくもあっ
たが、面白くも無かった。
﹃後藤さんが誘ったらしいんです。今度の試合に佐伯君を﹄
﹁佐伯君、か﹂
原田はそんな事だろうと思ったのでさして驚きもしないが、彩子
195
の﹃佐伯君﹄という呼び方に神経を逆撫でされるような気分になる。
﹁よ∼し、わかった。ところで、近い内に式場の下見に行かないか﹂
﹃え、式場? 結婚式のですか﹄
急に話題を変えた原田に、彩子は戸惑っている。
﹁早めに決めないと、思った所に予約が取れなくなる﹂
原田は彩子を少々呑気だと思うが、そこがいいところでもあるか
ら仕方が無い。
﹃そうですよね、わかりました﹄
﹁また連絡するよ﹂
﹃ええ、待っています﹄
﹁それじゃ、おやすみ﹂
﹃おやすみなさい﹄
原田は通話を切ると、畳にひっくり返った。
そして、精神修養が不足していると、自分を情けなく感じていた。
◇ ◇ ◇
後藤伶人は駅前のマンションに一人暮らしだ。近頃は婚約者の大
垣智子がたびたび訪れ、夕飯などこしらえつつ彼の帰りを待つ事も
ある。
1月23日金曜日。
今夜はそ智子に加えて、もう一人の人物が夕食の席についていた。
﹁いただきます!﹂
﹁おう、気を使うなよ。楽に行け楽に﹂
後藤はその若者にビールをすすめた。
196
﹁無理言って試合に出てもらうんだからな、これぐらい当然だ﹂
﹁恐縮です﹂
﹁自分が飲みたいだけよ。気にしないで、佐伯さん﹂
智子が横から本当の事を言う。
﹁ところで佐伯、お前自分の会社でチームに入ってるのか﹂
後藤は鶏の唐揚げをぱくぱく頬張りながら訊いた。
﹁いえ、俺はもっぱら草野球です。中学時代の仲間を集めて毎週練
習してます﹂
﹁へえ。昔の仲間なら気心が知れてるよな﹂
﹁そうすね﹂
智子は佐伯に刺身の盛り合わせをすすめた。
﹁ありがとうございます﹂
智子は佐伯を見ながら、つくづく彩子の好みのタイプだと思った。
︵少年っぽい目元と、俊敏そうな雰囲気、まじめそうな性格⋮⋮あ
ら、原田さんみたい︶
智子はまだ原田を見たことが無いが、彩子の話を聞いていると大
体こんな感じに当てはまると思った。
︵基本的に好きな男性のタイプって変らないものかもね︶
そんな事を考えていると、後藤からビールの追加を注文された。
﹁あんまり飲みすぎないで﹂
﹁わかってるって。今日は特別さ。なっ、佐伯ちゃん﹂
﹁後藤さん、腹が出てきますよ﹂
﹁ぬあにい∼。よく見ろ! どこが出てるどこが﹂
後藤はシャツを捲り上げて佐伯に見せ付けた。どこからどう見て
も、出ている。
﹁うっふふ⋮⋮そういえば、この前すごくカッコいい人を見ました﹂
197
﹁へえ∼、どこでどこで﹂
智子が身を乗り出す。
﹁ちぇっ、何だ何だ﹂
後藤は拗ねた様に言うと、つまみのチーズを楊枝で突いた。
﹁田之上バッティングセンターってあるじゃないですか。田んぼの
真ん中の﹂
﹁ああ、あるある。昔よく行ったな﹂
﹁私も知ってる。すごく古い所よね。まだ営業してるんだ﹂
﹁ええ。そこで、俺の隣で打ってた人がすごくきれいなフォームだ
ったんです。例えば⋮⋮﹂
佐伯は、とあるプロ野球選手の名を挙げる。
﹁へえ∼、それで?﹂
後藤も関心を示し始めた。
﹁ケージから出たところで思わず声を掛けたんです﹂
﹁男をナンパか﹂
ちゃちゃを入れる後藤をたしなめながら、智子は意外そうな顔に
なる。見知らぬ人に話しかけるなんて、佐伯は案外人懐っこいのだ
なと思った。
﹁顔付きが男らしくてまたいいんです。あと、何ていうかこう⋮⋮
目が、澄んでるって言うのかな。立ち姿もすっとして、動きに無駄
がない﹂
﹁えらく惚れこんだもんだな∼﹂
後藤は腕組みをして、佐伯に向き合った。
﹁フォームがきれいだって俺が言って、そしたら自然に返事してく
れて、えらく落ち着いた人でした﹂
﹁どっかで見たような奴だな。野球やってる男かな﹂
﹁そう思いますよ。背は177か8くらいで、髪をこう後ろに撫で
付けた、俺より少し年上だったと思います﹂
198
﹁ふんふん。身長177か8で髪を後ろに撫で付けた⋮⋮か﹂
後藤は誰かを思い出しかけるが、イメージが固まらないようだ。
﹁男が見てかっこいい男って、本当にいい男だと思いませんか﹂
﹁う∼ん、女から見ると、そうとは限らないと思うけど、中身に関
して言えばそうかもしれないわね﹂
智子は、佐伯は少し風変わりな青年だと認識する。
﹁おっ、田之上バッティングってあれじゃないか。K光学の近くじ
ゃねえか﹂
﹁少し行った所にレンズの大きな工場がありますけど、あれですか﹂
﹁そう! それってあいつだよ﹂
智子は嫌な予感がした。
﹁智子、彩子ちゃんのいい人! 原田だよ。そんなすかした奴は原
田しかいねえ﹂
後藤は手をパチンと打って言い当てた。
﹁原田さんってK光学に勤めてるの?﹂
﹁お前が俺に教えたんじゃないか﹂
しまった︱︱と、智子は自分を恨んだ。
﹁ええ∼、さすがっすね。この辺りで野球やってる人の事はほとん
ど把握してるんですね﹂
﹁好きなタイプの奴はな。ほおお、お前あいつをかっこいいと思う
わけ﹂
﹁カッコいいっすよ。俺好きだなあ∼、ああいう人。ところで後藤
さん、さっき﹃さいこちゃん﹄って言いませんでしたか﹂
嫌な予感ほど当たるものだ。智子は苦笑するほかなく、ビールを
あおった。
﹁うん、言ったよ。原田の彼女、彩子っていう名前なんだ﹂
﹁さいこ⋮⋮さいこか。俺が初めて好きになった子もさいこって言
199
ったなあ﹂
佐伯は頬杖をつき、遠くを見る眼差しになる。
智子はもうドキドキして大変である。
﹁ほお、いつ?﹂
﹁中坊の頃っす。彼女、ソフトボール部で、時々グラウンドですれ
違うんですけど、目がよく合ったんです﹂
﹁佐伯さん、ビールのお代わりは?﹂
智子が後藤の前に立って佐伯にすすめた。
﹁おい、邪魔だよ。いい話してんのに﹂
後藤が押しのける。
﹁あることがきっかけで思い切って喋るように、頑張ったんです。
そしたら彼女も応えてくれて⋮⋮﹂
﹁ほうほう、純情な奴だなあ∼キスぐらいはしたのか﹂
﹁伶人!﹂
智子が怒鳴った。
﹁な、何だよ。俺じゃねえよ、佐伯の話だよ﹂
後藤は智子の剣幕に押されて何故か言い訳をしてしまう。そんな
二人を佐伯は微笑ましそうに見ている。
﹁するわけありませんよ﹂
﹁何で﹂
﹁何でって言われても⋮⋮﹂
﹁できないものはできないの。ねっ、佐伯さん。伶人はしたかもし
れないけど﹂
﹁さっきから絡むなあ。何だよ一体﹂
佐伯は夢見るような目つきになり、懐かしげに呟いた。
﹁卒業してから学校も違ったし、結局、電話も出来なかったなあ。
今頃どうしてるかなあ、山辺彩子﹂
﹁⋮⋮﹂
200
後藤と智子は、違う意味で絶句した。
佐伯は驚いている。
無理もない。自分がいい男だと褒めた相手の彼女が、初恋の女の
子だった。しかも、今度の草野球の試合に来るというのだから。
智子はコーヒーを三人分淹れると、テーブルに運んだ。
︵やっぱり昔の話だから大丈夫なんて甘かったわよ、彩子︶
心で親友に話しかけると、自分も椅子に座った。
色恋に疎くて色気の無い⋮⋮そんな彩子がこの頃はどうなってい
るのか。これがモテ期というものなのかしら。智子は思わず知らず、
ため息をついていた。
﹁でもまあ、今は何とも思ってないんだろ、彩子ちゃんのことは﹂
伶人が佐伯の顔を窺いながら問うた。
﹁そうすね。どんな女性になってるかとは、気になりますけど﹂
﹁どんなかな、オイ﹂
後藤は目で智子を促す。
変ってないと思う⋮⋮とは言えない智子である。
智子が黙っているので、後藤が彩子の印象を述べた。
﹁俺が見た感じでは、まるで原田の子供だったな﹂
﹁ぶっ﹂
それは酷いと智子は思うが、ついつい噴き出してしまった。
﹁はあ⋮⋮じゃあ、あんまり変ってなさそうですね﹂
佐伯はなぜか、ホッとした顔になった。
﹁言っとくが横恋慕はするなよ。揉め事は起こすなよ。今の山辺彩
子は原田のものなんだからな﹂
201
めずらしくまともな事を言う伶人に智子は感心した。
﹁あいつに抜けられたら今度の相手に勝てねえからよ﹂
がっかりである。
﹁わかってますよ。もう昔の話ですから﹂
そう言いながらも物思いに耽る佐伯に、後藤も智子も言うべき言
葉が見つからなかった。
佐伯が帰ったその後で、後藤と智子はミーティングを開いた。
﹁とにかく、知らんぷりを決め込もうぜ﹂
﹁そうよね﹂
﹁初恋だの、好きだったの、一切口に出すのは禁止だ。彩子ちゃん
にも原田にも佐伯にも、変な気を回さず、自然に接する事だ﹂
﹁そうよね﹂
智子は頷くしかなかった。
﹁とにかく、俺は聞かなかった事にする。試合が終わるまでは﹂
﹁終わってからもよ。蒸し返したら承知しないわよ!﹂
﹁怖いなあ∼、何だよ﹂
智子は後藤の調子に乗る性格をよく分かっている。自分本位な面
があると承知の上で愛しているのだ。後藤もそんな智子に弱かった。
彩子が原田の子供なら、後藤は智子の子供だと言える。
智子は窓辺に寄るとカーテンを開き、夜空に浮かぶ冬の三角形を
眺めた。
﹁とにかく彩子のことを一番に考えなきゃ﹂
自分に言い聞かせるように独りごち、カーテンを閉めた。
202
1
土曜日の早朝。
原田は会社敷地内にあるグラウンドで野球の練習を始めた。
更衣室でトレーニングウエアに着替え、ストレッチを念入りに行
った後でランニング。その後、野球部に借りたボールで送球練習を
した。
キャッチボールの相手がいるといいのだが、個人的な練習に誰か
を引っ張るのは気が引けた。会社のチームに参加もしないで、グラ
ウンドやボールを借りるのもそうだ。
今後は助っ人を頼まれても参加は見送ろうと思った。
最後に遠投の練習をした。
後藤から連絡があり、原田のポジションはセンターだと聞かされ
たのだ。当日、いきなり遠投などしたら肩がおかしくなる。徐々に
慣らさねばと、慎重に距離を伸ばしていった。
︵試合まで、まだ日にちがある。いくらお遊びだろうが、やるから
にはよく準備をしておきたい︶
原田は毎日練習する事に決めていた。
﹁打つ方はどうしようもないな。後藤に付き合わせるか﹂
汗を拭きながらベンチに腰掛け、独りごちた。
スポーツバッグを引き寄せ、ペットボトルのお茶を出すと一息つ
いた。
グラウンドは静かで、フェンス沿いの道を通る車も人もいない。
原田はしばらく冬枯れの風景に目を当てていた。
ふと思い付き、バッグの内ポケットから小箱を取り出した。蓋を
開けると、そこには彩子のチョーカーが納めてある。
ベンチから出て、青い空に透かすようにフローライトを掲げた。
203
彼女の顔が自然に浮かび上がる。
﹁蛍石か﹂
ベンチ脇からいきなり声がした。
しま
ひであき
驚いて見向くと、丸眼鏡をかけた色白の男が立っていた。原田の
同期入社で生産管理の仕事をしている志摩秀明だった。
﹁何だ志摩か。驚かすなよ﹂
﹁一人で練習してるのか。そういや最近顔を見ないけど忙しそうだ
な、製造の方も﹂
﹁お前もな﹂
志摩も野球チームに入っているが、原田と同じく最近は幽霊部員
である。
﹁製造が順調だと、俺も仕事に余裕ができるんだが﹂
志摩はニンマリ笑ってそんな事を言った。
﹁痛いところを突かれた﹂
原田も笑い、二人はベンチに腰掛けた。
﹁どうだい、生産管理部に配属されてもう2年になるな﹂
原田が訊くと、志摩は肩をすくめた。
﹁もうね、俺の部署は女性ばっかりで、仕事以外にも仕事があって
本当にもう⋮⋮ああ、俺男がいいわ﹂
﹁何だそりゃ﹂
﹁女はわからん﹂
﹁お前のところは女の人が多いからな。そうか、大変か﹂
何が大変なのかよくわからないが、原田は志摩のやせた頬を見て、
いろいろあるよなと推察した。
﹁志摩、今日は出勤?﹂
﹁まあね。たまたまグラウンドでやってるお前を見てた﹂
204
﹁見てたのか。声を掛ければいいのに﹂
﹁付き合おうか﹂
﹁どうして﹂
﹁俺、運動不足だし、ストレスも溜まってるし。付き合わせてほし
い﹂
願っても無い申し出だった。原田は志摩の肩を叩き、握手をして
喜んだ。
︵ありがたい。蛍石のおかげかな︶
彩子を思い描き、心で礼を言った。
﹁毎朝だぞ。朝の7時から1時間だ﹂
﹁いいともさ、どうせ独り身の暇な男さ﹂
﹁俺と一緒だ﹂
﹁違うだろうお前は﹂
志摩は眼鏡の奥の目を光らせると、原田からチョーカーを取り上
げた。
﹁おいおい﹂
﹁女性用のアクセサリーだな。すみに置けない奴め﹂
原田は一言も無かった。
﹁きれいだな⋮⋮﹂
志摩はチョーカーを飾る蛍石をじっと見つめた。
﹁ああ、天然の石ってどうしてこうきれいなんだろうな﹂
原田も一緒に眺める。
﹁およそ45億年前に地球が誕生し、石はさまざまな環境の中で、
さまざまなプロセスを経て育まれ、今の姿がある。石に限らず、自
然のものってみんなそうだろう。みんな美しい∼﹂
志摩はロマンチストらしく、謳うようにして言った。
﹁彼女もきれいだろう﹂
205
﹁えっ?﹂
﹁この石は彼女そのものって顔してたぜ﹂
﹁そ、そうかい﹂
彩子への想いを見透かされ、原田はばつが悪くなる。
﹁彼女だってお前だって、今までいろいろな事があって今の姿にな
ったのさ﹂
﹁志摩⋮⋮どうして﹂
原田は端正な志摩の顔を、正面から見直した。
﹁何となくね。男女の悩みは俺も少なからず経験してる⋮⋮当たっ
たか﹂
﹁大当たりだよ﹂
﹁やっぱりな。お前は今、石に何か問いかけてた﹂
原田は驚いた。自分と同じ恋愛音痴だと思っていたこの男が、恋
愛の専門家のような謎解きをしてみせた。
﹁うちの会社も蛍石を使ってるよな。まあ、人工的に加工されたも
のだけど﹂
志摩は話の角度を変えた。
﹁ああ。カメラ、望遠鏡、顕微鏡、高級な光学機器にも蛍石レンズ
は使われている﹂
原田は自社製品以外もいくつか並べた。
﹁そういえば、隣県に昔の蛍石鉱山があるな﹂
﹁うん、俺も一度行ってみたいと思ってる場所だ﹂
﹁結構山の中だぞ﹂
﹁山か⋮⋮﹂
原田は、彩子と初めて会った日に交わした﹃一緒に山へ行く﹄と
いう約束を思い出した。
﹁暖かくなったら行こうかな﹂
原田は計画を立てたくなってきた。
206
﹁近くに温泉もあるぞ﹂
志摩は温泉が好きな男である。
﹁なるほど﹂
﹁泊まりで行ってもよさそうだな﹂
原田はそれもいいかと考えるが、何となく口に出せなかった。
﹁さっ、そろそろ行くかあ∼。お前は帰るのか﹂
志摩は立ち上がって大きく伸びをした。背は高いが、ぽっきりと
折れそうな痩身である。
﹁ああ、今日はもう帰る。それより志摩、本当に月曜日から来てく
れるのか﹂
﹁来るともさ。少しは運動しなきゃ∼。でもあまりハードなのはパ
スだぞ﹂
﹁俺だってそうだよ﹂
二人は約束をして別れた。原田は気心が知れた男の背中をしばし
見送った。
空は青く澄んでいる。原田はグラウンドの整備を終えると、晴々
とした気持ちで駐車場まで駆けて行った。
◇ ◇ ◇
土曜日の朝、彩子はベッドから出られなかった。
雪村に会うためコレーに行った時、冷たい雨に濡れてしまった。
あれ以来どうも調子が悪かったが、ついにダウンしたのだ。
最近の職場はコンクール入賞の影響もあり、新規の取引先からの
受注が増え、かなり忙しい状態だ。来客や電話もひっきりなし。そ
の対応で通常の業務も遅れている。
207
とても休めない状況で、つい無理をした。ごまかしごまかし会社
に行っていたが、そのしわ寄せが一気に来た感じだ。
﹁今日は原田さんと式場の下見に行く予定なのに﹂
彩子は赤い顔で横になったまま、原田に電話をかけた。
﹁彩子です﹂
﹃どうした﹄
原田はすぐ異変に気付いた。
﹁えっ﹂
﹃声が枯れてる。風邪でもひいたのか﹄
そういえば喉も痛い。と言うより、喉の腫れが原因で熱が高いよ
うだ。
﹁はい、大した事ないんですけど、熱があって。ごめんなさい、私
⋮⋮﹂
﹃わかった。今日はゆっくり寝て、休んでくれ。無理しちゃ駄目だ
ぞ﹄
﹁はい、ありがとうございます﹂
﹃また連絡するから、とにかく寝てなよ。じゃあ⋮⋮﹄
電話は唐突に切られた。原田らしくも無い、随分慌しい口調だっ
た。
彩子は何とか病院に行くと点滴をしてもらい、家に戻るとおかゆ
を食べ、薬を飲んで眠った。
眠っても夢ばかり見て苦しかったが、とにかく原田に言われたと
おり、ひたすら眠った。
気が付くと、夜の7時になっていた。
ベッドの上にそっと起きてみる。
朝に比べて随分ラクになっている。明日の日曜日に無理をしなけ
208
れば何とか治りそうである。
︵良かった⋮⋮原田さんのおかげだ︶
彩子は心で彼にお礼を言った。
﹁彩子﹂
母がいきなり部屋に入ってきた。
﹁ご飯食べられそう?﹂
﹁おかゆなら大丈夫と思う﹂
﹁そう。ところで、お薬もあるんだけど﹂
﹁薬? 病院でもらったのならここに⋮⋮﹂
母はにやっと笑うと、ドアを大きく開けた。
﹁おじゃまします﹂
原田が立っていた。
﹁うわあ﹂
彩子は声を上げ、慌ててパジャマの襟を直した。
﹁じゃあ、おかゆを持って来るわ。原田さん、コーヒーをお淹れし
ますからね、ホホホ﹂
﹁あ、いやお構いなく﹂
母が変な笑い方をして、階段を下りて行った。
﹁お見舞いに来たよ﹂
原田はワイシャツにネクタイを締め、その上に紺のセーターを着、
スラックスを穿いていた。手には封筒をいくつか抱えている。
﹁お仕事だったんですか﹂
彩子は原田に椅子をすすめながら訊いた。
﹁いや、実はいくつか式場を回って来たんだ﹂
﹁そうなんですか!﹂
﹁と言っても、パンフレットを貰っただけ﹂
原田は、近郊にある数箇所の式場パンフレットを封筒から出して
見せた。
209
﹁雑誌やネットで探しても良かったけど、実際見たほうが分かると
思ってね。式場ってのは結構たくさんあるんだな、驚いたよ﹂
少し疲れているように見えるが、原田は明るく笑った。
﹁この中で彩子さんの気に入った所があれば、今度一緒に説明を聞
きに行こう。予約してから行けばしっかり聞けるよ﹂
彩子は涙が出そうになるが何とか堪え、
﹁ありがとう、原田さん。嬉しいです﹂
素直にお礼を言う事ができた。
﹁どういたしまして。どうです、少しは良くなったかい﹂
﹁はい。言われたとおり、ずっと寝ていたおかげです﹂
﹁俺の言うとおりにしたか。感心感心﹂
原田はそう言いつつ、胸ポケットから彩子のチョーカーを取り出
した。
﹁あ、それは﹂
﹁今日はこれのおかげでいい事があった﹂
﹁え、何があったんですか﹂
﹁いい事だよ﹂
原田は穏やかに微笑むと、彩子の手の平にチョーカーを戻した。
﹁今は俺より彩子さんに必要だろ。早く治して下さいよ﹂
原田は彩子の手の平を包んだまま、暫く彼女の目を見つめていた。
彩子は熱がまた上がりそうになった。
母が階段を上がって来る音がして、二人は手を離した。
﹁彩子、おかゆですよ∼。原田さんはコーヒーをどうぞ﹂
﹁すみません﹂
母は空気を察してか、すぐに退散した。
﹁おっ、そうだ﹂
210
原田はハッとした顔になり、彩子を覗き込んだ。
﹁今度、式場を見に行ったあと、宝石店でエンゲージリングを頼も
うと思う﹂
﹁婚約指輪⋮⋮﹂
彩子はドキッとして、視線を寄せる原田を見返した。
﹁そう、結納に間に合うようにね。楽しみだな﹂
﹁えっ﹂
﹁何もかも、楽しみだって事!﹂
原田は少し照れたようで、それとなく目をそらすとコーヒーを飲
んだ。
﹁そういえば原田さん、空手道場には行っていますか﹂
彩子は不意に思い付き、原田に訊ねた。
﹁道場?﹂
原田はカップをトレーに置くと、窮屈そうな仕草でネクタイを緩
めた。
﹁あ∼、苦しいと思ったらまだネクタイをしていた⋮⋮う∼ん、そ
れがなかなかね。時間に間に合わなくって﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁どうしたんです、急に﹂
面白そうに訊き返す彼に、彩子はもじもじした。
﹁えっと⋮⋮また、空手着を着たところが見たいなあと﹂
﹁へえ、よっぽど気に入ってるね。そんなに似合ってるかな、俺﹂
﹁どんな恰好より、一番カッコいいです﹂
﹁そ、そう?﹂
彩子自身、どうしてそんな事を言い出したのか分からない。だけ
ど、心からそう思っている。何故か今、あの男らしい原田を見たく
てたまらない気持ちになっている。
211
﹁それじゃ、式場には空手着で行きますか﹂
﹁絶対ですよ﹂
﹁うっ。困ったな⋮⋮ったく、いつも彩子さんには﹂
原田は椅子を立つと、少し迷ってからベッドの端に腰掛け、真顔
で彩子に向き合った。
﹁原田さ⋮⋮?﹂
﹁彩子には一本取られる﹂
彼はそっと抱き寄せ、腕の中に包んだ。
原田は彩子を見舞ってから真っ直ぐ帰る気にならず、コーヒース
タンドに立ち寄った。
夜の9時過ぎだが、客が結構入っている。皆、静かにコーヒーを
飲んだり、携帯をいじったり、窓の外をぼんやり見たりしている。
中にはノートパソコンを開いて作業をする者もあった。
原田はぼんやりした。
彩子は普段も薄化粧だが、今日は全くの素顔だった。それが妙に
艶かしくて、ついあんな事をしてしまったのだ。
彼女を抱きしめると、薄いパジャマの上から柔らかな肌が感じら
れた。
まだ熱のある体は火照っているようで、それが女の匂いを一段と
際立たせたのかもしれない。
彼女の家でなくどこか二人きりの空間だったら⋮⋮
間違い無くあれ以上の行為に及んでいた。
原田は何とか自制した。
そして、早々に退散したのだ。
212
原田は腕の中で大人しくする彩子を思った。
彩子⋮⋮
彼女と話し、顔を見ているだけで幸せな気持ちになれる。
そんな存在にこの世で初めて出会った。
もし、失う事になったら? そんな世界はもう考えられない。
いつの間にかこんなにも深く、彼女を愛している。
原田はどうにか気持ちの整理をつけると、まだ落ち着かぬ胸を押
さえながら席を立った。
213
2
彩子はベッドの上でぼんやりした。まだ微熱があるので、今日も
横になっている。
どうしても思い出してしまう。
昨夜、原田に抱き締められ、﹃彩子﹄と呼び捨てにされた事を。
初めての親密な触れ合いだった。あれは男女の愛情だと、いかに
鈍い彩子でも感じる事が出来た。
原田はほんの10秒ほどだが彩子を腕の中に収め、さっと離れる
と、すぐに帰ってしまった。
後に残された彩子は、彼が持参した式場のパンフレットを眺めて
いたが、目に映っているだけで、意識は全く別の所にあった。
︵束縛されたいと思うのは、異常な感覚だろうか︶
携帯のメロディーにドキッとする。もしかしてと緊張したが、雪
村からだった。
︵ああ、びっくりした︶
窓の外を見ると、ちらちらと小雪が舞っている。彩子はベッドに
起きると、カーディガンを羽織ってから電話に出た。
﹃彩子、おはよう﹄
雪村の低い声が聞こえた。
﹁おはよう﹂
﹃何だその声は。風邪か?﹄
﹁うん。ちょっとね、こじらせちゃって﹂
﹃ふ∼ん、この頃流行ってるみたいだからなあ。じゃあ、手短に話
すよ﹄
214
雪村はやや早口になった。
﹁どうしたの﹂
﹃あのさ、ずっと前に言った事なんだけど﹄
﹁うん?﹂
﹃カラダの相性の話﹄
﹁あ⋮⋮﹂
いきなり持ち出された話題に彩子は戸惑う。昨夜の原田が思い浮
かんでしまい、一人で焦った。
﹃あれ、取り消す﹄
﹁えっ?﹂
どういう事だろう。彩子は携帯に耳を澄ました。
﹃私はさ、そんなこと思ってないんだ﹄
﹁そ⋮⋮そうなの﹂
上手く返事が出来ない。雪村が何を言わんとするのか、よく分か
らなかった。
﹃お前が可愛いから、からかっただけ﹄
﹁⋮⋮﹂
雪村は全くふざけていない。それどころか、いつになく真面目な
口調である。
﹃私達⋮⋮私と美那子はね、性的欲求が希薄。つまりプラトニック
なんだ﹄
彩子は黙ってしまうが、雪村は静かに続ける。
﹃美那子の方は多分⋮⋮だけど、少なくとも私はそうだ﹄
甲斐美那子︱︱
33歳とは思えないような若々しさ。肌理の細かな白い肌。
雪村も肌の美しさでは負けていない。また、整った顔立ちは少年
215
のように凛々しく、中性的な魅力がある。二人が並ぶなら、一枚の
高雅な絵になるだろうと彩子は想像する。
﹃彩子。私は美那子を本気で愛してる。それだけは神に誓えるよ﹄
雪村は念を押すように言う。こんなに真剣な雪村は初めてのよう
な気がする。
彩子は、何故だか胸がドキドキしてきた。
﹃それで、もう一度訊くけど、原田さんとは寝てないんだな﹄
﹁う、うん。まだ⋮⋮﹂
彩子は昨夜の温もりを思い出し、頬が熱くなった。
﹃だったら、私の言ったカラダの相性の話は忘れて、安心して抱か
れてくれ﹄
彩子はもう何と返したらいいのか分らない。
﹃それだけ気になったから電話した。まさか本当に原田さんと婚約
まで行くとは思ってなかったからね﹄
雪村はそこで言葉を止めると、ため息をついた。
﹃それにしても、随分と進むのが速いんだなあ、見合いってのは﹄
呆れたような、感心したような言葉に彩子は頷く。
﹁私達は特別展開が速いって、伯母さんが言ってた﹂
﹃やっぱりな。ま、いいや。彩子は芯はしっかりしてるから速かろ
うが遅かろうが間違いないだろ﹄
雪村はそんな言い方をしたが、彩子は合格点をもらったみたいで
嬉しかった。
﹃あ、美那子が来た。じゃあ、もう切るけど、あとひとつ﹄
雪村は内緒話をするように声をひそめた。
﹃私の初恋はお前だよ、彩子﹄
216
雪村との電話の後、彩子は眠った。
不安定な心は不安定な夢を見せるのか、何かに驚いて目を覚まし
た。どんな夢だったかは憶えていない。思い出そうとして額に手を
当てていると、母の声が聞こえた。
﹁彩子、お客様よ﹂
ドアを開けて顔を出し、不思議そうに首を傾げている。
﹁誰?﹂
﹁それが知らない女性で⋮⋮甲斐美那子さんって方﹂
﹁えっ﹂
彩子は驚いた。
さっきまで雪村のところにいたはずの彼女が、なぜここに。
﹁上がってもらってもいいの?﹂
﹁そ、そりゃ、もちろん﹂
彩子はそわそわした。あの人がどうして私のところに?
