フランクルにおける 「精神的無意識」 についての 一 考察

曲目一一
国同9︼ρ駄目レ⑩O㎝-一⑩⑩刈︶の思
﹁精神的無意識﹂と﹁ロゴセラピー﹂
広
岡
義
之
た﹁精神的なもの﹂を精神医学的な行為のなかへ導入
よって、狭義の﹁心的なもの﹂に対して本質的に異なっ
フランクルは、﹁精神的なものからの精神療法﹂に
だと主張する。
と﹁無意識の精神性﹂とに分節されて把握されるべき
の
が根本的に拡張され、無意識自体が﹁無意識の衝動性﹂
それの人間学心意義
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
第一節
フランクル︵<一心けO同
想に一貫して言えることは、われわれ人間は﹁精神的
いう主張である。しかしながら、その事実はわれわれ
存在﹂であり、それゆえにこそ﹁責任存在﹂であると
の日常生活での﹁意識﹂にまで達せず、ある意味でそ
閃同①目αレQO㎝①-一⑩GQO︶夢
や①類且Φ︶に対して、それを﹁ロゴセラピー﹂︵い。σQ9
しようとし、フロイトの﹁精神療法﹂︵勺ω団。び。-
のためにフロイト︵ ω 一 M 四 日 = ⇔ α
れは﹁無意識﹂の領域に属するものとも言えよう。そ
爵Φ鑓且①︶と名付けた。その当然の帰結として、今や
一¢昌M四レQO刈α-一⑩①一︶の主張する
無意識のなかにある精神的なもの、つまり﹁精神的な
Ω仁ω什O<
﹁無意識﹂-とは異なる慎重な論究が必要になってく
が生じてくる。
無意識﹂も共に含めて考察しなければならない必然性
ユング︵O鋤﹃一
るとフランクルは確信している。たんなる﹁衝動的な
︵αく昌Oヨ一ωOゴΦ ℃ω団O﹃O一〇M四一Φ︶3が重要視している無意
むろんのこと、フランクルは大半の﹁力動心理学派﹂
無意識ばかりでなく、精神的な無意識というものも存
いと彼は述べている。したがって従来の無意識の内容
在すること﹂、︵傍点筆者︶を強調しなければならな
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
一1一
ングは原始的で古態的なものが寺入の無意識中にあると
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
識の存在自体をすべて否定しているわけではない。た
して、これを集団的無意識と名付けた。
ドナルド・トウィディ著、武田言訳、﹃フランクルの
ζ一〇ぼαq9ロ一⑩①一-一⑩謡.ω卜⑩・
閃冨⇒匹矯切口困興切oo評頴。⊆。・①サω﹀亀冨αqΦPO田昌α力国営αρ
凛80げ8勺ω団90夢①蚕b団・零①貯8σ団≦彗。﹃国・
閃巴けげ・諺昌国く巴g9口。コoh閃冨づ評一.ω国箆ω8昌江巴﹀娼-
Uo爵己円]ぞ8臼Ωい○αqo什冨鑓竃ゆ巳§Φ0ゴ冨9討
と言えよう。
、ベルネーム︵鵠.切Φ旨7Φ巨︶らは、力動心理学の先駆者
えたメスマi︵閃●﹀﹂≦Φの日興︶、シャルコーQ]≦.○げ輿ooけ︶
今日の神経症概念の礎石を築いた。フロイトに影響を与
期外傷という心因を必須の契機とすることを主張して、
学である。彼は当時の精神医学界の正統的見解であった
ヒステリーの遺伝説に反旗を翻して、ヒステリーは幼児
とする立場。力動心理学の典型は、フロイトの精神分析
強調することによって、精神現象を体系的に説明しよう
生活体の適応的行動︵精神活動︶を一連の原因と結果と
して考察し、ことに生活体の内部条件︵衝動・動機︶を
