自己意識、懐疑論そして独我論

自己意識、懐疑論そして独我論
クラオス・フィーベック
滝口 清栄(訳)
1524年に、ロッテルダムのある名高い市民が、自分は多くの点で懐疑論
者の側につきがちだと公言した。それに続いて、同じくらい著名なドイツ
人の口から、誤解の生まれようのない答えが出された。「聖霊は懐疑論者
ではない。」――聖霊はわれわれの心のなかに何一つとして疑わしいもの
や不確かな考えを書き込むようなことはしなかった。むしろ確実な確信を
書き込んだのである。考察の方向はこの歴史的脚注で告知されている。
『イェーナ体系構想Ⅰ』から『Ⅲ』までの、ヘーゲルのテキストにもとづ
いて、すでに1803年以前に著しく重要性をもつようになった、大変よく知
られているヘーゲルの思考の進展が、新しいパースペクティヴから考察さ
れなければならない。しばしば現れる「没関係性(無関心、Gleichgültigkeit)」
に関する発言の、そしてこの用語の二義的な使用の文脈における否定性の
理解がなによりも重要である。「没関係性(無関心)」という言葉のなかに
は、ヘーゲルの、ピュロンの懐疑論との、そしてとくに近代の懐疑論との
取り組みが隠され、含意されている。問題はここにある。周知のようにヘ
ーゲルはピュロン主義を自己意識の一形態として理解し、近代の主観的観
念論のなかにこの懐疑的思考様式の新しい形式を見ている1。自己意識は
「一切の実在性と真理」として「語られ」る。この場合、二つの主なヴァ
リエーションが区別されなければならない。a)独我論(エゴイズム)。そ
れは、自我の意識の唯一性を主張する (形式的に個別的な自己意識)。b)
駒沢大学『文化』第23号 平成17年3月 (1)100
「超越論的独我論」(エゴイズム)。ここでは自我=自我としての自己意識、
自我‐性としての超越論的自我は「一切の本質性かつ現存在」である。最
初のヴァリエーションを、バークリやヒュームの「空虚な観念論」が代表
し、第二のいっそう高次の形式を、フィヒテの道徳性の観念論が代表する。
自己意識はその唯一性において受けとめられていて、「完全に自己のうち
で完結」している。いわゆる他的存在はすべて、対象性あるいは世界はす
べてこの自己意識としてだけ見られる。自己意識はそれ自身、一切の実在
性、一切の現実性である。――あらゆる事物は、感覚や表象等々として、
意欲や知として見られる。ヘーゲルはこのようなピュロンの内容を、個別
性と自由な主観性に関する思惟にとって不可欠の通過点として理解する。
ヘーゲルの懐疑との関わりの二つの観点が、最初に置かれるべきである。
まず第一に、以下のことを確認できる。ヘーゲルは諸草案のなかで1803年
から、「それぞれの哲学の自由な側面」としてのピュロンの懐疑を止揚す
る構想を、大いに論証を重ねながら進める。それは、 懐疑論の包括
(Inclusion)の構想2であり、1801年と1802年の草稿(Arbeiten)のなかでプ
ログラムのかたちで確認され、そしてその最初のところで試みがなされた
が、果たされなかった。第二に、ヘーゲルにとって、脚色を受けた懐疑モ
デルの包括が理論的側面の事柄であるばかりでなく、認識的かつ実践的‐
倫理的観点での止揚が生じなければならないということが、中心的意味を
もつ。ヘーゲルは認識論と人倫の次元との補完性、理論的理念と実践的理
念との補完性を提示しようとする。このことは、古代の懐疑論に関して
「懐疑主義論文」でなされた「思惟の自由」と「性格の自由」との区別に
直接つながる。『体系構想Ⅰ』では、意識の理論的‐観念的な構成と実践
的‐実在的構成、精神の理論的現存と実践的現存とが問題になる。実践的
側面の高揚は以下の論点によって正当化されているようにみえる。古いピ
ュロン主義の中心には、アタラクシアとしての、「魂の海の静穏」として
99(2)
の幸福という実践的‐倫理的公理がある。ピュロンの懐疑は生きた行為と
して、セクストス・エンペイリコスが懐疑による生活形式を叙述している
ような「一つの生あるいは行為様式の選択」として理解されている。
ピュロンの「没関係性(無関心)」は、判断作用についての「没関係性
(無関心)」もしくは均衡性(Gleich-Kräftigkeit)――等値(Isosthenia)も、
行為の方向の区別喪失性の状態、実践上の無関心 (Indifferenz) ――
Adiaphoria(無区別性)をも包含している。等値(Isosthenia)から、道な
き状態としてのアポリア、主張なき状態としてのAphasia(言語の意味を理
解する能力の損傷)
、そして判断放棄としてのエポケーが結果として生じて
くる――「未決定のままの状態(das“Dahin-Gestellt-Sein-Lassen”)」――そ
のように、フリードリヒ・イマヌエル・ニートハンマーは、セクストスの
主著の初めてのドイツ語訳のなかで〔述べている〕。実践的な「没関心性
(無関心)」からはアパテイア(平静心)が生じてくる。――賢者はいかな
る方向にも引き込まれないし、自分が引き込まれると感じることがない。
賢者は一切を未決定のままにしておくのである。
ヘーゲルにとって、ピュロン主義の止揚はラディカルに受容された思考
