インドネシア共産黨武力蜂起の失敗とメッカ巡禮者との關係 (一九ニ六-ニ

KURENAI : Kyoto University Research Information Repository
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インドネシア共産黨武力蜂起の失敗とメッカ巡禮者との
關係 (一九ニ六-ニ七)
永積, 昭
東洋史研究 (1979), 38(1): 1-23
1979-06-30
http://hdl.handle.net/2433/153727
Right
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Journal Article
publisher
Kyoto University
1
第三十 八巻
第一一蹴
昭和五十四年六月
震行
昭
全乃夫局、。ル
積
インドネシア共産黛武力蜂起の失敗と
(一九二六│二七)
方
く
家 げ ている 。 た だ し こ の 中 で 最 後 の聖地 巡 躍 は 、 健 康 で 経 済 的除 裕 の あ る 者 に 限 っ て 課 せ ら れ た 義 務 で あ っ た が 、 敬 度 な
イ ス ラ ム 教 徒 に と っ て 、 メ ッ カ の 大 祭 に 参 加 す る こ と が 一 生 の 念 顕 で あ っ た こ と は 、 想 像 に 難 く な い。
イ ン ド ネ シ ア は マ レ ー シ ア と 共 に 、 東 南 ア ジ ア に お い て イ ス ラ ム 教 の 最 も 盛 ん な 園 で あ る 。 イ ンド、不シアのイスラム敬
- 1ー
メッカ巡謹者との閥係
はじめに
一 サ ウディアラビアの建園とその園際政治への影響
二 ソビエト連邦の巡雄封策とインドネシア共産禁
三 PII等関係者八人の逮捕
め
四むすび事件の結末と意義
じ
イ ス ラ ム 教 の 聖 典 ﹃ コ ラ 1 ン﹄ は 、 信 者 が 果 た す べ き 義 務 と して、信仰の告白、 躍 奔、断食、 喜 捨、 聖 地 巡 曜 の 五 つ を
t
主
徒は全人口の九割を占める、 としばしば言われる。中部・東部ジャワのイスラム教のように、他の諸宗教と融合して、濁
遂げている場合もあるので、この数字をそのまま信じるわけには行かないけれども、 西部ジャワやスマトラに
特の 嬰容を 日
おけるイスラム布数がはるかに徹底して行われたことは明らかである。
そのよい例が、 インドネシアおよびマレーシアのイスラム教徒が聖地迩躍に示して来た熱意である 。 そもそも全世界の
イスラム教徒の分布から見て、この間闘は地理的に最も遠く位置していると言っても過言ではあるまい。それにもかかわ
らず、すでに十七世紀ごろから、土着君主はしばしばヨーロッパ諸園の船にみずから乗り、あるいは代理の使節を乗せて
聖地巡躍を行なった。時代が下るにつれて、この風習は王族のみならず 一般にもひろがり、 とくに一八六九年のスエズ運
ロシア(のちにはソビエト連邦)、 ベルシアなどと共に、自園民がメッカ巡躍と密接な
河開設以後、 イギリス、 オランダなどの汽船曾祉が、紅海中央部のアラビアの港ジェッダに定期船を航行させる様になる
イギリス、 フ-フンス、
- 2ー
と、巡躍者の数は急増した。
オランダは
開係を有する園の一つであったので、これらの諸固と同様、 ジェッダに領事館を置き、検疫を口貫として、自園民の出入
円
(
γ
n
m
MZ33rh) 末尾の表に毎年牧められている。 オランダの枇曾撃者フレ lデンプ
港を管理していた。そのため一八 七八年から一九三八年までのイ ンドネシア 出身の 巡植者総数の統計があり、 これはオラ
ンダ政府護行の﹃東インド報告﹄
①
レヒト(﹄・ざ包gfo向。はさらに他の史料をも参照して一九四O年までの統計を作成し、彼の論文の末尾に附録として載
せている。彼自身もこの表の解説で述べている様に、この数字はインドネシア以外、(すなわちシンガポール、ベナン、ジエツ
また全くパスポートを持たずに入港する
れば、幾つかの興味深い事買が分る。 まず、この六二年聞のインドネシアからのメッカ巡躍者組教は貫に六七薦人に達し
組数は ﹁不明﹂の年が五回もあり、その 信頼度はさらに限られて来る。しか し
、 その貼に留意しつつ雨者の数字を比較す
者は記録に現われないので、あくまで概数を示すに過ぎない 。 まして、この統計に併記されている、 全世界からの巡植者
②
ダなど)でパスポートを取得したインドネシア人を必ずしも含まぬ場合があり、
2
3
たのである。この中に前述の嬰則ないし不正入園者が含まれていないこと、 またこの他にマライ半島その他のイギリス植
民地出身者が多敷いたことを考えれば、これは驚くべき現象と言えよう。
次に、全世界からの巡瞳組数の中で、インドネシア出身者は常にかなり高い比率を占めていたことが分る。 インドネシ
ア出身者が史上最高の数に達したのは、 イスラム暦一三四五年(西暦一九二六年七月二一日│二七年七月一日)の五二、四一一一
人であり、この年の全巡躍者数の四二・六パーセントに嘗る。またパーセンテージだけを問題にするなら、 イスラム暦一
三三二年(西暦一九一一一一年二月三O日l 一四年二月一九日)は同年の全巡薩者数の丁度五O パーセントに達し、これが最大
の敷字である。全時代を通じての百分比の卒均は一八・O 五パーセントで、必ずしも多い率とは言えないが、地理的な距
離や、しばしば起こったアラビア半島内部の政情不安、戦範による海 上交通の杜絶等を考えに入れれば、やはり注目に債
するであろう。 しかも、この中には、 イギリス領のマライその他の植民地や、他の東南アジア諸地域からの巡艦者は、
切含まれていないのである。
私の嘗面の課題は、巡瞳の全期聞を通観することではない。 それについてはすでに一八七三年にヘルヴェルデンが、
③
﹃メッカへの巡瞳行﹄という小加子を著わして以来、管見の及ぶ範圏でも、 エイゼンベルヘル、アブドウル・パ夕、ブス
ケなどの著書があり、また前述のフレ 1デンプレヒトの論文は一九六二年に書かれ、社禽皐的方法を用いた優れた分析の
一九二六年七月から二七年七月に至る巡躍シーズンに視野を限り、 メッカ巡雄者に射するインドネシア共
成果を示している。従って同じ史料に頼っている限り、これらの研究に新しい何物かを附け加えることはほとんど不可能
であろう。
そこで私は、
産禁の宣停活動という問題を論じることにする。これについての最も基本的な史料は、言うまでもなくオランダ王園植民
ハlグの外務省分室倉庫にあるが、整理が極めて悪く、現在は閲覧不能である。園立文書館及び王立国書館の新館が
省と外務省の文書である。このうち外務省のアラビア及びエジプト関係文書は﹁大使館文書﹂ 9BEMa ﹀RE2ると呼ば
れ
、
- 3ー
4
完成する一九七九年には利用可能となる様に聞き及んでいる。 また植民省文書は、戦後の植民省底止に伴ない、
一九OO
一九六三年ごろから、年代順に古い文書 か ら 閲 覧 が 許 さ れ る 様 に な っ た 。 今 回 研 究 の 封 象 と す る
@
2rE﹀は公開の部と秘密の
年以後の同省文書は内務省文書課 に移管されている。 この文書の根幹をなす﹃公式報告﹄2
部の二種に分けられ、
時期の﹃公式報告﹄が解禁になったのは 一九七0年代の初めごろであり、私は一九七八年の四月から 七月までの四カ月
o
n
t
o 肘Eroorbo﹀
