狭い戸口

狭い戸口
ルカによる福音 58
狭い戸口
13:22-30
日曜日にここへお集まりになる方なら、表の看板の字を見て知っていらっ
しゃるでしょうが、生垣と電柱の間にかかっているパネルに「狭い門から入
れ」という聖句が掲げてあります。あれは「シビックが場所をとって通路が
狭くて申し訳ありません」という意味ではないのですね。
あれはマタイ福音書の山上の垂訓から引用したものです。今日読むルカ福
音書のこの箇所にも大体同じお言葉が出てくるのですが、「門」が「戸口」
という言葉に変わっております。もちろんおっしゃった趣旨は同じですけれ
ど、マタイに使ってある名詞は英語の gate に近いもので、町の城門、エルサ
レムの宮の門等に見るような、どっしりした門ですね。狭いと言いましても
駅前の中田さんの門位はある。
これに対して、ルカのここの箇所のは英語の door に近い単語で、入り口、
戸口という感じです。ギリシャ語で
というここの言葉は、今開いてい
る入口、入ろうと思えばそこにある、閉まるまであいている……、入れるん
だよ……という感じの名詞なんです。
最近の新しい英訳は、Strive to enter by the narrow door. とか、Struggle
to get in through the narrow door. と訳しています。Strive とか Struggle
と言いますのは、今真剣に懸命に取り組め……ということで、ボーッと機会
を見送っていては駄目だということなんです。今ある機会を真面目に生かし
て使わねば……という緊張・集中が Struggle なんでしょう。
「狭い」というのは多分、そこから入る人が少ないことを言うのでしょう。
- 1 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
一緒に入って行く仲間の人数が少なくても、『そんな所に入って行くのは酔
狂だ』と言われても、それが命に関わる、永遠の生き死にに関わることを知
れ……それが「狭い」ということの意味です。決して条件が難しいという訳
ではない。立派な清らかな人しか入れない訳ではない。ここら辺の勘違いは、
日本ではアンドレ・ジードの読み過ぎから来るのかも知れません。本当はジ
ードという人は、そういうお上品主義や自虐主義への強烈な風刺を書いたの
です。
「狭い戸口から入ることを真剣に考えよ。なぜなら、はっきり言って入る
ことを一応願いはするが、結局入ることができずに終わる人は多いのだから」
24 節の趣旨を正確に訳せば、こんな感じになるのでしょう。
さて、この時の問答のきっかけを作ったのは、ある人が持ってきた質問で
す。イエスはなおエルサレムへの途上にあられたと言うのですが……
1.戸口は狭い。 :22-24a.
22.さてイエスは教えながら町々村々を通り過ぎ、エルサレムへと旅を続け
られた。 23.すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないので
すか」と尋ねた。 24.そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口
からはいることを真剣に考えよ! よく聞け、入ることを一応願いはしても、
入れずじまいに終わる人は多いのだ」
この質問者の意図ですけれど……この時代、ユダヤ教のこの時期の宗教家
というのは、選ばれて神の支配に入る人の人数は……というようなことをよ
く論じたものです。この人もきっと、ナザレのラビが果たして何と言うか、
興味をもってこの質問をぶつけてきたのでしょう。
大体こういう問い方をする人というのは、自分はもちろん救われる方に入
- 2 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
っていると考えたものです。イエスのお答えはこれとどう噛み合っているか
というと、「あなたはユダヤ教の家に生まれて、習慣も戒律も全部守ってき
たから当然救われて中にいるつもりだろうが、あなたは本当はこれからそこ
へ“入る”ことを真剣に考えて、それに集中することが必要ですよ。事はあ
なたが考えるような安易なことではないのです」……そうお答えになったの
だと思います。
もう一つ別な角度からこの問答を見る人たちは、質問者の意図をもっと意
地の悪いものと見ます。エルサレムに近づくにつれてナザレのイエスへの悪
意や反対の方が圧倒的に大きくなってくる。それに比べるとイエスに忠実に
従う者の数はわずかです。「主よ、そうすると救われる人というのは、こう
いう風に少ないんでございますか?」そういう毒のある質問だという訳です。
いずれにせよ主のお答えは、
「そんな理屈や理論に費やすときはもうない。
あなた自身、そこへ入れて頂かねばどうにもならない自分の状況に気づいて
いるか、その方が重大だ。今その戸口はあなたの前にある」ということです。
2.時間は限られている。
:25.