﹁力動心理学派﹂とは、意識や行動の記述に飽き足らず、
︵著作集⑦︶みすず書房、一九七五年、第一二刷。
フランクル著、佐野利勝・木村敏訳、﹃識られざる神﹂
<Φユ9αqφ一⑩・
§α幻Φ一一αq一8﹄葭αqぎ§Φ﹀鶏冨αqΦp一〇お、︾ζ>Zudω-
<曹同.閃茜b匹uU興¢昌げΦ≦仁ゆ仲ΦΩ09勺。。団魯。§Φ茜且Φ
だ無意識を本能的な領域だけに限定してしまうこれま
での精神分析学派の在り方を厳しく批判して、むしろ
人間の﹁精神的な無意識﹂の方が、﹁無意識の心理衝
動﹂よりもはるかに重要である事実を強調するのであ
る。つまり、﹁精神分析が患者の心的要因を意識のレ
の
ベルまで持ち上げてくるのに対し、ロゴセラピーは患
のである﹂。、︵傍点筆者︶ロ。コセラピーがいうこの
者の精神性、可能性、責任性を意識化させようとする
﹁精神的な無意識﹂は臼常的にはきわめて自然に意識
化されうるものだが、ときとして抑圧され神経症的な
形態をとることもある。
結論的に、ロ。コセラピーは﹁実存存在﹂としての人
間の独自性を主張する思想から生じてきたものと考え
ることができよう。そのうえで、﹁ロゴセラピー﹂と
は、人間の個人的な存在意義の解明を人間学的分析の
観点からおこない、患者の治療上極めて重要な﹁医学
的精神指導﹂を与えるもの、と言えよう。、
註
ω フロイトの意味では、意識に影響は及ぼすが、夢などの
状態または精神分析という方法に拠らなければ意識的と
ならないものを﹁無意識﹂︵MWΦ芝⊆ゆけ一〇ωΦ︶という。ユ
一2一
(2)
(3)
(4)
の
心理学﹄、みくに書店、一九六八年、
第一刷。
﹁精神的無意識﹂の名誉回復
<σqドU●閃・日 毛 8 良 ρ 鋤 ・ p O ■ の ● ㎝ O .
第二節
ここまでのところを見方を変えれば、フランクルは
精神的無意識の﹁名誉回復﹂を図ろうとしているとも
言えよう。無意識の有する﹁創造的な力﹂﹁予見的な
傾向﹂については以前からも論じられてきているが、
フランクルがこれから試みようとする無意識内部にお
ける﹁衝動的なもの﹂と﹁精神的なもの﹂との区別対
照はまだ十分に手がつけられていない領域なのである。
かつてフロイトは無意識のなかに単なる﹁衝動性﹂
しか見出さず、彼にとって無意識とは﹁エス・イド﹂
︵①ω琶︶-めことであり、何よりも抑圧された衝動性
の﹁貯水池﹂でしかなかった。しかしフランクルによ
れば、意識されないものは﹁エス・イド﹂のみならず、
﹁自我﹂︵Φαqo︶、もまた含まれるべきだとして以下の
ように述べている。﹁精神的なもの、自我、すなわち
実存こそ、不可避的に、つまりその本質上無意識的必
然であるから必然的に無意識的なものなのだとさえ言
わねばなるまい﹂。3なぜなら特に﹁実存﹂はそれ自
身反省することのできない﹁根源的なもの﹂だからで
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
ある。この視点はフランクルの際立った思想的特徴の
一つと言えよう。
ここで﹁精神的なもの﹂が、意識されることも意識
されないこともありうることが示された以上、次にわ
れわれは両者の境界がどのようなものであるのかを問
︵<①a感づσQoづσq︶、という作用は、ある意識的なもの
うてゆくことにしたい。精神分析において﹁抑圧﹂
が無意識化されてしまい、そして逆に抑圧の解除の際
には、無意識的なものが再び意識されるのである。
フランクルのいう﹁ロ。コセラピー﹂とは﹁精神的な'