l ・コレクション﹄(の。z
間、この文書を利用することが出来た 。 これに次いで重要だったのは同園ライデン市の王立室譜・地理・民族皐研究所
同
gEEニrHZZE52 吋E﹁
-FEι12 ︿OFgrE号)に牧められている﹃ホベ
(
穴
である。これはイスラム皐の大家で長い開﹁原住民問題顧問官﹂を勤めたエミ l ル・ホベーが生前に集めていた文書を同
⑤
研究所に寄贈したもので、前述の﹃大使館文書﹄に含まれながら閲覧出来なかった毎年の﹃巡躍報告﹄のうち、数年分は
oE﹀に、深甚な謝意を表する次第である。 またこの研
門臼﹃
このコレクションに含まれていて、利用することが出来た 。 これら雨機関、ならびに私のオランダ滞在についてフエロl
シップを輿えてくれた﹁ライデン大 与基金﹂ (﹃正目 C225E
究は、私が腐している特定研究﹁東アジアおよび東南アジア地域における文化摩擦の研究﹂ の中の ﹁文化の俸播と摩擦
││東南アジア﹂班に協力しつつ、 かっその刺激を受けつつ貫施したものであるが、研究自践は終始私個人が行なったも
のである。従って文中に不備がある場合は、すべて私の責任であることを、ここに明記しておきたい。
サウディアラビアの建園とその園際政治への影響
聖地巡雄者激増の背景として、この時期のアラビア半島における政治情勢の植民化に二言鯛れておかなければならない。
一九一六年十一月、
﹁アラブ園﹂の王として即位し
第一次世界大戦中、聖地メッカのシエリフであったハシム家のフセインは、数世紀にわたるオスマ 1 ン・トルコ帝園の
@
支配を脱 して、濁立を 宣言 し、紅海沿岸のへジャス地方を制した後、
た。嘗時 トルコはドイツ側に立って参戦しており、 フセインはイギリスの援助を得ていた。しかし、半島中央部のネジド
- 4ー
5
⑨
@
地方に勢力を布くサウド家は年来ハシム家と敵封関係にあり、 フセインが﹁アラブ園王﹂ を備稽したことに憤慨してい
⑦
た。さらに 一九二四年三月、フセインが濁断でカリフの位についたことは、 イスラム世界内部に大きな不満をまき起こし
⑪
一九二七年一月四日、 イプン ・サウドはヘ ジャスの 王となった。やがて一九三二年
た。 この機曾に乗じてサウド家のイプン・サウドはメッカに入城し、敗れたフセインは逃亡した。
ジェッダ、 メディナの征服も終り、
。
九月十八日、彼の版園はサウディアラビアと改められ、彼はその初代園王となるのである サウド家は原初イスラム数の
聖地周遁の治安は回復され、
巡膿者 の数は再び増加し始
ワッハlブ涯﹂に属し、 ムスリム同士の連帯を説く一方、宗数に政治が介入することに
精神への復蹄を説く、いわゆる﹁
。
ヨーロ ッパ諸園の劉ア ラブ政策にも大きな影響を及ぼ した 。 なかでも、この地
は強い警戒の念を持っていた。 箪規の 正しいサウド 軍に より
めた。
サウド 家 によるアラビア全土の統一は
域に最大の関心を持つイギリスの動揺は大きかった 。 イギリス外務省のアラビア局は﹁アラビアのロレンス﹂の助言に従
レバノンおよび北ア
、 同省インド局お よびそれにつらなるインド穂 督府、植民地省は、 別のアラブ通フィ
ってフセインを支援しており、 一方
@
EMH-﹃﹃)の意見を用いて、早くからイプン ・サウドの絡来を有望視していた。 サウディアラビアの
ルビl(EO
ミ ωこ。Z
ロ
成立は、イギリス外務省内での後者の路線の勝利を意味したが、従来の行きがかり上、サウド家との折衝が固滑を紋くこ
とになり、外交上大幅な後退を齢儀なくされたことは言うまでもない。
他方、 イギリスと同じく第一次世界大戦の勝者となったフランス は、アラビア半島よりもシリア、
⑬
フリカ方面に深い関心を示していたため、サウド 家 とハシム家の勢カ逆轄によってさほどの影響を受けず、 また特に新し
い反陸を示さなかった。
ところが、これに射して大いに有利な立場に置かれたのが小園オランダであった。イギリスの場合、さきに述べたロレ
ンスとフィルピーとの意見封立があったのにひきかえ、オランダ政府のイスラム政策は、嘗時イスラム皐の世界的権威で
- 5ー
6
切。
あった C ・スヌ lク・ヒュルフロ l ニエ(の-rEnrzc﹁旬。とらの助言に負う所が多かっ
スヌ lクは 一貫 してイプ
⑮
一九二八
、 その賂来性を強調していたために、 ・
サウディアラビア樹立後、 イブン・サウドはその友好的姿勢を
ン ・サウドを 支持 し
多として、特にオランダを優遇する態度を見せたのである。
オラ ンダの外交上の 優越は 、 しかし単なる幸運に よるもの ではなく、 周到な配慮によっ て裏打ちされ て いた。
5 ロι2FA2-g﹀が 書い た一九二六│二
年四月二 十七 日にジ ェッダ駐在 オランダ領事D ・ファン ・デル・ミュ l レン (0・
∞l N
吋﹀に よれば、このころイブン ・サウドは長子サウドを エジプトへ 、 衣子
七年期の ﹃巡艦報告﹄(匂ミ2 2ミMesahhahHUN
ファイサルを、英・俳・蘭三国へ波遁して、これらの園々が自分をへジャス王として正式に承認してくれたことへの 答躍
を行なった 。 この時、 イギリスは外交路線の混乱 も嗣いして歓迎ぶりは冷 淡 であり、 サウド家と親しいフィルビーは個人
。
的にはよく 霊力 したが、皮肉に もその ため に公式政府の側の無関心ぶりが非常に目 立ったと言われる またフランスでは
⑮
故意にではなく無知から、 この使節園のパリ訪問に際 して何 の公式日程も立てていなかったので、知らせを聞いてイギ リ
スから 急行 したフィルビーが代って一行を数日開案内する始末であった 。
これにひ きかえ、 オランダ政府は 毎日入念 な行事を準備し、 ファ イ サル王子を重視 していることを 十二 分に示した。特
にウィルヘルミ ナ女王との謁見や、 スヌ 1ク・ヒュルフロ l ニエの優れたアラビア語の皐力は、 王子を深く印 象づけ たら
しい 。 王子は同行した報告の筆 者ファ ン ・デル ・ミュ l レンからスヌ 1クの印象を聞かれて、
@
スヌ lク数授は そハ メダンで しょう。 兄弟のみがこれ程 よく我々 の習慣を知り、 また私にふさわしいものを私 に興え
るすべを心得ています。彼は私より純粋なアラビア語を話します。
。 このため ジ ェッダのオランダ領事館は、 イブン ・サウド王から同地のイギリス 領事館 と の聞にある敷 地
と激賞 してい る
⑩
臼
ιn
ZESP-B25E宅5 ゃ、二、三の
を贈られ、またオランダの植民地開設禽祉であるオランダ﹁貿易曾祉﹂ (ZEES
銀行も他園に先がけてジェッダに支庖開設を許された。またサウド政府は海外への支挽い機関としてオランダの銀行を選
- 6ー
7
⑮
@
び、かつ閲税牧入も同行を通じて納入させていた。従ってへジャス地匿における銀行業務はオランダの濁占となり、最初
巡躍に関する業務を珠想して開設されたこれらの支庖は、金融その他一般銀行業務の方で一層大きな利盆を翠げ、巡躍閲
。
、ウ デ ィ ア ラ ビ ア 政 府 の 好 意 的 待 遇 は こ れ だ け で は な
もサ
しか
係業務は副次的なものとなってしまったと考えられる
﹀
E
回件。という人物を領事館の蝿託としてメッカに常駐さ
る
なっ
たが、
年さー
なか
れに
一こ一
を許
九る
と一
、域一
様聖
に入
カの
ぃ 。 オ ラ ン ダ の ジ ェ ッ ダ 駐 在 領 事 は 他 園 領 事メとy同