疑問を抱いたまま彼女を迎えた。
﹁突然おじゃまして、すみません﹂
美那子は部屋に入ると、彩子に急な来訪の無礼を詫びた。
﹁とんでもないです。あの、どうぞ、座って下さい﹂
﹁ありがとう﹂
ベッド脇の椅子に彼女が腰掛ける時、彩子は冷気を感じた。
窓の外では、ちらほらしていた雪が降りしきる粉雪に変っていた。
美那子はその冷たさを身体にまとい、部屋に入って来たのだ。
﹁律子から彩子さんが風邪を引いていると聞いて、お見舞いに来ま
した﹂
217
律子⋮⋮雪村に聞いたのか。そうだったのかと彩子は納得した。
それにしても、意外なほどの行動の早さだと思った。
﹁ちょうど、お話したい事もありましたので﹂
﹁そうなんですか。わざわざすみません、ありがとうございます﹂
彩子は何となく身構えてしまう。
この美しい女性、美那子には、えもいわれぬ魅力とともに、威圧
的なものを感じるのだ。
﹁先日はごめんなさいね。変な態度を取ってしまって﹂
﹁え⋮⋮っ﹂
﹁あなたの婚約話に、随分簡単に決めたのねとか、男を簡単に信用
しては駄目よとか言ったでしょう﹂
﹁あっ、それはその、気にしていませんです﹂
結構気になっていたのが態度に出てしまう。美那子はクスリと笑
って、
﹁私、あなたと同じ年頃に、婚約までした男性に裏切られたの﹂
彩子は思わず顔を上げる。この美しく聡明な女性が男に裏切られ
た? そんな事は、とても信じられない。
﹁まさか﹂
﹁本当よ。それでね、その当時、良樹君に随分と力になってもらっ
て、こうして立ち直ることが出来たのよ﹂
いきなり横面を叩かれた様な衝撃を受けた。
﹁原田さんが⋮⋮﹂
﹁私が自暴自棄になっているのを助けてくれたの。体を張って守っ
てくれたのよ﹂
美那子はうっとりとした表情で、目を潤ませている。
彩子は体が寒くなるを感じた。どんな反応をすればいいのかも分
らず、ただじっと、美那子の紅い唇を見つめていた。
218
﹁そんな良樹君と一緒になろうとしているあなたに向かって、男を
信用しては駄目なんて言うのは愚の骨頂だったと、こうしてお詫び
に来ました。本当にごめんなさいね﹂
筋は通っている。
しかし、彼女の話は錘のように彩子の胸を圧迫した。
﹁あら、これは﹂
彩子が呆然とするのを知ってか知らずか、美那子は傍らのテーブ
ルに置かれた蛍石のチョーカーに目を留めた。
﹁フローライトね。これは彩子さんの?﹂
﹁はい⋮⋮私の、お守りです﹂
無意識に返事をする。頭は混乱したままである。
﹁そう、お守り﹂
彩子は気まずい気持ちになり、窓へと視線を逸らした。曇ったガ
ラスの向こうは白く、雪が激しくなっているようだ。
﹁それではこれで、お暇いたします。彩子さん、お体を大切に﹂
﹁え⋮⋮﹂
彩子が見向くと美那子は微笑し、スーッと部屋を出て行く。引き
止める間もない、消えるような立ち去り方だった。
︵美那子さん?︶
彩子の家を出ると、美那子の上に容赦なく雪が降り掛かって来た。
怨念と羨望の渦巻く目で窓を見上げる。
そして、コートのポケットに滑り込ませた”お守り”を、きつく
握り締めた。
219
220
3
月曜日の朝、彩子は体温計を確認した。
平熱よりほんの少し高いが、何とか頑張れそうである。
出勤の支度をしてから、ふと気が付く。蛍石のチョーカーが見当
たらない。
確か、昨日美那子が来た時に﹃これは蛍石か﹄と訊かれた。その
時はサイドテーブルに置いてあったはずで、それは間違いない。
それが今は消えている。
彩子はベッド脇やテーブルの周りはもちろん、部屋の中をくまな
く探した。
無い︱︱
忽然と消えてしまった。
﹁そんな⋮⋮﹂
出勤時刻が迫っている。とりあえず会社に出掛ける事にした。
仕事は相変わらず忙しく、来客も電話も引っ切り無しだ。おまけ
に新しいソフトの設定とデータを移動する作業も加わり、休む暇も
無い。新井主任と協力して何とか回している状態である。
﹁今週がピークよ。彩子ちゃん、頑張ろうね﹂
新井は彩子の肩をぽんと叩くと、栄養剤を一気飲みした。彼女も
相当疲れているようだ。
忙しくしていても、彩子は蛍石の事を忘れなかった。そして、ど
う考えても美那子の手にあるような気がしてならない。それ以外に
は考えられないのだ。
221
終業の頃には疑惑が確信に変わっていた。
彩子は会社を出ると急いで駅前に走り、タクシーに乗って﹃コレ
ー﹄へと向かう。こうなると全く迷いも無く行動に移るのが彩子だ
った。
コレーに着くと、彩子はためらわずドアを開け中に入り、美那子
を探した。カフェには客がおらず、工房の方も人の気配がしない。
彩子はしかし奥へと進み、工房の扉を開けた。
美那子が一人、こちらに背を向け何かの作業をしていた。
﹁今日は雪が積もっているし、寒いからお客様も会員の人も来ない
わ。彩子さん、二人きりね﹂
彼女は振り向きもせず、そう言った。
﹁今、リングの整形をしているの。もう終わるわ﹂
美那子は静まり返った工房に軽い金属の音を響かせていたが、や
がて立ち上がると彩子の方を向いた。
﹁いらっしゃい、彩子さん﹂
﹁どうして持って行ったりしたんです。返してください、大事なも
のなんです﹂
彩子はめずらしく興奮し、頬を紅潮させている。
美那子は対照的に落ち着き払い、だけど青白い顔をして、うっす
らと笑みを浮かべた。
﹁これ?﹂
彼女はポケットに手を入れると、蛍石のチョーカーを隠す事無く
取り出した。そして傍らにある、ぶ厚い木製の板の上にそれを置い
た。
﹁形が悪いから直してあげようと思ったの﹂
言うなり、片手に持っていた金槌を振り上げる。
222
彩子は声にならない悲鳴を上げて飛び出したが、蛍石は無残にも
槌と板の間で音を立てて粉々になった。
﹁美那子さんっ﹂
彩子は、もはや絶対に修復不可能となった破片の散らばりにショ
ックを受け、次に激しい怒りが湧き上がるのを全身で感じる。
その時、音を聞いた。
彼女の中の、張りつめていた何かが切れた音だった。闘争本能は
誰にもあるが、彩子のそれに火が点くのは極めて稀な事で自覚も無
い。
物も言わずに美那子に近寄ると、その手から金槌を取り上げ、力
いっぱい床に投げ捨てた。
﹁許さないっ﹂
美那子は体をビクッとさせて立ち上がるが、後退りはしなかった。
﹁フローライトは脆い物よ。脆い物ならば初めから壊してしまった
方がいいのよ。あなたと良樹君もね、いずれこうなるわ﹂
不意に原田の名前が出て、彩子は動揺した。
昨日の言い様では、この美那子と彼の間には、ただならぬ関わり
コレー
があると解釈できる。いや、以前から心にずっと引っ掛かっている
事だった。
美那子と彩子は睨み合う。
その構図は、ギリシア神話に登場する乙女と、冥府の女王ペルセ
ポネという対照的な姿にも見える。しかし、乙女とペルセポネは同
じ一人の女性である。
美那子はいきなり彩子を引っ叩いた。
そして、体ごとタックルすると、壁に彩子を押し付けて襟を締め
223
上げた。女とは思えない恐ろしい力だった。彩子は喉元を締め付け
られ、本当に息が止まるかと思った。
しかし彩子も彼女に負けないぐらいの握力を持っている。美那子
の手首を掴むと、ぐっと引き離し、思い切り横に引き倒した。
捨て身で倒された美那子は呻いたが、即座に立ち上がると、遮二
無二彩子に飛び掛ってきた。
二人は棚と机の間の狭い空間を、くんずほぐれつして転げまわる。
しばらく格闘した後、彩子が力いっぱい押した拍子に、美那子の
背がテーブルの上に固定してある機械に激突した。
﹁きゃあっ﹂
美那子が甲高い悲鳴を上げた。
彩子はなおも向かおうとしたが、美那子は両手の平でそれを制す。
﹁待って! やめて彩子さん﹂
名前を呼ばれ、彩子は動きを止めた。
美那子の必死な叫びと形相に、憑き物が落ちたように我に返って
いた。
美那子はビスの外れた機械を不安げに眺め回すと、急いで電源を
入れた。
しばらく操作していたが、やがてほっとした顔つきになる。
﹁良かった。壊れてない﹂
機械に抱きつき、撫でさすって喜んでいる。
彩子は肩で息をしながら、呆然とそれを見ていた。
美那子は彩子に振り向くと、気が抜けたようにぺたんとその場に
へたり込んだ。彩子も同様に、その場にしゃがむ。工房の中は二人
の荒い息だけがあり、あとは静まり返っている。
224
﹁この機械は⋮⋮﹂
美那子がぽつりと呟いた。
﹁レーザー溶接機っていうの﹂
﹁⋮⋮高そうな機械ですね﹂
彩子は何となくそう思って言った。
﹁高い以上に大事なものよ。律子と初めて二人で買った機械だから﹂
﹁雪村と?﹂
不意に出てきた友人の名前に、彩子は目をみはる。
﹁彩子さん、あなたって見かけよりずっと芯があるのね。うふふ⋮
⋮私が25の頃とはずいぶんな違いだわ﹂
美那子の顔からは、すっかり険が消えていた。
﹁私は世間知らずだった。あの時の記憶がどうしても払拭できなく
て、劣等感になっているの。正直に言うわ。私はあなたではなく、
あんな馬鹿だった自分が許せなかったの。そして、良樹君という理
想通りの青年に愛されているあなたに嫉妬していたのよ﹂
美那子は立ち上がり、カフェの方に歩いて行った。
﹁コーヒー飲まない、彩子さん﹂
﹁いただきます﹂
彩子もふらつきながら後に続いた。喉がカラカラだった。
コーヒーをもらうと、彩子は砂糖もミルクも入れずブラックで飲
んだ。
美味しかった。
﹁雪村は⋮⋮﹂
彩子は呟くように美那子に告げた。
﹁あなたの事を本気で愛しています﹂
﹁ええ、私もよ﹂
美那子は迷いもせずに応えた。
﹁本当ですね。雪村は私の大切な友達です。傷つけたりしないで下
225
さい﹂
彩子が訴えると、美那子は驚いた顔になる。
﹁あなたはこんな時に、友達の心配をするの?﹂
﹁いけませんか﹂
真っ直ぐに美那子を見つめた。
﹁ああ、もうあなたって良樹君そっくりね﹂
﹁え?﹂
﹁かわいくて、純粋で⋮⋮全くのお人好し﹂
﹁原田さんがお人好し?﹂
﹁お人好しよ。自暴自棄になってた私を体を張って助けたって言っ
たでしょう﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
彩子は思い出し、少し暗くなった。
﹁好きでも何でもない私を助けるんだから、お人好しよ﹂
﹁⋮⋮﹂
ハッとして見返す彩子に、美那子は微笑んでいた。
﹁彼は父の文治に頼まれて、父のために私を助けたのよ。悔しいけ
れど、私の事なんて眼中にないの。今も昔もね﹂
昔、三人の間に何があったのか詳しくはわからないけれど、原田
は美那子を女性として、特別に思っていたわけではなかった。
彩子は、たちこめていた暗雲が一気に晴れて行くような心地にな
る。
﹁これが真相よ、彩子さん。ああ! さっきまで幸せなあなたを憎
らしく思っていたけど、暴れまくったらどこかへ行っちゃったわ﹂
美那子は大きく伸びをした。
﹁私には律子がいるんだって、気が付いた﹂
かけがえのない機械にぶつかった事で、美那子は目を醒ましたの
226
だ。
﹁そうですよ、雪村は絶対にあなたを裏切ったりしません。私の保
証付です﹂
彩子は心からそう言った。
﹁過去は、今を前向きに生きる事で、いつしか乗り越えています﹂
﹁彩子さん﹂
美那子は頭を垂れた。
﹁チョーカーの事、本当にごめんなさい。どうお詫びしても取り返
しが付かないけれど、何でもするから⋮⋮許して﹂
彩子はもう吹っ切れている。あのチョーカーが、フローライトが、
その身をもって道を照らしてくれたと思えるから。
﹁美那子さん、私は感謝してるんですよ﹂
﹁え?﹂
美那子はぽかんとして彩子を見る。
﹁私も暴れてすっきりしました! 美那子さん強いですね﹂
﹁ま⋮⋮﹂
彩子の屈託の無い言い方に、美那子は笑顔になった。
﹁彩子さんの握力も相当なものよ。見て、手形が付いてる﹂
なるほど、美那子の手首に彩子の指のあとがくっきりと付いてい
る。
二人はどちらからともなく手を取り、笑い合った。
今すぐ原田に会いたい。
彩子は愛しい気持ちが溢れて仕方なかった。
227
1
美那子と格闘した翌々日の水曜日。彩子は目の下にクマを発見し
た。
会社の手洗い場の鏡に映った顔は、いくつも年を取ったようにく
たびれ果てていた。風邪と仕事の多忙さとによる疲れが、まともに
出ているのだ。
﹁酷いなあ⋮⋮﹂
コレーで美那子と和解したあと、ずっと原田に会いたいと思い続
けている彩子だが、これはとても見せられない。
おまけに仕事が最悪の事態になった。
夕方、久しぶりに早く帰れそうだと思った矢先、新しいソフトに
半日かけて設定しておいた計算表や各種データを、手違いで消去し
てしまったのだ。
﹁バックアップは!﹂
新井主任の悲鳴が事務所中に響いた。
﹁取ってません⋮⋮﹂
蚊の鳴くような声で、彩子は答えた。
忙しかったから、は、言い訳である。
残業して、失敗した分を取り戻す事になった。
新井は家族の用事でどうしても帰宅しなければならず、午後7時
に退社した。
彩子は9時までかかって計算表を設定し直し、全データを入力し
終えた。
﹁やっと、終わった⋮⋮﹂
現場には工場長はじめ従業員が何人か残っているが、事務所は自
分ひとりである。彩子は炎症を起こしそうな手首をさすりながらお
228
茶を淹れ、ようやく一息ついた。
﹁ああ、疲れた。またクマが濃くなりそう﹂
目を押さえながら、デスクの引き出しからバッグを取り出す。そ
の時、携帯が鳴動している事に気付いた。バッグのポケットに入れ
っぱなしなのを忘れていた。
原田からだ。彩子は慌てて応答する。
﹁もしもし﹂
﹃彩子、今どこにいる﹄
唐突に原田が訊いた。
﹁今、まだ会社なんです。今日、失敗しちゃって⋮⋮あの、残業で
す。ごめんなさい。カバンに携帯を入れっぱなしで﹂
﹃いや、無事ならいいんだ。さっき家のほうにも電話したけど、ま
だ帰ってないって言われて。こんな時間に家にいないなんて珍しい
から心配したよ﹄
心から安堵した声に、彩子は素直に嬉しく思う。でも、原田は心
配性なんだなと認識を新たにした。
﹃ところで、今度の土曜日は大丈夫?﹄
﹁式場めぐりですね。ええ、もちろんです﹂
﹃そうか、よかった。それで、どうだった? 希望の式場はあの中
にあったかい﹄
彩子はぽりぽりと頭を掻いた。
﹁それが⋮⋮時間が無くてまだしっかり見れてないんです。ごめん
なさい﹂
﹃いいよ、まだ余裕は充分ある。え∼と、あとは言い忘れてたけど、
ご両親の意向も聞いておいてくれないか﹄
﹁両親の?﹂
﹃両家の結婚式でもあるからね﹄
﹁分かりました。あ、明日でもいいですか﹂
229
﹃うん。できれば会って話したいけど、遅くなりそうかな﹄
﹁えっ、会ってですか﹂
彩子は目の下のクマに触れた。
﹁今、あまり会いたくないんです﹂
﹃えっ、どうして﹄
原田が怪訝な声で訊いてきた。
﹁顔が⋮⋮﹂
﹃顔?﹄
﹁顔が老けてるんです。最近忙しくて、疲れてて、目の下にクマが
できて﹂
﹃⋮⋮﹄
電話の向こうで絶句する気配があり、そして数秒後⋮⋮
﹃アッハハハ﹄
原田の、これまでに無い大笑いが聞こえた。
﹁酷いですね。本当に大変なんですよ、顔が﹂
﹃うっ、大丈夫。全然気にしないよ、俺は。うっふふ﹄
どうやら原田は笑い上戸でもあるらしい。いつまでも止まらない
ないようだ。
﹁笑いませんか、見ても﹂
﹃笑わない、笑わない。でも、そういうことなら式場めぐりも急が
なくていいし、予約も変更しておく。体調がよくなったら連絡をく
れ、待ってるよ﹄
﹁はい、次の週なら絶対大丈夫だと思うので。あ、クマが残ってて
も笑わないで下さいよ﹂
﹃はは⋮⋮了解。じゃあまたな。早く帰ってよく眠りなよ、おやす
み﹄
﹁おやすみなさい﹂
230
電話を切ると、彩子はすっかり復活し、元気になっていた。
家に帰ってから式場のパンフレットを見て、それから早く寝なき
ゃと、急いで帰り支度を始めた。
午後8時︱︱
彩子はN駅近くのフレンチレストランにいた。
さっきから可笑しいのを堪えている原田と、向かい合って座って
いる。
﹁原田さん、ホントに帰っちゃいますよ﹂
彩子は本気で怒りそうになっている。
﹁悪かった、謝る。でも、全然老けてなんてないよ、彩子﹂
﹁ホントですか﹂
﹁ああ、本当だ﹂
原田は真顔になって言うが、実際、今日も目の下のクマが取れて
明るく優しい
いない。彼が電話をくれた日から一週間が過ぎ、体調は良くなった
のだが、クマはうっすらと残っている。
彼の笑い上戸を、彩子は許してあげる事にした。
声に、癒やされていくのを感じるから。
﹁⋮⋮ってことは、神社と駅前の大きなホテル。二か所のどちらか
だね﹂
原田は食後のコーヒーを飲み終えると、彩子が付箋を付けたパン
フレットを眺めた。
﹁神社はご両親の希望?﹂
﹁いえ、私が選びました﹂
﹁へえ、神社がいいのか⋮⋮俺も実は、そう思ってたんだ﹂
231
原田は嬉しそうに笑うと彩子を見た。
彩子は、綿帽子や白無垢に憧れている。
がよく似合うと想像している。
また、原田には紋付袴
﹁白無垢は、これからあなたの色に染まりますって言う意味がある
んですよね﹂
彩子は言ってから、はっと口を押さえた。何とも気恥ずかしい言
葉だと心で思ったが、
﹁そうか、彩子は俺の色に染まるのか﹂
原田は冗談ぽく、余裕で受け止めている。
﹁まあ、そういう事です﹂
彩子は下を向いて、指先でテーブルクロスの端を摘まんだ。
原田はしかし、黙ってしまった。
黙ったまま、レストランの真向かいにあるホテルに目を当ててい
る。
﹁彩子﹂
﹁はい﹂
﹁今夜、君を抱きたい﹂
彩子は指先の動きを止めた。何を言われたのか分からなかった。
原田は至極真面目である。
﹁向かいのホテルに予約を入れてある。俺は、そのつもりでいる﹂
彩子は困惑した。全く予測していなかった。いきなりすぎると思
った。
だが気が付くと、首筋まで紅く染め、頷いていた。
ホテルのエレベーターを10階まで上がると、二人は降りた。フ
ロアはしんとして、誰も泊まっていないかのように静かだった。
232
原田は予約したという部屋を開けると、彩子を先に入れた。
その仕種が
部屋はダブルで、ガラス張りの窓は大きく、夜景が綺麗に見える。
原田はジャケットを脱ぐと、ソファに放り投げた。
やけに男っぽく乱暴に感じられ、彩子はびくりと体を震わせる。
﹁シャワーを使う?﹂
低い声で訊かれ、
﹁後から﹂
と、短く返事をした。
﹁じゃあ、先に浴びるよ﹂
原田はそう言うと、バスルームに入って行った。
彩子は初めてだった。
友達はほとんど経験者であり、いろいろな話は聞いている。だけ
ど今、いざ自分の番となり、体が震えている。もちろん心のどこか
で早くこうなる事を望んでいた。
それにしても、急すぎる。
原田が出て来た後で、彩子はシャワーを浴びた。
彼と目を合わせられなかった。
脱衣室の大きな鏡で、自分の体を見回す。
コレーでの格闘のあとが、あちこちに残っている。
変に思われないだろうか。暗いから分からないだろう。さまざま
な事を考える。
彩子はバスローブを纏い、髪を乾かした。あとは、彼の待つベッ
ドに入るだけである。
心臓が早鐘を打っている。
233
部屋に戻ると、ライトは落とされていた。
淡い灯りを頼りに、彩子はベッドに向かって歩く。
原田は彩子に気が付くと体をずらし、どうぞと言うようにスペー
スを開けた。彩子がベッドに入ると、腕で腰を抱き寄せ、口付けを
した。
彼の体温が伝わってくる。男の匂いも⋮⋮
彩子はバスローブが乱れているのを変に気にした。そんな事は無
意味であるのに。
原田は彩子をベッドに寝かせると、覆いかぶさるようにした。自
分の体重で潰さないように、優しく。
彩子はその体勢に、彼の支配下に置かれたような怖さと、そして
ある種の感動を覚える。
原田は目尻にキスを落とすと、ローブを脱がせながら囁いた。
﹁君は、誰よりもきれいだ﹂
彩子は目を閉じる。何も考えられなかった。
﹁俺のものにしたい⋮⋮﹂
大きくて無骨な手が、乳房を包む。ゆっくりと揉みほぐし、息が
荒くなるのと同時に力もこめられる。
﹁ああ⋮⋮あッ﹂
思わず漏れる声を原田が唇で吸い取る。侵入してきた舌はしっと
りと濡れて、何か別の生き物のようにうごめき、彩子の中を犯し始
めた。
︵原田さんが、こんな事⋮⋮︶
するに決まっている。男の人なんだから。
234
でも、信じられなくてドキドキする。気が急いたように身体を求
め、素肌を撫でまわし、弄っているのは本当に原田さん?
穏やかで優しくて、温かな眼差し。原田は彩子と目を合わせなが
ら肩を抱き込むと、キスを繰り返しつつ、片方の手で身体を愛撫し
た。
﹁柔らかいな。どこもかしこも⋮⋮君は﹂
彼の身体は逞しくて、抱きしめられると身も心も安定して、うっ
とりするほどの安心感が得られる。どんな危険からも守ってもらえ
るような、頼もしさ。
でも、彼は守るばかりではない。
﹁きゃ⋮⋮﹂
かお
腹部から先に彼の指が伸びた時、彩子は小さな悲鳴を上げ、目を
つむった。欲望に滾る表情をまともに見ていられない。
﹁彩子﹂
﹁いや、原田さ⋮⋮﹂
濡れた音が聞こえる。原田の指がそこを慰め、少しずつ開こうと
しているのだ。
身をよじって抵抗するが、やんわりと押さえられる。
﹁いやなのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
涙ぐみながら、顔を横に振る。
薄く瞼を開けると、愛しくてたまらないという目で、彼が見下ろ
していた。
﹁好きだよ﹂
耳や首筋に熱い息が掛かり、それは甘いため息だった。 彩子は腕を彼の首に回し、縋り付く。原田の指はいつの間にか彩
子の中に入り、様子を確かめていた。
235
﹁ん、ああ﹂
きつい。自分でも分かるけれど、どうしようもない。どうすれば
いいのか、見当も付かないのだ。
﹁力を抜いて、彩子﹂
﹁う、うん﹂
子供のような返事をすると、彼にすべて任せた。どうされてもい
いと、心から思える人だから。
︱︱安心して抱かれてくれ。
不意に頭をよぎる雪村の声。それは、こういう事なのだ。
﹁待ってろ﹂
一旦彩子を離すと、彼はベッドサイドに用意したそれを装着し、
再び覆いかぶさってくる。十分に抱きしめ、キスで緊張を解してく
れる。
﹁抱くよ﹂
﹁⋮⋮ん﹂
彼は彩子の脚を抱えると、左右に広げる。男の人の力がその中心
に加わり、押し付けられた。
﹁んん、は⋮⋮ああっ﹂
あられもない格好だけど、彼が望むなら平気。
痛くても我慢できる。
それでも、何度か抵抗してしまう。そのたびに止まり、衝動を堪
える彼の顔、汗ばむ手の平に愛情を見ている。彩子も愛しくて仕方
なかった。
やがて根元まで呑み込み、息も切れ切れに彼の名を呼び続け、溢
れるほどの性愛を受け入れる。
236
男の愛情と欲望が注がれ、その律動に気が遠くなりそうだった。
彩子は初めての感覚に瞼を震わせ、痛みと悦びに濡れている。
愛し合う︱︱
その夜、彩子の何もかもが幸せに満たされた。
237
2
真夜中、ホテルからの帰り道。星の見える場所に車をとめた。
別れがたく、しかし互いを強く意識するあまり黙り込んだまま、
二人は前を向いている。
﹁彩子﹂
原田が突然、口を開いた。
﹁体のあちこちに傷があった﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁どうしたんだ﹂
原田は彩子に見向くと、怒っているかのような低い声で訊いた。
﹁あの、それは⋮⋮実は﹂
彩子は変に思われるよりはと、正直に答えた。
美那子が見舞いに来た事。蛍石のチョーカーを取り返しに行き、
格闘になった事。そして和解した事まで、全て。
﹁そんな事があったのか。あの美那子さんと喧嘩を⋮⋮﹂
彩子はどう思われるか心配した。何せ掴み合いの格闘をしたのだ。
だが原田は、
﹁すごい人だよ、君は﹂
感心したように言い、明るく笑った。
﹁すごくないです。かっこ悪いですよ、女なのに﹂
彩子は思わぬ反応をされ、恥ずかしくなり下を向いた。
﹁そうか⋮⋮過去についても、大体分かってしまったな﹂
原田は観念した口ぶりになると、文治と美那子とのいきさつにつ
いて簡潔に語った。
﹁どうして言ってくれなかったんですか、文治さんと美那子さんの
こと﹂
238
なぜ黙っていたのか不思議だった。秘密にするような事は何もな
いと、彩子には感じられる。
原田は言いにくそうにするが、やるせないため息とともに漏らし
た。 ﹁それは⋮⋮かっこ悪いからだよ﹂
﹁二人のために体を張った事がですか? かっこいいじゃないです
か﹂
原田はかぶりを振った。
﹁美那子さんがナンパ野郎に暴力を受けた時、俺は相手をやっつけ
られなかった。一発食らって落ちた。言いたくないけど、抵抗する
間もなくやられたんだ。人が大勢いる繁華街で、たまたま警察を呼
んでもらって助かっただけで﹂
彩子はぞっとしながらも、彼の行いはやはり正しいと思う。
﹁でも、原田さんが無事でよかったです。それだけでも充分です﹂
﹁いや、俺はそうは思わない。やはり男なら勝たなきゃ駄目だ。拳
で勝つばかりじゃなく、逃げて勝ってもいい。人の手を借りずに、
自分で解決しなきゃ駄目なんだ﹂
原田の横顔は頑なになる。こうなると、もう頑として意思を変え
ないと、彩子にも分かっている。
﹁俺はあれから本気で空手の稽古に打ち込んだ。絶対に、自分を許
さなかった﹂
彩子は、原田のボロボロの空手着と帯を思い出した。
﹁特に⋮⋮今は護るべき人が出来た。大袈裟じゃなく、命をかけて
もいいと思っている﹂
原田は彩子の手を握り締め、誓うように言った。
﹁原田さん﹂
彩子はこんな台詞を男性から聞こうとは夢にも思わなかった。
原田は、好きとか愛してるという言葉をほとんど口にしないが、
239
今の言葉には、それらに勝るとも劣らない感激を覚える。
﹁私だって、原田さんのためなら⋮⋮﹂
彩子は知らず、涙を流していた。
人前では見せたくないと思っている涙が、泉のように溢れてくる。
今夜の事は一生忘れない。
原田の肩にそっと凭れ、澄み渡る宇宙に浮かぶ、冬の星座を見つ
めた。
翌朝︱︱
彩子は夜中に帰ったのを咎められることも無く、家を出ることが
出来た。
母親は原田をすっかり信頼しており、彼が一緒なら何時に何処へ
出かけても文句を言うつもりは無いようだ。かえって相手方に彩子
が迷惑をかけないかと心配しているぐらいである。
そうなると彩子のほうが何となく気まずいような、複雑な心境だ
った。
職場では、欠伸ばかりが出て困った。新規の業務も一段落し、社
内は久しぶりに落ち着いたムードになっている。
﹁欠伸が多いわね∼、彩子ちゃん﹂
新井に鋭い視線を投げかけられ、ドキッとする。
﹁いえ、仕事が一段落したから、つい欠伸がですね﹂
﹁うふふふ﹂
何もかもお見通しなのよと言わんばかりの笑い方だ。彩子はきま
りが悪かった。
﹁彩子ちゃんは結婚したらどうするの。仕事は続けるの?﹂
昼食後のひと時、新井はお茶を淹れながら、何気ないふうに訊い
た。
240
﹁そうですね⋮⋮﹂
ここ数日間で、彩子の仕事に対する意識が変った。自分でも役に
立っているという実感が、多忙を極めてみて初めて得る事ができた。
失敗もしたけれど、それも含めて頑張れば出来る、挽回できるとい
う自信につながっている。
﹁続けたいです。できるだけ長く、働きたいです﹂
新井は胸を撫で下ろしている。
﹁ああ、嬉しい。そう言ってくれて﹂
﹁わしも嬉しい﹂
いつの間にか田山課長がソファに腰掛けていた。
﹁あら、私と二人きりにならなくてようございましたね﹂
﹁あはは、そう言うこってす﹂
新井のからかいを田山が受けて、皆、声を合わせて笑った。
彩子は湯飲み茶碗を洗いながらぼんやりした。
少しでも暇があると、昨夜の事を思い出してしまう。明日、また
会う約束になっているのだが、何となく気恥ずかしくて、どんな顔
をすればいいのか分からない。
原田は⋮⋮彼の事だから、また落ち着き払っているだろう。
︱︱どうしたんだ、顔が赤いぞ。
﹁なんて、ね﹂
何だかんだ考えても、考えるほど、また原田に会いたくなってし
まうのだった。
◇ ◇ ◇
241
1月31日 土曜日 快晴︱︱
原田は9時に山辺家を訪れた。
そして、彩子の両親に式場を地元の神社か駅前の大きなホテルの
どちらかにすると告げ、承諾を得た。
﹁いや∼、しかし君は全くてきぱきとして、しっかりした男だな﹂
父親が珍しく原田に声を掛けた。
﹁うちの娘は少しスローモーだから丁度いい、うん﹂
彩子は心外な顔をしたが、母も弟もうんうんと頷いている。
原田は嬉しそうに微笑んでいた。
今日も原田はワイシャツにジャケット姿である。
この前と違うのはセーターではなくニットベストを着ている事。
今日は1月にしてはかなり暖かくなりそうである。
﹁さて、まずホテルから行こうか﹂
彩子が思ったとおり、彼はいつもと変わりない態度である。それ
どころか、かえってリラックスしているように見える。
彩子は白のセーターに紺のタイトスカートを合わせた地味な格好
をしている。ホテルや神社にどういった服装で行けば良いのか迷い、
結局この線でまとまった。
アンゴラのコートを手に助手席に座っていると、原田がハンドル
を繰りながら視線をくれた。
﹁それ、似合ってるな﹂
﹁あ、これ?﹂
彩子はアメシストのペンダントを着けている。彼からの誕生日プ
レゼントだ。
﹁そういえば、誕生日は何日だっけ﹂
242
﹁明後日です。2月2日﹂
﹁そうか。明後日で25歳か﹂
﹁原田さんは8月3日ですね﹂
﹁よく覚えてるね。その通り﹂
﹁獅子座のB型です﹂
﹁詳しいなあ﹂
原田は愉快そうに、明るく笑った。
車はホテルの駐車場に入った。
二人は車を降りると正面玄関から建物に入り、受付でブライダル
相談会の予約の確認をしてもらうと、案内を受けた。
ブライダルプランナーという女性から、このホテルでの結婚式・
披露宴のあらましの説明があり、その後チャペル・披露宴会場・控
え室に至るまで案内をしてもらった。
さまざまな説明の後、今後行われるブライダルフェアの招待状を
もらい、相談会は終了した。
﹁彩子、疲れただろ。お茶でも飲もうか﹂
原田に誘われティールームに向かう途中、純白のウエディングド
レスが飾られたホールを通りかかった。一組のカップルがその前に
並んでいる。ぴたりと寄り添い合い、何処から見ても熱愛中のカッ
プルである。
﹁彩子は着物の方が似合いそうだな﹂
原田はウエディングドレスを眺めながら、そんな事を言った。
﹁そ、そう?﹂
﹁俺もタキシードより、羽織袴がしっくりきそうだ﹂
それは同感である。彩子はうんうんと頷いた。
カップルの後ろを通り過ぎると、仲良さげな会話が聞こえてきた。
﹁何度お色直ししてもいいよ﹂
243
﹁嬉しい。こんなドレスを着るのが夢だったの﹂
﹁君の好きにすればいいよ、愛してるよ﹂
﹁うふふっ﹂
彩子と原田は顔を見合わせると、何となく足を速めた。
ティールームの入り口まで来ると、原田はホールを振り返った。
カップルはまだドレスを眺めている。
﹁彩子﹂
﹁えっ?﹂
﹁遠慮するなよ﹂
短く言うと、ぽかんとする彩子に笑いかけ、先にティールームに
入って行った。
︵遠慮って⋮⋮あっ︶
彩子は気が付き、照れたように先を行く彼の背中に笑みを広げる。
二人で並ぶその日が近付いてくる。どんな花嫁姿でも、誰より幸
せになれると彩子は確信を持てる。これまでとは違うときめきが、
胸を打ち始めた。 うめだやま
ホテルの次は地元の神社を訪ねた。
﹁1200年の歴史を持つ梅田山神社は、伝統と格式の高さを誇っ
ております﹂
案内係の男性が先導して境内を歩いた。
﹁こちらが挙式の行われる拝殿でございます﹂
原田と彩子は、初詣などで見慣れている拝殿を仰いだ。あらたま
った気持ちで静かな境内に佇むと、厳粛な空気が感じられる。
二人は神殿も見せてもらった。
244
﹁当日は、雅楽の演奏に巫女の舞が奉納されます﹂
彩子は神殿式の様子を思い浮かべてみた。古式ゆかしいイメージ
が湧きあがってくる。
案内の男性は事務的ではあるが、細かな所まで丁寧に案内してく
れた。
参集殿に戻ると、ホテルの案内と同じ様に、披露宴会場や控え室
を見せてもらう。スタジオで写真の前撮りについて聞いた後、衣裳
室に案内された。
﹁たくさんのお着物とドレスを用意してございますが、ご衣裳はで
きるだけ早めにお決めいただくことをおすすめします﹂
男性は初めてにっこり笑うと、ドアを開けた。
和装も洋装も豊富に揃っている。
彩子は子供の頃の着せ替え遊びを思い出し、わくわくしてきた。
反対に、原田は何となく居心地が悪そうである。
﹁ご衣装のほうは、お母様など女性の方といらしてご相談される方
も多いですよ﹂
男性は原田のそばに寄ると、こっそり声をかけた。
﹁そうですね、そのほうが良さそうです﹂
原田も小声で言うと、男性と笑みを交わした。
ここでもブライダルフェアの招待状を受け取ると、二人は車に戻
った。
﹁俺はここが気に入ったな﹂
﹁私もです﹂
二人は頷き合い、互いの意思を確かめた。
﹁それじゃ、親にも一度確認して、良さそうなら仮予約を入れよう。
ふうっ﹂
原田はネクタイを緩めると、息をついた。落ち着いて見えたが、
245
彼なりに緊張していたらしい。
﹁とりあえず食事をして、それから指輪を見に行こう﹂
これからの予定を告げると、車を発進させた。
明るく爽やかな空のもと、休日の街は人出も多く見える。
﹁どうだい、たまには外で食べないか﹂
﹁外で?﹂
﹁この時間はどこも混んでるだろうし、近くで握り飯でも買って。
いい天気だから、公園の芝生で寝転んでも気持ちいいぞ﹂
つまり、ちょっとしたピクニックだ。彩子は生き生きとした目で
原田を見返す。
﹁素敵ですね! そうしましょう﹂
二人はコンビニで食ベ物を買い込むと、運動公園に向かった。
芝生広場では家族連れが弁当を広げたり、ボール遊びをしたりす
る姿が見られた。
原田は車に載せてあったシートを運び、適当な所に広げると、彩
子を手招きした。
﹁今度はお弁当を作りますね﹂
彩子はコンビニお握りを頬張りながら、原田に言った。
﹁へえ、弁当か。それもいいなあ﹂
﹁どこか自然がたくさんある所に行きたいですね﹂
﹁自然⋮⋮そうだな﹂
原田の頭に、隣県にある蛍石鉱山が浮かんだ。
﹁暖かくなったら山に行こうか。夏ならキャンプもいいな。温泉に
入ってのんびりするのもいい﹂
﹁温泉が好きなんですか﹂
﹁ああ、自然に湧き出る岩場の温泉なんか最高だ﹂
﹁やっぱり男の人はのびやかでいいですね。どこでも裸になれちゃ
246
うって感じで﹂
原田はそれを聞くと芝生に寝転がって笑った。
﹁アッハハ⋮⋮それはちょっと誤解があるね。彩子はたまに面白い
事を言う﹂
﹁そ、そうですか?﹂
彩子はまた変な事を言ったらしいと口を押さえ、赤くなった。
﹁そういえば、今度の木曜日に道場に顔を出す予定になってるんだ﹂
原田は急に思い出したのか、ぱっと起き上がる。
﹁昇級審査が近いから、木村達と手伝う事になってる。彩子も時間
があるなら見学に来るといい﹂
﹁本当ですか。それならぜひ⋮⋮あ、でも部外者が行っても大丈夫
なんですか﹂
﹁俺の家族になるんだから部外者じゃないだろ﹂
事も無げに言うと、気持ち良さそうに伸びをした。