ものからの精神療法﹂であるが、当然ここでも﹁精神
的な無意識﹂が重要な要素となることは言うまでもな
い。この提言は、いわば﹁無意識の名誉回復﹂であり、
フロイトは無意識のなかに単なる﹁無意識の衝動性﹂
フロイトの場合の名誉回復とは事情がいささか異なる。
しか見出さず、それはまさに﹁エスeイド﹂そのもの、
つまり﹁抑圧された衝動性の貯水池﹂にすぎなかった。
しかし他方フランクルは、実際に人間に意識されな
いものはただ﹁エス・イド﹂のみならず、精神的な・
﹁自我﹂あるいは﹁実存﹂もまた無意識的でありうる
と考えた。,﹁実存﹂そのものは反省することが不可
能であるがゆえに、つねに非反省的なものである。精
一3一
(5)
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
神的なものが意識されることも意識されないこともあ
りうるという事実から、われわれは﹁意識と無意識の
ここでたとえば、﹁無意識の精神性﹂﹁無意識の道徳
ある。m
えてみよう。その一つ、﹁無意識の信仰心﹂を任意に
性﹂そして﹁無意識の信仰心﹂という概念について考
取り上げてみるならば、それはしばしば抑圧された宗
境界はきわめて流動的で、いわば相互に浸透しあうこ
教心という意味での無意識であり、それを﹁はにかん
とのできるようなものであることに気づ﹂6かざるを
えない。言い換えれば、﹁考える﹂という作用は、無
でいる宗教心と名づけることも同様に正しい﹂nだろ
う。なぜなら自然主義的世界像と人間像のなかで成長
して、﹁実現の生きた現実﹂として働いており、これ
こそが本来の﹁実存﹂なのである。,
る傾向にあるとフランクルは考えているからである。
した現代の知識人は、自分の宗教的感情をはずかしが
心に考えているその唯中に純粋に反省不可能なものと
精神分析における﹁抑圧﹂という作用では、意識的
註
﹁エス・イド﹂︵Φ。。噂ご︶とは精神の奥底にある本能的工、
ネルギーの源泉のこと。﹁快﹂を求めて﹁不快﹂を避け
フロイトの精神分析学において、﹁自我﹂︵①αqo︶とは基
る快楽原則に支配される。
より、抑圧、代償化された沈殿物として分化したものを
本的欲求である﹁エス・イド﹂︵Φω・置︶が現実の抵抗に
の反省部分であり、﹁エス・イド﹂︵Φω・己︶の動物的な
指す。つまり、﹁自我﹂︵Φαqo︶は﹁エス・イド﹂︵①ω・己︶
要求を統制するものである。﹁自我﹂︵Φσqo︶はさらに社
会的抵抗により、﹁超自我﹂を分化し、それにより道徳
的監視を受けることになる。ただしフランクルの﹁自我﹂
一4一
なものが無意識化され、反対に﹁抑圧﹂の解除の際に
は、ある無意識的なものが再び意識化される。ここに
至って﹁いまや意識はもはや本質的な判断規準と見な
されるわけにはゆかない﹂8ことになる。しかしそれ
に反して﹁精神的なもの﹂と﹁衝動的なもの﹂の間の
ルは確信している。
境界線は明確に区別されるべきであることをフランク
フランクルは別の箇所でさらに進んで、﹁人間にお
ける衝動それ自体などというものはもともと存在しな
い﹂9とまで言い切って、精神分析を鋭く批判してい
・る。むしろ逆に、人間とはまさに根源的に基本的に
﹁精神﹂を刻印され﹁意味﹂に方向づけられているこ
とを知っている存在に他ならないことを強調するので
(1)
(2)
︵Φαqo︶理解はフロイトのものとはおおきく異なること ﹁衝動と精神とは通分不可能な二つの現象﹂と定義す