と意欲のピュロン的自由の止揚、ならびに知と生の形式との統一性の確立
を含んでいる。これらに対応するヘーゲルの概念がここでは認識と承認で
ある。内容に関わる目標の方向、〔すなわち〕真正の否定性と主観性の包
括ならびに理性的な自己‐関係の基礎づけは、次のように、純粋なあるい
はたんなる主観性というピュロン主義についてまわる傾向の保持と克服、
と定式化できよう。
ヘーゲルは「懐疑主義論文」で原‐ピュロン主義的なものを、「性格の
自由」として、あらゆる哲学者にとって固有であるにちがいないようなあ
らゆる客観性に対する無関心性として特徴づけた。哲学者は自分を「自己
(Selbst)」として理解しなければならないし、自己意識をこの「自己性
(Selbstigkeit)
」としてもたなければならない。ピュロン主義者は、
「自分自
自己意識、懐疑論そして独裁論(3)98
身によって純粋な主観性である純粋な否定性」のうちに自分を保持してい
る。ピュロン主義者の〔このような否定性への〕愛着は、「客観的な存在
についての思念あるいは主張」をけっして表現するはずのものではない3。
このような純粋に否定的な態度とともに、あらゆる前提、あらゆる想定が
放棄される。しかし同時にあらゆる妥当要求が放棄される。ヘーゲルが
「空疎」あるいは「エゴ性(Egoität)」とさえ呼ぶこの極端な立場に固執す
ると、哲学的重要性が失われる。古代の懐疑論ではまず自己意識のこの最
初の第一段階が、〔すなわち〕形式的で個別的な自己意識がはっきりと示
された。この古代の懐疑論は「個別的意識への還帰」と見なされる。「し
かしそれは、古代の懐疑論にとってこの還帰が真理ではないし、あるいは
4
この懐疑論が自分の結論を公言しないというかたちでそうなのである。
」
古代の懐疑論はそのように未決定のままにすることをはっきり表明し、あ
るいは沈黙に固執するのである5。
近代の懐疑論は、古代のピュロン主義に含意されている、純粋でたんな
る個別的な主観性という契機を頂点にもたらす。この近代の懐疑は観念論
として、さしあたり、自己意識あるいは自己自身の確信を「一切の実在性
と真理として公言する」主観的観念論として立ち現れる6。主観的観念論
のこの最初のヴァージョンである独我論は、「一切の対象は私の表象であ
る」という核心的テーゼとともに、事物や世界のあらゆる前提作用に、実
在性に対する一切の信念に反論する。「空虚な観念論」の原理は「一切の
存在のうちに意識のこの純粋な私のものを示して、事物を感覚や表象とし
て言明する。」そして「意識のこの純粋な私のものを非の打ち所のない実
在性として示したと思い込んでいる。」7
存在は私の感覚作用あるいは表
象作用である。外的世界は私の表象の構成物なのである。この観念論は、
古代の懐疑論と同様に、内的な対立を含んでいる。ただし一方は自分を否
定的に、他方は自分を肯定的に表現するのであるが、これら両者は、一切
の実在性としての純粋意識という思想と、同様の実在性としての感性的感
97(4)
覚作用との、矛盾する思想をまとめあげようとする8。古代のピュロン主
義と同じく、近代のこの懐疑論はその本質において、経験論者、経験論で
ある。W.ヴィンデルバントはこの意味でバークリに触れた折りに、「心理
学的唯名論」について言及している9。形式を変更しただけの、経験のう
ちであちこちよろめく意識が問題なのである。以前に物であったものが、
今では表象と見られる。それと同時にそのような立ち振る舞いのうちで、
特にデビィッド・ヒュームによって物と自我の同一性問題が投げかけられ
る10。
この文脈のなかで、「形而上学的エゴイズム」である独我論の問題が問
題の中心にある。カントはこの問題を、「私は思考する存在者として私の
現存在のほかに、なお私と共同の関係をもつ他の存在者の全体(世間と呼
ばれる)の現存在を想定する理由をもつかどうか」11と適切に述べていた。
懐疑を包括しようとするヘーゲルの構想は――主要テーゼはこうなる――
独我論を懐疑の近代的形式として止揚することを、しかも理論的観点でも
実践的観点でも独我論(エゴイズム)の止揚を必然的に含んでいる。止揚
されるべきものは、他在性の原理的排除を教えて、表象し欲求するものと
しての自分の個体的意識だけを承認するにすぎない観念論である。第一人
格の資格でのこのような自己自身への関係、こうした自我が、「あらゆる
12
規定の支配者」
、
「排他的で肯定的な点」
である。
ヘーゲルはこのような関連のうちで、そのうちで「主観性の孤独」がも
っぱら固持されて、この主観性だけが承認されるにすぎない「近代の反省
信仰の自我」を指摘する13。理論的に表象に還元され、実践的に欲求に還
元される、個別的‐唯一的な自己意識が問題なのである。それは主観的に
私念する自我である。どのような他的なものも否定される。あらゆる他性
が「自己性」をもたず、自我から区別されない対象である。ヘーゲルはこ
うしたことを、自分自身にふさわしい関係にいたる、自己意識の必然的な
通過段階として、最初の不可欠な歩みとして捉える。
自己意識、懐疑論そして独裁論(5)96
ヘーゲルの独我論的原理との関わりにおいて、三つの本質的問題領域が
結びつけられる。