25.家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸を
たたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそ
れに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と
言うであろう。
これは何の譬を使っているのかというと、多分宴会でしょうね。この家の
主人がわざわざ戸を開けておいて人を招いておるという情況が想定されてい
るのでしょうか? この家の主人が招いているということと、その招きを喜ん
で受けるか、嬉しいかということが中心になっていて、その逆の何かと対立
しているのでしょうが、その逆というのは『私はここの主人とは古い知り合
- 3 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
いで、つながりも縁もあるから、私の値打ちと顔で入れてもらえる……』と
いう確信です。
主人が戸を閉じて宴会が始まってから、自分の顔と都合で入れてもらえる
と考える人は恥を見る。大事なのはその人の顔じゃなく、招いた主人の意志
です。それも戸口が開いていて機会が与えられている間だけなので、主人の
意志で戸は閉じられるが、それまでにこの戸口が自分のためだと気づくか?
12 章以来読んできた文脈から言うと、これはキリストが再び来て、全てを
締めくくられるまでの限られた時間です。これはまた見方を変えれば、あな
たに与えられている短い命の限界と言ってもよい。戸口は無制限にいつまで
も開いているわけではない。昨日は元気だったのに、今日は決断しようにも
冷たくなって手遅れということだってある。
3.行きずりの繋がりは意味を持たない。 :26-27.
26.そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、
あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
27.彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を
働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。
先ほどこの比喩は宴会の比喩だと申しました。ドライに分析してみると、
イエスの譬の中にはこの時代のユダヤ人特有の終末観と言いますか、終わり
の日のユダヤ教徒の喜びの結末みたいなものが背景になっていると言えるで
しょう。神から遣わされた『メシーハー』あるいは『マーシアハ』と呼ばれ
るリーダーを中心に盛大な宴会が開かれる……そういう形でしか、救いとか
神の支配というものを考えることができなかったのです。
イエスの教えは決して、救いとはそうやって飯を食うことだとはおっしゃ
- 4 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
らなかった代わりに、やはりそういうイメージを大事にしてきた人たちに通
じるような素材で譬を構成しておられます。29 節の神の国の宴会の描写もそ
うですね。この譬えの主人は、その宴会から人間的なコネや自信や自惚れを
全部排除して受け付けないんです。宴席に座らせない。
今、この話から余分なものを取り除いて……宴会と食卓と羊肉とブドウ酒
を捨象して、事の本質だけを考えてみますと、終わりの日にはこの開かれた
機会を地上で真剣に考えて受けたかどうか、ということ以外は全部意味を失
うのです。自分はアブラハムと預言者の血筋に繋がって、イエス様と同じイ
スラエルの血を受けているとか、イエスご自身の説教を町角で聞いたとか、
ガリラヤの風かおる丘でパンを裂いて頂いた時に私も現場にいたとか、それ
は持ち出しても無効なのです。
現代人の場合はそれは何でしょうね。何に当たるでしょう。バイブルを読
んだ。福音書もパウロ書簡も少しはかじった。イエス様の思想なら大体存じ
上げてるんです。それだけじゃない、ラファエロだってダヴィンチだって感
動した。グレコもルオーも分かります。『呪われた王』……あれはキリスト
のお心がそのまま伝わってくるような絵でした。こう見えても私はキリスト
教的なものに無関係でも無感動でもなかったんです。本も読みました。ドス
トエフスキーの深い問題も同感できますよ。遠藤周作、好きです。ちょっと
キザだが……、三浦綾子さんだって知ってる。映画だって観ました。音楽な
らまかしといて下さい。メサイアにマタイ受難曲……生で聞きました。あん
なに感動したことはない。モーツァルトのレクイエムに涙を流しました。…
…これでもイエス様と無縁だとおっしゃいますか?
