東京東郊における都市形成過程~京成電鉄市川真間駅周辺部を対象

平成 24 年度
2012/11/21
社会工学類都市計画主専攻 卒業論文中間発表
東京東郊における都市形成過程~京成電鉄市川真間駅周辺部を対象として~
社会工学類都市計画主専攻 4 年 200911309 伊東真理
担当指導教員 藤川昌樹
1.背景・目的
首都圏では鉄道の発達による、1900 年代の沿線開
発に伴い、郊外の都市化を推進してきた。特に郊外
都市としては東京西郊が有名であり、それらは東急
電鉄などにより開発されてきたと言える。一方で、
東京東郊は、西郊の諸都市と距離的にはあまり違い
はないものの注目度が相対的に小さいのが実情であ
る。
さらに、東京西
郊においては JR
や多くの私鉄に
よる鉄道網が発
達しているのに
対し、東京東郊に
おいては圧倒的
に少ない。一方で、
東 京 東 郊 に お い 図-1 位置図・路線図 <引用>googlemap
て数少ない鉄道網を構成している鉄道が京成電鉄 第
1
(図-1 中の赤い線)である。その京成電鉄は千葉県市 期
川市の市川真間駅北部(図-1 の赤い四角)において、
社員の福利厚生施設(京成倶楽部)や京成電鉄直営の 第
遊園(東華園)などを設立し、この地域を本拠地とし 2
ていたと考えられる。そこで、この地を本拠地とし 期
て選んだことには空間的には東京東郊固有のものが
あったのではないかと推測する。そこで、市川真間 第
3
駅周辺部の都市形成に着目する。
また、東京西郊においては東急電鉄や小田急電鉄 期
などが鉄道と郊外住宅地の一体開発を行っており、
表-1 鉄道会社による住宅地開発面積
「鉄道が支える
開発面積(ha)
日本の大都市形
会社名
戦前
戦後
総計
成」で、矢島は
145
912
1057
開発地域一体で 小田急(注1)
京成
25
256
281
区画整理の話が 京急(注1)
70
1616
1686
まとまった後に 西武(注1) (注2)1172
2051
3223
鉄道新線のルー 東急(注1) (注3)138
6785
6923
(注3)43
402
445
トを引き直すと 東武
1592
12355
13947
言っている。つ 合計
まり開発が鉄道 (注1):系列不動産会社を含む
のことよりも先 (注2):(旧)箱根土地(株)などによる沿線以外の開発地を含む
(注3):東急40か所、東武11か所の面積が文献で欠落
に考えられてい
る。そのため、東京西郊においては、鉄道会社によ
る沿線の開発面積が大きいことが特徴である(表-1
参照)。一方で、京成電鉄や東武鉄道の沿線開発は規
模が小さい上に、開通から開発に
第
1
至るまでに、京成電鉄は約 23 年、
期
東武鉄道は約 29 年かかる。そこで、
鉄道開通
都市が形成される過程の時期とし
て、右のように分類する。
第
2
そして、本研究では市川真間駅
期
周辺部の都市形成過程を分析し、
第2期に都市に生じた変化の現在 鉄道会社による開発
第
の景観への影響性に着目すると共
3
に、東京東郊の景観の特徴を明ら
期
かにすることを目的とする。
2.既往研究
「民間鉄道による住宅地開発の構造-1910~1960 年-」
(花形道彦、『土地総合研究』14(1),pp13-25、2006)
花形は、1910~1960 年までの民鉄による住宅地開
発を可能にした事業環境と開発の構造について、
様々な民鉄の事例をあげながら述べている。それら
は、その時代に取り巻く、経済・社会・文化活動と
関連付けて考えられているが、実際の地図としての
都市形成状況については考えられていない。また、
東京西郊における民鉄を中心としたそれぞれの鉄道
沿線都市については考えられているが、東京東郊を
拠点とする京成電鉄に特化した都市形成については
あまり明らかにされていない。
3.東京東郊における都市形成
3-1 京成電鉄の歴史
年代
1909年 明治42年
1912年 明治45年
1915年 大正4年