彩子はその開放的な姿から、思わず目を逸らした。何となく気恥
ずかしくて、正視出来ない。
﹁遠慮しないで来ればいい。待ってるよ﹂
俯き加減の彩子を、彼の笑顔が覗き込んだ。屈託のない仕草が少
年のようで、眩しくて、思わず目を細める。
﹁わかりました。木曜日ですね﹂
彩子は面映ゆい気持ちになりながら、素直に頷いた。
247
3
運動公園を後にすると、原田はN駅まで車を走らせ地下駐車場に
入った。
﹁この近くのビルに﹃AFFINITY﹄っていう宝飾店があるん
だ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁デザインの美しさで有名な店だよ﹂
﹁詳しいんですね﹂
﹁宝石も石だからね。関心はある﹂
二人はビルに入るとエレベーターに乗り、8階のボタンを押した。
宝飾店には、彩子達と同じ様な男女が三組ほど接客されていた。
黒いスーツを着た女性が彩子達に気付くと、笑顔で近寄ってきた。
﹁いらっしゃいませ、どうぞこちらへ﹂
二人はスタッフに案内されて、奥のテーブル席に腰掛けた。
まず大まかなイメージを伝え、数種類のサンプリングを見せても
らう。一言にダイヤモンドのエンゲージリングと言っても、実にさ
まざまなデザインがある。メレダイヤをいくつも並べたものから、
大粒の石をセンターに一つなど。
ピンクダイヤは最近人気の石だそうだ。アームのラインも趣向を
凝らし、各パーツとも単調ではない。
﹁う∼ん。いいね、どれも似合いそうだ﹂
原田は唸ると、彩子を見やった。
﹁そ、そうですか﹂
彩子は、ダイヤモンドの指輪が似合うなどと言われ、嬉しいよう
248
ないたたまれないような、妙な心地になる。
﹁どのようなデザインがお好みでしょう﹂
担当スタッフの男性が彩子と原田を交互に見ながら微笑む。
彩子は迷ったが、風が優しく織り上げられたイメージのアームに、
一粒ダイヤが輝くデザインを選んだ。
﹁気が合うね﹂
彼も気に入った様子である。
﹁このカットは素晴らしいですよ。お待ちくださいね﹂
スタッフはパソコンを操作すると、仕上りにかかる日数や予算を
プリントアウトした。
﹁じゃあ、決まりだ﹂
﹁ありがとうございます﹂
スタッフは恭しく頭を下げると遠慮がちに、
﹁あの、マリッジリングはよろしかったでしょうか﹂
﹁ええ、大丈夫です﹂
﹁では、書類を持ってまいりますので少々お待ちください﹂
にこやかに微笑むと、事務室に入って行った。
﹁良かったよ。気に入ったデザインがあって﹂
原田は安堵の顔で、膝の上で組まれた彩子の指を見つめた。
﹁きれいだ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
彩子と目を合わせ何か言いたげにしたが、スタッフが戻って来た
のでそちらを向いた。
熱のこもった視線にあの夜を思い出してしまい、彩子は少し動揺
した。
︵結婚の約束⋮⋮その指輪。あの夜も︶
249
原田との絆がどんどん強まっていく。
順風に押され、不安になるくらいだった。
でも大丈夫。大丈夫だと、彩子は幸せすぎる自分に言い聞かせた。
宝飾店を出ると、時刻は午後2時半を回ったところだった。
﹁まだ日が高いな。彩子、どうする﹂
﹁え、ハイ、そうですね⋮⋮﹂
もちろんまだ帰りたくない。かなり疲れてはいるが、もう少し原
田と一緒にいたいと思う。
﹁そうだ、バッティングセンターに行きましょう﹂
そういえば草野球の試合が近い。原田の練習にもなるし、彩子も
彼が打つところを見たかった。
﹁バッティングって⋮⋮でも、疲れてるんじゃあ﹂
原田は心配な顔になる。その通り彩子は疲れていた。でも、構わ
なかった。
﹁ね、行きましょう﹂
﹁よし、とりあえず行ってみるか﹂
話は決まった。二人は駐車場に戻ると、早速目的の場所へと向か
った。
﹁ここは球筋が少しおかしいけど、空いてるからな﹂
原田は田之上バッティングセンターのくたびれた看板を見上げて
独りごちた。
﹁私も知ってますよここ⋮⋮うわあ、まだ営業してたんですね。あ
っ﹂
﹁え?﹂
﹁この近くに会社があるんじゃないですか﹂
﹁うん。もう2キロぐらい北にある﹂
250
﹁やっぱり、そうですよね﹂
彩子はキョロキョロした。まわりは田んぼや畑に囲まれている。
北のほうに小高い丘のような山がある。その辺りに会社があるはず
だ。環境のいいところに職場があるんだなと思った。
﹁じゃ、やってみますか﹂
原田は彩子を促すと、一緒に建物に入った。今日も適度にお客さ
んが入っている。
﹁ん?﹂
140キロのケージに見覚えのある姿があった。原田は一瞬目を
疑ったが、間違いない。
この前と同じように、快調にボールを打ち返している。
﹁⋮⋮佐伯﹂
原田は彩子を振り向くと、諦めたように手招きした。
﹁どうしたんですか﹂
彩子は原田の指差す方を見た。
しっかりした体格の若い男が打っている。
﹁あの人がどうかしたんですか﹂
男は機械が止まると、バットを下げて、ケージを出て来た。
三人はしばし向かい合った。
﹁あ⋮⋮﹂
男はまず原田に気が付き笑いかけようとしたが、傍らの彩子を見
ると、一瞬表情が固まり、次に驚きの声を上げた。
﹁カイロちゃん!﹂
﹁佐伯君﹂
擦れた声で名前を呼んだ。口が開いたままになっている。
中学の時と変らない人懐っこい丸い目、いまだ少年のような顔立
ち、背は高くなったが、ひと目で佐伯だと分かった。佐伯も佐伯で、
251
相変わらずの童顔な彩子に懐かしさを隠せないでいる。
二人は思わず知らず、見詰め合ってしまった。
原田は腕組みをして様子を見ている。最初に我に返ったのは彩子
だった。
﹁原田さん、佐伯諒一君です﹂
﹁ああ、野球部で足が物凄く速い﹂
彩子はこくこくと頷いた。
﹁そうです、だからよく憶えてた⋮⋮﹂
彩子は内心焦っている。原田に初恋の男の子だとは気付かれたく
ない。
佐伯の方も後藤の言葉を思い出していた。
︱︱彩子ちゃんのいい人! 原田だよ。
︱︱横恋慕するなよ。
﹁ああ、久しぶりだな∼、ソフトボール部にいた山辺だよ﹂
意識して普通に振舞ったつもりが、どうしようもなく不自然にな
る。
原田は二人のごまかし方の下手さに呆れた。
﹁ごっ、後藤さんから聞きました。原田さん、俺今度の試合でご一
緒する佐伯諒一です。この前は突然声を掛けて失礼しました﹂
﹁後藤? 後藤伶人の事か﹂
﹁ええ、あれ、聞いてませんか﹂
佐伯は動揺した。
﹁君が試合に誘われたのは知ってるよ。でも、後藤は君が俺に会っ
たってよくわかったな。俺の名前はあいつに聞いたんだろう﹂
﹁この前、あなたにここで出会った事を後藤さんに話したんです。
そしたら、それは原田に間違いないって。そんなすかした⋮⋮あっ﹂
252
﹁ほう、すかした野郎とでも言ったか﹂
原田は怒った風でもなく言葉を継いだが、彩子は二人のやり取り
がどんな方向へいくのか、気が気ではなかった。
﹁あの、俺もう帰ります。お二人ともごゆっくり⋮⋮﹂
佐伯はそう言うと、そそくさと出て行こうとした。
﹁待て、佐伯君。少し話がある﹂
話? 一体何の話をすると言うのか。彩子はわけが分からないが、
とりあえず自分はいない方が良さそうだと判断した。
﹁あの、私は打ってます﹂
﹁ああ、そうしてくれ﹂
原田の言い方は少し冷たかった。
原田と佐伯は外に出ると、向かい合った。
佐伯は念じている。初恋の相手がカイロちゃんと言ってはいけな
いと。
後藤にも釘を刺されているし、自分とて恋路の邪魔者にはなりた
くなかった。
一方、原田は佐伯をじっと見て思った。
︵この男は、実に彩子に似ている。童顔で、純朴で⋮⋮驚いたね︶
思わず微笑んでいた。
﹁カイロちゃんってのは、彩子のニックネーム?﹂
佐伯はきょとんとし、やがて緊張の解けた表情になる。原田の穏
やかな眼差しにほっとして、余裕が生まれたようだ。
﹁えっと。それは、つまりですね⋮⋮﹂
佐伯は、かいつまんで﹃カイロちゃん﹄という呼び名の由来を話
した。
253
しかしそれを話したら、その内容と佐伯の生き生きとした表情か
ら、すべてが露呈してしまった。
﹁どうして隠すんだ、君も彩子も﹂
﹁それはそりゃ、原田さんが不愉快に思うかもしれないから﹂
彩子も同じ事を言うだろう。原田は可笑しくなった。
﹁俺は気にしないよ。懐かしいだろうに、ゆっくり話せばいい﹂
原田は本当にそう思って言った。
﹁そうですか?﹂
﹁ああ、行ってこいよ﹂
﹁じゃ、少しだけ﹂
佐伯は遠慮しつつも嬉しそうに駆けて行った。
︵本当にすばしっこい男だ︶
原田は看板の支柱に凭れると、晴れた空を仰いだ。
佐伯は、110キロのケージで打っている彩子を見つけると、後
ろから見守った。
変っていない、山辺彩子。俺が初めて好きになった女の子。
佐伯は感慨深い目で、女にしては速いスイングでミートしている
彼女を見つめた。
打ち終わった彩子はケージから出て、佐伯が立っているのに気が
付くと﹁あっ﹂と小さく叫んだ。
きょろきょろと原田を探している。
﹁大丈夫、許可は得てきたよ﹂
﹁えっ?﹂
彩子には意外だった。さっきの空気では、てっきり佐伯が帰って
しまったものと思っていたから。
254
二人は傍らのベンチに腰掛けた。
﹁原田さん外で待ってるから手短に﹂
﹁うん﹂
佐伯はしかし、いざとなると何も出てこない。
それは彩子も同じだった。
二人は俯き、黙ってしまった。
たくさんの言葉が胸に心に、いっぱいになっているはずなのに⋮⋮
佐伯は思い切ったように顔を上げると、上擦った声だがやっと言
葉を発した。
﹁山辺、変ってないと思ったけど、少しキレイになったな﹂
﹁えっ﹂
﹁前は、男みたいだった﹂
﹁⋮⋮﹂
そんな風に思っていたのかと、彩子は愕然とした。
﹁俺はでも、お前が好きだったな﹂
﹁あ、ありがとう﹂
﹁お前はどうだったんだ﹂
﹁それは﹂
彩子は口ごもる。今更照れても仕方ないのに。
﹁早く言ってくれ。もう行かないと﹂
﹁う、うん。私も、好きだったよ﹂
﹁⋮⋮﹂
佐伯は急に立ち上がった。
彩子が見上げると、彼の顔は火を噴いたように真っ赤になってい
た。
そして何も言わず背中を向けると、表に飛び出していった。
いきなりひとり取り残された彩子は呆然とし、そしてまた彼の全
く変わらない純情に胸を打たれていた。
255
しばらくすると、入れ替わりで原田が入って来た。
彩子はそれからの事を、よく憶えていない。
気がつくと、原田が運転する車の助手席でぼんやりとしていた。
原田は複雑な気持ちに囚われている。
志摩と話してから、彩子の過去も何もかもを丸ごと愛すればいい
と決めていた。過去に誰かを好きだったとしても、それは彼女の今
を形作る大切な要素であったと。
しかし、人間の感情はやっかいなもの。佐伯の事を考えているで
あろう彩子に、焦りを感じてしまう。この状況にどうしようもなく
苛立ってしまうのだ。
つまり、嫉妬だった。
原田は、やはり男の嫉妬はみっともないと思っているので、彼女
を家に送り届け帰路に着くまで、平気なふりをしていた。
彩子のほうは家に着いてからその無神経に気が付き、自分を激し
く責めた。
だが後悔先に立たずで、22日の試合に自分は行くまいと決める
のが精一杯だった。
256
1
佐伯諒一はバッティングセンターを飛び出した後、いつの間にか
後藤のマンションの前に来ていた。後藤の部屋番号を押してインタ
ーホンを鳴らす。
﹁あら、佐伯君?﹂
応答したのは後藤の婚約者である大垣智子だった。
自動ドアが開かれ、佐伯はエントランスホールに入った。エレベ
ーターで5階の後藤の部屋まで行き、そこでも呼び鈴を鳴らそうと
したら中から声がした。
﹁開いてるぞー!﹂
後藤の声であった。
﹁どうしたの、突然﹂
土曜日の夕方、約束もなしに訪れた佐伯に智子は心配そうに訊ね
た。
﹁ええ、ちょっと﹂
﹁何だどうした、何かあったのか。えらく赤い顔してるぜ﹂
後藤が缶ビールを片手に食卓から声を掛ける。
﹁後藤さん、さっき俺、原田さんと山辺に会いました﹂
智子は唖然として、手に持っていたフライパンを落とすところだ
った。何ということか。よりによって三人が出くわしたというのか。
智子と後藤は佐伯を椅子に座らせると、事のあらましを聞き出し
た。
﹁あのバッティングセンターにまた行ったのか。お前も原田も好き
だねえ﹂
﹁そういう問題じゃないでしょ。で、彩子と話したのは、それは原
257
田さんも構わないって言ったんならいいじゃない﹂
﹁ええ、それはいいんですけど﹂
歯切れの悪さと曖昧な態度に、後藤はイライラしてせっついた。
﹁じゃあ、何がいかんのだ。はっきりせえ﹂
﹁俺は、またあいつを好きになっちまった!﹂
佐伯はいきなり大声を張り上げた。
後藤と智子は目の前で感情を爆発させている、思春期の少年のよ
うな男を、身を引き気味にして見守った。
﹁すみません、大声出して﹂
佐伯は赤くなって、智子に謝った。
﹁彩子をまた好きになったって言うの? どうして﹂
﹁わからないっす。昔、あいつも俺を好きだったって聞いたらなん
かこう、火が点いちゃった感じです﹂
﹁焼け木杭にか﹂
後藤が訊くと、佐伯はうな垂れた。
えらいことになった。智子は思わずビールを一気飲みする。
﹁佐伯君、彼女とかいなかったっけ﹂
﹁いません﹂
﹁今まで誰とも付き合った事が無い?﹂
﹁付き合った子はいるけど、転勤して自然に離れちゃいました。彼
女、東京を出たくなかったみたいです﹂
後藤はビールを注ぎながら、顔をしかめた。
﹁あなたはその人を本気で好きだったの?﹂
﹁もちろんです。そうでなきゃ付き合いません﹂
佐伯はきれいな丸い目を、智子の顔にあてた。
︵この気まじめさが結構怖いのよ︶
智子は本能で感じた。今のうちに何とかしなきゃ大変な事になる
258
と、焦った。
﹁だがな、前にも言ったように、山辺彩子は原田の女なんだ。わか
るな? もう婚約までしようとしている仲なんだ。はっきり言う。
あきらめろ!﹂
後藤は、智子が思っていることをそのまま口にしてくれた。今回
は損得抜きで、本当にそう思って言っているようだ。
﹁わかってますよ。俺じゃ、あの人に敵わない。山辺もあの人のお
かげできれいになったんでしょう﹂
﹁そうそう、そうなのよ。あの子は原田さんに会う前は、寝癖が付
いていても電車に乗る子だったのよ﹂
﹁あの子が? まじかよ﹂
後藤はおかしそうに笑った。
﹁そんなところだって、俺は好きでした﹂
佐伯は真面目な声で言った。
﹁彩子は私の親友よ。あの子の幸せを邪魔なんかしたら、本当に許
さないわよ﹂
智子は本気で佐伯に詰め寄る。ここで釘を刺しておくべきだと、
必死だった。
﹁ええ、わかってます。ただ、俺は気持ちを持て余しちゃって、聞
いてもらいたかっただけなんです﹂
その力ない声とうな垂れたようすに、後藤も智子も急に同情的な
眼になった。失恋と言うのは、敵わぬ恋と言うのは、どれだけ辛い
ものか。二人とも知らぬわけでは無い。
﹁よし、じゃあ付き合うから飲もうぜ。明日は休みだろ、泊まって
いけよ佐伯!﹂
後藤が言うと、智子もビールとコップを持って来て佐伯にすすめ
た。
259
二人の慰めと励ましで、何とか心が保てそうな佐伯であった。
◇ ◇ ◇
翌日、日曜日の朝。
佐伯は早起きすると、智子が朝食を用意するからと引き止めるの
をかたく断り、早々に帰って行った。後藤は遅くに起きて二日酔い
の頭を押さえていたが、朝食を済ませると野球の練習に出掛けてし
まった。
智子は誰もいなくなった部屋で携帯電話を取り出すと、彩子の番
号を押した。
﹃もしもし﹄
﹁彩子? おはよう﹂
﹃おはよう﹄
あまり元気が無い。
﹁昨日、佐伯君に会ったんだって?﹂
﹃何で知ってるの﹄
彩子は驚きの声を上げた。
﹁昨日ね、佐伯君が後藤のマンションに来て話したのよ。原田さん
にも会ったんだって?﹂
﹃そうなんだよ、智子。私失敗しちゃって⋮⋮﹄
彩子は、原田の前で佐伯の事をぼんやり考えてしまったと懺悔を
した。
﹁あはは⋮⋮それは失礼の極みね﹂
智子は目を閉じて嘆息した。
260
﹃でも原田さんはいつもと変らない態度だったし、それほど気にし
てないかもしれない﹄
﹁馬鹿ねえ。どうも聞いてると原田さんってかなり古風な男性じゃ
ない。そういう人は、絶対に嫉妬心なんて表に出さないものよ﹂
﹃そうかな﹄
﹁そうよ。あと、愛情の言葉だとか、あまり言わないでしょ﹂
﹃えっ? あ、愛情ってつまり、好き⋮⋮とか、愛してるとか?﹄
﹁そうそう﹂
﹃ああ、うん。あまり言われた事ない。私も言わないけど﹄
﹁でしょう。思うんだけどね、そういった人は逆に言葉に弱いのよ。
言葉には力があるのよ。特に、滅多に言わない言葉にはね﹂
﹃はあ﹄
﹁原田さんに会って、電話でもいいから、あんたの気持ちを言葉に
して言いなさい。黙っていても分かってもらえるなんて傲慢なんだ
からね﹂
﹃傲慢⋮⋮そうかなあ﹄
﹁そうよ。とにかく、絆をしっかりと固めておかないと大変なんだ
から﹂
﹃え、どうして?﹄
智子はぱっと口を押さえた。
佐伯はああ言ったが、簡単にあきらめるとは限らない。彩子達に
は城塞を固めておいてほしいのだ。
﹁とにかく、早く言いなさい。この電話を切ったらすぐに、原田さ
んに電話しなさいよ﹂
智子の電話は有無を言わさず切れた。
彩子は困った。気持ちを言葉にするなんていうのは苦手分野であ
る。というより、得意な人なんて少ないのではないだろうか。
ぐるぐると考えていたが、とりあえず原田に電話しようと決めて、
261
携帯を構えた。
いまだに彼に電話する時は緊張するが、特に昨日の今日である。
ほんの少しだけ指が震えている。
﹃はい﹄
原田の低い声が聞こえた。
﹁あっあの、おはようございます﹂
﹃おはよう、早いね。どうした?﹄
いつもと変らぬ声音である。彩子はほっとした。
﹁用事はないんですけど﹂
この状態でどうやって愛情の言葉を口にすればいいのか。困惑し
ながら智子を恨んだ。
﹃もしもし?﹄
﹁えっと、今日はもしかして、お仕事ですか﹂
﹃いや、野球の練習でもしようと思ってる﹄
﹁そうなんですか⋮⋮どこでやるんですか﹂
﹃会社のグラウンドを借りて、まあせいぜい2時間だけど﹄
﹁そうなんですか﹂
﹃おっ、もうそろそろ行かないと。時間が決まってるんだ﹄
﹁あ、わかりました。頑張ってください﹂
﹃ああ、じゃあまた﹄
電話は切れた。
原田はいつもの調子⋮⋮というより、今気が付いたことだが、話
し方がずいぶんラフになっている。少し前までは﹁ですます調﹂だ
ったのが、いつの間にか普通の喋り方になっている。
彩子だけがいまだ堅苦しい話し方だ。
﹁はあ﹂
ため息をついた。やはり自分は恋愛下手だと思う。
262
でも、どうにかして気持ちを伝えられないだろうか。
どうにかして︱︱
﹁野球の練習、か﹂
彩子はふいに思いつくと、台所に下りて行った。
263
2
原田は通勤路を走っている。道路は殆どガラガラで、すれ違う車
も少ない。
﹁日曜日までこの道を走るのか。参るな﹂
ふうっと息をついて、独りごちる。
田之上バッティングセンターの看板が見えてきた。原田は昨日の
事を思い出した。
佐伯は彩子と話した後、建物から走って出て来た。おかしいくら
い顔を赤くさせていた。原田に深々とお辞儀をすると、すぐに車に
乗りこみ、走り去ってしまった。
彩子もあれからぼんやりして、考え事をしていた。
意味深な二人の態度に、秘密を持たれたような気がした。
﹁それにしても、今朝は何の電話だったのかな﹂
朝早くからの彩子の電話が不思議だった。
﹁どうも俺に遠慮するところがあるな。う∼ん﹂
原田はそこが彼女の良さだと思っている。しかしいつまでもそれ
では困るとも感じている。
夫婦になろうとしている男に言いたいことも言えない。言うべき
ことも言えていないのでは? それでいいのだろうか。
会社の駐車場に車をとめると、バットケースとバッグを担いでグ
ラウンドに向かって歩いた。今日は休日なので志摩は来ない。一人
で練習だ。
こんな風に一人で過ごす休日は久しぶりである。何となく物足り
ないが、こんな時間があってもいいだろう。原田は本当にそう思い
264
ながらも、自分に言い聞かすような気分でもあった。
2時間はあっという間に過ぎた。
﹁この調子なら、結構やれそうだぞ﹂
原田は汗をかいたシャツを着替えながら、確かに感じる手応えに
ほくそ笑んだ。
と、その時。
荷物をまとめていると﹁原田さん﹂と聞こえた気がした。
原田は辺りを見回したが誰もいない。
再び荷物の方へ目をやった。
﹁は・ら・だ・さ・ん﹂
やはり聞こえる。しかも、彩子の声だ。
﹁まさかな﹂
しかしもう一度振り向くと、フェンスにしがみついている女性が
﹁はらださーん﹂と叫んでいるのが見えた。
やはり彩子だった。
﹁おう!﹂
原田は手を振って合図した。
彩子はフェンス沿いに走ってくる。遠くから見ると、まるで小さ
な子供が駆けて来るようで、思わず微笑んだ。
グラウンドを出た所で、二人は向き合った。
彩子は息を切らして、頬が紅くなっている。
﹁そんなに急がなくてもいいのに﹂
原田は呆れたように言うと、彼女の背中をさすってやった。
265
﹁いえ、あの。急に来たくなって⋮⋮はあはあ﹂
﹁わかったわかった。もう終わったから車の方へ行こう﹂
﹁あ、はい﹂
彩子は暑くなったのかコートを脱いだ。
ピンクのニットを着て、丈の短いスカートを穿いている。随分と
女の子らしい格好である。
原田はそれを見て、妙な緊張を覚えた。
﹁彩子も来たし、昼飯でも食べに行くかな﹂
﹁お弁当を作って来たんです﹂
﹁弁当?﹂
原田は聞き返した。
﹁車に積んでありますよ。今日は私の車でドライブしませんか﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
原田は珍しげに彩子を見ると
﹁いいけど、一体どこへ﹂
﹁宮野川の河川敷に行きましょう。寒稽古をやったところより下流
で、ここから近いですよ﹂
﹁河川敷か。そうだな、天気もいいし、そうするか﹂
原田は荷物を自分の車に積むと、彩子の車の助手席に座った。
﹁めずらしいな、ミッションだ﹂
彩子は最近、弟の真二と一台の車を購入し、使っている。真二は
ミッションにこだわりがあるので、彩子がそれに合わせてあげたの
だ。
﹁やっとクラッチに慣れました﹂
﹁全長全幅とも俺の車と変わりないな﹂
﹁大丈夫です﹂
少し不安そうな原田を横目で見てから、彩子はゆっくりと発進さ
266
せた。
彩子の運転は非常に安全である。決して無理をせず、スピードも
控えめであり、車間距離も充分取る方だ。
原田は運転には人柄が表れるという言葉を思い出していた。ただ、
堤防道路は慣れていないらしく、
﹁堤防って結構怖いですね。ダンプが来たらどうしよう﹂
﹁どうしようと言われても、すれ違うしかないぞ﹂
その時だけ、交代しようかと思った。
宮野川は春のような陽光を受け、きらめいていた。うららかと言
ってもいい景色だ。
しばらく走ると、河川敷公園が見えてきた。彩子は堤防を下りて、
駐車スペースに車を停めた。
﹁ああ、スリルがあった﹂
彩子はほっとしたのか、そんな事を言う。
﹁帰りは俺が運転するよ﹂
﹁えっ、そんな。大丈夫、平気ですよ﹂
原田は本気で言ったのだが、妙に張り切っている彼女には通じな
かった。
﹁さあ、行きましょう﹂
彩子はトランクからバスケットを出すと、めずらしくリードした。
原田はバスケットを持とうとしたが、彩子はそれを断り、にこっと
笑ってみせる。
﹁どうも今日は様子が違うぞ﹂
原田は空いた手を所在なさげに振ると、頭を掻いた。
河川敷公園はさすがに少し寒かったが、風防のあるベンチに腰掛
267
けるとそれほどでも無い。二人はそこで弁当を広げる事にした。
﹁あっ、お茶が無かった﹂
﹁駐車場に自販機があったから買ってくるよ﹂
﹁私が行って来ますから、待っててください﹂
﹁おいおい﹂
原田が立ちかけるより先に彩子が走り出した。今日は本当に様子
が違う。
彩子が戻って来ると原田はお茶代を出そうとしたが、彩子はこれ
も断った。
﹁今日はですね、私がサービスする日なんです﹂
﹁サービスデイですか﹂
﹁そうです。原田さんは座っていて下さい﹂
﹁じゃあ、お言葉に甘えて﹂
原田はおかしな子だと微笑みながら、弁当を広げ始めた彩子を眺
めた。
﹁ありあわせの物ばかりで、大したことは出来なかったけど﹂
おにぎりが数種類に、おかずは揚げ物・煮物・サラダがあった。
﹁煮物は味が染みてないかも﹂
彩子は申し訳なさそうに言う。急いで作ったのだろう。
おしぼりで手を拭いて、早速食べにかかる。原田は手作り弁当な
ど久しぶりだと思った。高校時代は母親が弁当を作ってくれたが、
大学は学食だったし、会社では食堂で調理されたものを食べている。
そのせいもあってか、ことのほか美味しく感じられた。
﹁うん、美味いよ﹂
﹁ほんとですか﹂
彩子は嬉しそうに笑った。
﹁鯖の竜田揚げがいいね。俺の好物だ﹂
﹁そうなんですか? 良かった﹂
268
﹁ねぎ味噌の握り飯は初めて食べたけど、いけるな﹂
﹁私の好物なんです﹂
ほとんど褒めてばかりだが、実際に実に美味い弁当だと思った。
原田は、彩子を見直した。
﹁ごちそーさまでした﹂
原田は少しおどけて言うと、ベンチにひっくり返った。
空は青く、満腹で、幸福だと感じた。
彩子はバスケットに片付けをしている。原田は寝転がったままそ
れを見ていた。ただ片付けをしているだけなのに、変に艶かしい動
きに感じられてしまう。
それは多分、スカートが短いせいだろうという事にして、空に視
線を移した。
彩子が堤防を歩きましょうと提案した。
﹁堤防の上は寒いよ﹂
寒がりのはずなのに、今日はいい天気だから油断したのか薄着の
彩子を、原田は心配して言った。だがどうしても歩きたい様子なの
で、付き合うことにした。
﹁じゃあ、少しだけ歩こうか﹂
河川敷公園の堤防には游歩道が設置されている。二人は階段で歩
道に上がった。
空のバスケットを持って、彩子は原田の前を歩いている。何か思
い詰めているようにも見える表情である。
原田はふと、変な想像をした。
今日はいやにサービスをして、気をまわしている。まさかそんな
はずは無いが、昨日の佐伯の事もあるし、何か言おうとしているの
ではないか。今朝もそれが言いたくて、電話をくれたのではないか。
それと言うのは俺と別れて⋮⋮
269
原田はそこまで考え、慄然となった。
彩子が足を止めて振り向いた。
見た事も無いような真剣な顔をしている。怒っているようにすら
見える。
﹁原田さん﹂
﹁ああ﹂
原田は彩子と向き合い、身構える。
対する彩子が居合いの構えをしているように感じられたからだ。
﹁私、言ってない事があるんです﹂
﹁ああ⋮⋮何だい﹂
川面に太陽の光が反射して眩しい。原田は目を細めた。
﹁愛しています﹂
しばらくその言葉の意味が理解できずにいた。
想像していたのと真反対である言葉を、上手く解釈する事ができ
ない。
﹁以上、です﹂
彩子は再び背を向けて歩き出そうとした。
﹁待て、彩子﹂
やっと我に返って呼び止めた。
彩子は恐る恐るという感じで振り向いた。
出会った頃と変らぬ穏やかな笑みを、原田は浮かべている。
﹁俺はその何倍も、愛してるよ﹂
彩子は耳を疑った。
それはストレートな、愛情の言葉だった。
﹁ずるいですよそんな⋮⋮私の方が、もっともっと愛していますよ﹂
﹁じゃあ、俺はそれよりもっとだ﹂
彩子はバスケットを放り出し原田に駆け寄ると、抱きついて胸に
270
顔をうずめた。
言葉の力ってこんなにも凄い!
彩子は体中で痺れるように、それを感じていた。
271
1
2月2日。
彩子は仕事中、時々胸元の辺りを手で押さえ、原田を思い出して
いた。彼にプレゼントされたアメシストのペンダントを、今日は特
に意識してしまう。25歳の誕生日だった。
昼休憩に入ってすぐ、携帯電話が震えた。見ると、発信者は山田
まりである。
﹁珍しい、どうしたんだろ⋮⋮はい、もしもし﹂
﹃彩子お∼﹄
相変わらずの甘い声である。彩子は周りの空気がピンク色になっ
た気がした。
﹁まり、久しぶりだね! どうしたの﹂
﹃今日誕生日でしょ、おめでとう﹄
﹁えっ、よく覚えてたね﹂
友達が覚えていてくれるのは、また嬉しいものである。
﹁ありがとう﹂
﹃えへへ、実はそれだけじゃないんだ﹄
﹁何? どしたの﹂
﹃今、彩子の会社の前にいるんだけど﹄
﹁ほんとに? それなら今から休憩だから、一緒にお昼でも食べよ
うよ﹂
﹃うん、私もそう思って。じゃあ、外で待ってるね﹄
彩子は急いで外に出た。
まりは淡いピンクのカーディガンに膝丈のプリーツスカートとい
う姿で待っていた。キュートな服装が本当に良く似合う。
272
﹁珍しいね、直接会いに来るなんて⋮⋮あれ?﹂
まりの髪型が変化しているのに気付いた。
﹁パーマかけた? な、何だかすごく可愛くなってるよ、まり﹂
﹁うふふ。わっかる∼?﹂
二人は近くのファストフード店に入ってハンバーガーセットを頼
み、カウンター席に腰掛けた。
あらためて向き合うと、まりをは本当に可愛くなっている。
﹁恋でもしたのかな、なーんて﹂
﹁あったり∼﹂
﹁ええっ?﹂
当てずっぽうだったのが的中し、彩子は驚いた。
﹁彼氏が出来たの?﹂
﹁えへへ。何と、彩子の知ってる人﹂
﹁私が知ってる人⋮⋮﹂
彩子はある人物が頭に浮かんだ。まさかと思うが言ってみる。
﹁木村陽一郎さん?﹂
﹁ピンポーン﹂
﹁えっええっ。ホントに?﹂
彩子はびっくりしながらも、木村青年を思い出してみる。背がす
ごく高くて、大柄な猛者であるあの木村青年がとうとうまりを口説
いたのだ。
﹁すごいじゃない。うわあ∼﹂
﹁うわあ∼って、気になる言い方ね﹂
﹁感動してるからだよ。まり、すごいよ。男を見る目がある﹂
彩子は心からそう思った。まりが、あの純で誠実な青年を選んだ
のだから。
﹁実はね、彩子たちと会ったあの日から、ちょくちょく彼が来るよ
273
うになって、ほら、共通の話題が出来たじゃない。だから親しくな
っちゃって﹂
﹁共通の話題って⋮⋮もしかして私の話とか﹂
﹁そう、彩子の噂話とか、原田さんの噂話とか﹂
彩子は非常に内容が気になったが、とりあえず置いておくことに
した。
まりはミルクティーを飲んで一息つくと
﹁でも最初はあんまり乗り気じゃなかったんだ。気も合うし優しい
んだけど、何かこう﹂
﹁何かこう?﹂
﹁もさっとしてる⋮⋮って言うか﹂
﹁あ、外見が﹂
まりはにっと笑うと、ピースサインを出した。彩子はきょとんと
する。
﹁だからね、髪型を変えたらどうなるのかな∼ってアドバイスした
ら、本当に切ってきちゃったの﹂
﹁えっ、あの長い髪を﹂
﹁髭もきれいに剃ってきたの﹂
﹁髭もっ﹂
彩子は木村のイメージが曖昧になってきた。
﹁すっごい、イケメンになったのよ!﹂
決め手はこれだ! という勢いでまりは言うと、そのままぼ∼っ
となった。木村を思い出しているようだ。彩子はそういう事もある
のかと、新発見の気分になる。
確かに木村は顔立ちがいい。髪型によっては今時のイケメンにな
るかもしれない。
﹁彩子達に感謝してるよ。もう、幸せでえ。だからお礼を言いに来
274
たの﹂
﹁そうだったの。良かったじゃない、嬉しいよ私も﹂
彩子の携帯のタイマーが鳴った。昼休憩の時間が終わろうとして
いる。
﹁ごめん、まり。もう行かないと﹂
﹁いいよいいよ。こっちこそごめんね、おじゃまして。あ、原田さ
んとはどうなったの。順調ですか﹂
まりは肩で彩子を突いた。
﹁うん、もうすぐ結納式﹂
﹁ひゃ∼、婚約かあ。やったやった﹂
はしゃぐまりに、彩子は照れてしまった。
まりは昼から会社に行くからと、駅に向かった。
﹁あ、そう言えば﹂
木曜日に原田の道場に行くのだが、木村達も来ると言っていた。
あの木村青年がどう変っているのか⋮⋮うきうきした足取りで歩
くまりの後姿を見送りながら、楽しみだなあと彩子は思った。
木曜日︱︱
彩子は原田に教えてもらった中学校内にある武道場に来ている。
何となく物怖じして、武道場の換気用の小窓から中を覗いていた。
中は明るく、白い道着を来た子供達の姿が見える。
すると突然、彼女の肩を掴む者がいた。
﹁おい、何をしている!﹂
恐ろしい力と声であった。驚いて振り向くと、見覚えのある顔が
笑っていた。
原田の大学時代の後輩、平田薫だ。
275
﹁ひ、平田さん⋮⋮﹂
彩子は胸を撫で下ろした。本当にびっくりしたのだ。
﹁はっはっは。彩子さん、久しぶりですね。見学ですか﹂
﹁ええ、原田さんに誘われてきたんですけど、何だか入りづらくっ
て﹂
﹁いいっす、俺と一緒に行きましょう﹂
平田は頑丈そうな肩を揺すって前を歩き出した。
今日は作業服を着ている。仕事帰りかなと思いながらふと見ると、
平田の左手の指に光るものを見つけた。
﹁あれ、平田さんって結婚されてたのですか﹂
﹁うん。一年前に嫁さんをもらいました﹂
彩子は驚いたが、よく考えるとこの青年はどこか落ち着いた雰囲
気を持っている。なるほどそうだったのかと納得が出来た。
﹁押忍!﹂
平田は道場に来ると、入り口で一礼した。
彩子も見習って頭を下げた。
﹁この時間は少年部が中心なんです。あと、一般部の女性の方も参
加されてますよ。お母さん達とか﹂
﹁そうなんですか﹂
なるほど、小中学生と、女性の道場生ばかりである。
向こうに黒帯を締めた男が二人立っている。
一人は40歳ぐらいのいかつい感じの男性で、一人は原田であっ
た。
﹁先輩、外で不審な人物を見つけたので連れて来ました∼﹂
平田は冗談口調で言うと、彩子を前に押し出した。
﹁ほう、どこかで見たような不審人物だな﹂
276
原田も受けて返す。彩子は何も返せず、もじもじした。
﹁おいおい、よせよ原田君。案外意地が悪いなあ﹂
いかつい感じの男性は原田の肩をぽんと叩いた。笑うと、とても
優しそうな顔になった。
﹁こんばんは、彩子﹂
﹁こんばんは、原田さん⋮⋮﹂
空手着姿の原田は、やはり素敵だ。彩子は何だか照れてしまって、
落ち着かない。
﹁あの、どこで見学していましょうか﹂
﹁見ているなんてもったい無い﹂
原田は床に置いてある道着と白い帯を取り上げると、彩子に手渡
した。
﹁え⋮⋮?﹂
﹁浅見さん!﹂
原田が呼ぶと、空手着を身に着けた30代くらいの女性が走って
来る。
彩子を見ると、にこっと笑った。
﹁押忍、この方ですか﹂
﹁そう、この人です。よろしくお願いします。彩子さん、こちらは
道場生の浅見さんです﹂
女性は﹁よろしくお願いします!﹂と大きな声で挨拶した。彩子
も釣られて、頭を下げる。
﹁じゃあまた、頑張って下さい﹂
彩子を女性に預けると、すたすたと立ち去ってしまった。
︵えっ、頑張って?︶
﹁是非、体験して下さい。私が付いてますから大丈夫ですよ!﹂
﹁あの、ちょっと待っ⋮⋮﹂
浅見は笑顔で彩子を更衣室に引っぱって行った。
277
︵そ、そんな。聞いてないよお︶
とりあえず、空手着に着替えさせてもらった。
﹁あれ、結構似合いますね!﹂
浅見に言われて彩子は姿見を覗くが、いかにも弱そうな感じであ
る。と言うか、全く似合わない気がするのだが。
﹁一緒にやりましょう、体操からですよ﹂
