NPO 法人・歴史文化財ネットワークさんだ 第 30 号 2013 年9月 1 日発行(隔月刊) 歴ネットさんだ通信 有馬という地名「私考」 大槻重之 他所から三田のニュータウンに引っ越してきた人は三田に有馬と名のつく多いのに 気がつく。いわく「有馬高校」 「有馬富士」 「有馬タクシー」等々である。そして何故有 馬温泉の名の有馬が三田にあるのかと怪訝な顔をする。 有馬が誤解されているので有馬の名の由来を明らかにしておくと、そもそも有馬とは 日本の律令制ができた飛鳥時代から有馬郡という摂津国の郡名であった。昭和 33 年の ぐ ん が 三田市の市制前は有馬郡であり、古代より三田は有馬郡の郡衙(郡の役所)が置かれて いた。明治政府になってからも有馬郡役所は三田に設けられた。 有馬温泉の命名は六甲山中にわき出た温泉が辺境であるが有馬郡の南端に属してい たことによるものであろう。しかし今では有馬郡は消滅し、一方有馬温泉は健在である。 従って有馬とは温泉の名前ということになり、温泉が有馬の本家との誤解がまかり通っ ている。このため新設の有馬警察署は神戸市北区にある。三田の住民としては伝統ある 「有馬」の地名が三田でなく神戸市北区に奪われたようでいささか残念である。 有馬の地名にちなむ名字(姓)がある。中世 に有馬郡守護になった赤松義祐は有馬氏と名 乗り、子孫も有馬氏の名と守護職を引き継いだ。 三田から出た有馬氏は名門として重んじられ 室町幕府で活躍した。 戦国時代に守護家の有馬氏は消滅したが、播 お ごう 州の淡 河 にいた一族という有馬則頼が生き延 びていた。則頼の息子の豊氏は秀吉に取りたれ られて横須賀(静岡県掛川市)の3万石領主と なる。関ヶ原の功績で徳川家康から褒美に父則 有馬則頼(肖像画) 頼は三田に 2 万石、息子の豊氏は福知山 6 万石 で計 8 万石をもらった。この殿さんが領地でやったのは「有馬検地」と言われ、田圃の 面積を一律に増やしたので税の負担が増えた。百姓に厳しいが権力者へのゴマすりはう まいといういやな殿さんであった。 1 有馬豊氏は大阪冬夏の陣でもうまく立ち回り、8万石から 21 万石の大大名に大出世 して久留米へ行った。有馬の殿さんが武勇に優れていたとか、戦闘指揮がうまいとか聴 かないから戦場より茶室でのパフォーマンスであろう。 ところで九州には肥前有馬に先に名門の有馬氏がいた。有馬晴信というキリシタン大 名が有名である。九州では在地の有馬家と区別するため、三田から来た有馬家は“摂津 有馬家”という。 明治維新で久留米の殿さんも失業した。第 15 代当主の有馬頼寧は社会主義思想にか ぶれた政治家であったが、家柄もよいので戦前の近衛内閣の農林大臣を務めた。人望も あったようで戦後に創設された中央競馬会の理事長に就任した。その在任中に競馬の振 興のために創設されたレースを理事長への表敬から「有馬記念」と名つけた。有馬記念 の有「馬」は馬でなく、人の名前である。 その息子の16代当主有馬頼義は直木賞を受賞した小説家である。ジャンルは推理小 説であり、三田が題材になったものはないと思うが未確認である。随筆で三田の先祖の ことを冷ややかに書いていたことを記憶している。 い り や き し 」 ぼ じ ん 江戸の駄洒落に、いい負かされた江戸っ子は「おそれ入谷の鬼子母神」と語呂合わせ す い てん ぐ う のしゃれで場を取りつくろう。その際にすかさずに「そうで有馬の水天宮」と言うと場 が盛り上がる。解説すると入谷も水天宮も霊験新たかということで評判高く参詣人を集 めていた。鬼子母神は江戸土着であるが、水天宮は久留米藩邸に本国の水天宮を分祀し 江戸市民に開放したものである。現在では久留米藩邸は影も形もないが、水天宮は繁盛 しており地下鉄の駅まである。 