と、停年退職したジャワ人ラデン・アプ・バクル(刃包g
せることが出来る援になり、 さらに一九二四年以後 はジャワ人のムスリムから任命された副領事一名をメッカに常駐させ
@
るのが慣例となった。この副領事は公式にはジェッダの副領事であり、 イブン・サウドはイギリスから同様の要求が出る
ことを恐れて、この案には非常な難色を示したと俸えられる。しかし、ともかくこれは黙認されたのであり、同様の特権
は他の園に許されることがなかった。 これによってオランダは、自園植民地の原住民がメッカに形成したいわゆる﹁ジャ
ワコロニー﹂旬、さらに聖地の一般朕勢について他園の追障を許さない情報を得ることが出来たのである。
ソビエト連邦の巡躍封策とインドネシア共産禁
。
メッカ巡躍に深い開心を示した西 洋列強は、盟十に英、併、蘭の三園だけではなかアた 東ヨーロッパの大圏ロシアは領
内に多数のムスリムを擁し、すでに帝政時代からその管理に力を注いでいたらしい。明治四二年(一九O九年) 一二月の
γダでの印 象 を次の様に記している。
大祭に最初の日本人としてメッカ巡雄を行なった山岡光太郎は、 ジェ
同行者の奮友にしてヂッダ 露園領事館書記生某を訪ふ。某は鍵担人にして回数徒なり。此地に駐在すること既に二十
有徐年なりといふ。某に三子あり。内二名はトルコ陸軍に奉職する将校にして、目下主都に勤務せりと。白髪童顔の
@
好老爺、身は露園の俸除に衣食しつつ、我戦勝を欣羨祝賀し、宗園を熱罵痛笑するところ、本気の沙汰と思はれざれ
ども、其出生のアジア民族に出で、世襲的報復の血性遺存すを思はば、叉不可思議にも非ざらんか。
- 7ー
8
この人 物の名 を知ることは残念ながら不可能であるが、帝政ロシアの巡躍政策の一端をうかがうに足る史料と言えよう。
。
社曾主義革命に よって成立したソビエト連邦も、 メッカ 巡曜の持つ意義については深い関心を持ち績けた様である ジ
イギリスその他の外 交
0﹃﹀なる人物が領事であった。
一九二 六年ごろはハキモフ(広島5
エツダのソ連領事館は存績し
一介の 領事館に封 して
@
筋によれば、 ソ連 領事館はモスク ワからク lリエ (停令使)に よ司て定期的に指令を受けており、
こういう出 費の かさむ政策が とられるのは、極めて異例なことであった 。
@
オランダのカイロ駐在公使館はすでに一九二五年ごろから、 ジェッタのソ連領事館の宣停活動に注目し、本圏外務省に
報告を迭っていたと言われる 。
一九 二六 年五月 以来、
@
ハキモフをジェッダから 遠ざける様、種々工作を試みていた 。 彼は同地のオランダ代表筋と、
丁度この噂を 裏づける様に、 インドネシアでは一九二 六年 一一月一一一日に、 ジャワ西部のバタヴィアおよびバンタムに
一一一月中旬ま での聞に政府軍に よ って鎮座され た。 その知らせは逐一全世界
一九二六年一一月二八日附のカイロの新聞﹃アル・アハラム﹄はフランスの新聞 ﹃レ・デ バ﹄の
おいて、共産鉱員による武装蜂起が始まり
に傍えられた様である。
記事を引用して、 ソ連のジェッダ駐在領事館員の活動を詳細に説明し、
この職員の仕事はムスリム巡躍者逮の聞に共産主義思想を贋めることにある。多数の使者が彼等の乗船の到着に際し
@
て巡躍者 を迎えに行き、 ジェッダの港からメッカまで同行して、文字の讃める者の聞に宣停文書を配布し、共産主義
とヨーロッパ憎悪への誘いで、彼等を元気、、つける 。
と記している。現地から遠く離れた所での記事であるために、あたかもインドネシアの武装蜂起が専ら聖地周迭でのソ連
の宣俸に よって起こったかの様な印 象 を、讃者に奥えたとしても不思議はなかっ
- 8ー
イギリ スのカ イロ 駐在高等排務官も、 ソ連領事館の 宣停活動が英領 インドの民族主義運動に影響を輿えているものと考
>
この問題について論じている 。
え、
9
事件護生直後、 サウディアラビアの外務大臣ダムルlジはオランダ領事と接鯖し、﹃アル・アハラム﹄紙の報道を根援
メ ッカやメディナに反オラ
薄弱と見なしつつも、 オランダ側の調査を依頼している。サウディアラビア政府としては、 ﹁
@
ンダ運動の温床が出来たという印象を外部に輿えたら、如何に不利になるかを熟知していた﹂のである。従って高一この
様な事貨があれば、断乎として阻止するという決意をオランダ側に俸えたのであった。オランダ側も、
もしこの園で反オランダ宣俸が公けに許されている援に感じられれば、勿論東インド政府はその園民をもはや巡躍に
迭り出すことを許さないだろヤ
と答えている。
@
ιFLoS己申インドネ シア・シェイク同盟)
それぞれ S B I 3百五回切 Oロ
- 9ー
嘗時メッカ在住のインドネシア出身のムスリムの聞に衣の二つの園陸が結成されていたことが、ジェッダ領事ファン・
。
デル・ミュlレンからバタヴィアの総督への一九二七年六月一七日附報告で分る この報告の原文はかなり長いものなの
この圏睡を、
。
で、その全文の代りに大要を記せば、次の通りである
領事は副領事からの上申に基づき‘
m インドネシア・イスラム協品目﹀と呼んでいる。商圏置とも西部ジャワのタンクl
F
ι。
ロE
および PII9022-EZロE 曲目 F
。
アン・ガルット出身の共産黛員マハダル (pprECという人物が議長を勤めていた このマハダルは一九二六年一一月一
一一日深夜に西部ジャワのチアミスで起こった蜂起に参加した 後、逃 亡した人物で、 パスポ ートも切符もないまま、ネマゼ
。
l汽船曾祉の汽船アルメニスタン披で、密航者としてジェッダに到着したらしい
その中から共産主義運動に適した人
さて、二つの圏笹のうち、 SBIは 1 報告者に従えば │ 執行部はすべて共産主義者であり、 巡躍 のためのシェイク、
arac なる者がインドネシアから同行して来た巡瞳者を迎え、
パス・イラギ(﹀r
々を選び出す﹁一種の選揮機関﹂であった 。 シェイクの側ではこの圏監を自分のものと心得、 自己の名を冠して呼んでい
たが、執行部とシェイクとは劃立しており、 シェイクは SBIに紹介する際に一入賞りオランダ貨で二ギルダー五O セン
ア
0
1
、 とのことで ある。
ト受取るだけで、 それ以上はかかわりを持たな い
になる様に働き
こうして運動に過し、 またそういう志向があると見なされた人々は、第二の園地胞即ちPIIのメンバ ー
する目的で
に
かけられる。今年の巡躍シ ーズンが終った後、 SBIの三人の執行部メンバーは、 S Bーのた め 巡躍 を獲得
、 シ ェイク
か
、 それは PI Iの行動に
インドネ シアへ蹄ることを改定している。 こうして共産主義者を組織するための新 しい中心を 得るだけでなく
@
の事務の一部を代行することによって資 金源 を得る。直接その金を入手するのは S Bーであるが
使われる 。
この 園 憧 は イ ン ド ネ シ ア 巡 雄 者 か ら 暴 利をむさ
この様な活動がオランダ植民地政府から怪しまれなかったのは、ジャワに既に久しい以前から計重されていた﹁みず
ら巡躍 を行なう固鎧﹂ (OKgrErR官巳NEO﹀のためであったらしい。
。
PIIの
ぽるアラビアのへジャス地方のシェイ ク達 を閉め出すために計 聾 されたものであ った そのため人々は SBIや
動きをこの囲健 のためのものと思い 込み 、あ まり疑いを抱かなかったのであろう。
。
SBIは三人の指導者を ジャワ または シンガポ ールに 行かせる ための資金 を集め ていた 一人につき三O ギル ダ ーが必