武道場に戻ると、浅見は楽しそうに彩子の手を取り、体操の輪の
中に連れて行った。
浅見は茶色の帯を締めている。よく見ると、少年達もいろいろな
色の帯を締めている。浅見に訊くと、級によって色が違うと教えら
れた。
彩子は最後列で、見よう見まねで基本稽古というのをやってみた。
なかなか難しいものである。
それが終わると道場生達は移動稽古というのを始めたが、彩子は
浅見と道場の端へ移動し、マンツーマンで立ち方や手技の基本とい
うのを教わった。
寒い道場なのに、子供達の足元を見ると汗で床が光っている。す
ごい運動量なのだ。
動きのゆっくりな彩子ですら、じんわりと汗ばんできた。
少年部の稽古は1時間で終了した。一般部はこのあと1時間行わ
れるらしく、大人の道場生が顔を出し始めている。
﹁結構運動になったでしょう﹂
更衣室に入ると、浅見は朗らかに笑って彩子にタオルを渡した。
﹁すみません、何も持ってこなかったので⋮⋮お借りします﹂
﹁原田先輩も人が悪い﹂
278
浅見は汗を拭きながら、彩子にお茶の入った紙コップをすすめた。
﹁いただきます﹂
﹁う∼ん、さすが原田先輩の奥さんになる人だ。礼儀正しいですね﹂
﹁あ、はあ、恐縮です﹂
彩子は﹃奥さん﹄という言葉に照れてしまった。
﹁とりあえず着替えて、あとは私とのんびり見学しましょう﹂
浅見はまるで姉のように面倒を見てくれる。彩子は素直に甘える
事が出来た。
﹁あと10分もすると一般部の稽古が始まります。その前に先輩に
声を掛けましょうか﹂
﹁あ、はい﹂
二人が道場に戻った時、出入り口の辺りでどよめきが起こった。
見ると、背の高い青年が道場に入って来て、それを一般部の人達
が取り囲んでいる。
彩子はあっと思った。
木村陽一郎だった。まりが言った通り髪を短くし、染めてもいる
ようだ。髭もきれいに剃って、何だか小奇麗になっている。
﹁うわあ、あれ木村先輩? 信じられない﹂
浅見も驚いた顔をしている。
﹁イケメンだったんだねえ﹂
意外そうに彩子を見るが、それは彩子も同感だった。思ったより
もずっと素敵に変身している。
二人は原田の傍に行くと、体験の報告をした。
﹁お疲れ様でした。どうです、楽しいでしょう﹂
原田は嬉しそうに彩子に訊いてくる。
﹁はい。体力の無さを痛感しました﹂
情けなさそうに肩をすぼめると、原田も浅見も笑った。
279
﹁浅見さん、どうもありがとう。今日はもう休んでください。俺も
いるし、助っ人を呼んでありますから﹂
﹁押忍! ありがとうございます﹂
﹁彩子はどうする﹂
﹁少し休んでから帰ります﹂
﹁そうか。頑張ったな﹂
道場生に向けるのと同じ口調だが、彩子はなぜか嬉しかった。
﹁押忍!﹂
そこへ、木村が平田と一緒にやって来た。近くで見るとますます
素敵になったと分かる。端正な顔立ちに、彩子は思わず見とれた。
﹁お前、木村か﹂
原田が驚いた顔で言った。
﹁はい、先輩。お久しぶりっス﹂
﹁ふ∼ん、変るもんだなあ﹂
原田は目を丸くして、しげしげと眺め回す。木村はさすがに恥ず
かしそうである。
﹁あ、彩子さん、お久しぶりです﹂
﹁こんばんは、お久しぶりです﹂
彩子と木村は物言わずとも相通じるものがあるので、ぎこちない
笑い方になった。
﹁カノジョが出来たんですか﹂
﹁出来たんだってさ﹂
浅見と平田が後ろで話すのが聞こえた。
彩子は複雑な気持ちになってしまった。どうも他の道場生からは、
木村はチャラチャラした人間になったと思われているようである。
原田もそうなのだろうか。彩子は心配して様子を見るが、普通に
接しているようなので、とりあえず安心した。
﹁よし、始めるぞ!﹂
280
初めに原田と一緒にいた、いかつい顔の男性が大きな声で号令す
る。彼がこの道場の指導員であるらしかった。
しばらく見学した後、浅見は彩子を手招きして再び更衣室に誘っ
た。
﹁紅茶でも飲みませんか﹂
彼女は持参したポットから紙コップに温かい紅茶をいれて、彩子
に渡してくれた。
﹁私ね、一年前に子供を産んで道場を休んでたの。最近復帰したば
かりだからマイペースでやらせてもらってるんだ﹂
浅見はちょっと肩をすくめた。
﹁そうだったんですか。あ、すみません、今日は私のために﹂
﹁いやいや、口で指導しただけだから。楽しかったし、気分転換に
もなったの。全然オッケーですよ﹂
慌てて手を振り、にっと笑う。気遣わせないようにしてくれる気
持ちがありがたかった。
﹁原田先輩⋮⋮原田さんも女っ気が無くて心配したけど、こんな可
愛い人ができて良かったわ﹂
﹁え、そんな﹂
﹁うふふ。原田さんっていかにも昔気質な所があるじゃない。そこ
が魅力なんだけど、今時分かってくれる女性はいないかもな∼って
思ってたのよ。私はどっちかって言うと軟派より硬派志向だから、
原田さんはおすすめだな、うん﹂
彩子は嬉しかった。話していて、彼女の思いやりも伝わってくる。
﹁それじゃ、私はもう帰るけど、一緒に出ましょうか﹂
﹁はい、私も失礼します﹂
しばらくお喋りした後、二人は更衣室を出て道場に戻り、玄関で
281
一礼してから外に出た。
今夜はよく晴れて、空の星が美しかった。
﹁原田さんも忙しそうだから、なかなか道場に来れないのよね。あ
の人に教えてほしいって人もいるのよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁彩子さん、幸せになるわよ﹂
浅見は真面目に言うと、すぐに屈託無く笑った。
﹁また会いましょう﹂
﹁はいっ。ありがとうございます﹂
彩子は浅見の差し出した手を握った。本当に、また会いたいと思
った。
︵来て良かった。原田さんは素敵な人達に囲まれている︶
彩子は充実した気持ちで、星々の瞬く空をもう一度見上げた。
282
2
﹁彩子、準備できたの? 原田さんが来ちゃうわよ﹂
母が洗濯物を干す手を止めて振り向き、彩子をせっついた。今日
は梅田山神社に結婚式場の予約に行く事になっている。あと15分
ほどで約束の時間だ。
﹁原田さんに比べてあんたの遅い事といったら﹂
ぶつくさ言いながらも、なんとなくうきうきした母である。
﹁お袋、自分が嫁に行くみたいだよな﹂
﹁機嫌が良くて助かるでしょ﹂
﹁ま、ね﹂
彩子は朝食の片付けをしながら、弟の真二とこっそり微笑んだ。
﹁今日もいい天気だなあ。でも、こんな日こそ本でも読んで、のん
びりしようっと﹂
真二は伸びをすると、部屋に引き揚げていった。
そういえば最近は本を読んでいないなと、彩子は思う。
﹁よし、これから一日10分間読書をしよう﹂
小学生の宿題みたいな決意だが、本人は真面目だ。少しでもいい、
自分の世界を持ちたい。何となく、大切な事を忘れているような気
分だった。
自室で着替えていると、車の停まる音がした。
窓から見下ろすと原田の車で、母が大仰な仕草で出迎えている。
彩子は淡いグリーンのワンピースを着ると、コートを持って表に出
た。
最近はパンツよりスカートを選ぶ事が多くなり、自分らしくない
気もする。でも、こんな自分も居たのだなと、それは新鮮な発見で
283
ある。
母に見送られ、二人は神社に向かった。
原田は今日もきちっとした服装をしている。少し窮屈そうな様子
に、彩子はクスッと笑った。
﹁何だ、可笑しいか﹂
﹁いえ、ちょっと窮屈そうだなと思って﹂
﹁ワイシャツにネクタイね。全く、似合わないし参るよ﹂
﹁大丈夫、似合っていますよ﹂
彩子は本当にそう思って言うのだが、原田は半信半疑な顔をして
いる。
﹁そういえば、彩子は智子さんの結婚式に出るんだな﹂
﹁うん、招待状の返事も出した。3月15日だったかな﹂
﹁俺にも招待状が来た﹂
﹁えっ﹂
﹁後藤が出てほしいって﹂
﹁そうなんだ。じゃあ、一緒に出席できるんだ﹂
﹁ああ。しかし、何で急に呼ぶ気になったのかな﹂
原田は本当に分からないようで、首をひねっている。
﹁原田さんのことが好きなんだと思います﹂
﹁後藤が?﹂
﹁かなり気に入ってると思いますよ﹂
﹁そうかな﹂
そんな事を話すうちに、梅田山神社に到着した。朝の境内は木々
の香りが爽やかで清々しい。
﹁希望の日が空いてるといいな﹂
﹁うん﹂
284
二人は並んで、参集殿の玄関に入った。
﹁そうですね、第一希望の10月10日の大安。お時間も大丈夫で
す。ご予約できますよ﹂
係の男性がにこやかに告げると、彩子は原田と顔を見合わせて喜
んだ。
﹁ご予約のお二人にはブライダルフェア及び相談会にて、引き出物
などを実際に見ていただいております。その時に細かな内容を決め
られてもよろしいかと存じます﹂
男性はフェアの日時を確認し、パンフレットも封筒に入れて寄越
した。
二人は安堵した顔で参集殿を後にした。
﹁よかったね﹂
﹁ああ、よかった﹂
原田は背伸びをしてネクタイを緩めると、晴々とした表情になっ
て振り向いた。
﹁本当に気持ちのいい日だ。彩子、遊びに行こうか!﹂
﹁はい、行きましょう﹂
彩子も晴れた笑顔で応えた。
二人は山へ向かう事にした。
﹁山と言ってもインターからすぐに行ける辺りじゃないと、雪があ
るからな﹂
原田は高速に入るとアクセルを深く踏み、スピードを上げた。
﹁前から思ってたんですけど、運転が上手ですね﹂
彩子は自分の運転技術と比べ、感心したように言った。
﹁そう? しかし運転に関しては慢心は禁物だね﹂
原田はまんざらでもない顔になるが、すぐに頬を引き締めた。
285
1時間ほど走ると、サービスエリアに入った。
﹁あ、冷えますね﹂
山に近くなった分、空気が冷たい。車を降りて周りを見ると、ス
キーやスノーボードの板を積んだ車がちらほら停まっている。
﹁温かいものでも食べようか。丁度いい時間だよ﹂
レストランに入ると、彩子は山菜うどん、原田はカツ丼のランチ
セットを頼んだ。
﹁カツと言えば﹂
彩子はまりと木村を思い出し、原田にその話をした。
﹁木村の彼女って山田さんだったのか﹂
意外そうに、目を丸くした。
﹁そうなんです。私も、最近聞いたばかりで﹂
﹁へえ、木村がねえ。あの口下手な男が、女の子と何を話してるん
だろうな﹂ ﹁それが、私や原田さんの噂話をしてるって⋮⋮﹂
﹁ぐっ、噂話?﹂
慌てる原田が可笑しくて、彩子はクスクスと笑った。
﹁それにしても、女性に合わせて髪を切ったり髭を剃ったりすると
は、あいつらしくもない。よっぽど山田さんに惚れたんだな﹂
﹁木村さんらしくない?﹂
﹁ああ。木村も頑固なところがあるからね﹂
料理が運ばれて来て、二人は早速食べ始める。
彩子はさっきの言葉が気になり、ちょっと訊いてみる事にした。
﹁じゃあ原田さんは、私が髪型を変えてほしいと言っても、変えま
せんか?﹂
﹁変えてほしいのか?﹂
﹁いえ、例えばの話です﹂
﹁う∼ん⋮⋮変えないと思うよ﹂
286
﹁あ、やっぱりそうですよね﹂
それが原田らしくていいと彩子は思った。
﹁彩子は髪が伸びたな。初めて会った時は⋮⋮﹂
原田は言いかけて、口を押さえた。
﹁何ですか﹂
﹁すまない⋮⋮ほんと、子供みたいだった﹂
﹁言うと思いましたよ﹂
浜辺でデートした時の、ウサギの棒付きキャンディが頭に浮かぶ。
原田と比べて子供に見えたと言う証拠だ。
﹁今はそうだな⋮⋮ま、高校生ぐらいだね﹂
原田は時々、こんな風に彩子をからかう。一応怒って見せるが、
こういったやり取りは嫌いではないので、いつも一緒に笑ってしま
う。
﹁でも、女らしくなったよ﹂
﹁えっ?﹂
原田は彩子を見つめ、﹁何でもない﹂と微笑んだ。
レストランを出ると、原田は案内所のラックから地図を一部抜い
て手元に広げた。周辺の見どころなど紹介されている。
﹁そういえば、ここから博物館が近いぞ﹂
原田は缶コーヒーを飲んでいる彩子に提案した。
﹁鉱物の博物館ですか? いいですよ、行ってみましょう﹂
二人は早速車に乗り込むと、鉱物博物館へと向かった。
﹁次のインターで降りて、下道を40分てところか﹂
高速道路を降り、川沿いの道を15分ほど走ると雪が舞い始めた。
﹁おっ、彩子が好きな雪だぞ﹂
﹁本当だ﹂
287
﹁風情はあるけど、あまり積もらないでくれよ﹂
しばらくすると、脇道から少し上ったところに鉱物博物館の建物
が見えて来た。
﹁懐かしいな﹂
﹁前にも来た事があるんですか﹂
﹁うん、大学の時に2、3回。ここにいいものがあるんだ﹂
﹁何ですか﹂
﹁さあて、ね﹂
彩子は車を降りると、原田に促されて入り口に向かった。
前に降ったと見られる雪が日陰に寄せられて、溶けないままにな
っている。気温は低いけれど、清浄な空気が気持ち良い。彩子は深
呼吸した。
博物館はさほど大きな施設ではないが、きれいな建物である。
展示室は常設展示と企画展示に分かれている。原田は企画展示室
を見てくると言って、彩子と別れた。一人でじっくり見たいのだろ
うと思い、彩子は常設展示のほうを見学する事にした。
外国で採れたとある、水晶の群晶がまず目を引いた。自然界で、
こんなにも素晴らしく輝く宝物が育まれるのだ。彩子は信じられな
い思いで見入った。
さまざまな鉱物が展示されている。
ガーネット、トパーズ、彩子の誕生石のアメシストなど、アクセ
サリーに使われる石が目を引いた。黄鉄鉱、磁鉄鉱、自然金といっ
た、工業用に使われる石もある。母岩にくっついたそれらは、鉱物
は地球の子供だと教えている。
﹁彩子﹂
企画展示室から戻ってきた原田が、いつの間にか後ろに立ってい
288
た。
﹁こっちへ来てごらん﹂
彩子の手を引いて歩き出す。
廊下を挟んだ向かい側にある常設展示室に入り、とある鉱物の前
に連れて来た。見ると、緑や紫のさまざまな色と大きさの石が展示
されている。
﹁蛍石だよ﹂
﹁これが、全部?﹂
﹁そう、いろんな色や形がある﹂
暗いケースに展示されている蛍石もあった。原田がケースに付い
ているボタンを押すと、ぼうっと青く光るのがわかった。
﹁紫外線なんかの刺激を与えると、蛍光する﹂
﹁うわあ﹂
その時、一組の親子連れが展示室に入ってきた。彩子は繋いだ手
を引っ込めかけるが、原田は構わず握り締めている。
蛍石に夢中で気が付かないのだろうか。
温かい手に包まれたまま、彩子は原田の横顔を窺った。夢見るよ
うな眼差しで石を見つめている。
そしてその熱を持った瞳をそのまま彩子に向けると、告白するよ
うに囁いた。
﹁俺の大好きな石だ﹂
﹁⋮⋮原田さん﹂
繋いだ手に力を込めた彼に、そっと頷いた。
二人が博物館を出ると、地面が白くなっていた。錫色の空からは、
次々と雪の欠片が降りてくる。
﹁表に散策路もあるんだけどな⋮⋮仕方ない、帰ろう﹂
原田は車を回して来るから待ってろと、駐車場に走って行った。
289
先ほど展示室で会った家族連れも出て来て、寒そうに空を見上げ
ている。両親と男の子が一人。男の子は雪を捕まえようとしてジャ
ンプしている。
無邪気な様子に彩子は微笑み、﹁いつか私達も﹂と、そんな想像
をしてしまい、一人照れ笑いした。
山を下りてから、喫茶店に立ち寄った。
原田は金属製のコーヒースプーンを彩子の前に掲げると、独り言
のように語り始めた。
﹁これは鉱物から生まれた﹂
次に、テーブルにある塩を持ち、
﹁これも鉱物から溶けだして生まれた﹂
理科の先生みたいな原田に、彩子は目を瞬かせた。
﹁鉱物を知るは地球を知るのと同じ。地球に住む生き物の、これま
でをこれからを知る事。ほとんど際限の無い関心事だと思う。どう
してこんなものに夢中になっちまったんだろう﹂
愁えたように呟くと、雪の景色に目をやり、静かにコーヒーを含
んだ。
この人は自分の世界を持っている。
私には自分の世界があるだろうか。
彩子は考えてみる。
あると思う。
今は世界のほとんどが原田に占められているが、私の世界も必ず
ある。今まで生きてきた時間に育まれた、自分だけの感性があるよ
うに。
例えば、何より好きだった神話やファンタジー、SFの本たち。
290
趣味ばかりではなく、ものの見方や考え方。
彼の世界と私の世界、そして二人の世界。
全て大事な世界だ。
彩子が深刻な顔をしているので心配したのか、原田は、
﹁どうかしましたか﹂
と、以前のように丁寧な言葉で話しかけた。
﹁良樹﹂
﹁えっ?﹂
﹁これから、良樹って呼ぼうかな﹂
彩子はいたずらっぽく言うと、きょとんとしている年上の彼を見
つめた。
原田は再び窓へ目をやると、
﹁どうぞ、ご自由に。彩子さん﹂
少年の横顔で、了承した。
291
1
夜、自室の窓から空を見上げた。
山は雪が降っていたが、ここ平地はかなり冷え込むものの晴れて
いる。
彩子は星の瞬きを見つめながら、今日のデートを思った。
︵楽しかったな⋮⋮︶
ぼんやりコーヒーを飲んでいると、電話が鳴った。智子からだ。
﹃こんばんは、彩子。今日もデートだったの?﹄
冷やかすような声が聞こえた。
﹁うん。式場の予約をしてから、ドライブに行った﹂
﹃あ、もう予約したの。いつ?﹄
﹁10月10日の土曜日。智子には絶対出席してもらうよ﹂
﹃アハハ⋮⋮了解です。それにしてもすごいスピードねえ、あなた
たちは﹄
﹁そ、そうかな﹂
彩子としては、明日にでも良樹と一緒に暮らしたい気持ちなのだ
が。
﹃ところで彩子、明日は時間ある?﹄
﹁うん。一日空いてるよ﹂
良樹は日曜出勤との事なので、部屋の掃除でもしようかなと考え
ていた。
﹃わっ、良かった。久しぶりに図書館でも行かないかな∼って、電
話したのよ﹄
﹁えっ、私も本を借りたいと思ってたんだよ﹂
偶然の意思疎通に驚いてしまった。
﹃そうなの? よかった∼。じゃあ、県立図書館で10時にしよっ
292
か﹄
﹁いいよ。分かった﹂
智子と二人で図書館なんて、とても久しぶりだ。
彩子は、良樹とのデートとはまた違う高揚感を覚える。好きなジ
ャンルは違えど、智子とは本好きの仲間だ。
枕もとの時計を見ると、午後11時を回っている。明日のために、
急いで寝る準備をした。
翌朝、彩子は部屋の掃除だけ済ませると、急いで図書館に向かっ
た。
待ち合わせの時間までまだ10分ほどあるが、智子はすでに到着
しており、ロビーの椅子に腰掛けていた。彩子に気付くと、ゆっく
りと立ち上がる。
﹁おはよう、彩子﹂
﹁おはよう﹂
二人はどちらからとも無く手を取り合うと、久しぶりの﹃デート﹄
に照れ笑いした。
﹁彩子は小説だから2階だね﹂
﹁うん、智子は何処へ行くの﹂
﹁私は5階。あとで上の喫茶室で会おうか﹂
﹁そうだね、わかった﹂
彩子は、何となく今日の智子は違うと思った。機嫌よく顔色もい
いが、動作が緩慢な気がするのだ。不思議に思うが、とりあえず小
説のコーナーへと移動した。
読みたかった本は貸し出し中で、その他はまあまあの収穫だった。
智子が気になったので、まず5階を覗いてみる事にした。
293
5階まで来ると、智子の姿を探した。
広いフロアの奥、窓の辺りで智子が本を選んでいるのが見える。
彩子は近付いて声を掛けた。
﹁わっ﹂
智子は集中していたのか、不意に現れた彩子に驚いた声を上げ、
周りの注目を浴びた。
﹁ど、どうしたの﹂
彩子のほうも驚き、智子を覗き込んだ。
そして、智子が手にした本の背表紙を何となく見て、目を丸くす
る。
﹃妊娠と出産﹄
﹃妊娠中の栄養﹄
﹃赤ちゃんの12ヶ月﹄
﹁智子⋮⋮﹂
﹁えへへ⋮⋮実は、そうなんだ﹂
智子は照れくさそうに頬を掻いた。
彩子は黙ったまま何度も頷き、とりあえず喫茶室で話をしようと
提案した。
﹁もうすぐ結婚するからって避妊しなかったら一発で﹂
﹁ちょっと智子﹂
地声が大きい智子に、彩子は慌てて声を抑えるようジェスチャー
した。
智子はゴメンゴメンと笑うと、オレンジジュースをストローで吸
い込んだ。あっという間にグラスが空になり、体が冷えはしないか
と彩子は心配した。
294
﹁さっぱりしたものがほしくって。あまり酷くないんだけど、つわ
りも始まってるみたい﹂
﹁つわり﹂
彩子はどう対応すれば良いのかわからない。だがこれで、動作の
緩慢のわけが明らかになった。
﹁今、2ヶ月なんだ﹂
﹁そう、2ヶ月⋮⋮﹂
彩子は妊娠2ヶ月と言われてもどういう状態なのか見当がつかな
い。
﹁気がつかなくて、ビールなんかもグイグイ飲んでたわ。どうしよ
うって焦りまくった﹂
智子はまだ目立たないお腹をさすりながら、不安げに呟いた。
﹁産婦人科はもう受診したんだよね﹂
﹁うん。はっきり妊娠してるってわかった。怜人もめちゃくちゃ喜
んでる﹂
後藤のはしゃぐ姿が目に浮かんだ。
﹁彩子、あなたは気を付けなさいよ。私達はまだお腹が目立たない
うちに式を挙げるからいいけど﹂
﹁うっ﹂
彩子はどう返事をすればいいものやら迷った。
﹁まあ、原田さんの事だから結婚するまでは絶対に手を出さないだ
ろうけど﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何、まさか﹂
彩子は頬を赤らめた。
﹁え、ちょっと待って。もう? うそー、原田さんって意外ってい
うか、何でも速いのねえ﹂
妙に感心する智子に、彩子は一度だけだと言い訳じみた事を言お
295
うとしたがやめた。
﹁で、どうだったの﹂
智子は目をとろんとさせて彩子ににじり寄った。
﹁な、何が!﹂
﹁ふふ∼ん。初体験のご感想は?﹂
変な声を出して顔を覗き込んできた。
﹁そんなの忘れた⋮⋮﹂
﹁ああら、原田さんが聞いたらどう思うかなー﹂
あやうく紅茶を噴くところである。
﹁言わないで、絶対。後藤さんにも!﹂
智子は楽しそうに笑うと、いつものように姉の仕草で友人の髪を
撫でた。
﹁わかってるわよ、馬鹿ねえ。でも、そっかあ、彩子ももう女にな
ったか。あの彩子がねえ﹂
﹁もう帰ったほうがいいよ、智子。体のためにも﹂
﹁その言い方、原田さんに似てるんじゃないの﹂
﹁え⋮⋮﹂
全く、智子には敵わない。にこにこして、余裕で彩子を観察して
いる。
二人は図書館を出た。
彩子は智子をタクシー乗り場まで送り、くれぐれも自重するよう
念を押した。智子はわかったわかったと、大袈裟に心配する彩子に
苦笑していた。
彩子は家に帰ると、妊娠2ヶ月がどんな時期なのか、インターネ
296
ットで検索した。
﹃外見上は妊娠しているかどうか分からない﹄とある。
そうだ、分からなかった。彩子は今日の智子の姿を思い出してみ
る。
﹃風邪をひいたように、だるくなったり熱っぽかったりするのも、
妊娠2ヶ月では多い症状である﹄
身長2∼3cmほど
体重4gほど﹄
そうなんだ。智子、大丈夫だったのかな。
﹃妊娠2ヶ月の胎児
思わず目を閉じた。生命の神秘を感じる。
﹃妊娠2ヶ月は特に大切な時期です。体を大事に、ゆったりと過ご
しましょう﹄
彩子はこの一文を智子にメールで知らせた。
智子からはすぐに﹃了解﹄と返事が来た。笑顔の顔文字が添えら
れている。
親友がお母さんになる︱︱
彩子は感情が高ぶり、その夜はなかなか眠れなかった。
2月11日 建国記念の日。
祝日ではあるが、原田良樹は会社にいる。今日も休日出勤だった。
﹁全く俺は働き者だよ﹂
呆れたように自分で言うと、更衣室を出た。時計の針は午後8時
を指している。
廊下を歩いていると、入れ替わりで着替えに行く志摩とすれ違っ
た。
﹁よお原田、お帰りかい﹂
297
﹁ああ、やっと解放されたよ﹂
﹁俺もだ。明日もよろしくな﹂
志摩は約束どおり、毎朝原田に付き合って、キャッチボールやラ
ンニングを頑張っている。時にはバッティングピッチャーにもなっ
てくれている。
﹁今度、飯でも奢らせてもらうよ﹂
﹁気遣いは無用だよ。好きでやってるんだ﹂
照れたように手を振ると、志摩はさっさと更衣室に入ってしまっ
た。
﹁本当に、感謝してるよ﹂
良樹は誰もいない廊下で、心からの言葉を呟いた。
すっかり暗くなった道を歩いて駐車場まで来ると、良樹は不意に
彩子を思い出した。
︵これから帰る場所に彼女が待っていてくれたら︶
そんな想像をしてみる。
遠くない未来にそれが実現されるのだが、待ちきれない気分だ。
﹁そう言えば新居はどうするかな﹂
良樹は独立して一戸建てを持とうと考えている。まだ学生の時分
から漠然と描いている予想図だった。ただ、もう少し落ち着いてか
らだが。
﹁それまでは目星を付けた地域にアパートを借りて、徐々に計画を
立てるか﹂
車に乗り込むと、携帯電話が鳴った。発信者を見ると、文治から
だ。
﹁どうしたんだろう﹂
珍しいなと思いながら、電話に出た。
﹃もしもし、原田君か﹄
298
﹁ええ、こんばんは先生。どうしたんですか﹂
﹃私じゃないんだ。ちょっと待ってくれ﹄
誰かを呼ぶ声が聞こえる。
ひょっとして美那子に代わるのかと思ったが、出たのは聞き覚え
の無い声であった。
﹃もしもし⋮⋮えっと、原田さんはじめまして。私は山辺彩子の友
人で雪村律子という者です﹄
雪村⋮⋮そういえば彩子から聞いた事がある。美那子の友達であ
るとも。随分と落ち着いた、低い声の女性だなと思った。
﹁ああ、はい。彩子から聞いています。はじめまして﹂
﹃突然、申し訳ない。実は原田さんにお願いがあって、電話をさせ
てもらいました﹄
﹁僕にですか?﹂
﹃ええ﹄
雪村律子は文治の電話を借りている。甲斐の家と、かなり親しい
人なのだろうか。
﹁それは構いませんが、彩子⋮⋮ではなく、僕でいいんですか﹂
﹃そうです。原田さんの方がいいんです﹄
良樹は、なぜか男性と話している錯覚に陥りそうだった。
﹃原田さんの都合のいい場所と時間をおっしゃって下さい。こちら
からお伺いしますので﹄
﹁⋮⋮今からコレーに寄りましょうか。会社から帰るところなんで﹂
良樹は、一体何の用事なのか気になった。
﹃それはありがたいですけど、大丈夫ですか﹄
雪村は少々驚いた様子だった。
﹁構いませんよ。じゃあ、20分後には着きますので﹂
﹃わかりました。気を付けて来て下さい﹄
良樹は電話を切ると、すぐに車を出した。
299
きっちり20分後にコレーに着いた。
閉店の看板は出ているものの、店にはまだ灯りがついている。良
樹は鍵の掛かっていないドアを開けると、中に入った。
カウンター内に美那子、その向かいの席に文治が座っていた。
﹁おお、原田君﹂
﹁良樹君、いらっしゃい﹂
二人は良樹を見ると笑いかけた。
﹁美那子さん﹂
良樹は、彩子が美那子と格闘した話を思い出した。
﹁あ、彩子さんから聞いたでしょう﹂
﹁ええ、聞きましたよ。二人でプロレスをやったって﹂
良樹は笑って答えた。美那子はばつが悪そうに首をすくめている。
﹁えらいことをまた⋮⋮君には本当に合わせる顔が無いよ﹂
文治は首の後ろに手を当てると、申しわけなさそうにうな垂れた。
﹁大丈夫ですよ。彼女はそんなやわじゃありませんから﹂
それを聞くと、二人は初めてほっとした表情になった。
﹁ところで雪村さんは?﹂
﹁奥にいるわ。どうぞ﹂
美那子が工房のほうへ案内した。
良樹が中に入るとドアは閉められ、美那子も文治も入ってこない。
変に思いながらも前を見ると、そこにはスーツ姿の少年が立って
いた。
︵え⋮⋮?︶
﹁こんばんは、原田さん。突然すみませんでした﹂
雪村律子である。
男物のスーツがよく似合う、凛々しい顔立ちをした女性であった。
300
背は167くらいだろうか。
堂々として、雰囲気に迫力がある。男のようにズボンのポケット
に手を突っ込んだ恰好で、微笑を浮かべている。
良樹はその中性的な魅力に、しばし言葉を失った。
﹁原田さん、美那子に全て聞きました。あなたには随分迷惑をかけ
たみたいですね﹂
雪村は良樹に一歩進み出ると、ポケットから手を出し、頭を下げ
て詫びた。
﹁私からも謝ります。もう二度と美那子にあんな真似はさせません﹂
﹁なぜ、君が謝るんだ﹂
良樹は困惑した。彼らの関係が全く掴めない。
﹁私は美那子の⋮⋮生涯のパートナーです﹂
雪村の言葉に、良樹は目を白黒させている。彩子は、雪村と美那
子はお互いを大切にしている友人同士だと言った。だが生涯のパー
トナーというのは?
良樹は考えを巡らせていたが、やがてぼんやりと理解する。雪村
はその様子を確認すると、話を続けた。
﹁お詫びに、原田さんと彩子の結婚指輪を作らせてほしいのです﹂
﹁結婚指輪?﹂
﹁ええ、そうです﹂
﹁お願いというのは⋮⋮そうだったんですか﹂
良樹は肩の力が抜けた。何事かと、実はずっと緊張していたのだ。
﹁僕は文治先生に頼むつもりでいました﹂
﹁そうでしょう。先生もおそらくそうじゃないかと﹂
﹁君が作ると言う事ですか﹂
﹁正確に言えば、美那子と私の作品になります﹂
﹁美那子さんと⋮⋮﹂
301
﹁お願いします、原田さん。私達に作らせて下さい﹂
雪村の目は真剣だった。黒目がちの、とても美しい目をしている。
彼女は彩子の大切な友人の一人だ。
﹁雪村さん﹂
﹁はい﹂
﹁僕の方からお願いします。最高の結婚指輪を作ってください﹂
良樹は雪村の手を取ると、しっかりと握手をした。まるで男同士
のような、自然な動作だった。
﹁期待しています﹂
雪村の顔が一瞬、泣きそうに崩れる。だが、すぐに笑顔になり、
﹁良かった!﹂
良樹の手を握り返した。
﹁感謝します、原田さん。さすが、彩子が選んだ人だ!﹂
感激しきりのようすで、カフェのほうへ飛んで行った。
良樹は思いがけないほど強い雪村の力に驚くと同時に、美那子と
文治と自分の関係に、あの事件以来初めて本当に明るい陽が差した
のを、その手の平に実感していた。
302
2
朝から冷たい雨が降っている。
彩子は出掛ける準備をすると、玄関の上がり框に腰掛け、良樹を
待った。
今日は2月14日。彼と映画を観に行く約束をしている。そして、
初めてのバレンタインでもある。
彩子はこれまで男の子にチョコレートを渡した経験が無い。中学
時代は学校にチョコレートを持って行くのは禁止されていて、それ
を生真面目に守っていた。
佐伯の家まで直接行こうと考えたが、結局踏ん切りがつかず、ハ
ート型のチョコレートは弟の真二に食べてもらった。
雨だれの音を聞きながらつらつら考えていると、インターホンが
鳴った。
﹁クラクションを鳴らしてくれたら、車まで行くのに﹂
玄関ポーチまで来て傘を差し掛ける良樹の肩が、雨に濡れている。
﹁そんなわけにはいかないよ﹂
彼らしい返事だった。
﹁しかし、ひどい降りだな﹂
良樹が暗い空を見上げ、呟く。フロントガラスに流れる雨をワイ
パーが押しのけるが、追いつかないぐらいだ。
郊外の大型ショッピングセンターに着くと、立体駐車場に車を停
め、併設される映画館へと歩いた。
北欧の伝説を元に制作されたアクションファンタジーを観る予定
である。前評判も良く、気になっていた映画だ。
﹁良樹も本当にこの映画でいいの?﹂
﹁いいよ。アクション物は好きだ﹂
303
館内は比較的空いている。客層は若者が多いようだ。
﹁映画なんて久しぶり﹂
彩子が笑うと、良樹も笑みを浮かべた。
ライトが落とされ、宣伝や予告編が終わると、本編が始まった。
見も知らぬ人達と一緒に、同じ映画を観る。彩子は映画館独特の
空気が好きだ。一期一会と言っては大袈裟だろうが、そんなような
気持ちになる。
映画は想像していたよりも過激で、残酷な表現も何度か挿まれて
いた。CG技術が向上したのはいいが、むごい場面も非常にリアル
なので驚いてしまう。
彩子は最初のうちは耐えたが、繰り返される残酷な場面に胸が苦
しくなり、外に出たくなった。
良樹は肘掛けに頬杖をつき、静かに観ている。彩子は思わず彼の
手を取り、ぎゅっと握り締めた。
良樹は驚いた様子だが、心細い顔をする彩子の耳元に、
﹁平気か﹂
と、短く訊いた。
彩子は黙ってうんうんと頷き、それからすぐに手を離すと、まっ
すぐに座り直した。今度は別の理由で、胸が苦しくなっていた。
映画が終わると、観客が座席を立ち始める。
﹁あー、ハラハラした⋮⋮っていうか、キモイ﹂
﹁リアルすぎだよね﹂
若い女性が二人、そんな事を言い合って通り過ぎた。
彩子も同感だった。
﹁彩子、怖かったんだな﹂
304
良樹が覗き込んで、声をかけた。少し嬉しそうな顔をしている。
﹁思ったより過激で。年齢制限もないし、大丈夫そうだったのに﹂
﹁今時は普通なのかね。しかし、確かにくどかったな﹂
﹁良樹は平気?﹂
﹁うん、CGって丸分かりだからね﹂
え、そうだったかなと彩子は不思議に思う。画面を見る目が違う
のかもしれない。
それにしても、彩子は参ってしまう。良樹とは既に男女の関係で
あるのに、手に触れたり耳元で囁かれたりするだけで、何故こんな
に動揺するのか。少し敏感すぎるのではないかと、本当に困ってい
る。
昼には少し早いので、ベーカリーショップで軽く食べることにし
た。
﹁そういえば、話そうと思ってたんだ﹂
良樹は結婚指輪について、彩子に教えた。
﹁雪村が?﹂
わざわざ良樹に連絡を取ったと聞いて、彩子は驚いた。
﹁私には何も言わなかったよ﹂
﹁俺は嬉しかったな。直接俺に言ってくれたことが﹂
彩子はクールに笑う雪村を目に浮かべた。彼女らしい申し出だと
思う。
﹁今度、お礼を言わなきゃ﹂
﹁そうだな。美那子さんにも文治先生にも﹂
良樹は言いながら、腕を伸ばした。
彩子の口の横に付いたクリームをナフキンで拭ってくれたのだ。
﹁あ、ごめんなさい﹂
305
﹁ふふ⋮⋮﹂
彼は時々、こんな風に子ども扱いをする。彩子は照れ隠しに話題
を変えた。
﹁友達と言えば、智子が⋮⋮﹂
﹁赤ちゃんが出来た﹂
良樹が先に言うので、彩子は目を瞠る。
﹁知ってたの?﹂
﹁後藤が昨夜電話してきた。酔っ払ってたから冗談かと思ったけど、
本当なんだな﹂
﹁そうだよ、あの二人はお父さんとお母さんになるの﹂
﹁子供か﹂
良樹は腕組みをして、何か考えている。
妙に真面目な態度であり、彩子は何故か全身が熱くなってきて困
った。頬が赤くなっているのが自分でもわかり、ハンカチで隠した
が無駄である。耳まできれいに染まっている。
良樹は気付いて、きょとんと見ている。
﹁どうしたんだ﹂
﹁あ、暑いですねここは﹂
﹁リトマス試験紙みたいだな﹂
﹁うう⋮⋮﹂
﹁何考えてたんだ﹂
彩子はひと言も無く、穴があったら入りたかった。
良樹は呆れたように笑っている。
ますます赤くなる顔を俯かせ、もうどうしようもないほど良樹が
大好きなのだと自覚した。
306
﹁もうすぐ試合だね﹂
雨が降り続く街を眺めながら、良樹に話しかけた。
ここはN駅前の交差点。彼は車のハンドルを操作しながら返事を
した。
﹁ああ、草野球か﹂
﹁調子はどうですか﹂
﹁まあまあかな。相手のピッチャーがどんなものか気になるな﹂
彩子は見に行かないつもりだった。佐伯が来るので、どうにも行
きづらいものがある。
﹁さて、今日はもう帰ろう。身体を冷やすと、また風邪をひく﹂
﹁うん﹂
彩子はがっかりするが、良樹の言葉は的を射ている。少し寒気が
するのだ。
﹁あの、これ置いときますね﹂
彩子はバッグからチョコレートの包みを取り出すと、を後ろの座
席に置いた。
﹁えっ、ああ⋮⋮今日はそうか﹂
﹁手作りじゃないですよ。そのかわり、お店で厳選してきました﹂
﹁厳選か。それは期待できそうだ﹂
良樹は彩子の言い方が可笑しかったのか、楽しそうである。
山辺家に着くと、良樹は助手席へ体を向けて、彩子をじっと見た。
﹁⋮⋮どうしたの?﹂
﹁いや、何でもない。別れを惜しんでるだけ﹂
﹁そ、そう﹂
彩子は目を泳がせた。なんという事もなく良樹が言うのに戸惑っ