は言うまでもない。
にある何ものかが﹁精神性﹂に属するのか﹁衝動性﹂
ることによって、人間の真実性の規準は、人間のなか
﹁抑圧﹂とは、フロイトの用語で、不快な考え・非道徳
へ
し・つ
ユ
ままであるのかは、さほど重要な問題にはならないと
の場合、その規準が人間に意識されているか無意識の
に属するのかという視点に凝縮されてくる。そしてそ
<。国句円鋤コ匹 UΦ円二口σΦξ¢ゆけ①OO#'ωb一・
的な考えを自動的・無意識的に、意識から排除し、心の
奥底に押さえつけておくこと。
<σq一●<・累進δコ冥U興二口σΦ≦⊆匂DけΦOO雰ω。卜。Oh
<・国●岡茜口匹”PgO。ωb一●
<σQドく両七二昌匹”⋮日困9NαΦヨ冨N⊆ヨUΦσΦコの四αqΦpU﹃巴それとの関連で、人間の真実性をどこまでも﹁精神
N億円
囚泣け貯
αΦの
α団づゆ日δoげΦ口
︸OωO①増ωり一QoQoQo-一り①Φ︶のいう﹁決断する存在﹂、
の主張は、フランクルのいう実存分析的な意味での
う﹁現存在﹂と多くの点で共通項を有する。また彼ら
スワンガー︵い仁α妻おごUヨω≦鋤口ひq①﹃レooQO一山Φ①①︶のい
ハイデッガー︵]≦o同江コ缶巴α①αqσqΦ同レOoQoり高Φ刈①︶やビン
ス︵︼⋮︵四﹃一
性﹂のなかに読み取るフランクルの立場は、ヤスパー
<o暮鼠σqΦ謄閃茜づNUΦ二三。評①b>亀町αqΦP妻一ΦP一⑩膳刈・
フランクル著、山田邦男・松田美佳訳、﹃それでも人
生にイエスと言う﹄、春秋社、一九九三年目初版第一刷、
一九九七年、第一八刷、訳者解説、二〇一頁参照。
∪Φ﹃¢コげΦ≦二ゆ800#・ω・凶bO・
く。匹Φω仁昌αqΦ口
U口ωH≦ΦコωOげΦづσ障ααΦ﹁ωΦ色①口げΦロ評億コα①.
<'国.閃﹃鋤コ吋一
U﹃蝕
<薗●国﹃鋤口閃一
ω.Φ卜○.
うした事情からフランクルはロゴセラピーを﹁人格的
に対しても慰めを与えようとする﹂。,︵傍点筆者︶こ
とによって治癒に導き、あるいは不治の病に悩むもの
の自由性と責任性に訴えかけ、患者の態度を考えるこ
る方法としてのロゴセラピーは、﹁まさに、この人間
このように、フランクルの実存分析の治療面におけ
に属するとも言えよう。
﹁責任存在﹂もしくは﹁実存的な存在﹂と同じ思想圏
℃塁。げ。一〇αqδ日虹ω●缶甘bo醇讐Φ甲くΦユ四αq噂ωε#σqo冥お㎝Φ'
フランクル著、宮本忠雄・小田晋訳、﹃精神医学的人
間像﹄︵著作集⑥︶、みすず書房、一九七四年、第一〇刷。
﹁責任存在﹂としての人間
<.国・閃同ゆ口軽噂口●鋤b●ωbo①・
くαqド<・国●閃茜⇒匹℃餌・鋤b●ω●O一●
第三節
が、
ところでメダル・ボス︵]≦①α鋤﹃αbuoωωレΦOω-︶
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
一5一
(4) (3)
(7) (6) (5)
(9) (8)
(11) (10)
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
態度療法﹂︵OΦ房。ロ巴Φ田⇒ω8=o昌σqω9Φ冨且Φ︶と呼んすと同時に、われわれは﹁超意味︵意味を超えた︶﹂
から開始されるのである。別言すれば、﹁責任存在﹂
ものとしての在り方がもはや認められなくなった段階
ピー︶による人間存在の探究は、﹁衝動﹂に駆られた
間的なもの﹂や﹁日常的なもの﹂は、有限なものが無