でも、彼はおっしゃるというのです「あなたがたがどこの者だか知らない。
悪をなす者よ、みんな私の前から消え失せよ!」
「それはないでしょう。洗礼を受けたクリスチャンより私の方がずっとク
- 5 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
リスチャン的ですよ、人も助けましたし、人を傷つけたことだってない。献
金だってしましたし、教会堂の建築資金だって釜ヶ崎の炊き出しだって、東
南アジアだってみんな私のお金が入っているんです」
けれどもこの宴席の主人は、ただ一つのことしか言わないのです。「あの
戸が開いていた間に、あなたの罪の贖いを受けたか。とが閉じられる前に罪
の赦しの十字架を仰いだか。死んだあなたを生かす復活の主に信仰を告白し
たか!」
その戸はごく短い間しか開いていないのです。
4.逆転する結末 :28-30.
何が逆転するかと言うと、人間の評価と神様の評価とです。当然この人が
入ると思った人が失格で、あんなのは論外だと思われていたのが揃って合格
というのが「先の者が後に、後の者が先に」ということなんですが……念の
ため、ここでもメシアの宴席のイメージが続いています。
28.あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、
神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そ
こで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。その後はちょっと趣旨が
解り難いかも知れませんが、これは旧約聖書と無縁の異邦人がということで
しょう。 29.それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の
国で宴会の席につくであろう。 30.こうしてあとのもので先になるものがあ
り、また、先のものであとになるものもある」。
「どうしてなのか……」ということは、この後使徒言行録やパウロの手紙
を読んで「なるほどそうか……」と分かってくるのですが
- 6 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
一口で言って、
『俺には誰も無視できないだけの実績と値打ちがあるんだ』
とか『神様だってこの私を無視できないんだ、これだけ真面目にやってるん
だから』と自信を持つ人が落ちて、かえってそういうエリートの目からは不
浄の異邦人と思われた人たちが、アブラハムや預言者と一緒に席についてい
る、というのです。それは 23 節の質問みたいに、『イエス様お気の毒に、救
われる人てのは少ないんですかァ』と尋ねたような人には、腰を抜かすほど
の大ショックに見える。
本当にその通りになるのは、やがてイエス・キリストが処刑されて、復活
なさって後です。この方を信じられる人と信じられない人とが、このお言葉
の通り分かれてしまいます。あとの者が本当に先になって、先の者が本当に
あとになって、形勢逆転してしまうのですが、もちろんこの時点では、弟子
たちも周囲の人たちも、何のことをイエスがおっしゃったのか、見当もつか
なかったでしょう。
《 ま と め 》
もう一度 24 節のお言葉を噛みしめてみましょう。
狭い戸口から入ることを、今真剣に考えよ。入りたいという願望だけは持
ったが、遂に入らずじまいになる人は多い。家の主人が戸を開けたままにし
て招いている間に、短い機会を大事にせよ
友人の勧めで「宇宙からの帰還」という本を買ってきて読み始めました。
立花隆という人がアメリカの宇宙飛行士たちとインタビューをして書いた本
で、最初に軌道飛行をした人や月面に降り立った人たちが、その後どんな道
をたどったか、特に宇宙に出たり月面に立った人たちの内面にどんな変化が
生じたかを刻明に報告します。
- 7 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
その中に一人、月から帰って伝道者になってしまったというアポロ 15 号の
ジム・アーウィンという人がいます。この本の第二部が「神との邂逅」とい
う題で、このアーウィンを扱っています。著者はドライな批判的な視点から