てしまう。
﹁彩子も来るんだろう、22日﹂
どきりとする。それは草野球の日だ。
307
﹁わ、私?﹂
﹁ああ。妙な気を使わないで、来るといい﹂
良樹は全て分かっているのだ。彩子は肩の力を抜いて、頷いた。
﹁ん⋮⋮少しだけ覗くかもしれない﹂
﹁よし、じゃあまたな﹂
﹁今日はありがとう﹂
彩子は自分の傘を開くと、良樹の車が角を曲がるまで見送った。
物足りない気持ちで一杯だった。
良樹はアパートに帰ると、久しぶりに鉱物の整理をした。気に入
った石は実家から持ち出し、ひと箱にまとめてある。格子の仕切り
が付いた箱に分けて、標本シールを貼っていくのだ。
作業が終わると、近所の定食屋で夕飯を済ませ、その後は部屋に
戻って野球のグラブの手入れをした。
一休みしようとひっくり返ったら、うっかり眠ってしまった。
彩子の夢を見た。
映画館での触れ合いが頭に残っていたのかもしれない。彩子の柔
“厳選チョコ”
らかな手と髪の香りが、良樹の理性を揺さぶっていた。
良樹は起き上がると頭を振って、彩子がくれた
の箱を開けてみる。なるほど見た目はどうということもないが、
口に含むと、その辺のチョコレートとは一線を画する味わいだ。普
段甘いものは食べないが、これはいけると思った。
2個目を摘もうとすると、電話が鳴った。
後藤からだ。時計を見ると午後10時過ぎである。
︵なんだ? こんな時間に︶
最近、何故か頻繁に電話をしてくる。たいした用事もなく、与太
308
話をしては一方的に電話を切るという行為が続いている。
︱︱後藤さんは、原田さんのことが好きなんだと思います。
︱︱かなり気に入ってると思いますよ。
良樹は無視をしたかったが、彩子の言葉を思い出し、複雑な気持
ちながらも応答した。
﹃原田、頼みがある!﹄
いきなり大声が聞こえた。
﹁⋮⋮どうした﹂
﹃迎えに来てくれ∼﹄
良樹はうんざりした。出るんじゃなかった。
﹁何してるんだ。どこにいるんだお前﹂
﹃7丁目の居酒屋。もう帰らなきゃ智子に怒られちまうんだよお。
皆帰っちまったし、タクシー代も無いし﹄
良樹は顔をしかめたが、あきらめたように電話を切ると表に出て
車に乗り込んだ。
﹁俺が好きなら迷惑をかけるな﹂
雨の中、後藤が待つ居酒屋へと走って行った。
後藤伶人は酩酊した目で良樹を待っていた。
居酒屋の軒下に座り込み、濡れてはいないが、体が冷え切ってい
るようだ。
良樹はとにかく家に送ることにした。
車に乗せると、まず後藤の自宅マンションに電話を入れた。電話
には智子が出て、良樹だとわかると驚いた声を上げた。
﹁まったく、仕方ない奴だ﹂
ぐったりする後藤を横目に、ため息をついた。
309
マンションに着くと、ちょうど智子がエントランスに降りてきた
ところだった。
﹁原田さん、ごめんなさい。もう、怜人ったら!﹂
良樹はぷんぷん怒る智子に笑いかけると、後藤に肩を貸し、部屋
まで連れて行った。
︵本当に体格のいい男だな︶
ずっしりと重たい酔っ払いに、苦笑する。
後藤をベッドに寝かせた後、良樹は帰ろうとしたのだが、智子に
引き止められ、濡れた服を乾かすことになった。
居間で智子とコーヒーを飲んでいると、後藤が頭を押さえながら
ノソノソと起きてきた。
﹁寝てなくて大丈夫なのか﹂
﹁おお⋮⋮原田、すまん。う∼、まいった﹂
﹁いやあね、もう﹂
智子は後藤を支えると、ソファに座らせた。
﹁智子さん、大丈夫です。あとは俺が面倒見ますから休んでくださ
い﹂
良樹は智子の体調を心配したが、
﹁大丈夫、少しお説教しなくちゃ﹂
後藤に水を持って来て、荒っぽい仕草で渡した。
﹁それにしても、誰も送ってくれなかったの。人望が無いわね﹂
智子は辛らつだった。
﹁トイレに行って帰って来たら誰も居なかったんだもん﹂
﹁だからって原田さんを呼ぶなんて﹂
﹁原田なら来てくれると思って﹂
良樹は一言もない。実際に迎えに出たのだから。
310
﹁ごめんなさいね、本当に﹂
智子がかわりに謝った。
後藤は目を閉じて横になり、今にも眠ってしまいそうにうとうと
している。
智子はふうっと息を吐いた。
﹁赤ちゃんが出来たってわかった時は凄く喜んでたのに、それから
だんだん不安定になってきたの﹂
﹁後藤がですか?﹂
良樹は意外に思った。
﹁この人、普段は元気で豪傑に見えるけど、案外怖がりなのよね﹂
﹁うるさいぞ﹂
寝言のように呟くと、またうとうとする。智子は良樹と目を合わ
せ、肩をすくめた。
﹁親になるのが怖い?﹂
﹁そう。あと、こんな調子のいい性格だから、本当に相談できる相
手ってあまりいないのよ﹂
﹁なるほど﹂
後藤は寝息を立て始めた。全く無防備な寝姿である。
﹁原田さんのことは、信頼してるみたい。アイツはすかしてる∼な
んて言ってるけど、あなたについて話す時は、顔が嬉しそうなんだ
もの﹂
﹁そ、そう﹂
こんな熊のような男に慕われて、男として複雑なものがあった。
﹁中学の時からみたいよ。あなたみたいな落ち着いたタイプに憧れ
てるみたい﹂
﹁ふうん﹂
だから俺をよく覚えていたのかなと、良樹は推測する。
311
﹁智子さんも落ち着いたタイプですね﹂
﹁ええ、そうなの。あのね、彩子はあなたの子供﹂
﹁?﹂
唐突に彩子の名前が出たので良樹は動揺した。
﹁それで、伶人は私の子供。そう、思わない?﹂
智子がクスッと笑うと、良樹もなるほどと、同じ顔で笑った。俺
達は似たもの同士だ。
﹁彩子は幸せだわ。原田さんみたいな人と一緒になれて﹂
﹁いや、後藤こそラッキーでしょう﹂
二人は、すっかり安心した男の寝顔を見ながら、しばらく話をし
た。
﹁あ、そうそう。言おうと思ってたんだけど﹂
智子はぽんと手を叩くと、声を小さくして良樹に教えた。
﹁佐伯君ね、まだ彩子を忘れてないみたい﹂
良樹は顔を上げた。智子はいたって真剣である。
﹁もう言ってしまうけど、あの二人は初恋同士なの﹂
良樹はひんやりしたものを心に感じる。それは、分かっていたこ
とではあるが⋮⋮
﹁彩子にとってはもう昔の話。でも、佐伯君は再会した彩子に改め
て恋しちゃったみたい﹂
﹁⋮⋮そうなんですか﹂
そう答える以外なかった。
﹁彩子を離さないでね﹂
懇願するように言う彩子の親友に、良樹は迷わず頷いた。
﹁もちろんです﹂
真っ直ぐに智子を見る。良樹の静かな眼差しが、彼女をどきりと
させた。
﹁佐伯だろうが誰であろうが、渡しませんよ﹂
312
はっきり返事をすると良樹は立ち上がり、智子に暇を告げた。
﹁それじゃ、22日に﹂
乾いた上着を受け取ると、彼らのマンションを後にした。
313
3
朝、良樹からメールが来た。
今日の仕事が終わる予定時刻を訊いてきたのだ。彩子は何もなけ
れば午後6時に退社できると返信した。大事な話でもあるのだろう。
そんな予感がした。
仕事は予定どおり、6時前に終わった。
席を立ったところに工場長が事務所に入って来て、内緒話するみ
たいに話しかけた。
﹁彩子ちゃん、表にいる人、もしかして恋人?﹂
﹁えっ﹂
﹁ブルーの車にもたれて誰かを待ってる様子なんだけど﹂
それは良樹に間違いない。彩子は慌ててバッグを手にした。
﹁ええ∼、彩子ちゃんの恋人? わあ見せて見せて﹂
パソコンの陰で聞き耳を立てていたのか、新井主任が嬉々として
立ち上がった。
﹁見せてって、見世物じゃないんだから。なあ彩子ちゃん﹂
工場長が呆れて笑うが、そう言う自分も後に続いている。
﹁どれ、私も﹂
課長の田山までも付いて来る。彩子は非常に恥ずかしかったがも
う遅い。玄関ホールの窓ガラスから、皆が首をそろえて覗いた。
良樹が会社の斜め前のパーキングに車を停め、待っているのが見
える。
彩子は興味津々で人の恋人を眺めている面々をどうしようもでき
ず、後ろから退社の挨拶をして、通用口にまわった。
314
﹁お疲れ、彩子﹂
良樹はワイシャツの上にグレイのセーターを着て、紺のジャンパ
ーを羽織っている。胸元に、会社名の刺繍があった。
﹁良樹も仕事帰りだね﹂
﹁うん、今日はこの近くの得意先に来てたんだ﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁えっと、行こうか﹂
良樹は彩子の背後に目をやり、会釈した。見ると、工場長らがま
だ窓ガラスに張り付いている。
﹁ご、ごめんなさい﹂
﹁どうして。良さそうな職場じゃないか﹂
赤面して謝る彩子に良樹は微笑むと、助手席のドアを開けた。
﹁少しドライブしようか﹂
良樹は北へ向かって車を走らせている。
しばらくは国道の両側にビルやマンションなど建物が並んでいた
のだが、次第に景色が変わり、田畑が多くなってきた。
さらに走ると山々が現れ、その稜線に切り取られた夜空に、星が
瞬きはじめた。
﹁どこに行くの?﹂
県境の辺りまで来ると、彩子はさすがに行き先の見当が付かなく
なって、訊いてみる。
﹁そうだな⋮⋮腹が減った?﹂
良樹は答えの代わりにそんなことを返した。
﹁う、うん。まあ、すいたけど﹂
﹁それなら何か食べよう。もう少し行くとドライブインがある﹂
車を降りると、冷たい夜気が足もとから這い上がってきて、彩子
はぶるっと震える。
315
﹁寒いな。早く入ろう﹂
良樹は彩子の肩を抱くようにして店舗棟へ歩いた。
レストランや土産などの販売店、コンビニなどが並ぶ割合大きな
施設で、駐車場も広々としている。乗用車のほかに観光バスも数台
とまっていた。
レストランで食事する間、良樹は世間話をした。当たり障りの無
い話題ばかりであり、彩子は首をかしげる。どこか落ち着かない様
子が、いつもの彼らしくない。
何か大事な話でもあるのでは⋮⋮と思っていたので、妙に明るい
調子なのが逆に気になる。
彩子は食事を終えたあと、もう一度訊いてみた。
﹁ねえ、どこへ行くの?﹂
良樹は少し考えてから彩子の顔を見ると、照れたような笑みを浮
かべた。
﹁何かあったの?﹂
本当に、今日の良樹はどうかしている。
﹁うん、ちょっとね﹂
レストランを出ると、良樹は﹁こっち﹂と言って彩子の手を取り、
車がとめてあるのと反対方向へ連れて行った。
駐車場の端に、遊具などが設置された公園広場があった。外灯は
あるが薄暗く、シンとして人の気配が無い。
﹁公園?﹂
彩子はその古い施設の雰囲気になんとなく怯んだ。
﹁うん﹂
良樹は頷くと、怯えた表情の彩子に構わず手を引いて進む。
こんな所に入って一体何をするのと疑問に思う。
316
彩子は後ろに遠ざかる店舗棟の明かりを振り向きつつ、強引な力
に従うほか無かった。
﹁ほら、あれだよ﹂
良樹の声が指す方向へ目を当てると、突き当たりの丘になった場
所に展望台があるのがぼんやり見える。
﹁良かった。まだ現役だったな﹂
良樹はジャンパーを脱いで彩子をくるむと、そのまま彼女を押す
ように丘を上った。
﹁風邪引いちゃうよ﹂
彩子は心配するが、良樹は平気な顔でいる。
﹁さあ、着いた﹂
丘を上りきると、展望台に出た。彩子は良樹と一緒に手すりの前
まで行くと、視界が開けたその光景に、思わず息を呑んだ。
冬の澄んだ夜空に、数え切れないほどの星々が散りばめられてい
る。これまで見たこともない、光が迫ってくるような星の世界に、
暫く声も出せずにいた。
﹁すごい⋮⋮きれい﹂
やっと言えたその言葉に、良樹は満足そうに笑う。
﹁君に、見せたいと思って﹂
呟くと、彩子の肩を抱き寄せ、夜空を仰いだ。
彩子は良樹の胸にもたれるうちに、あの夜を思い出していた。初
めて結ばれたあの夜も、冬の星座を見つめていた。
南の空にオリオン座が、そして、やや左下にシリウスが輝いてい
る。
﹁オリオン座のベテルギウス・リゲルはともに1等星。シリウスは
さらにマイナス1.5等級の眩さだ﹂
317
良樹は空を指差し、彩子に教えた。
﹁そのシリウス・ベテルギウス・こいぬ座のプロキオンを結ぶと冬
の大三角形になる⋮⋮﹂
不意に言葉を途切れさせると、彩子の肩を抱く腕に力を込めた。
まるで、恋人の温もりを確かめるように、強く引き寄せて。
﹁冬の夜空のハイライトだ﹂
まるで無重力︱︱
彩子は感じた。
天も地も無く、宙に浮かんでいるのだと。
︵ううん、違う︶
彩子は良樹の腕を解いて彼に向き直ると、瞳の奥を見つめた。
自分は今、良樹の中に存在している。幸せであり、何かしら恐ろ
しいような気持ちでもあった。
彩子は彼の耳元に背伸びをすると、そっと囁いた。
﹁好き﹂
良樹は一瞬、気圧されたように瞳を揺らしたが、言葉に応えるよ
うに彩子を抱きしめ、柔らかなうなじにキスをした。
彩子は今、幸せだと感じる。
これは女としての幸せ。
良樹がなぜ今夜、私をこの場所に連れて来たのか。
心からそれを理解していた。
私達はひとつなのだ︱︱
彼の宇宙の中、眠るように目を閉じた。
318
319
1
2月22日 日曜日 快晴。
良樹は早起きをすると、早めに朝食を食べるなどして体調を整え、
試合会場である運動公園内グラウンドに向かった。
試合は10時からだが、9時過ぎにはほとんどのメンバーが集ま
り、各々ウォーミングアップを行っていた。
﹁おう、原田こっちだ﹂
後藤がベンチの前に出て、良樹を呼んだ。今日は顔色もよく元気
そうだ。
﹁この前はサンキューな﹂
良樹が近寄ると、照れくさそうに礼を言った。そしてメンバーの
前に押し出すと、
﹁みんな、今日助っ人に来てくれた原田良樹君だ。野球経験は中学
までだが、充分戦力になるぜ﹂
そう言って紹介をした。良樹はメンバーに一礼し、自分でも挨拶
をした。草野球のメンバーは皆、同年代との事だった。
﹁守備の打ち合わせをするからこっち来いよ﹂
後藤は良樹を手招きしてベンチに誘った。その時、奥の扉が開い
て一人の男が現れる。
佐伯諒一だった。
﹁おはよう、佐伯君﹂
﹁おはようございます、原田さん﹂
二人は目を合わせると、自然体で挨拶をした。佐伯は少し瘠せた
ように、原田には映った。
320
後藤はちらりと見やるが、知らぬ顔で打ち合わせを進めた。
﹁相手のメンバーは半分が高校野球の経験者だが、40過ぎのオヤ
ジどもだ。特にピッチャーの大里は50目前の超おっさんだ。おも
いっきり飛ばしたら5回も持たんだろう﹂
﹁そのわりに防御率がいい﹂
良樹がデータを見て指摘する。
﹁今までの対戦相手がヘボかっただけだ﹂
後藤は断定的に言ったが、
﹁変化球を投げるし、不意に来るスローカーブが効いてるみたいで
すね﹂
今度は佐伯が口を出した。
﹁何だ今日の助っ人は! 士気を下げるな士気を!﹂
後藤は吠えたが、他のメンバーは二人の意見に頷いている。
作戦会議が始まった。
良樹は素振りの練習をする佐伯を観察した。バットはアベレージ
ヒッター向の、グリップ部分が太いものを使っている。
﹁本当に足が速そうだな﹂
良樹は佐伯に目を当てたまま傍らの後藤に話しかけた。
﹁ああ、バットは当てるだけのために持ってるようなもんだ。塁に
出りゃこっちのものよ。お前も足が速かったな。変ってないか﹂
﹁多分﹂
﹁おいおい﹂
﹁何せ急ごしらえなんだから、期待しないでくれよ﹂
良樹は肩をすくめてみせた。後藤は口を尖らせている。
﹁ところでお前、変化球は打てるんだろうな﹂
﹁スローボールは練習した﹂
﹁ぐう⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ。何とかなる﹂
321
朝の練習で一緒だった志摩は、切れはいまひとつだが、幾つかの
変化球を投げる事ができた。それこそ、当たれば何とかなるだろう。
試合が始まった。彩子は途中から来る事になっている。他のメン
バーの応援もそんな感じのようだ。
佐伯は一番ショートだった。
本当に当てるだけのバッティングをすると、疾風のごとく一塁に
走った。セーフになり、皆手を叩いて喜んだ。
﹁本当に速いなあ﹂
良樹は心底感心する。
﹁だろ、だろ? 俺が探した奴だ、俺が﹂
後藤は自慢げに言いふらした。
佐伯は足が速いだけではなく、投手を観察する目も優れていた。
その回は結局後が続かなかったが、4回の表で佐伯が塁に出て、
状況が変った。佐伯は変化球を投げるピッチャーの微妙なモーショ
ンの違いを見つけ、バッターにサインで知らせた。
もちろん簡単には打てないが、あるていどの対応はできる。それ
は佐伯にとってスチールのチャンスである。
﹁大した奴だなあ﹂
良樹は佐伯に感嘆の声を上げた。
﹁お前も頑張ってくれよ、さあ、行った行った﹂
後藤に発破をかけられ、良樹はネクストバッターズサークルに向
かった。
その頃、智子と彩子はすでに来ており、風が当たらない暖かい場
所で観戦していた。
﹁すごいわねえ、佐伯君って﹂
322
智子が目を丸くしている。
﹁うん、中学の頃を思い出すよ。走るフォームも変ってない﹂
佐伯がユニフォームを着て走塁する姿は、やはりとても魅力的で
ある。彩子は口にこそ出さないが、そう思っていた。
佐伯は一つ盗塁した後、味方のヒットでホームインし、ベンチに
戻った。
﹁原田さんが打つよ、彩子﹂
バッターボックスに良樹が立った。彼もユニフォームがよく似合
っている。
ツーストライクまで簡単に追い込まれたが、その後ファールを交
えてツースリーまで粘った。
佐伯の教えたモーションを捉えると、良樹はその球に合わせスイ
ングする。
スローカーブだった。
﹁あ∼﹂
ボールは投手の頭を越えて後ろに落ち、ベンチから声が上がる。
が、良樹も足が速い。送球が間に合わず、一塁はセーフになった。
﹁せこい!﹂
良樹は自分で言って、苦笑いした。
﹁原田さん、上手いぞ!﹂
佐伯が喜んで拍手すると、﹁嫌味だなあ﹂と、後藤がしらけたよ
うに言う。
﹁何言ってるんですか。僕が見抜いた投手の癖を上手く捉えて、応
用したじゃないですか。できますか、後藤さんに﹂
今日の佐伯はえらく饒舌で、声も大きい。
﹁へいへい、分かったよ⋮⋮﹂
他のメンバーも頷いているので、後藤はばつが悪い。それを誤魔
323
化すように、大柄な体を前のめりにさせて野次を飛ばした。
﹁おい原田、ピッチャーばててるぜ、盗め盗め!﹂
智子は﹁あちゃ∼﹂と言って膝を抱え込んだ。
彩子は楽しそうに見守っている。
良樹は佐伯と同じようにスチールをひとつ決めたが、その後バッ
ターが三振してチェンジとなった。
良樹と佐伯は試合が進むにつれ、相手を尊重する気持ちになって
いった。
充実して、爽やかな気分だった。
草野球といえども、クロスゲームになると互いにむきになり、元
気者の後藤も段々と疲れてくる。
8回の裏、とうとうワンアウト満塁になってしまった。
タッチアップで1点が入る状況だ。
スコアは5対4である。相手にとっては同点のチャンスだ。
﹁後藤君、ばてて来たなあ∼! 俺の方がよっぽどスタミナあるぞ﹂
敵方のベテランピッチャーが野次り返してきた。
後藤は構わず第一球を投げた。ちょうど打ち頃のストレートにな
る。
バッターは初球から思い切り振ってきた。ボールは芯をわずかに
外した音をさせ、飛んで行った。レフト寄りのセンターに打球は落
下してゆく。
﹁俺が捕る!﹂
良樹が計ったように走りこんできており、すばやく捕球すると思
い切りバックホームした。
324
ショートの佐伯がカットに入った。
﹁カットはいらん!﹂
後藤が怒鳴った。
佐伯は慌てて身を反らす。目の前を行く良樹の送球は、かなりの
スピードに感じられた。
ランナーが滑り込む。
ボールはワンバウンドしたが、キャッチャーのミットにこれも計
ったように飛び込んだ。
﹁アウトォーッ!﹂
良樹はやったぞとグラブを叩いて喜んだ。佐伯は腰を落としたま
ま、呆然としている。
試合は5対4で、そのまま良樹達の勝利に終わった。
﹁原田さん﹂
試合後、佐伯はベンチで帰り支度をしている良樹に近付き、話し
かけた。
﹁一体、何者なんですかあなたは﹂
﹁⋮⋮?﹂
良樹は佐伯の言わんとしている事がわからなかった。
﹁どうして素人の草野球であんなプレーが出来るんです。どうして
野球をやめたんですか﹂
矢継ぎ早に質問をする。
﹁自分こそ、どうして続けなかった﹂
良樹は質問で返した。
﹁どうしてって⋮⋮他にやる事があったからです﹂
﹁俺だってそうだよ﹂
﹁お前ら、正直に野球が下手だからって言わねえか!﹂
325
後藤が後ろから二人の肩を組んで、大声で怒鳴った。
﹁俺から見れば原田も佐伯もまだまだだ。全然なっとらん!﹂
﹁そうだな、後藤の言う通りだ﹂
良樹は笑って佐伯を見た。佐伯も目を合わせ、笑い返した。
少年時代、ユニフォームを泥だらけにして野球に夢中になってい
た。あの頃のように、屈託の無い笑顔だった。
片付けが終わると、皆ぞろぞろと引き揚げ始める。良樹がベンチ
から出て顔を上げると、彩子が立っていた。眩しいような眼差しを
向けている。
﹁お疲れさま。すごい遠投だったね﹂
良樹は帽子を被りなおすと﹁いや⋮⋮﹂と、照れくさそうに短く
言った。
﹁山辺﹂
不意に声が聞こえた。
見ると、佐伯がバットケースを肩に担ぎ、荷物を手にベンチから
出て来た。
﹁佐伯君﹂
彩子は戸惑った。良樹と一緒のところに現れたので、どう反応す
ればよいのか思いつかず、何も言えなかった。
佐伯はそんな彩子の様子をじっと見つめている。彼らしくもない、
遠慮のない視線だった。
﹁原田さん、山辺と話していいですか﹂
佐伯は真面目な顔で訊いた。良樹は頷くと﹁荷物を置いてくる﹂
と言い残し、車の方へと歩いて行った。
326
佐伯と彩子はグラウンドに二人きり、何も言わず、ただ向かい合
っている。
時が帰って行くようだと、彩子は思った。めまいを起こしそうに、
体が揺れている。
やがて佐伯は空を仰ぐと、ため息のような声を漏らした。
﹁すごいな、お前の彼氏は﹂
﹁⋮⋮﹂
彩子はどう返せば良いのかわからず、下を向いた。
佐伯は空から視線を戻すと、静かに言った。
﹁なあ山辺。もう、さよならだな﹂
彩子はハッとして見上げる。
哀しくて、それでいて落ち着いた感情が、彼のきれいな瞳に浮か
んでいる。
佐伯は不意に両腕を伸ばし、彩子の肩を掴むと引き寄せ、額にキ
スをした。
﹁バイバイ、カイロちゃん﹂
微かに笑うと、突き放すように彩子の肩を離し、グラウンドの反
対側へ駆けて行った。
その後姿は中学時代に彩子が大好きだった、彼の走る姿勢そのも
の。
少年の、佐伯の姿が重なった。
さよなら、初恋。
遠ざかる背中が滲んで見えず、彩子は両手で顔を覆った。
327
2
試合から一週間後の日曜日。
彩子と良樹は後藤から食事の招待を受けた。
今日から3月。
春の香りが夜の空気に混じっている。後藤のマンションの駐車場
に立ち、二人は同時にそう感じていた。
﹁もう春か⋮⋮これなら近いうちに山に行けそうだ﹂
良樹が明るい表情になって言った。
﹁そうだね。もう春なんだね﹂
良樹と出会った去年のクリスマスイブが、もう何年も前のように
思われる。
あの時他人だった男性が、今ではかけがえの無い存在になってい
る事が、奇跡のよう。人の出会いと運命の不思議に、彩子は計り知
れないものを感じていた。
インターホンを押すと、智子が顔を出した。
﹁いらっしゃいませ、お二人さん﹂
智子はつわりがあるので、今夜は後藤が食事を用意したらしい。
﹁俺だって何も出来ないわけじゃないぜ﹂
後藤はエプロン姿で二人を迎えた。良樹と彩子は驚いて、珍しい
ものでも見るように、じろじろと注目してしまった。
﹁まあ、簡単な鍋料理だがな。材料切って放り込むだけ﹂
後藤はきまり悪そうにしたが、ニッと笑うと、二人をテーブルに
案内した。
﹁お手伝いしましょうか﹂
328
彩子が台所に向かって言うと、智子がかぶりを振った。
﹁駄目よ、一人でやってもらわなきゃ。今夜は私も手出ししないっ
て決めてるの﹂
﹁そうなの?﹂
それにしても、むくつけき後藤怜人が菜箸を片手に湯気の中にい
るのに、何だか申し訳なくなってしまう。でも、いい匂いがするな
あと、彩子は鼻をむずむずさせた。
料理は、魚と野菜の鍋であった。
﹁ほお∼、お前に晩飯を作ってもらうとはね。美味そうだな﹂
良樹がぐつぐつ煮える鍋を眺めながら言うと、
﹁だしはおふくろに電話で聞いて作ったんだ。つまり初めて作った
んだ。初めてだぞ﹂
後藤は蒸気のせいもあり、赤くなっている。額に玉の汗を浮かべ
たその姿は何とも微笑ましいが、皆、笑わないでおいた。
﹁それにしても、この前のゲームは面白かったな﹂
﹁ああ。久しぶりだったし、俺も楽しかった﹂
後藤が草野球の試合を思い出して言うと、良樹も白菜を皿に取り
ながら先週を振り返った。
﹁おっ、草野球といえば⋮⋮そういえば頼まれてたんだ﹂
後藤は急に立ち上がると隣の部屋に行き、何か取ってきた。綺麗
に包装された小さな箱を一つと、手紙のようだ。
﹁お前にだって﹂
良樹の目の前にぽんと置いた。
﹁あっ、もうやめなさいよ∼﹂
智子が取り上げようとしたが、後藤が手で制す。彩子はきょとん
として、二人を見やった。
﹁何だ?﹂
329
良樹が差し出された箱や手紙を見ながら後藤に訊ね、彩子も一緒
に覗き込む。
﹁キャーッ! ハラダさんステキー!!﹂
いきなり後藤が叫んだ。しゃがれた裏声で、女性の真似をしてい
るのだと分かる。
﹁お願い後藤さん、あのすかしたカッコいい人紹介してえー。気障
ですかしたあの男性よおー、ハ・ラ・ダっていうカッコいい人ーっ
!﹂
﹁すかしたすかした言うなよ。一体何の事だ﹂
ニヤニヤする後藤に代わって智子が答えた。
﹁後藤の会社の女子が何人か応援に来てたのよ。で、そのうちの一
人があなたのファンになったってわけ。ただのミーハーよ、気にし
ないで﹂
﹁ええ?﹂
良樹は改めて封筒の裏を見てみた。なるほど女性の名前が書かれ
ている。
彩子は横目で良樹の表情を観察するが、少し赤らんでいるように
見えた。
﹁手紙を読んでみろ。プレゼントも開けてみろよ﹂
後藤はここぞとばかりに良樹をからかい、身を乗り出す。”すか
した男”の困惑した様子が愉快でたまらないらしい。
﹁あ、彩子ちゃんは気にしなくていいから。ユニフォーム着て帽子
被ってたから5割増しでかっこよく見えたって話よ。本気なわけな
いからね﹂
一応彩子にフォローを入れるが、あきらかに面白がっている。
﹁受け取れないよ。返してくれ﹂
良樹はそのままテーブルに戻した。
330
﹁全くもう、どうして頼まれるのよそんなもの﹂
智子が気色ばんで後藤を責めた。良樹と智子の両方に睨まれて、
後藤もさすがにたじろいでいる。
﹁手紙は読むべきだと思う﹂
その時、彩子がはっきりと言った。三人とも思わぬ発言に驚き、
彼女に注目した。
﹁そのまま返すなんて失礼だと思う﹂
続けて言った彩子の口調は大真面目であった。
﹁そうだよな、彩子ちゃん。見ろ、二人とも。俺と彩子ちゃんは同
意見だぞ﹂
予期せぬ加勢に後藤は強気になった。
だが良樹は彩子に向き直ると、
﹁読む必要は無い。受け取る必要も無い﹂
言い聞かせるように、ゆっくりと答えた。
思わぬ展開である。
智子はこれはまずいぞと目を見張り、余計な火種を持ち出した後
藤を肘で突いた。
﹁私だったら読む。折角時間を割いて書いてくれた手紙なんだから、
それが誠意だと思う﹂
﹁彩子、俺はその気もないのに軽率な事は出来ないと言ってるんだ﹂
﹁おいおい、お前ら、な、俺が悪かった。彼女にはよしなに伝えて
おくから、もうやめようこの話は﹂
後藤はさっさと手紙と小箱を引っ込めると智子に合図して、鍋の
後片付けを始めた。
彩子と良樹はリビングに移動して座り直したが、黙ったまま。気
まずい沈黙が漂っている。
﹁あの∼、食後のコーヒーはいかがですか﹂
331
智子が湯気の立つカップを二人にすすめた。
﹁ありがとう﹂
彩子と良樹は同時に返事をして一瞬顔を見合わせるが、またすぐ
に別々の方向を向いてしまう。
大変まずい状況だ。
彩子の親友である智子はハラハラする。彩子はおっとりしている
ようで、実はかなり依怙地な所がある。また、多少神経質なため、
ひとつの事を気にしだすと思い詰めたりもする。
良樹はそういった面を持つ彩子を知らないのではないか⋮⋮
﹁あつっ!﹂
彩子がコーヒーをいきなり口に運んでしまったようだ。唇を押さ
えている。
﹁ちょっと、大丈夫?﹂
﹁うん﹂
彩子はハンカチを出そうとして、今度はカップを袖に引っ掛け、
倒してしまった。
﹁ああ∼、もう。どうしたのよ﹂
智子がこぼれたコーヒーとカップをトレーごと持ち上げると、台
所に戻しに行った。
良樹は落ち着いた眼差しで、そそっかしい彼女を見守っている。
唇を指先で押さえながら、彩子はいたたまれないように良樹から
顔を背けた。
そして、突然すっくと立ち上がると誰にともなく言った。
﹁帰る﹂
智子も後藤もどうすれば良いのか分からず、遠くからそーっと窺
っている。
﹁彩子﹂
332
良樹が声を掛けたが、反応しない。黙ったまま、唇を震わせてい
る。
﹁彩子、座るんだ﹂
強めの口調に彩子はハッとした顔になり、ソファに腰を下ろした。
コーヒーを飲み終えると、良樹は後藤達に、
﹁二人とも、今夜はありがとう。もうそろそろ失礼するよ﹂
そう言ってから彩子を促した。
今度は素直に立ち上がり彼に従う彩子だが、顔色は冴えない。
﹁また来てね∼﹂
﹁気をつけて帰れよ﹂
後藤達は腫れ物にさわるように、曖昧な笑みを浮かべつつ見送っ
た。
マンションを出ても、彩子は良樹と目を合わせなかった。
彩子のこんな態度は初めてだ。良樹は、今まで見たことのない頑
なな彼女を、新鮮な思いで見つめている。日頃穏やかな人間が意地
になるのは、本気の時だ。ちょっとやそっとでは、解せそうにない。
﹁俺に言いたい事があるなら言ってみろ﹂
駐車場に着くと、こちらを向こうとしない横顔にそう投げてみた。
﹁⋮⋮﹂
彩子は多少驚いた様子だが、唇を引き結んで黙ったままでいる。
﹁俺は智子さんみたいに甘やかさないぞ﹂
ポケットから車のキーを出して手の平に握ると、強めの口調で言
った。
﹁口を利くのが嫌なら歩いて帰れ﹂
ビクッと怯えた反応をするが、良樹は手を緩めず、彩子の肩が小
333
刻みに震え出すのをじっと見据える。
﹁どうするんだ。答えろ、彩子﹂
彩子はその場でしばらく固まっていたが、急に我慢の糸が切れた
ように勢いよく振り返ると、良樹を睨み付けた。目元が潤んでいる
のが暗い中でもはっきりと見て取れる。
﹁面白くないんです!﹂
﹁なに?﹂
﹁自然に喜んで受け取ればいいじゃありませんか﹂
﹁さっきの、手紙をか﹂
﹁そうです。でも、そんな事じゃなくて⋮⋮﹂
﹁何だ﹂
﹁⋮⋮﹂
彩子は言葉を探すようだが、なかなか出てこない。代わりに大粒
の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
良樹はふと、厳しい表情を緩めた。
こんなふうに泣くのを見るのは、初めてだった。
﹁彩子﹂
そっと促すように呼びかけると、彩子は次々に溢れる感情の結露
を手の甲で拭いながら、弱々しい声で訴えてきた。必死にしぼり出
すように。
﹁ほ、他の女性が⋮⋮関わるのが、嫌なの。良樹は⋮⋮﹂
しゃくりあげながら、彼女は懸命に見返す。涙は止まらず、赤く
なった頬を濡らしていく。
﹁私だけの、良樹なんだからっ﹂
情けなくも本気の焼きもちだった。
良樹は言葉もなく、泣きじゃくる恋人に近付くと胸に引き寄せ、
強く抱いた。
334
可愛くて愛おしくて、仕方がなかった。
﹁そうだ、君だけだ⋮⋮彩子﹂
優しい風が吹き、抱き合う二人をそっと包み込む。
春の香り︱︱
新しい季節の始まりを告げる風に、彩子は顔を上げる。良樹の微
笑みに、出会ってからこれまで、そしてこれからの愛情を感じてい
た。
335
3
3月8日 日曜日。
原田家山辺家両家の結納式が執り行われた。仲人は魚津夫妻であ
る。
結納品の受け渡しが無事に終わると、両家の者は皆ほっとした表
情になった。その後は会食を挟んで、結婚式・披露宴における打ち
合わせ、両家の要望などが話し合われた。
意見の相違もさほど無く順調に話をまとめると、原田家は山辺家
を後にした。
﹁本当に良縁に恵まれて、有難い有難い﹂
帰りの車の中、良樹の母は手をすり合わせた。父も大仕事を成し
遂げたように、安堵の顔をしている。
﹁それにしても、いい指輪だったな。だいぶ張り込んだな良樹﹂
﹁お父さん、俗っぽい事言わないでよ。ねえ、良樹﹂
主役である息子は黙って笑っている。
良樹は、今日の彩子の着物姿を思い出していた。薄緑を基調とす
る、きれいな訪問着だった。
︵やっぱり彩子は着物が似合う︶
他にも、結婚式や新居についてなど、あれこれ考えている。決め
なければならない事は、まだまだたくさんあった。
結婚して家庭を持つ。言葉にすれば簡単だが、さまざまな作業が
伴うものだ。
山辺家では彩子の母が、美しい婚約指輪を手に取り、しげしげと
眺めていた。
336
﹁きれい、どこから見てもきれいだわ∼﹂
父と弟の真二は既に普段着に着替えてくつろいでいる。
彩子も着物を脱いで、洋服に着替えた。結納式は緊張したのだが、
またひとつ前進した⋮⋮いや、いよいよ加速を始めた感覚がある。
この2、3か月の間に本当にさまざまな事があった。その都度動
き出す新たな歯車が重なり合い、ゴールを目指していっせいに回り
始めたと言うか。
﹁ゴールイン⋮⋮か﹂
独り言を呟くと、思い出す事があった。次の日曜日は後藤と智子
の結婚式だ。披露宴でエリや雪村やまりにも会える。何だかわくわ
くして来た。
﹁そうそう、そうだった。ついに結婚かあ∼﹂
彩子は床の間に飾られた結納品に目を当てると、その日が自分に
も近付いているのを実感した。
翌週日曜日 朝9時。
良樹と彩子は、街中の一等地に建つホテルに出発した。二人は揃
って、後藤と智子の結婚披露宴に招待されている。
運転しながら、良樹は隣の彩子を何気なく見やる。
いつもよりきちんとメイクをしている。髪もきれいに巻いてアク
セサリーで飾り、女らしい雰囲気だ。
良樹はこういった場合、知らない女性に接しているような、ぎこ
ちない気持ちになる。表には出さないが、そわそわとして落ち着か
ない。
俺だけだろうかと考えている内にホテルに到着した。
彩子は車から降りるとベージュのコートを脱いだ。
337
﹁中は暖かいだろうし、車の中においておくね﹂
﹁ああ、そうだな⋮⋮﹂
良樹は彩子の真新しいドレス姿を見て、言葉を止めた。水色の生
地にレースを施した、どちらかと言えば可愛いらしいイメージのデ
ザインだ。
﹁入学式みたいでしょう﹂
彩子は照れたように言うが、良樹は笑わなかった。
そして今気が付いたのだが、彩子の左手薬指には、良樹が結納式
で贈った婚約指輪があった。
︵彩子⋮⋮︶
なんとも言えない満足感でいっぱいになり、思わず礼服の胸を押
さえる。
喜びで、これ以上ないほど高ぶっていた。
受付では、後藤の友人とエリが係を受け持っていた。
﹁わあ、彩子、久しぶりね⋮⋮あっ﹂
エリは良樹に会うのは初めてである。背筋を伸ばし、緊張の面持
ちになった。
お祝いの言葉を交わすと、互いに自己紹介した。旧友と婚約者が
にこやかに挨拶するのを見て、彩子は柔らかな心地になる。
﹁あっ、ご婚約されたのですね﹂
エリは彩子の指輪を見つけると、笑みを広げた。彩子は良樹と目
を合わせると、頬を染めてはにかんだ。