れわれに指し示しているということなのである。﹁時
ことではなく、むしろこの永遠が時間に戻るようにわ
いる﹂とは、日常を超えた永遠の世界に留まるという
これとの関連で﹁超意味︵意味を超えた︶の地平に
の地平に立つことになる。、
が停止したとき、本来的な真実の人間存在もまたそこ
こそが日常の聖別式となり、日常を﹁神聖なものにす
限なものに絶えず出会う場所であり、この﹁出会い﹂
このように、フランクルの﹁実存分析﹂︵ロ。コセラ
でいる。
で途切れるのである。すなわち﹁本来的な人間存在と
コ
フランクルはまた別の著作で次のようにも述べてい
る﹂可能性を有するものとなる。,
は、エスが人間を衝動的に駆りたてるのではなくて、
自我がみずから決断する時にはじめて与えられるので
ある﹂。、
によっては超越的な﹁信仰﹂の領域に属する事柄とも
な思考﹂というよりも﹁実存的な決断﹂であり、場合
省によってではなく、︵中略︶自己放棄によって、自
不安から自由になれるのは、自己観察やまして自己反
てのみ自分の自我に帰るのである。われわれが自分の
る。すなわち、﹁われわれは世界に通ずる道をたどっ
言えよう。﹁世界は超意味をもつ︵世界は意味を超え
る事物へ自己をゆだねることによってである。これこ
己を引き渡すことによって、そしてそれだけの価値あ
ここで自らが﹁決断する﹂とは、正確には﹁論理的
ている︶﹂という世界観は、まさしく﹁実存的な決断﹂
り
の一例である。なぜならこれを論理的に知ることはで
まさに自己は、﹁世界に通ずる道をたどってのみ﹂
そあらゆる自己形成の秘密である﹂。、
自己という実存の﹁秘密﹂が存するのである。,この
本来の自己へと生成し、実存しうるのである。ここに
この﹁無知﹂︵不知︶を超えうるのは﹁自分自身の
きないからである。
この決断を下すとき、われわれは、無の深淵にさしか
﹁秘密﹂はフランクルによれば﹁﹃自己放棄﹄によって
存在の深み﹂から湧き出てくる﹁決断﹂だけである。
けられ宙吊りになっている。けれども、この決断を下
一6一
真の自己実現が成就されるということだけではなく、
に向かって努力するという解釈である。フランクルは
さらに﹁価値﹂に向かって努力するのでなく、﹁快楽﹂
くて衝動によって決定される﹂nという視点であり、
コ
そのことによって意味実現が成就され、さらには日常
とりわけ﹃良心﹄である﹂。、︵傍点筆者︶なぜなら
グもまた無意識の宗教心を熟知していた。けれども二
フロイトは、無意識の道徳心を知っていたし、ユン
人間理解と真っ向から戦いを挑もうとしている。
﹁実存分析﹂の立場から、上述のようなフロイト派の
のうちに永遠なもの・超意味が実現されるということ
烽?驕Bそしてこの﹃自己放棄﹄を可能にするもの
﹁意味への意志﹂﹁精神的無意識﹂そして﹁良心﹂など
心は、﹁自我﹂を抜き取られて﹁エス・イド﹂化され
人の理解のもとでは、無意識の道徳性と無意識の信仰
が﹃意味への意志﹂であり、﹃精神的無意識﹂であり、
は、元来﹁自己放棄的﹂であり、﹁自己超越的﹂なも
てしまっていた。﹁C・G・ユング学派は宗教心を宗
めている。フランクルは次のような例を出して、両者
教的衝動に還元し、その起源を集団的無意識﹂惚に求
このように、人間はけっして﹁衝動﹂によって決定
のだからである。・
されるのではなく、むしろ﹁意味﹂によって方向づけ
たとえば、私が善良であるのは、ある事柄において、
を鋭く批判する。
られるのであり、また﹁快楽﹂に向かって努力するの