1919年 大正8年
1921年 大正10年
1922年 大正11年
1926年 大正15年
1929年 昭和4年
1930年 昭和5年
1931年 昭和6年
1933年 昭和8年
1938年 昭和13年
1939年 昭和14年
表-2 京成電鉄の歴史
歴史
京成電気軌道株式会社創立
押上~伊予田(現江戸川)間、高砂~柴又間開通
伊予田~船橋間開通(市川真間駅を通過)
東華園が京成電鉄の直営で経営される
船橋~千葉間開通
本多貞次郎の銅像が市川真間駅前に建てられる
津田沼~成田花咲町(仮)間開通
京成倶楽部(社員の福利厚生施設)創設(1945年からは個人住宅へ)
花咲町~成田間開通
日暮里~青砥間開通
日暮里~上野公園間開通(京成線が全線開通)
国府台、江戸川、青砥駅周辺部を京成電鉄が開発を行う
京成工業学校が創設
3-2 市川真間駅周辺における都市化の実態
【第 1 期】
現在、市川真間駅(図-2 中の赤い丸の部分)北部に
ある真間川周辺は江戸時代には入江であり、その南
側には海水の作用で作られた「市川砂州」があった。
その砂州には養分が少なく、枯れた土を好む「クロ
マツ」の林があり、それは主に現在の京成線に沿っ
て約 4 ㎞にわたり、細長く分布していた。この松林
に関しては、永井荷風が随筆「葛飾土産」(1947 年
著)の中で、真間川と松林が水彩画の様な風景と賞し
ている。また、井上ひさしは「ドン松五郎の生活」
(1975 年著)で松林が趣深く、景色を絶佳と言ってい
る。これらは京成線開通後のことであるが、開通前
の時の松林も非常に美しい
景観と考えられていたので
はないかと推測できる。さら
に、その砂州は水はけのよい
地として人家が集中してい
た。また、江戸時代に千葉街
道が開かれたということも
あり、京成線開通前から千葉
街道周辺には住宅があり、今
後、より一層、人が多く生活
する可能性のある地として
京成線を通すに至ったと考
えた。
図-2 市川真間駅周辺部 明治初期~中期(1868~1896 年頃)
<引用>歴史的農業環境閲覧システム
【第2期】
1917 年は鉄道開通から 2 年後のことであるが、す
ぐに店舗などができたわけではない。一方で、田や
果樹園の間で道路が作られている。これは今まで区
分されていた田と田の間の道が整備され、その道路
を元に部分的に格子状な区域ができるように、道路
が形成されたと考えられる。
は京成線の影響が大部分を占めるためであるだろう。
そのため、1894 年に JR 市川駅は開業していたこと
に加え、市川真間駅開業が加わり、京成線以南は比
較的早くに発展していったと言える。
図-4 市川真間駅周辺部 1921 年
図-3 市川真間駅周辺部 1917 年
1921 年になると、新たな道路が形成され、建物と
しては市川真間駅北部に本多邸( 京成電鉄創業者
宅)(図-4中①)と本多貞次郎君寿像(図-4中②)が建
設されている。寿像に関しては 1922 年に完成するた
め、この時はまだ建設中であるが、これらが発端と
なり、市川真間駅北部にはこの後、続々と関連の施
設などが建設されていったのだろう。
一方で、1917 年時は市川真間駅と千葉街道の間に
おいて、千葉街道沿道以外は一面が果樹園であった
が、1921 年にはその部分に建物が存在している。こ
れは人口も着実に増えていることも含めて(表-3 参
照)、これらは京成線開通の影響と言えるだろう。
表-3 市川市市川町の人口推移
その一つと
して、1919 年
に創業した合
資会社日本小
澤眼鏡本工場
(図-4中④)が
存在している。
この工場では
1935 年 時 に
は、165 人の
労働者がいた。これは 1921 年から工場自体の大きさ
が変わっていないので 1921 年時にも同じくらいの
労働者がいたと考えられる。
一方で、市川真間駅北部においては大部分で田や
果樹園が広がっている。これは、京成線以南は、京
成線だけでなく、総武線の影響や千葉街道の存在も
大きな影響現になっていることに対し、京成線以北