a)個別性の論理的規定、個別、特殊そして普遍の統一としての概念
b)外的世界‐実在論に対する懐疑による批判、そして客観性ないし世界
の基礎づけの問題
c)自己意識と承認との、主観性と間主観性との関係
以下の三つの節は、三つの体系構想を手がかりにして、独我論の止揚と
いう明確になった中心テーゼのためのヘーゲルの立論の進展を明るみに出
す、最初の試みを含んでいる。重要な引用個所は付録として添えられる。
体系構想Ⅰ
物言わぬ活動しない意識と、
「我意の自由」
ヘーゲルは断片18と20で、意識の絶対的に否定的な側面、否定的なもの
としての意識の絶対的なあり方をテーマとする。この否定性は、意識によ
って遂行される絶対的な抽象、意識と異なるものあるいは他在である対象
の止揚として現れ、直観と感覚におけるあらゆる個別性からの解‐放
(Be-Freien)として現れる。意識においてはそれとともに、この個別性の
規定が払拭される。この個別性は今や意識の普遍性に帰属している(JSE
Ⅰ,284f.)。意識にとって対象と思われるもの、外的なものはすべて、普遍
的なものであり、没関係的なもの(無関心なもの)である。
「絶対的に個別
的なものの間のどの形式も没関係的な (無関心な) 形式である。」(JSE
Ⅰ,307)われわれが出発点とする個別的な事柄は、ピュロン主義者に従え
ば「同じく区別をもたない」。否定から生じた、個別者のこのような普遍
性とともに、一切の規定性、世界は端的に意識の規定性に転じる。見かけ
上、意識の他的なものは、意識それ自身の他的なものであることが明らか
になる。この没関係化(無関心化)と解放は意識を通して、この普遍性を
95(6)
生みだす思考を通じて生じてくる。われわれはこのラディカルさのうちで、
どの他在も全体的に非実在的であり非自立的であるという意識をもつので
ある。従来の意味で対‐象的なものあるいは他的なものについて語ること
はできない。このことは、一切のいわゆる「所与」からの自由、内容上の
前‐提という意味での一切のドグマ的措定からの自由を意味している。特
に外的世界のドグマ的‐実在論的な詐取を回避することを意味している。
この抽象的否定性のいっそう進んだ結果として、まず第一に、個別的な
ものの空無性と不完全な止揚とのコントラストが明らかになる。なぜなら、
意識の他者はそれがそうであったままでもあるからである。普遍的なもの
は意識の‐諸断片(Fragment)の寄せ集めとして現れるにすぎない。ヘー
ゲルは「断片Stücken」について、そして「経験的想像力」について語る。
ピュロン的意識は、個別的なものに出くわす(zu-fällt)意識として理解さ
れている。すべての規定態は偶然的なものであり、意識に出くわすものと
してのこのもの(Diesen)に向かい、ここと今というこれらの断片を、こ
れらの没関係性(無関心性)のうちで受けとり、そして「現象」としての
それらに向かう経験論者の意識である14。生命は無数の偶然的個別性のう
ちで、人がこうむる体‐験や瞬間、さらに物語って伝えては粉々にしてい
く体‐験や瞬間となる。経験論とエゴイズムはF.シュレーゲルによれば、
独断論というメダルの二つの面である15。
否定的なものとしての意識の絶対的なあり方のうちに――ヘーゲルの所
見によれば――一切が今や一なるもの、個別的なもの、唯一のものとなっ
ている。ある意味で個別性の普遍性の第二の面となっている。ヘーゲルは
「絶対的に空虚な単純性」、「個別化」そして「絶対的個別性」について語
る(JSE Ⅰ,284)。このことが、
「精神が自然や外的なものの否定的なもの、
個別性を自己のうちで有機的に構成する」ことによって、そして「個別者
の意識の全体性」となっていく、一契機である。一切の客観的なものの根
絶(Tilgung)の遂行のために、結果として純粋に主観的なものは――フィ
自己意識、懐疑論そして独裁論(7)94
ヒテとともに語るならば――すなわち、そこではいかなる差異もありえな
い「完全で絶対的な同一性(Einerleiheit)」として否定的に表象されるだけ
のたんなる自我‐性にとどまっている。ヘーゲルによれば、意識は自分
「自身を、自己自身との‐同等性」としての、否定的な仕方での自己‐関
係としての「この単一な点」とするのである。意識のこの絶対的に単一な
点の形式のうちで、この絶対的な個別性は、絶対的主観性の必要不可欠の
契機を代表する。しかし、ヘーゲルにとっては、この点性とともに抽象的
な自己意識だけが構成されるにすぎず、真の自己意識、真正の主観性は構
成されない。
この個別的な点性という、私念されているこのものとしてのここと今の
瞬間性という徹底した見地は、もちろん世界をたんなる仮象として説明す
るか、あるいはいろいろな直接的確信を介して客観性、世界の現存を要請
するという二者択一を含意している。
ヘーゲルは自己関係のラディカルな遂行のうちで、自己‐意識、主観性
の新たな哲学を構成する際の必然的な通過点を見ている。こうしたことが
構想のうちで「意識の形式的な存在」として、真の実在性をもたない形式
的な絶対的なものとして現れている。空無性、唯一の規定としての没規定
性は、
「沈黙する意識」