アリマ論議も三田から段々遊離していくので、この辺でこの稿は置きたい。 「我が国初の教誨師」前田泰一(1848~1884) 多田 葉子 三田藩士百五十石取御側用人前田兵蔵の嫡男として嘉 永元年(1848)三田屋敷町に生れる。幼名恭一郎、 のち泰一と改める。若江千代を妻とし、長男蓮次郎、長 女小美が生れる。幼少より秀才で造士館に学び、後造士 館の読書世話掛りを勤める。明治元年(1867)7月 英蘭塾に入門し英学を修める。英蘭塾閉校の時は、東京 に遊学する。23才の明治4年7月13日三田藩権大属 江口氏を入社証人として慶応義塾に入学する。福沢諭吉 が危篤の病にかかり、側の人たちに『バイブルでも読も 2 うか』と言ったと聞き、宗教の必要を感じ、自らも聖書を学ぶ決意をする。この年、福 沢諭吉により泰一と改名する。 明治5年夏、有馬に来ていた宣教師 J.Ⅾ.デービスと出会い、同じく宣教師Ⅾ.C.グリ ーンに協力し、12月神戸宇治野村英語学校設立の際の8人の結社人の一人として、結 社金2円を出し、設立に参加する。英語学校は、日本人幹事により自治的に運営され泰 一は、訳読を教え、また宣教医J.C.ベリーの日本語教師も兼ねた。その後、福音宣教 にも当たりたいとの希望により、明治6年2月アメリカンボードは、神戸市場町に家を 借り、聖書、洋書類の書店経営を泰一にまかせ、書店の奥半分を礼拝所として、日本人 を対象とする「元町講義所」を開き、日曜日毎に礼拝が行われた。 神戸女学院の発祥は、タルカット、ダッドレー両女史が、その年の10月泰一の父、 平蔵宅の2階を借りて女子教育を目的とした私塾を開き、毎日午後二時間付近の8才か ら30才までの女児や主婦達を集めて英語、唱歌、聖歌などを教えたのがきっかけとな る。この塾には九鬼隆義夫人や娘たちも参加していた。泰一は教材が不足したためトラ クト『安息日はイエスと共に』を訳している。 神戸の求道者の信仰は、ますます進み、泰一は信徒の一員として教会設立のためにつ くし、明治7年(1874)4月19日日本組合基督教の関西における第一号教会として、 摂津第一公会(神戸教会)が設立された。この日、泰一はグリーン仮牧師により妻千代 と共に受洗し、第一公会設立前後の中心人物の一人として会衆派教会の役員会の議長に 当たる長老に選ばれた。泰一は非常に活動的な実業家で当時既に月約40ドルの収入が あった。泰一編集の『組合協会讃美歌』刑歌八首は神戸教会設立当時用いられた。 明治10年泰一が、神戸監獄の教誨師として迎えられる。当時監獄でキリスト教に改 宗した者は82名にのぼったという。大阪に転職するまで教会では、監獄係となり、英 語が堪能であったので、英語教師も勤め、聖書や洋書を販売し、日本最初のキリスト教 新聞「七一雑報」の記者も努めた。 九鬼隆義の命を受け、大阪西本願寺へ未収金回収に赴く。三田藩論が帰田を決定した とき隆義は小寺泰次郎を派遣して、大阪の八幡新田を買い、着々と開拓していたが政府 の許可が得られず,新田開拓は中止となった。その地所を三万三千円で西本願寺に売却 したが、手付金として二万円が入金され、残りは証書として未収となっていた。泰一は 隆義代理として、本願寺の役僧と掛け合い三千円を割引し一万円を回収した 明治13年北海道開拓事業赤心社設立に関与し金儲けへの関心が深まり教会の規則 に従わず、教会から足が遠のき明治14年4月神戸教会より除籍処分される。その後兄 弟、朊友らに説得されても復籍することなく、財貨を加殖するため七年大阪ですごす。 『主の至愛の光に照らされ始めて己の罪人なることと、主の未だ見捨て賜わざる』こと に気付き、罪を懺悔し明治17年4月神戸教会に復籍を願いでて受け入れられる。