ハ ダル 、宗 教敬師はスマ トラ 西岸 出身のジ ャナ ン ・タイ
要であった。また PI Iは宗数回鐙の形を取り、議長は前述の マ
プ(222 吋Er)という人物で あっ た。タイプはカイロのアズハル大 皐 の兎肢を持っていた。 彼 は新聞記者とい う資格で
ンや
カイロに現われ、武器の轍入についての情報を迭る手筈になっており、 その 場合には PI Iの執行部の 一人はア リミ
。 この文、通の意園は ﹁恐怖
故郷の同憂の土たちと文通しようとしていた。 キヤイは 巡艦
タン・マラカと接鰯するためにカ イロに 波遣され、 また別の一人はセマウンと接鯛するためにソ連に波遣される計 重であ
ったと言われる 。
宗教教師)の仲介で
このほか PIIは ジ ャ ワ の キ ヤ イ (
。 この P Iーこそ﹁東イン
@
振興のため卒素から逼信をさ かんに行な っているの で、嘗局の嫌疑を受けるこ とが 少 なか?た
にとらわれ、 または打撃を 受 けた兄弟たちを再び鼓舞し、新しい 勇気 を輿えること﹂であった
0ー
- 1
1
1
ドを共産主義へと育成するための中心組織﹂と考えられていた。
以上がインドネシア共産禁の残黛によって組織されたと言われる二つの圏鐙の活動および相互関係についての、
@
ファ
ン・デル・ミュ l レンの報告である。彼は一九七七年に刊行した回顧録﹃君には雷鳴が聞えないか?﹄の中で、第一回の
た他
アラビア在任時代(一九二六l一一一一)に一三頁を割いているが、この二圏瞳についての説明は全部省略されている。ま
二
の関係者の報告はもとより、彼自身の数多い報告の中でも、この貼に詳しく鯛れたのは一九二七年六月一七日附及び二
日附︿附録参照﹀ のものだけである。 しかし報告が首尾一貫して論理的、かつ具鐙的である所から見て、 私は恐らくこの
二国鐙は賓際に存在したものであろうと考える。このことは一九二七年五月一八日、 オランダ東インド糟督府第一書記が
各地区行政長官への通達の中で、次の様に述べている事からも裏づけられる。
25220るがいることを、 総督は承知している。 彼等は巡躍に波立つこと
今年の巡躍者の中に各種の過激主義者 (
@
、 一一暦の追及をくらますための手段にしようとしている。 彼等がメッカで組織を作っており、 また彼等︹自身︺及
を
ぴ︹他の︺巡艦者を介して、︹東インドにおいて︺ その宣俸を復活させようとしていることは明白なので、組督は開園し
た巡瞳者達を監視する必要があると感じておられる。
で
ところで、この様なインドネシア共産黛残黛の活動は、どの程度コミンテルンの指導ないし了解のもとに行われていた
@
たと
あろうか。前述のソ連領事ハキモフに劃する英関雨園の外交官筋の推測にもかかわらず、私にはその可能性は薄かっ
の
しか思われない。何故なら、すでに多くの研究者が指摘している様に、そもそもインドネシア共産黛の武装蜂起そのも
が、コミンテルンとの連絡不十分のまま、その方針に反して行われたからである。
pII等関係者八人の逮捕
PIIはハシム 家のフセインに取って代ったイプン ・サウドの統治を許して、 フセインの治世よりも悪いとして大いに
-11ー
非難していた 。すなわ ち
フセインは治安の黙で劣る所があった代りに言論や思想の統制を行わず、 巡瞳者達 の宗数的 見
解を全く自由に放任した 。 ところが、 イプン・サウドは道路の通行 を安全にした代りに、 巡曜者逮 から通行 税を 徴牧し、
@
さらに 彼等の宗数的見解を 統制
、 ないし抑匪した、 というのである 。 それ故、 p I Iは同 様の不満を持つ アラビア在住の
イラ ン人やイ ンド人に劃しても、政治的煽動を試みていた 。
、
入賞り毎月 一五グルlシュの税を取立てられ、生活が 繁では ないので、彼等を組織してストライキをさせるであろ う
@
P I Iの他 の活動は聖 地周遊の水運び 人 足 公2る に も 向 け ら れ た 。 人足は激しい 献労働 をしているにもかかわらず、
pIIは公言していた様である。この ような情勢分析が果して 正しいものであったか、 叉かりに正しかったとしても、
つ 企h
"
'
の
府
さ
れ
た
ている 。
@長
,
7
'
t
首地の政府は、
タ
めた 。 しかし、この園で 宣停活動 をすることは許すまい、
者連を検場することによって、
政
、
イギリスの外 交筋で も
@
政府は上記 二回鐙︹SBIとPII︺の指導
。 既に述ベた如くサウ
@
一部のオランダ人は、政治的 手腕に長じ たサウド王が
﹁私はイブン・サウド王は︹共産主義︺宣停やその結果について少しも意に介しない、
一種の俸
共産主義宣停 を﹁ パン ・イスラミズムのための目的にかなった手段 ﹂として抜け目なく利用するだ ろうと推測していた。
ド家及 び外務大臣ダム ルl ジの親オ ランダ感情は明白であったが、
しかし、南 国睦の検挙に踏み切るまでの サウディ政府の内情は、かなり複雑なものであったらしい
約
束
を
守と
PIIの︺関係者達が自己の出身園におい て犯したかも知れぬ事柄 に閲しては、干渉しな いことに決
︹
I Iの活動がサウ ディアラビア政府の心 誼を害したであろう、 ということ である。 ファン・デル・ミュ l レンはこう記し
トライキなど が賀行可能であっ たかに ついて、我々は全く判断の材料を持たない 。 ただひとつ言えるのは、このようなP
と
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官フア lド・ハムザ
QEιzgME) は
は っきりと反オランダ的であ ったし
さらに閣僚の多くはシリアからの亡命者
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統的首長と見ている﹂などの意見もあり、サウド王の外交の繁幻自在ぶりについては、既に定評があった。しかも外務次
2
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オランダのジェッダ領事
で、故園でのフランスの塵政に苦しんでいただけに、反植民地主義の色彩が濃か?た。そのため
ファン・デル・ミュ i レンですらその直前の一九二七年五月一八日には、
府ー ーに反射する宣
イスラム園政府はキリスト教の西欧政府ーーしかも同じイスラム数徒数百高人を支配している政 ー
い。このように、
俸を行なっているとの理由で、﹁アラーの客人﹂をその園から追立てることには、容易に踏み切るま
渉されることを、極
@
彼等はその約束の結果をおのが身に引受けようと欲しないのだから、我々の政府にこのことで干
めて不倫快に思うだろう。
何であろうか。
と記しているほどである。それにもかかわらず、 アラビア政府を遂に幹部逮捕へと踏み切らせた理由は
からであろう。 いずれ
を硬化させればサウディアラビアの園庫牧入にも少なからぬ 影響が及ぶだろう、 との考慮が働いた
局沈黙を除儀なくされた
にせよ、政策決定の全権はサウド王の手中に握られていたのであり、閣僚その他の反封意見は結
のである 。
⑬
この中では
幹部逮捕を示唆する第一報は、同年六月四日にジェ γダ領事がパタヴィアに打電した併文の電報であった。
パダン出身。 pIIの曾計係、曾員カードを貰る係。
彼はスマトラ西海岸におい
月一七日の報告では、既
まだ﹁アラブ政府は指導者を逮捕するであろう﹂と記されているだけであるが、前に紹介した六