(JSE Ⅰ,285)として特徴づけられる。こうしてヘー
ゲルは間接的に懐疑論者の主要難点を一瞥している。外化すること、体系
構想にあるような「外的なものとなること」
(JSE Ⅰ,286)の問題点を一瞥
しているのである。純粋に形式的なものの克服としてのこの外化すること
ないしは規定作用は、外的‐でないものとしての沈黙の理論的そして実践
的放棄を内容とする。主要キーワードは伝達と活動、言語と行為である。
このことが、ヘーゲルの言語、労働などの論述を生みだす背景となって
いる。無限性の形式的存在は自己‐内‐存在の静寂として、同時に「空虚
な、真理を欠いた、あるいは眠る夢」にとどまる。クラオス・デュージン
グは、ここには懐疑論の伝統への明白なあてこすりがあること、またヘー
93(8)
ゲルがイェーナ時代にこの伝統に通じていたことを、古代の思想家カルテ
ュロス、ゴルギアスそしてセクストスに言及した感覚的確信に関する論文
で示した。真なるものの伝達の不可能性、存在するものを把握する言語の
無能力についてのテーゼが問題になる16。モンテーニュによれば、ピュロ
ン主義者たちはみずからの思想をいかなる表現方法でも表現できない。彼
らは新しい言語を必要とするだろう。ヘーゲルは1800年ごろのこれに関す
る議論も知っている。ここでは、懐疑論の環境に数えられる二つの示唆に
富む立場が言及されてよいだろう。
ニートハンマーのイェーナの友人、根本命題に対する懐疑論者のサーク
ルに属していたヨハン・ベンヤミン・エアハルトは、「あらゆる体系(そ
「懐疑論にあらゆる理論的なものに対す
してあらゆる原則)」を片付けて、
る完全な勝利を手に入れること」を期待する。しかし、あらゆる基礎や体
系を押し流そうとした結果は、「おそるべき孤独」17であったという。確か
に独我論者は自分自身の現存在を疑わなければならないだろう。「独我論
者には自己について考えうるいかなる概念も残らない。」18ピュロン主義者
の支離滅裂さは、「首尾一貫した懐疑論者はただ誰かと話しをし、一口の
パンを食べる努力をおこなうときに、すでに首尾一貫しない態度をとって
いる――彼は、一口のパンを食べることが彼に栄養を与えるかどうか知ら
ない」という点にもある。ニートハンマーはエアハルトに、ラインホル
ト‐以降のイェーナで今やよりによって、エゴイズム(独我論)の新しい
ヴァージョン、「最も恐るべき孤独」の新しい教義がかなりの注目を浴び
ている、それは、死去した自分の前任者よりもいっそう首尾一貫している
が、またいっそう没根拠的に、いっそう味気ないものに見える自我主義で
19
ある」
ことを後に報告している。
古代の懐疑論者アルケシラオスの名を使って登場するエアハルトは、内
面的なものと言語上の形式との裂け目を先鋭化して固定した。「一つの真
の哲学がある。しかし、それは公開して述べられることはない。述べられ
自己意識、懐疑論そして独裁論(9)92
たどのことについても、人は、それが真であるか偽であるかをけっして知
ることがない。人はこのことを、ただ直接的に自己思惟されたものから知
ることができる。そして人が言葉で記憶にとどめようとすると、たちどこ
ろにこの明証性はとだえる。」エアハルトの結論によれば、人は「自分が
何かを知っている、あるいは知っていないかをけっして知ることがない。
人はつねにそれを信じるのである。」20懐疑論者と独我論者が陥るジレンマ
が明らかになる。言い表されないもののうちに真理はあるはずなのに、彼
らは言語の形式で述べるにすぎず、そのことで懐疑によって不純になった
反省の領域に行きつく。彼らは――ヘーゲルの言葉で言えば――沈黙する
確信に、内面的なお告げにとどまらざるをえない。首尾一貫した懐疑論者
は沈黙と非‐思考で終わらざるをえないだろう。――懐疑の優れた精通者
フリードリヒ・シュレーゲルはこう言う。彼は自分のロマン主義的イロニ
ーを「完全な伝達の不可能性と必然性」というパラドックスで特徴づける。
ピュロン主義者は自分たちの学祖を引き合いに出して、生きた行為とし
ての、生形式としての懐疑に固執する。しかし、言表なきあり方や行為な
きあり方は同じく外面的なものでもあり、内容‐化することである。没規
定性は、唯一のものであるとしても、一個の規定性である。未決定のまま
の状態(das Dahin-Gestellt-Sein-Lassen)も同じく一個の活動であり、哲学的
静寂主義(Apragmosyne)は一個の欺瞞である。断片20の結論で個体そのも
のの絶対的あり方はここでも自分固有のものと利己的という二重の意味
で、
「我意の自由」
(JSE Ⅰ,296)として特徴づけられる。
「個別者は自分を
このような点とすることができる。個別者は一切を絶対的に捨象できるし、
断念できる。彼は非依存的なものとされうるし、何ものにもつきまとわさ
れない。彼は、そこにおいて把握がなされるはずのどの規定性をも自分か
ら分離することができ、そして死のうちで自分の絶対的な独立性と自由と
が絶対的に否定的な意識として実現されるのである。
」
(JSE Ⅰ,296)この命
題の内実は、ヘーゲルの実践哲学の基礎づけに関する二つの重要な個所で、
91(10)
――『法の哲学』4節から7節において、また自己意識と承認の論究と関