①本多邸
②本多貞次郎君寿像
③光月・中島外科医院・牛島・交番
④小沢眼鏡本工場
表-4 市川真間駅北部における新施設
1928 年にな
1921年
1928年
ると、先述した
交番
大野医院(図-5中⑨)
通り、京成電鉄
京
中島外科医院
全旅館部(⑩)
関連の施設が本
成
牛島
割烹北巴(⑩)
多邸周辺に建設
永榮看護婦会(⑩)
さ れ て い る ( 表 以 光月
-4 の下段参照)。 外 (図-4,5中④) 一の湯(⑪)
さらに、京成線
宮永歯科医院(⑫)
以北において京
東華幼稚園(⑬)
成電鉄関連以外
巴里美容院(⑭)
の施設も増えた
高木医院(⑮)
(表-4 上段参照)。
本多邸(①)
京成電気学校(⑥)
京
これは、京成電
寿像(②)
京成倶楽部(⑦)
成
鉄関連の施設が
東華園(③)
京成軌道電燈課(⑧)
増えたこともあ
り、京成線を利用した人の出入りが多くなったこと
が原因だと考えられる。また、1921 年に建設された
ものも含めて、京成電鉄関連以外の施設として病院
が多くなっている(表-4 参照)。さらに幼稚園や美容
院もあることから、比較的、裕福な人たちが市川真
間駅北部において、多く住むようになったのではな
いかと考える。
平成 24 年度
社会工学類都市計画主専攻 卒業論文中間発表
2012/11/21
住宅として今に至っている。京成軌道電燈課はその
後、東京電力市川支店となり、建物も建て替えられ
ている。東華園や京成電気学校の跡地は住宅街とな
っている。
そして、1949 年には市川市政の 15 周年記念とし
て市民の手により、真間川沿いに約 390 本のソメイ
ヨシノが植えられた。その桜は現在でも桜土手とし
て親しまれている。また、開発前から広がっていた、
クロマツの林は住宅街の形成に伴い、次々と伐採さ
れていったが、その名残として今でも所々に松があ
り、現在の自然豊かな景観の一つとなっている。
図-5 市川町鳥瞰図 1928 年
<引用>千葉県市川町鳥瞰図
松井天山
図-7 市川真間駅周辺部 1947 年
図-6 市川真間駅周辺部 1928 年
*施設名は表-4 に記載
【第 3 期】
京成電鉄による開発が始まると、市で開発と同年
の 1938 年に都市計画用途地域が指定され、千葉街道
以北は住居地区、市川駅北部で千葉街道との間を商
業地区と定められたことから、市川真間駅周辺部は
新たに店舗が今までのようには建設されることはな
く、住居が増え、現在のような住宅街が形成される
ようになったのだろう。
またその後、都市計画街路の路線決定も 1942 年に
行われたことにより、今までの道路に加えて、より
細かく、人が移動できるような道路が作られた。
さらに、本多邸や東華園は現存しておらす、本多
邸に関しては本多貞次郎が 1937 年に死去して以降、
その跡地に現在存在する京成電鉄診療所が建てられ
ている。京成倶楽部は 1929 年に竣工してからまもな
くに、京葉ガスの本社となり、1945 年からは個人の
4.まとめと予想される結論
市川には砂州があり、クロマツが形成され、限
られた土地だったため人家が集中していたこと
と、砂州は養分が少なく、枯れた土だったため、
開発しやすい地だったということもあり、京成線
が開通し、市川真間駅が作られたと考えらえる。
また、自然豊かな景観であるこの地を本多貞次郎
が気に入り、自宅を構えたため、京成関連の施設
が次々と建てられていき、本拠地となったのだろう。
そして京成電鉄関連の施設が増えてくると、病院な
どの京成電鉄とは関係ない施設ができ、住居も増え、
人口が増加していった。一方で、市川真間駅北部で
は建物自体の規模が大きい病院や幼稚園、美容院な
どが建設されていることに対し、南部では小規模な
店舗が多い。そのことからも、市川真間駅北部は比
較的裕福な人たちが住む地であり、南部は庶民が多
い地となっていたのではないだろうか。
また、都市化は京成線以南の方が早いことも特徴