@
告は最初に捕えられた六
に逮捕は行なわれたものとして、﹁議長マハダルはまだ逃亡中である﹂と記されている。この報
名について次の援に記している。
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マルフム (7ARr。
パキ・リパット(句ωrFE 旬曲同) ソログ出身。 ソロクの反飽の指導者。
gロ富。。三宮r﹀ スマトラ西部のパダン・パンジャン出身。
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スタン・ムンチャク (
て、既に指導者の一人であった。彼はパダン・パンジャンとソロクの反飽に参加した。
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(
パナマン・パダン出身。 pIIの書記。
スパイとして利用するため
SBIの書記。彼はジャワにおいても嫌疑を受けたが放兎され、︹嘗局により︺
アブドウッラ l ・カミル(﹀﹁品。巳zrH内曲自己﹀
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スマ アィサストラ
スパイとして使われた。
プ ルン出身。バンドヮンで二日開監禁され、
ガンダ(。自色白) パンドゥンのウジュン ・
に樺放された。 SBIの曾計係。
OM﹄ 円 。 )
、
方
一
﹁メッカにおける共産黛活動の本来の指導者粂組織者﹂と目され
﹀
また、その後
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E 別名アブドウルラハマン(﹀E00三島 BB)
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ハジ・タンスィ・グラル・バギンド(民主ピ、g
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の二人が逮捕され、結局合計八人に達している。
警察 の目を逃れた﹂と
ていたマハダルは逃亡を績け、迭に逮捕を菟れることとなった。﹁問題のメッカ園設の指導者達は
@
知れない。しか し
領事の﹁ 巡膿報告﹂が特に複数で記している所を見ると、マハダル以外にも逃げおおせた者はいたかも
これ以後その活動は絶えた様である。
、
一人ずつ訊問 し
ジ ェッ ダ領事ファン ・デル・ミュlレンは六月二O 日夜、 ジエヅダ警察の木造聴舎において、全員を
二二日にその結果をバタヴィアの総督に書き逢った。その全文を末尾に附録として掲げる。
PIIの二園陸との関係を
これによれば、西部スマトラ出身者五名、西部ジャワ出身者三名で、皆一様に SBIおよび
彼のために一生を誤
否認している 。 マハダルと面識があることを認めた場合でも、 その許債は大世において否定的で、 ﹁
遇が、彼等を 萎縮させた
まった ﹂とい う調子が全部に共通している。 一四日 聞に及ぶアラビア政府の留置場での苛酷な待
でないことは、誰の眼に
こともあろうが、 たしかに彼等がインドネシア共産黛の中極において重要な役割を果す程の大物
は第一に黛の執行部が地
も明白であった。武装蜂起に際して各自の地区での指導者であった者は少なくないが、 この事買
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6
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とは殆ど無縁の青年達
方支部から遊離していたこと、第二に個々の反凱が共産主義のイデオロギーやコミンテルンの指令
の組織的行動と見るこ
によって開始されたことを一示すものに過ぎない。従って、彼等のメッカ潜入をインドネシア共産黛
@
げたと見てよい。
えその期待がかけられていたとしても、それはこの八人の検穆と本園迭還によって、事買上終りを告
@
、墓ましくない ﹂
﹁彼等が一隻の巡躍船で謹選されることは、 一五OO 人もの開園する巡躍者と接することになるので
せられて 、スマトラ北
というジエヅダ領事の意見にもかかわらず、 八人は六月一七日にオランダ船シンケ てフ蹴一隻に乗
想通り、﹁八人の中七
西端に面する小島サパンに迭られた。﹁二l 三の者は無罪、他の者は微罪﹂とのジェッダ領事の諜
@
人は樟放され同﹂様であるが、彼は最近護行された回顧録では﹁大部分の者はディグ l ル迭りとなった﹂と記している。
いであろう
或いは一旦揮放され、 暫く経ってから別の理由で流刑に慮せられたものであろうか。 それとも作者の記憶違
か。この黙について語る史料は、今までの所見嘗らない。
むすび││事件の結末と意義
人の引渡しはオ
このような反躍はサウディアラビア政府の議想を越えたものであった。政府は直ちに聾明を設し、 ﹁八
めに追放されるのでは
ランダ政府の要請によるものではない﹂と言い、また﹁彼等はオランダ領東インドで法を破ったた
表明が目立った。
して烈しく非難するも
の新聞は﹁イプン・サウド王が西欧植民地勢力を助けて、ムスリム人民の解放運動を阻止した﹂と
@
シア留皐生からの不満
のが多かった。王に抗議電報を寄せる例も見られ、とくにカイロのアズハル大皐在皐中のインドネ
切り抜けたが、海外
サウディアラビア政府は圏内においてはこの検奉事件についての批判を、巌しい言論統制によって
四
5ー
- 1
知れないが、これらの
とは到底無理と思われる。成程SBIとPIIは八人が検翠された後も、多少の活動を績けたかも
れない。そして、たと
ささやかな組織に、聖地における共産黛再建などという放腫な夢が託されていようとは、到底思わ
5
1
6
1
﹁メッカでは宗教しか拳べなかったが、 カイロでは政治
織 したからだ﹂と説明して、 捧解につ とめたが、その立場
なく 、 メッカにおい てこの聞の 安寧秩序 を乱す目的で園鐙を組
@
。
オランダ東インド政醸が要請した数人の個人を検奉
は明らか に苦しいものであった そのため、サウディアラビア政府は
筋者が聖 地 に 来 る こ と を 防 止 す る 様 に ﹂ と オ ラ ン ダ 政 府
することにはもはや 殆ど協力 しようとせず、逆に﹁今後は 不法行
は西洋の征服者達の支配を 覆そ うとする植民地出身
に要請する有様であった 。 これ によ って全ムスリム世界は、﹁メッカ
@
これ以後はメッカに代ってカイロがその中心
者の行動にとって、安全な場所ではない﹂ということ に気づい たのであり、
@
と見なされるに至る。或るマライ人の 開学生が後 に述懐した様に、
も事ぶことが出来た﹂わけである。
ネシア留皐生は同地のオランダ
、 オランダ政府にとっても、この事件の後味は苦いものであった。 カイロのインド
方
一
ニ ー﹂の青年達との 接燭は失われた。ジ
ワコ ロ
外交部に著しい不信の念を抱き、またメッカ駐在の副領事と同地の﹁ジャ
一方、二度とこういう︹引用者 註l政治犯逮捕の︺要請 をすべきでないことは 銘
111メッカにおけ
エツダ 領事は ﹁ 睦報告﹂の中で、
、
巡
いう認識が一般に徹底したこと︺ について
我が政府はこのこと ︹引用者註│メッカが民族主義運動の中心として不適嘗であると
イブン ・サウド政府に 感謝してよい。
@
結果論になるが
記さるべきである 。 ムスリムの聖地の支配者としての彼の困難な立場のゆえにll
る共産主義運動は別の形で防止さるべきであった。