ではなく﹁価値﹂に向かって努力すると捉えられるべ
は、人間の存在を﹁エス﹂化し、﹁非自我﹂化する。
きであろう。9それに対して、フロイトの﹁精神分析﹂
の背後に存在する神のために、私は善良であろうと欲
する。なぜなら、良心は﹁固有の心理学的事実として、
良い事物のために、あるいは究極的・本量的に﹁良心﹂
すでに自分から超越性を指示しているから﹂Bである
その意味で、フロイトは人間の無意識のなかに﹁エス・
ころ﹁自我的なもの、精神的なものを見逃してしまう
イド﹂的なもの、衝動的なものしか認めず、結局のと
と述べている。
﹁精神的なもの﹂と﹁衝動的なもの﹂の領域をわれわ
構造の内部にある根本的に異なった二つの領域つまり、
ところでフランクルは先述のように、人間存在の全
ことによって、無意識をもいわば侮辱﹂皿する結果と
なる。
力動的心理学の暗黙の人間学に対する批判とは、
﹁人間が原初的に意味によって方向づけられるのでな
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
一7一
「で
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
れに提示してくれた。一方で精神的・本来的な真実の
が位置づけられることになる。ここで﹁実存﹂とは本
側に﹁実存﹂が、他方で衝動的なものの側に﹁事実性﹂
質的に﹁精神的なもの﹂であるのに対して、﹁事実性﹂
とは﹁心理学的かつ生理学的な内容﹂のことであ
る。u
ここまでのところを要約してみると、先述のように
本来的な規準としての意識性と無意識性が相対化され
たのに続いて、第二の相対化として古くからの心身論
﹁心身的弓実性に対立する精神的実存﹂の・問題の前で
もまたここで相対化されてしまったのである。つまり、
てしまうのである。ここで﹁心身的事実性に対立する
は、心身論はもはや第二級的な問題にまで相対化され
精神的実存﹂の問題は、たんなる存在論より大きい価
値を持つだけでなく、精神療法的にも高い重要性を有
することとなる。つまり、﹁精神的実存﹂は﹁自由な
責任負担﹂の意味であり、真の人間存在の﹁自由﹂と
﹁責任﹂の意識を喚起するのである。蔦
註
フランクル著、宮本忠雄・小田晋訳、﹃精神医学的人間
ω<σq類■国.乏き匹⋮U①コ﹂コ9≦島↓①Ω09ω●卜。卜。曹
②
像﹂︵著作集⑥︶みすず書房、訳者後書き、一四九頁。
フランクル著、山田邦男・松田美佳訳、﹃それでも人生
<・国・閃村Oコ野口 ∪Φ同二口σΦ守則bDけΦOO一けωbω.
フランクル著、山田邦男・松田美佳訳、前掲書、訳者解
にイエスと言う﹂、訳者解説、二一五頁参照。
説、一五八頁参照。
⇔げ凄コαqヨ
い。σqo9①鑓宜Φ
⊆コq
国×一ω8つ鑓コ巴畜p心
<・国肉茜コ匹⋮日ゴΦoぽ①⊆口α↓げΦ鑓豆Φα興ZΦξoω①戸国一三
一九
そ
︾亀冨αq①戸一⑩①①山Φ刈9¢ロ一白器。ゴΦコσ⇔oゴ善心α隣国﹃づωけ
力Φ貯げ母ロ計ζ曽50げΦロ由9ω①一.ωb㎝・
﹄︵著作集④︶みすず書房、
フランクル著、霜山徳爾訳、﹃神経症 1
の理論と治療
ζ①器9窪σ一一α
α興
フランクル著、山田邦男・松田美佳訳、﹃それでも人生
七三年、第九刷。
ωb一・
∪四ω
にイエスと言う﹂、訳者解説、二一六頁参照。
ブランクル著、前掲書、訳者解説、二一⊥山雪。
<αq一・<.国句茜昌匹
U①憎=口げΦ藝犀ゆけΦOOけけω.N心.
