年、学生を中心とした反シャ-、反政府運動が激化、外国人は避難開始

1978 年 、学 生を 中 心と した 反シ ャ- 、 反政府 運動 が 激化 、外 国人 は避 難開 始
1979 年 、 シ ャ - 一 家 は エ ジ プ ト へ 亡 命 、 そ の 後 シ ャ - は 癌 が 発 見 さ 、 そ の 治 療
のためアメリカに渡り治療に専念した。ところがイラン国民はシャ-の引き渡しを
求 め て 連 日 ア メ リ カ 大 使 館 前 で デ モ を し て い た が 、 11 月 4 日 、 学 生 の う ち イ ス ラ
ム法学校の学生が大使館に雪崩込み、大使館を占拠、外交官、職員、警備の海兵隊
員 と 家 族 52 人 を 人 質 に 立 て 籠 も り 、 シ ャ - の 身 柄 引 き 渡 し を 要 求 し た 。
外交関係に関するウィ-ン条約によって接受国(大使館所在当該国)は、私人に
よる公館への侵入・破壊及び安寧・威厳の侵害を防止するために適当な全ての措置
を 執 る 義 務 を 負 う ( 同 法 22 条 2 ) の 規 定 に 反 す る こ と 明 ら か で あ る が 、 シ ャ - が
亡 命し たイ ラン 政府 は 大使館 の占 拠 に対 処す るど ころ か 支援の 態勢 にあ っ た。
アメリカ政府、ジミ-・カ-タ-大統
領は軍事作戦による人質奪回作戦「イ-
グ ルク ロ- 作戦 」を 発 令、 1980 年 4 月 25
日 ~ 26 日 、 作 戦 は 実 施 さ れ た が ヘ リ コ
プ タ- RH-53D
シ - スリ オンが 故障 、 そ
の 上 C-130 輸 送 機 と ヘ リ が 接 触 し 、 隠 密
裏に挙行された作戦は、イラン側が気付
く前に自滅的な事故で消滅してしまっ
た。
これはイラン高原独特の砂嵐で視界状態が零状態になり、かつ
ヘリのロ-タ-に砂塵が入り故障したらしいが、砂塵が凄まじい
のは作戦参謀であれば承知しているはず、万全の準備をしたのだ
ろ うに 初歩 的な ミス で 自滅し た。
軍事力による救出作戦を諦めたアメリカはシャ-をパナマへ出
国 さ せ 、 最 終 的 に 辿 り 着 い た エ ジ プ ト・ カ イロ の病 院に 入院 し たが 1980 年 7 月
失意のままシャ-は死亡した。
またカ-タ-大統領は選挙に落ち、共和党のドナルド・レ-ガンが大統領に就任
引き 続き 交渉 は継 続 し、仲 介す る 国が あり 、 1981 年 1 月 20 日 、 人質 解放 に合 意
し 444 日 振り に解 放さ れた 。
しか し 、この 間 1980 年 9 月 22 日 、イラ ク 空軍 機が イラ ン領 内の イ ラン空 軍基 地 10
ヶ 所を 同時 攻撃 、地 上 軍も侵 攻し た 。
元々イラン・イラク両国の関係は石油の積み出し港であるシャットル・アラブ河
の領有権を巡ってしばしば紛争があり、さらに中東の政情を複雑にしているのはイ
スラム教内のシ-ア派とスンニ派の歴史的対立、ペルシャとアラブの歴史的対立、
こ れ ら が 複 雑 に 絡 み 合 っ て い る の が 中 東 の 歴 史 で あ っ て 、 IJPC の 計 画 は こ の 複 雑
な中東の歴史を軽く観たのか、気付かなかったのか、失敗の原因は石油の確保だけ
が 全て だっ たの か、 残 念なが ら無 残 すぎ る撤 退で あっ た 。
イラ ク に よ る攻 撃 は 予 想さ れ て い たこ と で 、 これ は イ ラ ン国 内 で 宗 教革 命 とも 言
えるホメイニ師の帰国、指導権の獲得、シャ-の亡命となればイラン政府指導力は
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