基督 教のために心身ともに尽くそうと心改め働こうとしたが、その年の9月15日病気のた め帰らぬ人となる。享年36才。 3 出会い 久保千鶴子 三田青磁との出会いは、今から26年前「三田屋」での食事だった。ハムやサラダな どの食器は全て青磁で、自社が持つ窯で焼いているとのこと。食後、プレゼントで貰っ た湯呑みは今でも現役。 その後、三田市立陶芸館の2階展示室で古三田青磁に出会う。古三田青磁三田焼研究 保存会の会員が保有する作品を持ち寄って展示が行われる。青磁の色は、水色系と緑系 があり、三田青磁の色は緑系で翡翠のように透明。しかも彫の凸凹によって色の濃淡が あり、大変美しい。光の具合で色が変化する。この色を出すのに苦労しただろうと一見 してわかる。この美しい青磁は、江戸時代後期に三輪明神窯で焼成されたもの。精緻な 彫ものは欽古堂亀祐によるもの。「素晴らしい!!」と思い三田青磁に興味が湧いてき た。 三輪明神窯史跡園のパンフレットによると、第3号窯跡(1804~1829)は、全長推 定52m、最大幅9.5m。連房式の登窯とし ては伊万里に次ぐ国内最大級の規模(古三田青 磁三田焼研究保存会の三田焼資料)であったと いう。 それでは、伊万里の窯とはどれほどの規模が あったのか? 調べてみると、伊万里焼とは江 戸時代の船積み港である佐賀の伊万里の名を とって「伊万里焼」と呼ばれていたもので、生 産地は有田(佐賀県)や有田の南、波佐見(長 崎県)、三川内(長崎県)などであったとのこ と。中でも波佐見の窯の規模は江戸時代末期、 お お し ん のぼり か ま 全長170m、・焼成室39室の大新 登 窯を筆 な か お う わ のぼり 頭に全長約160m・焼成室33室の中尾上 登 かま な が お ほ ん のぼり か ま 窯、全長約155m・焼成室29室の永尾本 登 窯のほか100m を超える巨大な登り窯 が計8基存在し操業していたという。(「わがまちお宝 波佐見町」より) 大新登窯の規模は、現在確認された窯の中では世界最大。中尾神登窯は世界第2位、 永尾本登窯は第3位、世界の巨大窯トップスリーが長崎県波佐見に存在していた。これ らの巨大窯群から江戸時代末期、1年間に 48,446 俵のやきものが生産されていたとい う。しかし、この巨大な波佐見窯業も江戸時代が終わり、大村藩からの支援が無くなる と終焉を迎える。 波佐見の北、有田では全長100~110m・焼成室30~33室の広瀬向窯跡、全 長推定120~140m・焼成室29室の泉山本登窯(年木谷3号窯跡)など、50~ 4 100m規模の登窯が19基もあったという。やはり、「伊万里焼」と呼ばれたこの地 域の登窯の規模は群を抜いて巨大だったことが判った。 一方、三田には藩窯は無くすべて民窯だったが、なかでも三輪明神窯は豪商神田惣兵 衛の支援によって築かれたと言われており、これほど大規模な窯が個人の財力によって 支えられていたことに驚く。民窯だったから江戸から明治への時代に翻弄されずに操業 出来たのかもしれない。明治7年(1874)には「三田陶器社」が設立され、明治22 年(1889)に「三田青磁合資会社」となったが、昭和10年代に技術や資金が続かず 閉窯となったとのこと。 三輪神社夏祭り 竹谷満江 三輪神社の夏祭りに初めて参加した。 6 月 30 日の茅の輪くぐりは蘇民将来の 伝承の如く、古来より無病息災、病気平癒、 厄除け、悪疫退散になると伝えられている。 形代祓いとして和紙を人形型に切り半年 間の罪滅ぼし、不病息災を形代願いに託し 神前においてお祓いをしていただき、又祈 祷していただく。神主、氏子が身を整え神 社奥殿で祈祷を受けた後、神社境内神殿前 にて一般参拝者と共に祝詞(冊子を配る) 子供達、提灯行列後にお神楽見物 をあげ、紙幣の散らし(1.5cm 角のもの一つ かみ)を身体に撒き拍子木を打ち、お祈りした後御神社札を頂く。 