である。これは総武線と千葉街道の影響が大きいと
考えられる。都市化は京成線開通後からと見られ、
総武線の市川駅は 1894 年には開業しているが、総武
線だけでは人口の変化も少なく、あまり来訪者も増
えなかったのだろう。そこで、京成線が開通したこ
とにより、京成線と総武線と千葉街道の相乗効果に
より、京成線以南は早くに店舗などが形成されてい
ったと考えられる。一方で、市川真間駅北部は寺な
どがあったわけでもなく、他の鉄道などもなく、川
に挟まれた地だったため、都市形成に関して、京成
線の影響が大きい。
そして、鉄道会社による開発が始まると、初めて
街全体で都市として形成されるようになる。一方で、
この時点ではすでに道路の大部分が作られており、
区域ごとにテーマを持って、都市が形成されていた。
そのため、新たに道路を作るとしても、すでにある
主要な道路と道路を繋げるような細かい道路でしか
なかった。また、都市計画用途地域を指定するなど
しているが、既存の街並みを一掃して都市を作って
いるわけではないため、古い建物や自然が多く残っ
ている。この点が東京西郊と大きな違いと言えるだ
ろう。東京西郊は鉄道開通前に区画整理の話がまと
まっていて、全てが一体となり形成されている。そ
のため、街全体に一体感があり、新旧融合した街並
みにはなってなく、街にテーマがある。例えば、小
田急電鉄の沿線都市を林間都市、西武鉄道の沿線都
市を学園都市というキャッチフレーズで街づくりを
行っている。そのように定めることができるのは、
街全体を一体的に整備し、形成しているからだろう。
それに対し、東京東郊では、街の中でも細かな区域
で都市が形成されているため、道路も狭い区域でい
きわたるように形成され、細く、曲がりくねった道
路が多くなっているのではないだろうか。その一例
として、市川真間駅北部においては行き止まりや狭
い道路が多くなっている。
図-8 市川真間駅周辺現在図 <引用>ゼンリン住宅地図
ところで、先述した砂州は、市川以外にも、例え
ば千住大橋付近や坂東大橋下流にも確認されている。
その千住においては京成線の他に、東京東郊におけ
るもう一つの鉄道網と言える東武鉄道の東武伊勢崎
線も通過している。さらに、坂東大橋は伊勢崎市と
本庄市を結ぶ橋でその付近も東武伊勢崎線が通って
いる。そのため、東京東郊の特徴の一つに砂州があ
り、その砂州があった地には、鉄道が通過するよう
になっていて、開発がしやすい地として、そこを拠
点に鉄道が構成されていったのではないだろうか。
5.今後の方針
・同時期における東京西郊の調査
・東京東郊における砂州がある部分の都市形成につ
いて調査
6.参考文献
1)
『近代日本の郊外住宅地』(片木篤・藤谷陽悦・角
野幸博、2000、鹿島出版会)
2)
『目で見る市川の 100 年』(中津攸子、2008、郷土
出版社)
3)
『市川市が誕生したころ』(市立歴史博物館、2004、
市立市川歴史博物館)
4)
『京成電鉄 85 年の歩み』(京成電鉄株式会社、1996、
京成電鉄株式会社)
5)市川市ホームページ
6)
『地図に刻まれた歴史と景観 市川市・浦安市』(児
玉幸多・古島敏雄、1992、新人物往来社)
7)ゼンリン住宅地図(2012)
8) 京成電鉄ホームページ
9) 京浜急行電鉄ホームページ
10)『東京・関東大震災前後』(原田勝正・塩崎文雄、
1997、日本経済評論社)
11)『京濱電氣鐵道沿革史』(杉本寛一、1949、京浜
急行電鉄株式会社)
12)『東京の宅地形成史』(長谷川徳之輔、1988 年、
星雲社)
13) 国土交通省のホームページ
14) 大田区ホームページ
15)『目で見る大田区の 100 年』(江波戸昭、2011、
郷土出版社)
16)『葛飾土産』(永井荷風、1947、中央公論社)
17)『ドン松五郎の生活』(井上ひさし、1975、新潮
社
18)民営鉄道グループによる街づくり一覧~明治 43
年から平成 15 年まで~(都市開発協会、2007、都市
開発協会)