連して、首尾一貫したかたちで再び見出される。
体系構想Ⅱ――没関係的(無関心的)関係から真の関係へ
この時代に絶対的なものは自己自身を認識する自己関係、思惟する自己
関係として、ヘーゲルの新しい主観性の形而上学の核心に昇級しているこ
とは、疑う余地がない。しかし、場合によってはより強く強調されて、体
系構想を手がかりにいっそう厳密に明らかにされうるであろうものは、マ
ンフレッド・バオムによってはっきりと主張されたテーゼである。それは、
ヘーゲルが相関的なものと絶対的なものとを考察するにあたり、最も重要
な源泉は、セクストス・エンペイリコスの関係の懐疑上の主要トロポス
(方式)であること、ヘーゲルの絶対的なものの根本規定は1802年以降この
懐疑上の「上位トロポス」との対決のなかで獲得された21、ということで
ある。自分のこれまでの絶対的なものに関する思想が同じくまだピュロン
の異議に抵抗できなかったことを、ヘーゲルははっきりわかっていた。
「懐疑主義論文」がまた再び、今挙げた視点にもとづいて構想Ⅱを読む
際の出発点をかたちづくる。ヘーゲルは「懐疑主義論文」のなかで、あら
ゆる独断論に対する懐疑という武器本来の兵器庫であり、本来的に思弁的
な聖金曜日であるアグリッパの5つのトロポスの実り多く、議論の余地も
ある解釈を始めている。この改作の中心的契機は、手短に、a)根拠とし
てのトロポスの受容、b)順序(3-5-4-2)を置き換えることによるこの論拠
の内的論理の確立、また出発点かつ終点としてのトロポス1を使った円環
形式における配置の確立、ならびにc)この根拠の、反省の根拠としての
評価、従って絶対的なものの新たな哲学に対するこれらの無効性の確立、
とまとめられよう。
「理性的なものについては、第3のトロポスに従って、
たんに関係のうちにのみある、つまり他者と必然的に関係づけられている
ということは示されえない。なぜなら、理性的なものはそれ自身関係にほ
自己意識、懐疑論そして独裁論(11)90
かならないからである。」22
この簡潔な基本方針にすぎない言明にくっつ
いて、より詳細な検討が体系構想Ⅱで始まる。
第2トロポスに据えられた無限進行、悪無限は、単一の関係(Beziehung)
の概念のもとに、たんに付加的な関係(Verhältnis)のもとにとどまってい
る。すなわち、自己自身への関係と他者への関係とは、「そして」によっ
て結合されているにすぎない。それらは、相互に没‐関係的(無関心的)
であり、力の上で同等である。悪無限は、対立を絶対的な仕方で止揚でき
ない最後の段階と見られる。永遠の「限界の定立」と「限界の止揚」は、
その総計が聖ニンマーラインスターク(永遠に来ない日)に確定されるは
ずの絶えざる付加である。対立‐関係を止揚するという要求はなるほど立
てられはするが、その実現、つまり止揚された状態は締め出されていて、
まったく実現されていないで空虚なのである。
(JSEⅡ,30-33)
等値(Isosthenie)の止揚、没関係性(無関心性)の克服を、ヘーゲルは
絶対的関係、
「絶対的対立」もしくは「真の無限性」の思想のうちに見る。
(JSEⅡ,33)他者は、自分自身であるところのものの直接的な反対であり、
自分がそれに対して自分だけで没関係的に(無関心的に)あるような他者
一般ではない。このような関連のうちでヘーゲルは直接セクストスの判断
停止を暗に示している。ピュロン主義者は、「われわれがそれにもとづい
てあるものを止揚したり定立したりすることのない悟性の停止状態」を定
式化する。ヘーゲルには、「両者は互いに直接定立し合い、止揚し合う」
とある。
(JSEⅡ,34)
絶対的相関の根拠への問い(第4トロポス)は、自分自身を止揚する。
なぜなら、この問いは二元論を蘇生させて、二つの側面を再び「そして」
、
もっぱら自分だけで存在するもの、没関係なもの(無関心なもの)という
「欠陥のある」関係のうちに持ち込むからである。両者は、そのあるがま
まの姿で互いに相関のうちにあるにすぎず、一方も他方も自分だけである
のではない。こうして没関係性 (無関心性)が交互に止揚される。(JSE
89(12)
Ⅱ,34)端的に最初のものであり無証明のもの(第4前提のトロポス)
、恣意
的な端緒という意味での根拠の想定のもとで、他的なものは「根絶されな
いもの」
、
「没関係的なもの(無関心のもの)」としてあり続けている。ピュ
ロン主義者は、同等の権利をもってこの要請された端緒の反対を受け入れ
る。ヘーゲルは、この「恣意的な端緒は自分と並存する絶対的に多なるも
のをもたざるをえない」し、前提されたものは自分から排除されたものへ
の関係でありうるし、かくして第3トロポスによれば絶対的ではありえな
いことを指摘する。(JSEⅡ,129)個別的なものと普遍的なものとの絶対的
統一の構想のうちで初めて、個別性は「規定態の没関係性(無関心性)を
すべて、そして中途半端な関係(Halbebeziehen)をすべて無化した」(JSE
Ⅱ,157,Herv.K.V.)普遍的なものとして思考されうるであろう。中途半端な
関係は暗に相関のピュロン主義的な関係に、「上位トロポス」に向けられ