書いていますけれど、私にはそれがかえって面白かったように思います。私
が感じたのは、人は必ずしも同じ形で、同じようにして神に会うのではなか
ろう―まあ、日ごろの自分の理解を裏書きされたことでした。アーウィン
は何かこう、一つの偏った宗教的気質というか、不思議な感受性を持ってい
て、月面上で神がすぐそこに臨在しておられるのを感じます。「振り向けば
すぐそこにいるのではないかと思われる位、神の近くにいた」と言うんです。
この人は月から戻ると、もう一度洗礼を受け直して、自分の残りの人生を神
に捧げることを誓ったんです。でも、この人の最も神聖な瞬間と、何故決心
したか、どうして決心したかの所は、私にもどうもピンと来ない。確かに神
の御業ではあるが、半ばこの人の気質、半ばその異常な状況に立った人間の
サイコロジーも働いているのではないかと思います。
私がむしろ同感を覚えるのは、アポロ 16 号のチャーリー・デュークという
人で、この人は元々ヒューマニストで人間に神は必要でない、人間が神にな
ればよいという典型的な考えの人でした。この人は月面では特に霊的な経験
はしなかったというんです。確かに地球という星の信じがたい美しさ、月世
界の完璧な静寂さとか不毛さというものに感動はしたけれど、それはどこま
でも感覚的なもので霊的な体験じゃなかった。この人は結局、大目標を達成
して名声も富も手にしてから、一つの底なしの空虚さに落ちます。そしてそ
の中から聖書を読んでイエス・キリストが分かりはじめます。「私ならこれ
だ!」と思ったのですが、しかしこの人も肝心の所で私にはついて行けない
何かを持っています。1978 年 4 月ハイウェーを車で走っている時に、突然イ
エスが神の子である、私は神に愛されているという確信を与えられるのです。
前半を読み終わって感じることは、人は誰も同じ角度から同じ仕方で神を
発見するのではない、ということです。だから、自分はこうだったからあな
- 8 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.
狭い戸口
たもこうじゃなければならない―という説得は絶対にできないと思います。
逆に決心する方でも、あの人がああだったから、私も同じように感じなきゃ
いけないんだろうか……とプレッシャーを感じてはいけないのです。
キリストの福音は一つ、しかも人間の罪と死という問題にかかわっていま
す。イエスが復活なさった日から、狭い戸口はいつもそこに開いて、入れる
ようになっているのですが、それが本当に自分のものだ……ということに気
づく気づき方は、私とあなたでは違うかも知れないのです。
ただ、どんな気づき方でも、それに気づいたら、その狭い戸口から思い切
って入れ、時は限られている―ということを、今日の箇所は教えています。
(1983/12/04)
《研究者のための注》
1. 「戸口」と訳されているギリシャ語の
は、英語の door やドイツ語の Tor とつ
ながる語で、その意味は語源からだけ言うと、漢字の「扉」という字と同じく、両側
に開く二枚の扉を指したものですが、一般には扉そのものよりも入口自体を指したこ
とは、door や Tor の使い方と同じです。
2. 23 節の質問者の意図を、イエスに従う人数の少なさと結びつけて解しているのは
Geldenhuys です。これとは反対にレングシュトルフは「イエスがエルサレムに近づ
くにつれて、彼にかけられた色々な希望は誰の目にもますます有力なものとなったか
らである」と説明しています。
3. 「あとの者、先のもの」は、決してよく言われるように、あとから信仰に入った者と
先に入信した者という意味はないと思います。「先」「あと」というのはどこまでも、
我こそは誰よりも先に神の国に入る資格ありという自信を持った人が「先の者」、そ
の人の目から見て資格のない者とみなされる人が「あとの者」です。神の評価による
この順位の逆転は、異邦人の福音という形でハッキリするわけですが、この問題につ
いては 1979 年 7 月 29 日、八ヶ岳での講演「使徒行伝におけるパウロ」を参照して下
さい。
- 9 -
Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.