披露宴会場に行くと、雪村とまりが入り口のところに立っていた。
まりのドレスは相変わらずのピンク系でとても可愛い。雪村はダ
ークブルーのパンツスーツ。美少年といった風情であり、よく似合
っている。
338
﹁原田さん!﹂
二人は彩子より先に良樹の名を呼んだ。
﹁こんにちは﹂
良樹は挨拶をして、雪村とは結婚指輪のことを、まりとは木村の
ことを話した。
﹁君もゆっくり話しなよ﹂
彩子に言い置くと、先にテーブルに向かった。
﹁へえ∼、婚約したんだ﹂
﹁きれいねえ∼、ダイヤモンドかあ﹂
雪村が冷やかすように言い、まりは指輪をうっとりと眺める。
﹁えへへ⋮⋮﹂
彩子は何だかふわふわとしてきた。雲の上を歩いているような、
夢を見ているような気分になる。
﹁そういえば智子、妊娠したんだって? 体調は大丈夫なのか﹂
雪村の言葉を、まりもそうそうと受ける。
﹁つわりは昼間は大丈夫みたいよ。朝起きた時とか夕方から強くな
るって﹂
﹁ふうん﹂
三人とも経験が無いので、ふうんと言うほか無かった。
﹁結婚も子供も楽しみだな﹂
雪村の言葉に皆が頷いたその時、後ろから長身のエリが覗き込ん
だ。
﹁ねえ! 花嫁さんを見に行かない﹂
﹁そうだった、見に行こう行こう﹂
そろそろ挙式会場から移動して、披露宴会場に入る準備が整う頃
である。
339
四人は急いで控え室に移動した。扉は開けてあり、智子の母親が
彼女らを見つけると、中へ入るよう手招きした。
智子がいた。
ビーズと刺繍がふんだんにあしらわれたハイウエストのエンパイ
アドレス。
髪は高く結い上げられ、真珠のヘッドアクセサリーが飾られてい
る。何より豊かな肩と胸もとへのラインが美しかった。
きれい⋮⋮
本当にきれいだ、智子
皆、同じ事を思ったが、花嫁の眩さに圧倒されて誰も口に出せな
い。
﹁みんなよく来てくれたね、ありがとう﹂
智子が気がついて声を掛けた。四人はただうんうんと頷くのみ。
﹁やあ、皆さん、お揃いで!﹂
大きな声が聞こえて振り向くと、シルバーグレイのタキシードに
身を包んだ後藤が、やや硬い表情で立っていた。
﹁わっ、すご∼い﹂
﹁かっこいいですねぇ﹂
感嘆の声を受け、後藤は大げさに髪を撫でつけてみせる。
﹁いや∼、この俺もさすがに今日と言う日はいつもとイメージが違
うだろ。うっふふふ﹂
いつもと違うと言われても、彩子以外は後藤と初対面である。さ
すがの彼も舞い上がっているようだ。
﹁ささ、そろそろ始まりますよ。準備はよろしいですか﹂
スタッフの動きが慌しくなってきた。彩子は智子の手を握りしめ
340
ると、
﹁智子、本当におめでとう。幸せになってね﹂
﹁ありがとう、彩子﹂
短く言葉を交わすと、彩子も皆と一緒に披露宴会場に向かった。
会場のテーブルは円形で、彩子の席は良樹の隣である。このテー
ブルには後藤の会社の上司や同僚が配席されているようで、女性は
彩子が一人だ。
﹁智子、すごく綺麗だよ﹂
﹁そうか﹂
彩子の囁きに良樹は微笑んだ。
照明が抑えられるとBGMが流れ、新郎新婦の入場が伝えられる。
披露宴が始まるのだ。
彩子は何だかドキドキしてきた。
扉が開かれ新郎新婦が入場すると、大きな拍手が沸き起こった。
ライトが二人を眩しく照らし、緊張の中にも幸せに溢れた笑顔を輝
かせている。
彩子達のテーブルの横を進む時、後藤は良樹にウインクしてみせ
た。智子も彩子に目で合図を送る。
会場は祝福の拍手でいっぱいになった。
﹁すごく幸せそう﹂
﹁ああ、二人とも本当に良い顔してる﹂
二人の幸せいっぱいの笑顔が嬉しい。良樹も拍手を送りながら頷
いた。
新郎新婦の紹介や挨拶などがあり、やがて祝宴が始まると彩子た
ちも料理をいただいた。フランス料理のコースである。
スピーチも始まり、彩子も友人代表で祝辞を送った。緊張して汗
を掻いたが、後藤と智子はにこにこして聞いていた。
341
スピーチの後は出席者の歌の披露、アルバム上映などが続き、和
やかに宴は進んだ。
お色直しの間に、ちょっとした出来事があった。
彩子の隣の席に、見知らぬ若い男が腰掛け、話しかけてきたのだ。
良樹と反対側の席である。
﹁こんにちは。僕、後藤君の友人で水野といいます。君は後藤君の
会社の人?﹂
このテーブルにいるので、そう思われたのだ。
﹁いえ、とも⋮⋮大垣さんと後藤さん共通の友人です。山辺といい
ます﹂
弟と同じくらいの年齢かもと、彩子は水野と名乗った若い男の顔
を見ながら答えた。
﹁そう、山辺さん。この後、二次会もあるみたいだけど、君も出る
のかな﹂
男は膝を寄せてきた。だいぶアルコールが入っているようだ。
﹁いえ、私は披露宴だけで帰る予定ですが﹂
﹁そうなんですか、残念だなあ﹂
鈍い彩子も何となくわかってきた。男には良樹が目に入っていな
いようだ。
﹁ええと⋮⋮彼氏はいますか﹂
男は思い切ったように訊いた。
良樹は他の客から酌を受けている。何を話しているのか聞こえて
いないようだ。
彩子は迷ったが、男から良樹が見えるように身体を引くと、あり
のままを告げた。
﹁彼は私の夫です﹂
その言葉に男はもちろん、振り向いた良樹も面食らっている。
342
﹁あっ、近い将来の⋮⋮ですが﹂
﹁しっ、失礼しましたあっ!﹂
男は弾かれたように立ち上がると、良樹に向かって頭を下げ、慌
てて去って行った。
彩子は良樹を見ると、頬を掻いた。
﹁あんなこと初めてで⋮⋮慌てちゃった﹂
﹁私の夫ね。間違ってはいないよな﹂
良樹は彩子の左手に自分の右手を重ね、指輪ごと包み込む。
﹁彩子は、俺だけの彩子だ﹂
爽やかに笑い、きれいな婚約者を愛しげに見つめた。
343
1
時は過ぎて︱︱
5月。彩子と良樹は連休を利用して、鉱物採集と温泉の旅に出掛
けた。
採石地は高速道路を1時間、県道を50分走った山の中で、一泊
する予定の温泉地には、そこからさらに北へ3時間のみちのりだ。
山への旅は、初めて会った日に交わした約束でもある。あれから
4か月と少し。季節は初夏になっていた。
1970年ごろ閉山となった蛍石鉱山の跡地が隣県にある。そこ
には鉱山ズリが残っていて、蛍石をはじめ何種類かの鉱物が採集で
きるらしい。旅行の計画を立てる前、良樹が地元の博物館や研究サ
ークルなどに尋ね、詳細を教えてもらった。
﹁白、紫、緑⋮⋮楽しみだな﹂
良樹は子供のようにウキウキした顔で、車を走らせている。
彼が身に着けるベストのポケットには、採石の必需品であるルー
ペなどの小物が入っているらしい。地図、メジャー、ハンマーとい
った道具もザックにまとめ、後部席に積んであった。
彩子は何を用意すればいいのかわからず、全て彼にお任せだ。
それほど深い山奥ではないので地形図やコンパスは今回は必要な
いと良樹は言った。山奥の場合は入山届けを地元の警察に出してか
ら採集に行くらしい。そんな時は高度計も持って行くと言う。とに
かく彩子には初めて聞く話ばかりだった。
だけど良樹が楽しそうなので、彩子もよく分からないながらも嬉
しい。ここのところ仕事が忙しくデートもままならなかったので、
344
今日は久しぶりの遠出である。
県道は新緑の山に囲まれ、景色も清々しい。二人は爽やかな気分
でドライブを楽しんだ。
午前10時ちょうどに、目的地に近いところまで来た。道は舗装
されているが、幅が狭くなり左右から木々が覆いかぶさるようにし
ている。
良樹は小さな公園の脇に車をとめた。
﹁着いたぞ﹂
二人は車を降りて周りを見た。車も人も見当たらない。樹木の生
気が胸の奥まで染み渡りそうな、山らしい空気だった。
﹁さて、行こうか﹂
良樹はリュックを肩に、歩き出した。彩子も同じ様に荷物を持ち、
林道を歩いて行く。林道とはいえ、道は舗装されていて歩きやすく、
左右を見る余裕もある。彩子は久々の自然を堪能した。
途中、小川が流れているのを見つけた。彩子は好奇心が湧いて、
川の水に手を浸してみる。
﹁冷たいよ、良樹!﹂
﹁そりゃそうだ﹂
大げさに驚く彩子を見て、可笑しそうに笑った。
﹁お、あれだよ﹂
良樹が指をさす方向に、砂利と石ころの堤みたいな場所があった。
﹁あれがズリだ﹂
速足になった彼に釣られるように、彩子も小走りして後に続く。
良樹は腰を屈めると、緩やかな斜面に顔を近付けて観察した。
﹁あるね﹂
何かを拾って、彩子を手招きした。
345
良樹の指先に、透明な水晶のかけらのようなものが光っている。
﹁蛍石だよ﹂
彩子は手渡されたそれを、借りたルーペでしげしげと眺めた。
﹁これが蛍石﹂
何ともいえない感慨があった。
﹁まだまだあるぞ。探そうか﹂
二人はヘルメットをつけると、あたりを丹念に見て回った。
﹁滑りやすいから足元に気を付けて﹂
﹁はい﹂
研磨されたような美麗な石はもちろん無いが、ごつごつとして表
面が無愛想な、それでいて素朴な美しさを持つ欠片たちがあった。
﹁宝探しみたいだね﹂
﹁そうだろう﹂
良樹はいつの間にか離れたところのズリに移動している。
およそ1時間も石探しをしていた。
彩子は気に入った石を袋に入れておく。蛍石かどうかわからない
ものも混じっているが、一応採集しておいた。
﹁彩子!﹂
良樹が大きな声で呼んだ。慎重に斜面を登って近付くと、彼は安
全眼鏡を寄越した。
﹁ハンマーで割るから破片が飛び散る﹂
良樹はゴルフボールぐらいの岩を手に持っている。皮の手袋をは
めた左手で岩を固定し、ハンマーでコツコツと叩いた。岩はひび割
れ、良樹はそっとそれを開いた。
﹁ほら﹂
彩子が覗くと、割れた内側には青色の蛍石がくっついている。周
囲の白い部分は石英だと言う。色のコントラストがとても美しい。
﹁石の卵みたい﹂
346
﹁だよな﹂
良樹は満足そうに微笑むと、さらに探し始めた。
自分の庭ではないので、やたらと荒らす事はできない。
良樹は言うと、これと感じた岩のみを手に取り、ハンマーで慎重
に割る。額の汗を拭いながらズリを下りてくると、彩子にそれを手
渡した。
﹁玉髄と蛍石が層になっている。断面の色合いがきれいだ﹂
﹁うん、キラキラしてる﹂
落としたら見失ってしまいそうに小さな石に、二人は見惚れた。
﹁俺はもう少し探すけど、彩子は休んでもいいぞ﹂
確かに、いつの間にか手足が疲れている。彩子は木陰に腰掛けて
休む事にした。
ヘルメットを脱ぐと、風がひんやりとして気持ちいい。良樹の夢
中になっている背中を見ながら、来て良かったと思う。忙しさで溜
まった仕事のストレスも、少しは解消できただろう。
そよ風に吹かれながら、彩子の心も和んだ。
﹁ん?﹂
ふと視線を落とすと、木の根元にきらりと光るものがある。目を
凝らしてみると、それは淡い緑色の石であった。お守りのチョーカ
ーに付いていた蛍石にそっくりの色だ。
﹁わあ、きれい﹂
お守りと同じ光彩に感動し、しばらくその緑を凝視していた。
彩子は良樹が採集を終えるのを待ち、拾った石を見せてみた。良
樹はルーペを使って観察すると、
﹁ほお∼、蛍石だな。自形結晶を成している﹂
﹁じけいけっしょう?﹂
347
﹁蛍石は立方体や八面体が自然な結晶形なんだけど、この石はそれ
に近い﹂
なるほど確かにそう見える。
﹁こんな木の根元にあった?﹂
﹁うん﹂
﹁ラッキーだな﹂
良樹は彩子の手に石を握らせると、そろそろ引き揚げようと言っ
て荷物を担いだ。鉱山ズリを後に、元来た道を戻って行った。
﹁さて、初めての採集体験はどうでした?﹂
車に乗ると、良樹は学校の先生みたいに訊いてきた。
﹁楽しかった。さっきも言ったけど、宝探しみたい﹂
﹁そうだね、今日の場所はわりと探しやすかったし、俺も久しぶり
に楽しめた﹂
彩子が満足したと聞いて、良樹も嬉しそうだ。
﹁じゃあ、お次は温泉旅行だ﹂
良樹はアクセルを踏むと、県道を北へ上がっていった。
彩子は窓の外を見ながらぼんやり考えた。
去年の晩秋、私は一人だった。智子が結婚すると聞いて、そこは
かとない孤独を感じていた。野暮な自分がやりきれなくて、結婚ど
ころか恋愛も無理なのではと、不安だった。
それがどうだろう、木綿子伯母に良樹を紹介されてから日々は一
変したのだ。あのクリスマスイブ⋮⋮初めて会った時は、まず人と
して好感を持った。
今思えば、それでも何かを感じていたのだろう。
会えば会うほど、どんどん彼に惹かれ、好きになっていった。
初めてキスをした日は、もうあのまま彼の腕の中で消えてしまっ
348
てもいいとすら思えた。どうしてこんなに好きになってしまったん
だろうと、思わない日はない。
美那子や佐伯のこと、いろいろあったけれど、好きと言う気持ち
が揺らぐ事はなかった。
︵優しいだけじゃない。私を甘やそうともしない良樹なのに、絶対
に離れたくないと思う︶
彩子は、いつものように穏やかな運転をする彼をそっと見つめた。
﹁早く一緒に暮らしたいね﹂
不意に、ずっと胸に抱いている願いを口にした。良樹はちらりと
視線を寄越す。
﹁そうだな。と言うか、夢みたいだな﹂
﹁夢みたい?﹂
﹁ああ﹂
﹁私と暮らすことが?﹂
﹁と言うより⋮⋮参るな﹂
彩子もそうだが、気持ちの説明は良樹にも苦手分野のようだ。
﹁じゃあ、今夜ゆっくり聞かせてもらおうかな﹂
彩子がいたずらっぽく言うと、良樹は返事の仕様がないのか、た
だ頷いていた。
しばらく走った後、峠の展望広場で休む事にした。
峠に着くと、そこはちょっとした休憩所になっており、展望台が
設置されている。駐車スペースには乗用車やオートバイが数台とま
っているだけで、全体的にのんびりした雰囲気だ。
﹁景色でも眺めてみるか﹂
良樹は彩子を誘い、展望台に歩いた。
今日は彩子も動きやすい服装をしている。パーカーに綿のパンツ、
349
スニーカーという格好だ。良樹もラフな服装だが、真新しいシャツ
を着ている。
最近彼は、積極的に服を買うようになったと言う。出掛ける機会
が増えて初めて、着る物の少なさに気付いたのだ。箪笥を整理して
みると、大学時代から着ているシャツやパンツが大半で、我ながら
こだわりのなさに呆れたよと笑った。
﹁まあ、買うと言っても結局代わり映えのしないデザインに落ち着
くんだけど。新しいのでよしとしてる﹂
良樹らしい言葉に、彩子はクスクス笑った。
展望台には誰もいなかった。
二人は手すりの際まで来ると、遠くに霞む山々を眺めた。
﹁山もいいな﹂
目を細めてしみじみと呟く良樹の言葉に、彩子も同意する。
静かで、空気がおいしくて、気持ちが落ち着いてくる。自然に癒
されるという感じだ。
﹁そういえば、新婚旅行はどこがいい?﹂
良樹が思いついたように訊いた。
﹁そうだね⋮⋮う∼ん﹂
﹁何だ、行きたい国はないのか﹂
﹁外国?﹂
﹁せっかく長期で休むんだから、海外がいいだろう﹂
彩子は顎に指をあてて、考えた。
﹁スミソニアン博物館とか、大英図書館とか、行ってみたい﹂
﹁ほう﹂
良樹も顎に手をやり、考える。
﹁博物館っていうのもいいし、そうだなあ⋮⋮ダイナミックな自然
も見てみたいな﹂
350
考え出すとあれこれ候補が浮かんできて、迷ってしまう。
﹁もっと案が出てきそう﹂
﹁ああ、いろいろ調べてみよう﹂
二人はとりとめのない話をした。出会った当初の堅苦しい空気が
嘘のように、自然に話している。また、沈黙しても気にならないよ
うになった。慣れだろうか、それとも親しみだろうか。
彩子は、両方かもしれないと思った。
展望広場を出ると峠を下り、麓を通ったところで昼食をとった。
午後からも寄り道しながらゆっくり走り、温泉宿に着いたのは夕方
だった。
ホテルというより民宿といった風情の温泉宿は川沿いにあった。
せせらぎの音が聞こえる部屋に通されると、二人は早速浴衣に着替
え、温泉に入った。
段々と日が暮れて、夕食が始まるころには、すっかり夜になって
いた。
部屋の窓は網戸になっていて、広間のある一階から歌声や拍手が
聞こえてくる。客室係の女性によると、今夜は満室との事であった。
﹁鱒の塩焼きに山菜そば、やまかけ料理。地鶏のすき焼きか⋮⋮う
ん、美味そうだ﹂
良樹は部屋に運ばれた膳を眺め、山ならではのメニューと品数が
多いのに感心した。
﹁風呂も気持ちよかったなあ。彩子は露天風呂に入った?﹂
﹁ううん。まだ明るかったし、何となく恥ずかしかったから﹂
﹁そ、そう?﹂
もじもじする彩子に、良樹はちょっと戸惑った顔になる。
351
﹁俺は入ったよ。今が冬で、雪でも降ってるとなおいいんだけどな﹂
﹁あ、それなら私も入りたい。猿とか一緒に﹂
﹁猿? うっ⋮⋮﹂
良樹は目を丸くすると、俯いて肩を震わせ始める。また笑い上戸
が始まったようだ。
彩子は﹁まじめに言ったのに﹂と、少しむくれて、先に料理を食
べる事にした。
﹁もう、本当にいつまで笑ってるの﹂
良樹の笑い上戸には全く呆れる。さっきから﹃猿と一緒に露天風
呂﹄を思い出しては、口もとを押さえているのだ。
﹁ごめん、ごめん。ところで彩子、一杯ぐらいどうだ﹂
良樹は真面目な顔になると、日本酒のとっくりを掲げてみせた。
﹁う⋮⋮ん。そうだね、少し付き合おうかな﹂
﹁へえ、訊いてみるもんだな。では、おひとつ﹂
良樹は嬉しそうにすると、彩子の杯に酒を満たした。
彩子は慎重に唇を寄せるが、迎えにいった飲み方が、良樹に蛸を
連想させる。またもや噴き出しそうになるのを堪え、彼は見守って
いる。彩子は真剣な表情だ。
﹁美味しいね。地元のお酒なのかな﹂
彩子は飲み干すと笑顔を向けた。その顔がみるみる赤くなってゆ
くのに、もう良樹は耐えられない。本当に、茹で上がった蛸みたい
になっている。
﹁あっははは⋮⋮すまない、悪い。彩子、勘弁してくれ﹂
とうとう声を上げて笑い出した。
﹁もう⋮⋮﹂
今度こそ本当にむくれてしまおうと思ったが、あまりにも楽しそ
うな笑い声に、釣られて可笑しくなってくる。彩子も笑顔になり、
352
二人は山懐の温泉宿で、賑やかな夜を過ごした。
353
2
もう一度風呂に入り戻って来ると、座卓が隅に寄せられ布団が敷
いてあった。
﹁こっちで話そう﹂
良樹は窓辺の椅子に彩子を呼んだ。
初夏とはいえ山の空気はまだまだ冷たい。窓を閉めると、せせら
ぎの音が小さくなった。
﹁ところで、昼間の続きなんだけど﹂
良樹は椅子に腰掛けると口を切った。
﹁夢の話?﹂
﹁ああ、夢みたいって言ったのは、彩子に出会ったことそのものな
んだ﹂
彩子は分かるような気がした。と言うより、なにより自分がそう
感じている。
﹁子供の頃、君の話を木綿子さんから聞いていた。自覚はなかった
けれど、君はいつの間にか俺にとって特別な存在になっていたんだ。
君の方から会いたいと言ってくれた時、それがはっきりと分かった﹂
彩子は、木綿子伯母が見合いの話を持ってきた冬の日を思い出し
た。
﹁俺はその瞬間、こうも感じた。結婚するなら君とだろうって﹂
良樹の眼差しは真直ぐに彩子を捉えている。どこにも曇りのない
瞳には、最愛の女性だけが映っている。
﹁私も⋮⋮良樹の写真を見て、どうしてかわからないけど、会いた
いって思った﹂
スーツを着て、穏やかに微笑んでいた写真の中の良樹。とても不
354
思議な感覚だった。
﹁もしかしてあの写真?﹂
﹁そう、つんつるてんのスーツを着た﹂
﹁あれを見て会いたいと思ったのか﹂
良樹は笑った。
﹁奇跡だな﹂
﹁うん。今から考えると、どうしてかわからない﹂
﹁おいおい﹂
﹁冗談﹂
彩子も笑った。何だか照れくさかった。
﹁あれは木綿子さんが適当に持って行ったんだよな。俺と一緒でセ
ンスは無いかも﹂
﹁うふふ⋮⋮﹂
そんな事ない。すごく、良樹のことを分かってる。そして、私の
ことも。
彩子はあの素朴なスナップが好きだった。
﹁その上、あのスーツで君に会いに行っただろ。よく振られなかっ
たと思うよ﹂
ホッとした表情が可笑しくて、ちょっと可愛い。彩子は微笑むと、
﹁お茶でも淹れるね﹂と言って立ち上がった。
﹁それで?﹂
お茶を淹れてくると、彩子が再び向き合って訊いた。
﹁何だったかな﹂
﹁良樹の写真を見て、私が会いたいと思ったところ。それと、良樹
が私に振られるかもって思ったところ﹂
﹁う∼ん、俺に分が悪い場面からか﹂
良樹は困ったという仕種をしたが、すぐに明るい表情になって続
けた。
355
﹁でも、見合いの後、君は電話をくれた。しかも、俺からかけ直す
のをずっと待ってたと言ってくれた﹂
そういえばそうだったなあと彩子は思い出す。
﹁俺はあの時、本当に嬉しくて。目の前が急に晴れて、視界が開け
たって感じかな﹂
彩子は知らなかった。そんなに喜んでくれたのかと、満足そうに
話す良樹の顔を、思わずじっと見てしまった。
﹁何だ﹂
﹁気が付かなかった。だってそういうこと、何も言わないから﹂
﹁言わないよ、そんな﹂
﹁言ってくれればいいのに﹂
﹁俺は言わないの﹂
良樹はお茶をひと口飲むと、窓の方を向いた。
﹁あとは⋮⋮これは内緒にしたいけど、どうするかな﹂
﹁何でも言って。聞きたい﹂
彩子は身を乗り出した。
﹁全く⋮⋮後で俺の質問にも答えろよ﹂
﹁分かった﹂
良樹は少し間を置いてから、彩子に視線を戻した。
﹁佐伯に取られると思ったんだ﹂
﹁佐伯君?﹂
﹁ああ。あいつはいい男だ。俺が女だったら惚れてるな﹂
﹁そ、そう﹂
佐伯をそんな風に認識していたのも知らなかった。
﹁だから俺は、君との関係も結婚の話もどんどん進めようとした。
本当に佐伯は刺激になったよ﹂
﹁そうだったの﹂
356
良樹のあの段取りの良さは、そうだったのか⋮⋮彩子は意外に感
じたが、嬉しくもあった。
﹁まあ、こんなところだよ。それにしても﹂
良樹は彩子の手を取り、手のひらに包んだ。
﹁夢みたいだな。こうして君と、山辺彩子と一緒になれるなんて⋮
⋮﹂
﹁良樹﹂
彩子の目は潤んできた。最近どうしてか涙もろい。良樹の前では
特にこうだ。
﹁俺の質問に答える約束だ﹂
﹁うん﹂
﹁俺が好きか﹂
﹁⋮⋮﹂
彩子は俯いて、黙ってしまった。良樹は握った手に力を込めると、
心配そうに覗き込んだ。
﹁彩子?﹂
泣き笑いの顔で返事をあげた。
﹁大好きよ﹂
良樹は彩子を立たせて引き寄せると、膝に乗せて抱いた。
すっかり自分のものにした。
﹁俺も好きだよ。君が大好きだ﹂
﹁⋮⋮﹂
彩子は何も言えないでいる。良樹の息遣いをうなじに感じて、
身体が熱くなっていく。
﹁おいで﹂
大事な宝物を扱うように、良樹は彩子を布団に連れて行き、そっ
と寝かせた。
357
そして今の告白、その意味を教えるように身体を重ねた。
﹁良樹⋮⋮﹂
深い口付けに気が遠くなり、彩子は身体から力を抜いた。
彼の指が浴衣の帯を解き、脱がせていく。これまでよりも器用に、
でも少し焦っているように感じる。彼の身体も熱くなっていた。
﹁ん、あ⋮⋮﹂
短い愛撫で彩子は十分に濡れてしまい、良樹の指先を奥まで受け
入れた。目の先にある彼の瞳は欲望に燃えて、それでいて愛おしさ
も溢れている。
抱く支度を整えてくると彼は彩子の脚を開かせ、自身を押し入れ
てきた。
﹁ああ、良樹⋮⋮あっ﹂
﹁上手だ﹂
腰を無意識に浮かせて、彼を迎え入れる。恥ずかしい仕草を褒め
られて、彩子は思わず目を閉じた。
良樹の大きな手が、薄紅に染まる腿や尻を撫でさすり、﹁いい子
だね﹂と慰めている。その間にも彩子の奥へと男性を沈め、内側か
ら占有していく。
﹁や⋮⋮よし、き⋮⋮っ﹂
逃れられないのは、杭を立てられたせいばかりではない。彼の匂
い、指遣い、体温、すべてが愛しくて堪らない。離れられない。
それを証明するかのように、身体が反応している。彩子は良樹と
いう一人の男に身も心も捧げ、自由にして欲しいという願望を持つ。
指を噛み、羞恥に耐えた。でも、それは快楽を伴う羞恥であり、
きっと彼にも伝わっている。
泉は豊かに愛を湛え、誤魔化しようがないから。
358
﹁好きだよ﹂
告白を合図に彼は彩子を抱きかかえ、腰を打ちつけてきた。
我慢できないのは二人ともで、我慢する必要もない。めいっぱい
愛すればいい。
激しく揺らされながら、彩子は彼の肩にしがみつき、声も出せず
に啼いた。嬉しくて幸せで、結ばれる悦びに打ち震え、啼き続けた。
翌朝、7時に目覚めた。
隣を見ると、良樹はまだ眠っている。
カーテンの隙間から朝陽が差し込んでいる。今日も天気が良さそ
うだ。
彩子は浴衣と下着を引き寄せて身に着けると、タオルを持って部
屋を出た。
朝の浴場は空いている。脱衣所の籠は二人分使われているのみだ
った。
彩子は浴衣を脱いで何気なく鏡を見、鮮やかに浮かぶ昨夜の痕跡
に思わず赤面した。
体を洗い湯船に浸かる。温泉の硬質な刺激が心地良くて、安堵の
ため息をついた。
良樹と朝まで過ごしたのは初めてだ。
首筋や胸元⋮⋮あちこちに残る痕跡は、石鹸で洗っても消えはし
ない。
良樹が丁寧に、そしてこれまでより強引な愛し方をした体を、愛
359
おしむように自分で抱いた。
何度も何度も、彼は愛した。彩子も夢中で応え、愛情をせがんだ。
どんな顔をすればいいのかと考えあぐねる。
だが結局分からない。
仕方がないので湯を上がり、脱衣所で体を拭いて浴衣を着ると、
上気する肌を化粧水で整えてから部屋に戻った。
良樹は起きて、窓辺で朝刊を読んでいた。彩子に気が付くと、
﹁おはよう、早いな﹂
と声を掛けた。
﹁先にお風呂に入って来ちゃった﹂
彼の座っている椅子の傍に寄ると、窓の外を覗いた。
﹁いい天気だね﹂
﹁ああ、最高の気分だ﹂
彩子は向かい側に座ると、良樹をそっと窺った。いつもと変らず
落ち着いた態度である。
﹁何?﹂
視線に気付いて、彼が不思議そうに訊いた。
﹁なっ、何も﹂
俯けた顔は赤らんでいる。
良樹は立ち上がると、浴衣の襟元を直しながら呆れたように言っ
た。
﹁もしかして、照れてるのか﹂
彩子はまともに言い当てられ、いたたまれなくなる。
﹁しょうがない奴だな﹂
たたんだ新聞で彩子の頭をポンと叩いた。
360
﹁結婚したらどうするんだ。一緒に住むんだぞ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
蚊の鳴くような声で返事をする。本当にどうしようと思う。
良樹は笑うと、
﹁風呂に行って来るよ﹂
そう言って、部屋をさっさと出て行ってしまった。
彩子は洋服に着替えると、荷物の整理をした。
客室係が朝食の準備に取り掛かると言うので、荷物を隅にまとめ
ると、椅子に座って窓の外を眺めた。
朝陽に照らされた針葉樹の梢、眼下を流れる川の浅瀬で跳ねる飛
沫をぼんやり見ている。一夜明けた景色は眩しくて、生まれ変わっ
たように新鮮だった。
良樹が戻って来る頃、朝食の準備が整った。二人は差し向かいで
座ると、早速いただいた。
﹁そういえば、朝飯を一緒に食べるのは初めてだな﹂
﹁うん﹂
彩子は目を合わせずに答える。
初めてという言葉に反応してしまう。まだまだ落ち着かない気持
ちだった。
どちらもしばらく黙っていたが、良樹は飯茶碗一杯食べたところ
で箸を置くと、まじまじと見つめてきた。
﹁馬鹿だな本当に﹂
﹁えっ?﹂
﹁どうしてそんなに恥ずかしがるんだ﹂
﹁だ、だって﹂
つい口を尖らせた。
﹁だって、そういうものでしょ⋮⋮普通は﹂
361
﹁ふうん、そうかな。じゃあ、俺がおかしいのかね﹂
﹁そうだよ、きっと﹂
﹁そうかな﹂
﹁もっと照れてもいいはずです﹂
彩子は本当にそう思っている。良樹の淡々とした態度は、少し冷
たいようにすら思える。
﹁だけど彩子、考えてもみろ。俺までもじもじしてたらそれこそ滑
稽だぞ﹂
﹁え⋮⋮﹂
彩子は、二人で向かい合い恥ずかしがっている場面を想像してみ
た。
﹁⋮⋮確かに可笑しいかも﹂
思わず笑ってしまった。
﹁ほら見ろ﹂
良樹も笑い、彩子の拘りはあっと言う間に解けていく。
彼は男で、私は女。それ以前に別の人間である。感覚が違って当
たり前だし、だからこそ惹かれ合うのだ。一つに結ばれるのは、す
っかり同化するのとは違う。
新しい朝の中、二人はひとしきり笑い合うと、初めての朝食を楽
しんだ。
そして、これからどうするのかを、ゆっくりと相談した。
今回の旅行は互いの気持を確かめ合ういい機会だった。良樹はそ
う思い、満足している。
だが、二人の旅はこれから始まるのだ。
新緑が眩しい山道を下りながら、彼は気を引き締めた。
362
彩子は助手席で、鉱山ズリの木の根元で拾った蛍石を眺めている。
︵これはきっと、誰かが一度採集して、あの木陰で落とした物だ︶
つるつるとした表面を指先で撫でた。
︵それにしても、きれいな淡い緑色。お守りのチョーカーに付いて
いた石にそっくり︶
﹁新しいお守りになるな﹂
良樹が運転しながら声をかけた。彼もあのチョーカーを思い出し
たのだろう。
﹁お守りか⋮⋮ううん、お守りはもういらない﹂
蛍石を見つめながら、彩子はきっぱりと言った。
﹁へえ、どうして﹂
﹁もう結婚して自立するんだから、お守りなしでもしっかりやって
いかなきゃ﹂
﹁ほう﹂
強い決意の表れた彩子の横顔を、良樹はちらりと見る。だがすぐ
に前を向き、新緑のグラデーションに目を細めた。
﹁殊勝な心がけだな、いいぞ﹂
心から嬉しそうに、応援を送った。
◇ ◇ ◇
楽しい旅行の後は、さまざまな準備が待っていた。
新婚旅行の計画と予約、新居の申し込み、ブライダルフェアでの
細かな打ち合わせ。新居に運ぶ家電や家具の購入などなど、休日の
たびに二人は忙しく動き回った。
363
そんな中、雪村と美那子から連絡が入る。結婚指輪が仕上がった
のだ。
上品でシンプルなデザインが普段着けにぴったりで、それでいて
日々の鑑賞に堪えうる素晴らしい指輪である。彩子と良樹がよく礼
を言うと、二人とも恐縮しつつも嬉しそうにしていた。
新居は良樹の会社と自宅の中間に位置するアパートに決めた。彩
子の自宅からもさほど離れていないので、ちょうどいい。良樹が以
前から目星を付けていた場所で、新築のアパートが入居者の募集を
しており、すんなりと決まった。周りは緑が多く、環境のよさも二
人の気に入った理由だ。
月日は瞬く間に過ぎていく︱︱
二人は既に、恋人よりも夫婦に近い関係に近付いている。
それでもデートになれば自然に恋人同士に戻り、甘い時間を楽し
んだ。
婚約期間は多忙だけれど、気付かぬうちに絆はより強く結ばれる
のかもしれない。
結婚の日が、目の前に迫っていた。
364
1
早朝、智子からメールが届いた。
赤ちゃんが生まれたのだ。智子そっくりの元気な男の子だ。一昨
日の夜中に産気づき、昨日9月29日の午前中に誕生したとの事で
ある。
すやすやと眠る赤ちゃんに伶人が満面の笑みで寄り添っている写
真が添付されていた。
﹁おめでとう智子、怜人さん﹂
彩子は早速お祝いの返信をすると、良樹にもメールを入れた。
10月3日 土曜日。
元ソフトボール部の四人は、智子と赤ちゃんが入院する産院に集
まった。お見舞いとお祝いに駆けつけたのだ。
﹁ついに智子もお母さんか﹂
﹁いい母ちゃんになるよ、あいつ面倒見いいもん﹂
エリの感慨深げな言葉に、雪村も頷いている。
﹁いいなあ∼、私も早く赤ちゃんがほしい﹂
まりが目をキラキラさせる横で、彩子は感極まりすぎて何も言え
ない。
さっきから、ただ皆の後を付いて歩いている。
︵智子が母親になった。伶人さんが父親になった︶
まこ
産院の玄関に着くと、智子の妹の真子が出迎えてくれた。
﹁伶人義兄さんは仕事でいないんです﹂
真子は申し訳なさそうに言うと、エレベーターのボタンを操作し
た。
365
﹁こっちです﹂
皆でぞろぞろ歩いて行くと、大きな窓が張られた部屋があった。
﹁新生児の部屋です。赤ちゃんが見えますよ﹂
真子が言うと、皆身を乗り出して内側を覗いた。
﹁どれどれ﹂
﹁あ、あれじゃないかな﹂
﹁うわあ、寝てる寝てる﹂
赤ちゃんは本当に生まれたばかりで小さくて、何とも頼りない存
在に見える。智子の赤ちゃんだけではなく、皆、元気に大きくなれ
よと願わずにはいられない。
彩子はガラスにへばりついて、小さな生命達に見とれた。
﹁あ、みんな来てくれたの﹂
声に振り向くと、智子が寝巻きにカーディガンを羽織った姿で歩
いてきた。
﹁智子!﹂
一斉に声を上げると、智子はぱたぱたと手を振った。
﹁コラコラ、だめよ騒いじゃ∼。静かにしてちょうだい﹂
彩子達は顔を見合わせると、口もとを押さえた。
﹁大丈夫なの、歩き回って﹂
彩子が言うと、智子は大きく顎を引く。
﹁大丈夫よ。それにこれから授乳だもん﹂
﹁おっぱいってことか﹂
雪村がガラス越しの新生児室を見やった。
﹁そうよ、おむつにおっぱい、2時間おき。だから眠れなくてさ⋮
⋮﹂
大きな欠伸をした。
366
﹁そうなんだ。じゃあこれは今、渡しとくね。私達からの気持ち﹂
まりがお祝いを手渡すと、智子は照れくさそうに受け取った。
﹁すごく嬉しい、ありがとう!﹂
少し話をした後、智子は新生児室に入っていった。他のお母さん
も集まって来ると、窓にはカーテンが閉められ、授乳タイムとなる。
﹁もうすっかり貫禄ねえ。違う人にも見えちゃうわ﹂
エリの言葉に、彩子の胸はドキリと鳴った。カーテンで仕切られ
た向こうは、彩子の知らない空間で、母親になった智子がいる。
彼女に結婚する事を告げられた時と同じような気持ちを、なぜだ
か抱いてしまった。
﹁彩子、行くよ﹂
雪村の声にはっとして、廊下を入り口へと戻った。
﹁ああ、何だか感動よねえ﹂
産院を出ると、エリが空を見上げながらしみじみと漏らす。
﹁うん、本当に﹂
皆、未知なる世界を垣間見た気分なのか、言葉少なに駐車場まで
歩いた。
﹁そういや、彩子の結婚式って来週じゃないか﹂
雪村が思い出したように言った。
﹁うん、そうなんだ。智子は出席できないけど、伶人さんが来てく
れる﹂
﹁伶人さんか。あの、にぎやかな旦那様ね。ところで彩子はどうな
の、赤ちゃんは﹂
エリが唐突に訊くので、彩子はたじろいた。雪村とまりも、興味
津々の目つきで注目する。
367
﹁えっ⋮⋮まだだよ、その⋮⋮今のところは﹂
慌ててしどろもどろな返事をする彩子に、エリがすかさずツッコ
ミを入れる。
﹁ほおお、なるほど。仲良くはしてるんだ∼﹂
﹁よせよせ、ほら、茹ダコみたいになってきたぞ﹂
赤くなった彩子を指差し、雪村が笑った。
秋晴れの下、彩子は同級生達と笑い合った。
おめでとう、智子、怜人さん。
はじめまして、赤ちゃん。
◇ ◇ ◇
﹁そうか、男の子か﹂
智子のお見舞いに行った翌日、彩子は良樹と一緒に新居の部屋で
くつろいでいる。部屋はすっかり片付いて、いつでも生活が出来る
ようになっている。
﹁智子さんに似れば、いい男になるぞ﹂
﹁うふふ、楽しみだね﹂
その時、インターホンが鳴った。
﹁あれ、誰だ﹂
﹃伶人パパでーす!﹄
良樹が応答するとおちゃらけた声が聞こえ、二人は顔を見合わせ
た。来訪者は後藤怜人である。
﹁いや∼昨日はありがとうな彩子ちゃん、みんなで来てくれたんだ
368
って﹂
﹁おめでとう伶人さん。赤ちゃん、とっても可愛いですね﹂
﹁うんうん。本当にちっちぇえなあ∼って感じで、抱っこするのが
怖かったけど、結構な存在感なんだよあいつ﹂
﹁ほお∼、既に良い親父してるじゃないか﹂
﹁だろ、だろ? 原田、パパだよ俺は﹂
﹁わかったわかった﹂
良樹は後藤の背中を軽く叩いて、落ち着かせた。
﹁そんなわけで、智子は無理だけど、俺がきっちり披露宴に出席さ
せてもらうぜ。スピーチは頼まれてないけど、よかったかな﹂