ている。真の自己関係はけっして没‐関係的なもの(無関心なもの)では
なく、そこに没関係的な(無関心な)異質なもの(Fremdes)が入ってくる
関係ではない。個別的なものも同じくもはや「関係づけられない没関係的
なもの(無関心なもの)」ではない。これに関連してヘーゲルは理論的なも
のの内部で表象する自我、モナドと思惟する自我とを区別し、実践的なも
ののうちでは、憧憬と当為という刻印を受けた実践的モナドと実践的自我
とを区別する。こうしてピュロンの、そして独我論の個別者が表象と欲求
の局面で暗に示されている。この個別者が自分を思惟する自我‐性として
23
理解するやいなや、自分自身を見損なう。
諸規定態、諸個別態相互の没関係性(無関心性)は止揚され、没‐関係
的(無関心)な関係はこうして(ヘーゲルによって「精神」と呼ばれる)真の
関係へと変換される。それは、そのなかでは他的なものにただ排斥的な関
係、排他的な関係は存在しない思惟する自己関係なのである。
(JSEⅡ,167)
それに対して、独我(solus ipse)のようなピュロン的自我におけるたんな
る否定性は、他的なものの原理的排除を意味するであろう。
自己意識、懐疑論そして独裁論(13)88
体系構想Ⅲ
他者を欠いたもの(Das Anderslose)あるいは完全な孤独な現存在
――全‐一性(All-Einheit)と独一性(Alleinheit)
ここで、ヘーゲルが「懐疑主義論文」で「性格の自由」と言っていたも
ののより詳しい叙述を企ている「b)意志」の節に注目しよう。意志は、
他として存在するあらゆる内容を抹消した対‐自‐存在(Für-sich-Sein)と
見られる。〔それは〕「自己自身のうちでの決意」、「他者を欠いたもの」、
純粋な自己‐関係、別の言い方をすれば自我の個別性としての自己‐承認
として、ヘーゲルにとって意欲の自由の不可欠な契機である。ヘーゲルの
実践哲学のこの根本的契機のもとで、表象の形式での自己意識の単一な自
己関係、ピュロン的に言えば平静(Gleichmut)、自我の自己のうちでの平
穏の意味での自己確信が問題となる。そのなかで、思惟の自由に対して、
ここで補足するかたちで意欲の自由、〔つまり〕哲学が世界そのものに対
して根源的に没関係的(無関心的)である形式のなかでのアタラクシアが
はっきりと現れる。――「人倫的世界のあらゆる束縛、それとともにこの
世界のうちにあるあらゆる支えは倒壊していなければならない。」内面的
な主権と自律、世界そのものの原理的否定、自己内の自由な決意、ラディ
カルに自由な決定作用が問題なのである。
ピュロン的‐独我論的原理の保持が――理論的観点におけるのとまった
く同様に――純粋否定性としての抽象的個別性の批判と平行して現れてい
る。理論的側面では絶対的な抽象は、たんに主観的に私念する自我、私の
ものの任意性と空虚さに行きつく。――セクストスによれば、懐疑論者の
どの命題にも「私にはそう思える」という命題が先行している――われわ
れはここで個別者の無制限の恣意としての「他者を欠いた」主観性を、
「空虚で形式的な自由」を手にしている。意志は「自己のうちで完結」し
ていて、他的な内容をすべて抹消し、対‐自‐存在であり、他をすべて排
87(14)
除するものとしての否定性である。意志は自分自身にだけ向けられている。
(JSE Ⅲ,202f.)内容を持たないあり方はなるほど絶対に必要な内容であるが、
唯一の内容であり、目的を持たないあり方はなるほど不可欠な目的である
が、それこそ唯一の目的である。
ヘーゲルはこの独我論的ないしエゴイスト的原理を――彼はイェーナ時
代の初期に絶対的なエゴ性(Egoität)について語った後で――今や「完璧
な孤独な現存在」(JSEⅢ,208)、独我として特徴づける。絶対的に特殊な主
観性、独一‐存在(Allein-Sein)としての全一性(All-Einheit)、自我‐性
(Ich-heit)のラディカルな孤独が問題になっている。没関係性(無関心性)
は世界の可能的現存を前にした唯一‐孤独な(einzig-einzam)魂の不安と
して現れるが、独一存在(Alleinsein)を前にした戦慄とコントラストをな
している。ピュロン主義者の見かけ上の無為性(Tatenlosigkeit)はセクス
トスの場合まさに所与のもとでの「見解をもたぬままの服従(ansichtslose
Unterwerfung)」であり続けている。内面の自由に、意志の純粋な利己心
に固執することは、ヘーゲルによれば個々人がいわば真に行為していない
立場を、真に個別者でない立場をとっていることを意味する。個々人は
「ただ意欲するにすぎない。
」人倫的に生動的な統一の不在、生の完全な没
関係性(無関心性)が含意されている。
生きた個別者である意志の規定態を必然的に考えるときに、「天上界か
らの下降」が、没関係性(無関心性)の克服としての承認が始まることに
なる。それはヘーゲルの言葉では、自我‐性の自由で没関係(無関心)的
な存在24から、承認する自己意識への移行、孤独なモナドの「自然状態」
から真の自己‐関係への、自由の生きた形式への移行である。
(JSE Ⅲ,209215)このことは、認識にもとづいたときにこそ、あるいはヘーゲルが意