ωΦΦ一①づゴΦ一一評‘づαρ
<●国●閃﹃鋤コ匹
ω・Φ一■
<・国・両﹃鋤馬匹UU鋤の]≦①昌ωO財Φ⇒σ=αα①同ω①①一Φ目びΦ一一奔9目位①.
<●国肉δ昌匹導9・9b謄ωboOψ
<﹂国・寄き葬9ρ○.ω・Q。P
<σq一.<・国・閃冨コ包噂9口b.ω●bO㎝・
<σq一・<.国肉冨口早⋮∪Φ﹃⊆づσ①芝葺聾ΦOoけ↓・ωb昏・
一8一
(4) 〈3)
(5)
(6)
(7)
(9) (8)
(11) (10)
(15) (14) (13) (12)
第四節
人間の﹁良心﹂と﹁超越性﹂
﹁実存分析﹂︵ロゴセラピー︶の立場からすれば、
この﹁良心﹂は直観的かつ絶対的なものであり、さら
彫りになってきた。それゆえにこそ、人間は﹁責任﹂
かで、人間の﹁責任存在﹂という人間固有の特徴が浮
という概念を中心に論考を進めてきた。その過程のな
的な道徳法則である。しかし、同時にまた、良心は、
しろ﹁ある特定の人の具体的な状況に適用される個人
流の命令的な意味での普遍的な道徳法則ではなく、む
も、﹁良心﹂とはカント︵H目白鋤⇒二色十一月﹄謡昏山cOO駆︶
に無意識的・非合理的なものと言えよう。この意味で
に対する自由性を果たすことを自覚できたときにのみ、
われわれはここまで、フランクルの﹁精神的無意識﹂
真の自由を獲得できると言い得るのである。﹁人間の
任性のなかに示されている﹂-と言われる所以であろ
心﹂に従うか否かという﹁責任﹂という視点に重きを
で起こる心理的な所産にすぎないと考え、自分は﹁良
非宗教的な人々は﹁良心﹂をたんに自分の心のなか
超越的な一つの契機であることもたしかである﹂。3
う。人間は日常生活のなかで、意義と価値を実現し、
置こうとしない。フランクルによれば、﹁不信講者は
存在性が自由性のなかにあらわれ、人間の超越性は責
現実化する﹁責任﹂を持つという自覚を持っていなけ
良心と責任の問題をさらにつきつめてゆくことにより、
こうした人間の﹁責任存在﹂という自覚の根底に
ればならないという。
あり、良心は超越者である﹃汝からの言葉﹄である﹂,
﹁人間の超自我の背後にあるものは﹃神なる汝﹄で
超越性に到達することを知らないのである﹂。、
な心理衝動であるリビドーのなかから生まれてきたと
との言説からも、﹁良心﹂の唯一の正しい根拠は、人
﹁良心﹂を見出したフランクルは、﹁良心を、無意識的
する、流動心理学の考え方を否定している。つまりそ
の姿になぞられた神だけであるとフランクルが確信し
ていることが理解できよう。
の
れは、精神的意識の深み︵あるいは、高さというほう
が適切かもしれない︶から自然にその人の意識のなか
うした超越的根拠を﹁それ﹂とか﹁彼・彼女﹂という
さらに興味深いのは、フランクルが客観的現実のこ
の声である﹂。2この点に、フランクルの思想が﹁高
三人称で呼ぶことを避けているという事実である。
に浮かんでくる﹃汝、何々すべし﹄という厳しい良心
層心理学﹂と呼ばれる所以が存するものと思われる。
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
一9一
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
れば、個体発生的に言って、確かに父親の方が神より
も最初に出会うかもしれないが、存在論的に考察すれ
﹁フランクルは﹃それ﹄とか﹃彼﹂といったたぐいの
言葉は、超越的存在である神をさすのに適切でないと
﹁無意識の神﹂とは、﹁集合的無意識といった原始的な
さらにフランクルの超越的理解によれば、本来の
ばあくまでも神が先だと言えよう。、
でなければならないからである。