と記して、軽拳を悔んでいる。
した脅威となり得るものではな
結局、 メッカ周溢におけるインドネシア共産黛の宣停活動は、 オランダ政府にとって大
わけである 。 オランダ政府が園際世論を
か?たし、 しかも、上記八名の逮捕によって将来もその可能性は殆どなくなった
然であろう。
刺激 してまでその監覗や取締を行なう必要を 感じなくなったとしても、嘗
、梢々 緩和された 気配 もある。植民
なりながらも
その結果、 インドネシアのメッカ巡膿者の取締は、依然論議の的とは
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1
7
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地政麗に謝するムスリムの煽動に口買を興えないために、信仰園時の荷物検査を従来の様に全員については行なわず、とく
にジェ γダから連絡のあった要注意人物のほか﹁敷十人程度の﹂荷物を、預防措置として検査するにとどめることにした。
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t 日本占領時代には﹁豚長﹂と課した﹀
また、今まで全巡躍者は開園後直ちに居住地のレへントハヨ哲三インドネシア語では
ュrrgE インドネシア語では司包自曲目木占領時代には﹁郡長﹂と誇した)に報告することとなっていたが、
または地医長 22
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これは普通の巡躍者にとって負措であるだけでなく、危険分子は簡単に菟れるから無意味であるとして、これを﹁定住地
﹁彼等は三つの誤算をした﹂
に到着後七日以内に﹂届け出ることに改めた。この様な措置は、インドネシア共産黛の武装蜂起の後始末が完全に終った
と見た、 オランダ東インド政醸の安堵感の現われである様に思われる。
ジェ γダ領事ファン・デル・ミュ l レγは、回顧録の中で過激分子のメッカ巡瞳に燭れ、
として、次の様に述べている。
一、イプン・サウド支配下のメ ヅカはどの様な政治運動にも適さなかった。王は極度の正統涯、 イスラムの清教徒の指
導者であり、メッカを再び員の﹁聖都﹂とし、あらゆる政治活動を排して宗教だけの場所にしようとした。
二、彼等がメッカで曾ったロシア人達は彼等を助ける気はあったがその能力を依いていた。波遣されていたのはイスラ
ム数徒のロシア人であったが、彼等はまず第一に共産主義者であり、従って無神論者であって、彼等の父租の宗教を
よく知らなかった。 メッカで植民地出身の巡躍者達に反植民地闘争のための宜俸が簡単に寅施出来るだろうという彼
等の期待は、大きな誤算だった様に思われる。
三、オランダ領東インドの裁判官の手はイスラムの禁断の都の中にまで及んでいた。 それは我が領事館に配属されたイ
ンドネシア人官吏の忠誠によって可能となった。彼等はムスリムであるためにメッカに自由に出入りを許されたし、
@
嘗時のメッカの清数徒的政権が、政治的、 さらには反西欧的運動にどう反雁するかを、我が民族主義者やロシア人達
よりよく知っていたのである。
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ジェッダにて一九二七年六月一一一一日
警察から入手し、閣下にお迭りする様努力するつもりです。
マハダル︿またはミフダル)はメッカにおける共産集活動の本
来の指導者、粂組織者ですが、我々はまだ彼を捕えていません。
退任した副領事は彼をよく知っており、嘗地出夜前にその隠れ家
を褒見する勢を取ってくれるでしょう。
ハジ・パギンダ・タンスィはスマトラ西岸地区プリアマンの反
鋭で指導的役割を演じた人物です。彼の検撃と迭還は出身地のレ
シデントから要請されていました。もう一人の西スマトラ人もや
はり迭還が要請されており、首地でもその指令は貸く行きわたっ
ていますが、まだ検怨されていません。
同封の八人の訊問調書作成のあとで、私は﹁二、三の者は無
罪、他は微罪﹂との印象を受けました。彼等についての輿相究明
の手段は首地では不十分です。パタヴィアやパダンでなら、田県相
究明は速やかに成功し、無罪の者は直ちに自由の身となるでしょ
う。八人の中、四人は放券と切符を持っていますが、二、三の者
は密航者で、放券、切符を持たずに骨白地に着いています。彼等が
メッカに残した荷物、鐙明書、切符等はなるべく早く迭るつもり
Vダの海運代理庖に針し、私はこの八人の輪迭のため
の臨時出費を立替え、あとで閣下に請求する橡定です。
ということです。
この書簡と共に、途還者の名前と陳述の抄録を迭ります。なお
サパンの行政責任者に伺いたいのは、﹁西スマトラ出身者はサパン
から直ちにパダンへ鱒迭し、そこで訊問した方がよくはないか﹂
です。ジェ
ごとして身
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ぬつもりで、メッカでシェイクの助手 (
を立てていたのです。副領事は彼の検傘に際し、彼の家族の一員
から彼に宛てた手紙││警察に押放されたーーを讃みました。手
移しました。これは支障なく行われましたが、ハジ・マルフムは
﹁東インドに迭還しないでくれ﹂と懇願し、それが策現するなら
自殺すると公言しました。ハジ・マルフムは再び東インドに飼ら
最初私は六月二O 臼夜、ジ且ツダの 饗察署のバラックにおいて
一人ずつ訊問し、私は四人のアラブ人兵士逮と共に、彼等を船に
報告を塗ることが出来ませんでした。
今回の巡穫の錦図シーズ ンの多忙の 中 で、私はこれまで詳細な
サパンに迭られます。
即ち今日プリュッへ(苫ロm
m与 を 船 長 と す る シ ン ケ ッ プ 競 に よ
り、オランダ臣民八人││反オランダ 活動を行なっていたとの嫌
疑を受け、メッカにおいてへジャス政府により検摩されたーーが
一九二 七年六月一七日の書簡に引績き、次の事を報告します。
奔啓総督閣下
から東インド総督宛の書簡
ジ ェ ッ ダ 領 事D ・ フ ァ ン ・ デ ル ・ ミ ュ l レン
鍛
紙の筆者はその中で彼に、﹁差嘗り五l 六年メッカに留まるがよ
い。何故なら閣では 警察が非常に殿しくなり、お前は直ちに検摩
されるおそれがある﹂と書いていました。私はこの手紙をメッカ
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-2
附
22
領 事 フ ァ ン ・デ ル ・ ミ ュ l レンの
八人訊聞のメモ
︹西スマトラ出身者︺
一アブドウラ l
別名カ ミルは私と同 じモーターボートでシンケヅ プ放に行っ
た。彼は身飽の具合が思そうに見え、ふるえたりすすり泣いた
りした 。暫く縫 って彼はオランダ語で﹁これからよい待遇を受
けるだろうか、﹂と私に尋ねた 。 彼は、自分遥はメッカで一四
日間の監禁生活中非常に苦しい思いをし、十分な食物を得られ
なかアた、 と言っ た。彼'凶,北は少し罪があるが、 彼 は全く罪の
ない三人の 友 のことを特に悲しんでいた 。 その三人とはガン
ダ、プシロ、及びリパットである 。彼はタンスィの名も翠げた
が、タンスィが西スマトラ政艇の特別の要請で迭還されるとは
知らなかった 。彼はさらに﹁私のあやまちは、幾分かは私の少
﹂ と言った 。東イン ドで彼は共産黛︹の運動︺
年附代のせい だ
に熱中し、その地の煽動が服 部 に鹿せられると、彼の父は彼を