﹁いい、いい﹂
良樹が慌てて言う。彩子はコーヒーをすすめながら、クスクスと
笑った。
﹁で、お前達はどうなんだ、子供は。家族計画は立てているのか﹂
後藤は二人を交互に見ながら嬉しそうに訊く。全く、しまりの無
い顔である。
﹁まだだよ﹂
﹁ん、まあ良樹さんったら。ホントのこと聞かせてよ!﹂
後藤の興奮は、どうやっても止まらないらしい。良樹はふーっと
ため息をつく。
﹁彩子、こいつはもう帰るそうだ﹂
﹁待て待て怒るなよ⋮⋮ったく、相変わらずだなあ﹂
﹁お前がふざけすぎなんだ﹂
こんな二人にもいつしか友情が芽生えているので面白い。良樹は
不本意だろうが、傍から見ると息の合った漫才コンビのようだ。
後藤はひとしきり子供の話を聞かせると、満足の顔で立ち上がっ
た。
369
﹁さて、俺はこれで失礼するよ。息子が待ってるものでね﹂
﹁智子さんもだろ﹂
﹁いけね、そうそう﹂
﹁呆れたやつだな﹂
﹁あっちも同じ事言ってるよ、お互い様﹂
すっかりパパとママである。
﹁じゃあな、結婚式頑張れよ!﹂
彼らしく、嵐のように帰って行った。
﹁ったく、相変わらずだ。親になるのはこれからってところか﹂
﹁でも、あの賑やさがいいと思ってるんでしょ﹂
﹁う⋮⋮ん。まあ、そうだね。へんに落ち着いても後藤らしくない
かもな﹂
結婚しても、親になっても、智子は私の親友で、それは何も変わ
らない。産院で感じた寂しさのようなものの正体は、友人に対する
郷愁だったのかもしれない。
いつまでも変わらない智子でいて。
まだ甘えが残っていると、彩子はコツンと自分の頭を小突いた。
良樹はその気持ちを知ってか知らずか、優しく微笑んでいる。こ
の人も智子と同じ笑顔だと感じ、困ったように俯いた。
370
2
10月9日金曜日 夜。
山辺家では、親子四人での最後の食卓を囲んでいる。
﹁はい、彩子はジュースね﹂
母は彩子の好きな炭酸飲料をグラスに注いだ。いつになく優しい
口調である。
父は黙ってビールの泡を凝視し、弟の真二は、この半年あまりで
随分女らしくなった姉の顔を、見るとはなしに見ている。
﹁では、乾杯!﹂
母の音頭で、四人はグラスを合わせた。
﹁さあ、いただきましょうか﹂
﹁しかし、最後の晩がカレーライスとは﹂
父が苦笑すると、今夜のメニューを決めた母は胸を張った。
﹁チキンカレーは彩子の大好物だもの。この子は昔から具合が悪く
ても、これだけは食べたのよ﹂
母の言葉に父は頷くと、遠くを見るようにした。
﹁ああ、どこかに食べに行くと彩子はカレーライスだったな。他の
も食えと言ってるのに、頑として聞かない﹂
彩子は黙って、スプーンを口に運んだ。そのとおりなので、ひと
言もないのだ。今考えると恥ずかしい気もするが、両親は懐かしそ
うに笑っている。
﹁良樹さんにそんな我が儘言ってないでしょうね﹂
﹁言わないよ。今は何でも食べられるし﹂
食事を終えるといつもは解散する山辺家だが、今夜は食後のコー
ヒーが出た。
371
﹁いい香りだ﹂
父がめずらしく酒量を控えたようで、しゃんとしている。
こんな風に談笑しながらお茶を飲むのは久しぶりなので、彩子は
何だか落ち着かなかった。
コーヒーを飲み終えると、皆、黙った。
庭先から虫の声が聞こえてくる。もう何十年と変らない秋の声だ。
﹁父母の恩は⋮⋮﹂
真二が不意に呟いた。皆の視線が集まると、焦ったように頭を掻
く。
﹁何だっけ?﹂
﹁ああそれはね、﹃山よりも高く、海よりも深し﹄︱︱よ﹂
母が助け舟を出して続きを言うと、父がクスッと笑った。
﹁俺はいい親父じゃなかったなあ、彩子﹂
﹁え?﹂
﹁だってそうだろう。無神経で、下品で、勝手で﹂
指折り数えながらマイナス点をあげる父に、彩子はかぶりを振っ
た。
﹁そうでもないよ﹂
﹁気を遣うな。最後の晩だからな、忌憚の無い意見を聞かせろ﹂
母が突然、オホホホと高く笑い出した。
﹁何を仰るやら。あなたは子供には甘かったですよ﹂
﹁俺が?﹂
﹁そうですよ。結局、いろんなことを許してきた。面倒な事はみん
な私に丸投げで﹂
﹁う∼ん。そうだったかな﹂
いつもなら怒り出すところだが、今夜の父は様子が違う。庭の芝
草に目を投げると、ふうっと息をついて、しみじみと語りはじめた。
372
﹁彩子、お前はどうやら男を見る目はあったようだ。彼は⋮⋮原田
君は、今時にしては珍しく男気を持った青年と俺は見ている。まあ、
頑固そうな面はあるが、それだって角度を変えれば立派な美点だ。
それに頑固と言っても俺に比べればかわいいものだろう⋮⋮ともか
く﹂
彩子に振り向くと、厳しくも穏やかな口調で、親としての言葉を
送った。
﹁彼を大事に、思いやりをもって暮らして行け。俺を反面教師にし
てな﹂
最後の言葉は妻の顔を見ながら口にした。
母は黙って微笑むのみ。
彩子は、言えるうちに言っておこうと思った。
﹁お父さん、お母さん、真二。今まで本当に⋮⋮ありがとうござい
ました﹂
人生で最も喜ばしく、そして寂しい夜にもなった山辺家だった。
◇ ◇ ◇
こちら原田家も、親子三人での最後の食事を終えたところだった。
﹁いよいよ明日か、華燭の典は﹂
父は感慨深げに言うと、リビングのソファに息子を手招きした。
﹁何だい、親父さん﹂
良樹はいつもと変らぬ調子で応えると、父親の前に座った。
﹁天衣無縫だな﹂
﹁?﹂
373
﹁お前が迎える嫁さんの事だ﹂
﹁彩子か﹂
﹁そう。彼女はお前にとって、どうやらそんな存在らしい。つまり、
ぴったりの相性ってことだ﹂
良樹は何と答えれば良いのかわからない。
﹁これであなたも一人前ね﹂
母が昆布茶を淹れて運んできた。
﹁まあ、今も家を出て寮に暮らしてるし、とうに一人前だったかし
ら﹂
﹁そうでもないよ。こうしてしょっちゅう帰って来るし﹂
良樹の返事に、啓子はちょっと考えてから続けた。
﹁でも、良樹は昔から何でも一人で決めてさっさと行動してしまう。
親の意見に耳も貸さずってところがあるわ﹂
﹁それは酷いな﹂
良樹は、自分にか母に向かってかわからない言い方をした。
﹁ほんとにもう、子供の時から頑固でねえ。困った困った﹂
﹁今夜はやっつけられるな﹂
父が茶々を入れるが、良樹は苦笑するほかない。母親には敵わな
いのだ。
﹁亭主関白にならないでよ、良樹﹂
母はやけに真面目な顔をすると、膝を正して言った。
﹁うちのお父さんみたいに上手い事言って女房を持ち上げるのも何
だけど﹂
﹁おいおい、今度は俺かい﹂
矛先を向けられた父は、心外そうに目を丸くした。
﹁大丈夫だよ、お袋さん﹂
良樹は頭の後ろで手を組むと、ふんぞり返る恰好をした。
374
﹁あの子は大人しく言う事を聞くばかりじゃないよ。俺が決めた相
手だぞ﹂
﹁ああら、ごちそうさま﹂
母は一本取られた手振りをするが、楽しそうに笑う。
それにしても⋮⋮と、両親はしみじみ思っている。
こうして息子と向かい合っていると、小学生の頃⋮⋮いやもっと
もっと前の赤ん坊の頃を思い出す。あれから懸命に育ててきたけれ
ど、いつのまにかこんなに大きくなって、一人前の口を利くように
なって。
そして、生まれ育った家を出て、最愛の女性とともに独立しよう
としている。望んでいたとおりに成長してくれたわけだが、どうし
ようもない寂しさが胸に迫ってくる。
親の我が儘だとは、分かっているけれど。
あまりにも父母が見つめるので、良樹はたじろいだ。
﹁え∼と、もう寝てもいいかな﹂
既に腰を浮かしている。
﹁あら、逃げるの﹂
﹁わはは⋮⋮明日は忙しいぞ。早く寝た寝た。俺達も寝よう﹂
父の声で、語らいは終了となった。
﹁おやすみ、良樹﹂
﹁おやすみ﹂
父母の目には、やはり小さな頃の良樹が映る。
いつまでたっても子供は子供。その言葉は実に真であると、彼ら
は初めて心から理解していた。
良樹が部屋に戻ると、携帯電話のランプが点滅している。
375
彩子からのメールだった。
︽良樹さんおやすみなさい。明日はよろしくお願いします︾
良樹は微笑むと、返信した。
︽こちらこそよろしくお願いします︾
﹁⋮⋮﹂
︽山辺彩子様︾
窓から見える夜空は晴れて、星が瞬いている。
良樹はカーテンを閉めると、明日のために眠った。
376
3︵完︶
10月10日 大安吉日
梅田山神社
参集殿 控室
綿帽子に白無垢姿の彩子が、緊張の面持ちで挙式の時を待ってい
る。
白粉が崩れそうで、表情を変えることができない。まるで能面の
ようだが、笑ってもいいのだろうかと迷っている。
﹁おお、完成したじゃん⋮⋮って、本当に姉貴か?﹂
弟の真二がカメラ片手に控室に入って来て、姉をしげしげと眺め
た。
父と母、木綿子伯母も続いて現れると、﹁あら∼﹂と、感嘆の声
を上げた。
﹁素敵だわ、彩子ちゃん。もうすぐ良樹君も来るわよ。早く見せて
あげたい﹂
木綿子伯母の言葉に彩子はどきりとした。
程なくして、その足音が聞こえてきた。袴の擦れる気配も微かに
伝わる。彩子はそわそわするが、動ける状態ではなく、ただ座った
ままその人を待った。
良樹は入り口で一度立ち止まると、白無垢の後姿を見た。
そして意を決したように彩子の前にまわり、その姿を目に入れた
途端、何とも言えない表情をして、言葉も出ないようであった。
彩子はそーっと顔を上げた。紋付袴姿の良樹が彼女を見つめたま
ま、瞬きもせずにいる。
377
﹁良樹﹂
彩子が紅を差した唇を開いて彼の名を呼んだ。
か細い声であった。
良樹は膝を折り、彩子と目線を合わせると満足そうに何度も頷き、
いつものように微笑んだ。
彩子も自然に、きれいに微笑んでいた。
﹁では皆さん神社拝殿までお進み戴きますので、ご用意をお願いい
たします﹂
神職の者が声を掛ける。
手と口を清めると、朱傘が差され、参進が始まった。
神職と巫女の先導があり、良樹と彩子が並んで歩く。秋晴れのも
と、木漏れ日が二人を明るく包んでいた。
境内に居合わせた参詣客が彩子達に注目する。中にはビデオカメ
ラで撮影する人も見られた。
彩子は緊張のせいもあり、ぎこちない歩き方になる。裾が地面に
すらないよう片方の手で着物を支えているが、ぶるぶると震えてき
た。
結構力がいるのだなと、彩子は知った。
それにしても、紋付袴姿の良樹は何と凛々しく素敵なのだろう。
そんな良樹とこうして白無垢姿で並んでいるのが信じられない心地
だった。
一堂は神社拝殿に入った。
しゅうばつ
修祓
神前一拝
378
けんせん
献饌
祝詞奉上
神楽舞奉奏
式は厳かな雰囲気だった。
彩子は隣に座る良樹の顔が見たかった。
背筋を伸ばし、顎を引き、やはり緊張しているのだろうか。
三献の儀︵夫婦盃︶三々九度の盃を交わし、良樹と彩子は夫婦の
契りを結んだ。
そして誓詞奏上と、式は続く。誓詞奏上の良樹の声は低く、よく
通り、そして落ち着いていた。
次は指輪の交換である。
美那子と雪村が心をこめて作り上げてくれた指輪を前に、二人は
しっかりと目を合わせた。
互いに神妙な顔つきである。
良樹が彩子の手を取った。彩子の指は微かに震えているが、良樹
は軽くそれを握ると指輪をはめた。
、斎主挨拶があり、
彩子も震えつつも良樹に見守られ、同じようにして交換した。
てっせん
玉串拝礼、親族固めの盃、と続き、鉄饌の儀
参列者も起立して神前に礼をし、退下となる。
結婚式は無事執り行われた。
参集殿への道を歩む時はやはり緊張したが、彩子はようやく安堵
した気持ちになり、隣にいる良樹を見上げることができた。
夫婦になったのだ︱︱
379
良樹も彩子を見つめている。
二人は同じ感慨に満たされて、穏やかな明るい道を進んだ。
集合写真を撮り終えると、花嫁は色打ち掛けに着替えるため控室
に入った。20分ほどの間に着替えるとのことで、着付けやメイク
のスタッフも気合を入れて待っていた。
打ち掛けの柄は撫子で、色合いはピンクを基調に、金糸銀糸を使
い、可愛らしさと華麗さを兼ね備えている。彩子と、彩子の母親、
良樹の母親、三人ともが気に入った打ち掛けである。
着付けとメイクが済むと、披露宴会場の前で良樹と並び、来賓の
お出迎えをする。
良樹も彩子も緊張の様子ではあるが、職場の上司、同僚、学生時
代の友人、さまざまな招待客が現れるのを楽しみに待った。
最初に現れたのはコレーの甲斐文治だった。
彼を招待する事に原田の母は難色を示したが、良樹はその意志を
曲げなかった。そうなったらもう聞かないと知っているので、母は
渋々承知した。
ただ、美那子だけは招いてくれるなと、これは必死に懇願し、今
度は良樹が承服させられた。
﹁良樹君、彩子さん、おめでとうございます﹂
﹁ありがとうございます。文治先生﹂
文治は感無量の面持ちである。二人を見つめる目はたちまち潤み、
慌てたようにハンカチで拭った。
﹁いや、すまん。しかし本当に良かった。こんなに立派になって、
380
私は嬉しい﹂
﹁先生﹂
文治と良樹は、どちらからとも無く手を差し出し握手をした。彩
子もその二人の姿に心からほっとするものを感じていた。
雪村とエリがやってきた。
﹁良樹さん、彩子。おめでとうございます!﹂
雪村は二人の薬指に煌めくリングを見とめると、感無量の表情を
浮かべた。
﹁美那子からお祝いの言葉をあずかってきました。本当に、おめで
とうございます﹂
良樹と一緒に、彩子は礼をする。心から嬉しい気持ちだった。
﹁写真を撮るわよ。すっごくきれいよ彩子﹂
エリがカメラを構えた。
彩子はフラッシュを浴びながら、まりの姿が見えないのに気付く。
﹁あ、まりはね﹂
エリが彩子と良樹に近付いて言った。
﹁木村陽一郎さんと一緒にロビーにいるわ﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
良樹は合点した。披露宴には、木村も平田も招待してある。
噂をすれば、木村とまりの二人が腕を組み、足取りも軽くやって
来た。
﹁原田先輩、彩子さん。ご結婚おめでとうございます﹂
木村が紅い顔でお祝いを言う。
﹁ありがとう﹂
良樹が礼をすると、まりも続いて前に出た。
﹁ホントウにおめでとうございます。彩子、打ち掛けがすごく似合
ってる。可愛いなあ∼﹂
﹁ありがとう、まり﹂
381
﹁それに、良樹さんも紋付袴姿がすごく素敵。やっぱり武道家は和
服が似合うわよねえ﹂
まりは木村のほうを見て、うっとりとした顔をする。彩子は良樹
と目を合わせ、思わず微笑んだ。
﹁先輩、おめでとうございます。押忍!﹂
後ろから平田が顔を出した。
﹁お、平田か。ありがとう﹂
﹁おお∼彩子さん、実にお美しいですな。先輩、惚れ直したでしょ
う﹂
例によってのからかいに良樹はニヤリと笑い、
﹁ああ、惚れ直してるよ。さっきからず∼っとな﹂
﹁うわっ、ごちそうさまです!﹂
平田が返されて首をすくめると、皆楽しそうに笑った。
﹁おっ、来たぞ﹂
良樹が、ついに現れたぞと彩子に教えた。のしのしと歩いて来る
のは、後藤怜人である。
﹁お二人さん、本日はおめでとうございます!﹂
大柄な体に大きな声であるから、周りの者は皆、後藤に注目する。
﹁ありがとう﹂
﹁ありがとうございます、後藤さん﹂
﹁へえ∼、彩子ちゃんも今日はえらく大人っぽいな。やっぱ花嫁さ
んは違うな﹂
後藤は冗談ではない口調で、感心している。
﹁智子が頑張れよって応援してたぜ﹂
﹁はい﹂
︵ありがとう、智子⋮⋮︶
382
彩子は親友を思い、心で返事をした。
﹁子供はどうだ、調子いいか﹂
良樹が訊くと後藤は相好を崩して、
﹁もうね、日に日に大きくなってる感じだ。あの調子じゃ2、3年
で成人しそうだぜ﹂
今度はいつもの冗談口調になり、嬉しそうに笑った。
暫くすると田山課長と新井主任がやって来た。お祝いを述べると
良樹を見上げ、感嘆の声を漏らした。
﹁う∼む、実に立派な青年だ。彩子ちゃんよかったなあ﹂
﹁前にチラッと見た時も思ったんだけど、原田さんってサムライっ
ぽいわあ。和服がすごく似合って、かっこいい!﹂
﹁サ、サムライですか?﹂
良樹は思わぬ表現に面食らった。しかし新井の真顔に、﹁あはは
⋮⋮あの、ありがとうございます﹂と、少し赤くなって礼を言った。
最後に現れたのは良樹の会社の同期、志摩秀明だった。
﹁志摩!﹂
良樹は思わず声を掛けた。
﹁おお、原田。え∼と、本日はまことにおめでとうございます。彩
子さん、はじめまして。僕は原田とは会社の同期で、志摩秀明と申
します﹂
﹁ありがとうございます。はじめまして、山辺彩子です﹂
﹁⋮⋮そうですか、あなたが彩子さんですか﹂
志摩はしげしげと彩子を眺めると、納得の顔になった。
﹁お前が言うとおりの、きれいな女性だ﹂
良樹の肩をぽんと叩くと、会場に入っていく。きょとんとする彩
子に、良樹は照れくさそうに笑った。
383
招待客が全て集うと、披露宴会場の扉は一旦閉められる。
二人はその前に立ち、あらためて披露宴が始まる合図を待った。
だがすぐには合図は無く、進行を担当するスタッフが、仲人の魚
津夫妻に入場の確認をしている。
会場前に、良樹と彩子は二人きりになった。
先ほどまで大勢の来賓で賑わっていた空間が、今はとても静かで
ある。
ガラス張りの外、樹齢何百年にもなろうかと思われる神木の、緑
のざわめきが聞こえそうなほどに。
彩子はその静けさに、なぜだか感極まり昂ぶってきて、良樹の手
を取るとぎゅっと握った。
﹁良樹﹂
﹁緊張してるのか﹂
﹁ううん、私⋮⋮﹂
﹁どうした﹂
良樹は心配そうな目で、彩子の白い面を覗き込んだ。
﹁信じられなくて。ここに、あなたと立っていることが、信じられ
なくて、怖くて⋮⋮﹂
彩子の唇は震えている。支えていないと倒れそうに、体を揺らし
ている。
﹁彩子﹂
良樹は彼女の肩を抱くと、言い聞かせるように、優しく囁いた。
﹁今、志摩が言ったろう。きれいな女性だって﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁本当に、君はきれいだ﹂
彩子は俯いている。涙が零れそうだった。
384
﹁君は蛍石﹂
﹁⋮⋮﹂
彩子は顔を上げ、良樹を見つめた。彼女の潤んだ瞳には、世界で
一番大切な人が映っている。
﹁きれいで優しい、俺の大好きなフローライトだよ﹂
﹁良樹﹂
彩子の脳裡に、良樹との出会い、それから起こったさまざまな出
来事、さまざまな思いがひと息に浮かび、不安に揺れる心を落ち着
かせ、温かく満たした。
﹁良樹、私⋮⋮もう大丈夫。愛してる、あなたを﹂
﹁そうだ、俺も⋮⋮﹂
良樹は言いかけると、あらたまったように背筋を伸ばした。
﹁今日は特別だぞ。何度も言わない。よく聞いておけ﹂
﹁はい﹂
﹁俺も、愛してる。ずっと君を愛してるよ﹂
木漏れ日に包まれ、彩子は笑う。
幸せに満ちた、とてもきれいな微笑みだった。
おめでとう︱︱
彩子の胸に祝福が聞こえる。それは柔らかで優しい、緑の声。
ありがとう︱︱
良樹に寄り添い、彩子は幸せな花嫁になった。
385
386
1
失恋の辛さから立ち直るのに最も有効な方法は、次の恋を見つけ
ることです。
どうしてあんなに悲しんでいたのだろう︱︱
と、不思議に思えるくらいハッピーな状態になれますよ。
次の恋があなたを救うのです。大丈夫。
さえきりょういち
乳製品メーカー北野ミルクに勤めて四年目の春。
佐伯諒一は休憩室の片隅で、白い付箋に書かれた文字を見つめて
いる。
内側に貼ってあるの
今朝、いつものように職場のデスクに座り、いつものファイルを
開いたところにそれは貼り付けられていた。
が不自然で、それでも仕事の連絡かと思い読んでみたら、そんなメ
ッセージが書かれていた。
︵失恋の辛さ⋮⋮︶
佐伯は誰もいない休憩室で、一人きょろきょろした。
確かに彼は失恋している。
それも立て続けに、二つの恋を。
一つは昨年の春。東京から地元の支社へ転勤した時、付き合って
いた女性に﹃遠恋は無理だから﹄と、振られた。もう一つはごく最
近。偶然再会した初恋の女性にもう一度恋心を抱いたが、彼女には
既に恋人が存在しており、自分が入リ込む余地もなく敗退。
︵そうだ、俺はこの一年で二度も失恋している。だけど⋮⋮︶
387
おそらくこのメッセージは、二つ目の失恋を指している。
佐伯は付箋を高く掲げると、律儀な筆跡を目でなぞった。どこか
で見覚えのある文字だ。
︵東京の彼女と別れたのは会社の人間にバレてるけど、初恋の彼女
については⋮⋮社内ではあいつしか知らない︶
ある同僚の顔が頭に浮かぶ。
だが、しっくりとはこない。この筆跡は、その男のものではない。
廊下を歩く足音と賑やかな話し声が聞こえてきた。
総務部の女性社員が休憩に来るのだ。佐伯は慌てて付箋を半分に
折り、スーツのポケットに入れた。
︵午後の仕事に行かなくちゃ︶
頬をピタピタと叩いて、総務の女性達と入れ替わりで廊下に出よ
うとした。
﹁あら、佐伯君。お疲れさま﹂
不意に声を掛けられ、そのほうへと振り向く。
声を掛けたのは人事を担当している主任で、その後ろから若い女
性社員がこちらを注目している。
紅い唇がいくつも咲いているように錯覚し、佐伯は一瞬怯んだ。
﹁あ、どうも⋮⋮﹂
曖昧に返すと、ぎこちない動きでドアを閉める。その途端、弾け
たような笑い声と﹁カワイイ!﹂といった心外な言葉が聞こえた。
佐伯は口を尖らせ、そしてその仕草にハッとして自分で渋面を作
る。
彼は童顔であり、心のほうもまた、それを映したようなものだっ
た。
26歳になろうとする男にしては純粋すぎるものを、未だ持ち合
388
わせている。好意か好奇心からか不明だが、女性社員らはそんな彼
をからかってくるのだ。
東京本社にいる時も、こちらに移ってからも、女性達の佐伯に対
する態度は同じだった。年上も年下も関係なく、佐伯はかわいがら
れてしまう。
就職したての頃、佐伯は東京本社の営業部に配属され、先輩社員
について外回りを経験した。その先輩がドブ板営業を身上とするパ
ワフルな人で、新人の佐伯はかなり鍛えられた。
だがそのおかげで、半年後には一人で新規顧客を開拓する度胸と
要領を得ることが出来た。
二年間本社で勤めた後、地元支社へと転勤し、今は営業ではなく
乳製品開発の仕事に携わっている。
今日も地元の酪農家や自社工場を回るため車に乗り込むと、エン
ジンをかけた。
﹁よいしょ⋮⋮っと﹂
重いハンドルを繰って通りに出る。
学生時代は野球をやっていた。今でも中学時代の仲間達と一緒に
草野球チームを作り、スポーツに励んでいる。
体を動かすのは好きだし鍛えてもいるから、体格が良い。体力も
標準以上で、頑健さには自信がある。同僚らが重くて嫌になるとぼ
やく古い車のハンドルも、それほど苦にならない。
﹁はあっ﹂
思わずため息をついた。
︵だからどうだってんだ。これじゃまるで体力バカだ︶
佐伯は胸を押さえる。ポケットの中の付箋。この筆跡の持ち主を
思った。彼の今の傷心を見透かしているような言葉たち。
389
︱︱大丈夫ですよ。
月並みな、根拠の無い慰めの言葉。
だがそれは、意外な温かみで佐伯の心を毛布のように包み込んだ。
﹁一体、誰なんだ﹂
独りごちると、佐伯はどうしてもそれを確かめたい気持ちになる。
その誰かと話してみたい。男か女か、同僚か上司なのか見当もつ
かないが、とにかく、今の自分をどうすればいいのか教えてほしか
った。
そして、やはり引っ掛かるのが、この生真面目な筆あとだ。
どこかで見たことがあるのに思い出せない。その人の輪郭が浮か
びそうで消えてしまう。
綴られた言葉と同じように、誠実で、温かで、陽だまりのような
イメージ⋮⋮
﹁一体、誰なんだ﹂
もう一度呟いた。
ルートの途中にある公園の脇に車を停めると、彼は携帯電話を取
り出した。初恋の女性に失恋した事実を知っている、ただ一人の男
なかがわさとる
に連絡するために。
その同僚の名は中川悟。佐伯と同期の営業マンで、飲み会では常
に幹事役を引き受けるような活発なタイプ。飲んだり歌ったり騒い
だりが大好きな、少々軽いが世話好きで明るい男である。
﹁もしもし、お疲れさん。ちょっといいか﹂
事情は話さず、中川に約束を取り付けた。 佐伯は会社を退けた後、中川と待ち合わせする居酒屋の前に立っ
てそわそわしている。
390
店は飲み屋街の真中にあり、派手なネオンや酔客たちの騒ぎ声が
賑やかだ。賑やかというより、ギラギラとした夜のエネルギーが渦
巻くような、落ち着かない場所だ。
酒は一人前に飲める佐伯だが、酒場や酔っ払いの醸し出す雰囲気
が苦手である。同期会や部署の忘年会などには顔を出すが、一次会
でさっさと帰る口だった。
つまり、中川とはそのあたりが違っている。
中川も野球やスポーツ観戦が好きなので、昼間の付き合いならば
喜んで誘いに乗るが、夜は縁遠かった。だが今回は仕方が無い。ど
うしても訊きたい事があるので、こちらから無理に付き合ってもら
う。
︵酒の一杯や二杯は奢ってやらねば︶
そう考えながら、中川が指定した居酒屋で会うことにした。
﹁よお、佐伯! 待たせて悪かったな、仕事が長引いちまって﹂
8時を10分ほど過ぎた頃、中川がやってきた。
さらさらした長髪をかき上げながら、屈託無く笑いかける。彼は
一見、ホストにもなれそうな二枚目で、性格も陽気なので女性社員
に人気がある。
複数の女子からアプローチを受けているという噂も、まんざらで
たらめではなさそうだ。中川の優しげな笑みを見ながら、佐伯は納
得した。
﹁それにしても、めずらしいなあ。お前が話があるなんてさ﹂
おしぼりで手を拭きながら、中川は嬉しそうに声を弾ませる。新
規顧客でも掴んだのか、えらくご機嫌だ。
﹁うん、まあね﹂
酒とつまみを注文すると、中川と向かい合う。佐伯は何から話せ
ばいいのか迷い、なかなか本題を切り出せない。簡単なことなのに、
391
どうして俺はこう不器用なんだと思い、情けない顔をした。
ところが、世間話をぽつぽつ話す途中で、中川のほうから切り込
んできた。
﹁誰かから謎のメッセージでも受け取ったか﹂
佐伯はさっと顔を上げると、ビールのジョッキをテーブルにドン
と置いた。
中川は面白そうにニヤリとして、つまみを運んできた店員にさら
に追加注文をした。
﹁今日はたらふく食うぜ。お前の奢りだからな﹂
﹁お前⋮⋮﹂
身を乗り出した佐伯に、ほろ酔い加減の中川は、まあまあと手の
平でジェスチャーしながら朗らかに笑う。
﹁いやあ、意外と勘がいいなあ、佐伯君は。そうだよん、あの付箋
は俺がくっつけたんだ﹂
あまりにもあっさり告白されて、佐伯は逆に理解できない。
﹁お前が?﹂
言葉が継げなかった。こいつが書いたって言うのかあの言葉を。
この男が?
水をごくごくと飲んで冷静になると、佐伯は指摘した。
﹁中川、あれはお前の筆跡じゃない﹂
料理が次々に運ばれてくる。刺身に揚げ物、寿司⋮⋮二人で食べ
切れるのか心配になる品数だ。
﹁だったら、どうして俺に連絡してきた﹂
中川は不意に真顔になると、佐伯の目を見据えた。
﹁それは、お前が⋮⋮﹂
言いよどむが、仕方なく答える。
﹁俺が最近失恋したの、知ってるのお前だけだろ。少なくとも会社
392
の中では﹂
﹁⋮⋮﹂
中川は腕まくりをすると、片っ端から料理をやっつけ始める。食
欲の旺盛さに目を見張りながら、佐伯はあの日を思い出していた。
恋を諦め、彼女にさよならを告げたあの日。
草野球の試合会場だった。
彼女は佐伯と同じチームで戦った男と恋人同士で、彼の応援に来
ていた。
その男は、佐伯が心から納得できる小気味良い人間だった。自分
はあくまで脇役なのだと思い知らされ、未練の持ちようが無い完璧
な失恋を味わう。
別れ際、誰もいないグラウンドで、彼女の額にキスをした。彼に
とっては、精一杯の愛情表現だった。
その場面を中川に見られた。
中川もその日、その会場内のサブグラウンドで試合をしていたの
だ。フェンスを出たところでばったり出くわし、しつこく追及され
て、仕方なく成り行きを話した。ただし約束付きで。
﹁俺は驚いたぜー。純情なお前が、あんな広々とした野球のグラウ
ンドで、女性にキスをしてるんだから﹂
﹁額にだよ。誤解されるようなこと言うな﹂
思わず気色ばむ佐伯だが、中川は二人きりの個室を見回してハハ
ハと笑った。
﹁誰に誤解されるんだよ﹂
﹁中川。会社の人間には絶対喋らないでくれって頼んだはずだ﹂
険しい表情で詰め寄る佐伯に、さすがの中川も姿勢を正す。
﹁喋ってないよ﹂
大真面目で返すが、その目線は怪しげに泳いでいる。
393
佐伯は上着のポケットから付箋メモを取り出すと、中川の前で振
ってみせた。
﹁これを書いたのはお前じゃない。だったら誰だ? その誰かに喋
ったんだろ!﹂
﹁だから、喋ってないって﹂
﹁嘘つけっ﹂
﹁本当だってば。天に誓って喋ってない。会社の人間には⋮⋮!﹂
﹁な⋮⋮﹂
その時、タイミングを計ったように中川の携帯が着信音を鳴らす。
なぎさ
逃げ場が出来たとばかりに彼は佐伯から後退さると、急いで電話に
出た。
﹁おう、渚か。ちょうど良かった﹂
彼が口にした名前に、佐伯はハッとする。記憶の蓋が動いた。
﹁渚⋮⋮﹂
それはあの筆跡に符合する、今の今まで忘れていた名前だった。
394
2
なかがわなぎさ
中川渚
佐伯が地元に転勤した去年の春、引越しの手伝いに来た同僚に紛
れ、ぽつんと存在していた。細々とした荷物を運んだり、男どもに
お茶を出したり、まめまめしく働いていた。
真面目で賢そうな彼女は、目の前にいる軽佻浮薄な男の妹である。
﹃それじゃ俺が頭悪いみたいじゃねえか﹄
引越しが終わり、車座になって酒を飲んでいる時、中川は怒った
ように、でもまんざらでもないといった顔で文句を言っていた。
あの時、彼女は端のほうに座り、この春高校三年になりますと自
己紹介した。春休みで暇を持て余しているところを兄に誘われ、手
伝いに来たらしい。﹃兄がお世話になっています﹄と、佐伯の顔を
チラリと見て、はにかんだ笑みを浮かべた。
17歳の少女は、24歳の社会人である佐伯からすれば子供であ
る。別世界に住む、関わり合いの無い世代だと認識していた。
だから、今の今まで、彼女がその時、割れ物を包んであった新聞
紙の隅に書いた文字を忘れていたのだ。
﹃なかがわなぎさ。海の渚か⋮⋮﹄
﹃はい。波打ち際の渚です﹄
丁寧に書かれた生真面目な筆跡と、少し日焼けした健康的な肌。
そして、佐伯を見て微笑んだ少女らしい柔らかな表情が印象に残っ
ている。そのはずなのに、忘れるなんて。
今、中川がその名を口にした瞬間、記憶の蓋は持ち上がり、彼女
395
の印象が鮮やかに蘇った。
そうだ、あの付箋の文字は⋮⋮中川の妹の筆跡なのだ。
一つ謎が解けたはいいが、新たな疑問が湧く。
︵だけど、どうして彼女があんなものを?︶
恋人と話しているかのようにニヤけた兄貴を眺める。それはこい
つが知っているはずだ。
佐伯は腕組みをして、電話が終わるのを待った。
﹁今、飲んでるよ。そうそう、佐伯諒一と二人でね⋮⋮分かってる
よ、大丈夫。チケットは渡しておくから。明日はバイトだろ、早く
寝ろよ﹂
中川は端末をポケットに仕舞うと、じっと注目している佐伯に肩
をすくめてみせる。
﹁俺の妹。一度会ってるだろ﹂
﹁渚⋮⋮ちゃんか。引越しの手伝いに来てくれた﹂
﹁ああ。もうわかったか? と言うか、思い出したみたいだな﹂
佐伯は付箋をテーブルに置くと、料理の続きに取り掛かろうとす
る中川の肩を掴んだ。
﹁おい、佐伯⋮⋮﹂
普通に掴んだつもりでも、佐伯の握力は強く、中川は怯んだ顔に
なる。
﹁ちゃんと話せよ。これは渚ちゃんの字だろ。どうして彼女がこん
な文面を俺に寄こすんだ。俺の失恋話を兄妹でネタにして、からか
ってるのか﹂
珍しく怒った声音だが、珍しいだけあってそれは効果的だった。
中川は慌てた様子になり、かぶりを振る。
﹁分かった、話す。話すから、ちょっと落ち着いてくれ﹂
佐伯は手を放すと、後退りする男を睨んだ。
396
中川はジョッキに残るビールを呷り、ふうっと息を吐いてから説
明した。
﹁そうだ、これは妹が書いた。だが、お前が今言ったような、ふざ
けた気持ちで書いたものじゃない﹂
そんなことは分かっている。この兄貴ならいざ知らず、あの娘が
そんな悪ふざけをするようには思えない。
﹁妹は⋮⋮身びいきで言うんじゃないぞ。渚は本当に良い子なんだ。
真面目で、優しくてさ⋮⋮頭もいいし。ちょっと意気地なしなのが
困りものだが﹂
中川の普段にない真顔を見守りながら、佐伯はある予感がした。
まさかとは思うが⋮⋮
付箋へと目を落とし、もう一度読んでみる。
失恋の辛さから立ち直るのに最も有効な方法は、次の恋を見つけ
ることです。
どうしてあんなに悲しんでいたのだろう︱︱
と、不思議に思えるくらいハッピーな状態になれますよ。
次の恋があなたを救うのです。大丈夫。
︵次の恋。次の恋の相手?︶
﹁その付箋と、これを渡してくれと頼まれたんだ﹂
中川は胸ポケットから無造作に封筒を取り出すと、佐伯の前に置
いた。
﹁見てみろよ﹂
ぶっきら棒に言われ、佐伯は首を傾げながら封を開けると、中身
を取り出す。
397
あっと声を上げた。
次の土曜日にAドームで行われるプロ野球開幕戦のチケット2枚
だった。
﹁渚ちゃんが?﹂
驚く佐伯に、中川は顎を引いた。
﹁どうして⋮⋮﹂
﹁料理が冷めるから、食いながら話すぜ﹂
座りなおすと、中川は揚げ物をぱくついた。
﹁つまりだ、それはお前へのプレゼントだそうだ。昔その球団の二
軍にいたとかいう人に貰ったんだと。妹はスポーツ用品の店でバイ
トしてるんだがそこの関係者でね。結構良い席みたいだ﹂
しかも開幕戦だ。佐伯は改めてチケットを眺める。
﹁で、これは渚からの伝言。誰かを誘って観戦してください⋮⋮だ
と﹂
﹁えっ?﹂
ぱっと目を上げる。それは予感と異なる、思わぬ言葉だった。
﹁誰かって、誰を?﹂
きょとんとする佐伯の問いに、中川はううんと唸った。
﹁全くなあ⋮⋮渚の奴、本当に意気地なしで困ったもんだよ。俺の
妹とは思えねえ﹂
﹁⋮⋮どういうことだ﹂
歯切れの悪い男を訝しげに見やる。はっきり言ってくれなければ、
こちらも応えようがない。
﹁誰かってのは、次の恋の相手。身近にそんな女性がいるなら、一
つのきっかけになるだろ﹂
もう一度チケットを見下ろした。だから2枚なのかと納得するが、
それでも妙な気がする。
﹁どうして渚ちゃんがそこまで﹂
398
箸を置くと、中川はさもありなんと頷く。
﹁つまり、こういうことだ。渚には口止めされてるけど、わけもわ
からずお前が受け取るはずないからな。それに、俺はもとからその
つもりで、張り切ってここに来たんだ﹂
中川は佐伯を正面から見据えると、告白した。
﹁渚のやつ、お前にひと目惚れしたんだ。引越しの手伝い以来、ず
っとお前を想い続けて、胸に秘めてやがったのよ。兄の俺にひと言
も相談しないで、まる一年!﹂
熱を持った眼差しに射られ、ぴくりとも動けない。
直接愛の告白を受けたように心が動揺し、佐伯は何も言えず、額
に滲む汗を手の甲で拭った。
﹁佐伯のキスシーンを目撃したと何気なく喋った時、渚は思いきり
取り乱した。それはもう分かりやすく、あいつらしくもない態度だ
ったぜ﹂
﹁キスってお前、そんなこと喋ったのか?﹂
佐伯のほうが取り乱してしまう。兄妹と言うのは、そこまでざっ
くばらんに会話するものなのか?