識的に定式化しているように、内容上のもの、自然的なものの承認、絶対
的なものとしての規定態の承認にもとづいたときにこそ、表象し、憧憬し
つつ欲求し、理知的に‐再帰的な自己連関の止揚としての思惟する自己連
自己意識、懐疑論そして独裁論(15)86
関にもとづいたときにこそ、首尾よくいくという。
思惟する認識と承認との、論理学の体系と人倫の体系との統一のうちで、
自己(das Selbst)は、(たんなる)個別者であることを止める。没他者性
(Anderslosigkeit)と没世界性(Weltlosigkeit)
、ピュロン主義者や独我論者
の没関係性(無関心性)はこのようにして止揚される。ヘーゲルは『論理
の学』でこの止揚を論点とする。「概念がそれ自身として自由であるよう
な現存にまで進むかぎりで、概念は自我または純粋な自己意識にほかなら
ない。〔…〕まず第一に自我はこのように自分が自分に関係する純粋な統
一であり、直接的にこのような統一なのではない。自我があらゆる規定態
と内容とを捨象して、自分自身との無制限の同等性の自由に還帰するかぎ
りで、そうなのである。こうして自我は普遍性であり、捨象として現れる
あの否定的な態度を通して初めて自分自身との統一であり、そのことを通
して規定されたものをすべて自分のうちに包含するような統一なのであ
る。第二に同じく自我は、自分自身に関係する否定性として個別性であり、
自分を他者に対立させて、他者を排斥する絶対的な規定態である。すなわ
ち個体的な人格性であり、〔…〕同じく絶対的個別化であるような絶対的
25
普遍性である。
」
付録 イェーナ体系構想の関連個所(強調、K.フィーベック)
JSEⅠ
しかし特殊化される普遍的なものは、意識それ自身という普遍的な境位
である。
〔…〕意識そのものという普遍的境位のうちでは、感覚の規定性、
時間と空間のこのものは抹消されている。そして時間と空間の継起と並列
は一つの遊離態として現れ、普遍的な境位に対してはまったく没関係的
(無関心的)である。
(285)
85(16)
この物言わぬ意識は、無限性という意識の普遍的境位のうちでの形式的
なあり方であり、この普遍的境位の形式的特殊化にすぎない。
(285f.)
この外面性はさしあたってはまったく普遍的な、没関係的(無関心的)
な外面性である。そしてまさにこの点で意識はまだ自分自身に対するもの
としては存在しない。
(285f.)
意識のこの絶対的に単一な点は意識の絶対的存在であるが、それは否定
的なものとしての意識のそれである。言いかえれば、個別者としての個体
の、絶対的であるあり方である。意識は個体の我意の自由である。
(296)
絶対的に個別的なものの間にあるどの形式も、没関係的(無関心的)で
ある。
(307)
JSEⅡ
無限なものの絶対的矛盾は、単一なもののうちで対立するものを抹消す
る。しかし単一なものは、それが対立するものを止揚するかぎりで初めて、
そして単一なものが他となることから、対立するものそのものへ出ている
かぎりで初めて、単一なものである。しかし同じく他的存在あるいは対立
がそれゆえに絶対的である。単一なものがあることによって、この対立が
この単一なものに向かい合う。そしてこの対立に対して没関係的な(無関
、単一なものの対自存在は、同じく対立の没関係的な(無関心な)対
心な)
自存在だったろう。しかし、単一なものと対立とはそれ自身再び対立であ
る。なぜなら、それぞれが本質的に、他である当のものであるはずはない
からである。
個別性と普遍性との絶対的統一あるいは自我は、個別性が今では、それ
自己意識、懐疑論そして独裁論(17)84
が自我であることによって、直接に単一なものであるという点にある。あ
るいは対立するものが個別性にとってひとつの止揚されたものとしてのみ
あるという点にある。
(…)規定態のすべての没関係性(無関心性)を、ま
たあらゆる中途半端な関係づけを無化した、ひとつの普遍的な自己同等的
なものである。
(157)
モナドは世界を表象する。そしてモナドの表象の制限、そこでモナドが
止むところの当のものは、反対のもの、モナドにとって他的なものである。
(…)モナドの制限の本質は、個別性、他を否定する働き、排除である。
(158)
欺瞞の止揚、(…)対立するものは欺瞞にすぎない。すなわち、自分自
身のうちでの無、あるいは対立するものは形式的な反射である。
(161)
自我は理論的精神一般として、それにとっては規定態それ自身が絶対的
規定態、無限性であるような、現実のものとなった実践的自我として、絶
対的精神である。
(165)
全体は、最初の契機としては、受動的に、ただ自分自身に関係づけられ
て、自分自身に同等のものとして現れる。そして全体の分離は、全体がそ
れに対して没関係的(無関心的)であり絶対的に偶然的であるような、或
るものとして現象する。(…)諸部分を互いに持ち合う隠された関係は、
浮かび上がってきて、それら諸部分相互の没関係性(無関心性)を止揚す
る。それらは端的にひとつの相関関係として示される。(…)これまでの
没関係的(無関心)な相関関係は真の相関関係になる。
(…)自分自身の相
関関係である。
(166f.)