考えた﹂。,なぜなら、神の特質とは超人間的なもの
フランクルは別の著作で、﹁人間を超えたもの﹂に
の﹁対話﹂によって接近するべきだと説明した後、さ
ブナi︵閃①a営碧α国σ嵩①昏Q。。。卜⊃らOω一︶のいう意味で
の基礎的断面を構成する責任性を形成する﹂9のであ
え﹄ねばならないもので、これが人間のパーソナリティ
間の個人的な決断である。人間は神の﹃召喚﹄に﹃答
まり神に向かって、あるいは神に対してなされた、人
形態に基づくものではなく、神自身に基づくもの、つ
対しては、ブ!バー︵7角9﹃鉱⇒ゆ二σ①5一Qo刈QO-一⑩①α︶やエー
らに続けて次のように述べている。﹁その結果、精神
る。
的な実行は常に相互的な実行であり、人間は常に汝に
向けて秩序づけられている。だが、汝と呼ぶこと︵U午
と﹁神人同形同性説﹂の二つの危険性に注意しておく
し、超越的な現実を熟慮するとき、﹁人聞中心主義﹂
人間が﹁良心の声﹂の背後にある﹁超越性﹂と対決
ωoαqΦ昌︶がすべての﹃私感呼ぶこと﹄︵Ho軍ω9σQ①づ︶に
によって知られている。︵中略︶わたしたちがこの汝
先行していることが、すでに発達心理学や児童心理学
うに、﹁実存分析﹂︵ロゴセラピー︶では、神を父性像
こうしたフランクルの世界理解からも把握できるよ
でも絶対の価値をもった﹁絶対者﹂によってしか正し
れるということは不可能なことであり、それはどこま
考え方は全くの誤りであり、人間が人間によって測ら
の﹂が意義と価値の標準になってしまう。しかしこの
である。この場合、人間が偶像化され、﹁人間そのも
必要があろう。第一は﹁人間中心主義﹂に陥る危険性
の投影であるという、いとも簡単な心理的説明によっ
︵︾づけ甫。#︶である﹂。7
に向けて語りかける最初の言葉はとくかく応答
て片付けることはしない。フランクルはむしろ父親を、
く把捉されえないと言えよう。m第二の危険性は﹁神
︵一]BOσq①︶であると考えている。子どもの視点から見人同形同性説﹂に陥ることであり、この場合逆に神を
子どもが神について抱く最初の具体的な﹁心像﹂
一 10 一
のなかで作り出されたものと考える過ちに陥ることに
人間のパーソナリティに投影して﹁人間のイメージ﹂
これまでのところを要約してみると、ロゴセラピー
なる。
において人間の﹁実存分析﹂は次の三つの発達段階に
区分されることが明確になってきた。第一段階では、
(7) (6) (5)
(8)
(11) (10) (9)
人間が﹁責任存在﹂であることが現象学的分析によっ
て発見され、第二段階ではその現象学的分析によって、
精神的無意識の内に存する﹁良心﹂が見出され、それ
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﹄、新泉社、一九七二年、
フランクル著、真行寸功訳、﹃苦悩の存在論
ニヒリズムの根本問題
第一刷。
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一 11 一
が人間の﹁責任存在﹂の根拠になっていることが明確
﹁無意識の神﹂が明示されることになる。nしかしこ
になった。そして第三段階では、宗教的超越つまり
の宗教的超越の﹁無意識の神﹂概念についての考察は
さらに広範な論述を必要とするので、ここでは扱うこ
フランクルにおける﹁精神的無意識﹂についての一考察
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註
とができず、今後の継続的な課題としたい。
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