、 彼等に最も適 した待遇 がメッカで得られる様にするため
破し
であった。その時、集舎が関かれた。 マハダ ルの言葉は徐りに
も早く、鋭く政治の領岐に傾斜して行った 。マハダルの怠回 を
知り始めた時、彼はマハダルを 議長の座から追おうと同志淫 と
話 し合った。本来の宗教的目的は 7 ハダル によ って失敗の危険
にさらされた 。タン スィ、ガ ング、プシロ、 及びリパットは P
I I叉は SB Iと何の関係もない。
二 ハ ジ ・パギンダ・タ ンス ィ
彼は激しく逮捕に抗 議した 。それによっ て彼は大きな損失を
蒙り、とくに巡 躍が果せなくなったのだ。彼はメッカに作 られ
た剛健については何も知らない、と言い、すべての損害につい
て賠償を要求した 。 かつてスマトラにおいて共産撲にかかわっ
たことはなかったのに、事件後二カ月もパダンで捕まってお
り、その後四梓放されてメッカに来た由である。私はそのあとで
彼にこう言った。 ﹁君は西スマトラ蛍局の要請により途別幽され
るのだ。﹂彼の抗議的態度は一皮した。しかし彼は、すべては
中傷だと言い張り、自分の無貨は何れ分るだろう、と主張し
協
和
けた。
した。彼はメッカに於て副領事に手紙を迭ったことを 認めた。
彼はその中でスパイと して 活動することを申し出、 ﹁稗放さ れ
一一一ハ ジ ・マルフム
この男は最も激しく抗議し、﹁迭還されるなら自殺する﹂と脅
でメッカに行 ったのだ﹂と公言していた。しかし、彼はメッカ
でマハダルに誘惑され た。彼はマハダルがメッカのカフ ェで 語
たらマハダル︹の居所︺を教えて上げよう﹂と提案していたの
だ。彼はその説明を私に劃して繰返して、こう言った。﹁私の
同士山が私の不幸の原因である。彼等をあなた方に引渡すためな
。
共産熊サークルから救い出 し、迫及から逃れさせようとした
躍 を祖父と共に例ませた後で、彼はアズハル︹大祭︺
制
メッカ 抑
へ勉強し に行った。彼は﹁もはや 政治活動に 加わらないつもり
宏君。。丘町るに魅せ られた。 こ
るのを聞き、その甘言(向 00
れ以前から アブドウラーは既に闘飽設立の計設を 抱いて人々の
問を行き来していた。それはジャワ巡膿者逮の迷信的風習を打
均 一
一 つ
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ら、何でもやろう。﹂ SBIについて、彼は何も知らない。
彼はマハダル、カミル、及びスマディサストラの煽動に乗せら
れて、曾計係としてPIIに加わった。しかし彼はイスラム教
と宗教皐の研究を進めたいという確信を抱いていた。
宗族の 一員から手紙を受け取ったことを 彼は認め た。その中で
彼は﹁五、六年メッカに留まる様に﹂との忠告を受けていた。
ソロ
彼は﹁私は共産認とは何の関係もない。もはや東インドには締
りたくない﹂と語った。彼はハジ ・タンスィ、プシロ、リパヴ
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でもない、と言う。
七プシロ
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彼はムハマデ ィ ア の 一 メ ン バ ー で あ り 、 メ ッ カ の 総 督 エ ミ l
の所で、二、三の同志と共に
ル・ファイサル(開ヨ可司巳
ZRω 自)のモスクにおいて
謁見を許され、アル・ハラム︿﹀講義を行なう許可を申請した。マハダルはこれを聞くとムハマ
ディアを罵倒し、自分の闘慢を宣出陣した。﹁これ以上マハダル
に関することを何も言わないで欲しい﹂と彼は言う。
︹園管質屋の︺元主任査定官 (rooEωnZ30C の ち に 解 雇 さ
八スマディサストラ(ガルゥト出身)
出 す べ き 巡 櫨 者 逮 を ア パ ス ・ イ ラ ギ ( ﹀rgr白岡田﹀に引渡す
トを知らない、と明言した。
四 リ パ ッ ト ・ パキ ・メレ l ノ(河仔巳可と2 r F白色山口
ク出身﹀
、
彼はタンスィだけは知っているが、 pII SBIの雨園陸
とは全く関係がない、と述べた。
五 フ ン ド ゥ ・ グ ラ ル ・スタン ・パムンチャク
彼はシンガポール、ボンベイ経由でジェッダに来た。 p ー ー
様、要請した。マハダルは巡雄一入賞り二ポンドを約束した。
ハアパス・イラギについては私の一九二七年六月一七日附書
れたが、︹メッカ巡躍のための?︺財政援助が輿えられた。マ
ハダルによって彼はその図鐙に紹介されたが、これについて宗
と接綱したが、これを皐なる宗教剛慢だと思い、そのイニシア
ルが何の略吹かさえ知らなかった、と言う。彼はメッカではコ
教的目的しか知らなかった。
彼はマハダルとガルットで知り合った。守ハダルは彼が迭り
ラ l ンの皐習の時などに、紹えずスパイされた。それは人々が
O 四披参照。)その後、彼は蛍地メッカで久し
簡、七五八 1 一
ぶりにマハダルと再曾した、と言う。
︹ 署 名 ︺ フ ァ ン ・ デ ル ・ミュlレン
彼を政治活動のかどで捕えてやろうと思っていたからである。
︹ジャワ出身者︺
六ガンダウィナタ今ハンドクン出身)
彼は刑務所に入って始めてこれらの人々と知り合った。この
事件についてそれ以外には何も知らない。ただカミル とスマデ
ィサストラとは面識があった。彼は商圏僅のどちらのメンバ ー
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-2
The Abortive Uprisings of the Indonesian Communist
Party and
Its Influence on the Pngrims to Mecca: 1926-1927
NagazuwiiAkira
In
the
the year
number
1345
of the Muslim
of the
unprecedented
pilgrims
fifty-two thousand
total pilgrims of the year.
increase : the native
about
believed
The
to be unusually
the captured
to remote
traveled
ganda
Jidda
to Mecca
to the Indonesian
kept a watchful
stationing
In
Party
their compatriots
less success.
moral
Jidda.
they
and
eye
The
support
The
were
months
carrying
delegation
home
and West
that some
members
Arabian
also suspected
the part
c010-
of
or eχiled
successfully
anti-colonial propa-
The
Dutch
community
Consulate
in
in
by
Mecca
Indonesian.
personnel
of the delegation
of the former
out a propaganda
−1−
colonial
II、Most
of them
out an
Muslim
government
Sumatra,
Dutch
of ぺA^orld War
the Dutch