﹁口じゃなくて額にって、言ってくれただろうな!﹂
焦る佐伯に、中川は手をひらひらと振った。
﹁口だろうがデコだろうが関係ない。とにかく俺は、渚がお前に惚
れてるのに気が付いて、どうにかしてやると言ったんだ﹂
顔を近付け、眼を覗き込んできた。彼は本気である。
﹁でもあいつときたら、私ではとても無理。佐伯さんに迷惑が掛か
るとか言って、気持ちを伝えようとしない。控えめな女なんて今時
どうかと思うよな﹂
中川はシスコンだと、同僚達が囁くのを聞いた事がある。
399
それはどうやら本当らしい。
妹の恋愛に干渉し、こんなやり方で介入するなど、ちょっと行き
すぎだ。
佐伯は中川の酒臭い息から顔を背けると、向こうへ押しやった。
︵渚ちゃんが俺を好き⋮⋮︶
今、初めて彼女を一個の女性として瞼に浮かべてみる。だが、ど
うしてもただの少女としか思えない。何しろ七つも離れた年下の子
だ。
﹁な、佐伯。デートしてやってくれよ。本当はあいつ、お前と野球
場に行きたいんだ﹂
中川が再び膝を詰めてくる。自分のことのように懇願する姿は必
死で、いつもの飄々とした態度からは考えられない。佐伯は思わず
苦笑した。
彼女はいい兄貴を持っている。
﹁俺は構わないよ。一緒に野球を観るくらい﹂
﹁ほんとか!﹂
本当にそう思う。ただ、彼女に対しては、子供を引率する先生の
ような気分なので、そこはことわっておきたい。
﹁だけど俺は⋮⋮﹂
﹁いい、いい。別に付き合うとか交際するとか考えなくても構わん。
そりゃ俺としてはそれが望ましいけど、お前も七つも下のガキじゃ
嫌だろう﹂
﹁ガキだなんて﹂
中川は佐伯からチケットを1枚取り上げると、胸のポケットへ捻
じ込んだ。
﹁よーし、決まり。ああ、良かったなあ。最初で最後のデートだろ
400
うが、渚もこれで悔いは無いだろう。ところでチケット代はここの
奢りで清算ってことで﹂
酒を追加しようとする中川に、
︵チケットは渚ちゃんがくれたんだろうが︶
と内心呆れたが、黙っておいた。
愛する妹を思う兄心に免じて、奢ってやることにした。
それにしても⋮⋮と、佐伯は思う。
︵俺のことを好き、か︶
彼が失恋した二人も、かつてはそうだった。
だけど、結局上手くいかなかった。
一年に二度の失恋は、佐伯自身が思いも寄らぬほど、男としての
自信を喪失させた。﹃好き﹄という気持ちは流動的なもの。当てに
していると、いつの間にかどこかへ消えてしまう。
︱︱恋愛って、疲れる。
それが佐伯の実感だった。
だから、渚の気持ちが本当だとしても、少しばかり負担である。
けれど反対に、心のどこかに仄かな明かりが灯ったような、そんな
気もした。
テーブルに貼り付いた白い付箋を眺める。
渚という少女が、これから自分がどうすれば良いのか、その答え
を持っているとは思えない。意外な”犯人”に、佐伯は拍子抜けし
たが、好意を寄せられるという事実は、確かに嬉しい良薬だ。
機嫌よく酒を飲んでいる兄貴を前に、佐伯は少々複雑にだが、和
んだ表情を浮かべた。
401
さんざん飲み食いした中川を連れて居酒屋を出ると、佐伯は彼を
引きずるように駅まで歩いた。酔いがある程度冷めるまでホームの
ベンチで休むことにする。
中川は仕立ての良いスーツの上着を脱ぐと、佐伯に﹁膝枕してく
れ﹂と、寝転がろうとした。
﹁馬鹿、何考えてるんだ﹂
さすがにそこまで介抱できんぞと、佐伯は自分の上着を脱いで枕
にしてやった。
﹁皺になっちゃうぞ﹂
﹁いいよ。安物だ﹂
春風が人気の無いホームを吹き抜けていく。
佐伯は横になっている中川から目を離すと、ベンチの背に凭れて
前を向いた。時計は11時をまわり、夜の街は暗色に沈んでいる。
こんな時間に外にいるのも久しぶりだと思った。
ふと、ビルが並ぶ通りの隙間、狭いスペースに公園があるのを見
つけた。ぐるりと植えられた桜がうっすらと色付いている。
﹁色気づきやがって﹂
眠ったように静かだった中川が急に起き上がり、赤く充血した眼
を佐伯に向けた。
﹁どうした⋮⋮﹂
﹁渚のやつ、どうりでここのところ洒落めかして、あいつらしくな
かった。大学だって、もう一ついいところに入れたはずなのにG大
を選ぶとは﹂
佐伯は目を丸くした。
﹁それって、俺の出身大学﹂
﹁そう、お前への恋心が進路に影響したんだ。あんな愚かな妹とは
402
思わなかった﹂
﹁⋮⋮﹂
まさか、嘘だろう。そこまでするか。
佐伯は中川が妹を溺愛するあまりの考えすぎだと思った。でない
と、責任を感じてしまう。
二人は黙り込み暗い街を一緒に眺めていたが、やがて中川が何か
思い出したようにクスッと笑った。
﹁そういえば去年の夏、会社の先輩と飲みに行ったよな。さっきの
飲み屋街に﹂
﹁ん? ああ⋮⋮﹂
うだるような暑さが続く中、先輩らが若い連中を連れて暑気払い
と称して飲みに繰り出した。佐伯はそのメンバーが揃いも揃って”
のんべ”の集まりなので遠慮したのだが、無理やり引っ張られた。
﹁その帰りに、風俗に寄ったろう﹂
楽しそうな目を向ける中川に、佐伯は嫌な顔をした。
﹁俺は行ってない。お前達はどうしたか知らんが﹂
中川はニヤケながら上着を羽織る。酒の熱が冷めてきたようだ。
﹁先輩が言ってたぞ。佐伯の野郎、先にとっとと帰っちまった。ノ
リが悪い男は出世しないって﹂
佐伯は赤面し、慌ててそれを手の平で隠す。中川は笑わなかった。
﹁だけど、それを渚に話した覚えがある。考えてみれば、あの頃に
進路を変更したような気がする﹂
﹁お前⋮⋮妹に何でも喋るんだな﹂
佐伯は頭を抱えたくなる。いくら相手が子供でも、知られたくな
い話がある。
﹁驚いたよ、全く﹂
中川の端正な横顔に、彼らしいクールな線が表れるが、別の輪郭
も浮かんでいた。
403
﹁妹の恋心を、お前にどうにかしてくれとは言わない。お前のこと
は同僚の中でも一目置いてるから、兄としては進めたい話だが﹂
低い声は誠実で、その気持ちが彼の輪郭を作っているのだと気付
く。
﹁デートなんぞ頼むの、図々しいって分かってる。だけど⋮⋮﹂
﹁分かってる﹂
電車がホームに入ってきた。中川が乗る電車だ。
﹁佐伯﹂
﹁俺は野球観戦が好きだから、喜んで付き合おうと思ってる。嫌々
じゃないよ﹂
まっすぐに見つめる佐伯に中川は照れくさそうに笑うと、そそく
さと車両に乗り込んだ。
そして窓側の椅子に座ると片手を軽く上げ、佐伯のほうに顔を向
けないまま、動き出した電車に揺られて行った。
一陣の春風が佐伯の髪を乱した。
﹁デートの前に、床屋にでも行って来るか﹂
風の中に桜の香りがする⋮⋮
気のせいだと思いつつも、新しい季節を感じられることが嬉しく
て、自然に笑みが零れた。
404
3
4月3日土曜日。プロ野球開幕戦。試合開始は18時10分。
佐伯は夕方になると、待ち合わせの場所と時間をあらためて確認
し、早めに準備をした。
十分な余裕をもってアパートを出ると、彼はのんびりと駅までの
道を歩いた。
中川渚とは、彼女の兄悟と飲んだ翌日の夜、電話で話をした。
緊張の伝わる声を耳にしながら、佐伯は記憶にある少女の面差し
を浮かべ、そして、野球観戦を引き受けたものの、いざとなってど
う対応すればよいのかと困惑を覚える。
︵そうだ、妹だと思えばいい︶
または部活動の後輩だとか、そんなように接すればいいんじゃな
いか。そう考えると、かなり気が楽になった。
異星人を相手にするわけではない。中川悟の妹である。自分にと
っても妹みたいなもんだ。
佐伯は最寄駅から電車に乗り、N駅に着くと、待ち合わせ場所の
大時計の前に立った。約束の10分前であり、まだ彼女らしき姿は
見えない。
︵やっぱり、写真を送ってもらえばよかったな︶
彼女の顔は憶えているし、一年ではそう変わらないだろうと考え
た。だが、時間ぴったりに現れた女性を目にした瞬間、佐伯は考え
の甘さを思い知らされる。
﹁中川渚です。お久しぶりです、佐伯さん﹂
ぺこりと頭を下げた女性は、突っ立ったままの佐伯を見て戸惑っ
405
た様子になる。驚きのあまり、笑顔がひきつってしまった。
﹁あ、あのう⋮⋮佐伯さん?﹂
自信なさげな声で確かめた。佐伯はおずおずと見上げるその仕草
に、ハッと我に返る。そこには僅かながら少女の面影があった。
﹁や⋮⋮、久しぶりだね渚ちゃん。誰かと思ったよ﹂
佐伯は咳払いをひとつすると、すっかり大人に変身した彼女を、
落ち着いて眺めた。
髪は去年の春より長く、肩の上にさらりと垂れている。相変わら
ずの知的な顔立ちには化粧が施され、その唇の艶やかさは、少女の
ものではない。
だが⋮⋮
ホームに上がり急行の車両に乗り込む頃には、彼女の実際を見る
ことができた。
彼女の大人びた姿は、化粧や服装による一時の魔法によるもので
ある。まだ子供っぽさの残る輪郭やたどたどしい話し方から、分か
ってしまうのだった。
佐伯は内心、胸を撫で下ろしている。
俺の25という年齢に合わせて背伸びをしたのだなと思い、それ
こそ妹みたいに可愛くて、頭を撫でてやりたい気持ちになった。
渚はまだ18歳の少女なのだ。
﹁あの。すみません、私﹂
ひととおりの世間話を終えたあと、彼女は膝の上に置いた指を絡
めながら切り出した。
﹁何が?﹂
彼女の言おうとする事は推測できる。
しかしこちらから持ち出すのも気恥ずかしくて、車窓を流れる風
景を目に映したまま、佐伯はとぼけていた。
﹁付箋の事、本当にごめんなさい。あんな生意気な言葉を書いてし
406
まって、兄に頼んだ後、凄く後悔したんです。私みたいな子供が、
分かったようなことを﹂
佐伯の頭に、生真面目な文字が浮かんだ。
﹁その上、こんな風に無理やりお付き合いしていただき、いただか
れ⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁あ、あれ?﹂
思わず彼女に見向いた。
舌が上手く回らないのか、言い回しが分からないのか渚は言葉を
続けられず、みるみるうちに真っ赤になった。その様子があまりに
も素のままで、佐伯は微笑ましくなってつい声を出して笑った。
﹁スミマセン、あの⋮⋮変だな。何を言おうと思ったのかな私⋮⋮﹂
ますます恐縮する彼女の頭を、佐伯は笑みを残したまま撫でる振
りをした。渚はその仕草に驚き、心外な目で見返してきたが、観念
したように俯いた。
10代独特の、不器用な純情。
佐伯は新鮮な気持ちになると、思ったままを口にした。
﹁あの言葉、俺は嬉しかったよ﹂
渚は俯き加減で、目を瞬かせている。
佐伯は真面目な声で、そして優しく言葉を継いだ。
﹁感謝してるよ。ありがとう﹂
彼女はもう一度佐伯を見上げると、心からホッとしたように、安
堵の表情になった。
最寄り駅から球場までの道のりは徒歩10分ほど。公式戦の開幕
を喜ぶ野球ファンの浮き浮きした雰囲気が、歩道に溢れている。
407
途中、大きな公園を通り抜けた。桜並木が淡いピンクに染まって
いる。
﹁きれい⋮⋮﹂
うっとり呟いた渚に、佐伯も頷く。
満開ではない、綻び始めた風情がとてもきれいだ。柔らかな花び
らには希望の兆しが見え、隣で笑う少女の上にそのイメージを重ね
た。白いワンピースに薄紫のカーディガンが、若く瑞々しい素肌に
映っている。
﹁あの⋮⋮﹂
公園を抜ける頃、渚が声をかけた。無遠慮に眺めていた佐伯は慌
てて視線を逸らし、曖昧に誤魔化す。
﹁ああ、もうすぐ着くね。はは⋮⋮楽しみだな。久しぶりだよ、野
球を観るのも﹂
彼女はきょとんとするが、嬉しそうに微笑んだ。
﹁私、ドーム球場は初めてなんです。小さい頃は家族で古い球場に
出かけたけれど﹂
﹁へえ。じゃあ野球のルールは知ってる?﹂
﹁はい。中学の時はソフトボール部だったし、野球を観るのは好き
だから﹂
彼女の言葉に、佐伯は笑みを消した。
佐伯の初恋の女性も、中学でソフトボール部に所属していた。野
球部の佐伯とはグラウンドで頻繁にすれ違い、そのたびに目が合っ
たものだ。
その繰り返しの中、彼は彼女に関心を抱き、言葉は無くとも分か
り合えた。互いに好き同士だと。
やまべ さいこ
山辺彩子。
つい最近、何年ぶりかで再会し、気持ちが再燃したと思ったらす
408
ぐに失恋した。
初恋の女性。
佐伯は渚の横顔に目を当てた。背格好が彩子と同じくらいだと気
付く。
顔立ちは似ていないが、そういえば渚は素朴な女の子で、どちら
かというと好きなタイプだ。
﹁ゲートが見えてきましたよ﹂
彼女は春の陽射しの中、柔らかく微笑んだ。
付箋に書かれた言葉通りの温かな笑顔に、佐伯の胸は高鳴る。彼
は自分の単純さに呆れつつ、これは気のせいだと念じた。
﹁やっぱり生で観るのは違いますね!﹂
ドーム球場の立派さに感動した後、渚は野球ファンの少年に混じ
り、フェンスにしがみ付いた。アップするプロ選手の姿に釘付けに
なっている。
﹁本当に遠足の引率になってきたぞ﹂
佐伯は一塁側の内野指定席に足を組んで座ると、彼女のはしゃぐ
様子を見下ろした。ついさっき感じた胸の高鳴りはすっかり治まっ
ている。あれはやはり、ほんの気の迷いだったようだ。
微笑ましい眼差しで渚を見ながら、道すがらに聞いた彼女の話を
つらつらと辿った。
野球を観るのが好きというのは本当らしい。彼女は両チームの先
発メンバーを把握している。特に好きな選手は、出身校はもちろん
誕生日や血液型といった細かな情報までチェック済みである。
女性ならではのファン心理だなあと、佐伯は驚いた。
﹁もしかして、野球オタクかな﹂
苦笑しながらも、何となく嬉しい。
佐伯だけが目当てで球場デートするわけではない。同じ野球ファ
409
ンとして楽しい相手だと感じる。
何しろ彼女は”妹”なんだから、しっとりとしたムードになって
もしょうがない。
渚は隣に戻ってくると、興奮気味に報告した。
﹁ダッグアウトの近くまで行ったら××選手がちょうど出てきて、
こっちを向いたんです!﹂
﹁へえ、ラッキーじゃないか﹂
笑顔を見守りながら、懐かしさを感じる。
佐伯も子供の頃、父親に連れられてプロ野球を観戦した。プロの
選手を間近で見ては、こんなふうに興奮したものだ。
﹁友達に野球ファンはいない?﹂
﹁ええ。周りの友達は、皆サッカーファンなんです。だから球場ま
で来るのは久しぶりです。一人で観に来る度胸は無いから﹂
﹁それはまあ、そうだね﹂
ゲーム終了の時間は夜の9時や10時になる。ましてやこの子は
先月まで高校生だった。
﹁と言うよりも、本当は⋮⋮﹂
渚は佐伯をチラリと見て、ため息交じりにぼやいた。
﹁お兄ちゃ⋮⋮兄が許さないんです。デーゲームでも、一人で来ち
ゃ駄目だって言うんです﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
佐伯は納得した。中川の、妹の話をする様子を思い出せば、さも
ありなん。
﹁そうか。なら、今夜は楽しまなきゃね﹂
佐伯はズボンのポケットから財布を取り出すと、紙幣を抜いて渚
に持たせた。
﹁何か買って来なよ。腹、減ってるだろ﹂
410
渚はぎょっとして、返そうとする。
﹁そんな、自分で買いますから﹂
﹁いいんだ。チケットのお礼だよ。好きなもの買っておいで﹂
子供に言い聞かす台詞になるが仕方ない。実際にそんな気分なの
だ。
﹁すみません﹂
手の平に押し付けると、彼女は小さな声になり、大人しく言う事
を聞いた。
﹁あ、佐伯さんは?﹂
﹁俺はまだいい。軽く食ってきたから﹂
本当はビールの一杯も欲しかったが、未成年者と一緒なのでやめ
ておこうと思った。こんなところが堅苦しいと、会社の先輩達にか
らかわれる。
分かってはいるが、性分なんだからどうしようもない。
渚は階段を上がりかけ、一度何か言いたげに振り返るが、佐伯に
会釈をすると売店に向かった。
開幕セレモニーに続いて始球式が行われると、ようやくプレイボ
ールだ。
﹁さあ、始まるぞ﹂
佐伯が身を乗り出して言うと、渚もわくわくした表情でグラウン
ドに集中した。
1回の裏からホームチームのリードが続き、球場は地元ファンの
声援で大いに盛り上がる。佐伯普段から落ち着いた観戦態度だが、
渚は意外にも派手に喜んだり悔しがったり、感情を露わに応援して
いる。
大人しい彼女も好感が持てるが、元気いっぱいの姿もそれはそれ
で魅力的だ。
411
佐伯はしばしば試合を忘れ、見惚れたりした。
試合は中盤から、相手チームに盛り返されクロスゲームの様相を
呈してきた。だが最後には再び引き離し、ホームチームの勝利に終
わった。
面白いゲームだった。
﹁楽しかったですね﹂
佐伯を見向く渚の顔は明るく、年相応に屈託が無い。
﹁ああ、見応えがあったな﹂
来て良かったと、佐伯は胸の内で呟く。そして、もう帰らなきゃ
と思った時、ふと物足りないような気がして、強く頭を振った。
︵妹だ、妹︶
呪文のようにブツブツ言うと、渚の前に出て歩いた。
彼女は佐伯のがっしりとした背中を頼りについて歩く。一見する
と、本当の兄妹のような二人である。
﹁渚ちゃん、はぐれないように⋮⋮﹂
ゲートに向かう途中、人が集中する場所で佐伯は振り向き、びっ
くりする。困惑顔の渚が人波に呑まれていた。
﹁渚ちゃん!﹂
酔っ払った客や、試合結果に感情が高ぶったのか興奮して喚く客
もいる。
佐伯は慌てて腕を伸ばして彼女の手を取ると、自分の身体に引き
寄せて庇った。
﹁すみません﹂
蚊の鳴くような声で言うと彼女は俯き、佐伯に守られて出口に進
んだ。
彼女の頬が紅く染まるのを見て、佐伯は戸惑ったが仕方ない。
412
︵何かあっては中川に申しわけが立たないだろ︶
自分に言い訳し、歩きやすい場所に着くまで彼女をガードした。
思わぬ触れ合いがあったためか、帰り道の渚は変に大人しい。
佐伯が試合の感想など話を向けるのだが、面映そうに彼を見上げ
ては、頷くばかり。
公園を抜ける時、桜の花弁がひとひら、二人の前を斜めに下りて
いった。その行方を目で追いながら、渚はぽつりと口にした。
﹁楽しいことって、待ってる間は長いのに⋮⋮﹂
最後のほうは聞き取れないが、佐伯には何を呟いたのか分かる。
だが返事の仕様が無く、ただ人の流れに乗り、
︱︱この子を無事に送り届けよう。
それだけを考えていた。
413
4
N駅に戻ったのは午後10時を回った頃。
家まで送るという佐伯の申し出に、渚は一瞬夢見る表情になるが、
すぐに俯いた。
﹁向こうの駅に、兄が迎えに来てますから﹂
﹁そ、そうか﹂
佐伯はふと湧いてくるものを押さえると、落ち着いた声で言った。
﹁今日はありがとう。本当に面白いゲームだったし、来て良かった﹂
渚は顔を上げた。目元が潤んでいるのが分かり、胸を突かれる。
だがそれは表に出さない。
﹁なあ、渚ちゃん﹂
コンコースはこんな時間になっても人の流れが絶えず、ざわめい
ている。それは佐伯には有難かった。
﹁俺は君が思ってるような、たいした男じゃない。年上だから、少
しは頼もしく見えるかもしれんけど、実際はどうってことの無い⋮
⋮一年に二度も振られるような情けないやつなんだよ﹂
渚はかぶりを振っている。だが、佐伯は構わず続けた。
﹁君はこれから大学に行って、社会に出て、様々な人間に出会うだ
ろう。人を⋮⋮男を見る目を養っていかなきゃならない。こんなオ
ジサン、相手にしてる場合じゃないよ﹂
親指で自分の胸を指すと、明るく笑った。
渚は黙って見上げている。
﹁付箋の言葉、心しておくよ﹂
真顔で告げる佐伯に、彼女は観念したように頭を垂れた。
﹁はい⋮⋮大丈夫です。私はただ、佐伯さんに元気になってもらい
たかった。最初からそれだけのつもりだから、十分です。デートし
414
てもらえただけで、これ以上ないくらい、もう、十分に幸せ﹂
か細い震え声に、佐伯は何も応えられず突っ立っている。まるで
彼女をいじめているような、居心地の悪さに責められながら。
﹁でも、これだけ聞いてください﹂
渚は再び顔を上げると佐伯の目を見つめた。彼女の瞳は澄み切っ
ている。
﹁佐伯さんは素敵な人です。引越しのお手伝いをした日、たった一
日だったけど、私、分かったんです。優しくて、頼りになって、明
るくて爽やかで⋮⋮あなたと一緒にいると、私、幸せな気持ちにな
れるって、分かったんです﹂
濁りのない瞳には、どんな腕力も太刀打ちできない力がある。
純粋な告白に佐伯は気圧され、同時に感動した。
だがやはり、それは内側に封じ込める。見せてはいけない。期待
させてはいけない。
﹁私も楽しかったです。今日は本当にありがとうございました⋮⋮
さよなら!﹂
応えようとしない佐伯に渚は慌しく礼をすると、一刻も早くこの
場を立ち去りたいように、小走りで改札を抜けて行く。
佐伯はその場から動けず、後姿を見送った。やがて、さよならを
言えなかったことに思い至ると、激しい後悔の気持ちを抱え込んだ。
後悔は、夜の11時に帰り着いたアパートまでついてきた。
渚の濡れた瞳と悲しい声音が、時間が経つほど鮮明に蘇り、佐伯
の心を沈ませた。
﹁いや、これでいいんだ﹂
独りごちると、熱いシャワーを浴びた。だが、後悔の念は洗い流
415
せず、冷たいビールを呷っても頭は更に重たくなるばかりで、眠れ
そうにない。
︵俺は結局、あの子を傷つけただけ︶
目を逸らしたい事実にやっと向き合うと、テレビのスイッチを入
れてスポーツニュースにチャンネルを合わせる。開幕戦の模様が流
れてくると、今夜の記憶が自然に再生された。
N駅で彼女と再会し、球場までの道を並んで歩いた。初めてのド
ーム球場に彼女ははしゃぎ、試合の展開に興奮していた。
︵そうだ、それから⋮⋮︶
試合の後、混み合う通路で酔っ払いや荒っぽい客からガードした
こと、そして⋮⋮さよならも言えず、別れたこと。
︵俺は彼女の気持ちを分かっていながら、まだほんの子供だからと
甘く見て、兄貴気取りで付き合った。失恋の辛さがどんなものか知
っているはずなのに、それと同じ痛みをあの子に与えてしまったん
だ︶
﹁ああ!﹂
膝の間に顔を埋め、佐伯は吼えた。
﹁どうして俺はこうなんだ!﹂
︱︱佐伯さんは素敵な人です
︱︱優しくて、頼りになって、明るくて爽やかで
︱︱あなたと一緒にいると、私、幸せな気持ちになれるって、分
かったんです
渚の告白が彼の中でこだまし、彼をますます恥じ入らせる。
416
︵もしかしたら俺は、二度の失恋で失った自信を、彼女と付き合う
ことで回復させようとしたのかもしれない︶
そう思い始めたら、それが真相としか考えられず、深い自己嫌悪
に陥った。
︵こんな俺に好意を持ってくれたことが嬉しくて⋮⋮︶
大きな体で畳の上にひっくり返る。
今夜は浮上できそうにない。
寝そべったまま窓の外へ目をやると、それからはずっと渚のこと
を考えていた。
月曜日︱︱
朝礼会場で中川と顔を合わせた。
何か言いたそうな顔で近付いて来たが、佐伯の目の下にくまを見
つけると口をつぐみ、パシッと肩を叩いた。
﹁昼メシに付き合え﹂
ぶっきら棒な誘いに、佐伯は頷くほかない。外で一緒に食べるこ
とにした。
中川が指定したのは国道沿いのビュッフェレストラン。
二人はパスタやサラダ、スープをトレイに載せると席に着いた。
﹁お前って本当に不器用だよな﹂
﹁⋮⋮すまない﹂
中川と向き合うと、頭を垂れて謝った。渚の兄である中川に、ま
ずこの言葉を伝えなければと、昼前中ずっと考えていた。
中川は横を向くと、小さくため息をついた。
417
﹁土曜の夜⋮⋮駅に迎えに行った時、あいつはぼうっとして、俺に
気付かないまま通り過ぎた。あんな渚は初めてだ﹂
佐伯は顔を上げた。後悔が再び胸に広がり始める。
唇を噛むと、﹁すまない﹂と繰り返した。
中川は返事をせず、フォークを取るとパスタを頬張り始めた。
黙々と食べる姿は、何か考えている風にも、怒っている風にも佐
伯には映る。皿の上があらかた片付くまで、目も合わせなかった。
食べ終えた皿を脇へ押しやると、中川はコップの水をグイと飲み、
じっと注目する佐伯を見返した。
﹁ガキの頃から俺のあとばかり付いて歩いてお兄ちゃんお兄ちゃん
って⋮⋮俺の姿が見えないと泣いてたあいつなのに、全くのシカト
だったよ﹂
ナフキンで口もとを拭うと、兄としての感情を漏らした。
﹁俺はショックだった。どうして、お前にデートなんて頼んだのか
と、後悔した﹂
佐伯は一言もない。何を言われても仕方ないと思っている。
﹁渚はいつの間にか大人になってる。もう、俺じゃどうしようもな
い﹂
中川は鼻をすすった。気のせいか、涙ぐんでいるようにも見える。
佐伯は暫し状況を忘れ、目の前にいる兄という存在を、未知な生
き物でも見るように眺めた。中川はその視線に気付くと慌てたよう
に姿勢を正し、お前も早く食えと促した。
﹁とにかくだ。あいつの気持ちはお前に十分伝わったと思う。だが、
どうにかしてくれとはやっぱり言えない。俺からは言えやしない。
いや、正直なところ今朝までそのつもりだったが、お前も随分ダメ
ージを受けてるのが分かったから﹂
そう言いながら、目の下を指でなぞる。
418
﹁無理にとは言わない。ただ、教えるだけだ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
佐伯はきょとんとしてフォークを置いた。
今のはちょっと分かりづらい。
﹁つまり、あれを見てくれ﹂
中川が行儀悪くフォークで指す方向に、佐伯は顔を向ける。
窓の外は国道が走っており、その向こうに大きなスポーツ用品の
店が建っている。
﹁中川⋮⋮﹂
﹁妹はあそこで土日と、月木の夕方にバイトしてるよ﹂
﹁中川、もうよそう﹂
佐伯は強く言った。もうこれ以上彼女を傷付けるのは嫌だし、自
分も耐えられないと思うからだ。
だが、中川は真剣な眼差しを寄越す。
﹁見てられないんだよ。俺の大事な妹なんだ﹂
だからこそ冷静になれと佐伯は言いたかったが、兄の潤んだ目も
とに妹の涙が思い起こされ、言葉を呑み込んでしまう。身内の愛情
には敵わない。
目を閉じて、頭を横に振った。
﹁結局同じ事の繰り返しになる⋮⋮俺は嫌だよ﹂
﹁それでもいい﹂
殆ど感情だけの言葉に思わず瞼を開くと、情けなく歪む男の顔が
目の先に迫っている。
﹁お、おい﹂
ぎょっとして身を引く佐伯の手を乱暴に掴み、中川はテーブルの
上で握りしめた。
﹁頼む⋮⋮っ。好きなんだよ、大好きなんだよお前を!﹂
その必死な大声は店中に響き渡り、女性客らが一斉にこちらを注
419
目する。
静まり返った店内に、中川の荒い鼻息だけが聞こえた。
佐伯はその怪しげな状況にかあっと赤くなり、いたたまれずに席
を立った。
﹁誤解されるだろ、馬鹿﹂
レジに歩きながら、ヒソヒソ声で中川を責めた。さすがに中川も
ばつが悪そうにして、クスクスと笑いが漏れるテーブルの間を縫い、
速足で進んだ。
店を出ると、午後1時をまわっていた。
二人は駐車場にとめたそれぞれの車に乗り込むと、互いに窓を下
げる。
﹁俺は信じてるぞ!﹂
中川が怒鳴るように言い、佐伯は心底困った顔になるが返す言葉
が無い。
﹁信じてるからな!﹂
もう一度ダメ押しすると、返事を待たず車を発進させた。
遠ざかるエンジン音を聞きながら、佐伯は疲れたようにハンドル
に凭れ、スポーツ用品店の看板に悩める眼差しを向けた。
420
5
どうしたわけか、今日に限って仕事が早く終わった。
佐伯は帰り支度を整えると、デスクに頬杖をついて考え事をする。
しばらくすると立ち上がり、さて帰ろうとした時、事務員の女性が
二人フロアに入って来た。総務部の社員である。
苦手な人物の登場に、佐伯は反射的に反対側のドアへと向かう。
ところが⋮⋮
﹁あっ、佐伯さ∼ん。ちょっといいかなあ﹂
いつもの、からかいのニュアンスを含む声で呼び止められた。
フロアに居合わせた同課や営業の男達が、何事かと注目する。佐
伯は諦めたように振り向くと、駆け寄ってくる彼女達を待った。
同僚らの前で﹁かわいがる﹂のは真面目に勘弁してほしい⋮⋮と、
内心穏やかでない。
﹁⋮⋮何でしょうか﹂
警戒しながら用向きを尋ねる佐伯に、彼女らはにこにこと笑う。
髪型や化粧がそっくりで双子のように見える。
﹁佐伯さんって、足が速いそうですね﹂
﹁はい?﹂
予期せぬ事を訊かれた。
﹁今度、運動会があるじゃないですか。社員とその家族で参加する、
大運動会!﹂
そういえばそんな行事が催されると朝礼で聞いた。会社の運動会
など全国的にすたれた行事だったが、最近は社員のコミュニケーシ
ョンをはかる目的で見直されてきたらしい。わが社もそれに乗っか
ったのだな⋮⋮と、思い出しながら佐伯は頷く。
﹁是非、リレーの選手に立候補してもらえませんか。支店代表で﹂
421
なんだ、そんなことかと安堵した。緊張が解け、思わず笑みが浮
かぶ。
﹁いいですよ。俺でよければ﹂
二つ返事で了承した。
﹁⋮⋮﹂
だが彼女達は、彼の顔に目を当てたまま無言でいる。
﹁あの?﹂
何だか嫌な予感がする。妙な間合いに、佐伯は再び警戒心を持っ
た。
﹁ほら、ね。やっぱり!﹂
﹁ホントだ。うふふふ﹂
彼女達はクスクスと笑い、囁き合っている。
無礼な態度に、さすがの佐伯もムッとするが彼女達は無頓着だ。
﹁では後日、プログラムと一緒に詳しい競技内容をメールしますの
で、よろしくお願いしま∼す﹂
明るく言い置くと、軽やかにフロアを立ち去った。一人残された
佐伯は恰好がつかず、しらけた空気の中、ぎこちなく挨拶してから
廊下に出た。
︱︱ほら、ね。やっぱり!
︵どういう意味だよ。やっぱりって⋮⋮︶
佐伯は意気を削がれた。
ついさっき決めた、渚に会いに行くという気持ちを、今の出来事
が萎えさせてしまった。
︵そうだ。俺はやっぱり、あの子が考えているような男じゃない︶
社屋を出ると、既に空は薄暗い。夜になりかけの半端な色が、佐
422
伯の冴えない表情をますます沈ませる。社員用駐車場にとめてある
自分の車に乗り込むと、息をついた。
そして、彼女に会い、きちんと言わねばと心に言い聞かせた。
先ほどの出来事の前まで、こう思っていた。
﹃俺をもっとよく知ってほしい。その上で、それでも君の気持ちが
変わらなければ⋮⋮﹄
だが今や彼の心は、真っ白な壁にぐちゃぐちゃな色を混ぜたペン
キを塗りたくられたように乱れ、汚されている。
だから、昨夜忘れていたあの言葉しか、もう出て来ない。
︱︱さよなら。
俺のことはきれいさっぱり、君の中から消してくれ。
shop
ASSIST
佐伯はためらわず国道に出ると、彼女のいる場所へと車を走らせ
た。
sports
広い駐車場に車をとめると、佐伯はフロントガラス越しにスポー
ツ用品店を見上げた。店と言うより、大きな倉庫のような建物だ。
今日のこの時間、渚がアルバイトをしているはずだ。ハンドルを
握ったまま頭の中で、伝えるべき言葉を繰り返した。
︵俺のことは忘れてくれ⋮⋮さよなら︶
﹁よし﹂
小さく気合を入れて、車を降りた。とにかく、けじめをつけなけ
ればいけない。
暗くなった空から、冷たいものが落ちてきた。遠くでゴロゴロと
423
低い音がしている。
﹁雷か﹂
佐伯は呟き、遠くの空が光るのをしばらく眺めていたが、本降り
になってきたので店舗入り口へと駆け出した。自動ドアの前で上着
についた雫を払い、明るい店の中を一度覗いてから、思い切ったよ
うに足を進める。
﹁いらっしゃいませ!﹂
威勢の良い声が飛んできた。駐車場も空いていたが、売り場も客
の姿はまばらで、ライムグリーンのポロシャツを着た店員達の数も
少ない。
渚を見つけるのはたやすいだろう。
佐伯はキョロキョロしながら奥へと足を運び、彼女を探す。胸が
ドキドキするのが妙だった。
案に相違し、なかなか渚の姿を捉えられない。
もしや今日は休みなのではと思った時、野球用品のコーナーで、
ふと目に入ったものがある。二塁手・遊撃手用の、限定モデルのグ
ローブだ。
昨年の秋に発売されてから、ずっと気になっている商品だった。
手に取ってみようとして、
﹁いや、こんな事をしている場合じゃない﹂
本来の目的を優先させねばと前を向いた。
﹁それ、おすすめですよ﹂
歩き出そうとする彼の背中に、声がかかる。低い、男の声だ。
振り返ると、ワイシャツにネクタイを締め、グリーンのエプロン
みずしま
をつけた男性がにこやかに笑みを浮かべ立っていた。
ネームプレートを見ると、店長・水島と印字されている。
﹁革の感触がとてもいいですよ。どうぞ﹂
﹁いや、俺は⋮⋮﹂
424
遠慮する佐伯の手に、グローブが渡された。
物腰の柔らかそうな男性だが、有無を言わせぬ強引さが感じられ
る。佐伯は仕方ないといった顔で左手にはめてみたが、その途端、
おやっと目を丸くする。
﹁いいですね﹂
﹁でしょう?﹂
﹁使い込めば、かなりフィットしそうだ﹂
笑顔を見せる佐伯に店長は頷くと、ニコニコした顔のまま思わぬ
言葉を続けた。
﹁女性もそうですよ﹂
﹁えっ?﹂
佐伯は暫し考え、その意味をあるたとえだと解釈し、戸惑った反
応をした。
﹁あ、これは失礼! 今のは語弊がありそうですね。使い込めばと
言うのはつまり、知れば知るほど⋮⋮ってことです﹂
店長は慌てて言い直し、ばつが悪そうに頭を掻いた。だが、笑顔
なのは変わらない。
﹁あのう、もしかしてあなたは⋮⋮﹂
色浅黒く精悍で、がっしりとした体格のその店長に、佐伯は閃く
ものがあった。
﹁プロ野球経験者では﹂
この人は渚に開幕戦のチケットをくれたという人物ではと考えた。
そして、今の例え話は⋮⋮
﹁やっぱり、渚さんから聞いたとおりの青年だ﹂
店長は佐伯の目線より10センチばかり上から見下ろし、微笑を
消した。
この人は事情を知っている。どの程度までか分からないが、とに
425
かく佐伯は渚がどこにいるのか訊いた。
﹁今日は彼女、お休みです﹂
﹁休み⋮⋮﹂
佐伯の瞳が曇ったのを見て、店長はかぶりを振った。
﹁あなたのせいではありません。もともと今日は学校の都合で休み
が取ってあります﹂
ほっとすると同時に、どうしてこの人が事情を知っているのか、
疑問の目を向ける。すると彼は察したように、自ら答えをくれた。
﹁開幕戦のチケットを渚さんに渡したのは出入りの業者さんで、僕
じゃありません。でも、間に入ったのは僕ですからね。試合はどう
だったと、気になって連絡してみたんです﹂
店長はグローブを棚に戻すと、改めて佐伯を眺めてきた。それは
不躾な視線であり、だが嫌味に感じられない親しみが込められてい
る。
﹁僕は、人の恋愛話が大好きで﹂
30は過ぎているだろう店長は、いたずらっぽい笑みを浮かべる
と、嬉しそうに教えた。
﹁無理に聞き出したんです。興味本位のみならず心配でしたからね。
大事なアルバイトさんが、おかしな男に引っ掛かってるんじゃない
かと﹂
﹁はあ﹂
そういうわけなら恰好をつけても仕方が無い。佐伯はようやく警
戒心を解き、肩の力を抜いた。
﹁俺は謝りに来たんです。渚ちゃん⋮⋮彼女を結果的に傷つけてし
まったから﹂
﹁それで?﹂
﹁は?﹂
ぽかんとする佐伯に、店長は追及してきた。
426
﹁謝って、それでどうするつもりです。もう、傷付けたくないから、
これ以上会わないほうがいいと、そんなことを言うつもりじゃない
でしょうね﹂
佐伯はぎょっとして、店長を見返す。
﹁あなたは⋮⋮佐伯さんっていいましたね。佐伯さん、年長者から
忠告です。つまらない事に拘ってると、一生手に入らなくなります
よ﹂
﹁つまらない事?﹂
﹁僕には分からない。あなた自身が知っている事です﹂
水島は棚のグローブを目で指した。
﹁これはね、在庫がもうこれしかありません。メーカーに問い合わ
せても品薄でしょう。限定品ですからね﹂
自分が求めていた、イメージ通りの感触を持つグローブを見つめ
た。俺には贅沢品かもしれないと、購入するのをずっとためらって
いた。
﹁アルバイト仲間や従業員にも、彼女をいいなと思っている男はい
ますよ﹂
弾かれたように視線を戻す佐伯に、店長はさらに言葉を継ぐ。
﹁僕もその一人ですが⋮⋮﹂
勝負を挑むような目つきに、佐伯は無意識に呼応していた。
﹁下さい、そのグローブ。今、頂いて帰ります﹂
427
6
店を出ると、外は大雨が通り過ぎたあとだった。
そういえば雷鳴が聞こえていたなと佐伯は思い、星の瞬く夜空を
仰いだ。
︵春雷が晴天を呼んだのかもしれない︶
アパートに帰るとすぐ、渚に電話した。
大事に大事に、励ますように、慰めるよう
彼女と話す間、佐伯は膝の上に置いた真新しいグローブを、ずっ
と撫でさすっていた。
に。
﹃お兄ちゃんたらもう⋮⋮今日は休みだって言っておいたのに﹄
渚は怒ってみせるが、その声は殆ど照れ隠しに聞こえる。兄に甘
えているのだなと佐伯は想像し、少しばかり中川を羨ましく感じた。
﹁それで、さっきの話。今度の日曜なんだけど﹂
﹃もちろん、空いてます!﹄
﹁アルバイトは?﹂
﹃あ、その日は夕方からなので、大丈夫です﹄
﹁そうか。バイトは休んじゃ駄目だぞ﹂
﹃えっ?﹄
佐伯は一人微笑むと、頭上に掲げたグローブに店長の顔を重ねた。
﹁とにかく、楽しみにしてる﹂
それから︱︱
佐伯は渚と二回デートをした。
428
一回はピクニックで、遠くの公園に電車で出掛けた。もう一回は
雨降りだったので、映画を観に行った。デートには車を使わず、そ
の代わり移動時間は彼女とゆっくり話をする。俺をもっとよく知っ
てほしいという気持ちが強く、そして渚の事もよく知りたいと思っ
た。
渚は好ましいタイプの女の子⋮⋮いや、女性だと、佐伯はデート
のたびに再認識する。年の差などもはやどうでもよく、彼女を妹と
して見るのは止めにした。
渚と付き合い始めた佐伯に、実の兄は涙を流さんばかりに感謝し
た。
﹃しかしお前、どうしてその気になったんだ?﹄
きっかけを作ったのはASSISTの店長だと話すと、中川は深
く納得する。
﹃水島さんは子連れやもめだよ。奥さんが下の子を生んでまもなく
病気で亡くなられてね。あの通り若々しいし男前だし、女にモテる
んだけど、再婚はしないらしい。まだ小学生の男の子が二人いて、
彼らの許しが無い限り誰とも一緒にならないんだってさ﹄
﹃へえ⋮⋮﹄
﹃少しばかりお喋りだけど、面倒見のいい人だぞ﹄
二回目のデートの日、映画館を出た後、駅ビルの喫茶店でコーヒ
ーを飲んだ。
雨の雫がガラス張りの街を幻想的に見せている。オルゴール曲が
流れる店内で、二人はゆったりとした日曜の午後を心地良く感じて
いた。
今日の渚は何だか大人びて見える。落ち着いた服装や、結い上げ
た髪型のせいだろうか。
佐伯は頬杖をついて、それとなく彼女を眺めた。
429
ふと店長の話題になり、佐伯が中川から聞いた話をすると、渚は
それに補足した。
﹁でも、本当はもうひとつ理由があるんです﹂
﹁もうひとつの理由?﹂
﹁はい。私が佐伯さんとのいきさつを話した後、店長は﹃それじゃ
僕の秘密も教えよう﹄と言って、こっそり聞かせてくれたんです﹂
﹁そ、そう﹂
店長は渚から事情を無理に聞き出したと言った。代わりに自分の
秘密を教えるなんて、結構フェアな人だと佐伯は思う。
﹁どんな美人とお付き合いしても、若い女性とデートしても、いつ
も妻が心の底に居て、どうしても家に帰ってしまうんだ﹂
渚は水島店長の言葉遣いを真似て、佐伯の目を覗きこむようにし
て言った。その仕草にどきりとするが視線は逸らさない。
﹁⋮⋮亡くなられた奥さんが、心に?﹂
﹁はい。それに、息子さんは二人とも奥さんにそっくりだそうで、
なおさら忘れられないのかも⋮⋮﹂
﹁そう﹂
雨が小降りになり、窓の外が明るくなってきた。
﹁奥さんを愛してるんですね。今でも⋮⋮﹂
渚は呟くと、冷めてしまったカップの中身を、大事そうに口に含
む。陽射しに照らされ、陰影を濃くした彼女の姿は本当に大人びて
見えた。
︵愛してる、か︶
喫茶店を出ると、そのまま駅のホームへ二人で上がった。すっか
り晴れ上がった明るい空のもと、佐伯は大きく伸びをすると、傍ら
にいる彼女を眩しげに見やった。
430
﹁ど、どうかしましたか?﹂
じっと見つめられ、渚は困ったように目を泳がせた。
﹁中川の言ったとおりだ。渚ちゃんは、いつの間にか大人になって
る﹂
﹁大人⋮⋮って、私がですか?﹂
﹁そう。君とデートして、よく分かった。渚ちゃんはどうかな﹂
俺をどう思うか。最初に抱いたイメージどおりか、それとも違っ
ていたか。
唐突な質問に渚は驚いている。返事を急かすように、電車到着の
アナウンスがホームに響きわたった。
﹁えっと、私﹂
﹁うん﹂
﹁あのう⋮⋮﹂
﹁?﹂
かなり言い難そうにしている。
佐伯は妙な胸騒ぎを覚え、鼓動が速くなった。
︱︱ほら、ね。やっぱり。
佐伯の脳裡に、女性社員の冷やかす顔がよぎった。だがそれも瞬
きの間で、彼の視界には渚のみが存在している。
﹁渚ちゃん、はっきり言ってくれ。俺は大丈夫だから﹂
﹁は、はいっ﹂
渚は戸惑いながらも見返し、答えをくれた。
﹁佐伯さんは、私が思ったとおりの佐伯さんです。私の大好きな⋮
⋮ううん﹂
途中まで言うと、手を口もとに当てた。迷いつつも真剣な表情で
言葉を探している。
アナウンスが大きく響く。渚は背中を押されたように、緊張の面
431
持ちで待つ佐伯に告げた。
﹁私、あなたが愛しい﹂
車両が入ってきた。
佐伯はぼけっとしている。
ドアが開くと、渚は逃げるように乗り込んだ。
﹁あ、渚ちゃん﹂
彼女は空いた席に座るとチラリとこちらを見たが、佐伯が窓を覗
き込むと俯いてしまった。
ドアが閉まり、電車は動き出す。
あっという間に、彼女は連れ去られて行った。
佐伯はようやく理解した。
彼女がくれた付箋の言葉に、自分が感じたこと。
それが愛情だったことに。
ゴールデンウィークに入ってすぐ、社内運動会が催される。
その前日、佐伯はスポーツショップASSISTに出掛けた。ラ
ンニングシューズの靴紐を買うためだが、目的はもちろん渚である。
映画デートからこっち、互いに忙しくて会えずにいる。また、何
となく照れくさくて、電話もしていない。渚も同じ心境なのか、連
絡がなかった。
そうなると不思議なもので、無性に会いたくなる。
だが、店内を一周しても渚の姿は見当たらない。
﹁変だな。倉庫にでもいるのかな﹂
きょろきょろ見回していると、後ろから呼び止める者があった。
432
︵えっ⋮⋮?︶
佐伯は最初、気のせいだと思った。正確に言うと、気のせいだと
思いたかった。
﹁佐伯君﹂
もう一度呼ばれた。
覚えのある声だ。
︵まさか︶
佐伯は射られたように足を止めると、そうっと振り向いた。
﹁驚かせてごめん。声掛けるの、迷ったんだけど⋮⋮﹂
本当に驚いた。ぎこちない笑顔を浮かべ立っていたのは、もう二
度と会わないと思っていた初恋の女性⋮⋮山辺彩子だった。
﹁⋮⋮な、何でここに?﹂
よしき
目を丸くする男に、彼女のほうも困惑顔になる。
﹁あの⋮⋮私、良樹に頼まれて買い物を﹂
言いかける彩子を、佐伯は慌てて周囲を見回してから棚の陰に引
っ張った。やましい事は何も無いのだが、渚に二人でいるところを
見られたくない。
﹁あっあの、佐伯君?﹂
彩子はますます困惑している。佐伯の慌てぶりはそれほど大げさ
だった。
山辺彩子︱︱どうしてまた会ってしまうのだろう。
同じ地域に住んでいるのだから不思議ではないと思いつつ、激し
く気まずい。
額とはいえキスをした相手に、もう一度向き合うことになろうと
は。
433
佐伯は赤面しながら、あらためて彩子を見下ろす。
そして、少しばかり動揺した。
前よりも、さらに女らしくきれいになっている。
﹁原田さんに頼まれたって⋮⋮それ?﹂
佐伯は動揺を隠し、彩子の買い物かごを指さす。
﹁うん、空手用のサポーター。この辺りではアシストしか武道用品
を扱ってないからって。実は今、良樹の家に行く途中なの﹂
︵そうか。だからついでに寄ったわけか︶
そういえば、二人は婚約した頃だ。家の行き来も頻繁なのだろう
と、佐伯は冷静に想像する。
﹁何だよ。じろじろ見て﹂
彩子がやけに注目するので、佐伯はぶっきら棒な口調になった。
﹁うふ﹂
﹁何だよ﹂
﹁ううん、ちょっとね。この前良樹が言ってたこと、思い出して﹂
﹁原田さんが?﹂
いらっしゃいませ∼!
店の入り口から客を迎える声が聞こえ、佐伯は思わず振り返った。
︵渚の声だ!︶
﹁⋮⋮どうかしたの?﹂
急に落ち着きをなくした佐伯に、彩子はきょとんとしている。
﹁いや、何でも⋮⋮それで、原田さんが何だって?﹂
﹁えっと﹂
﹁何だって? 急げ、山辺﹂
﹁う、うん。あのね、良樹が﹂
﹁良樹が?﹂
434
焦るあまり、呼び捨てにしている。顔は入り口のほうへ向けたま
まだ。
彩子は首を傾げたが、佐伯に釣られるように早口で教えた。
﹁佐伯は良い男だって﹂
さっと、彩子のほうを向いた。
﹁何だって?﹂
﹁佐伯君の事、良樹はすごく褒めてる。そうそう、こんな事も言っ
てたよ﹂
彩子はいたずらっぽく笑った。
﹁俺が女だったら惚れてる﹂
﹁はあ?﹂
まさかと思った。
﹁原田さんが俺を? あの人こそ俺よりもずっと大人で、ずっと良
い男じゃないか﹂
彩子は首を振ると、唇に指を立てた。
﹁こんなこと話したら良樹に怒られちゃう。内緒だよ﹂
﹁山辺⋮⋮﹂
いらっしゃいませ∼!
渚の声が響きわたる。やけに大きな声だ。彩子と向き合ったまま、
こんな声も出せるのだと彼は驚いている。
﹁じゃあね、佐伯君。また会えるといいね﹂
﹁う、うん。原田さんにもよろしく伝えてくれ!﹂
明るく笑う彩子に佐伯も笑みを返し、立ち去る姿に手を振った。
再会の気まずさなど霧消し、とても爽やかな気持ちになっている。
ありがとうございました∼!
435
渚の声。
店を出る彩子を見送ったのだ。
﹁ありがとう⋮⋮﹂
愛情と希望が彼の心を照らし、満開の桜が世界を彩った。
436
6︵後書き︶
︳︶>
続きは11月20日以降に投稿します。よろしくお願いします<︵
︳
437
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n2554cc/
フローライト
2014年11月10日21時31分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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