また、7 月 8 日の夏越大祓夏祭にも参加した。午後 7 時頃三輪小学校の児童がお旅所 (三輪郵便局の前)に集まり、提灯行列を行い、子供神輿の笛や太鼓で威勢のいい掛声 ソーレヤーと境内に入ってくると三輪神楽が始まる。八つの演目があり①と②は子供達 が提灯を掲げながら観覧する。 ① 荒神祓いは、獅子が右手で鈴を鳴らしながら左手の御幣で厄払い ② 剣の舞は獅子が刀の鞘を口にくわえて前後の悪霊を切り捨て厄払い ③ 刀の舞は剣の舞より鞘から刀を出し邪気を切り払い幸を祈る ④ 振るい獅子は犬がそばえるような動作でリズミカルに獅子が舞う ⑤ 天狗獅子は獅子が天狗に玩ばれる様子を表す ⑥ 牡丹獅子は獅子が天狗を追いかける途中で見つけた牡丹の匂いに魅了され、好意を もつお多福に持っていく ⑦ 人形獅子は獅子がお多福に牡丹を渡すと同じく好意を持つ天狗ひょっとこが現れお 5 多福を巡って取り合うコミカルな舞い ⑧ 神来舞は神楽を締めくくる舞で獅子が「米」の字を描きながらお祓いする 以上が神楽の説明であるが、実際に観賞して天狗の力強い踊りや獅子の動きが重厚 かつ厳かなことに感銘を受けた。社務所参道には夜店が並び、子供達が行きかい郷愁を 誘う。 2013 年 7-8 月活動状況 施設管理事業 事業全般 ○指定管理施設:旧九鬼家住宅資料館 ○月例連絡会 7/24 8/28 :三田ふるさと学習館 学習支援事業 情報発信事業 ○三田ふるさと学習館(展示と体験) ○旧九鬼家住宅資料館 ・「じょうもんのクルミ食堂」(4/6~) ・2階公開 ~クルミを割って縄文時代を味わおう~ 8/25 ・夜間特別公開「夜の九鬼家を探訪」7/25 ・「三田の偉人たち」(8/1~9/13) ・九鬼家四季彩々 ・「新島襄が来た三田のキリスト教」(6/8~) 「七夕をねがう」7/6 「涼しい夏の知恵」8/3 ・キリ絵展「甲賀ふじ物語」(~7/末) ・展示「夏のしつらえ」 ○夏休み「昔のあそび工房」 (7/20~9/1) ・第 3 回まいこれくしょん(6/15~9/1) ・展示「昭和のおもちゃ」(7/20~9/1) 「錦絵にみる明治の時世」 ・昔のあそびを体験しょう!(大型スマートボール、 ○ブルーマウンテンズ市訪問ガイド 8/3 調査・研究事業 輪投げ、シャボン玉、糸電話、金魚すくい、縄跳び) ○古文書解読 ・作ってあそぼう!(割り箸鉄砲、万華鏡、竹トンボ、 ・「三田八景・いま・むかし」 ギャラリートーク(於心月院 プラモデル、竹馬、紙飛行機、やじろべえ等) ○さんだふるさと探検隊 ○「三田市史を読む会」 ・弥生の風景(7/24,25) 7/31 7/19) 8/30 編集後記 ・古代の色ってどんな色(7/31) この夏の暑さは「これまで経験したことのない」 ・古代の織物を作ってみよう(8/1) (また、観測史上初めての)暑さ…とか。そして、 ・古代の手紙を書こう(8/7) 全国各地で集中豪雨ももたらしました。これらも ・マグネット土面づくり(8/8) 歴史として刻まれていくのでしょうか。私達は“文 ・縄文ケーキを味わってみよう(8/21) 化の秋”に向けて活動の記録を刻んで行くことに ・古代のアクセサリーを作ろう(8/22) したいものです。投稿お待ちしています。(ℯ.ℱ) 「NPO 法人・歴史文化財ネットワークさんだ」発行 〒669-1532 三田市屋敷町 7-33 三田ふるさと学習館気付 HP http://www.rbnsanda.jp/ ℡&fax 079-563-5587 メール [email protected] 6
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