83(18)
形式的な認識は、循環を作る当のものから自分を区別する円環として、
対自的にあり、自分のうちに閉ざされていて、自分の内容の規定態に対し
て没関係的(無関心的)である。それは、
(…)自分の規定態によって触発
されないが、自分にとって多が存在することによって規定されているモナ
ドである。
(168)
したがって世界過程のうちで、あるいは類の過程のうちで自分を止揚す
るものは、以下のことである。それは、モナドにとってはひとつの規定さ
れたモナドとしての、その同じモナドの対自存在が、形式的な認識をもた
らしたこのような規定態が消失していく、ということである。(…)モナ
ドの自己維持は、モナドが他の認識を否定することである。(…)モナド
が自分を維持することは、自分が他の認識を否定することを止揚すること
によって、自分を自分自身にとって〔止〕揚することである。(…)他の
認識がモナドにとって、モナド自身になる。否定的なものは、他の認識の
否定ではなく、本質的に個別的なものとしてのモナド自身の否定である。
(169)
JSEⅢ
意志は、他的な存在する内容をすべて自らのうちで抹消した対自存在で
ある。しかしそれゆえにこそ、この対自存在は他者を欠いたもの、内容を
欠いたものであり、そしてこの欠如を感じ取っている。しかし、それは、
欠如といっても同じく肯定的でもある欠如なのである。
(意志は目的である。
この、意志がたんに目的にすぎないという形式が、欠如したあり方なのである。
)
(203)
意志の孤独な現存が完成した。
(208)
自己意識、懐疑論そして独裁論(19)82
諸個人相互の自由で没関係的(無関心的)なあり方(214)
承認行為のうちで自己は、このような個別的なものであることを止める。
自己は承認行為のうちで法的に存在し、もはやその直接的現存在のうちに
はない。承認されたものは、直接に妥当するものとして、自分の存在を通
して承認される。しかし、まさにこのような存在は概念から産み出された
ものなのである。それが承認された存在である。
(215)
註
1 Vgl.: Hegel: Vorlesungen über die Geschichte der Philosophie. TWA 20,
269-270.
Historisches Wörterbuch der Philosophieで、見出し語「独我論(Solipsismus」
」
のもとで、同じくピュロン主義(Pyrrhonismus,)
、独我論、そして観念論の結
びつきが指摘されている(1018,1023)
。
2
Vgl: K. Vieweg: Philosophie des Remis. Die junge Hegel und das 〉
Gespenst des Skeptizismus
〈.München 1999.
3 Hegel: Verhältnis des Skeptizismus zur Philosophie. Darstellung seiner
verschiedenen Modifikationen und Vergleichung des neuesten mit dem
alten.TWA 2,248.
4
Hegel:Vorlesungen über Geschichte der Philosophie. TWA 20,
270.(herv.K.V.)
5
懐疑論の難点を表わす沈黙という別の語り口には、ヘーゲルの他の個所
も重要である。特に、懐疑主義に関する、ならびに道徳的意識の沈黙、そし
て精神の現存在としての言語に関する〔個所である〕(Phänomenologie des
Geistes. TWA 3,162,478-481)
。
6
Vgl.:Hegel,Vorlesungen
81(20)
über die Geschichte der Philosophie,TWA
20,270.
7 Hegel: Phänomenologie des Geistes. TWA 3,184.
8 Ebd.
9
W.Windelband: Die Geschichte der neueren Philosophie.Erster
Band,Leibzig 1907,324.
10 Vgl.dazu: K.R.Westphal:Hegel, Hume und die Identität wahrnehmbarer
Dinge. Frankfurt a.M.1998.
11 I. Kant: Anthropologie in pragmatischer Hinsicht. AA Ⅶ,130.
12 Vgl.: Hegel:Vorlesungen über die Philosophie der Religion,TWA 16,349.
13 Ebd.
14 このものを盲目的に意欲するものの普遍性が問題なのである。
15
さらに、絶対的人倫的な、そして学的な経験論にいたるヘーゲルを参照
のこと。In:Glauben und Wissen.TWA 2,287-299.
16 K.Düsing:Die Bedeutung des antiken Skeptizismus für Hegels Kritik der
sinnlichen Gewissheit.in:Hegel-Studien Bd.8(1973),119-130.
17
Brief von Erhard an Niethammer vom 6.August 1794. In: W.Baum:
Friedrich Immanuel Niethammer. Korrespondenz mit dem Klagenfurter
Herbert-Kreis. Wien 1995, 106.
18 Erhard an Niethammer vom 12.Juni 1794:In:Baum: Niethammer 97.
19 Niethammer an Erhard vom 27.Oktober 1794.In:Baum: Niethammer 108.
20 J.B.Erhard an F.K.Forberg vom 7.8.1794.In:Journal für Menschenkenntnis,
Menschenerziehung und Staatenwohl, Jena 1794,241
21 M.Baum: Artikel“Relation”.In: Historisches Wörterbuch der Philosophie.
Bd8,600. Zu Hegels Interpretation der fünf Tropen des Agrippa: Vieweg:
Philosophie des Remis, a. a. O., 144-150.
22 Hegel: Verhältnis des Skeptizismus zur Philosophie, TWA 2,246.
23
Vgl.: K.Vieweg: Der Anfang der Philosophie―Hegels Aufhebung des
自己意識、懐疑論そして独裁論(21)80
Pyrrhonismus: In: W.Welsch/K. Vieweg: Das Interesse des Denkens.Hegel aus
heutiger Sicht. München 2003.
24 Vgl. dazu : M. Quante : Die Persönlichkeit des Willens und das Ich als
Dieser.Bemerkungen zum Individuationsproblem in Hegels Konzeption des
Selbstbewusstseins.In: M. Quante/E. Rózsa(Hg.)Vermittlung und Versöhnung.
Die Akutualität von Hegels Denken für ein zusammenwachsendes Europa.
Münster/Hamburg/Berlin/London 2001
25 Hegel: Wissenschaft der Logik. TWA 6,253.
* 本論は2004年4月8日、駒澤大学大学会館にておこなわれた、文化学教室公開
講演会での講演である(原題:Klaus Vieweg: Selbstbewusstsein, Skeptizismus
und Solipsismus)
。
79(22)