for this activity on
calendar.
started around
to that of an authoritarian
pilgrims.
that several
but also for local
Netherlands
as PKI,
of relatively enlightened
way
the Indonesian
was
finally
period in that year
either eχecuted, imprisoned
Malay
who
Saud
to the Muslim
tried to carry
over
of a few
the information
Communist
gave
the highest
Ibn
and easily by the
had it, however,
there a vice-consul
the course
gathered
according
that the period
rebels were
where
of the
after years of struggle among
to last until the outbreak
Rumor
percent
enjoying
the fasting
Party, abbreviated
of a century
Communist
islands.
ending
lucky
This indicated
was
were
and sporadic uprisings in Java
nial policy for a quarter
stance, which
day
individually
suppressed
government.
to 42.6
especially rubber ; King
Communist
time premature
to be
only
amounted
1,1927)
reached the
reasons are attributed to this phenomenal
unity and stability to Arabia
Indonesian
the same
Netherlands Indies
planters in χA^'est
S umatra
the tribes of the region ; the
was
the
which
Some
prosperity in tropical produce,
brought
calendar (July 12, 1926-July
from
activity not only
laborers,
that
of the
decided
Indonesian
there
though
must
Russian
with
be
for
even
at least
Consulate
in
to request its Arabian
counterpart the arrest and delivery of these former PKI
put the Arabian
government
members.
This
before a di伍cult choice. 0nthe one hand,
it did feel obliged to accept the demand
of the Netherlands
government
which, after all,was the greatest supplier of the pilgrims and, accordingly,
the best benefactor to the finances of the country. 0n the other hand,
however, had it fulfilledthe Dutch
request, it would have been criticized
for having captured the Muslims, even if nominal, while performing one
of their five cardinal duties. Those
were some
the French
cabinet members
who
who
opposed most firmly to the idea
had taken refuge from Syria then under
colonial rule. After heated debates King Saud
the arrest and delivery of the Communists
They
were neither the prominent PKI
involved in the uprisings. With
finallyordered
to the Netherlands delegation.
members
nor had they been directly
their repatriation to the Netherlands
Indies the probability of a similar infiltrationin the future by the PKI
remnants seems to have tapered o任. The Muslim
as well as other protests
against the measures taken by the Saudi Arabian government
all over the world, damaging
somewhat
ruler of the holy city. The
Netherlands government
cumbersome
The
from
also realized how
such a request was for both sides。
Muslim
radicals who
had cherished some
hope of making
the center for struggle with their infidel governments must
vered that the new
ments.
came
the prestige of the king as the
regime
Mecca
have disco-
stood definitely against any politicalmove-
Therefore, the center of these activitiesshifted from
Mecca
to
Cairo.
The
Nu-P‘a 奴僕of
Nishimura
The
number
the Ming
Period
Kazuyo
of nu-p'u belonging to the gentry rose markedly
the middle of the Ming
dynasty. They
were
since
the alienated peasants who
fellinto servitude through severe taχation
and corvee services imposed
the state on one hand, and
usury and land
−2−
amassment
by
practiced by the